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[25938] Re:[25932] イメージなしに見る 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/28(Fri) 18:39  

>  Timeless Stillness 「非難・正当化・比較」 より引用
>
>
>  非難・正当化・比較

−−−−−−−−−−

> もし意味を見つけたいなら、フルに注意を働かせなさい。それが難しいのは我々が何に対しても言葉の正しい意味でまじめではないからです。あなたが何かに完全な注意を向けるときは、その結果として何も得ようとはしていません。そうでしょう。全体的な注意があるときそこに羨望はなく、変えよう修正しよう何かになろうとしている実体はありません。そこにはまったく自我がありません。その注意の瞬間には自我や「私」が不在であり、その注意された瞬間こそが善きことであり、愛なのです。
>
> Ojai 3rd Public Talk 13th August 1955
>
>  − − − 以上引用 − − −
>
>
>  ゴトさんが述べるところの「ミニ変容」とは、上記に説明されていることのように思いました。。

> そこにはまったく自我がありません。その注意の瞬間には自我や「私」が不在であり、その注意された瞬間こそが善きことであり、愛なのです。−−

これはミニ変容でも変容の本質がちゃんとあると思うのですが。
 個人の特定の家人とか仕事での話し合いの中で我欲とか非難正当化などが出る時、中心・私が出現していることに気づき、それなしに話すことが起こるなら、その上に何が必要でしょうか?、しかも起こりだすとそれはどんどん進みより深い執着も突破できます。


[25937] Re:[25933] Re 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/28(Fri) 18:13  

> > > >クリシュナムルティの陳述」との関係にも、イメージが挟まると、クリシュナムルティが陳述したことが起こらないのかもしれません。
> > >
> > >  なぜ、クリシュナムルティが陳述していることが起こらないのか。その理由は、クリシュナムルティの陳述に直接触れていないから。
> > >
> 以下の文章を拝見しましたが、新しい芽氏や森本武氏らのスタンスの違いがいっそう明確になりましたね。
>
> 彼らが言ってるのは
> 「自分の思考を疑え」
> それだけです。これはクリシュナムルティの究極の教えだとして日々実践しています。そして彼らは自分の言葉で日常を話している。
> 日々瞬時瞬時湧き出る思考に対してホントかどうか事実かどうかを検証する。その毎日、繰り返し。それには終わりはありません。
>
>
>
> > 解釈なしに見ることはすべてと言っていいぐらい重要だ。
>
> そうですか。それを毎日実践すると。イメージなしに見る。
>
> >実際の日常生活での挑戦に対し、イメージなしに見ている瞬間が訪れ、ミニ悟りが生じる。それが一度出れば、だんだん出やすくなって成長する。これは実際に起こることです。
>
>
> イメージなしに見ている瞬間が訪れるというと、それは稀なことですか?普段は出ない?

普段はイメージをいっぱい使います。そうでないと実用生活が送れません。家に帰るとき、自分の降りる駅というイメージを使います。駅から家への道はイメージとして頭に入っています。

> >  ところがKの、時間なしに、全的に、この世界の混迷を見てというトークの全体を聴いてにいないから全的変容がないと言われる。確かにKはそのように言っている。しかし追い詰められた現実世界の中の個人の一挑戦に全的に見て対処することは実際に起きる。トークを全的に聞いて大変容を開いた人はなかったとKも言った。それはトーク、あるいは本からリアリティがないからではないかとの疑問もある。
>
> Kの本というのは講演集を集めたものでしょう。一般に書籍というものは著書自ら書き上げ言葉を厳密に構築するものです。
> ところがKの本は、聴衆にしゃべったものをそのまま本にしている。だからところどころ矛盾したものが出てくる。

実際には編集者がずいぶん整理しているのがあります。
生の講演だと語調がわかるし、座の動揺、落ち着きなど雰囲気が伝わる。生きている会話です。

> >  それで本からでも心が絶対の静寂から聴き、変容することがないか、本当に聴くことに挑戦してみる人にはその道をやっていただけばいいと思う。尊敬を持って見ていようと思っています。
>
> どうぞやって見てください。「見る」「聞く」にこだわってようで。
> 人間というのは何も考えないでいることはでき ないのですよ。
> どうやってイメージなしに見るというのですか?

私心(自分の個人的先入観、信念、過度の自己願望など)なしに見る、聴く。心を目が覚めたようなしゃんとした状態にする。それはそうでないことに気づけば瞬間に切り替わる。

> 自分自身の体験ではイメージなしに見るというのは特別なことではない。何かに関心もって対象を見るときはイメージをなしに見ています。特別なことではない。絵を鑑賞するとき、桜を鑑賞するとき、映画を見ているとき、、富士山をを見ているとき、イメージなしで見ています。これはある意味当たり前のことです。誰でもそうです。

誰でもそうですか? ではないと思いますよ。娯楽として花見に行くのが大部分です。あるいは趣味として。

> ところがあなたは先の文章にあったように、いめなしに見る、ということに重きを置き、特別なことでだとお思いのようです。ミニ悟りまでいう。
> それではあなたのいわれるー「イメージなしに見る」というのは、どういうことなのでしょうか?

別に見る、聴くと変わりません。判断なしに見る、聴く。


[25936] 私は長い間この中にいました。 投稿者:Effigon 投稿日:2018/09/28(Fri) 17:10  

もうこれを行う別の方法を見つける必要から実現できる不可欠な利点は、あなたが何を言いたいのかを理解すること

http://publiclab.org/profile/sbobetconnect


[25935] Re:[25931] 空くう 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/28(Fri) 17:07  

> 空間、隔たり、ギャップ、分離のない心とおっしゃいますが、具体的にはどのような心の状態を指すのですか?どんな状況、場合の時に実現するのですか?

心が自分を意識しないで行為している時、あるいは何かを変えようとすることなしに行為している時、行為とは見る聴く、考える、話す、歩くとかの総称。
どういう時に起こるかというと、人と相対している時、必要な用事をしている時などかな。


[25934] 訂正 投稿者:無明 投稿日:2018/09/28(Fri) 15:17  

25933の題名は「イメージなしに見る」です。ところが前の投稿者が、イメージなしに見るとつけたため、Reとなってしまいました。

それも前の回の投稿は引用丸写しであり、イメージなしに見るとは関係ありません。ホント困った人間ですね。それも今の時間は会社にいる時間でしょう。暇を見てスマホで投稿する。気楽なもんです。
サラリーマンは気楽な稼業。会社をサボってコメントする。
仕事に集中してたらそんな時間はないはず。












[25933] Re 投稿者:無明 投稿日:2018/09/28(Fri) 15:02  

> > >クリシュナムルティの陳述」との関係にも、イメージが挟まると、クリシュナムルティが陳述したことが起こらないのかもしれません。
> >
> >  なぜ、クリシュナムルティが陳述していることが起こらないのか。その理由は、クリシュナムルティの陳述に直接触れていないから。
> >
以下の文章を拝見しましたが、新しい芽氏や森本武氏らのスタンスの違いがいっそう明確になりましたね。

彼らが言ってるのは
「自分の思考を疑え」
それだけです。これはクリシュナムルティの究極の教えだとして日々実践しています。そして彼らは自分の言葉で日常を話している。
日々瞬時瞬時湧き出る思考に対してホントかどうか事実かどうかを検証する。その毎日、繰り返し。それには終わりはありません。



> 解釈なしに見ることはすべてと言っていいぐらい重要だ。

そうですか。それを毎日実践すると。イメージなしに見る。

>実際の日常生活での挑戦に対し、イメージなしに見ている瞬間が訪れ、ミニ悟りが生じる。それが一度出れば、だんだん出やすくなって成長する。これは実際に起こることです。


イメージなしに見ている瞬間が訪れるというと、それは稀なことですか?普段は出ない?
>
>  ところがKの、時間なしに、全的に、この世界の混迷を見てというトークの全体を聴いてにいないから全的変容がないと言われる。確かにKはそのように言っている。しかし追い詰められた現実世界の中の個人の一挑戦に全的に見て対処することは実際に起きる。トークを全的に聞いて大変容を開いた人はなかったとKも言った。それはトーク、あるいは本からリアリティがないからではないかとの疑問もある。

Kの本というのは講演集を集めたものでしょう。一般に書籍というものは著書自ら書き上げ言葉を厳密に構築するものです。
ところがKの本は、聴衆にしゃべったものをそのまま本にしている。だからところどころ矛盾したものが出てくる。


>
>  それで本からでも心が絶対の静寂から聴き、変容することがないか、本当に聴くことに挑戦してみる人にはその道をやっていただけばいいと思う。尊敬を持って見ていようと思っています。

どうぞやって見てください。「見る」「聞く」にこだわってようで。
人間というのは何も考えないでいることはでき ないのですよ。
どうやってイメージなしに見るというのですか?

自分自身の体験ではイメージなしに見るというのは特別なことではない。何かに関心もって対象を見るときはイメージをなしに見ています。特別なことではない。絵を鑑賞するとき、桜を鑑賞するとき、映画を見ているとき、、富士山をを見ているとき、イメージなしで見ています。これはある意味当たり前のことです。誰でもそうです。

ところがあなたは先の文章にあったように、いめなしに見る、ということに重きを置き、特別なことでだとお思いのようです。ミニ悟りまでいう。
それではあなたのいわれるー「イメージなしに見る」というのは、どういうことなのでしょうか?





[25932] イメージなしに見る 投稿者:宮啓 投稿日:2018/09/28(Fri) 14:44  

 Timeless Stillness 「非難・正当化・比較」 より引用


 非難・正当化・比較

Q:非難も正当化も比較もしないことは意識がより高い状態にあるということです。私はその状態にありません。どうすればその状態に入れるのでしょう。

クリシュナムルティ:まさにその「どうすればその状態に入れるか」という質問が羨ましげですよ(笑)。いえ皆さん注意して聴いて下さい。あなたがたが何かを得たいと考えます。そのためいろいろなメソッドを学び訓練し宗教に入り教会に通います。これらの上部構造のすべてが羨望と比較と正当化と非難の上に構築されています。我々の文化は持つものと持たぬもの、知るものと知らぬもの、無知なものと知識に満ちたものの階級的な分割に基づいています。そのために我々の問題へのアプローチは総じて間違っているのです。

質問者は言います「非難も正当化も比較もしないことはより高い意識状態です」そうなのでしょうか。というより非難したり比較したりしていることに単純に気づいていないだけではないでしょうか。我々はなぜ最初にそれがより高い意識状態だと主張するのでしょう。その結果としてどうやってそれを得るか、そこに至るのを誰が助けてくれるかという問題を作り出します。それはより複雑なことです。

我々はまったく自分に気づいておらず、自分が非難し比較していることを知りません。何の非難も正当化もせずに毎日自分を見張っていることができ、裁き、比較し、値踏みすることなしにはいかに何も考えられないかに気づくようでなければ十分な気づきとはいえません。我々はいつも「この本はほかの本ほどよくない」とか「この男はあの男より良いやつだ」とか言っています。絶え間ない比較のプロセスがあります。我々は比較したことでそれを理解したと考えます。そうでしょう。それとも比較しないだけでなく本当に注意を払っているときにだけ理解することができるのでしょうか。

何かを注意深く見つめているときそこに比較があるでしょうか。あなたの全体が注意深くしているとき、比較している時間はありません。あなたが比較するときは注意は他のものへ去っています。あなたが「今日の夕日は昨日のほど美しくない」と言うときは本当はその夕日を見ていません。精神はすでに昨日の記憶へと立ち去っています。しかし完全にすべての注意をそそいでその夕日の全体を見ることができれば比較は確実に終わります。

つまり問題はどうやってそれを得るかではなく、なぜ我々は不注意なのかということです。あきらかなのは不注意なのは興味をもっていないからだということです。「どうやって興味をもてばよいのだろう」と言ってはいけません。それは見当違いです。それは問題になりません。なぜ興味をもたなくてはいけないのでしょう。話に興味がなければなぜそれを悩むのですか。あなたが悩むのは人生が羨望や苦しみに満ちていて、そのために答えが欲しくて意味を見つけたいからです。

もし意味を見つけたいなら、フルに注意を働かせなさい。それが難しいのは我々が何に対しても言葉の正しい意味でまじめではないからです。あなたが何かに完全な注意を向けるときは、その結果として何も得ようとはしていません。そうでしょう。全体的な注意があるときそこに羨望はなく、変えよう修正しよう何かになろうとしている実体はありません。そこにはまったく自我がありません。その注意の瞬間には自我や「私」が不在であり、その注意された瞬間こそが善きことであり、愛なのです。

Ojai 3rd Public Talk 13th August 1955

 − − − 以上引用 − − −


 ゴトさんが述べるところの「ミニ変容」とは、上記に説明されていることのように思いました。。


[25931] 空くう 投稿者:無明 投稿日:2018/09/28(Fri) 14:29  

> 大野龍一氏の「既知のからの自由」128ページでは
> 「空the space」になっている。

>丁寧なわかりやすい訳ですね。

> 空を「くう」と呼んでいるが、そうなると仏教の「空(くう)」というものと同じものだろうか?

>そうです。

ならば、あなたは仏教でいう『くう』の意味をご存知か?
ならば詳しく説明してください。参照のように。

> 参照
> 空(くう)すなわち「心の真空状態」とは、雑念は整理されていながら、一定の方向性をもつ想像が心を満たしている状態を意味し、このようなとき自分自身への執着の思いがなくなっている。心地よく満たされた空っぽの状態とでもいうような心理状態が、あなたの中に実現されている。
> それは決して空っぽの状態を意味するものではない。もともと「空」の原語であるサンスクリット語の「シュー二ャ」には「膨張するもの」という意味があるが、これは宇宙が意識エネルギーによって、豊穣に至る状態の描写である。心を空にするとは、まさにコントロールされた想念と想像の流れを心に導くことにほかならないのである。

>空というのは手っ取り早く言えば、空間、隔たり、ギャップ、分離のない心の状態のことです。それをthe spaceと表現する、そこが微妙な考えさせるところです。

それではわかりません。Kのコピーです。
参照文のように具体的にいえませんか。わかりやすく。
でなければさらに参照の関連分を紹介しましょうか。

空間、隔たり、ギャップ、分離のない心とおっしゃいますが、具体的にはどのような心の状態を指すのですか?どんな状況、場合の時に実現するのですか?
わからないならわからない。それでいいです。

ここでの一番の疑問はクリシュナムルティは何で
「空間と呼ばれるものと出会う」
などと思わせぶりな言い方をするのかということです。
空間というのは何もないのですから出会うもへったくれもないでしょう。 空間の意味がわかってないようです。
そうした物理学の知識がないからデビッド・ボーンに一笑に付されるのです。

参照 空の意味

『真の無念無想とは、心の中に湧いてくる想念をそのままの形で流し、利己的な判断を加えたり、一つ一つのアイデアに執着しないことを意味している。このようなときには、心と内と外の間にエネルギーの自然な流れが形成されている。干しあがった川ではなく、水をたたえながら上流と下流のバランスが常に保たれている状態こそが、真に「何も無い」状態なのである。これをわれわれは決して「無」と言わないで、「空」と呼んでいる。』

具体的に説明するとはこういうことです。





[25930] Re:[25929] [25918] [25917] 既知からの自由11−4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/28(Fri) 13:16  

> > 矛盾しています。
> > 空間がある時、愛はないといいながら、片方では気づきを育成したとき空間と呼ばれるあのものに出会うという。

最初の空間は、原語はspaceです。対象との間に隙間、ギャップがあるという意味です。分離があるという事です。だから愛はありません。

片方の気づきを育成した時に遭う「空間」は'the space'です。訳文には「空間」と私は書きました。同じspaceながら、扱いが違うのは意味が違うからです。

> > 気づくというには、空間がないということです。思考なしに、中心なし、観察者なしと同じ意味。
> > それが何で、空間と呼ばれるあのものに出会うのか?

> 大野龍一氏の「既知のからの自由」128ページでは
> 「空the space」になっている。

丁寧なわかりやすい訳ですね。

> 空を「くう」と呼んでいるが、そうなると仏教の「空(くう)」というものと同じものだろうか?

そうです。

> 参照
> 空(くう)すなわち「心の真空状態」とは、雑念は整理されていながら、一定の方向性をもつ想像が心を満たしている状態を意味し、このようなとき自分自身への執着の思いがなくなっている。心地よく満たされた空っぽの状態とでもいうような心理状態が、あなたの中に実現されている。
> それは決して空っぽの状態を意味するものではない。もともと「空」の原語であるサンスクリット語の「シュー二ャ」には「膨張するもの」という意味があるが、これは宇宙が意識エネルギーによって、豊穣に至る状態の描写である。心を空にするとは、まさにコントロールされた想念と想像の流れを心に導くことにほかならないのである。

空というのは手っ取り早く言えば、空間、隔たり、ギャップ、分離のない心の状態のことです。それをthe spaceと表現する、そこが微妙な考えさせるところです。


[25929] Re:[25918] [25917] 既知からの自由11−4 投稿者:無名 投稿日:2018/09/28(Fri) 10:34  


> 矛盾しています。
> 空間がある時、愛はないといいながら、片方では気づきを育成したとき空間と呼ばれるあのものに出会うという。
>
> 気づくというには、空間がないということです。思考なしに、中心なし、観察者なしと同じ意味。
> それが何で、空間と呼ばれるあのものに出会うのか?
>
> そもそも「空間で呼ばれるあのもの」って何だ、ということになります。



大野龍一氏の「既知のからの自由」128ページでは
「空the space」になっている。

空を「くう」と呼んでいるが、そうなると仏教の「空(くう)」というものと同じものだろうか?


参照
空(くう)すなわち「心の真空状態」とは、雑念は整理されていながら、一定の方向性をもつ想像が心を満たしている状態を意味し、このようなとき自分自身への執着の思いがなくなっている。心地よく満たされた空っぽの状態とでもいうような心理状態が、あなたの中に実現されている。
それは決して空っぽの状態を意味するものではない。もともと「空」の原語であるサンスクリット語の「シュー二ャ」には「膨張するもの」という意味があるが、これは宇宙が意識エネルギーによって、豊穣に至る状態の描写である。心を空にするとは、まさにコントロールされた想念と想像の流れを心に導くことにほかならないのである。



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