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[26413] Re:[26411] [26410] [26409] 最初のザーネン講話 4-4 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/21(Mon) 20:51  

> > > 1961年ザーネン公開講話 4回目の4
> > >
> > > 質問: 理解は能力でしょうか?
> > >
> > > クリシュナムルティ: 理解は能力、養成されなければならない、ゆっくりと育てられなければならない何かでしょうか? 能力は時間の過程を意味します。そして私は何かを時間を通して、多くの日を通して理解するのでしょうか? それとも私は即時に何かを理解する、それを見るのでしょうか? 国家主義者であること、特定のグループ、団体や信念と同一化することは現実に愚かであるということを、私は理解するでしょうか? 何かに属すること、かかわり合いになることの意味全体を私は完全に見るでしょうか? ほら、私たちは皆特定のグループ、社会、種族や家族、名前に属することを望みますね。私たちはある形の行動にかかわることを望みます−共産主義者、社会主義者、宗教的、あるいは道徳的な。そしてこれはなぜなのでしょう? 幾つかのことがその中に含まれているのではないでしょうか? 私たちは「協同して」一緒に行動することを好みます。それはあるレベルではまったく正しいかもしれません。しかし内的に何かにかかわることは確かに理解と悟りの追求を妨げます。それを見ることは時間がかかりますか? それは私が怠惰なため時間がかかります。なぜなら私がかかわり合いになっており、私がかかわり合いから身を引くなら厄介を引き起こすだろうということを恐れているからです。それで私は「それを考え抜くために時間をかけよう」と言います。怠惰な心は直接、明確に、実際に見ることをそれ自身にさせないようにします。まさか、自分自身が愚かであるのを見るのに時間を要しないでしょう? 私はそれを見ることができます。誰もそれを私に教える必要はありません。しかし私がそれを変えることを望むとき、利口になりたいとき、より多くこれであり、よりあれでなくありたいとき、そのときそれは時間を意味し、暴力を意味します。しかし私が愚かであることを見ること、それを本当に見て完全にその中にいることが、理解を要求するだけでなく、見ることそのものが、ひとりでに、私自身の中と周囲に築いたあらゆるものを破壊します。そしてそれが私が恐れていることなのです。
> > >  それで、私が愚かで、狭量で、けちな心をもった、凡庸で、劣っているのを見ること。そしてそれを変えようとしないで、それを洗練して新しい名前、新しい肩書き、などなどを与えようとしないで、それと共に生きること。すべてのその運動、その見せかけをじっと見ること、利口になろうとすることの愚かさを見ること−そのすべては時間を必要としません。それは能力を必要としません。それはそのまさに終りまで行こうとするまじめさを必要とします。
> > >  ほら、皆さん、危険があるとき、私たちは即座に行動し、即座に感じ、即座に見ますね。私たちの本能、感覚のすべてが十分に目覚め、私たちは時間について話しません。
> > >
> > >
> > > ゴト: 理解は能力でしょうかというこの質問は一度は通らなければならな関門だと思います。理解は知識を学習しその内容を理解することだと普通思われています。
> > >  >私がそれを変えることを望むとき、利口になりたいとき、より多くこれであり、よりあれでなくありたいとき、そのときそれは時間を意味し、暴力を意味します。しかし私が愚かであることを見ること、それを本当に見て完全にその中にいることが、理解を要求するだけでなく、見ることそのものが、ひとりでに、私自身の中と周囲に築いたあらゆるものを破壊します。そしてそれが私が恐れていることなのです。−−
> > >  これは完璧な答えなのですが、今見る時、考え始めれば迷路に入るでしょう。直覚的に全容を見る、聴くことが必要です。包括的に観取する。
> >
> >
> >  家族や仕事も破壊されるのでしょうか。。
>
>
> あのね、何が破壊されるかといってもこれは自分や共同体が築き上げた心理的なマインドに関係する事柄ですよ。うちの家内は私が彼女にイメージを投影しないので、妻のあるべき姿という概念を私が破壊し、押し付けていないので自由に飛び跳ねていますよ。子供だってそうです。常に対等に話せる一人前の人間として生きています。男尊女卑とか長幼序ありとかの観念は破壊されています。個人的な人生かという意見も持っていません。先入観とか価値観とか人生観も破壊しています。仕事もきちんとするだけでなく、お互いが対等に話せる気分の良い職場をみんなと共に作りましたよ。
>
>
> >  ゴトさんも、>私自身の中と周囲に築いたあらゆるものを破壊します。−−、これが起こったのでしょうか?
>
>
> あのね、心が作り出す心理的な壁となる観念、考えを破壊しつくします。私の家庭は規律もあるし皆がのびのびとストレスなく暮らしています。葛藤がないからです。家人はまだケンカしますが。



 破壊されるものは「条件付け」なのですね。。

 男尊女卑の条件付けは、女子に対しての不平不満をもたらす。
 「あるもの」の中に女子に対しての不平不満を「見た」ときに、男尊女卑の条件付けと、その条件付けが自我を形成している構造を見る。そのときには自我と共に男尊女卑の条件付けも破壊されている。

 「真実」は無条件であり、条件付けは真実と異なる。この不真実を見て、条件付けが破壊されるのですね。。


> > >  > それで、私が愚かで、狭量で、けちな心をもった、凡庸で、劣っているのを見ること。そしてそれを変えようとしないで、それを洗練して新しい名前、新しい肩書き、などなどを与えようとしないで、それと共に生きること。すべてのその運動、その見せかけをじっと見ること、利口になろうとすることの愚かさを見ること−そのすべては時間を必要としません。それは能力を必要としません。それはそのまさに終りまで行こうとするまじめさを必要とします。−−
> > >
> > > 完璧に要点が尽くされているように思います。
> >
> >
> >  >愚かで、狭量で、けちな心をもった、凡庸で、劣っている−−、これは自我のことであり、「あるもの」と陳述されているもの。
> >
> >  この「あるもの」と共に生きる。
>
> 自分がケチで狭量だと気づいている人はすでに愚かではありません。変容が起こっているのです。この「いま在るもの」は自我のような概念がすくない、瞬時瞬時の実在にラベルをなるべく張らない言語が使われているのです。すでに自我の中心はほとんどなくなっているのかもしれませんよ。


 「今あるもの」と「あるもの」、そして「現にあるもの(大野純一さんの訳)」は同じものを指しているのでしょうか。
 「条件付けられているという事実と共にある生」が「今あるもの」でしょうか。



> > > 質問: 人は欲望の愚かさを見、それから自由であるように思われます。しかし次ぎにそれはまたやって来ます。
> > >
> > > クリシュナムルティ: 私は一度も自由な心は欲望を持たないと言ったことがありません。だって、欲望のどこが間違っているのでしょうか? 問題はそれが葛藤をつくり出すとき、私が持つことの出来ないあの素敵な自動車を欲しがるとき生じます。しかし車を、その線の美しさ、色、それが出せるスピードを見ること、それのどこが間違っているのでしょう? それをじっと見ようとする、それを注視しようとするその欲望は間違っていますか? 欲望は私がそのものを所有しようと望むときのみ切迫し、強迫的になります。私たちは、何か、煙草、酒、特定の考え方のとりこになることが欲望を意味すること、そしてパターンから抜け出そうとする努力もまた欲望を意味することを見て、それで欲望のない状態に到らなければならないと言います。いかに私たちが私たちの取るに足らなさによって生を形作るかを見てください! それゆえ私たちの生は、未知の恐怖と暗い隅に満ちた、凡庸な事柄になります。しかし私達が話してきたことすべてを、それを実際に見ることによって理解するなら、そのとき欲望はまったく違った意味を持つと私は思います。
> > >
> > >
> > > ゴト: 欲望について考えはそれを問題とし、それからの脱出という二元性の問題(=葛藤)をつくり出します。これは凡庸。
> > >  >しかし私達が話してきたことすべてを、それを実際に見ることによって理解するなら、そのとき欲望はまったく違った意味を持つと私は思います。−−
> > >
> > >
> > > 質問: 私たちが見るものと同一化することと、見るものと共に生きることを区別することができるでしょうか?
> > >
> > > クリシュナムルティ: なぜ私たちは何かと同一化したいのでしょう? より大きい、より高尚な、より価値のある何かになるためではないでしょうか? 私たちは生に意味を持ちたいと思います。なぜなら私たちにとって生は意味を持っていないからです。なぜひとは家族、友人、観念、国と同一化しなければならないのでしょうか? なぜすべての同一化を払いのけ、いつも、「あるもの」と生きないのでしょうか? それはつねに変化しており、決してじっとしていません。
> > >
> > > 質問: ものごとと同一化しないなら、そのときそのすべての外側で生きることができると私は思いますが?
> > >
> > > クリシュナムルティ: 事実はこうではないでしょうか。私たちは私たちの狭量な嫉妬、虚栄、愚かさと共に、私たち自身の狭い輪のなかで生きています。それが私たちの生です。そして私たちはそのことに直面しなければならないのであり、神や山などと同一化することではありません。それらと共に生きることは、すなわち、それを変えようとすることなしに生きることは、イエスと共に生きることをするより−それは単に逃避にすぎません−もっとずっと困難であり、より大きな強烈さと英知を必要とします。
> > >
> > >
> > > ゴト: 同一化の質問二つを一連のものとして見ています。同一化しなければ国家等々の外部に立てるのではないかと。Kはそうではなくて、その場合にはは狭量な私たち自身の狭い輪の中で生きることに戻るだけであると。そうでなくそのものに直面し、それらと共に生きる、変えようとしないで生きることがより大きな強烈さと叡智を必要とする必要なことであると。
> >
> >
> >  最初のザーネン講話 4 では、「あるもの」が度々登場します。
> >
> >  理想と共に生きるのではなく、「あるもの」すなわち自我と共に生きることが、事実と共に生きる、事実を見て生きる、すなわち、>事実はこうではないでしょうか。私たちは私たちの狭量な嫉妬、虚栄、愚かさと共に、私たち自身の狭い輪のなかで生きています。それが私たちの生です。そして私たちはそのことに直面しなければならないのであり、神や山などと同一化することではありません。それらと共に生きることは、すなわち、それを変えようとすることなしに生きることは、イエスと共に生きることをするより−それは単に逃避にすぎません−もっとずっと困難であり、より大きな強烈さと英知を必要とします。−−、これが事実を「見る」ことに繋がる。
> >
> >  そして、事実を「見る」ことが、破壊と創造の行為に繋がる。
>
>
> そうです、つまり破壊と創造の行為が、どんどん変容が実際に起こっているのです。それが「あるもの」です。


 「条件付けられている生」において、条件付けが破壊されてゆく。

 条件付けを外そうとするのではなく、条件付けに気づき、それと共に生き、それを見る。それが「あるもの」。。


> > > (続く)


[26412] 最初のザーネン講話 4-5 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/21(Mon) 08:57  

1961年ザーネン公開講話 4回目の5

質問: 発見することの中に喜びと楽しみがあります。発見することは学ぶことではないのでしょうか?

クリシュナムルティ: 私達は私達の悲しみを発見し、そしてそれと共に喜びと歓喜の中で生きるでしょうか? 人は地球の美しさを発見し、それを大いに楽しむことができます。あるいは政治家の愚かしさを発見し、彼等を拒絶します。しかし悲しみの意味全体を発見することはまったく異なることではないでしょうか? それは私が私自身の悲しみと世界の悲しみを発見しなければならないということです。悲しみの本を勉強しそれを学ぶことは、あなたがすべきこととすべきでないことを学ぼうとしており、その結果あなたはあなた自身を守ることができるということです。どうかこれをよく話しましょう。私は権威ではありません。私はあなたが悲しみを学ぶことができるとは思いません。そのとき学ぶことは機械的になります。しかし機械的に収集することの危険が見える心は学ぶことをやめます。それは観察します。それは見ます。それは知覚します。それは学ぶこととはまったく異なります。受容も正当化もなしに、悲しみと共にいること、それと共に生きること、生きているものとしてのその運動を知ることは多量のエネルギーと洞察を必要とします。


ゴト: この質問と答えはいささか異様な経過をたどっています。発見は喜びで楽しい。これは学ぶことでないかという質問は技術者にとっては理解できることでもあります。だが、また予想と違う結果が出た、つまり失敗が続くときは心臓は縮み上がります。
 Kはいきなり悲しみの発見という厳粛な事柄に話を持っていきました。人間の悲しみの事例を蓄積し続けることは機械的ならともかく、人は耐えられないでしょう。だがこれこそが人間が正視し理解すべきことなのでしょう。
 >それ(心)は観察します。それは見ます。それは知覚します。それは学ぶこととはまったく異なります。受容も正当化もなしに、悲しみと共にいること、それと共に生きること、生きているものとしてのその運動を知ることは多量のエネルギーと洞察を必要とします。−− これが機械的学習でなく、本来の学ぶこととも言えるのですが、しかし混乱するといけないのでここでは学ぶは蓄積的学習としておきます。


質問: 最初のことの一つは心が何からできているかを知ることであると私には思われますが?

クリシュナムルティ: 心は何から出来ているのでしょう? 脳、感覚、能力、判断、疑い、迷信、恐怖。それ自身を分割する、否定する、切望する、熱望を持つ、安全、永続するものを求める心、継承されたこの全意識があります。そしてそれはそれの上に、その教育、経験などなどと共に現在を植え付けました。確かにそのすべてが心です。それは見ており、進化しており、変化しており、苦闘しており、苦しんでいる中心です。それは常に思考を制御しようとしている思考者を伴なった思考者と思考です。
 そして心がそれ自身からこのすべてを空にすることが出来るでしょうか? 「はい」とか「いいえ」と言うことはできません。人がすることの出来るすべては、意識の限界とその制限を見ることができるかできないか、境界を持つことが必要かどうか、そしてそのすべてを越えることができるかどうかを見出すことです。
 まじめな心はそれ自身の制限を知っており、それ自身の凡庸さ、愚かさ、怒り、嫉妬、野心に気づいています。そしてそれらを理解して、それは求めず、望まず、何かをもっと模索することをせず、静かに留まります。そのような心のみがそれ自身の中に秩序をもたらしたのであり、それゆえ静かです。そしてそのような心のみが、たぶん、心の生み出したものでないものを受け取ることが出来るのです。


ゴト: 長い太古からの時間を通してつくりだされてきた心の現在の内容、>まじめな心はそれ自身の制限を知っており、それ自身の凡庸さ、愚かさ、怒り、嫉妬、野心に気づいています。そしてそれらを理解して、それは求めず、望まず、何かをもっと模索することをせず、静かに留まります。そのような心のみがそれ自身の中に秩序をもたらしたのであり、それゆえ静かです。−− それ自身の中に秩序をもたらした心。それゆえに静かな心。……


質問: 自己を知ることはいくらかの努力を要します。

クリシュナムルティ: 私は驚きます! 皆さん、あなたは既に努力をしているのではないですか? 私達は常に何かであるために、獲得するために、何かをするために努力をしています。見ることは努力を要するでしょうか? 私はあの山と緑の傾斜を見ることに、それをただ見ることに興味があります。そしてそれは努力を要するでしょうか? 私が興味がないとき、私が見なければならないと言われるとき、それは努力を要します。そして興味がなく、見るように強いられないなら、なぜそれを悩むでしょう?


ゴト: 努力は葛藤、苦闘、すなわち、中心のあること、断片化の証しです。


質問: どうやってこのすべてのためのエネルギーを得ますか?

クリシュナムルティ: 「あるもの」と共に生きることはエネルギーを要すると私は言いました。そして質問はこうです。どうやってエネルギーを得ますか? どうかそれを調べてください。あなたが葛藤を持たないとき、あなたの心の中に矛盾がない、苦闘がない、暴力がないとき、あなたが無数の欲望によって反対の方向に引き裂かれているのでないとき、あなたはエネルギーを得ます。あなたは成功を崇拝することによって、何かであろうと望むことによって、有名であろうと望むことによって、達成しようと望むことによって、そのエネルギーを浪費します−あなたは私たちがする無数のことを知っています。それは矛盾を作り出します。私たちは精神病医に、教会に行くことの中で、私たちが追求する無数の逃避の中で、エネルギーを浪費するのです。矛盾がないなら、神々の、究極のものの、あなたの隣人の、他人の言うことの恐怖がないなら、そのときあなたはエネルギーを持ちます。貧弱な量ではなく豊富に。そしてあなたはそのエネルギー、その情熱を、あらゆる思考、あらゆる感情、あらゆるヒント、あらゆる暗示をまさに終りまで追跡するために持たなければなりません。


ゴト: 私はエネルギーを浪費している。

(4回目の講話 終わり)


[26411] Re:[26410] [26409] 最初のザーネン講話 4-4 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/20(Sun) 23:26  

> > 1961年ザーネン公開講話 4回目の4
> >
> > 質問: 理解は能力でしょうか?
> >
> > クリシュナムルティ: 理解は能力、養成されなければならない、ゆっくりと育てられなければならない何かでしょうか? 能力は時間の過程を意味します。そして私は何かを時間を通して、多くの日を通して理解するのでしょうか? それとも私は即時に何かを理解する、それを見るのでしょうか? 国家主義者であること、特定のグループ、団体や信念と同一化することは現実に愚かであるということを、私は理解するでしょうか? 何かに属すること、かかわり合いになることの意味全体を私は完全に見るでしょうか? ほら、私たちは皆特定のグループ、社会、種族や家族、名前に属することを望みますね。私たちはある形の行動にかかわることを望みます−共産主義者、社会主義者、宗教的、あるいは道徳的な。そしてこれはなぜなのでしょう? 幾つかのことがその中に含まれているのではないでしょうか? 私たちは「協同して」一緒に行動することを好みます。それはあるレベルではまったく正しいかもしれません。しかし内的に何かにかかわることは確かに理解と悟りの追求を妨げます。それを見ることは時間がかかりますか? それは私が怠惰なため時間がかかります。なぜなら私がかかわり合いになっており、私がかかわり合いから身を引くなら厄介を引き起こすだろうということを恐れているからです。それで私は「それを考え抜くために時間をかけよう」と言います。怠惰な心は直接、明確に、実際に見ることをそれ自身にさせないようにします。まさか、自分自身が愚かであるのを見るのに時間を要しないでしょう? 私はそれを見ることができます。誰もそれを私に教える必要はありません。しかし私がそれを変えることを望むとき、利口になりたいとき、より多くこれであり、よりあれでなくありたいとき、そのときそれは時間を意味し、暴力を意味します。しかし私が愚かであることを見ること、それを本当に見て完全にその中にいることが、理解を要求するだけでなく、見ることそのものが、ひとりでに、私自身の中と周囲に築いたあらゆるものを破壊します。そしてそれが私が恐れていることなのです。
> >  それで、私が愚かで、狭量で、けちな心をもった、凡庸で、劣っているのを見ること。そしてそれを変えようとしないで、それを洗練して新しい名前、新しい肩書き、などなどを与えようとしないで、それと共に生きること。すべてのその運動、その見せかけをじっと見ること、利口になろうとすることの愚かさを見ること−そのすべては時間を必要としません。それは能力を必要としません。それはそのまさに終りまで行こうとするまじめさを必要とします。
> >  ほら、皆さん、危険があるとき、私たちは即座に行動し、即座に感じ、即座に見ますね。私たちの本能、感覚のすべてが十分に目覚め、私たちは時間について話しません。
> >
> >
> > ゴト: 理解は能力でしょうかというこの質問は一度は通らなければならな関門だと思います。理解は知識を学習しその内容を理解することだと普通思われています。
> >  >私がそれを変えることを望むとき、利口になりたいとき、より多くこれであり、よりあれでなくありたいとき、そのときそれは時間を意味し、暴力を意味します。しかし私が愚かであることを見ること、それを本当に見て完全にその中にいることが、理解を要求するだけでなく、見ることそのものが、ひとりでに、私自身の中と周囲に築いたあらゆるものを破壊します。そしてそれが私が恐れていることなのです。−−
> >  これは完璧な答えなのですが、今見る時、考え始めれば迷路に入るでしょう。直覚的に全容を見る、聴くことが必要です。包括的に観取する。
>
>
>  家族や仕事も破壊されるのでしょうか。。


あのね、何が破壊されるかといってもこれは自分や共同体が築き上げた心理的なマインドに関係する事柄ですよ。うちの家内は私が彼女にイメージを投影しないので、妻のあるべき姿という概念を私が破壊し、押し付けていないので自由に飛び跳ねていますよ。子供だってそうです。常に対等に話せる一人前の人間として生きています。男尊女卑とか長幼序ありとかの観念は破壊されています。個人的な人生かという意見も持っていません。先入観とか価値観とか人生観も破壊しています。仕事もきちんとするだけでなく、お互いが対等に話せる気分の良い職場をみんなと共に作りましたよ。


>  ゴトさんも、>私自身の中と周囲に築いたあらゆるものを破壊します。−−、これが起こったのでしょうか?


あのね、心が作り出す心理的な壁となる観念、考えを破壊しつくします。私の家庭は規律もあるし皆がのびのびとストレスなく暮らしています。葛藤がないからです。家人はまだケンカしますが。


> >  > それで、私が愚かで、狭量で、けちな心をもった、凡庸で、劣っているのを見ること。そしてそれを変えようとしないで、それを洗練して新しい名前、新しい肩書き、などなどを与えようとしないで、それと共に生きること。すべてのその運動、その見せかけをじっと見ること、利口になろうとすることの愚かさを見ること−そのすべては時間を必要としません。それは能力を必要としません。それはそのまさに終りまで行こうとするまじめさを必要とします。−−
> >
> > 完璧に要点が尽くされているように思います。
>
>
>  >愚かで、狭量で、けちな心をもった、凡庸で、劣っている−−、これは自我のことであり、「あるもの」と陳述されているもの。
>
>  この「あるもの」と共に生きる。

自分がケチで狭量だと気づいている人はすでに愚かではありません。変容が起こっているのです。この「いま在るもの」は自我のような概念がすくない、瞬時瞬時の実在にラベルをなるべく張らない言語が使われているのです。すでに自我の中心はほとんどなくなっているのかもしれませんよ。


> > 質問: 人は欲望の愚かさを見、それから自由であるように思われます。しかし次ぎにそれはまたやって来ます。
> >
> > クリシュナムルティ: 私は一度も自由な心は欲望を持たないと言ったことがありません。だって、欲望のどこが間違っているのでしょうか? 問題はそれが葛藤をつくり出すとき、私が持つことの出来ないあの素敵な自動車を欲しがるとき生じます。しかし車を、その線の美しさ、色、それが出せるスピードを見ること、それのどこが間違っているのでしょう? それをじっと見ようとする、それを注視しようとするその欲望は間違っていますか? 欲望は私がそのものを所有しようと望むときのみ切迫し、強迫的になります。私たちは、何か、煙草、酒、特定の考え方のとりこになることが欲望を意味すること、そしてパターンから抜け出そうとする努力もまた欲望を意味することを見て、それで欲望のない状態に到らなければならないと言います。いかに私たちが私たちの取るに足らなさによって生を形作るかを見てください! それゆえ私たちの生は、未知の恐怖と暗い隅に満ちた、凡庸な事柄になります。しかし私達が話してきたことすべてを、それを実際に見ることによって理解するなら、そのとき欲望はまったく違った意味を持つと私は思います。
> >
> >
> > ゴト: 欲望について考えはそれを問題とし、それからの脱出という二元性の問題(=葛藤)をつくり出します。これは凡庸。
> >  >しかし私達が話してきたことすべてを、それを実際に見ることによって理解するなら、そのとき欲望はまったく違った意味を持つと私は思います。−−
> >
> >
> > 質問: 私たちが見るものと同一化することと、見るものと共に生きることを区別することができるでしょうか?
> >
> > クリシュナムルティ: なぜ私たちは何かと同一化したいのでしょう? より大きい、より高尚な、より価値のある何かになるためではないでしょうか? 私たちは生に意味を持ちたいと思います。なぜなら私たちにとって生は意味を持っていないからです。なぜひとは家族、友人、観念、国と同一化しなければならないのでしょうか? なぜすべての同一化を払いのけ、いつも、「あるもの」と生きないのでしょうか? それはつねに変化しており、決してじっとしていません。
> >
> > 質問: ものごとと同一化しないなら、そのときそのすべての外側で生きることができると私は思いますが?
> >
> > クリシュナムルティ: 事実はこうではないでしょうか。私たちは私たちの狭量な嫉妬、虚栄、愚かさと共に、私たち自身の狭い輪のなかで生きています。それが私たちの生です。そして私たちはそのことに直面しなければならないのであり、神や山などと同一化することではありません。それらと共に生きることは、すなわち、それを変えようとすることなしに生きることは、イエスと共に生きることをするより−それは単に逃避にすぎません−もっとずっと困難であり、より大きな強烈さと英知を必要とします。
> >
> >
> > ゴト: 同一化の質問二つを一連のものとして見ています。同一化しなければ国家等々の外部に立てるのではないかと。Kはそうではなくて、その場合にはは狭量な私たち自身の狭い輪の中で生きることに戻るだけであると。そうでなくそのものに直面し、それらと共に生きる、変えようとしないで生きることがより大きな強烈さと叡智を必要とする必要なことであると。
>
>
>  最初のザーネン講話 4 では、「あるもの」が度々登場します。
>
>  理想と共に生きるのではなく、「あるもの」すなわち自我と共に生きることが、事実と共に生きる、事実を見て生きる、すなわち、>事実はこうではないでしょうか。私たちは私たちの狭量な嫉妬、虚栄、愚かさと共に、私たち自身の狭い輪のなかで生きています。それが私たちの生です。そして私たちはそのことに直面しなければならないのであり、神や山などと同一化することではありません。それらと共に生きることは、すなわち、それを変えようとすることなしに生きることは、イエスと共に生きることをするより−それは単に逃避にすぎません−もっとずっと困難であり、より大きな強烈さと英知を必要とします。−−、これが事実を「見る」ことに繋がる。
>
>  そして、事実を「見る」ことが、破壊と創造の行為に繋がる。


そうです、つまり破壊と創造の行為が、どんどん変容が実際に起こっているのです。それが「あるもの」です。

> > (続く)


[26410] Re:[26409] 最初のザーネン講話 4-4 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/20(Sun) 13:44  

> 1961年ザーネン公開講話 4回目の4
>
> 質問: 理解は能力でしょうか?
>
> クリシュナムルティ: 理解は能力、養成されなければならない、ゆっくりと育てられなければならない何かでしょうか? 能力は時間の過程を意味します。そして私は何かを時間を通して、多くの日を通して理解するのでしょうか? それとも私は即時に何かを理解する、それを見るのでしょうか? 国家主義者であること、特定のグループ、団体や信念と同一化することは現実に愚かであるということを、私は理解するでしょうか? 何かに属すること、かかわり合いになることの意味全体を私は完全に見るでしょうか? ほら、私たちは皆特定のグループ、社会、種族や家族、名前に属することを望みますね。私たちはある形の行動にかかわることを望みます−共産主義者、社会主義者、宗教的、あるいは道徳的な。そしてこれはなぜなのでしょう? 幾つかのことがその中に含まれているのではないでしょうか? 私たちは「協同して」一緒に行動することを好みます。それはあるレベルではまったく正しいかもしれません。しかし内的に何かにかかわることは確かに理解と悟りの追求を妨げます。それを見ることは時間がかかりますか? それは私が怠惰なため時間がかかります。なぜなら私がかかわり合いになっており、私がかかわり合いから身を引くなら厄介を引き起こすだろうということを恐れているからです。それで私は「それを考え抜くために時間をかけよう」と言います。怠惰な心は直接、明確に、実際に見ることをそれ自身にさせないようにします。まさか、自分自身が愚かであるのを見るのに時間を要しないでしょう? 私はそれを見ることができます。誰もそれを私に教える必要はありません。しかし私がそれを変えることを望むとき、利口になりたいとき、より多くこれであり、よりあれでなくありたいとき、そのときそれは時間を意味し、暴力を意味します。しかし私が愚かであることを見ること、それを本当に見て完全にその中にいることが、理解を要求するだけでなく、見ることそのものが、ひとりでに、私自身の中と周囲に築いたあらゆるものを破壊します。そしてそれが私が恐れていることなのです。
>  それで、私が愚かで、狭量で、けちな心をもった、凡庸で、劣っているのを見ること。そしてそれを変えようとしないで、それを洗練して新しい名前、新しい肩書き、などなどを与えようとしないで、それと共に生きること。すべてのその運動、その見せかけをじっと見ること、利口になろうとすることの愚かさを見ること−そのすべては時間を必要としません。それは能力を必要としません。それはそのまさに終りまで行こうとするまじめさを必要とします。
>  ほら、皆さん、危険があるとき、私たちは即座に行動し、即座に感じ、即座に見ますね。私たちの本能、感覚のすべてが十分に目覚め、私たちは時間について話しません。
>
>
> ゴト: 理解は能力でしょうかというこの質問は一度は通らなければならな関門だと思います。理解は知識を学習しその内容を理解することだと普通思われています。
>  >私がそれを変えることを望むとき、利口になりたいとき、より多くこれであり、よりあれでなくありたいとき、そのときそれは時間を意味し、暴力を意味します。しかし私が愚かであることを見ること、それを本当に見て完全にその中にいることが、理解を要求するだけでなく、見ることそのものが、ひとりでに、私自身の中と周囲に築いたあらゆるものを破壊します。そしてそれが私が恐れていることなのです。−−
>  これは完璧な答えなのですが、今見る時、考え始めれば迷路に入るでしょう。直覚的に全容を見る、聴くことが必要です。包括的に観取する。


 家族や仕事も破壊されるのでしょうか。。

 ゴトさんも、>私自身の中と周囲に築いたあらゆるものを破壊します。−−、これが起こったのでしょうか?



>  > それで、私が愚かで、狭量で、けちな心をもった、凡庸で、劣っているのを見ること。そしてそれを変えようとしないで、それを洗練して新しい名前、新しい肩書き、などなどを与えようとしないで、それと共に生きること。すべてのその運動、その見せかけをじっと見ること、利口になろうとすることの愚かさを見ること−そのすべては時間を必要としません。それは能力を必要としません。それはそのまさに終りまで行こうとするまじめさを必要とします。−−
>
> 完璧に要点が尽くされているように思います。


 >愚かで、狭量で、けちな心をもった、凡庸で、劣っている−−、これは自我のことであり、「あるもの」と陳述されているもの。

 この「あるもの」と共に生きる。


 
> 質問: 人は欲望の愚かさを見、それから自由であるように思われます。しかし次ぎにそれはまたやって来ます。
>
> クリシュナムルティ: 私は一度も自由な心は欲望を持たないと言ったことがありません。だって、欲望のどこが間違っているのでしょうか? 問題はそれが葛藤をつくり出すとき、私が持つことの出来ないあの素敵な自動車を欲しがるとき生じます。しかし車を、その線の美しさ、色、それが出せるスピードを見ること、それのどこが間違っているのでしょう? それをじっと見ようとする、それを注視しようとするその欲望は間違っていますか? 欲望は私がそのものを所有しようと望むときのみ切迫し、強迫的になります。私たちは、何か、煙草、酒、特定の考え方のとりこになることが欲望を意味すること、そしてパターンから抜け出そうとする努力もまた欲望を意味することを見て、それで欲望のない状態に到らなければならないと言います。いかに私たちが私たちの取るに足らなさによって生を形作るかを見てください! それゆえ私たちの生は、未知の恐怖と暗い隅に満ちた、凡庸な事柄になります。しかし私達が話してきたことすべてを、それを実際に見ることによって理解するなら、そのとき欲望はまったく違った意味を持つと私は思います。
>
>
> ゴト: 欲望について考えはそれを問題とし、それからの脱出という二元性の問題(=葛藤)をつくり出します。これは凡庸。
>  >しかし私達が話してきたことすべてを、それを実際に見ることによって理解するなら、そのとき欲望はまったく違った意味を持つと私は思います。−−
>
>
> 質問: 私たちが見るものと同一化することと、見るものと共に生きることを区別することができるでしょうか?
>
> クリシュナムルティ: なぜ私たちは何かと同一化したいのでしょう? より大きい、より高尚な、より価値のある何かになるためではないでしょうか? 私たちは生に意味を持ちたいと思います。なぜなら私たちにとって生は意味を持っていないからです。なぜひとは家族、友人、観念、国と同一化しなければならないのでしょうか? なぜすべての同一化を払いのけ、いつも、「あるもの」と生きないのでしょうか? それはつねに変化しており、決してじっとしていません。
>
> 質問: ものごとと同一化しないなら、そのときそのすべての外側で生きることができると私は思いますが?
>
> クリシュナムルティ: 事実はこうではないでしょうか。私たちは私たちの狭量な嫉妬、虚栄、愚かさと共に、私たち自身の狭い輪のなかで生きています。それが私たちの生です。そして私たちはそのことに直面しなければならないのであり、神や山などと同一化することではありません。それらと共に生きることは、すなわち、それを変えようとすることなしに生きることは、イエスと共に生きることをするより−それは単に逃避にすぎません−もっとずっと困難であり、より大きな強烈さと英知を必要とします。
>
>
> ゴト: 同一化の質問二つを一連のものとして見ています。同一化しなければ国家等々の外部に立てるのではないかと。Kはそうではなくて、その場合にはは狭量な私たち自身の狭い輪の中で生きることに戻るだけであると。そうでなくそのものに直面し、それらと共に生きる、変えようとしないで生きることがより大きな強烈さと叡智を必要とする必要なことであると。


 最初のザーネン講話 4 では、「あるもの」が度々登場します。

 理想と共に生きるのではなく、「あるもの」すなわち自我と共に生きることが、事実と共に生きる、事実を見て生きる、すなわち、>事実はこうではないでしょうか。私たちは私たちの狭量な嫉妬、虚栄、愚かさと共に、私たち自身の狭い輪のなかで生きています。それが私たちの生です。そして私たちはそのことに直面しなければならないのであり、神や山などと同一化することではありません。それらと共に生きることは、すなわち、それを変えようとすることなしに生きることは、イエスと共に生きることをするより−それは単に逃避にすぎません−もっとずっと困難であり、より大きな強烈さと英知を必要とします。−−、これが事実を「見る」ことに繋がる。

 そして、事実を「見る」ことが、破壊と創造の行為に繋がる。


> (続く)


[26409] 最初のザーネン講話 4-4 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/20(Sun) 09:46  

1961年ザーネン公開講話 4回目の4

質問: 理解は能力でしょうか?

クリシュナムルティ: 理解は能力、養成されなければならない、ゆっくりと育てられなければならない何かでしょうか? 能力は時間の過程を意味します。そして私は何かを時間を通して、多くの日を通して理解するのでしょうか? それとも私は即時に何かを理解する、それを見るのでしょうか? 国家主義者であること、特定のグループ、団体や信念と同一化することは現実に愚かであるということを、私は理解するでしょうか? 何かに属すること、かかわり合いになることの意味全体を私は完全に見るでしょうか? ほら、私たちは皆特定のグループ、社会、種族や家族、名前に属することを望みますね。私たちはある形の行動にかかわることを望みます−共産主義者、社会主義者、宗教的、あるいは道徳的な。そしてこれはなぜなのでしょう? 幾つかのことがその中に含まれているのではないでしょうか? 私たちは「協同して」一緒に行動することを好みます。それはあるレベルではまったく正しいかもしれません。しかし内的に何かにかかわることは確かに理解と悟りの追求を妨げます。それを見ることは時間がかかりますか? それは私が怠惰なため時間がかかります。なぜなら私がかかわり合いになっており、私がかかわり合いから身を引くなら厄介を引き起こすだろうということを恐れているからです。それで私は「それを考え抜くために時間をかけよう」と言います。怠惰な心は直接、明確に、実際に見ることをそれ自身にさせないようにします。まさか、自分自身が愚かであるのを見るのに時間を要しないでしょう? 私はそれを見ることができます。誰もそれを私に教える必要はありません。しかし私がそれを変えることを望むとき、利口になりたいとき、より多くこれであり、よりあれでなくありたいとき、そのときそれは時間を意味し、暴力を意味します。しかし私が愚かであることを見ること、それを本当に見て完全にその中にいることが、理解を要求するだけでなく、見ることそのものが、ひとりでに、私自身の中と周囲に築いたあらゆるものを破壊します。そしてそれが私が恐れていることなのです。
 それで、私が愚かで、狭量で、けちな心をもった、凡庸で、劣っているのを見ること。そしてそれを変えようとしないで、それを洗練して新しい名前、新しい肩書き、などなどを与えようとしないで、それと共に生きること。すべてのその運動、その見せかけをじっと見ること、利口になろうとすることの愚かさを見ること−そのすべては時間を必要としません。それは能力を必要としません。それはそのまさに終りまで行こうとするまじめさを必要とします。
 ほら、皆さん、危険があるとき、私たちは即座に行動し、即座に感じ、即座に見ますね。私たちの本能、感覚のすべてが十分に目覚め、私たちは時間について話しません。


ゴト: 理解は能力でしょうかというこの質問は一度は通らなければならな関門だと思います。理解は知識を学習しその内容を理解することだと普通思われています。
 >私がそれを変えることを望むとき、利口になりたいとき、より多くこれであり、よりあれでなくありたいとき、そのときそれは時間を意味し、暴力を意味します。しかし私が愚かであることを見ること、それを本当に見て完全にその中にいることが、理解を要求するだけでなく、見ることそのものが、ひとりでに、私自身の中と周囲に築いたあらゆるものを破壊します。そしてそれが私が恐れていることなのです。−−
 これは完璧な答えなのですが、今見る時、考え始めれば迷路に入るでしょう。直覚的に全容を見る、聴くことが必要です。包括的に観取する。

 > それで、私が愚かで、狭量で、けちな心をもった、凡庸で、劣っているのを見ること。そしてそれを変えようとしないで、それを洗練して新しい名前、新しい肩書き、などなどを与えようとしないで、それと共に生きること。すべてのその運動、その見せかけをじっと見ること、利口になろうとすることの愚かさを見ること−そのすべては時間を必要としません。それは能力を必要としません。それはそのまさに終りまで行こうとするまじめさを必要とします。−−

完璧に要点が尽くされているように思います。

 
質問: 人は欲望の愚かさを見、それから自由であるように思われます。しかし次ぎにそれはまたやって来ます。

クリシュナムルティ: 私は一度も自由な心は欲望を持たないと言ったことがありません。だって、欲望のどこが間違っているのでしょうか? 問題はそれが葛藤をつくり出すとき、私が持つことの出来ないあの素敵な自動車を欲しがるとき生じます。しかし車を、その線の美しさ、色、それが出せるスピードを見ること、それのどこが間違っているのでしょう? それをじっと見ようとする、それを注視しようとするその欲望は間違っていますか? 欲望は私がそのものを所有しようと望むときのみ切迫し、強迫的になります。私たちは、何か、煙草、酒、特定の考え方のとりこになることが欲望を意味すること、そしてパターンから抜け出そうとする努力もまた欲望を意味することを見て、それで欲望のない状態に到らなければならないと言います。いかに私たちが私たちの取るに足らなさによって生を形作るかを見てください! それゆえ私たちの生は、未知の恐怖と暗い隅に満ちた、凡庸な事柄になります。しかし私達が話してきたことすべてを、それを実際に見ることによって理解するなら、そのとき欲望はまったく違った意味を持つと私は思います。


ゴト: 欲望について考えはそれを問題とし、それからの脱出という二元性の問題(=葛藤)をつくり出します。これは凡庸。
 >しかし私達が話してきたことすべてを、それを実際に見ることによって理解するなら、そのとき欲望はまったく違った意味を持つと私は思います。−−


質問: 私たちが見るものと同一化することと、見るものと共に生きることを区別することができるでしょうか?

クリシュナムルティ: なぜ私たちは何かと同一化したいのでしょう? より大きい、より高尚な、より価値のある何かになるためではないでしょうか? 私たちは生に意味を持ちたいと思います。なぜなら私たちにとって生は意味を持っていないからです。なぜひとは家族、友人、観念、国と同一化しなければならないのでしょうか? なぜすべての同一化を払いのけ、いつも、「あるもの」と生きないのでしょうか? それはつねに変化しており、決してじっとしていません。

質問: ものごとと同一化しないなら、そのときそのすべての外側で生きることができると私は思いますが?

クリシュナムルティ: 事実はこうではないでしょうか。私たちは私たちの狭量な嫉妬、虚栄、愚かさと共に、私たち自身の狭い輪のなかで生きています。それが私たちの生です。そして私たちはそのことに直面しなければならないのであり、神や山などと同一化することではありません。それらと共に生きることは、すなわち、それを変えようとすることなしに生きることは、イエスと共に生きることをするより−それは単に逃避にすぎません−もっとずっと困難であり、より大きな強烈さと英知を必要とします。


ゴト: 同一化の質問二つを一連のものとして見ています。同一化しなければ国家等々の外部に立てるのではないかと。Kはそうではなくて、その場合にはは狭量な私たち自身の狭い輪の中で生きることに戻るだけであると。そうでなくそのものに直面し、それらと共に生きる、変えようとしないで生きることがより大きな強烈さと叡智を必要とする必要なことであると。

(続く)


[26408] Re:[26325] 全体的に見ることの難しさ 投稿者:無明 投稿日:2019/01/20(Sun) 08:41  

>  12月KB会を見て思ったことは、全体的に見ることの難しさでした。。
>
>  渡辺さんは、内面を見るときに、例えば、怒りを見るときに、全体的に見ることが起こっていないように思われます。。
>
>  これが、渡辺さんにおいてクリシュナムルティが述べたことが起こらない理由のように思われます。。
>
>  渡辺さんと連絡が取れることがあれば、是非とも伝えたいのですが、今は、その術がありません。

聞き捨てならない一文なので再録しました。
渡辺さんではなく、自分がでしょう。何で人名を出すのか。

これに対し、ゴトさんが、「判断」26326 と称して、賢明なコメントがあった。
人のことより自分だと。

ところが宮啓という男は、又、新しい芽氏に対し、失礼極まりない無礼なコメントを発した。
自分の無理な要求を断わられた腹いせかどうか知らぬが、その相手新しい芽氏に対して、葛藤の中にいるというのは、いやはや何をか言わんや。しかも、最後の質問と称して、新しい芽氏は葛藤が逃れ得たのかと。

ゴトさんが言われるように、不遜な一文。

もしに仮にだ。将来、ゴトさんが、この掲示板を閉じるという時、その内容を譲り受けてくれと申し出るのだろうか?

もし、本気だとしたら、何と厚かましい人間だ。
クリシュナムルティの翻訳は、並大抵な努力ではできない代物である。それを譲り受けてくれとは。

仮に断わられたとする。すると、相手に対し、葛藤の中にいる。
葛藤にまみれている。葛藤から逃れていないというのだろうか。

この心理状態は、自分の要求が、相手に通らないとき、相手に対して悪口を言う。相手を批判する。この心理と全く同じである。

こうした自分の心理状態が見えない人間が、いくらクリシュナムルティの本を読んでもわかるはずがない。自分の中がわからないのにだ。
全て相手のせいにする。これこそ「自我」でしょ。


[26407] ちょいと一言 投稿者:無明 投稿日:2019/01/19(Sat) 19:33  

> > >  そこで、この件につきまして、最後の質問をさせてもらえないでしょうか。。
> > >
> > >  新しい芽さんは、一昨年の秋にそのサイトを閉じましたが、その頃の新しい芽さんとのやりとりで、新しい芽さんは葛藤の中にいるように感じられました。

あなたは人のことを言えたガラなのだろうか?
渡辺さんに対してもだ。
あなたと違い、新しい芽氏や渡辺氏は、とっくに葛藤など捨てられている。
ある意味悟っている。
> > >
> > >  そのサイトを閉じるに際して、その内容を譲り受けることを私は願ったのですが、激しく拒絶された感覚を覚えたのです。

拒絶されて葛藤に陥ったのは、それこそあなたの方だろう。
新しい芽氏に無理難題を押し付け、それを断られたら、相手に対して葛藤に中にいるとは。つまり相手のせいにする。
このときのやりとりをつぶさに見ているのでよくわかる。
そもそも、人が苦労して訳したものを、そっくり譲る受けろとは、どういう魂胆か。
> > >
> > >  そこで、質問は、その当時、新しい芽さんは葛藤を免れ得ていたのでしょうか?

全くの愚問。失礼極まりない。
私は新しい芽氏、渡辺氏をよく知っているだけに、なおさらだ。
> > >
> > >  どうぞよろしくお願いします。

失礼な物言いをして、何がよろしくお願いしますだろう。
> >
> >


以下のコメントはピント外れ。

>  他者の心を推測で確定することはできないですね。。
>
>  私にとっては「不確定」ということなのかもしれません。。

意味不明。
人を批判して、「不確定」だと。
クリシュナムルティに触れるのは、土台無理。
これまでずっと見てきたが、クリシュナムルティの記述に対するコメントは、全くの的外れで何もわかってない。
一体何のために、この掲示板にいるのか。

人を愛することを「自我」と決めつけるとは。
まったく呆れ返った。



[26406] Re:[26405] [26401] [26399] [26398] [26396] [26394] [26391] [26389] [26380] [26379] [26377] [26374] [26372] 家族の愛着 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/19(Sat) 17:29  

> >  そこで、この件につきまして、最後の質問をさせてもらえないでしょうか。。
> >
> >  新しい芽さんは、一昨年の秋にそのサイトを閉じましたが、その頃の新しい芽さんとのやりとりで、新しい芽さんは葛藤の中にいるように感じられました。
> >
> >  そのサイトを閉じるに際して、その内容を譲り受けることを私は願ったのですが、激しく拒絶された感覚を覚えたのです。
> >
> >  そこで、質問は、その当時、新しい芽さんは葛藤を免れ得ていたのでしょうか?
> >
> >  どうぞよろしくお願いします。
>
>
> 新しい芽さんは私のはるか前を進んでいらした方で、その境地は私にはうかがい知れないところのものです。
> さてご質問の件ですが、他人の心などそう簡単にわかtることなのでしょうか? 私はKの初歩の基礎から教わったので、当然葛藤のない境地にいられる方だと思いますが、このように言うことさえ不遜なことである気がします。


 他者の心を推測で確定することはできないですね。。

 私にとっては「不確定」ということなのかもしれません。。


[26405] Re:[26401] [26399] [26398] [26396] [26394] [26391] [26389] [26380] [26379] [26377] [26374] [26372] 家族の愛着 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/19(Sat) 16:47  

>  そこで、この件につきまして、最後の質問をさせてもらえないでしょうか。。
>
>  新しい芽さんは、一昨年の秋にそのサイトを閉じましたが、その頃の新しい芽さんとのやりとりで、新しい芽さんは葛藤の中にいるように感じられました。
>
>  そのサイトを閉じるに際して、その内容を譲り受けることを私は願ったのですが、激しく拒絶された感覚を覚えたのです。
>
>  そこで、質問は、その当時、新しい芽さんは葛藤を免れ得ていたのでしょうか?
>
>  どうぞよろしくお願いします。


新しい芽さんは私のはるか前を進んでいらした方で、その境地は私にはうかがい知れないところのものです。
さてご質問の件ですが、他人の心などそう簡単にわかtることなのでしょうか? 私はKの初歩の基礎から教わったので、当然葛藤のない境地にいられる方だと思いますが、このように言うことさえ不遜なことである気がします。


[26404] Re:[26397] 最初のザーネン講話 4-3 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/19(Sat) 13:26  

> 1961年ザーネン公開講話 4回目の3
>
>  それゆえ、私には、学習はありません。見ることだけがあります。見ることは蓄積的ではありません。それは取り込む過程、あるいは否定する過程ではありません。「あるもの」を見ることは破壊的です。そして破壊のなかに、暴力でなく、平和があります。暴力、革命、変化は、蓄積する、中心を保持する過程の中に存在します。しかしその過程の全体を、自分の全存在で、すっかり、完全に見るとき、そのとき事実、いまあるもの、は完全に破壊的です。そして破壊であることは創造です。
>
>
> ゴト: これは思考・知性で読めるコメントではありません。マインド&ハートで、全存在で読みましょう。


 ここで出てくる「あるもの」とは、最初のザーネン講話4−2で説明されているとおり、「自我」のことですね。


 断崖やハブを見て衝撃を受けるように「自我」を「見る」ことができるか・・。そのときに、「自我」に対して破壊的な行為となる「見る」。

 それが起こったとき、一瞬間でも自我が消える。創造がある。
 あのときの慈悲心がここで述べられている「創造」のことなのかもしれません。。
>
>
>  それで謙遜はすべての蓄積的過程とその反対物を完全に捨ててしまい、瞬時瞬時あるものに気づいているその心の状態です。したがってそれは意見、判断を持ちません。そしてそのような心は自由が何であるか知っています。暴力にとらわれた心は自由を持っていません。そして自由を追求している心は決して自由ではあり得ません。なぜならそれにとって自由はいっそうの蓄積であるからです。
>
>
> ゴト: 謙遜は見ている状態であるのですね。
>
>
 >瞬時瞬時あるものに気づいているその心の状態です。−−、ここの「あるもの」も「自我」のことを指すと思われます。

 瞬時瞬時に「自我」に気づいている。自我の暴力的過程に気づいている。自我による変化の希求と過程は暴力であることを見ている。


>  謙遜は全面的な破壊を意味します。外部の、社会的な物事のではなくて、中心の、自分自身の、自分自身の観念、経験、知識、伝統の完全な破壊−心が知ったあらゆるものを心から完全に空にすること。したがってそのような心はもはや変化の観点から考えていません。それを感じることができるなら、それは本当に素晴らしいものです。ほら、それが瞑想の一部です。


 自我の全構造・全過程を見ると、その構成要素となる>自分自身の観念、経験、知識、伝統−−これが破壊される。>心が知ったあらゆるものを心から完全に空にすること−−



> ゴト: 瞑想の一部、一部ということがわかりません。
>
>
>  そこでまず私たちは変化の過程を徹底的に理解しなければなりません。なぜならそれが私たちの大部分が望んでいることであるからです−変化すること。世界は外部のものごとにおいて非常に速やかに変化しています。ロケットやその他もろもろを発明し、月に行こうとしています。価値が変化しています。コカコーラが世界中に広がりました。昔の文明が崩れつつあります。変化の素早さは変化の事実より大きいです。すべての昔の神々、伝統、救い主、大師−彼等はすべて去りつつあるか去ってしまいました。わずかな人々が自身のまわりに防御の壁を建てて、彼等にしがみついていますが、あらゆるものが去りつつあります。そして心は破壊にかかわっていません。それは創造にかかわっていません。それはさらにいっそうの避難所、新しい隠れ家を常に求め、それ自身を防御することにかかわっているだけです。
>
>
> ゴト: 文明・文化の進化の過程とは変化の過程であり(変容ではない)、人はそれを望んだり、古い消えゆくものに必死でしがみつこうとしています。
>
>
>  そこで謙遜の問題を非常に深くまじめに調べるなら、あなたはこの学習−物事を それらが現実にそうであるように見ることを妨げる言葉のレベルでの学習−の全過程を確かに疑う筈です。もはや変化にかかわっていない心は恐怖を持たず、したがって自由です。そして私たちが話してきたことを理解した心−そのような心が絶対に不可欠であると私には思われます。そのとき、それは、もはやそれ自身をほかの型に変えようとしていません。もはやそれ自身をそれ以上の経験にさらそうとしていません。もはや尋ね、要求していません。なぜならそのような心は自由であるからです。したがってそれは静かであることが、じっとしていることができます。そしてそのとき、たぶん、名のないものが生じることができるでしょう。それゆえ謙遜は不可欠です。しかし人為的な、養成された種類のものでなく。ひとは能力なしに、才能なしにあるのでなければなりませんね。内的に無としてあるのでなければなりません。そして、どうやって無としてあるかを学習することなしに−それはあまりに馬鹿げていて愚かです−、これを見るなら、そのとき見ることはそれを経験することです。そしてそのとき、ことによると、他のものが生じる得るかもしれません。
>
>
> ゴト: ああ、私の望んでいた文明、文化の喝破はすでにクリシュナムルティが行い存在していた。自分の不明があっただけだ。そんな私の訳を通してさえ、Kの述べることの骨子はちゃんと伝わってくる。内的に無であることが唯一、この虚偽のものを破壊するものである。
>
>
>  私たちはこの事を−この事についてだけ、話すことができるでしょうか? わたしたちがどうやって世界を変えるつもりかではなく。あるいは誰か偉大な政治家が次ぎに何をするだろうかではなく。
>
> (続く)
>
> ゴト: こうして参加者との質問・対話に移ります。


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