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[27107] 無題 投稿者:trimurti 投稿日:2019/04/26(Fri) 11:53  

かわいい女の子みて、興奮するのは思考ではなく本能では?

逆に、ブス見て、この人は高年収だ、顔はいやだが、一緒に暮らしてその金で浮気しようとかは、思考のきがする。


[27106] Re:[27105] [27085] [27082] 思考と事実 投稿者:南方 投稿日:2019/04/26(Fri) 11:15  

>
> > > そこに思考と木があるのではありません。事実は木だけです。
>
> > 思考なしでは違った事実が見えてくる、というのが正確な表現ではないでしょうか。「違った」事実が見えてくるのである、ということは、思考もまた事実の一部だということになります。違って見えるということは、事実の一部で関係し合ってなければ起こらない現象ですから。
>
> 確認しておきますが、「木」というのは外部のものです。
> 私たちに目に見えるもの。
> 思考というのは、いうまでもなく私たちの頭に起きてくるものです。
> 外部と内面
> その辺のところを混同してませんか。
> 別なものをいっしょにしてませんか
>


思考を全体としての現象の一部、として捉えれば、外部と内部という表現は適切ではないことが、わかると思います。
「私」という感覚が強く、全体性を失っているがために、内部と外部という言葉使いが出てくるのだと思いますが、いかがでしょうか?


> それに違った事実って何ですか。
> 違うも何も、そこに木があるだけでしょう。
> 思考なしに世界を見れば、ただ「あるもの」が存在するだけです。
> あるものとは、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、いわば感覚器官でとらえられるもの。知覚されたもの。
> ようするに外界。
>
>


上述したように、思考は全体の現象の一部でありますから、その一部が欠けた時には、当然世界も変わる、ということです。



> > > > > > そこに、木が汚いという思考があれば、それは汚い木になるわけです。
> > > > >
> > > > >  汚いというのは人間の観念であって、現実に「ない」ものです。
> > > > >  事実は、そこに木があるだけです。
> > > > >
> > > >
> > > >
> > > > 残念ながら、事実は木があるだけではないでしょうね、人間にとっては。仮に思考が無くなった時、木が今のままであるかというと、そうも言いきれない。
> > >
> > > 現実に今のままでしょう。野原を見てください。
>
> 人間がどうであろうと、自然は活動している。
> 木は年月が来れば枯れる。
> 人間に見えない世界でも、し烈に活動している。
> 目に見える世界は、ほんの一部。人間はそれしか知らない。
> 表面的なものしか。




そうでしょう、自然は人間がいようがいまいが活動している。ただ、繰り返しますが、全体の一部としての現象の思考が欠けたときは、必ず違う様相を見せるのです。
例えば、父親が亡くなり、母子家庭になった時の子供は、両親がいる時とは違う考え方になるように、です。




> > >
> >
> > この世界から人間の思考が無くなった時、世界は全く違う様相を現す、と思います。
>
>  同じです。人間がいようといまいと。星座を見てください。
>  人間が滅亡しようがしまいが、この大宇宙は活動している
> 。人間など地球から見れば、蟻んこです。はいつくばってるだけ。
>  それに人間がいようといまいと地球にとっては関係ありません。むしろ目障り。核なるものを作ったので。
>


目障りなのは、「私」という感覚に根付いた人間の思考が、自然を搾取し始めたからでしょう。
そこまで自己卑下しなくて、いいと思います。全体性を取り戻せば、人間もまた仲間に入れてもらえるでしょう。


>  (アダムスキーは、「真理とは活動である」といっている)
>
>  人間に思考が与えられたこそ、世界を認識できます。宇宙があると。
>  もしなければ認識できません。宇宙が「ない」のと同じ。
>  宇宙は基本的に暗黒。人間に光がわかる感覚器官が与えられたので、かろうじて、宇宙があることがわかる。


これは傲慢ですね。思考がなければ宇宙は無い、とはまさに人間中心主義。


> >
> >
> >
> > > >事物はお互いに関係しあっているのだから。思考が木に与える影響は計り知れない。とは、思いませんか?
> > >
> > > 全くありません。
> > > 自然環境においては、木は重要な役割をしています。そこには人間など入り込む余地はない。逆に人間は大地から養われている。
> > >
> > > その重要な資源を食い尽くし、次々に木を伐採しているのは、それこそ人間の思考でしょう。
> > > >
> >
> >
> > そうですね。自然と分離した感覚を持った思考は自然を食い尽くしてしまう。
> > しかし、自然と分離していない思考は自然に対する畏敬の念、共生の意識、生かし生かされているという実感を持ちうるでしょう。
>
>  自然と分離していない思考って何ですか?
> そもそも、思考そのものが分離です。
>  だからこそ、世界を認識できる。
>  それが思考の役目。
>  自分と対象、主体と客体。「みるもの」「みられるもの」
>
>


昨日書いたと思いますが、「分離していない」という表現は主体性を暗示します。全体としての現象の一部としての思考ですね。


>  世界をつなぐのは、内部にある共感作用です。コミニュケーション作用。
>  元々人間を除く、動植物は世界とつながっています。共感作用によって。それぞれ持ち分をわきまえ、一体生活を築いている。
>  
>
>


「私」という感覚が希薄なとき、共感もなにも、当然自分のこととして受け止められるのではないですか?
思考が邪魔なのではなく、「私」という感覚が邪魔なのでは?


> > > > > > つまり、事実とは、思考から切り離された何かではなく、思考も含めてのものだということです。
> > > > >
> > > > >  だとしたらクリシュナムルティの言ってることは成立しません。
> > > > >  Kのいうのは過去の経験記憶である思考を手放し事実を見よ、ということです。
> > > > > >
> > > > >
> > >
> > > > Kの言ってる事は、観察者と観察されるものは分離してはいない、ということもあるでしょう。
> > >
> > > つまり見るもの、見られるもの、とは自分の作り出した思考ということです。
> > > 自分自身を対象化したものが思考。試しに目を瞑れば、いくらでも思考が湧いてきます。次々と。イメージとして。
> > > 人はそのイメージで、世界を見ている。そこに問題がある。
> > >
> >
> >
> > これは内部的に起こっている現象です。
>
> はい。内部の話。
>
> この世界は、実は自分の作りだした思考の投影ではないのか。
> という言説は、仏教の唯識でも語られたことです。
> 生長の家では、すべての減少では人間の心の影だと。
> >
> >


仏教も成長の家も興味ありません。ただ、先程も申し上げた通り、思考がなければ自然は存在しない、というのはあまりにも人間中心的であると思います。


>
> > > 影響って何ですか。クリシュナムルティは、そんなことは言ってないでしょう。
> > > それと全く思考のない木の有様って何ですか。
> > >
> >
> >
> > その有様は人間には分からないものでしょうね。
>
> わからない?

人間がいなくなったあとの世界を人間がわかるはずがないでしょう?


> >
> >
> > > 日常生活では、人間は思考なしで、事物を見ているのではないですか。
> > > 桜の花を見るときは、ただ見てるだけです。何かを感じます。それだけです。思考の入る余地はありません。
> > > 感じたものを表現するだけです。
> > >
>
> > そういう時もありますし、そうでない時もありますし、他の人がどうなのかは分かりません。
> >
> 何か対象について、興味関心がわくとき、人はじっと観察するのではないですか。何かなと。
> 展覧会のとき、人はじっと絵を見る。
> 桜が咲くと、人はじっと花を見る。
> 下賤な例で恐縮ですが、そこに女の子が歩いているとき、関心興味がわけば、じっと女の子を観察するでしょう。そのあと、判断評価という思考が出てくる。
>
>


思考があっても「私」という感覚が希薄であれば、思考は問題になりませんが、思考なしに見ている時もありますし、その後思考が発生することもあります。


[27105] Re:[27085] [27082] 思考と事実 投稿者:無明 投稿日:2019/04/26(Fri) 10:33  


> > そこに思考と木があるのではありません。事実は木だけです。

> 思考なしでは違った事実が見えてくる、というのが正確な表現ではないでしょうか。「違った」事実が見えてくるのである、ということは、思考もまた事実の一部だということになります。違って見えるということは、事実の一部で関係し合ってなければ起こらない現象ですから。

確認しておきますが、「木」というのは外部のものです。
私たちに目に見えるもの。
思考というのは、いうまでもなく私たちの頭に起きてくるものです。
外部と内面
その辺のところを混同してませんか。
別なものをいっしょにしてませんか

それに違った事実って何ですか。
違うも何も、そこに木があるだけでしょう。
思考なしに世界を見れば、ただ「あるもの」が存在するだけです。
あるものとは、目に見えるもの、耳に聞こえるもの、いわば感覚器官でとらえられるもの。知覚されたもの。
ようするに外界。


> > > > > そこに、木が汚いという思考があれば、それは汚い木になるわけです。
> > > >
> > > >  汚いというのは人間の観念であって、現実に「ない」ものです。
> > > >  事実は、そこに木があるだけです。
> > > >
> > >
> > >
> > > 残念ながら、事実は木があるだけではないでしょうね、人間にとっては。仮に思考が無くなった時、木が今のままであるかというと、そうも言いきれない。
> >
> > 現実に今のままでしょう。野原を見てください。

人間がどうであろうと、自然は活動している。
木は年月が来れば枯れる。
人間に見えない世界でも、し烈に活動している。
目に見える世界は、ほんの一部。人間はそれしか知らない。
表面的なものしか。
> >
>
> この世界から人間の思考が無くなった時、世界は全く違う様相を現す、と思います。

 同じです。人間がいようといまいと。星座を見てください。
 人間が滅亡しようがしまいが、この大宇宙は活動している
。人間など地球から見れば、蟻んこです。はいつくばってるだけ。
 それに人間がいようといまいと地球にとっては関係ありません。むしろ目障り。核なるものを作ったので。

 (アダムスキーは、「真理とは活動である」といっている)

 人間に思考が与えられたこそ、世界を認識できます。宇宙があると。
 もしなければ認識できません。宇宙が「ない」のと同じ。
 宇宙は基本的に暗黒。人間に光がわかる感覚器官が与えられたので、かろうじて、宇宙があることがわかる。
>
>
>
> > >事物はお互いに関係しあっているのだから。思考が木に与える影響は計り知れない。とは、思いませんか?
> >
> > 全くありません。
> > 自然環境においては、木は重要な役割をしています。そこには人間など入り込む余地はない。逆に人間は大地から養われている。
> >
> > その重要な資源を食い尽くし、次々に木を伐採しているのは、それこそ人間の思考でしょう。
> > >
>
>
> そうですね。自然と分離した感覚を持った思考は自然を食い尽くしてしまう。
> しかし、自然と分離していない思考は自然に対する畏敬の念、共生の意識、生かし生かされているという実感を持ちうるでしょう。

 自然と分離していない思考って何ですか?
そもそも、思考そのものが分離です。
 だからこそ、世界を認識できる。
 それが思考の役目。
 自分と対象、主体と客体。「みるもの」「みられるもの」


 世界をつなぐのは、内部にある共感作用です。コミニュケーション作用。
 元々人間を除く、動植物は世界とつながっています。共感作用によって。それぞれ持ち分をわきまえ、一体生活を築いている。
 


> > > > > つまり、事実とは、思考から切り離された何かではなく、思考も含めてのものだということです。
> > > >
> > > >  だとしたらクリシュナムルティの言ってることは成立しません。
> > > >  Kのいうのは過去の経験記憶である思考を手放し事実を見よ、ということです。
> > > > >
> > > >
> >
> > > Kの言ってる事は、観察者と観察されるものは分離してはいない、ということもあるでしょう。
> >
> > つまり見るもの、見られるもの、とは自分の作り出した思考ということです。
> > 自分自身を対象化したものが思考。試しに目を瞑れば、いくらでも思考が湧いてきます。次々と。イメージとして。
> > 人はそのイメージで、世界を見ている。そこに問題がある。
> >
>
>
> これは内部的に起こっている現象です。

はい。内部の話。

この世界は、実は自分の作りだした思考の投影ではないのか。
という言説は、仏教の唯識でも語られたことです。
生長の家では、すべての減少では人間の心の影だと。
>
>

> > 影響って何ですか。クリシュナムルティは、そんなことは言ってないでしょう。
> > それと全く思考のない木の有様って何ですか。
> >
>
>
> その有様は人間には分からないものでしょうね。

わからない?
>
>
> > 日常生活では、人間は思考なしで、事物を見ているのではないですか。
> > 桜の花を見るときは、ただ見てるだけです。何かを感じます。それだけです。思考の入る余地はありません。
> > 感じたものを表現するだけです。
> >

> そういう時もありますし、そうでない時もありますし、他の人がどうなのかは分かりません。
>
何か対象について、興味関心がわくとき、人はじっと観察するのではないですか。何かなと。
展覧会のとき、人はじっと絵を見る。
桜が咲くと、人はじっと花を見る。
下賤な例で恐縮ですが、そこに女の子が歩いているとき、関心興味がわけば、じっと女の子を観察するでしょう。そのあと、判断評価という思考が出てくる。




[27104] 無題 投稿者:trimurti 投稿日:2019/04/26(Fri) 00:23  

私が言ってる「女」は必ずしも実際の女性ではない。

思考にとらわれた人間を「男」と呼び、
思考を超えた覚者を、「女」と呼んでいる。

男 思考 視覚 

女 直知 嗅覚


[27103] 無題 投稿者:trimurti 投稿日:2019/04/26(Fri) 00:18  

悟るってことは、師=女=自然性と等しい存在になり、弟子=男=社会性を卒業することといえる。

女性性(母性)=自然性=安らぎに達すること。


[27102] 無題 投稿者:trimurti 投稿日:2019/04/26(Fri) 00:12  

今日、彼女と話してたら、彼女が「成長したなぁ。」とぼやいていた。


女=師が人生の認可出してくれたので、もう人生で学ぶことはほとんどない。と思う。


[27101] 無題 投稿者:trimurti 投稿日:2019/04/25(Thu) 21:56  

《あなたは私の妻(女)だ Tu es ma femme》というとき、結局何を知っているのか?

《あなたは私の師です Tu es mon maître》、これについて本当に確信が持てるだろうか。


[27100] 師とは女である。 投稿者:trimurti 投稿日:2019/04/25(Thu) 21:52  

ラーヴァナの后、マンドーダリーは、夫であるラーヴァナを救うために大変な努力をしました。マンドーダリーは夫に賢明な忠告をしましたが、ラーヴァナは彼女にまったく注意を払いませんでした。夫が邪悪な道を取ったとき、徳高い妻は夫を正しい道にとどめるために彼の賢明な大臣として振る舞います。マンドーダリーはそのような妻でした。バルヤ(妻)は夫に世俗的な喜びを与える者ではありません。英知と正義の道へと夫を導くことで夫のために役立つ者のことです。マンドーダリーは夫のたどる道を正そうとした真の妻でした。シーターもまたラーマに賢明な助言を与え、すべての悪魔を滅ぼすことはしないように忠告しました。彼女は邪悪な行いをした者たちだけが罰せられるべきだと示唆したのです。正義は一族すべてを滅ぼすことにはありません。女性は偉大です。なぜなら、女性は正しい道を男性に示すからです。事実、女性は世界の英知の光です。ですから、女性は保護と尊敬を受けるに値するのです。シーターはグニャーナ タトワ(英知の原理)を象徴します。シーターはラーマに、善良さは階級や信念、社会にかかわらず普遍のものであると言いました。シーターのような女性のおかげで男性は人生において進歩を遂げたのです。


[27099] 無題 投稿者:trimurti 投稿日:2019/04/25(Thu) 21:47  

社会的交渉ではなく自然な営みとして(セックスを)見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。………



[27098] 神と女をめぐる「思索」 投稿者:trimurti 投稿日:2019/04/25(Thu) 21:37  

「仮象の scheinbare」世界が、唯一の世界である。「真の世界 wahre Welt」とは、たんに嘘 gelogenによって仮象の世界に付け加えられたにすぎない。(ニーチェ『偶像の黄昏』1888年)

真理は女である。die wahrheit ein weib (ニーチェ『善悪の彼岸』1886年

女が欲することは、神も欲する Ce que la Femme veut, Dieu Ie veut (Alfred de Musset, Le Fils du Titien, 1838)

もっともこれは母が欲することは、神も欲する、と言い換えねばならない。

というわけで、女=母が神であるのは、当たり前なのである・・・日本の昔の庶民の言葉遣いにわずかでも思いを馳せれば、ラカン理論の核心がわかる。

そのころには、一夏過したお増の様子がめっきり変っていた。世のなかへ出た当時の、粗野な口の利き方や、調子はずれの挙動が、大分除れて来た。櫛だの半襟だの下駄などの好みにも、下町の堅気の家の神さんに見るような渋みが加わって来た。どこか稜ばったところのあった顔の輪郭すら、見違えるほど和らげられて来た。(徳田秋声『爛』)
しっかりとした老人の声に、もうはずれの角に近い茶店を見ると、軒からお赤飯とか、ところ天とか、埃まみれの札をさげ、小笊に盛った里芋やらちょっとして土産物やらを並べた店さきに、主人〔あるじ〕らしい中年の男とそのお神さんらしいのが立って、驚きの色も見せず、若い女の肩につかまって着いた老人を、おかしそうに眺めやった。(古井由吉『中山坂』)


いやあ残念だ、この「神さん」という言葉遣いが消滅してしまって・・・


神様ってのは君のお母さんや彼女や女房なんだよ。

しってたかい?


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