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[25551] Re:[25542] [25540] [25533] [25532] [25530] 既知からの自由2−1 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/25(Mon) 17:21  

宮啓のたわごとにほとほとあきれ返る。

>  坐禅、哲学。
> > >
> > >  坐禅は関係の鏡の中ではなく学ぼうとするので不毛。
> >
> > ウーム、{生きた現実の}関係の中ではなく・・・とカッコ内を加えたい。
> > >
> > >  哲学は、知識から始めるので不毛。
> >
> > 古代ギリシャで知識もろくにないところから哲学は始まったと言えないか? 知識で組み立てらない領域に思いをはせるのが哲学の本来の姿とも思える。それが今、成立するか消滅するかの瀬戸際にあるではないかと思う。
> >
> > クリシュナムルティのといたところを本当に理解したい。それは何を言っているのか。
>
>
>  これがクリシュナムルティが聴いたら一番喜ぶところではないでしょうか。

Kが喜ぶ?何でそういう発想が出てくるのか。つまりKのごきげんをとりたい。サラリーマンと同じ。上司をもてなす。


>
>  「クリシュナムルティのといたところを本当に理解したい」、これが最初で最後の到達点なのかもしれません。

こては間違った発想。本当に理解するのは自分自身。クリシュナムルティではない。「クリシュナムルティ」は言葉にしすぎぬ。
>
>  渡辺さんにはこれがなかったのです。ここまでは至れなかった。。あの名訳にもかかわらず。

渡辺氏から言われそうです。「クリシュナムルティ」の呪縛から逃れていない。つまりKを離れて一人立ちできない。
「クリシュナムルティ」なんか捨てちまえ。
>
>  私には、これがクリシュナムルティ理解への取り組みの到達点のように感じられます。
>
>  これがあれば哲学に意味があり、坐禅に意味がある。

クリシュナムルティは形を否定している。渡辺氏は形をとっている。そこが違う。

>
>  すなわち、クリシュナムルティは真の哲学者であり、真の瞑想家であったのではないでしょうか。。
>  
クリシュナムルティは「何者」でもない。イタズラにレッテルを貼るな。まさに誇大評価。

おたくはクリシュナムルティの何なのか?
いたずらにクリシュナムルティを持ち上げる。
クリシュナムルティの「宣伝マン」?「 かばん持ち」?「スポークスマン」?それとも提灯持ち?

おたくのいってることは、会社という組織の中で、社長にゴマをする
「ゴマスリ社員」とかわらない。それと同じ心理。






[25550] Re:[25549] [25548] [25547] [25541] 既知からの自由2-2(2) 投稿者:宮啓 投稿日:2018/06/25(Mon) 14:22  

> > > > [条件付け]
> > > 感情は条件付けによりそっぽに向かって動いているようだ。全注意を注ぐといってもぴんと来ない。感情がそこに向いていないと全注意は注げない。とにかく条件付けに気づいて脱落させるしかないのか。。
> > >
> > > > (終わり)
> >
> >
> >  権威を感じるものは条件付けによるのか。依存を感じるものは条件付けによるものか。執着しているのは条件付けによるものか。恐怖は・・。安全願望は・・。
>
>
> 権威、依存、執着、恐怖、安全願望などは、あれば気づくことが出来そうだ。びくびくするとか、ぞっとするとか。しかし、条件付けられているという形で知覚できるのかな? そのためには権威・権力に従うという感じがないと言わないと思う。知的にはわかるが。権威に束縛されたという感じを意識したことはほとんどない。
>
>
> >  そして、「私」、自我が実在しているように感じるのは条件付けによるものか。。
>
>
> ここはそのうち、「既知からの自由」にも出てくると思うが、言い方を変えて自己意識というと、人間の場合これなくしては人間として生育していないという事になる。人間がいて言語の中で育てられて身につくものだが、自我と名付けらるものはプライドが出てくるときわかるものですが、人間を人間たらしめている自己意識(これを条件付けと呼んでっもいいですか?)とどう違うのだろう。ここは私にとっては哲学大辞典でも読みたいところです。どなたか教えてください。


 現にあるもの「A」があるとします。

 「A」を見て「A’」に見えるとします。

 「A’」は投影(幻想)であり、現実のあるがままは「A」です。

 ここで、「A」⇒「A’」、この投影過程が条件付けの働きではないでしょうか。

 >あなたが木を見て「あれは樫の木だ」、「バンヤンの木だ」と言うときでさえ、木に名づけることは、それは植物学の知識ですが、あなたの心を非常に条件付けているので、あなたと実際に木を見ていることの間に言葉が入ってくるということをわかっていますか? 木と出会うためには手を木に当てなければならないのであって、言葉は木に触れるのを助けはしないでしょう。−−、

 木を「A」、手で触れられることなく知識に収められた木を「A’」と置き換えることができるのではないでしょうか。

 「A」⇒「A’」、ここに条件付けが挟まれている。


 私がクリシュナムルティの陳述を聴いて感じることは、現にあるものから外れる投影、イメージ、結論等々は、何らかの条件づけが含意されているように思います。


[25549] Re:[25548] [25547] [25541] 既知からの自由2-2(2) 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/25(Mon) 12:27  

> > > [条件付け]
> > 感情は条件付けによりそっぽに向かって動いているようだ。全注意を注ぐといってもぴんと来ない。感情がそこに向いていないと全注意は注げない。とにかく条件付けに気づいて脱落させるしかないのか。。
> >
> > > (終わり)
>
>
>  権威を感じるものは条件付けによるのか。依存を感じるものは条件付けによるものか。執着しているのは条件付けによるものか。恐怖は・・。安全願望は・・。


権威、依存、執着、恐怖、安全願望などは、あれば気づくことが出来そうだ。びくびくするとか、ぞっとするとか。しかし、条件付けられているという形で知覚できるのかな? そのためには権威・権力に従うという感じがないと言わないと思う。知的にはわかるが。権威に束縛されたという感じを意識したことはほとんどない。


>  そして、「私」、自我が実在しているように感じるのは条件付けによるものか。。


ここはそのうち、「既知からの自由」にも出てくると思うが、言い方を変えて自己意識というと、人間の場合これなくしては人間として生育していないという事になる。人間がいて言語の中で育てられて身につくものだが、自我と名付けらるものはプライドが出てくるときわかるものですが、人間を人間たらしめている自己意識(これを条件付けと呼んでっもいいですか?)とどう違うのだろう。ここは私にとっては哲学大辞典でも読みたいところです。どなたか教えてください。


[25548] Re:[25547] [25541] 既知からの自由2-2(2) 投稿者:宮啓 投稿日:2018/06/24(Sun) 20:54  

> > [条件付け]
> >
> >  快楽を続けたり苦痛を避けたりする中で葛藤があるときのみ、いかに条件づけられているか自分で見ることができるでしょう。周りのあらゆることが完全に幸福なら、妻はあなたを愛し、あなたは妻を愛し、素敵な家、素敵な子供と沢山のお金があるなら、自分の条件付けに全く気付きません。しかし妨害があるとき ― 妻が誰かほかの人を見たり、金を失ったり、戦争あるいは何か他の苦痛や心配に脅かされるとき ― その時自分が条件づけられていることをしります。何かの種類の妨害に対して苦闘したり、何かの外部または内部の脅威に対して自分を守るとき、その時自分が条件づけられていることを知ります。そして殆どの私たちは殆どの時間、表面的にあるいは深く妨害されているので、まさにその妨害が、私たちが条件づけられているという事を示します。動物は可愛がられている限り申し分なく反応しますが、敵対される瞬間凶暴な性質の全体が出てきます。
>
>
> 快楽や苦痛を通じて葛藤があるときのみ、条件付けられていることを自分で見ることができる? 山ほどある条件付けのどれかに気づくことはありそうだが? 葛藤、すなわち矛盾が生じているのがKの言っている条件付けのことであり、それなら見つけられるでしょうという事ですか。
>  妨害のある時、静かにしていられないのが条件付けの表れなのか。
>
>
> >  私たちは生を妨害されます。政治、経済情勢、恐怖、残虐、自分自身のだけでなく世界の悲しみ。そしてそのことから、どんなにひどく狭く条件づけられているか実感します。ではどうすればいいでしょうか? 大抵の人がするようにその妨害を受け入れ、それに耐えて生きますか? 背中の痛みに耐えて生きることに慣れるように、それに慣れますか? それを我慢しますか?
> >
> >  私たち誰もの中に、物事を我慢し、それらに慣れ、それらを環境のせいにする傾向があります。「ああすべてがうまくいっていたなら私は違っていただろうに」あるいは「機会があればやって見せるのに」とか「あんなひどい目に遭ったので私は押し潰されたのだ」と言い、常に自分のうまくいかないことを他人や、環境や、経済情勢のせいにします。
> >
> >  妨害に慣れてしまうならそれは心が鈍くなったことを意味します。丁度自分の周囲の美に慣れてしまうと、もはやそれに気づかないのと同じです。無関心に、固く、冷淡になり、そして心はますます鈍くなります。妨害に慣れないなら、ある種の薬を飲んだり、政治団体に加入したり、叫んだり、書いたり、フットボールの試合や寺院や教会に行ったり、あるいは別の娯楽を見つけることによってそれから逃げようと試みます。
> >
> >  なぜ私たちは実際の事実から逃げるのでしょうか? 私たちは死を恐れます ― 一例として取り上げているだけですが ― そして私たちはあらゆる種類の理論、希望、信念を死の事実を隠すためにつくり出しますが、事実はなおそこにあります。事実を理解するためにはそれを見つめなければならず、それから逃げてはなりません。私たちはたいてい死だけでなく生も恐れています。家族のために恐れ、世論を、自分の職や安全を失うことを、沢山のほかのことを恐れています。単純な事実は私たちは恐れているという事であり、これやあれを恐れているという事ではありません。ではなぜ事実に直面しないのでしょう?
>
> どうすればいいかわからない、問題は複雑で要因はいっぱいあるし、多くの人の関わった生きた動きであるから。
>  あっ、これは自分の条件付けに気づくのではなく、世界を変えようとしている。
>
>
> >  現在の中でのみ事実に直面することができます。そして事実から常に逃げているため、それが現在あると決して認めないなら、決してそれに直面することはできません。そして逃避のあらゆる網を養成してきたので、私たちは逃避の習慣に捕らえられるのです。
>
>
> 自分の条件付けに目を向けるのではなく、他人や社会を非難したり、無力を感じ逃避したりしている。
>
>
> >  さて、あなたがともかく敏感で、ともかく真剣なら、自分の条件付けに気づくのみならず、またそれが帰着する危険に、それがどんな残忍さや憎悪に導くかに気づくでしょう。では、なぜ、自分の条件付けの危険を見てもあなたは行動しないのでしょうか? 怠惰だから、怠惰にはエネルギーが欠けているからでしょうか? ですが通り道のヘビとか、崖とか、火事のような即座の肉体的危険を見るなら、あなたはエネルギーを欠いてはいないでしょう。では、なぜ、自分の条件付けの危険を見るとき行動しないのでしょう? もし民族主義が自分自身の安全に対して危険なのを見たら行動しないでしょうか?
>
>
> 前回のところで自分は自分自身に目を向けていなかったと気づきました。それで今は自分自身の条件付けを見ます。気づきます。しかし、見たらなぜ行動しないかと問われます。
>
>
> >  答えは見ないということです。知的な分析の過程を通じて民族主義が自滅に導くのを見るかもしれませんが、しかしそこには感情を動かす内容がないのです。感情を動かす内容があるときのみあなたは活力に満ちるのです。
>
>
> 感情が動かない、感情が動く内容がない?
>
>
> >  自分の条件付けの危険を単に知的な概念として見るなら、それについて決して何もしないでしょう。危険を単なる観念として見るときには観念と行動の間に葛藤があり、その葛藤はあなたのエネルギーを奪い取ります。行動するのは、条件付けとその危険を即座に、崖を見るように見る時のみです。それゆえ見えることが行動です。
> >
> >  私たちはたいてい不注意に生を歩みます。育てられてきた環境にしたがって思慮なく反応しながら。そしてこのような反応は一層の束縛、一層の条件付けを作り出すだけです。しかし自分の全注意を自分の条件付けに注ぐ瞬間、あなたは過去から完全に自由であるのを、過去は自然に脱落するのを見るでしょう。
>
>
> 感情は条件付けによりそっぽに向かって動いているようだ。全注意を注ぐといってもぴんと来ない。感情がそこに向いていないと全注意は注げない。とにかく条件付けに気づいて脱落させるしかないのか。。
>
> > (終わり)


 権威を感じるものは条件付けによるのか。依存を感じるものは条件付けによるものか。執着しているのは条件付けによるものか。恐怖は・・。安全願望は・・。

 そして、「私」、自我が実在しているように感じるのは条件付けによるものか。。


[25547] Re:[25541] 既知からの自由2-2(2) 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/24(Sun) 16:16  

> [条件付け]
>
>  快楽を続けたり苦痛を避けたりする中で葛藤があるときのみ、いかに条件づけられているか自分で見ることができるでしょう。周りのあらゆることが完全に幸福なら、妻はあなたを愛し、あなたは妻を愛し、素敵な家、素敵な子供と沢山のお金があるなら、自分の条件付けに全く気付きません。しかし妨害があるとき ― 妻が誰かほかの人を見たり、金を失ったり、戦争あるいは何か他の苦痛や心配に脅かされるとき ― その時自分が条件づけられていることをしります。何かの種類の妨害に対して苦闘したり、何かの外部または内部の脅威に対して自分を守るとき、その時自分が条件づけられていることを知ります。そして殆どの私たちは殆どの時間、表面的にあるいは深く妨害されているので、まさにその妨害が、私たちが条件づけられているという事を示します。動物は可愛がられている限り申し分なく反応しますが、敵対される瞬間凶暴な性質の全体が出てきます。


快楽や苦痛を通じて葛藤があるときのみ、条件付けられていることを自分で見ることができる? 山ほどある条件付けのどれかに気づくことはありそうだが? 葛藤、すなわち矛盾が生じているのがKの言っている条件付けのことであり、それなら見つけられるでしょうという事ですか。
 妨害のある時、静かにしていられないのが条件付けの表れなのか。


>  私たちは生を妨害されます。政治、経済情勢、恐怖、残虐、自分自身のだけでなく世界の悲しみ。そしてそのことから、どんなにひどく狭く条件づけられているか実感します。ではどうすればいいでしょうか? 大抵の人がするようにその妨害を受け入れ、それに耐えて生きますか? 背中の痛みに耐えて生きることに慣れるように、それに慣れますか? それを我慢しますか?
>
>  私たち誰もの中に、物事を我慢し、それらに慣れ、それらを環境のせいにする傾向があります。「ああすべてがうまくいっていたなら私は違っていただろうに」あるいは「機会があればやって見せるのに」とか「あんなひどい目に遭ったので私は押し潰されたのだ」と言い、常に自分のうまくいかないことを他人や、環境や、経済情勢のせいにします。
>
>  妨害に慣れてしまうならそれは心が鈍くなったことを意味します。丁度自分の周囲の美に慣れてしまうと、もはやそれに気づかないのと同じです。無関心に、固く、冷淡になり、そして心はますます鈍くなります。妨害に慣れないなら、ある種の薬を飲んだり、政治団体に加入したり、叫んだり、書いたり、フットボールの試合や寺院や教会に行ったり、あるいは別の娯楽を見つけることによってそれから逃げようと試みます。
>
>  なぜ私たちは実際の事実から逃げるのでしょうか? 私たちは死を恐れます ― 一例として取り上げているだけですが ― そして私たちはあらゆる種類の理論、希望、信念を死の事実を隠すためにつくり出しますが、事実はなおそこにあります。事実を理解するためにはそれを見つめなければならず、それから逃げてはなりません。私たちはたいてい死だけでなく生も恐れています。家族のために恐れ、世論を、自分の職や安全を失うことを、沢山のほかのことを恐れています。単純な事実は私たちは恐れているという事であり、これやあれを恐れているという事ではありません。ではなぜ事実に直面しないのでしょう?

どうすればいいかわからない、問題は複雑で要因はいっぱいあるし、多くの人の関わった生きた動きであるから。
 あっ、これは自分の条件付けに気づくのではなく、世界を変えようとしている。


>  現在の中でのみ事実に直面することができます。そして事実から常に逃げているため、それが現在あると決して認めないなら、決してそれに直面することはできません。そして逃避のあらゆる網を養成してきたので、私たちは逃避の習慣に捕らえられるのです。


自分の条件付けに目を向けるのではなく、他人や社会を非難したり、無力を感じ逃避したりしている。


>  さて、あなたがともかく敏感で、ともかく真剣なら、自分の条件付けに気づくのみならず、またそれが帰着する危険に、それがどんな残忍さや憎悪に導くかに気づくでしょう。では、なぜ、自分の条件付けの危険を見てもあなたは行動しないのでしょうか? 怠惰だから、怠惰にはエネルギーが欠けているからでしょうか? ですが通り道のヘビとか、崖とか、火事のような即座の肉体的危険を見るなら、あなたはエネルギーを欠いてはいないでしょう。では、なぜ、自分の条件付けの危険を見るとき行動しないのでしょう? もし民族主義が自分自身の安全に対して危険なのを見たら行動しないでしょうか?


前回のところで自分は自分自身に目を向けていなかったと気づきました。それで今は自分自身の条件付けを見ます。気づきます。しかし、見たらなぜ行動しないかと問われます。


>  答えは見ないということです。知的な分析の過程を通じて民族主義が自滅に導くのを見るかもしれませんが、しかしそこには感情を動かす内容がないのです。感情を動かす内容があるときのみあなたは活力に満ちるのです。


感情が動かない、感情が動く内容がない?


>  自分の条件付けの危険を単に知的な概念として見るなら、それについて決して何もしないでしょう。危険を単なる観念として見るときには観念と行動の間に葛藤があり、その葛藤はあなたのエネルギーを奪い取ります。行動するのは、条件付けとその危険を即座に、崖を見るように見る時のみです。それゆえ見えることが行動です。
>
>  私たちはたいてい不注意に生を歩みます。育てられてきた環境にしたがって思慮なく反応しながら。そしてこのような反応は一層の束縛、一層の条件付けを作り出すだけです。しかし自分の全注意を自分の条件付けに注ぐ瞬間、あなたは過去から完全に自由であるのを、過去は自然に脱落するのを見るでしょう。


感情は条件付けによりそっぽに向かって動いているようだ。全注意を注ぐといってもぴんと来ない。感情がそこに向いていないと全注意は注げない。とにかく条件付けに気づいて脱落させるしかないのか。。

> (終わり)


[25546] Re:[25545] [25544] [25541] 既知からの自由2-2(1) 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/24(Sun) 14:37  

> > > [条件付け]
> > >
> > >  しかし、生まれる瞬間から死ぬ瞬間まで、心が「私」という狭い型の中で特定の文化によって形作られるとき、どうやって私たちは自由に見、学ぶことができるでしょうか? 何世紀も私たちは国籍、カースト、階級、伝統、宗教、言語、教育、文学、芸術、習慣、慣例、あらゆる種類の宣伝、経済的圧力、食べ物、住んでいる風土、自分の家族、自分の友達、自分の経験 ― 考えることのできるあらゆる影響によって条件づけられてきました ― したがって、あらゆる問題に対する私たちの反応は条件づけられています。
> >
> > 生まれてからどれほど条件付けられているか、Kにこう言葉を連発して言われると、反応が条件付けられているのは事実と思わざるを得ない。
> >
> > >  自分が条件づけられていることに気づいているでしょうか? それが自分に尋ねるべき最初のことです。どうやって条件付けから自由になるかではなく。あなたは決してそれから自由になれないかも知れず、そして「私はそれから自由にならなければならない」というなら、別の形の条件付けという別の罠に落ちるかもしれません。それゆえ自分が条件付けられているという事に気づいているでしょうか? あなたが木を見て「あれは樫の木だ」、「バンヤンの木だ」と言うときでさえ、木に名づけることは、それは植物学の知識ですが、あなたの心を非常に条件付けているので、あなたと実際に木を見ていることの間に言葉が入ってくるということをわかっていますか? 木と出会うためには手を木に当てなければならないのであって、言葉は木に触れるのを助けはしないでしょう。
> >
> > 自分が条件付けられているのに気づいているでしょうか? 意外に答えにくい質問ですね。そういう形では気づいていないですね。知的にはわかっています。しかし日本語でしゃべるとき何も引っかかったりしていません。
> >
> > >  どうやって自分が条件づけられているのを知りますか? 何が教えてくれるでしょうか? 何が空腹だと教えてくれるでしょうか? ― 理論としてではなく空腹であるという実際の事実を? 同様に、どうやって自分が条件づけられているという実際の事実を見いだしますか? 問題、挑戦に対する自分の反応によってではないでしょうか? あなたはあらゆる挑戦に対し自分の条件付けにしたがって反応し、条件付けが不適切なので常に不適切に反応します。
> >
> > どうも上手下手はあるが、普通に応答している気でいます。反応って感情的になったとき? それは気づきます。分離をもたらしたときに気づくか? 相手の反応で気づくことはあります。そのくらいかな。
> >
> > >  それに気づくとき、この人種、宗教、文化の条件付けは拘束されている感じをもたらさないでしょうか? 条件付けの一つの形、国籍だけを取り上げ、真剣に、完全に気づき、それを楽しむか反抗するかを、そしてもし反抗するなら、全ての条件付けを打破することを望むかどうかを見ましょう。自分の条件付けに満足しているなら明らかにそれについて何もしないでしょう。しかし条件付けに気づくときもし満足していないなら、あなたは条件付けなしには何事も決してしないということを実感するでしょう。決してしません! それゆえあなたは死んだものと一緒に過去の中に生きているのです。
> >
> > ここはコメントを書くのが難しいなあ。条件付けの違いに苦しむことが多かった気がする。
>
>
>  仏教でいう「因果」について、渡辺さんがKB会で説明しています(動画もアップされています)。
>
>  クリシュナムルティの上記の陳述を聴いて感じることが、ブッダも同様なことを述べていたのではないかと・・思いました。
>
>  時代が下るにつれて「因果」として固定された法則となって仏教の中で教えられているのではないでしょうか。
>
>  クリシュナムルティは、その「因果」を「条件付け」として切り崩しにかかっているように思われます。。


私のレスは自分の個人的反応を書いていますが、宮啓さんのコメントは条件付けの全体的な意義を見ていらっしゃいますね。

因果と言われたことを条件付けと反応として見、そこの革命を示す。クリシュナムルティの理解の一部と言う事ができるのではないか!



[25545] Re:[25544] [25541] 既知からの自由2-2(1) 投稿者:宮啓 投稿日:2018/06/24(Sun) 06:21  

> > [条件付け]
> >
> >  しかし、生まれる瞬間から死ぬ瞬間まで、心が「私」という狭い型の中で特定の文化によって形作られるとき、どうやって私たちは自由に見、学ぶことができるでしょうか? 何世紀も私たちは国籍、カースト、階級、伝統、宗教、言語、教育、文学、芸術、習慣、慣例、あらゆる種類の宣伝、経済的圧力、食べ物、住んでいる風土、自分の家族、自分の友達、自分の経験 ― 考えることのできるあらゆる影響によって条件づけられてきました ― したがって、あらゆる問題に対する私たちの反応は条件づけられています。
>
> 生まれてからどれほど条件付けられているか、Kにこう言葉を連発して言われると、反応が条件付けられているのは事実と思わざるを得ない。
>
> >  自分が条件づけられていることに気づいているでしょうか? それが自分に尋ねるべき最初のことです。どうやって条件付けから自由になるかではなく。あなたは決してそれから自由になれないかも知れず、そして「私はそれから自由にならなければならない」というなら、別の形の条件付けという別の罠に落ちるかもしれません。それゆえ自分が条件付けられているという事に気づいているでしょうか? あなたが木を見て「あれは樫の木だ」、「バンヤンの木だ」と言うときでさえ、木に名づけることは、それは植物学の知識ですが、あなたの心を非常に条件付けているので、あなたと実際に木を見ていることの間に言葉が入ってくるということをわかっていますか? 木と出会うためには手を木に当てなければならないのであって、言葉は木に触れるのを助けはしないでしょう。
>
> 自分が条件付けられているのに気づいているでしょうか? 意外に答えにくい質問ですね。そういう形では気づいていないですね。知的にはわかっています。しかし日本語でしゃべるとき何も引っかかったりしていません。
>
> >  どうやって自分が条件づけられているのを知りますか? 何が教えてくれるでしょうか? 何が空腹だと教えてくれるでしょうか? ― 理論としてではなく空腹であるという実際の事実を? 同様に、どうやって自分が条件づけられているという実際の事実を見いだしますか? 問題、挑戦に対する自分の反応によってではないでしょうか? あなたはあらゆる挑戦に対し自分の条件付けにしたがって反応し、条件付けが不適切なので常に不適切に反応します。
>
> どうも上手下手はあるが、普通に応答している気でいます。反応って感情的になったとき? それは気づきます。分離をもたらしたときに気づくか? 相手の反応で気づくことはあります。そのくらいかな。
>
> >  それに気づくとき、この人種、宗教、文化の条件付けは拘束されている感じをもたらさないでしょうか? 条件付けの一つの形、国籍だけを取り上げ、真剣に、完全に気づき、それを楽しむか反抗するかを、そしてもし反抗するなら、全ての条件付けを打破することを望むかどうかを見ましょう。自分の条件付けに満足しているなら明らかにそれについて何もしないでしょう。しかし条件付けに気づくときもし満足していないなら、あなたは条件付けなしには何事も決してしないということを実感するでしょう。決してしません! それゆえあなたは死んだものと一緒に過去の中に生きているのです。
>
> ここはコメントを書くのが難しいなあ。条件付けの違いに苦しむことが多かった気がする。


 仏教でいう「因果」について、渡辺さんがKB会で説明しています(動画もアップされています)。

 クリシュナムルティの上記の陳述を聴いて感じることが、ブッダも同様なことを述べていたのではないかと・・思いました。

 時代が下るにつれて「因果」として固定された法則となって仏教の中で教えられているのではないでしょうか。

 クリシュナムルティは、その「因果」を「条件付け」として切り崩しにかかっているように思われます。。


[25544] Re:[25541] 既知からの自由2-2(1) 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/23(Sat) 10:09  

> [条件付け]
>
>  しかし、生まれる瞬間から死ぬ瞬間まで、心が「私」という狭い型の中で特定の文化によって形作られるとき、どうやって私たちは自由に見、学ぶことができるでしょうか? 何世紀も私たちは国籍、カースト、階級、伝統、宗教、言語、教育、文学、芸術、習慣、慣例、あらゆる種類の宣伝、経済的圧力、食べ物、住んでいる風土、自分の家族、自分の友達、自分の経験 ― 考えることのできるあらゆる影響によって条件づけられてきました ― したがって、あらゆる問題に対する私たちの反応は条件づけられています。

生まれてからどれほど条件付けられているか、Kにこう言葉を連発して言われると、反応が条件付けられているのは事実と思わざるを得ない。

>  自分が条件づけられていることに気づいているでしょうか? それが自分に尋ねるべき最初のことです。どうやって条件付けから自由になるかではなく。あなたは決してそれから自由になれないかも知れず、そして「私はそれから自由にならなければならない」というなら、別の形の条件付けという別の罠に落ちるかもしれません。それゆえ自分が条件付けられているという事に気づいているでしょうか? あなたが木を見て「あれは樫の木だ」、「バンヤンの木だ」と言うときでさえ、木に名づけることは、それは植物学の知識ですが、あなたの心を非常に条件付けているので、あなたと実際に木を見ていることの間に言葉が入ってくるということをわかっていますか? 木と出会うためには手を木に当てなければならないのであって、言葉は木に触れるのを助けはしないでしょう。

自分が条件付けられているのに気づいているでしょうか? 意外に答えにくい質問ですね。そういう形では気づいていないですね。知的にはわかっています。しかし日本語でしゃべるとき何も引っかかったりしていません。

>  どうやって自分が条件づけられているのを知りますか? 何が教えてくれるでしょうか? 何が空腹だと教えてくれるでしょうか? ― 理論としてではなく空腹であるという実際の事実を? 同様に、どうやって自分が条件づけられているという実際の事実を見いだしますか? 問題、挑戦に対する自分の反応によってではないでしょうか? あなたはあらゆる挑戦に対し自分の条件付けにしたがって反応し、条件付けが不適切なので常に不適切に反応します。

どうも上手下手はあるが、普通に応答している気でいます。反応って感情的になったとき? それは気づきます。分離をもたらしたときに気づくか? 相手の反応で気づくことはあります。そのくらいかな。

>  それに気づくとき、この人種、宗教、文化の条件付けは拘束されている感じをもたらさないでしょうか? 条件付けの一つの形、国籍だけを取り上げ、真剣に、完全に気づき、それを楽しむか反抗するかを、そしてもし反抗するなら、全ての条件付けを打破することを望むかどうかを見ましょう。自分の条件付けに満足しているなら明らかにそれについて何もしないでしょう。しかし条件付けに気づくときもし満足していないなら、あなたは条件付けなしには何事も決してしないということを実感するでしょう。決してしません! それゆえあなたは死んだものと一緒に過去の中に生きているのです。

ここはコメントを書くのが難しいなあ。条件付けの違いに苦しむことが多かった気がする。


[25543] Re:[25542] [25540] [25533] [25532] [25530] 既知からの自由2−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/23(Sat) 08:54  

> > >  坐禅、哲学。
> > >
> > >  坐禅は関係の鏡の中ではなく学ぼうとするので不毛。
> >
> > ウーム、{生きた現実の}関係の中ではなく・・・とカッコ内を加えたい。
> > >
> > >  哲学は、知識から始めるので不毛。
> >
> > 古代ギリシャで知識もろくにないところから哲学は始まったと言えないか? 知識で組み立てらない領域に思いをはせるのが哲学の本来の姿とも思える。それが今、成立するか消滅するかの瀬戸際にあるではないかと思う。
> >
> > クリシュナムルティのといたところを本当に理解したい。それは何を言っているのか。
>
>
>  これがクリシュナムルティが聴いたら一番喜ぶところではないでしょうか。。
>
>  「クリシュナムルティのといたところを本当に理解したい」、これが最初で最後の到達点なのかもしれません。
>
>  渡辺さんにはこれがなかったのです。ここまでは至れなかった。。あの名訳にもかかわらず。
>
>  私には、これがクリシュナムルティ理解への取り組みの到達点のように感じられます。
>
>  これがあれば哲学に意味があり、坐禅に意味がある。
>
>  すなわち、クリシュナムルティは真の哲学者であり、真の瞑想家であったのではないでしょうか。。


ウーム、確かにひょっとするとそうかもしれない。このところいつも唸らされています。


[25542] Re:[25540] [25533] [25532] [25530] 既知からの自由2−1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/06/23(Sat) 08:01  

> >  坐禅、哲学。
> >
> >  坐禅は関係の鏡の中ではなく学ぼうとするので不毛。
>
> ウーム、{生きた現実の}関係の中ではなく・・・とカッコ内を加えたい。
> >
> >  哲学は、知識から始めるので不毛。
>
> 古代ギリシャで知識もろくにないところから哲学は始まったと言えないか? 知識で組み立てらない領域に思いをはせるのが哲学の本来の姿とも思える。それが今、成立するか消滅するかの瀬戸際にあるではないかと思う。
>
> クリシュナムルティのといたところを本当に理解したい。それは何を言っているのか。


 これがクリシュナムルティが聴いたら一番喜ぶところではないでしょうか。。

 「クリシュナムルティのといたところを本当に理解したい」、これが最初で最後の到達点なのかもしれません。

 渡辺さんにはこれがなかったのです。ここまでは至れなかった。。あの名訳にもかかわらず。

 私には、これがクリシュナムルティ理解への取り組みの到達点のように感じられます。

 これがあれば哲学に意味があり、坐禅に意味がある。

 すなわち、クリシュナムルティは真の哲学者であり、真の瞑想家であったのではないでしょうか。。
 




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