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[25154] 見ること―3 投稿者:ゴト 投稿日:2018/02/26(Mon) 23:06  

私はなくなった母を尊敬していましたが、孝行息子というよりはわがままな生意気息子でしたでしょう。その母は私の家に引き取るまではしばらくの間近所のアパートにいましたが、その時の話です。

或る日訪ねていくと、何かから見つけたらしく、足湯の電気器具を買ってきてほしいと言われたのです。当時私はまだ勤めていたのだろうか、まあ話はわかるが面倒くさいなというのが正直な感想で、不機嫌になりました。

しばらくたって買いに行ったのですが、物はさほど大きくも重くもないのですが丸くかさばって、持ちにくい物でした。歩いて4,50分の距離があり、タクシーで運ぶのがいいのですがケチなので、抱えて歩いて持っていこうとしました。歩くのは好きなのです。

だがすぐに後悔しました、持ちにくく、持ち重りがして結構大変だったのです。「なんでこんな目に合わなきゃいけないんだ!なんでも頼めばいいと思ってんだから」とか、荷物を持ち直すたびに不機嫌と愚痴、恨み言が頭に浮かびます。その時ふと「見てみよう」という事が頭に浮かびました。そしてすぐ見ることに入りました。見ると思考が止まるという事とは全く違ったことが起きたのです。

そのとき、愚痴、繰り言はやみませんでした。短いが時間をおいて、その愚痴が繰り返し出てきます。しかし、頭の中に響く口調は微妙に変化しています。不機嫌な感情は全く消えていて、荷物の持ちにくさと疲れ、苦痛も全くありません。感じません。たぶん20分ぐらいしてその愚痴は止み、それとともに街が目に映り、居る場所からどれくらい時間がたったかわかりました。それから母のいるところまでまだ少々ありましたが、不満や持ちにくさは3なく、母にあってからもその不満は一切出ず、解消したのだと思います。

これは不思議な体験でしたが、向こう(この場合は不満・愚痴)に語らせて聴くという事は初めてでした。そしてそれに語らせて聴くという事はその傷orしこりの解消(癒し?)でもあるようです。 (続く)


[25153] Re:[25151] [25145] [25143] [25142] [25141] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/02/26(Mon) 18:45  

> > > > > この掲示板に書き込むことが、果たして主体性があるのか疑問に思う。何かに突き動かされて書き込むこともあるし、或いは自分の中で熟成されたものが突き動かしているのかもしれない。
> > > > >
> > > > > 人間以外は機械的かと観察すると、それは私の何かに呼応するという意味で機械的であり、また生かされていると考えると主体的である。
> > > > >
> > > > > ということが言えませんか?
> > > >
> > > > 主体的に、能動的に、あるいは受動的にとかの言葉は難しい言葉ですね。幸せになろうとするのと果報は寝て待てのようなもんかな。
> > > >
> > >
> > > 違います。僕のはもっと深い意味があります。
> > >
> > >
> > > > しかし生きるという事は能動性や主体性を連想させるが、機械的?思考するとわけがわからないという事だろうか。
> > >
> > >
> > > わけをわからなくしているのはゴトさんかな。
> >
> > ええ、そのようです。言葉を使って文章にする瞬間、それを固定的なものとして受け取る癖が自分にはあるようです。そして区別が固定化してしまう感じです。しかしそれは流動的なことであって絶対という事がないと言うと、すべての事柄が相対化されてしまいます。
> >
> > 事実を見て言う時、怪しげな言語を使って話しても言い切ることができます。だが、哲学がこの頃気になっていて、確固としたものとして成立しうるか気になります。余計なお世話かもしれませんが。気になる哲学者の本を読んでいるので。
>
> 定めがないからこそこの世は壮大だと古人が言っています。兼好法師?だったかな。

「人間は言語ゲームによって約定の体系として世界を構成し、そのことで初めて「力の論理」が貫徹する動物性から離脱した」ーー 竹田青嗣「欲望論」第1巻より引用

フムフムと私は聞いて、では人間世界で、哲学は何をしようとしているかという目で哲学を観ます。それは人間世界の暴力原理の縮減、現実世界が持つ「現実論理」に対抗するものとなるべきであるとのことです。実際にははっきりした対立根拠をまったく提供しえないでいるのが現状のようです。

そこで人間の持っている始原のエネルギーの性質と言語ゲームの影響が、どのように人類の普遍的理解になっていくか、そこらに関心があって見ています。

これは始原のエネルギー(力or衝動?)と人間の精神の言語を通じての関わり具合なのでしょうか?


[25152] Re:[25150] [25149] 見ること―2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/02/26(Mon) 16:21  

>  「思考を見ると思考が止まる。」、遅ればせながら、やってみるて初めて知りました。
>
>  思考を止めることは、坐禅等々の初心者が苦労するところのものであり、また、クリシュナムルティは抑圧やコントロールによって「思考を止める」ことを良しとしないので・・。

実際には何か悩み事があり思案に暮れている時は、見ようとしてもいつの間にか悩み事に戻っています。悩み事に向かうエネルギーの方がずっと強力ですから。それが爆発するまでに高まって、相手に言いにくいことを何とか言える時解決があります。こういうことはほとんどの人が体験して分かっていくという事でしょうか。文学や娯楽小説とかアニメで若い時からわかるといいですね。

>
>  今朝、朝支度の洗面中に、観世音菩薩の「観世音」あるいは「観音」という言葉が心に現れました。「見る」が頭にあったのでしょう・・。「音を見る」こともありだな・・と、洗面中の音を見てみました。洗面中なので目は閉じています。その音の何と心地よいこと・・。月曜の朝、ブルーマンデーで、心はうつうつとしていました・・。しかし、この洗面中の水の音、耳元に近いので、よく響きます。しかも、愛おしい心地よい音。ちょうど水温もお湯かげんがよく快いお湯とともに、聴くピチャピチャ・・の音。私の日常に、こんな音があったのかと、今まで知らずに過ごしてきたことの驚きを感じ、あのうつうつとしたブルーマンデーの暗黒冷淡の空気が吹っ飛んでゆきました・・。

まさに見ること感じていることのそのもののいい体験ですね。
損得や何かの期待なしに、ただ新鮮に知覚している。どのような状態下でもそういう知覚にあるなら、それが瞑想にあるという事ですよね。
観世音という事が頭に浮かんだという事は、心の深いところで見るという事が何か動いていることでしょうね。

>
>  ゴトさんが述べるところの、「日常の事件性」とはこのことかもしれない・・と思いました。
>
>  クリシュナムルティは、見るときには、宝石を見るように、愛おしく見るように述べています。
>
>  ゴトさんは、たばこに対しては、愛おしく見ていたのではないでしょうか・・。新しい芽さんや読書会、そして職場に対して愛おしく見ていたのではないでしょうか・・。

タバコがやまるかという興味はありましたが、やめよう、やめたいという事がなく驚異の目を見開いて成り行きを見ている感じでした。タバコをいとしんでいる感じはなかったなあ、いい、悪い、好き嫌いという感覚が消えていたという感じです。

その他の新しい芽さんや読書会、仕事場には親密な感じを持っていましたが。タバコに対してやまる一連のことが起きるまでは厄介な困った代物でした。
>
>  30年前の、ほのぼのとした雰囲気が伝わってくるようです。。
>
>  そして、禁煙を動機として見ているのではない、全体的なプロセス。

今ならそうも言えますが、その時はそんな意識は全くなかったです。


[25151] Re:[25145] [25143] [25142] [25141] 無題 投稿者:南方 投稿日:2018/02/26(Mon) 10:06  

> > > > この掲示板に書き込むことが、果たして主体性があるのか疑問に思う。何かに突き動かされて書き込むこともあるし、或いは自分の中で熟成されたものが突き動かしているのかもしれない。
> > > >
> > > > 人間以外は機械的かと観察すると、それは私の何かに呼応するという意味で機械的であり、また生かされていると考えると主体的である。
> > > >
> > > > ということが言えませんか?
> > >
> > > 主体的に、能動的に、あるいは受動的にとかの言葉は難しい言葉ですね。幸せになろうとするのと果報は寝て待てのようなもんかな。
> > >
> >
> > 違います。僕のはもっと深い意味があります。
> >
> >
> > > しかし生きるという事は能動性や主体性を連想させるが、機械的?思考するとわけがわからないという事だろうか。
> >
> >
> > わけをわからなくしているのはゴトさんかな。
>
> ええ、そのようです。言葉を使って文章にする瞬間、それを固定的なものとして受け取る癖が自分にはあるようです。そして区別が固定化してしまう感じです。しかしそれは流動的なことであって絶対という事がないと言うと、すべての事柄が相対化されてしまいます。
>
> 事実を見て言う時、怪しげな言語を使って話しても言い切ることができます。だが、哲学がこの頃気になっていて、確固としたものとして成立しうるか気になります。余計なお世話かもしれませんが。気になる哲学者の本を読んでいるので。

定めがないからこそこの世は壮大だと古人が言っています。兼好法師?だったかな。


[25150] Re:[25149] 見ること―2 投稿者:宮啓 投稿日:2018/02/26(Mon) 09:31  

> 読書会から帰りの電車の中で、私はよくその日会で起こった議論や疑問のことをあれこれ考えていました。その混乱した頭の中の議論をしっかりと見る、あるいは聴くことができるならどんなにいいかと思っていました。だが見ようとすると、考えて流している議論=思考は止まってしまいます。考えている主体は聞こうとしている主体そのものなんですね、それで同時に二つのことはできないわけです。ここで自分の思考を見るという事はつっかえて、一向に進みませんでした。見ようとすると思考はなくなるので。
>
> そのころ起きた禁煙の話をします。当時私はずいぶんタバコを吸っていたのですが、或る日、ほかの人がタバコをやめたという話をじかに聞きました。これはどこが見ることかはっきりしないのですが、不思議な出来事でした。その人は実際には自分自身がタバコを吸っているようだが、実際は中毒というか支配されている状態で自由に吸っているわけではないと言いました。その証拠にはタバコが切れたときのことを考えてみればわかる。その時は真夜中でも吸いさしのタバコをつまようじにさしても吸うだろうがと。
>
> ああ、本当にそうだ、私が吸っているのではなくタバコに吸わされている、支配されていて自由ではないのだと私は思いました。それでその人の家にいる間タバコは吸わないでいました。ちょっと座を離れていたその人は、座に帰って私がもじもじするのを見て、なんだ吸わないでいるのか、それならタバコは前に出していつでも火をつけれるようにしていなければやまらないと言いました。そういう禁煙の本が出ていたのだそうです。
>
> それでその日は禁煙したまま寝につきました。当時、私は一日に40本以上吸っていましたからそれだけでもちょっとあり得ないようなことでした。ひょっとしたらやまるのかもしれないという予感がありました。翌日出勤して、言われた通りタバコを机の上に出し、いつでの吸えるようにして仕事にかかりました。少し難しい箇所になると無意識に手がタバコの方に伸びます。すると不思議にそれに気づくのです。そして自由になるか捉われてしまうかと一瞬考えて、不思議に手が引っ込み仕事に戻るのです。こんなことは今まで一度もなかったことです。そういう気付きが数回あって、その日はタバコを吸う事なく終わりました。
>
> その後、手が伸びると気づく回数が徐々に減り、タバコを吸う事はなくなりました。ほんとにやまったか、かなり長い間疑い続けましたがやまりました。それから30数年たっています。結局見るという事は心全体で見ることで、断片的ではなく、深層までの全体的理解という事ですか。その時長い習慣も不思議に簡単にすっかり変化します。(続く)


 「思考を見ると思考が止まる。」、遅ればせながら、やってみるて初めて知りました。

 思考を止めることは、坐禅等々の初心者が苦労するところのものであり、また、クリシュナムルティは抑圧やコントロールによって「思考を止める」ことを良しとしないので・・。

 今朝、朝支度の洗面中に、観世音菩薩の「観世音」あるいは「観音」という言葉が心に現れました。「見る」が頭にあったのでしょう・・。「音を見る」こともありだな・・と、洗面中の音を見てみました。洗面中なので目は閉じています。その音の何と心地よいこと・・。月曜の朝、ブルーマンデーで、心はうつうつとしていました・・。しかし、この洗面中の水の音、耳元に近いので、よく響きます。しかも、愛おしい心地よい音。ちょうど水温もお湯かげんがよく快いお湯とともに、聴くピチャピチャ・・の音。私の日常に、こんな音があったのかと、今まで知らずに過ごしてきたことの驚きを感じ、あのうつうつとしたブルーマンデーの暗黒冷淡の空気が吹っ飛んでゆきました・・。

 ゴトさんが述べるところの、「日常の事件性」とはこのことかもしれない・・と思いました。

 クリシュナムルティは、見るときには、宝石を見るように、愛おしく見るように述べています。

 ゴトさんは、たばこに対しては、愛おしく見ていたのではないでしょうか・・。新しい芽さんや読書会、そして職場に対して愛おしく見ていたのではないでしょうか・・。

 30年前の、ほのぼのとした雰囲気が伝わってくるようです。。

 そして、禁煙を動機として見ているのではない、全体的なプロセス。


[25149] 見ること―2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/02/25(Sun) 20:23  

読書会から帰りの電車の中で、私はよくその日会で起こった議論や疑問のことをあれこれ考えていました。その混乱した頭の中の議論をしっかりと見る、あるいは聴くことができるならどんなにいいかと思っていました。だが見ようとすると、考えて流している議論=思考は止まってしまいます。考えている主体は聞こうとしている主体そのものなんですね、それで同時に二つのことはできないわけです。ここで自分の思考を見るという事はつっかえて、一向に進みませんでした。見ようとすると思考はなくなるので。

そのころ起きた禁煙の話をします。当時私はずいぶんタバコを吸っていたのですが、或る日、ほかの人がタバコをやめたという話をじかに聞きました。これはどこが見ることかはっきりしないのですが、不思議な出来事でした。その人は実際には自分自身がタバコを吸っているようだが、実際は中毒というか支配されている状態で自由に吸っているわけではないと言いました。その証拠にはタバコが切れたときのことを考えてみればわかる。その時は真夜中でも吸いさしのタバコをつまようじにさしても吸うだろうがと。

ああ、本当にそうだ、私が吸っているのではなくタバコに吸わされている、支配されていて自由ではないのだと私は思いました。それでその人の家にいる間タバコは吸わないでいました。ちょっと座を離れていたその人は、座に帰って私がもじもじするのを見て、なんだ吸わないでいるのか、それならタバコは前に出していつでも火をつけれるようにしていなければやまらないと言いました。そういう禁煙の本が出ていたのだそうです。

それでその日は禁煙したまま寝につきました。当時、私は一日に40本以上吸っていましたからそれだけでもちょっとあり得ないようなことでした。ひょっとしたらやまるのかもしれないという予感がありました。翌日出勤して、言われた通りタバコを机の上に出し、いつでの吸えるようにして仕事にかかりました。少し難しい箇所になると無意識に手がタバコの方に伸びます。すると不思議にそれに気づくのです。そして自由になるか捉われてしまうかと一瞬考えて、不思議に手が引っ込み仕事に戻るのです。こんなことは今まで一度もなかったことです。そういう気付きが数回あって、その日はタバコを吸う事なく終わりました。

その後、手が伸びると気づく回数が徐々に減り、タバコを吸う事はなくなりました。ほんとにやまったか、かなり長い間疑い続けましたがやまりました。それから30数年たっています。結局見るという事は心全体で見ることで、断片的ではなく、深層までの全体的理解という事ですか。その時長い習慣も不思議に簡単にすっかり変化します。(続く)


[25148] Timeless Stillness より「事実を見る」 投稿者:宮啓 投稿日:2018/02/25(Sun) 13:13  

 Timeless Stillness サイトに「事実を見る」がありました。

 そのタグが途中にあって見つけにくいので、ここに全文引用します。


事実を見る

Q: :あなたはどうやって何の反応もせずに事実を〈見る〉のですか。非難も正当化もせず、偏見も結論づける欲望ももたず、それに何かしようともせず、私や私のものという感覚もなしに。その〈見ること〉や気づきのポイントは何でしょうか? あなたは実際に見たのでしょうか。よければ御自分の経験から例を挙げていただけませんか?
クリシュナムルティ:まず最初に、我々は事実を見ていますか? どうやって事実を見るかではなくて、事実を見ていますか? 我々は事実を見ているでしょうか。たとえば、我々のなかにある貪欲や矛盾を。我々は〈見ること〉で何をまさに意味しているのでしょう。私は自分が貪欲であることに気づいているでしょうか。そしてそれをどう思っているでしょう。私は自分が貪欲であることを、言い訳せず、非難せず、なにかを試そうとせず、正当化せず、それを貪欲でないものに変えようと望まずに見ることが可能でしょうか?羨望か貪欲か劣等感か優越感か嫉妬、そういったものを例にしてみましょう。どれか一つを選んで下さい。そして何が起こるか見てください。

まず、我々の多くは自分が妬み深いことに気づいていません。我々はそれをブルジョア的なものとして、表面的なものであるとして軽く無視しています。しかし深い内側では我々は十分に妬ましげです。我々は妬む[羨む]存在です。我々は何者かであることを望み、達成を望み、成功を望みます。それがまさに妬みの指標です。我々の社会的、経済的、霊的な制度はその妬みに基礎を置いています。まず、それに気づいてください。ほとんどの人は気づいていません。我々はそれを正当化して言います「我々が妬まなければ文明はどうなる。我々が野心を持って進歩しなければどうなるのだ。すべては失敗して沈滞してしまうだろう」と。まさにその言明、その正当化が、我々がそれである事実を見る事を確実に妨げます。私とあなたを、その妬みを。

そこで我々が全体的に意識し、気づき、この全部を見ると何が起きるでしょう? それを正当化も非難もしなければ。していませんか? 我々は妬みと聞いてあなたが感じる何らかの意識を悪いもので、神聖でない、不道徳なものだ考えます。我々はそれを非難します。それがありのままのものを見ることを妨げます。そうではないでしょうか。正当化したり非難したりそれをどうにかしたいと思ったりするとそれが見ることを妨げます。この机の上のグラスで試して見ましょう。

私はそれを誰が作ったのかと考えずに見ることができます。形を観察し大きさや色を観察し、とただそれを見ます。それと同じように私の妬み[羨望]を見ること――非難せず、変えたいと思わず、それに何かをしようとせず、正当化せずに見ることは不可能です。では私がその全部をしなければ何が起こるでしょう?妬みをあなた自身の重荷に置き換えてついて来てくれればと思います。

私の言うことをただ聴くのではなくて、あなたの不安や苦痛や混乱の原因になっている事実とのあなた自身の関係を観察してください。あなた自身を見つめて下さい。そして私が語っていることを適用してください。思考のプロセスの中であなた自身の精神を見つめるのです。我々はこの〈見ること〉とは何かを見出そうとする経験を共に分け合っています。もっと深くそれに入っていきましょう。

私が妬んでいても、それに気づき、その中身を見れば、それをどうにかしたい気持ち、非難、正当化は終わりを迎えます。なぜならそれが何であるか、その背後に何があるか、その内的な性質が何であるかを見ることの方により興味をもつからです。その妬みの問題のすべての中身をより深くより詳しく知ることに興味がもてなければ、それは非難することで満足しているということです。

それを非難せず、それをどうにかしようと思わなくなれば、私はすこし問題に近づき、親しくなり、そばにやって来ました。それではどうやってそれを見ればよいのでしょう。どうやって私が貪欲であることを知ればよいのでしょう。それはもっとしたいという感情を創り出す言葉でしょうか。その反応は言葉によって象徴化された記憶の結果でしょうか。そして、その感情はその言葉や名称、用語と別のものでしょうか。それを認識して、名前をつけ、ラベルを貼ることで、私はそれを解決したでしょうか?私はそれを理解したでしょうか?

このすべてが事実を見ることのプロセスではないでしょうか。さらに進みましょう。「私」や観察者が貪欲を経験しているのでしょうか。貪欲は私と分離したものでしょうか?妬み、それは全くエキサイティングで快い反応ですが、それは私や観察者と別のものでしょうか。私が非難せず、正当化せず、どうにかしたいと思わないとき私は検閲者や観察者を取り除いたでしょうか?そして観察者がいないとき、貪欲という言葉、非難されていたまさにその言葉はそこにあるでしょうか?観察者がいないときだけあの感情が終わりを告げる可能性があります。

しかし私は事実を見ることによってそれを終わらせたいとは考えていません。それは私の動機ではありません。私は全体の構造を、全体のプロセスが見たいのです。私はそれを理解したい。そしてそのプロセスのなかで私自身の思考方法を発見します。その自己理解は本や印刷物や講演から集められたものでなく、実地にこの語りあいの中で共に分け合ったものです。それが自分の方法を見つけるということです。

それが事実の真実を見ることです。それはこのプロセスを通してだけ可能なことです。それは妬みと呼ばれる反応から精神を解放します。その真実を見ることなしには、何をしても妬みは残っていきます。あなたがたはそれに置きかえるものを見つけたかも知れません。あなたはそれを隠すためにあらゆることをしそれから逃げ出します。しかしそれはいつもそこにあります。我々がそれにどうアプローチするかを知ったときだけ、その真実を見たときだけ、それからの自由があります。

London 2nd Public Talk 8th April 1952

 ― ― ― 以上引用 ― ― ―


[25147] Timeless Stillness より「気づきについて」 投稿者:宮啓 投稿日:2018/02/25(Sun) 09:53  

 「見ること」に取り組んでいたら、Timeless Stillnessのサイトの頭の方に、「気づきについて1」「気づきについて2」に出会いました・・。

 とても参考になったので、ここに揚げておきます。

 http://timelessstillness.web.fc2.com/index.html


[25146] Re:[25144] 見ること 投稿者:宮啓 投稿日:2018/02/25(Sun) 08:31  

> 見ることについて順序立てて書こうとすると書けません。成り行き任せで書きます。
> 見ることとは何かというのは読書会でよく話題の種になりました。まだ読書会に行き始めたころ、「あなたは『見ること』をどういう事と思っているのか」という質問がみなに回されました。
>
> いろいろな答えがありましたが、今は忘れました。自分のした答えは、新婚当時のことですが、職場から帰って夕食の時、食事が残り物の寄せ集めであまりにも粗末なので、怒って妻のほほをひっぱたいた時のことです。その時の私の予想は相手が言い返したり言い訳をすることだったかと思いますが、実際にそこに見えたのは目を見開いた妻の驚愕の表情でした。たぶん妻はそのような経験は全くなかったのでしょう。何か貴重なものを壊してしまった気がしました。そのあと妻に手を上げるようなことは全くしたことがありません。そのあとこのことは全く忘れていましたが、読書会のその日の問いで、そのことが突然思い出されました。心の中に再現されたのです。
>
> 人の評は、それはまれに起きた事件に関することで、日常の繰り返しの中での見ることが興味があるのだが、という事でした。確かにそうなんですが、それが小さくとも日常のパターンを超える時、ある種の事件性はあると思います。ある種の意外性、発見、理解、そして人格の変化。
>
> その後私には見ることを獲得したいという思いが大きくなって、新し芽さんにどうすれが見ることができるかとお尋ねしました。
> 新しい芽さんは目を相手に向けるのでなく、自分の方に向けることをしていると、見ることがわかる、自然にそうなるという事でした。
>
> これは当時の私には実践できませんでした。今振り返って思うとあまりにも能動的に、積極的に見ようとしているため、全体を受動的に見ている風にならなかったようです。自分に向いていて外部も知覚を通じて受動的に見えればよかったのかもしれません。
>
> しばらくぽつぽつと書いてみます。質問があればいつでもどうぞ。


 お話を伺うことができて嬉しく思います。ありがとうございます。

 目を自分に向ける・・ことが重要のようですね。。

 相手を見るときに、相手のイメージを創出する自分。

 歓喜の瞬間に、自己増長する自分。

 クリシュナムルティは述べます。

 イメージなしに、妻子を、同僚を見ることができるか・・。

 歓喜の瞬間に、恍惚の瞬間に、それを疑って見ることができるか・・。

 受動的に見ることが、いかに難しいか・・。

 条件付けの強烈さ・根深さ・・。

 瞑想は浄化の過程でもある旨、クリシュナムルティは述べています。

 見ること・瞑想することに取り組む中で、浄化が進行してゆき、見ることができるようになればよいですね。。


[25145] Re:[25143] [25142] [25141] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/02/24(Sat) 23:23  

> > > この掲示板に書き込むことが、果たして主体性があるのか疑問に思う。何かに突き動かされて書き込むこともあるし、或いは自分の中で熟成されたものが突き動かしているのかもしれない。
> > >
> > > 人間以外は機械的かと観察すると、それは私の何かに呼応するという意味で機械的であり、また生かされていると考えると主体的である。
> > >
> > > ということが言えませんか?
> >
> > 主体的に、能動的に、あるいは受動的にとかの言葉は難しい言葉ですね。幸せになろうとするのと果報は寝て待てのようなもんかな。
> >
>
> 違います。僕のはもっと深い意味があります。
>
>
> > しかし生きるという事は能動性や主体性を連想させるが、機械的?思考するとわけがわからないという事だろうか。
>
>
> わけをわからなくしているのはゴトさんかな。

ええ、そのようです。言葉を使って文章にする瞬間、それを固定的なものとして受け取る癖が自分にはあるようです。そして区別が固定化してしまう感じです。しかしそれは流動的なことであって絶対という事がないと言うと、すべての事柄が相対化されてしまいます。

事実を見て言う時、怪しげな言語を使って話しても言い切ることができます。だが、哲学がこの頃気になっていて、確固としたものとして成立しうるか気になります。余計なお世話かもしれませんが。気になる哲学者の本を読んでいるので。


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