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[25928] 既知からの自由12−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/28(Fri) 10:20  

12章[観察者と観察されるもの〕−1

私と一緒にもう少し先へ進みましょう。やや複雑で微妙かもしれませんが、どうかそれと共に進みましょう。

 さて私があなたについて、あるいは何かについてイメージをつくるとき、私はそのイメージを見ることができます。そこでイメージとイメージの観察者があります。私は誰かを、例えば赤いシャツを着た人を見、そして私の即座の反応はそれが好き、あるいは好きでないということです。その好き、嫌いは私の文化、訓練、つきあい、性向、後天的または先天的な性格の結果です。観察し判断するのはその中心からで、したがって観察者は観察されるものから切り離されています。

 しかし観察者は一つ以上のイメージに気づいています。それは何千ものイメージをつくります。しかし観察者はそれらのイメージと違うのでしょうか? 観察者はただのもう一つのイメージなのではないでしょうか? 観察者は常に彼の現状に、付け加えたり差し引いたりしています。観察者は生きているもので、内外からの圧力の結果としていつも量り、比較し、判断し、修正し、変化しています ― 彼自身の知識、影響、数え切れないほどの計算である意識の領域の中に住みながら。同時に、観察者を見るなら、観察者は自分自身ですが、それは記憶、経験、出来事、影響、伝統、あらゆる種類の苦悩からできていて、それらは皆過去であることが見えます。それゆえ観察者は過去と現在の両方であり、そして明日が待っていて、それもまた観察者の一部分です。彼は半分生きて半分死んでおり、この死と生で彼は見ているのです。死んだそして生きている葉で。そして心のその状態の中で、それは時間の領域の内側にありますが、あなた(観察者)は恐怖を、嫉妬を、戦争を、家族(家族と呼ばれるあの醜い閉ざされた存在)を見、そして挑戦、新しいもの、である観察されたものについての問題を解こうと試みます。あなたは常に新しいものを古いものの立場で解釈しており、従って絶え間なく葛藤の中にあるのです。

(続く。4回に分けて掲載します)


[25927] Re:[25925] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/28(Fri) 10:07  

> >クリシュナムルティの陳述」との関係にも、イメージが挟まると、クリシュナムルティが陳述したことが起こらないのかもしれません。
>
>  なぜ、クリシュナムルティが陳述していることが起こらないのか。その理由は、クリシュナムルティの陳述に直接触れていないから。
>
>
> 相変わらずズレまくり。
> 言葉の解釈に奔走している。
> 人のことはどうでもいい。
> 自分がイメージなしに見ているかだ。


解釈なしに見ることはすべてと言っていいぐらい重要だ。実際の日常生活での挑戦に対し、イメージなしに見ている瞬間が訪れ、ミニ悟りが生じる。それが一度出れば、だんだん出やすくなって成長する。これは実際に起こることです。

 ところがKの、時間なしに、全的に、この世界の混迷を見てというトークの全体を聴いてにいないから全的変容がないと言われる。確かにKはそのように言っている。しかし追い詰められた現実世界の中の個人の一挑戦に全的に見て対処することは実際に起きる。トークを全的に聞いて大変容を開いた人はなかったとKも言った。それはトーク、あるいは本からリアリティがないからではないかとの疑問もある。

 それで本からでも心が絶対の静寂から聴き、変容することがないか、本当に聴くことに挑戦してみる人にはその道をやっていただけばいいと思う。尊敬を持って見ていようと思っています。


[25926] Re:[25902] [25901] [25900] [25899] [25893] 既知からの自由11ー2 投稿者:無名 投稿日:2018/09/28(Fri) 10:00  

コメントありがとうございました。一応返信のコメントします。

> 私の話は例としては現実でないファンタジーなので、無名さんと話するには不適だったかもしれません。しかし、現実にもよくある話ではないですか。そして私にはおばあさん、父、子供の兄妹の言うことが矛盾しているが実にまっとうに思えます。だが町に移って住むと言うのは、理知的な思考の解決で、悲しみも矛盾もなくなせません。解決には愛が世界の隅々に浸透して社会ごと愛に浸されなければなりません。

あなたはファンタジーの世界に生きているのですか?
現実に戻りましょう。
孤島の生活で子供たちを養えますか?
誰でも自然とのふれあいの生活はしたいですよ。食えないから生活できないから都会で働かざるを得ない。
都会でも愛の生活は可能です。そこで幸福に暮らせばいい。
「妖精」というのは、その人を試すための方便。

>  それは夢のような話ですが、そうでないとこの矛盾は解決しません。その愛の心はどういう事か私たちにわかるようにKは説いてくれています。

わからないから疑問を呈しています。あまりにも抽象的なので。
>
>

> > つまりその人は、何で孤島にしがみつくのか自問自答したことがあるだろうか。
> > 子供のためを真摯に思うなら、町に出ていっている。
> > 孤島にこだわるのは、一種のエゴだろう。
>
> 子供を真摯に思うなら町に連れて行くのは問題かもしれません。自然から切り離されてしまう。

逆です。子供たちと町で暮らすのが愛の生活です。
問題は、灯台守の人。いつまでも未練たらたら(妖精)では子に迷惑かける。「思い切れ」と言いたい。
>
> > > > 全的に完全に見るとは、一体どういうことか?
> > > > 思考なしに、ということ?
> > >
> > > 私があげた例を見て、おばあさんが正しいとか、お父さんは思い出に執着しているとか、子供のは親の決定に従うべきだとかいう人は、思考でとやかく言っています。感情、悲しみをも理解して見ている人、世の中がつくりだした社会の介入も見ている人が全的に見ている人です。
> >
> > 私が思うには、その灯台守の人は、自分勝手です。エゴです。
> > 全的に見れば愛があふれ、子供といっしょに町に行くでしょう。
> > それを亡き妻の感傷にしたって、孤島に残るというのは、寓の骨頂。
> > いかんせん。思考に未練があるということ。
> > 妻に未練があるのではなく、「妻」という思考に未練がある。ここにこの人は気づいていない。まさに自己憐憫
>
> そこを確かめるには全的に完全に見ないといけない。

ですから、その灯台守が全的に見てるかどうか?
全的に見れば、個人的感傷に慕っていることが明確になるでしょう。思考があらわになるということ。そこに気づけば自己憐憫は終わる。


>
> > > > >  あなたは一本の木のような対象物を、どんな連想も、それについて得たどんな知識もなしに、あなたと木の間に遮蔽物をつくって木をありのままに見ることを妨げるどんな偏見、どんな判断、どんな言葉もなしに見ることを実験したことがありますか? 
> > > >
> > > > ありません。
>
> そう、それが人間の悲しみです。

何で悲しみなんですか?事実を言ったまで。
実験する人は、暇というか時間のある人。
>
>

> > > 例えばですが父と母との争いを胸を痛めて必死に見ている子供の気持ちが全存在で、全エネルギ−を注いで見るという事でしょう。凝視とか金剛力とか区別的に判断するのではなく、全的に、つまり、分別心なしに見ていることが全的であることです。
> >
> > あなたは受動的に全的エネルギーが注がれると、お思いなのだろうか?
> > あなたの言われた例は、全的エネルギーと関係ありません。
> > 夫婦喧嘩を見ている子供は悲嘆にくれるだけであって、全的エネルギーが、注がれるというのはおかしいでしょう。
> > 子供はそのとき、自身の内面を見てますか?
> > 見てないでしょう。明らかに。
> > 意識の矛先は、夫婦の争いをリアルに向いています。つまり外部。
> > ここでいう内部というのは、自分自身の心の内部のことです。つまりは思考の動き。外部というのは目に見える世界。
> > もう一度言うと、外部では夫婦が争っています。
> > それに対しての反応が「内部」。
> > 私自身、言いたくないですが、子供のころ相当嫌な思いをしました。
> > 繰り返すと、反応を見るというのは、自分の内部で起きる思考の動き、流れを見るということです。
> > 例えば、相手に対し馬鹿野郎、この野郎が浮かんだら、「馬鹿野郎」「この野郎」という思考を見る。
> > 問題は、この時、人間は感情的になってしまうということです。見るどころではない。意識の矛先は相手に向けているから。憎しみのエネルギー
>
>
> 全エネルギーで見るという事は、思考や感情にはエネルギーを向けずに、エネルギーが見、聴くことだけに全部向かっている心の状態です。

ですから、どういうときに、その状態になるのかを聞いている。
その体験が豊富なら、いくらでも言えるではないですか?
でないとクリシュナムルティのコピーです。
>
> > > > >その強烈さの中に観察者は全くないことを見いだすでしょう。
> > > >
> > > > 見てる時、思考はないということですか?
> > >
> > > はい。
> > >
> > > > それが強烈ということですか?
> > >
> > > はい。その時結論も分別もありません。それが観察者がいないという事です。強烈という事は力士のようなすごい力という事ではなく、見る、聴く、感じることだけにエネルギーが向かっているという事です。一生懸命なことです。

あなたのコメントを見るとクリシュナムルティのいうことを、そのままいっているのではないですか?
御自分の体験をあれば、それをいってください。
>
> > > > >注意だけがあります。観察者と観察されるものがあるのは不注意があるときです。何かを完全な注意で見ているとき、概念や、公式や記憶の入る余地はありません。このことを理解することが重要です。
> > > >
> >
> > 言葉ではわかります。何とでも説明できます。問題は、現場での「実感」
> >
> > > > つまり思考は介入しない。不注意というのは思考が介入すること。
> > >
> > > そうです。
> > >
> > > > >何故なら私たちは非常に注意深い探求を必要とすることに入りつつあるからです。
> > > >
> > > > 言ってることはわからないではないですが、どうやって思考を追い出すのですか?
> > > > 考えないということ?
> > > > 「注意深い探求」というのがよくわからない
>
> 今の事実だけに注意があり、過去の知識で思考しない。自己が消えている。

ですから本ではそう書いている。
> > >
> > > ただただひたすらに見ていること。全エネルギーで見ている。それが注意で、思考は顔を出せない。
> >
> > ですから言葉ではいえます。
> > >
> > > > >  完全な自己放棄で木や星やきらめく川の水を見る心だけが美とは何かを知ります。
> > > > 完全な自己放棄って何ですか?
> > > > 誰でも木や星を見てますよ。
> > >
> > > そうですが全エネルギーを注ぐことはない。
> >
> > そうです。
> > >
> > > > >そして実際に見ているとき私たちは愛の状態にあります。
> > > >
> > > > 何で急に愛の話になるのですか。
> > >
> > > 全エネルギーを注いで何かを見ている時、思考も自己もなく見ている。それが愛という状態にあることなのだ、と教えてくれています。
> >
> > 何で愛なのか。
> > 私は以前、新しい芽氏の言葉を紹介した。どのように気づいているか。愛の気持ちで気づいているのかと氏はいう。
> > そのように愛というのは自ら発するものである。
> > 何がエネルギーを注いでいる時が愛なのか?
>
> 全エネルギーを注ぐことはおのずと発する。
>
> > > > >普通は比較したり、人が組み立てたものを通じて美を知りますが、それは私たちが美を何かの対象に起因すると考えていることを意味します。 私は、私が美しい建築であると考えるものを見、そしてその美を自分の建築の知識のせいで、またそれを私が見たほかの建築と比較することによって味わうのです。しかしいま私は自分自身に「対象なしに美はあるだろうか?」と尋ねています。
> > > >
> > > > 仏像は誰が見ても美しいです。偏見はありません。
> > > >
> > > そういう時観察者・思考がそう言っているのです。次を読んでください。
> >
> > そうではなく、実際の話です。実際に仏像を見たことを言っている。
> > 万人共通の美意識をもっているから、みんな桜を見に行くのではないですか。
> > 富士山は美しい。星は美しい。花は美しい
> > > >
> > > > >検閲者、経験者、思考者である観察者がいるとき、美は外部の何か、観察者が見て判断する何かであるため、美はありません。だが観察者がないとき ― そしてこのことは大変な瞑想、探求を必要とします ― そのとき対象なしの美があります。
> > > >
> > > > ここへきて瞑想、探求の話になった。
> > >
> > > いえ、観察者がいない時(エネルギ−が見ることだけに注がれている時)対象なしの美があるとKが言っています。
> >
> > さっきいった花、星、山を見ているときは対象のない美です。
> > 思考が生じると二元的になる。分離
> > 例「きれい」「きたない。「自分」と「他人」
> >
>
> 分離なく見ている時は対象に美があるのか、いや、自分も一体で、その時、美だけがあるということですか。
>
何で?
クリシュナムルティというのは愛とか美、いっしょくたんにしている。

> > > > 何で愛が出てくるのですか?愛は前章のテーマで、今章のテーマは「見る、聞く」です。
> > >
> > > 愛と美はどのような状態であるかを、見る、聴くとの関連を使ってはっきりと述べられつつあります。

  
 それが抽象的な言葉で説明するので、容量を得ない。
> > >
> > > > >

> それが第一歩ですね。しかし植物学者は常に思考で記述する。この時記憶は働いていないのだろうか?

?伝わらないですね。
何で植物学者は常に思考で記述するのか?
その前に植物を全的エネルギーで観察することが前提です。
そこで感じたことを言葉で表現するということです。
物理学、天文学、医学などすべて。
顕微鏡を見るとき
望遠鏡を見るとき
オペ(手術)するとき。



[25925] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/09/28(Fri) 08:02  

>クリシュナムルティの陳述」との関係にも、イメージが挟まると、クリシュナムルティが陳述したことが起こらないのかもしれません。

 なぜ、クリシュナムルティが陳述していることが起こらないのか。その理由は、クリシュナムルティの陳述に直接触れていないから。


相変わらずズレまくり。
言葉の解釈に奔走している。
人のことはどうでもいい。
自分がイメージなしに見ているかだ。
自分の足元を見ろ。

もう一度言おうクリシュナムルティなんかどうでもいい。



[25924] Re:[25923] [25919] [25917] 既知からの自由11−4 投稿者:南方 投稿日:2018/09/27(Thu) 18:37  

>
>
>  「クリシュナムルティの陳述」との関係にも、イメージが挟まると、クリシュナムルティが陳述したことが起こらないのかもしれません。
>
>  なぜ、クリシュナムルティが陳述していることが起こらないのか。その理由は、クリシュナムルティの陳述に直接触れていないから。。


過剰な自己卑下の裏には過大な自己尊大がある。


[25923] Re:[25919] [25917] 既知からの自由11−4 投稿者:宮啓 投稿日:2018/09/27(Thu) 18:22  

> > 11章−4 [空間]
> >
> >  この時空の隔たりなしに、自分自身と自分が怖れているものとのギャップなしにあらゆる問題に出会う事は可能でしょうか? それは観察者が、イメージのつくり手である観察者、記憶と観念の集まったものであり、抽象の束である観察者が継続しない時のみ可能です。
>
>
> 観察者が継続しない時のみ、隔たり、ギャップなしに問題に出会うことができる。それで観察者とは何か、空間とは何か、イメージとは何かが次の12章で詳しく述べられます。私もイメージなしに、心理的という限定があるにしろそういう事が可能か否かに疑問があります。しかし同時に言葉から受ける感じと違い、実際に新鮮に、直視するという心の状態があります。それらを皆さんと検討したいと思っています。
>
>
> >  星を見るとき空の星を見ているあなたがいます。空は輝く星で満ち、涼しい空気があり、そしてあなたが、観察f者、経験者、思考者が、痛む心を持ったあなたが、あなた、中心、が空間をつくり出しながら、います。あなたは自分自身と星の間の、自分自身と妻あるいは夫、または友との間の空間を決して理解しないでしょう。なぜならあなたは決してイメージなしで見たことがないからであり、そしてそれが美が何か、愛が何か知らない理由なのです。あなたはそれについて語り、それについて書きますが、おそらく全くの自己放棄の稀な合間を除いては決してそれを知っていません。空間を周囲につくり出す中心がある限り、愛も美もどちらもありません。中心も周辺もないとき、美があります。そしてあなたが愛するときあなたは美です。
>
>
> 本当にイメージなしに見たことはないのか? 稀な瞬間はあると私は確信します。私の言うミニ変容です。しかし別にイメージなしに家に帰ることができるかという疑問があります。心理的問題と実際問題の区別が、心理問題のことを言っているという事で済むかという話を12章でしたいと思っています。もちろん純粋な探究心でです。
>
>
> >  向かい合っている人の顔を見るとき、あなたは中心から見ており、中心は人と人との間の空間をつくります。そしてそれが私たちの生が非常に空虚で無感覚な理由です。愛や美を育成することはできないし、真理を考え出すこともできません。しかしいつも自分がしていることに気づいているなら、気づきを育成することはでき、その気づきからあなたは快楽、欲望や悲しみ、人の全くの孤独と退屈の本質を見始めるでしょう。そしてそのとき「空間」と呼ばれるあのものに出会い始めるでしょう。
>
>
> そう、この人と人の間でイメージが生じるのが問題です。花や自然を見る時でさえイメージが入り込むというのが問題です。しかし帰り道に問題が起きないのはなぜでしょう。妻を隣の奥さんと間違えたりしません。ここをはっきりしたいのです。常にイメージを持っていながら実用上は問題になぜならないか?
>
>
> >  自分と自分が観察している対象の間に空間があるとき、愛はないことをあなたは知るでしょうし、そして愛なしでは、いくら世界を改革したり新しい社会秩序をもたらそうと必死に試みても、改革について多く語っても、苦しみをつくり出すだけでしょう。それゆえそれはあなたの責任です。指導者も、教師もいません。あなたに何をすべきか教える誰もいないのです。あなたはこの狂った残忍な世界に一人でいるのです。
>
>
> しかし三人寄れば文殊の知恵とも言います。私の抱いている課題を言いました。ここまで課題をはっきり表に出せたのは私には初めてのことです。よろしくお願いします。
>
> > (終わり)


 「クリシュナムルティの陳述」との関係にも、イメージが挟まると、クリシュナムルティが陳述したことが起こらないのかもしれません。

 なぜ、クリシュナムルティが陳述していることが起こらないのか。その理由は、クリシュナムルティの陳述に直接触れていないから。。


[25922] 覚悟 投稿者:南方 投稿日:2018/09/27(Thu) 18:13  

次いでに言っときますが「覚り」と「悟り」は違います。

「覚り」は主張の諦めどころ。

「悟り」は受け入れる所の諦めどころ。

両方揃って「覚悟」です。

「悟り」だけじゃ洗脳されますよ?


[25921] テーマがKの悟り 投稿者:南方 投稿日:2018/09/27(Thu) 17:18  

悟りには「テーマ」が必要。

スケボーでもオセロでもなんでもいい。

「一点集中して、理解する」

それが悟りです。

Kをテーマにした悟りごっこいつまで続けるつもりですか?何事も諦めが肝心と言います。

Kの専用HPでこんなこと書くのもなんですが、あまりに幼稚なので書かせて貰いました。

失礼しました。


[25920] 究極の真理 投稿者:南方 投稿日:2018/09/27(Thu) 15:56  

人が「清く 正しく 美しく」在ること

宇宙の原理は「清く 正しく 美しく」在ること

両方の合致が究極の真理である。


[25919] Re:[25917] 既知からの自由11−4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/27(Thu) 15:13  

> 11章−4 [空間]
>
>  この時空の隔たりなしに、自分自身と自分が怖れているものとのギャップなしにあらゆる問題に出会う事は可能でしょうか? それは観察者が、イメージのつくり手である観察者、記憶と観念の集まったものであり、抽象の束である観察者が継続しない時のみ可能です。


観察者が継続しない時のみ、隔たり、ギャップなしに問題に出会うことができる。それで観察者とは何か、空間とは何か、イメージとは何かが次の12章で詳しく述べられます。私もイメージなしに、心理的という限定があるにしろそういう事が可能か否かに疑問があります。しかし同時に言葉から受ける感じと違い、実際に新鮮に、直視するという心の状態があります。それらを皆さんと検討したいと思っています。


>  星を見るとき空の星を見ているあなたがいます。空は輝く星で満ち、涼しい空気があり、そしてあなたが、観察f者、経験者、思考者が、痛む心を持ったあなたが、あなた、中心、が空間をつくり出しながら、います。あなたは自分自身と星の間の、自分自身と妻あるいは夫、または友との間の空間を決して理解しないでしょう。なぜならあなたは決してイメージなしで見たことがないからであり、そしてそれが美が何か、愛が何か知らない理由なのです。あなたはそれについて語り、それについて書きますが、おそらく全くの自己放棄の稀な合間を除いては決してそれを知っていません。空間を周囲につくり出す中心がある限り、愛も美もどちらもありません。中心も周辺もないとき、美があります。そしてあなたが愛するときあなたは美です。


本当にイメージなしに見たことはないのか? 稀な瞬間はあると私は確信します。私の言うミニ変容です。しかし別にイメージなしに家に帰ることができるかという疑問があります。心理的問題と実際問題の区別が、心理問題のことを言っているという事で済むかという話を12章でしたいと思っています。もちろん純粋な探究心でです。


>  向かい合っている人の顔を見るとき、あなたは中心から見ており、中心は人と人との間の空間をつくります。そしてそれが私たちの生が非常に空虚で無感覚な理由です。愛や美を育成することはできないし、真理を考え出すこともできません。しかしいつも自分がしていることに気づいているなら、気づきを育成することはでき、その気づきからあなたは快楽、欲望や悲しみ、人の全くの孤独と退屈の本質を見始めるでしょう。そしてそのとき「空間」と呼ばれるあのものに出会い始めるでしょう。


そう、この人と人の間でイメージが生じるのが問題です。花や自然を見る時でさえイメージが入り込むというのが問題です。しかし帰り道に問題が起きないのはなぜでしょう。妻を隣の奥さんと間違えたりしません。ここをはっきりしたいのです。常にイメージを持っていながら実用上は問題になぜならないか?


>  自分と自分が観察している対象の間に空間があるとき、愛はないことをあなたは知るでしょうし、そして愛なしでは、いくら世界を改革したり新しい社会秩序をもたらそうと必死に試みても、改革について多く語っても、苦しみをつくり出すだけでしょう。それゆえそれはあなたの責任です。指導者も、教師もいません。あなたに何をすべきか教える誰もいないのです。あなたはこの狂った残忍な世界に一人でいるのです。


しかし三人寄れば文殊の知恵とも言います。私の抱いている課題を言いました。ここまで課題をはっきり表に出せたのは私には初めてのことです。よろしくお願いします。

> (終わり)


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