クリシュナムルティを読む

ゴト改め皆様の読書室

生の中の聖なるもの

J.Krishnamurti Saanen 6th Public Dialogue 7th August 1972
The Sacred in Life

K: 私たちはもう二つの討論があります。今朝と明日の朝、合わせて二つの討論です。そこで今朝、何を話しましょうか?

質問: あなた、私は生の三分の一、生の約三分の一を、二十四時間の期間毎に眠って過ごします。そして歳を取るにつれて、私自身と調和して眠る能力はますます少なくなるように思われ、そのため、私の得る休息の質は、昼間のために十分に実際に備えていないのを見出しています。

K: あなたは睡眠の機能は何か討論したいのでしょうか?

質問: はい。

質問: 生存の問題を論議できるでしょうか?

K: 生存の問題―それはこの十日間私たちが話してきたことではないでしょうか?

質問: あなた、どうやって瞑想に十分なエネルギーを集めることが出来るでしょうか。

K: 瞑想に十分なエネルギーをどうやって集めるか。あなたは瞑想を討論したいのでしょうか? どうか確信をもってください。なぜならそれは非常に真面目な主題であるからです。そして「なるほど、それは話すのにもってこいの主題だ」というようなことを言わないでください。それに本当に興味があるなら、私たちはエネルギーの問題を調べさえすればいいのではなく、調和、そして睡眠の作用は何であるかを調べなければなりません―これらすべてが瞑想に含まれています。ただ足を組んで座り、何かの空想状態に陥るのではなく。それであなたは本当にこれを討論したいのでしょうか?

質問: はい。

質問: 同様に教育について話せるでしょうか?

K: 同様に教育を論じられないでしょうか?

質問: 一緒に

K: 誰を教育しているのでしょう? 子供たち、あるいは教育者?

質問: 両方

K: 待ってください―両方。教育者は子供を本当に教育することが出来るでしょうか? いいえ。あなたはいいえですか? 彼女は賛成です―いいえです。それは教育者は、部門の中でではなく、技術 科学 その他と分類するのではなく、生存の問題全体を理解しなければならないということです。彼は理解しなければなりません。本当によい、有能な、値打ちのある教育者であるつもりなら、彼は生存の問題全体を理解しなければなりません。さて、この三週間の間、私たちは生存について話してきたのです―私たちは多分教育という言葉に言及しませんでしたが、しかし、もし聞く気があるなら、教育者はこのテントの中のここで教育されています。ほかのことを続けましょう―それは私たちの教育の一部です。

質問: あなた、私たちはこの三週間、瞑想を話してきたのではないでしょうか?

K: ええ、あなた―彼は、この三週間の間、私たちは瞑想について話してきたのではないかと言っています。

質問: (聞き取れず)

K: 生存を理解する能力、それは個人、生物学上の構造、あるいは彼の性向、性格、特異性に依存しますか、あるいは生存の理解は...

質問: それは人間すべてに共通でしょうか。

K: それは人間すべてに共通でしょうか―私はそれはあらゆる生物に共通であると考えるべきでしたね。私は特定の性向、特定の特異性と人格を持っているかもしれませんが、確かに理解はそういったすべてを超えるに違いありません。そこでそれは共通です。一人の人の性格、身体などによって制限されません。

質問: 死について話せないでしょうか。

K: 死―あなたはとても若いのではないでしょうか? 彼女は死を討論することを望んでいます。

質問: そして健康と病気、事故について話したいのですが。

K: 健康、病気、事故、そのようなものすべて。さて、どうやってこういった全てをまとめられるでしょうか―健康、病気、死、教育、感情を殺す思考、睡眠、瞑想、そして死? どうやってこういった全てをまとめることができるでしょう?

質問: 好奇心。

K: 好奇心。それを全てに持ってください。

質問: それはすべて瞑想の中にあるのではないでしょうか?

質問: 私には、家は今も燃えています。そして世界には明確な目を持つ多くの人たちがいると感じています。しかし権力者は変化を引き起こすことができません。どうやって私たちは権力者の中に変化を引き起こすことができるでしょうか?

K: はい、わかります、奥様。明確に見る人たちがいますが、それは非常に限られていますし、権力者たちの中にどうやって影響を及ぼすか、どうやってハートのものである変化を引き起こすか。

質問: 自由の意味は何でしょうか?

K: 自由の意味は何でしょうか? 今たくさんのそれが。

質問: 悲しみと教育。

質問: 愛を持つにはイメージの終りで十分でしょうか?

K: イメージの終りは、それは愛を持つのに十分でしょうか? 承知しました、あなた。

質問: 瞑想は努力でしょうか?

K: はい、あなた、瞑想とよき古い努力。それをすべて投げ込みましょう、あなた、すべてを一緒にしましょう。

質問: あなた、見出そうという好奇心、欲求という非常に単純な一つのものを除いて、私たちは理解しようするあらゆる種類の動機づけを持っているように私には思われます。なぜ動機は私たちを妨げてこれらの問題を理解させないようにするのでしょうか、そしてなぜ私たちは見出そうという好奇心、欲求をそんなにも僅かしか持っていないのでしょうか?

K: ねえ、あなた、これらすべてのものは含まれるのではないでしょうか―好奇心、死、教育と悲しみ、睡眠、思考の全機構、感情、その他―これらすべてのことは中心的な論点を持っています。それらは私たちが出発することのできる中心点を持っています。それをしていいでしょうか?

さて、中心点、幹と多くの枝、葉を持つ根は何でしょうか。もしも私たちがこの生の全過程を、それは根ですが、理解できれば、そのとき私たちは、すべての枝を、すべての葉、枯れ葉と新しい葉、芽生える葉と古い葉を扱うでしょう、あるいは扱う能力を持っています。さて、中心的論点は何であると思いますか?

質問: 愛。

K: 飛躍しないでください。愛と言わないでください。それは愛かもしれませんが、少しの間考えてください。一度飲めばすべての問題に返事し、答え、解決するような英知をもたらす源、泉、水があるかどうか、私は見出したいのです。私の質問がおわかりですか?

私は見出したいのです。私の心は知識のレベルで生き、また同時に、知識を持ちながら未知を動かす両方をし、それでそれら両方が調和して一緒に生きている、一緒に動いていることができるかどうか? 私の質問がわかったでしょうか? さてそれを見出すことができるなら、そのとき私はあなたの質問すべてに答えているでしょう―あなたはあなた自身ですべての質問に答えているでしょう。既知のもの、数世紀にわたって蓄積された知識である既知のものをどうやって取り扱うか、そしてまた同時に、どうやって未知のものが動くことに入り、あるいは認め、そこで二つが調和して一緒に働くようにするか。それはあなたのすべての質問に答えるでしょうか?

質問: はい。

K: あまり早く「はい」と言い、それからあとで物理的生存のことを持ち出さないでください。私は問題を持っています。ひとは問題を持っています。すなわち、睡眠、死、教育、強い感情、熱情、思考によって制御され、そして思考は次第に強くなり、人の感情、感受性、直感、好奇心のすべてを破壊します―これらすべてが生の問題です。私が堕落していない、汚れていない、歪んでいない、非常に明確な心を持っているなら、そのとき、そのような心はあらゆるこれらの質問に答えるでしょう。

さて、その心は何でしょうか―それはこれだとか、あれであると言わないでください。描写は描写されたものではなく、言葉はものではないからです。そこで直面するどんな問題も解決し進むその心は何であるか見出したいのです。それは荷物になりません。際限なく心配する何かになりません。

さて、私たちは今朝しばらく、その心の性質が何であるかを見出そうとして過ごしていいでしょうか?―脳、感覚、肉体的組織全体、全体的なものである心、分割された身体、感情、知性、脳ではなくて、全体的存在。さてあなたはどうやって見出すことに取り掛かりますか? 生存は仕事、食事、衣服、住居を意味します。生存はこの労苦、この戦い、この苦闘、苦痛、心配、罪の意識、悲しみのすべてを意味します。生存は二人の人間の間の関係を意味します。生存は眠って過ごす時間を意味します。生存は愛を意味します。それは嫉妬、憎しみと解釈されています―そのすべて、それに睡眠、死、瞑想―そのすべてが含まれています。私は、本を読んだのではなく、私自身で見出したい。そして私はこのすべてについて何の本も読みたくないのです―私はその心が何であるか見出したいと思います。私は非常に好奇心があります。それを討論しましょうか? どうかそれについておざなりでないでください。

質問: はい。

クリシュナムルティ: 私はあなたの激励を望みません、おわかりですね―私はこれを私の歩みの中でしたいのです。さてどうやって私は見出しましょうか。非常に明確な心、葛藤を持たない心―理想ではなく、実際に葛藤を持たない―完全に静かであることができる心、眠るときそれ自身を新しくする、「ミー」の完全な不在の中で生きている心、「ミー」は葛藤の本質です。さて私はそれにどうやって取り組んだらいいでしょうか。なぜなら私は好奇心があります。私は十分なエネルギーを得ました。調査の結果が何であろうと、私は恐れていません。私はお金や食べ物を誰にも頼っていません―それは私に関心を抱かせません。あなたが私に食べ物をくれるなら受取るでしょう。くれないならそれで結構です。私は関心がありません。私の関心全部はこのことです。

質問: あなた、私は知りたがりません―私は脅えます。私はそれを獲得したいのです。

クリシュナムルティ: 彼は知りたがりませんがそれを獲得したいのです。私はそれを得たいと思いません。どうして私の愚かな小さい心がそれを獲得できるでしょうか―それはできないのではないでしょうか。なぜなら私が獲得の見地で、成功の見地で、何かを得る見地で考えるからです。それが私の動機です。しかし私は言います。私は動機を持っていない。私はそのような心がどのようなものであるか見たい。違いがわかりますね?

質問: そのようなものがあるなら。

クリシュナムルティ: 私は見出そうとしているのですよ、あなた。まさにそれです。それが存在するかどうか私は知りません。なぜなら、私は導師を持っていないからです。ありがたい。私は教師を持っていません。私は何の記述も、他人がそれについて何を言おうと受け入れません―私はそのすべてを無視します。それらは思い違いかもしれないし、彼らはペテン師であるかもしれません。そこで私はそれらに関心がありません。私はそのような心があるかどうか、ただ見出したいだけです。

さて、どんなふうに私は始めればいいでしょうか、どんなふうに出発すればいいでしょうか? どうか進んでください。私を助けてください。どこから私は出発すればいいでしょうか? 私が想像することのできる、それゆえ現実でない未知の結果から? あるいは、矛盾なしに、努力なしに、否定、犠牲、強いることなしに対応できるこの心を見出すことを、どこから始めればいいでしょうか? どこから私は始めればいいでしょうか?

質問: この問題すべてが何故起こったかを尋ねることによって始めては?

クリシュナムルティ: この問題すべてが何故生じるかを尋ねることによってあなたは始めたいのですか? 見てください、あなた、私たちは十日間、三週間にわたって話しました。そのすべてを経てきました。私はそのような心があるかどうか尋ねることを始めます。そして見出すためには私は知らないで始めなければなりません。私はそれについて一つも知りません。あなたは知っていますか? さあ、あなた。あなたは人々が何を言ったか読んだかもしれません。人々が何を言ったか聞いたかもしれません。私はそのすべてを捨てます。私が知っているすべては、私は知らない、です。あなたもまたその立場、そのような心が存在するかどうか、そしていったい、それに到ることができるのかどうか知らないという立場にいるでしょうか。あなたは知りません―振りをしないでください、それがすべてです。私は知りません。「私は知らない」と言う心は、それゆえ自由に調べることができます。

自由があります。それは最初の一歩で最後の一歩です。それをゆっくりと踏み出してください。私は知らないと私が言うとき、誰にも、何の環境にも、過去のものや未来のもののどちらにも頼っていません。あなたはその立場にいますか? でなければ、あなたは隠れた大師、隠れた案内、隠れた記憶を持っていて、知らない振りをしているのです。

質問: 知っているのか知らないのかを私は本当に知らないと私は思います。

クリシュナムルティ: どうか、このことはあまりにまじめなことです。言葉をもてあそばないでください。そのような心があるかどうか私は知らないと、あなたは正直に自分自身に言えますか? それゆえ私は自由に尋ねることができます。したがって探求は最初に自由であることを必要とします。最初に自由なこと、終りではなく―あなたの禅から自由なこと、あなたの瞑想、あなたの方式、あなたの神、あなたの神話、あなたの導師、あなたの概念から自由なこと―放棄してください、そういったすべてを放棄してください。あなたはキリスト教徒でも仏教徒でもイエスの信奉者でもありません―放棄してください。そのとき自由に探求することができます。それは心が恐れていない、一人であるのを恐れていないということです。

さて、私は調べるところです。なぜなら私は何が起きようとしているか知らないからです。私は結果を求めていません。私はそれを見つけることあるいは見つけないことを望んでいるのではありません。なぜなら私の主張は、心は自由に調べることができなければならない、したがって一瞬の歪みも決してあってはならないということだからです。動機があるとき歪みがあります。私は動機を持っていません、私は気にしていません。その心が存在するか、存在しないか気にしていません。私の調査は動機がなく、終りがなく、どんな権威も、過去も未来もまったく持っていません。したがってそれは自由に調べることができます。さあ、あなた、私と一緒に動いてくれますか。

さて、私は何を調べているのでしょうか? 私は自由に調べることができます―何を調べます? 睡眠? あなた方は皆とても黙っています。

質問: 自由に見ることができる?

クリシュナムルティ: 自由に見ることができる―何を見る? 木、山、緑、素晴らしい きらめく牧草地。

質問: それは機械的な...

クリシュナムルティ: 推測しないでください。

質問: 私は推測していません。何かがあるとき、それは空間を作り出すのが直ちに見えます。そして心はいつも空っぽでなければなりません。

クリシュナムルティ: 「私は知らない」と言うとき、心は空です。それが「私は調べている」と言うとき、それは「何を私は調べているのか」と言います。私は死、それは生の一部です、を調べているのでしょうか? 私は睡眠、それは生の一部です、を調べているのでしょうか? 仕事、恐怖、私は何を調べているのでしょうか?

質問: 私がうんざりしているという事実...

クリシュナムルティ: ええ。

質問: ...そして私は違ったふうに生きることができるかどうか私自身に尋ねています。そして私は本当に知りません。

クリシュナムルティ: あなたは知りません。それで何故あなたはそこから出発しないのでしょうか? 私はどうやって葛藤を終らせるか知りません。私は葛藤、矛盾、などなどの中に生きています―私たちはその細部のすべてを調べたくありません―私は葛藤の中に生きています。私はそのことを調べています。なぜなら私は何が起ころうとしているか知らないからです。待ってください。私は葛藤を調べています。それを超えることがいったいできるのかどうか私は本当に知らないと言う心でもって。しかしあなたは「私は本当に知らない。私は葛藤の中に生きているがどうやってそれを解決するか知らない」という心で出発しています。待ってください。一歩一歩それを調べてください。しかしあなたは知らないで出発します。したがってあなたは自由で出発します。

質問: さらに観念を調べるなら...

クリシュナムルティ: あなたは見出そうとしているのです、あなた―まだそれを言葉にしないでください。

質問: (聞き取れない)

クリシュナムルティ: いいえ、奥様。私達はこれらの質問をすべてしたのではないでしょうか。生は死、睡眠、葛藤、病気、教育、感情に対抗する思考、思考に対抗する感情です。私たちはあらゆるこれらの質問をしてきました。私はどこから出発すればいいでしょうかと言いました。このすべてを解決する中で―このすべてを理解する中で―私はどこから出発すればいいでしょうか? 私はここやあそこで始めるべきかどうか本当に知らない、それゆえ知らないで私はそれら全てに出会うと言います。それをわかりましたか? 私は知らないので、したがってそれらすべてを見る能力を持ちます。これは神秘化しているのではありません―どうやってあなた方皆と私は進むことができるでしょうか? ねえ、それを調べるなら、これは本当に素晴らしい主題なのです―二三人の人と一緒に多くをすることが出来るかもしれませんが、非常に多くの問題とその他何もかもでは、それは途方もなく困難になります。

私は瞑想が何であるか知りません。私は死が何であるか知りません。争いなしに、どんな種類の争いもなしに、生を生きることが出来るかどうか知りません。しかし私は自由に調べることができます。さて、私は自由であるので、調べようとしています。睡眠の意義は何でしょうか? 私はそれを取り上げています。私たちのたいていが持っている睡眠は妨害です。いいえ? それは妨害ではないでしょうか、夢を伴って、光景、悪夢を伴って、あらゆる種類の物事が起こっていないでしょうか?

質問: 他の種類の睡眠もまたあります。

クリシュナムルティ: あなたはそれを知っていますか?

質問: はい。

クリシュナムルティ: それは何ですか?

質問: 私が夢やら何やらを何も知らないとき。

クリシュナムルティ: そう、脳が夢に疲れたときそれは静かになります。それですか?

質問: ええ、たぶん―はい、そう思います。

クリシュナムルティ: あなたは調べているのですよ、思うことはできません。

質問: 彼は思わなければなりません。何故なら眠っている間のことを調べることはできないからです。彼は今は目覚めており、あなたに答えなければなりません。

クリシュナムルティ: それは私の言っていることです、あなた。ほら、私たちは睡眠の問題を調べているのです。私は私自身に尋ねています。昼の間、私の一日は妨害された生存です。私は一日中妨害されています。私は仕事をし、そこで私は侮辱されます。昼の間大きな混乱を受け入れます。そして夜、同じ運動が続いています。それは中断ではありません。それは夢に翻訳されます。

質問: 他の種類の睡眠があるかどうかあなたは尋ねました。

クリシュナムルティ: 私は知りません―私は見出そうとしています。昼間の間、私の生は妨害されていることが見えます。私の脳は葛藤の中にあります。私は人をこき使います。私は支配され、あるいは支配します―それは絶え間のない脅威、絶え間のない苦痛、絶え間のない快楽、等々です。それは私が就眠するとき、すなわち夢を見るとき、持ち込まれた同じ運動です。それで私は自分に言います。「私は調べている。昼間の間、私の生活に秩序をもたらすことが出来るだろうか、なぜなら、眠っているとき、夢が秩序をもたらす手段にであるからだ」。眠りに就く直前にときどき脳がこう言うのに気づいたことがありますか、「どんな種類の昼間を私は持っただろうか? 眠りに就く前に秩序をもたらす時だ」。それに気づいたことがありますか? おお、ない、私に告げないでください―元気を出して。あなた方のいくらかは気づいています。したがって眠る前、脳は秩序をしこうとします。秩序をしかないなら、そのとき眠っている間に脳は秩序をつくり出そうとします。それが夢、解釈、その他のすべてです。それは明確ですか? 私は調べています。私は何が起こるか知りたいと思いません―私はこの事実を見ます。

さて、私は昼間の間、生活に秩序をもたらすことが出来るでしょうか?―できないなら私は夢を見るでしょう。できないなら私の脳は休みを持たないでしょう。そして脳は休みを持たなければなりません。さもなければ、それは七十年働いている機械に似ています。それ自身をすり減らします。それゆえ、それは完全に休まなければなりません。

質問: 科学者たちは夢は必要であると言います。科学者たちはまた、夢の間に複数の状態があると言います。さて私たちは、心が非常に完全に疲れて、秩序をしこうとすることをあきらめてしまうかどうかについて調べることができます。実際にそれはあまりに疲れ切っています。

クリシュナムルティ: その通りです。

質問: そしてあなたが尋ねていることは、第三の種類の睡眠があるということだと思います。

クリシュナムルティ: ええ。私は昼間の間の私の生活を秩序の中に置きます。私は持ちます―あなたではなく。私にとっては、それはものすごく重要です。これ、葛藤を持たないこと。それで私は秩序を持ち、この秩序は、私が、無秩序がいかに滅茶苦茶であるか見るときのみ、もたらされることができます。理解と検討、無秩序の調査、を通して、秩序はもたらされます。秩序は私が規則正しくしたがう型、私が盲目的に受け入れて進む青写真ではありません。秩序は無秩序の洞察の理解から生まれるものです。したがって私の昼間の生活は規律正しいのです。次に夜。何が起こりますか? 睡眠はそのとき夢がありません。私はあなたに話していて、それゆえあなたはそれを受け入れているのでしょうか、それともそれはあなたにとって事実でしょうか?

質問: あなたは私たちに話しています。なぜならまさに事実...

クリシュナムルティ: したがって、それをそのままにしておいてください。

質問: それが私たちが昼間のこと、目がさめている状態について語ることしかできない理由です。

クリシュナムルティ: そのとおりです―それゆえ私の調査はあなたのものよりも更にいっそう進むことができます。なぜなら、私は思うのですが、私は秩序を生活にもたらしており、そして無秩序があるならどうすればいいか知っているからです。そして脳はそのとき、眠っているとき、絶対的に休んでいると私は言います。そして休んでいる間に何が起きるか、そしてさらに先は、それは私の探求です。あなたの探求ではありません。したがってそれには入りたくありません。何が起こるか聞くことはあなたにとってわくわくすることなのは知っていますが、それは価値がありません。

質問: ある科学者たちは誰かを目を覚まし続けておく実験をしました。

クリシュナムルティ: 知っています、あなた、私はそのすべてを知っています。

質問: そのとき彼らはその実験から夢を見なければならないと結論します。もちろんそれは昼間無秩序であるのを示しているだけです。そのときその人は...

クリシュナムルティ: そこで私の質問はこうです。あなたは、人生の目が覚めている間に秩序をしきましたか?

質問: 夢を見るので明らかにそうではありません。

クリシュナムルティ: したがって明らかにそうではありません。したがって何故あなたは秩序をしかないのですか?

質問: どうすればいいのか私は知りません。

クリシュナムルティ: 待ってください、私はあなたに告げているのです。

質問: しかしうまく処理すべきことが非常にたくさんあるのです。うまく処理すべき無秩序がありませんか?

クリシュナムルティ: いいえ、ありません。女性の方がうまく処理すべきことが非常にたくさんあると言います―ありません。あなたがうまく処理していることが無秩序です。

質問: おや、うまく処理すべきこの無秩序があります。うまく処理すべき無秩序があるのではないですか?

クリシュナムルティ: いいえ、無秩序は多くの形を持っていますがそれは無秩序です―性的無秩序、精神的無秩序、お互いとの私たちの関係の中の無秩序、私の身体の中の無秩序、無秩序―心理的、生理的、心身相関的、それが何であろうが―無秩序。何故私はそのすべてに秩序をもたらさないのでしょうか?

質問: あなた、どうするか私は知らないからです。それであなたに教えて欲しいのです。

クリシュナムルティ: それをあなたに示しましょう、あなた。あなたはこの無秩序に気づいていますか?

質問: はい。

クリシュナムルティ: ではそれを見守ってください、あなた。あなたはこの無秩序に気づいています―あなたはそれをどうしますか?

質問: (聞き取れず)

クリシュナムルティ: あなた自身の無秩序を見てください―あの紳士の無秩序ではなく。彼の無秩序はあなたの無秩序です。彼は言います。「私は無秩序の中にいる。私はそれをどうしたらいいか知らない」。何故知らないのです? 無秩序とは何でしょうか―矛盾、そうでないでしょうか? 基本的に、不調和―矛盾―私はあることを考え、別のことをします。あることを言い、違うやり方で行動します。私は感じ、感じてはなりません。私は平和を望み、暴力的です。それらはすべて矛盾です。したがって私の生は、それは無秩序ですが、矛盾の結果です。神経症の人が何かを信じ、それにしがみつくとき、その人にとって無秩序はありません。なぜなら彼は「これはそうなのだ」と言うからです。私はものすごくイエスや仏陀を信じ、それで終りです―私は無秩序を持っていません。なぜならそれは私には現実であり、他のあらゆるものは非現実であるからです。

そこで秩序がなければならないなら、あなたはあなたの生の中の無秩序を調べなければなりません。それは矛盾によってもたらされています。それは「あるがままのもの」を何かほかのものに変えることを願って、「あるがままのもの」を現に見ないことです。それが無秩序です。さあ、あなた。

質問: 歩いているとき、私は無秩序の本質である中心に気づいています。そしてそれを変えたいのです。私はなおそれを取り除き、秩序を見出したいのです。

クリシュナムルティ: 私が言うことをよく聞いてください―あなたはあなたの無秩序に気づいています。無秩序は基本的に矛盾を意味します。それは「あるがままのもの」に直面しないこと、見ないこと、そして「あるがままのもの」から離れることです。「あるがままのもの」から離れるとき、それが無秩序です。それを超えようとするとき、それが無秩序です。それを抑圧しようとするとき、それが無秩序です。しかし、あなたが「あるがままのもの」を見るとき、あなたはそれを超えるためのすべてのエネルギーを持ちます。それが秩序です。わかりましたか―私の言葉の上の説明ではなく、実際に、それに真剣に取り組みましたか。

質問: あなた、妥協についてはどうでしょうか? それはときには必要です...

クリシュナムルティ: 妥協についてはどうか―それはときには必要です。よろしい、妥協。何故あなたはそれを問題にするのでしょうか?―私はズボンをはくのに妥協しなければなりません。革靴をはかなければならないとき、妥協しなければなりません。何故あなたは妥協を問題にするのでしょうか―妥協してはならないという原則を持っているから?

質問: さて...

クリシュナムルティ: 待ってください―それをどこまでも追求しましょう。ひとは小さなことについて妥協できます。しかし戦争は国家主義、原因の一つ、によって引き起こされるという事実が見えるとき、妥協がありますか? そこに何かの妥協がありますか?

質問: はい。

クリシュナムルティ: 何ですって?

質問: はい。あなたが戦わないなら、結果は彼らがパスポートと国籍を取り上げます。

クリシュナムルティ: そのときはパスポートを取り上げさせましょう。しかし幸運にも彼らは私に一つ与えました。そしておまえは旅行できないと言うなら、よろしい、私は旅行しません。私はいるところに留まります。

質問: しかし私は飢えるかもしれません。

クリシュナムルティ: 飢えるなら飢えます。よろしい―あなた方はひどく脅えています。移りましょう。それで私は生活、昼間の生活、目がさめている時間の中に秩序をもたらしました。秩序があり、したがって脳は絶対的に静かであり、その状態の中で腐敗しません。そして目が覚めるとき、活力が得られました―それはあなたのものではなくて、私が言っていることです。

さて、私は知らないので調べています―私は瞑想を調べています。それは何を意味するのでしょうか? 私は最初に、心は絶対的に静かでなければならないことを見ます。なぜならそれが静かでないなら、明確に見ることができないからです。それがすべてです。

質問: (聞き取れない)

クリシュナムルティ: いいえ、あなたの言うことを傾聴したいのなら、私はあなたの言っていることを聞かなくてはならないことがわかります―私は気を散らすことはできません。私はあなたの言うことを傾聴したい、したがって私の注意は努力を要しません。何故なら好奇心があるから、あなたの言いたいことを見出そうと熱心だからです。したがって努力はありません。聞くためには、見るためには、心は完全に静かでなければならないということが非常に明確に見えます。それがすべてです。そして私の関心はあなたのいうことを傾聴することです。私の関心は明確に見ることです。したがって心は静かです。

質問: 私たちはある困難に入りつつあるように思いますが...

クリシュナムルティ: 多くの困難。

質問: ...この時点において、私たちは矛盾を言葉として話し始めているからです。聞くためには、心は静かですが、聞いている、何を聞いている―音? 静かさを強調するその音―そこで、もう一度。それであなたは、聞くためには心は静かでなければならないと言いました。しかしそれははっきりと矛盾です―聞くために静かなことは。

クリシュナムルティ: いいえ、あなた。

質問: 言葉は矛盾していますが現実ではありません。

クリシュナムルティ: よろしい、あなたがそれを理解したのなら、そのときそれは単純です。明確に見るためには...

質問: ...心に色があってはなりません。

クリシュナムルティ: それがすべてです、あなた。そして心を静かにさせることは馬鹿げています。心を静かであるように強いることは馬鹿げています―それは静かなのではありません。また、心を静かにする方式にしたがうことは絶対的に愚かです―それがもっとも偉大な導師によって与えられようが、最低の導師によってであろうが。

そこで私は見ます。瞑想の中への私の探求の中で、私は見ます。静かである心の性質の洞察があります。あなたは洞察を持ちますか? いいえ? あなたは持っていない、持っている? 何故持っていない? 木、あなたの女友達、山を見たいなら、他の人たちが言っていることを聞きたいなら、あなたは静かであるに違いないのではないでしょうか? 困難は何でしょうか? したがってあなたの困難はこうです、あなたは聞きたいのではありません。見たいのではありません。

質問: 一瞬の間見ます。次にそれは消えてしまいます。

クリシュナムルティ: 何故それは消えるのでしょう―あなたはそれを一瞬の間見ます、それは消えます。よろしい、それを消えさせてください。あなたはすべてのものを持ちたいのではないでしょうか? あなたは非常に貪欲です。知覚のただの一秒で充分です。

それで私は瞑想を調べています。私は私の身体が静かで、くつろいでいなければならないのを見ます。そのときそのくつろぎの状態の中で、血液はより容易に脳に行きます。したがって人々は種々の姿勢で座ることを、ほら、足を組んで座ること、そういったあらゆるゲームを唱導します。あるいは横になったり何かをしたり、歩いたりできます。それは問題ではありません。それで身体は敏感で、生き生きして、すばやく、しなやかでなければならないのではないでしょうか? あなたの身体はすばやく、しなやかで、敏感ですか? 明らかにそうではありません。なぜならあなたは食べ過ぎ、充分体操せず、喫煙、飲酒―し続けます。そしてなお、「さて、私は日常の生活を続けている。私は静かな心が欲しい。それにどうやって取り組むか、私に教えてください」と言います。それゆえあなたはあなたの快楽すべてを望み、そして他の快楽を獲得するのです。こういったすべてはあまりに子供じみています! さて、問題はこうです。思考は静かであることができるでしょうか? 心は思考、考える機構全体を意味します。どうやって思考は静かであればいいでしょうか?

質問: 本当に観察することに興味があるとき思考は静かであると、あなたはついさっき言いました。

クリシュナムルティ: はい、あなた、私は検討しています―あなたの思考は静かですか?

質問: いいえ。

クリシュナムルティ: したがってあなたは探求していないのです。

質問: そのとおりです。ただそこに座っている私の一部があります。

クリシュナムルティ: したがってあなたは探求していないのです―私は探求していると言います。私は言います。思考は静かであり、必要なとき論理的に、正気に、非個人的に、生き生きと働くことが、そして残りの時間―働いているすべての時間ではなく、静かであることができるでしょうか?

質問: あなた。探求しているなら、それは既に静かです。

クリシュナムルティ: あなた、あなたがこのことをしているなら、思考は静かです。しかしあなたはそれをしていないのではないでしょうか? いいえ、したがって私たちは探求しているのです―私はあなたのために探求しています。見てください、私たちの生のすべては考えることに費やされているのではないでしょうか? 私たちの生の大部分は思考の活動です。思考は、意識的あるいは無意識的に際限なく進み続けます。それはそうですか、そうでないですか? さてどうやってあなたはこの機構をしばらく終りにしますか?

質問: (聞き取れない)

クリシュナムルティ: したがってあなたはそれをどうしますか―それゆえ話さないでください。私は見出したい。私は思考がいつも続かなければならないのかどうか見出すために、それに心血を注ぎたいのです。あるいは私は「二つの思考の間に間隙があるだろうか。あるいは思考は異なる形をとる一つの連続した運動なのだろうか?」と言います。あなたは探求していません。あなたはこういったことを何も、一度もしたことがないのです。

質問: 思考の間に間隙があります。

クリシュナムルティ: 二つの思考の間に間隙があります。女性の方がそうだと言います。私はその間隙を知っていますと彼女は言います。さてその間隙に何が起こりますか? それは飽きたことによる間隙でしょうか―どうか調べてください―はい とか いいえと言わないでください―飽きたことによる、退屈による、白昼夢による間隙、それともそれは意識のある間隙でしょうか?

質問: (聞き取れない)

クリシュナムルティ: 私はあなたのために質問しているのです。私のためではなく。

質問: あなたはそれを皆のために尋ねているのではない?

クリシュナムルティ: 私はここにいる皆のために尋ねています。

質問: それならあなたはあなたのために尋ねています。それはあなたのためです。私たちは一緒に動いているでしょうか?

クリシュナムルティ: いいえ、一緒に動いていません。単純な理由のためです。あなたはこの問題を決して調べたことがありません。心は、それは思考の道具です、それは記憶、経験、知識、そういったすべてである思考です―いつも働いているのでしょうかどうでしょうか? そして私はあなたのために調べていると言います。あなたはこの思考が自然に終る時間を少しでも見つけますか? あるいは二つの思考の間に間隙がありますか? あるいはその間隙は怠惰、怠慢、疲労であるのか、それともあなたはこの間隙に気づいているのでしょうか? そしてこの間隙に気づいているなら、そのとき何が起こりますか?

質問: その間隙にはエネルギーがあります―それがエネルギーであるものです。

クリシュナムルティ: エネルギーがその間隙の中にある。また他の思考を取り上げるために? あなたは推測しているのですか? 不幸にも―これは私たちの悩みです―あなたはこれを調べていません。

質問: 私たちはどんな解答もあなたの言うことも同時に認識します。

クリシュナムルティ: それゆえあなたはそれを認識します。

質問: 私が関係する限り、あなたの言っていることはこうです。私が心全体と私の得たあらゆるものを探求するためにつぎ込むなら、そのとき私の心は静かです。

クリシュナムルティ: 私はそれを言いませんでした、あなた。私は単純に言いました。あなたが誰かの言うことを聞きたいなら、あなたはかなり静かでなければならないのではないでしょうか? それがすべてです。

質問: (聞き取れず)

クリシュナムルティ: 待ってください。私は聞きたいのです、聞きます、私は聞きたいのではなく―言葉なしの聞く事があるでしょうか?―

質問: あるかもしれません。

クリシュナムルティ: 私はそれを引き渡します。実験してください。あなた。それをいまやってください。言葉なしに聞くことができるかどうか見出してください。その聞くことの性質が何か見出してください。そしてその性質が想像されたものか実際のものか見出してください。

質問: あなた、これをしようとするとき、私の持っている弱点は、心がそれ自身に指示を与えることです。

クリシュナムルティ: ええ、あなた、それは思考の一部です。おわかりですね、あなたが一度も「瞑想」という言葉を聞いたことがなければなあと思います。あなたが一度も静かであるとはどんなことか聞いたことがなければなあと思います。あなたが一度も、心が静かなとき、その向こうに起こるかもしれないことを聞いたことがなければなあと思います。もしもあなたが一度もこれらのことを何も聞いたことがなくて、ありのままのあなたの生を―ありのままの―すなわち、私たちの葛藤、私たちの悲惨、私たちの悲しみを処理するだけであるなら、それの解決のなかに、他のもの(the other)が起こるかもしれないでしょうに。しかしあなたはそれを解決していませんが、他のものを望んでいます。それが私が、もしもあなたが知ることなしに始めることができたらなあ、と言う理由です。私は思考によって触れられていない実在があるかどうか知りません―私は本当に知らないのです。私はそのように宗教的な心があるかどうか、本当に知らないのです―その言葉の正統的な意味においてではなく―宗教的、聖なるものを見ることができるそれ。生の中に神聖な何かがあるでしょうか? これを探求しましょうか? 生の中に神聖なものがあるかどうか見出すために、私たちは一緒にこのことを調べることができるでしょうか? 私たちがそれを見出さないなら生は無意味になります。いいえ?

質問: 多分、それが生が無意味である理由でしょう。今そうであり、私は他に何も知りません。

クリシュナムルティ: あなた方皆さんは知りません、動けません。見てください、私は進みます。私は生の中に聖なる何かがあるかどうか見出したい―人間がつくり出したイメージの中で神聖なのではなく、神聖なことがあるという観念の中でではなく、宗教的な本や世間の偶像の中でではなく。なぜならそのすべては人間によって組み立てられてきたからです。イエス、仏陀、彼らは皆思考によって、苦悩の中にある、絶望の中にある、凄まじい悲しみと苦痛と恐怖の中にある思考によって組み立てられてきたのです。それゆえ、思考は「それは神聖だ」と言うのです。それは明瞭ではないでしょうか? そして私は、明らかにそれは神聖ではないと言います。私は以前ある友人を知っていました―ある日森の中を歩いていたとき、彼は人間の顔を持った一切れの木を見つけました。そこで彼はそれを家に持ち帰り、マントルピースの上に置きました。それを眺め、何と途方もないものであるかと言いました。何故ならそれは活力を持っていたからです―雨、その上を歩く人がその形を作り出しました。そしてある日、それ、その木切れに花を持って行き、その側に置きました。するとそれはなおいっそう美しく見えました。それで毎日彼は花を加え、徐々に、一年もすると、それは彼の人生でもっとも神聖なものになったのです。

したがってそれは神聖ではありません。私はその木片を、祭壇を組み立てるように、最も神聖なものにすることができます。あるいは、ご存知のように、キリスト教徒、彼らの神話、彼らの偶像はただ心の空想の産物にすぎません。それは神聖ではありません。私は生の中に神聖な何かがあるかどうか見出したい。すなわち、生、死の中に、愛の中に。私たちは一緒に歩いているでしょうか? さてどうやって見出しますか? なぜなら、私は、その美の発見がないなら生はむしろ浅薄で空虚になることを見るからです。私は多くのものを発明することができます。何かについて果てしなく瞑想しながら座っていることができます。それはすべてとてもとても浅薄で、むしろ子供じみて愚かになります。そこで私は去れ、と言います。私はそのすべてを押しやります。では何が神聖でしょうか? 愛は神聖でしょうか―心配、恐怖、嫉妬を持つ、支配する、所有する愛。愛と呼ばれる、性、快楽、苦痛、苦悩、そのすべてである人間の関係―それは神聖でしょうか? 私は知りません―あなたはどう思いますか?

質問: 明らかにそうではありません。

クリシュナムルティ: 明らかにそうではない、何故?

質問: 何故ならあなたがそれを私たちに示したからです。

クリシュナムルティ: 私はそれを示しませんでした、あなた、それを見守ってください。あなたは何故と言います。私はあなたに示しましょう。あの木片は神聖になりました。それゆえ思考はそれを神聖にします。思考は愛を現状のものにしました。それゆえ思考は何も神聖にすることはできません。さあ、あなた。それが仏陀、キリスト、クリシュナであろうが、何であろうが、観念―思考は何も神聖にすることはできません。この事の美しさがおわかりですね、あなた。それを見出すために、それに思いがけず出会うために―感情、思考は決して木を美しく、山を美しく、あなたの顔を愛らしくすることはできません、思考はそれをそうすることができません。したがって思考、それは記憶の反応です、測定可能な思考は決して神聖ではあり得ません。

それで聖なるものは思考がない瞬間です。そしてそのとき、思考は「私は測定する。そしてそれをもっと欲しい」と言います。そのときそれは快楽になります。そして思考は際限なく快楽を追求します。それゆえ、すべての寺院、すべての教会、すべてのモスクは思考によって快楽のために組み立てられており、したがってその中に神聖なものは何もありません。

質問: どうすれば出来る...

クリシュナムルティ: 待ってください、私はそれをあなたに示そうとしています。そこで心は思考なしにあることが、そして必要なときに思考を用いることが出来るでしょうか? それは思考がない心が思考を使用し、思考と共に生きることが出来るということです。調和して。一つのものともう一つのものではなく。そしてこれが瞑想です。そのため心は思い違いがありません。そして思い違いはあなたが達成することを望むとき起こります。あなたが「私はそれを獲得しなければならない」と言うとき、するとそのとき、あなたは獲得するものを発明することができ、それを得たと思います。しかし、常にあなたがマントルピースの上のあの木切れを思い出すことが出来るなら―おわかりですか?

それゆえ私の心、それゆえ私の心全体が神聖です―その内容が神聖なのではなく。私はあなたがこのすべてと出会っているかどうかなと思います―完全に空である心のその性質。そしてその空虚、空間、静寂から思考は作動できます。これはすべて私の描写です、わかりますか―それはあなたのではありません。

さて、私たちの僅かの人がこれを一緒に見るなら、そしてそれが私のやあなたのものではないなら、しかしそれはそうなのですが、そのとき私たちは新しい世代をつくり出します。そしてそのときあなたは人々を変えることに、権力にある人々の心を変えることに悩まされないでしょう。彼らは変える価値がありません。権力にあるどんな人も腐敗しています。

私たちの誰かは一緒に旅をしたでしょうか? ある点まで。それは充分でしょうか?

質問: (聞き取れず)

クリシュナムルティ: 彼らをして破壊させましょう。彼らは破壊しています。

質問: (聞き取れず)

クリシュナムルティ: 彼らは世界を破壊しています。全ての政治家は一緒になって世界を破壊しています。私たちは何をしようとしているのでしょう―彼らを一掃しますか? あなたと私は彼らに対して投票します―90%の人々はその種のことを望んでいます。彼らは権力、地位、名声を望んでいます。私たちは、私達自身のハートを変えることなしに、他人のハートを変えることを望んでいます。他人について悩むことなく、あなた自身で始めてください。それは決まり文句に聞こえますがそうではありません。

質問: 私はある点を明らかにしたいのです。あなたは、私はそう思うのですが、何も神聖ではないと言いました。そしてそのときあなたは快楽の追求について言い始め、私はどんなふうにしてあなたがそれを結び付けたかわかりませんでした。

クリシュナムルティ: 私はそれを覚えていません、あなた。私はそれを繰り返すことができません。

質問: あなたは聖なるものへの探求を話していました。そのときあなたは続けて、何も神聖でないと言いました。

クリシュナムルティ: 知っています―わかりました。理解しました。見てください、あなた。幸福や大きな喜びがあるとき、あなたはたくさん学びます。心が幸福で、くつろいで、喜んでいるときのみ、あなたはたくさん学びます。そして聖なるものを探求する中で、たぶんあなたが見る一瞬、心が何ものであることもなしに、それ自身を完全に見る一瞬があります。その瞬間はもっとも途方もない瞬間です。そしてそれを見て、思考がやってきて「私はそれをもっと持たなければならない」と言います。そしてそれが快楽の始まりです。喜びではなく。おわかりですか? 喜びは快楽を超えた何かです。しかし一度香りをかぎそれを味合うとき、思考は「私はそれをもっと持たなければならない」と言います。これを知っていませんか? あなたはセックスを持ちました。そして一度でもそれを持ったなら思考が「それを続けよう」と言います。美しい夕焼けを見、その瞬間思考はまったくありません。完全なその美しさの喜びがあります。そのとき数分おくれて思考がやってきて、「あの山に戻ろう、それはそんなに素晴らしいものだった」と言います。それゆえ思考は常に苦痛を避け、快楽を追求しているのです。これは非常に単純です。

聖なるものを見出すためには、心はそれ自身の全部の内容を知らなければなりません。そしてその内容が意識をつくります。おわかりですか、あなた。意識はその内容です。内容がないなら他の何かがあります。ないでしょうか? 私の心の内容が悩み、憤り、成就を望むこと、苦しさ、心配、恐怖、そんなにも多くの事への恐れ、これやあれをしたいと思うことであるなら、それが私の意識の内容です。内容がないとき、まったく違った何かがあります。そして私たちは内容の一つを聖なるものにしようとします。おわかりですか? それが全部の内容、意識や無意識を知らなければならない理由です。そしてそれは別の問題です。

(訳者: N.Goto)2001.04.掲載