クリシュナムルティを読む

ゴト改め皆様の読書室

心を変える瞑想

J.Krishnamurti Madras 4th Public Talk 15th December 1974
Meditation Which Transforms the Mind

私たちはこの三週間の間、聞くという問題、見る術と学ぶ術について一緒に話しあってきました。言われていることに少々の注意を払った人たちは、自分の環境、社会的条件、貧困、退廃、人々の集団全部の堕落に気づいたに違いありません。人はこの国が経ている堕落の事実のみならず、また新たに生まれ変わるとはどういうことか、単に思考の玩具に過ぎないのではなく、それ自身にはいり込み、探究し、思考の不幸と破壊的な性質のすべてを持つ思考のすべての運動を、独力で発見することができる心を持つということはどういうことか、気づいたに違いありません。そしてまたそのような心の意味だけでなく、深さと美と実際を理解するためには、宗教とは何かという探究を通じてそれに到達しなければなりません。多分私たちは有益に、宗教でないものを最初に見ることができるでしょう。明らかにそれは思考の産物ではありません。

私たちの宗教はすべて、西洋であろうが東洋であろうが思考に基づいています。その救世主、その導師、そのシステム、その信仰と教義、儀式、そして毎日耽る取るに足りない小さな礼式のすべてを伴う宗教的構造の全体は、本質的に思考の産物です。私たちの宗教のすべては思考の運動に、恐怖、希望、そして私たちが存在すると願うものへの信仰の感覚に基づいています。そういったすべては、非常に注意深く念入りに観察するなら、この思考の運動の産物であり、それは物質的です。それゆえこれらの宗教の中には精神的なものは絶対に何もないのです。いいですか?

私たちはこういったすべてを共有し、探索しています。受容したり否定したりしているのではなく、共に探究し、それゆえお互いに伝達しています。私たちが自分の私的な思考、意見、判断を持つなら、お互いに伝達すること、交流することはできません。そしてそれは調査することを、探究すること、探査することを不可能にします。そして私たちがいましているように、言葉の上だけでなく言葉を超えて、共に伝達しあっているときは、言葉を、言葉の意味を理解するだけでなく、また言葉の間に横たわっているものを見いだし、行間を読むことができるように努め、言葉の背後にある特別な深い意味を聞くことが必要です。そういったすべてが伝達の中に含まれています。それは生の問題に関わっている真剣な二人の友として、一緒に熟考することです。

それで世界の中に進行している事を観察するとき、アラブとユダヤの間、ヒンズーとイスラムの間などなどの政治的、経済的分離の世界の中だけでなく、また様々な宗教をも見るとき、それは決して人類に平和をもたらしませんでした。とんでもない。そしてそれらの分裂、そしてそれらは本質的に思考に基づいているので分裂するに違いありません。それで宗教とは何でしょうか? その言葉で私たちは何を意味しているのでしょうか? 私たちはそうでないものを知っています-宗教の名前で進行するサーカスのすべて。どうか侮辱されたと思わないでください、私たちはただ事実を述べているだけです。すべての教会と寺院とモスク、思考によって組み立てられてきたすべての建物は、美しいけれども-いくつかの礼拝堂、いくつかのモスク、いくつかの寺院は途方もなく美しいのですが、しかしそれは真実とはまったく何の関係もありません。そして人が本当に、言葉の上でなく、そういったすべてを捨てるとき、誰かがそれを捨てなければならないと言うから、あるいはあなたより良く知っているとあなたの感じる誰かが「これは宗教ではない」と言うからではありません、そのときはあなたは捨てていません、それは単に権威を受け入れているに過ぎないのです。そして精神的な事柄であなたが権威を受け入れるとき、それは腐敗、堕落の本質そのものです。いいですか? あなたはなお私と共にいますか? 言葉の上で、それとも実際に?

あなたがそのすべてのナンセンス、それは意味がないということですが、を捨てるとき、そのとき、真剣であるなら、宗教が何を意味するか私たちは見いだし始めることができます。おわかりですか? 儀式、祭式、寺院とあなたが毎日の醜い生活に対する補償として行なう誓い。あなたは寺に行くことを誓い、そして補償としてあらゆる種類のことをします。そういったすべて-信仰、教義、儀式、私的礼拝は、宗教がそうであるものの真実と何の関係もありません。

そして人がまじめであるなら、宗教は新しい文化の核であるので、宗教なしに文化はありません。そして世界に宗教はないので文化はありません。あなたは美しい絵を持ち、すばらしい文学作品を書き、とても並外れた絵を描き、すばらしい音楽を作曲するかも知れませんが、それは文化ではありません。それは心の新しい性質をもたらしません。そして私たちの周りの世界全体が崩壊、堕落しているとき、私たちは心の新しい性質を必要とします。そして、ある人々がしようとしているように、単に古い宗教を復活させることは無意味です。しかし、そうでなければなりませんが、深く関心がある人間は、もし世界に、 飢餓に、戦争に、崩壊に、偽善に、進行している不正直の全体に関心があるなら、ひとはまったくのまじめさの中で、宗教的な心の真の意義が何であるか見いださなければなりません。なぜなら新しい文化をもたらすことができるのはそのような心だけであるからです。ある宗教的な心ではなく、一人のひとの宗教的な心ではなく、人間の宗教的な心です。それはあなたです、それは一緒にということです。昔は、歴史の中を観察し周りのものごとを見つめたなら、宗教的指導者がありました。その言葉そのものがまさに宗教の否定です-宗教的世界の指導者。おわかりですか? なぜなら宗教的な事柄の中に運動があるとき、その運動そのものが堕落の要因であるからです。なぜならそのときあなたは従っているからです、単に他の人の権威を受け入れているに過ぎないからです。権威の性質と構造を理解するとき、それに洞察をもつとき、精神的な事柄の中には話し手のそれを含めて権威はありません。

宗教は自分自身の心で、聖なるものを理解すること、発見することを意味します。そしてまた、永遠と謂うようなものがあるかどうかを。宗教は美、善を、それはまた卓越を意味するのですが、そして聖なるものを見いだすこと、あるいは出会うことを意味します。そして思考によって触れられていないものの探究を意味します。なぜなら思考は時間であり、思考は測ることであるからです。そして名前がなく、時間のないもの、始めと終わりを持っていないものがあるのかどうか、あるいはないのかどうかを見いだすこと、そのすべてが宗教です。そしてすでに言ったように、その心の性質なしには、それは爆発的であり、黙従的ではないのですが、心のその性質なしにはあなたは絶対に必要である文化、少数の人によってではなく宗教的な心によってもたらされた文化を持つことはできません。それはあなた自身への光、他の人の光でなくあなた自身で見いだした光を意味します。そういったすべてが宗教に含まれています。

それゆえ、瞑想は聖なるものの探究です。そしてまた見いだすこと-いや、これらは言葉です、永遠があるかどうかを見いだすことはできません-それを感じること、実際に時間を越えた心のその性質を持つことです。それで、それが私達が一緒にしようとしていることです。私たちは一緒に瞑想しようとしているのではありません、それは別の偽物、想像の、ロマンチックなナンセンスです。しかし、瞑想するとはどういうことか、そして神聖であるそのものに出会い、そこから時間を越えているかも知れないものに移ることのできる、自由の能力を持つということはどういうことか、私たちは一緒に見いだそうとしています。

これは非常に複雑な問題です。そして複雑なものは、心が実際に非常に単純であるとき、幼稚ではなく、未熟ではなく、単純であるときのみ理解することができます。しかしあなた方の大抵はおそらく本を読んだり、どこかの導師のところに行ったりしました。あるいは瞑想のあなた自身の形を考案したりし、それゆえ既に、あなたが瞑想と呼んでいるものを背負わされています。そして瞑想が何であるか見いだすためには、あなたは探究する必要があります、自分の特定の形の瞑想を脇にやる必要がああリます。さもなければ自分がしていることが本物か虚偽か見いだすことができません。さて、人が聖と呼んでもよいものを探究するためには、あなたはとても、どんな本も、 どんな指導者も、 どんな導師も、 どんな方式の権威も受け入れることはできません。なぜならあなたの心は自由に探究することが、自由に見出すことができなければならないからです。そしてあなたはこれをすることができるでしょうか? あなたがここに座って聞いているときに、瞑想について知っているすべてを脇にやることができるでしょうか? そしてそれは、あなたの心が日課の中で、習慣の中で、機械的に作動しているため非常に困難でしょう。そしてそのように慣れているものを捨てることは、途方もなく困難になります。なぜなら心は機械的に行動するように条件付けられており、この機械的習慣を捨てることは極度に困難であるからです。その危険を見る必要があります。そのとき、あなたがその危険を見るなら、そのときそれは力を持ちません。危険な動物を見るとき、あなたはそれをそのままにしておきます。それは力を持ちません。危険が存在するのはあなたが知らないときだけです。

私は瞑想が何であるか見いだしたい、なぜなら私は、他の人たちがそれについて言ったことを何も知らないからです。そして私は他の人たちがそれについて言ったことを知りたくありません。私が虚栄心が強いということではなく、私がうぬぼれているということではなく、私が最初の経験を持ちたいということではなく、それらの人たちの言うことが妥当性を持っているかどうか知らないからです。彼らは私自身と同様に神経症的で、愚かで、狡猾で、当てにならず、幻想的、幻想に捕えられているかも知れません。私は探究している人間として話しています。私は個人的に自分自身について話していません。それゆえ私は人間、普通の人間です。そして現存する宗教は、その儀式、教義と迷信、権威、そのすべてと共に、正当性、意味、意義をまったく持っていないという実際を見ます。そのような心は「私は見いだしたい、私は瞑想するということはどういうことか見いだしたい」と言います。なぜなら、それはひょっとすると、聖なるものを示現する周囲、環境、雰囲気であるかもしれないからです。そこで私はああいったすべてを脇にやらなければなりません。そしてあなたもそうしていると思います。さもなければ私たちはお互いに伝達することができません。私たちが思考で組み立てたものすべての虚偽をあなた自身で見ない限り。それは、あなたは宗教と呼びますが、まったく何の意味も持っていないのです。そのことを見るなら、そのときあなたはこれらの事柄の中の権威をすべて捨てるでしょう-医師の権威ではありません。警官の権威ではありません。それは法に従っています。しかしあなたはどうしても法に従いません。あなたは利口すぎるのです。法を避けるあらゆる種類の曲がりくねったやり方をつくります。それはあなたの悲惨です。

それで瞑想とは何でしょうか? そしていったいなぜ人は瞑想すべきなのでしょうか? ところで瞑想という言葉はよく考えることを、熟考することを意味します。そしてまた瞑想は測る能力を意味します。そして測ることはこれとあれとの間の運動を意味します。それは比較を意味します。それは模倣を意味します。そういったすべてがその瞑想という言葉に含まれています。

それで私は見出したいのですが、心は測ることなしにあることができるでしょうか? おわかりですか? 心は思考の運動なしにあることができるでしょうか?、それは時間ですが。時間は測ることです。時間は方向です。時間、時計による時間があります、ここからそこへの運動としての時間があります、時間はここからそこへ行くのに必要です-必要な時間。時間は運動です。そして瞑想は時間の中の運動でしょうか? 運動としての時間は聖なるものを見出すことができるでしょうか? 私の質問がおわかりですか? 思考は物質的な過程だと私たちは言いました。そして瞑想が何であるかを探究するために、どんな場所を思考は持っているのでしょうか?-時間である思考、測定である思考、方向である思考、それはここからそこへです。思考はどんな場所を持っているのでしょうか? どうか。それはいったい何かの場所を持っているでしょうか? それがどんな場所もまったく持っていないなら、そのとき心は思考をどうすればいいでしょうか? それは何かの場所をいったい持っているのでしょうか? それが場所をまったく持っていないなら、そのとき心は思考をどうすればいいでしょうか? それが瞑想の中に場所を持っていないなら、そのときあなたは、心が捕えられているこの途方もない思考の運動をどうしますか? 絶え間なく喋り続けている心、「私は達成しよう、私は獲得しよう、私は比較しているのだ」と言う心、それは何時も絶え間なく動いています。あなたはその思考をどうしますか? あなたはそれを否定することはできません、それはそこにあります。そこであなたは「私はそれを制御しよう、対象に、イメージに、私が聖であると考えるものに集中することを学び、そしてそれに留まり、あらゆるほかの思考を排除しよう」と言い始めます。それがあなたがやっていることです。そこで闘いが始まります。何かに集中しようとする苦闘、そして逸れる思考。この打ち続く絶え間ない苦闘。集中は、思考が高尚である、優れている、真実であるとして選んだものに思考を集中することを意味します。いいですか? それゆえ思考は観念、絵、イメージを投影しました。そして思考は「私はそれに集中しよう」と言います。そして集中の過程の中で、それは他のあらゆるものを排除するに違いありません。そして断片的である思考、その排除は断片化の運動です。

それゆえ、観念への、画像への、思考が必要と考える何かへの集中は、時間の中の運動、測定の運動、特定の方向への運動であり、したがってそれは断片的であるに違いありません。そこでそれを見て「私は集中すまい」と私は言います-おしまい、それは終わりです。

そこで瞑想の意味を探究している心は次の事実に出会います。思考は測ることであり、思考は時間の運動であり、思考は意志として方向を定めます。そして思考は本質的に断片であるので、なぜなら思考は記憶の反応であり、記憶は経験としての知識の集積であるから、それは過去のものであり、それゆえそれは断片です。思考は断片です。瞑想とは何かという探究の中で、ひとはこのことを発見します。

この思考の運動を、人はどうすればいいのでしょうか? それは制御されるべきでしょうか? そしてあなたがそれを制御しているなら、制御者は誰でしょうか? 思考者自身が思考ではないでしょうか? それゆえ制御者は制御されるものです。では思考を、この思考の運動をどうすればいいでしょうか? 心は思考をその正しい場所におく術を見出さなければなりません。即ち、知識は必要です。知識は経験としての思考の運動です。それゆえ思考は知識の分野、あるいは領域の中で必要です。車を運転するため、話すため、日々の仕事、技術などを行なうため、知識はそこで必要であり、思考は最も効率的に、明確に、非個人的に、その領域で機能しなければなりません。それゆえ瞑想が何であるか理解する中で、心は思考がその正しい場所を持っていることを発見しました。そして思考が正しい場所を持つことを思考が発見するとき、そのとき思考はもはや重要な事柄ではないことが見えるでしょう。

では次の質問はこうです。方式、方法、あなたがする様々な練習、それは何か妥当性を持っているでしょうか? それともそれは、思考の一部である機械的習慣の養成でしょうか? おわかりですか? なんといっても、あなたは瞑想の方式を持っているのではないでしょうか? 禅から現代に至る様々な瞑想の方式、あるいは瞑想の古代の方法や方式や練習。あなたが練習するとき、それは何を意味していますか? それは方向を意味します。いいですか? あなたは方向を定め、そしてその結果を得るために毎日練習しています-結果、導師、他の人が定めた本が、結果であるそれを据えました。それゆえあなたは明確な結果、固定した結果を得るために練習しているのです。もしそれが生きているものものであるなら、あなたはそれに到達するために練習できません。それは何時も動いています。それゆえあなたが方法を練習しているとき、それはあなたが方向を定め、それに向かって動いていることを意味しますが、その方向と結果は思考によって組み立てられているのです。それゆえあなたは思考の外にはいません。あなたは、なお、思考の運動の中にいます。いいですか?

それゆえあなたはそのとき見ます、その中に洞察を持ちます。それで方向がありません、それは意志のないことを意味します。意志は結局 欲望の強調、誇張です。いいですか? あなたは悟りを持ちたいと望みます。あなたは解脱や、解放、天国を、あるいはあなたがそれを言う何であれ、望みます。あなたはそれを望み、そしてそのために働きます。もしあなたがまじめであってそれをもてあそんでいないならば。おそらくもてあそんでいるのでしょう。しかしあなたがまじめなら、あなたはそのとき方向を定め、そして「その解脱、その天国、その解放を得るために、私は規則正しくこれらのことをしよう」と言います-目的が何であろうが、あなた自身で定めた決勝点は、なお思考の領域の範囲内に、物の領域の範囲内に、時間の領域の範囲内に、測ることの領域の範囲内にあります。それゆえあなたはまったく思考を離れていません。あなたはなおその中に捕えられています。そして瞑想を探究している心は、彼がこの事実に気づいており、したがって方式はなく、方法はなく、決勝点はなく、方向はなく、それゆえ導師はないのを見ます。

それに、私たちが言ったように、思考が聖なるものとして組み立てたものは、聖ではありません。それらは生に意義を与えるためのただの言葉です。なぜなら、あなたが生きているような生は神聖でないから、尊くないからです。尊いという語、H-O-L-Y は全体であることから来ています。それは健康、正気を意味し、したがって尊いのです。そのすべてがその語に含まれています。そこで心は-どうかこのすべてをわかってください-思考を通じて作動している心は、神聖なものを見つけることをどんなに熱望していても、なお時間の分野の中で、断片化の分野の中で行動しています。それゆえ、心は断片にされないで、全体であることができるでしょうか? これが瞑想が何であるかを理解することのすべての部分です。心はできるでしょうか、それは進化の産物、時間の産物、そんなにも多くの影響、そんなにも多くの傷、そんなにも多くの苦しみ、このような大きな悲しみ、大きな不安の産物です。心はそういったすべてに捕まっています。そしてそういったすべては思考の結果です。そして思考は、私たちが言ったように、その性質そのものによって断片的です。そして心はそれが今そうであるように、思考の結果です。それゆえ心は思考の運動から自由であることができるでしょうか? 心は完全に断片化されずにあることができるでしょうか? あなたは生を全体として見ることができるでしょうか? 心は全体であることができるでしょうか?、それは一つの断片もないことを意味します。したがってこのことでの精励が生じます。心はそれが精励するとき全体です。それは気遣いを持つことを意味します、大きな愛情、大きな愛を持つことを意味します。それは男と女の愛とは全く違います。

それゆえ全体である心は注意深く、それゆえ気遣います。そして深い、変わらない愛の感覚のこの性質を持っています。そのような心は全体です。瞑想が何であるか探究し始めるとき、あなたはそれに出会います。そのとき私たちは聖であるものを見出すことに進むことができます。どうか聞いてください、それはあなたの生です。違った生き方を見出すために、あなたのハートと心を傾注してください。それは心がすべての制御を放棄してしまっているときを意味します。それはあなたが、あらゆる欲望に、あらゆる好色な目配せや反応に、あらゆる快楽に、快楽の追求のあらゆる要求に負けて、好きなことをして生を送ることを意味しません。そうではなく、見出すこと、あなたが毎日の生を一つの制御もなしに生きることができるかどうかを見出すことを意味します。それは瞑想の一部です。それは人がこの注意の性質を持つ必要があることを意味します。その注意、それは思考の正しい場所について洞察をもたらしました。そして思考は断片的であり、そして制御があるところ制御者と制御されるものがあり、それは断片的です。それゆえ 一つの制御もない生き方を見出すためには、それは驚くべき注意、大きな規律を必要とします。あなたが慣れている規律ではありません、それは単なる抑制、制御、順応です。しかし私たちは学ぶことを意味している規律について話しているのです。規律という語は弟子という語から来ています。弟子はここでは学ぶということです。いまここでは教師も、弟子もありません。あなたが学んでいるなら、あなたが教師であり、あなたが弟子です。そしてその学んでいる行為そのものがそれ自身の秩序をもたらします。

さて、思考はそれ自身の場所、その正しい場所を見つけました。そこで心は物質的過程、それは思考です、としての運動をもはや背負わされていません。それは心が絶対的に静かであることを意味します。それは自然に静かであり、静かにさせられてではありません。静かにさせられたものは役に立ちません。たまたま静かであるもの、その静かさの中に、その空虚の中に、新しいものが起こることができるのです。

それで心は、あなたの心は、制御なしに、思考の運動なしに、絶対に静かであることができるでしょうか? あなたが実際に洞察-思考に正しい場所をもたらす洞察-を持つなら、心は自然に静かであるでしょう。そこから思考はその正しい場所を持ち、したがって心は静かです。静寂と静かという言葉が何を意味しているかおわかりでしょうか? ほら、ドラッグを用いることによって、マントラや言葉を繰り返すことによって、心を静かにさせることが出来ますね。継続して繰り返し、繰り返し、繰り返すなら、自然にあなたの心は静かになるでしょう。そのとき、そのような心は鈍く愚かな心です。そして二つの雑音の間の静寂があります。二つの鳥のさえずりの間の静寂があります。二つの思考の動きの間の静寂があります。夕べの静寂があります。鳥はその雑音、さえずりをしてねぐらに帰りました。そして木の葉の間にゆらぎがありません、そよ風がありません。絶対の静けさがあります。町の中でなく自然と共に戸外にいるとき、木と一緒にいるとき、あるいは川の岸に座っているとき、そこに静寂が大地に降り、そしてあなたはその静寂の一部です。それゆえさまざまな種類の静寂があります。しかし私達が今話している静寂、心の静けさ、その静寂は買うことができません、練習することができません。あなたが獲得する何か、報酬、醜い生への補償ではありません。それは醜い生が善い生に変容したときにのみあります。善いという言葉によって、私は多く持っていることではなく、善である生、その善の開花、美を意味しています。そのとき静寂が生じます。

そしてまた美とは何であるか探究する必要があります。美とは何でしょうか? あなたは今までにこの質問を調べたことがあるでしょうか? それとも、それを本の中に見つけて私に教えたり、あるいはその本が美はしかじかであると言っているのをお互いに教えあったりするのでしょうか。美とは何でしょうか? そこに座っているとき、この夕方の日没をあなたは見ましたか。日没は話し手の後にありました。それを見ましたか? その光と葉の上のその光の輝きを感じましたか? それともあなたは美は感覚の、感覚に訴えるものであり、そして聖なるものを追求している心は美に魅かれることはできない、美とは何の関係もないと思い、したがって自分自身の思考から善として投影したあなたの小さいイメージに集中するだけなのでしょうか。そこであなたは見出す必要があります。瞑想が何であるか見出したいなら、あなたは美は何であるか見出す必要があります。顔の中の美、性格の中の美-性格ではなく、性格は安っぽいものです、それは環境の反応によって決まり、その反応の育成が性格と呼ばれます。行為の美、振舞、行いの美、内面の美、歩き方、話し方、身ぶりの美、そういったすべては美です。そしてそれを持つことなしには、瞑想は単に逃避、補償、意味のない行為になります。そして質素の中の美があります、大きな厳粛さの中の美があります-僧の厳粛さではありません。秩序を持っている心の厳粛さ。秩序は、あなたがその中で生きている無秩序全体を理解するとき生じます。そしてその無秩序から自然に秩序が生じ、それが徳です。したがって徳、秩序は最高の厳粛さです。日に三度の食事の否定や断食、頭を剃ること、その他すべてのごたごたではなく。

それで秩序があります、それは美です。愛の美、思いやりの美があります。そしてまたきれいな街の、建物の建築上のいい形の美があります。木の美があります、うっとりするほど美しい葉、すばらしい大きな枝。そのすべてを見ることは美です。単に美術館に行き果てしなく美について語るに過ぎないのではなく。それで静かな心の静寂はその美の精髄です。そしてそれが静かであるので、それが思考の玩具でないので、そのときその静寂の中に不滅のもの、聖なるものが生じます。そして聖なるものの生じる中で、そのとき生は聖になります。あなたの生は聖になります。私たちの関係は聖になります。あらゆるものが聖になります。あなたが聖であるそのものに触れたので。

そしてまた私たちは瞑想の中に、永遠のもの、始めも終わりもないものがあるのか、それともないのか、見出さなければなりません。それはこういうことです、時間の領域の中で養成されてきた心、その心は悠久であるあのものを見出す、出会う、あるいは見ることができるでしょうか? それで、それは心が時間なしにあることができるかということを意味します-時間はここからそこに行くためやその他諸々のために必要ですが、その心ができるでしょうか、ここからそこに心理的ではなく物理的に行き、時間の中で作動しているまさにその同じ心、その心が時間なしにあることができるでしょうか? それはこういうことです、その心は過去なしに、現在なしに、未来なしにいられるでしょうか? その心は絶対の無の中にあることができるでしょうか? その語を恐れないで下さい。それは空であるので広大な空間を得ました。あなたは自分自身の心の中に、そこにいったい何らかの空間を持っているかどうか、観察したことが今までにあるでしょうか? ちょっとした空間、ほら、少々の空間? それともあらゆる物事で一杯ですか? あなたの心配で一杯ですか、あなたのセックスあるいはセックスのないことで、あなたの業績で、あなたの知識で、あなたの野心、恐怖で、あなたの苦悩、あなたの取るにたらないことで一杯ですか。そしてそのような心がどうして理解することや、あの存在の状態の中にあることや、あの巨大な空間を持つことができるでしょうか? 空間は常に巨大です。

そして日常生活の中で空間を持たない心は、とても永遠である、始めも終わりもないものに出会うことはできません。そしてそれが、瞑想が途方もなく重要になる理由です。あなた方皆が練習する瞑想ではありません。それは全く瞑想ではありません。しかし私たちが今話している瞑想が心を変えます。そして宗教的な心であるのはそのような心のみです。異なる文化、異なる生き方、異なる関係、神聖の感覚、したがって偉大な美と正直をもたらすことができるのは、そのような宗教的な心だけです。このすべては努力なしに、闘いなしに、犠牲なしに、制御なしに、自然に生じます。そしてこれが瞑想の始めであり終わりです。

質問者: 愛とは何でしょうか?

クリシュナムルティ: ここの紳士は愛とは何か知りたいと望んでいます。話し手が愛が何かを述べれば、あなたは愛を持つでしょうか? あなたが空腹なときに、あなたが食べようとしている食べ物を描写すれば、あなたは描写で満足するでしょうか? なぜあなたは愛が何であるか質問するのでしょうか、それはあなたが愛を持っていないことを意味します。あなたが愛を持っていないなら、愛が何であるか見出すことができるでしょうか? あなたができることのすべては、何が愛でないかを見出すことです。いいですか? 愛は嫉妬ではありません。あなたが力、地位を追求しているとき、あなたが性的快楽を追い求めているとき、愛はありません。あなたがするように、金を第一に置くとき、愛はありません。そこであなたは、愛が何であるか見出すために、あなたはあなたの野心をやめますか? あなたの嫉妬をやめますか? あなたの競争的攻撃性をやめますか? それは従順になるということではありません。あなたにとってそれらは愛より遥に重要なので、あなたはやめないのではないかと私は気がかりです。そして保証しますが、愛を持たないなら、あなたは思いやりを持ちません。あなたの社会は消えるよう運命づけられており、あなたの堕落は保証されています。そしてあなたは「はい、私は気にしません、私は私の野心、私の貪欲、私の金と共に進みましょう」と言います。あなたが関わっていることのすべては、あなた自身と共にあります。

質問者: 見るために、よく見るために、心は唯一の道具です。しかし心は過去のものからできています。

クリシュナムルティ: よく見るために、見るために、心は私たちの唯一の道具であり、その道具は過去のもので組み立てられています。したがって、どうやって私は過去のものなしに見たらいいでしょうか? あなたが木を見るとき、何が起きますか? ただちにあなたは木に命名したり、その木についての自分の偏見や楽しみを導入します。それゆえあなたとその木の間には、言葉のスクリーン、偏見のスクリーン、知識のスクリーン、あなたの欲望のスクリーンがあります。それゆえあなたはけっして、けっしてその木を見ないでしょう。あなたはあなたのスクリーンを脇にやることができるでしょうか、そのすべてを脇にやリ、ただ見ることができるでしょうか? あなたは隣人、政治家、教授、導師、妻と子供を、そしてあなた自身を、あらゆるイメージ、スクリーン、観念、偏見、恐怖なしに見ることができるでしょうか? あなたはただ見ることができるでしょうか、それはあなたは見ることに気をつけるに違いない、見ることを愛するに違いないということです。あなたの心があなた自身の欲望を背負っているなら、あなた自身の悲しみを背負っているなら、あなたは女性や男性や子供の美、天空の美、鳥の美、木の、山の美を見ることはできません。あなたが見ることを望むなら、それらの重荷は見るために捨てられるに違いありません。そしてあなたが見るとき、気遣いがあります、愛情があります、何かの美を見つめる愛があります。

質問者: 時間を越えた心がどうやってこの世界で機能できるのでしょうか?

クリシュナムルティ: 何と容易にあなたはそのような状態-時間を越えた心-を、それについて何も知らないで、そのような心の息吹と香りを持つこともなしに受け入れるのでしょうか? そのような心がどんなふうにここで機能するのだろうかとあなたは尋ねています。私はあなた方に、私たちは共に新しい世界を創造する必要があると言いました。したがって、あなたがそのような心を持つ必要があります。話し手ではなく。話し手は重要ではありません。重要なことはあなたがそのような心を持つことです。そのときあなたはどんなふうに機能するか、どんなふうに違った生を生きるか、どんなふうに宗教的な心を持ち、この世界の中で生きるかを見出すでしょう。しかしそれを見出すことなしに「それについて思索してみたい」と言うのは、あなたはけっしてあなた自身で見出さないのではないかと気がかりです。それで、まずあなたの生に秩序をもたらしてください、あなたが毎日生きている無秩序の生に気づいてください-一つのことを言い 別のことをする、あることを思い ほかのことを装う-不正直、節操のない生き方。そのすべてに気づくことが、あなたの生に秩序をもたらすことです。あなたの日常の生活の中にその秩序なしには、瞑想は場所を持ちません、それはただの逃避です。そしてあなたが社会の変容に関わっているなら、あなたは変わる必要があります。社会は不道徳であり、腐敗しているので、社会はものすごい変化を要します。そして集団的にあなたが社会を造り出したので、集団的にあなたは変わる必要があります。なぜならあなたは集団であるからです。あなたは世界であり、世界はあなたです。あなたが集団として変わらないなら、かわいそうに。あなたは大きな危険に、大きな災厄に直面しています。あなたの家は燃えており、あなたは目を閉じることはできません。あなたは閉じたいかも知れませんが、しかしあなたの子供、あなたの孫は、あなたが今していることのために支払うでしょう。それゆえあなた方、あなたが自分の日常生活の中で秩序、美、愛を持っていないなら、あなたは美と愛のまさに本質である、あの名前のない、始まりも終わりもないものに出会うことはできません。

(訳者: N.Goto)2003.09.掲載