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[26131] ハート 投稿者:南方 投稿日:2018/10/26(Fri) 06:28  

どなたの訳のどの本のどの箇所かは忘れましたが
確かKもハートについて言及していたはず。


あと「幻」という言葉は自分の体験を吟味する場合は適切な言葉使いですが、自分から見た他人の体験を吟味する場合適切ではないと思います。



[26130] Re:[26129] [26124] 既知からの自由15−1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/10/25(Thu) 21:56  

> > 15章−1 [経験]
> >
> > 私達はみなある種の経験 ― 神秘的経験、宗教的経験、性的な経験、多くの金、力、地位、支配力を持つという経験を望んでいます。歳をとるにつれて肉体的な欲望と手を切るかもしれませんが、より広く、深く、より意義深い経験を要求し、そしてそれを得るために様々な手段を試みます ― 例えば、意識の拡張や、それはかなりの技術です、あるいは種々のドラッグを用いるとか。これは太古から存在した古い手口です ― 脳細胞の組織に一時的な変化をもたらし、真の実在の見せかけを与える一層の感受性と高められた知覚を引き起こすため、一枚の葉をかんだり、最新の薬を試してみたりします。このより一層の経験への要求は人間の内面の貧困を示します。私達は経験を通して自分自身から逃れることができると考えますが、これらの経験はあるがままの私達によって条件付けられているのです。心が貧弱で、嫉妬深く、不安なら、最新型の薬を用いようが心はなおそれ自体のつくった小さなもの、それ自体の条件づけられた背景からのそれ自体の小さな投影を見るだけでしょう。
>
>
> この章全体で、Kが何を述べようとしているかはまだ分からないが、とにかく私たちが経験を求めていること、そして最新型のドラッグを用いようが私たちの背景(条件付け)からの投影をつくるにすぎないと言っています。


 私たちが変われないのはなぜか?
 渡辺さんに、クリシュナムルティが述べたことが起こらないのはなぜか?
 そのことについても述べられているように思います。



> >  たいてい私達は、思考によって壊されない、完全に満足できる永続的な経験を要求します。それゆえこの経験への要求の背後には満足を求める欲望があり、そして満足を求める要求は経験を指図します。従って私達は満足についての一切の事柄だけでなく、経験された物事についてもまた理解しなければなりません。ある大きな満足を得ることは大きな快楽です。経験がより永続し、深く広いほど、ますます楽しく、そこで快楽は私達の要求する満足の形を指令します。快楽は私達が経験を測る尺度なのです。測ることのできるものは何であれ思考の限界内にあり、幻想をつくり勝ちです。驚くべき経験をすることが出来ますがしかしなお完全にだまされやすいのです。あなたは不可避的に自分の条件付けにしたがって幻影を見るでしょう。キリストや仏陀やあなたがたまたま信じる誰かを見るでしょうし、あなたが偉大な信者であればあるほどあなたの幻影、自分自身の要求と衝動の投影はより強いでしょう。


> 強い信仰の与える経験が実は幻影であるとKは指摘する。


 クリシュナムルティが述べたことが起こった!!と思っても、それが>自分自身の要求と衝動の投影−−かもしれない。

 千日回峰行等で、神仏を見る・感じることがあるとのこと。これらは>自分自身の要求と衝動の投影−−の可能性がある。

 よって、これらの投影に惑わされない科学的な目が大切となるようだ。。



> >  従って何が真実かというような根本的なにかを求める際に、もし快楽が尺度なら、あなたは既に経験が何であるかを投影してしまっており、それゆえそれはもはや確かなものではありません。
>
>
> 我々は快楽を尺度にすべてを実は測っていないか?


 「真実」は「快楽」であると思われがちである。



> >  経験とはどういう意味でしょうか? 経験の中に何か新しいもの、あるいは初めてのものがあるでしょうか? 経験は挑戦に反応している記憶の束であり、自分の背景にしたがってのみ反応することができます。そして経験を解釈するに際してあなたが利口であればあるほど、経験はより一層反応します。それゆえ他人の経験だけでなく自分自身の経験を問わなければなりません。経験を認知しないならそれは全く経験ではありません。あらゆる経験はすでに経験されたものであり、さもなければそれを認識したりしないでしょう。あなたは自分の条件付けに従って、経験を良い、悪い、美しい、神聖などと認識しており、従って経験の認識は必ず古いに違いありません。
>
>
> 経験は認識するゆえ、全て古いもの・・・。


 まず、経験者が存在する場合、それは自我であり、経験者は思考の産物、過去の産物である。よって経験者を通しての経験は過去の産物、思考の産物となるようだ。。



> >  私達が真の実在の経験を要求するとき ― 私達皆がする様に、しませんか? ― それを経験するためにはそれを知らねばならず、それを認識する瞬間既に私達はそれを投影してしまっており、従ってそれは実在ではありません。なぜならそれはなお思考と時間の領域内にあるからです。思考が真の実在について考えることができるなら、それは真の実在ではあり得ません。私達は新しい経験を認識できません。それは不可能です。私達は既に知ったものだけを認識するのであり、従って新しい体験をしたというときそれは全く新しくはありません。種々の幻覚剤によって行われている様に、意識の拡張によってより一層の経験を求めることは、なお意識の領域内にあり、それゆえ非常に限られています。
> >
> >  そこで私達は根本的真理を見出しました。それはより広い、より深い経験を求め切望している心は、常にその記憶と共に生きているので、非常に狭い鈍い心であるということです。


 それゆえに、変われない。クリシュナムルティが述べたことが起こらない。



> > (続く)


[26129] Re:[26124] 既知からの自由15−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/25(Thu) 17:39  

> 15章−1 [経験]
>
> 私達はみなある種の経験 ― 神秘的経験、宗教的経験、性的な経験、多くの金、力、地位、支配力を持つという経験を望んでいます。歳をとるにつれて肉体的な欲望と手を切るかもしれませんが、より広く、深く、より意義深い経験を要求し、そしてそれを得るために様々な手段を試みます ― 例えば、意識の拡張や、それはかなりの技術です、あるいは種々のドラッグを用いるとか。これは太古から存在した古い手口です ― 脳細胞の組織に一時的な変化をもたらし、真の実在の見せかけを与える一層の感受性と高められた知覚を引き起こすため、一枚の葉をかんだり、最新の薬を試してみたりします。このより一層の経験への要求は人間の内面の貧困を示します。私達は経験を通して自分自身から逃れることができると考えますが、これらの経験はあるがままの私達によって条件付けられているのです。心が貧弱で、嫉妬深く、不安なら、最新型の薬を用いようが心はなおそれ自体のつくった小さなもの、それ自体の条件づけられた背景からのそれ自体の小さな投影を見るだけでしょう。


この章全体で、Kが何を述べようとしているかはまだ分からないが、とにかく私たちが経験を求めていること、そして最新型のドラッグを用いようが私たちの背景(条件付け)からの投影をつくるにすぎないと言っています。


>  たいてい私達は、思考によって壊されない、完全に満足できる永続的な経験を要求します。それゆえこの経験への要求の背後には満足を求める欲望があり、そして満足を求める要求は経験を指図します。従って私達は満足についての一切の事柄だけでなく、経験された物事についてもまた理解しなければなりません。ある大きな満足を得ることは大きな快楽です。経験がより永続し、深く広いほど、ますます楽しく、そこで快楽は私達の要求する満足の形を指令します。快楽は私達が経験を測る尺度なのです。測ることのできるものは何であれ思考の限界内にあり、幻想をつくり勝ちです。驚くべき経験をすることが出来ますがしかしなお完全にだまされやすいのです。あなたは不可避的に自分の条件付けにしたがって幻影を見るでしょう。キリストや仏陀やあなたがたまたま信じる誰かを見るでしょうし、あなたが偉大な信者であればあるほどあなたの幻影、自分自身の要求と衝動の投影はより強いでしょう。


強い信仰の与える経験が実は幻影であるとKは指摘する。


>  従って何が真実かというような根本的なにかを求める際に、もし快楽が尺度なら、あなたは既に経験が何であるかを投影してしまっており、それゆえそれはもはや確かなものではありません。


我々は快楽を尺度にすべてを実は測っていないか?


>  経験とはどういう意味でしょうか? 経験の中に何か新しいもの、あるいは初めてのものがあるでしょうか? 経験は挑戦に反応している記憶の束であり、自分の背景にしたがってのみ反応することができます。そして経験を解釈するに際してあなたが利口であればあるほど、経験はより一層反応します。それゆえ他人の経験だけでなく自分自身の経験を問わなければなりません。経験を認知しないならそれは全く経験ではありません。あらゆる経験はすでに経験されたものであり、さもなければそれを認識したりしないでしょう。あなたは自分の条件付けに従って、経験を良い、悪い、美しい、神聖などと認識しており、従って経験の認識は必ず古いに違いありません。


経験は認識するゆえ、全て古いもの・・・。


>  私達が真の実在の経験を要求するとき ― 私達皆がする様に、しませんか? ― それを経験するためにはそれを知らねばならず、それを認識する瞬間既に私達はそれを投影してしまっており、従ってそれは実在ではありません。なぜならそれはなお思考と時間の領域内にあるからです。思考が真の実在について考えることができるなら、それは真の実在ではあり得ません。私達は新しい経験を認識できません。それは不可能です。私達は既に知ったものだけを認識するのであり、従って新しい体験をしたというときそれは全く新しくはありません。種々の幻覚剤によって行われている様に、意識の拡張によってより一層の経験を求めることは、なお意識の領域内にあり、それゆえ非常に限られています。
>
>  そこで私達は根本的真理を見出しました。それはより広い、より深い経験を求め切望している心は、常にその記憶と共に生きているので、非常に狭い鈍い心であるということです。
>
> (続く)


[26128] Re:[26122] [26120] [26118] [26116] 愛のエネルギー 投稿者:無名 投稿日:2018/10/25(Thu) 11:23  


> > > はい。私の言っている「見る」はミニ悟りです。観察者、あるいは思考者のいない見るです。判断のない見るです。
> >
> > ようするに、あなたは「ミニ悟り」を求めている。
> > つまり、いまだそれが実現していない。
>
> いいえ、ミニ悟りは実現しています。求めていません。

あ、そうですか。
するとあなたの見解では、「判断なしに見る」がミニ悟りですか。

> >
> > これで、新しい芽氏の
> > 「どのように気づいているか」
> > というスタンスの違いがはっきりしました。
>
> 新しい芽氏のどのように気づいているかは、非難正当化なしにとか、判断なしに、比較なしに等々という事であると私は受け取っています。

違います。
新しい芽氏のいうのは、どのように気づいているかです。
さらに具体的にいうと、愛のエネルギーをもって気づいているか。
あなたのいう「ただ」気づいている。「ただ」判断なしに見るとは違う。


> > > 私はKの言う愛も、対象のない美も、これらと同じような沈黙も知りません。自分の中で働いてもいるかどうかわからないのです。

あなたのいうミニ悟りが実現しているのに、わからない?
> >

> > > > Kの記述の中で、強烈な気づきとありますが、これこそ愛感謝のエネルギーではないですか。
> > >
> > > いとも簡単におっしゃるが、私には気づきにしろ何にしろそれが何かのエネルギーで推進されている事はわかっても、何のエネルギーかはわからないのです。内にエネルギーがあるとわかっても。
> >
> > 何のエネルギーがわからない?
> > あなたのいう「見ている状態」というのは、結局のところ、想像の領域にすぎないと言うことですか。
>
> いいえ、実物であると言えます。
>

ミニ悟りが実現しているのにわからないと。

> > > > その強烈なエネルギーは、南方さんが、言われるように、そのエネルギーは心理的思考を瞬時に消し去ってしまいます。
> > > > 体験すればわかるのではないですか?
>
> 見るに入った時、すでに心理思考の枠外にいるので心理的思考がつまり、怒りや嫌いという事はそれが目の前にあって動いていても自分が繰り出しているわけではありません、それは体験しています。しかしそのエネルギが愛のエネルギーとか名前のついた色や旗を持っているわけではないので、ただエネルギーであるという事しかわかりません。


ただのエネルギーではわからないでしょう。愛のエネルギーは、それと異質なものです。それは強烈さをともなう。
クリシュナムルティは結局、こういうことをいってるのかと理解すれば、すべてにおいてすんなりいきます。
> > >
> > > 私にはエネルギーが一掃してくれるというよりは心理的思考の領域から出て見ており、起こることが瞬時瞬時よくわかるという感じでいます。これが全体的理解であり、自己の心理的中心の機構(ソフト?)を崩壊させるのだろうと推測しています。
> >  推測ですか。
> >  見ることそのものがエネルギーではないですか。そこには思考の居場所はありません。
>
> そのエネルギーは何という名前で、それはどうしてわかりますか?

 わからないというなら、ほんとにミニ悟りが実現してるのかなと、疑ったわけです。
>
> >  瞬時瞬時、起きてくる思考を、「ただ」見つめていればおのずと消えていくだけです。
>
> 今何か、たとえば怒りの思考があるとしましょう。それは断続的に何十分続くかわかりませんが、見続ければ終わります。

 怒りの思考を客観的に見れば、その場で終わり。感情的になることはない。
 ようするに感情に振り回されることはない。


>それはもうその種のことで怒ることはないという事です。マラソンの時並んで走っていたものが次々に視界から消え見えなくなるように消え方に差異があるにしてもその種の怒りが滑稽であるとわかればそれは終わります。

 怒りのエネルギーを、見ることに転換すれば終わり。
 具体的に言うと、愛のエネルギーに変えれば終わり。
 二度と起きないということではない。
>
> >  それで、ただ「気づく」ということではなく、どのように気づいているが、問題になってくるわけです。
> >  私には「ミニ悟り」など関係ありません。それを実現するより、どのように気づくかです。それは即座です。
> >  「ミニ悟り」は時間がかるでしょう。
>
> ミニ悟り一件についていえばそれは即時のものです。しかしそれが長い間蓄積されてものであれば、全部が向こうから語られるのには多少時間がかかります。
>

繰り返すと、反応を見るというのは、怒りによって現れた肉体の反応を見るということです。肝心なのは、そこで留まる。味わう。心臓の慟哭とか、みぞおちが苦しくなったり、様々な反応が起きる。程度の差あれど、非難するときは、そのような状態になる。ところが人は苦しい状態を保ったまま非難しようとする。それが快楽になってしまっている。つまり苦悩と快楽、怒り憎しみ、と世俗的な愛は表裏一体。何かのきっかけで転換する。それが愛(一元)のエネルギー。


以前あなたのコメントで、普通の人間には「慈愛」の心を持ち合わせていない、といわれたことを覚えている。

、ほんとにそうだろうか。悟った人とか、聖者、覚者といわれる人しか持ち合わせていないのだろうか。

 子供を持つ親なら、誰でももっているものではなかろうか。
 幼い子どもを黙って見守る親の気持ちは、慈愛の心に満ちている。なんともはや愛おしい気持ち。
 砂場で遊んでいる子供をじっと見守って母親の気持ち。
 一切遊びを規制しない。
 本来、人間誰にでもあるということです。人を好きになる感情とは異質のものであるということはいうまでもありません。



[26127] ひとこと 投稿者:無名 投稿日:2018/10/25(Thu) 10:34  

現代の学問というのは、唯物論が基礎になっており、それを元に話されてしまうと、精神科学で、心の分野を学んだ者にとっては、どうしても話が食い違ってきます。
宗教や精神世界の人は、人間の魂というものを信じて居る人が多いので、話が通じやすいですが、クリシュナムルティを読んでる人は、魂を否定している唯物論の人がたまにいるため、誠に話が通じにくいです。ほとんどは精神世界から、クリシュナムルティを読む人がほとんどだと思うのですが、クリシュナムルティの記述自体が、唯物論を思わせる記述があるので、やっかい。思考は物質だとか。
目に見えないものは認めないのが唯物論。あと電機など科学で実証されたもの。エネルギーは物質といわれているが、その原動力なるのは形にはあらわれない。


[26126] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/10/25(Thu) 10:02  

>動物は意識に言語化が人間と違ってほとんどない。私の言う無意識は旧皮質というのか言葉を使わない動物脳みたいな意識部分。

それは脳の領域でしょう。旧皮質と新皮質というのは。
脳とは関係ありません。
現在科学の知識ですか。現代科学がそういっていると。
どうも脳の中に、意識と無意識があると考えているみたいですね。

>スポーツとかは言葉抜きの脳あるいは意識で反応する。

それは知覚の領域です。五感の領域。反応するのは肉体。
一つ例をあげると、踊り、ダンスは、初心者は初めからできないので、最初は意識的に動作を覚えることをするでしょう。段々練習する
うちに無意識にできるようになる。稽古事はそうです。
(無意識とは、このように使います)
私が習った太極拳もそう。
野球選手をはじめ、スポーツ選手が毎日練習するのは、動物的感覚を磨くためです。
脳は関係ありません。脳を使って考えながらやるものではない。
脳を鍛えるなら哲学的思索です。考え抜く。

>浮きが動くのを意識的に当たりと認識するようでは釣れない。それを無意識と私は言っている。

浮きが動くのを察知するのは、それこそ五感感覚器官です。それを脳に伝える。
脳の役割は「考える」ことです。

どうも意識と知覚(感覚器官)を混同しているようです。
一体どこの知識ですか。日常で使われている言葉で話しましょう。
でないと対話になりません。


[26125] 周囲の反応 投稿者:南方 投稿日:2018/10/24(Wed) 18:59  

周りの人達はどうやら私のことを暗い人だと思ってるらしい。私はただ穏やかなだけなのに。
私から見ると周囲の人の狂騒さの方が異常に見えるが。


[26124] 既知からの自由15−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/24(Wed) 17:00  

15章−1 [経験]

私達はみなある種の経験 ― 神秘的経験、宗教的経験、性的な経験、多くの金、力、地位、支配力を持つという経験を望んでいます。歳をとるにつれて肉体的な欲望と手を切るかもしれませんが、より広く、深く、より意義深い経験を要求し、そしてそれを得るために様々な手段を試みます ― 例えば、意識の拡張や、それはかなりの技術です、あるいは種々のドラッグを用いるとか。これは太古から存在した古い手口です ― 脳細胞の組織に一時的な変化をもたらし、真の実在の見せかけを与える一層の感受性と高められた知覚を引き起こすため、一枚の葉をかんだり、最新の薬を試してみたりします。このより一層の経験への要求は人間の内面の貧困を示します。私達は経験を通して自分自身から逃れることができると考えますが、これらの経験はあるがままの私達によって条件付けられているのです。心が貧弱で、嫉妬深く、不安なら、最新型の薬を用いようが心はなおそれ自体のつくった小さなもの、それ自体の条件づけられた背景からのそれ自体の小さな投影を見るだけでしょう。

 たいてい私達は、思考によって壊されない、完全に満足できる永続的な経験を要求します。それゆえこの経験への要求の背後には満足を求める欲望があり、そして満足を求める要求は経験を指図します。従って私達は満足についての一切の事柄だけでなく、経験された物事についてもまた理解しなければなりません。ある大きな満足を得ることは大きな快楽です。経験がより永続し、深く広いほど、ますます楽しく、そこで快楽は私達の要求する満足の形を指令します。快楽は私達が経験を測る尺度なのです。測ることのできるものは何であれ思考の限界内にあり、幻想をつくり勝ちです。驚くべき経験をすることが出来ますがしかしなお完全にだまされやすいのです。あなたは不可避的に自分の条件付けにしたがって幻影を見るでしょう。キリストや仏陀やあなたがたまたま信じる誰かを見るでしょうし、あなたが偉大な信者であればあるほどあなたの幻影、自分自身の要求と衝動の投影はより強いでしょう。

 従って何が真実かというような根本的なにかを求める際に、もし快楽が尺度なら、あなたは既に経験が何であるかを投影してしまっており、それゆえそれはもはや確かなものではありません。


 経験とはどういう意味でしょうか? 経験の中に何か新しいもの、あるいは初めてのものがあるでしょうか? 経験は挑戦に反応している記憶の束であり、自分の背景にしたがってのみ反応することができます。そして経験を解釈するに際してあなたが利口であればあるほど、経験はより一層反応します。それゆえ他人の経験だけでなく自分自身の経験を問わなければなりません。経験を認知しないならそれは全く経験ではありません。あらゆる経験はすでに経験されたものであり、さもなければそれを認識したりしないでしょう。あなたは自分の条件付けに従って、経験を良い、悪い、美しい、神聖などと認識しており、従って経験の認識は必ず古いに違いありません。


 私達が真の実在の経験を要求するとき ― 私達皆がする様に、しませんか? ― それを経験するためにはそれを知らねばならず、それを認識する瞬間既に私達はそれを投影してしまっており、従ってそれは実在ではありません。なぜならそれはなお思考と時間の領域内にあるからです。思考が真の実在について考えることができるなら、それは真の実在ではあり得ません。私達は新しい経験を認識できません。それは不可能です。私達は既に知ったものだけを認識するのであり、従って新しい体験をしたというときそれは全く新しくはありません。種々の幻覚剤によって行われている様に、意識の拡張によってより一層の経験を求めることは、なお意識の領域内にあり、それゆえ非常に限られています。

 そこで私達は根本的真理を見出しました。それはより広い、より深い経験を求め切望している心は、常にその記憶と共に生きているので、非常に狭い鈍い心であるということです。

(続く)


[26123] Re:[26121] 無意識について 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/24(Wed) 12:31  

> > > ここまではいいです。問題は次
> > >
> > >
> > > >(実は無意識部分もちゃんと身構えているのですが今は除きます)。
> > >
> > > あなたは「無意識」と言う言葉をどのような意味で使っているのか?
> > > 地震が起きた時、実は無意識部分が身構えていると、言われますが、そんなことはありえません。
> > >
> > > 地震の予知能力があると言われる小動物たちは、地震をいち早く察知して逃げ出すことはありますが、人間はそういう能力はありません。
> > > 地震は突然やってくる。無意識部分が身構えることはありえない。
> >
> > 地震は揺れで気づくだけではありません、地鳴りの近づく形で予知というか知覚できます。
>
>  あなたは地震を予知できるのですか?これは驚いた。
>  地震を予知する人間なんて聞いたことがない。
>  いいですか。小動物たちは超短波能力があるから、かすかな音でも聞こえるのです。
>
> >南海大地震で知りました。
>
> 南海大地震?いつの話。

終戦のころ。

> > その後一度だけ散歩中に地鳴りのような、遠くを電車が走っているのかわからない知覚がありました。
>
>
> それはあなたの体験ですか。3・11?

私の体験ですが、3・11とは関係ない。

> > すぐ立ち止まって聞いたのですがわかりません。しかしどうも違うようだと思って、散歩に戻ろうとしましたが、体はまだ聞いています。それでそのままにしていたらやっと動き出しました。無意識部分は意識部分より、事によっては慎重ですね。

> 知覚は無意識部分にはより早く伝わるようです。
>
> あなたの無意識って何ですか?
>
> >意識部分には少し遅れる。意識化に暇がかかるのかな?

動物は意識に言語化が人間と違ってほとんどない。私の言う無意識は旧皮質というのか言葉を使わない動物脳みたいな意識部分。スポーツとかは言葉抜きの脳あるいは意識で反応する。浮きが動くのを意識的に当たりと認識するようでは釣れない。それを無意識と私は言っている。


[26122] Re:[26120] [26118] [26116] 愛のエネルギー 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/24(Wed) 11:00  

> > > どうも、あなたの「見ている状態」というのは、私たちがやっている「見ている状態」と違うようですね。
> > > ひょっとすると、あなたのいう「見ている状態」というのは「ミニ悟り」ですか?
> > > だとすると、あなたと初めから話があわないことになる。
> >
> > はい。私の言っている「見る」はミニ悟りです。観察者、あるいは思考者のいない見るです。判断のない見るです。
>
> ようするに、あなたは「ミニ悟り」を求めている。
> つまり、いまだそれが実現していない。

いいえ、ミニ悟りは実現しています。求めていません。
>
> これで、新しい芽氏の
> 「どのように気づいているか」
> というスタンスの違いがはっきりしました。

新しい芽氏のどのように気づいているかは、非難正当化なしにとか、判断なしに、比較なしに等々という事であると私は受け取っています。

> > 私はKの言う愛も、対象のない美も、これらと同じような沈黙も知りません。自分の中で働いてもいるかどうかわからないのです。
>
> わからないということは、いまだ実現していない。
> あなたのいう「ミニ悟り」がです。ようするに手探り状態。
> >
> >
>
> > > Kの記述の中で、強烈な気づきとありますが、これこそ愛感謝のエネルギーではないですか。
> >
> > いとも簡単におっしゃるが、私には気づきにしろ何にしろそれが何かのエネルギーで推進されている事はわかっても、何のエネルギーかはわからないのです。内にエネルギーがあるとわかっても。
>
> 何のエネルギーがわからない?
> あなたのいう「見ている状態」というのは、結局のところ、想像の領域にすぎないと言うことですか。

いいえ、実物であると言えます。

> > > その強烈なエネルギーは、南方さんが、言われるように、そのエネルギーは心理的思考を瞬時に消し去ってしまいます。
> > > 体験すればわかるのではないですか?

見るに入った時、すでに心理思考の枠外にいるので心理的思考がつまり、怒りや嫌いという事はそれが目の前にあって動いていても自分が繰り出しているわけではありません、それは体験しています。しかしそのエネルギが愛のエネルギーとか名前のついた色や旗を持っているわけではないので、ただエネルギーであるという事しかわかりません。
> >
> > 私にはエネルギーが一掃してくれるというよりは心理的思考の領域から出て見ており、起こることが瞬時瞬時よくわかるという感じでいます。これが全体的理解であり、自己の心理的中心の機構(ソフト?)を崩壊させるのだろうと推測しています。
>  推測ですか。
>  見ることそのものがエネルギーではないですか。そこには思考の居場所はありません。

そのエネルギーは何という名前で、それはどうしてわかりますか?

>  瞬時瞬時、起きてくる思考を、「ただ」見つめていればおのずと消えていくだけです。

今何か、たとえば怒りの思考があるとしましょう。それは断続的に何十分続くかわかりませんが、見続ければ終わります。それはもうその種のことで怒ることはないという事です。マラソンの時並んで走っていたものが次々に視界から消え見えなくなるように消え方に差異があるにしてもその種の怒りが滑稽であるとわかればそれは終わります。

>  それで、ただ「気づく」ということではなく、どのように気づいているが、問題になってくるわけです。
>  私には「ミニ悟り」など関係ありません。それを実現するより、どのように気づくかです。それは即座です。
>  「ミニ悟り」は時間がかるでしょう。

ミニ悟り一件についていえばそれは即時のものです。しかしそれが長い間蓄積されてものであれば、全部が向こうから語られるのには多少時間がかかります。



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