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[24727] 高齢化 投稿者:外野席 投稿日:2017/10/25(Wed) 10:19  


> > > 私は見るという事を知識でなく実際に理解するという点から入りました。それは個人的悩みからの解放を願ったからです。その意味では悩みも葛藤も、基準などの低観念もなくなりました。大雑把に言ってですよ。

 悩みも葛藤もなくなったとはよくいえたものだ。これから超高齢化時代を向かえるというのにだ。あなたはその当事者ではないのか。
 何で現実をはっきり見ようとしないのか。
 人に手をかけず、ぽっくり死ねばそれにこしたことはないし、多くの人はそれをのぞむだろう。ところがいざ、何らかの病気をして、自分の体が動かなくなった場合、いったい誰がめんどうをみるのか。あるいはそのときの病院不足の問題。ヘルパーの問題。考えること対策は山ほどある。老人ホームに今から入るというのも一つ。今やどこにいってもキャンセル待ちとか。
 それでも以前のように、そのときになってみなければわからないというのだろうか。それがあなたのスタンスか。先のことはわからない。考えるだけ無駄とということか。
 ま、人それぞれだから、こちらがとやかくいうことではないか。
 今から、その対策を練るというのは、あなたのいうイメージの世界ではない。考え抜くことの一貫。そのときになって周囲に迷惑かけないためにも。

 人間誰だって残る時間が短くなれば、残された時間をどう生きるのか。残された時間を大切にしようと考えるだろう。どう使うのか。有意義に。今までの集大成として。
 クリシュナムルティも新しい芽氏も、自分自身が悩みも葛藤もなくなったなんて話は聞いたことがない。
 晩年のクリシュナムルティだって、後継者問題に悩み、裁判のことで頭を痛めていたと聞く。それが「人間」ではないだろうか。
 新しい芽氏は、常に問題意識を持ち続けたということ。ホントかどうか。
 事実かどうか。常に問い続けた。
 問題は、真理をつかまえているどうか、悟っているかどうかだろう。
 悩みでも人のためなら大いに悩んだ方がいい。
 自分自身も、人様に迷惑かけたくないというのが常に頭にある。性分だから仕方がない。

 ま、そういったリアルな現実は抜きにして、思いの世界に浸ってればいいということかな。このサイトは。



[24726] Re:[24723] [24718] [24717] [24714] [24713] [24712] [24711] [24709] オカルトについて 投稿者:ゴト 投稿日:2017/10/24(Tue) 19:32  

> > >  >これで私の探求は終わりかな。−−、と言われる前に、ひとつお伺ってみたいことがあります。
> >
> > それはこの掲示板を閉じるという事ではありません。もし質問があれば、一緒に調べましょう。
> >
> > >
> > >  渡辺氏や船江氏(F氏)は、クリシュナムルティ理解に取り組んだにも関わらず、その基軸はクリシュナムルティオンリーではなく、クリシュナムルティを含む他のいくつかの哲学・宗教体系を併せて基軸としているように見受けられます。
> >
> > あのー、F氏は船江氏という方ではありません。古沢さんです。
> > それから渡辺氏も古沢氏も私は特に区別しないですが。。
> > 私にとっては集会や訳書によって大変お世話になった方です。
> > 新しい芽さんには長い間、直接お目にかかって話をする機会がありましたが、それでもとても格の違いがあって、その深さはいかんともし難いところがありました。
> >
> > >
> > >  私としては、なぜ他のものを必要とするのかが分かりません。
> > >
> > >  クリシュナムルティだけでは物足りないのなら、それは理解不充分と私なら解釈しますが、渡辺氏や船江氏は、物足りないのはクリシュナムルティ自体が不充分(不完全)として解釈しているのでしょうか。
> > >
> > >  『生と覚醒のコメンタリー4(新装版)』の訳者あとがきにて、訳者の大野純一氏が述べています、−−クリシュナムルティの探求もそろそろ終わりと思っていた・・、その矢先『クリシュナムルティは誰だったのか(英文)』が出版され、探求がまだ先まであるようだ・・の旨、そして当文献を邦訳出版する予定である旨−−が、あとがきに記されています。
> > >
> > >  先日のゴトさんのコメントにもありました。『時間の終焉』を読む前までは、葛藤のない日々だけでは物足りなくなった旨・・。
> > >
> > >  クリシュナムルティは、読み方によっては物足りなくなるようです。
> > >
> > >  その物足りなさは、クリシュナムルティ自体の不完全さから生ずるものなのか・・それとも、理解の不十分さから生ずるものなのか・・。
> > >
> > >  渡辺氏や船江氏は、どこで物足りなさを感じたのか・・。
> >
> > まず私のことを言います。
> > 私は見るという事を知識でなく実際に理解するという点から入りました。それは個人的悩みからの解放を願ったからです。その意味では悩みも葛藤も、基準などの低観念もなくなりました。大雑把に言ってですよ。
> >
> > しかし、社会、戦争という問題は手の届かない別世界にあり、それは個人の人格の練磨という事で済ませておけない感じがあり、それは私が読んだKの本、時代はこのサイトに載っているころですが、その限界と私の持つ人間社会への理解の不足があったと思います。
> > 「人類の未来」「時間の終焉」「思考のネットワーク」を読んで、ほかに普通の各種の本も読みましたが、私は人間社会を含めての理解に広がったので、上述の疑問は消えています。
> >
> > 宗教の分野ではまだ多くのことがあるでしょうが、私は関心がないのです。宗教心についてはアムステルダム・トーク2で済みです。
> >
> > >
> > >  私の場合は探求の基軸がクリシュナムルティ一本なので、基軸が複数(クリシュナムルティを含めて他の数本)あることに違和感を覚えます。
> > >
> > >  そして、もしもクリシュナムルティをより深く理解したいのであれば、探求の芯はクリシュナムルティ一本とし、他の哲学・宗教体系は補助的支柱とならなければ、クリシュナムルティ理解は叶わないと感じています。
> > >
> > >  すなわち、渡辺氏や船江氏はクリシュナムルティ理解から逸れたと感じています。
> > >
> > >  ゴトさんのご意見をお聞かせ頂ければ幸いです。
> >
> > 私が何を望み、どのようにクリシュナムルティを理解したかは上に述べました。
> >
> > 例えばの話ですが、超常感覚の持ち主でこの世間の中に生きる人は、悩みと言っても相当に違うものがあるでしょう。Kをよく読んだ後の生き方も私にはわからないものがあるでしょう。宗教哲学に深く入った人はまたそれとの対決?がいるかと思います。
> >
> > 真理というものは生きた瞬時瞬時のもので、教条と言ったものでないゆえ、ほかの人の理解を洞察するのはそう簡単ではないように思います。むしろ自分のイメージの投影を疑う事が先にあるものかもしれません。私など、Kにじかに触れたこともありません。Kを読み、実際に生きる中で学んだ言葉化されない何か、つまり私の理解があるだけではないかと思います。そういう意味では常に用心深い気付きがいるのでしょうか。
>
>
>  とても丁寧なご回答、ありがたく感じています。
>
>  ブッダの時、どこかで逸れたのではないでしょうか。現在の既成の仏教はどの宗派もブッダから逸れていると感じています(空海の密教は分かりません)。
>
>  なぜ逸れたのか、どこで逸れたのか。ブッダの教え自体が不十分(不完全)ではなく、教える術(言葉を用いて、数十年の限られた期間で、録音機材や記録文書なしに)が不十分であったから逸れたのか・・。
>
>  私は、教える術が不十分であったから・・逸れたのではなく、その逸れ方が、今現在、クリシュナムルティからの逸れにおいて現れているように見えるのです。

最初に前回重要な誤記がありました。
「低観念」という言葉は「固定観念」の誤記でした。あるいは察していたただいたかもしれませんが、すみませんでした。

本題の「逸れ」はいくつかの要素を含んでいるかもしれません。私は原始仏教の経典、特に岩波文庫の「真理の詩」「感興の詩」あたりが好きです。釈迦牟尼の教えの生きた風格を伝えてくれる気がするのです。しかし、教えの言語の論理的取りまとめとなると、言語の限界に突き当たり、多くの諸派が出るという事は避けられないかも。

教えのカリキュラムみたいなものを構成するとすると、これもどうしても種々の派が成立するでしょう。
そして個人がどういうふうに回心の天機をつかむかも、種々の場合があるでしょう。

Kのトークについては文章の記録もあるし、後期には録音、録画もあります。その中から真実のものを受け取ることは、たぶん、なぜか困難なのです。ましてそれが社会に、全体的に顕現するという事はなぜか困難なのです。

それでも私は人間が、真実を直覚する力を持っていることを確信します。それは普通鈍磨してしまい、感じない、あるいは逆に受け取ったりする場合がほとんどかも知れません。しかし、それでもふと転機(疑い)が生じる時があります、ないでしょうか?

私はクリシュナムルティは人類にその転機のための、最大の援助と私は言いたいのですが、指摘、示唆、ヒントを与えてくださったのではないでしょうか。
ここで、「くださった」という言葉を使ったのはKを権威として敬語を使ったのではなく、感謝の意を表したい気持ちが湧いたからです。


[24725] Re:[24723] [24718] [24717] [24714] [24713] [24712] [24711] [24709] オカルトについて 投稿者:外野席 投稿日:2017/10/24(Tue) 17:38  


ここまでの文章は載せる必要はない。

> > >  ゴトさんのご意見をお聞かせ頂ければ幸いです。
> >
> > 私が何を望み、どのようにクリシュナムルティを理解したかは上に述べました。
> >
> > 例えばの話ですが、超常感覚の持ち主でこの世間の中に生きる人は、悩みと言っても相当に違うものがあるでしょう。Kをよく読んだ後の生き方も私にはわからないものがあるでしょう。宗教哲学に深く入った人はまたそれとの対決?がいるかと思います。
> >
> > 真理というものは生きた瞬時瞬時のもので、教条と言ったものでないゆえ、ほかの人の理解を洞察するのはそう簡単ではないように思います。むしろ自分のイメージの投影を疑う事が先にあるものかもしれません。私など、Kにじかに触れたこともありません。Kを読み、実際に生きる中で学んだ言葉化されない何か、つまり私の理解があるだけではないかと思います。そういう意味では常に用心深い気付きがいるのでしょうか。
>
>
>  とても丁寧なご回答、ありがたく感じています。

以下のコメントはクリシュナムルティ教の信者と思わせる文章。
上記のゴトさんの文章とは関係ない文章。つながっていない。
>
>  ブッダの時、どこかで逸れたのではないでしょうか。現在の既成の仏教はどの宗派もブッダから逸れていると感じています(空海の密教は分かりません)。
>
>  なぜ逸れたのか、どこで逸れたのか。ブッダの教え自体が不十分(不完全)ではなく、教える術(言葉を用いて、数十年の限られた期間で、録音機材や記録文書なしに)が不十分であったから逸れたのか・・。
>
>  私は、教える術が不十分であったから・・逸れたのではなく、その逸れ方が、今現在、クリシュナムルティからの逸れにおいて現れているように見えるのです。

 どうでもいい話。内容なし。空想の産物。現実離れの妄想。
 それにして何で文章を消さないのか。同じものをのせる必要はない。
 パソコンではなくスマホで投稿してるのか。

 それもしても何で「現実」に起きてる話をしないのか。



[24724] 介護 投稿者:外野席 投稿日:2017/10/24(Tue) 17:23  

 今や高齢化時代。いやおうもなく我々のベビーブーム世代にとって避けられない問題。自分がもし介護の立ち場になったら、どうふるまうのだろうか。まさに深刻。
 自分がもし介護の身になったら。又される側になったら。おしめをかえられることができるだろうか。そのとき平静を保てるだろうか。女性は男性に対してさほど抵抗はないだろうが、逆は苦痛だろう。自分の両親は、さほど手をかけずに死んでしまったが、はたして自分は人に迷惑かけずに死ねるだろうか。いずれにせよ葛藤のない日など幻想にすぎぬことを痛感する。
 先程、老老介護について、テレビで拝聴したが、人は内心「この人さえいなければ」と思うかもしれない。しかしそのことは口に避けてもいえぬ。それほど老老介護の現状は悲惨ということだ。ましては、このあと超高齢化社会がすぐにやってくる。病院はどこも満杯。自宅介護が基本になる。しかもヘルパーはいない。人で不足ときた。

 個人的なことだが東京オリンピックが終わったら「終活」に入ろうと思う。不要なものは今から少しずつ処分する。自分が死んだとき、残された自分の所有物を人に見られるのは抵抗がある。死ぬ時は貯金通帳だけでいう。クリシュナムルティの本も資源ゴミ。


[24723] Re:[24718] [24717] [24714] [24713] [24712] [24711] [24709] オカルトについて 投稿者:宮啓 投稿日:2017/10/24(Tue) 17:09  

> >  >これで私の探求は終わりかな。−−、と言われる前に、ひとつお伺ってみたいことがあります。
>
> それはこの掲示板を閉じるという事ではありません。もし質問があれば、一緒に調べましょう。
>
> >
> >  渡辺氏や船江氏(F氏)は、クリシュナムルティ理解に取り組んだにも関わらず、その基軸はクリシュナムルティオンリーではなく、クリシュナムルティを含む他のいくつかの哲学・宗教体系を併せて基軸としているように見受けられます。
>
> あのー、F氏は船江氏という方ではありません。古沢さんです。
> それから渡辺氏も古沢氏も私は特に区別しないですが。。
> 私にとっては集会や訳書によって大変お世話になった方です。
> 新しい芽さんには長い間、直接お目にかかって話をする機会がありましたが、それでもとても格の違いがあって、その深さはいかんともし難いところがありました。
>
> >
> >  私としては、なぜ他のものを必要とするのかが分かりません。
> >
> >  クリシュナムルティだけでは物足りないのなら、それは理解不充分と私なら解釈しますが、渡辺氏や船江氏は、物足りないのはクリシュナムルティ自体が不充分(不完全)として解釈しているのでしょうか。
> >
> >  『生と覚醒のコメンタリー4(新装版)』の訳者あとがきにて、訳者の大野純一氏が述べています、−−クリシュナムルティの探求もそろそろ終わりと思っていた・・、その矢先『クリシュナムルティは誰だったのか(英文)』が出版され、探求がまだ先まであるようだ・・の旨、そして当文献を邦訳出版する予定である旨−−が、あとがきに記されています。
> >
> >  先日のゴトさんのコメントにもありました。『時間の終焉』を読む前までは、葛藤のない日々だけでは物足りなくなった旨・・。
> >
> >  クリシュナムルティは、読み方によっては物足りなくなるようです。
> >
> >  その物足りなさは、クリシュナムルティ自体の不完全さから生ずるものなのか・・それとも、理解の不十分さから生ずるものなのか・・。
> >
> >  渡辺氏や船江氏は、どこで物足りなさを感じたのか・・。
>
> まず私のことを言います。
> 私は見るという事を知識でなく実際に理解するという点から入りました。それは個人的悩みからの解放を願ったからです。その意味では悩みも葛藤も、基準などの低観念もなくなりました。大雑把に言ってですよ。
>
> しかし、社会、戦争という問題は手の届かない別世界にあり、それは個人の人格の練磨という事で済ませておけない感じがあり、それは私が読んだKの本、時代はこのサイトに載っているころですが、その限界と私の持つ人間社会への理解の不足があったと思います。
> 「人類の未来」「時間の終焉」「思考のネットワーク」を読んで、ほかに普通の各種の本も読みましたが、私は人間社会を含めての理解に広がったので、上述の疑問は消えています。
>
> 宗教の分野ではまだ多くのことがあるでしょうが、私は関心がないのです。宗教心についてはアムステルダム・トーク2で済みです。
>
> >
> >  私の場合は探求の基軸がクリシュナムルティ一本なので、基軸が複数(クリシュナムルティを含めて他の数本)あることに違和感を覚えます。
> >
> >  そして、もしもクリシュナムルティをより深く理解したいのであれば、探求の芯はクリシュナムルティ一本とし、他の哲学・宗教体系は補助的支柱とならなければ、クリシュナムルティ理解は叶わないと感じています。
> >
> >  すなわち、渡辺氏や船江氏はクリシュナムルティ理解から逸れたと感じています。
> >
> >  ゴトさんのご意見をお聞かせ頂ければ幸いです。
>
> 私が何を望み、どのようにクリシュナムルティを理解したかは上に述べました。
>
> 例えばの話ですが、超常感覚の持ち主でこの世間の中に生きる人は、悩みと言っても相当に違うものがあるでしょう。Kをよく読んだ後の生き方も私にはわからないものがあるでしょう。宗教哲学に深く入った人はまたそれとの対決?がいるかと思います。
>
> 真理というものは生きた瞬時瞬時のもので、教条と言ったものでないゆえ、ほかの人の理解を洞察するのはそう簡単ではないように思います。むしろ自分のイメージの投影を疑う事が先にあるものかもしれません。私など、Kにじかに触れたこともありません。Kを読み、実際に生きる中で学んだ言葉化されない何か、つまり私の理解があるだけではないかと思います。そういう意味では常に用心深い気付きがいるのでしょうか。


 とても丁寧なご回答、ありがたく感じています。

 ブッダの時、どこかで逸れたのではないでしょうか。現在の既成の仏教はどの宗派もブッダから逸れていると感じています(空海の密教は分かりません)。

 なぜ逸れたのか、どこで逸れたのか。ブッダの教え自体が不十分(不完全)ではなく、教える術(言葉を用いて、数十年の限られた期間で、録音機材や記録文書なしに)が不十分であったから逸れたのか・・。

 私は、教える術が不十分であったから・・逸れたのではなく、その逸れ方が、今現在、クリシュナムルティからの逸れにおいて現れているように見えるのです。


[24722] 排除の論理 投稿者:外野席 投稿日:2017/10/24(Tue) 16:20  

 希望の党は、このたびの選挙で惨敗した。その原因の一つに、代表が発した「排除の論理」だといわれている。
排除の論理。
 わかりやすくというと、◯学会は、他の宗教を「邪教」とみなすあれである。あの論法。もちろん他の社会でも実例はいろいろある。
 つまり自分たちのやっている宗教が唯一正しいと信じて、やもすれば他の宗教を排除する。排斥する。攻撃する。
 このような心理状態というのは、結局は一言で言うと「優越意識」というものである。
 自分は正しい。あるいは優れている。この心理は「劣等感」の裏返しといえます。つまりは差別意識。
 実は、この差別意識というのは、あらゆる人間にとっての病根である。いじめというのも、結局はここからきている。

 それでは◯学会をクリシュナムルティと置き換えてみよう。クリシュナムルティだけが唯一正しくて、他の精神世界の指導者たちは「邪教」なのだろうか。
 たとえば宮啓という男はエックハルト・トールの名を出すと、「新興宗教」だなどといってこきおろす。
 再三の忠告にも関わらず、今でもこの掲示板で、このような発言が見られるのは残念なことである。
 たとえば、このたびの宮啓の専売特許である馬鹿の一つおぼえ
「クリシュナムルティ理解」。
 あの男は「クリシュナムルティ理解」が為されてるかを判別する。そかも禅に精通している渡辺氏に向ってだ。
 渡辺氏は「クリシュナムルティ理解」が為されていないと、何で傍目の人間にわかるのだろうか。しかも1度も会ったことのないくせにだ。
 まったく失礼千万な話。ですから渡辺氏の最後の掲示板で、「クリシュナムルティなんかどうでいい」といわれてしまうのである。

 クリシュナムルティが好きで、それにのめりこむのは、一向にかまわないが、それはあくまで「本人自身」のことであって、それをあれこれ人にいうことではないだろう。まずは自分が理解することだ。そして変われば、人は一目置くだろう。
 人がクリシュナムルティ理解を為されようと為されまいと関係ないことだろう。どうでもいいことだ。
 自分自身が真摯に取り組めばいいだけの話。
 ところが段々とクリシュナムルティを読んでいくうちに、自身にある優越意識が助長され、自分だけがクリシュナムルティを読んでいる。あるいは自分だけが真理を知っていると錯覚する。まさに宮啓という男がそうである。
 それでクリシュナムルティを知らない人に対して馬鹿にしてしまう態度をとる。つまりは人を軽く見る。それでますます優越意識が増大する。
 ようするに本を読んで「自己満足」にしたり悦に入る。
 しまいには、禅の大家である渡辺氏にまで、クリシュナムルティ理解が為されていないと判別する。なんたる傲慢さだろう。

 クリシュナムルティのいってるのは、自身の内にある分別意識(差別意識、優越意識)に気づいて、「無分別の知」を実現することにある。

 ところが、「クリシュナムルティ」というものを優越意識の材料にして、人をあれこれ裁くとは。まったく真逆の話です。エゴをなくすどころかエゴイズムになる

 追記

 この掲示板も体力的な問題があり、そう長くはないだろう。クリシュナムルティの教えの中身について、先輩のゴトさんに色々聞けばいいものを、この男(宮啓)は、一向に聞こうとはしない。自称「気づき」のない人間が、「気づいているゴトさんに色々聞けばいいものをだ。
 まるで評論家気取りである。人をあれこれ評価する。この人はクリシュナムルティを理解している。この人は理解していない。

 



[24721] Re:[24717] [24714] [24713] [24712] [24711] [24709] オカルトについて 投稿者:外野席 投稿日:2017/10/24(Tue) 15:23  

 この男 (宮啓)は沖縄の孤島に住んでいるせいか、情報源というのは本とインターネットしかないようだ。ですから以下のような筋違いなコメントになる。
 この男はクリシュナムルティ関連者と会ったことがないから、クリシュナムルティの本質がまったくもってわかっていない。

 私自身は1982年5月にアメリカのクリシュナムルティファンデーションを尋ねている。残念ながらクリシュナムルティがインドに行った後だった。
 森本氏は若い時に1年英国のクリシュナムルティスクールに滞在している。
 何でこうして実際に出向いて英国の本部やアメリカ支部を尋ねようとしないのか不思議である。自分の目で見て、肌で感じるということが必要。

>  >これで私の探求は終わりかな。−−、と言われる前に、ひとつお伺ってみたいことがあります。
>
>
>  渡辺氏や船江氏(F氏)は、クリシュナムルティ理解に取り組んだにも関わらず、

 F氏というのは古澤氏のことだが、何で「船江」なんて名前がどこから出てくるのだろう。もし知りたければ、差し支えなければ教えてくれませんか、とゴトさんに尋ねれば言い話。それぐらいの常識は持ち合わせていないのか。

>その基軸はクリシュナムルティオンリーではなく、クリシュナムルティを含む他のいくつかの哲学・宗教体系を併せて基軸としているように見受けられます。

 何でこのように人を評価したいのか。
>
>  私としては、なぜ他のものを必要とするのかが分かりません。

 何でクリシュナムルティ一本に絞る必要あるのか。あなたは他を「邪道」として排除したいのか。
>
>  クリシュナムルティだけでは物足りないのなら、それは理解不充分と私なら解釈しますが、渡辺氏や船江氏は、物足りないのはクリシュナムルティ自体が不充分(不完全)として解釈しているのでしょうか。

 本人と会ったことのないのに、何を文句を連ねているのか。
 渡辺氏の専門は禅です。Kはたまたま訳しただけだけです。

 それに人に対してその人が、クリシュナムルティを理解しているか、しないかということが何でおたくにわかるの?
 しかも古澤氏なんて、おたくは知るよしもない。
>
>  『生と覚醒のコメンタリー4(新装版)』の訳者あとがきにて、訳者の大野純一氏が述べています、−−クリシュナムルティの探求もそろそろ終わりと思っていた・・、その矢先『クリシュナムルティは誰だったのか(英文)』が出版され、探求がまだ先まであるようだ・・の旨、そして当文献を邦訳出版する予定である旨−−が、あとがきに記されています。

 ようするに大野氏はビジネスとしてKを訳しているだけ。彼の出版社コスモライブラリーの翻訳は、多岐にわたる。Kだけではない。
>
>  先日のゴトさんのコメントにもありました。『時間の終焉』を読む前までは、葛藤のない日々だけでは物足りなくなった旨・・。

 葛藤のない日々が物足りないとはよく言ったもの。これから「老老介護」という地獄の日々が待ち受ける。
>
>  クリシュナムルティは、読み方によっては物足りなくなるようです。

 何いってんの。人のことはどうでもいいんだよ。
>
>  その物足りなさは、クリシュナムルティ自体の不完全さから生ずるものなのか・・それとも、理解の不十分さから生ずるものなのか・・。
>
>  渡辺氏や船江氏は、どこで物足りなさを感じたのか・・。

 何を寝言をいってるのかるのか。
 それより、おたくがクリシュナムルティを理解したのか!
 ただ本を読んでるだけだろう。
>
>
>  私の場合は探求の基軸がクリシュナムルティ一本なので、基軸が複数(クリシュナムルティを含めて他の数本)あることに違和感を覚えます。

 人のことはどうでもいい。
>
>  そして、もしもクリシュナムルティをより深く理解したいのであれば、探求の芯はクリシュナムルティ一本とし、他の哲学・宗教体系は補助的支柱とならなければ、クリシュナムルティ理解は叶わないと感じています。

 だからおたくがそう思えばそうやればいい。
>
>  すなわち、渡辺氏や船江氏はクリシュナムルティ理解から逸れたと感じています。

 何を寝言をいってるのか!
>
>  ゴトさんのご意見をお聞かせ頂ければ幸いです。
>
 人のことより
 だいいち、おたくはKのいう「AWARENESS」というのがわかってるのか。
 「気づき」ができないと自称する人間が、人のことをああだこうだいえたものではない。
 つまり「クリシュナムルティ理解」が、おぼつかないものが、何で人に対して「クリシュナムルティ理解」がわかるのだろうか。
 この人はクリシュナムルティ理解から、はずれた。
 この人はクリシュナムルティ理解から、はずれていない。
 「誰」が、判別するのか。
 その肝心の判別する人間は、クリシュナムルティ理解が為しているのだろうか?
 


[24720] Re:[24719] Kの言っていること―あるいは瞑想 投稿者:ゴト 投稿日:2017/10/23(Mon) 15:09  

> > > > 根本問題は生物の発展の過程で、思考(観念・イメージ?)の登場で混乱無秩序に陥っているということです。
> > >
> > >  何で混乱するのか。人間「如何に考えるのか」という根本教育を怠った結果です。
> >
> > いっぱい教えてきたのですが、どうも効果なく、正しいとか間違っているという声が大きくて、分裂・矛盾・葛藤しています。
>
>  正しいか正しくないかではなく、如何に考えるかだ!

はい、いかに考えるかを教えてください。

> > >  アダムスキーの言葉から引用します。
> > >
> > >  ニコラス・マーレイ・バトラー博士がかって次のようにいったことがあります。
> > > 「もし、人間がすすんで考えようとしさえすれば、世界のあらゆる問題を容易に解決することができるだろう」
> > >  これはむしろこのようにいえばよかったのです。
> > >  「もし人間が如何に考えるべきかを知りさえすれば!」
> > >  これは現代の教育系統の一大欠陥です。というのは、青少年は如何に考えるべきかを教えられていないからです。
> > >  以後省略

「いかに考えるかを知りさえすれば!」 はい。

> > >  先程来日した、世界一貧しい大統領(パラグアイ)の言葉
> > >  「人は考え方を変えよ」という言葉から確信を得ました。
> > >
> > >  何度も言うように他人のことはどうであれ「自己完成」のみ。
> > >  見近にある人を幸福に導くのみ。現実に我々ができるのはそれしかないでしょう。
> > >  周囲に対して何が起きてるか観察のみ。いちいち感情移入しない。
> >
> > しかし、周りの人は次々に何やかやと言ってくるぞ。観察するだけでなく応対しないと怒りだすぞ。もちろん感情移入しないで後に何も残らないように応対できれば結構ですが。
>
>  人間関係も普通のやりとりをすればいいわけです。できることをやる。いちいち感情にふりまわされるなということ。
>  プロ野球の野村元監督は、監督時代、「考える」ということをことさら強調した。頭を使えと。昨日のボクシングの勝者イんタビューで「考える」というキーワードが出てきたのは、いささか驚いた。そのキーワードは、かのイチロー選手が言ってたキーワード。考える。一流はやはり違う。
>  私たちのいう「考える」というのは、ホントに考えているのだろうか。
>  将棋の詰め将棋あるいは数学の問題を説くとき、ホントに考えるという作業をするのは、それぐらいなのだろうか。という疑問が浮かんだ。
>  考える。妄想イメージ、悩みとは違う。

はい。ホントに考えるとはどういうことかと自分に問う。


[24719] Re:[24710] [24708] [24706] [24704] [24702] [24699] [24697] [24695] [24687] [24681] [24678] [24672] [24663] [24662] Kの言っていること―あるいは瞑想 投稿者:外野席 投稿日:2017/10/23(Mon) 11:27  


> > > >  イメージについてはまっこうから反論しよう。
> > > >  あなたは、人間のもつ「想像力」についてまったく考慮されていない。
> > > >  創意工夫。まず最初にものを作り上げるには、まずイメージがはじまるということを知らないのだろうか。それがアイデアに発展する。
> > > >  「無」から「有」に。
>
> 創意はほとんどが二番煎じで真の独創は大天才でないとあり得ない。まあ、考えてみてください。

 何で二番煎じなの。誰が発明の話をしてるのですか。誰が真の独創の話をしてるのですか。何でここで天才の話しがでてくるのか。まったくわからない。話しをすりかえている。
 人間は瞬時瞬時想起している。つまりはのべつくまなく思考やイメージがわいてきている。これが人間の特質。
 あなたも例外なく、のべつくまなく、思考イメージが湧いてきているはずだ。人間である以上。
 まさかこのことを否定しているのではあるまいな。誰でも起きている事実。
 ここを了解しないと先には進めいないし、創造や想像力の話しはできません。

> > > 創意工夫はいい意味で結構です。しかし思わぬ欠点もあります。それが表に出たとき、大騒ぎになります。公害が一例ですね、
> >
> >  公害は創意工夫ではない。何をおっしゃっているのですか。話が違います。公害は環境を考慮せず利潤を追い求めた結果でしょう。創意工夫とは全然関係ない話。例えばの話、黒部ダムの建設が、創意工夫の結晶だということです。
>
> 新しい技術が登場する。原爆には政府が興味を持つ。公害には政府は初め興味を持たなかった。なぜ創意工夫は公害に興味を持たなかったのか? 公害は金もうけにならないから。ご正解!

 どうも意味を取り違えているようだ。あなたは現象ばっかり追っている。
 そもそも何で公害の話が出る。飛躍もいい所。

> > >水俣病など。それが認められるまでどれだけ長い時がかかったか。その間、現実を認識するのを妨げたのは、被害をありのままに認めたら保証金が膨大で会社も国もつぶれるという想像力の生でしょう。だがその想像力は被害者の苦労や悲しみには及ばないのかな。強者のご機嫌伺は過剰なまでにできるけれど。
> >
> >  何をネガティブなことを言っているのだろう。そこでいっている想像力という言葉を間違えて使っていますね。たんなる思考です。
>
> ネガティブな面を見ない。ポジティブな面だけを見る。両面を見ない。悲しい。

 そもそも創造そのものが、ポシティヴでしょう。想像力の話しが何で公害になっちゃうの。
>
> >  公害と想像力はまったく関係ない話。想像力があったら、公害など出しません。
>
> ちゃんと関係がある。両面を見る想像力がない。これで外野席が憤慨しなければ世は闇だ。たのんまっせ!

 まったく関係ない。意味の取り違え。
 そもそも想像力があれば公害など出さぬ。
>
> >  考えることと、イメージするのとは違います。
> >  もう一度いいます。水俣病を出すことが創意工夫ですか。
> >  水銀を垂れ流しすることが、創意工夫ですか。
> >  水銀を垂れ流しすることが、想像力ですか。
> >  まさに真逆の自我(エゴ)のなせる業(ワザ)です。
> >  水銀を垂れ流ししないで、どう処理するか。それに知恵を絞る。
> >  それこそ創意工夫であり、想像力ではないですか。
>
> そうだ、そうだ! 不注意な想像力に喝!を入れよ。

 想像力に不注意はない。思考とイメージの混同。
 何でここで「不注意」という言葉が出る?
>
> > >
> > > >  追記
> > > >  あるクリシュナムルティの翻訳者が言っていたが、クリシュナムルティの読者の中には「極論」に走ってしまう人がいることを憂慮していました。
> > > >  たとえば「何もしない」「努力しない」というと誤解を受けた言葉になる。
> > > >  クリシュナムルティは実用的な思考については「考え抜く」ということをいい、葛藤や苦しみの原因である心理的思考について言及したのであり、人類に向ってイメージを持つ込むな、なんていう極論は言ってないように思います。
>
> イメージを妻や夫や上司や、アルバイトの女の子について持ちます。他にも、あまりにもいっぱいあります。どこにイメージがあるか考え抜いてみましょう。
 それで?だから何?
 イメージを持ったままで生きていけるわけはない。
 物事をやるのに、好き嫌いなんか言ってられるか!
 世の中を生きるのに、いちいち分別して生きているかと言いたい。
 それでは聞くがあなたは嫌いな仕事、嫌いな上司を避けて、楽な方、楽な方に生きてきたのだろうか。安楽な方へだ。あえて困難に立ち合おうとはしない。
 いいですか。世の中のお父さん方は、毎日歯を食いしばって、痛勤電車にのって頑張ってんだよ。会社の指令を受けながら。家族のためにだ。
 好き嫌いなんかいってられるか!
 好き嫌いで仕事してんじゃない。
 あなたはサラリーマンの気持ちはわからないらしい。
 妄想やイメージにふけっていられるのは,電車の中だけだよ。
 電車を降りれば、仕事の体勢に入る。当たり前の話だ。
 人と関わり合いでは、イメージの出番はない。
 
>
> > >
> > > 根本問題は生物の発展の過程で、思考(観念・イメージ?)の登場で混乱無秩序に陥っているということです。
> >
> >  何で混乱するのか。人間「如何に考えるのか」という根本教育を怠った結果です。
>
> いっぱい教えてきたのですが、どうも効果なく、正しいとか間違っているという声が大きくて、分裂・矛盾・葛藤しています。

 正しいか正しくないかではなく、如何に考えるかだ!
>
> >  生物の発展など関係ありません。
>
> 人間、特にサピエンスの世になってから、公害なんぞが出始めました。戦争もです。

 だからどうしたのか。
>
> >  アダムスキーの言葉から引用します。
> >
> >  ニコラス・マーレイ・バトラー博士がかって次のようにいったことがあります。
> > 「もし、人間がすすんで考えようとしさえすれば、世界のあらゆる問題を容易に解決することができるだろう」
> >  これはむしろこのようにいえばよかったのです。
> >  「もし人間が如何に考えるべきかを知りさえすれば!」
> >  これは現代の教育系統の一大欠陥です。というのは、青少年は如何に考えるべきかを教えられていないからです。
> >  以後省略
>
> しかし、教えてもらっていない人間の誰が教えるのですか? 

又、屁理屈か。素直に言葉を受け取ればいいものを。
         
> >  先程来日した、世界一貧しい大統領(パラグアイ)の言葉
> >  「人は考え方を変えよ」という言葉から確信を得ました。
> >
> > > それをよくわかって何とかしようよと、ただそれだけのことを言っています。
 意味がよくわかってないですね。

> > > 実際にそれがどういうふうに人間の生活に影響しているかは細部にわたって述べられています。だが自分自身でそれを理解し、生き様につなげることが重要です。
> >
> >  何度も言うように他人のことはどうであれ「自己完成」のみ。
> >  見近にある人を幸福に導くのみ。現実に我々ができるのはそれしかないでしょう。
> >  周囲に対して何が起きてるか観察のみ。いちいち感情移入しない。
>
> しかし、周りの人は次々に何やかやと言ってくるぞ。観察するだけでなく応対しないと怒りだすぞ。もちろん感情移入しないで後に何も残らないように応対できれば結構ですが。

 人間関係も普通のやりとりをすればいいわけです。できることをやる。いちいち感情にふりまわされるなということ。
 プロ野球の野村元監督は、監督時代、「考える」ということをことさら強調した。頭を使えと。昨日のボクシングの勝者イんタビューで「考える」というキーワードが出てきたのは、いささか驚いた。そのキーワードは、かのイチロー選手が言ってたキーワード。考える。一流はやはり違う。
 私たちのいう「考える」というのは、ホントに考えているのだろうか。
 将棋の詰め将棋あるいは数学の問題を説くとき、ホントに考えるという作業をするのは、それぐらいなのだろうか。という疑問が浮かんだ。
 考える。妄想イメージ、悩みとは違う。


[24718] Re:[24717] [24714] [24713] [24712] [24711] [24709] オカルトについて 投稿者:ゴト 投稿日:2017/10/22(Sun) 22:09  

> > > > どっちもありません。ただ、人事を尽くして、そのうえで一切の計らいがやみ、天命を待っている状態にあったことがあります。
> > >
> > >
> > >  クリシュナムルティとシャーマニズムについては、『クリシュナムルティとは誰だったのか』にて詳述されています。
> > >
> > >  『キッチン日記』や『知られざるクリシュナムルティ』においては、私的に関わった人物ゆえに知りえる、シャーマニズム的現象が記述されています。
> > >
> > >  空海の密教ではシャーマニズムが融合されているように、クリシュナムルティにおいても、シャーマニズムは生の一部のように感じます。
> >
> >
> > 昨夜ようやく「思考のネットワーク」の最後のアムステルダム・トーク2回目を読み終わりました。
> > それは生と死、宗教の話でした。これで私の探求は終わりかな。
> >
> > シャーマンの道は生の中にコズミックな秩序が顕現するとき自ずと現れるでしょう。
>
>
>  自ら求めるシャーマニズムは、逃避や娯楽に行き着くことでしょう・・。それゆえに、クリシュナムルティは十分慎重にそれを公開の場では避けたように思います。
>
>  しかし、自ら求めない、あちらからやって来るシャーマニズムは、生の一部として重要な役割があるように感じます。

はい。そのように思います。

>
>  『英知のターニングポイント(旧タイトル:思考のネットワーク)』の第5章を読んでいるところです。
>
>
>
>  >これで私の探求は終わりかな。−−、と言われる前に、ひとつお伺ってみたいことがあります。

それはこの掲示板を閉じるという事ではありません。もし質問があれば、一緒に調べましょう。

>
>  渡辺氏や船江氏(F氏)は、クリシュナムルティ理解に取り組んだにも関わらず、その基軸はクリシュナムルティオンリーではなく、クリシュナムルティを含む他のいくつかの哲学・宗教体系を併せて基軸としているように見受けられます。

あのー、F氏は船江氏という方ではありません。古沢さんです。
それから渡辺氏も古沢氏も私は特に区別しないですが。。
私にとっては集会や訳書によって大変お世話になった方です。
新しい芽さんには長い間、直接お目にかかって話をする機会がありましたが、それでもとても格の違いがあって、その深さはいかんともし難いところがありました。

>
>  私としては、なぜ他のものを必要とするのかが分かりません。
>
>  クリシュナムルティだけでは物足りないのなら、それは理解不充分と私なら解釈しますが、渡辺氏や船江氏は、物足りないのはクリシュナムルティ自体が不充分(不完全)として解釈しているのでしょうか。
>
>  『生と覚醒のコメンタリー4(新装版)』の訳者あとがきにて、訳者の大野純一氏が述べています、−−クリシュナムルティの探求もそろそろ終わりと思っていた・・、その矢先『クリシュナムルティは誰だったのか(英文)』が出版され、探求がまだ先まであるようだ・・の旨、そして当文献を邦訳出版する予定である旨−−が、あとがきに記されています。
>
>  先日のゴトさんのコメントにもありました。『時間の終焉』を読む前までは、葛藤のない日々だけでは物足りなくなった旨・・。
>
>  クリシュナムルティは、読み方によっては物足りなくなるようです。
>
>  その物足りなさは、クリシュナムルティ自体の不完全さから生ずるものなのか・・それとも、理解の不十分さから生ずるものなのか・・。
>
>  渡辺氏や船江氏は、どこで物足りなさを感じたのか・・。

まず私のことを言います。
私は見るという事を知識でなく実際に理解するという点から入りました。それは個人的悩みからの解放を願ったからです。その意味では悩みも葛藤も、基準などの低観念もなくなりました。大雑把に言ってですよ。

しかし、社会、戦争という問題は手の届かない別世界にあり、それは個人の人格の練磨という事で済ませておけない感じがあり、それは私が読んだKの本、時代はこのサイトに載っているころですが、その限界と私の持つ人間社会への理解の不足があったと思います。
「人類の未来」「時間の終焉」「思考のネットワーク」を読んで、ほかに普通の各種の本も読みましたが、私は人間社会を含めての理解に広がったので、上述の疑問は消えています。

宗教の分野ではまだ多くのことがあるでしょうが、私は関心がないのです。宗教心についてはアムステルダム・トーク2で済みです。

>
>  私の場合は探求の基軸がクリシュナムルティ一本なので、基軸が複数(クリシュナムルティを含めて他の数本)あることに違和感を覚えます。
>
>  そして、もしもクリシュナムルティをより深く理解したいのであれば、探求の芯はクリシュナムルティ一本とし、他の哲学・宗教体系は補助的支柱とならなければ、クリシュナムルティ理解は叶わないと感じています。
>
>  すなわち、渡辺氏や船江氏はクリシュナムルティ理解から逸れたと感じています。
>
>  ゴトさんのご意見をお聞かせ頂ければ幸いです。

私が何を望み、どのようにクリシュナムルティを理解したかは上に述べました。

例えばの話ですが、超常感覚の持ち主でこの世間の中に生きる人は、悩みと言っても相当に違うものがあるでしょう。Kをよく読んだ後の生き方も私にはわからないものがあるでしょう。宗教哲学に深く入った人はまたそれとの対決?がいるかと思います。

真理というものは生きた瞬時瞬時のもので、教条と言ったものでないゆえ、ほかの人の理解を洞察するのはそう簡単ではないように思います。むしろ自分のイメージの投影を疑う事が先にあるものかもしれません。私など、Kにじかに触れたこともありません。Kを読み、実際に生きる中で学んだ言葉化されない何か、つまり私の理解があるだけではないかと思います。そういう意味では常に用心深い気付きがいるのでしょうか。


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