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[24848] Re:[24846] 俗悪な結婚制度 投稿者:ゴト 投稿日:2017/11/28(Tue) 00:14  

> 結婚制度は俗悪だ。
>
> 男女の真実の愛なんてものはない。
>

男女の同棲の実践が先にあり、制度が後を追っかけるのでしょう。いろいろな思惑を持ちながら。

実践の真の自由を妨げるようになった制度は必ず廃れる、廃止されるでしょう。

真実の愛! 愛はその信頼を謳う 狡猾なその偽物でさえも ですね。

真、善、美は哲学が根本義として問わねばならぬものであったはずだが、今どうなっているか? それを調べています。


[24847] Re:[24840] [24836] [24832] 絶対的な価値 投稿者:ヨミ 投稿日:2017/11/27(Mon) 22:39  

> > > 美(例えば花の美しさ)の意味を子供時代に知るなら、これは高度の感覚?が備わったと言えるかもしれません。
> >
> > 美しさって何でしょうか。たしかに成長に従ってその感覚に気付いたり変化したりするように思えますが、条件付けなどではないような気がします。かといって音楽のように自然界には無かったはずのものに美を感じるのも不思議です。
>
>
> 美について何か言えるようになったら必ず書きます。でも今は書く力がありません。
> ただ、対象化した対象に美を感じていたのですが、その知覚をもたらしてくれるたまたまのぴったりの陽光と背景があることと、それを美しく感じる自分は何なのだろうと思いました。

そうなんですね。ゴトさんでも。
美を問うことは、生を問うくらいに深いものなのかもですね。


[24846] 俗悪な結婚制度 投稿者:南方 投稿日:2017/11/27(Mon) 17:31  

結婚制度は俗悪だ。

男女の真実の愛なんてものはない。




[24845] Re:[24836] [24832] 絶対的な価値 投稿者:外野席 投稿日:2017/11/27(Mon) 15:54  

> > 美(例えば花の美しさ)の意味を子供時代に知るなら、これは高度の感覚?が備わったと言えるかもしれません。
>
> 美しさって何でしょうか。たしかに成長に従ってその感覚に気付いたり変化したりするように思えますが、条件付けなどではないような気がします。かといって音楽のように自然界には無かったはずのものに美を感じるのも不思議です。
 
 初めまして
 美しさって何か? と思考で論じるべきものなのだろうか。
ただ「感じる」だけでは。 
 条件付けは思考の領域ですが、知覚は無関係です。
 美的感覚というのは思考と共に
人間だけに当たらられた特権でしす。ここに人間と動物の大きな違いがあります。動物そのものには美醜はありません。


[24844] 無題 投稿者:外野席 投稿日:2017/11/27(Mon) 15:41  

 ここのお二方、ゴト氏と宮啓氏は、あまりにも意識レベルが低すぎる。まさに力量不足の露呈。勉強不足。言葉不足。
 それではクリシュナムルティを題材とした真理に関しての検討の話は土台無理なようだ。

 結局何もわかっていない。真理の入り口さえも。
 Kの本を読んで自己満足するのみ。Kの本を読んでいる間
カタルシスに酔う。それだけが非日常の異空間。


[24843] Re:[24842] [24841] [24839] [24833] [24832] 絶対的な価値 投稿者:宮啓 投稿日:2017/11/27(Mon) 12:01  

> > > >  私の場合は、「絶対的な価値は?」と問われれば、「色眼鏡なく歪みなく見える視座」と思うことでしょう。
> > > >
> > > >  この視座がいかに困難かは、今の自他を見ても、歴史を見ても明らかに思います。
> > > >
> > > >  伝統や時代による歪み・色眼鏡。人の見方をいかようにも、本末転倒的にでも、転倒夢想的にでも、いかようにも見せることができる色眼鏡。
> > > >
> > > >  そんな中、「色眼鏡なく歪みなく見える視座」の価値が高まるようです。
> > >
> > >
> > > 見る、聴く、知覚するには単なる視覚、聴覚でなく、精神的なものを含めての全体状況を知ること(洞察)ができる事にはちょっと触れましたが、そこで展開する人間関係は実は意識の領分での感情を交えたゲーム感覚というべきもので、科学的な認証関係ではないのかと思います。ユーモアとか、笑いはそれを表す一面、潤滑油のようなものかもしれません。Kは講話ではジョークは少ないですが言いますし、ジョークは結構好きだったらしいです。
> > >
> > > しかし、本当の宗教心は僧堂のそれではない厳粛さがあるという事ですし、そこはよくわかりません。ひとつのすべ(術・アート)なのかな。権威主義的なものがある雰囲気を溶かすとかもあるのかな。 暴力的なものの台頭の予防にもなるかも。
> > >
> > > それで、精神的事柄について話すときは、科学について話すときと違う何かを必要とすると私は思うのですが、もちろん論理だけではないし、心の交感があるための注意(attention)のホーカスが自ずと生まれる雰囲気とでも言うべきものが必要であると思います。我々はそのいわゆる宗教的儀式は大なり小なり知っていると思います。怪しげな偽物のあることも。
> > >
> > > だがまあ、それらは置いといて論理的な偽物は少なくとも自分で看破できなければならないと思いますが、一向に自信がない。自分自身の独我論的思い込みの前提、神話的英雄伝説の類、言葉を使う事でのパラドックスに突き当たるとき、突き当たっている壁を見破れるか? 自分の思考が、これこそは真実として握りしめる観念を虚偽のものと見抜くことができない限り、闇の中をさまようしかないのですが、我々の意識は自由な主体であるのか?無意識的に操られているだけの存在なのか?
> > >
> > > さて、どう進みますか。
> >
> >
> >  探求は止まないようですね‥。
> >
> >  初めは、クリシュナムルティ理解として、クリシュナムルティの陳述内容を理解することに焦点を当てていましたが、クリシュナムルティが存在しなかったと仮定しても、その同じ探求は避けて通れない自然(宇宙)の理(ことわり)。
> >
> >  昨晩、「心を変える瞑想」を読みました。
> >
> >  ひと月ほど前、ゴトさんが「生の中の聖なるもの」とセットで読んだものです。
> >
> >  そのとき、ゴトさんが「探求は終わった・・」旨を述べていたので不思議に思っていました。
>
> 確かにそのように言ったように思います。しかしその心のありようが完全に忘れられています。そして好奇心は元通りにあります。焦った脅迫的な衝動ではなく。


 はい。真理は固定的ではないので、恣意的には再現できないのですね。。


> いずれ、もういちど「心を変える瞑想」は読むことになるという確信がありますが、竹田青嗣氏が言っていることを理解して読まないといけないような気がして。少々気が長い話ですが。まだKを読みきるには成熟不十分なんですね。


 「心を変える瞑想」をこの板で取り上げて頂けることを、心よりお待ちしております。


[24842] Re:[24841] [24839] [24833] [24832] 絶対的な価値 投稿者:ゴト 投稿日:2017/11/27(Mon) 11:03  

> > > > 自然科学での進め方は、どうも事物についての検討の一方法で、実験による検証を多くの人が行い、着実に成果を上げてよに認められてきました。
> > > >
> > > > しかし、事物にしても我々の進退がはっきり捉えれるものは感覚にしろわずかな範囲に限られています。昔に比べれば随分広がっていますが。
> >
> > 註 ここの進退は誤変換で「身体」が正しいです。すみませんでした。
> >
> > > >
> > > > で、そうでなく調べる方法というものはないかというと知覚する、見る、聴くです。
> > > >
> > > > この見る、聴くという事を単なる感覚として、写真のごときものと考えると全く違います。まず人間同士の話すこと、身振り、振る舞いから、相手の気分、関心、体の調子、そんなことがかなり分かります。相手がそれを隠しているならそれも察せるという具合です。予想も想像もできます。
> > > >
> > > > これが心の持っている能力です。その心はどのようにして今自分に備わってあるのでしょうか?
> > > >
> > > > 生まれたばかりの赤ん坊は、まずお腹がすけば泣いてその欠乏を知らせます。母親はそれにこたえて乳首を含ませ、赤ん坊は母乳を吸って欠乏を満たすことができて眠ります。
> > > > 最初は生理的な欠乏の感覚が、泣くというその時赤ん坊の唯一能う事で欲求を伝えます。それに母が答えるだけですが、それは最初のわずかの間で、赤ん坊の肉体の発達は舌や手が加わり、排泄時の泣き声も加わるというふうに事態は発展し、泣き声のトーンが多様化し、母の声掛けによってコミュニケーションが試行錯誤的に始まります。
> > > >
> > > > 赤ん坊はすぐに、眠ってばかりでなく、覚めて遊ぶ時間が出現します。親にせがんで高く差し上げてゆすったりしてもらってよろこんだり。そして家の中を歩き回ったり外へ連れて行ってもらったりして世界を広げます。玩具やテレビやアニメなどをどんどん知っていきます。
> > > >
> > > > そして始めはすべて欲求は受容されたのですが、必ずしもそうでなくなり禁止にも出会います。次の子供が生まれると競合者となり、嫉妬や、孤独も味わいます。美(例えば花の美しさ)の意味を子供時代に知るなら、これは高度の感覚?が備わったと言えるかもしれません。
> > > >
> > > > どうやら心とはこのようなもので、これを脳の機能であると言ってもよいかもしれませんが、脳の機能そのものがブラックボックスの中にあるので、あまり役に立たないでしょう。
> > > >
> > > > さて、心とは始め母親からの言語を通じた全人的交流によって試行錯誤的に形成され始め、それに他者・社会も参加し、広がっていきます。そして大人の心も常に変転していくものでしょうが、そしてそれは世の中を渡っていくための自分でもあるわけですが、自我とも言っていいようです。いや、実際にどうなのかな?
> > > >
> > > > このような心にとっての価値とは、特に絶対的な価値とは何だろうかと思って、Kの本や、最近出た竹田青嗣の欲望論1,2の2巻目「価値」の原理論を読んでいます。なお、1巻目は「意味」の原理論です。いずれも500ページの大著ですが、読んでみるつもりです。私にはかなりしっかり書かれた哲学書に見えます、啓蒙書ではありません。絶対的な価値がもし見えてきたらうれしいのですが。
> > >
> > >
> > >  私の場合は、「絶対的な価値は?」と問われれば、「色眼鏡なく歪みなく見える視座」と思うことでしょう。
> > >
> > >  この視座がいかに困難かは、今の自他を見ても、歴史を見ても明らかに思います。
> > >
> > >  伝統や時代による歪み・色眼鏡。人の見方をいかようにも、本末転倒的にでも、転倒夢想的にでも、いかようにも見せることができる色眼鏡。
> > >
> > >  そんな中、「色眼鏡なく歪みなく見える視座」の価値が高まるようです。
> >
> >
> > 見る、聴く、知覚するには単なる視覚、聴覚でなく、精神的なものを含めての全体状況を知ること(洞察)ができる事にはちょっと触れましたが、そこで展開する人間関係は実は意識の領分での感情を交えたゲーム感覚というべきもので、科学的な認証関係ではないのかと思います。ユーモアとか、笑いはそれを表す一面、潤滑油のようなものかもしれません。Kは講話ではジョークは少ないですが言いますし、ジョークは結構好きだったらしいです。
> >
> > しかし、本当の宗教心は僧堂のそれではない厳粛さがあるという事ですし、そこはよくわかりません。ひとつのすべ(術・アート)なのかな。権威主義的なものがある雰囲気を溶かすとかもあるのかな。 暴力的なものの台頭の予防にもなるかも。
> >
> > それで、精神的事柄について話すときは、科学について話すときと違う何かを必要とすると私は思うのですが、もちろん論理だけではないし、心の交感があるための注意(attention)のホーカスが自ずと生まれる雰囲気とでも言うべきものが必要であると思います。我々はそのいわゆる宗教的儀式は大なり小なり知っていると思います。怪しげな偽物のあることも。
> >
> > だがまあ、それらは置いといて論理的な偽物は少なくとも自分で看破できなければならないと思いますが、一向に自信がない。自分自身の独我論的思い込みの前提、神話的英雄伝説の類、言葉を使う事でのパラドックスに突き当たるとき、突き当たっている壁を見破れるか? 自分の思考が、これこそは真実として握りしめる観念を虚偽のものと見抜くことができない限り、闇の中をさまようしかないのですが、我々の意識は自由な主体であるのか?無意識的に操られているだけの存在なのか?
> >
> > さて、どう進みますか。
>
>
>  探求は止まないようですね‥。
>
>  初めは、クリシュナムルティ理解として、クリシュナムルティの陳述内容を理解することに焦点を当てていましたが、クリシュナムルティが存在しなかったと仮定しても、その同じ探求は避けて通れない自然(宇宙)の理(ことわり)。
>
>  昨晩、「心を変える瞑想」を読みました。
>
>  ひと月ほど前、ゴトさんが「生の中の聖なるもの」とセットで読んだものです。
>
>  そのとき、ゴトさんが「探求は終わった・・」旨を述べていたので不思議に思っていました。

確かにそのように言ったように思います。しかしその心のありようが完全に忘れられています。そして好奇心は元通りにあります。焦った脅迫的な衝動ではなく。

いずれ、もういちど「心を変える瞑想」は読むことになるという確信がありますが、竹田青嗣氏が言っていることを理解して読まないといけないような気がして。少々気が長い話ですが。まだKを読みきるには成熟不十分なんですね。


[24841] Re:[24839] [24833] [24832] 絶対的な価値 投稿者:宮啓 投稿日:2017/11/27(Mon) 09:27  

> > > 自然科学での進め方は、どうも事物についての検討の一方法で、実験による検証を多くの人が行い、着実に成果を上げてよに認められてきました。
> > >
> > > しかし、事物にしても我々の進退がはっきり捉えれるものは感覚にしろわずかな範囲に限られています。昔に比べれば随分広がっていますが。
>
> 註 ここの進退は誤変換で「身体」が正しいです。すみませんでした。
>
> > >
> > > で、そうでなく調べる方法というものはないかというと知覚する、見る、聴くです。
> > >
> > > この見る、聴くという事を単なる感覚として、写真のごときものと考えると全く違います。まず人間同士の話すこと、身振り、振る舞いから、相手の気分、関心、体の調子、そんなことがかなり分かります。相手がそれを隠しているならそれも察せるという具合です。予想も想像もできます。
> > >
> > > これが心の持っている能力です。その心はどのようにして今自分に備わってあるのでしょうか?
> > >
> > > 生まれたばかりの赤ん坊は、まずお腹がすけば泣いてその欠乏を知らせます。母親はそれにこたえて乳首を含ませ、赤ん坊は母乳を吸って欠乏を満たすことができて眠ります。
> > > 最初は生理的な欠乏の感覚が、泣くというその時赤ん坊の唯一能う事で欲求を伝えます。それに母が答えるだけですが、それは最初のわずかの間で、赤ん坊の肉体の発達は舌や手が加わり、排泄時の泣き声も加わるというふうに事態は発展し、泣き声のトーンが多様化し、母の声掛けによってコミュニケーションが試行錯誤的に始まります。
> > >
> > > 赤ん坊はすぐに、眠ってばかりでなく、覚めて遊ぶ時間が出現します。親にせがんで高く差し上げてゆすったりしてもらってよろこんだり。そして家の中を歩き回ったり外へ連れて行ってもらったりして世界を広げます。玩具やテレビやアニメなどをどんどん知っていきます。
> > >
> > > そして始めはすべて欲求は受容されたのですが、必ずしもそうでなくなり禁止にも出会います。次の子供が生まれると競合者となり、嫉妬や、孤独も味わいます。美(例えば花の美しさ)の意味を子供時代に知るなら、これは高度の感覚?が備わったと言えるかもしれません。
> > >
> > > どうやら心とはこのようなもので、これを脳の機能であると言ってもよいかもしれませんが、脳の機能そのものがブラックボックスの中にあるので、あまり役に立たないでしょう。
> > >
> > > さて、心とは始め母親からの言語を通じた全人的交流によって試行錯誤的に形成され始め、それに他者・社会も参加し、広がっていきます。そして大人の心も常に変転していくものでしょうが、そしてそれは世の中を渡っていくための自分でもあるわけですが、自我とも言っていいようです。いや、実際にどうなのかな?
> > >
> > > このような心にとっての価値とは、特に絶対的な価値とは何だろうかと思って、Kの本や、最近出た竹田青嗣の欲望論1,2の2巻目「価値」の原理論を読んでいます。なお、1巻目は「意味」の原理論です。いずれも500ページの大著ですが、読んでみるつもりです。私にはかなりしっかり書かれた哲学書に見えます、啓蒙書ではありません。絶対的な価値がもし見えてきたらうれしいのですが。
> >
> >
> >  私の場合は、「絶対的な価値は?」と問われれば、「色眼鏡なく歪みなく見える視座」と思うことでしょう。
> >
> >  この視座がいかに困難かは、今の自他を見ても、歴史を見ても明らかに思います。
> >
> >  伝統や時代による歪み・色眼鏡。人の見方をいかようにも、本末転倒的にでも、転倒夢想的にでも、いかようにも見せることができる色眼鏡。
> >
> >  そんな中、「色眼鏡なく歪みなく見える視座」の価値が高まるようです。
>
>
> 見る、聴く、知覚するには単なる視覚、聴覚でなく、精神的なものを含めての全体状況を知ること(洞察)ができる事にはちょっと触れましたが、そこで展開する人間関係は実は意識の領分での感情を交えたゲーム感覚というべきもので、科学的な認証関係ではないのかと思います。ユーモアとか、笑いはそれを表す一面、潤滑油のようなものかもしれません。Kは講話ではジョークは少ないですが言いますし、ジョークは結構好きだったらしいです。
>
> しかし、本当の宗教心は僧堂のそれではない厳粛さがあるという事ですし、そこはよくわかりません。ひとつのすべ(術・アート)なのかな。権威主義的なものがある雰囲気を溶かすとかもあるのかな。 暴力的なものの台頭の予防にもなるかも。
>
> それで、精神的事柄について話すときは、科学について話すときと違う何かを必要とすると私は思うのですが、もちろん論理だけではないし、心の交感があるための注意(attention)のホーカスが自ずと生まれる雰囲気とでも言うべきものが必要であると思います。我々はそのいわゆる宗教的儀式は大なり小なり知っていると思います。怪しげな偽物のあることも。
>
> だがまあ、それらは置いといて論理的な偽物は少なくとも自分で看破できなければならないと思いますが、一向に自信がない。自分自身の独我論的思い込みの前提、神話的英雄伝説の類、言葉を使う事でのパラドックスに突き当たるとき、突き当たっている壁を見破れるか? 自分の思考が、これこそは真実として握りしめる観念を虚偽のものと見抜くことができない限り、闇の中をさまようしかないのですが、我々の意識は自由な主体であるのか?無意識的に操られているだけの存在なのか?
>
> さて、どう進みますか。


 探求は止まないようですね‥。

 初めは、クリシュナムルティ理解として、クリシュナムルティの陳述内容を理解することに焦点を当てていましたが、クリシュナムルティが存在しなかったと仮定しても、その同じ探求は避けて通れない自然(宇宙)の理(ことわり)。

 昨晩、「心を変える瞑想」を読みました。

 ひと月ほど前、ゴトさんが「生の中の聖なるもの」とセットで読んだものです。

 そのとき、ゴトさんが「探求は終わった・・」旨を述べていたので不思議に思っていました。


[24840] Re:[24836] [24832] 絶対的な価値 投稿者:ゴト 投稿日:2017/11/26(Sun) 22:07  

> > 美(例えば花の美しさ)の意味を子供時代に知るなら、これは高度の感覚?が備わったと言えるかもしれません。
>
> 美しさって何でしょうか。たしかに成長に従ってその感覚に気付いたり変化したりするように思えますが、条件付けなどではないような気がします。かといって音楽のように自然界には無かったはずのものに美を感じるのも不思議です。


美について何か言えるようになったら必ず書きます。でも今は書く力がありません。
ただ、対象化した対象に美を感じていたのですが、その知覚をもたらしてくれるたまたまのぴったりの陽光と背景があることと、それを美しく感じる自分は何なのだろうと思いました。


[24839] Re:[24833] [24832] 絶対的な価値 投稿者:ゴト 投稿日:2017/11/26(Sun) 21:44  

> > 自然科学での進め方は、どうも事物についての検討の一方法で、実験による検証を多くの人が行い、着実に成果を上げてよに認められてきました。
> >
> > しかし、事物にしても我々の進退がはっきり捉えれるものは感覚にしろわずかな範囲に限られています。昔に比べれば随分広がっていますが。

註 ここの進退は誤変換で「身体」が正しいです。すみませんでした。

> >
> > で、そうでなく調べる方法というものはないかというと知覚する、見る、聴くです。
> >
> > この見る、聴くという事を単なる感覚として、写真のごときものと考えると全く違います。まず人間同士の話すこと、身振り、振る舞いから、相手の気分、関心、体の調子、そんなことがかなり分かります。相手がそれを隠しているならそれも察せるという具合です。予想も想像もできます。
> >
> > これが心の持っている能力です。その心はどのようにして今自分に備わってあるのでしょうか?
> >
> > 生まれたばかりの赤ん坊は、まずお腹がすけば泣いてその欠乏を知らせます。母親はそれにこたえて乳首を含ませ、赤ん坊は母乳を吸って欠乏を満たすことができて眠ります。
> > 最初は生理的な欠乏の感覚が、泣くというその時赤ん坊の唯一能う事で欲求を伝えます。それに母が答えるだけですが、それは最初のわずかの間で、赤ん坊の肉体の発達は舌や手が加わり、排泄時の泣き声も加わるというふうに事態は発展し、泣き声のトーンが多様化し、母の声掛けによってコミュニケーションが試行錯誤的に始まります。
> >
> > 赤ん坊はすぐに、眠ってばかりでなく、覚めて遊ぶ時間が出現します。親にせがんで高く差し上げてゆすったりしてもらってよろこんだり。そして家の中を歩き回ったり外へ連れて行ってもらったりして世界を広げます。玩具やテレビやアニメなどをどんどん知っていきます。
> >
> > そして始めはすべて欲求は受容されたのですが、必ずしもそうでなくなり禁止にも出会います。次の子供が生まれると競合者となり、嫉妬や、孤独も味わいます。美(例えば花の美しさ)の意味を子供時代に知るなら、これは高度の感覚?が備わったと言えるかもしれません。
> >
> > どうやら心とはこのようなもので、これを脳の機能であると言ってもよいかもしれませんが、脳の機能そのものがブラックボックスの中にあるので、あまり役に立たないでしょう。
> >
> > さて、心とは始め母親からの言語を通じた全人的交流によって試行錯誤的に形成され始め、それに他者・社会も参加し、広がっていきます。そして大人の心も常に変転していくものでしょうが、そしてそれは世の中を渡っていくための自分でもあるわけですが、自我とも言っていいようです。いや、実際にどうなのかな?
> >
> > このような心にとっての価値とは、特に絶対的な価値とは何だろうかと思って、Kの本や、最近出た竹田青嗣の欲望論1,2の2巻目「価値」の原理論を読んでいます。なお、1巻目は「意味」の原理論です。いずれも500ページの大著ですが、読んでみるつもりです。私にはかなりしっかり書かれた哲学書に見えます、啓蒙書ではありません。絶対的な価値がもし見えてきたらうれしいのですが。
>
>
>  私の場合は、「絶対的な価値は?」と問われれば、「色眼鏡なく歪みなく見える視座」と思うことでしょう。
>
>  この視座がいかに困難かは、今の自他を見ても、歴史を見ても明らかに思います。
>
>  伝統や時代による歪み・色眼鏡。人の見方をいかようにも、本末転倒的にでも、転倒夢想的にでも、いかようにも見せることができる色眼鏡。
>
>  そんな中、「色眼鏡なく歪みなく見える視座」の価値が高まるようです。


見る、聴く、知覚するには単なる視覚、聴覚でなく、精神的なものを含めての全体状況を知ること(洞察)ができる事にはちょっと触れましたが、そこで展開する人間関係は実は意識の領分での感情を交えたゲーム感覚というべきもので、科学的な認証関係ではないのかと思います。ユーモアとか、笑いはそれを表す一面、潤滑油のようなものかもしれません。Kは講話ではジョークは少ないですが言いますし、ジョークは結構好きだったらしいです。

しかし、本当の宗教心は僧堂のそれではない厳粛さがあるという事ですし、そこはよくわかりません。ひとつのすべ(術・アート)なのかな。権威主義的なものがある雰囲気を溶かすとかもあるのかな。 暴力的なものの台頭の予防にもなるかも。

それで、精神的事柄について話すときは、科学について話すときと違う何かを必要とすると私は思うのですが、もちろん論理だけではないし、心の交感があるための注意(attention)のホーカスが自ずと生まれる雰囲気とでも言うべきものが必要であると思います。我々はそのいわゆる宗教的儀式は大なり小なり知っていると思います。怪しげな偽物のあることも。

だがまあ、それらは置いといて論理的な偽物は少なくとも自分で看破できなければならないと思いますが、一向に自信がない。自分自身の独我論的思い込みの前提、神話的英雄伝説の類、言葉を使う事でのパラドックスに突き当たるとき、突き当たっている壁を見破れるか? 自分の思考が、これこそは真実として握りしめる観念を虚偽のものと見抜くことができない限り、闇の中をさまようしかないのですが、我々の意識は自由な主体であるのか?無意識的に操られているだけの存在なのか?

さて、どう進みますか。


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