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[25746] 無題 投稿者:明日を暗示する黄昏 投稿日:2018/08/04(Sat) 16:21  

世界から悪は消せない。できるのは自分がそれに影響されないことだ。


[25745] Re:[25744] [25743] [25738] 既知からの自由7−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/03(Fri) 11:57  

> > > 7章‐1 [関係]
> > >
> > > 暴力の消滅は、それをたった今考えてきたのですが、必ずしもそれ自体平和であり、従ってその関係全てにおいて平和な心を意味しないようです。
> >
> > え、何か肩透かしを食ったような気がするが、Kは何を言いたいのでしょうか?
> >
> > >  人間の間の関係はイメージ形成、自己防衛的な機構に基づいています。私達の全ての関係において各々が他の人についてイメージを作り、人間自身ではなく、この二つのイメージが関係を持ちます。妻は夫についてイメージを持ちます ― おそらく意識的にではないでしょうが、それでもイメージはそこにあります ― そして夫は妻についてイメージを持ちます。人は自分の国についてまた自分自身についてイメージを持ち、そして常にこれらイメージを、それにますます付け加えることによって強化しています。そして関係を持つのはこれらイメージなのです。二人の人間の間の、あるいは多くの人間の間の実際の関係は、イメージの形成があるとき完全に終わります。
> >
> > 確かにイメージをつくる能力は人間において大いに発達しています。推理推定する能力があり、現実にない物も想像することができます。未来像や理想像も描けます。それらは間違っている可能性が大きいですが、と言って無用という事ではありません。
> >
> > 関係のある他者に対し、推定像をつくって用心深く接します。関係が深まるとそのイメージはデータが増えて精度が上がると感じています。間違いもあるし、相手の変化もあります。一方に感覚像という事実に近い像もあります。そこには分別という蓄積されたデータがあってより信頼できます。
> >
> > そのようなもので関係が形成されています。それでイメージがあるとき関係は完全に終わるとはどういう意味でしょうか?
>
>
>  イメージが実際と少しだけ異なるだけなら有用かもしれません。しかし、大きく異なると関係は完全に終わるのではないでしょうか。
>
>  この「少しだけ」や「大きく」の判定を誰が行っているのか・・。判定の精度は・・。
>  幻想人の判定や精度をクリシュナムルティは否定しているのかもしれません。


判定をだれが行っているかが重要であると私は思います。
また判定することの大小とかなめの事柄があります。
具体的に言いますと、例えば夫婦が一緒に暮らせることのポイントはその心根の在り方ではないかと思います。いい意味でお互いにリスペクト出来るような心根がないと一緒には暮らせないでしょう。健康などは長い目で言うと多分偶然でしょうし、あとはなくて七癖でなるようにおさまればいい 。で、心根の判定は付き合ったイメージで決まるのでしょうか? 思考が決めるのでしょうか?
 そこは真剣であれば直感・理解の領域で決まると思います。このかなめを決める実感・理解の構造が基本にまずしっかりとあることが一つ。日常生活の中に心理的思考が介入することが実際を狂わし、心理的平和を破壊しているのがもう一つの課題です。


> > >  これらのイメージに基づく関係は、明らかにその関係に平和をもたらすことは出来ません。なぜならイメージは架空のものであり、人は抽象の中で生きることはできないからです。しかもなおそれが私達が皆やっていることなのです。観念、理論、象徴、イメージの中で生きています。それは私達が自分自身と他の人たちについて作り出したものであり、全く現実ではありません。全ての関係はそれが財産、観念、あるいは人々との関係のどれであろうと、本質的にこのイメージ形成に基づいており、それゆえに常に葛藤があります。
> >
> > イメージに基づいている関係は現実、リアリティではないだろうという事です。それはそうですが、現実を把握するという事は完全にできるというものではないですが?、限度があり試行錯誤するのは当然だと思いますが。
> > なぜか?、葛藤が絶えないからということです。平和がない。。
>
>
>  幻想人が大きく異なった判定と精度をもって関係に生きると、そこでは本末転倒を避けえない。

そう、人間意識が作り出した幻想界が大混乱を生んでいる、


> > >  では自分自身の内部とほかの人との全ての関係において、完全に平和であることはどうすれば可能でしょうか? 結局生は関係の中での動きであり、さもなければ生は全くなく、そしてもしその生が抽象、観念、あるいは推測的な仮定に基づいているなら、そのような抽象的な生は必然的に戦場になる関係をもたらすに違いありません。では人がどんな形の強制、模倣、抑圧、あるいは昇華もなく、完全に秩序のある内的な生を生きることはいったい可能でしょうか? 観念の枠組みの内側にはない生きている質である秩序 ― どんな瞬間にもかき乱されることを知らない内部の静穏 ― その様な自分自身の中の秩序を、幻想的で神秘的な抽象の世界ではなく、家庭と事務所の日常生活にもたらすことができるでしょうか?
> >
> > ?よくわからない。とにかく普通の日常生活の中に平和はあり得ないのだろうかと問われている?
>
>
>  幻想人が大きく異なった判定と精度をもって関係に生きると、そこでは本末転倒を避けえないのではないでしょうか。

観念の枠組みにない生きている質である秩序、これこそが実感・理解を司るものかもしれない。そこを明確にしたい。
>
>
> > >  この問いを非常に注意深く調べるべきだと思います。なぜなら私達の意識の中には、葛藤と無関係な場所は一つもないからです。もっとも親しい人との関係であっても、隣人や社会との関係であっても、私達の全ての関係の中にこの葛藤 ― 矛盾であり、分離、区別の状態であり、二重性である葛藤が存在します。自分自身や社会に対する自分の関係を観察すると、自分の存在のあらゆるレベルで葛藤 ― 非常に表面的な反応や破壊的な結果をもたらす小さな、あるいは大きな葛藤があるのがわかります。
> >
> > 私たちの生が葛藤、苦闘に満ちたものであるという事はわかります。それでも静穏の中で葛藤なく暮らすことはできないのかと問う事を言っているのでしょうか?
> > これが第7章のテーマでしょうか?
>
>
>  幻想人の判定と精度の良し悪しは、幻想人から見ると、現実生活に耐えうるものだと思われている。
>  しかし、クリシュナムルティは、現実生活において、平均寿命まで生きることには耐えうるが、>暴力の消滅は、それをたった今考えてきたのですが、必ずしもそれ自体平和であり、従ってその関係全てにおいて平和な心を意味しないようです。−−、これを解消することはできないのではないか・・と述べているのではないでしょうか。。


はい。そうでしょう。完全な静穏は現実に生まれるでしょうか? 先をじっくり読みましょう。
>
>
> > > (続く)


[25744] Re:[25743] [25738] 既知からの自由7−1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/08/03(Fri) 09:18  

> > 7章‐1 [関係]
> >
> > 暴力の消滅は、それをたった今考えてきたのですが、必ずしもそれ自体平和であり、従ってその関係全てにおいて平和な心を意味しないようです。
>
> え、何か肩透かしを食ったような気がするが、Kは何を言いたいのでしょうか?
>
> >  人間の間の関係はイメージ形成、自己防衛的な機構に基づいています。私達の全ての関係において各々が他の人についてイメージを作り、人間自身ではなく、この二つのイメージが関係を持ちます。妻は夫についてイメージを持ちます ― おそらく意識的にではないでしょうが、それでもイメージはそこにあります ― そして夫は妻についてイメージを持ちます。人は自分の国についてまた自分自身についてイメージを持ち、そして常にこれらイメージを、それにますます付け加えることによって強化しています。そして関係を持つのはこれらイメージなのです。二人の人間の間の、あるいは多くの人間の間の実際の関係は、イメージの形成があるとき完全に終わります。
>
> 確かにイメージをつくる能力は人間において大いに発達しています。推理推定する能力があり、現実にない物も想像することができます。未来像や理想像も描けます。それらは間違っている可能性が大きいですが、と言って無用という事ではありません。
>
> 関係のある他者に対し、推定像をつくって用心深く接します。関係が深まるとそのイメージはデータが増えて精度が上がると感じています。間違いもあるし、相手の変化もあります。一方に感覚像という事実に近い像もあります。そこには分別という蓄積されたデータがあってより信頼できます。
>
> そのようなもので関係が形成されています。それでイメージがあるとき関係は完全に終わるとはどういう意味でしょうか?


 イメージが実際と少しだけ異なるだけなら有用かもしれません。しかし、大きく異なると関係は完全に終わるのではないでしょうか。

 この「少しだけ」や「大きく」の判定を誰が行っているのか・・。判定の精度は・・。
 幻想人の判定や精度をクリシュナムルティは否定しているのかもしれません。


> >  これらのイメージに基づく関係は、明らかにその関係に平和をもたらすことは出来ません。なぜならイメージは架空のものであり、人は抽象の中で生きることはできないからです。しかもなおそれが私達が皆やっていることなのです。観念、理論、象徴、イメージの中で生きています。それは私達が自分自身と他の人たちについて作り出したものであり、全く現実ではありません。全ての関係はそれが財産、観念、あるいは人々との関係のどれであろうと、本質的にこのイメージ形成に基づいており、それゆえに常に葛藤があります。
>
> イメージに基づいている関係は現実、リアリティではないだろうという事です。それはそうですが、現実を把握するという事は完全にできるというものではないですが?、限度があり試行錯誤するのは当然だと思いますが。
> なぜか?、葛藤が絶えないからということです。平和がない。。


 幻想人が大きく異なった判定と精度をもって関係に生きると、そこでは本末転倒を避けえない。


> >  では自分自身の内部とほかの人との全ての関係において、完全に平和であることはどうすれば可能でしょうか? 結局生は関係の中での動きであり、さもなければ生は全くなく、そしてもしその生が抽象、観念、あるいは推測的な仮定に基づいているなら、そのような抽象的な生は必然的に戦場になる関係をもたらすに違いありません。では人がどんな形の強制、模倣、抑圧、あるいは昇華もなく、完全に秩序のある内的な生を生きることはいったい可能でしょうか? 観念の枠組みの内側にはない生きている質である秩序 ― どんな瞬間にもかき乱されることを知らない内部の静穏 ― その様な自分自身の中の秩序を、幻想的で神秘的な抽象の世界ではなく、家庭と事務所の日常生活にもたらすことができるでしょうか?
>
> ?よくわからない。とにかく普通の日常生活の中に平和はあり得ないのだろうかと問われている?


 幻想人が大きく異なった判定と精度をもって関係に生きると、そこでは本末転倒を避けえないのではないでしょうか。


> >  この問いを非常に注意深く調べるべきだと思います。なぜなら私達の意識の中には、葛藤と無関係な場所は一つもないからです。もっとも親しい人との関係であっても、隣人や社会との関係であっても、私達の全ての関係の中にこの葛藤 ― 矛盾であり、分離、区別の状態であり、二重性である葛藤が存在します。自分自身や社会に対する自分の関係を観察すると、自分の存在のあらゆるレベルで葛藤 ― 非常に表面的な反応や破壊的な結果をもたらす小さな、あるいは大きな葛藤があるのがわかります。
>
> 私たちの生が葛藤、苦闘に満ちたものであるという事はわかります。それでも静穏の中で葛藤なく暮らすことはできないのかと問う事を言っているのでしょうか?
> これが第7章のテーマでしょうか?


 幻想人の判定と精度の良し悪しは、幻想人から見ると、現実生活に耐えうるものだと思われている。
 しかし、クリシュナムルティは、現実生活において、平均寿命まで生きることには耐えうるが、>暴力の消滅は、それをたった今考えてきたのですが、必ずしもそれ自体平和であり、従ってその関係全てにおいて平和な心を意味しないようです。−−、これを解消することはできないのではないか・・と述べているのではないでしょうか。。


> > (続く)


[25743] Re:[25738] 既知からの自由7−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/02(Thu) 16:56  

> 7章‐1 [関係]
>
> 暴力の消滅は、それをたった今考えてきたのですが、必ずしもそれ自体平和であり、従ってその関係全てにおいて平和な心を意味しないようです。

え、何か肩透かしを食ったような気がするが、Kは何を言いたいのでしょうか?

>  人間の間の関係はイメージ形成、自己防衛的な機構に基づいています。私達の全ての関係において各々が他の人についてイメージを作り、人間自身ではなく、この二つのイメージが関係を持ちます。妻は夫についてイメージを持ちます ― おそらく意識的にではないでしょうが、それでもイメージはそこにあります ― そして夫は妻についてイメージを持ちます。人は自分の国についてまた自分自身についてイメージを持ち、そして常にこれらイメージを、それにますます付け加えることによって強化しています。そして関係を持つのはこれらイメージなのです。二人の人間の間の、あるいは多くの人間の間の実際の関係は、イメージの形成があるとき完全に終わります。

確かにイメージをつくる能力は人間において大いに発達しています。推理推定する能力があり、現実にない物も想像することができます。未来像や理想像も描けます。それらは間違っている可能性が大きいですが、と言って無用という事ではありません。

関係のある他者に対し、推定像をつくって用心深く接します。関係が深まるとそのイメージはデータが増えて精度が上がると感じています。間違いもあるし、相手の変化もあります。一方に感覚像という事実に近い像もあります。そこには分別という蓄積されたデータがあってより信頼できます。

そのようなもので関係が形成されています。それでイメージがあるとき関係は完全に終わるとはどういう意味でしょうか?

>  これらのイメージに基づく関係は、明らかにその関係に平和をもたらすことは出来ません。なぜならイメージは架空のものであり、人は抽象の中で生きることはできないからです。しかもなおそれが私達が皆やっていることなのです。観念、理論、象徴、イメージの中で生きています。それは私達が自分自身と他の人たちについて作り出したものであり、全く現実ではありません。全ての関係はそれが財産、観念、あるいは人々との関係のどれであろうと、本質的にこのイメージ形成に基づいており、それゆえに常に葛藤があります。

イメージに基づいている関係は現実、リアリティではないだろうという事です。それはそうですが、現実を把握するという事は完全にできるというものではないですが?、限度があり試行錯誤するのは当然だと思いますが。
なぜか?、葛藤が絶えないからということです。平和がない。。

>  では自分自身の内部とほかの人との全ての関係において、完全に平和であることはどうすれば可能でしょうか? 結局生は関係の中での動きであり、さもなければ生は全くなく、そしてもしその生が抽象、観念、あるいは推測的な仮定に基づいているなら、そのような抽象的な生は必然的に戦場になる関係をもたらすに違いありません。では人がどんな形の強制、模倣、抑圧、あるいは昇華もなく、完全に秩序のある内的な生を生きることはいったい可能でしょうか? 観念の枠組みの内側にはない生きている質である秩序 ― どんな瞬間にもかき乱されることを知らない内部の静穏 ― その様な自分自身の中の秩序を、幻想的で神秘的な抽象の世界ではなく、家庭と事務所の日常生活にもたらすことができるでしょうか?

?よくわからない。とにかく普通の日常生活の中に平和はあり得ないのだろうかと問われている?

>  この問いを非常に注意深く調べるべきだと思います。なぜなら私達の意識の中には、葛藤と無関係な場所は一つもないからです。もっとも親しい人との関係であっても、隣人や社会との関係であっても、私達の全ての関係の中にこの葛藤 ― 矛盾であり、分離、区別の状態であり、二重性である葛藤が存在します。自分自身や社会に対する自分の関係を観察すると、自分の存在のあらゆるレベルで葛藤 ― 非常に表面的な反応や破壊的な結果をもたらす小さな、あるいは大きな葛藤があるのがわかります。

私たちの生が葛藤、苦闘に満ちたものであるという事はわかります。それでも静穏の中で葛藤なく暮らすことはできないのかと問う事を言っているのでしょうか?
これが第7章のテーマでしょうか?
>
> (続く)


[25742] Re:[25741] ただ見る? 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/02(Thu) 15:18  

> > それを、ただ思考なしに見るとか、イメージなしに見るとか、ただ見る、という言い方では、まったく伝わらぬ。
> > 第一「気持ち」が入っていない。
> > まったく無機質なら、誰でもやっている。
>
> ?
>
> 目を開ければ自然と周囲が見えます。それが無機質。

無機質。そういう言葉の使い方をするのですか? どうも情念みたいな何かがそこにないと無機質の目で見るという事になるらしい。つまり喜怒哀楽じみたものがないなら無機質という事ですか。

> そうではなく、有機的にというのは、「内面」に対して、関心を持って見る。親密になって見る。慈愛の目で見る。気持ちを込めて。全て同じ意味。

私の愛するものという志向性があるという事? 家畜を除いた野生の動物は人間らしい意識はないから無機質な目でしか見ていないという事?

> 見るではなく、正確には「観る」。(内観)

それが概念。定義がある。実際の生きた見るもしくは観るで話が進まない。

> 見るという表現だと視覚がイメージされてしまう。

視覚大いに結構。ネズミが猫の足跡を見つけて咄嗟にどうするか。生死がかかっているかもしれない。英知が発動する。無機質に見ているどころではない。予期せずに見たのだが、猫の足跡(の可能性大)であると妙観察知する。

> 例えば鳥を見ているのではなく、鳥を見ている「自分」を見る。

ネズミが鷹を観たら、すぐ茂みに隠れる。何で自分を見る?

> 注 「自分」という表現が、又誤弊される。鳥を見ているというだけだと、たんに網膜に写る鳥を見ているとなる。

スズメではなく鷹を見て何もわからないではネズミは死に絶えている。下手に動けばかえって見つかってしまう。
>
>
> >  >しかし暴力の様相をはっきりと見ることが出来ますか ― 暴力の様相を自分の外側だけでなく内面においても? それは暴力から脱するためにイデオロギーを受け入れていないので、暴力から完全に自由であるという事です。この事は単なる言葉の上の同意や不同意ではなく、極めて深い瞑想を必要とします。
> >
> >
> > 要するに、これを成し遂げた人間が果たしているのかどうかというのが最大の疑問。

そんな疑問を抱いていると生き残れないんじゃないか?
既知からの自由7−1に関連事項を書きます。


[25741] ただ見る? 投稿者:無明 投稿日:2018/08/02(Thu) 12:02  

>ただ見るという無機質な物言いでは何のことかわからない。
> 例えば「見る」という時、
> 「慈愛の目で見る」とか、
> 「愛の気持ちでもって見る」
> という言い方の変えれば、少しはニュアンスが違うだろう。


誠に残念なことながら、慈愛、愛を私たちのほとんどは概念でしか知らない。慈愛、愛の実物を知らないのだ。

本当でしょうか?意外なコメント。
子を持つ親は、子供に対し、慈愛の目で見ているのではないでしょうか。あるいは愛の気持ちで子供を見ている。とくに母親はそうです。
砂場で遊ぶ幼い子供をじっと見つめている母親。おなじみの光景。
その母親は、あれやっちゃダメ。これやっちゃダメと、いちいち子供の行為を規制しなかった。ただ見守るのみ。
あなたの言ってた「親密に」という言葉に置き換えてもいいでしょう。
あなたも子を持つ親ならわかるのでは。
つまり誰でも持っている。慈愛の目というものを。

あなたの言われる愛とは、もっと高尚な愛というものを想像してるのでしょうか。例えばマザーテレサの絶対愛。
確かに私たちは誰でもかんでも愛するというわけにはいきません。
イエスのいう「隣人を愛せよ」は無理です。しかし、理解は可能です。
その人を好きにはなれないが、その人 の生き方を理解することは可能。

>そこで愛の鞭といった矛盾、暴力が、正しいしつけの旗印のもとで起こる。慈悲、愛を概念で扱う時、恐ろしい食い違い、混乱が起こる。

愛を概念で扱う?
どういうこと?概念で人を好きになってる人はいないのではないですか?理屈はありません。
もちろん愛の鞭というのは言葉上の話で、実際は暴力。又母親の子供に対する行き過ぎたしつけは暴力。いわば過保護。

えーと何かゴッチャになってせんか。
仏教でいう慈悲とか慈愛というのは別な意味合いです。一般でいう
ところの愛というものではなく、男女間の愛情とは違います。


> それを、ただ思考なしに見るとか、イメージなしに見るとか、ただ見る、という言い方では、まったく伝わらぬ。
> 第一「気持ち」が入っていない。
> まったく無機質なら、誰でもやっている。



目を開ければ自然と周囲が見えます。それが無機質。
そうではなく、有機的にというのは、「内面」に対して、関心を持って見る。親密になって見る。慈愛の目で見る。気持ちを込めて。全て同じ意味。
見るではなく、正確には「観る」。(内観)
見るという表現だと視覚がイメージされてしまう。
例えば鳥を見ているのではなく、鳥を見ている「自分」を見る。

注 「自分」という表現が、又誤弊される。鳥を見ているというだけだと、たんに網膜に写る鳥を見ているとなる。


>  >しかし暴力の様相をはっきりと見ることが出来ますか ― 暴力の様相を自分の外側だけでなく内面においても? それは暴力から脱するためにイデオロギーを受け入れていないので、暴力から完全に自由であるという事です。この事は単なる言葉の上の同意や不同意ではなく、極めて深い瞑想を必要とします。
>
>
> 要するに、これを成し遂げた人間が果たしているのかどうかというのが最大の疑問。

「問われて名乗るもおこがましいが」(これジョークだからね)私は概念と実物の区別はつくつもりでいるけれど。

そう言った単純な話ではない。深い瞑想の話。
ラジネーシ曰く 「誰も変わりやしなかった 」。くしくもクリシュナムルティ本人もそう言っている。
精神世界の巨人は、相通じるものがあったのだろう。

> 成し遂げた「つもり」 の人はいるかもしれない。いわば「錯覚人間」自称変容。それがほんとに変容なのか確認しようがない。自己申告制なので。
>概念か実物かわかる人はこんなことで悩まないのでは。

あなたは自称のようです。〜〜のつもり。

たとえばの話。ある人が悟っているという。傍目ではわからない。
本人のことは本人のことしかわからないので確認のしようがない。結局その人の生き方言動を見るしかない。

> 他 のアプローチで光明を得た人間は多数いる。

>光明はどうでもいいから、概念と実物を見分けると世の中かなり平和になると思うよ。

カラスそのものと、「カラス」という言葉の違いは小学生以上の学力ならわかるのではないですか。



[25740] あるがまま、ありのまま 投稿者:無明 投稿日:2018/08/02(Thu) 10:56  

美輪明宏の講話によく出てくる話。
採りたての大根は、「あるがまま」。泥だらけであり、すぐには食べられない。
その大根を、どうやって食べるか。それが人間に与えられた創意工夫。
イノシシなら、そのまま貪り食う。人間なら洗って食べる。そして食べ方を工夫する。


[25739] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/08/02(Thu) 10:22  

>ラジニーシの本は「存在の詩」をはじめ随分読んでいる。
始めインドに教団を構え、乱交による多数の私生児に地元の人は悩まされたという。それで米国に移住したが、教団の実権は次第にラジニーシから教団幹部に移り、瓦解して南洋の孤島にて終わった。
その修行法はワーク的であり、超常体験をもたらすものであったらしい。 確かにハートに働きかけたが、何も社会的に評価できるものなしに終わった。日本の作家がその足跡を追求した文学作品がある。

ラジニーシの講話はKに比べれば100倍も面白いエンタメ性がある。しかし私はここで取り上げる気はない。

コメントされるとは思いませんでした。

え〜とラジ二ーシの私生活についてのコメントがありましたが、あなた方がクリシュナムルティの私生活がどうであれ、教えが重要であるという立場を崩さないように、ラジ二ーシの教え の内容が重要です。何を言ったかが問題。

彼の先の文章はクリシュナムルティについて的確に捉えている。いくら言ってることが正しくとも、人にアプローチできないようでは何の意味もない。
「誰も変わりやしなかった」となる。




[25738] 既知からの自由7−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/02(Thu) 07:55  

7章‐1 [関係]

暴力の消滅は、それをたった今考えてきたのですが、必ずしもそれ自体平和であり、従ってその関係全てにおいて平和な心を意味しないようです。

 人間の間の関係はイメージ形成、自己防衛的な機構に基づいています。私達の全ての関係において各々が他の人についてイメージを作り、人間自身ではなく、この二つのイメージが関係を持ちます。妻は夫についてイメージを持ちます ― おそらく意識的にではないでしょうが、それでもイメージはそこにあります ― そして夫は妻についてイメージを持ちます。人は自分の国についてまた自分自身についてイメージを持ち、そして常にこれらイメージを、それにますます付け加えることによって強化しています。そして関係を持つのはこれらイメージなのです。二人の人間の間の、あるいは多くの人間の間の実際の関係は、イメージの形成があるとき完全に終わります。

 これらのイメージに基づく関係は、明らかにその関係に平和をもたらすことは出来ません。なぜならイメージは架空のものであり、人は抽象の中で生きることはできないからです。しかもなおそれが私達が皆やっていることなのです。観念、理論、象徴、イメージの中で生きています。それは私達が自分自身と他の人たちについて作り出したものであり、全く現実ではありません。全ての関係はそれが財産、観念、あるいは人々との関係のどれであろうと、本質的にこのイメージ形成に基づいており、それゆえに常に葛藤があります。

 では自分自身の内部とほかの人との全ての関係において、完全に平和であることはどうすれば可能でしょうか? 結局生は関係の中での動きであり、さもなければ生は全くなく、そしてもしその生が抽象、観念、あるいは推測的な仮定に基づいているなら、そのような抽象的な生は必然的に戦場になる関係をもたらすに違いありません。では人がどんな形の強制、模倣、抑圧、あるいは昇華もなく、完全に秩序のある内的な生を生きることはいったい可能でしょうか? 観念の枠組みの内側にはない生きている質である秩序 ― どんな瞬間にもかき乱されることを知らない内部の静穏 ― その様な自分自身の中の秩序を、幻想的で神秘的な抽象の世界ではなく、家庭と事務所の日常生活にもたらすことができるでしょうか?

 この問いを非常に注意深く調べるべきだと思います。なぜなら私達の意識の中には、葛藤と無関係な場所は一つもないからです。もっとも親しい人との関係であっても、隣人や社会との関係であっても、私達の全ての関係の中にこの葛藤 ― 矛盾であり、分離、区別の状態であり、二重性である葛藤が存在します。自分自身や社会に対する自分の関係を観察すると、自分の存在のあらゆるレベルで葛藤 ― 非常に表面的な反応や破壊的な結果をもたらす小さな、あるいは大きな葛藤があるのがわかります。

(続く)


[25737] Re:[25731] 既知からの自由6−4(原文) 投稿者:宮啓 投稿日:2018/08/01(Wed) 16:46  

> 6章‐4 [理想と現実]
>
>  そこで中心の問題に戻りましょう ― 自分自身の中の暴力を消すことは可能でしょうか? 「あなたは変わっていない、なぜ変わらないのか?」と言う事は暴力の一形態です。私はそのようなことはしていません。あなたに何かを納得させることは私には何も意味しません。それはあなたの生であり、私の生ではありません。あなたの生き方はあなたの事柄です。人間にとってどんな社会に生きていても、心理的に自分の内部から暴力を一掃することは可能かどうか、尋ねているのです。もし可能なら、まさにその過程そのものがこの世界に違う生き方を生み出すでしょう。


 >「あなたは変わっていない、なぜ変わらないのか?」と言う事は暴力の一形態です。−−、現にあるものに対して、そうであってはならないという強要・要求、非難は、相手にとって苦痛であり、自由を阻害されるものである。苦痛であり自由を阻害されるものは暴力として感じられる。


 >人間にとってどんな社会に生きていても、心理的に自分の内部から暴力を一掃することは可能かどうか、尋ねているのです。−−、戦国時代に生きていても、障がい者として生まれてきても、貧困家庭に生まれてきても、>心理的に自分の内部から暴力を一掃することは可能か−−。
 裕福な家庭で平穏な時代を無難に導かれて、比較的平和な心で生きることはできる。しかし、それは、>自分を少し修正し、少しはより静かに、少しはより愛情を持って生きられるかもしれませんが、だがそれ自体の中に分析は全体的な知覚を与えません。−−、それは葛藤を免れず、問題としての生を歩み続けることになる。
 しかし、どんな境遇にあろうとも、暴力を一掃する過程は、その過程そのものが、自身をして、>この世界に違う生き方を生み出すでしょう。−−となる。



>  私達の大部分は暴力を生き方として受け入れています。二つの恐ろしい戦争は人類の間に ― すなわち、あなたと私の間に、ますます多くの障壁を築くこと以外に何も教えていません。しかし暴力を脱しようと望む私達のようなものにとっては、それはどのようになされればいいのでしょうか? 自分自身によるのであれ、専門家によるのであれ、分析を通じて何か達成されそうだとは私には思えません。自分を少し修正し、少しはより静かに、少しはより愛情を持って生きられるかもしれませんが、だがそれ自体の中に分析は全体的な知覚を与えません。しかしどう分析するか知らなければなりません。それは分析の過程で心は極めて鋭くなり、その鋭さ、注意、真剣さの質が全的な知覚をもたらすという意味です。人は事物全体を一目で見る目を持っていません。この目の明晰さは細部を見ることができ、そして飛躍するときのみ可能です。


 「分析」という説明言葉の難しさが述べられています。
 思考による分析は時間の場に居り>全体的な知覚を与えません−−となる。
 気づきと注意の中の分析は、>全的な知覚をもたらす−−。

 クリシュナムルティによる説明言葉は、その場その場で、その示そうとする意味を汲み取ることが肝要となる。


>  ある人たちは暴力から自分が抜け出るために、非暴力と呼ばれる概念、理想を用いてきました。しかし暴力の反対物、非暴力、の理想を持つことによって事実、現実から脱することができると考えます ― だができません。私達は数えきれない理想を持ってきました。あらゆる聖典はそれらで満ちていますが、なお私達は依然として暴力的です ― それゆえ何故暴力それ自体を扱い、言葉を一切忘れないのでしょう?


 法規に関わる暴力を抑圧して代わりに法規に触れない暴力へと変質させることはできる。その変質された暴力は生体へ影響し病気を引き起こしたり、不和を引き起こしたり、合法的な暴力へと形を変える。そして、そのルートを経てきた暴力が巡り巡って法規に触れる暴力へと集約されてゆく。
 そこで一貫して流れている「暴力」を誰も見ない。様々な様相の言葉が出てくるのみ。



>  現実を理解しようと望むなら、それに全注意を、全てのエネルギーを注がねばなりません。その注意とエネルギーは架空の、理想の世界を創るときそらされます。それゆえ完全に理想を払いのけることが出来るでしょうか? 本当に真剣な、真理が何か、愛が何か、見いだそうとする衝動を持つ人は概念を全く持ちません。彼は現実の中にだけ生きています。


 気づきと注意の場で生きている。その場では、>本当に真剣な、真理が何か、愛が何か、見いだそうとする衝動を持つ人は概念を全く持ちません。彼は現実の中にだけ生きています。−−


>  自分の怒りについての事実を調べるには、それに判断をしてはなりません。というのはその反対物を心に抱く瞬間、あなたはそれを非難し、従ってそれをありのままに見ることが出来ないからです。あなたが誰かを好きとか嫌いとか言うとき、ひどい様に聞こえますが、これは事実なのです。それを見、その中に完全に入って行くなら、それは終わります。しかし「嫌ってはいけない、心に愛を持たねばならない」というなら、あなたは二重の規範を持った偽善的な世界に生きています。今の瞬間を、完全に、十分に生きることは、いかなる非難や正当化の感覚もなく、あるがままのもの、現実のものと共に生きることです ― その時完全に理解するので全て終わります。はっきり見る時問題は解決されます。


 気づき、注意の場では、>あなたが誰かを好きとか嫌いとか言うとき、ひどい様に聞こえますが、これは事実なのです。それを見、その中に完全に入って行くなら、それは終わります。−−。

 時間の場では、>しかし「嫌ってはいけない、心に愛を持たねばならない」というなら、あなたは二重の規範を持った偽善的な世界に生きています。−−、成り行くことが反応として起こる。

 気づきと注意の場では、>今の瞬間を、完全に、十分に生きることは、いかなる非難や正当化の感覚もなく、あるがままのもの、現実のものと共に生きることです ― その時完全に理解するので全て終わります。はっきり見る時問題は解決されます。−−



>  しかし暴力の様相をはっきりと見ることが出来ますか ― 暴力の様相を自分の外側だけでなく内面においても? それは暴力から脱するためにイデオロギーを受け入れていないので、暴力から完全に自由であるという事です。この事は単なる言葉の上の同意や不同意ではなく、極めて深い瞑想を必要とします。


 暴力は快楽を伴うので、恐怖のように離れることが難しい。そのような離れがたいものに対しては、>極めて深い瞑想を必要とします。−−


>  今あなたは一連の記述を読みましたが、本当に理解しましたか? あなたの条件づけられた心、生き方、あなたが住んでいる社会の構造全体が、事実を見ることそして即座にそれから全く自由になるのを妨げています。あなたは「それについて考えてみよう、暴力から自由になることは可能か否か考えよう。自由になるようにやってみよう」と言います。「やってみよう」はあなたのできるもっともひどい声明の一つです。やってみることも最善を尽くすこともありません。それをするか、しないかどちらかです。あなたが時間を認めているのに対して家は燃えています。世界中と自分自身の中の暴力の結果として家は燃えていて、そしてあなたは「考えさせてください。どのイデオロギーが火を消すのに一番いいだろうか?」と言うのです。家が火事の時、水を運ぶ人の髪の色について論争するでしょうか?
>
> (6章 終わり)


 暴力に対応することは難しいが、もしもそれができるのであれば、それは、>極めて深い瞑想−−であり、極めて深い気づきであり、注意である。すなわち、最高の智恵であり、智恵の完成である。


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