クリシュナムルティを読む

ゴト改め皆様の読書室

ザーネンの公開講話・対話

1970年公開講話  [1] [2] [3] [4]

1970年 ザーネンの公開講話(第1回)

J. Krishnamurti: Impossible Question (邦題 英知の探求)
Part1 Talks and Questions
J.クリシュナムルティ: 不可能な質問

私たちは常に可能なことを質問しています。あなたが不可能な質問をするなら、
あなたの心はそのとき、不可能の観点の中で答えを見出さなければなりません
―可能なことの観点の中でではなく。 

第一部 講話と質問

1 見るという行為
「本当にまじめであるなら、見るとき、古いはずみは終わります」

 そんなにすっかり混乱して暴力的な世界、そこにはあらゆる形の反抗と、これら反抗のためのたくさんの説明がありますが、その中で社会改革、異なる現実、そして人間のためのより大きな自由があるように望まれています。あらゆる国で、あらゆる地域で、平和の旗印の下に暴力があります。真理の名の中で搾取と窮乏があり、飢えている何百万もの人がいます。大暴政の下に抑圧があり、たくさんの社会的不正があります。戦争、徴兵と徴兵の回避があります。実際に大きな混乱と恐ろしい暴力があります。憎しみは正当化され、あらゆる形の現実逃避が人生の標準として受け入れられています。こういったすべてに気づくとき、人は混乱し、何をすればいいのか、何を考えればいいのか、どんな役割を果たせばいいのかについて確信がありません。どうすればいいのでしょうか? 活動家に加わりますか、ある種の内的孤立に逃避しますか? 古い宗教的観念に戻りますか? 新しい党派を始めますか、あるいは自分自身の偏見と性向を続けますか? こういったすべてを見て、もちろん人は、何をするか、何を考えるか、どんなふうに違った種類の生を生きるかを自分自身で知りたいと思います。

 これらの講話と討論の中で、私たち自身の中に光を、何の暴力もまったくない生き方、まったく宗教的でそれゆえ恐怖のない生き方、外部の出来事によって心を動かされることのない、内面的に安定である生を見出すことができるなら、そのとき、それは大いに価値があるだろうと思います。討論しようとしていることに、私たちは完全で敏感な注意を注ぐことができるでしょうか? どうやって平和に生きることができるか見出すために、私たちは一緒に働いているのです―話し手が何をすればいいのか、何を考えればいいのかをあなたに話すという事ではありません。話し手は何の権威も、何の‘哲学'も持っていません。
 自分の脳が、蓄音機のレコードが何度も何度も同じ調べを演奏するように、古い習慣の中で機能するという困難があります。その調べ、その習慣の雑音が続いている間、新しいものは何も聞くことができません。脳は特定のやり方で考えるように、文化、伝統、教育に従って応答するように条件付けられてきました。その同じ脳が新しいものを聞こうとし、そしてそうすることができません。そこに困難があるでしょう。テープに記録した講話は消去し、再び始めることができますが、あいにく脳のテープへの記録はひどく長い間植えつけられてきたので、それを消去して再び始めることは非常に困難です。同じパターン、同じ考えや肉体的習慣を何度も繰り返すので、私たちは決して新鮮なものを捕らえないのです。
 私は保証しますが、人は古いテープ、考え、感じ、反応する古いやり方、持っている無数の習慣を脇にやることができます。本当に注意を注ぐなら、そうすることができます。聞いていることが致命的に重大な、ものすごく重要なことなら、そのとき、人はきっと聞き、そのため、聞くという行為そのものが古いものを消し去るでしょう。それをやろうとしてください―というよりはそれをやってください。あなたは深い関心を持っています。さもなければ、ここにいないでしょう。完全な注意で聞きいてください。そこで、聞くという行為そのものの中で、古い記憶、古い習慣、蓄積された伝統はすべて除去されるでしょう。

 世界の中の混乱、不確かさ、戦争状態と破壊に立ち向かうとき、人はまじめでなければなりません。そこではあらゆる価値が、完全に自由放任で性的で経済的な世界の中に捨てられてきました。道徳も宗教もありません。あらゆるものが捨てられつつあり、人は完全に、深くまじめである必要があります。ハートの中にそのまじめさを持っているなら、あなたは聞くでしょう。あなたが完全に聞き、決して消されることのない光、どんな観念や環境にも依存しない生き方、常に自由で、若く、生き生きとしている生き方をあなた自身で見出すほど、十分にまじめであるかどうかはあなたにかかっています。話し手にではなく。

 ぜひとも見出したい心の質を持っているなら、そのとき、あなたと話し手は一緒に取り組み、私たちの問題のすべてを解決するであろうこのいっぷう変わったものに出会うことができます―生の毎日の単調さの問題であろうが、もっともまじめな性質の問題であろうが。

 さて、どんなふうにそれに取り掛かりますか? 私は唯一つのやり方があると思います。それはこうです。否定を通して肯定的なものに到達する。それではないものを理解することを通して、それであるものを見出す。自分が現実にどうであるかを見てそれを越える。世界と世界のすべての出来事、進行している物事を見ることを始めてください。自分のそれに対する関係が分離を伴うか伴わないかを見てください。人は世界の出来事を、あたかもそれらが個人としての自分にかかわりがなかったかのように見ますが、しかしそれらを形造ろう、何かしようとすることができます。そのやり方の中に、自分自身と世界の間の分離があります。自分の経験と知識で、自分の特定の性癖、先入観などで、そんなふうに見ることができます。しかし、それは世界から分離した人として見ることです。自分の外側と内側で起こっているすべての物事を、単一の過程として、全体的な運動として見えるように、どんなふうに見るかを見出さなければなりません。
人は世界を特定な観点から見るか―特定の活動に打ち込んで、それゆえ他の人たちから分離して、言葉上で、観念論的な立場をとること―あるいは、この全現象を生きている、動いている過程、自分がその一部であり、それから分割されていない全体的な運動として見るかどちらかです。自分がどんなであるかは文化、宗教、教育、宣伝、風土、食物の結果です―自分は世界であり、世界は自分自身です。この全体を見ることができるでしょうか?―それについて何をすべきかではなくて。人間の全体という感じを持っていますか? それは世界と自分自身を同一視するという問題ではありません。なぜなら、自分は世界であるからです。戦争は自分自身の結果です。暴力、偏見、続いているぞっとするような残酷は自分自身の一部です。

 それゆえ、それはこの現象を内部でも外部でも、あなたがどんなふうに見るか、そしてまた、どれほどまじめであるかにかかります。本当にまじめであるなら、見るとき、古いはずみ―古いパターン、考え、生き、行なう古いやり方の繰り返し―は終わります。この騒動、この惨めさと悲しみのすべてが存在しない生き方を見出すほど、あなたはまじめでしょうか? 私たちの大多数にとって、難しさは思考の古い習慣から自由であることにあります。「私は何者かである」「私は自己を実現したい」「私は成りたい」「私の意見を信じる」、「これがやり方だ」、「私はこの特別な党派に属する」。あなたがある立場に立つや否や、あなたはあなた自身を分離してしまったのであり、それゆえ、全体の過程を見ることができなくなるのです。

 外部でも内部でも、生の断片化がある限り、混乱と戦争があるに違いありません。どうか、これをあなたのハートで見てください。中東で行われている戦争を見てください。あなたはこういったすべてをご存知です。それをすっかり説明している書かれた書物があります。私たちは説明に捕らわれています―まるで何かの説明が何かをいつも解決しているかのように。説明に捕らわれてはならないということを理解することが絶対必要です。誰がそれらを与えているかということは問題ではありません。「あるがままのもの」を見るとき、説明は必要ありません。「あるがままのもの」を見ない人は、説明の中に迷います。どうかこれをわかってください。これを、言葉に捕われないように根本から理解してください。

 インドでは、聖なる本、ギーターを手に取り、それに基づいてあらゆることを説明するのが慣わしです。何百万もの人が、どのように生きるべきか、何をなすべきか、いかに神がこれやあれであるかについて説明を聞きます―彼らはうっとりして聞き、それなのにいつもの生活を続けます。説明はあなたを盲目にします。それらは「あるがままのもの」を実際に見るのを妨げます。
 この生存の問題をどんなふうに見るか、あなた自身で見出すことが真に重要です。あなたは説明から、特定の観点からそうしますか、それとも非断片的に見ますか? 見いだしてください。一人で散歩に行き、見いだしてください、これらの現象すべてをあなたがどんなふうに見るか、見いだすことに熱中してください。そのとき細部に、一緒に取り組むことができます。そして私たちは見出すために、理解するために、とても数え切れない細部に入って行くでしょう。しかし、それをする前に、あなたが断片化から自由であることが、もはやイギリス人、アメリカ人、ユダヤ人でないことが非常に明確でなければなりません―わかりますか?―あなたが特定の宗教や文化への条件付けから自由であること。それはあなたを束縛し、それに従ってあなたは経験します。それはいっそうの条件付けに通じるだけです。

 この生の全運動を一つのものとして見てください。それの中に大きな美があります。そして巨大な可能性が。そのとき行為はとてつもなく完全で、自由があります。そして実在、考案されたり想像された実在ではありません、が何であるか見いだすためには心は自由でなければなりません。何の断片化もない、全体的な自由がなければなりません。それはあなたが本当に完全にまじめである場合にのみ生じることができます―「これがまじめになるやり方だ」と言う誰かに従ってではありません。そういったすべてを投げ捨ててください。それに耳を傾けないでください。あなた自身で見いだしてください。あなたが歳を取っているか若いかということは問題ではありません。

 質問をなさりたいですか? 質問する前になぜ質問しているのか、そして誰から答えを期待しているのかを見てください。尋ねる中で、あなたは単に答えであるかもしれない説明で満足するのでしょうか? 質問をするなら―そして人はあらゆることを探究しなければなりません―まさにその質問の中で探究し始めており、それゆえ、共有し、動き、一緒に経験し、一緒に創造し始めるために質問しているのでしょうか?

質問者: 誰かが、例えば狂人がいて、野放しで人を殺しているなら、そして彼を殺すことによって止めさせることが自分の力の範囲内にあるなら、どうすべきでしょうか?

クリシュナムルティ: そうならすべての大統領、すべての統治者、すべての暴君、すべての隣人、そしてあなた自身を殺しましょう!(笑い)。いえ、いえ、笑わないで下さい。私たちはこういったすべての一部なのです。私たち自身の暴力によって、私たちは世界の状態に貢献しているのです。私たちはこのことをはっきりと見ません。私達は二、三の人を取り除くことによって、体制を押しのけることによって、全部の問題を解決するだろうと考えるのです。あらゆる物質的な革命はこのことに基礎がおかれてきました。フランス人、共産主義者など。そしてそれらは官僚政治や専制政治に終わってきました。

 それであなた、違った生き方をもたらすことは、他人のためにではなく自分自身のためにもたらすということです。なぜなら、「他人」は自分自身であり、「私」と「彼ら」はないから、自分自身しかないからです。このことを言葉上ではなく、知的にではなく、ハートで本当に見るなら、そのとき、完全に異なった種類の結果を伴う全体的な行為があり、それゆえ、一つの体制を投げ捨てて別のものを造るのではない新しい社会構造があるであろう、ということが見えるでしょう。

 探究するには忍耐を持つことが必要です。若い人たちは忍耐がありません。インスタントな結果を望みます―インスタントコーヒー、インスタントティー、インスタント瞑想―それは彼らが決して生の過程全体を理解していないということです。生の全体を理解するなら、即時の行為があります。それはせっかちからのインスタントな行為とはまったく違います。ほら、アメリカで起きていることを見てください。人種騒動、貧窮、ゲットー、現状の教育のまったくの無意味さ―ヨーロッパにおける分割を見てください。ヨーロッパ連合をもたらすためにどれだけ長く掛かったことか。そしてインド、アジア、ロシア、中国で何が起こっているか見てください。そういったすべてと宗教のさまざまな分割を見るとき、ただ一つの答え、一つの行為、部分的あるいは断片的な行為ではなく、全体的な行為があるだけです。その全体的な行為とは他人を殺すことではなくて、人間のこの破壊をもたらしてきた分割を見ることです。それを実際にまじめに、敏感に見るとき、まったく違った行為があるでしょう。

質問: 完全な専制がある国に生まれ、まったく抑圧され、何一つ自分自身でする機会を持たない或る人―ここにいる大部分の人はそれを想像できないと思います―彼はこのような境遇に生まれ、彼の両親もそうだったのです。彼はこの世界におけるまったくの混乱をつくり出すのに何をしてきたのでしょうか?

クリシュナムルティ: 多分彼は何もしていません。インドの荒野や、アフリカの小さな村や、どこかの幸せな小さい谷に住み、ほかの世界に起きていることを何も知らない貧乏な人が何をしたでしょうか? どんなやり方で彼がこのぞっとするような構造に貢献したでしょうか? 多分彼は何もしていません―かわいそうに、彼に何ができるでしょうか?

質問者: まじめであるとはどういう事でしょうか? 私は、私がまじめでないという感じがします。

クリシュナムルティ: 一緒に見出しましょう。まじめであるとはどういうことでしょうか―あなたは何かに、何かの天職に完全に打ち込んでいるので、その終わりまでまさに行きたい。私はそれを定義しているのではありません。どんな定義も受け入れないで下さい。自分はまったく違った種類の生、暴力のない、完全な内的自由のある生を生きたい。自分は見出したい、それに時間、エネルギー、思考力、あらゆるものを注ぐつもりである。私はそのような人をまじめな人と呼びましょう。彼は容易にはやる気をなくしません―楽しむかもしれませんが、彼の進路は設定されています。これは彼が独断的であるとか頑固であるということ、適応しないということではありません。他人の言うことを聞き、考慮し、調査し、観察するでしょう。彼はそのまじめさの中で自己中心的になるかもしれません。その同じ自己中心性が、彼が調査するのを妨げるでしょう。しかし、彼は他人の言うことを聞くのを身につけています。調べることを、絶えず尋ねることを身につけています。

 それは彼が高度に敏感であるに違いないということです。彼はどんなふうに誰の言うことを聞くのか見出すに違いありません。それで彼はいつも聞き、追求し、調べています。彼は発見しています。そして敏感な脳、敏感な心、敏感なハートで―それらは別個のものではありません―そういったすべての全体と敏感さで調べています。体が敏感かどうか見出してください。その身振り、その特殊な習慣に気づいてください。食べ過ぎるなら、肉体的に敏感であることはできず、飢餓や絶食を通して敏感になることもできないのです。自分が食べるものに注意しなければなりません。敏感である脳を持たなければなりません。それは習慣で作動していない、性的やほかのそれ自身の小さな楽しみを追及していない脳ということです。

質問者: あなたは説明を聞かないようにと私たちに話しました。あなたの講話と説明の相違は何ですか?

クリシュナムルティ: あなたはどう思いますか? 何か違いがありますか、それとも、それはただの同じ打ち続く冗長でしょうか?

質問者: 言葉は言葉です。

クリシュナムルティ: 私たちは原因と結果の記述を与えて、例えば人間は獣から獣性を受け継いでいると言って説明します。誰かがそれを指摘します。しかしまさに指摘の中で行動するなら、暴力的であることを止めるなら、違いがありませんか? 行為が要求されることです。しかし、行為が説明を通して、言葉を通して起こるでしょうか? それとも、この全体的な行為は十分敏感で、生の運動全体、生の全体をよく観察できるときのみ起こるのでしょうか? 私たちはここで何をしようとしているのでしょうか? 「なぜ」と「なぜ」の原因の説明を与える?

 それとも、私たちの生が言葉でなく、現実にそうであるものの発見に基づいているように生きようとしているのでしょうか?―現実にそうであるものは言葉に基づいていません。両者の間には巨大な相違があります―たとえ私が指摘するにしても。それは空腹な人のようなものです。彼に食物の性質や味を説明し、献立を示し、ウインドウを通して食物の陳列を示すことができます。しかし彼が望むことは現実の食物です。そして説明はそれを与えません。それが違いです。

1970年7月16日

(訳者: N.Goto)2005.06.掲載

ザーネンの公開講話・対話

1970年公開講話  [1] [2] [3] [4]