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[24697] Re:[24695] [24687] [24681] [24678] [24672] [24663] [24662] Kの言っていること―あるいは瞑想 投稿者:ゴト 投稿日:2017/10/16(Mon) 13:41  

> > 大変興味深い話をありがとうございました。私は今マインド、脳、思考といった問題に関心を持っていることがわかりました。
> >
> > それでひょいとKの「思考のネットワーク」渡辺 充 訳 という本を引っ張り出して読んでいました。購入した当時はあまりピンとこなかったのですが、今私の関心にぴったりという感じで読んでいます。
> > 1981年のザーネン講話と同年のアムステルダムでの講話です。上記和訳は1991年の発行です。
>
>
>  私もこの本を読んでみました。
>
>  『英知へのターニングポイント』と改題された本です(平成22年初版発行)。
>
>  数年前に読んだ時と比べて、多くを学んでいます。理解が深まって学ぶことが多く陳述されています。
>
>  その読むきっかけを与えていただき感謝しています。
>
>  今、第3回講話まで読み終えました。


私が過去読んできたKの本は1945年ごろか1970年ちょっとまでで、そこでは見る、聴くという事が取り上げられ、それは戦争にも関連していたのですが、読み手側の問題もあるでしょうが個人的苦悩からの解放という捉え方が多かったと思います。

それで見る、聴くは最初の入り口で、もしかすると最後のものであるかもしれないとはいえ、少しは平和に、葛藤なしに生き始めると何か足らないものがあるという感じが私にはあったのです。

それで「時間の終焉」を経て、1981年の「思考のネットワーク」を読むと、個人の意識が人類の意識であること、それが現在の社会の戦争を頂点とする深刻な問題を引き起こしている、それは出来事に対し個別的に対応し、記憶し知識として広めてきた人類の意識、構造に起因することが明確に述べられています。

その人類の意識のやり方、構造を(深く強いエネルギーで真に)よく聴き、理解し、新しい生き方、社会を実現することはKの言う事を聴いた私(ヒト)にかかっています。

私はようやくここまで来ました。


[24696] マインドの性質 投稿者:南方 投稿日:2017/10/15(Sun) 19:57  

見ることをすればこれは幻想ですが、それを前提で書きます。

マインドには4つの世界があり、それぞれに7段階のレベルがある。地水風火。

それをどうやって体験するかは幻想と知りながらその世界に入って世界がどう見えるかを感じるしかないんですね。
これはこれで楽しいもんです。
LSDを服用するとこんな感じかな、とかです。

あくまで僕の趣味の範囲ですので。
マインドに興味を持っていると言うことでしたので書きました。

これも幻想と前提で書きますが僕の魔術としてユダヤ包囲網というのをその人に術をかけることが可能な時もあります。メディア、魂、霊的に包囲するんですね。入院中は手が震えて飯が食えないほど人をビビらせたこともあります。

あとはテレパシー。

こんなところです。


[24695] Re:[24687] [24681] [24678] [24672] [24663] [24662] Kの言っていること―あるいは瞑想 投稿者:宮啓 投稿日:2017/10/15(Sun) 18:43  

> 大変興味深い話をありがとうございました。私は今マインド、脳、思考といった問題に関心を持っていることがわかりました。
>
> それでひょいとKの「思考のネットワーク」渡辺 充 訳 という本を引っ張り出して読んでいました。購入した当時はあまりピンとこなかったのですが、今私の関心にぴったりという感じで読んでいます。
> 1981年のザーネン講話と同年のアムステルダムでの講話です。上記和訳は1991年の発行です。


 私もこの本を読んでみました。

 『英知へのターニングポイント』と改題された本です(平成22年初版発行)。

 数年前に読んだ時と比べて、多くを学んでいます。理解が深まって学ぶことが多く陳述されています。

 その読むきっかけを与えていただき感謝しています。

 今、第3回講話まで読み終えました。


[24694] Re:[24692] [24691] [24689] [24688] [24684] [24682] [24677] [24669] [24666] [24665] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2017/10/15(Sun) 18:01  

> > > それで先の話に戻るのですが。見ることがあるとき、マインドのありようの変化がある、とおっしゃっていましたが私はこれが疑問です。
> > >
> > > 観れば静になることは確かです。ありようも変わります。
> > > これは非難正当化に焦点を当てているから起きたことなのか
> > > 背後にあるエネルギーによる影響なのかという疑問です。
> > >
> > > 両者に違いがあるとすればどういったものだとお考えですか?
> >
> > チャレンジというのは何でもいいのです。たとえば何かの趣味の道具を買いに行った、するとたまたま店が休日で買えない、思ったとおりに事が運ばない。「くそっ!」はらわたが煮えくり返ります。それがなかなか収まらない、むしろ我慢しよとすると余計苦しい。実はその日が定休日であることは知っていた。だが、趣味の楽しいイメージがあってそんな事は思いもしなかったのです。そのように、憤りが噴出するとき、ただ見ているのでなく、心が観察者としてその場にいて、反応が起きます。
> >
>
>
> かなりのチャレンジ精神の持ち主ですね。

? 私は世界、あるいは運命に挑戦(いじめ)されたと思っているわけですが。もちろんこれは私のつくった投影・イメージ。

> > で、そういうマインドを持っているわがままな私としては、万事についてそのような反応が直ちに起こることなしに見ることは難しいのです。
> >
>
>
> 自分でチャレンジしたんでしょう?まぁ誰でも難しと思いますが。

ま、イメージなしに見ることに私が挑戦しているとも言えます。

> > それがただ見続けている、見ることだけがあると言ってもいいが、ただその状態を知覚しているという状態が発生するというのはそのような私にとっては言わば小さい奇蹟なのです。
> > そのような変化が起こったという事は、私の条件づけられた物事の見方が変わったという事です。
> >
> > それは何が原因、あるいは原動力になっているかというお尋ねだと思うのですが、私はKの発する問いを全体的に受け止め問いと共にとどまったという事で、マインドの在り方が変わったのではないかと思うとぐらいしか言えません。
> >
>
>
> Kや皆様のおかげで私もそれが起こったし、一度起こると後は芸みたいなもので、お笑い芸人になんで面白いこと話せるんですか?と聞くようなもので、それはいつでもできるし、どうやってはナンセンス。芸事は問答無用。

はい。一度見ることに入ると、錯覚には戻れないですね。

> > > また平和なマインドとうものがありうるでしょうか?
> >
> > 私はあると言いますし、それは自分が、おや、いつの間にか平和な心になったのかなと思ったことが以前にあるからですが、何せKのようにしっかり話ができないので、こんな言い方で勘弁してください。
>
>
>
> 私もあると思います。以前と比べると丸くなったなと自分でも思うくらいです。
>
> そこでこれが疑問なんですが本当に芯から平和な心があるとしたら、ただ見ることはもう必要ないんじゃないか?ということです。
>
> そこはどうなんでしょう?
>
> やはり、ただ見ることを今数秒やってこれを書いてますが、あった方が楽です。
>
> 楽と言うことは平和な心じゃないということですか。心は芯から平和でありうるか・・・?

ただ見ることは普通の振る舞いになって、別に意識することではなくなっています。


[24693] Re:[24690] [24688] [24684] [24682] [24677] [24669] [24666] [24665] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2017/10/15(Sun) 17:37  

> > 見る状態において、観察者としてマインドが介入している状態と、介入していない(ただ見ている)状態があるのではないかと、私は言っています。
> >
> > 南方さんは、見ると言えば、それは常にただ見ていることを意味しているとわかりました。
>
>  そんなことは当たり前の話ではないですか。
>  「見る」というのは、ただ見ている、思考なしに見ている、という状態です。
>  意味しているということではなく、心の状態を指している。
>  こういうことは今まで、互いに了解の上では話していたはずです。
> 現に24644で
>  あなたはこう述べている
>  「非難正当化なしに聞く。無選択に聞く。動機、欲望なしに聞く。判断、解釈なしに聞く。知識をわきにおいて、初めて聞くように聞く。等々。このように聞くことが可能でしょうか?、とKは問います。」
>  これは「見る状態」ではないですか。

はい、ただ見ている状態です。

>  ところがあなたはここに来て、「見る」ということは二つあるという。
> 初めて聞きました。
>
>  あらためて再録しますが、
> > 見る状態において、観察者としてマインドが介入している状態と、介入していない(ただ見ている)状態があるのではないかと、私は言っています。
>
>  後の文はいいとして、前者の
> 「見る状態において、観察者としてマインドが介入している状態」
>  とは、どういう心の状態ですか?
>  マインドが介入した時点で、見る状態とは言えないでしょう。

マインドのつくったイメージを見ているという状態がありますね。それを実際と錯覚して見ている。それが気になるので、両方を見ていると言っていいかどうかが気になる。それは見ているに入れないと定義すればそれでいいです。その代りマインドの投影あるはイメージを見ている錯覚の状態を何というか示してください。

>  それともこれも「見る状態」ですか?

普通の人は投影なんかに気づいていないからどれも見ているに入れているのでしょう。
ちゃんと気づいていて、真正の見ているだけを「見ている」という人は、その人がそういうふうに言うとわかればそれでいいです。

>  そもそもそこでいうマインドというのは、どういう意味ですか。
>  思考をマインドと言い換えただけですか。

マインドは難しい言葉です。リンゴやミカンのように持ってきて触ることができません。
ここではマインドとは精神、意識、脳、思考、気分などの総称として使っています。

>
>  追記
>  議論したいのは、そういうことではなく
> 「非難正当化なしに聞く。無選択に聞く。動機、欲望なしに聞く。判断、解釈なしに聞く。知識をわきにおいて、初めて聞くように聞く。等々。このように聞くことが可能でしょうか?、とKは問います。」
>
>  この状態が、はたして一般の人がやっているのかどうかということです。
>  渡辺氏の疑問は、こういう状態というのは、一般の人が常にやっているのではないか、ということです。
>  ところが、一方ではKの文は一般の人は難しくて出来ないのではないかというイメージを与えてしまっている。例えば「気づきは難しい」と。
>  ですから、Kの読者にとって、ここでいう「ただ見る」「ただ聞く」ということが今イチ明確でないのではないだろうか。
>  渡辺氏の答えは簡単。ただ座れば「ただ見る」「ただ聞く」状態になる。だから「ただ座れ」という。形から入る。
>  形を否定するクリシュナムルティは「手がかり」がないと、仏教者は言う。
>

私は一般に見ると言ってもリアルに見ているのか、思考のつくったイメージを見ているのかがはっきりとは分からないでいると思います。
真実を見るのは決して容易ではないと思います。

それで人のやり方は形から入るという事です。これはパターンから入るということです。伝統のやり方です。何千年もやってきた。

Kは全く違う事を言います。何も知らずにただ見る、聴くという事から入る。必要なことは一生懸命それに取り組むことだけです。非難正当化なしにとかいう説明は、本当はいらないのでしょう。


[24692] Re:[24691] [24689] [24688] [24684] [24682] [24677] [24669] [24666] [24665] 無題 投稿者:南方 投稿日:2017/10/15(Sun) 14:09  

> > > > 上記のように二つのマインドの状態というのはあります。静と動。しかし、見ることにマインドは影響しえないので、どちらでもいいです。
> > >
> > >
> > > 見る状態において、観察者としてマインドが介入している状態と、介入していない(ただ見ている)状態があるのではないかと、私は言っています。
> > >
> > > 南方さんは、見ると言えば、それは常にただ見ていることを意味しているとわかりました。
> >
> >
> > 整理できました。ありがとうございます。
> >
> > それで先の話に戻るのですが。見ることがあるとき、マインドのありようの変化がある、とおっしゃっていましたが私はこれが疑問です。
> >
> > 観れば静になることは確かです。ありようも変わります。
> > これは非難正当化に焦点を当てているから起きたことなのか
> > 背後にあるエネルギーによる影響なのかという疑問です。
> >
> > 両者に違いがあるとすればどういったものだとお考えですか?
>
> チャレンジというのは何でもいいのです。たとえば何かの趣味の道具を買いに行った、するとたまたま店が休日で買えない、思ったとおりに事が運ばない。「くそっ!」はらわたが煮えくり返ります。それがなかなか収まらない、むしろ我慢しよとすると余計苦しい。実はその日が定休日であることは知っていた。だが、趣味の楽しいイメージがあってそんな事は思いもしなかったのです。そのように、憤りが噴出するとき、ただ見ているのでなく、心が観察者としてその場にいて、反応が起きます。
>


かなりのチャレンジ精神の持ち主ですね。

> で、そういうマインドを持っているわがままな私としては、万事についてそのような反応が直ちに起こることなしに見ることは難しいのです。
>


自分でチャレンジしたんでしょう?まぁ誰でも難しと思いますが。

> それがただ見続けている、見ることだけがあると言ってもいいが、ただその状態を知覚しているという状態が発生するというのはそのような私にとっては言わば小さい奇蹟なのです。
> そのような変化が起こったという事は、私の条件づけられた物事の見方が変わったという事です。
>
> それは何が原因、あるいは原動力になっているかというお尋ねだと思うのですが、私はKの発する問いを全体的に受け止め問いと共にとどまったという事で、マインドの在り方が変わったのではないかと思うとぐらいしか言えません。
>


Kや皆様のおかげで私もそれが起こったし、一度起こると後は芸みたいなもので、お笑い芸人になんで面白いこと話せるんですか?と聞くようなもので、それはいつでもできるし、どうやってはナンセンス。芸事は問答無用。

> > また平和なマインドとうものがありうるでしょうか?
>
> 私はあると言いますし、それは自分が、おや、いつの間にか平和な心になったのかなと思ったことが以前にあるからですが、何せKのようにしっかり話ができないので、こんな言い方で勘弁してください。



私もあると思います。以前と比べると丸くなったなと自分でも思うくらいです。

そこでこれが疑問なんですが本当に芯から平和な心があるとしたら、ただ見ることはもう必要ないんじゃないか?ということです。

そこはどうなんでしょう?

やはり、ただ見ることを今数秒やってこれを書いてますが、あった方が楽です。

楽と言うことは平和な心じゃないということですか。心は芯から平和でありうるか・・・?


[24691] Re:[24689] [24688] [24684] [24682] [24677] [24669] [24666] [24665] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2017/10/15(Sun) 13:18  

> > > 上記のように二つのマインドの状態というのはあります。静と動。しかし、見ることにマインドは影響しえないので、どちらでもいいです。
> >
> >
> > 見る状態において、観察者としてマインドが介入している状態と、介入していない(ただ見ている)状態があるのではないかと、私は言っています。
> >
> > 南方さんは、見ると言えば、それは常にただ見ていることを意味しているとわかりました。
>
>
> 整理できました。ありがとうございます。
>
> それで先の話に戻るのですが。見ることがあるとき、マインドのありようの変化がある、とおっしゃっていましたが私はこれが疑問です。
>
> 観れば静になることは確かです。ありようも変わります。
> これは非難正当化に焦点を当てているから起きたことなのか
> 背後にあるエネルギーによる影響なのかという疑問です。
>
> 両者に違いがあるとすればどういったものだとお考えですか?

チャレンジというのは何でもいいのです。たとえば何かの趣味の道具を買いに行った、するとたまたま店が休日で買えない、思ったとおりに事が運ばない。「くそっ!」はらわたが煮えくり返ります。それがなかなか収まらない、むしろ我慢しよとすると余計苦しい。実はその日が定休日であることは知っていた。だが、趣味の楽しいイメージがあってそんな事は思いもしなかったのです。そのように、憤りが噴出するとき、ただ見ているのでなく、心が観察者としてその場にいて、反応が起きます。

で、そういうマインドを持っているわがままな私としては、万事についてそのような反応が直ちに起こることなしに見ることは難しいのです。

それがただ見続けている、見ることだけがあると言ってもいいが、ただその状態を知覚しているという状態が発生するというのはそのような私にとっては言わば小さい奇蹟なのです。
そのような変化が起こったという事は、私の条件づけられた物事の見方が変わったという事です。

それは何が原因、あるいは原動力になっているかというお尋ねだと思うのですが、私はKの発する問いを全体的に受け止め問いと共にとどまったという事で、マインドの在り方が変わったのではないかと思うとぐらいしか言えません。

> また平和なマインドとうものがありうるでしょうか?

私はあると言いますし、それは自分が、おや、いつの間にか平和な心になったのかなと思ったことが以前にあるからですが、何せKのようにしっかり話ができないので、こんな言い方で勘弁してください。


[24690] Re:[24688] [24684] [24682] [24677] [24669] [24666] [24665] 無題 投稿者:外野 投稿日:2017/10/15(Sun) 08:45  

> 見る状態において、観察者としてマインドが介入している状態と、介入していない(ただ見ている)状態があるのではないかと、私は言っています。
>
> 南方さんは、見ると言えば、それは常にただ見ていることを意味しているとわかりました。

 そんなことは当たり前の話ではないですか。
 「見る」というのは、ただ見ている、思考なしに見ている、という状態です。
 意味しているということではなく、心の状態を指している。
 こういうことは今まで、互いに了解の上では話していたはずです。
現に24644で
 あなたはこう述べている
 「非難正当化なしに聞く。無選択に聞く。動機、欲望なしに聞く。判断、解釈なしに聞く。知識をわきにおいて、初めて聞くように聞く。等々。このように聞くことが可能でしょうか?、とKは問います。」
 これは「見る状態」ではないですか。


 ところがあなたはここに来て、「見る」ということは二つあるという。
初めて聞きました。

 あらためて再録しますが、
> 見る状態において、観察者としてマインドが介入している状態と、介入していない(ただ見ている)状態があるのではないかと、私は言っています。

 後の文はいいとして、前者の
「見る状態において、観察者としてマインドが介入している状態」
 とは、どういう心の状態ですか?
 マインドが介入した時点で、見る状態とは言えないでしょう。
 それともこれも「見る状態」ですか?
 そもそもそこでいうマインドというのは、どういう意味ですか。
 思考をマインドと言い換えただけですか。


 追記
 議論したいのは、そういうことではなく
「非難正当化なしに聞く。無選択に聞く。動機、欲望なしに聞く。判断、解釈なしに聞く。知識をわきにおいて、初めて聞くように聞く。等々。このように聞くことが可能でしょうか?、とKは問います。」

 この状態が、はたして一般の人がやっているのかどうかということです。
 渡辺氏の疑問は、こういう状態というのは、一般の人が常にやっているのではないか、ということです。
 ところが、一方ではKの文は一般の人は難しくて出来ないのではないかというイメージを与えてしまっている。例えば「気づきは難しい」と。
 ですから、Kの読者にとって、ここでいう「ただ見る」「ただ聞く」ということが今イチ明確でないのではないだろうか。
 渡辺氏の答えは簡単。ただ座れば「ただ見る」「ただ聞く」状態になる。だから「ただ座れ」という。形から入る。
 形を否定するクリシュナムルティは「手がかり」がないと、仏教者は言う。
 


[24689] Re:[24688] [24684] [24682] [24677] [24669] [24666] [24665] 無題 投稿者:南方 投稿日:2017/10/15(Sun) 04:04  

> >
> >
> > 上記のように二つのマインドの状態というのはあります。静と動。しかし、見ることにマインドは影響しえないので、どちらでもいいです。
>
>
> 見る状態において、観察者としてマインドが介入している状態と、介入していない(ただ見ている)状態があるのではないかと、私は言っています。
>
> 南方さんは、見ると言えば、それは常にただ見ていることを意味しているとわかりました。


整理できました。ありがとうございます。

それで先の話に戻るのですが。見ることがあるとき、マインドのありようの変化がある、とおっしゃっていましたが私はこれが疑問です。

観れば静になることは確かです。ありようも変わります。
これは非難正当化に焦点を当てているから起きたことなのか
背後にあるエネルギーによる影響なのかという疑問です。

両者に違いがあるとすればどういったものだとお考えですか?

また平和なマインドとうものがありうるでしょうか?


[24688] Re:[24684] [24682] [24677] [24669] [24666] [24665] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2017/10/14(Sat) 21:43  

> > > >
> > > > そのような異質な(異次元的でもよい)性が現れる時、マインドのありようの変化がある。
> > > >
> > >
> > >
> > > 非難正当化の背後にあるエネルギーは感じ取れますが
> > >
> > > マインドのありように変化はありませんよ。
> > >
> > > そのエネルギーからマインドを介さないで見ることはいつもできますが。
> > >
> > > マインドはマインドです。
> >
> >
> > どうも話がこんがらかっています。もう一度やり直してみます。
> >
> > ただ見ることができず、非難正当化が出てきてしまう。――この時マインド(心)は騒いで介入してきている。
> >
>
>
> いやマインド(心)が騒いでいても、それを脇に置いといて見ることはできます。エネルギーの流れの外に置くということ。
>
>
> > 非難正当化なしにただ見ている。――この時マインドは静かである。
> >
>
> マインドが静かな時もありますし、背後にあるエネルギーからの影響を受けてかもしれません。
>
> > この二つの場合で、マインドはマインドかもしれないが、その状態は違うのではないかと言っています。たまたまのようで、出たときハッと気づき非難正当化に入って行かないようであるなら、非難正当化は終わります。憎しみでも嫉妬でも同じです。そういう事を言っていますが、ここが違うでしょうか?
>
>
> 上記のように二つのマインドの状態というのはあります。静と動。しかし、見ることにマインドは影響しえないので、どちらでもいいです。


見る状態において、観察者としてマインドが介入している状態と、介入していない(ただ見ている)状態があるのではないかと、私は言っています。

南方さんは、見ると言えば、それは常にただ見ていることを意味しているとわかりました。


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