クリシュナムルティを読む

ゴト改め皆様の読書室

特別掲載

「あなたのすべてに優先する関心は何でしょうか」 「気づき、知覚、洞察の性質」
「生の中の聖なるもの」 「心を変える瞑想」
  

あなたのすべてに優先する関心は何でしょうか?

The Awakening of Intelligence Part7 Chapter 1
1st Public Talk Saanen 18th July 1971
‘WHAT IS YOUR OVER-RIDING INTEREST?’
「あなたのすべてに優先する関心は何でしょうか?」

あなたの一番の関心、あなたの深い変わらない意向は何でしょうか? 人はそれを自分自身で発見すべきであると私は思います。あなたはそれを見出し、日常生活の全ての活動にそれを結び付けなければなりません。

 人は、あるがままの世界に深い関心があるかもしれません。暴力、ぞっとするようなまったくの混乱、政治的分離、堕落 - それは外部的にだけでなく内部的にもまた、死です。自分の深い関心を自分自身で発見する中で、その関心によって、他の人との自分の関係を見出すことが出来るでしょう。その関心が、周囲の状況といかなる方向にも吹く風にしたがっている、漠然とした、浅薄なものであるなら、そのとき、外部的にも内部的にも、私たちの活動は何の意義もない、むしろ偶然のものであるでしょう。これらの講話と討論の間に、あなたの主要な関心が何であるか、世界と世界の中でのあなたの位置に、他の人間との関係に、政治的 経済的 社会的 宗教的なあなたの関係に本当に関心があるかどうか 見出していただけるでしょうか? 生の中でのあなたの深い主要な関心は何でしょうか? 金銭や地位や安全を手に入れる事でしょうか? どうかこの事を注意深く聞いてください。そのことがあなたの本当の、きわめて重要な、持続する関心であるなら、そのときあなたは、その様な関心の帰結を見なければなりません。それともあなたの関心は、世界と、世界とのあなたの関係を考えて、自分自身を変えることだけでなく、あなたの周りの世界も変えることでしょうか? そのときもまた、この事の意味するものを見なければなりません。それとも、他人との個人的な関係を非常に完全に、全体的に確立し、葛藤がないようにしたいという事でしょうか。そのときもまた、その帰結を理解しなければならないのです。おそらくあなたの関心はもっと難しい何か、測ることの出来るものと測ることが出来ないものというような、思考の場所が何であるかを見出そうとすること、でしょう。どの方向に私たちの関心が横たわっているか発見するためには、それに完全に打ち込む気になっているのでなければなりません。そして、環境によって、周囲の影響と私たち自身の好き嫌いによって、たまたま受容したり拒否したりし、それとただ遊ぶのであってはなりません。この事を完全に調べる用意が出来ているなら、その時、私たち自身の間に関係を確立することが出来ますね - ? 世界との、私たちの隣人との、親しい友人との関係を。

 そのことがこの数週間の間に私たちがしようとしている事です。私たちの主要な能力と関心がどこにあるか、そしてその関心が孤立しているのか、それとも全ての人類と関係しているのかどうかを見出すこと。それが孤立しており、あなた自身の特定の楽しみ、あなた自身の特定の救済、あなた自身の特定の安全、世界でのよい地位を求めているのなら、その時は、この事について一緒に話し合う中で、いったい その様な関心が何かの妥当性があるかどうか、何かの意義を持っているかどうかを見出す事が出来るでしょう。しかし、あなたの関心、あなたの深い目的は、まったく異なる生をどんなふうに生きるか、見出す事であるかもしれません。物事をあるがままに見て、暴力・無慈悲・敵意と憎しみ・腐敗とまったくの混乱を見て、あなたの目標は人間の心、あなたの心、われわれ一人一人の心が完全な変化をすることができるかどうか、その結果、人間として、外部の革命と内部の革命は離れてはいないとはいえ、あなた自身の中のみならず、外に向かっても根本的な革命を引き起こす事が出来るかどうかを見出す事かもしれません。

 私たちは物理的革命について話しているのではありません。暴力、爆弾、平和の名の下に人々を殺す事。それはまったく革命ではありません。それはただ子供じみた破壊にすぎません。

 あなたが世界中の暴力を観察したかどうか知りません。若い世代は、「美」と想像の世界に生きていて、最初は花をみんなに与えていました。それがうまく行かないとき、ドラッグを飲み、暴力的になりました。そして今私たちは完全な暴力の世界の中に住んでいます。この事をインドで、中東で、アメリカで見る事が出来ます。
 歳をとるにつれて私たちの能力は鈍くなり、私たちにとって世界は手に余ります。それゆえ、私たちの目的、意図、主要な関心を私たちの一人一人が見出す必要があります。一度これを見出してしまったらそれを論議する事が出来ます。そのとき、あなたの関心と話し手のそれが同じことであるなら、話し手は自分の意図、自分の要求、自分の関心を正確に知っているので、一緒に旅をする事が出来ます。そしてもし、あなたの関心がひどく違う何かであれば、その時は私たちの関係は難しくなります。しかしながら、あなたの関心が、私たちが人間として-技術者としてではなく-生きているこの世界を理解する事であるなら、その時、関係を樹立する事ができ、一緒にものごとを話す事ができます- 一緒に旅をする事が出来ます。さもないと、この講話と討論はほとんど意味がないでしょう。

 どうかこの事を心に留めておいてください。あなたは休日、山、丘と小川、旅行者の歓待に囲まれてここにいます。その全てにもかかわらず、私たちはまる一時間、一緒に座る機会を持っています。それはとても興味深いですね。一緒に一時間腰掛け、私たちの問題をどんな見せかけもなしに、どんな偽善もなしに、馬鹿げたうわべを装う事もなしに話しをする事は。まる一時間を共にする事は本当に途方もないことです。なぜなら、腰掛けて、まる一時間も誰かとまじめな問題を議論するのは、そんなにも稀であるからです。あなたは事務所に一日中行くかもしれませんが、私たち人間の問題を、ためらいがちに、おずおずと、大きな愛情と共に、ひとつの意見を他人に押し付けようとする事なしに調べるために、というのは私たちは意見や観念や理論を取り扱っているのではないからですが、真剣に検査するために、60分あるいはそれ以上を一緒に過ごす事ははるかに大きな意味があります。

 私たちはお互いの間の関係を樹立する事に関わっており、それは、私たちの相互の関心を、そしてその関心がいかに深いか、私たちの生の主要な問題を解決するためにどんなエネルギーを持っているかを知るときにのみ、樹立され得るのです。私たちの生は残りの世界と別ではありません。私たちは世界なのです。私たちは世界であり、世界は私たちである事を、私たちの誰一人 深く常に実感しているとは私は思いません。この事は深く私たちの中に根づかなければなりません。私たちはこの社会構造、この暴力を、私たちの欲望にしたがって、私たちの野心・貪欲・羨望にしたがって作ってしまったのであり、もし社会を変えるのであれば、私たちはまず、私たち自身を変えなければならないのです。そのことは問題全体への非常に単純で根本的な接近と思われます。しかし、社会の外部構造を変える事によって、爆弾をなげたり政治的な区別などを設ける事によって、私たちはみんな、何かの奇跡によって完璧な人類になると私たちは考えるのです。私は決してそうは行かないだろうと思います。私たちは世界であるという事を実感すること、言葉の上の声明や理論ではなく、実際に私たちのハートで感じる事は非常に難しいのです。なぜなら私たちの教育・文化は、私たちの存在が社会から分離していることを、個人として私たちは自分自身に責任を持つのであり、残りの世界に対してではないという事を、個人として理性の範囲内で、好きなように自由にすることが出来るという事を強調してきたからです。しかし私たちはまったく個人ではありません。私たちは住んでいる文化の結果なのです。個人とは断片化していない、全体である存在を意味します。私たちはそうではありません。ばらばらであり、断片化しており、私たち自身の中で矛盾の状態にあり、したがって、私たちはまったく個人ではありません。それゆえ、この全てを見るとき、生における 私たちの主要な関心は何でしょうか?

 それについてよく考える時間を、自分自身に与えなければなりません。一緒に静かに座って見出しましょう。あなたは非常に多くの経済的 社会的な問題、個人的な関係の問題を持っており、それらを全て、全体として完全に解決しようという事でしょうか? 解決することが出来ていない性的な問題を持っており、そこでそのことの解決があなたの主要な関心になっているという事でしょうか? 騒がしく、腐敗し、暴力的である世界の中で、平和に生きたいということでしょうか? それともあなたの関心は社会の改革の方向にあり、それに向かって献身しているのでしょうか? そしてもしそうであるなら、そのとき、その社会に対するあなたの関係は何でしょうか? それとも思考の限界に関心があるのでしょうか? 論理的であり、能力があるかもしれないけれども、思考は限定されています。思考はまた、技術的に素晴らしい物を生み出しており、創意があり実験的ですが、しかしそれはなお限定されています。あなたはより以上の何か、思考を超えた何かが-測ることの出来るものと、測ることの出来ないものがあるかどうかを見出したいのでしょうか? あなたはこれらの問題のすべてを見なければなりません。

質問者: あなたが「私たちは世界である」、そして「世界は私たちである」と言われるとき、何を意味しているのか私にはわかりません。

クリシュナムルティ: それがあなたの主要な問題でしょうか? 私が言うことを気にしないでください。あなたの問題は何でしょうか? あなたの主要な関心は何でしょうか? そしてその問題を解決するためのエネルギーを、能力を、強烈さをあなたは持っているでしょうか? あなたが見出すことが本当にとても重要です。話し手が言うことに関わらないでください。それは見当違いです。しかしあなた自身であなたの関心が何であるか見出し、どれだけ多くのエネルギー、情熱、活力を、その関心を追求することに注ぐ用意があるか見てください。なぜなら、その関心を追求するための情熱、強烈さを持っていないなら、そのとき-指摘してよろしければ-腐敗が起こっており、腐敗のあるところ死があるのです。

 ではどの目標から始めましょうか? 生のこの全体の運動、この人間存在全体はこのように分割できるでしょうか? 同意や不同意をしないでください、ただ聞いてください。まず最初に、社会的 経済的な安全を与える 物質的な関係の秩序を確立し、基礎をしいたあとで完備した家を建てて、そこから他のものへと移りますか? それとも、どこからあなたが始めようとも、二つは関連しているので、 二つは不可分なので、分割できない、断片化していない、一つの全体的な一単位の運動なのでしょうか?

 私たちは完全な物質的秩序を望みます。そして、外部のみならず内部にも、生の中に秩序を持たなければなりません。軍隊の秩序ではなく、古い世代の秩序でも若い世代の秩序でもない秩序を持たなければなりません-自由放任の社会は無秩序です、それは腐敗であり堕落です。年長の人たちのいわゆる秩序は、その戦争、その暴力、その差別と紳士気取りと共に実際に無秩序です-それもまた腐敗です。そこで、若者の自由放任の無秩序と年長者の「秩序ある」無秩序の両方を見て、両方を観察して、人は違う種類の秩序がなければならないということを実感します。そしてその秩序は、あらゆる人のために物質的な安全を保証しなければなりません。ただわずかばかりの富んだ人たちのためでなく、よい地位にいて能力のある人たちのためでもありません。あらゆる人のために物質的な安全がなければならないのです。

 ご存知のように、東部からの六百万以上の人々がインドへの国境を越えました。難民にとってのみならず、それ自体すでに貧乏であるその国にとって、そのことがどういう事なのか実感できますか? どうやってあなたはそこに秩序を樹立しますか? そして若い人たちはいわゆる自由放任の社会とともに、まったくの無秩序を作り出したのです。彼らは古い世代が無秩序を作り出したのであり、それとは何の関係も持ちたくないと言います。彼らは違った生き方を望み、そこで、まさに好きなように振る舞うのです。しかしそれもまた無秩序です。両方とも無秩序です。これを見てくださることを望みます!

 世界にいるあらゆる人間に対して、物質的秩序・物質的安全がなければならないことを人は実感します。この事は常に革命家、理想家、哲学者の夢であったのです。彼らは、物理的革命によって彼らの野心を達成できると信じました。それは決して成功しませんでした。非常に多くの革命がありましたが、そのことは決して起こりませんでした。共産主義者たちを、彼らの分裂、彼らの軍隊、全体主義的政府と共に見てください。残りの世界に起きている恐怖の全てを見てください。どこにも秩序はありません。人は物理的秩序がなければならない事を実感します。さて、その秩序は法の執行に、その文化と環境による社会の権威に依存するのでしょうか? それともそれはまったく人間に、私たち一人一人に、私たちの生き方、私たちの考え方、お互いとの関係の中での行動の仕方に依存するのでしょうか? それゆえ、そこから始めましょう。すなわち、破壊的な、混沌とした、暴力的な世界の中の人間として、どうやって私は、どうやってあなたは秩序をもたらしますか? その秩序はあなたに依拠するのでしょうか、それとも政治家に依拠するのでしょうか? その秩序はあなたに依拠するのでしょうか、それとも司祭、哲学者、ユートピァの理想に依拠するのでしょうか?

 もしあなたが司祭、政治家、理論、信念、理想を当てにするなら、何が起きるか見てください! そのとき、あなたは政治家によって、理論家によって、ユートピァの理想によって定められた規範に順応しているのです。したがって、そうであるあなたと、そうあるべきであるとあなたが考えるものとの間に葛藤があります。そしてその葛藤はこの暴力、この無秩序の一部なのです。そこで、社会の秩序はあなたによってのみもたらされる事が出来るということに、そして他の誰によってでもないということに気づくことができますか? 私たちの振る舞いによる、私たちの思考による、私たちの生き方によるその秩序-その全体に私たちは責任をとるべきです。そしてその秩序が何であるか見出すというそのことが、あなたの実際の、深い、持続する関心でしょうか? 人は世界が混乱と無秩序の中にあるとき、その苦しみと破壊と共に生きなければなりません-そしてこの混乱を理解するためには、全体的な、完全な秩序の中に生きなければなりません。あなたが関心があるなら、あなたのエネルギー、あなたの能力、あなたの情熱を、その秩序が何であるか見出すために注ぐ用意が出来ているなら、そのとき私たちはそれを調べる事が出来ます。そのとき私たちはこの事柄を一緒に共有する事が出来ます。あなたは覗いているただの部外者ではないでしょう。なぜなら、それはあなたの問題であり、あなたがそれを強化しなければならないからです! そのことがあなたの実際の、深い関心であるなら、そのときあなたは情熱的であるに違いありません。私は情欲や肉体的情熱、性的情熱について話しているのではありません。深い関心があるとき生じるあの情熱について話しているのです。

 例えば、悲しみが一体終わり得るのかどうかに深い関心がある(それが報酬をもたらすので上滑りにではなく、あなたが本当に見出したいので深い関心がある)とします-悲しみ、悲嘆、苦痛、苦悩、恐怖、それは私たちみんなが感じます。その悲しみが何時か終わる事が出来るなら、そのとき、本当の情熱、本当の強烈さはそのときのみ生じるという事をあなたは見出すでしょう。それで、この世界に生きながら、あなた自身で、その様な秩序をあなた自身のうちにもたらす事が出来るかどうかを、見出す事があなたの意向でしょうか-なぜなら、あなたは世界であり、世界はあなたであるからです。

質問者: 情熱を持つに違いないとあなたは言われました。しかし、始めの方で、年をとるにつれて私たちの情熱は鈍ると述べられました。それで私たちはどうすればいいでしょうか?

クリシュナムルティ: 私たちが年をとるにつれて、私たちの情熱は鈍くなるでしょうか? 多分私たちの肉体的情熱はそうなるでしょう。なぜなら、私たちの腺はそんなに効率よく働いてはいないからです。しかし、私たちは若い者や年寄りの情熱、またその情熱の無駄遣いについて話しているのではありません。私たちは関心、極めて重大な関心、あなたが 人間として 関わる主要な問題点について話しているのです-才能、技巧、能力ではなく。あなたがその様な深い関心を持ち、それと共に生きるなら、そのとき、それから情熱が生じます。そしてその情熱は、あなたが白髪であるからといって消えることはありません。

質問者: この深い関心を持ち、しかしまた、快楽への欲望を持つとき、何が起こるでしょうか?

クリシュナムルティ: 一方の手に快楽を持ち、もう一つの手に極めて重大な持続する関心を持つ。どうかそれを聞いてください! 快楽と極めて重大な関心の間に矛盾があるでしょうか? 私が、私自身のうちに、そして私のまわりの世界の中に秩序をもたらす事に重大な関心があるなら、そのとき、そのことが私の最大の深い快楽になります。私は素敵な車を持つかもしれません、少女や丘陵などなどを見るかもしれません。しかし、それらは皆通り過ぎて行くもの、私の深い喜びである極めて重大な関心とは、どんなふうにも矛盾しない些細な事柄です。私たちは快楽を私たち自身の中で分割しますよね。素敵な車を持てたら、美しい音楽を聴いたら素晴らしいだろうなと私たちは言います。音楽を聴くことには大きな喜びがあります。それはそのリズムと音色で神経を静め、平和にするかも知れません。それはあなたを遠い所へ、はるか彼方へ連れ去り、その中には大きな快楽があるかもしれません。しかし、それでも、その快楽はあなたの極めて重大な関心から注意をそらしません。何かにものすごい関心を持つとき、そのとき、まさにその関心があなたの生の主要な快楽になります。そして他の全ての快楽は二次的な些細なものになり、そのことの中に矛盾はありません。しかし、生の中で主要な関心が確かでないとき、そのとき様々な快楽や対象物によって種々の方向に引きつけられ、そのときには矛盾があります。

 それゆえ、人は見出さなければなりません。そして、これからのこの数週間の間に、あなたが、その中に情熱と快楽が存在する主要な関心が何であるか見出す事を期待します。

質問者: この秩序は、私たちの生の中で神が占めるべき場所を 神に与える事によってのみ生じる とお考えになりませんか? 今日、世界に存在する大混乱のすべては、私たちが神という観念なしに生きているからです。

クリシュナムルティ: 私たちの生の中にこの秩序をもたらすために、私たちは神に第一の場所を与えるべきでしょうか? 私たちが神を知らないなら、神を感じないなら、神と言われるあのものを理解していないなら、そのとき秩序は機械的に、うわべのものに、変わりやすいものになります。神はもっとも重要なものである、と質問者は言います。そしてそのとき、それから秩序が生じるであろうと。さて、私たちは探究しようとしています。私たちは否定しようとか主張しようとしているのではありません。見出そう、調べようとしているのです。私たちの主要な難しさは、私たち自身の文化にしたがって、私たち自身の背景、私たちの恐怖、私たちの快楽、私たちの安全の感覚などなどにしたがって、神が何であるか、私たち皆が解釈し想像することです。確かにそれは明白です。そしてこの究極の実在を私たちが知らず、それについての知識を持っていないなら、それは秩序をもたらすことが出来るでしょうか? 私たちは調べています。見出そうとしています。あるいは物理的秩序を、それは測ることが出来ますが、最初に確立し、それからその秩序を確立して、測ることの出来ないものを、その中では秩序はまったく異なったものですが、見出さなければならないのでしょうか?

 ‘あなた自身を神に合一させよ、然らば完全な秩序を持つであろう’。このことは世界中の宗教的な人々全ての見方になっています。そして各宗教、各宗派は神であるものをそれ自身の信仰にしたがって解釈し、その信仰の中で育てられ、その解釈を私たちは受け入れるのです。しかし、神というそのようなもの、とても言葉に出来ないもの、名付けられないものがあるかどうかを本当に見出したいなら、それが本当にあなたの主要な関心であるなら、そのとき、その関心そのものが秩序をもたらすのです。その実在を見出すためには、人は違って生きなければなりません:無慈悲ではない厳しさがなければなりません。愛がなければなりません。そして愛は、恐怖があるならば、あるいは心が快楽を求めているならば存在できません。それゆえ、その実在を見出すためには、人は自分自身、自己の構造と性質を理解しなければなりません。そしてその人自身の構造と性質は、思考によって測ることが出来ます。それは、思考はそれ自身の活動を認識できる、思考はそれが何を作り出したか、何を否定したか、何を受け入れたか見ることが出来るという意味で、測ることが出来るのです。そしてひとが思考の限界を実感するとき、そのとき、おそらく、思考の彼方にあるそれ、の中に入ることが出来るでしょう。

質問者: 親の問題は子供たちに何を教えるかということですが。

クリシュナムルティ: まず最初に、子供たちとの私たちの関係はどうでしょうか? 私たちは一緒に調べているということを、どうか心に留めておいてください。あなたが父親であるなら、事務所に行き晩遅く家に帰ります。母親であるなら、あなた自身の活動欲と精力、あなた自身の寂しさと惨めさ、あなた自身の愛することや愛されないことについての悩みを持っています。子供の面倒を見なければなりませんし、料理と食器洗いがあります。そして十分なお金がなければ、多分、あなたもまた生計を立てるために出掛けます。そのとき、子供たちとのあなたの関係はどうでしょうか? 何かの関係があるでしょうか?

 私たちは調べているのです、尋ねています。私は、あなたが何の関係も持っていないと言っているのではありません。それに、子供らが大きくなるとあなたは彼らを学校に委ね、そこで彼らは読み書きを教えられます。そこで、彼らもまた模倣し順応しており、同じように迷った他の子供たちと集団を形成します。あなたは自分自身の子供のみならず、威張り散らすギャングである他の子供の問題も持っているのです。そのとき、子供とのあなたの関係は何でしょうか? あなたは子供を持っており、彼らを正しく教育したいのです。いま、そのことが本当にあなたの深い、極めて重要な関心であるなら、教育の意味が何であるか見出さなければなりません。それは、子供たちが単に特定の種類の技術的知識を獲得することに過ぎないのでしょうか? ますます多くの人がおり それゆえますます仕事が少ないので、ますます競争的になりつつある世界の中で 生計を立てることができるために。この事すべてと、あなたは直面しなければなりません。

 世界はその主権政府、その陸軍と海軍、それらと進むすべての屠殺者と共に、国家によって分割されています。あなたが技術的知識の発達にのみ関わるなら、そのとき、そのすべての結果を見ること。心はますます機械的になり、あなたは生の全体の領域を無視します。子供たちが大きくなったとき、運が好ければ大学へ送られ、そこでますます形作られ、順応するように強制され、鳥かごに入れられてしまいます。そのことがあなたの関心なのでしょうか? そのことがあなたの責任なのでしょうか? そして子供たちは かごに入れられたくないので反抗します。どうかこのすべてを見てください。そして反抗が効果がないことが判明するとき、暴力があるのです。

 親として、どうやってあなたは子供を違ったふうに教育しようとしますか? 新しい種類の教育システムを作る事が出来ますか? あるいは、他の人の助けと共に、まったく異なる学校を始めることが出来ますか? それをするにはお金と、本当にひたむきな一団の人々がなければなりません。あなたが親であるなら、その様な学校が作り出されるのを見ることが、あなたの責任ではないでしょうか? それゆえ、そのために働かなければなりません。人生はおもちゃではありませんからね。さて、この事があなたの深い、極めて重大な関心でしょうか、それとも、親として、あなた自身の野心、貪欲、羨望に、事務所でのあなたの地位、より高い給料、より大きな家、より大きな車などを得る事にのみ関わりますか? あなたはこのすべてを見なければなりません。その結果、どこから教育は始まりますか? 学校で、それともあなたで始まりますか? それはあなたが、親として、人間として、いつもあなた自身を再教育しているか? ということです。

質問者: 教育に何か意味があるでしょうか、それとも私たちの子供はまさに私たちのようになってしまうのでしょうか?

クリシュナムルティ: 私は、ソクラテスが当時の若者について不平を言ったと告げられました。若者がマナーがなく年上のものを尊敬しない、彼らが自由放任になりつつある、その他何やかやを言ったのです。それは紀元前四世紀、アテネにおいてでした。そして私たちは今なお、私たちの子供について不平を言っています。そこで私たちは尋ねています。子供の教育は、彼らを私たちのように、他の猿たちのように訓練することにあるのでしょうか、それとも、教育は、技術的に教えることだけでなく、生の無視された分野全体を深く理解することを含むべきなのでしょうか? そのただの一断片だけでなく、生の全体。なぜなら私たちの生き方はそのすべてを無視し、ただ一つの断片にだけ関わるからです。したがって、世界に大混乱と暴力があるのです。

質問者: 私たちはただ一つの主要な関心を持つべきであるとおっしゃるのでしょうか? 私たちは多くの物事に、戦争、公害、等々に関心を持つべきではないでしょうか? 確かに、これらの物事に気づいていなければならないのではないでしょうか?

クリシュナムルティ: あなた、あなたの生の中に主要な関心があるとき、そのとき、あなたはあらゆる事に気づきます。秩序に関心があるとき、それはあなた自身の中の秩序のみならず、世界の中の秩序にも関心があるということです。あなたは戦争を望みません。秩序がないのでそれらの人たちに同情します。あなたは何が起こっているかわかり、したがって、公害、貧困、戦争に深い関心があります。

 戦争は国家によって、政府によって、政治家たちによって、宗教を宗派に分けること、等々によって作り出されます。私は秩序を、私自身の中の秩序のみならず、世界の中に秩序を望みます。そして秩序を望む中で、私のまわりのあらゆることの中に、私は秩序を見出さなければなりません。それは私が秩序のために働く、「秩序のためにひたむき、秩序について情熱的」であるに違いないということです。それは私が国家を持たないということです。おわかりでしょうか、あなた? 無秩序は暴力です。したがって、どうやって私自身の中にある暴力すべてを完全に終わらせるか、私は見出さなければなりません。

質問者: あなたはデモを信じますか?

クリシュナムルティ: あなたは、ヴェトナムの戦争に反対してデモをしている人たちのグループと一緒に、町を行ったり来たりします。ヴェトナムの戦争を終わらせたいのでしょうか、それともあらゆる戦争を終わらせたいのでしょうか? 全ての戦争を終わらせるためにデモをすることが出来ますか、それとも特定の戦争を終わらせるためにだけ、デモをする事が出来るのでしょうか? この事をよく考えてください、それにあなたの心を傾けてください。私は特定の戦争に反対してデモをすることが出来ます。しかし、私が、外部だけでなく、私自身の中でも、すべての戦争の終わることに関心があるなら、どういうわけでグループの人たちとデモをする事が出来るでしょうか? あなたも私がそうであるように、全ての戦争を終わらせたいのですか? おわかりでしょうか? それは国家がないこと、国境がないこと、言語の違いがないこと、宗教的な区別がないこと-そのことすべてを意味します。いいえ、あなた、デモをすることは出来ません、そのことを生きなければなりません。そしてそれを生きるとき、それ自身の中でそのことがデモなのです。

質問者: 愛と真実が秩序をもたらすのではないでしょうか?

クリシュナムルティ: しかし、あなたは愛をご存知でしょうか、あなた? 真実が何かご存知でしょうか? 嫉妬深く、貪欲で、野心的であるなら愛する事が出来るでしょうか? そして真実は固定した静的なものでしょうか、それともそれは、それへの如何なる道もない、活気があり、動いており、生きているものでしょうか? このことのすべてをあなた自身で見出さなければなりません。 

ザーネン 1971年7月18日 

(訳者: N.Goto)'98.01.掲載

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