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ザーネンの公開講話・対話

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1970年 ザーネンの公開講話(第3回)

J. Krishnamurti: Impossible Question (邦題 英知の探求)
Part1 Talks and Questions
J.クリシュナムルティ: 不可能な質問

第一部 講話と質問

3 分析 
「分析は決して完全ではありません。その不完全な行為の否定は全体的な行為です」

生きるという問題全体を理解することは実際にきわめて重要です。生まれる瞬間から死ぬまで、私たちはいつも葛藤の中にいます。常に苦闘があり、私たち自身の内側だけでなく、外に向かって、私たちの関係すべての中に強い緊張と争いがあります。絶え間ない分離、そして共同体に対立する別個の個人的存在という感覚があります。もっとも親密な関係の中で、各人が彼自身の快楽をひそかに、あるいはあからさまに追求しています。各人が彼自身の野心と達成を追求し、それによって欲求不満を発生させています。私たちが生きることと呼んでいるものは猛烈な混乱です。この猛烈な混乱の中で、私たちは創造的であろうと努力します。才能に恵まれているなら、本や詩を書き、絵を描くなどをします。しかし、すべて、争い、嘆き、絶望のパターンの内側にあります。それでもこれが創造的に生きることであると考えられていることです。月に行くこと、海の下で生きること、戦争をすることの中に、この人対人の絶え間ない辛い争いがあります。これが私たちの生です。  私たちはこのことに非常にまじめに、非常に深く入って行き、そしてできるなら、意識的なレベルで、そしてまた意識の下にある層の中の両方で、まったく何の争いもない心の性質に手探りをしなければならないと私には思われます。

 美は葛藤の結果ではありません。山や急流の美を見るとき、その即座の知覚の中に、何の努力する感覚もありません。私たちの生の中には、打ち続く戦いのため、たいした美はありません。

 本質的に美しくて明澄な、争いによって決して汚されていない心の性質を見出すことは最も重要なことです。それを理解する中で―単に言葉上や知的に過ぎないのではなく、日常生活で現実にそれを生きる中で―私たちは、私たち自身の内部と世界の中に、ある種の平和を持つかもしれません。おそらく、今朝、私たちはためらいがちに、敏感な注意深さをもって、私たちがその中で生きているこの戦いを理解し、それから自由であることができるでしょう。

 この葛藤と矛盾の根本原因は何でしょうか? 自分自身で質問を尋ねてください。説明を言葉にしようとしないで、できるなら、この矛盾と分離、この争いと葛藤の基盤を、単に、非言語的に調べてください。あなたは分析的に調べるか、即時にその根源を知覚するかどちらかです。分析的に、あなたは少しづつ解明して、個人と国家の間の、この私たち自身の中の闘争の性質、構造、原因と結果にたまたま出会うかもしれません。あるいはその原因を即座に知覚するかもしれません。このやり方で、こういったすべての葛藤の原因を事実に基づいて見出し、その真実を即座に知覚するかもしれません。

 分析すること、知的に、言葉上で、この葛藤の原因を見出そうと試みることは何を意味するか理解しましょう。なぜなら一度分析的過程を理解するなら―その真実あるいは虚偽を見るなら―あなたはいつもそれから完全に自由であるでしょうから。それは、あなたの目が、心が、ハートが、事の真実を即座に知覚している理解を意味します。私たちは分析的過程と、さまざまな専門家たちの哲学的および心理学的接近に慣らされ、条件付けられています。それは習慣になっています。私たちはこの生の複雑な過程全体を分析的に、知的に理解するよう、条件付けられています。これはその反対―情緒的な感傷性、を支持することではありません。しかし分析的過程の性質と構造を非常に明確に理解するなら、そのとき、あなたはまったく違う視野を持つでしょう。分析に与えてきたエネルギーをまったく違う方向に向けることができるでしょう。

 分析は分離を意味します。分析者と分析されることになっているものがあります。あなたがあなた自身を分析するにせよ、専門家によってなされるにせよ、分離があり、したがってすでに葛藤の始まりがあります。私たちは大きな熱情、大きなエネルギーがあるときのみ、すばらしい事をすることができます。そして、私たち自身の中と世界の中に、まったく違う種類の生を創り出すことができるのはこの熱情だけです。それが、何世紀もの間人間の心が捕らわれてきた分析のこの過程を理解することが非常に重要である理由です。

 私たちは多くの断片に分割されていますが、その一つが分析者の権威をものにします。分析されることになっているものは、別のものです。その分析者が検閲官になります。彼は蓄積した知識で、善いものと悪いもの、正しいことと間違ったこと、抑圧すべきことと抑圧すべきでないこと、などなどを評価します。また、分析者はあらゆる分析を完全にしなければなりません。さもないと彼の評価、結論は中途半端であるでしょう。分析者はあらゆる思考を吟味しなければなりません―彼が分析すべきだと考えるすべてのことを。そしてそれは時間が掛かるでしょう。あなたは人生の全部の時間を分析することに費やすかもしれません―お金と好みを持っているなら、あるいは分析者を見つけることができ、その人に惚れているとか、その他何やかやであるなら。あなたの日々のすべてを分析して過ごすこともあるでしょう。そしてその終わりにあなたは、なお多くの分析すべきことを持って、あなたのいた所にいます。

 分析の中には、分析者と分析されるものとの間の分離があり、そしてまた、分析者は正確に、完全に分析しなければならず、さもないと彼の結論は次の分析を妨げる、ということを私たちは見ます。分析の過程は限りなく時間が掛かり、その時間の間に多くのほかのことが起こるかもしれない、ということを私たちは見ます。それゆえ、分析の全体の構造を見るとき、そのとき、その見ることが実際にそれの拒否、否定です。それの中に含まれていることを見るとき、その行為の否定があります―それは完全な行為です。

質問者: 行為という言葉で、あなたは何を意味していますか?

クリシュナムルティ: 考え、イデオロギー、自分の蓄積された経験に従う行為。行為は常にそれ自身を理想に、手本に近づけようとしています。それゆえ行為と理想の間に分離があります。そのような行為は決して完全ではなく、分析は決して完全ではありません。その不完全な行為の否定は全体的な行為です。心が分析のおろかさ、無意味さを、含まれている問題と一緒に見てしまったとき、それは決してそれに触れないでしょう。心は、決して、「真の」分析を理解しようとはしないでしょう。

 分析の過程を調べた心は、非常に鋭利で、いきいきして、敏感になっています。なぜなら、私たちが理解の仕方、手段だと考えてきたものを拒絶したからです。

 あなたがあなた自身で―議論や他人の理由付けによって強いられたり、屈服させられたりでなく―分析の虚偽、あるいは真実を非常に明確に見るなら、そのときあなたの心は自由であり、別の方向から見るエネルギーを持ちます。「ほかの方向」とは何でしょうか? それは全体的な行為である知覚の即時性です。

 言ったように、分析者と分析されることになっているものとの間に分割があります。観察者と観察されるものとの間の分割、これが葛藤の根本原因です。観察するとき、あなたは、中心から、経験と知識の背景から、常にそうします。カソリック、共産主義者、「専門家」などなどとしての「私」が観察しています。それで「私」と観察されるものとの間に分離があります。これは多量の理解を必要としません。それは明白な事実です。あなたが木を、夫や妻を見るとき、この分離があります。それはあなた自身と共同体の間に存在します。そのように、この観察者と観察されるものがあります。その分離の中に必然的に矛盾があります。その矛盾があらゆる争いの根源です。

 それが葛藤の根本原因であるなら、そのとき次の質問はこうです。「私」、検閲官なしに、悲惨、葛藤、野獣性、虚栄、誇り、絶望の蓄積された経験、それらが「私」ですが、それらなしに観察することができるでしょうか? 過去―過去の記憶、結論と希望なしに、あらゆる背景なしに観察することができるでしょうか? その背景―「私」、「観察者」としての―が観察されるものからあなたを分割します。背景なしに観察したことが今までにありますか? どうか、それを今やってください。それをしてください。外部のものを客観的に見てください。川の音を聞いてください。山の線、美しさ、その明澄さのすべてを見てください。観察している過去としての「私」なしにそれをすることはかなり容易です。しかし、観察者なしに、内側であなた自身を観察することができますか? あなた自身を、あなたの条件付け、あなたの教育、あなたの考え方、あなたの結論、あなたの先入観を見ることをどうかやってください。どんな種類の非難や説明や正当化もなしに―ただ観察してください。そのように観察するとき、「観察者」はなく、それゆえ葛藤はありません。

 その生き方はもうひとつのものとはまったく違います―それは反対物ではありません、もうひとつのものに対する反応ではありません、それはまったく違うものです。そしてその中にすばらしい自由とエネルギーと情熱の豊かさがあります。それは全体的な観察、完全な行為です。完全に見、理解したとき、行為は常に明確であるでしょう。それは地図の、行きたい細部ではなく、全範囲を見ることに似ています。

 それで人は、人間として、どんな種類の葛藤もなしに生きることができるということを、自分自身で見出します。これは自己の中の巨大な革命を意味します。{それが唯一の革命です}。あらゆる形の物質的な外部の革命―政治的、経済的、社会的―は常に、官僚や理想主義者や征服者のいずれにしても、独裁に終わります。ところが、この内部の、完全で全体的な革命は、それは観察者と観察されるものとの間の分離によって引き起こされるあらゆる葛藤の理解の所産ですが、まったく異なる種類の生きることをもたらします。

 さて、どうか、よろしければそれについて質問することによって、さらに調べることにしましょう。

質問者: 問題でいっぱいの世界に生きているとき、どうやって問題から絶縁することができるでしょうか?

クリシュナムルティ: あなたは世界と違いますか? あなたが世界です―あなたは違いますか?

質問者: 私はまさに世界に住んでいる人です。

クリシュナムルティ: 「まさに世界に住んでいる人」―世界で起こっているすべての出来事と分離し、無関係に?

質問者: いいえ、私はその一部です。しかしどうやって私はそれから絶縁することができるでしょうか?

クリシュナムルティ: あなたはとても世界から絶縁することはできません。あなたは世界です。あなたは、キリスト教国に住んでいるなら、文化によって、宗教によって、教育によって、工業化によって、その戦争のあらゆる闘争によって、条件付けられています。とてもその世界からあなた自身を切り離すことはできません。僧侶は彼ら自身を僧院に閉じ込めて、世界から身を引こうとしてきました。しかしそれにもかかわらず、彼らは住んでいる世界の結果です。文化から身を引くことによって、彼らが真理であると考えることに、イエスの理想などに献身することによって、彼らはその文化から逃げようと望みます。

質問者: 私の心にあるすべての悩みを持っている私自身を、どうして私が調べることができるでしょうか、お金をつくり、家を買うなどとともに?

クリシュナムルティ: どんなふうにあなたはあなたの仕事を見ますか? どんなふうにそれを考えますか?

質問者: 私はそれを世界の中で生き延びるための手段として考えます。

クリシュナムルティ: 「私は生き延びるために生計をたてなければならない」。社会の全構造は、ここでもロシアでも、どんな代価を払っても生き延びることに基づいています、社会が組み立てた何かをして。私たち自身の間に分割があるとき、どうして安全に、永続的に生き延びることができるでしょうか? あなたがヨーロッパ人で私がアジア人であるとき、私たち自身の中に分割があり、各人が安全であろう、生き延びようと競争し、したがって個人的にも集団的にもお互いに戦っているとき、どうして生き延びることがありうるでしょうか? 一時的に生き伸びる?
 それで真の質問は、生き延びることではなくて、この世界の中で分割なしに生きることが可能かどうかです。何の分割もないとき、私たちは恐怖なしに、完全に、生き延びるでしょう。宗教的な戦争がありました。カソリックとプロテスタントの間にすさまじい戦争がありました―各々が「私たちは生き延びなければならない」と言って。彼らは「ねえ、この分割は何とばかげているんだろう。一方はこれを信じ、他方はあれを信じる」とは決して思いませんでした。決して彼らの条件付けのばからしさを見ませんでした。この分割なしに生き、それゆえ、完全な安全の中で十分に生きることができるかどうかを見出すことに、私たちの思考、感情、情熱の全エネルギーを注ぐことができるでしょうか? しかし、あなたはそういったもろもろに関心がありません。あなたはただ生き延びたいのです。あなたは関心がありません―あなたの生き伸びることは、生き伸びることでないにもかかわらず。
 ほら皆さん、統治政府は、それぞれがそれ自身の軍隊を持ち、世界を分割してきました。そして威信と経済的生存を保持して争っています。政治家抜きに、よい人の手にある電子計算機は、この世界の全構造を変えることができます。しかし私たちは人間の統一に関心がありません。それにもかかわらず、政治的には、それが唯一の問題です。それは政治家がいないとき、統治政府がないとき、分離した宗派がないときのみ解決することができます―そしてこのことを聞いているあなた、あなたがそれをやる人です。

質問者: その結論に達するためには意識的な分析を要するのではないでしょうか?

クリシュナムルティ: それは分析から生じる結論でしょうか? あなた、ただこの事実を観察してください。世界がいかに統治政府と宗教によって分割されているかを見てください。あなたはそれを見ることができます―それは分析でしょうか?

質問者: そういったすべてを変えるためには、また外部の革命も要ると思いませんか?

クリシュナムルティ: 内部と外部の革命が同時に。最初の一つ、それからもう一つのものではなく。それは同時でなければなりません。それは一方や他方を強調することのない、即時の内部と外部の革命でなければなりません。それはどうやって起こることができるでしょうか? 内部の革命が外部の革命であるという、完全な真理を見るときだけです。それを見るとき、それは起こります―そして知的に、言葉の上で、観念的に、ではありません。しかし、あなたの中に、完全な内部の革命がありますか? なくて外側の革命を望むなら、そのとき、あなたは世界に混乱をもたらそうとしています。そこで世界の中に混乱が{あるのです}。

質問者: あなたは政府、そして教会、そして国家主義のことを話します。それらは私たちが力であると思うものを持っています。

クリシュナムルティ: 官僚は力を望み、それを持っています。あなたは力を望みませんか―妻や夫の上に。正しいと思うことについての結論の中に力があります。あらゆる人間がある種の力を欲しがります。それゆえ、ほかの人たちに与えられた力を攻撃しないで、あなた自身の中の力への要求から自由であってください。そのとき、あなたの行為はまったく違うでしょう。私たちは外部の力を攻撃し、その力を持っている人からもぎ取り、他の誰かに与えたいのです。私たちは「すべての支配と所有から自由であろう」とは思いません。もしも全部の心を、あらゆる種類の力から自由であることに実際に用いるなら―それは地位なしに働くということです―そのとき、あなたはまったく違った社会をもたらすでしょうに。

質問者: あなたが空腹であるなら、これらの質問を論じ始めることさえできません。

クリシュナムルティ: もしも、あなたが実際に空腹であるなら、あなたはここにいないでしょうに! 私たちは空腹ではなく、それゆえ聞く時間、観察する時間を持っています。私たちは少数派です、大海の中の一滴です、私たちに何ができるでしょうか?、とあなたは言うかもしれません。私たちが生きている世界の、この途方もなく複雑な問題に立ち向かうとき、それは妥当な質問でしょうか? 人間、ただの個人として、私は何をすることができるでしょうか? もしも実際に問題に立ち向かっているなら、あなたはその質問をするでしょうか? あなたはまさに働いているでしょうに―おわかりですか、あなた? 「私は何ができるでしょうか?」と言うとき、その中にすでに絶望の色があるのです。

質問者: 多くの人たちは飢えています。生き延びるために即時の手段を取る必要があります。こういったすべてはその人たちにとって何を意味するでしょうか?

クリシュナムルティ: 何も。私が飢えているとき、あなた、私は食べ物を欲しがります―そしてこういったすべては非常にわずかな意味しかありません。それであなたの質問は何でしょうか?

質問者: 私たちは少数派、小さなグループです。巨大な多数派は、インドでは、アジアでは、欧州と米国の一部では、実際に飢えています。私たちがここで言っていることが、どうやって、これらの人たち皆に影響を及ぼすことができるでしょうか?

クリシュナムルティ: それはあなたに掛かっています、あなたがすることに。たとえ少数派としても。世界の中の巨大な革命が、少数派が彼ら自身の中で変化したために引き起こされます。あなたは世界の悲惨、窮乏、衰退、飢餓に関心があり、そして「私は何ができるでしょうか?」と言います。あなたは軽率に外部の革命に参加し、そのすべてを解体し、新しい種類の社会構造をつくり出そうとするか―そしてその過程の中で再び同じ悲惨をもたらすでしょう―あるいは、部分的でない、単に物理的でない、全体的革命を考えようとするかどちらかです。その中では、魂の内部構造が、社会とのまったく違った関係の中で働くでしょう。

質問者: あなたはあたかも内部革命が突然起こるかのように話します―それは実際にそのように起こるでしょうか?

クリシュナムルティ: 内部の革命は時間の、漸進的な内部の変化の事柄でしょうか? これは非常に複雑な質問です。私たちは、漸進的な内部革命を通じて変化があるだろう、という事を受け入れるように条件付けられています。それは一歩一歩起こるのでしょうか、それともそれは、事の真実を見るとき、即時に起こるのでしょうか? 即時の危険を見るとき、即時の行為があります―ありませんか? そのとき、行為は漸進的でも分析的でもありません。危険があるとき、即座の行為があります。私たちは危険を指摘しています―分析の危険、力の、延期の、分割の危険。あなたがその真の危険を見るとき―言葉上でなくて現実に、肉体的にも心理的にも―そのとき、即時の行為、即時の革命の行為があります。これらの心理的危険を見るためには、敏感な、油断のない、注意深い心を要します。「どうやって注意深い、敏感な心を持てばいいのでしょうか?」とあなたが言うなら、あなたは再び漸進性に捕らわれます。しかし、危険に直面するときのように―そして社会は危険です、あなたが巻き込まれているすべてのことは危険です―あなたが必要性を見るとき、そのとき全体的な行為があります。

1970年7月21日

(訳者: N.Goto)2005.08.掲載

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