クリシュナムルティを読む

ゴト改め皆様の読書室

気づき、知覚、洞察の性質

J.Krishnamurti Saanen 2nd Public Talk 18th July 1972

私たちは先日、宗教的、世俗的両方のさまざまな型の組織が何であるかを見ることがいかに重要であるかと言っていました。そして社会的構造、それらがいかに不可避的に腐敗しているか。それらのどれかに所属することは、自分の条件付けの荷を降ろすのを妨げるだけでなく、また物事を明瞭に見ることも妨げます。それゆえ私たちは完全に独りで立つことが重要であると言いました。どんなグループにも所属せず、どんな導師や教師にも従わず、まったく違う種類の社会をもたらすことができるように完全に独りで立つことができること。それが一昨日の朝、多かれ少なかれ私たちが言っていたことです。

あなたにその重要性が見えるかどうかわかりません。あなたが認識するか、この問題に洞察を持つかどうかわかりません。なぜなら、私たちのたいていは非常に混乱しており、どうしたらいいのか わからないでいるからです。余りにも多くの要求、圧力があり、それで私たちのたいていは誰かに寄りかかります-私たちは導かれたいのです。何をすべきか教えられたいのです。私たち自身の中に明晰さはなく、そしてもちろん、私は非常に明確である、悟りの、自由などなどの状態にある、と言う人たちがいます。そして私たち自身、不確かで混乱しているので、私たちは多かれ少なかれ、彼らの説得に応じ、そこでより条件付けられるだけでなく、新しい形の条件付けを受け入れるようになるのです。このことの重要性があなたにわかるかどうかわかりません。なぜなら、私たちがそのように条件づけられるなら、私たちの心がほとんど機械的になるということは必然的だからです-いいですか?

どうか、先日言ったように、私たちはこのことを共に分かち合っているのですね。私は本当にそのことを言っているのです。私達はこの問題を共に熟慮しているのであり、それゆえ、それを共に理解するのです。それは私があなたに何を考えるか、いかに考えるかを話しているのではなく、むしろ一緒に調査し、理解し、これらの問題全てに洞察を持ち、その結果、終わりにあなたは非常に明確であるということです。そのため、その明確さの中で、あなたは独りで立ちます。なぜなら、人はまったく違う種類の社会、まったく違う人間を創り出さなければ、もたらさなければならないからです。そして世界に何が起こっているか、人はますます多く見るので、そのような人間の必要はますます大きいのです。

そしてどんな団体にも、どんな政党、どんな共同体にも、どんな一組の教義、信念、結論にも属さないという意味で、本当に独りで立つことの出来る心だけが、そのような心だけが創造的であり得ます。何が創造なのか、創造的であるとはどういうことかというその問題を私達は調べなければならないと私は思います。なぜなら、それが明確でないなら、心をますます機械的にさせ、ますます依存させ、ますます付属させるそれらのものごとに私たちは従いがちだからです。あなたはこれがわかります。

そこで創造とは何でしょうか? 創造的であるとはどういうことでしょうか? なぜなら、創造的でないなら、必然的にあなたは断片化し、権威を受け入れ、逃避のあらゆるばかげたことに従うからです。そこで、この世界で創造的であるということはどういうことか、自分自身で非常に明確に理解しなければなりません-いいですか? あなたにとってその言葉が何を意味するか私は知りません。それは、確かに、新しい物理的なもの-新しい発明、新しい様式の演説、新しい絵、新しい種類の音楽、を創造する事ではありません。私達は独りでいる心、したがって創造的であることができる心について話しています-いいですか? 私達のたいていは葛藤の中にあります。私達のたいていは身体的のみならず環境、社会などの様々な要求に捕らえられています。私達は身体的にも心理的にもお互いに依存しており、それゆえ私達の全体の性質、心理的構造、は断片化しています-いいですか? これについてきていますか? どうかそれをあなた自身の中に観察してください。それ自身の中で断片化し、矛盾している心が創造的であり得るでしょうか? それとも、この断片化の継続の不在がある時、創造は起こるのでしょうか? あなたがこのすべてについてきているかどうかわかりません。それに興味がありますか? なぜなら、その言葉のより深い意味で私達が創造的でないなら、それを私達は調べようとしているのですが、深い欲求不満という中心的事実から私たちはきっと逃避してしまうからです-いいですか? そして逃避が、それが宗教的逃避、政治的逃避、性的逃避、いい仕事の中への逃避のいずれにせよ、非常に重要になります。それで逃避がすっかり重要になり、心が捉えられているこの断片化の要因ではないのです-いいですか? どうかこれをわかってください。そしてこれを自分自身の中に、いかに種々の欲望、要求によって引っ張られていて、自分が断片化し、矛盾しているかを観察するとき、どうやって心は自由であることが出来るでしょうか? その自由の中にのみ創造はあり得るのです。

まず最初に、洞察を持つということはどういうことか知っていますか? あなたが何かに洞察を持つとき、何が起こるか知っていますか? 例えば、あなたは宗教組織全体に洞察を持ちます。それを例に取りましょう。洞察。宗教組織全体の中に包含されているものを見てください。いかにそれは腐敗しているか、いかにそれは虚偽であるか。さて、その洞察をあなたは、心が条件づけられていない、どんな特定の信仰にも引き付けられていないときのみ持つことが出来ます-いいですか? ところで宗教的構造の中に洞察を持つとき、そのときあなたはそれから結論を引き出します-いいですか? 結論を引き出すとき、あなたはその洞察を打ち切っているのです-いいですか? 洞察を通して知覚した結論を引き出すとき、あなたはその洞察を終わりにしているのです。それは明瞭ですか?

さて、見てください。あなたがそれを理解するように、私はこれを非常に明確にしなければなりません。私は何かの政党に所属することを非常に明確に見ます。その政党は国家主義的で、まったく腐敗している人々、権力、地位、その他もろもろを望んで、政党の名の下に自分自身のために働いている人々によって運営されています。私はそれに洞察を持ちます。本の知識を通してではなく、読むことを通じてではなく、実際にそれを見ます。その知覚から私は結論を引き出します-いいですか? 私は全ての政治家、全ての政治は恐ろしいことを見ます。さて私が結論を引き出したとき、私はその洞察を打ち切ったのです。わかりますか? そこで私はその洞察からではなく、その結論から行動します。いいですか? そこで、結論からの私の行為は機械的です-これがわかりますか? そして機械的なので、そのとき私は言います。「機械的に生きることは何と恐ろしいことよ。私は逃げたい」。私は共同体に参加します。私は私がする何にでもなります。生の機械的過程から逃避すること、それは私が何かに洞察を持ったときに生じた結論の結果です。それをつかみましたか? その帰結を見ましたか? それゆえ結論に基づいて行動するとき、始めは私はそれに洞察を持ったかもしれないけれども、私の行動は絶えず機械的であるに違いありません-いいですか? さて、結論をまったく引き出さないで洞察のみであるなら、そのとき行為は非機械的です。したがってその行為は常に創造的です。常に新しいのです。それは常に生きています。それゆえ、洞察を持ち、結論を引き出さず、それで行為する心は、連続した洞察、絶え間ない洞察の運動の中にあります。それをつかみましたか? これを理解しましたか? 理解しなさい。言葉上ではなく実際にこの真実を見なさい。断崖の真実を見るように。

さて、その洞察を終わりにする公式のない、結論のない、この絶え間ない洞察は創造的行為です-それをつかみましたか? どうかそれを見て、あなた自身でそれに突っ込んでください。それは驚くほど美しく興味深いのです。あなたが洞察を持っているとき、いかに心が、それは思考ですが、不在であるか-わかりますか? 思考は洞察を持てません。心が思考の構造の中で機械的に働いていないときのみです。そのときあなたは洞察を持ちます-いいですか? 洞察を持つとき、思考は結論をその洞察から引き出します。そして思考が活動し、そして思考は機械的です-いいですか? 私たちはお互いにわかっているでしょうか? そこで、私は私自身、世界である私自身、そして世界は私で、私は世界ですが、その中への洞察、私自身の中へ洞察を持ち、それは世界に洞察を持つということですが、そしてそれから結論を引き出さないかどうかを見出さなければなりません。そして結論を引き出すなら、私は思考の構造である観念、イメージ、象徴に基づいて行動します。それゆえ私は常に私自身が洞察を持つのを妨げているのです。物事をそうであるままに理解するのを妨げているのです。そこで私は次の質問全体を調べなければなりません。知覚があるとき、なぜ思考が干渉し結論を引き出すのでしょうか? 私の質問を理解しましたか?

私は何かが真実であるのを知覚します。私はそれを自分を制御するために知覚します-これを注意深く聞いてください-自分を制御することは自分自身の中に分離をもたらします-いいですか? 制御者と制御されるもの、したがって葛藤。私はそのことに洞察を持ちます。それは真実です。しかし、私の思考する全過程は、自分は制御しなければならないという観念に条件づけられています。私の教育、私の宗教、私が住んでいる社会、家族構造、あらゆるものが私に「制御せよ」と言います。それは私に手渡されてきた結論です。それは私がまた獲得した結論でもあります。そして私はその結論にしたがって行動し、それは機械的です。それゆえ私は絶え間なく苦闘して生きます-いいですか? さて、私はこの制御の問題全体に洞察を持ちます。それで、私は心が無条件で、自由に観察することができたときに生じた洞察を持ちます。しかし、条件付けのこの全構造はなお残ります-このすべてについて来ていますか? そこで今「おやまあ、私はこの事を非常に明確に見てしまった。しかし、私はまた制御の習慣にも捕らえられている」と言う心があります。そこで戦いがあります-ついて来ていますか? 一つは機械的です。もうひとつは機械的でありません-いいですか? さて、なぜ思考は制御の全構造に執着するのでしょうか-ついてきていますか? なぜなら思考がこの制御の観念をもたらしたからです-いいですか? これがわかりますか? わからない?

制御するとはどういうことでしょうか? 第一に、それは抑圧を意味します-いいですか? 自分自身の中の分離、それは私の一部分、一断片が自分は他の断片を制御しなければならないと言うのです。その分離は思考によってつくり出されたのです-違う? あなたは明確ですか? 分離は思考によってつくり出されたのです。思考は言います。私は自分を制御しなければならない。なぜなら、さもないと環境、人々の言うことなどに私は順応しないだろう。したがって私は制御しなければならないと。そこで、思考は、記憶の反応であり、記憶は過去であり、記憶は経験、知識であり、それらは全て機械的なのですが、そのような巨大な力を持っています。そこで、知覚、洞察と条件付けの間に絶え間ない戦いがあります。

さて、心はどうすればいいでしょうか? わかりますか? これは私たちの問題なのです。あなたは新しい何かを見ますが、古いものがなおそこにあるのです-古い習慣、古い観念、信念、そういったものがものすごく待っています。さて、どうやって心は洞察を、いつも結論なしに保持したらいいでしょうか? なぜなら、私が結論を持つなら、それは機械的であるからです。結論は思考の結果です。記憶の結果です-いいですか? 記憶から、思考としての反応があるのです。そのときそれは機械的になります。そのときそれは古くなります。さてどうか私と実験してください。

質問がわかりますか? 洞察、新しい何かを見ること、まったく新しい、明快な、美しいものを見ることがあります。そして全ての記憶、経験、知識を伴なう過去があります。そしてそのことから、用心深い、見守っている、恐れている思考が、どんなふうに新しいものを古いものの中に運び込むかが。さて、この質問をあなたが見るとき、この問題を明確に見るとき、何が起こりますか? 私の質問を理解しましたか? 私たちは過去の結果です。若い世代は過去から離れようとし、そして新しい世界を自由に創造することができると思うかもしれませんが、彼らは過去から自由ではありません。彼らは過去に反応しており、それゆえ過去を継続しているのです。あなたがこれをわかっているかどうかわかりません-いいですか? それは過去との断絶ではなく、過去の修正された継続です。私はこれを見ます。私は思考が何をしたかが見えます。そしてまた私は、洞察は思考の不在がある時のみ存在するという明確な知覚があるのが非常にはっきりと見えます-いいですか? さて、あなたはどうやってこの問題を解決しますか? あなたがそれを考えたことがあるかどうか分かりません。おそらくあなたはそれについて初めて考えている、それを始めて熟視しているのです。そして、あなたはこれにどのように応答しますか、心はこれにどのように応答しますか?

問題を違ったふうに述べさせてください。心は知識を持たなければなりません。私はどこに住んでいるか知っていなければなりません。心は話す言葉を知っていなければなりません。思考を用いなければなりません-記憶、経験、知識の反応である思考、それは過去のものです。それは機能しなければなりません。さもなければあなたと私の間に伝達はないでしょう。私は自分の住んだ場所その他もろもろを知らないでしょうし、私が明確に考えることが出来ないなら、ばかげたことが始まります。そこで私は、機械的な世界の中で機能するために知識が必要であることが見えます-いいですか? ここから私の住んでいる場所に行くことは機械的です。言葉を話すことは機械的です。知識から行動することは機械的です。あらゆる種類の経験から行動することは機械的です。そして或る範囲までのその機械的過程は続かなければなりません。それは私の洞察です。それをつかみましたか? それゆえ洞察があるとき、知識と知識からの自由の間に矛盾はありません。私はそれをはっきりさせているかどうかなと思います。

私がいま持っている、知識は必要であるという洞察、そしてまた思考の不在があるときに生じる洞察があります。それゆえ、いつも知覚、洞察があります。矛盾ではなく。これがおわかりでしょうか。

私が伝えようと思っていることを言葉にする困難さをわかってください。私があなたに伝えたいことは、絶えず結論の上で機能している心は不可避的に機械的になり、そして機械的であるので、それはある種の錯覚、ある種の神話、ある種の宗教的曲芸の中に逃げ込むに違いないということです-いいですか? そしてあなたはそれの中に洞察を持ちます。「おやまあ、それは何と真実であることか」とあなたは言います。さて、あなたがその洞察から結論を引き出すなら、あなたは違う場所に動いたのですが、しかしそれはなお機械的です。あなたにそれが見えるかどうかわかりません。それで、結論なしに絶え間のない洞察を持つとき、心のその状態は創造的です-葛藤の中にあり、葛藤を通して絵や本を創作する心ではなく。おわかりですか? 葛藤の中にいる心ではありません。それは決して創造的では有り得ません。さて、あなたがそれが見えるなら、それは洞察ではないでしょうか? あなたはそれを見ることができます。それを取り上げましょう。

ほら、文学で、芸術の世界などなどで、人々が彼は偉大な芸術家だ、彼は偉大な創造的作家だと言います-いいですか? さて、文学、著者の背後を見るなら、彼が日常葛藤の中にあることが見えるでしょう-妻と、家族と、社会と。彼は野心的です。彼は貪欲です。権力、地位、名声を望みます。そして彼は書くことにある才能を持っています。緊張を通して、葛藤を通して、彼は非常によい本を書くかもしれません。しかし彼は言葉の深い意味で創造的ではありません。 そして私たちは、私たちの一人一人が言葉の深い意味で創造的であり得るかどうかを見ようとしているのです。表現の中ではなく、すなわち、本や詩を書くこと、あるいは何であれその中ではなくて、洞察を持つこと、そして決してその洞察から結論を引き出さないことの中で。それで、あなたは常に洞察から洞察に、行為から行為に動いているのです。それが自発的行為なのです。

さて、そのような心は明らかに独りであるにちがいありません-孤立しているのではない意味での独り。孤立と独りであることの間の違いがわかりますね? わかります? わからない? おやおや。私はあらゆる言葉を説明しなければならないのでしょうか? 私が自分の周りに抵抗の壁を築くとき、私は孤立しています-いいですか? 私は抵抗します。私は何かの批判を通して、新しい観念に対して抵抗します。私は恐れます。私は身を守りたいのです。私は傷つけられたくありません。したがって、それは私の行為の中に、自己中心的活動をもたらし、それは孤立する過程です。それは明瞭ですか? そして私たちのたいていは自分自身を孤立させています。私は傷つけられてきており、傷つけられることを望みません。その傷の記憶は残っており、したがって私は抵抗します。あるいはイエスやクリシュナ、あるいは何であれ信じます。そして私はどんな疑いの質問にも、私の信仰を批判するどんなものにも抵抗します。なぜなら、私は自分の信仰の中に安心を感じるからです-いいですか? それは孤立させます。その孤立は何千の人たちの、何百万の人たちのものかもしれませんが、しかしそれはなお孤立です。私はカソリックだと言うとき、私は私自身を孤立させているのです。共産主義者、あるいは何であれ、私自身を孤立させているのです。そして単独性はまったく違います。それは孤立の反対物ではなくて-これを注意深く聞いてください-孤立に洞察を持つことです。その洞察が単独性です-それをつかみましたか?

そこで、あなたが気づいたかどうかわかりませんが-それを私たちは別の機会にもっとずっと深く調べましょう-心はそれが死にかけている状態にあるとき、完全に独りです。死は完全な孤立の最終的状態であることをあなたは知っています-いいですか? あなたはあらゆるものを背後に残しつつあります。あなたの仕事、あなたの考えのすべて、あなたはそのことについての恐怖を通して完全に孤立しています-いいですか? そしてその孤立は死の全体の性質を理解することとはまったく違います。そのことに洞察を持つなら、あなたは独りです。あなたはこれをつかみつつあるでしょうか。あなたがこれを理解していないことが見えます。さしあたりそのことを離れましょう。それに戻りましょう。

そこで自由な心はいつも洞察を持っています。自由な心は結論を持たず、したがって非機械的です。そのような心は行為、非機械的な行為の中にあります。なぜなら、それは事実を、いつもあらゆるものの中に洞察を見るからです-いいですか? したがって、それは絶えず動いており、生きています。それゆえ、そのような心は常に若く新鮮です。そして傷つけられることができません。ところが機械的な心は傷つけられることができます。

そこで思考は、その上に私たちの文明の全てが築かれているのですが、機械的になります。私たちの文明のすべては機械的です。あなたがこの全てについてきているかどうかわかりません? したがって腐敗します。したがって、何かの組織に属することは腐敗すること、あるいは自分自身に腐敗することを許すことです-いいですか? さて、それは洞察ではないでしょうか? では、あなたはその洞察からもう一つの洞察に移動し、移動し続けることができるでしょうか? それが生きることです。したがって関係はまったく違ったものになります-いいですか? 私たちの関係は結論に基づいているのではないでしょうか? これをじっと見てください。どうかこのことの中に洞察を持ってください。するとあなたはいかに途方もない変化があなたの関係に起こるかが見えるでしょう-あなたがこのことの中に本当に洞察を持つなら。

まず第一に、私たちの関係は機械的です。それは私たちの関係は観念に、結論に、イメージに基づいているということです-違います? 私は妻についてイメージを持っています。あるいは彼女が私についてイメージを持っています-知識、結論、経験の意味でのイメージ-そしてその結論、知識、イメージから彼女は行動します。そして彼女はそのイメージ、結論に、他の人がするように、人間がするように、行動を通して付け加えます。それゆえ、関係は二つの結論の間にあるのです-あなたがわかるかどうかわかりません? したがって機械的です。それを愛と呼ぶかもしれませんが、一緒に眠るかもしれませんが、しかしそれは機械的です。機械的なので、そのときあなたは興奮を欲しがりますー宗教的興奮、心理的興奮、そしてあらゆる形の娯楽、この機械的関係からの逃避。あなたは離婚し、新しい何かを持つ別の女性あるいは男性を見つけようとします。だがそれもすぐに機械的になるのです-いいですか? それゆえ、私たちの関係はこの機械的過程に基づいているのです。さて、これの中に洞察を持つなら、それを実際にそうであるままに見るなら-快楽、いわゆる愛、いわゆる反目、欲求不満、あなたが彼女とあなた自身について築いたイメージ、結論を知っていますね。さて、あなたがそのことに洞察を持つなら、その全ては消え去るのではないですか? あなたはもはやイメージを持ちません。それは結論です。あなたがこの全てについてきているかな?と思います。そこであなたの関係は直接であり、イメージを通してではありません。そして私たちの関係は思考に、知性に基づいています-いいですか? それは機械的です。愛とは明らかに何の関係もありません。私は、妻を愛していると言うかもしれませんが、それは実際の事実ではありません。私は、彼女が私を攻撃していないときに彼女について持つイメージを愛します。その他もろもろを知っていますね。そこで、関係はイメージ、結論からの自由を意味し、それゆえ関係は責任と愛を意味するということを私は発見します-この全てがわかりますか? それは結論ではありません。わかりますか?

それゆえ、私の脳は様々な知識、経験、そして記憶、傷、イメージの倉庫です。それは思考です-いいですか? これをよく見てください。そして私の脳、それは私のもののみならずあなたのものでもあるのですが、私の脳は時間を通じて、進化を通じて、成長を通じて条件づけられています。そしてその機能は、当然、完全な安全の中で生きることです。さもなければそれは機能できません。そこでそれはそれ自身の周りに壁を、信念、教条、名声、権力、地位-その全て、として築きます。脳はそれを自分自身の周りに、完全に安全であるための手段として築くのです。あなたがこの全てをわかったかどうかわかりません? あなたはあなた自身の脳が作動しているのを見守ったことがありますか。そのとき、脳が怖れていないなら、それは著しく上手に、論理的に、正気で機能できることを見出すでしょう。それは脳が完全な安全を持っている時を意味します-いいですか? さて、完全な安全はあるでしょうか? そこで、完全な安全について確信がないので、そのとき、それは安全があると結論することをやりだします。それは結論を作ります。これについてきていますか? そこで結論がその安全になります。これは手に余りますか? この全てについてきていますか? 見てください、あなた、私は怖れています。本当に幸福で、楽しく味わいうる安全がある時のみ、私が機能できること、脳が機能できることがわかります。しかし、私は怖れているのでそれを楽しく味わうことができません。私は仕事、妻、これを失うかもしれません。わかりますか? 私は怖れています。それで、恐怖を通じて、私は自分のエネルギーを信念に、結論につぎ込みます。それが私の安全になります。したがって、その信念、その結論は、錯覚、神話、ナンセンスかもしれませんが、しかし、それは私の安全です。教会のやっていること全てを信じている人たち、そしてその全て、それは絶対的な神話です。そしてそれは私の安全です-いいですか? それで私は信念の中に、あるいは神経症的な振る舞いの中に安全を見出します-いいですか?-なぜなら、神経症的に振る舞うこともまた安全の一形式だからです。

それで、脳は完全な安全の中でのみ自由に、十分に機能出来ます-いいですか? それゆえ、それは安全を、それが実在であろうが虚偽であろうが、架空のものや非実体であろうが、持たなければなりません。それは安全を案出しようとします-いいですか? さて、安全は信念の中に、結論の中にないということを私は見ます。どんな人の中にも、どんな社会構造の中にも、どんな指導者の中にも、誰かに従うことの中にも。その中に安全はないということを私は見ます-いいですか? そこで私は安全を、見ることの中に、洞察を持つことの中に持ちます。あなたがそれがわかるかなと思います? 結論ではなく、洞察の中に安全があります。私はそれをあきらめます! それをつかみましたか? 私からでなく。あなた自身でそれを捕まえましたか、それはあなたにとって実際ですか?

そこで私たちはこの問題を持ちます。すなわち、心は、あるいは脳は、完全な秩序の中で、完全な安全の中で、完全な確かさの中でのみ機能できるというこの問題です。さもなければそれは錯乱してしまい、神経症的になります-いいですか? したがって、組織を信じ、指導者を信じて組織に所属する人は、私自身を含めて誰でも神経症的な行動であるということが見えます-いいですか? 心がこの全てを捨て去ったとき、心が持つ安全とは何でしょうか? わかりますか? その安全は英知をもたらす洞察の中にあります-いいですか? それをつかみましたか? 知識の中ではなく、経験の中ではなくて、知識の価値についての洞察の中に。それゆえ、その洞察は英知を持続する能力であり、その中に安全があるのです。したがってその英知、その洞察は決して怖れません。この全てをあなたがつかんだかどうかわかりません。つかみましたか、皆さん?

機会があるかどうかわかりませんが、多分次ぎお会いするとき、この恐怖、快楽、娯楽、そしてあの喜びと言われるものの問題全体を調べましょう。

しかし、もしも私たちが、私たちみんなが一緒に、この一つのことを理解できるなら、それはものすごいことでしょうに。気づきの性質、知覚の性質、洞察の性質-わかりますか? なぜなら、そのとき、心は自由に生きることができるからです-わかりますか? 生きる。葛藤の中で、戦いの中で、疑いの中で、恐怖、傷つけられることその他もろもろの中で生きるのではなく。悲惨。

さて、皆さん、何か質問がありますか?

質問者: 今日、私たちは世界の中で活動している、新しいイエスの波について聞きました。例えばアメリカで若い人たちの間で。精神的なパワー、キリスト、があって、現在この地球で活動しているのでしょうか?

クリシュナムルティ: ほら、私がインドの村に、人里離れたインドの村に住んでいたら、私はイエスについて決して聞かなかったのではないでしょうか? 私はイエスについては何も知らないでしょうが、しかし、私の特定のイエス、クリシュナを知っているでしょう-いいですか? あるいは、私がその中で育てられてきた、ある他の神格を-ついてきていますか? それゆえ、二千年の間イエス神話に条件づけられてきたそれらの人々は、それから逃れ、そしてそれに帰るのです。あなたはそれに気がついていましたか? 気がついていませんでしたか? あなたは一年の間イエスを捨て、二三年のうちに再びそれを拾い上げるのです。共産主義者や社会主義者になり、それをやめ、それから教会に戻るのです。あるいは新しい教団に参加するのです。そこで、あなたはそれを注意深く見ます。今、私たちはこのことの中に洞察を持ちましょう。

西洋全体が宗教的概念に条件づけられています。それは救世主その他もろもろのような、観念、思考、個人的崇拝に基づいています。インドと東洋においては、人々は異なる一連のイメージ、観念、結論によって、同様に条件づけられています-いいですか? おそらく彼らは決してイエスのことを聞いたことがないでしょう。仏教徒の世界ではイエスを考えさえしません。このすべてについてきていますか? それゆえ、宗教的概念で条件づけられた、世界の異なる部分があるのです-いいですか? そして質問者は尋ねます。新しい精神的な目覚めがあるのでしょうか? いいですか? 新しい精神的な波があるのでしょうか? 明らかに、宗教のインド的概念の波、わかりますね-あるいはキリスト教徒的概念、イエス-はまったく新しい波ではありません-いいですか? それは別の仕方で働いている、古い条件づけられた反応の継続です。だがそれはなお条件づけられた反応なのです-いいですか? 私に別の言い方で述べさせてください。

話し手がインドに行くと、巨大な追従者を持つ様々なグルがいます。そして追従者は「これは新しい波、新しい精神的な目覚めだ」と言います。そして彼らは彼らの古いグルに従っているので、それは新しくありません。それは違った形での古いもののただの繰り返しです-いいですか? それで、これがまさに世界中で起きているのです-宗教的に条件づけられた心の繰り返し。別の仕方で行動していたり、しないでいたり。私にとっては、個人的に、それはまったく精神的な目覚めではありません。このすべてについてきていますか? 明らかに、そうではあり得ません。私がヒンドゥー教徒になれば、あるいはヒンドゥー教徒であれば、私はヒンドゥー教に含まれるあらゆる曲芸をします。その中に新しいものは何もありません。私は古いがらくたを繰り返すことに戻っているのです。新しいものは自由の中に横たわっています。わかりますか? 条件付けられていることからの自由の中に。そのため、私はキリスト教徒、仏教徒、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒のいずれでもありません。

なぜなら、真実が何であるか見出すためには、心は自由でなければならないからです-いいですか? 何かの教会の、何かの救い主の、何かの本の権威を受け入れるなら、心は自由であることはできません。そして新しい精神的目覚めは、世界の中にいくらかの人が、少数でも多数でも、あるいはこの問題全体を深く実際に調べ、そして自分自身を完全に解放して完全に独りで立つものがいるときのみ可能です。なぜなら人が独りであり、人間の心が独りであるときのみ、そのとき、他の人と本当の関係を持つことができるからです。そして、時間を超えた、測ることを超えたあのものを見出すことができるのは、ふと出会うことができるのは、そのような心のみです。いいですか? それが本当の目覚めです。まったく新しい何かが起きます。そしてそれはあなたの責任です-いいですか? ただここに座って、同意したり、しなかったりして、わずかの観念を受け入れ、話し手のいうことを聞いているのではなく。しかし、あなたが、人間として、条件付けから自由であり、独りで立ち、それゆえ高潔、正直、徳の中に生きることを知るのはあなたの責任です-そしてそれが新しいものです。いいですか?

質問者:(聞き取れず)

クリシュナムルティ: 私たちの心は自動的で、限定され、小さく、機械的です。どうやって私はそれから自由であればいいでしょうか、と質問者は言います。私はちょうど説明した所です。よろしい。それを調べましょう。

私の心は取るに足りず、機械的で、小さいです。私はそれをどうすればいいでしょうか? いいですか? あなたの心が小さくて、取るに足りず、悩み、嫉妬深く、妬み、競争的で、比較しているのをあなたは知っているでしょうか? あなたはそれを知っているでしょうか? あなたは自分の心がそのようであることを気づいているでしょうか? はい? おお、後生だから時には正直になりましょう。いいです。私はそれに気づいています。私はどうすればいいでしょうか?

あなたが私はそれに気づいていると言うとき-その「気づいている」という言葉で、あなたは何を意味しているのでしょうか? あなたが、私の心は狭量であることを私は知っていると言うとき-その「知っている」という言葉であなたは何を意味しているのでしょうか? どうか、これは重要です。あなたの心を狭量でない他の人の心と比較したので、それを知っているのですか? 私の質問がわかりますか? 私は私の心が狭量で、狭く、愚かで、鈍く、大ばかで、神経症的だと言います。どうやって私はそれを知るのでしょう? 誰かが私に教えたから? 神経症的でないと私が考える、自由だと私が考える他の人の心と比較したから?-いいですか? それで、私は私の狭量なことを、比較を通じて、測定を通じて見出すのでしょうか? いいですか? さて、測定、比較は心を狭量にする要因です。あなたがこれが見えるかどうかわかりません。さて、これは洞察です。わかりますか? 私は私自身を、非常に賢く、明るく、澄んだ目をして素敵な容貌のあなたと比較します。おわかりですね、私自身をあなたと比較し、測ります。そして「おやまあ、私は何と鈍いことか」と言います。それはどういうことでしょうか? 比較を通して、私は自分が鈍いことを見出したのです。そしてこれは私の教育なのです-わかりますか? 私は自分を常に比較するよう教育されてきたのです-学校で、大学で、成長するにつれて自分を他の人と比較、測定するように。したがって、私は、いったいなぜ私は測定するのだろうか?と自分自身に言います。この全てについてきていますか? なぜ私は測定するのでしょう? 私が測定しなければ、私は鈍いでしょうか? 私はわかりません。私は比較を通じて、私自身は鈍いと思い込んだのです。どうかこれをわかってください。これは洞察です。そして、何世紀もの教育を通じて比較するように-宗教的に、経済的に、社会的に、あらゆるやり方で比較、測定するように-条件づけられた心が出来るでしょうか。その測定が終わることが出来るでしょうか? それが私の最初の質問です。それは、私が測定の愚かしさの中に洞察を持つなら、そのときのみそれは終わるのです。なぜ私は私自身をあなたと比較しなければならないのでしょうか? あなたは地上で最も素晴らしい人間、最も偉大な聖者、あるいは救い主であるかもしれませんが、なぜ私は私自身をあなたと比べなければならないのでしょうか? 私は比較するよう教育されてきたので、私自身をあなたと比較するのです-私の兄弟は私よりいい、私のおじは私よりずっと輝やいている-わかりますか? そこで私は洞察を持ち、それは比較するな、何と愚かな、と言います。さて、それに洞察を持ち、私は比較することを止めます。そのとき、私は何でしょうか? これについてきていますか? 私は何でしょうか? 私は知りません。いいですか? 私は本当に知らないのです。これについてきていますか? 誰かとあなた自身を比較しないとき、あなたは何ですか? あなたは見出そうとしているのではないでしょうか? いいですか? あなたは、私は狭量で、小さく、俗物根性で、限られて、何と醜く、これやあれだと言いません。私は知りません。それで、私は見出そうとしているのです-いいですか? 私が私は愚かで、鈍く、狭量であると言うとき、私は比較を通して結論に達していたのです。結論は洞察を終わらせます。それゆえ洞察は私に比較の無益さを示します。私は比較しようとしません。それは終わりです、永遠に。わかりますか? したがって、私は私が何であるか見ようとしています。私が比較を拒絶する瞬間、私はもはや愚かではありません。なぜなら比較の全構造に洞察を持ったからです。それをつかみましたか? それは英知です。それは取るに足りないことと偉大さの比較的な価値より偉大です。それをつかみましたか? よろしい。

(訳者: N.Goto)2000.04.掲載