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ザーネンの公開講話・対話

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1970年 ザーネンの公開講話(第2回)

J. Krishnamurti: Impossible Question (邦題 英知の探求)
Part1 Talks and Questions
J.クリシュナムルティ: 不可能な質問

第一部 講話と質問

2 自由
「どんな形の主観的想像、空想、あるいは知識への依存も、恐怖を生み出し、自由を破壊します」

論じる必要のある多くの事があります。しかしまず、私はそう思うのですが、自由とは何であるかを非常に深く考える必要があります。自由を、外に向かってだけでなく、特に内部で、深く、まじめに―単に知的にではなくて現実にそれを感じて―理解することなしには、何を話してもごく僅かな意味しか持たないでしょう。

 先日、私たちは心の性質を考えていました。真に生き、生を楽しむのはまじめな心です―単に娯楽を、何かの特定の満足や達成を求めているに過ぎない心ではありません。自由は内側の心理的な権威すべてのまったくの放棄と否定を意味します。若い世代は、自由とは警察官の顔につばを吐くこと、したいことは何でもすることであると考えます。しかし、外側の権威の否定は、すべての内部の心理的権威からの完全な自由を意味しません。内部の権威を理解するとき、心とハートは全面的に完全に自由です。そのとき私たちは、外に向っての自由の行為を理解することができるでしょう。

 外へ向っての行為の自由は、内部の権威から自由である心に完全に掛かっています。これは辛抱強い調査と熟慮を要します。それが最初に重要なことです。それが理解されるなら、そのとき、私たちは人生と日常生活に含まれるほかの物事に、まったく違う種類の心で接近するでしょう。

 辞書によると「権威」という語の意味は「独創的な考えを創める人」、「まったく新しいものの創始者」です。彼は彼自身の考案に基づき、パターン、システムを組み立てます。ほかの人たちが、それにある満足を見出して随います。あるいは彼は宗教的な様式の生活を創め、それにほかの人たちが盲目的に、あるいは知的に随います。それゆえパターンが、あるいは生活や振る舞いの仕方が、政治的に、あるいは心理的に、外と内に向けて設定されます。心は、怠惰で不精なので、ほかの誰かが言ったことについていくのが楽なことを見出します。追随者は「権威」を、特定の哲学の方式や考案によって約束されたことを達成するための手段として受け入れます。それにしがみつき、頼り、それによって「権威」を固めます。追随者はそのとき、受け売り人間です。そして大抵の人たちは完全に受け売りです。彼らは、絵や著作などに関してある独創的な考えを持っていると思うかもしれませんが、しかし本質的に、随うよう、模倣するよう、順応するよう条件付けられているので、彼らは受け売りの、ばかげた人間になっているのです。それが権威の破壊的な性質の一面です。

 人間として、あなたは誰かに心理的に随いますか? 私たちは外側の服従、法律に随うこと、を話しているのではありません―そうではなく内側で、心理的にです。わかりますか? そうするなら、そのとき、あなたは本質的に受け売りです。いい仕事をし、とてもいい人生を送るかもしれませんが、それはまったくほんのわずかな意味しか持ちません。

 また、伝統の権威があります。伝統とは「過去から現在に持ち越す」ことを意味します―宗教的伝統、家族の伝統、あるいは人種的伝統。そして記憶の伝統があります。あるレベルで伝統に随うことは価値があるのを見ることができます。別のレベルではそれはまったく価値がありません。見守っている心の油断のない気配りから出ているよい行儀、丁重さ、配慮は、次第に伝統になることができます。設定されてきた型、心はそれを繰り返します。誰かのためにドアを開ける、食事に遅れない等々。しかしそれは伝統になってきて、もはや油断のない気配り、鋭さと明確さから出ているのではありません。

 記憶を養成してきた心は、伝統から電算機のように作動します―物事を再三再四繰り返して。新しい何も、決して受け取ることができません。何も決してまったく違うふうに聞くことができません。私たちの脳はテープレコーダーのようです。特定の記憶が数世紀にわたってずっと養成されてきて、私たちはそれらを反復し続けます。その反復の雑音のために人は新しいものを聞くことができません。それで「私はどうすればいいでしょうか?」「古い機械、古いテープを除くにはどうすればいいでしょうか?」と尋ねます。新しいものが聞こえることがあり得るのは、古いテープが何の努力もなく完全に静かになるとき、自分が聞くこと、見出すことに真剣であり、注意を傾けることができるときだけです。

 それで、私たちが依存している他人の権威、伝統の権威、そして記憶としての、知識としての過去の経験の権威があります。また、直接の経験の権威もあり、それは自分の過去の蓄積された知識から認知されるのです。そして認知されるので、それはもはや新しいものではありません。権威、模倣、順応、適応によってそんなにも条件付けられている心、脳が、どうして完全に新しい何かを聞くことができるでしょうか。心とハートと脳がそんなにも権威としての過去のものによって曇らされているとき、どうして一日の美しさを見ることができるでしょうか。心が過去によって重荷を負わされ、種々の権威によって条件付けられているという事実が、心が自由でなく、それゆえ完全に見ることができないという事実が実際にわかるなら、そのとき、過去は努力なしに脇にやられます。
 自由はすべての内部の権威の完全な停止を意味します。その心の質から外部の自由が生じます―反対したり抵抗したりする反応とはまったく違うもの。私たちが言っていることは実際にまったく単純なことで、それを見逃すのは、そのまったくの単純さのためです。心、脳、は権威を通じて、模倣と順応を通じて条件付けられています―それは事実です。実際に自由である心は、どんな内部の権威もまったく持ちません。それは愛することと瞑想することがどういうことであるか知ります。

 自由を理解する中で、人はまた規律が何であるかを理解します。私たちは一般に自由は規律からの自由を意味すると考えるので、このことはむしろ矛盾するように見えるかもしれません。高度に規律正しい心の性質は何でしょうか? 自由は規律なしには存在できません。それはまずしつけられなければならず、それから自由を持つであろうということではありません。自由と規律は相伴います。それらは二つの別のことではありません。それで「規律」とは何を意味するのでしょうか? 辞書によれば、「規律」という言葉の意味は「学ぶこと」です―イデオロギーや信念にしたがって特定の型の行動をするように、自身に強要する心ではなく。学ぶことができる心は、順応することだけができる心とはまったく違います。学んでいる、「いまあるもの」を実際に見、観察している心は、「いまあるもの」を、それ自身の願望、それ自身の条件付け、それ自身の特定の楽しみにしたがって解釈していません。
 規律は抑制や制御を意味しませんし、型やイデオロギーに適合することでもありません。それは「いまあるもの」を見て、「いまあるもの」から学ぶ心を意味します。そのような心は並外れて油断がなく、気づいている必要があります。普通の意味では、「自分自身に規律を守らせること」は、何かに従ってそれ自身に規律を守らせる存在があることを意味します。二元論的な過程があります。私は私自身に「朝早く起き、怠惰であってはならない」とか「怒ってはならない」と言います。それは二元論的な過程を含みます。現実にすることと対立するものとして、なすべきことを意志で支配しようとするものがいます。その状態の中に葛藤があります。

 両親によって、社会によって、宗教組織によって、敷かれた規律は順応を意味します。そして順応に対して反抗があります―特定のことをするように望む両親、そしてそれに対する反抗、などなど。それは服従と順応に基づく生です。そしてその反対のもの、順応を否定し好きなことをすることがあります。それで私たちは見出そうとしているのです。順応せず、模倣、追従や服従をせず、しかしそれ自体の中に高度に規律正しい―絶えず学んでいるという意味での「規律正しい」―性質を持っている心の性質は何であるかを。

 規律は順応することではなく、学ぶことです。順応は私自身を他人と比較すること、私がそうであるもの、あるいは、私はそうあるべきであると思うものに関して、英雄、聖者等に対比して私自身を測ることを意味します。順応があるところ、比較があるに違いありません―どうかこれを見てください。比較なしに生きることができるかどうか見出してください。それは順応しないことを意味します。私たちは子供のときから比較するように条件づけられます―「兄さん、あるいは大おばさんのようでありなさい」、「聖者のようでありなさい」あるいは「毛沢東に従いなさい」。私たちは教育の中で比較します。学校の中では点数をつけることと、試験に合格することがあります。比較なしに、競争なしに、したがって非攻撃的に、非競争的に、非暴力的に生きるということがどういうことか、私たちは知りません。あなた自身を他人と比較することは攻撃の一形態であり、暴力の一形態です。暴力は誰かを殺したり、殴ったりすることだけではありません。それは比較の精神の中にあります。「私は他の誰かのようでなければならない」あるいは「私は私自身を完全にしなければならない」。自己改善は自由と学びのまさに正反対です。比較のない生をどうやって生きるか、あなた自身で見出してください。するといかに途方もないことが起こるかが見えるでしょう。本当に選択なしに気づくなら、比較しないで、決して「私は成ろう」という言葉を使わないで生きるとは、どういうことかわかるでしょう。

 私たちは「成る」という動詞に束縛されています。「私は将来、いつか、ひとかどの者になる」。比較と順応は相伴います。それらは抑制、葛藤、そして果てのない苦痛以外の何も生みません。それゆえ、何の比較もない毎日の生き方を見出すことが重要です。それをなさい。すると、それがどんなに途方もない事かわかるでしょう。それはあなたをそんなにも多くの重荷から解放します。そのことへの気づきは、高度に敏感であり、それゆえ規律正しい、絶えず学んでいる心の質をもたらします―何が学びたいとか、何が学ぶのに楽しく満足がいくかではなくて、{学んでいる}。それで、あなたは権威に、パターンへの、伝統への、宣伝への、他の人が言ったことへの順応に起因する内部の条件付けに気づきます。そしてあなた自身の蓄積された経験と人種と家族のそれに気づきます。そういったすべてが権威になったのです。権威があるところ、心は、発見されるはずのどんなもの―始めも終わりもないまったく新しいもの、も決して自由に見出すことはできません。  敏感な心はどんな設定された型によっても限定されません。それは絶えず動いています、川のように流れています。そしてその絶え間ない運動の中には何の抑制も、何の順応も、達成しようという何の願望もありません。自由であり、それゆえ真に宗教的である心の性質を、明確に、まじめに、そして深く理解することが非常に重要です。自由である心は、何かに―人々に、友達に、夫や妻に、観念化に、権威などなどに―依存することは、恐怖をつくり出すことを見ます。恐怖の源が{あります}。私があなたに、私自身の孤独と醜さからの、浅薄さと取るに足らなさからの逃避として、慰安のために依存するなら、そのとき、その依存は恐怖をつくり出します。どんな形の主観的想像、空想、あるいは知識への依存も、恐怖をつくり出し、自由を破壊します。

 それが意味するあらゆること―内面に依存がありそれゆえ恐怖があるならいかに自由がないか、そして依存するのはいかに混乱して不明確な心だけであるか―が見えるとき、「どうやって私は依存から自由になればいいのだろうか?」と言います。それは再び葛藤のもう一つの原因です。ところが、依存する心は混乱しているに違いないことを観察するなら、何かの権威に内面的に依存する心は混乱をつくり出すだけであるという真理を知るなら―どうやって混乱から自由になるか尋ねることなしにそのことを見るなら―そのとき、あなたは依存することを止めるでしょう。そのとき心は途方もなく敏感になり、したがって学ぶことができ、どんな形の混乱や順応もなしにそれ自身を律します。

 このすべてはある程度明確でしょうか―言葉上でなくて現実に? 私は想像したり、あるいは非常に明確にわかると思ったりすることができますが、その明晰さは非常に短命です。明確な知覚の本当の性質は、何の依存もなく、それゆえ恐怖があるときに起こるその混乱がないときにのみ生じます。正直に、まじめに、あなたが権威から自由であるかどうかを見出す気になることができますか? それはあなた自身の中のものすごい調査、大きな気づきを要します。その明晰さから、まったく違った種類の行為、断片的でない、政治的あるいは宗教的に分割されていない行為が生じます―それが全体的な行為です。

質問者: あなたが言ったことから、ある観点では外部の権威に対する反応であるとみなすことのできる行為は、別の個人によれば、別の観点で全体的な行為でありうるように思われます。

クリシュナムルティ: 知的には、言葉の上では、お互いに張り合う、お互いに言い逃れることができますが、それはものを意味しません。あなたには完全な行為であるかもしれないことが、私には不完全な行為として見えるかもしれません―それは要点ではありません。要点はあなたの心が、人間の心として、完全に行為するかどうかです。世界の人間は―わかりますか?―個人ではありません。「個人」とは分割できないことを意味します。個人とは自身の中で分割されていない、非断片的な、全体で、正気で、健全な人です。また「全体(whole)」とは尊い(holy)ということです。「私は個人である」とあなたが言うとき、あなたはそのようなものではありません。権威のない、比較のない生を生きてください。するとそれが如何に途方もないものであるかが見えるでしょう。競争していないときや、比較していないとき、抑制していないとき、あなたは驚くべきエネルギーを持ちます。あなたは本当に生き生きしていて、正気で、全体で、それゆえ神聖です。

質問者: あなたが言っている事は、私にはあまり明確ではありません。私は何をすることができますか?

クリシュナムルティ: 言われたことがそれ自体あまり明確でないか、あなたが英語を適切に理解しないのかもしれません、あるいはずっと注意を維持していないのかもしれません。注意を維持することは非常に困難です。1時間10分の間、完全な注意を傾けていないときがあり、そのとき、「あなたが話していることが、はっきりとはわからなかった」と言います。注意を維持しているのか、聞いているのか、見守っているのかどうか、それとも、さまよい、さすらっているのかどうか見出してください。どちらですか?

質問者: いつも学ぶことが可能であると思いますか?

クリシュナムルティ: ひとりでにその質問をあなたがするとき、すでにそれを困難にしているのです。その種の質問をすることによって、あなたはあなた自身学ぶのを邪魔しています―要点がわかりますか? 私はいつも学んでいようとしているかどうかにかかわっていません。私は見出そうとしているのです。私がかかわっていることはこうです。私は学んでいるでしょうか? 学んでいるなら、それが「いつも」かどうかについてはかかわりません―私はそれを問題にしません。私が学んでいるなら、質問は見当違いになります。

質問者: どんなものからでも学ぶことができます。

クリシュナムルティ: そうです。あなたが、あなたは学んでいるということに気づいているなら。これは非常に複雑です。それを少し調べていいですか?

 「私はいつも学ぶことができるでしょうか?」 ここでどちらの要素が重要でしょうか? 「学ぶこと」、それとも「いつも」? 明らかに「学ぶこと」です。私が学んでいるとき、「他の時間」―合い間の時間など、にかかわりません。私は私が学んでいることにのみかかわります。当然心はさまよいます、疲れます、不注意になります。不注意なので、あらゆる種類の愚かなことをします。それでそれは、どうやって不注意な心を注意深くさせるかという問題ではありません。重要なことは不注意な心が、それが不注意であるということに気づくことです。私は気づいています、木のそよぎ、水の流れ、あらゆるものを見守って。そして私自身を見守っています―誤りを正すのではなく、これはそうあるべきだとか、そうあるべきでないと言わずに―ただ見守っています。見守っている心が疲れ、不注意になるとき、突然それはこのことに気づき、そして注意深くなるようにそれ自身に強います。それで不注意と注意の間に葛藤があります。私は言います、それをしないで、あなたが不注意であることに気づいてください―それがすべてです。

質問者: あなたが、不注意であることにどんなふうに気づいているか描写していただけますか?

クリシュナムルティ: 私は私自身を学んでいます―誰かの心理学者や専門家によってではなく―私は見守っており、私自身の中に何かが見えます。しかし、私はそれを非難しません、それを判断しません、それを脇に押しやりません―私はそれをただ見守ります。私は私が高慢であることを見ます―それを例にとりましょう。私は「それを脇にやらなければならない、高慢であるのはなんと醜いことか」とは私は言いません―しかし、ただそれを見守ります。私は見守っているので、学んでいます。見守っているということは、高慢が何を含んでいるのか、どんなふうにそれは生じてきたのか、学んでいるということです。私はそれを5,6分間以上は見守ることができません―もしできるなら、それは大変な量です―次の瞬間私は不注意になります。注意深くしてきて、そして不注意が何であるか知っているので、私は不注意を注意にしようと苦闘します。それをしないで下さい。しかし不注意を見守ってください、不注意であることに気づいてください―それがすべてです。そこで止まってください。「私はすべての時間を注意深く過ごさなければならない」と言わないで、不注意なときにただ見守ってください。このことを少しでもより深く調べるのは本当に極めて複雑です。いつも目覚めて見守っている、学ぶことが何もないけれども見守っている心の質があります。それは心が途方もなく静か、途方もなく静寂であるということです。静寂で、明確な心が学ぶための何を持っているでしょうか?

質問者: 言葉で、観念で伝達することは習慣、伝統にならないでしょうか?

クリシュナムルティ: それらが習慣、観念になるのは、それらが言葉として重要になるときだけです。言葉での伝達がなければなりませんが、それは私たちが一緒に見ているどんなものもわかち合うということです―恐怖のように。それはあなたと話し手がともに同じレベルで、同時に、同じ強烈さで、観察し、協力し、わかち合っているということです。それは非言語的な交感をもたらし、それは習慣ではありません。

質問者: トータルで、全体で、正気な、神聖な個人が、その人は断片化されず、不可分なのですが、他の人をどうして愛することができるでしょうか? どうして全体的な人間が、断片化した人間を愛することができるでしょうか? さらに、全体的な個人が、別の全体的な個人を愛することができるでしょうか?

クリシュナムルティ: 愛が何であるかを知らないなら、全体であることはできません。あなたが全体であるなら―私たちが話している意味で―そのとき、他の人を愛することに何の問題もありません。道端の花を見守ったことが今までにありましたか? それは存在しています、それは陽の光の中に、風の中に、光と色彩の美の中に生きています。それはあなたに「来て、かおりを感じてください、私を楽しんでください、私を見てください」と言いません―それは生きていて、その生きている行為そのものが愛です。

1970年7月19日

(訳者: N.Goto)2005.07.掲載

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