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[25806] Re:[25804] [25803] 既知からの自由8−2 投稿者:宮啓 投稿日:2018/08/15(Wed) 18:31  

> > 8章ー2[孤独・天真爛漫・あるがままの自分自身と生きる]
> >
> >  自由は心の状態です ― 何かからの自由ではなくて自由の感覚、全てを疑い問う自由です。それゆえ非常に熱心で活発で精力的なので、あらゆる形の依存、隷属、順応、受容を投げ捨てます。その様な自由は完全に一人であることを含みます。しかしあまりにも環境やそれ自体の風潮に依存している文化の中で育てられた心は、完全な孤独であり、指導も伝統も権威もないあの自由を果たして見いだすことができるでしょうか? この孤独はどのような刺激にも知識にも依存しない心の内的な状態であり、何かの経験や結論の結果ではありません。私たちはたいてい、内的に、決して一人ではありません。自分を切り離す孤立と、単独性、孤独との間には違いがあります。私たちは皆孤立することがどういう事か知っています ― 決して傷つけられたり傷つきやすくならないために自分の周りに壁を建てたり、苦悩の別の形である世俗からの離脱を育んだり、あるいは何かの空想的なイデオロギーの象牙の塔の中で生きたりです。単独性は全く異なるものです。
>
>
> >>  自由は心の状態です ― 何かからの自由ではなくて自由の感覚、全てを疑い問う自由です。それゆえ非常に熱心で活発で精力的なので、あらゆる形の依存、隷属、順応、受容を投げ捨てます。その様な自由は完全に一人であることを含みます。−−
>
> あらゆる形の依存、隷属、順応、受容を投げ捨てる・・・完全に一人であることを含む。 さらっと言われてしまったけれど、この意味するところは怖すぎます。今の社会は完全に分業が進んですべてを専門的な職業人に頼っていますよ。それは物質的な事柄に限られているのではないかという質問があるかもしれません。Kは心理的に一人立つことを言っているというかもしれません。しかし、私はもしスーパーで気を失った時、周りの店員や居合わせた客が一人の人間として何とかしようとしてくれることを疑ったことはありません。依存でも受容でもありませんが、そういう信頼を持っています。財布を持っていかれないかと心配したりしません。私は見当はずれのことを言っているのでしょうか?


 スーパーで気を失った時、周りの店員や居合わせた客が一人の人間として何とかしようとしてくれることも良し、また、してくれないことも「あり」。どちらもオーケー。

 財布を持っていかれないことも良し、また、持っていかれることも「あり」。どちらもオーケー。

 もしも、オーケーでない場合。人は、助けてくれるよう、人との和を保ち、助力してくれる関係を構築し、〇〇し、・・●●し、・・と計算高く生きようとする。財布を持っていかれないように、外出は控えめにし、絶えず警戒し、貯蓄の防衛を強化する。しないだろうか・・。

 「どちらもオーケー」とは自由であり、そうなろうとしてなれるものではなく、クリシュナムルティ理解の暁にそうなっているもの。。


> >  あなたは決して孤独ではありません、というのは全ての記憶、全ての条件付け、昨日のつぶやきの全てであなたは一杯だからです。あなたの心はそれが集めてきた全てのガラクタを決してきれいにしません。一人であるためには過去に対して死ななければなりません。あなたが一人であるとき、完全に一人であるとき、どの家族にも、どの国にも、どんな文化にも、どの特定の大陸にも属しないとき、アウトサイダーである感覚があります。このように完全に一人である人は天真爛漫であり、心をこの悲しみから解放するのはこの天真爛漫さです。私たちは何千もの人々が語ってきた重荷や自分のあらゆる不幸の記憶を身につけています。その全てをすっかり捨てることが一人であることであり、そして一人である心は天真爛漫であるだけでなく若いのです ― 時間や年齢の中にいないで、何歳であろうと若く、天真爛漫で、生き生きとしているのです ― そしてそのような心のみが真理であるものを、言葉では測り知れないものを見ることができるのです。
>
>
> >>  あなたは決して孤独ではありません、というのは全ての記憶、全ての条件付け、昨日のつぶやきの全てであなたは一杯だからです。あなたの心はそれが集めてきた全てのガラクタを決してきれいにしません。一人であるためには過去に対して死ななければなりません。あなたが一人であるとき、完全に一人であるとき、どの家族にも、どの国にも、どんな文化にも、どの特定の大陸にも属しないとき、アウトサイダーである感覚があります。−−
>
> 私は決して孤独あるいは単独性を持っていない、何故なら記憶、条件付け、昨日のつぶやきでいっぱいになっているから。はい。それはごもっとも。しかしこの社会で生きていくだけで山ほど記憶していないと困る事柄もうんざりするほどあります。
>  完全に一人であるとき、どの家族にも、どの国にも、どんな文化にも、どの特定の大陸にも属しないとき、そりゃ確かにアウトサイダーの感覚もするでしょう。家族や国に属しないってどういうことなのかなあ。国には健康保険や税金や、何しろ¥の札びらを毎日使っています。しかし心理的に属さないってこと?
>
> > このように完全に一人である人は天真爛漫であり、心をこの悲しみから解放するのはこの天真爛漫さです。私たちは何千もの人々が語ってきた重荷や自分のあらゆる不幸の記憶を身につけています。その全てをすっかり捨てることが一人であることであり・・・−−
>
> ここはものすごく重いことです・・・


 クリシュナムルティが述べるところの「孤独」とは、依存できる他者と心理的に疎遠であるという意味だけではなく、依存できる知識・記憶・概念・理想等々からも心理的に疎遠であることを意味していることが分かります。

 家族や社会や国に属さないという意味は、そこから実際に離れるということではなく、もしも、離れることがあっても、それも良し。という自由があること。どちらもオーケー。という自由。しかし、観念だけの自由ではなく、本当の自由。それはそうなろうとしてなれるものではなく、クリシュナムルティ理解の暁にそうなっているもの。。



> >  この孤独の中であなたは、あるべきだと考えたり、そうであった自分ではなく、あるがままの自分自身と共に生きることの必要性を理解し始めます。自分自身を少しの震えも、偽りの謙遜も、恐怖も、どんな正当化や非難もなく、眺めることができるかどうかを見なさい ― 実際のあるがままの自分自身と共にただ生きなさい。
>
>
> ・・・


 その自由とは、単独性とは、観念なのか・・。

 その孤立している存在は、確かに地に足がついている。呼吸をしている。生きている。この大地の上で。社会の中で。地球の上で。宇宙の中で。本当か。この大地とは・・。社会とは・・。地球とは・・。宇宙とは・・。実在しているのか。この孤立する存在は。

 >実際のあるがままの自分自身と共にただ生きなさい。−−



> >  親しく何かと共に生きるときのみ、あなたはそれを理解し始めます。しかしそれに慣れる瞬間 ― 自分の不安や羨望や何であってもそれに慣れるときあなたはもはやそれと共に生きていないのです。川のそばに住んでいるなら、数日後には水音がもう聞こえません。また、部屋の中の絵を毎日見ているなら、一週間後には忘れます。山や谷や木もそれと同じです ― あなたの家族、夫、妻も同じです。しかし嫉妬、羨望あるいは不安のようなものと生きるには決してそれに慣れたり、受け入れたりしてはなりません。新しく植えた木を大事にし、太陽や嵐に対して保護するように、それを大事にしなければなりません。それを非難したり正当化しないで大事にしなければなりません。それゆえあなたはそれを愛し始めます。それを大事にするときあなたはそれを愛し始めているのです。非常に多くの人達がするように、羨望したり不安でいるのを愛するということではなく、むしろ見つめることを大事にするという事です。
>
>
> むしろ見つめることを大事にする・・・


 孤立に慣れることの落とし穴が指摘されている。

 孤立や羨望や不安は「注意」を喚起するが、それらに慣れてしまうと「注意」喚起は弱まる。すると見なくなる。

 孤立がもたらす「注意」喚起を大切に、「見る」を大事にする。


> >  そこであなたは ― あなたと私は ― 実際にあるがままの自分と共に生きることが出来るでしょうか? 自分自身が鈍感で、羨望し、怖れていることを知りながら、持っていないのに大きな愛情を持っていると信じ、容易に傷つけられ、容易にお世辞に乗り、そして退屈しながら ― それを受け入れも否定もしないで、病的になったり、気落ちしたり得意になったりすることなく、それをただ観察しながら、その全部と共に生きることができるでしょうか?
>
>
> ・・・


 その全部と共に生きる。

 その全部と共に生きることが大事。


> >  さて更に進んだ質問を自分自身に尋ねましょう。この自由、この孤独、この自分自身の中のあるがままの全構造と接触すること ― それは時間を通じて出会うのでしょうか? すなわち、自由は漸進的な過程を通じて達成されるのでしょうか? 明らかに違います、何故なら時間を導入するや否や、あなたはますます奴隷になるからです。徐々に自由になることはできません。それは時間の問題ではないのです。
>
>
> 奴隷? では誰が主人なのだ? 既知のもの? それは人類の財産ではないと?


 生の全体性からみれば、既知のものは取るに足りないのではないでしょうか。しかし、それは観念によって思考される事柄ではなく、クリシュナムルティ理解の暁にそうなっているもの。。



> >  次の質問はその自由を意識することが出来るかということです。「私は自由だ」と言うなら、そのとき自由ではありません。それは「私は幸福だ」と言っている人のようなものです。「私は幸福だ」と言う瞬間、過ぎ去ったものの記憶の中で生きているのです。自由はただ自然に生じ得るのみであって、願い、望み、求めることによってではありません。またそれが自由だと考えるイメージを創り出すことによっては見いだせません。自由と出会うには、心は生を見ることを学ばねばならず、それは時間の束縛のない広大な動きです。なぜなら、自由は意識の領域を超えて存在するからです。
>
>
> 意識の領域を超える。・・・


 意識の領域を超えた場については、『時間の終焉』にてボームとの対談があります。


 「自由を意識できるか?」「自由と出会うには、心は生を見ることを学ばねばならず、それは時間の束縛のない広大な動きです。なぜなら、自由は意識の領域を超えて存在するからです。」

 これは思考ではどうすることもできない。クリシュナムルティ理解の暁にそうなっているもの。。


 クリシュナムルティの陳述内容の理解とは、クリシュナムルティ理解のこと。

 

> > (終わり)


[25805] 自由と不自由 投稿者:無明 投稿日:2018/08/15(Wed) 17:47  

>親しく何かと共に生きるときのみ、あなたはそれを理解し始めます。

はい。人は新婚のとき、お互いを理解し始めます。しかし、それは始めだけです。

>しかしそれに慣れる瞬間 ― 自分の不安や羨望や何であってもそれに慣れるときあなたはもはやそれと共に生きていないのです。

はい。人は結婚生活も長くなると、新鮮味はなくなります。互いに欠点が目立つようになり攻めたてるようになります。しまいには顔を見るのも嫌になります。長年共にいると新鮮味がありません。マンネリを通り越している。ようするに怠惰な習慣的生活になる。

>川のそばに住んでいるなら、数日後には水音がもう聞こえません。また、部屋の中の絵を毎日見ているなら、一週間後には忘れます。山や谷や木もそれと同じです ― あなたの家族、夫、妻も同じです。

全く同感です。

>しかし嫉妬、羨望あるいは不安のようなものと生きるには決してそれに慣れたり、受け入れたりしてはなりません。

嫉妬、羨望、不安に慣れたり、受け入れるわけはないでしょう。

>新しく植えた木を大事にし、太陽や嵐に対して保護するように、それを大事にしなければなりません。それを非難したり正当化しないで大事にしなければなりません。それゆえあなたはそれを愛し始めます。

はい。それはわかりますが、嫉妬、羨望、不安の件です。
お言葉ですが、嫉妬、羨望、不安を大事にすると、言われているのでしょうか?
慣れたり、受け入れたりしないで、新しい木を植えるように、嫉妬、羨望、不安を大事にすると。
変ですね。

>それを大事にするときあなたはそれを愛し始めているのです。


もう一度言い換えると、嫉妬を大事にすることが愛することだと。
それであなたはそれを見事に実践してきたと。

>非常に多くの人達がするように、羨望したり不安でいるのを愛するということではなく、むしろ見つめることを大事にするという事です。

多くの人は羨望したり不安でいるのを愛する?
そんなことはありません。

夫は妻を「便利屋」「終身家政婦」と思っているから愛しているのです。
妻は夫を「給料運搬人」と思って愛しています。
互いに明日からいないとしたら。烈火のごとく怒ります。
それが現実、

つまり、互いに「自己愛」であ って、本当の愛ではありません。
取引の愛。これだけ愛してしたから、これだけ返してもらう。
これが世間、


[25804] Re:[25803] 既知からの自由8−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/15(Wed) 16:07  

> 8章ー2[孤独・天真爛漫・あるがままの自分自身と生きる]
>
>  自由は心の状態です ― 何かからの自由ではなくて自由の感覚、全てを疑い問う自由です。それゆえ非常に熱心で活発で精力的なので、あらゆる形の依存、隷属、順応、受容を投げ捨てます。その様な自由は完全に一人であることを含みます。しかしあまりにも環境やそれ自体の風潮に依存している文化の中で育てられた心は、完全な孤独であり、指導も伝統も権威もないあの自由を果たして見いだすことができるでしょうか? この孤独はどのような刺激にも知識にも依存しない心の内的な状態であり、何かの経験や結論の結果ではありません。私たちはたいてい、内的に、決して一人ではありません。自分を切り離す孤立と、単独性、孤独との間には違いがあります。私たちは皆孤立することがどういう事か知っています ― 決して傷つけられたり傷つきやすくならないために自分の周りに壁を建てたり、苦悩の別の形である世俗からの離脱を育んだり、あるいは何かの空想的なイデオロギーの象牙の塔の中で生きたりです。単独性は全く異なるものです。


>>  自由は心の状態です ― 何かからの自由ではなくて自由の感覚、全てを疑い問う自由です。それゆえ非常に熱心で活発で精力的なので、あらゆる形の依存、隷属、順応、受容を投げ捨てます。その様な自由は完全に一人であることを含みます。−−

あらゆる形の依存、隷属、順応、受容を投げ捨てる・・・完全に一人であることを含む。 さらっと言われてしまったけれど、この意味するところは怖すぎます。今の社会は完全に分業が進んですべてを専門的な職業人に頼っていますよ。それは物質的な事柄に限られているのではないかという質問があるかもしれません。Kは心理的に一人立つことを言っているというかもしれません。しかし、私はもしスーパーで気を失った時、周りの店員や居合わせた客が一人の人間として何とかしようとしてくれることを疑ったことはありません。依存でも受容でもありませんが、そういう信頼を持っています。財布を持っていかれないかと心配したりしません。私は見当はずれのことを言っているのでしょうか?


>  あなたは決して孤独ではありません、というのは全ての記憶、全ての条件付け、昨日のつぶやきの全てであなたは一杯だからです。あなたの心はそれが集めてきた全てのガラクタを決してきれいにしません。一人であるためには過去に対して死ななければなりません。あなたが一人であるとき、完全に一人であるとき、どの家族にも、どの国にも、どんな文化にも、どの特定の大陸にも属しないとき、アウトサイダーである感覚があります。このように完全に一人である人は天真爛漫であり、心をこの悲しみから解放するのはこの天真爛漫さです。私たちは何千もの人々が語ってきた重荷や自分のあらゆる不幸の記憶を身につけています。その全てをすっかり捨てることが一人であることであり、そして一人である心は天真爛漫であるだけでなく若いのです ― 時間や年齢の中にいないで、何歳であろうと若く、天真爛漫で、生き生きとしているのです ― そしてそのような心のみが真理であるものを、言葉では測り知れないものを見ることができるのです。


>>  あなたは決して孤独ではありません、というのは全ての記憶、全ての条件付け、昨日のつぶやきの全てであなたは一杯だからです。あなたの心はそれが集めてきた全てのガラクタを決してきれいにしません。一人であるためには過去に対して死ななければなりません。あなたが一人であるとき、完全に一人であるとき、どの家族にも、どの国にも、どんな文化にも、どの特定の大陸にも属しないとき、アウトサイダーである感覚があります。−−

私は決して孤独あるいは単独性を持っていない、何故なら記憶、条件付け、昨日のつぶやきでいっぱいになっているから。はい。それはごもっとも。しかしこの社会で生きていくだけで山ほど記憶していないと困る事柄もうんざりするほどあります。
 完全に一人であるとき、どの家族にも、どの国にも、どんな文化にも、どの特定の大陸にも属しないとき、そりゃ確かにアウトサイダーの感覚もするでしょう。家族や国に属しないってどういうことなのかなあ。国には健康保険や税金や、何しろ¥の札びらを毎日使っています。しかし心理的に属さないってこと?

> このように完全に一人である人は天真爛漫であり、心をこの悲しみから解放するのはこの天真爛漫さです。私たちは何千もの人々が語ってきた重荷や自分のあらゆる不幸の記憶を身につけています。その全てをすっかり捨てることが一人であることであり・・・−−

ここはものすごく重いことです・・・


>  この孤独の中であなたは、あるべきだと考えたり、そうであった自分ではなく、あるがままの自分自身と共に生きることの必要性を理解し始めます。自分自身を少しの震えも、偽りの謙遜も、恐怖も、どんな正当化や非難もなく、眺めることができるかどうかを見なさい ― 実際のあるがままの自分自身と共にただ生きなさい。


・・・


>  親しく何かと共に生きるときのみ、あなたはそれを理解し始めます。しかしそれに慣れる瞬間 ― 自分の不安や羨望や何であってもそれに慣れるときあなたはもはやそれと共に生きていないのです。川のそばに住んでいるなら、数日後には水音がもう聞こえません。また、部屋の中の絵を毎日見ているなら、一週間後には忘れます。山や谷や木もそれと同じです ― あなたの家族、夫、妻も同じです。しかし嫉妬、羨望あるいは不安のようなものと生きるには決してそれに慣れたり、受け入れたりしてはなりません。新しく植えた木を大事にし、太陽や嵐に対して保護するように、それを大事にしなければなりません。それを非難したり正当化しないで大事にしなければなりません。それゆえあなたはそれを愛し始めます。それを大事にするときあなたはそれを愛し始めているのです。非常に多くの人達がするように、羨望したり不安でいるのを愛するということではなく、むしろ見つめることを大事にするという事です。


むしろ見つめることを大事にする・・・


>  そこであなたは ― あなたと私は ― 実際にあるがままの自分と共に生きることが出来るでしょうか? 自分自身が鈍感で、羨望し、怖れていることを知りながら、持っていないのに大きな愛情を持っていると信じ、容易に傷つけられ、容易にお世辞に乗り、そして退屈しながら ― それを受け入れも否定もしないで、病的になったり、気落ちしたり得意になったりすることなく、それをただ観察しながら、その全部と共に生きることができるでしょうか?


・・・


>  さて更に進んだ質問を自分自身に尋ねましょう。この自由、この孤独、この自分自身の中のあるがままの全構造と接触すること ― それは時間を通じて出会うのでしょうか? すなわち、自由は漸進的な過程を通じて達成されるのでしょうか? 明らかに違います、何故なら時間を導入するや否や、あなたはますます奴隷になるからです。徐々に自由になることはできません。それは時間の問題ではないのです。


奴隷? では誰が主人なのだ? 既知のもの? それは人類の財産ではないと?


>  次の質問はその自由を意識することが出来るかということです。「私は自由だ」と言うなら、そのとき自由ではありません。それは「私は幸福だ」と言っている人のようなものです。「私は幸福だ」と言う瞬間、過ぎ去ったものの記憶の中で生きているのです。自由はただ自然に生じ得るのみであって、願い、望み、求めることによってではありません。またそれが自由だと考えるイメージを創り出すことによっては見いだせません。自由と出会うには、心は生を見ることを学ばねばならず、それは時間の束縛のない広大な動きです。なぜなら、自由は意識の領域を超えて存在するからです。


意識の領域を超える。・・・

> (終わり)


[25803] 既知からの自由8−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/15(Wed) 10:47  

8章ー2[孤独・天真爛漫・あるがままの自分自身と生きる]

 自由は心の状態です ― 何かからの自由ではなくて自由の感覚、全てを疑い問う自由です。それゆえ非常に熱心で活発で精力的なので、あらゆる形の依存、隷属、順応、受容を投げ捨てます。その様な自由は完全に一人であることを含みます。しかしあまりにも環境やそれ自体の風潮に依存している文化の中で育てられた心は、完全な孤独であり、指導も伝統も権威もないあの自由を果たして見いだすことができるでしょうか? この孤独はどのような刺激にも知識にも依存しない心の内的な状態であり、何かの経験や結論の結果ではありません。私たちはたいてい、内的に、決して一人ではありません。自分を切り離す孤立と、単独性、孤独との間には違いがあります。私たちは皆孤立することがどういう事か知っています ― 決して傷つけられたり傷つきやすくならないために自分の周りに壁を建てたり、苦悩の別の形である世俗からの離脱を育んだり、あるいは何かの空想的なイデオロギーの象牙の塔の中で生きたりです。単独性は全く異なるものです。

 あなたは決して孤独ではありません、というのは全ての記憶、全ての条件付け、昨日のつぶやきの全てであなたは一杯だからです。あなたの心はそれが集めてきた全てのガラクタを決してきれいにしません。一人であるためには過去に対して死ななければなりません。あなたが一人であるとき、完全に一人であるとき、どの家族にも、どの国にも、どんな文化にも、どの特定の大陸にも属しないとき、アウトサイダーである感覚があります。このように完全に一人である人は天真爛漫であり、心をこの悲しみから解放するのはこの天真爛漫さです。私たちは何千もの人々が語ってきた重荷や自分のあらゆる不幸の記憶を身につけています。その全てをすっかり捨てることが一人であることであり、そして一人である心は天真爛漫であるだけでなく若いのです ― 時間や年齢の中にいないで、何歳であろうと若く、天真爛漫で、生き生きとしているのです ― そしてそのような心のみが真理であるものを、言葉では測り知れないものを見ることができるのです。

 この孤独の中であなたは、あるべきだと考えたり、そうであった自分ではなく、あるがままの自分自身と共に生きることの必要性を理解し始めます。自分自身を少しの震えも、偽りの謙遜も、恐怖も、どんな正当化や非難もなく、眺めることができるかどうかを見なさい ― 実際のあるがままの自分自身と共にただ生きなさい。

 親しく何かと共に生きるときのみ、あなたはそれを理解し始めます。しかしそれに慣れる瞬間 ― 自分の不安や羨望や何であってもそれに慣れるときあなたはもはやそれと共に生きていないのです。川のそばに住んでいるなら、数日後には水音がもう聞こえません。また、部屋の中の絵を毎日見ているなら、一週間後には忘れます。山や谷や木もそれと同じです ― あなたの家族、夫、妻も同じです。しかし嫉妬、羨望あるいは不安のようなものと生きるには決してそれに慣れたり、受け入れたりしてはなりません。新しく植えた木を大事にし、太陽や嵐に対して保護するように、それを大事にしなければなりません。それを非難したり正当化しないで大事にしなければなりません。それゆえあなたはそれを愛し始めます。それを大事にするときあなたはそれを愛し始めているのです。非常に多くの人達がするように、羨望したり不安でいるのを愛するということではなく、むしろ見つめることを大事にするという事です。

 そこであなたは ― あなたと私は ― 実際にあるがままの自分と共に生きることが出来るでしょうか? 自分自身が鈍感で、羨望し、怖れていることを知りながら、持っていないのに大きな愛情を持っていると信じ、容易に傷つけられ、容易にお世辞に乗り、そして退屈しながら ― それを受け入れも否定もしないで、病的になったり、気落ちしたり得意になったりすることなく、それをただ観察しながら、その全部と共に生きることができるでしょうか?

 さて更に進んだ質問を自分自身に尋ねましょう。この自由、この孤独、この自分自身の中のあるがままの全構造と接触すること ― それは時間を通じて出会うのでしょうか? すなわち、自由は漸進的な過程を通じて達成されるのでしょうか? 明らかに違います、何故なら時間を導入するや否や、あなたはますます奴隷になるからです。徐々に自由になることはできません。それは時間の問題ではないのです。

 次の質問はその自由を意識することが出来るかということです。「私は自由だ」と言うなら、そのとき自由ではありません。それは「私は幸福だ」と言っている人のようなものです。「私は幸福だ」と言う瞬間、過ぎ去ったものの記憶の中で生きているのです。自由はただ自然に生じ得るのみであって、願い、望み、求めることによってではありません。またそれが自由だと考えるイメージを創り出すことによっては見いだせません。自由と出会うには、心は生を見ることを学ばねばならず、それは時間の束縛のない広大な動きです。なぜなら、自由は意識の領域を超えて存在するからです。

(終わり)


[25802] Re:[25800] [25798] [25796] [25795] [25792] [25787] [25786] [25772] [25771] 既知からの自由7−3 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/14(Tue) 12:59  

> 国家とは、人の生活の必要を効率よく満たすために、思惟的、成り行き的に構築されている仕組みだと考えます。
> 社会といえば、もっと漠然とした印象ですね。多くの人と人の関係の中にある様々な概念がそれでしょうか。
> 社会を構築している概念は、人が作っているといっても、かなり昔からの知識の集積でもあり、価値観でもあり、依存対象でもあります。裁判の判断でさえ社会通念が考慮されます。
> そんなものを大きく変える可能性をもつものって何でしょうね。皆が信じているものの虚構を暴くとか、何かとんでもない事実の発見があるとか。とにかく多くの人の価値観が変わるようなものではないですかね。


日本の持つ神話って今では象徴天皇と平和憲法ですか。これって私はとても気に入っています。とにかく災害に遭った国民を飽きずに回って慰めて控えめにしていらっしゃる。国民はアニメとカップラーメンの発明で世界に愛されている。平和ボケ、結構、結構!!

これで富国強兵に見向きもしないでいれば、何の文句もありません。これで次第にブラック企業なしに生活が成り立っていけばいいです。

ただ世界がどうなるか。平和の核芯の問題は何なのだろう? 富の確保から争いが始まるのだろうか?、それとも民族の落ち着き具合なのだろうか?


[25801] Re:[25799] [25797] 既知からの自由8−1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/08/14(Tue) 10:19  

> > 8章ー1[自由・反抗]
> >
> > 抑圧の苦悩も、一つの型に順応する過酷な訓練もどれも真理へと導きませんでした。真理に出会うためには心は少しのひずみもなく、完全に自由でなければなりません。
>
>
> 真理に出会うという事はよく言われるが、つまり定型化した文句だが、これもイメ−ジであって真理の実物に出会った人はまずいない。そこで真理に出会う事を願望するのだが、それには自由でなければならないと。ところがその自由ですら知らないのが実情です。そこでまずそこを説いてくれます。


 「私には愛があり暖かさがある」という自己イメージから自由であれば、クリシュナムルティが「親子の愛着は愛ではない
」と述べたときに、それを聴くことができる。

 しかし、「私には愛があり暖かさがある」という自己イメージに確執している場合、クリシュナムルティが「親子の愛着は愛ではない」と述べたときに、本当は違うことを言っているのだ・・、となるのではないでしょうか。すなわち、聴くことができない。
 真理に出会うことが妨げられる。



> >  しかしまず自分自身に、本当に自由でありたいのか尋ねましょう。自由について話すとき、私たちは完全な自由について話しているのでしょうか、それとも何か不便な、不愉快な、あるいは望ましくないことからの自由についてでしょうか? 私たちは痛ましい嫌な記憶や不幸な経験から自由でありたいと思うのですが、快い満足なイデオロギーや方式、関係はそのままにしておきたいのです。しかし他の方はなしに一方を取っておくのは不可能です。というのは、すでに見てきたように、快楽は苦痛と切り離せないからです。
>
>
> 好きなことはとっておき、不快なことから離れる。そんな自由はないですよとまず釘を刺されました。



 自己イメージが洗練され研ぎ澄まされ輝かしい程、真理との体面は苦痛ではないでしょうか。私は実は愛がなく冷酷・無慈悲であることを受け入れられない。



> >  それゆえ完全に自由であることを欲するかどうかを決めるのは、私たち一人一人です。そう望むというなら、その時は自由の性質と構造を理解しなければなりません。
>
>
> 本当に自由(目に見えぬ獄舎からの解放?)を望むなら、まず自由とは何かを知らなければならないとのことです。自由とは何かはっきり理解したいものです。


> >  あなたが何かから自由であるとき ― 苦痛から自由であり、ある種の不安から自由であるとき、それは自由でしょうか? それとも自由はそれ自体何か全く異なったものなのでしょうか? 例えば、あなたは嫉妬から自由であることが出来ますが、その自由は反応であってしたがって自由では全くないのではないでしょうか? 教義から、それを分析しはねつける事によって非常に容易に自由になることができますが、教義からの自由のための動機がそれ自体の反応を持っています。なぜなら教義から自由になろうという欲望は、その教義がもはや流行していないとか都合がよくないということかも知れないからです。また、国際主義を信じるので、国家主義から自由になることが出来ます。あるいは経済的にもはやこの愚かな国家主義に、旗やそのがらくた全てと共にしがみつく必要がないと感じるからです。あなたは容易にそれを捨て去ることができます。また、訓練や反抗の結果として、あなたに自由を約束した精神的、または政治的指導者に反抗するかもしれません。しかしその様な論理主義、その様な論理的結論が自由とどんな関係があるでしょうか?
>
>
> 嫉妬から自由であることができたら素晴らしいと思っていたのだが、それは新たな反応にすぎず、自由では全くない? 以下教義や国家主義や政治的指導者への反抗などみな動機があり、欲望の過程であって自由ではないのではないかと言われている様です。よろしいですか? ひょっとすると既知のものからの全面的開放にならないとそれはごまかされているという事?
>
>
> >  あなたがあるものから自由であると言うなら、それは反応であり、それはそのとき別の順応、別の形の支配をもたらす別の反応になるでしょう。このようにして一連の反応を持ち、それそれの反応を自由として受け入れることができます。しかしそれは自由ではありません。心が執着している過去の修正された継続にすぎません。
>
>
> 或るものからの自由は別の形の順応にすぎず、とりこの形態が変わったにすぎないと再確認されました。
> 私の禁煙も怪しいかな。白旗を上げるのはもっちょっと保留しておきます。
>
>
> >  今日の若者は、全ての若者のように、社会に反抗しており、それ自体はいいことですが、反抗は自由ではありません。なぜなら反抗するときそれは反応であり、そしてその反応はそれ自体の型を作り上げ、その型に捉えられてしまうからです。あなたはそれを新しいものと思うかもしれません。そうではなく、それは違う鋳型の中の古いものです。どんな社会的または政治的反抗も不可避的によき古きブルジョア精神に戻るのです。
>
>
> 若者の反抗についてもう少し説明してくれました。反抗を新しい型と思うかもしれないがそれは違う鋳型の中の古いものですと。
>
>
> >  自由はあなたが見て行為するときのみ生じるのであって、決して反抗を通じてではありません。見ることは行為であり、その様な行為は危険を見るときのように即座です。そのとき思考も、議論も躊躇もありません。危険自体が行為をさせ、従って見ることは行為することであり、そして自由であることです。
>
>
> ここで自由の本当の姿が、見ることと一緒に起こることとして的確にはっきりと述べられました。このような形で読んだのは初めてです。訳している時はこれを見取ることができなかったのでしょう。
>  ここまではこの章の序論で、これから本論に入って行きます。


 私が愛でないことを「見る」。クリシュナムルティが述べるところの「愛」は未知である。「愛」とは何か分からない。説明できない。しかし、「愛でないもの」は見ることができる。
 そのとき、自由ではないでしょうか。。




> > (続く)


[25800] Re:[25798] [25796] [25795] [25792] [25787] [25786] [25772] [25771] 既知からの自由7−3 投稿者:ヨミ 投稿日:2018/08/14(Tue) 09:42  

> 私は一人の人間としては統合されており、主体的に、自発的に生きているつもりです。社会は食物や医療、情報、等多様なものを供給してくれまあ楽しめます。
>  ただ、たった一つ不満があって、私が「こんなことは間違っている。やめなさい!」と言ってもその通りにならずに、どうも気に食わない方向に行くとしか思えません。
>  人が崩壊しなければ後はなるようになるのかな? しかし人に対する社会の影響もすごいものがあるような気がする。そこでの反発力は何にあるのだろう? 皆さんの意見が聞きたいです。

国家とは、人の生活の必要を効率よく満たすために、思惟的、成り行き的に構築されている仕組みだと考えます。
社会といえば、もっと漠然とした印象ですね。多くの人と人の関係の中にある様々な概念がそれでしょうか。
社会を構築している概念は、人が作っているといっても、かなり昔からの知識の集積でもあり、価値観でもあり、依存対象でもあります。裁判の判断でさえ社会通念が考慮されます。
そんなものを大きく変える可能性をもつものって何でしょうね。皆が信じているものの虚構を暴くとか、何かとんでもない事実の発見があるとか。とにかく多くの人の価値観が変わるようなものではないですかね。


[25799] Re:[25797] 既知からの自由8−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/14(Tue) 08:38  

> 8章ー1[自由・反抗]
>
> 抑圧の苦悩も、一つの型に順応する過酷な訓練もどれも真理へと導きませんでした。真理に出会うためには心は少しのひずみもなく、完全に自由でなければなりません。


真理に出会うという事はよく言われるが、つまり定型化した文句だが、これもイメ−ジであって真理の実物に出会った人はまずいない。そこで真理に出会う事を願望するのだが、それには自由でなければならないと。ところがその自由ですら知らないのが実情です。そこでまずそこを説いてくれます。


>  しかしまず自分自身に、本当に自由でありたいのか尋ねましょう。自由について話すとき、私たちは完全な自由について話しているのでしょうか、それとも何か不便な、不愉快な、あるいは望ましくないことからの自由についてでしょうか? 私たちは痛ましい嫌な記憶や不幸な経験から自由でありたいと思うのですが、快い満足なイデオロギーや方式、関係はそのままにしておきたいのです。しかし他の方はなしに一方を取っておくのは不可能です。というのは、すでに見てきたように、快楽は苦痛と切り離せないからです。


好きなことはとっておき、不快なことから離れる。そんな自由はないですよとまず釘を刺されました。


>  それゆえ完全に自由であることを欲するかどうかを決めるのは、私たち一人一人です。そう望むというなら、その時は自由の性質と構造を理解しなければなりません。


本当に自由(目に見えぬ獄舎からの解放?)を望むなら、まず自由とは何かを知らなければならないとのことです。自由とは何かはっきり理解したいものです。


>  あなたが何かから自由であるとき ― 苦痛から自由であり、ある種の不安から自由であるとき、それは自由でしょうか? それとも自由はそれ自体何か全く異なったものなのでしょうか? 例えば、あなたは嫉妬から自由であることが出来ますが、その自由は反応であってしたがって自由では全くないのではないでしょうか? 教義から、それを分析しはねつける事によって非常に容易に自由になることができますが、教義からの自由のための動機がそれ自体の反応を持っています。なぜなら教義から自由になろうという欲望は、その教義がもはや流行していないとか都合がよくないということかも知れないからです。また、国際主義を信じるので、国家主義から自由になることが出来ます。あるいは経済的にもはやこの愚かな国家主義に、旗やそのがらくた全てと共にしがみつく必要がないと感じるからです。あなたは容易にそれを捨て去ることができます。また、訓練や反抗の結果として、あなたに自由を約束した精神的、または政治的指導者に反抗するかもしれません。しかしその様な論理主義、その様な論理的結論が自由とどんな関係があるでしょうか?


嫉妬から自由であることができたら素晴らしいと思っていたのだが、それは新たな反応にすぎず、自由では全くない? 以下教義や国家主義や政治的指導者への反抗などみな動機があり、欲望の過程であって自由ではないのではないかと言われている様です。よろしいですか? ひょっとすると既知のものからの全面的開放にならないとそれはごまかされているという事?


>  あなたがあるものから自由であると言うなら、それは反応であり、それはそのとき別の順応、別の形の支配をもたらす別の反応になるでしょう。このようにして一連の反応を持ち、それそれの反応を自由として受け入れることができます。しかしそれは自由ではありません。心が執着している過去の修正された継続にすぎません。


或るものからの自由は別の形の順応にすぎず、とりこの形態が変わったにすぎないと再確認されました。
私の禁煙も怪しいかな。白旗を上げるのはもっちょっと保留しておきます。


>  今日の若者は、全ての若者のように、社会に反抗しており、それ自体はいいことですが、反抗は自由ではありません。なぜなら反抗するときそれは反応であり、そしてその反応はそれ自体の型を作り上げ、その型に捉えられてしまうからです。あなたはそれを新しいものと思うかもしれません。そうではなく、それは違う鋳型の中の古いものです。どんな社会的または政治的反抗も不可避的によき古きブルジョア精神に戻るのです。


若者の反抗についてもう少し説明してくれました。反抗を新しい型と思うかもしれないがそれは違う鋳型の中の古いものですと。


>  自由はあなたが見て行為するときのみ生じるのであって、決して反抗を通じてではありません。見ることは行為であり、その様な行為は危険を見るときのように即座です。そのとき思考も、議論も躊躇もありません。危険自体が行為をさせ、従って見ることは行為することであり、そして自由であることです。


ここで自由の本当の姿が、見ることと一緒に起こることとして的確にはっきりと述べられました。このような形で読んだのは初めてです。訳している時はこれを見取ることができなかったのでしょう。
 ここまではこの章の序論で、これから本論に入って行きます。
>
> (続く)


[25798] Re:[25796] [25795] [25792] [25787] [25786] [25772] [25771] 既知からの自由7−3 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/13(Mon) 13:00  

> 民族的、文化的枠組みと、人の生活のためのシステムの枠組み(国家とか)は、現在でも一致しているわけではないようですが、ナショナリズムに頼るような人は混同して考えることが多いですし、そのために何かと他の民族や国家と比較するようですね。
> EUの前はソ連の枠が崩れましたね。枠組みよりも先に問い直すものがいろいろとあるのだろうと思います。

私は一人の人間としては統合されており、主体的に、自発的に生きているつもりです。社会は食物や医療、情報、等多様なものを供給してくれまあ楽しめます。
 ただ、たった一つ不満があって、私が「こんなことは間違っている。やめなさい!」と言ってもその通りにならずに、どうも気に食わない方向に行くとしか思えません。
 人が崩壊しなければ後はなるようになるのかな? しかし人に対する社会の影響もすごいものがあるような気がする。そこでの反発力は何にあるのだろう? 皆さんの意見が聞きたいです。


[25797] 既知からの自由8−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/13(Mon) 11:57  

8章ー1[自由・反抗]

抑圧の苦悩も、一つの型に順応する過酷な訓練もどれも真理へと導きませんでした。真理に出会うためには心は少しのひずみもなく、完全に自由でなければなりません。

 しかしまず自分自身に、本当に自由でありたいのか尋ねましょう。自由について話すとき、私たちは完全な自由について話しているのでしょうか、それとも何か不便な、不愉快な、あるいは望ましくないことからの自由についてでしょうか? 私たちは痛ましい嫌な記憶や不幸な経験から自由でありたいと思うのですが、快い満足なイデオロギーや方式、関係はそのままにしておきたいのです。しかし他の方はなしに一方を取っておくのは不可能です。というのは、すでに見てきたように、快楽は苦痛と切り離せないからです。

 それゆえ完全に自由であることを欲するかどうかを決めるのは、私たち一人一人です。そう望むというなら、その時は自由の性質と構造を理解しなければなりません。

 あなたが何かから自由であるとき ― 苦痛から自由であり、ある種の不安から自由であるとき、それは自由でしょうか? それとも自由はそれ自体何か全く異なったものなのでしょうか? 例えば、あなたは嫉妬から自由であることが出来ますが、その自由は反応であってしたがって自由では全くないのではないでしょうか? 教義から、それを分析しはねつける事によって非常に容易に自由になることができますが、教義からの自由のための動機がそれ自体の反応を持っています。なぜなら教義から自由になろうという欲望は、その教義がもはや流行していないとか都合がよくないということかも知れないからです。また、国際主義を信じるので、国家主義から自由になることが出来ます。あるいは経済的にもはやこの愚かな国家主義に、旗やそのがらくた全てと共にしがみつく必要がないと感じるからです。あなたは容易にそれを捨て去ることができます。また、訓練や反抗の結果として、あなたに自由を約束した精神的、または政治的指導者に反抗するかもしれません。しかしその様な論理主義、その様な論理的結論が自由とどんな関係があるでしょうか?

 あなたがあるものから自由であると言うなら、それは反応であり、それはそのとき別の順応、別の形の支配をもたらす別の反応になるでしょう。このようにして一連の反応を持ち、それそれの反応を自由として受け入れることができます。しかしそれは自由ではありません。心が執着している過去の修正された継続にすぎません。


 今日の若者は、全ての若者のように、社会に反抗しており、それ自体はいいことですが、反抗は自由ではありません。なぜなら反抗するときそれは反応であり、そしてその反応はそれ自体の型を作り上げ、その型に捉えられてしまうからです。あなたはそれを新しいものと思うかもしれません。そうではなく、それは違う鋳型の中の古いものです。どんな社会的または政治的反抗も不可避的によき古きブルジョア精神に戻るのです。

 自由はあなたが見て行為するときのみ生じるのであって、決して反抗を通じてではありません。見ることは行為であり、その様な行為は危険を見るときのように即座です。そのとき思考も、議論も躊躇もありません。危険自体が行為をさせ、従って見ることは行為することであり、そして自由であることです。

(続く)


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