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[24737] Re:[24731] [24729] [24726] [24723] [24718] [24717] [24714] [24713] [24712] [24711] [24709] オカルトについて 投稿者:宮啓 投稿日:2017/10/26(Thu) 16:42  

> > > 私はクリシュナムルティは人類にその転機のための、最大の援助と私は言いたいのですが、指摘、示唆、ヒントを与えてくださったのではないでしょうか。
> > > ここで、「くださった」という言葉を使ったのはKを権威として敬語を使ったのではなく、感謝の意を表したい気持ちが湧いたからです。
> >
> >
> >  はい。
> >
> >  「活動」とは「逃避」のことである−−とは、クリシュナムルティの言葉です。
> >
> >  人は勤務中に何をしているのか・・、それは逃避である。人はなぜ結婚し家庭を築くのか・・、それは回避である。
>
> これは実際に見てのことでしょうか?、それとも最初の「活動は逃避である」という言葉からの論理的な結論として出てきたことなのでしょうか?
> 実際の仕事は単なる利己的な行為(=活動なのです。Kの用語法)と決まったものでしょうか? 結婚し家庭を築くことも逃避でしょうか?若い人が未知の世界に胸をどきどきさせながら入って行くという事はないでしょうか。それを見て分かっていくのでないなら、レッテル貼りになりはしませんか?


 およそ若者は、後先考えずに、結婚に踏み切ることでしょう。そこには>未知の世界に胸をどきどきさせながら−−が大きく含まれ、生理上の必要の炎が燃えたぎっていることでしょう。

 私がここで述べた「活動」は、そのような白い炎ではなく、30半ばに達し、そのまま老後を迎えることの不安に苛まれて、枯れる前に一花咲かせようとする煙立つ炎の活動のことです。

 また仕事においても熱血教師や理想を求めての活動もあり得ることでしょう。おおよそ若い時期に・・。あるいは、必要最小限の生計を得るための就業は生きる必要としての活動として白い炎となり得ることでしょう(「白い炎」の喩えについては、『境界を超える英知』参照)。



> >  日々の活動が幻想活動であり、それが幻想(イメージ)を強化し、それゆえ自我を増長させていく。
> >
> >  幻想という巨大な砂場に築かれた楼閣。すなわち社会。
> >
> >  そのど真ん中で生きているヒトに対して、現にあるものを見よ・・と示唆しても、それは見えず聞こえない。たとえブッダが、あるいはクリシュナムルティが声高に叫んだとしても。
>
> しかし幻像や幻聴でなく見る、聴く以外に道はないのではないでしょうか。自分で作った思考の投影を見るという事に気づいている人はたくさんいます。
>
> >  ヒトは巨大な砂場に築かれた楼閣にふっと気づいたとしても、社会に緻密に張り巡らされた娯楽による回避ネットワークに捕まると、その気づきは不要な個人的な心配事・不安として片付けられる・・。
> >
> >  それゆえに、死して30年も経ずして、逸れが生ずる。
> >
> >  そのように逸れやすいクリシュナムルティ理解において、クリシュナムルティの裾から離れよ・・と示唆するヒト達が、そもそもクリシュナムルティを十分理解しておらず逸れているのではないでしょうか。
>
> とにかく観察を続けましょう。


 上記の「砂上の楼閣」は、>Kのトークについては文章の記録もあるし、後期には録音、録画もあります。その中から真実のものを受け取ることは、たぶん、なぜか困難なのです。ましてそれが社会に、全体的に顕現するという事はなぜか困難なのです。−−、これを受けて、なぜ困難なのか?の問いに対応して、「砂上の楼閣」で表現されたものです。

 すなわち、たとえ>自分で作った思考の投影を見るという事に気づいている人はたくさんいます。−−、ヒトが一時的に「見る」に気づいても、そこから先には進まないのです。たとえクリシュナムルティの本を読んだとしても。そうではないでしょうか。


> >  クリシュナムルティ理解は、それほど生やさしいものではなく、十分な理解なしにはクリシュナムルティから離れてはならない、逸れてしまう、ということではないでしょうか・・。
> >
> >
> >  しかし、「逸れ」を許さないヒト達がいる。『ブッダとクリシュナムルティ』や『境界を超える英知』を編集したヒトなど・・。
> >
> >  言いたいことは、クリシュナムルティの陳述からの引用を用いて言う。これは逸れない。
> >
> >  そのような手法に、ただただ感心します。
> >
> >  そのような手法によって述べられる真理は、クリシュナムルティやブッダが述べる真理と同一と感じられます。


[24736] Re:[24735] 個人とプライベート 投稿者:ゴト 投稿日:2017/10/26(Thu) 16:11  

> >それと私個人のことを言わないようにしましょう。それは個別的関心の誘導につながるかもしれません。

>  新しい芽氏の話も、今イチわかりにくいのは、具体的話がほとんどなく、抽象的な話に終始しているからだ。


私は抽象的に話をするのが、最高の教えではないかと思う。なぜなら、自分で疑いを持ち、考え(ここが難しいところで、下手をすると思考になる、本当の意味でのメディテイトする)、知らないことを知る応用の利く理解を持たせることがホントの教えであると思うからです。長いこと考えて何とかこう言えるようになりました。新しい芽さんが説明をしなかったおかげです。

この頃、「あなたは世界である」を読んでいます。


[24735] 個人とプライベート 投稿者:外野席 投稿日:2017/10/26(Thu) 10:52  

>それと私個人のことを言わないようにしましょう。それは個別的関心の誘導につながるかもしれません。

 24728で、あなたから丁重な答えを伺ったが、あなた個人のことではなかった。
 かって新しい芽氏は自身のプライベートの話は一切出さなかった。この掲示板でもpeerさんという方がよく投稿されていたが、最後までプライベートの話があまりなかった。男か女かもわからずじまい(たぶん女性?)つまりは具体的な人というものが出したことがない。
 ここのゴト氏も、ごくたまに「家人」のことがでたことがあるが、子供の話は一切ない。どう関わってきたのか。別にとくに聞きたいとは思っていないが。
 宮啓氏も、ごくたまに子供との関わり合いを話すが、家人の話は一切ない。
会社の中の出来事の話もない。
 それでいていくら葛藤や悩みがなくなったという話をされても、まるで説得力も何もないだろう。だから信用しない。
 葛藤の原因というのは、実は「人間関係」が大半だ。
 新しい芽氏の話も、今イチわかりにくいのは、具体的話がほとんどなく、抽象的な話に終始しているからだ。
 彼の言い分は具体的な人名をあげると差し障りがあり、どうしてあげたいならただ「人」と記述するだけだとここでいったことを記憶している。
 たしかにネットは誰がもてるかわからないので、具体的な個人名を出すのはまずいだろう。
 しかし、非難正当化を検討しようというとき、相手側がはっきりしなければ、詳細には検討できない。ホントに気づいてるかどうか。
 ですから、いくら「気づいている」といわれても信用しないというのはここである。

 追記
 私が尊敬する哲人は、その人の文献で家族との関係、やりとりを詳細に記している。家族から学んだ経緯というものを。どうやって葛藤悩みを克服したかの詳細。
 私はこの人を「本物」と呼ぶ所以である。宇宙哲学の実践的研究者と言えばわかるだろう。凄い人物。真理の体現者。一切「エゴ」に妥協しない。




[24734] Re:[24733] [24732] [24730] 偽の見性 投稿者:ゴト 投稿日:2017/10/26(Thu) 09:31  

> > > 最近宮啓氏やゴト氏、外野氏の発言をよく読んだが
> > >
> > > 見性を経て宮啓氏やゴト氏は悩み葛藤迷いがなくなってよかったとしきりに連呼しておられる。
> > >
> > >
> > >
> > > 私の行きついた見性とは忘我・エクスタシーであるが、それは
> > > 我を忘れるというとコントロールが効かなくなるイメージがあるが、私の行きついた今のところの見性は「我を忘れて宇宙を、世界を思う」である。
> > >
> > > 他人と比較して見性をどうのこうのと述べるのは気が進まないが、宮啓氏やゴト氏の見性は自分の葛藤悩み迷いがなくなって嬉しいと幸福であると言っているのを、今までの掲示板の発言から察するが、そのような見性は極めて自己中心的であると思う。
> >
> >
> > 自己中心的だと葛藤せざるを得ない気がするが、なぜそう思うの?自分の幸せを追及しているように見えるという事?
>
>
> そうですね。迷いがなくなった葛藤がなくなったなどと連呼することが自己中心的ではないでしょうか。この掲示板をよんでおられる方に誤解を与えかねないということです。
> 見性という言葉が嫌ならただ見るでもいいでしょうが、上述のような表現をすると投影していしまう可能性が後進の方に与えてしまう危険性があるということです。
>
>

投影の危険は常にあるのではないでしょうか? 仏教でもそうです。諦念というふうに。Kの読者においてすら投影、イメージを創り、それを相手に投影することから簡単に抜け出れません。と思いますが。

それゆえ、Kの教えの核として、何も知らないで初めてのようにKの言う事を聞く、という事から始めなければなりません。
だがこれが何の意味を持っているかは、最初のうちはまずわからず聞き流してしまいます。初期の読書会にいくつも出ましたが、そこには熱気があって何でこんなことを言うのだろうという敏感な問いの雰囲気がありました。

だんだんKの講話に慣れてしまって、大事な初期の疑問、質問、感想がいっぱい出るその雰囲気がなくなってしまった。そういう雰囲気のどんどん新しい人が来る読書会は今はない。

若い人のエネルギーがどのように動いているのか、残念ながら。わからない。いずれにせよ平安を求めているというイメージを持つ方向に行くことを注意しましょう。それと私個人のことを言わないようにしましょう。それは個別的関心の誘導につながるかもしれません。


[24733] Re:[24732] [24730] 偽の見性 投稿者:南方 投稿日:2017/10/26(Thu) 07:03  

> > 最近宮啓氏やゴト氏、外野氏の発言をよく読んだが
> >
> > 見性を経て宮啓氏やゴト氏は悩み葛藤迷いがなくなってよかったとしきりに連呼しておられる。
> >
> >
> >
> > 私の行きついた見性とは忘我・エクスタシーであるが、それは
> > 我を忘れるというとコントロールが効かなくなるイメージがあるが、私の行きついた今のところの見性は「我を忘れて宇宙を、世界を思う」である。
> >
> > 他人と比較して見性をどうのこうのと述べるのは気が進まないが、宮啓氏やゴト氏の見性は自分の葛藤悩み迷いがなくなって嬉しいと幸福であると言っているのを、今までの掲示板の発言から察するが、そのような見性は極めて自己中心的であると思う。
>
>
> 自己中心的だと葛藤せざるを得ない気がするが、なぜそう思うの?自分の幸せを追及しているように見えるという事?


そうですね。迷いがなくなった葛藤がなくなったなどと連呼することが自己中心的ではないでしょうか。この掲示板をよんでおられる方に誤解を与えかねないということです。
見性という言葉が嫌ならただ見るでもいいでしょうが、上述のような表現をすると投影していしまう可能性が後進の方に与えてしまう危険性があるということです。





[24732] Re:[24730] 偽の見性 投稿者:ゴト 投稿日:2017/10/25(Wed) 23:34  

> 最近宮啓氏やゴト氏、外野氏の発言をよく読んだが
>
> 見性を経て宮啓氏やゴト氏は悩み葛藤迷いがなくなってよかったとしきりに連呼しておられる。
>
>
>
> 私の行きついた見性とは忘我・エクスタシーであるが、それは
> 我を忘れるというとコントロールが効かなくなるイメージがあるが、私の行きついた今のところの見性は「我を忘れて宇宙を、世界を思う」である。
>
> 他人と比較して見性をどうのこうのと述べるのは気が進まないが、宮啓氏やゴト氏の見性は自分の葛藤悩み迷いがなくなって嬉しいと幸福であると言っているのを、今までの掲示板の発言から察するが、そのような見性は極めて自己中心的であると思う。


自己中心的だと葛藤せざるを得ない気がするが、なぜそう思うの?自分の幸せを追及しているように見えるという事?
なお見性という言葉は、私はよくは知らないので、自分のことには使わないけれど。


[24731] Re:[24729] [24726] [24723] [24718] [24717] [24714] [24713] [24712] [24711] [24709] オカルトについて 投稿者:ゴト 投稿日:2017/10/25(Wed) 22:11  

> > 私はクリシュナムルティは人類にその転機のための、最大の援助と私は言いたいのですが、指摘、示唆、ヒントを与えてくださったのではないでしょうか。
> > ここで、「くださった」という言葉を使ったのはKを権威として敬語を使ったのではなく、感謝の意を表したい気持ちが湧いたからです。
>
>
>  はい。
>
>  「活動」とは「逃避」のことである−−とは、クリシュナムルティの言葉です。
>
>  人は勤務中に何をしているのか・・、それは逃避である。人はなぜ結婚し家庭を築くのか・・、それは回避である。

これは実際に見てのことでしょうか?、それとも最初の「活動は逃避である」という言葉からの論理的な結論として出てきたことなのでしょうか?
実際の仕事は単なる利己的な行為(=活動なのです。Kの用語法)と決まったものでしょうか? 結婚し家庭を築くことも逃避でしょうか?若い人が未知の世界に胸をどきどきさせながら入って行くという事はないでしょうか。それを見て分かっていくのでないなら、レッテル貼りになりはしませんか?

>
>  日々の活動が幻想活動であり、それが幻想(イメージ)を強化し、それゆえ自我を増長させていく。
>
>  幻想という巨大な砂場に築かれた楼閣。すなわち社会。
>
>  そのど真ん中で生きているヒトに対して、現にあるものを見よ・・と示唆しても、それは見えず聞こえない。たとえブッダが、あるいはクリシュナムルティが声高に叫んだとしても。

しかし幻像や幻聴でなく見る、聴く以外に道はないのではないでしょうか。自分で作った思考の投影を見るという事に気づいている人はたくさんいます。

>  ヒトは巨大な砂場に築かれた楼閣にふっと気づいたとしても、社会に緻密に張り巡らされた娯楽による回避ネットワークに捕まると、その気づきは不要な個人的な心配事・不安として片付けられる・・。
>
>  それゆえに、死して30年も経ずして、逸れが生ずる。
>
>  そのように逸れやすいクリシュナムルティ理解において、クリシュナムルティの裾から離れよ・・と示唆するヒト達が、そもそもクリシュナムルティを十分理解しておらず逸れているのではないでしょうか。

とにかく観察を続けましょう。

>
>  クリシュナムルティ理解は、それほど生やさしいものではなく、十分な理解なしにはクリシュナムルティから離れてはならない、逸れてしまう、ということではないでしょうか・・。
>
>
>  しかし、「逸れ」を許さないヒト達がいる。『ブッダとクリシュナムルティ』や『境界を超える英知』を編集したヒトなど・・。
>
>  言いたいことは、クリシュナムルティの陳述からの引用を用いて言う。これは逸れない。
>
>  そのような手法に、ただただ感心します。
>
>  そのような手法によって述べられる真理は、クリシュナムルティやブッダが述べる真理と同一と感じられます。


[24730] 偽の見性 投稿者:南方 投稿日:2017/10/25(Wed) 18:32  

最近宮啓氏やゴト氏、外野氏の発言をよく読んだが

見性を経て宮啓氏やゴト氏は悩み葛藤迷いがなくなってよかったとしきりに連呼しておられる。



私の行きついた見性とは忘我・エクスタシーであるが、それは
我を忘れるというとコントロールが効かなくなるイメージがあるが、私の行きついた今のところの見性は「我を忘れて宇宙を、世界を思う」である。

他人と比較して見性をどうのこうのと述べるのは気が進まないが、宮啓氏やゴト氏の見性は自分の葛藤悩み迷いがなくなって嬉しいと幸福であると言っているのを、今までの掲示板の発言から察するが、そのような見性は極めて自己中心的であると思う。


[24729] Re:[24726] [24723] [24718] [24717] [24714] [24713] [24712] [24711] [24709] オカルトについて 投稿者:宮啓 投稿日:2017/10/25(Wed) 17:00  

> > > 私が何を望み、どのようにクリシュナムルティを理解したかは上に述べました。
> > >
> > > 例えばの話ですが、超常感覚の持ち主でこの世間の中に生きる人は、悩みと言っても相当に違うものがあるでしょう。Kをよく読んだ後の生き方も私にはわからないものがあるでしょう。宗教哲学に深く入った人はまたそれとの対決?がいるかと思います。
> > >
> > > 真理というものは生きた瞬時瞬時のもので、教条と言ったものでないゆえ、ほかの人の理解を洞察するのはそう簡単ではないように思います。むしろ自分のイメージの投影を疑う事が先にあるものかもしれません。私など、Kにじかに触れたこともありません。Kを読み、実際に生きる中で学んだ言葉化されない何か、つまり私の理解があるだけではないかと思います。そういう意味では常に用心深い気付きがいるのでしょうか。
> >
> >
> >  とても丁寧なご回答、ありがたく感じています。
> >
> >  ブッダの時、どこかで逸れたのではないでしょうか。現在の既成の仏教はどの宗派もブッダから逸れていると感じています(空海の密教は分かりません)。
> >
> >  なぜ逸れたのか、どこで逸れたのか。ブッダの教え自体が不十分(不完全)ではなく、教える術(言葉を用いて、数十年の限られた期間で、録音機材や記録文書なしに)が不十分であったから逸れたのか・・。
> >
> >  私は、教える術が不十分であったから・・逸れたのではなく、その逸れ方が、今現在、クリシュナムルティからの逸れにおいて現れているように見えるのです。
>
> 最初に前回重要な誤記がありました。
> 「低観念」という言葉は「固定観念」の誤記でした。あるいは察していたただいたかもしれませんが、すみませんでした。
>
> 本題の「逸れ」はいくつかの要素を含んでいるかもしれません。私は原始仏教の経典、特に岩波文庫の「真理の詩」「感興の詩」あたりが好きです。釈迦牟尼の教えの生きた風格を伝えてくれる気がするのです。しかし、教えの言語の論理的取りまとめとなると、言語の限界に突き当たり、多くの諸派が出るという事は避けられないかも。
>
> 教えのカリキュラムみたいなものを構成するとすると、これもどうしても種々の派が成立するでしょう。
> そして個人がどういうふうに回心の天機をつかむかも、種々の場合があるでしょう。
>
> Kのトークについては文章の記録もあるし、後期には録音、録画もあります。その中から真実のものを受け取ることは、たぶん、なぜか困難なのです。ましてそれが社会に、全体的に顕現するという事はなぜか困難なのです。
>
> それでも私は人間が、真実を直覚する力を持っていることを確信します。それは普通鈍磨してしまい、感じない、あるいは逆に受け取ったりする場合がほとんどかも知れません。しかし、それでもふと転機(疑い)が生じる時があります、ないでしょうか?
>
> 私はクリシュナムルティは人類にその転機のための、最大の援助と私は言いたいのですが、指摘、示唆、ヒントを与えてくださったのではないでしょうか。
> ここで、「くださった」という言葉を使ったのはKを権威として敬語を使ったのではなく、感謝の意を表したい気持ちが湧いたからです。


 はい。

 「活動」とは「逃避」のことである−−とは、クリシュナムルティの言葉です。

 人は勤務中に何をしているのか・・、それは逃避である。人はなぜ結婚し家庭を築くのか・・、それは回避である。

 日々の活動が幻想活動であり、それが幻想(イメージ)を強化し、それゆえ自我を増長させていく。

 幻想という巨大な砂場に築かれた楼閣。すなわち社会。

 そのど真ん中で生きているヒトに対して、現にあるものを見よ・・と示唆しても、それは見えず聞こえない。たとえブッダが、あるいはクリシュナムルティが声高に叫んだとしても。

 ヒトは巨大な砂場に築かれた楼閣にふっと気づいたとしても、社会に緻密に張り巡らされた娯楽による回避ネットワークに捕まると、その気づきは不要な個人的な心配事・不安として片付けられる・・。

 それゆえに、死して30年も経ずして、逸れが生ずる。

 そのように逸れやすいクリシュナムルティ理解において、クリシュナムルティの裾から離れよ・・と示唆するヒト達が、そもそもクリシュナムルティを十分理解しておらず逸れているのではないでしょうか。

 クリシュナムルティ理解は、それほど生やさしいものではなく、十分な理解なしにはクリシュナムルティから離れてはならない、逸れてしまう、ということではないでしょうか・・。


 しかし、「逸れ」を許さないヒト達がいる。『ブッダとクリシュナムルティ』や『境界を超える英知』を編集したヒトなど・・。

 言いたいことは、クリシュナムルティの陳述からの引用を用いて言う。これは逸れない。

 そのような手法に、ただただ感心します。

 そのような手法によって述べられる真理は、クリシュナムルティやブッダが述べる真理と同一と感じられます。


[24728] Re:[24727] 高齢化 投稿者:ゴト 投稿日:2017/10/25(Wed) 11:35  

> > > > 私は見るという事を知識でなく実際に理解するという点から入りました。それは個人的悩みからの解放を願ったからです。その意味では悩みも葛藤も、基準などの低観念もなくなりました。大雑把に言ってですよ。
>
>  悩みも葛藤もなくなったとはよくいえたものだ。これから超高齢化時代を向かえるというのにだ。あなたはその当事者ではないのか。
>  何で現実をはっきり見ようとしないのか。
>  人に手をかけず、ぽっくり死ねばそれにこしたことはないし、多くの人はそれをのぞむだろう。ところがいざ、何らかの病気をして、自分の体が動かなくなった場合、いったい誰がめんどうをみるのか。あるいはそのときの病院不足の問題。ヘルパーの問題。考えること対策は山ほどある。老人ホームに今から入るというのも一つ。今やどこにいってもキャンセル待ちとか。
>  それでも以前のように、そのときになってみなければわからないというのだろうか。それがあなたのスタンスか。先のことはわからない。考えるだけ無駄とということか。
>  ま、人それぞれだから、こちらがとやかくいうことではないか。
>  今から、その対策を練るというのは、あなたのいうイメージの世界ではない。考え抜くことの一貫。そのときになって周囲に迷惑かけないためにも。
>
>  人間誰だって残る時間が短くなれば、残された時間をどう生きるのか。残された時間を大切にしようと考えるだろう。どう使うのか。有意義に。今までの集大成として。
>  クリシュナムルティも新しい芽氏も、自分自身が悩みも葛藤もなくなったなんて話は聞いたことがない。
>  晩年のクリシュナムルティだって、後継者問題に悩み、裁判のことで頭を痛めていたと聞く。それが「人間」ではないだろうか。
>  新しい芽氏は、常に問題意識を持ち続けたということ。ホントかどうか。
>  事実かどうか。常に問い続けた。
>  問題は、真理をつかまえているどうか、悟っているかどうかだろう。
>  悩みでも人のためなら大いに悩んだ方がいい。
>  自分自身も、人様に迷惑かけたくないというのが常に頭にある。性分だから仕方がない。
>
>  ま、そういったリアルな現実は抜きにして、思いの世界に浸ってればいいということかな。このサイトは。

確かに、私も高齢になってきて、老いというものに直面している。生きていくという事は大変なことだと初めてわかる。爪を切るとか、ふろに入るとかが困難になる。すぐ疲れてボーっとしている時間が長くなり、何事にも時間がかかる。休み休みでないと、体調が狂ってなにもできなくなる。

ほんの1,2年前と比較してでさえ明らかな低下がある。比較と評価、体力の継続に対する執着があるとそれは問題となる。比較や執着がなく、現実をありのままに見ることができるのは、大きな救いだ。

私は周囲に夫婦もいずれは一人になり、子供の世話になる人も、子供のいない人も見てきた。甥も姪もいないで孤独死した人も知っている。近所の人が気づいて公的機関に通報し、ひっそりとしめやかに処理が済んだらしい。

思考がその役割を知っていれば心理的な問題は起こらない。死んだ人の遺品を処理したこともある。その時捨てるに忍びないと思ったものもあり、残したが、自分の遺品は執着はないから忖度なしに子供が処理するだろう。


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