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[26388] 最初のザーネン講話4-1 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/14(Mon) 11:32  

1961年ザーネンの公開講話 4回目の1

私たちが会ったこの前の時に、まじめさとは物事のまさに最後まで行き、本質を発見しようとするあの衝動、あの意図であると私たちは言っていました。そして真実であるものを発見しようと人を駆り立てるあの有無を言わせないエネルギーがないなら、そのとき、これらの講話は非常に小さい意義しか持たないだろうと私は思います。この様な素晴らしい朝に話をすることは惜しいようにも思われますが、私は謙遜と学ぶことの問題を調べようと思います。


ゴト: この前置きで、物事の最後まで行こうとするまじめさと、真実を一瞥しないではおかないエネルギーの必要をまず説いて、今日のテーマは謙遜と学ぶことだそうです。


 謙遜によって、もちろん、謙遜の名の下にそれ自身を隠している、もったいぶった虚栄を言っているのではありません。謙遜は徳ではありません。なぜなら養成された、自分から引き出された、訓練された、制御されたどんなものも虚偽のものであるからです。それは播かれ、刈り取られるものではありません。それは生じなければなりません。そして謙遜は成功の中に達成を求めるあの欲望を抑えることではありません。また、それは僧侶、聖者、牧師の宗教的な謙遜や、養成された厳しさがもたらすそれでもありません。それはまったく異なるものです。それを実際に経験するためには、自分の心のあらゆる隅、自分自身のハートと心のすべての暗い、秘密の、隠れた場所がこの謙遜にさらされ、その中に浸されるように、人はまさに終りまで行かなければならないと私は思います。そして私たちが謙遜のまさに本質をあらわにしたいなら、私達は何が学ぶことか熟慮しなければならないと私は思います。


ゴト: 社交的な謙遜なら、私たちはKが述べたことはよくわかっています。でないと敬遠やいじめに遭います。Kの語りたい経験はなんでしょうか? それにはまず、学ぶことが熟慮されなければならないと。


 私たちは今までに学んだことがあるでしょうか? 私たちの学習はすべていくらか機械的ではないでしょうか? 学ぶことは、私たちには、累積的な過程ではないでしょうか? 累積的な過程は中心、「ミー」を形成し、その中心が経験します。そして経験は記憶になります、記憶です。そしてその記憶はその先の経験のすべてを彩ります。さて、学ぶことは、知識がそうであるように蓄積的な過程なのでしょうか? そして経験、知識、何かであることと成ることの蓄積的な過程があるなら、そのとき謙遜があるでしょうか? 心が知識、経験、記憶を一杯に詰め込まれているなら、それはとても新しいものを受取ることはできません。それゆえ、始めも終りもないものが生じるには心をまったく空(から)にすることが必要ではないでしょうか? そしてそれはまったくの完全な 謙遜の感覚、心がなろうとしていない、蓄積していない、もはや追求も学習もしていないときの状態を意味しないでしょうか?


ゴト: 機械的な学習なら我々はさんざんやってきました。しかし蓄積する力はあんまりなかった気がします。つまり、一夜漬け的なんですね。それはそれとして蓄積をして何かに成ろうとする過程は、謙遜とは両立するわけがないのではとKが示唆しました。私たちの探求は、実際には心を空にすることではなくて、知識の獲得(学習)、成り行く過程ではないかと問われます。

(続く)


[26387] Re:[26386] [26385] [26384] [26383] [26382] [26381] [26380] [26379] [26377] [26374] [26372] 家族の愛着 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/13(Sun) 23:03  

> > 自分の意識の中に見るだけで、思考があろうが、それが騒いでいて権力を持ち司令塔としてふるまっていなければ問題はないのではないでしょうか?
> >
> >
> > >  特に内面では隠れたもの(深層心理・無意識等々で呼ばれることがあるもの)は、認知しずらいので、誤って「無い」と誤認されやすいことは言うまでもありません。
> >
> > 今あるものが見えるのであって、何かをあるか、ないか見ようとするのは能動的な観察者(欲望)のいる状態です。
> >
> > >  だから、なおさら「無い」の確認は至難となる。

欲望があれば気づくことは難しくはあるが至難という事でもないです。

> > >  それゆえに、ゴトさんからの提案としては、>そのとき、自我があるかないかは、観念上でなく実際に何が残っているかを知り、好きなように名前を付けたらどうでしょうか。−−、という提案となるのですね。。
> > >
> > >
> > >  ゴトさんなら「空なる人」となるのですね。
> > >
> > >  私の場合、短時間の「至福エネルギー自意識」と、今現在の場合に呼べるのかもしれません。
> > >
> > >  先述の体験では、「自意識」があったのでそれは「自我」があると思っていたのですが、クリシュナムルティの陳述によれば、自我が無くとも自意識はあると陳述していたことと憶えています。それが「セルフ」かもしれません。
> > >
> > >  そこに自意識はあるが自我が無いのであれば、そこに愛がありえますね。。
> > >
> > >  自意識と自我の見分けが難しいことを知りました。
> >
> > 何か見えないものを確認しようとしている者は誰ですか? 見ようとしている「見者」がいる。
>
>
>  クリシュナムルティ理解を極めようとする意欲が「見者」なのかもしれません。。


我々はかなりこの辺の事を調べたと思います。明日からまたKの講話の次の章にとりかかりましょう。


[26386] Re:[26385] [26384] [26383] [26382] [26381] [26380] [26379] [26377] [26374] [26372] 家族の愛着 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/13(Sun) 21:54  

> > > >  ゴトさんは、自我にも愛があると、以前から述べているように感じたので、問うてみたかったのです。
> > >
> > >
> > >
> > > 私は鈍いですね、ようやくあなたの話が分かり始めました。自我というものは何を指し示しているか、いかなるものが表象されているかが明確にされる必要があります。自我の終焉にしろ、観念でなく実際にどういう事かがです。
> > >
> > >
> > > それを少し話を変えて言ってみます。人間の話す機能は特別です。それは非難、口論、虚言、詭弁、おべんちゃらを言い、分離を創り出します。それで自我の持つ機構の一つです。
> > >  それで自我が終焉した時、、言語機能は消えてなくなりますか? もちろんなくなったら困ります。心理的思考を使ってしゃべりかけることがなくなるだけです。相手が心理的思考の言葉をこちらに向かって話すとき、理解できないでしょうか? いや、ちゃんと理解し、理性的に話し合うでしょう。
> > >
> > > では、自我の終焉で何か終わったのでしょうか? 広い意味の思考が役割をわきまえて静まっているという事のように私は思います。自我はその時ありますか? 思考も言語機能も正常に働いている人間はエゴがなくなっただけで、セルフはあるのでしょうか? その状態の人間は正常な人間であると言っていいでしょうか?
> > >
> > > 人間の暗黒、醜さを反応することなく強く見て、強い愛着を感じたのは愛というべきかと思います。なぜなら、暗黒、醜さを見て執着がまだあるとは思えないからです。そのとき、自我があるかないかは、観念上でなく実際に何が残っているかを知り、好きなように名前を付けたらどうでしょうか。思考が静まっている人は記憶も言語も心理的思考の理解もできるとして、空なる人と呼んでいいでしょうか? 思考が何か役割がない時は静かにしているという事は、その時意識に記憶のかけらがないという事でしょうか。
> >
> >
> >  記憶のかけらがあるかどうか調べたくなりました。。
> >
> >
> > > 私の言っていることは少しでもわかるでしょうか?
> >
> >
> >
> >  ゴトさんは、自我にも愛があると言っているのではなく、ひとつの個体において、あるときは自我を有するがあるときは自我が無いと言いたかったのですね。。
>
> 自我があるとかないとかをはっきりさせましょう。まずある瞬間、反応(判断)なしに見、聴き、知覚している時は、見ているし、自我が今は機能してないという事にしましょう。
>  暗黒の思考が今は意識に登っていないという事です。だからその場では自我の存在はどうこうは言えず、危険性を持つ思考は少なくともとりあえずは存在しない言えます。
>
> 時間の中、過去、現在、未来の中にいる人は、人格の継続を当然と思っているので、その人の過去の言動を思い出し、この人には自我があるに決まっている。今は自我は機能していないとしても将来必ず自我は働くであろうと考えていますから、永久に自我が終焉した人なんかそんなにいるわけがないという見地に立っています。逆に言えば、どれくらいこの人はわかっているのかと測らずにはいられないのが時間の中にいる人の特徴です。
>
> そうではなく瞬時瞬のいま暗黒が意識に登ったら反応なしに見て見るだけであるなら、すでに暗部は作動していないのです。静寂があります。それはまじめさ、情熱があればわかります。
>
>
> >  親子の愛着においても、ひとつの個体において、あるときは親の自我との関係ではあるが、あるときは親の自我が無いすなわち愛の関係があると。。
> >  特に、親の生命をかけての愛着は愛であると。。
> >
> >  そこで、自我の有無はいかにして分かるか・・?という問いが出てくるのですね。。
> >
> >  確かに、「有る」ことを確認することは難しくない。
> >  しかし、「無い」を確認することが難しいことに気づきます。目の前の事柄であれば視覚認知や聴覚等で有無を容易に確認することができるのだが、内面の世界での有無の確認においては「無い」の確認が難しく感じます。
>
>
> 自分の意識の中に見るだけで、思考があろうが、それが騒いでいて権力を持ち司令塔としてふるまっていなければ問題はないのではないでしょうか?
>
>
> >  特に内面では隠れたもの(深層心理・無意識等々で呼ばれることがあるもの)は、認知しずらいので、誤って「無い」と誤認されやすいことは言うまでもありません。
>
> 今あるものが見えるのであって、何かをあるか、ないか見ようとするのは能動的な観察者(欲望)のいる状態です。
>
> >  だから、なおさら「無い」の確認は至難となる。
> >
> >  それゆえに、ゴトさんからの提案としては、>そのとき、自我があるかないかは、観念上でなく実際に何が残っているかを知り、好きなように名前を付けたらどうでしょうか。−−、という提案となるのですね。。
> >
> >
> >  ゴトさんなら「空なる人」となるのですね。
> >
> >  私の場合、短時間の「至福エネルギー自意識」と、今現在の場合に呼べるのかもしれません。
> >
> >  先述の体験では、「自意識」があったのでそれは「自我」があると思っていたのですが、クリシュナムルティの陳述によれば、自我が無くとも自意識はあると陳述していたことと憶えています。それが「セルフ」かもしれません。
> >
> >  そこに自意識はあるが自我が無いのであれば、そこに愛がありえますね。。
> >
> >  自意識と自我の見分けが難しいことを知りました。
>
> 何か見えないものを確認しようとしている者は誰ですか? 見ようとしている「見者」がいる。


 クリシュナムルティ理解を極めようとする意欲が「見者」なのかもしれません。。


[26385] Re:[26384] [26383] [26382] [26381] [26380] [26379] [26377] [26374] [26372] 家族の愛着 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/13(Sun) 18:47  

> > >  ゴトさんは、自我にも愛があると、以前から述べているように感じたので、問うてみたかったのです。
> >
> >
> >
> > 私は鈍いですね、ようやくあなたの話が分かり始めました。自我というものは何を指し示しているか、いかなるものが表象されているかが明確にされる必要があります。自我の終焉にしろ、観念でなく実際にどういう事かがです。
> >
> >
> > それを少し話を変えて言ってみます。人間の話す機能は特別です。それは非難、口論、虚言、詭弁、おべんちゃらを言い、分離を創り出します。それで自我の持つ機構の一つです。
> >  それで自我が終焉した時、、言語機能は消えてなくなりますか? もちろんなくなったら困ります。心理的思考を使ってしゃべりかけることがなくなるだけです。相手が心理的思考の言葉をこちらに向かって話すとき、理解できないでしょうか? いや、ちゃんと理解し、理性的に話し合うでしょう。
> >
> > では、自我の終焉で何か終わったのでしょうか? 広い意味の思考が役割をわきまえて静まっているという事のように私は思います。自我はその時ありますか? 思考も言語機能も正常に働いている人間はエゴがなくなっただけで、セルフはあるのでしょうか? その状態の人間は正常な人間であると言っていいでしょうか?
> >
> > 人間の暗黒、醜さを反応することなく強く見て、強い愛着を感じたのは愛というべきかと思います。なぜなら、暗黒、醜さを見て執着がまだあるとは思えないからです。そのとき、自我があるかないかは、観念上でなく実際に何が残っているかを知り、好きなように名前を付けたらどうでしょうか。思考が静まっている人は記憶も言語も心理的思考の理解もできるとして、空なる人と呼んでいいでしょうか? 思考が何か役割がない時は静かにしているという事は、その時意識に記憶のかけらがないという事でしょうか。
>
>
>  記憶のかけらがあるかどうか調べたくなりました。。
>
>
> > 私の言っていることは少しでもわかるでしょうか?
>
>
>
>  ゴトさんは、自我にも愛があると言っているのではなく、ひとつの個体において、あるときは自我を有するがあるときは自我が無いと言いたかったのですね。。

自我があるとかないとかをはっきりさせましょう。まずある瞬間、反応(判断)なしに見、聴き、知覚している時は、見ているし、自我が今は機能してないという事にしましょう。
 暗黒の思考が今は意識に登っていないという事です。だからその場では自我の存在はどうこうは言えず、危険性を持つ思考は少なくともとりあえずは存在しない言えます。

時間の中、過去、現在、未来の中にいる人は、人格の継続を当然と思っているので、その人の過去の言動を思い出し、この人には自我があるに決まっている。今は自我は機能していないとしても将来必ず自我は働くであろうと考えていますから、永久に自我が終焉した人なんかそんなにいるわけがないという見地に立っています。逆に言えば、どれくらいこの人はわかっているのかと測らずにはいられないのが時間の中にいる人の特徴です。

そうではなく瞬時瞬のいま暗黒が意識に登ったら反応なしに見て見るだけであるなら、すでに暗部は作動していないのです。静寂があります。それはまじめさ、情熱があればわかります。


>  親子の愛着においても、ひとつの個体において、あるときは親の自我との関係ではあるが、あるときは親の自我が無いすなわち愛の関係があると。。
>  特に、親の生命をかけての愛着は愛であると。。
>
>  そこで、自我の有無はいかにして分かるか・・?という問いが出てくるのですね。。
>
>  確かに、「有る」ことを確認することは難しくない。
>  しかし、「無い」を確認することが難しいことに気づきます。目の前の事柄であれば視覚認知や聴覚等で有無を容易に確認することができるのだが、内面の世界での有無の確認においては「無い」の確認が難しく感じます。


自分の意識の中に見るだけで、思考があろうが、それが騒いでいて権力を持ち司令塔としてふるまっていなければ問題はないのではないでしょうか?


>  特に内面では隠れたもの(深層心理・無意識等々で呼ばれることがあるもの)は、認知しずらいので、誤って「無い」と誤認されやすいことは言うまでもありません。

今あるものが見えるのであって、何かをあるか、ないか見ようとするのは能動的な観察者(欲望)のいる状態です。

>  だから、なおさら「無い」の確認は至難となる。
>
>  それゆえに、ゴトさんからの提案としては、>そのとき、自我があるかないかは、観念上でなく実際に何が残っているかを知り、好きなように名前を付けたらどうでしょうか。−−、という提案となるのですね。。
>
>
>  ゴトさんなら「空なる人」となるのですね。
>
>  私の場合、短時間の「至福エネルギー自意識」と、今現在の場合に呼べるのかもしれません。
>
>  先述の体験では、「自意識」があったのでそれは「自我」があると思っていたのですが、クリシュナムルティの陳述によれば、自我が無くとも自意識はあると陳述していたことと憶えています。それが「セルフ」かもしれません。
>
>  そこに自意識はあるが自我が無いのであれば、そこに愛がありえますね。。
>
>  自意識と自我の見分けが難しいことを知りました。

何か見えないものを確認しようとしている者は誰ですか? 見ようとしている「見者」がいる。


[26384] Re:[26383] [26382] [26381] [26380] [26379] [26377] [26374] [26372] 家族の愛着 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/13(Sun) 10:43  

> >  ゴトさんは、自我にも愛があると、以前から述べているように感じたので、問うてみたかったのです。
>
>
>
> 私は鈍いですね、ようやくあなたの話が分かり始めました。自我というものは何を指し示しているか、いかなるものが表象されているかが明確にされる必要があります。自我の終焉にしろ、観念でなく実際にどういう事かがです。
>
>
> それを少し話を変えて言ってみます。人間の話す機能は特別です。それは非難、口論、虚言、詭弁、おべんちゃらを言い、分離を創り出します。それで自我の持つ機構の一つです。
>  それで自我が終焉した時、、言語機能は消えてなくなりますか? もちろんなくなったら困ります。心理的思考を使ってしゃべりかけることがなくなるだけです。相手が心理的思考の言葉をこちらに向かって話すとき、理解できないでしょうか? いや、ちゃんと理解し、理性的に話し合うでしょう。
>
> では、自我の終焉で何か終わったのでしょうか? 広い意味の思考が役割をわきまえて静まっているという事のように私は思います。自我はその時ありますか? 思考も言語機能も正常に働いている人間はエゴがなくなっただけで、セルフはあるのでしょうか? その状態の人間は正常な人間であると言っていいでしょうか?
>
> 人間の暗黒、醜さを反応することなく強く見て、強い愛着を感じたのは愛というべきかと思います。なぜなら、暗黒、醜さを見て執着がまだあるとは思えないからです。そのとき、自我があるかないかは、観念上でなく実際に何が残っているかを知り、好きなように名前を付けたらどうでしょうか。思考が静まっている人は記憶も言語も心理的思考の理解もできるとして、空なる人と呼んでいいでしょうか? 思考が何か役割がない時は静かにしているという事は、その時意識に記憶のかけらがないという事でしょうか。


 記憶のかけらがあるかどうか調べたくなりました。。


> 私の言っていることは少しでもわかるでしょうか?



 ゴトさんは、自我にも愛があると言っているのではなく、ひとつの個体において、あるときは自我を有するがあるときは自我が無いと言いたかったのですね。。

 親子の愛着においても、ひとつの個体において、あるときは親の自我との関係ではあるが、あるときは親の自我が無いすなわち愛の関係があると。。
 特に、親の生命をかけての愛着は愛であると。。

 そこで、自我の有無はいかにして分かるか・・?という問いが出てくるのですね。。

 確かに、「有る」ことを確認することは難しくない。
 しかし、「無い」を確認することが難しいことに気づきます。目の前の事柄であれば視覚認知や聴覚等で有無を容易に確認することができるのだが、内面の世界での有無の確認においては「無い」の確認が難しく感じます。

 特に内面では隠れたもの(深層心理・無意識等々で呼ばれることがあるもの)は、認知しずらいので、誤って「無い」と誤認されやすいことは言うまでもありません。

 だから、なおさら「無い」の確認は至難となる。

 それゆえに、ゴトさんからの提案としては、>そのとき、自我があるかないかは、観念上でなく実際に何が残っているかを知り、好きなように名前を付けたらどうでしょうか。−−、という提案となるのですね。。


 ゴトさんなら「空なる人」となるのですね。

 私の場合、短時間の「至福エネルギー自意識」と、今現在の場合に呼べるのかもしれません。

 先述の体験では、「自意識」があったのでそれは「自我」があると思っていたのですが、クリシュナムルティの陳述によれば、自我が無くとも自意識はあると陳述していたことと憶えています。それが「セルフ」かもしれません。

 そこに自意識はあるが自我が無いのであれば、そこに愛がありえますね。。

 自意識と自我の見分けが難しいことを知りました。



[26383] Re:[26382] [26381] [26380] [26379] [26377] [26374] [26372] 家族の愛着 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/12(Sat) 10:20  

> > >  説明言葉で誤解を与えたようです。
> > >  上記の「自我の暗黒・醜さを強く見て、これを滅したいという衝動と共に」の説明において、「これを滅したい」という表現は、その後の流れから説明言葉として使用したもので、実際に起こったことは、「自我の暗黒・醜さを強く見て衝撃が起こったと」言うことです。その衝撃が正に断崖やハブを目の当たりにした衝撃に近いものです。
> > >  よって、>自我の暗黒・醜さを強く見て−−の、この「見る」は時間の過程、ビカミングが含まれていないということです。そこで、これによって自我が消えるのかと思いきや、それとほぼ同時に妻子に対しての愛着(深い悲しみ:こんな私で・・)がとても強烈に沸き立ってのです。そして、それに伴い、そのような深い愛着を有する自我を滅することなどできない。。という思いとなりました。事実、自我は滅することなく、そのまま存続していきました。
> > >  上記のことは、ほぼ同時に起こったので、時間差があったのか?否か?とても微妙です。もしも、あったとしてもほんの一瞬間のことでしょう。
> > >  それゆえに、そこに思考が挟まっているのか否か?とても見極めることができなかったのです。
> > >  おそらく、クリシュナムルティを知らない人ならば、必ず、それは愛だと感ずることでしょう。
> > >  クリシュナムルティ理解者の一人であったが故に、そこに懐疑の目を向けているということです。
> > >
> > >  そのときの強い愛が、自我の愛着なのか?自我無しの「愛」なのか?とても微妙で分からなかったのです。
> > >
> > >  それとも、自我在りの「愛」がありうるのか?
> > >
> > >
> > >  そのとき、自我の愛着(又は「愛」)と感じたから、そのような自我を滅することなどできはしない・・と感じたのは確かです。。
> >
> >
> > 「これを滅したい」という表現は、その後の流れから説明言葉として使用したもの、ということはわかりました。
> >
> > つぎの、> 実際に起こったことは、「自我の暗黒・醜さを強く見て衝撃が起こったと」言うことです。その衝撃が正に断崖やハブを目の当たりにした衝撃に近いものですーー のところが何を見て起こった衝撃かわかりません。親子あるいは家族との関係―愛着とも言われるものを見て危険という衝撃が走ったのですか?
> >
> > そうだとしてそれは本能的な愛着なのか、自我の愛着なのかわからない。Kを知らない人ならきっと愛と言うと思われるようなものだったという事でしょうか。
> >
> > そう感じた自分の心は自我と言ってもとても手放せないものだと感じていらっしゃる。なぜならそれが愛のように思えたからであると私は読んだのですが。
> >
> > ここでわからないのは、最初にその衝撃を危険と感じたことと、それはとても手放せない愛と感じたという事のギャップというか、矛盾というか、ちぐはぐの感覚です。なぜその衝撃を危険と感じたのでしょう?
>
>
>
>  何を見て衝撃を受けたのかというと、「自我」を見てということです。自我の暗部、自己中心性、欺瞞性の深さ・強烈さ。
>
>  それと同時に、そのような自我を頼りに(大黒柱として)共に生きている妻子に対して慈悲心のような、大きな深い感情が沸き立ってきました。その感情を妻子に対する「愛着」と表現しています。
>
>  その感情は自我の感情として感じられました。
>
>  そのような感情を有する自我を滅することなどできはしないと思えたのです。
>
>  その感情が自我に帰属するものなのか?自我無しなのか?分からない。ということです。
>
>  クリシュナムルティを知らない人なら、「愛」と呼ぶことでしょう。
>
>  自我に愛があるとは思えないので、どうなっているのだ・・・・・??
>  ということのようで。
>
>  ゴトさんは、自我にも愛があると、以前から述べているように感じたので、問うてみたかったのです。



私は鈍いですね、ようやくあなたの話が分かり始めました。自我というものは何を指し示しているか、いかなるものが表象されているかが明確にされる必要があります。自我の終焉にしろ、観念でなく実際にどういう事かがです。


それを少し話を変えて言ってみます。人間の話す機能は特別です。それは非難、口論、虚言、詭弁、おべんちゃらを言い、分離を創り出します。それで自我の持つ機構の一つです。
 それで自我が終焉した時、、言語機能は消えてなくなりますか? もちろんなくなったら困ります。心理的思考を使ってしゃべりかけることがなくなるだけです。相手が心理的思考の言葉をこちらに向かって話すとき、理解できないでしょうか? いや、ちゃんと理解し、理性的に話し合うでしょう。

では、自我の終焉で何か終わったのでしょうか? 広い意味の思考が役割をわきまえて静まっているという事のように私は思います。自我はその時ありますか? 思考も言語機能も正常に働いている人間はエゴがなくなっただけで、セルフはあるのでしょうか? その状態の人間は正常な人間であると言っていいでしょうか?

人間の暗黒、醜さを反応することなく強く見て、強い愛着を感じたのは愛というべきかと思います。なぜなら、暗黒、醜さを見て執着がまだあるとは思えないからです。そのとき、自我があるかないかは、観念上でなく実際に何が残っているかを知り、好きなように名前を付けたらどうでしょうか。思考が静まっている人は記憶も言語も心理的思考の理解もできるとして、空なる人と呼んでいいでしょうか? 思考が何か役割がない時は静かにしているという事は、その時意識に記憶のかけらがないという事でしょうか。

私の言っていることは少しでもわかるでしょうか?



[26382] Re:[26381] [26380] [26379] [26377] [26374] [26372] 家族の愛着 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/11(Fri) 22:12  

> >  説明言葉で誤解を与えたようです。
> >  上記の「自我の暗黒・醜さを強く見て、これを滅したいという衝動と共に」の説明において、「これを滅したい」という表現は、その後の流れから説明言葉として使用したもので、実際に起こったことは、「自我の暗黒・醜さを強く見て衝撃が起こったと」言うことです。その衝撃が正に断崖やハブを目の当たりにした衝撃に近いものです。
> >  よって、>自我の暗黒・醜さを強く見て−−の、この「見る」は時間の過程、ビカミングが含まれていないということです。そこで、これによって自我が消えるのかと思いきや、それとほぼ同時に妻子に対しての愛着(深い悲しみ:こんな私で・・)がとても強烈に沸き立ってのです。そして、それに伴い、そのような深い愛着を有する自我を滅することなどできない。。という思いとなりました。事実、自我は滅することなく、そのまま存続していきました。
> >  上記のことは、ほぼ同時に起こったので、時間差があったのか?否か?とても微妙です。もしも、あったとしてもほんの一瞬間のことでしょう。
> >  それゆえに、そこに思考が挟まっているのか否か?とても見極めることができなかったのです。
> >  おそらく、クリシュナムルティを知らない人ならば、必ず、それは愛だと感ずることでしょう。
> >  クリシュナムルティ理解者の一人であったが故に、そこに懐疑の目を向けているということです。
> >
> >  そのときの強い愛が、自我の愛着なのか?自我無しの「愛」なのか?とても微妙で分からなかったのです。
> >
> >  それとも、自我在りの「愛」がありうるのか?
> >
> >
> >  そのとき、自我の愛着(又は「愛」)と感じたから、そのような自我を滅することなどできはしない・・と感じたのは確かです。。
>
>
> 「これを滅したい」という表現は、その後の流れから説明言葉として使用したもの、ということはわかりました。
>
> つぎの、> 実際に起こったことは、「自我の暗黒・醜さを強く見て衝撃が起こったと」言うことです。その衝撃が正に断崖やハブを目の当たりにした衝撃に近いものですーー のところが何を見て起こった衝撃かわかりません。親子あるいは家族との関係―愛着とも言われるものを見て危険という衝撃が走ったのですか?
>
> そうだとしてそれは本能的な愛着なのか、自我の愛着なのかわからない。Kを知らない人ならきっと愛と言うと思われるようなものだったという事でしょうか。
>
> そう感じた自分の心は自我と言ってもとても手放せないものだと感じていらっしゃる。なぜならそれが愛のように思えたからであると私は読んだのですが。
>
> ここでわからないのは、最初にその衝撃を危険と感じたことと、それはとても手放せない愛と感じたという事のギャップというか、矛盾というか、ちぐはぐの感覚です。なぜその衝撃を危険と感じたのでしょう?



 何を見て衝撃を受けたのかというと、「自我」を見てということです。自我の暗部、自己中心性、欺瞞性の深さ・強烈さ。

 それと同時に、そのような自我を頼りに(大黒柱として)共に生きている妻子に対して慈悲心のような、大きな深い感情が沸き立ってきました。その感情を妻子に対する「愛着」と表現しています。

 その感情は自我の感情として感じられました。

 そのような感情を有する自我を滅することなどできはしないと思えたのです。

 その感情が自我に帰属するものなのか?自我無しなのか?分からない。ということです。

 クリシュナムルティを知らない人なら、「愛」と呼ぶことでしょう。

 自我に愛があるとは思えないので、どうなっているのだ・・・・・??
 ということのようで。

 ゴトさんは、自我にも愛があると、以前から述べているように感じたので、問うてみたかったのです。
 


[26381] Re:[26380] [26379] [26377] [26374] [26372] 家族の愛着 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/10(Thu) 21:06  

少し長くなってきたのと、難しくて前半だけでやっとなので、そこでいったん切ります。

> > > > しばらくKの講話は後回しにして、家族や愛着のディスカッションをやりましょう。
> > > >
> > > >
> > > > >  血縁は戦国時代でも最強の絆として機能していました。
> > > > >
> > > > >  又、近い血縁者によって人質制度も機能できていた。
> > > > >
> > > > >  この本能的な愛着は思考の産物ではなく、生命進化の結晶ともいえると思います。
> > > > >
> > > > >  そこで問いが生じたのが、この本能的な愛着(家族の愛着)は自我の愛着と分けることができるのか・・?という問いです。
> > > > >
> > > > >  たとえば、親子の愛着を強く感じたとして、それは自我の愛着でもあるのか。。それとも、この親子の愛着を自我から切り離すことができるのか?
> >
> >
> > この問に直接はっきりと答えないと、ここに表現されている問題は解けないと感じました。しかし、前回私は答えているので、それは何を言っているかはっきりさせようと思います。
> >
> >
> > > > 親子の愛情と言ってもそこに所有欲とか、親の権力とか、成り行く過程とかが介入することがあり、その時は大なり小なり人間の持つ暗部の作用が起こるわけですね。そのときの相手の家人の力があればはね返すことも可能です。こういうことは少し不注意があれはよく起こります。
> >
> >
> > ここは言葉が足りていないのでもう一度言うと、親子の間にそのとき実際に真の愛があるかないかという事を言っているわけです。親の側に思考の介入などの不注意があれば、愛でなく暗部のある愛着が親から子に発せられているわけです。子供がある程度大きくて、精神的に力量があれば愛着を受け付けないで話し返し、愛の場に戻すことも可能だと言っています。ちょっと前回の文章では読み取れなかったかもしれませんが。
> >
> >
> > > > それで実際は言葉の上でこうだというの観念論になりがちだと思います。そうでなくてそのときの当事者の人間としての力量で決まるわけですから。人間は一般論として議論し、結論、考えの枠組みを作るのが好きですが、そうはうまくいかないと思います。しかし実際から離れずに議論すれば問題ははっきりするでしょう。
> >
> >
> > そのときの当事者としての力量とは愛でないもの(真理、あるいは真実でないものと言っても同じです)が場に出現した時、判断なしに気づくことを言っています。
>
>
> > > > >  別の観点から言うと、自我の暗黒・醜さを強く見て、これを滅したいという衝動と共に、家族愛を「私」が有していると主張する「自我」とその「本能的愛着」を同時に見てしまうとき、本当に「本能的な愛着」を自我が有しているのか?
> >
> >
> > 自我の暗黒・醜さを見てこれを滅したいと思うとき、熱心さ、まじめさと見がちですがこれはただ見ておらず、時間の過程であり葛藤の過程ですから、本能的愛着を愛と同等のものとして、それがあるとは言葉上ではできません。実際の心の状態がどうであるかにかかっているわけです。
>
>
>  説明言葉で誤解を与えたようです。
>  上記の「自我の暗黒・醜さを強く見て、これを滅したいという衝動と共に」の説明において、「これを滅したい」という表現は、その後の流れから説明言葉として使用したもので、実際に起こったことは、「自我の暗黒・醜さを強く見て衝撃が起こったと」言うことです。その衝撃が正に断崖やハブを目の当たりにした衝撃に近いものです。
>  よって、>自我の暗黒・醜さを強く見て−−の、この「見る」は時間の過程、ビカミングが含まれていないということです。そこで、これによって自我が消えるのかと思いきや、それとほぼ同時に妻子に対しての愛着(深い悲しみ:こんな私で・・)がとても強烈に沸き立ってのです。そして、それに伴い、そのような深い愛着を有する自我を滅することなどできない。。という思いとなりました。事実、自我は滅することなく、そのまま存続していきました。
>  上記のことは、ほぼ同時に起こったので、時間差があったのか?否か?とても微妙です。もしも、あったとしてもほんの一瞬間のことでしょう。
>  それゆえに、そこに思考が挟まっているのか否か?とても見極めることができなかったのです。
>  おそらく、クリシュナムルティを知らない人ならば、必ず、それは愛だと感ずることでしょう。
>  クリシュナムルティ理解者の一人であったが故に、そこに懐疑の目を向けているということです。
>
>  そのときの強い愛が、自我の愛着なのか?自我無しの「愛」なのか?とても微妙で分からなかったのです。
>
>  それとも、自我在りの「愛」がありうるのか?
>
>
>  そのとき、自我の愛着(又は「愛」)と感じたから、そのような自我を滅することなどできはしない・・と感じたのは確かです。。


「これを滅したい」という表現は、その後の流れから説明言葉として使用したもの、ということはわかりました。

つぎの、> 実際に起こったことは、「自我の暗黒・醜さを強く見て衝撃が起こったと」言うことです。その衝撃が正に断崖やハブを目の当たりにした衝撃に近いものですーー のところが何を見て起こった衝撃かわかりません。親子あるいは家族との関係―愛着とも言われるものを見て危険という衝撃が走ったのですか?

そうだとしてそれは本能的な愛着なのか、自我の愛着なのかわからない。Kを知らない人ならきっと愛と言うと思われるようなものだったという事でしょうか。

そう感じた自分の心は自我と言ってもとても手放せないものだと感じていらっしゃる。なぜならそれが愛のように思えたからであると私は読んだのですが。

ここでわからないのは、最初にその衝撃を危険と感じたことと、それはとても手放せない愛と感じたという事のギャップというか、矛盾というか、ちぐはぐの感覚です。なぜその衝撃を危険と感じたのでしょう?


[26380] Re:[26379] [26377] [26374] [26372] 家族の愛着 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/10(Thu) 14:33  

> > > しばらくKの講話は後回しにして、家族や愛着のディスカッションをやりましょう。
> > >
> > >
> > > >  血縁は戦国時代でも最強の絆として機能していました。
> > > >
> > > >  又、近い血縁者によって人質制度も機能できていた。
> > > >
> > > >  この本能的な愛着は思考の産物ではなく、生命進化の結晶ともいえると思います。
> > > >
> > > >  そこで問いが生じたのが、この本能的な愛着(家族の愛着)は自我の愛着と分けることができるのか・・?という問いです。
> > > >
> > > >  たとえば、親子の愛着を強く感じたとして、それは自我の愛着でもあるのか。。それとも、この親子の愛着を自我から切り離すことができるのか?
>
>
> この問に直接はっきりと答えないと、ここに表現されている問題は解けないと感じました。しかし、前回私は答えているので、それは何を言っているかはっきりさせようと思います。
>
>
> > > 親子の愛情と言ってもそこに所有欲とか、親の権力とか、成り行く過程とかが介入することがあり、その時は大なり小なり人間の持つ暗部の作用が起こるわけですね。そのときの相手の家人の力があればはね返すことも可能です。こういうことは少し不注意があれはよく起こります。
>
>
> ここは言葉が足りていないのでもう一度言うと、親子の間にそのとき実際に真の愛があるかないかという事を言っているわけです。親の側に思考の介入などの不注意があれば、愛でなく暗部のある愛着が親から子に発せられているわけです。子供がある程度大きくて、精神的に力量があれば愛着を受け付けないで話し返し、愛の場に戻すことも可能だと言っています。ちょっと前回の文章では読み取れなかったかもしれませんが。
>
>
> > > それで実際は言葉の上でこうだというの観念論になりがちだと思います。そうでなくてそのときの当事者の人間としての力量で決まるわけですから。人間は一般論として議論し、結論、考えの枠組みを作るのが好きですが、そうはうまくいかないと思います。しかし実際から離れずに議論すれば問題ははっきりするでしょう。
>
>
> そのときの当事者としての力量とは愛でないもの(真理、あるいは真実でないものと言っても同じです)が場に出現した時、判断なしに気づくことを言っています。


> > > >  別の観点から言うと、自我の暗黒・醜さを強く見て、これを滅したいという衝動と共に、家族愛を「私」が有していると主張する「自我」とその「本能的愛着」を同時に見てしまうとき、本当に「本能的な愛着」を自我が有しているのか?
>
>
> 自我の暗黒・醜さを見てこれを滅したいと思うとき、熱心さ、まじめさと見がちですがこれはただ見ておらず、時間の過程であり葛藤の過程ですから、本能的愛着を愛と同等のものとして、それがあるとは言葉上ではできません。実際の心の状態がどうであるかにかかっているわけです。


 説明言葉で誤解を与えたようです。
 上記の「自我の暗黒・醜さを強く見て、これを滅したいという衝動と共に」の説明において、「これを滅したい」という表現は、その後の流れから説明言葉として使用したもので、実際に起こったことは、「自我の暗黒・醜さを強く見て衝撃が起こったと」言うことです。その衝撃が正に断崖やハブを目の当たりにした衝撃に近いものです。
 よって、>自我の暗黒・醜さを強く見て−−の、この「見る」は時間の過程、ビカミングが含まれていないということです。そこで、これによって自我が消えるのかと思いきや、それとほぼ同時に妻子に対しての愛着(深い悲しみ:こんな私で・・)がとても強烈に沸き立ってのです。そして、それに伴い、そのような深い愛着を有する自我を滅することなどできない。。という思いとなりました。事実、自我は滅することなく、そのまま存続していきました。
 上記のことは、ほぼ同時に起こったので、時間差があったのか?否か?とても微妙です。もしも、あったとしてもほんの一瞬間のことでしょう。
 それゆえに、そこに思考が挟まっているのか否か?とても見極めることができなかったのです。
 おそらく、クリシュナムルティを知らない人ならば、必ず、それは愛だと感ずることでしょう。
 クリシュナムルティ理解者の一人であったが故に、そこに懐疑の目を向けているということです。

 そのときの強い愛が、自我の愛着なのか?自我無しの「愛」なのか?とても微妙で分からなかったのです。

 それとも、自我在りの「愛」がありうるのか?


 そのとき、自我の愛着(又は「愛」)と感じたから、そのような自我を滅することなどできはしない・・と感じたのは確かです。。



> > > 実は自我、あるいは自己というのははっきりしない言葉で困るのですが、自我はある程度の暗黒部を持つ人間の主観的意識としましょう。私にとってはそれはマインドの全体に思えるのです。ただいろいろな機能があるだけで、それを引き起こす部位もあるでしょうが、切り離せるものでもなのかなと。
> > >
> > > それで暗部があっても、生の育んだ愛も当然私の中にあると私は言います。愛があるかより暗部が出る時気づくことが課題のような気がします。愛でないものが出る時気づいている。
> > >
> > > >  それとも、それは自我の偽りなのか・・?という問いです。
> > > >
> > > >  上記のことは観念ではなく、今朝、実際に見たことです。
> > > >
> > > >  「本能的な愛着を有する自我」ということが実体としてあるように感じました。
> > >
> > > 親は猫かわいがりはしませんが、子や孫のためであれば命を捨てることを厭いません。それは案外快楽に執着している自分かも知れません。そんなことはどうでもいいんですが。
>
>
> 命を捨てることもいとわないそのとき、見ることがあるだけの境地であればそれは愛です。普段自我の執着が強かろうが何であろうが、そういう事とは関係なしにと言いたかったのですが……
>
>
> >  奴隷制の維持のために親子の愛着を活用していたようです。
> >
> >  大の大人が主人に逆らわないのはなぜか?絶対服従するのはなぜか?それは、もしも逆らうと我が子が売られる、すなわち親子がバラバラにされるからだそうです。
> >
> >  肉体的な恐怖で服従させると、その本体が傷つき身体的・精神的な病となって、本体の労働力を損なう。長い目で見ると奴隷制が維持できなくなる。
> >
> >  そこで、肉体的には傷つけない手法として、親子の愛着の活用があみだされたようです。これは古代ローマ時代からその手法があったようです。
> >
> >  又、スターリンが政敵を粛正する手法として、自白の強要がありました。罪を認めなければ家族を殺害する旨で脅し、法廷において無実の罪を自白させ処刑を行いました(表向きは法治国家なので)。しかし、その直後にその家族も暗殺されたとのことです。これも親子の愛着の利用でした。
> >
> >  身代金目的の誘拐も親子の愛着の利用が見られました。
> >
> >  さて、もしも、クリシュナムルティ理解者が、そのような惨劇の当事者となったとしたら、どうするのでしょうか。
> >
> >  親子の愛着を最優先させて、言いなりになるのか?
> >
> >  それとも、親子の愛着を脱ぎ捨てるのか?
>
>
> 私にとってはその場面で判断なしに見ていることが実際にあるなら、そこでどういう行為があるかは俗語ふうに言わしていただくなら、神様だけがご存知ですという事になります。


 そのときの行為が、もしも、愛着を脱ぎ捨てることが行われた場合には、そこには慈悲心があるのでしょうか。。


> >  ただし、子育て真っ盛りの時期(子どもが乳幼児の頃)は、親子の愛着は純粋に本能的なものであり、神聖化・権威化・依存化(執着化)されて肥大化した親子の愛着ではないので、自らの生命を差し出すこともやむを得ないことと思います。
> >
> >  そのような子育て真っ盛りではない、子がある程度大きくなってから、先ほどの事態に遭遇した場合に、クリシュナムルティ理解者が、どのように応ずるのか?ということです。
> >
> >  私が思うには、クリシュナムルティは、肥大化していない親子の愛着は断ち切れると陳述しているように感じます。
> >
> >  その断ち切りが、「悲しみの大河」と繋がっているのかもしれません。そして、慈悲心の放出に繋がるのかもしれません。
> >
> >  「心理的に死ぬ」とは、最終的には本能的な愛着に対して死ぬことなのかもしれません。自我の終焉。時間の終焉。
> >
> >  そうではないでしょうか。
> >
> >  そこで、問いが生まれます。
> >
> >  さような惨劇の当事者とならずとも、すなわち、環境要因に依らずとも、心理的に死ぬこと、すなわち本能的な愛着に対して死ぬことができるのでしょうか?
>
>
> 葛藤とはいかに美辞麗句で飾られようと自分(自我と言った方がいいか)の執着が生み出していることに気づけばそれまでです。悲しみの流れはそうできていない人間の悲しみの蓄積のことではないかと思います。


 その気づきによって葛藤が止めば、そこに愛があるのでしょうか?
 それとも、愛は更に別のことでしょうか?



 さて、話は別の視点へと移動しますが・・。

 本能的な愛着を残したまま葛藤の終焉はありえないと思うのですが。つまり、「ミニ変容」と「根源的な変容」の違いは、本能的な愛着を残したままが「ミニ変容」であり、本能的な愛着が滅したことろが「根源的な変容」ではないか・・?と思うのですが・・いかがでしょうか。。

 また、もう一つの新たな問いが生じました。

 肉体が死ぬときに本能的な愛着も死ぬのか?という問いです。

 すなわち、再び改めて、「心理的に死ぬとは本能的な愛着に対して死ぬことか?」という問いに戻ります。。


 「問い」の形が多く、うまくまとめることができずに済みません。

 ゆっくりでよいので、お答え頂ければ、幸いです。よろしくお願いします。

 


[26379] Re:[26377] [26374] [26372] 家族の愛着 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/09(Wed) 21:59  

> > しばらくKの講話は後回しにして、家族や愛着のディスカッションをやりましょう。
> >
> >
> > >  血縁は戦国時代でも最強の絆として機能していました。
> > >
> > >  又、近い血縁者によって人質制度も機能できていた。
> > >
> > >  この本能的な愛着は思考の産物ではなく、生命進化の結晶ともいえると思います。
> > >
> > >  そこで問いが生じたのが、この本能的な愛着(家族の愛着)は自我の愛着と分けることができるのか・・?という問いです。
> > >
> > >  たとえば、親子の愛着を強く感じたとして、それは自我の愛着でもあるのか。。それとも、この親子の愛着を自我から切り離すことができるのか?


この問に直接はっきりと答えないと、ここに表現されている問題は解けないと感じました。しかし、前回私は答えているので、それは何を言っているかはっきりさせようと思います。


> > 親子の愛情と言ってもそこに所有欲とか、親の権力とか、成り行く過程とかが介入することがあり、その時は大なり小なり人間の持つ暗部の作用が起こるわけですね。そのときの相手の家人の力があればはね返すことも可能です。こういうことは少し不注意があれはよく起こります。


ここは言葉が足りていないのでもう一度言うと、親子の間にそのとき実際に真の愛があるかないかという事を言っているわけです。親の側に思考の介入などの不注意があれば、愛でなく暗部のある愛着が親から子に発せられているわけです。子供がある程度大きくて、精神的に力量があれば愛着を受け付けないで話し返し、愛の場に戻すことも可能だと言っています。ちょっと前回の文章では読み取れなかったかもしれませんが。


> > それで実際は言葉の上でこうだというの観念論になりがちだと思います。そうでなくてそのときの当事者の人間としての力量で決まるわけですから。人間は一般論として議論し、結論、考えの枠組みを作るのが好きですが、そうはうまくいかないと思います。しかし実際から離れずに議論すれば問題ははっきりするでしょう。


そのときの当事者としての力量とは愛でないもの(真理、あるいは真実でないものと言っても同じです)が場に出現した時、判断なしに気づくことを言っています。


> > >  別の観点から言うと、自我の暗黒・醜さを強く見て、これを滅したいという衝動と共に、家族愛を「私」が有していると主張する「自我」とその「本能的愛着」を同時に見てしまうとき、本当に「本能的な愛着」を自我が有しているのか?


自我の暗黒・醜さを見てこれを滅したいと思うとき、熱心さ、まじめさと見がちですがこれはただ見ておらず、時間の過程であり葛藤の過程ですから、本能的愛着を愛と同等のものとして、それがあるとは言葉上ではできません。実際の心の状態がどうであるかにかかっているわけです。


> > 実は自我、あるいは自己というのははっきりしない言葉で困るのですが、自我はある程度の暗黒部を持つ人間の主観的意識としましょう。私にとってはそれはマインドの全体に思えるのです。ただいろいろな機能があるだけで、それを引き起こす部位もあるでしょうが、切り離せるものでもなのかなと。
> >
> > それで暗部があっても、生の育んだ愛も当然私の中にあると私は言います。愛があるかより暗部が出る時気づくことが課題のような気がします。愛でないものが出る時気づいている。
> >
> > >  それとも、それは自我の偽りなのか・・?という問いです。
> > >
> > >  上記のことは観念ではなく、今朝、実際に見たことです。
> > >
> > >  「本能的な愛着を有する自我」ということが実体としてあるように感じました。
> >
> > 親は猫かわいがりはしませんが、子や孫のためであれば命を捨てることを厭いません。それは案外快楽に執着している自分かも知れません。そんなことはどうでもいいんですが。


命を捨てることもいとわないそのとき、見ることがあるだけの境地であればそれは愛です。普段自我の執着が強かろうが何であろうが、そういう事とは関係なしにと言いたかったのですが……


>  奴隷制の維持のために親子の愛着を活用していたようです。
>
>  大の大人が主人に逆らわないのはなぜか?絶対服従するのはなぜか?それは、もしも逆らうと我が子が売られる、すなわち親子がバラバラにされるからだそうです。
>
>  肉体的な恐怖で服従させると、その本体が傷つき身体的・精神的な病となって、本体の労働力を損なう。長い目で見ると奴隷制が維持できなくなる。
>
>  そこで、肉体的には傷つけない手法として、親子の愛着の活用があみだされたようです。これは古代ローマ時代からその手法があったようです。
>
>  又、スターリンが政敵を粛正する手法として、自白の強要がありました。罪を認めなければ家族を殺害する旨で脅し、法廷において無実の罪を自白させ処刑を行いました(表向きは法治国家なので)。しかし、その直後にその家族も暗殺されたとのことです。これも親子の愛着の利用でした。
>
>  身代金目的の誘拐も親子の愛着の利用が見られました。
>
>  さて、もしも、クリシュナムルティ理解者が、そのような惨劇の当事者となったとしたら、どうするのでしょうか。
>
>  親子の愛着を最優先させて、言いなりになるのか?
>
>  それとも、親子の愛着を脱ぎ捨てるのか?


私にとってはその場面で判断なしに見ていることが実際にあるなら、そこでどういう行為があるかは俗語ふうに言わしていただくなら、神様だけがご存知ですという事になります。


>  ただし、子育て真っ盛りの時期(子どもが乳幼児の頃)は、親子の愛着は純粋に本能的なものであり、神聖化・権威化・依存化(執着化)されて肥大化した親子の愛着ではないので、自らの生命を差し出すこともやむを得ないことと思います。
>
>  そのような子育て真っ盛りではない、子がある程度大きくなってから、先ほどの事態に遭遇した場合に、クリシュナムルティ理解者が、どのように応ずるのか?ということです。
>
>  私が思うには、クリシュナムルティは、肥大化していない親子の愛着は断ち切れると陳述しているように感じます。
>
>  その断ち切りが、「悲しみの大河」と繋がっているのかもしれません。そして、慈悲心の放出に繋がるのかもしれません。
>
>  「心理的に死ぬ」とは、最終的には本能的な愛着に対して死ぬことなのかもしれません。自我の終焉。時間の終焉。
>
>  そうではないでしょうか。
>
>  そこで、問いが生まれます。
>
>  さような惨劇の当事者とならずとも、すなわち、環境要因に依らずとも、心理的に死ぬこと、すなわち本能的な愛着に対して死ぬことができるのでしょうか?


葛藤とはいかに美辞麗句で飾られようと自分(自我と言った方がいいか)の執着が生み出していることに気づけばそれまでです。悲しみの流れはそうできていない人間の悲しみの蓄積のことではないかと思います。


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