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ザーネンの公開講話・対話

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1970年 ザーネンの公開講話(第4回)

J. Krishnamurti: Impossible Question (邦題 英知の探求)
Part1 Talks and Questions
J.クリシュナムルティ: 不可能な質問

第一部 講話と質問

4 断片化 
「問題は生が断片的に見られるときにのみ起こります。そのことの美しさをよく見てください。」

クリシュナムルティ: 私たちは、数え切れない問題に直面するとき、それぞれの問題を単独で解決しようとする傾向があります。それが性的な問題であるなら、それを、あたかも他の問題にまったく関係のないものであるかのように取り扱います。同様に、暴力や飢餓の問題も、私たちはそれを政治的に、経済的に、あるいは社会的に解決しようとします。それぞれの問題を、なぜ単独で解決しようとするのか、不思議に思います。世界は暴力でがんじがらめになっています。さまざまな権力者がそれぞれの問題を、あたかも他の生から離れたものであるかのように解決しようとしています。それぞれの問題が他の問題に関連し、分離していないのを見て、これらの問題を全体として考えることを私たちはしません。

 暴力は、自分自身の中に見ることができるように、獣性の遺伝の一部です。私たちの大部分は獣です。そして人間の全体としての私たち自身の構造を理解することなしに、単に暴力を単独で解決しようとするのは、ただいっそうの暴力に通じるだけです。このことは私たち一人一人によって、明確に理解されなければならないと思います。別個であるように一見見えるたくさんの問題があり、それを私たちが相関したものとして見るとは決して思われません。しかしどんな問題も単独で個別に解決されることはありません。私たちは生を、大きいにしろ小さいにしろ、問題と危機の連続した運動として取り扱う必要があります。このことに非常に注意深く入って行きましょう。なぜなら、私たちが恐怖と、愛、死、瞑想、実在の問題を議論するとき、それが明確に理解されない限り、どんなふうにそれらがすべて相関しているか、わからないでしょうから。というのは、生の美しさ、エクスタシー、計り知れない巨大なもの、は日常の問題とは別個ではないからです。「私は瞑想と真理にだけ関心がある」と言うなら、決してそれを見つけないでしょう。しかし、すべての問題がどんなふうに相関しているかよく理解してください。例えば飢餓は、それは単独でとめることはできません。というのは、それは人と人の間の国家的な、政治的な、経済的な、社会的な、宗教的な、心理的な分割を含んだ問題であるからです。そして私たちは人間関係の問題、苦痛の問題―肉体的だけでなく心理的な苦痛の問題―強い悲しみの問題、個人の悲しみのみならず、世界の悲しみ、その悲惨と混乱を持っています。私たちが各々の特定の問題に答えを見つけようとするなら、そのとき、いっそうの分裂、いっそうの争いをもたらすだけです。いやしくもまじめで、成熟しているなら、なぜ心はそれぞれの問題を、あたかもそれが他の問題と無関係であるかのように解決しようとするか、尋ねたに違いありません。なぜ人間の心、脳はいつも「私」と「私のもの」、「私たち」と「彼ら」、宗教と政治などのように分割するのでしょうか? 各問題を単独で、個別に解決しようとするあらゆる努力を伴う、この休みなく続く分割がなぜあるのでしょうか?

 その質問に答えるには、思考の機能、その意味、構成要素と構造を調べる必要があります。なぜなら、思考それ自体が分割するということ、すなわち、考えることを通して、理由付けを通して、答えを見つけようとする過程そのものが分離を引き起こすということかもしれないからです。

 人々はよりよい秩序をもたらすために、即物的な革命を望みます。即物的な革命の意味することを忘れて。人間の心理的性質の全体を忘れて。それで、人はこの問題を尋ねる必要があります。そして応答は何でしょうか? それは思考の応答でしょうか? それとも人間の生のこの巨大な構造全体の理解からの応答でしょうか?

 私たちはなぜこの分割が存在するのか見出したいと思います。先日、「観察者」と「観察されるもの」としてそれを調べました。それを脇にやって、違ったふうに接近しましょう。思考がこの分割をつくり出すのでしょうか? 思考がそうするのを私たちが見つけるときは、それは思考が特定の問題に対して、他の問題から離れて答えを見つけようとするためです。

 どうか私に同意しないで下さい。それは同意の問題ではありません。それはその真実、あるいは虚偽を、あなた自身で見るという問題です。どんな環境の下でも、いつでも、私の言うことを受け入れないで下さい。権威はありません。あなたも私も権威を持っていません。私たち両方が調査して、観察して、見て、学んでいるのです。

 思考が、その性質と構造そのものによって、生を多くの問題に分割するなら、思考を通じて答えを見つけようとすることは分離した答えに導くだけでしょう。したがって、それはいっそうの混乱、いっそうの悲惨を引き起こすということを私たちは見ます。人は思考がこのように作動するかどうかを、自分自身で、自由に、何の先入観もなしに、何の結論もなしに見出す必要があります。私たちの大抵は答えを知性的に、あるいは情緒的に見つけようとします。あるいは、直感的にそうすると言います。その「直感」という言葉に非常に注意深くなければなりません。その言葉の中に大きな欺瞞があります。なぜなら、人は自分自身の希望、恐怖、苦しさ、願いなどによって指図され、直感を持つことがあるからです。私たちは答えを知的に、あるいは情緒的に見つけようとします。あたかも知性は情緒と離れたものであり、そして情緒は肉体の応答とは離れたものであるかのように。私たちの教育と文化は、哲学的概念のすべてとともに、生へのこの知的アプローチに基づいています。私たちの社会的構造と道徳はこの分割にも基づいています。

 それで思考が分割するなら、どんなふうに分割するのでしょうか? あなた自身の中にそれを現実に観察するなら、あなたがどんな途方もないことを発見するかがわかるでしょう。あなたはあなた自身に対する光であるでしょう。あなたは統合された人間であるでしょう。他の誰かがあなたに、何をするか、何を考えるか、どんなふうに考えるかを教えてくれることを期待するのではなく。思考は途方もなく理にかなうことができます。それは一貫して、論理的に、客観的に、正気で論じるに違いありません。それは何の障害もなく空転しているコンピュータのように、何の葛藤もなく、完全に作動するに違いありません。推論は必要です。正気は推論する能力の一部です。

 思考は、いったい、新しく、新鮮であることができるでしょうか? あらゆる人間の問題―機械的で科学的な問題ではなくて―あらゆる人間の問題は常に新しく、思考はそれを理解しよう、それを変えよう、それを翻訳しよう、それについて何かをしようとします。

 もしも私たちがお互いに愛を深く感じるなら―言葉の上でなくて実際に―そのとき、この分割のすべては終わるでしょうに。それが起こり得るのは、条件付けがないとき、「私」と「あなた」のような中心がないときだけです。しかし、思考は、それは脳の、知性の活動ですが、とても愛することはできません。思考は理解される必要があり、私たちは思考が新しい何かを見ることができるかどうか尋ねます。すなわち、「新しい」思考は常に古く、それゆえ思考が生の問題―それは常に新しいのです―に直面するとき、思考はそれ自身の条件付けの見地で解釈しようとするので、生の問題の新しさを見ることができないのでしょうか。

 思考は必要です。けれども、思考は「私」と「私でないもの」のように分割するということが見えます。それは暴力の問題を個別に、生存のほかのすべての問題と無関係に解決しようとします。思考は常に過去からなるものです。もしも脳がないなら、脳はテープレコーダのように情報と経験のあらゆる種類を蓄積しているのですが、私たちは考えたり応答することができないでしょう。思考は、新しい問題に出会う時、それを思考自身の過去の見地で解釈しなければならず、それゆえ分割をつくり出します。

 あらゆることをしばらく脇に置いて、あなたが考えるのを観察してください。それは過去の反応です。もしもあなたが思考を持っていないなら、過去はないでしょうに。記憶喪失の状態があるでしょうに。思考は不可避的に生を過去と現在、未来に分割します。過去としての思考がある限り、生は時間の中に分割されるに違いありません。

 私が暴力の問題を、心が暴力からまったく自由であるように、完全に、すっかり理解したいと望むなら、思考の構造を理解することによってのみ、私はそれを理解することができます。暴力を生み出すのは思考です。「私の」家、「私の」妻、「私の」国、「私の」信念、それはまったく無意味な言葉です。残りのものに対立する、この永続する「私」は誰でしょうか? 何がそれを引き起こすのでしょうか? 教育、社会、体制、教会でしょうか? それらはすべてそれをしています。そして私はそういったすべての一部です。思考は物質です。それは構造そのものの中に、脳の細胞そのものの中にあり、それゆえ脳が作動するとき―心理的、社会的、あるいは宗教的のいずれにせよ―それはいつもその過去の条件付けの見地で動作するに違いありません。私たちは、思考は絶対必要で、完全に論理的に、客観的に、非個人的に作動しなければならないということを見ます。とは言っても、どんなふうに思考が分割するかを私たちは見ます。

 私はあなたを同意するように強要していません。しかし、思考が必然的に分割するに違いないことが見えますか? 何が起こっているか見て下さい。思考は国家主義があらゆる種類の戦争と災厄に導いたことを見ます。それで「私たちはすべて一つになろう。国家の同盟を形成しよう」と言います。しかし思考はなお作動しています。なお分離を保持しています―イタリア人として、イタリア政府を維持しているなどなど。人類同胞主義の話があり、けれども分離の保持がある、それは偽善です。それ自身の中で二重のゲームをするのが思考の性格です。

 それゆえ思考は出口ではありません―それは心を殺せということではありません。では、あらゆる問題を、それが起きるとき、全体として見るのは何でしょうか? 性の問題は、文化に、性格に、生のさまざまな問題に関連した全体的問題です―問題の断片ではありません。それぞれの問題を全体的に見るのはどんな心でしょうか?

質問者: わかりました。しかし、なお、そこに疑問が残ります。

クリシュナムルティ: 思考が最高のレベルと最低のレベルで何をするかを、あなたが理解したとき、それにもかかわらず、別の疑問がなおあるとあなたが言うとき、その疑問を尋ねているのは誰でしょうか? 脳、全神経組織、心―心はそのすべてを含みます―が「私は思考の性質を理解した」と言うとき、そのとき、次の段階はこうです。人はこの心が、巨大さと複雑さのすべてを持つ、途方もない終わりのない悲しみを持つ、生の全体を見ることができるかどうかを見ます。それが唯一の疑問であり、思考はその質問をしていません。心は思考の全構造を観察してきて、その相対的価値を知ります。この心は決して過去によって汚されていない目で見ることができるでしょうか?

 これは本当に非常にまじめな質問であって、唯の娯楽ではありません。人はその人のエネルギー、情熱を、その人の人生を、見出すために注がなければなりません。なぜなら、これがこの恐るべき残酷、悲しみ、退廃、堕落しているすべてのものからの出口であるからです。心、脳は―それはそれ自体、時間を経て堕落しています―生を全体として、したがって問題なしに見ることができるように、静かであることができるでしょうか? 問題は、生が断片的に見られるときにのみ起こります。そのことの美しさをよく見てください。生を全体として見るとき、そのとき、何の問題もまったくありません。問題をつくり出すのはバラバラの断片になっている心とハートだけなのです。断片の中心は「私」です。「私」は思考を通じてもたらされます。{それは単独では実在性がありません}。「私」―「私の」家、「私の」失望、何者かになろうという「私の」欲望―その「私」は分割する思考の産物です。心は「私」なしに見ることができるでしょうか? これをすることができないで、そのまさに「私」が言います。「私はイエスにわが身をささげます」―「仏陀に、これに、あれに」―わかりますか?―「私は世界の全体にかかわる共産主義者になろう」。「私」はより偉大であると考えるものとそれ自身を同一化しますが、それはなお「私」です。

 それで質問が生じます。心、脳、ハート、全存在、は「私」なしに観察できるでしょうか。「私」は過去のものです。現在には「私」はありません。現在は時間に属するものではありません。心は生の巨大さ全体を、「私」から免れて、自由に見ることができるでしょうか? それはできます、完全に、すっかり。考えることの性質を根本的に、あなたの全存在で理解したときに。考えることが何であるか見出すために、注意を、あなたの持つあらゆるものを注がないなら、あなたは「私」なしに観察することが可能かどうか、見出すことが決してできないでしょう。「私」なしに観察することができないなら、問題は続くでしょう― 一つの問題が他の問題に対立して。そして、私はあなたに保証しますが、人がまったく違った生を生きるとき、心が世界を全体の運動として見ることができるとき、これらの問題はすべて終わるでしょう。

質問者: 講話の始めで、あなたは何が私たちに問題を個々に解決しようとさせるのか尋ねていました。問題を個々に解決しようとさせる理由の一つは切迫ではないでしょうか?

クリシュナムルティ: 危険を見るならあなたは行動します。その行動の中に切迫の問題は、短気はありません―あなたは行動します。切迫と即時の行動の要求は、思考としての「私」に対する危険として危険を見るときのみ起こります。あなたが世界を分割する思考の全体的危険を見るとき、その見ることが切迫と行為です。インドにあるような、飢餓を本当に見るとき、そしてどうやって飢餓がもたらされてきたか、人々の、政府の冷淡さ、政治家の無能を見るとき、どうしますか? 飢餓の一地域に、他と離れて取り組みますか? あるいは「この全部の物事は心理的な問題である。それは思考によってもたらされた「私」に集中されている」と言いますか? あらゆる形のその飢餓が、完全に、すっかり理解されるなら―肉体的飢餓のみならず、愛を持っていないという人間の飢餓が―あなたは正しい行為を見つけるでしょう。変化そのものが切迫{です}。変化が切迫を通じて生じるだろうということではありません。

質問者: 思考は機能する必要があるとあなたは言っているように思われます。同時に、それはできないとあなたは言っています。

クリシュナムルティ: 思考は論理的に、非個人的に機能しなければなりませんが、そうはいっても、思考は静かでなければなりません。どんなふうにこれは起きるでしょうか?

 あなたは考えることの性質を現実に見るのでしょうか、あるいは理解するのでしょうか―私や専門家に従ってではなく―どんなふうに思考が働くか、あなた自身見ますか? ほら、あなた、あなたにとってまったくありふれた事柄を尋ねられるとき、あなたの応答は即座ではないでしょうか? 少し複雑な質問をされるとき、より多く時間が掛かります。脳が、記憶や本のすべてを調べて答えを見出せない質問を尋ねられるとき、「私はわからない」と言います。脳は思考を「私はわからない」と言うために使用したのでしょうか? 「私はわからない」と言うとき、心は捜していません、待っていません、期待していません。「私はわからない」と言う心は、知識で作動している心とはまったく違います。それで、心は知識から完全に自由で留まり、けれども既知の分野の中で機能的に作動することができるでしょうか? 二つは分割されていません。新しいものを発見したいとき、過去のものを脇にやる必要があります。新しいものは、既知のものからの自由があるときのみ、起こることができます。その自由は不変であることができます。それは心が完全な静寂の中に、無の中に生きているということを意味します。この無と静寂は巨大です。そしてそれから、知識―技術的知識―が物事を解決するために使用されることができます。また、その静寂から、生の全体が観察されることができます―「私」なしに。

質問者: あなたは講話の始めに、物事を外部から変えたいと望むことは、集団か個人の独裁に通じるだろうと言っていました。私たちはいま、貨幣と産業の独裁の下で生きていると、あなたは思いませんか?

クリシュナムルティ: もちろん。権威があるところ独裁があります。社会的、宗教的、あるいは人間の変化をもたらすためには、まず、「私」としての思考の全構造を理解しなければなりません。それは力を求めています―それが私であろうが、力を求めている他人であろうが。心は力を求めることなしに生きることができるでしょうか? これに答えてください、あなた。

質問者: 力を求めるのは自然ではないでしょうか?

クリシュナムルティ: もちろんそれはいわゆる自然です。それで犬は他の犬の上に力を求めているのです。しかし、私たちは教化され、教育され、高い知能を持つと想定されています。見たところ、千年が過ぎて、力なしに生きることを私たちは学んでいません。

質問者: 心は心に対して、答えをまだ知ってはいない心自身についての質問を、そもそもすることができるかどうか疑問に思います。

クリシュナムルティ: 心が「私」として、別個の思考として、心自身に対し心自身についての質問をするとき、心はすでに答えを見出だしています。なぜなら、それはそれ自身について話しているからです。それは違う槌で鳴っている同じ鐘です。しかしそれは同じ鐘なのです。

質問者: 私たちは「私」なしに行動できるでしょうか?―そのとき、黙想して生きるのではないのでしょうか?

クリシュナムルティ: あなたはひとりで、黙想して生きることができるでしょうか? 誰があなたに食物、衣服を与えようとするのでしょうか? 僧侶や宗教の種々のペテン師がこういったもろもろをやってきました。インドには「私は黙想して生きている。私に食事を与えよ、衣服を着せよ、入浴させよ。私はそんなにも接続を断っている」と言う人たちがあります―それはすべてまったく未熟です。あなたはとてもあなた自身を切り離すことはできません。というのは、あなたは常に過去やあなたの周囲の物事と関係しているからです。黙想と呼んで孤立して生きることは、単なる逃避、自己欺瞞に過ぎません。

1970年7月23日

(訳者: N.Goto)2005.09.掲載

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