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[25124] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/02/13(Tue) 22:09  

https://kakuyomu.jp/works/1177354054884789358/episodes/1177354054885176915 詩を書いてみました。よかったら読んでみてください。


[25123] Re:[25122] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/02/12(Mon) 23:35  

> なかんか、縁が切れない。

いや、あなたはなかなかいい問題を取り上げくれるなあ。ほんとに話したくなる。

今日はもう寝ます。


[25122] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/02/12(Mon) 22:42  

なかんか、縁が切れない。


[25121] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/02/12(Mon) 20:58  

https://soundcloud.com/taishi-ohira-745737342/klysi77g1jr3 簡単なBGMを書いてみました。


[25120] Re:[25118] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/02/12(Mon) 20:31  

> 覚醒は自我を通して理解することではありません。
>
> 覚醒意識は、人生、自分や他人、、、
> あなたの10ある悩みとか、犬とか猫とか、
> 何も見られないのです。

ここで覚醒に意識がくっついているがこれは何かな?

> 歪曲したエゴを通して見ていないのですよ。
>
> 究極的には、覚醒とは歪曲の無い気づきのことです。
>
> 思考に気づいていようと
> 感情に気づいていようと
> 状況に気づいていようと
> 人間関係に気づいていようと
>
> ただ、歪曲のレンズを通さず、純粋に気づいているのです。
>
> それが覚醒なのです。

あい分かった。

> たいていの人が望んでいるのは
> 永遠の悟り体験、永遠の覚醒体験、
> 永遠のアウェイクニング体験でしょう。
>
> しかし、覚醒は、終わりの無い体験とは何も関係がありません。
>
> 悟りは永遠に続くというという誤解は、
> 悟りを得たいという思いに駆り立てるでしょうね。

継続するととは問題外であるという事。

> 覚醒は確かに、
> 素晴らしい体験です。
>
> ただ在ることは、
> それは幸福であり平和です。
>
> それは探求の終わりでもあります。
>
> しかし、
> あなたが何かを分かるということでも、
> あなたが何かを受け入れるということでも
> あなたが何かを成し遂げるということでもなく。
>
> 単に、あるがままに見るということです。

そうですが、あなたは何を言わんと欲しているのだろう。

> 本質は無です。
> あなたが持っているものは何でも、それは実在しないのですね。
>
> 全ての本質は
> それは全て実態のないものだということです。
>
> 全ては、歪曲された意識の状態なのですよ。

覚醒して生きる《生》は本質的な生だけど!?


[25119] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/02/12(Mon) 17:16  

今しかない。時間はない。今しかない!
今しかないんだ!


[25118] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/02/12(Mon) 17:13  

覚醒は自我を通して理解することではありません。

覚醒意識は、人生、自分や他人、、、
あなたの10ある悩みとか、犬とか猫とか、
何も見られないのです。

歪曲したエゴを通して見ていないのですよ。

究極的には、覚醒とは歪曲の無い気づきのことです。

思考に気づいていようと
感情に気づいていようと
状況に気づいていようと
人間関係に気づいていようと

ただ、歪曲のレンズを通さず、純粋に気づいているのです。

それが覚醒なのです。

たいていの人が望んでいるのは
永遠の悟り体験、永遠の覚醒体験、
永遠のアウェイクニング体験でしょう。

しかし、覚醒は、終わりの無い体験とは何も関係がありません。

悟りは永遠に続くというという誤解は、
悟りを得たいという思いに駆り立てるでしょうね。

覚醒は確かに、
素晴らしい体験です。

ただ在ることは、
それは幸福であり平和です。

それは探求の終わりでもあります。

しかし、
あなたが何かを分かるということでも、
あなたが何かを受け入れるということでも
あなたが何かを成し遂げるということでもなく。

単に、あるがままに見るということです。

本質は無です。
あなたが持っているものは何でも、それは実在しないのですね。

全ての本質は
それは全て実態のないものだということです。

全ては、歪曲された意識の状態なのですよ。


[25117] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/02/12(Mon) 17:11  

私が神を見ている目と、神が私を見ている目は同じものある。


[25116] Re:[25115] [25114] [25113] [25112] [25111] [25110] [25109] [25107] [25106] [25105] [25103] [25101] [25100] [25099] [25098] [25093] [25092] 生きる根源の力(続き) 投稿者:ゴト 投稿日:2018/02/11(Sun) 22:29  

> > > > > > > > > > > > > > > > > [25090]
> > > > > > > > > > > > > > > > > > 欲動 父 意志 集合無意識 ディオニュソス 腹
> > > > > > > > > > > > > > > > > > 超自我 子 愛 個人的無意識 ハート
> > > > > > > > > > > > > > > > > > 自我 母 知性 顕在意識 アポロン マインド
> > > > > > > > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > > > > > > > [25091]
> > > > > > > > > > > > > > > > > > この三面は、すべて欲動=リビドーなのです。
> > > > > > > > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > > > > > > > 大変興味深い示唆をいただきました。
> > > > > > > > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > > > > > > > 欲動は三面の現れ方をする。父性、生殖、女性というか、腹(ガッツ?)、ハート、マインドとも言える――と私は受け取りました。
> > > > > > > > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > > > > > > > そこでですが、このおおもとの欲動の噴出があるとき、それはコスモス的秩序の内につつまれているのでしょうか?それともそれは混とんそのものなのでしょうか?
> > > > > > > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > > > > > > 欲動は、無秩序であり、カオスです。全面的な闇ですね。しかし、それは同時に調和しており美でもあります。
> > > > > > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > > > > > そう、そのとおりでしょう。二律背反ですが、根源的欲動(動因)にはカオスでありながら調和があり美があり、聖性があると私は叫びたくなります。
> > > > > > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > > > > > この欲動に純粋に随う事と、自分自身の内なる光に随って自由に生きることは同じでしょうか、違う事なのでしょうか?
> > > > > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > > > > リビドーは強烈なパワーを持っています。
> > > > > > > > > > > > > > 英雄の行動力や、哲学者の思想、聖者の強烈な献身を引き起こすのもリビドーです。
> > > > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > > > 私の問いが不明確で問題点をはっきり示せていないようです。明日は歯医者に行った後、もう一度問いをしっかり示せるように改めて書いてみます。
> > > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > > 私の疑問は人間が発生し、農耕を始め、備蓄、定住する前の段階では、動物も人は原始的欲動の赴くままに生きていて、それなりの秩序ある生を営んでいたと思います。
> > > > > > > > > > > > それが記憶を備えた今の意識、思考、言語を操りだしてから、分目の膨張に伴い明暗両方向への事柄の膨張は加速して、目の回る思いがあります。
> > > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > > これはヒトの感情にとってもあまりに負担が大きすぎるのでしょうか、あまりの悲惨が目につきます。人は確かな寄る辺に縋り付きたいのです。
> > > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > > 人の持つ欲動に対して何かのくびきをかけなくてはならないという思想が出てきましたが、いったい誰が誰にかけるのやら。
> > > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > > 人の持って生まれたリビドーの赴くままに生きつのでいいのか、何かのプラスアルファがいるのでしょうか?あまりにも原点の問いなのですが。
> > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > 欲動や超自我は悪くありません。
> > > > > > > > > > > 欲動は自然の本能です。自我が誤るのです。
> > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > 飲み食いセックス労働これらをシンプルにすることはありのままの人間の姿です。
> > > > > > > > > > > 自我が、エゴトリップするのが問題です。
> > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > エゴトリップするというのが私にはよくわからないのです。
> > > > > > > > > > シンプルに働くのは基本的に結構なことだというのは原則的に大賛成なのですが、その余暇を趣味や芸術やスポーツ、旅行、勉学など、何に使おうが結構なことじゃないかと思います。それを道徳的なことに限るとかいうと、みんなそんなことを聞くわけがありません。
> > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > 何が問題なのでしょう?
> > > > > > > > >
> > > > > > > > > マスコミによってあおられた。権力欲や、有名無実の目立ちたがりなどにおちいった現代人の状態がエゴトリップです。
> > > > > > > >
> > > > > > > > エゴトリップがようやくわかり始めたようです。
> > > > > > > > しかし平和な時代にようやく手にした幻想遊びを、人は簡単には手放しそうには思えませんね。
> > > > > > > >
> > > > > > > > 矛盾がまだ強烈でないこと、それが一部の悪者のせいだと思っている間は深刻に問題を見ようとはしないと思います。
> > > > > > > >
> > > > > > > > だがどこを見ればいいのだろうか。
> > > > > > >
> > > > > > > 葛藤したらそれは、自分のせいだと知ってるだけでも違うかもしれません。
> > > > > >
> > > > > > 外側のものがすべて「あるがままのもの」として見えていれば葛藤は起こりません。
> > > > > > 実際問題としての対処はおのずと飛び出し、成るようになる。
> > > > >
> > > > > たとえ容赦ない批判であっても受け入れることができる人は成熟した人です。
> > > >
> > > > 容赦のない批判でも《生》の動きの本質を外れているならリビドーは猛進あるのみでしょう。
> > >
> > > はい。本質をついてれば、怒号のような非難でもためになることがあります。
> >
> > リビドーの猛進のその時のありようを止めるのは今まで知らなかったことへの新しい理解、目覚め、気づきとかいうものしかあり得ませんが、(と私は思うのですが、)それは意図せずして起こるものですね。英知というか愛からというか。そしてまたそれを受け取る側に受け取ることを可能とする感受性がある。これらすべては一つのものですが、あえて言えば宗教心というのでしょうか?
> >
> > これが宇宙に遍満してあるのか否か、これが究極の不可能な質問でしょうか。
>
> 性愛は清らかだ。性愛は何も生まない。自我が入るとすべてが醜い。

うむ!それが普遍的に人を納得させることのできる答えかもしれない。それは思考の干渉も振りほどく力を秘めている。

しかし、凡人がそれで納得するかという疑問もあるが、それは脇にやって、私は気に入りました。どうもありがとう。あなたの答えには味(意外性)があって楽しくかつ目を開かれた。


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> > > > > > > > > > > > > > > > [25090]
> > > > > > > > > > > > > > > > > 欲動 父 意志 集合無意識 ディオニュソス 腹
> > > > > > > > > > > > > > > > > 超自我 子 愛 個人的無意識 ハート
> > > > > > > > > > > > > > > > > 自我 母 知性 顕在意識 アポロン マインド
> > > > > > > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > > > > > > [25091]
> > > > > > > > > > > > > > > > > この三面は、すべて欲動=リビドーなのです。
> > > > > > > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > > > > > > 大変興味深い示唆をいただきました。
> > > > > > > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > > > > > > 欲動は三面の現れ方をする。父性、生殖、女性というか、腹(ガッツ?)、ハート、マインドとも言える――と私は受け取りました。
> > > > > > > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > > > > > > そこでですが、このおおもとの欲動の噴出があるとき、それはコスモス的秩序の内につつまれているのでしょうか?それともそれは混とんそのものなのでしょうか?
> > > > > > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > > > > > 欲動は、無秩序であり、カオスです。全面的な闇ですね。しかし、それは同時に調和しており美でもあります。
> > > > > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > > > > そう、そのとおりでしょう。二律背反ですが、根源的欲動(動因)にはカオスでありながら調和があり美があり、聖性があると私は叫びたくなります。
> > > > > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > > > > この欲動に純粋に随う事と、自分自身の内なる光に随って自由に生きることは同じでしょうか、違う事なのでしょうか?
> > > > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > > > リビドーは強烈なパワーを持っています。
> > > > > > > > > > > > > 英雄の行動力や、哲学者の思想、聖者の強烈な献身を引き起こすのもリビドーです。
> > > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > > 私の問いが不明確で問題点をはっきり示せていないようです。明日は歯医者に行った後、もう一度問いをしっかり示せるように改めて書いてみます。
> > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > 私の疑問は人間が発生し、農耕を始め、備蓄、定住する前の段階では、動物も人は原始的欲動の赴くままに生きていて、それなりの秩序ある生を営んでいたと思います。
> > > > > > > > > > > それが記憶を備えた今の意識、思考、言語を操りだしてから、分目の膨張に伴い明暗両方向への事柄の膨張は加速して、目の回る思いがあります。
> > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > これはヒトの感情にとってもあまりに負担が大きすぎるのでしょうか、あまりの悲惨が目につきます。人は確かな寄る辺に縋り付きたいのです。
> > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > 人の持つ欲動に対して何かのくびきをかけなくてはならないという思想が出てきましたが、いったい誰が誰にかけるのやら。
> > > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > > 人の持って生まれたリビドーの赴くままに生きつのでいいのか、何かのプラスアルファがいるのでしょうか?あまりにも原点の問いなのですが。
> > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > 欲動や超自我は悪くありません。
> > > > > > > > > > 欲動は自然の本能です。自我が誤るのです。
> > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > 飲み食いセックス労働これらをシンプルにすることはありのままの人間の姿です。
> > > > > > > > > > 自我が、エゴトリップするのが問題です。
> > > > > > > > >
> > > > > > > > > エゴトリップするというのが私にはよくわからないのです。
> > > > > > > > > シンプルに働くのは基本的に結構なことだというのは原則的に大賛成なのですが、その余暇を趣味や芸術やスポーツ、旅行、勉学など、何に使おうが結構なことじゃないかと思います。それを道徳的なことに限るとかいうと、みんなそんなことを聞くわけがありません。
> > > > > > > > >
> > > > > > > > > 何が問題なのでしょう?
> > > > > > > >
> > > > > > > > マスコミによってあおられた。権力欲や、有名無実の目立ちたがりなどにおちいった現代人の状態がエゴトリップです。
> > > > > > >
> > > > > > > エゴトリップがようやくわかり始めたようです。
> > > > > > > しかし平和な時代にようやく手にした幻想遊びを、人は簡単には手放しそうには思えませんね。
> > > > > > >
> > > > > > > 矛盾がまだ強烈でないこと、それが一部の悪者のせいだと思っている間は深刻に問題を見ようとはしないと思います。
> > > > > > >
> > > > > > > だがどこを見ればいいのだろうか。
> > > > > >
> > > > > > 葛藤したらそれは、自分のせいだと知ってるだけでも違うかもしれません。
> > > > >
> > > > > 外側のものがすべて「あるがままのもの」として見えていれば葛藤は起こりません。
> > > > > 実際問題としての対処はおのずと飛び出し、成るようになる。
> > > >
> > > > たとえ容赦ない批判であっても受け入れることができる人は成熟した人です。
> > >
> > > 容赦のない批判でも《生》の動きの本質を外れているならリビドーは猛進あるのみでしょう。
> >
> > はい。本質をついてれば、怒号のような非難でもためになることがあります。
>
> リビドーの猛進のその時のありようを止めるのは今まで知らなかったことへの新しい理解、目覚め、気づきとかいうものしかあり得ませんが、(と私は思うのですが、)それは意図せずして起こるものですね。英知というか愛からというか。そしてまたそれを受け取る側に受け取ることを可能とする感受性がある。これらすべては一つのものですが、あえて言えば宗教心というのでしょうか?
>
> これが宇宙に遍満してあるのか否か、これが究極の不可能な質問でしょうか。

性愛は清らかだ。性愛は何も生まない。自我が入るとすべてが醜い。


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