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[26157] Re:[26156] [26154] [26153] [26151] [26150] [26141] [26140] どうしても 投稿者:南方 投稿日:2018/10/29(Mon) 13:12  

> > > > > > > どうしても暇であることが苦痛だ。暇のままでいられればいいんだろうに。
> > > > > >
> > > > > >
> > > > > > 今回はこれをテーマに悟りを開こうと思う。
> > > > >
> > > > >
> > > > > Kの言うことを理想社会として形にすると科学技術が発展して尚且つ人々は暇のままであることを受け入れるということになるが?
> > > > >
> > > > > じゃあ科学技術の発展はそもそもいらないんじゃないかという見解が今の所で浮かんできた。
> > > >
> > > >
> > > > Kは「私の言うことを信じないで下さい」と言っているのでその通りにするとやはりKも人間で言っていることややっていること支離滅裂。しょせん人間は人間。完全な人なんていない。
> > > >
> > > > 一体人間ってなんだろうか。
> > >
> > > しかしながらKの言う刺激を絶えず求める心に安らぎはないとう言説はもっともである。不満であるなら不満になりきる。そこから離れず見る。その境地には至れない。不満であることから思考が逃避しようとするその動きを見る。するとどうなるか。
> >
> >
> > なぜ不満かを思考は語り出す。社会に適応できていない焦りからくる自分への不満だということ。私はそっと語りかける。適応する必要はないよ。自分の心は自分のものだから自由でいいよと。
> > 心はそれで安らぎ静かになった。
>
>
> 不快な思考が生じたとき「離れず見る」という思考の癖をつければよい。

「離れず見る」を実践すると不快な思考それが主体となるのでもはやそれを認識することがなくなり消滅する。離れることによって認識が生じ快不快を感じるようになる、というのがトリックの種明かし。


[26156] Re:[26154] [26153] [26151] [26150] [26141] [26140] どうしても 投稿者:南方 投稿日:2018/10/29(Mon) 12:20  

> > > > > > どうしても暇であることが苦痛だ。暇のままでいられればいいんだろうに。
> > > > >
> > > > >
> > > > > 今回はこれをテーマに悟りを開こうと思う。
> > > >
> > > >
> > > > Kの言うことを理想社会として形にすると科学技術が発展して尚且つ人々は暇のままであることを受け入れるということになるが?
> > > >
> > > > じゃあ科学技術の発展はそもそもいらないんじゃないかという見解が今の所で浮かんできた。
> > >
> > >
> > > Kは「私の言うことを信じないで下さい」と言っているのでその通りにするとやはりKも人間で言っていることややっていること支離滅裂。しょせん人間は人間。完全な人なんていない。
> > >
> > > 一体人間ってなんだろうか。
> >
> > しかしながらKの言う刺激を絶えず求める心に安らぎはないとう言説はもっともである。不満であるなら不満になりきる。そこから離れず見る。その境地には至れない。不満であることから思考が逃避しようとするその動きを見る。するとどうなるか。
>
>
> なぜ不満かを思考は語り出す。社会に適応できていない焦りからくる自分への不満だということ。私はそっと語りかける。適応する必要はないよ。自分の心は自分のものだから自由でいいよと。
> 心はそれで安らぎ静かになった。


不快な思考が生じたとき「離れず見る」という思考の癖をつければよい。


[26155] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/10/29(Mon) 11:06  

25148ですが、二重投稿だと一瞬思いましたが、(全て>だったので) 終わりの3行が感想ですか。


[26154] Re:[26153] [26151] [26150] [26141] [26140] どうしても 投稿者:南方 投稿日:2018/10/29(Mon) 09:56  

> > > > > どうしても暇であることが苦痛だ。暇のままでいられればいいんだろうに。
> > > >
> > > >
> > > > 今回はこれをテーマに悟りを開こうと思う。
> > >
> > >
> > > Kの言うことを理想社会として形にすると科学技術が発展して尚且つ人々は暇のままであることを受け入れるということになるが?
> > >
> > > じゃあ科学技術の発展はそもそもいらないんじゃないかという見解が今の所で浮かんできた。
> >
> >
> > Kは「私の言うことを信じないで下さい」と言っているのでその通りにするとやはりKも人間で言っていることややっていること支離滅裂。しょせん人間は人間。完全な人なんていない。
> >
> > 一体人間ってなんだろうか。
>
> しかしながらKの言う刺激を絶えず求める心に安らぎはないとう言説はもっともである。不満であるなら不満になりきる。そこから離れず見る。その境地には至れない。不満であることから思考が逃避しようとするその動きを見る。するとどうなるか。


なぜ不満かを思考は語り出す。社会に適応できていない焦りからくる自分への不満だということ。私はそっと語りかける。適応する必要はないよ。自分の心は自分のものだから自由でいいよと。
心はそれで安らぎ静かになった。


[26153] Re:[26151] [26150] [26141] [26140] どうしても 投稿者:南方 投稿日:2018/10/29(Mon) 07:50  

> > > > どうしても暇であることが苦痛だ。暇のままでいられればいいんだろうに。
> > >
> > >
> > > 今回はこれをテーマに悟りを開こうと思う。
> >
> >
> > Kの言うことを理想社会として形にすると科学技術が発展して尚且つ人々は暇のままであることを受け入れるということになるが?
> >
> > じゃあ科学技術の発展はそもそもいらないんじゃないかという見解が今の所で浮かんできた。
>
>
> Kは「私の言うことを信じないで下さい」と言っているのでその通りにするとやはりKも人間で言っていることややっていること支離滅裂。しょせん人間は人間。完全な人なんていない。
>
> 一体人間ってなんだろうか。

しかしながらKの言う刺激を絶えず求める心に安らぎはないとう言説はもっともである。不満であるなら不満になりきる。そこから離れず見る。その境地には至れない。不満であることから思考が逃避しようとするその動きを見る。するとどうなるか。


[26152] Re:[26148] [26143] [26132] 既知からの自由15−2 投稿者:宮啓 投稿日:2018/10/28(Sun) 22:20  

> > 15章−3 [瞑想]
> >
> >  この全問題を調べることが瞑想です。この言葉は東洋でも西洋でも、最も残念なやり方で使われてきました。様々な瞑想の学校、種々の方法と方式があります。「自分の親指の動きを見守りなさい。それを見守って、見守って、見守りなさい」という方式があります。他の方式があり、それは規則的に呼吸したり、気づきを練習しながらある特定の姿勢で座ることを主唱します。これらはみんな完全に機械的です。別の方法はあなたにある言葉を与え、それを繰り返すことを続けるなら、ある並外れた超越的な経験をするだろうと教えます。これは全くのナンセンスです。それは自己催眠の一形態です。アーメンとかオームとかコカ・コーラと無限に繰り返すことによって明らかにある経験を持つでしょう。なぜなら繰り返すことによって心は静かになるからです。それはよく知られた現象で、インドで数千年の間行われてきました ― マントラ・ヨガと呼ばれます。繰り返すことによって心をおとなしく穏やかに誘導することができますが、それはなお貧弱で、見掛け倒しで、小さな心です。庭で拾った一本の棒切れをマントルピースの上に置き、それに毎日花を供えても同様でしょう。一か月であなたは棒切れを拝んでおり、その前に花を置かないことは罪になるでしょう。
> >
> >  瞑想は何かの方式に従うことではありません。絶え間のない繰り返しや模倣ではありません。瞑想は集中ではありません。集中、すなわち心を一つの思考に固定し、他の思考をみんな追い出すことを学ぶのを生徒に強要するのは瞑想の教師のお気に入りの手始めの手の一つです。これは最も愚かな醜いことであり、学校の生徒でも、強要されるのですることができます。それは集中しなけれがならないという一方の主張と、他方あらゆる種類のほかの物事にさまよう心との間に、いつも戦いがあることを意味します。ところが、心がどこにさまよおうが、あなたは心のあらゆる動きに注意深くなければならないのです。心がさ迷っているときは、それはあなたが何か他のものに関心があることを意味します。
>
>
> > この全問題を調べることが瞑想です −− この全問題とは満足の要求と経験、その中にある二重性のことを指します。
> 従来の瞑想はその意味で瞑想と言えない。その中には指導者と順応、機械性、習慣性の果ての経験があるからです。これは人間の一般的生き方と別のものではありません。根本的革命ではありません。
>
>
> >  瞑想は驚くほど油断のない心を必要とします。瞑想はあらゆる形の断片化がやんだ生の全体の理解です。瞑想は思考の制御ではありません。というのは思考が制御されるとき、それは心の中に葛藤を引き起こすからです。しかし思考の構造と起源を理解するとき、それについては既に検討してきましたが、そのとき思考は干渉しないでしょう。思考の構造の理解こそが思考の規律そのものであり、それは瞑想です。
> >
> >  瞑想はあらゆる思考とあらゆる感情に気づいていることです。決して正しいとか間違っているとか言わず、ただ見守り、共に動いていることです。その見守ることの中であなたは思考と感情の動きの全体を理解し始めます。そしてこの気づきから沈黙が生じます。思考によって組み立てられた沈黙は停滞であり、死んでいますが、しかし思考がそれ自体の始まり、自分自身の性質を理解し、どのようにあらゆる思考が決して自由でなく常に古いかを理解するときに生じる沈黙は ― この沈黙はその中に瞑想者が全くいない瞑想です。というのは心がそれ自体から中の過去のものを出して空っぽにしたからです。
> >
> >  この本を丸一時間も注意深く読んできたなら、それは瞑想です。単にいくつかの言葉を持ち去り、後で検討するためにいくつかの考えを集めただけなら、それはもはや瞑想ではありません。瞑想はあらゆるものを完全な注意で、単に一部ではなく、全体的に熟視している心の状態です。そして誰もあなたにどうやって注意深くあるか、教えることはできません。何かの方式がどうやって注意深くあるか教えるなら、その時その方式に注意深いので、それは注意ではありません。瞑想は生の中の最も偉大な技術の一つです ― たぶん最大のものです。そして人は誰かから瞑想を学ぶことはとてもできません。それがその美しさです。それは技術を持たず、したがって権威を持ちません。自分自身について学ぶとき、自分自身を見守るとき、自分の歩き方、どのように食べるか、何を言うか、噂話、憎しみ、嫉妬を見守るとき ― 自分自身の中のそのすべてに、どんな選択もなしに気づいているなら、それは瞑想の一部です。
> >
> >  それゆえ瞑想はバスの中で座っているときや光と影に満ちた森の中を歩いているとき、あるいは鳥が歌っているのを聞いているときや妻や子供の顔を見ているときに起こり得るのです。
> >
> >  瞑想の理解の中に愛があります。そして愛は方式、習慣、方法に従うことの産物ではありません。愛は思考によって養成することはできません。愛はおそらく完全な沈黙、瞑想者が全くいない沈黙があるとき生じることができます。そして心は自分自身の動きを思考と感情として理解するときのみ、心は沈黙していることができます。思考と感情のこの動きを理解するためには、それを観察する中に非難はあり得ません。そのようなやり方で観察することが規律であり、そしてそのような規律は、順応の規律ではなく、流動的で、自由です。
>
>
> > 思考と感情のこの動きを理解するためには、それを観察する中に非難はあり得ません。そのようなやり方で観察することが規律であり、そしてそのような規律は、順応の規律ではなく、流動的で、自由です−− このような観察することが規律であると。
> ようやくクリシュナムルティの言う規律の意味するところが分かりました。
>
> > (終わり)


 >瞑想は生の中の最も偉大な技術の一つです ― たぶん最大のものです。そして人は誰かから瞑想を学ぶことはとてもできません。それがその美しさです。それは技術を持たず、したがって権威を持ちません。自分自身について学ぶとき、自分自身を見守るとき、自分の歩き方、どのように食べるか、何を言うか、噂話、憎しみ、嫉妬を見守るとき ― 自分自身の中のそのすべてに、どんな選択もなしに気づいているなら、それは瞑想の一部です。−−

 この生きる術。生の中の最も偉大な技術。これなくしては愛は偽りとなるもの。

 それは>そして人は誰かから瞑想を学ぶことはとてもできません。それがその美しさです。−−

 「クリシュナムルティ理解への取り組み」の意味。


[26151] Re:[26150] [26141] [26140] どうしても 投稿者:南方 投稿日:2018/10/28(Sun) 18:58  

> > > どうしても暇であることが苦痛だ。暇のままでいられればいいんだろうに。
> >
> >
> > 今回はこれをテーマに悟りを開こうと思う。
>
>
> Kの言うことを理想社会として形にすると科学技術が発展して尚且つ人々は暇のままであることを受け入れるということになるが?
>
> じゃあ科学技術の発展はそもそもいらないんじゃないかという見解が今の所で浮かんできた。


Kは「私の言うことを信じないで下さい」と言っているのでその通りにするとやはりKも人間で言っていることややっていること支離滅裂。しょせん人間は人間。完全な人なんていない。

一体人間ってなんだろうか。


[26150] Re:[26141] [26140] どうしても 投稿者:南方 投稿日:2018/10/28(Sun) 18:21  

> > どうしても暇であることが苦痛だ。暇のままでいられればいいんだろうに。
>
>
> 今回はこれをテーマに悟りを開こうと思う。


Kの言うことを理想社会として形にすると科学技術が発展して尚且つ人々は暇のままであることを受け入れるということになるが?

じゃあ科学技術の発展はそもそもいらないんじゃないかという見解が今の所で浮かんできた。


[26149] 根本的革命 投稿者:南方 投稿日:2018/10/28(Sun) 18:10  

Kはあらゆる人が根本的革命を果たしていないために世界の混乱があると言っているが本当だろうか?マントラ等を使い変化した人が混乱を作り出しているのではなくいわゆるそれらに全く関心がない人々が混乱を作り出しているのではないか?



[26148] Re:[26143] [26132] 既知からの自由15−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/28(Sun) 17:45  

> 15章−3 [瞑想]
>
>  この全問題を調べることが瞑想です。この言葉は東洋でも西洋でも、最も残念なやり方で使われてきました。様々な瞑想の学校、種々の方法と方式があります。「自分の親指の動きを見守りなさい。それを見守って、見守って、見守りなさい」という方式があります。他の方式があり、それは規則的に呼吸したり、気づきを練習しながらある特定の姿勢で座ることを主唱します。これらはみんな完全に機械的です。別の方法はあなたにある言葉を与え、それを繰り返すことを続けるなら、ある並外れた超越的な経験をするだろうと教えます。これは全くのナンセンスです。それは自己催眠の一形態です。アーメンとかオームとかコカ・コーラと無限に繰り返すことによって明らかにある経験を持つでしょう。なぜなら繰り返すことによって心は静かになるからです。それはよく知られた現象で、インドで数千年の間行われてきました ― マントラ・ヨガと呼ばれます。繰り返すことによって心をおとなしく穏やかに誘導することができますが、それはなお貧弱で、見掛け倒しで、小さな心です。庭で拾った一本の棒切れをマントルピースの上に置き、それに毎日花を供えても同様でしょう。一か月であなたは棒切れを拝んでおり、その前に花を置かないことは罪になるでしょう。
>
>  瞑想は何かの方式に従うことではありません。絶え間のない繰り返しや模倣ではありません。瞑想は集中ではありません。集中、すなわち心を一つの思考に固定し、他の思考をみんな追い出すことを学ぶのを生徒に強要するのは瞑想の教師のお気に入りの手始めの手の一つです。これは最も愚かな醜いことであり、学校の生徒でも、強要されるのですることができます。それは集中しなけれがならないという一方の主張と、他方あらゆる種類のほかの物事にさまよう心との間に、いつも戦いがあることを意味します。ところが、心がどこにさまよおうが、あなたは心のあらゆる動きに注意深くなければならないのです。心がさ迷っているときは、それはあなたが何か他のものに関心があることを意味します。


> この全問題を調べることが瞑想です −− この全問題とは満足の要求と経験、その中にある二重性のことを指します。
従来の瞑想はその意味で瞑想と言えない。その中には指導者と順応、機械性、習慣性の果ての経験があるからです。これは人間の一般的生き方と別のものではありません。根本的革命ではありません。


>  瞑想は驚くほど油断のない心を必要とします。瞑想はあらゆる形の断片化がやんだ生の全体の理解です。瞑想は思考の制御ではありません。というのは思考が制御されるとき、それは心の中に葛藤を引き起こすからです。しかし思考の構造と起源を理解するとき、それについては既に検討してきましたが、そのとき思考は干渉しないでしょう。思考の構造の理解こそが思考の規律そのものであり、それは瞑想です。
>
>  瞑想はあらゆる思考とあらゆる感情に気づいていることです。決して正しいとか間違っているとか言わず、ただ見守り、共に動いていることです。その見守ることの中であなたは思考と感情の動きの全体を理解し始めます。そしてこの気づきから沈黙が生じます。思考によって組み立てられた沈黙は停滞であり、死んでいますが、しかし思考がそれ自体の始まり、自分自身の性質を理解し、どのようにあらゆる思考が決して自由でなく常に古いかを理解するときに生じる沈黙は ― この沈黙はその中に瞑想者が全くいない瞑想です。というのは心がそれ自体から中の過去のものを出して空っぽにしたからです。
>
>  この本を丸一時間も注意深く読んできたなら、それは瞑想です。単にいくつかの言葉を持ち去り、後で検討するためにいくつかの考えを集めただけなら、それはもはや瞑想ではありません。瞑想はあらゆるものを完全な注意で、単に一部ではなく、全体的に熟視している心の状態です。そして誰もあなたにどうやって注意深くあるか、教えることはできません。何かの方式がどうやって注意深くあるか教えるなら、その時その方式に注意深いので、それは注意ではありません。瞑想は生の中の最も偉大な技術の一つです ― たぶん最大のものです。そして人は誰かから瞑想を学ぶことはとてもできません。それがその美しさです。それは技術を持たず、したがって権威を持ちません。自分自身について学ぶとき、自分自身を見守るとき、自分の歩き方、どのように食べるか、何を言うか、噂話、憎しみ、嫉妬を見守るとき ― 自分自身の中のそのすべてに、どんな選択もなしに気づいているなら、それは瞑想の一部です。
>
>  それゆえ瞑想はバスの中で座っているときや光と影に満ちた森の中を歩いているとき、あるいは鳥が歌っているのを聞いているときや妻や子供の顔を見ているときに起こり得るのです。
>
>  瞑想の理解の中に愛があります。そして愛は方式、習慣、方法に従うことの産物ではありません。愛は思考によって養成することはできません。愛はおそらく完全な沈黙、瞑想者が全くいない沈黙があるとき生じることができます。そして心は自分自身の動きを思考と感情として理解するときのみ、心は沈黙していることができます。思考と感情のこの動きを理解するためには、それを観察する中に非難はあり得ません。そのようなやり方で観察することが規律であり、そしてそのような規律は、順応の規律ではなく、流動的で、自由です。


> 思考と感情のこの動きを理解するためには、それを観察する中に非難はあり得ません。そのようなやり方で観察することが規律であり、そしてそのような規律は、順応の規律ではなく、流動的で、自由です−− このような観察することが規律であると。
ようやくクリシュナムルティの言う規律の意味するところが分かりました。

> (終わり)


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