クリシュナムルティを読む

ゴト改め皆様の読書室

中心と二重性

J. Krishnamurti: Exploration into Insight -
'The Centre and Duality' Bombay 24th January 1973
洞察の中への探究 - 「中心と二重性」

K: 二重性とは何でしょうか? 一体、二重性は存在するのでしょうか?

A: もちろん、存在します。

K: 私は何も前提したくありません。私はヴェーダンタ、アドバイタ、科学的理論の何も知りません。私たちは新たに出発しているのです。他の人の臆説を知ることなしに。それはまた聞きかもしれません。それらをすべてぬぐい去りましょう。二重性はあるでしょうか? 実際の二重性―男女、明暗、高低―を別にして、何かほかの二重性があるでしょうか?

S: 「私」と「あなた」という二重性が私たちの中に構築されています。

K: 男女、明暗、明白なものを別にして、二重性はあるでしょうか? 私は、私たちがみんな同じものを話していることを明確にしたいと思います。私は私が上位にあると思っていません。私は二重性、心理的な二重性があるかどうか見出したいのです。外部には明らかな二重性があります―高い木、低い木、種々の色、種々の物質などなど。しかし心理的には、「あるがままのもの」があるだけであり、私たちは「あるがままのもの」を解決することができないので、「あるべきもの」を発明するのです。それで二重性があります。事実、「あるがままのもの」から、「あるべきもの」、理想に向けての抽象があるのです。しかし「あるがままのもの」があるだけなのです。

D: 「あるがままのもの」は二重性であると一般に言います。

K: 待ってください、あなた、私は見出したいのです。私は「あるがままのもの」しか知りません。「あるべきもの」を知らないのです。

P: 「あるがままのもの」は私にとって二重性です。

K: いいえ。しかしあなたは二重性を条件づけられています。二重性を教育されています。あなたは心理的に二重性の中で作動します。

S: 出発点は二重性的な立場です。それは多くの要素のためかもしれません。

K: それが私が調べたいことです ― 生に対してのこの二重性的な態度は、心が「あるがままのもの」を解決できずにきたので、生じるにいたったのかどうか。

A: 私たちが見ることができる限りでは、生まれたばかりの赤ん坊は、母乳のために、栄養のためだけに泣くのではありません。赤ん坊は一人で置いておかれるときいつも泣きます。二重性は、私のあるがままに対する自分自身の中の不適切さの表現です。これはほとんど生の始めから始まります。

P: それは人種的遺産の一部です。

S: 「あるがままのもの」の性質は何でしょうか?

K: それが私の知りたいことです。私が「あるがままのもの」を理解できるなら、なぜ二重性がなければならないのでしょうか?

S: 私が理解するのに用いる道具は何でしょうか?

B: 「あるがままのもの」との接触がないので問題が起きるのでしょうか? 二重性は「あるがままのもの」との接触がほとんどないので仮定されます。

K: それが私が見出したいことです。二重性とは何でしょうか? 二重性は測定でしょうか?

B: 二重性は比較です。

P: 二重性は「私でないもの」から分離したものとしての「私」という感覚です。

K: それが二重性の基本的な原因です。さて、あなたとは違うと言っている「私」とは何でしょうか? 「私」とは何でしょうか?

A: 中心、身体。

M: 脳。

P: 私はその質問をします。そして「私」の動きを観察している中で、それは椅子や机や身体のような現実の何かではないことを見出します。それ自体ではそれは存在しません。

K: 少ししゃべっていいでしょうか? それは馬鹿げて響くかもしれません。私には二重性はありません。男-女、明-暗があります。私たちはその種の二重性を話してはいません。二重性はただ「私」と「私でないもの」、「私」と「あなた」、「私」としての中心と「あなた」としての中心の間の隙間としてのみ存在します。「私」という中心があなたを見ます。そして「私」と「あなた」の間の隔たりがあります。隔たりは、広げられも狭められもします。この過程は意識です。私に同意しないでくださいね? 私は明確でありたいのです。私はゆっくり始めたいと思います。

B: この閉じられた隔たりは意識です。

M: 隔たりは意識の中にあります。

K: いえ、いえ、あなた、ここに座っているあなたと私の間の隔たり、物理的な隔たりがあります。それから、心がつくりだした隔たりがあり、それは「私」と「あなた」です。「私」と「私でないもの」、「あなた」、そして隔たりは意識です。

D: 物理的なものと心理的なものの間を区別すべきです。

S: 「私」は具体的な実在物でしょうか?

P: それが、「私」が何であるかのこの調査が難しいと私が言う理由です。

S: 私たちは二重性とは何かで始めました―「私」と「私でないもの」、中心。

K: この中心とあの中心の間の隙間、この中心とあの中心の間の運動、垂直的、水平的運動は意識です。

P: それがすべてですか?

K: 私はまさに始めている所です。

A: あなた、あなたは二つの中心を示唆しました―もう一つの中心に出会うこの中心。ほかの中心はありません、あなた。

K: 私はそのことに至るつもりです。一歩一歩、ゆっくり行きましょう。ほかの中心はこの中心によって考え出されたのです。

A: 私はわかりません。私はほかの中心なしにでさえ、隔たりは生じると言います。

S: アシュユットジ、「私」は「私でないもの」を作り出します。それは「私」の過程に包含されています。

K: 私が中心を持たないなら、ほかの中心はありません。私は二重性の全体の構造を尋ねたいのです。私はそれを受け入れません。あなたは受け入れています。私たちの哲学、私たちの判断、あらゆるものがこの受容に基づいています。「私」と「私でないもの」とそれから起きる紛糾の全て、そして私は、よければ、二重性の全体の構造を尋ねたいのです。それで、「私」は唯一の中心です。そこから、「私でないもの」が起こり、そして「私」と「私でないもの」の間の関係は不可避的に葛藤を引き起こします。ただ一つの中心があり、それからほかの中心、「あなた」が起こります。私はそれはかなり明確だと思います。少なくとも私には。それを受け入れないでください。

M: この中心はどうやって起こるのでしょうか? 私はこの中心を持っているので、ほかの中心を作り出します。

K: 私はそれに至るつもりです。まだ私はそれに答えたくないのです。目覚めている状態で、中心はほかの中心を作り出します。その中で、関係の問題全体が起こり、それゆえ二重性が起こります。葛藤、二重性を克服しようとする企てが。この分離をつくりだすのは中心なのです。目覚めている状態の中に中心があるので、その関係は常に分離しているであろうということが私はわかります。分離は隙間と時間であり、分離としての隙間と時間がある所、不可避的に葛藤があるに違いありません。そのことは単純、明快です。そこで、目覚めている間、いつも続いていることは調整、比較、暴力、模倣であるのを私は見ます。中心が眠りにつくとき、それは眠っているときでさえ分離を保持します。

SWS: 中心が眠りにつくということはどういうことでしょうか?

K: その状態が何であるか私たちは知りません。私たちは調べようとしているところです。

S: 目覚めている意識の中では、経験者が中心です。

K: 経験者は中心です。中心は記憶です。中心は知識です。それは常に過去の中にいます。中心は未来に投影するかもしれませんが、それはなおその根を過去の中に持っています。

D: 中心は現在です。私は過去や未来を知りません。

K: あなたが中心を持っているなら、決してそう言わないでしょう。

D: 私の独自性に関する限り、過去と未来は単なる付加物です。私はそれらと関係ありません。私は現在です。

A: あなたは過去の子供です。あなたは過去のあらゆるものの後継者です。

D: 少しも。それは仮説です。どうやって私は過去を知るのでしょうか?

K: あなたが話している言葉、英語、は過去の結果です。

P: 一方が存在するなら、他方も存在します。

D: それは理論です。

A: なぜそれが理論であり得るのでしょうか? あなたが生まれている事実そのものが、あなたが過去の子供であることを意味します。

D: 私は過去を知りません。私は未来を知りません。

P: 人が過去と未来の両方から自由であるなら、そのとき問題はありません。過去に関係している人々について話しましょう。

D: 私は「私」という感じを持つ非常に小さな非-実体です。私は過去と未来について何も知りません。

A: 「私」は過去の全体―私の父、私の祖父、によって作り出され、生み出されたのではないでしょうか? どうして私はそれを否定できるでしょうか? 私の意識それ自体が過去のものから成り立っています。

P: 個人的、種族的、人間の過去があります。ほら、デシュパンデ、私は昨日の討論を覚えており、その討論は今日の私の討論に入ってきます。

D: 私の立場は、私は過去や未来については知らないという事です。それは付着物です。

A: デシュパンデジ、あなたが自分は現在であると言うとき、どうか考えてください。あなたは、あなたは過去も未来もなく、この瞬間のみであると本気で言うつもりなのでしょうか? それは理論ですか、それとも事実ですか? それなら、あなたはサマディの中にいます。

K: ちょっと待ってください、あなた。静かにしましょう。あなたは英語を話します。それは付着物です。付着させる中心は何でしょうか?

D: その中心を私は「私」と呼びます。しかし、私は知らないのです。

K: それゆえ、蓄積してきた中心は「私」です。

D: 蓄積するものと蓄積されるものは同じものではありません。

K: 蓄積している中心は誰でしょうか? 蓄積のない中心があるでしょうか? 中心はそれが蓄積したものと違うのでしょうか?

D: 私はそれに答えることができません。

M: その全ては意識の内容です。

K: 私たちは意識の内容が意識であると言いました。意識がないなら、蓄積はありません。

M: 私はそのことは言っていません。

K: 私がそれを言いました。私たちはそれで始めました。

M: 意識の内容が意識です。そのことは、内容がないとき意識がないということです。

K: それがその意味することです。

D: それゆえ、それは二重性でない意識があることを意味します。

K: いえ、いえ、それは推測です。私たちが出発したことに固執しましょう。意識はその内容です。内容は意識です。これは絶対の事実です。

A: あなた、どんなときにも、この「私」は、その知覚の範囲としての意識の全領域を指揮することは出来ません。私の知覚の中で、私は全領域を見ません。

K: なぜなら中心があるからです。中心があるところ、断片化があります。

P: 「私」は思考の過程を通してのみ作業でき、思考は断片的です。

K: それがすべてです。

A: 私が思ったことは、意識の内容は私の知覚の領域の一部であるに違いないという事です。そうではないでしょうか?

P: もしもそれが私の知覚の一部であるならば、そのとき、意識の内容全体は意識であり、そしてほかの何もないでしょう。そのとき、私は意識と共に休んでいるでしょうに。私はそこに留まるでしょうに。しかし、私はあなたの前に座って「私にやり方を示してください」と言います。そしてあなたは「方法を尋ねるやいなや、あなたは決して方法を知ることがないでしょう」と言い続けます。私たちはなおも、あなたに方法を示すように頼みます。

S: 第一の要点は私たちは断片的にのみ経験し、意識全体をではないという事です。

K: それが私の言っていることです。中心がある限り、断片化があるに違いありません。そして断片化は「私」と「あなた」そしてその関係の中の葛藤です。

S: あなたはこの中心を意識と等しいものとしているのでしょうか、それともそれは意識全体のある断片なのでしょうか?

K: 中心は意識の内容です。

S: それゆえ、意識それ自身が断片化している?

P: あなたはこの中心は時間―空間であると言います。あなたはまた時間―空間の領域を超える可能性を前提しているように思われます。中心は操作するものです。それは超えることは出来ません。もしもそれが出来るなら、時間と空間は意識の内容であることをやめるでしょうが。

K: もう一度始めましょう。意識の内容が意識です。そのことは反駁出来ません。中心は断片のつくり手です。中心は断片が動揺したり活動したりするとき、断片に気づきます。さもなければ、中心はほかの断片を意識しません。中心は断片の観察者です。中心は断片をそれ自身と同一視しません。それゆえ、いつも観察者と観察されるもの、思考者と経験があります。そこで、中心は断片のつくり手であり、そして中心は断片を一緒に集めて超えようとします。断片の一つが「眠ろう」と言い、断片の一つは「起きていよう」と言います。起きている状態の中に無秩序があります。脳細胞は、無秩序の中では効果的に機能できないので、眠る間に秩序をもたらそうとします。

S: 脳は秩序をもたらそうとします。その過程は二重性的でしょうか、それとも非二重性的でしょうか?

K: それをあなたに示しましょう。脳細胞は秩序を必要とします。さもなければ、それらは機能できません。このことの中には二重性はありません。一日中、中心がそこにあるので無秩序があります。中心は断片化の原因です。断片化を中心は断片を通してのみ知ります。それは断片の全体を意識せず、したがって、秩序はなく、したがって、それは無秩序の中に生きています。それは無秩序です。それは「私は経験しなければならない」と言うけれども、無秩序の中に生きています、混乱の中に生きています。それは断片化の中でのみ機能するので、無秩序を作り出すだけでほかに何もすることができません。いいでしょうか、あなた。

A: はい、あなた。そうです。

K: 脳細胞は秩序を要します。さもなければ、それらは神経症的に、破壊的になるでしょう。それは事実です。脳細胞は常に秩序を必要としており、中心は常に断片化をつくり出しています。脳細胞は秩序を必要とします。この秩序は中心があるとき否定されます。なぜなら、中心は常に破壊、分離、葛藤、その他もろもろをつくり出しているからです。それは安全の否定です。それは秩序の否定です。二重性はありません。この過程は続きます。「私は秩序を持たなければならない」と言う脳は二重性ではありません。

A: それらは二つの独立した運動ではないのでしょうか?

P: 私たちは、私たちに触知できることから立ち退いていると感じます。

K: これは大いに触知できることです。

P: それは触知できることではありません。秩序を求めている脳細胞は触知できません。

K: すぐにそれをあなたに示しましょう。 

S: ププルジ、物理的世界全体が、混乱の代わりに、途方もない秩序を保っています。秩序を保つのは宇宙の性質そのものです。

P: 科学者たちの時間の感覚は私たちにとっては実際のものではありません。秩序を求める脳細胞は私たちには実際のものではありません。私はわかりませんが、そうであるかもしれません。あなたは事実から私たちの理解の彼方にある事実に離れ去っています。

K: P、私たち二人は要点を見ます。中心があるところ、葛藤があるに違いありません。断片化があるに違いありません。「あなた」と「私」の間のあらゆる形の分離があるに違いありません。しかし、中心がこの分離を作り出しているのです。どうやってあなたは知りますか?

P: それを自分自身の中に観察したからですが?

K: 言葉の上で、それとも実際に?

P: 実際に。

K: 中心は断片のつくり手です。中心は断片です。この全領域は無秩序です。どんなふうにあなたはこの無秩序に気づいていますか?

P: 私はそれを見ました。

K: 待ってください、あなたは私の質問に答えていません。すみません。私はあなたに尋ねているのです。どんなふうにあなたはこの無秩序に気づいていますか? それが無秩序であることに気づいているのが中心であるなら、そのときそれはなお無秩序です。

P: 私はそれを見ます。

K: これが無秩序であることに中心が気づいているとき、そのとき、それは秩序と無秩序として二重性をつくり出すということをあなたは見ます。そこで、どんなふうにあなたは無秩序を観察しますか ― 中心なしに、それとも中心で? それが中心での観察なら分離があります。中心の観察がないなら、そのとき、ただ無秩序だけがあります。

P: あるいは秩序が。

K: 待ってください。どうかゆっくり進んでください。無秩序があるということに中心が気づいているとき、分離があります。そしてこの分離は無秩序のまさに本質です。中心がそこになく、そして気づいているとき、何が起きますか?

P: そのとき中心はありません。無秩序はありません。

K: したがって、何が起きましたか? 無秩序はありません。それは事実です。それが脳細胞が要求することです。

P: あなたがそれを持ち込むとき、あなたはこれを取り去ります。では進みましょう。

K: そこで止まってください。それゆえ、私はあることを、中心が空間と時間を作り出すことを発見したのです。空間と時間があるところ、関係の中に分離が、したがって、関係の中に無秩序があるに違いありません。関係の中に無秩序を持つなら、それは一層の無秩序をつくり出します。なぜならそのことが中心の性質そのものであるからです。関係の中に無秩序があるだけでなく、思考、行為、観念の中に無秩序があります。

P: あなたに質問をしたいのです。どちらが事実でしょうか ― 秩序の知覚と...?

K: あなたはただ無秩序に気づいているだけです。ちょっと聞いてください。私もまた探りながら進んでいます。あなたはわかります。中心は、それが 関係の中、思考の中、行為の中、知覚の中、―どこに動こうが無秩序の源であることを私は見ます。知覚する者と知覚されるものがあります。それゆえ、中心が機能し、動き、作用し、その勢いを持っているところはどこでも、分離、葛藤、その他もろもろがあるに違いありません。中心があるところ、無秩序があります。無秩序は中心です。どんなふうにあなたは気づいていますか? 中心が無秩序に気づいていますか、それともただ無秩序があるだけですか? 無秩序に気づいている中心がないなら、完全な秩序があります。そのとき、明らかに断片は終わります。なぜなら、断片を作っている中心がないからです。

P: その意味で、断片が存在するやいなや、現実は断片です。断片が終わるとき、現実は非-事実です。それゆえ、分離はありません。あなたはヴェーダンタの立場に戻っています。

K: 私はそれを受け入れることを拒みます。

P: 私がそれをあなたに述べているのです。

A: あなたが、「私」は無秩序の源であり中心である、あるいは中心が源であり、それは無秩序であると言うとき、そのことは私にとって事実であると私は言いたいのです。あなたがその無秩序を観察している中心がないならと言うとき―

K: いいえ。私は尋ねました、誰が無秩序を観察しているのでしょうか? アシュユットジ、これを見てください。秩序の意識はありません。そして、それが秩序の美しさです。

P: 「現実(reality)」という言葉はあなたにとって何を意味しますか?

K: 何も(nothing)。

P: それによってあなたは何を意味しますか? 私はその言葉「何も」を調べたいのです。

K: それが何かであるとき、気づいていません。

A: 認知の領域は非現実の領域です。

K: いいえ、気をつけてください、あなた。ちょっと待ってください。今はそれを離れてください。夢の問題を調べましょう。なぜならそれは明らかに私たちの生の断片の一つであるからです。夢とは何でしょうか? 夢の構造の母体は何でしょうか? どうやって夢は起こるのでしょうか?

Q: それは昼間の間に欲求が満たされないとき、起きます。

K: それゆえ、昼間の間に私はあるものを望み、そしてそれは成就されなかった、果たされなかった、それはうまくいかなかったとあなたは言っています。そこで、欲求は続きます。

P: 何故私たちは向こうへ行くのでしょう? 思考は、脳細胞から押し出された、始まりがない際限のない過程です。同様に、心がすっかり眠っている期間があります。それは同じ推進力のもう一つの形です。

K: それはまさに同じものです。昼間の運動はなおも続きます。そこで、昼の間に無秩序をつくり出している、無秩序の要因である中心はなおも続きます。象徴的、あるいはそうでなくても、夢になる運動は同じ運動です。

M: 中心は無秩序の源であると、あなたは言い続けています。

K: 中心は無秩序です。源ではなく。

M: 「私」という感覚は秩序を切望している絶え間ない要求です。それをつくり出す誰もいません。そして私は秩序を請い求め、秩序を捜してこの世界にいます。そしてすべての二重性は、つくり出された二重性ではなく、与えられた二重性です。

K: いいえ、すみませんが。

M: 私はそれがそうであるのを見出します。私は二重性を望みません。

K: この探求それ自体が二重性です。私たちの生は非-二重性を求める探求です。

M: 私がすることはなんでも秩序のためであることを私は知っています。秩序は一時的かもしれません、取るに足りない小さい秩序。しかしなお、秩序を目指さない心のしぐさはありません、姿勢はありません。食べていようが、飲んでいようが、眠っていようが。それはまた生を可能にします。それゆえ混沌は私に負わせられたものです。無秩序は私に押し付けられています。それが私の観察です。あなたがそうでないと言うなら、そのとき、わたしの観察とあなたの観察は違うのです。

P: 全ての観察において、私たちはクリシュナジと座り、働いている自己を観察しました。そして自己の性質が開示されてきました。

M: いいえ、それは仮説にすぎません。私たちは言葉で遊んでいます。心は要素を整合することが出来ません。この中に開示というようなものはありません、あなた。私たちに告げる誰もいません。

P: 同意します。自己観察の過程そのものがそれを開示します。それはあなたに告げる誰かではありません。

K: この人は、この中心は無秩序の源だと言います。日常生活の運動は睡眠中も続きます。それは同じ運動であり、夢はその「私」の表現です。私が目覚めるとき、私は「夢を見た」と言います。それは単に伝達の手段です。夢は「私」です。夢はこの運動、この無秩序をつくり出した中心から離れていません。次の要素は深い眠りです。あなたは深く眠っているとき気づいていますか?

S: 深い眠りがあったことを誰が気づいているでしょうか? ひとは深い眠りを意識しません。「私は途方もない眠りを持った。」と言いません。「私は夢を見なかった、私は安らかに眠った。」と言うかもしれませんが。

P: 良い眠りを持ったとは実際に言うことです。

M: 私が深く眠るとき、私は思考を持たないことに、意識を持たないことに十分に気づきます。

K: それゆえ、言うことが出来る全ては、「私は夢のない非常にいい眠りを持った」です。夢のないその状態を、あなたがたった今深い眠りと呼んだ状態をどうやって調査しますか? 意識的な心や理論を通してそれをしますか、あるいは、それについて誰かが言ったことを繰り返して言うことによって? どうやってそれを調べますか?

S: 眠りがそれ自身を開示しなければなりません。さもなければ、あなたは他方の状態を調べることができません。

K: 何故あなたはそれを調べたいのでしょうか?

S: なぜなら、それが同じ状態かどうか知りたいからです。

P: 「目覚め」ている状態と「深い眠り」の状態があります。

SWS: 私自身の経験は、夢のない眠りがあるときは、中心がないということです。次に中心が再びやってきます。それは私が夢なしに眠っていたことを思い出します。再び中心はその作用を開始します。

S: 深い眠りは中心のない眠りです。

K: 何故私たちは知りうることだけしか話さないのでしょうか?

P: しかし、あなたが深い眠りを調査することを望みました。深い眠りを調査することは可能なのでしょうか?

D: 私はただ一つの事実だけを見ます。眠りの中には中心がありません。

K: あの紳士が、深い眠りは中心がないということだと言いました。

M: 深い眠りは意識の強さが非常に低いことを意味します。

P: 私は質問しました。深い眠りを調査することは可能でしょうか?

K: 「調査する(investigate)」とはどういうことでしょうか? 私は調査できるでしょうか? 中心は調査できるでしょうか? あなたは映画で画面を見守ります。あなたはそれと同一化していません。あなたはその一部ではありません。あなたは単に観察しているに過ぎません。

S: 同一化することなしに観察しているそれは何でしょうか?

K: 観察する人はいません。ただ観察だけがあります。

S: ププルが尋ねていることはこうです。深い眠りは調査することが出来るでしょうか?

K: 私たちはそのことをわかっています。それはあらわにされ得るでしょうか? それはさらされうるでしょうか? それは観察できるでしょうか? 私は「はい」と言います。私はあなたを観察することが、命名することなしにただ観察することができるでしょうか? もちろんそれはできます。観察者は中心です、観察者は過去です、観察者は分割する者です。観察者はあなたと私の間の空間です。

P: まず第一に、これができる道具、機械を持つべきです。これができる気づきの状態を持たなければなりません。それができるのは、気づきのこの状態、あるいはジャグリッチ(jagriti)があるときだけです。

K: 無秩序があることに気づく中心のないこの無秩序の観察があるでしょうか? そのことを解決できるなら、私はその全部のはずみを解決したのです。秩序とは何でしょうか? 私たちは中心は決して秩序に気づくことができないと言いました。では、その状態は何でしょうか? では、徳があるという意識がない徳とは何でしょうか? 人が伝統的に徳として受け入れているものは実践です。謙遜を実践している虚栄はなお虚栄です。では徳とは何でしょうか? それは徳があるという意識のない状態です。私はただ探っています。中心が謙遜を持っていると気づくなら、それは謙遜ではありません。徳は、徳があると意識していない心の状態です。したがって、それはあらゆる実践を、あらゆるサーダナ(修行)を打ち倒します。中心からではなく無秩序を見ることは、秩序です。その秩序をあなたは意識することが出来ません。あなたがそれを意識するなら、それは無秩序です。 

(訳者: N.Goto)'98.12-'99.01 掲載 2009.07 修正