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[25682] Re:[25675] 異質の社会に入るときの恐怖 投稿者:無明 投稿日:2018/07/20(Fri) 10:41  

> > 思考は、記憶と同じように、もちろん日常生活に必要です。それはコミュニケーションや仕事などするための唯一の道具です。思考は記憶への応答であり、記憶は経験、知識、伝統、時間を通じて蓄積されてきました。そしてこの記憶の背景から私達は反応し、その反応が思考です。それゆえ思考はあるレベルでは不可欠ですが、・・・−−
>
> このように日常生活は時間を通じて蓄積された経験、知識、伝統などに深く無意識的に依存しています。

はい。時間が経つに連れ、環境に慣れていきます。
>
> 遠隔地への単独赴任などは家庭、人間関係を含めてその環境がガラッと変わることです。そこにある異質性はある程度時間がたち、経験を積むといやでもわかってきます。

慣れない仕事、慣れない人間関係。環境を変えるということは一からやり直し。
>
> その時、心は元の熟知した環境に戻ることを切望します。

それはできないのではないですか。新天地に来たのですから。
それより新天地になれること。


>未知の異質の環境は恐怖を呼びます。

新しいことをやるのは恐怖ですか。それよりに「未知」に向き合うことの方が多いのでは。

>食事も外食になり、好みの店を見つけるまでは食べたくない食事が続き、身体を壊し、自炊したりしなければなりません。

そこは受け入れるしかないですね。

未知のものに出会うことが恐怖と呼んでいるのでしょうか?
むしろ、何が起きるかわからないという好奇心の方が多いのではないですか。

>
> もとの環境を恋しがることが恐怖です。

元の環境を懐かしむということはありますが、そのことを恐怖と呼ぶのでしょうか。
私としては会社をクビになることの方が恐怖です。ですから、今の与えられた仕事に懸命に取り組むしかない。


>その恋しがる心が死んだようにその切望を否定して新しい環境に取り組めば、その環境で親密に生きることはできます。

はい、そうです。実際そこの境遇にいるのですから、過去を懐かしがってもしょうがないです。
>
> しかし、これは恐怖全般が消えたことでしょうか? わかりません。しかし恐怖があるとき、逃げようとする心はなくなっていて、その場に立ち向かいます。

ここでいう恐怖というのが、よくわかりません。私としては何か失うことが恐怖です。仕事、役職、家族など。


[25681] あるがままに見る 投稿者:無明 投稿日:2018/07/20(Fri) 10:11  

クリシュナムルティの理解に少しでもお役に立てればと紹介しました。

あるがままに見る(2)

クリシュナムルティが言う、「あるがまま見なさい」ということ。
「あるがまま」で居ないと、「あるがまま見る」ことはできません。
彼は来訪者と共に座り、緑豊かな周りの景色を見て、木立ちを渡る風、鳥たちのさえずり、清涼な静けさ、それらをただ、あるがまま見る事で、来訪者に波動の共振を促し、静寂なる本質へと導こうとしたのでしょう。
しかし、それに共振してただ座る人はあまり居なかったようです。
訪れる人は、個人的な問題、家族の不和や、世間との関わりや、自分がいかに不幸であるか、一方的に説明して、ただ座る事によって得られる満ち足りた感覚など気づこうともしなかったようです。
それによる問題解決や、そもそも問題など何も無かった事など知る事も無く、その師との大きな隔たりに怒りを顕にして出ていくという人も居たようです。
はっきり言って、問題を抱えて、それに悩む人は、ほんとうに座るどころでは無いというのも頷けるのですが、それでも、解決の糸口や、あるいは自分を知るためには、クリシュナムルティのような静寂に入る瞑想は実に有効なのです。
そう言われて、それにトライしてみるものの、そもそも「あるがまま」がわかりません。我々は、何かを見て、「あるがまま見ているか?」と疑問を抱く事がありません。見ている対象は、そのまま実体を見ていると思っています。
わたしは見ている。
あの木を見ている。
あの枝を、葉を、葉の葉脈を、朝日に照らされ輝く無数の水滴を、その葉の濡れ具合を、と、しっかり見ていると思いっています。
「あるがまま見る」に、そのような木、枝、葉、葉脈、朝日、水滴、そのような名付けは、必要ありません。
また、綺麗だとか、生き生きしているとか、形容も必要ありません。
それらは、全て、断定していて、断定によって終わっているのです。
終わっているから、次の断定すべき対象に目が移っていきます。
そして、次の対象を見つけると、それに名前を探し、名前の由来とか意味とかを探し、形容し、そしてこれはこういう名前でこういう性質で、こういう作用をして・・・と断定し、その対象を認識し、終わったと見ます。
もっと探し出そうと思えば、いくらでも探し出せます。
緑色はクロロフィルの色で、光合成して二酸化炭素から澱粉を作り、・・・ミトコンドリアが・・・デオキシリボ核酸が、・・・と、記憶の中から知識を引っ張り出します。
そんな事は、人が勝手に断定した事の、ラベルでしかありません。
それだから記憶できるのです。
記憶とは、ただのメモ用紙です。
今見ているそれに記憶を適用するから、常に記憶に居るしかなくなります。
人の諸問題とは、結局記憶に住んでいるための、今に居られない病気です。
もうとっくに終わっている、既に無い過去に暮らしているのです。
「ありのまま見る」とは、瞬間のその新しい、初めて見るそれを、過去を適用しないで、今として受け止めて見る事です。
どうでしょうか?そうすれば、それに名前などありません。
次々と現れる新しい今に、次々と現れる新しい対象を見るなら、名前を付けるまえにそれらは消え去ります。また、範囲もありません。
空間に続く葉の稜線は、空間と離れていません。
空間に続く身体の表面は、空間と離れていません。
それならば、葉と身体は離れていません。
身体とあの山並みは離れてはいません。
現れるそれらは、範囲を限定するよりも速く過去に消え去ります。
そうそう、名前をつけるのを諦めなさい。
範囲を限定し、分けるのを諦めなさい。
そんな事をしている間に、それらは違う新しい現れになっています。
もうこうなったら、いっぺんに見るのです。
いっぺんに見て、見たらすぐ次の瞬間を、これまたいっぺんに見るのです。
そして、時間も無く、今・今・今・・・を、ただ見るのです。
そうすれば、それは全部です。
全部という「ひとつ」です。
そのとき、どうでしょうか?「わたし」は居ますか?
見ている対象は、まったく「ひとつ」しか無く、見ている者も確かにあるでしょうが、
「わたし」という者がそこに居るでしょうか?
それは、もう、「見ている」が居るだけです。
では、「見ている」はどこに居るでしょうか?
面白いですね。それに気づくのが、瞑想です。
その「見ている」に気づいて、そして、「居る」ところに気づく事。
更に、「居る」所に居続ける事。
そしてそれと、見えている対象が、今、同時に在るという事。
そうすると、なにもかもが、「ひとつ」だけになってしまいます。
その時、知覚、感覚、気づき、それらのものがフルパワーで働くのです。
智慧の大海に臨んでいるのです。
我々は普段、日常で、何かに捉われ見ているのです。
それだから世界が見えません。
木を見て、枝を見て、葉を見て、葉脈を見て、・・・だから森そのものが見えません。
それらは「ひとつ」の中の模様たちです。
そうであるなら、現象も模様たちです。
「見ている」は、どこに居るのでしょう。
真我は、そのように現れを楽しんでいるのです。
内側を、見つけましたか?



[25680] あるがままに見る 投稿者:無明 投稿日:2018/07/20(Fri) 10:04  

クリシュナムルティの理解に少しでもお役に立てればと紹介しました。


あるがままに見る(2)

クリシュナムルティが言う、「あるがまま見なさい」ということ。


「あるがまま」で居ないと、「あるがまま見る」ことはできません。
彼は来訪者と共に座り、緑豊かな周りの景色を見て、木立ちを渡る風、鳥たちのさえずり、清涼な静けさ、それらをただ、あるがまま見る事で、来訪者に波動の共振を促し、
静寂なる本質へと導こうとしたのでしょう。


しかし、それに共振してただ座る人はあまり居なかったようです。
訪れる人は、個人的な問題、家族の不和や、世間との関わりや、自分がいかに不幸であるか、一方的に説明して、ただ座る事によって得られる満ち足りた感覚など気づこうともしなかったようです。


それによる問題解決や、そもそも問題など何も無かった事など知る事も無く、その師との大きな隔たりに怒りを顕にして出ていくという人も居たようです。


はっきり言って、問題を抱えて、それに悩む人は、ほんとうに座るどころでは無いというのも頷けるのですが、それでも、解決の糸口や、あるいは自分を知るためには、クリシュナムルティのような静寂に入る瞑想は実に有効なのです。


そう言われて、それにトライしてみるものの、そもそも「あるがまま」がわかりません。我々は、何かを見て、「あるがまま見ているか?」と疑問を抱く事がありません。見ている対象は、そのまま実体を見ていると思っています。

わたしは見ている。
あの木を見ている。
あの枝を、葉を、葉の葉脈を、朝日に照らされ輝く無数の水滴を、その葉の濡れ具合を、と、しっかり見ていると思いっています。


「あるがまま見る」に、そのような木、枝、葉、葉脈、朝日、水滴、そのような名付けは、必要ありません。

また、綺麗だとか、生き生きしているとか、形容も必要ありません。

それらは、全て、断定していて、断定によって終わっているのです。
終わっているから、次の断定すべき対象に目が移っていきます。
そして、次の対象を見つけると、それに名前を探し、名前の由来とか意味とかを探し、形容し、そしてこれはこういう名前でこういう性質で、こういう作用をして・・・と断定し、その対象を認識し、終わったと見ます。


もっと探し出そうと思えば、いくらでも探し出せます。
緑色はクロロフィルの色で、光合成して二酸化炭素から澱粉を作り、・・・ミトコンドリアが・・・デオキシリボ核酸が、・・・と、記憶の中から知識を引っ張り出します。

そんな事は、人が勝手に断定した事の、ラベルでしかありません。

それだから記憶できるのです。

記憶とは、ただのメモ用紙です。

今見ているそれに記憶を適用するから、常に記憶に居るしかなくなります。

人の諸問題とは、結局記憶に住んでいるための、今に居られない病気です。
もうとっくに終わっている、既に無い過去に暮らしているのです。

「ありのまま見る」とは、瞬間のその新しい、初めて見るそれを、過去を適用しないで、今として受け止めて見る事です。

どうでしょうか?そうすれば、それに名前などありません。
次々と現れる新しい今に、次々と現れる新しい対象を見るなら、名前を付けるまえに
それらは消え去ります。

また、範囲もありません。

空間に続く葉の稜線は、空間と離れていません。

空間に続く身体の表面は、空間と離れていません。

それならば、葉と身体は離れていません。

身体とあの山並みは離れてはいません。

現れるそれらは、範囲を限定するよりも速く過去に消え去ります。


そうそう、名前をつけるのを諦めなさい。
範囲を限定し、分けるのを諦めなさい。
そんな事をしている間に、それらは違う新しい現れになっています。


もうこうなったら、いっぺんに見るのです。

いっぺんに見て、見たらすぐ次の瞬間を、これまたいっぺんに見るのです。

そして、時間も無く、今・今・今・・・を、ただ見るのです。


そうすれば、それは全部です。
全部という「ひとつ」です。


そのとき、どうでしょうか?「わたし」は居ますか?


見ている対象は、まったく「ひとつ」しか無く、見ている者も確かにあるでしょうが、
「わたし」という者がそこに居るでしょうか?


それは、もう、「見ている」が居るだけです。


では、「見ている」はどこに居るでしょうか?


面白いですね。それに気づくのが、瞑想です。

その「見ている」に気づいて、そして、「居る」ところに気づく事。

更に、「居る」所に居続ける事。

そしてそれと、見えている対象が、今、同時に在るという事。

そうすると、なにもかもが、「ひとつ」だけになってしまいます。

その時、知覚、感覚、気づき、それらのものがフルパワーで働くのです。

智慧の大海に臨んでいるのです。


我々は普段、日常で、何かに捉われ見ているのです。
それだから世界が見えません。

木を見て、枝を見て、葉を見て、葉脈を見て、・・・だから森そのものが見えません。

それらは「ひとつ」の中の模様たちです。

そうであるなら、現象も模様たちです。

「見ている」は、どこに居るのでしょう。

真我は、そのように現れを楽しんでいるのです。


内側を、見つけましたか?



[25679] 真我が目覚めるとき(続き) 投稿者:無明 投稿日:2018/07/20(Fri) 09:53  

あまりにも素晴らしかったので紹介します。ちょうどクリシュナムルティ節に辟易していたところです。
(回りくどい言い方になるのは訳者のせいなのだろうか?)
外国人の翻訳というのは、訳す人の感性に委ねられるので、うまく真理が伝わらない。真理を得た日本人の直接の文章はよくわかる。驚きました。こういう人がいたなんて。

続き

花をあるがまま、受け入れる事ができますか?



一切の思考なく、あるがまま見るなら。

花と花を見る者との間に、距離を感覚していますか?

感覚しているなら、思考があります。

花と花を見る者との間に、距離も、隙間も、時間も、空間も、

一切思考の痕跡が無いなら、それがあるがまま見ているという事です。

その時、見る者は、見られる花と異なってはいません。

その時、見る者は見られるものです。

思考がじゃまをしているだけで、ほんとうは花は、あなたの中に現れているのです。

その事を知るために、思考に気づいている必要があるのです。

気づきは思考であってはなりません。

それはただ知覚です。

思考している事も、思考していない事も気づいている必要があります。

また、それを思考で気づいているのではなく、ただ知覚があるだけで、

そういう事さえも気づいている必要があります。

さて、思考を見ている「わたし」があります。

それは事実、「わたし」が思考を見ているのでしょうか?

思考が静まり、完全に姿を消した状態で、「わたし」はあるでしょうか?

この観察を、しっかり見つめてください。

思考があり、思考を見る「わたし」がいる。

これをしっかり見つめるなら。

「わたし」という観察する者は、思考によって現されている

という事実に突き当たります。

観察される思考は、観察する者と異なってはいません。

理論としてではなく、これは実際に気づかれなければなりません。

想う事を止めても、観察者がいるうちは、それは紛れもない思考です。

観察される思考と、観察する観察者が同一である事実を、わかるでしょうか?

花を見るとき、思考なく見て、一切の判断も適用しないであるがまま見るなら、

花と観察者の間に、どのような種類の隔たりなく見るのであれば、

そこに観察者は存在しません。

その時、花はただ純粋な花であり、花はただあなたです。

観察者はいません。

これが、あの人の言う「わたしは誰か?」の答えです。

ただあなたが在る。

この事が、言葉を超えて理解されるでしょうか。

これが、別のあの人の言う「わたしは在る」の答えです。

そこに自己は肯定も否定もされません。

思考が「わたし」」を作り上げるなら、たちどころに、

あらゆるものへの分離が起こります。

見られるものと、見る者との間に、距離、時空、が現れます。

そこに否定と肯定が現れます。

つまり、矛盾がそこには横たわるのです。

思考が思考の中心を作り出しておきながら、思考の中心(観察者)は、

思考そのものを異質なものとするから、葛藤が生じます。

自己の怒りや嫉妬、欲望などを、コントロールしなければならない分離した

何かと捉えます。

見るものとみられる者の間に、それはほんとうは違うものではないのに、

矛盾を感じるのです。

それがつまり、苦悩なのでしょう。

あるがままで居る事が出来なくて、あるべき何かに変わらなければならない

と思い為すのです。

見られるものが、見る者と異なるという分離が、そのようにしてしまいます。

観察者は、ほんとうは居ないのです。

大いなる変容とは、あるべき何かになる事ではなく、あるがままに戻る事です。

赤ちゃんの無為に戻る事です。

分離がそのように、倒錯を生み出すのです。

「わたし」とは、ただ思考であり、それはそのような現れが現れているだけです。

それを物語と表現しているのです。

物語は思考によって「わたし」にとっての様々な色付けをされ、

分離した数えきれない自己の断片たちとの間に、つまり宇宙のいちいちの間に

関係を築き、めまぐるしい応答を、それぞれに完全な整合を適用しながら、

「わたし」は悩むのです。

あるがままで、居なさい。

否定も肯定もなしに、ただ、それで居なさい。

「わたし」が無いのは、恐怖ではありません。

恐怖は思考の得意分野です。

ほんとうにあるがままであるなら、恐怖はありません。

「わたし」を明け渡す、一切を許し受け入れるとは、そういう事です。

自由とはそういう事です。

それは虚無ではなく、充実した楽しみです。

ゼロではなく、ひとつです。


[25678] 真我が目覚めるとき 投稿者:無明 投稿日:2018/07/20(Fri) 09:42  


「あるがまま生きる」について検索したら次の文章にぶつかりました。
花岡修平「真我が目覚めるとき」

以降参照。日本の方で次のような文章を書ける人がいるとは思いませんでした。とてもわかりやすく真理というものを説いています。

例えば散歩をしていて、道路のわきに花を見つけたとします。

しゃがんで、よく観察しようとします。

その時、その花を見る事ができるでしょうか。

あなたなら、確実にその花を、あるがまま見る事ができますか?

人がその花を発見し、見つめる時、思考が過去を呼び起こします。

記憶からそのデータを、つまり、記憶という過去のイメージを探り出し、

それを適用しようとします。

例えばそれは水仙だとします。

なんと水仙という名前を知っています。

名前はどこにあったのでしょうか。

記憶にあったものを、思考が引っ張り出してきたのです。

うちの花壇にもあるとか、水仙の様々な品種や、花言葉や、ナルシストの語源だとか、

水仙にまつわる過去の出来事や、有毒であるとか。

実に様々な思考が駆け巡ります。

人が花を見るとき、そのように見るのであれば、

その人は花をあるがまま見ているでしょうか?

その人は、まつわるイメージを見ているだけで、花を見ていないのです。

つまり、その人は今そこにある花ではなく、

意識のほとんどを過去の花に向けているのです。

なんの思考によるイメージをも適用する事無く、花を見ることができますか?



[25677] 既知からの自由 5-3 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/19(Thu) 22:29  

5章の3 [思考の断片化]

 思考の機能の一つはいつも何かに占められていることです。私達の大抵は、心が絶えず何かで占められていることを望み、その結果実際のままに自分を見ることを妨げられているのです。空っぽであることを恐れています。自分の恐怖を見ることを恐れています。

 意識的には自分の恐怖に気づくことができますが、心のより深いレベルで恐怖に気づくでしょうか? そして隠され、秘められている恐怖をどうやって見いだしますか? 恐怖は意識的なものと潜在意識のものに分けられるでしょうか? これは非常に重要な質問です。専門家、心理学者、分析医は恐怖を深層と表層に分けてきましたが、もしあなたが心理学者の言うことや私の言うことに従うなら、私達の理論、定説、知識を理解しているのであって、自分自身を理解しているのではありません。あなたは自分自身をフロイトやユングに従って、あるいは私に従って理解することはできません。他人の説は何であれ少しも重要ではありません。恐怖が意識的なものと潜在意識的なものに分けられるのか? という質問をしなければならないのは、自分自身についてです。あるいは種々の形に解釈されているただ一つの恐怖があるだけでしょうか? ただ一つの欲望があります。欲望のみがあります。あなたは欲します。欲望の対象は変わりますが、欲望は常に同じです。ですからおそらく同様に恐怖のみがあります。あらゆる種類の物事を恐れますがただ一つの恐怖があるだけなのです。

 恐怖が分けられないことを実感するとき、あなたはこの潜在意識の問題を全く捨ててしまったこと、そしてそれゆえ心理学者と分析医を免れたことが分かるでしょう。恐怖は単一の動きでありそれ自体を種々のやり方で表現することを理解するとき、そしてその動きを見て、動きが進む対象を見るのではないとき、その時あなたは巨大な質問に直面しています。どうやってあなたはその動きを、心が育成してきた断片化なしに見ることができるでしょうか?

 全体的な恐怖があるだけですが、断片的に考える心はどうやってこの全体像を見ることができるでしょうか? できます? 私達は断片化した生を生きてきました。そして恐怖全体を思考の断片的な過程を通じてだけ見ることができるのです。思考の機構の全過程があらゆるものを断片に砕くことです。愛しそして憎む、敵と友、私の独特の個性と傾向、私の仕事、私の地位、私の名声、私の妻、私の子供、私の国とあなたの国、私の神とあなたの神 ― その全ては思考の断片化です。そしてこの思考が恐怖の全体の状態を見、あるいは見ようと努め、そしてそれを断片にしてしまいます。従って心がこの恐怖全体を見ることができるのは、思考の動きがない時だけであることがわかります。

(続く)


[25676] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/07/19(Thu) 13:35  

あらゆるものそれ自体自立しては存在しない。父母がなければ自分もない。スーパーマン妄想はこの縁起を理解したら消える。現実の生をありのままに見たとき慈悲がある。自然の法則を逸脱したものではなくそれをよく知っているからこそ調和してるからこそ覚者なのだ。


[25675] 異質の社会に入るときの恐怖 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/19(Thu) 07:11  

> 思考は、記憶と同じように、もちろん日常生活に必要です。それはコミュニケーションや仕事などするための唯一の道具です。思考は記憶への応答であり、記憶は経験、知識、伝統、時間を通じて蓄積されてきました。そしてこの記憶の背景から私達は反応し、その反応が思考です。それゆえ思考はあるレベルでは不可欠ですが、・・・−−

このように日常生活は時間を通じて蓄積された経験、知識、伝統などに深く無意識的に依存しています。

遠隔地への単独赴任などは家庭、人間関係を含めてその環境がガラッと変わることです。そこにある異質性はある程度時間がたち、経験を積むといやでもわかってきます。

その時、心は元の熟知した環境に戻ることを切望します。未知の異質の環境は恐怖を呼びます。食事も外食になり、好みの店を見つけるまでは食べたくない食事が続き、身体を壊し、自炊したりしなければなりません。

もとの環境を恋しがることが恐怖です。その恋しがる心が死んだようにその切望を否定して新しい環境に取り組めば、その環境で親密に生きることはできます。

しかし、これは恐怖全般が消えたことでしょうか? わかりません。しかし恐怖があるとき、逃げようとする心はなくなっていて、その場に立ち向かいます。


[25674] Re:[25665] 既知からの自由5-2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/18(Wed) 21:46  

> 5章の2 [恐怖と恐怖全体]
>
>  恐怖は生においてもっとも大きい問題の一つです。恐怖に捕えられた心は混乱の中に、葛藤の中に生きており、それゆえ暴力的で、歪められていて、攻撃的に違いありません。それはそれ自体の思考のパターンからあえて離れようとせず、このことが偽善を生み出します。恐怖から自由にならない限り、最高峰に登り、あらゆる種類の神を創り出そうが、私達は常に暗闇の中に留まるでしょう。このような堕落した愚かな社会の中で、今のように生き、恐怖を生み出す競争的な教育を受けて、私達はみなある種の恐怖を背負っており、そして恐怖は私達の日々を歪め、捻じ曲げ、鈍くする恐ろしいものです。
>
>  肉体的恐怖もありますがそれは私達が動物から受け継いだ反応です。ここで私達が関わっているのは心理的な恐怖です。というのは深く根差した心理的恐怖を理解すれば、動物的恐怖に応じることができますが、最初に動物的恐怖に関わることは、心理的恐怖を理解する助けには決してならないからです。
>
>  私達はみな何かについて恐れます。抽象の中に恐怖はなく、それは常に何かとの関係の中にあります。あなたは自分自身の恐怖を知っているでしょうか? ― 自分の仕事を失う恐怖、食物やお金を十分持たない恐怖、隣人または世間が自分をどう思うかや、成功しないこと、社会的地位を失うこと、軽蔑され、あざ笑れる恐怖 ― 苦痛や病気の恐怖、支配の恐怖、愛が何であるか知らないこと、あるいは愛されていないこと、妻や子を失うこと、死、死のような世界に生きること、まったくの退屈、他人があなたについて作り上げたイメージに沿って生きないこと、信頼を失う事の恐怖 ― これらすべてや数え切れない他の恐怖 ― あなたは自分の特別の恐怖を知っているでしょうか? またそれらについて普段どうしていますか? それから逃げていないでしょうか、あるいはそれらを覆い隠す観念やイメージをつくり上げてはいないでしょうか? しかし恐怖から逃げることは恐怖を増すだけです。
>
>  恐怖の主な原因の一つはあるがままの自分自身に直面したがらないことです。そこで、恐怖それ自体と同様、それから免れるためにつくり上げた逃避のネットワークも調べなければなりません。頭脳を含む心が恐怖を克服し、それを抑圧し、訓練し、制御し、他の何かの言葉に翻訳しようとするなら、摩擦があり、葛藤があり、そしてその葛藤はエネルギーの浪費です。
>
>  そこで最初に自分に尋ねるべきことは、恐怖とは何かそしてそれはどのように起きるか?です。恐怖という言葉自体は何を意味しているのでしょうか? 私は、自分が何を恐れるかではなく、恐怖とは何か、と自分に尋ねているのです。
>
>  私はある種の生を送っています。ある型で考えます。ある特定の信念や教義を持ち、それらの中に自分のルーツを持っているので、これらの存在の型が乱されるのを望みません。それらが乱されると未知の状態が生じるし、それが嫌いなので乱されたくありません。もし自分が知っていること、そして信じていることの全てから引き裂かれるなら、私が進もうとしている物事の状態がある程度は確かであるようにと望みます。ですから脳細胞は型を生み出し、そしてこの脳細胞は不確かかもしれない別の型を作り出すことを拒みます。確実から不確実への運動が、恐怖と私の呼ぶものです。
>
>  ここに座っている現実の瞬間、私は恐れていません。現在恐れていません、何も起きてはいないし、誰も私を脅かしたり、私から何かを取り上げようとしていません。しかし現実の瞬間を越えて、より深い心の層があり、それは意識的あるいは無意識的に未来に起こるかもしれないことを考えたり、過去からの何かが自分を襲うかもしれないと心配しています。このように私は過去を恐れまた未来を恐れています。私は時間を過去と未来に分割しています。思考が入り込み、「それが再び起きないように気を付けよ」あるいは「未来に備えよ。未来は危険かもしれない。今は何かを得ているがそれを失うかも知れない。明日は死ぬかも知れないし、妻が逃げ去るかも知れないし、仕事を失うかもしれない。決して有名になれないかも知れない。寂しいかも知れない。明日について万全にしておきたい」と言います。
>
>  さてあなた自身の特定の形の恐怖を取り上げましょう。それを見てご覧なさい。それに対するあなたの反応を見守りなさい。それを如何なる逃避、正当化、非難あるいは抑圧の動きなしに見ることができるでしょうか? その恐怖を、その恐怖を引き起こす言葉なしに見ることができるでしょうか? 例えば、死の恐怖を引き起こす言葉なしに、死を見ることができるでしょうか? 愛という言葉がそれ自体の震え、それ自体のイメージを持っているのと同様に、その言葉それ自体が震えをもたらすのではないでしょうか? さてあなたが自分の心の中に死について持っているイメージ、あなたが見てきた非常に多くの死の記憶と、それらの事件についてのあなた自身の関連 ― 恐怖を作っているのはそのイメージではないでしょうか? それとも終わりを作っているイメージではなく、終わりが来ることを実際に恐れているのでしょうか? あなたが恐れる原因となっているのは死という言葉でしょうか、それとも実際の終わりでしょうか? 恐れる原因となっているものが言葉または記憶なら、それは全く恐怖ではありません。
>
>  2年前に病気だったとしてみましょう。そしてその苦痛、その病気の記憶が残り、今記憶が作動して「気を付けよ。また病気にならないように」と言います。そこで記憶がその関連と共に恐怖をつくっており、そして実際にはこの瞬間にはあなたは非常に健康であるので、それは全く恐怖ではありません。思考は、それは常に古いのです。なぜなら思考は記憶の反応であり、記憶は常に古いからです ― 思考は、時間の中に、怖れているという感情をつくりますがそれは実際の事実ではありません。実際の事実は健康だという事です。しかし経験は、それは心に記憶として残っていますが、「気をつけなさい。また病気にならないように」という思考を引き起こします。
>
>  それゆえ思考が一つの種類の恐怖を生じさせるのがわかります。しかしそのことから離れていったい恐怖はあるでしょうか? 恐怖は常に思考の結果でしょうか、そしてもしそうなら、何か別の形の恐怖はあるでしょうか? 私達は死を恐れます ― つまり、明日、あるいは明後日、やがて起こる何かを恐れます。現実とそうなるであろうことの間には距離があります。さて思考はこの状態を経験してきました。死を観察することによって「私は死ぬのだ」と言います。思考は死の恐怖をつくり、そしてもし思考がつくらないなら、いったい恐怖はあるでしょうか?
>
>  恐怖は思考の結果でしょうか? もしそうなら思考は常に古いので、恐怖はいつも古いのです。私達が言ってきたように、新しい思考はありません。私達がそれを認識するなら、それはすでに古いのです。ですから私達が怖れているものは古いものの繰り返し ― かつてあったものを未来に投影している思考です。それゆえ思考は恐怖に責任があります。こういうわけで、あなたはそれを自分自身で見ることができます。何かに即時に直面するとき恐怖はありません。恐怖があるのは思考が入ってくるときだけです。
>
>  それゆえ今度の問題は、心にとって完全に、全的に、現在に生きることは可能か? ということです。そのような心のみが恐怖を持たないのです。しかしこのことを理解するためには、思考、記憶そして時間の構造を理解しなければなりません。そしてそれを、知的にでもなく、言葉の上でもなく、自分のハートで、自分の心で、自分のガッツで実際に理解する中で、あなたは恐怖から自由になるでしょう。その時心は恐怖をつくることなく思考を使う事ができます。
>
>  思考は、記憶と同じように、もちろん日常生活に必要です。それはコミュニケーションや仕事などするための唯一の道具です。思考は記憶への応答であり、記憶は経験、知識、伝統、時間を通じて蓄積されてきました。そしてこの記憶の背景から私達は反応し、その反応が思考です。それゆえ思考はあるレベルでは不可欠ですが、思考がそれ自体を未来や過去のものとして心理的に投影し、快楽だけでなく恐怖もつくり出すとき、心は鈍くされ、したがって不活発は避けられません。
>
>  そこで自分に尋ねます、「なぜ、なぜ、なぜ、そのような思考が恐怖をつくり出すことを知りながら、快楽と恐怖の見地から未来と過去について私は考えるのだろうか? 思考が心理的に止むことは出来ないのだろうか? というのはそうでなければ恐怖は決して終わらないから」


この問いは複雑な問いというか、広く深く問う事が必要と思われます。とりあえず先に進みましょう。
>
> (続く)


[25673] Re:[25668] [25659] [25656] リアルな実際 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/18(Wed) 19:56  

> > > <今あるものが今の現場でわかる、それがリアルな実際。
> > >
> > > 今あるものって何ですか?
> > > クリシュナムルティを読んでいるということが前提で、「あるもの」という言葉を使っているのでしょうか?

気まま勝手に使っている。

> > 今私はパソコンの前に座って返信を考えながら書いています。それが今あるもの 
>
> それは今のあなたのおかれた状況でしょう。今何やってるかというという。

その通り。今起きている物事もいまあるもの。

> >酒を飲んだりはしていません。それは今ないものです。単純です。言葉通りです。
>
> ?
> あなたの説明は飯尾氏の受け売りですか。
> 「ある」とか「ない」とか、というのは「モノ」を指し示す言葉でしょう。

物事も起きていれば今あるもの。大雑把に受け取ってください。

> 酒を飲まないことが「ないもの」って何ですか?


今呑んでいなければ、それは起きてはいないこと。つまりないこと。

> すると酒を飲むと「あるもの」?

はい。

> > > 一般の人には、わからないと思います。「あるもの」って。
>
> はい。さっき説明した。
> 机の上にコップが「ある」「ない」。世間ではそのように使います。

気まま勝手にしゃべってごめんなさい。

> > > <それが思考の目を介してでなく見えていることが必要。
> > >
> > > どういう意味ですか?現場ではリアルタイムに反応してるのですよ。
> >
> > 思考が作り出したイメージを見ているのでなければ、現実を見ていると思います。
>
> 誰だって現実をみています。リアルタイムの今を。

いや、判断解釈し自分のイメージに作り替えています。違うだろうか?

> > > 反応というのは、瞬時瞬時想起してることです。
> >
> > はい、それは確かに今あるものです。
>
> あるものではなく、起きてくるものです。進行形として。

そうです、そうです。

> > > <つまり常識や自分のつくっていたイメージなど一切なしに見えている。そこに新しい知覚、気づきがある。
> > >
> > > ですから、現場では、反応がリアルタイムに起きているにですから、思考なしに一切見えているのというのはありえないでしょう。

その反応が判断なしに知覚されている。

> > > 違いますか。

違います。つまりその反応を名付けたり判断したりしないで見ている。

> > 馬鹿野郎と怒鳴ったら、それは確かに今起きたことです。
>
> その人を見て、馬鹿野郎と怒鳴ったら、その人を判断、評価したということです。

確かにそれが今起きていることです。

> 逆に人から馬鹿野郎といわれたら、即座に意味がわかるでしょう。自分が侮辱されたと。卑下された。

はい、それがあなたのいま起きた解釈判断です。
それを見ているかどうか。

> >それが今あるものです。
>
> 違います。今まさに起きた反応です。リアルタイムに。
>
> >それを名付けもしないで見ている。
>
>
> 違います。今「馬鹿野郎」と名付けたではないですか。

今まさに「馬鹿野郎」という思いが出て、それは判断し、名付けるける行為です。
 その今起きた出来事を見守っています。名づけも判断もなしに。

> >その起きていることに反応しないで見ている。
>
> 何か言ってることがわかんないな。

あなたの心理的思考は馬鹿野郎とか、判断や名づけをします。
同一化していないあなたは、それに対して何の反応もせずに見ています。あたかも舞台の役者の所作を見ている観客のように、その後の展開がどうなるかを見守っています。

> たとえば家人から用事を頼まれる。パソコンにこうして集中してるとき、「うるせえな、今、手がはなせねんだ。あとにしてくれ 」と相手に怒鳴る。
>
> 注 
> 別に必ずしも怒鳴る場面ではないが、話をわかりやすくするために、怒鳴る場面に設定している。
> 自分が好きなことに熱中しているとき、相手からちゃちをいれられると思わずムッとすることがよくあるでしょう。邪魔された感じ。
>
> これが反応ですよ。
> あなたは、反応してることを、反応しないで見るというつもりですか?

はい。

> 論理的矛盾。
>
> >。もし、続いて何か起こればそれも名付けたり、それに対する反応なしに見ている。どこまでも今起きているものについていく。
>
> 何か話が飛躍してようです。
> 馬鹿野郎と反応した話をしている。
> 感情が動く内容のとき、チャンスとして、外部に向いていた意識を瞬時に内部に向けるということ。
> これが
> 「チェンジオブステージ」。180度変わる。

> これをしないと馬鹿野郎という言葉がますます感情を増幅する。これが一般では無意識に習慣的に行われる。

その時は見ていない。感情は増幅しエネルギーは浪費される。
思考感情と同一化しないあなたが見ているなら、あなた心は静かでエネルギーの浪費はなく、思考、感情のしていることがわかる。

> > > 人間というのは、特別なこと以外は、一瞬一瞬想起し続けています。
> >
> > それを見ている。すると想念の出る時間間隔がだんだん長くなって、ついに終わると思いますが違うでしょうか?
> >
> > > 特別なこととは、何か関心を向けて見つめる時です。何だろなと。
> > > 又、何かを好きになってる時も思考は生じません。秋田犬の子犬を見てる時。その子犬を見てる時、穏やかな気持ちになる。
> >
> > 思考が生じているのを命名なしに見ている。実験してみてください。
> >
> > > 私とあなたは同じ人間なので知覚に違いはないはずですが。
> >
> > そう思います。考えで出来ないと言わずに実際にやってみてください。

馬鹿野郎とか言っている時はあなたの関心は争う事にあります。しかしその時初めてのものを見るつもりでそこに関心、好奇心を持ち、争いを手放せば見ることが起こります。その時何が起こるか、未知のことが起こります。


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