雑感
[トップに戻る] [留意事項] [ワード検索] [管理用]
おなまえ
Eメール メールアドレスは入力禁止
タイトル
コメント 【コメント中のURLは先頭のhを抜いて書き込んで下さい。】
コメント中には参照先URLと同じURLを書き込まないで下さい
参照先
暗証キー (記事メンテ用)

[26403] Re:[26393] 最初のザーネン講話4−2 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/19(Sat) 12:48  

> 1961年ザーネンの公開講話 4回目の2
>
>  ひとは何かを学んだかなと思います。ひとは集めました。ひとは多くの経験をしました。多くの出来事があり、それは跡を残し、思い出として貯えられてきました。私は新しい言葉を学ぶことが、天空を探索する新しいやり方を学ぶことができます。しかしそれらはすべて蓄積的な、機械的な過程であり、それを私たちは学習と言います。さて、この学習の機械的過程は中心を残すのではないでしょうか? そしてこの中心は、それは知識を蓄積し、経験し、抵抗し、自由であろうと望み、主張し、受容し、捨てますが、いつも戦いの中に、葛藤の中にあります。そして常に蓄積し、そしてそれ自身を空にしているのはこの中心です。獲得する肯定的な運動と否定する否定的な運動があります。この過程を私たちは学習と呼びます。
>
>
> ゴト: 学ぶ、学習するという事の方法論などではなく、そのことが人間社会に何をもたらしたかという話が始まります。
>
>
>  こう言うことを許していただけるなら、何人かの方は話し手から何かを学ぼうとしているのが確かだと思います。しかしあなたは私から何も学ばないでしょう。なぜなら、観念のように、機械的であるものしか学ぶことができないからです。私たちは観念を取り扱っていません。私たちはほかの何かの記述を取り扱っていません。私たちは事実に、「あるもの」にかかわっているのです。そして、あるものを理解することは機械的過程ではありません。それは集めるために何かを見る過程ではありません。その手段によって中心に付け加えたり、減らしたりできる過程ではないのです。私たちがいつも変化しようとしているのは、何世紀も通じて蓄積され、社会によって、宗教によって、経験によって、教育によって条件づけられたこの中心からなのです。この中心から作動して、私たちは私たちの性質を変えよう、考え方を変えよう、新しい観念の一組を植え付けて古いものを捨てようとします。それでこの中心はより以上のものを得るために、いつもそれ自身を改善しよう、あるいはそれ自身を破壊しようとしています。そしてそれが私たちがいつもしていることです。
>
>
> ゴト: 学習、変化と言ってその実際にしていることは中心、自己、セルフの古いものを捨て新しくするという改良で、根本は中心をさらに強化するという事です。
>
>
>  これをよく聞いてください。この中心が、私たちが自我、自己と呼ぶものです。あるいはあなたがそれに与えたい名前何でもいいのですが。名前は無関係ですが、事実が重要です。それが「あるもの」です。そして変化のこの過程の中に暴力があります。すべての変化は暴力を意味します。そして暴力を通しては新しいものは何もあり得ません。「私は私自身を制御しなければならない。私は私自身を服従させなければならない」と言うとき−それは型への順応ということですが−、それは暴力を意味します。聖者、指導者、教師、予言者−みんな変化と制御を話します。そして明らかに、型に順応するようにそれ自身を訓練する中心の過程は暴力を意味します。そして私たちが非暴力を話すとき、それは同じ事を意味します。
>  それゆえ変化は時間の領域の中での暴力を意味するのではないでしょうか?−「私はこうであり、あれであるように私自身を強制しよう」。「あれ」は距離があります。理想、模範、標準。暴力を平和に変えようとする過程の中に反対物の葛藤全体があるのです。それゆえ、私たちが「私は私自身についてのすべてを学ばなければならない」と言うとき、私たちはなお中心を強めるだけの蓄積的過程に捕われているのです。そこで、ひとは、変化を要求する中心があるところ−その中に暴力が含まれています−、平和は決してあり得ないという事実を見ることが、単に言葉の上だけでなく実際に経験することができるでしょうか。
>
>
> ゴト: これほど明瞭に我々人間の中心の構造とその性格を喝破した声明を初めて聞きました。


 クリシュナムルティは、変化の緊急性を陳述していたが、自我(中心)による変化は暴力であり、平和はありえないと述べている。

 自我がクリシュナムルティ理解への取り組みを行っても、そこに暴力があり平和はありえないということか・・。


 さっさと死ぬことが肝要ということでしょうか。

 もちろん心理的に。



> (続く)


[26402] Re:[26400] 思考の運動の停止 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/19(Sat) 12:25  

> ここに言う思考は実用的思考のことではなく、心理的思考の運動のことです。
>
> この運動はわかりやすく言えば昔からの部族的な生存競争の世界で、それが愛のない、断片化し、恐怖にかられた無秩序混沌の運動であることはわかるのですが、それゆえに止めるわけにはいかないと人はしがみつくのです。
>
> そこからはみ出し、思考の運動をやめてその外側で生きるで一人生きる人、心理的に死んだ人は、「私」が終焉し、断片性が終わり、地球的、宇宙的秩序の中に、全体性に中に生きます。この時生は意味を持ちます。
>
> 宮啓さんに勧められて「生の全体性」を読んだら、大筋そういうことが浮かび出ていました。心理的思考の運動を止めることは部族的心からは難しそうですが、個人が苦痛から逃れ出ようとKの本を読むなら、意外に心理的に死ぬことができるかなと思いました。


 クリシュナムルティ理解への取り組みは、そのような苦痛が原動力となりそうです。。

 昨今の先進諸国では、そのような苦痛が時代と共に少なくなっているように思われます。すぐに娯楽で緩和される。逃避される。娯楽の巨大進化。

 とてつもない価値を、人々は見過ごしてしまうのですね。


[26401] Re:[26399] [26398] [26396] [26394] [26391] [26389] [26380] [26379] [26377] [26374] [26372] 家族の愛着 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/19(Sat) 11:49  

> >  なんとなく腑に落ちないのは、「悲しみの大河(『生の全体性』参照)」が出てこないことです。
> >
> >  人類の悲しみ・苦しみは、上記の「見る」で解消するものなのでしょうか。
> >
> >  私は、もっともっと深いものがあるように思えてならないのです・・。
> >
> >
> >  現代の先進諸国の一般的な葛藤(悲しみ・苦しみ)ならば、上記の「見る」で解消するように思えます。
> >
> >  では、今の後進国(発展途上国)や過去の人類の歴史の上での悲しみ・苦しみ、あるいは、今の先進諸国においても不運な出来事等(病気・事故・事件・災害等)においても、上記の「見る」で解消するとゴトさんは感じているのでしょうか。。
>
>
> 解消というのが物質的な貧困の解消みたいに受け取られていないかが気になります。心理的迷妄が晴れる意味での解消のことを言っていることをまず確認しましょう。
> そのうえで発展途上国での悲しみも川面の表面のさざ波の悲しみであることに注意しましょう。それゆえ上記の「見る」で解消される、心理的思考の問題の範囲内にあります。
>
> そしてそれとは質的に異なる(深い)悲しみがあります。それは感じ取るしかないものですが、人間の根本的無知に対する悲しみのようなものだと受け取っています。それを感じ取るとき慈悲心(=愛)があります。巨大なエネルギーがあります。叡智があります。そして生は聖なるものです。これが私の読解です。
>
>
> >  これに関係して、私は、本能的な愛着(の死)に対して、この点で関心が強いようです。
> >
> >
> >  ゆっくりでよいので、ご返答いただければ幸いです。。
>
>
> あなたは本能的な愛着が最も根本的な迷妄で、これが解消すれば根本的に悲しみが終わるのではないかと言っているように感じます。
>  私はそれに何も言えません。「本能的執着」が私にとってはまだ言葉にすぎません。仏陀が言った渇愛に近い言葉かな。
>
> 見ることはあなたが考えているより深いのではないかと思います。


 ご返答いただき、ありがとうございます。。

 クリシュナムルティは、もっともっと深い悲しみ・苦しみところまで掘り下げて陳述していたのですね。

 分かりました。


 「見る」によって、個体の悲しみ・苦しみが終焉するのであれば、これはとてつもないことですね。。

 人類の歴史上のどの地点においても、「見る」によって救われる。どの個体においても。

 これ以上の価値は無いと思われるほど素晴らしいことです。。

 そこで、この件につきまして、最後の質問をさせてもらえないでしょうか。。

 新しい芽さんは、一昨年の秋にそのサイトを閉じましたが、その頃の新しい芽さんとのやりとりで、新しい芽さんは葛藤の中にいるように感じられました。

 そのサイトを閉じるに際して、その内容を譲り受けることを私は願ったのですが、激しく拒絶された感覚を覚えたのです。

 そこで、質問は、その当時、新しい芽さんは葛藤を免れ得ていたのでしょうか?

 どうぞよろしくお願いします。


[26400] 思考の運動の停止 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/19(Sat) 10:28  

ここに言う思考は実用的思考のことではなく、心理的思考の運動のことです。

この運動はわかりやすく言えば昔からの部族的な生存競争の世界で、それが愛のない、断片化し、恐怖にかられた無秩序混沌の運動であることはわかるのですが、それゆえに止めるわけにはいかないと人はしがみつくのです。

そこからはみ出し、思考の運動をやめてその外側で生きるで一人生きる人、心理的に死んだ人は、「私」が終焉し、断片性が終わり、地球的、宇宙的秩序の中に、全体性の中に生きます。この時生は意味を持ちます。

宮啓さんに勧められて「生の全体性」を読んだら、大筋そういうことが浮かび出ていました。心理的思考の運動を止めることは部族的心からは難しそうですが、個人が苦痛から逃れ出ようとKの本を読むなら、意外に心理的に死ぬことができるかなと思いました。


[26399] Re:[26398] [26396] [26394] [26391] [26389] [26380] [26379] [26377] [26374] [26372] 家族の愛着 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/18(Fri) 19:19  

>  なんとなく腑に落ちないのは、「悲しみの大河(『生の全体性』参照)」が出てこないことです。
>
>  人類の悲しみ・苦しみは、上記の「見る」で解消するものなのでしょうか。
>
>  私は、もっともっと深いものがあるように思えてならないのです・・。
>
>
>  現代の先進諸国の一般的な葛藤(悲しみ・苦しみ)ならば、上記の「見る」で解消するように思えます。
>
>  では、今の後進国(発展途上国)や過去の人類の歴史の上での悲しみ・苦しみ、あるいは、今の先進諸国においても不運な出来事等(病気・事故・事件・災害等)においても、上記の「見る」で解消するとゴトさんは感じているのでしょうか。。


解消というのが物質的な貧困の解消みたいに受け取られていないかが気になります。心理的迷妄が晴れる意味での解消のことを言っていることをまず確認しましょう。
そのうえで発展途上国での悲しみも川面の表面のさざ波の悲しみであることに注意しましょう。それゆえ上記の「見る」で解消される、心理的思考の問題の範囲内にあります。

そしてそれとは質的に異なる(深い)悲しみがあります。それは感じ取るしかないものですが、人間の根本的無知に対する悲しみのようなものだと受け取っています。それを感じ取るとき慈悲心(=愛)があります。巨大なエネルギーがあります。叡智があります。そして生は聖なるものです。これが私の読解です。


>  これに関係して、私は、本能的な愛着(の死)に対して、この点で関心が強いようです。
>
>
>  ゆっくりでよいので、ご返答いただければ幸いです。。


あなたは本能的な愛着が最も根本的な迷妄で、これが解消すれば根本的に悲しみが終わるのではないかと言っているように感じます。
 私はそれに何も言えません。「本能的執着」が私にとってはまだ言葉にすぎません。仏陀が言った渇愛に近い言葉かな。

見ることはあなたが考えているより深いのではないかと思います。


[26398] Re:[26396] [26394] [26391] [26389] [26380] [26379] [26377] [26374] [26372] 家族の愛着 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/17(Thu) 17:11  

> > > > >  「問い」の形が多く、うまくまとめることができずに済みません。
>
> > > ともかく答えてみました。
>
> このところまた病院通いが始まって今日は疲れました。簡単に答えているようです。



 多くの問いに応じていただき、ありがとうございます。

 すみませんが、もう少しよろしくお願いします。


 なんとなく腑に落ちないのは、「悲しみの大河(『生の全体性』参照)」が出てこないことです。

 人類の悲しみ・苦しみは、上記の「見る」で解消するものなのでしょうか。

 私は、もっともっと深いものがあるように思えてならないのです・・。


 現代の先進諸国の一般的な葛藤(悲しみ・苦しみ)ならば、上記の「見る」で解消するように思えます。

 では、今の後進国(発展途上国)や過去の人類の歴史の上での悲しみ・苦しみ、あるいは、今の先進諸国においても不運な出来事等(病気・事故・事件・災害等)においても、上記の「見る」で解消するとゴトさんは感じているのでしょうか。。

 これに関係して、私は、本能的な愛着(の死)に対して、この点で関心が強いようです。


 ゆっくりでよいので、ご返答いただければ幸いです。。


[26397] 最初のザーネン講話 4-3 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/17(Thu) 11:36  

1961年ザーネン公開講話 4回目の3

 それゆえ、私には、学習はありません。見ることだけがあります。見ることは蓄積的ではありません。それは取り込む過程、あるいは否定する過程ではありません。「あるもの」を見ることは破壊的です。そして破壊のなかに、暴力でなく、平和があります。暴力、革命、変化は、蓄積する、中心を保持する過程の中に存在します。しかしその過程の全体を、自分の全存在で、すっかり、完全に見るとき、そのとき事実、いまあるもの、は完全に破壊的です。そして破壊であることは創造です。


ゴト: これは思考・知性で読めるコメントではありません。マインド&ハートで、全存在で読みましょう。


 それで謙遜はすべての蓄積的過程とその反対物を完全に捨ててしまい、瞬時瞬時あるものに気づいているその心の状態です。したがってそれは意見、判断を持ちません。そしてそのような心は自由が何であるか知っています。暴力にとらわれた心は自由を持っていません。そして自由を追求している心は決して自由ではあり得ません。なぜならそれにとって自由はいっそうの蓄積であるからです。


ゴト: 謙遜は見ている状態であるのですね。


 謙遜は全面的な破壊を意味します。外部の、社会的な物事のではなくて、中心の、自分自身の、自分自身の観念、経験、知識、伝統の完全な破壊−心が知ったあらゆるものを心から完全に空にすること。したがってそのような心はもはや変化の観点から考えていません。それを感じることができるなら、それは本当に素晴らしいものです。ほら、それが瞑想の一部です。


ゴト: 瞑想の一部、一部ということがわかりません。


 そこでまず私たちは変化の過程を徹底的に理解しなければなりません。なぜならそれが私たちの大部分が望んでいることであるからです−変化すること。世界は外部のものごとにおいて非常に速やかに変化しています。ロケットやその他もろもろを発明し、月に行こうとしています。価値が変化しています。コカコーラが世界中に広がりました。昔の文明が崩れつつあります。変化の素早さは変化の事実より大きいです。すべての昔の神々、伝統、救い主、大師−彼等はすべて去りつつあるか去ってしまいました。わずかな人々が自身のまわりに防御の壁を建てて、彼等にしがみついていますが、あらゆるものが去りつつあります。そして心は破壊にかかわっていません。それは創造にかかわっていません。それはさらにいっそうの避難所、新しい隠れ家を常に求め、それ自身を防御することにかかわっているだけです。


ゴト: 文明・文化の進化の過程とは変化の過程であり(変容ではない)、人はそれを望んだり、古い消えゆくものに必死でしがみつこうとしています。


 そこで謙遜の問題を非常に深くまじめに調べるなら、あなたはこの学習−物事を それらが現実にそうであるように見ることを妨げる言葉のレベルでの学習−の全過程を確かに疑う筈です。もはや変化にかかわっていない心は恐怖を持たず、したがって自由です。そして私たちが話してきたことを理解した心−そのような心が絶対に不可欠であると私には思われます。そのとき、それは、もはやそれ自身をほかの型に変えようとしていません。もはやそれ自身をそれ以上の経験にさらそうとしていません。もはや尋ね、要求していません。なぜならそのような心は自由であるからです。したがってそれは静かであることが、じっとしていることができます。そしてそのとき、たぶん、名のないものが生じることができるでしょう。それゆえ謙遜は不可欠です。しかし人為的な、養成された種類のものでなく。ひとは能力なしに、才能なしにあるのでなければなりませんね。内的に無としてあるのでなければなりません。そして、どうやって無としてあるかを学習することなしに−それはあまりに馬鹿げていて愚かです−、これを見るなら、そのとき見ることはそれを経験することです。そしてそのとき、ことによると、他のものが生じる得るかもしれません。


ゴト: ああ、私の望んでいた文明、文化の喝破はすでにクリシュナムルティが行い存在していた。自分の不明があっただけだ。そんな私の訳を通してさえ、Kの述べることの骨子はちゃんと伝わってくる。内的に無であることが唯一、この虚偽のものを破壊するものである。


 私たちはこの事を−この事についてだけ、話すことができるでしょうか? わたしたちがどうやって世界を変えるつもりかではなく。あるいは誰か偉大な政治家が次ぎに何をするだろうかではなく。

(続く)

ゴト: こうして参加者との質問・対話に移ります。

kirikae


[26396] Re:[26394] [26391] [26389] [26380] [26379] [26377] [26374] [26372] 家族の愛着 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/16(Wed) 22:05  

> > 父親は人殺しができないので権力により殺されます。母は一人立つ人間として子供を育てながら生きていくでしょう。周囲の人がどう動くはそれぞれでしょう。
> >
> > > > > >  そのような子育て真っ盛りではない、子がある程度大きくなってから、先ほどの事態に遭遇した場合に、クリシュナムルティ理解者が、どのように応ずるのか?ということです。
> >
> > 別に同じことだと思いますが。
> >
> > > > > >  私が思うには、クリシュナムルティは、肥大化していない親子の愛着は断ち切れると陳述しているように感じます。
> >
> > 待ってください。クリシュナムルティ理解者とはどんな人ですか? クリシュナムルティを理解しているが、いざというときは右往左往する人ですか、断固真実を見て揺るがない人ですか?
>
>
>  具体的に言えば、ゴトさんのような方です。。

あなたが私にどんな風なイメージを持っているのか、私も読者も見当がつかないでしょう。

> > > > > >  その断ち切りが、「悲しみの大河」と繋がっているのかもしれません。そして、慈悲心の放出に繋がるのかもしれません。
> > > > > >
> > > > > >  「心理的に死ぬ」とは、最終的には本能的な愛着に対して死ぬことなのかもしれません。自我の終焉。時間の終焉。
> > > > > >
> > > > > >  そうではないでしょうか。
> >
> > 心理的死とは自我が自分の性質(愛着、執着)を理解し、自らの動きを止めるということです。あなたの言っていることと同じかもしれません。
>
>
>  一瞬間は止まったかもしれないのだが・・、それ以降、また出ているようですが・・。そのとき、死んだ感覚が全くなかった。。


自分が抱きしめている切なる思いを離す。それは例えば妻や子がどう生きているかに全く干渉せず、ただ見ているような境地です。その感覚ははっきりしています。我意が捨てられている状態。これは瞑想なのかな。


>  本当の死も、死んだ感覚を覚えないのかも・・。なぜならば、死んだことがないのに、なぜ、死んだ感覚が分かるのか?


死んだという切り替えの感じはないですね。心のある状態が変わっているのですが、瞬時に切り替わっているだけです。


> > > > > >  そこで、問いが生まれます。
> > > > > >
> > > > > >  さような惨劇の当事者とならずとも、すなわち、環境要因に依らずとも、心理的に死ぬこと、すなわち本能的な愛着に対して死ぬことができるのでしょうか?


意図して変わるのではなく、実際の状況が見えて切り替わっているのですが。


> > 本能的愛着とは何ぞやと問い返さざるを得ません。実際にどういう事かがわかりません。本能的とはわかりにくい言葉です。
> > 豚が血統のよい子豚を得るために人工授精で妊娠させられ、出産後授乳期間が済むとすぐ母ブタから離され、すぐに人工授精への循環がなされます。この母豚から子豚が離されるとき、本当に母豚は悲しむのだそうです。子といっしょに餌のとり方を教え、野原で一緒に育てていたいという本能があるのでしょう。経済効率優先の無慈悲さ。
>
>
>  本能的な愛着とは、ほ乳類に共通にあるもの。種を保存する本能。生殖本能(男女の愛着)・子育て子育ち本能(親子の愛着)・身体保守本能(身を守る本能/死を避けようとする本能)。

動物を見ていると愛着と言うが、人間と違い、実際には執着がないような気がする。

> > > > > 葛藤とはいかに美辞麗句で飾られようと自分(自我と言った方がいいか)の執着が生み出していることに気づけばそれまでです。悲しみの流れはそうできていない人間の悲しみの蓄積のことではないかと思います。
> > > >
> > > >
> > > >  その気づきによって葛藤が止めば、そこに愛があるのでしょうか?

> > 自分の中の葛藤のみならず、外部でも広い意味で葛藤はないなら、自我はあるのでしょうか? 人間の暗部と言われるものはあるのでしょうか?
> >
> > > >  それとも、愛は更に別のことでしょうか?
> >
> > 暗部のない状態以上のものはあるでしょうか。人間の意識はそのとき新しいものを創造しえるでしょうか? 私にはわかりません。しかし愛はあるんじゃないですかねえ。愛着から暗部が消えたら愛のように思えます。
>
>
>  暗部のない状態以上のものが、もしもないのならば、クリシュナムルティは本国の禅を一定以上認めていたのではないでしょうか。しかし、クリシュナムルティは本国の禅を否定しているのです。

本国の禅には型があるという事はないでしょうか?

>  暗部のない状態以上のものとして、クリシュナムルティが陳述しているものが、「ザ・アーザー」と表現されているものではないでしょうか。

暗部がないという事をしっかり捕まえることが先だと思います。「ヂ・アザー」は言葉として使われていて、Kと同等の人がいないなら、暗部のないこと以上の意味を探るのは考えをもてあそぶことになるでしょう。


> > > >  さて、話は別の視点へと移動しますが・・。
> > > >
> > > >  本能的な愛着を残したまま葛藤の終焉はありえないと思うのですが。つまり、「ミニ変容」と「根源的な変容」の違いは、本能的な愛着を残したままが「ミニ変容」であり、本能的な愛着が滅したことろが「根源的な変容」ではないか・・?と思うのですが・・いかがでしょうか。。
> >
> > ミニ変容と根源的変容は本質的な差はないのではないかと思います。つまり方向、パターンの消滅が変わっています。見ることに入っていて考えの中でのイメージの構築が捨てられています。それをどこまで歩いたかの差があるだけです。
>
>
>  「見る」に入ると、イメージの構築も止むのですね。

それはそうでしょう。そうであるものを見るのですから。


> > > >  また、もう一つの新たな問いが生じました。
> > > >
> > > >  肉体が死ぬときに本能的な愛着も死ぬのか?という問いです。
> > > >
> > > >  すなわち、再び改めて、「心理的に死ぬとは本能的な愛着に対して死ぬことか?」という問いに戻ります。。
> >
> > 本能的と言われるものに心理的な暗部が含まれているかという考ですか? 心理的に死ぬとき、心理的暗部は消えていることにならないですか?
>
>
>  本能的な愛着を残したまま、葛藤が終わるとは思えないのです。
>
>  かといって、本能的な愛着を脱ぎ捨てることもできない。
>
>
>  手っ取り早いのが(単純なのが)「死」ではないのか・・。
>
>  本当に死ぬと元も子もない。そこでクリシュナムルティが述べている「心理的な死」が出てきているのです。

心理的に死ぬといいますが、見ることに入っているだけのことですが。反応を完全に脇にやって。これがイコール心理的に死ぬ、心理的動きがないという事です。

> > > >  「問い」の形が多く、うまくまとめることができずに済みません。

> > ともかく答えてみました。

このところまた病院通いが始まって今日は疲れました。簡単に答えているようです。

kirikae


[26395] Re:[26392] [26390] [26388] 最初のザーネン講話4-1 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/15(Tue) 20:29  

> > > 1961年ザーネンの公開講話 4回目の1
> > >
> > > 私たちが会ったこの前の時に、まじめさとは物事のまさに最後まで行き、本質を発見しようとするあの衝動、あの意図であると私たちは言っていました。そして真実であるものを発見しようと人を駆り立てるあの有無を言わせないエネルギーがないなら、そのとき、これらの講話は非常に小さい意義しか持たないだろうと私は思います。この様な素晴らしい朝に話をすることは惜しいようにも思われますが、私は謙遜と学ぶことの問題を調べようと思います。
> > >
> > >
> > > ゴト: この前置きで、物事の最後まで行こうとするまじめさと、真実を一瞥しないではおかないエネルギーの必要をまず説いて、今日のテーマは謙遜と学ぶことだそうです。
> >
> >
> >  まず、この段階においては、「見者」が存在すると言うことでしょうか。
> >
> >  >まじめさとは物事のまさに最後まで行き、本質を発見しようとするあの衝動、あの意図−−これを有するがゆえに見ようとしている「見者」。
> >
> >  >真実であるものを発見しようと人を駆り立てるあの有無を言わせないエネルギー−−、これを有するがゆえに見ようとする「見者」の存在。
> >
> >  まず初めにクリシュナムルティ理解の取り組みとしては、「見者」の存在をクリシュナムルティは必要であると陳述しているように思うのですが、いかがでしょうか?
>
>
> いいえ、必要なのはエネルギーです。始め見者、観察者、思考者が出てくるのはやむを得ないことですが、それらは同じもので、場面によって言葉が使い分けられているだけですが、それは反応を起こす中心、「私」で、見、聴いて場面の進行についていくのを邪魔します。その自我が強いと考えを組み立てる方に行って、見る、聴くに入れません。それを発見するのが大事です。


 自我がなくとも、>本質を発見しようとするあの衝動、あの意図−−、そして>真実であるものを発見しようと人を駆り立てるあの有無を言わせないエネルギー−−、これは自我がなくとも、その衝動・意図・エネルギーは有る。

 自我の衝動・意図・エネルギーとは別の衝動・意図・エネルギーがある。言葉としては同じだが、意味が違う言葉。


 自我があると、反応が起こり、>見、聴いて場面の進行についていくのを邪魔する−−のですね。

 >自我が強いと考えを組み立てる方に行って、見る、聴くに入れません。それを発見するのが大事です。−−



> > >  謙遜によって、もちろん、謙遜の名の下にそれ自身を隠している、もったいぶった虚栄を言っているのではありません。謙遜は徳ではありません。なぜなら養成された、自分から引き出された、訓練された、制御されたどんなものも虚偽のものであるからです。それは播かれ、刈り取られるものではありません。それは生じなければなりません。そして謙遜は成功の中に達成を求めるあの欲望を抑えることではありません。また、それは僧侶、聖者、牧師の宗教的な謙遜や、養成された厳しさがもたらすそれでもありません。それはまったく異なるものです。それを実際に経験するためには、自分の心のあらゆる隅、自分自身のハートと心のすべての暗い、秘密の、隠れた場所がこの謙遜にさらされ、その中に浸されるように、人はまさに終りまで行かなければならないと私は思います。そして私たちが謙遜のまさに本質をあらわにしたいなら、私達は何が学ぶことか熟慮しなければならないと私は思います。
> > >
> > >
> > > ゴト: 社交的な謙遜なら、私たちはKが述べたことはよくわかっています。でないと敬遠やいじめに遭います。Kの語りたい経験はなんでしょうか? それにはまず、学ぶことが熟慮されなければならないと。
>
> 大変! 謙遜を経験と書き間違えた。ごめんなさい。
> > >
> > >
> > >  私たちは今までに学んだことがあるでしょうか? 私たちの学習はすべていくらか機械的ではないでしょうか? 学ぶことは、私たちには、累積的な過程ではないでしょうか? 累積的な過程は中心、「ミー」を形成し、その中心が経験します。そして経験は記憶になります、記憶です。そしてその記憶はその先の経験のすべてを彩ります。さて、学ぶことは、知識がそうであるように蓄積的な過程なのでしょうか? そして経験、知識、何かであることと成ることの蓄積的な過程があるなら、そのとき謙遜があるでしょうか? 心が知識、経験、記憶を一杯に詰め込まれているなら、それはとても新しいものを受取ることはできません。それゆえ、始めも終りもないものが生じるには心をまったく空(から)にすることが必要ではないでしょうか? そしてそれはまったくの完全な 謙遜の感覚、心がなろうとしていない、蓄積していない、もはや追求も学習もしていないときの状態を意味しないでしょうか?
> > >
> > >
> > > ゴト: 機械的な学習なら我々はさんざんやってきました。しかし蓄積する力はあんまりなかった気がします。つまり、一夜漬け的なんですね。それはそれとして蓄積をして何かに成ろうとする過程は、謙遜とは両立するわけがないのではとKが示唆しました。私たちの探求は、実際には心を空にすることではなくて、知識の獲得(学習)、成り行く過程ではないかと問われます。
> >
> >
> >  >もはや追求も学習もしていないときの状態−−、この段階では、「見者」は自我を離れ、中心がない「見者」、すなわち「普遍的意識」とクリシュナムルティとボームが『時間の終焉』で述べている観察者なき観察、「見者」なき「見」があるということでしょうか。
> >
> >  「観察者」と「観察」、そして「見者」と「見」、とは見分けが難しいのではないでしょうか。
>
> 反応、つまり解釈、判断等が出てくるかどうかでわかる。


 すなわち、ゴトさんは、「自意識」と「自我」の見分けは、難しくないのですね。。

 ゴトさんは、「観察のみ」と「観察者」の見分けも、すぐに分かる。


> >  私が、[26384]の文末で述べた、>自意識と自我の見分けが難しいことを知りました。−−、この意味は、そのまま、「観察者」と「観察」の見分けと繋がるように感じています。
> >
> >
> > > (続く)


[26394] Re:[26391] [26389] [26380] [26379] [26377] [26374] [26372] 家族の愛着 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/15(Tue) 20:12  

> >  前回の問いの後半の方も見ていただけないでしょうか・・。
> >  よろしくお願いします。。ゆっくりでOKです。。
>
> 後半も強い思いの込められた問いなのですね。わかりました。全力でレスします。
>
>
> > > > >  さて、もしも、クリシュナムルティ理解者が、そのような惨劇の当事者となったとしたら、どうするのでしょうか。
>
> 当事者となったとは、世間の片隅に隠れているととが不可能になって嫌でも踏み絵を踏まざるを得なくなったという事ですね。
> 一例をあげれば戦争に行って戦えと。人を殺すことはできませんときっぱり拒否します。ではお前は死刑だ。では殺されましょう。
>  これはKの講話の中に質問に対する答えとして出ました。そのとき「皆さんはぎょっとしたようですね。では話題を換えましょう」とKは言ってそうなりました。
>
> > > > >  親子の愛着を最優先させて、言いなりになるのか?
>
> いいえ、人殺しはできない。この点は確固としたものです。
>
> > > > >  それとも、親子の愛着を脱ぎ捨てるのか?
>
> 既に愛着はないでしょう。
>
> > > > 私にとってはその場面で判断なしに見ていることが実際にあるなら、そこでどういう行為があるかは俗語ふうに言わしていただくなら、神様だけがご存知ですという事になります。
> > >
> > >
> > >  そのときの行為が、もしも、愛着を脱ぎ捨てることが行われた場合には、そこには慈悲心があるのでしょうか。。
>
> あるでしょうが、慈悲心の実際を私たちは知っているでしょうか。知らないので空虚な議論にならないでしょうか。
>
> > > > >  ただし、子育て真っ盛りの時期(子どもが乳幼児の頃)は、親子の愛着は純粋に本能的なものであり、神聖化・権威化・依存化(執着化)されて肥大化した親子の愛着ではないので、自らの生命を差し出すこともやむを得ないことと思います。
>
> 父親は人殺しができないので権力により殺されます。母は一人立つ人間として子供を育てながら生きていくでしょう。周囲の人がどう動くはそれぞれでしょう。
>
> > > > >  そのような子育て真っ盛りではない、子がある程度大きくなってから、先ほどの事態に遭遇した場合に、クリシュナムルティ理解者が、どのように応ずるのか?ということです。
>
> 別に同じことだと思いますが。
>
> > > > >  私が思うには、クリシュナムルティは、肥大化していない親子の愛着は断ち切れると陳述しているように感じます。
>
> 待ってください。クリシュナムルティ理解者とはどんな人ですか? クリシュナムルティを理解しているが、いざというときは右往左往する人ですか、断固真実を見て揺るがない人ですか?


 具体的に言えば、ゴトさんのような方です。。


> > > > >  その断ち切りが、「悲しみの大河」と繋がっているのかもしれません。そして、慈悲心の放出に繋がるのかもしれません。
> > > > >
> > > > >  「心理的に死ぬ」とは、最終的には本能的な愛着に対して死ぬことなのかもしれません。自我の終焉。時間の終焉。
> > > > >
> > > > >  そうではないでしょうか。
>
> 心理的死とは自我が自分の性質(愛着、執着)を理解し、自らの動きを止めるということです。あなたの言っていることと同じかもしれません。


 一瞬間は止まったかもしれないのだが・・、それ以降、また出ているようですが・・。そのとき、死んだ感覚が全くなかった。。

 本当の死も、死んだ感覚を覚えないのかも・・。なぜならば、死んだことがないのに、なぜ、死んだ感覚が分かるのか?


> > > > >  そこで、問いが生まれます。
> > > > >
> > > > >  さような惨劇の当事者とならずとも、すなわち、環境要因に依らずとも、心理的に死ぬこと、すなわち本能的な愛着に対して死ぬことができるのでしょうか?
>
> 本能的愛着とは何ぞやと問い返さざるを得ません。実際にどういう事かがわかりません。本能的とはわかりにくい言葉です。
> 豚が血統のよい子豚を得るために人工授精で妊娠させられ、出産後授乳期間が済むとすぐ母ブタから離され、すぐに人工授精への循環がなされます。この母豚から子豚が離されるとき、本当に母豚は悲しむのだそうです。子といっしょに餌のとり方を教え、野原で一緒に育てていたいという本能があるのでしょう。経済効率優先の無慈悲さ。


 本能的な愛着とは、ほ乳類に共通にあるもの。種を保存する本能。生殖本能(男女の愛着)・子育て子育ち本能(親子の愛着)・身体保守本能(身を守る本能/死を避けようとする本能)。


> > > > 葛藤とはいかに美辞麗句で飾られようと自分(自我と言った方がいいか)の執着が生み出していることに気づけばそれまでです。悲しみの流れはそうできていない人間の悲しみの蓄積のことではないかと思います。
> > >
> > >
> > >  その気づきによって葛藤が止めば、そこに愛があるのでしょうか?
>
> 自分の中の葛藤のみならず、外部でも広い意味で葛藤はないなら、自我はあるのでしょうか? 人間の暗部と言われるものはあるのでしょうか?
>
> > >  それとも、愛は更に別のことでしょうか?
>
> 暗部のない状態以上のものはあるでしょうか。人間の意識はそのとき新しいものを創造しえるでしょうか? 私にはわかりません。しかし愛はあるんじゃないですかねえ。愛着から暗部が消えたら愛のように思えます。


 暗部のない状態以上のものが、もしもないのならば、クリシュナムルティは本国の禅を一定以上認めていたのではないでしょうか。しかし、クリシュナムルティは本国の禅を否定しているのです。

 暗部のない状態以上のものとして、クリシュナムルティが陳述しているものが、「ザ・アーザー」と表現されているものではないでしょうか。



> > >  さて、話は別の視点へと移動しますが・・。
> > >
> > >  本能的な愛着を残したまま葛藤の終焉はありえないと思うのですが。つまり、「ミニ変容」と「根源的な変容」の違いは、本能的な愛着を残したままが「ミニ変容」であり、本能的な愛着が滅したことろが「根源的な変容」ではないか・・?と思うのですが・・いかがでしょうか。。
>
> ミニ変容と根源的変容は本質的な差はないのではないかと思います。つまり方向、パターンの消滅が変わっています。見ることに入っていて考えの中でのイメージの構築が捨てられています。それをどこまで歩いたかの差があるだけです。


 「見る」に入ると、イメージの構築も止むのですね。



> > >  また、もう一つの新たな問いが生じました。
> > >
> > >  肉体が死ぬときに本能的な愛着も死ぬのか?という問いです。
> > >
> > >  すなわち、再び改めて、「心理的に死ぬとは本能的な愛着に対して死ぬことか?」という問いに戻ります。。
>
> 本能的と言われるものに心理的な暗部が含まれているかという考ですか? 心理的に死ぬとき、心理的暗部は消えていることにならないですか?


 本能的な愛着を残したまま、葛藤が終わるとは思えないのです。

 かといって、本能的な愛着を脱ぎ捨てることもできない。


 手っ取り早いのが(単純なのが)「死」ではないのか・・。

 本当に死ぬと元も子もない。そこでクリシュナムルティが述べている「心理的な死」が出てきているのです。



> > >  「問い」の形が多く、うまくまとめることができずに済みません。
>
> > >  ゆっくりでよいので、お答え頂ければ、幸いです。よろしくお願いします。
>
> ともかく答えてみました。


[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20] [21] [22] [23] [24] [25] [26] [27] [28] [29] [30] [31] [32] [33] [34] [35] [36] [37] [38] [39] [40] [41] [42] [43] [44] [45] [46] [47] [48] [49] [50] [51] [52] [53] [54] [55] [56] [57] [58] [59] [60] [61] [62] [63] [64] [65] [66] [67] [68] [69] [70] [71] [72] [73] [74] [75] [76] [77] [78] [79] [80] [81] [82] [83] [84] [85] [86] [87] [88] [89] [90] [91] [92] [93] [94] [95] [96] [97] [98] [99] [100]

処理 記事No 暗証キー
- LightBoard - Modified by isso