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[25888] Re:[25886] [25883] [25878] [25864] 既知からの自由10−4 投稿者:宮啓 投稿日:2018/09/19(Wed) 20:41  

> > > > 10[愛]−4
> > > >
> > > >  この引き裂かれた砂漠のような世界の中では、快楽と欲望が最も大きな役割を演じるので愛はありません。それにもかかわらず愛なしには毎日の生活は意味がありません。そしてもし美がないなら、愛を持つことはできません。美は目で見る何かではありません ― 美しい木、美しい絵、美しい建物あるいは美しい女性ではありません。ハートと心が愛が何かを知るときのみ、美があります。愛と美のあの感覚なしに徳はなく、そしてあなたは欲することをし、社会を改良し、貧民を養っても一層の災厄を造り出しているだけであろうという事を非常によく知っています。というのは愛なしには自分自身のハートと心の中には醜さと貧しさがあるだけだからです。しかし愛と美があるときは、することは何であろうが正しく、何であろうが秩序があります。いかに愛するかを知っているなら、そのとき好きなことをすることが出来ます。なぜならそれがほかの問題をすべて解決するでしょうから。
> > >
> > >
> > > この最後の10-4でKは愛についてのまとめあるいは意義を述べていると思います。それは実はトップダウン的な感じで受け取ることになるでしょう。それは少しく基礎が不足しているからではないかと思います。それが実は次の第11章の内容のようです。私は今11章を半分ぐらいしか読んでいませんがそう思います。
> >
> >
> >  トップダウン的な説明は、短い時間に述べるときに述べられる手法のように感じます。
> >  クリシュナムルティは1回の講話を、その1回自体でも完結しているように陳述されている旨を述べていました。
> >
> >  1シリーズの講話を初回から最終回まで聴ければ一番良いのですが、途中から聞いて、途中で去る聴衆もいるので、すべての回が、それ自体で完結できているように述べているとのことです。
> >
> >  愛について1回の講話で説明するならば、このようなトップダウン的に要約の陳述のみを行い、その詳細については、後日、各々の聴衆が自ら本やテープ、ビデオ等で改めて調べることができるということではないでしょうか。。
>
> トップダウンというか、結論を先に言う事は何の問題もありません。ただ私は大体基礎的なことは理解しているつもりでしたが、全く初めて聞いたので慌てたという事ですね。その基礎は11章にあるとすると、10章の1〜3は何を言っていたかという疑問がありますが、これは10−4の飛躍のための助走という感じがします。どうもお騒がせしてすみません。
>
>
> > >  > もし美がないなら、愛を持つことはできません。美は目で見る何かではありません ― 美しい木、美しい絵、美しい建物あるいは美しい女性ではありません。−− これは今まで読んできたことからはわかりません。11章はその意味で重要な章です。
> >
> >
> >  11章を楽しみにしています。。
> >
> >
> > > >  そこで私たちは要点に達します。訓練なしに、思考なしに、強制なしに、どんな本やどんな教師や指導者もなしに、心は愛に出会うことが ― 美しい夕焼けに出会うようにそれに出会うことができるでしょうか? 私には一つのことが絶対に必要であり、そしてそれは動機なき情熱 ― ある献身や執着の結果でない情熱、渇望ではない情熱であると思われます。情熱が何か知らない人は決して愛を知らないでしょう。なぜなら愛は完全な自己放棄があるときのみ存在できるからです。
> > >
> > >
> > > 「完全な自己放棄」― これはいったい何でしょう。実際にはどういう事をこの言葉は指し示しているのか? それがわからないとついていけないのではないでしょうか? 能動的、積極的でない情熱を私は知っているだろうか。
> > >
> > >
> > > >  求めている心は情熱的な心ではなく、そして求めることなく愛に出会うことが、それを見いだす唯一の道です ― 知らずに、どんな努力や経験の結果としてでもなく愛と出会うことがです。その様な愛は、あなたは見出すでしょうが、時間のものではありません。そのような愛は個人的でまた非個人的であり、一つのものでありまた多数のものでもあります。香りを持つ花のように、その香りをかぐこともできるし、そばを通り過ぎることもできます。その花はあらゆる人のためにあり、そして深くその香りを吸い、喜びをもってそれを見る労をとる一人の人のためにあります。人が庭園の非常に近くにいようが非常に遠くにいようが、それは花にとって同じです。なぜなら花は芳香に満ちており、それゆえ花はあらゆる人と分かち合っていますから。
> > >
> > >
> > > 求めて必死の努力をして、それでこそ頂上に立てる ― というのが一般の常識です。そうでなく或る日ひょっこり「愛」と出会う。Kのような人は500年に一遍しか現れないぐらいの人というなら分かります。しかし私は御免こうむると言う人が多いに決まっている。
> > >  このことは実際にどういう事かを実際にわからせてくださったのは新しい芽さんです。と私は主観的に思っています。証明はできませんが。
> >
> >
> >  ここでひとつ、新しい芽さんから教えの内容を詳しく教えて頂きたいのですが。
> >
> >  御免こうむると言う人についての内容でしょうか。。それとも500年に一遍しか現れないという内容でしょうか。。
> >  よろしければ、詳しく教えて頂けないでしょうか。
>
> すみません。またお騒がせしてしまったようです。「ごめん被る」も「500年に一度」も私の戯言にすぎません。
>  新しい芽さんはそういう事にではなく実際の事について話されました。我々が、一例としてあげれば、「見ると言っても実際にはいろいろ思ってしまうのですが?」と質問すると「いろいろ思っているなぁーぐらいに見ていればどうでしょう」と話が返ってきます。私はその前に「心理的思考をどうやって見分けるか?」と質問していたのですが、上記の質問が後から出されて上記の答えが出てきたのです。それから私の方を向いて「さっきの質問はどうなりましたか?」と問われたので、私は「いちいち区別しないで、思ってるなぁと見ていればいい気になりました」と答えてそのままになりました。別の機会に心理的思考の区別の話が出たとき、芽氏は「私ははっきりわかるがなぁ」と一言言われ、みな黙ってしまいました。
>  それから先に答えは言わない。自分でわかるのを待つという基本方針を持っていらっしゃいました。これには本当に感謝しています。しかし私にはまねできません。こんなことの積み重ねです。


 ご返答、ありがとうございます。。


 クリシュナムルティのレベルではなくとも、新しい芽さんのレベルまでは、何とか行きたいものですね。。

 これは、なりゆくことではないか・・?

 と、問われても、『生の全体性』や『時間の終焉』にて、それに至るために重要なことが、クリシュナムルティによって陳述されているので、どうしようもありませぬ。。


[25887] 我を張る 投稿者:無明 投稿日:2018/09/19(Wed) 19:44  

我を張るときに気づくという事は結構とてつもないことかも知れません。気づかずに結構我を張っている時もありそうです。そこで「思考を疑って見る」と新しい芽さんはおっしゃったのでしょうか、私が初めてお会いした時の2次会で、私の「何を心がければいいのでしょうか?」という質問にそう答えてくださいました。

我を張っているという時というのは、少なからずとも感情は動いているのではないですか? そのことを合図として自分を見て見る。
具体的には、常日頃外に向けている意識を、瞬時に内面に切り替える。
(クリシュナムルティは現象学を知らないので、こういう言い方はしません)



[25886] Re:[25883] [25878] [25864] 既知からの自由10−4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/19(Wed) 18:34  

> > > 10[愛]−4
> > >
> > >  この引き裂かれた砂漠のような世界の中では、快楽と欲望が最も大きな役割を演じるので愛はありません。それにもかかわらず愛なしには毎日の生活は意味がありません。そしてもし美がないなら、愛を持つことはできません。美は目で見る何かではありません ― 美しい木、美しい絵、美しい建物あるいは美しい女性ではありません。ハートと心が愛が何かを知るときのみ、美があります。愛と美のあの感覚なしに徳はなく、そしてあなたは欲することをし、社会を改良し、貧民を養っても一層の災厄を造り出しているだけであろうという事を非常によく知っています。というのは愛なしには自分自身のハートと心の中には醜さと貧しさがあるだけだからです。しかし愛と美があるときは、することは何であろうが正しく、何であろうが秩序があります。いかに愛するかを知っているなら、そのとき好きなことをすることが出来ます。なぜならそれがほかの問題をすべて解決するでしょうから。
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> >
> > この最後の10-4でKは愛についてのまとめあるいは意義を述べていると思います。それは実はトップダウン的な感じで受け取ることになるでしょう。それは少しく基礎が不足しているからではないかと思います。それが実は次の第11章の内容のようです。私は今11章を半分ぐらいしか読んでいませんがそう思います。
>
>
>  トップダウン的な説明は、短い時間に述べるときに述べられる手法のように感じます。
>  クリシュナムルティは1回の講話を、その1回自体でも完結しているように陳述されている旨を述べていました。
>
>  1シリーズの講話を初回から最終回まで聴ければ一番良いのですが、途中から聞いて、途中で去る聴衆もいるので、すべての回が、それ自体で完結できているように述べているとのことです。
>
>  愛について1回の講話で説明するならば、このようなトップダウン的に要約の陳述のみを行い、その詳細については、後日、各々の聴衆が自ら本やテープ、ビデオ等で改めて調べることができるということではないでしょうか。。

トップダウンというか、結論を先に言う事は何の問題もありません。ただ私は大体基礎的なことは理解しているつもりでしたが、全く初めて聞いたので慌てたという事ですね。その基礎は11章にあるとすると、10章の1〜3は何を言っていたかという疑問がありますが、これは10−4の飛躍のための助走という感じがします。どうもお騒がせしてすみません。


> >  > もし美がないなら、愛を持つことはできません。美は目で見る何かではありません ― 美しい木、美しい絵、美しい建物あるいは美しい女性ではありません。−− これは今まで読んできたことからはわかりません。11章はその意味で重要な章です。
>
>
>  11章を楽しみにしています。。
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>
> > >  そこで私たちは要点に達します。訓練なしに、思考なしに、強制なしに、どんな本やどんな教師や指導者もなしに、心は愛に出会うことが ― 美しい夕焼けに出会うようにそれに出会うことができるでしょうか? 私には一つのことが絶対に必要であり、そしてそれは動機なき情熱 ― ある献身や執着の結果でない情熱、渇望ではない情熱であると思われます。情熱が何か知らない人は決して愛を知らないでしょう。なぜなら愛は完全な自己放棄があるときのみ存在できるからです。
> >
> >
> > 「完全な自己放棄」― これはいったい何でしょう。実際にはどういう事をこの言葉は指し示しているのか? それがわからないとついていけないのではないでしょうか? 能動的、積極的でない情熱を私は知っているだろうか。
> >
> >
> > >  求めている心は情熱的な心ではなく、そして求めることなく愛に出会うことが、それを見いだす唯一の道です ― 知らずに、どんな努力や経験の結果としてでもなく愛と出会うことがです。その様な愛は、あなたは見出すでしょうが、時間のものではありません。そのような愛は個人的でまた非個人的であり、一つのものでありまた多数のものでもあります。香りを持つ花のように、その香りをかぐこともできるし、そばを通り過ぎることもできます。その花はあらゆる人のためにあり、そして深くその香りを吸い、喜びをもってそれを見る労をとる一人の人のためにあります。人が庭園の非常に近くにいようが非常に遠くにいようが、それは花にとって同じです。なぜなら花は芳香に満ちており、それゆえ花はあらゆる人と分かち合っていますから。
> >
> >
> > 求めて必死の努力をして、それでこそ頂上に立てる ― というのが一般の常識です。そうでなく或る日ひょっこり「愛」と出会う。Kのような人は500年に一遍しか現れないぐらいの人というなら分かります。しかし私は御免こうむると言う人が多いに決まっている。
> >  このことは実際にどういう事かを実際にわからせてくださったのは新しい芽さんです。と私は主観的に思っています。証明はできませんが。
>
>
>  ここでひとつ、新しい芽さんから教えの内容を詳しく教えて頂きたいのですが。
>
>  御免こうむると言う人についての内容でしょうか。。それとも500年に一遍しか現れないという内容でしょうか。。
>  よろしければ、詳しく教えて頂けないでしょうか。

すみません。またお騒がせしてしまったようです。「ごめん被る」も「500年に一度」も私の戯言にすぎません。
 新しい芽さんはそういう事にではなく実際の事について話されました。我々が、一例としてあげれば、「見ると言っても実際にはいろいろ思ってしまうのですが?」と質問すると「いろいろ思っているなぁーぐらいに見ていればどうでしょう」と話が返ってきます。私はその前に「心理的思考をどうやって見分けるか?」と質問していたのですが、上記の質問が後から出されて上記の答えが出てきたのです。それから私の方を向いて「さっきの質問はどうなりましたか?」と問われたので、私は「いちいち区別しないで、思ってるなぁと見ていればいい気になりました」と答えてそのままになりました。別の機会に心理的思考の区別の話が出たとき、芽氏は「私ははっきりわかるがなぁ」と一言言われ、みな黙ってしまいました。
 それから先に答えは言わない。自分でわかるのを待つという基本方針を持っていらっしゃいました。これには本当に感謝しています。しかし私にはまねできません。こんなことの積み重ねです。


> > >  愛は新しい、新鮮な、生きている何かです。愛は昨日も明日も持ちません。愛は思考の混乱を超えています。愛が何であるかを知るのは天真爛漫な心のみです。そして天真爛漫な心は、天真爛漫でない世界の中で生きることができます。犠牲を通して、礼拝を通して、関係を通して、性を通して、あらゆる形の快楽と苦痛を通して、人間が果てしなく求めてきたこの途方もないものを見いだすことは、思考が自分自体を理解するに至り、自然に終わる時のみ可能です。そのとき愛は反対物を持たず、そのとき愛は葛藤を持ちません。
> >
> >
> > 思考が自分を理解して自然に終わるときを実際に自分の状態として感じる、持つ。物語を組み立てるのでなくて。(こういうことを書くには勇気がいるなあ)
> >
> >
> > >  あなたは「その様な愛を私が見つけたなら、妻や子や家庭に何が起こるでしょうか? 彼らには安全がなければなりません」と尋ねるかも知れません。その様な質問をするとき、あなたは決して思考の領域の、意識の領域の外側にいたことがないのです。一度でもその領域の外側にいたことがあるなら、決してその様な質問はしないでしょう。なぜならそのとき、思考がなく、したがって時間がない愛が何か知るからです。この文章を魅了され、うっとりとして読むかもしれませんが、実際に思考と時間を超えることは ― それは悲しみを超えることを意味しますが ― 愛と呼ばれる違った次元があることに気づくことです。
> >
> >
> > 妻や子は私のことを人畜無害のしろものと認識しているらしくのびのびと暮らしているみたい。
> >
> >
> > >  しかしあなたはどうやってこの途方もない源泉に到達するか知りません ― そこで何をしますか?何をすべきかわからないなら、何もしないのではないでしょうか? まったく何も。そのとき内面的にあなたは完全に静かです。それが何を意味するかわかりますか? あなたは求めておらず、望んでおらず、追求していないことを意味します。中心はありません。そのとき愛があります。
> >
> >
> > ああ、ここで具体的な心の実際の在り方を話してくれました。しかしそこで寂滅為楽のイメージを持ったりしたのではないでしょうね。「自分」なしに行為が出ますように。「中心なしに」というのはどうなんですか?
>
>
>  この『既知からの自由』のこの「愛の章」では、講話時間の都合上か、トップダウン的に、要約的な内容が述べられています。
>
>  これは、聴衆に「愛」についての関心を呼び覚ますことには役立つことでしょう。
>
>  そして、そのように愛について関心をもって、11章を読むことにより、更に理解が深まることと察します。
>
>  又、別の本『生の全体性』は第1部の対話と第2部の講話から成っていますが、第1部の対話(ボームとシャインバーグ:心理学者)においては、この「愛の章」を完全に解説しています。時間は十二分に取られています。
>
>  たまたま朗読本でこの『生の全体性』を読んでいたところでした。

そうですか。生の全体性の対話は読んでいましたがそのような感じで受け取ったことはありませんでした。また読んでみましょう。新発見があるやもしれません。

> > > (10章 終わり)


[25885] Re:[25882] 自己について 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/19(Wed) 14:25  

> >ああ、ここで具体的な心の実際の在り方を話してくれました。しかしそこで寂滅為楽のイメージを持ったりしたのではないでしょうね。「自分」なしに行為が出ますように。「中心なしに」というのはどうなんですか?
>
> まず、私たちの日常生活から、振り返る必要があります。どうも今までの話は飛躍していて、身近な日常というものが出てこない。
>
> 私たちは日常で、いちいち「自己」を意識しているでしょうか?
> 私の体験では、名前を指された時。そのとき「自己」を強く意識します。あるいは冠婚葬祭のスピーチで自分の番が近ずくとき、いやでも自分を意識します。ドギマギドギマギ。
> それは特別な場合であって、普段私たちというには、いちいち「自分」を意識しないのではないでしょうか?

自分の名前を呼ばれたとき、誰でも意識するでしょう。例えば病院の待合室で自分の名を呼ばれたときがそうです。ぼんやりしていてわからないと再びもう少し大きな声で呼ばれます。そうでなくて、日本語で「我を張る」という事があります。気づいてもやめない時も、無意識的に我を張り通すこともあります。こういう時が問題なのではないでしょうか。そのときは語調も変わっています。

> 芸能人というのは、いつも見られている職業ですから、常に人の目を意識するそうです。職業柄として。
> Kの本に、あるご婦人は、幸福に生活してるとき、わざわざ「自分は幸福だ」とは意識しないと出てました。悩む苦しみを抱えている人ほど自分を意識すると。
>
> このように日常から話を進めたほうがいいでしょう。
> いきなり完全な自己放棄とは何かと言われても?
> マザーテレサを連想させますが、普通の人には、このような生き方はできません。
> クリシュナムルティは、とてつもない生き方を私たちに述べているのだろうか?という誤解を生む。

我を張るときに気づくという事は結構とてつもないことかも知れません。気づかずに結構我を張っている時もありそうです。そこで「思考を疑って見る」と新しい芽さんはおっしゃったのでしょうか、私が初めてお会いした時の2次会で、私の「何を心がければいいのでしょうか?」という質問にそう答えてくださいました。


[25884] Re:[25879] Kからの人間への贈りもの 投稿者:宮啓 投稿日:2018/09/19(Wed) 14:00  

> > 10[愛]−4
> >
> >  この引き裂かれた砂漠のような世界の中では、快楽と欲望が最も大きな役割を演じるので愛はありません。それにもかかわらず愛なしには毎日の生活は意味がありません。そしてもし美がないなら、愛を持つことはできません。美は目で見る何かではありません ― 美しい木、美しい絵、美しい建物あるいは美しい女性ではありません。ハートと心が愛が何かを知るときのみ、美があります。愛と美のあの感覚なしに徳はなく、そしてあなたは欲することをし、社会を改良し、貧民を養っても一層の災厄を造り出しているだけであろうという事を非常によく知っています。というのは愛なしには自分自身のハートと心の中には醜さと貧しさがあるだけだからです。しかし愛と美があるときは、することは何であろうが正しく、何であろうが秩序があります。いかに愛するかを知っているなら、そのとき好きなことをすることが出来ます。なぜならそれがほかの問題をすべて解決するでしょうから。
>
>
> これは立脚点を見失った世界に対するクリシュナムルティの贈りものでした。絶対の立脚点は「愛」なのです。その愛が何であるか、この章の否定的なアプローチで私たちはその入り口に立ちました。
>  今まではこの世界の混乱、無秩序と苦悩についての話ですが、それを理解したこれからは愛の理解の道に入ります。


 科学技術が進歩し、人権尊重思想の普及が進んだ、性的マイノリティーへの差別も許されなくなりつつある、体罰も絶対的に許されなくなりつつある。医学も進み、余暇活動も安価で普及している。そして、経済的にも更に豊かになりつつある。

 その最先端の国、アメリカ。その国民は不平不満の塊なのか。。アメリカ・ファーストを当然の権利のごとく主張し要求している。

 いかに科学技術が進歩し、人権尊重思想が普及し、経済的により豊かになっても、自国さえ良ければ、他国はどうでもよい・・と切羽詰まるほど、不平不満に苛まれる、そして軋轢の源となる。中国は黙っているだろうか・・北朝鮮やイランもおとなしくしているだろうか・・。若干の余裕がある我が国は、反撃を恐れてか黙認できているようだが。。

 アメリカが戦争の火種の源となっているように思える。

 あの最先端の国が。。

 本物の愛とは、我々が知らないが、しかし、実在することを、クリシュナムルティが教えているのかもしれません。


[25883] Re:[25878] [25864] 既知からの自由10−4 投稿者:宮啓 投稿日:2018/09/19(Wed) 13:45  

> > 10[愛]−4
> >
> >  この引き裂かれた砂漠のような世界の中では、快楽と欲望が最も大きな役割を演じるので愛はありません。それにもかかわらず愛なしには毎日の生活は意味がありません。そしてもし美がないなら、愛を持つことはできません。美は目で見る何かではありません ― 美しい木、美しい絵、美しい建物あるいは美しい女性ではありません。ハートと心が愛が何かを知るときのみ、美があります。愛と美のあの感覚なしに徳はなく、そしてあなたは欲することをし、社会を改良し、貧民を養っても一層の災厄を造り出しているだけであろうという事を非常によく知っています。というのは愛なしには自分自身のハートと心の中には醜さと貧しさがあるだけだからです。しかし愛と美があるときは、することは何であろうが正しく、何であろうが秩序があります。いかに愛するかを知っているなら、そのとき好きなことをすることが出来ます。なぜならそれがほかの問題をすべて解決するでしょうから。
>
>
> この最後の10-4でKは愛についてのまとめあるいは意義を述べていると思います。それは実はトップダウン的な感じで受け取ることになるでしょう。それは少しく基礎が不足しているからではないかと思います。それが実は次の第11章の内容のようです。私は今11章を半分ぐらいしか読んでいませんがそう思います。


 トップダウン的な説明は、短い時間に述べるときに述べられる手法のように感じます。
 クリシュナムルティは1回の講話を、その1回自体でも完結しているように陳述されている旨を述べていました。

 1シリーズの講話を初回から最終回まで聴ければ一番良いのですが、途中から聞いて、途中で去る聴衆もいるので、すべての回が、それ自体で完結できているように述べているとのことです。

 愛について1回の講話で説明するならば、このようなトップダウン的に要約の陳述のみを行い、その詳細については、後日、各々の聴衆が自ら本やテープ、ビデオ等で改めて調べることができるということではないでしょうか。。


>  > もし美がないなら、愛を持つことはできません。美は目で見る何かではありません ― 美しい木、美しい絵、美しい建物あるいは美しい女性ではありません。−− これは今まで読んできたことからはわかりません。11章はその意味で重要な章です。


 11章を楽しみにしています。。


> >  そこで私たちは要点に達します。訓練なしに、思考なしに、強制なしに、どんな本やどんな教師や指導者もなしに、心は愛に出会うことが ― 美しい夕焼けに出会うようにそれに出会うことができるでしょうか? 私には一つのことが絶対に必要であり、そしてそれは動機なき情熱 ― ある献身や執着の結果でない情熱、渇望ではない情熱であると思われます。情熱が何か知らない人は決して愛を知らないでしょう。なぜなら愛は完全な自己放棄があるときのみ存在できるからです。
>
>
> 「完全な自己放棄」― これはいったい何でしょう。実際にはどういう事をこの言葉は指し示しているのか? それがわからないとついていけないのではないでしょうか? 能動的、積極的でない情熱を私は知っているだろうか。
>
>
> >  求めている心は情熱的な心ではなく、そして求めることなく愛に出会うことが、それを見いだす唯一の道です ― 知らずに、どんな努力や経験の結果としてでもなく愛と出会うことがです。その様な愛は、あなたは見出すでしょうが、時間のものではありません。そのような愛は個人的でまた非個人的であり、一つのものでありまた多数のものでもあります。香りを持つ花のように、その香りをかぐこともできるし、そばを通り過ぎることもできます。その花はあらゆる人のためにあり、そして深くその香りを吸い、喜びをもってそれを見る労をとる一人の人のためにあります。人が庭園の非常に近くにいようが非常に遠くにいようが、それは花にとって同じです。なぜなら花は芳香に満ちており、それゆえ花はあらゆる人と分かち合っていますから。
>
>
> 求めて必死の努力をして、それでこそ頂上に立てる ― というのが一般の常識です。そうでなく或る日ひょっこり「愛」と出会う。Kのような人は500年に一遍しか現れないぐらいの人というなら分かります。しかし私は御免こうむると言う人が多いに決まっている。
>  このことは実際にどういう事かを実際にわからせてくださったのは新しい芽さんです。と私は主観的に思っています。証明はできませんが。


 ここでひとつ、新しい芽さんから教えの内容を詳しく教えて頂きたいのですが。

 御免こうむると言う人についての内容でしょうか。。それとも500年に一遍しか現れないという内容でしょうか。。
 よろしければ、詳しく教えて頂けないでしょうか。



> >  愛は新しい、新鮮な、生きている何かです。愛は昨日も明日も持ちません。愛は思考の混乱を超えています。愛が何であるかを知るのは天真爛漫な心のみです。そして天真爛漫な心は、天真爛漫でない世界の中で生きることができます。犠牲を通して、礼拝を通して、関係を通して、性を通して、あらゆる形の快楽と苦痛を通して、人間が果てしなく求めてきたこの途方もないものを見いだすことは、思考が自分自体を理解するに至り、自然に終わる時のみ可能です。そのとき愛は反対物を持たず、そのとき愛は葛藤を持ちません。
>
>
> 思考が自分を理解して自然に終わるときを実際に自分の状態として感じる、持つ。物語を組み立てるのでなくて。(こういうことを書くには勇気がいるなあ)
>
>
> >  あなたは「その様な愛を私が見つけたなら、妻や子や家庭に何が起こるでしょうか? 彼らには安全がなければなりません」と尋ねるかも知れません。その様な質問をするとき、あなたは決して思考の領域の、意識の領域の外側にいたことがないのです。一度でもその領域の外側にいたことがあるなら、決してその様な質問はしないでしょう。なぜならそのとき、思考がなく、したがって時間がない愛が何か知るからです。この文章を魅了され、うっとりとして読むかもしれませんが、実際に思考と時間を超えることは ― それは悲しみを超えることを意味しますが ― 愛と呼ばれる違った次元があることに気づくことです。
>
>
> 妻や子は私のことを人畜無害のしろものと認識しているらしくのびのびと暮らしているみたい。
>
>
> >  しかしあなたはどうやってこの途方もない源泉に到達するか知りません ― そこで何をしますか?何をすべきかわからないなら、何もしないのではないでしょうか? まったく何も。そのとき内面的にあなたは完全に静かです。それが何を意味するかわかりますか? あなたは求めておらず、望んでおらず、追求していないことを意味します。中心はありません。そのとき愛があります。
>
>
> ああ、ここで具体的な心の実際の在り方を話してくれました。しかしそこで寂滅為楽のイメージを持ったりしたのではないでしょうね。「自分」なしに行為が出ますように。「中心なしに」というのはどうなんですか?


 この『既知からの自由』のこの「愛の章」では、講話時間の都合上か、トップダウン的に、要約的な内容が述べられています。

 これは、聴衆に「愛」についての関心を呼び覚ますことには役立つことでしょう。

 そして、そのように愛について関心をもって、11章を読むことにより、更に理解が深まることと察します。

 又、別の本『生の全体性』は第1部の対話と第2部の講話から成っていますが、第1部の対話(ボームとシャインバーグ:心理学者)においては、この「愛の章」を完全に解説しています。時間は十二分に取られています。

 たまたま朗読本でこの『生の全体性』を読んでいたところでした。


> > (10章 終わり)


[25882] 自己について 投稿者:無明 投稿日:2018/09/19(Wed) 10:21  

>ああ、ここで具体的な心の実際の在り方を話してくれました。しかしそこで寂滅為楽のイメージを持ったりしたのではないでしょうね。「自分」なしに行為が出ますように。「中心なしに」というのはどうなんですか?

まず、私たちの日常生活から、振り返る必要があります。どうも今までの話は飛躍していて、身近な日常というものが出てこない。

私たちは日常で、いちいち「自己」を意識しているでしょうか?
私の体験では、名前を指された時。そのとき「自己」を強く意識します。あるいは冠婚葬祭のスピーチで自分の番が近ずくとき、いやでも自分を意識します。ドギマギドギマギ。
それは特別な場合であって、普段私たちというには、いちいち「自分」を意識しないのではないでしょうか?
芸能人というのは、いつも見られている職業ですから、常に人の目を意識するそうです。職業柄として。
Kの本に、あるご婦人は、幸福に生活してるとき、わざわざ「自分は幸福だ」とは意識しないと出てました。悩む苦しみを抱えている人ほど自分を意識すると。

このように日常から話を進めたほうがいいでしょう。
いきなり完全な自己放棄とは何かと言われても?
マザーテレサを連想させますが、普通の人には、このような生き方はできません。
クリシュナムルティは、とてつもない生き方を私たちに述べているのだろうか?という誤解を生む。


[25881] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/09/19(Wed) 09:56  

>このことは実際にどういう事かを実際にわからせてくださったのは新しい芽さんです。と私は主観的に思っています。証明はできませんが。

新しい芽氏は、言葉の解説はしません。例えば愛とは何かというような説明はおっしゃらない。
彼のスタンスは徹底的に自分自身を問うこと。あくなき事実の探求にあったように思います。そのためには、思考を一切信用しないスタイル。常にほんとかどうかを疑う姿勢を貫いた。
この辺のところは「新しい芽語録」を読むと明確です。
彼にとってクリシュナムルティは、あくまで参考であって、見る、聞くはとくに強調していません。Kに依存せず、自分自身の独自の生き方を確立したといえます。

以下は私見ですが、クリシュナムルティの言っていることを全部理解しようとすること自体が無理な相談。実際のところ私たちはできることしかやれません。その第一歩が思考を疑うということだと思います。それを新しい芽氏が示してくれました。どのように気づいているか。いきなり「見る」「聞く」と言われても私たちは途方にくれるだけしょう。

「完全なる自己放棄」といわれても、明確に答えを出せる人はいるでしょうか?いないと思います。



[25880] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/09/19(Wed) 09:23  

愛、美、理解、自由、沈黙、静寂など
クリシュナムルティにとっては全て同じ意味だと、とらえました。
そこには思考が入る余地はありません。awarenessの世界。。


[25879] Kからの人間への贈りもの 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/19(Wed) 07:06  

> 10[愛]−4
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>  この引き裂かれた砂漠のような世界の中では、快楽と欲望が最も大きな役割を演じるので愛はありません。それにもかかわらず愛なしには毎日の生活は意味がありません。そしてもし美がないなら、愛を持つことはできません。美は目で見る何かではありません ― 美しい木、美しい絵、美しい建物あるいは美しい女性ではありません。ハートと心が愛が何かを知るときのみ、美があります。愛と美のあの感覚なしに徳はなく、そしてあなたは欲することをし、社会を改良し、貧民を養っても一層の災厄を造り出しているだけであろうという事を非常によく知っています。というのは愛なしには自分自身のハートと心の中には醜さと貧しさがあるだけだからです。しかし愛と美があるときは、することは何であろうが正しく、何であろうが秩序があります。いかに愛するかを知っているなら、そのとき好きなことをすることが出来ます。なぜならそれがほかの問題をすべて解決するでしょうから。


これは立脚点を見失った世界に対するクリシュナムルティの贈りものでした。絶対の立脚点は「愛」なのです。その愛が何であるか、この章の否定的なアプローチで私たちはその入り口に立ちました。
 今まではこの世界の混乱、無秩序と苦悩についての話ですが、それを理解したこれからは愛の理解の道に入ります。


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