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[26408] Re:[26325] 全体的に見ることの難しさ 投稿者:無明 投稿日:2019/01/20(Sun) 08:41  

>  12月KB会を見て思ったことは、全体的に見ることの難しさでした。。
>
>  渡辺さんは、内面を見るときに、例えば、怒りを見るときに、全体的に見ることが起こっていないように思われます。。
>
>  これが、渡辺さんにおいてクリシュナムルティが述べたことが起こらない理由のように思われます。。
>
>  渡辺さんと連絡が取れることがあれば、是非とも伝えたいのですが、今は、その術がありません。

聞き捨てならない一文なので再録しました。
渡辺さんではなく、自分がでしょう。何で人名を出すのか。

これに対し、ゴトさんが、「判断」26326 と称して、賢明なコメントがあった。
人のことより自分だと。

ところが宮啓という男は、又、新しい芽氏に対し、失礼極まりない無礼なコメントを発した。
自分の無理な要求を断わられた腹いせかどうか知らぬが、その相手新しい芽氏に対して、葛藤の中にいるというのは、いやはや何をか言わんや。しかも、最後の質問と称して、新しい芽氏は葛藤が逃れ得たのかと。

ゴトさんが言われるように、不遜な一文。

もしに仮にだ。将来、ゴトさんが、この掲示板を閉じるという時、その内容を譲り受けてくれと申し出るのだろうか?

もし、本気だとしたら、何と厚かましい人間だ。
クリシュナムルティの翻訳は、並大抵な努力ではできない代物である。それを譲り受けてくれとは。

仮に断わられたとする。すると、相手に対し、葛藤の中にいる。
葛藤にまみれている。葛藤から逃れていないというのだろうか。

この心理状態は、自分の要求が、相手に通らないとき、相手に対して悪口を言う。相手を批判する。この心理と全く同じである。

こうした自分の心理状態が見えない人間が、いくらクリシュナムルティの本を読んでもわかるはずがない。自分の中がわからないのにだ。
全て相手のせいにする。これこそ「自我」でしょ。


[26407] ちょいと一言 投稿者:無明 投稿日:2019/01/19(Sat) 19:33  

> > >  そこで、この件につきまして、最後の質問をさせてもらえないでしょうか。。
> > >
> > >  新しい芽さんは、一昨年の秋にそのサイトを閉じましたが、その頃の新しい芽さんとのやりとりで、新しい芽さんは葛藤の中にいるように感じられました。

あなたは人のことを言えたガラなのだろうか?
渡辺さんに対してもだ。
あなたと違い、新しい芽氏や渡辺氏は、とっくに葛藤など捨てられている。
ある意味悟っている。
> > >
> > >  そのサイトを閉じるに際して、その内容を譲り受けることを私は願ったのですが、激しく拒絶された感覚を覚えたのです。

拒絶されて葛藤に陥ったのは、それこそあなたの方だろう。
新しい芽氏に無理難題を押し付け、それを断られたら、相手に対して葛藤に中にいるとは。つまり相手のせいにする。
このときのやりとりをつぶさに見ているのでよくわかる。
そもそも、人が苦労して訳したものを、そっくり譲る受けろとは、どういう魂胆か。
> > >
> > >  そこで、質問は、その当時、新しい芽さんは葛藤を免れ得ていたのでしょうか?

全くの愚問。失礼極まりない。
私は新しい芽氏、渡辺氏をよく知っているだけに、なおさらだ。
> > >
> > >  どうぞよろしくお願いします。

失礼な物言いをして、何がよろしくお願いしますだろう。
> >
> >


以下のコメントはピント外れ。

>  他者の心を推測で確定することはできないですね。。
>
>  私にとっては「不確定」ということなのかもしれません。。

意味不明。
人を批判して、「不確定」だと。
クリシュナムルティに触れるのは、土台無理。
これまでずっと見てきたが、クリシュナムルティの記述に対するコメントは、全くの的外れで何もわかってない。
一体何のために、この掲示板にいるのか。

人を愛することを「自我」と決めつけるとは。
まったく呆れ返った。



[26406] Re:[26405] [26401] [26399] [26398] [26396] [26394] [26391] [26389] [26380] [26379] [26377] [26374] [26372] 家族の愛着 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/19(Sat) 17:29  

> >  そこで、この件につきまして、最後の質問をさせてもらえないでしょうか。。
> >
> >  新しい芽さんは、一昨年の秋にそのサイトを閉じましたが、その頃の新しい芽さんとのやりとりで、新しい芽さんは葛藤の中にいるように感じられました。
> >
> >  そのサイトを閉じるに際して、その内容を譲り受けることを私は願ったのですが、激しく拒絶された感覚を覚えたのです。
> >
> >  そこで、質問は、その当時、新しい芽さんは葛藤を免れ得ていたのでしょうか?
> >
> >  どうぞよろしくお願いします。
>
>
> 新しい芽さんは私のはるか前を進んでいらした方で、その境地は私にはうかがい知れないところのものです。
> さてご質問の件ですが、他人の心などそう簡単にわかtることなのでしょうか? 私はKの初歩の基礎から教わったので、当然葛藤のない境地にいられる方だと思いますが、このように言うことさえ不遜なことである気がします。


 他者の心を推測で確定することはできないですね。。

 私にとっては「不確定」ということなのかもしれません。。


[26405] Re:[26401] [26399] [26398] [26396] [26394] [26391] [26389] [26380] [26379] [26377] [26374] [26372] 家族の愛着 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/19(Sat) 16:47  

>  そこで、この件につきまして、最後の質問をさせてもらえないでしょうか。。
>
>  新しい芽さんは、一昨年の秋にそのサイトを閉じましたが、その頃の新しい芽さんとのやりとりで、新しい芽さんは葛藤の中にいるように感じられました。
>
>  そのサイトを閉じるに際して、その内容を譲り受けることを私は願ったのですが、激しく拒絶された感覚を覚えたのです。
>
>  そこで、質問は、その当時、新しい芽さんは葛藤を免れ得ていたのでしょうか?
>
>  どうぞよろしくお願いします。


新しい芽さんは私のはるか前を進んでいらした方で、その境地は私にはうかがい知れないところのものです。
さてご質問の件ですが、他人の心などそう簡単にわかtることなのでしょうか? 私はKの初歩の基礎から教わったので、当然葛藤のない境地にいられる方だと思いますが、このように言うことさえ不遜なことである気がします。


[26404] Re:[26397] 最初のザーネン講話 4-3 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/19(Sat) 13:26  

> 1961年ザーネン公開講話 4回目の3
>
>  それゆえ、私には、学習はありません。見ることだけがあります。見ることは蓄積的ではありません。それは取り込む過程、あるいは否定する過程ではありません。「あるもの」を見ることは破壊的です。そして破壊のなかに、暴力でなく、平和があります。暴力、革命、変化は、蓄積する、中心を保持する過程の中に存在します。しかしその過程の全体を、自分の全存在で、すっかり、完全に見るとき、そのとき事実、いまあるもの、は完全に破壊的です。そして破壊であることは創造です。
>
>
> ゴト: これは思考・知性で読めるコメントではありません。マインド&ハートで、全存在で読みましょう。


 ここで出てくる「あるもの」とは、最初のザーネン講話4−2で説明されているとおり、「自我」のことですね。


 断崖やハブを見て衝撃を受けるように「自我」を「見る」ことができるか・・。そのときに、「自我」に対して破壊的な行為となる「見る」。

 それが起こったとき、一瞬間でも自我が消える。創造がある。
 あのときの慈悲心がここで述べられている「創造」のことなのかもしれません。。
>
>
>  それで謙遜はすべての蓄積的過程とその反対物を完全に捨ててしまい、瞬時瞬時あるものに気づいているその心の状態です。したがってそれは意見、判断を持ちません。そしてそのような心は自由が何であるか知っています。暴力にとらわれた心は自由を持っていません。そして自由を追求している心は決して自由ではあり得ません。なぜならそれにとって自由はいっそうの蓄積であるからです。
>
>
> ゴト: 謙遜は見ている状態であるのですね。
>
>
 >瞬時瞬時あるものに気づいているその心の状態です。−−、ここの「あるもの」も「自我」のことを指すと思われます。

 瞬時瞬時に「自我」に気づいている。自我の暴力的過程に気づいている。自我による変化の希求と過程は暴力であることを見ている。


>  謙遜は全面的な破壊を意味します。外部の、社会的な物事のではなくて、中心の、自分自身の、自分自身の観念、経験、知識、伝統の完全な破壊−心が知ったあらゆるものを心から完全に空にすること。したがってそのような心はもはや変化の観点から考えていません。それを感じることができるなら、それは本当に素晴らしいものです。ほら、それが瞑想の一部です。


 自我の全構造・全過程を見ると、その構成要素となる>自分自身の観念、経験、知識、伝統−−これが破壊される。>心が知ったあらゆるものを心から完全に空にすること−−



> ゴト: 瞑想の一部、一部ということがわかりません。
>
>
>  そこでまず私たちは変化の過程を徹底的に理解しなければなりません。なぜならそれが私たちの大部分が望んでいることであるからです−変化すること。世界は外部のものごとにおいて非常に速やかに変化しています。ロケットやその他もろもろを発明し、月に行こうとしています。価値が変化しています。コカコーラが世界中に広がりました。昔の文明が崩れつつあります。変化の素早さは変化の事実より大きいです。すべての昔の神々、伝統、救い主、大師−彼等はすべて去りつつあるか去ってしまいました。わずかな人々が自身のまわりに防御の壁を建てて、彼等にしがみついていますが、あらゆるものが去りつつあります。そして心は破壊にかかわっていません。それは創造にかかわっていません。それはさらにいっそうの避難所、新しい隠れ家を常に求め、それ自身を防御することにかかわっているだけです。
>
>
> ゴト: 文明・文化の進化の過程とは変化の過程であり(変容ではない)、人はそれを望んだり、古い消えゆくものに必死でしがみつこうとしています。
>
>
>  そこで謙遜の問題を非常に深くまじめに調べるなら、あなたはこの学習−物事を それらが現実にそうであるように見ることを妨げる言葉のレベルでの学習−の全過程を確かに疑う筈です。もはや変化にかかわっていない心は恐怖を持たず、したがって自由です。そして私たちが話してきたことを理解した心−そのような心が絶対に不可欠であると私には思われます。そのとき、それは、もはやそれ自身をほかの型に変えようとしていません。もはやそれ自身をそれ以上の経験にさらそうとしていません。もはや尋ね、要求していません。なぜならそのような心は自由であるからです。したがってそれは静かであることが、じっとしていることができます。そしてそのとき、たぶん、名のないものが生じることができるでしょう。それゆえ謙遜は不可欠です。しかし人為的な、養成された種類のものでなく。ひとは能力なしに、才能なしにあるのでなければなりませんね。内的に無としてあるのでなければなりません。そして、どうやって無としてあるかを学習することなしに−それはあまりに馬鹿げていて愚かです−、これを見るなら、そのとき見ることはそれを経験することです。そしてそのとき、ことによると、他のものが生じる得るかもしれません。
>
>
> ゴト: ああ、私の望んでいた文明、文化の喝破はすでにクリシュナムルティが行い存在していた。自分の不明があっただけだ。そんな私の訳を通してさえ、Kの述べることの骨子はちゃんと伝わってくる。内的に無であることが唯一、この虚偽のものを破壊するものである。
>
>
>  私たちはこの事を−この事についてだけ、話すことができるでしょうか? わたしたちがどうやって世界を変えるつもりかではなく。あるいは誰か偉大な政治家が次ぎに何をするだろうかではなく。
>
> (続く)
>
> ゴト: こうして参加者との質問・対話に移ります。


[26403] Re:[26393] 最初のザーネン講話4−2 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/19(Sat) 12:48  

> 1961年ザーネンの公開講話 4回目の2
>
>  ひとは何かを学んだかなと思います。ひとは集めました。ひとは多くの経験をしました。多くの出来事があり、それは跡を残し、思い出として貯えられてきました。私は新しい言葉を学ぶことが、天空を探索する新しいやり方を学ぶことができます。しかしそれらはすべて蓄積的な、機械的な過程であり、それを私たちは学習と言います。さて、この学習の機械的過程は中心を残すのではないでしょうか? そしてこの中心は、それは知識を蓄積し、経験し、抵抗し、自由であろうと望み、主張し、受容し、捨てますが、いつも戦いの中に、葛藤の中にあります。そして常に蓄積し、そしてそれ自身を空にしているのはこの中心です。獲得する肯定的な運動と否定する否定的な運動があります。この過程を私たちは学習と呼びます。
>
>
> ゴト: 学ぶ、学習するという事の方法論などではなく、そのことが人間社会に何をもたらしたかという話が始まります。
>
>
>  こう言うことを許していただけるなら、何人かの方は話し手から何かを学ぼうとしているのが確かだと思います。しかしあなたは私から何も学ばないでしょう。なぜなら、観念のように、機械的であるものしか学ぶことができないからです。私たちは観念を取り扱っていません。私たちはほかの何かの記述を取り扱っていません。私たちは事実に、「あるもの」にかかわっているのです。そして、あるものを理解することは機械的過程ではありません。それは集めるために何かを見る過程ではありません。その手段によって中心に付け加えたり、減らしたりできる過程ではないのです。私たちがいつも変化しようとしているのは、何世紀も通じて蓄積され、社会によって、宗教によって、経験によって、教育によって条件づけられたこの中心からなのです。この中心から作動して、私たちは私たちの性質を変えよう、考え方を変えよう、新しい観念の一組を植え付けて古いものを捨てようとします。それでこの中心はより以上のものを得るために、いつもそれ自身を改善しよう、あるいはそれ自身を破壊しようとしています。そしてそれが私たちがいつもしていることです。
>
>
> ゴト: 学習、変化と言ってその実際にしていることは中心、自己、セルフの古いものを捨て新しくするという改良で、根本は中心をさらに強化するという事です。
>
>
>  これをよく聞いてください。この中心が、私たちが自我、自己と呼ぶものです。あるいはあなたがそれに与えたい名前何でもいいのですが。名前は無関係ですが、事実が重要です。それが「あるもの」です。そして変化のこの過程の中に暴力があります。すべての変化は暴力を意味します。そして暴力を通しては新しいものは何もあり得ません。「私は私自身を制御しなければならない。私は私自身を服従させなければならない」と言うとき−それは型への順応ということですが−、それは暴力を意味します。聖者、指導者、教師、予言者−みんな変化と制御を話します。そして明らかに、型に順応するようにそれ自身を訓練する中心の過程は暴力を意味します。そして私たちが非暴力を話すとき、それは同じ事を意味します。
>  それゆえ変化は時間の領域の中での暴力を意味するのではないでしょうか?−「私はこうであり、あれであるように私自身を強制しよう」。「あれ」は距離があります。理想、模範、標準。暴力を平和に変えようとする過程の中に反対物の葛藤全体があるのです。それゆえ、私たちが「私は私自身についてのすべてを学ばなければならない」と言うとき、私たちはなお中心を強めるだけの蓄積的過程に捕われているのです。そこで、ひとは、変化を要求する中心があるところ−その中に暴力が含まれています−、平和は決してあり得ないという事実を見ることが、単に言葉の上だけでなく実際に経験することができるでしょうか。
>
>
> ゴト: これほど明瞭に我々人間の中心の構造とその性格を喝破した声明を初めて聞きました。


 クリシュナムルティは、変化の緊急性を陳述していたが、自我(中心)による変化は暴力であり、平和はありえないと述べている。

 自我がクリシュナムルティ理解への取り組みを行っても、そこに暴力があり平和はありえないということか・・。


 さっさと死ぬことが肝要ということでしょうか。

 もちろん心理的に。



> (続く)


[26402] Re:[26400] 思考の運動の停止 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/19(Sat) 12:25  

> ここに言う思考は実用的思考のことではなく、心理的思考の運動のことです。
>
> この運動はわかりやすく言えば昔からの部族的な生存競争の世界で、それが愛のない、断片化し、恐怖にかられた無秩序混沌の運動であることはわかるのですが、それゆえに止めるわけにはいかないと人はしがみつくのです。
>
> そこからはみ出し、思考の運動をやめてその外側で生きるで一人生きる人、心理的に死んだ人は、「私」が終焉し、断片性が終わり、地球的、宇宙的秩序の中に、全体性に中に生きます。この時生は意味を持ちます。
>
> 宮啓さんに勧められて「生の全体性」を読んだら、大筋そういうことが浮かび出ていました。心理的思考の運動を止めることは部族的心からは難しそうですが、個人が苦痛から逃れ出ようとKの本を読むなら、意外に心理的に死ぬことができるかなと思いました。


 クリシュナムルティ理解への取り組みは、そのような苦痛が原動力となりそうです。。

 昨今の先進諸国では、そのような苦痛が時代と共に少なくなっているように思われます。すぐに娯楽で緩和される。逃避される。娯楽の巨大進化。

 とてつもない価値を、人々は見過ごしてしまうのですね。


[26401] Re:[26399] [26398] [26396] [26394] [26391] [26389] [26380] [26379] [26377] [26374] [26372] 家族の愛着 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/19(Sat) 11:49  

> >  なんとなく腑に落ちないのは、「悲しみの大河(『生の全体性』参照)」が出てこないことです。
> >
> >  人類の悲しみ・苦しみは、上記の「見る」で解消するものなのでしょうか。
> >
> >  私は、もっともっと深いものがあるように思えてならないのです・・。
> >
> >
> >  現代の先進諸国の一般的な葛藤(悲しみ・苦しみ)ならば、上記の「見る」で解消するように思えます。
> >
> >  では、今の後進国(発展途上国)や過去の人類の歴史の上での悲しみ・苦しみ、あるいは、今の先進諸国においても不運な出来事等(病気・事故・事件・災害等)においても、上記の「見る」で解消するとゴトさんは感じているのでしょうか。。
>
>
> 解消というのが物質的な貧困の解消みたいに受け取られていないかが気になります。心理的迷妄が晴れる意味での解消のことを言っていることをまず確認しましょう。
> そのうえで発展途上国での悲しみも川面の表面のさざ波の悲しみであることに注意しましょう。それゆえ上記の「見る」で解消される、心理的思考の問題の範囲内にあります。
>
> そしてそれとは質的に異なる(深い)悲しみがあります。それは感じ取るしかないものですが、人間の根本的無知に対する悲しみのようなものだと受け取っています。それを感じ取るとき慈悲心(=愛)があります。巨大なエネルギーがあります。叡智があります。そして生は聖なるものです。これが私の読解です。
>
>
> >  これに関係して、私は、本能的な愛着(の死)に対して、この点で関心が強いようです。
> >
> >
> >  ゆっくりでよいので、ご返答いただければ幸いです。。
>
>
> あなたは本能的な愛着が最も根本的な迷妄で、これが解消すれば根本的に悲しみが終わるのではないかと言っているように感じます。
>  私はそれに何も言えません。「本能的執着」が私にとってはまだ言葉にすぎません。仏陀が言った渇愛に近い言葉かな。
>
> 見ることはあなたが考えているより深いのではないかと思います。


 ご返答いただき、ありがとうございます。。

 クリシュナムルティは、もっともっと深い悲しみ・苦しみところまで掘り下げて陳述していたのですね。

 分かりました。


 「見る」によって、個体の悲しみ・苦しみが終焉するのであれば、これはとてつもないことですね。。

 人類の歴史上のどの地点においても、「見る」によって救われる。どの個体においても。

 これ以上の価値は無いと思われるほど素晴らしいことです。。

 そこで、この件につきまして、最後の質問をさせてもらえないでしょうか。。

 新しい芽さんは、一昨年の秋にそのサイトを閉じましたが、その頃の新しい芽さんとのやりとりで、新しい芽さんは葛藤の中にいるように感じられました。

 そのサイトを閉じるに際して、その内容を譲り受けることを私は願ったのですが、激しく拒絶された感覚を覚えたのです。

 そこで、質問は、その当時、新しい芽さんは葛藤を免れ得ていたのでしょうか?

 どうぞよろしくお願いします。


[26400] 思考の運動の停止 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/19(Sat) 10:28  

ここに言う思考は実用的思考のことではなく、心理的思考の運動のことです。

この運動はわかりやすく言えば昔からの部族的な生存競争の世界で、それが愛のない、断片化し、恐怖にかられた無秩序混沌の運動であることはわかるのですが、それゆえに止めるわけにはいかないと人はしがみつくのです。

そこからはみ出し、思考の運動をやめてその外側で生きるで一人生きる人、心理的に死んだ人は、「私」が終焉し、断片性が終わり、地球的、宇宙的秩序の中に、全体性の中に生きます。この時生は意味を持ちます。

宮啓さんに勧められて「生の全体性」を読んだら、大筋そういうことが浮かび出ていました。心理的思考の運動を止めることは部族的心からは難しそうですが、個人が苦痛から逃れ出ようとKの本を読むなら、意外に心理的に死ぬことができるかなと思いました。


[26399] Re:[26398] [26396] [26394] [26391] [26389] [26380] [26379] [26377] [26374] [26372] 家族の愛着 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/18(Fri) 19:19  

>  なんとなく腑に落ちないのは、「悲しみの大河(『生の全体性』参照)」が出てこないことです。
>
>  人類の悲しみ・苦しみは、上記の「見る」で解消するものなのでしょうか。
>
>  私は、もっともっと深いものがあるように思えてならないのです・・。
>
>
>  現代の先進諸国の一般的な葛藤(悲しみ・苦しみ)ならば、上記の「見る」で解消するように思えます。
>
>  では、今の後進国(発展途上国)や過去の人類の歴史の上での悲しみ・苦しみ、あるいは、今の先進諸国においても不運な出来事等(病気・事故・事件・災害等)においても、上記の「見る」で解消するとゴトさんは感じているのでしょうか。。


解消というのが物質的な貧困の解消みたいに受け取られていないかが気になります。心理的迷妄が晴れる意味での解消のことを言っていることをまず確認しましょう。
そのうえで発展途上国での悲しみも川面の表面のさざ波の悲しみであることに注意しましょう。それゆえ上記の「見る」で解消される、心理的思考の問題の範囲内にあります。

そしてそれとは質的に異なる(深い)悲しみがあります。それは感じ取るしかないものですが、人間の根本的無知に対する悲しみのようなものだと受け取っています。それを感じ取るとき慈悲心(=愛)があります。巨大なエネルギーがあります。叡智があります。そして生は聖なるものです。これが私の読解です。


>  これに関係して、私は、本能的な愛着(の死)に対して、この点で関心が強いようです。
>
>
>  ゆっくりでよいので、ご返答いただければ幸いです。。


あなたは本能的な愛着が最も根本的な迷妄で、これが解消すれば根本的に悲しみが終わるのではないかと言っているように感じます。
 私はそれに何も言えません。「本能的執着」が私にとってはまだ言葉にすぎません。仏陀が言った渇愛に近い言葉かな。

見ることはあなたが考えているより深いのではないかと思います。


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