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[25756] Re:[25755] [25754] [25753] [25751] [25745] [25744] [25743] [25738] 既知からの自由7−1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/08/06(Mon) 16:41  

> > > > > >  イメージが実際と少しだけ異なるだけなら有用かもしれません。しかし、大きく異なると関係は完全に終わるのではないでしょうか。
> > > > > >
> > > > > >  この「少しだけ」や「大きく」の判定を誰が行っているのか・・。判定の精度は・・。
> > > > > >  幻想人の判定や精度をクリシュナムルティは否定しているのかもしれません。
> > > > >
> > > > >
> > > > > 判定をだれが行っているかが重要であると私は思います。
> > > > > また判定することの大小とかなめの事柄があります。
> > > > > 具体的に言いますと、例えば夫婦が一緒に暮らせることのポイントはその心根の在り方ではないかと思います。いい意味でお互いにリスペクト出来るような心根がないと一緒には暮らせないでしょう。健康などは長い目で言うと多分偶然でしょうし、あとはなくて七癖でなるようにおさまればいい 。で、心根の判定は付き合ったイメージで決まるのでしょうか? 思考が決めるのでしょうか?
> > > > >  そこは真剣であれば直感・理解の領域で決まると思います。このかなめを決める実感・理解の構造が基本にまずしっかりとあることが一つ。日常生活の中に心理的思考が介入することが実際を狂わし、心理的平和を破壊しているのがもう一つの課題です。
> > > >
> > > >
> > > >  日本の現在の離婚率が35パーセント、アメリカの離婚率は50パーセント。
> > > >
> > > >  >心根の判定は付き合ったイメージで決まるのでしょうか? 思考が決めるのでしょうか?−−、どうも一般ピープルは、思考が決めているように思えます。
> > > >  彼らは真剣ではなかったのでしょうか。。
> > >
> > > 私はその辺が不思議というか全然わかりません。というのは嫉妬や所有欲などを抱えたままでは心は乱れるばかりで、そこを越えなければ先へは全然進めないと思うのです。
> > >
> > > そう言えば、ピープルは葛藤を抱えたままで平気で暮らすという事になるわけです。ただ日常生活にも芯となる心根の問題(中心)と些細な生活雑事(周辺)の問題があって、そこはすり合わせがどうしても要ります。そこで葛藤が起きます。そこで、断片性、思考が混乱を起こします。育った家の習慣、伝統などが衝突します。そこで心根の持つ静穏な秩序どこかに行ってしまうのです。そうでなく、静かな心根が自分の立ち居振る舞いを見ているという事なのかな。それがないと心根の影が薄くなってしまう。ここがKの教えてくれたことだろうか?
> >
> >
> >  静穏な秩序を持つ「心根」があるということですね。
> >
> >  おそらく胎児はその「心根」を有しているように思います。
> >
> >  出産して、虐待を受ける子が居ますが、そのような環境ではその「心根」は影を薄めることでしょう。
> >
> >  幼児はおおむねその「心根」を有していますが、虐待児はその「心根」の影が薄まってゆくことでしょう。
> >
> >  そのように、生まれながらには有しているが、時間の経過にともなって影を潜めてゆく「心根」のようなものはあるのかもしれません。
> >
> >
> >  胎児の「心根」があるならば、それは個別性を超えており、人類の胎児の「心根」となるように思います。
> >
> >  個別性を超えていると言うことは、もしも、その胎児が堕胎されたとしても、その胎児は「なぜ私が死なねばならぬのか・・」と問わないと言うことです。
> >
> >  出生後、虐待などがない場合は、乳児期まではその「心根」は個別性を超えているように思います。自我を超えている。自我をまだ経験していないが故に。すなわち、クリシュナムルティや釈迦のように悟った存在なのかもしれません。
> >
> >  そのような「心根」を発見したゴトさんに感謝します。
>
>
> 心根などという言い方を導入して見ましたが、くみ取ってくださって嬉しいです。
>
> 心根・直感的理解というのは生き物全体に備わって進化してきたと思います。しかし西欧のキリスト教は人は神の似姿として作られ、動物にない理性(人間意識の一部)に神の似姿という地位を与えてしまいました。理性が動物の本能、事実の認知から生じる実感・理解の行動を抑制する形をつくったのでしょうか? 理性に神の似姿という地位を与えるのはキリスト教だけのローカルな現象なのでしょうか。何せ宗教学の知識がないもんだから全体像を見ることもなかなかです。


 おおよそ神様とは人の形をしているのではないでしょうか。

 キリスト教よりも古い神(シャーマニズムの神や古代神道の神など)は、今の現代人よりも道徳律がゆるくて寛大のように感じます。宮崎県の高千穂神社は1万年前からそこにある旨、当神社の神主が述べていました。そこに伝わる神楽では性描写も舞われています。すなわち、教義らしい教義がないのです。

 それに比べてキリスト教は近年に発生しています。何か人為的な意図が込められた神(宗教)のように感じています。

 ちなみにクリシュナムルティは、イエスの実在について疑義を呈しています。

 キリスト教では、「心根」の存在の余地はありませんね。。


[25755] Re:[25754] [25753] [25751] [25745] [25744] [25743] [25738] 既知からの自由7−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/06(Mon) 11:39  

> > > > >  イメージが実際と少しだけ異なるだけなら有用かもしれません。しかし、大きく異なると関係は完全に終わるのではないでしょうか。
> > > > >
> > > > >  この「少しだけ」や「大きく」の判定を誰が行っているのか・・。判定の精度は・・。
> > > > >  幻想人の判定や精度をクリシュナムルティは否定しているのかもしれません。
> > > >
> > > >
> > > > 判定をだれが行っているかが重要であると私は思います。
> > > > また判定することの大小とかなめの事柄があります。
> > > > 具体的に言いますと、例えば夫婦が一緒に暮らせることのポイントはその心根の在り方ではないかと思います。いい意味でお互いにリスペクト出来るような心根がないと一緒には暮らせないでしょう。健康などは長い目で言うと多分偶然でしょうし、あとはなくて七癖でなるようにおさまればいい 。で、心根の判定は付き合ったイメージで決まるのでしょうか? 思考が決めるのでしょうか?
> > > >  そこは真剣であれば直感・理解の領域で決まると思います。このかなめを決める実感・理解の構造が基本にまずしっかりとあることが一つ。日常生活の中に心理的思考が介入することが実際を狂わし、心理的平和を破壊しているのがもう一つの課題です。
> > >
> > >
> > >  日本の現在の離婚率が35パーセント、アメリカの離婚率は50パーセント。
> > >
> > >  >心根の判定は付き合ったイメージで決まるのでしょうか? 思考が決めるのでしょうか?−−、どうも一般ピープルは、思考が決めているように思えます。
> > >  彼らは真剣ではなかったのでしょうか。。
> >
> > 私はその辺が不思議というか全然わかりません。というのは嫉妬や所有欲などを抱えたままでは心は乱れるばかりで、そこを越えなければ先へは全然進めないと思うのです。
> >
> > そう言えば、ピープルは葛藤を抱えたままで平気で暮らすという事になるわけです。ただ日常生活にも芯となる心根の問題(中心)と些細な生活雑事(周辺)の問題があって、そこはすり合わせがどうしても要ります。そこで葛藤が起きます。そこで、断片性、思考が混乱を起こします。育った家の習慣、伝統などが衝突します。そこで心根の持つ静穏な秩序どこかに行ってしまうのです。そうでなく、静かな心根が自分の立ち居振る舞いを見ているという事なのかな。それがないと心根の影が薄くなってしまう。ここがKの教えてくれたことだろうか?
>
>
>  静穏な秩序を持つ「心根」があるということですね。
>
>  おそらく胎児はその「心根」を有しているように思います。
>
>  出産して、虐待を受ける子が居ますが、そのような環境ではその「心根」は影を薄めることでしょう。
>
>  幼児はおおむねその「心根」を有していますが、虐待児はその「心根」の影が薄まってゆくことでしょう。
>
>  そのように、生まれながらには有しているが、時間の経過にともなって影を潜めてゆく「心根」のようなものはあるのかもしれません。
>
>
>  胎児の「心根」があるならば、それは個別性を超えており、人類の胎児の「心根」となるように思います。
>
>  個別性を超えていると言うことは、もしも、その胎児が堕胎されたとしても、その胎児は「なぜ私が死なねばならぬのか・・」と問わないと言うことです。
>
>  出生後、虐待などがない場合は、乳児期まではその「心根」は個別性を超えているように思います。自我を超えている。自我をまだ経験していないが故に。すなわち、クリシュナムルティや釈迦のように悟った存在なのかもしれません。
>
>  そのような「心根」を発見したゴトさんに感謝します。


心根などという言い方を導入して見ましたが、くみ取ってくださって嬉しいです。

心根・直感的理解というのは生き物全体に備わって進化してきたと思います。しかし西欧のキリスト教は人は神の似姿として作られ、動物にない理性(人間意識の一部)に神の似姿という地位を与えてしまいました。理性が動物の本能、事実の認知から生じる実感・理解の行動を抑制する形をつくったのでしょうか? 理性に神の似姿という地位を与えるのはキリスト教だけのローカルな現象なのでしょうか。何せ宗教学の知識がないもんだから全体像を見ることもなかなかです。


[25754] Re:[25753] [25751] [25745] [25744] [25743] [25738] 既知からの自由7−1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/08/06(Mon) 09:05  

> > > >  イメージが実際と少しだけ異なるだけなら有用かもしれません。しかし、大きく異なると関係は完全に終わるのではないでしょうか。
> > > >
> > > >  この「少しだけ」や「大きく」の判定を誰が行っているのか・・。判定の精度は・・。
> > > >  幻想人の判定や精度をクリシュナムルティは否定しているのかもしれません。
> > >
> > >
> > > 判定をだれが行っているかが重要であると私は思います。
> > > また判定することの大小とかなめの事柄があります。
> > > 具体的に言いますと、例えば夫婦が一緒に暮らせることのポイントはその心根の在り方ではないかと思います。いい意味でお互いにリスペクト出来るような心根がないと一緒には暮らせないでしょう。健康などは長い目で言うと多分偶然でしょうし、あとはなくて七癖でなるようにおさまればいい 。で、心根の判定は付き合ったイメージで決まるのでしょうか? 思考が決めるのでしょうか?
> > >  そこは真剣であれば直感・理解の領域で決まると思います。このかなめを決める実感・理解の構造が基本にまずしっかりとあることが一つ。日常生活の中に心理的思考が介入することが実際を狂わし、心理的平和を破壊しているのがもう一つの課題です。
> >
> >
> >  日本の現在の離婚率が35パーセント、アメリカの離婚率は50パーセント。
> >
> >  >心根の判定は付き合ったイメージで決まるのでしょうか? 思考が決めるのでしょうか?−−、どうも一般ピープルは、思考が決めているように思えます。
> >  彼らは真剣ではなかったのでしょうか。。
>
> 私はその辺が不思議というか全然わかりません。というのは嫉妬や所有欲などを抱えたままでは心は乱れるばかりで、そこを越えなければ先へは全然進めないと思うのです。
>
> そう言えば、ピープルは葛藤を抱えたままで平気で暮らすという事になるわけです。ただ日常生活にも芯となる心根の問題(中心)と些細な生活雑事(周辺)の問題があって、そこはすり合わせがどうしても要ります。そこで葛藤が起きます。そこで、断片性、思考が混乱を起こします。育った家の習慣、伝統などが衝突します。そこで心根の持つ静穏な秩序どこかに行ってしまうのです。そうでなく、静かな心根が自分の立ち居振る舞いを見ているという事なのかな。それがないと心根の影が薄くなってしまう。ここがKの教えてくれたことだろうか?


 静穏な秩序を持つ「心根」があるということですね。

 おそらく胎児はその「心根」を有しているように思います。

 出産して、虐待を受ける子が居ますが、そのような環境ではその「心根」は影を薄めることでしょう。

 幼児はおおむねその「心根」を有していますが、虐待児はその「心根」の影が薄まってゆくことでしょう。

 そのように、生まれながらには有しているが、時間の経過にともなって影を潜めてゆく「心根」のようなものはあるのかもしれません。


 胎児の「心根」があるならば、それは個別性を超えており、人類の胎児の「心根」となるように思います。

 個別性を超えていると言うことは、もしも、その胎児が堕胎されたとしても、その胎児は「なぜ私が死なねばならぬのか・・」と問わないと言うことです。

 出生後、虐待などがない場合は、乳児期まではその「心根」は個別性を超えているように思います。自我を超えている。自我をまだ経験していないが故に。すなわち、クリシュナムルティや釈迦のように悟った存在なのかもしれません。

 そのような「心根」を発見したゴトさんに感謝します。


[25753] Re:[25751] [25745] [25744] [25743] [25738] 既知からの自由7−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/05(Sun) 23:26  

> > >  イメージが実際と少しだけ異なるだけなら有用かもしれません。しかし、大きく異なると関係は完全に終わるのではないでしょうか。
> > >
> > >  この「少しだけ」や「大きく」の判定を誰が行っているのか・・。判定の精度は・・。
> > >  幻想人の判定や精度をクリシュナムルティは否定しているのかもしれません。
> >
> >
> > 判定をだれが行っているかが重要であると私は思います。
> > また判定することの大小とかなめの事柄があります。
> > 具体的に言いますと、例えば夫婦が一緒に暮らせることのポイントはその心根の在り方ではないかと思います。いい意味でお互いにリスペクト出来るような心根がないと一緒には暮らせないでしょう。健康などは長い目で言うと多分偶然でしょうし、あとはなくて七癖でなるようにおさまればいい 。で、心根の判定は付き合ったイメージで決まるのでしょうか? 思考が決めるのでしょうか?
> >  そこは真剣であれば直感・理解の領域で決まると思います。このかなめを決める実感・理解の構造が基本にまずしっかりとあることが一つ。日常生活の中に心理的思考が介入することが実際を狂わし、心理的平和を破壊しているのがもう一つの課題です。
>
>
>  日本の現在の離婚率が35パーセント、アメリカの離婚率は50パーセント。
>
>  >心根の判定は付き合ったイメージで決まるのでしょうか? 思考が決めるのでしょうか?−−、どうも一般ピープルは、思考が決めているように思えます。
>  彼らは真剣ではなかったのでしょうか。。

私はその辺が不思議というか全然わかりません。というのは嫉妬や所有欲などを抱えたままでは心は乱れるばかりで、そこを越えなければ先へは全然進めないと思うのです。

そう言えば、ピープルは葛藤を抱えたままで平気で暮らすという事になるわけです。ただ日常生活にも芯となる心根の問題(中心)と些細な生活雑事(周辺)の問題があって、そこはすり合わせがどうしても要ります。そこで葛藤が起きます。そこで、断片性、思考が混乱を起こします。育った家の習慣、伝統などが衝突します。そこで心根の持つ静穏な秩序どこかに行ってしまうのです。そうでなく、静かな心根が自分の立ち居振る舞いを見ているという事なのかな。それがないと心根の影が薄くなってしまう。ここがKの教えてくれたことだろうか?


>  (途中省略)
>
>
> > > > 私たちの生が葛藤、苦闘に満ちたものであるという事はわかります。それでも静穏の中で葛藤なく暮らすことはできないのかと問う事を言っているのでしょうか?
> > > > これが第7章のテーマでしょうか?
> > >
> > >
> > >  幻想人の判定と精度の良し悪しは、幻想人から見ると、現実生活に耐えうるものだと思われている。
> > >  しかし、クリシュナムルティは、現実生活において、平均寿命まで生きることには耐えうるが、>暴力の消滅は、それをたった今考えてきたのですが、必ずしもそれ自体平和であり、従ってその関係全てにおいて平和な心を意味しないようです。−−、これを解消することはできないのではないか・・と述べているのではないでしょうか。。
> >
> >
> > はい。そうでしょう。完全な静穏は現実に生まれるでしょうか? 先をじっくり読みましょう。
>
>
>  はい。
>
> > > > > (続く)


[25752] 既知からの自由7−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/05(Sun) 20:21  

7章‐2[葛藤・社会・清貧・ドラッグ・依存]

 人は葛藤を日常の生の生得的な部分として受け入れてきました。なぜなら戦争、嫉妬、貪欲、利欲心、攻撃を自然な生き方として受け入れてきたからです。そのような生き方を受け入れるとき、私達はあるがままの社会の構造を受け入れ、世間体の型の範囲内で生きます。そしてそれが私達の多くが捉えられていることであり、それは私達の多くがひどく世間体を気にするからです。自分自身の心とハートを、考え方、感じ方そして日常生活で自分がいかに行動するかを調べるとき、社会の型に順応する限り生は戦場であるに違いないということが分かります。もしそれを受け入れないならば ― そして宗教的な人はとてもそのような社会を受け入れられません ― その時社会の心理的構造から完全に解放されるでしょう。

 私達の多くは社会のもので一杯です。社会が私達の中に作り出したもの、そして私達が自分自身の中に作り出したものは貪欲、羨望、怒り、憎悪、嫉妬、心配です ― そしてこれらのあらゆるもので私達は一杯です。世界中の様々な宗教は清貧を説いてきました。修道士は法衣を身につけ、名を改め、頭を剃り、独房に入り、清貧と純潔の誓いを立てます。東洋では一枚の腰布、一枚の法衣を持ち、一日に一度の食事をとります ― そして私達は皆その様な清貧を尊敬します。しかし清貧の法衣を身につけたこれらの人々はなお内的に、心理的に、社会のもので一杯です。なぜなら彼らはなお地位と名声を求めているからです。彼らはあれこれの教団、あれこれの宗教に属します。彼らはなお文化、伝統の分離の中で生きています。それは清貧ではありません。清貧は社会から完全に自由であることです。少し多くの衣類を持ち、少し多くの食事を取るかも知れないけれど ― これは驚いた、誰か気にします? しかし不幸にも多くの人の中にこの自己顕示癖の衝動があります。

 心が社会から自由であるとき、清貧は素晴らしく美しいものになります。人は内的に貧しくならなければなりません。というのはその時捜すことがなく、求めることがなく、欲望がなく ― 何もありません! 葛藤がまったくない生の真理を見ることが出来るのはこの内部の清貧のみです。そのような生はどんな教会や寺院にも見いだされない祝福です。


 では社会の心理的な構造から自分自身を解放することが、それは葛藤の本質から自分自身を解放することですが、どうすれば可能なのでしょうか? 葛藤のある枝を刈り込み、切り落とすことは難しくありません。だが私達は、完全な内部の静穏の中に、それゆえ外部の静穏の中に生きることは可能か?と自分自身に尋ねているのです。それは単調な生活をするとか沈滞するという意味ではありません。それどころか活動的で、生き生きとし、エネルギーがあふれるでしょう。

 どんな問題でもそれを理解し、それから自由であるためには情熱的で持続する膨大なエネルギーを必要とします。肉体的なそして知的なエネルギーだけでなく、どんな動機や、心理的刺激やドラッグにも依存しないエネルギーを必要とします。何かの刺激に依存するなら、その依存そのものが心を鈍く、無感覚にします。ある種のドラッグを服用することによって、ものごとを非常に明確に見るための十分なエネルギーを一時的に得るかもしれませんが、以前の状態に戻り、したがってそのドラッグにますます依存するようになります。それゆえ全ての刺激は、教会のであろうと、アルコールやドラッグや書かれた、あるいは話された言葉の刺激であろうと、必然的に依存を引き起こし、その依存は自分自身で明確に見ることを妨げ、従って生き生きとしたエネルギーを持つことを妨げます。

 私達は皆不幸にも心理的に何かに依存しています。なぜ依存するのでしょう? なぜ依存しようという衝動があるのでしょう? 私達は一緒にこの旅をしています。自分の依存の原因を教えられるために私を待っているのではありません。一緒に問うなら共に発見するでしょうし、それゆえその発見は自分自身のものであり、そして、自分のものなので、自分に活力を与えるでしょう。

 私は自分自身で自分が何かに依存していることを見いだします ― 聴衆、例えばですが、それは私を刺激するでしょう。私はその聴衆から、多数の人に話しかけることから一種のエネルギーを得ます。そこで私はその聴衆、それらの人々に、その人たちが賛成であろうが反対であろうが、依存します。反対すればするほど、彼らはより多くの活力を私に与えます。もし彼らが賛成するならば、それは非常に浅薄で空虚なものになります。それゆえ自分は聴衆を必要とすることを見いだしました。なぜなら人々に講演するのは非常に刺激になることだからです。さてなぜでしょう? なぜ私は依存するのでしょう? なぜなら自分自身の中で私は浅薄であるから、自分自身の中に何も持っていないから、自分自身の中に常に満ち溢れている源泉を持っていないからです。だから私は依存します。私は原因を見いだしました。

 しかし原因の発見は依存から私を解放するでしょうか? 原因の発見は知的なものにすぎず、それゆえ明らかに依存から心を解放しません。観念の単なる知的な受容、あるいはイデオロギーの情緒的な黙認は、心をそれに刺激を与える何かへ依存することから解放しません。心を依存から解放するものは、刺激と依存の全体の構造と性質、そしていかにその依存が心を愚かに、鈍く、不活発にするかを見ることです。その全体を見ることのみが心を解放します。

 そこで全体的に見るという事は、どういう事か調べなければなりません。私が特定の観点から、あるいは大事にしているある特定の経験から、あるいは私が集めたある特定の知識から、それは私の背景であり、「私」ですが、そこから生を見る限り、全体的に見ることはできません。私は知的に、言葉の上で、分析を通じて、自分の依存の原因を見いだしました。しかし思考が模索するものはどんなものでも必然的に断片的であるに違いありません。ですから思考が干渉しない時のみあるものの全体を見ることができます。

 その時自分の依存という事実を見ます。実際にあるがままのものを見ます。それをどんな好きも嫌いもなしに見ます。それを除こうとかその原因から解放されようとか望みません。私はそれを観察し、この種の観察があるとき、断片ではなく全体像を見、心が全体像を見るとき自由があります。さて、断片化があるときエネルギーの浪費があるということを私は発見しました。エネルギーの浪費のまさにその源を見いだしたのです。

(続く)


[25751] Re:[25745] [25744] [25743] [25738] 既知からの自由7−1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/08/05(Sun) 18:29  

> >  イメージが実際と少しだけ異なるだけなら有用かもしれません。しかし、大きく異なると関係は完全に終わるのではないでしょうか。
> >
> >  この「少しだけ」や「大きく」の判定を誰が行っているのか・・。判定の精度は・・。
> >  幻想人の判定や精度をクリシュナムルティは否定しているのかもしれません。
>
>
> 判定をだれが行っているかが重要であると私は思います。
> また判定することの大小とかなめの事柄があります。
> 具体的に言いますと、例えば夫婦が一緒に暮らせることのポイントはその心根の在り方ではないかと思います。いい意味でお互いにリスペクト出来るような心根がないと一緒には暮らせないでしょう。健康などは長い目で言うと多分偶然でしょうし、あとはなくて七癖でなるようにおさまればいい 。で、心根の判定は付き合ったイメージで決まるのでしょうか? 思考が決めるのでしょうか?
>  そこは真剣であれば直感・理解の領域で決まると思います。このかなめを決める実感・理解の構造が基本にまずしっかりとあることが一つ。日常生活の中に心理的思考が介入することが実際を狂わし、心理的平和を破壊しているのがもう一つの課題です。


 日本の現在の離婚率が35パーセント、アメリカの離婚率は50パーセント。

 >心根の判定は付き合ったイメージで決まるのでしょうか? 思考が決めるのでしょうか?−−、どうも一般ピープルは、思考が決めているように思えます。
 彼らは真剣ではなかったのでしょうか。。


 (途中省略)


> > > 私たちの生が葛藤、苦闘に満ちたものであるという事はわかります。それでも静穏の中で葛藤なく暮らすことはできないのかと問う事を言っているのでしょうか?
> > > これが第7章のテーマでしょうか?
> >
> >
> >  幻想人の判定と精度の良し悪しは、幻想人から見ると、現実生活に耐えうるものだと思われている。
> >  しかし、クリシュナムルティは、現実生活において、平均寿命まで生きることには耐えうるが、>暴力の消滅は、それをたった今考えてきたのですが、必ずしもそれ自体平和であり、従ってその関係全てにおいて平和な心を意味しないようです。−−、これを解消することはできないのではないか・・と述べているのではないでしょうか。。
>
>
> はい。そうでしょう。完全な静穏は現実に生まれるでしょうか? 先をじっくり読みましょう。


 はい。

> > > > (続く)


[25750] 無駄と必要 投稿者:南方 投稿日:2018/08/05(Sun) 17:09  

考えて無駄なことと必要なこととあるが、
その基準は何だろうか?

自分の場合、精神が自動的にそれを行っているが言葉にはできないので宜しく皆さんで考えて貰いたいです。


[25749] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/08/04(Sat) 19:01  

これこそクリシュナムルティ、がこの4、50年絶えず言いつづけてきたことだ。「従うな。人は誰にも従わずして到達することができる」――だが、その道は険しくかつ非常に長い。なぜなら、あなたに与えることのできる助けを受け容れる用意が、あなたの側にできていないからだ。――たしかにそれは可能だ、それは道の途上にある多くの不必要な困難を切ることができる。これがクリシュナムルテイのずっと言ってきていること――だが誰もやり遂げた人はいない。


どの世界でも、教える人、教えられる人の関係はある。指導者、先生、導師と言った方々が、生徒に「道しるべ」を指し示す。インドでは伝統的な「グル」というもにがある。グルと生徒。
日本でも、伝統芸の世界で、師匠と弟子というものがある。
ラジ二ーシは、グルの達人、教えの達人。クリシュナムルティは、そういった伝統的アプローチを否定した。Kのいうのは極論。
それ無くして道は到達できない。
はじめは、師につき、ある時、師を離れぞ独自の道へ。それが王道、本筋。
>


[25748] Re:[25746] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/08/04(Sat) 18:39  

> 世界から悪は消せない。できるのは自分がそれに影響されないことだ。

「悪そのもの」というのは、存在しないが、「悪」という形は存在する。
宇宙意識の顕現である我々は、ただひたすらに「善行」を行うのみ。
水道から出る雫は水面に落ちると同心円のように広がるように、愛には限界はない。愛はますます深まりゆくのみ。


[25747] 真理の理解 投稿者:無明 投稿日:2018/08/04(Sat) 18:32  

夫婦揃って、クリシュナムルティを読み、互いに研鑽に励むという人たちを今まで見たことがない。夫だけ。妻だけ。というのがほとんど。片方だけが密かにクリシュナムルティを読む。心の中はK の本を相手に読んでほしいという願望がある。二人で学んだらどんな素晴らしいことだと夢を見る。しかしあきらめるのが現実。自分をも理解できないものが、何で人に?

はて、人の幸福とはなんだろう。本を読ませることか。
クリシュナムルティ理解とは、Kの記述を理解することか?
それでは100年経っても訪れぬ。
理解するのは「真理」である。


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