雑感
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[25767] Re:[25764] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/08(Wed) 12:02  

> いつも感じることだが、宮啓というのは、何で文章を消さないのか。
> 前回の文章をそのまま載せて、最後に、少しのコメントを載せて終わり。全く気楽なものである。
> この男は、パソコンでなく、スマホでいつも投稿してるのだろうか?
> パソコンでやってれば、前回の文章を消せるはずである。
> 問答に前後のつながりがわかればいいわけで、同じ文章を何度も載せることはない。
>

話しが何事から始まりどう進んできたかに興趣尽きぬ時もある。


[25766] Re:[25762] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/08/08(Wed) 10:56  

> 如是如とはあるがままはあるがままという意味だ。事実をあるがままに見ることこそ悟りなのだ。

それはあなたの定義でしょう。
悟りを求めていては悟れない。


[25765] Re:[25761] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/08/08(Wed) 10:52  

> 飯尾さんが覚者にあってもわからない。と述べた時類まれな正直さと勇気を持った覚者その人だったと思う。普通尊敬されたいという欲求が出てくる。わからないことはわからない。これで悟りは合格なんだよ。

飯尾氏をご存知なのだろうか?
飯尾氏は、ごく普通の人です。

人が悟ってるかどうか、覚者かどうかなんていうのは傍目ではわからぬ。あくまで臆測。

あなたは自分の定めた「悟りの定義」によって、人を評価してるにすぎない。

比較 の典型的論議。人は比較したがる。差をつけたがる。


[25764] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/08/08(Wed) 10:25  

いつも感じることだが、宮啓というのは、何で文章を消さないのか。
前回の文章をそのまま載せて、最後に、少しのコメントを載せて終わり。全く気楽なものである。
この男は、パソコンでなく、スマホでいつも投稿してるのだろうか?
パソコンでやってれば、前回の文章を消せるはずである。
問答に前後のつながりがわかればいいわけで、同じ文章を何度も載せることはない。



[25763] Re:[25757] [25756] [25755] [25754] [25753] [25751] [25745] [25744] [25743] [25738] 既知からの自由7−1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/08/08(Wed) 07:48  

> > > > > > > >  イメージが実際と少しだけ異なるだけなら有用かもしれません。しかし、大きく異なると関係は完全に終わるのではないでしょうか。
> > > > > > > >
> > > > > > > >  この「少しだけ」や「大きく」の判定を誰が行っているのか・・。判定の精度は・・。
> > > > > > > >  幻想人の判定や精度をクリシュナムルティは否定しているのかもしれません。
> > > > > > >
> > > > > > >
> > > > > > > 判定をだれが行っているかが重要であると私は思います。
> > > > > > > また判定することの大小とかなめの事柄があります。
> > > > > > > 具体的に言いますと、例えば夫婦が一緒に暮らせることのポイントはその心根の在り方ではないかと思います。いい意味でお互いにリスペクト出来るような心根がないと一緒には暮らせないでしょう。健康などは長い目で言うと多分偶然でしょうし、あとはなくて七癖でなるようにおさまればいい 。で、心根の判定は付き合ったイメージで決まるのでしょうか? 思考が決めるのでしょうか?
> > > > > > >  そこは真剣であれば直感・理解の領域で決まると思います。このかなめを決める実感・理解の構造が基本にまずしっかりとあることが一つ。日常生活の中に心理的思考が介入することが実際を狂わし、心理的平和を破壊しているのがもう一つの課題です。
> > > > > >
> > > > > >
> > > > > >  日本の現在の離婚率が35パーセント、アメリカの離婚率は50パーセント。
> > > > > >
> > > > > >  >心根の判定は付き合ったイメージで決まるのでしょうか? 思考が決めるのでしょうか?−−、どうも一般ピープルは、思考が決めているように思えます。
> > > > > >  彼らは真剣ではなかったのでしょうか。。
> > > > >
> > > > > 私はその辺が不思議というか全然わかりません。というのは嫉妬や所有欲などを抱えたままでは心は乱れるばかりで、そこを越えなければ先へは全然進めないと思うのです。
> > > > >
> > > > > そう言えば、ピープルは葛藤を抱えたままで平気で暮らすという事になるわけです。ただ日常生活にも芯となる心根の問題(中心)と些細な生活雑事(周辺)の問題があって、そこはすり合わせがどうしても要ります。そこで葛藤が起きます。そこで、断片性、思考が混乱を起こします。育った家の習慣、伝統などが衝突します。そこで心根の持つ静穏な秩序どこかに行ってしまうのです。そうでなく、静かな心根が自分の立ち居振る舞いを見ているという事なのかな。それがないと心根の影が薄くなってしまう。ここがKの教えてくれたことだろうか?
> > > >
> > > >
> > > >  静穏な秩序を持つ「心根」があるということですね。
> > > >
> > > >  おそらく胎児はその「心根」を有しているように思います。
> > > >
> > > >  出産して、虐待を受ける子が居ますが、そのような環境ではその「心根」は影を薄めることでしょう。
> > > >
> > > >  幼児はおおむねその「心根」を有していますが、虐待児はその「心根」の影が薄まってゆくことでしょう。
> > > >
> > > >  そのように、生まれながらには有しているが、時間の経過にともなって影を潜めてゆく「心根」のようなものはあるのかもしれません。
> > > >
> > > >
> > > >  胎児の「心根」があるならば、それは個別性を超えており、人類の胎児の「心根」となるように思います。
> > > >
> > > >  個別性を超えていると言うことは、もしも、その胎児が堕胎されたとしても、その胎児は「なぜ私が死なねばならぬのか・・」と問わないと言うことです。
> > > >
> > > >  出生後、虐待などがない場合は、乳児期まではその「心根」は個別性を超えているように思います。自我を超えている。自我をまだ経験していないが故に。すなわち、クリシュナムルティや釈迦のように悟った存在なのかもしれません。
> > > >
> > > >  そのような「心根」を発見したゴトさんに感謝します。
> > >
> > >
> > > 心根などという言い方を導入して見ましたが、くみ取ってくださって嬉しいです。
> > >
> > > 心根・直感的理解というのは生き物全体に備わって進化してきたと思います。しかし西欧のキリスト教は人は神の似姿として作られ、動物にない理性(人間意識の一部)に神の似姿という地位を与えてしまいました。理性が動物の本能、事実の認知から生じる実感・理解の行動を抑制する形をつくったのでしょうか? 理性に神の似姿という地位を与えるのはキリスト教だけのローカルな現象なのでしょうか。何せ宗教学の知識がないもんだから全体像を見ることもなかなかです。
> >
> >
> >  おおよそ神様とは人の形をしているのではないでしょうか。
> >
> >  キリスト教よりも古い神(シャーマニズムの神や古代神道の神など)は、今の現代人よりも道徳律がゆるくて寛大のように感じます。宮崎県の高千穂神社は1万年前からそこにある旨、当神社の神主が述べていました。そこに伝わる神楽では性描写も舞われています。すなわち、教義らしい教義がないのです。
> >
> >  それに比べてキリスト教は近年に発生しています。何か人為的な意図が込められた神(宗教)のように感じています。
> >
> >  ちなみにクリシュナムルティは、イエスの実在について疑義を呈しています。
> >
> >  キリスト教では、「心根」の存在の余地はありませんね。。
>
>
>
> ところがキリスト教は愛が大きく説かれているようです。理性による行為と愛による行為は何か矛盾するものが混在する感じがします。この愛が心根である気がするのですが…
>  しかし各種の神話や宗教が当時の人間の心の機微を表しているという目で見ると、そのあるがままがしのばれて興味深いですね。


 キリスト教の愛は断片化しているのではないでしょうか。すなちわ、「心根」とは断片化したものであって、クリシュナムルティが述べる「愛」とは根本的に異なるのではないでしょうか。

 つまり、「胎児の意識」はクリシュナムルティの述べる愛に近く、断片化された心根ではなく、すなわち、クリシュナムルティが述べる「愛」はゴトさんが述べるところの「心根」とは異質であることが感じられました。



> さて、明日はしっかりKの7章の2を追いかける気でいます。


[25762] 無題 投稿者:明日を暗示する黄昏 投稿日:2018/08/07(Tue) 16:57  

如是如とはあるがままはあるがままという意味だ。事実をあるがままに見ることこそ悟りなのだ。


[25761] 無題 投稿者:明日を暗示する黄昏 投稿日:2018/08/07(Tue) 16:07  

飯尾さんが覚者にあってもわからない。と述べた時類まれな正直さと勇気を持った覚者その人だったと思う。普通尊敬されたいという欲求が出てくる。わからないことはわからない。これで悟りは合格なんだよ。


[25759] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/08/07(Tue) 15:07  

東京医大の「女性差別」には 、いささか驚いてしまった。能力以前に「女性」というだけで振り落とす。今だ旧体質の保守社会に根強く残る。

人間社会の混乱の元凶は、この「差別意識」にあり。
いじめの元凶もこの差別意識 なり。
差別と区別は違う。
といって、人間皆「同じ」ということではない。
人間「画一的」ではない。
重要なのは「平等」などでなく、互いの「違い」の認識である。
個の尊重。真の「自己」の確立。


[25758] Re:[25752] 既知からの自由7−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/07(Tue) 13:23  

> 7章‐2[葛藤・社会・清貧・ドラッグ・依存]
>
>  人は葛藤を日常の生の生得的な部分として受け入れてきました。なぜなら戦争、嫉妬、貪欲、利欲心、攻撃を自然な生き方として受け入れてきたからです。そのような生き方を受け入れるとき、私達はあるがままの社会の構造を受け入れ、世間体の型の範囲内で生きます。そしてそれが私達の多くが捉えられていることであり、それは私達の多くがひどく世間体を気にするからです。自分自身の心とハートを、考え方、感じ方そして日常生活で自分がいかに行動するかを調べるとき、社会の型に順応する限り生は戦場であるに違いないということが分かります。もしそれを受け入れないならば ― そして宗教的な人はとてもそのような社会を受け入れられません ― その時社会の心理的構造から完全に解放されるでしょう。

 戦場のようにならざるを得ない社会の型を受け容れることのできない人はかなり敏感な人のように思われます。大多数の人は疑問や苦痛を感じながら、生計の立て方を考えると社会から離れるのは怖くてできないのではないか。そこで世間体をつくりながら、ささやかな隠れ家を求めます。
 思い切って離れる人は社会の心理構造から完全に解放されると。

>  私達の多くは社会のもので一杯です。社会が私達の中に作り出したもの、そして私達が自分自身の中に作り出したものは貪欲、羨望、怒り、憎悪、嫉妬、心配です ― そしてこれらのあらゆるもので私達は一杯です。世界中の様々な宗教は清貧を説いてきました。修道士は法衣を身につけ、名を改め、頭を剃り、独房に入り、清貧と純潔の誓いを立てます。東洋では一枚の腰布、一枚の法衣を持ち、一日に一度の食事をとります ― そして私達は皆その様な清貧を尊敬します。しかし清貧の法衣を身につけたこれらの人々はなお内的に、心理的に、社会のもので一杯です。なぜなら彼らはなお地位と名声を求めているからです。彼らはあれこれの教団、あれこれの宗教に属します。彼らはなお文化、伝統の分離の中で生きています。それは清貧ではありません。清貧は社会から完全に自由であることです。少し多くの衣類を持ち、少し多くの食事を取るかも知れないけれど ― これは驚いた、誰か気にします? しかし不幸にも多くの人の中にこの自己顕示癖の衝動があります。

 人々の尊敬する修道者の清貧があります。しかし彼らは地位や名声に執着しているので本当には清貧でありませんと。本当に社会から自由であることが清貧であると。Kの真意はまだ何を述べたいのかわかりません。

>  心が社会から自由であるとき、清貧は素晴らしく美しいものになります。人は内的に貧しくならなければなりません。というのはその時捜すことがなく、求めることがなく、欲望がなく ― 何もありません! 葛藤がまったくない生の真理を見ることが出来るのはこの内部の清貧のみです。そのような生はどんな教会や寺院にも見いだされない祝福です。

内的な清貧が素晴らしいものであることはわかります。しかし葛藤が全くない生の真理とトップダウンで言われると困ってしまいます。


>  では社会の心理的な構造から自分自身を解放することが、それは葛藤の本質から自分自身を解放することですが、どうすれば可能なのでしょうか? 葛藤のある枝を刈り込み、切り落とすことは難しくありません。だが私達は、完全な内部の静穏の中に、それゆえ外部の静穏の中に生きることは可能か?と自分自身に尋ねているのです。それは単調な生活をするとか沈滞するという意味ではありません。それどころか活動的で、生き生きとし、エネルギーがあふれるでしょう。

 Kはここで社会の心理構造から自分を完全に解放すること、それは葛藤の或る枝を切り落とすという事ではなく、葛藤からの本質的解放を言っていることがわかりました。完全な内部の静穏、それゆえ外部の静穏の中に生きることは可能か? これは解放、静穏の中に生きるという実際的行為についての現実の問いです。

>  どんな問題でもそれを理解し、それから自由であるためには情熱的で持続する膨大なエネルギーを必要とします。肉体的なそして知的なエネルギーだけでなく、どんな動機や、心理的刺激やドラッグにも依存しないエネルギーを必要とします。何かの刺激に依存するなら、その依存そのものが心を鈍く、無感覚にします。ある種のドラッグを服用することによって、ものごとを非常に明確に見るための十分なエネルギーを一時的に得るかもしれませんが、以前の状態に戻り、したがってそのドラッグにますます依存するようになります。それゆえ全ての刺激は、教会のであろうと、アルコールやドラッグや書かれた、あるいは話された言葉の刺激であろうと、必然的に依存を引き起こし、その依存は自分自身で明確に見ることを妨げ、従って生き生きとしたエネルギーを持つことを妨げます。

 話しは解放に必要な膨大なエネルギーのことに移りました。しかも動機や薬物や心理的刺激によらないエネルギーです。何かに依存しないエネルギーです。 

>  私達は皆不幸にも心理的に何かに依存しています。なぜ依存するのでしょう? なぜ依存しようという衝動があるのでしょう? 私達は一緒にこの旅をしています。自分の依存の原因を教えられるために私を待っているのではありません。一緒に問うなら共に発見するでしょうし、それゆえその発見は自分自身のものであり、そして、自分のものなので、自分に活力を与えるでしょう。

 依存といいうのは重要な問題のようです。なぜ人は依存するのでしょうか?

>  私は自分自身で自分が何かに依存していることを見いだします ― 聴衆、例えばですが、それは私を刺激するでしょう。私はその聴衆から、多数の人に話しかけることから一種のエネルギーを得ます。そこで私はその聴衆、それらの人々に、その人たちが賛成であろうが反対であろうが、依存します。反対すればするほど、彼らはより多くの活力を私に与えます。もし彼らが賛成するならば、それは非常に浅薄で空虚なものになります。それゆえ自分は聴衆を必要とすることを見いだしました。なぜなら人々に講演するのは非常に刺激になることだからです。さてなぜでしょう? なぜ私は依存するのでしょう? なぜなら自分自身の中で私は浅薄であるから、自分自身の中に何も持っていないから、自分自身の中に常に満ち溢れている源泉を持っていないからです。だから私は依存します。私は原因を見いだしました。

 Kは聴衆からの刺激で活力が得られることを例に挙げ、自分に満ち溢れる源泉がない時依存があると言います。原因を発見したと。

>  しかし原因の発見は依存から私を解放するでしょうか? 原因の発見は知的なものにすぎず、それゆえ明らかに依存から心を解放しません。観念の単なる知的な受容、あるいはイデオロギーの情緒的な黙認は、心をそれに刺激を与える何かへ依存することから解放しません。心を依存から解放するものは、刺激と依存の全体の構造と性質、そしていかにその依存が心を愚かに、鈍く、不活発にするかを見ることです。その全体を見ることのみが心を解放します。

 しかし、原因の発見は解放につながらないことを私たちは知っています。すなわち「分かっちゃいるけどやめられない!」
 >心を依存から解放するものは、刺激と依存の全体の構造と性質、そしていかにその依存が心を愚かに、鈍く、不活発にするかを見ることです。その全体を見ることのみが心を解放します。−−
どうもかなりのエネルギーがないとこれは難しそうですね。

>  そこで全体的に見るという事は、どういう事か調べなければなりません。私が特定の観点から、あるいは大事にしているある特定の経験から、あるいは私が集めたある特定の知識から、それは私の背景であり、「私」ですが、そこから生を見る限り、全体的に見ることはできません。私は知的に、言葉の上で、分析を通じて、自分の依存の原因を見いだしました。しかし思考が模索するものはどんなものでも必然的に断片的であるに違いありません。ですから思考が干渉しない時のみあるものの全体を見ることができます。

 それで全体的に見るという事に話は移ります。私の持つ背景、思考の模索、分析も断片的であって、全体的に見ることができません。思考の干渉がある限り。

>  その時自分の依存という事実を見ます。実際にあるがままのものを見ます。それをどんな好きも嫌いもなしに見ます。それを除こうとかその原因から解放されようとか望みません。私はそれを観察し、この種の観察があるとき、断片ではなく全体像を見、心が全体像を見るとき自由があります。さて、断片化があるときエネルギーの浪費があるということを私は発見しました。エネルギーの浪費のまさにその源を見いだしたのです。

 そこで実際のあるがままのものを何とかしようとしないでただ見ます。正確にはKの言葉をそのまま読んでください。エネルギーの浪費の源は断片化にあるとも。沢山出てきましたね。
>
> (続く)


[25757] Re:[25756] [25755] [25754] [25753] [25751] [25745] [25744] [25743] [25738] 既知からの自由7−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/06(Mon) 23:23  

> > > > > > >  イメージが実際と少しだけ異なるだけなら有用かもしれません。しかし、大きく異なると関係は完全に終わるのではないでしょうか。
> > > > > > >
> > > > > > >  この「少しだけ」や「大きく」の判定を誰が行っているのか・・。判定の精度は・・。
> > > > > > >  幻想人の判定や精度をクリシュナムルティは否定しているのかもしれません。
> > > > > >
> > > > > >
> > > > > > 判定をだれが行っているかが重要であると私は思います。
> > > > > > また判定することの大小とかなめの事柄があります。
> > > > > > 具体的に言いますと、例えば夫婦が一緒に暮らせることのポイントはその心根の在り方ではないかと思います。いい意味でお互いにリスペクト出来るような心根がないと一緒には暮らせないでしょう。健康などは長い目で言うと多分偶然でしょうし、あとはなくて七癖でなるようにおさまればいい 。で、心根の判定は付き合ったイメージで決まるのでしょうか? 思考が決めるのでしょうか?
> > > > > >  そこは真剣であれば直感・理解の領域で決まると思います。このかなめを決める実感・理解の構造が基本にまずしっかりとあることが一つ。日常生活の中に心理的思考が介入することが実際を狂わし、心理的平和を破壊しているのがもう一つの課題です。
> > > > >
> > > > >
> > > > >  日本の現在の離婚率が35パーセント、アメリカの離婚率は50パーセント。
> > > > >
> > > > >  >心根の判定は付き合ったイメージで決まるのでしょうか? 思考が決めるのでしょうか?−−、どうも一般ピープルは、思考が決めているように思えます。
> > > > >  彼らは真剣ではなかったのでしょうか。。
> > > >
> > > > 私はその辺が不思議というか全然わかりません。というのは嫉妬や所有欲などを抱えたままでは心は乱れるばかりで、そこを越えなければ先へは全然進めないと思うのです。
> > > >
> > > > そう言えば、ピープルは葛藤を抱えたままで平気で暮らすという事になるわけです。ただ日常生活にも芯となる心根の問題(中心)と些細な生活雑事(周辺)の問題があって、そこはすり合わせがどうしても要ります。そこで葛藤が起きます。そこで、断片性、思考が混乱を起こします。育った家の習慣、伝統などが衝突します。そこで心根の持つ静穏な秩序どこかに行ってしまうのです。そうでなく、静かな心根が自分の立ち居振る舞いを見ているという事なのかな。それがないと心根の影が薄くなってしまう。ここがKの教えてくれたことだろうか?
> > >
> > >
> > >  静穏な秩序を持つ「心根」があるということですね。
> > >
> > >  おそらく胎児はその「心根」を有しているように思います。
> > >
> > >  出産して、虐待を受ける子が居ますが、そのような環境ではその「心根」は影を薄めることでしょう。
> > >
> > >  幼児はおおむねその「心根」を有していますが、虐待児はその「心根」の影が薄まってゆくことでしょう。
> > >
> > >  そのように、生まれながらには有しているが、時間の経過にともなって影を潜めてゆく「心根」のようなものはあるのかもしれません。
> > >
> > >
> > >  胎児の「心根」があるならば、それは個別性を超えており、人類の胎児の「心根」となるように思います。
> > >
> > >  個別性を超えていると言うことは、もしも、その胎児が堕胎されたとしても、その胎児は「なぜ私が死なねばならぬのか・・」と問わないと言うことです。
> > >
> > >  出生後、虐待などがない場合は、乳児期まではその「心根」は個別性を超えているように思います。自我を超えている。自我をまだ経験していないが故に。すなわち、クリシュナムルティや釈迦のように悟った存在なのかもしれません。
> > >
> > >  そのような「心根」を発見したゴトさんに感謝します。
> >
> >
> > 心根などという言い方を導入して見ましたが、くみ取ってくださって嬉しいです。
> >
> > 心根・直感的理解というのは生き物全体に備わって進化してきたと思います。しかし西欧のキリスト教は人は神の似姿として作られ、動物にない理性(人間意識の一部)に神の似姿という地位を与えてしまいました。理性が動物の本能、事実の認知から生じる実感・理解の行動を抑制する形をつくったのでしょうか? 理性に神の似姿という地位を与えるのはキリスト教だけのローカルな現象なのでしょうか。何せ宗教学の知識がないもんだから全体像を見ることもなかなかです。
>
>
>  おおよそ神様とは人の形をしているのではないでしょうか。
>
>  キリスト教よりも古い神(シャーマニズムの神や古代神道の神など)は、今の現代人よりも道徳律がゆるくて寛大のように感じます。宮崎県の高千穂神社は1万年前からそこにある旨、当神社の神主が述べていました。そこに伝わる神楽では性描写も舞われています。すなわち、教義らしい教義がないのです。
>
>  それに比べてキリスト教は近年に発生しています。何か人為的な意図が込められた神(宗教)のように感じています。
>
>  ちなみにクリシュナムルティは、イエスの実在について疑義を呈しています。
>
>  キリスト教では、「心根」の存在の余地はありませんね。。



ところがキリスト教は愛が大きく説かれているようです。理性による行為と愛による行為は何か矛盾するものが混在する感じがします。この愛が心根である気がするのですが…
 しかし各種の神話や宗教が当時の人間の心の機微を表しているという目で見ると、そのあるがままがしのばれて興味深いですね。

さて、明日はしっかりKの7章の2を追いかける気でいます。


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