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[26367] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/07(Mon) 13:44  

ブロックを解こうとしたがもう記憶がない。

今でもブロックは利いているだろうか? じつはいじったのだがフリーズしてあわててしまった。


[26366] 無題 投稿者:明日を暗示する黄昏 投稿日:2019/01/07(Mon) 11:44  

そろそろ私もアクセスブロックとい
てほしい


[26365] 無題 投稿者:明日を暗示する黄昏 投稿日:2019/01/07(Mon) 11:43  

赦しとはあらゆる観念の不在。


[26364] Re:[26363] [26362] [26361] 最初のザーネン講話3−7 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/06(Sun) 11:16  

> > > 質問: 私たちが瞬時瞬時に生きるなら葛藤はないと思います。
> > >
> > > クリシュナムルティ: さて、ちょっと待ってください。どうやって私たちが考えの中に寝込んでしまうかわかりますか? 「私たちが瞬時瞬時に生きるなら」は条件付きです。それは考えです―それは私たちが決して何かに対して死んだことが、快楽に対して、苦痛に対して、私たちの要求と野心に対して死んだことがないということです。あなたは実際にそのすべてに対して死ぬことができますか?
> > >
> > >
> > > ゴト: 死んだことがあるというのは何があるかもしれないという思い(不安、迷い)を完全にどこかに打ちやって、何かに入って行くことです。実際にやった人には明確です。
> >
> >
> >  ゴトさんは実際にやったことがあるのですね。。
> >
> >  心理的な死、刻々の死、死の家、等々クリシュナムルティは時折述べます。
> >
> >  私はまだ、やったことがないかもしれません。。
> >
> >
> >  私たちの要求と野心に対して死ぬとはどういうことでしょうか。
>
>
> 私達は野心とは言えないとしてもこれだけはという切実な願いを持っていないでしょうか、仕事でも家庭でも。一例をあげますと、私の母は90を過ぎて寝たきりで痴呆が始まっていました。ずっと面倒を見てくれていた介護士が特養老人ホームの空きを見つけてくれて、妻と実の妹、介護士、私で、決定の会議を持ちました。
>
> 私は母を老人ホームに送ることはできなかった。私が面倒を一人で見るからと言いました。妻は猛反対しました。そんなこと一人で絶対できるわけがない。しかも先はまだ何年もあるだろうと。私と妻は強い言葉で主張を言い合いました。他の二人は黙っていました。妻の決意が確固としていて客観的あり、自分の主張は感情的なものであることがわかりました。しかし自分の気持ちも又強い物であったのですが、結局、私は母を老人ホームに送る決定を下しました。事は直ちに決まり、進んでいきました。私は死んだ気持ちでそれを見ていました。しかしそれからはよく見舞いに行き、交流は7年ほど続いて母は99歳でなくなりました。死ぬというのはそのとき持っていた切ない思いが死ぬことなんですね。しかし私はその同一化していた思いではなく、別の生が開けたのです。


 貴重なお話、ありがたく思います。。お答えいただき感謝します。


 最後は自分で決断して入ってゆく。

 これだけはという切実な願いは、なかなか自力では無くしがたいですね。
 何かの環境要因に押されて、止むなく諦めることはできるかもしれないが、そういう圧力がなければなかなか捨てきれない。

 「瞬時瞬時に生きる」とは、刻々に死ぬことであることをクリシュナムルティは述べています。

 しかも、瞬時瞬時に生きることを目的に(動機で)、その方便として刻々に死のうとすることはビカミングとなる。

 >それは私たちが決して何かに対して死んだことが、快楽に対して、苦痛に対して、私たちの要求と野心に対して死んだことがないということです。あなたは実際にそのすべてに対して死ぬことができますか?
−−

 最後まで行くことによって、そのすべてに対して死ぬことができるところの「全体的に見る」。



> > > 質問: 自分自身で葛藤の終局まで行くなら、そのとき世界にある葛藤をただ受け入れなければならないのでしょうか?
> > >
> > > クリシュナムルティ: 世界をそんなにこぎれいに、そして明確にあなた自身から分けることができるでしょうか? 世界はあなた自身とそんなに非常に違っているでしょうか? ほら、皆さん、そう言ってよいなら、私たちによって理解されてこなかったものがあると私は思います。私にとって、葛藤は外部的のみならず内部的にも非常に破壊的なものです。そして葛藤しないで生きるやり方があるかどうか、私は見出したいのです。そこで私はそれは避けられないと私自身に言いません。そして私が得ようとしている限り葛藤があるに違いないと私自身に説明しません。私はそれを理解したい、それをやり抜きたい、それを粉砕できるかどうか見たい、それなしに生きることができるかどうか見たいのです。私はそれをすることに飢えています。そしてどんな量の描写、説明も私を満足させません―それは意識のこの全体の過程を、それは「私」ですが、私が理解しなければならないということです。そしてそれを理解する中で、私は世界を理解しています。二つのものは別々ではありません。私の憎しみは世界の憎しみです。私の嫉妬、欲張り、私の成功を求める衝動―このすべてもまた世界に属します。それゆえ私の心はこのすべてを粉砕できるでしょうか? 「それを粉砕するやり方を私に教えてください」と言うなら、そのとき私は単に葛藤を征服する方法を用いているに過ぎません。そしてそれは葛藤の理解ではありません。
> > >  それで私は、私が葛藤に目覚め続けなければならない、それに気づいていなければならない、私の野心、貪欲、とりつかれたような衝動などなどの中での、それのどの動きも皆見守らなければならないということを見ます。そして私がそれらをただ見守るなら、たぶん私は見出すでしょう。しかし保証はありません。私が見出したいなら、何が絶対必要か非常によく知っていると感じます―すなわち、情熱、強烈さ、言葉と説明の無視。そのため心は非常に鋭く、油断なく、あらゆる形の葛藤から目を離さないようになります。確かに、それが葛藤のまさに終わりまで行く唯一の道です。
> > >
> > >
> > > ゴト: 世界の現実があります。それを受け入れるのでなく、抵抗するのでもなく、まさに見ていることができます。その時自分に、世界に何が起こるか、…… 誰も知らないし、わかりません。
> >
> >
> >  クリシュナムルティは、ときおり「骨が折れる」と述べます。何に骨を折っているのか・・?と関心がありましたが、それがここで述べられているのかもしれません。
> >
> >  何に骨を折っているかというと、>私が葛藤に目覚め続けなければならない、それに気づいていなければならない、私の野心、貪欲、とりつかれたような衝動などなどの中での、それのどの動きも皆見守らなければならないということを見ます。そして私がそれらをただ見守るなら、たぶん私は見出すでしょう。しかし保証はありません。私が見出したいなら、何が絶対必要か非常によく知っていると感じます―すなわち、情熱、強烈さ、言葉と説明の無視。そのため心は非常に鋭く、油断なく、あらゆる形の葛藤から目を離さないようになります。確かに、それが葛藤のまさに終わりまで行く唯一の道です。−−
> >
> >
> >  ここで「言葉と説明の無視」も取り上げられています。この「言葉と説明の無視」、これが「既知のものからの自由」ということかもしれません。。
>
>
> ただ見続けることが骨が折れるのかな。判断したり、逃避せずにいられない。


 表層のそれに気づき見ることは難しくないが、深層のそれに気づくことが難しいように感じます。深層のそれは、無意識だから見えないと諦めること無く、的確な指摘があれば、それに気づき見ることができる。それを自分で行うことが難しい。
 それゆえに、クリシュナムルティの本を読んで、そこにある無数の指摘を浴びることを良しとする。


> > > (終わり)


[26363] Re:[26362] [26361] 最初のザーネン講話3−7 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/06(Sun) 09:12  

> > 質問: 私たちが瞬時瞬時に生きるなら葛藤はないと思います。
> >
> > クリシュナムルティ: さて、ちょっと待ってください。どうやって私たちが考えの中に寝込んでしまうかわかりますか? 「私たちが瞬時瞬時に生きるなら」は条件付きです。それは考えです―それは私たちが決して何かに対して死んだことが、快楽に対して、苦痛に対して、私たちの要求と野心に対して死んだことがないということです。あなたは実際にそのすべてに対して死ぬことができますか?
> >
> >
> > ゴト: 死んだことがあるというのは何があるかもしれないという思い(不安、迷い)を完全にどこかに打ちやって、何かに入って行くことです。実際にやった人には明確です。
>
>
>  ゴトさんは実際にやったことがあるのですね。。
>
>  心理的な死、刻々の死、死の家、等々クリシュナムルティは時折述べます。
>
>  私はまだ、やったことがないかもしれません。。
>
>
>  私たちの要求と野心に対して死ぬとはどういうことでしょうか。


私達は野心とは言えないとしてもこれだけはという切実な願いを持っていないでしょうか、仕事でも家庭でも。一例をあげますと、私の母は90を過ぎて寝たきりで痴呆が始まっていました。ずっと面倒を見てくれていた介護士が特養老人ホームの空きを見つけてくれて、妻と実の妹、介護士、私で、決定の会議を持ちました。

私は母を老人ホームに送ることはできなかった。私が面倒を一人で見るからと言いました。妻は猛反対しました。そんなこと一人で絶対できるわけがない。しかも先はまだ何年もあるだろうと。私と妻は強い言葉で主張を言い合いました。他の二人は黙っていました。妻の決意が確固としていて客観的あり、自分の主張は感情的なものであることがわかりました。しかし自分の気持ちも又強い物であったのですが、結局、私は母を老人ホームに送る決定を下しました。事は直ちに決まり、進んでいきました。私は死んだ気持ちでそれを見ていました。しかしそれからはよく見舞いに行き、交流は7年ほど続いて母は99歳でなくなりました。死ぬというのはそのとき持っていた切ない思いが死ぬことなんですね。しかし私はその同一化していた思いではなく、別の生が開けたのです。


> > 質問: 私たちが実際の事実に向かい合っているのか、事実についての観念に向かい合っているのか、どうやって知るのでしょうか?
> >
> > クリシュナムルティ: さて、これはあなたの問題です。そうではないですか? それでどうやってあなたは見出すことに取り掛かりますか? あなたは今までに観念なしに何かを見たことが、あるいは感情を持ったことがありますか? 私が怒りの感情を持っているとしましょう。私はその感情をただ言葉を通じてのみ知るのでしょうか? 観念を通じて感じるのでしょうか? 私はインド人であると言うことによって、それは観念ですが、私は国籍の特定の感情を得ます。それゆえ感情を作り出したのは観念ではないでしょうか? なぜなら、私は私自身をインド人として考えるよう教育されてきており、地球の特定の一片、特定の色と同一化しているので、それは私に特定の感情を与えます。そしてそれらの感情で私は満足します。しかし、もしも私が特定の種族や集団に同一化しないで、ただ人間であるように、違って教育されているなら、私の感情はまったく異なっているのではないでしょうか? それゆえ私たちにとって、言葉は特定の言外の意味―共産主義者、信じる者、信じない者、キリスト教徒―を持っており、そしてそれらの言葉を通して私たちは特定の感じ、特定の感情を持ちます。私たちの大部分にとって言葉は非常に重要です。私は心がいったい言葉から自由でありうるかどうか見出そうとしています。そしてそれが自由であるとき、感じる心の状態はどんなでしょうか? 私は私の言おうとしていることを明確にしているでしょうか?
> >  聞いてください、あなた、私たちは今朝葛藤を話してきました。そして私は、言葉をもてあそぶことなく、心が葛藤から自由であることができるかどうか見出したいのです。私は見出したい、それのまさに終りまで行きたいのです。それは私が観念とではなく葛藤それ自体と実際に接触していなければならないということです。いいでしょうか? それゆえ私は観念によって脱線させられてはなりません。私はそれの全体の中に手探りで進まなければなりません。苦痛、苦しみ、欲求不満、葛藤の全体と接触していなければなりません。言い訳や正当化を見つけることなく、徹底的に、深くその中に入らなければなりません。私はそれを言葉の上で、言葉でするのでしょうか? 私の要点に出会っていますか? それが今朝、私たちがものをどうやって見るか私が尋ねた理由です―言葉のスクリーンを通して、あるいは実際の接触によって? 言葉なしに感じることができますか? 何といっても、空腹な人は食べ物を欲します。食べ物の描写では満足しません。そして、同様に、あなたは葛藤を見出すことを望み、その終りに向かって真っ直ぐに進みますか? それとも葛藤の中にない心の状態の言葉の描写で満足しますか? あなたがそれのまさに終りまで行きたいなら葛藤を経験しなければなりません。それについてすべてを知らなければなりません。一つの葛藤が、あなたがそれと共に生き、それを学び、それと眠り、それと夢を見、それに夢中になることができるなら、すべての葛藤の全体をあらわにするでしょう。しかしそれは情熱、強烈さを要します。表面で生き、論じることはどこにもつながらず、持っているなけなしのエネルギーを浪費します。
> >
> >
> > ゴト: 言葉でなく実際に葛藤と接触している時、葛藤という言葉は意識のどこにもないかもしれません。そのとき強烈さを持って状態にじかに触れているわけです。そしてしっかり見て突然これが葛藤だという意識が飛び出すかもしれません。そして葛藤の実物を始めて覚知したという感慨が、静寂の中にですが、あるかもしれません。
>
>
>  「葛藤の実物」の知覚。。
>
>
> > 質問: 自分自身で葛藤の終局まで行くなら、そのとき世界にある葛藤をただ受け入れなければならないのでしょうか?
> >
> > クリシュナムルティ: 世界をそんなにこぎれいに、そして明確にあなた自身から分けることができるでしょうか? 世界はあなた自身とそんなに非常に違っているでしょうか? ほら、皆さん、そう言ってよいなら、私たちによって理解されてこなかったものがあると私は思います。私にとって、葛藤は外部的のみならず内部的にも非常に破壊的なものです。そして葛藤しないで生きるやり方があるかどうか、私は見出したいのです。そこで私はそれは避けられないと私自身に言いません。そして私が得ようとしている限り葛藤があるに違いないと私自身に説明しません。私はそれを理解したい、それをやり抜きたい、それを粉砕できるかどうか見たい、それなしに生きることができるかどうか見たいのです。私はそれをすることに飢えています。そしてどんな量の描写、説明も私を満足させません―それは意識のこの全体の過程を、それは「私」ですが、私が理解しなければならないということです。そしてそれを理解する中で、私は世界を理解しています。二つのものは別々ではありません。私の憎しみは世界の憎しみです。私の嫉妬、欲張り、私の成功を求める衝動―このすべてもまた世界に属します。それゆえ私の心はこのすべてを粉砕できるでしょうか? 「それを粉砕するやり方を私に教えてください」と言うなら、そのとき私は単に葛藤を征服する方法を用いているに過ぎません。そしてそれは葛藤の理解ではありません。
> >  それで私は、私が葛藤に目覚め続けなければならない、それに気づいていなければならない、私の野心、貪欲、とりつかれたような衝動などなどの中での、それのどの動きも皆見守らなければならないということを見ます。そして私がそれらをただ見守るなら、たぶん私は見出すでしょう。しかし保証はありません。私が見出したいなら、何が絶対必要か非常によく知っていると感じます―すなわち、情熱、強烈さ、言葉と説明の無視。そのため心は非常に鋭く、油断なく、あらゆる形の葛藤から目を離さないようになります。確かに、それが葛藤のまさに終わりまで行く唯一の道です。
> >
> >
> > ゴト: 世界の現実があります。それを受け入れるのでなく、抵抗するのでもなく、まさに見ていることができます。その時自分に、世界に何が起こるか、…… 誰も知らないし、わかりません。
>
>
>  クリシュナムルティは、ときおり「骨が折れる」と述べます。何に骨を折っているのか・・?と関心がありましたが、それがここで述べられているのかもしれません。
>
>  何に骨を折っているかというと、>私が葛藤に目覚め続けなければならない、それに気づいていなければならない、私の野心、貪欲、とりつかれたような衝動などなどの中での、それのどの動きも皆見守らなければならないということを見ます。そして私がそれらをただ見守るなら、たぶん私は見出すでしょう。しかし保証はありません。私が見出したいなら、何が絶対必要か非常によく知っていると感じます―すなわち、情熱、強烈さ、言葉と説明の無視。そのため心は非常に鋭く、油断なく、あらゆる形の葛藤から目を離さないようになります。確かに、それが葛藤のまさに終わりまで行く唯一の道です。−−
>
>
>  ここで「言葉と説明の無視」も取り上げられています。この「言葉と説明の無視」、これが「既知のものからの自由」ということかもしれません。。


ただ見続けることが骨が折れるのかな。判断したり、逃避せずにいられない。

> > (終わり)


[26362] Re:[26361] 最初のザーネン講話3−7 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/05(Sat) 17:40  

> 質問: 私たちが瞬時瞬時に生きるなら葛藤はないと思います。
>
> クリシュナムルティ: さて、ちょっと待ってください。どうやって私たちが考えの中に寝込んでしまうかわかりますか? 「私たちが瞬時瞬時に生きるなら」は条件付きです。それは考えです―それは私たちが決して何かに対して死んだことが、快楽に対して、苦痛に対して、私たちの要求と野心に対して死んだことがないということです。あなたは実際にそのすべてに対して死ぬことができますか?
>
>
> ゴト: 死んだことがあるというのは何があるかもしれないという思い(不安、迷い)を完全にどこかに打ちやって、何かに入って行くことです。実際にやった人には明確です。


 ゴトさんは実際にやったことがあるのですね。。

 心理的な死、刻々の死、死の家、等々クリシュナムルティは時折述べます。

 私はまだ、やったことがないかもしれません。。


 私たちの要求と野心に対して死ぬとはどういうことでしょうか。 




> 質問: 私たちが実際の事実に向かい合っているのか、事実についての観念に向かい合っているのか、どうやって知るのでしょうか?
>
> クリシュナムルティ: さて、これはあなたの問題です。そうではないですか? それでどうやってあなたは見出すことに取り掛かりますか? あなたは今までに観念なしに何かを見たことが、あるいは感情を持ったことがありますか? 私が怒りの感情を持っているとしましょう。私はその感情をただ言葉を通じてのみ知るのでしょうか? 観念を通じて感じるのでしょうか? 私はインド人であると言うことによって、それは観念ですが、私は国籍の特定の感情を得ます。それゆえ感情を作り出したのは観念ではないでしょうか? なぜなら、私は私自身をインド人として考えるよう教育されてきており、地球の特定の一片、特定の色と同一化しているので、それは私に特定の感情を与えます。そしてそれらの感情で私は満足します。しかし、もしも私が特定の種族や集団に同一化しないで、ただ人間であるように、違って教育されているなら、私の感情はまったく異なっているのではないでしょうか? それゆえ私たちにとって、言葉は特定の言外の意味―共産主義者、信じる者、信じない者、キリスト教徒―を持っており、そしてそれらの言葉を通して私たちは特定の感じ、特定の感情を持ちます。私たちの大部分にとって言葉は非常に重要です。私は心がいったい言葉から自由でありうるかどうか見出そうとしています。そしてそれが自由であるとき、感じる心の状態はどんなでしょうか? 私は私の言おうとしていることを明確にしているでしょうか?
>  聞いてください、あなた、私たちは今朝葛藤を話してきました。そして私は、言葉をもてあそぶことなく、心が葛藤から自由であることができるかどうか見出したいのです。私は見出したい、それのまさに終りまで行きたいのです。それは私が観念とではなく葛藤それ自体と実際に接触していなければならないということです。いいでしょうか? それゆえ私は観念によって脱線させられてはなりません。私はそれの全体の中に手探りで進まなければなりません。苦痛、苦しみ、欲求不満、葛藤の全体と接触していなければなりません。言い訳や正当化を見つけることなく、徹底的に、深くその中に入らなければなりません。私はそれを言葉の上で、言葉でするのでしょうか? 私の要点に出会っていますか? それが今朝、私たちがものをどうやって見るか私が尋ねた理由です―言葉のスクリーンを通して、あるいは実際の接触によって? 言葉なしに感じることができますか? 何といっても、空腹な人は食べ物を欲します。食べ物の描写では満足しません。そして、同様に、あなたは葛藤を見出すことを望み、その終りに向かって真っ直ぐに進みますか? それとも葛藤の中にない心の状態の言葉の描写で満足しますか? あなたがそれのまさに終りまで行きたいなら葛藤を経験しなければなりません。それについてすべてを知らなければなりません。一つの葛藤が、あなたがそれと共に生き、それを学び、それと眠り、それと夢を見、それに夢中になることができるなら、すべての葛藤の全体をあらわにするでしょう。しかしそれは情熱、強烈さを要します。表面で生き、論じることはどこにもつながらず、持っているなけなしのエネルギーを浪費します。
>
>
> ゴト: 言葉でなく実際に葛藤と接触している時、葛藤という言葉は意識のどこにもないかもしれません。そのとき強烈さを持って状態にじかに触れているわけです。そしてしっかり見て突然これが葛藤だという意識が飛び出すかもしれません。そして葛藤の実物を始めて覚知したという感慨が、静寂の中にですが、あるかもしれません。


 「葛藤の実物」の知覚。。


> 質問: 自分自身で葛藤の終局まで行くなら、そのとき世界にある葛藤をただ受け入れなければならないのでしょうか?
>
> クリシュナムルティ: 世界をそんなにこぎれいに、そして明確にあなた自身から分けることができるでしょうか? 世界はあなた自身とそんなに非常に違っているでしょうか? ほら、皆さん、そう言ってよいなら、私たちによって理解されてこなかったものがあると私は思います。私にとって、葛藤は外部的のみならず内部的にも非常に破壊的なものです。そして葛藤しないで生きるやり方があるかどうか、私は見出したいのです。そこで私はそれは避けられないと私自身に言いません。そして私が得ようとしている限り葛藤があるに違いないと私自身に説明しません。私はそれを理解したい、それをやり抜きたい、それを粉砕できるかどうか見たい、それなしに生きることができるかどうか見たいのです。私はそれをすることに飢えています。そしてどんな量の描写、説明も私を満足させません―それは意識のこの全体の過程を、それは「私」ですが、私が理解しなければならないということです。そしてそれを理解する中で、私は世界を理解しています。二つのものは別々ではありません。私の憎しみは世界の憎しみです。私の嫉妬、欲張り、私の成功を求める衝動―このすべてもまた世界に属します。それゆえ私の心はこのすべてを粉砕できるでしょうか? 「それを粉砕するやり方を私に教えてください」と言うなら、そのとき私は単に葛藤を征服する方法を用いているに過ぎません。そしてそれは葛藤の理解ではありません。
>  それで私は、私が葛藤に目覚め続けなければならない、それに気づいていなければならない、私の野心、貪欲、とりつかれたような衝動などなどの中での、それのどの動きも皆見守らなければならないということを見ます。そして私がそれらをただ見守るなら、たぶん私は見出すでしょう。しかし保証はありません。私が見出したいなら、何が絶対必要か非常によく知っていると感じます―すなわち、情熱、強烈さ、言葉と説明の無視。そのため心は非常に鋭く、油断なく、あらゆる形の葛藤から目を離さないようになります。確かに、それが葛藤のまさに終わりまで行く唯一の道です。
>
>
> ゴト: 世界の現実があります。それを受け入れるのでなく、抵抗するのでもなく、まさに見ていることができます。その時自分に、世界に何が起こるか、…… 誰も知らないし、わかりません。


 クリシュナムルティは、ときおり「骨が折れる」と述べます。何に骨を折っているのか・・?と関心がありましたが、それがここで述べられているのかもしれません。

 何に骨を折っているかというと、>私が葛藤に目覚め続けなければならない、それに気づいていなければならない、私の野心、貪欲、とりつかれたような衝動などなどの中での、それのどの動きも皆見守らなければならないということを見ます。そして私がそれらをただ見守るなら、たぶん私は見出すでしょう。しかし保証はありません。私が見出したいなら、何が絶対必要か非常によく知っていると感じます―すなわち、情熱、強烈さ、言葉と説明の無視。そのため心は非常に鋭く、油断なく、あらゆる形の葛藤から目を離さないようになります。確かに、それが葛藤のまさに終わりまで行く唯一の道です。−−


 ここで「言葉と説明の無視」も取り上げられています。この「言葉と説明の無視」、これが「既知のものからの自由」ということかもしれません。。



> (終わり)


[26361] 最初のザーネン講話3−7 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/05(Sat) 08:57  

1961年ザーネンの公開講話 3回目の7

 多分私たちはこのすべてについて討論したり質問をしたりできるでしょう。正しい質問をすることは非常に困難です。そして正しい質問を尋ねるまさにそのことの中で、私たちは私たち自身で答えを見出すだろうと私は思います。正しい質問をするということは、事実と、そうであるものと接触していなければならないのであり、観念や意見とではないということを意味します。


ゴト: >正しい質問をするということは、事実と、そうであるものと接触していなければならないのであり、観念や意見とではないということを意味します。−− そうなんだ。


質問: 創造の性質は何でしょうか?

クリシュナムルティ: あなた、美の性質は何でしょうか? 愛の性質は何でしょうか? 葛藤の中にない心の性質は何でしょうか? あなたはその記述を望んでいるのですか? そして記述があなたを満足させるなら、そしてそれを受け入れるなら、そのとき、あなたはただ言葉を受け入れているのです。あなた自身で実際に経験していません。ほら、私たちは説明によって、知的な観念によって、非常に容易に満足してしまいますね。しかしその過程のすべてはただ言葉をもて遊んでいるだけです。そしてそれから間違った質問が生じます。あなた、葛藤なしにこの世界の中で生きることができるかどうか、あなた自身で見出したくないでしょうか?


ゴト: ここでは質問は観念と接触していたんだ。


質問: ひとは外部の世界に反対の立場をとらなければならないと感じます。そしてその世界に反抗する行為そのものの中に葛藤があります。

クリシュナムルティ: 私たちは何かを、ただそれをすることが好きなので実際にしているのかどうかなと思います。私の言っていることがわかりますか? 私は私のしていることをするのを愛します―演壇に腰掛け沢山の人に話すことから私が何かの刺激を得るということではありません。それは私がそれをしている理由ではありません。私はそれが好きなのでそれをしています。たとえもし、ただひとりの人しか、あるいはまったく誰もいないとしてもです。そしてそれが葛藤をつくり出すなら、それがどうしたというのでしょう? 何といっても、私たちの誰もかき乱されたくありません。私たちは私達自身の孤立した平和な場所をつくり出し、その中で私たちの観念、夫、妻、子供、神と生きることを好みます。そして誰かか何か―生、嵐、地震、戦争―がやってきて私たちを震え上がらせます。そして私たちは反応します。より強い壁を建てようとします。かき乱されないためにいっそうの抵抗をつくり出します。そして神が私たちの最後の隠れ家であり、その中でそれ以上かき乱されることがないように私たちは希望します。私たちがかき乱され、そしてそのかき乱されることから騒動があるなら、それのどこが間違っているというのでしょうか? 私はあなたに聞くように強要していません。ドアは開かれてそこにあります。私たちがここでしようとしていることは葛藤を理解することです。そして世界に対して立ち上がることのどこが間違っているというのでしょう? 何といっても、私たちが反対して立ち上がろうとしている世界は体面の世界、無数の虚偽の神々、教会と観念の世界です。私たちは憎悪、羨望、貪欲、そして私達が私達自身を保護するために案出したそのようなものすべてに対して立ち上がっているのです。それをやって、それが撹乱をつくり出すなら、それのどこが間違っているというのでしょう?


ゴト: 私達はただ行為をするのが好きなのか、その行為を愛しているのか?……
 外部の世界と葛藤を起こすかもしれない、それがどうしたというのかな!…… この毅然とした岩のような確固さ。愛はそれをします。


質問: 私たちが瞬時瞬時に生きるなら葛藤はないと思います。

クリシュナムルティ: さて、ちょっと待ってください。どうやって私たちが考えの中に寝込んでしまうかわかりますか? 「私たちが瞬時瞬時に生きるなら」は条件付きです。それは考えです―それは私たちが決して何かに対して死んだことが、快楽に対して、苦痛に対して、私たちの要求と野心に対して死んだことがないということです。あなたは実際にそのすべてに対して死ぬことができますか?


ゴト: 死んだことがあるというのは何があるかもしれないという思い(不安、迷い)を完全にどこかに打ちやって、何かに入って行くことです。実際にやった人には明確です。


質問: 私たちが実際の事実に向かい合っているのか、事実についての観念に向かい合っているのか、どうやって知るのでしょうか?

クリシュナムルティ: さて、これはあなたの問題です。そうではないですか? それでどうやってあなたは見出すことに取り掛かりますか? あなたは今までに観念なしに何かを見たことが、あるいは感情を持ったことがありますか? 私が怒りの感情を持っているとしましょう。私はその感情をただ言葉を通じてのみ知るのでしょうか? 観念を通じて感じるのでしょうか? 私はインド人であると言うことによって、それは観念ですが、私は国籍の特定の感情を得ます。それゆえ感情を作り出したのは観念ではないでしょうか? なぜなら、私は私自身をインド人として考えるよう教育されてきており、地球の特定の一片、特定の色と同一化しているので、それは私に特定の感情を与えます。そしてそれらの感情で私は満足します。しかし、もしも私が特定の種族や集団に同一化しないで、ただ人間であるように、違って教育されているなら、私の感情はまったく異なっているのではないでしょうか? それゆえ私たちにとって、言葉は特定の言外の意味―共産主義者、信じる者、信じない者、キリスト教徒―を持っており、そしてそれらの言葉を通して私たちは特定の感じ、特定の感情を持ちます。私たちの大部分にとって言葉は非常に重要です。私は心がいったい言葉から自由でありうるかどうか見出そうとしています。そしてそれが自由であるとき、感じる心の状態はどんなでしょうか? 私は私の言おうとしていることを明確にしているでしょうか?
 聞いてください、あなた、私たちは今朝葛藤を話してきました。そして私は、言葉をもてあそぶことなく、心が葛藤から自由であることができるかどうか見出したいのです。私は見出したい、それのまさに終りまで行きたいのです。それは私が観念とではなく葛藤それ自体と実際に接触していなければならないということです。いいでしょうか? それゆえ私は観念によって脱線させられてはなりません。私はそれの全体の中に手探りで進まなければなりません。苦痛、苦しみ、欲求不満、葛藤の全体と接触していなければなりません。言い訳や正当化を見つけることなく、徹底的に、深くその中に入らなければなりません。私はそれを言葉の上で、言葉でするのでしょうか? 私の要点に出会っていますか? それが今朝、私たちがものをどうやって見るか私が尋ねた理由です―言葉のスクリーンを通して、あるいは実際の接触によって? 言葉なしに感じることができますか? 何といっても、空腹な人は食べ物を欲します。食べ物の描写では満足しません。そして、同様に、あなたは葛藤を見出すことを望み、その終りに向かって真っ直ぐに進みますか? それとも葛藤の中にない心の状態の言葉の描写で満足しますか? あなたがそれのまさに終りまで行きたいなら葛藤を経験しなければなりません。それについてすべてを知らなければなりません。一つの葛藤が、あなたがそれと共に生き、それを学び、それと眠り、それと夢を見、それに夢中になることができるなら、すべての葛藤の全体をあらわにするでしょう。しかしそれは情熱、強烈さを要します。表面で生き、論じることはどこにもつながらず、持っているなけなしのエネルギーを浪費します。


ゴト: 言葉でなく実際に葛藤と接触している時、葛藤という言葉は意識のどこにもないかもしれません。そのとき強烈さを持って状態にじかに触れているわけです。そしてしっかり見て突然これが葛藤だという意識が飛び出すかもしれません。そして葛藤の実物を始めて覚知したという感慨が、静寂の中にですが、あるかもしれません。


質問: 自分自身で葛藤の終局まで行くなら、そのとき世界にある葛藤をただ受け入れなければならないのでしょうか?

クリシュナムルティ: 世界をそんなにこぎれいに、そして明確にあなた自身から分けることができるでしょうか? 世界はあなた自身とそんなに非常に違っているでしょうか? ほら、皆さん、そう言ってよいなら、私たちによって理解されてこなかったものがあると私は思います。私にとって、葛藤は外部的のみならず内部的にも非常に破壊的なものです。そして葛藤しないで生きるやり方があるかどうか、私は見出したいのです。そこで私はそれは避けられないと私自身に言いません。そして私が得ようとしている限り葛藤があるに違いないと私自身に説明しません。私はそれを理解したい、それをやり抜きたい、それを粉砕できるかどうか見たい、それなしに生きることができるかどうか見たいのです。私はそれをすることに飢えています。そしてどんな量の描写、説明も私を満足させません―それは意識のこの全体の過程を、それは「私」ですが、私が理解しなければならないということです。そしてそれを理解する中で、私は世界を理解しています。二つのものは別々ではありません。私の憎しみは世界の憎しみです。私の嫉妬、欲張り、私の成功を求める衝動―このすべてもまた世界に属します。それゆえ私の心はこのすべてを粉砕できるでしょうか? 「それを粉砕するやり方を私に教えてください」と言うなら、そのとき私は単に葛藤を征服する方法を用いているに過ぎません。そしてそれは葛藤の理解ではありません。
 それで私は、私が葛藤に目覚め続けなければならない、それに気づいていなければならない、私の野心、貪欲、とりつかれたような衝動などなどの中での、それのどの動きも皆見守らなければならないということを見ます。そして私がそれらをただ見守るなら、たぶん私は見出すでしょう。しかし保証はありません。私が見出したいなら、何が絶対必要か非常によく知っていると感じます―すなわち、情熱、強烈さ、言葉と説明の無視。そのため心は非常に鋭く、油断なく、あらゆる形の葛藤から目を離さないようになります。確かに、それが葛藤のまさに終わりまで行く唯一の道です。


ゴト: 世界の現実があります。それを受け入れるのでなく、抵抗するのでもなく、まさに見ていることができます。その時自分に、世界に何が起こるか、…… 誰も知らないし、わかりません。

(終わり)


[26360] Re:[26359] [26358] [26357] 最初のザーネン講話3−6 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/04(Fri) 23:19  

> > > 1961年ザーネンの公開講話 3回目の6
>
> >  美に対しても醜に対しても、ビカミングを起こさない。共に留まると、エネルギーの浪費が止み、高エネルギー状態となり、「見る」が起こるようになる。このことは、直接知覚できるようだ。。
>
>
> ここだけちょっと一言。
>  ビカミングを起こさない、反応を起こさないで留まるという事は自己中心が旺盛だと非常に困難です。しかしそれ、反応なしに見ていることが起きる時はそれ自体がすでに高いエネルギー状態にあるのでしょう。しかも反応がない=矛盾がなく、摩擦によるエネルギーの浪費もないという事だと思います。


 どれだけが「高い」エネルギーと言えるのか・・?

 私の場合は、それほど「高い」とは言えないかも・・。

 ただ、深い落ち着いたエネルギー。

 又、私の場合、「反応を起こさないで留まろう」とするわけではありません。

 避難・正当化を止めようとするわけでもありません。


 まず、ビカミングは、表層のビカミングはすぐに分かるが、深層のビカミングは、分からない。

 ところが、クリシュナムルティの指摘などがあれば、その深層のビカミングを知覚できる。

 それを知覚すれば、即、ビカミングが止むのです。ちょうど、崖や蛇を見るような感じで、ビカミングに気づくと、即止むのです。

 それが、止むと、それが深層にあったがゆえに、深層からの深い落ち着いたエネルギーの存在が感じられるのです。


 いくら、表面的に思考が止んでいたとしても、心の深いところがなんとなく疲れているという違和感、感じがある場合があります。
 それは、表面では感じられない「思考」が深層においてクルックル回っており、そのが深層故に気づかない。

 その深層の思考においては、観念で「今、深層で思考がクルックル回っているな・・」と論ずることはできます。推測です。
 しかし、それでは「気づき」とはならない・・。

 それを肌で感じる、知覚する。私の場合、それを「見る」と呼んでいるところです。。(おそ松くんでした。。)


[26359] Re:[26358] [26357] 最初のザーネン講話3−6 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/04(Fri) 20:58  

> > 1961年ザーネンの公開講話 3回目の6

>  美に対しても醜に対しても、ビカミングを起こさない。共に留まると、エネルギーの浪費が止み、高エネルギー状態となり、「見る」が起こるようになる。このことは、直接知覚できるようだ。。


ここだけちょっと一言。
 ビカミングを起こさない、反応を起こさないで留まるという事は自己中心が旺盛だと非常に困難です。しかしそれ、反応なしに見ていることが起きる時はそれ自体がすでに高いエネルギー状態にあるのでしょう。しかも反応がない=矛盾がなく、摩擦によるエネルギーの浪費もないという事だと思います。


[26358] Re:[26357] 最初のザーネン講話3−6 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/04(Fri) 19:02  

> 1961年ザーネンの公開講話 3回目の6
>
>  何かと共に生きることは途方もなく困難ですね。これらの周囲の山々と共に、木々の美しさと共に、影、朝の光、雪と共に生きることは、本当にそれと共に生きることはとても骨が折れます。私たちは皆それを受け入れるのではないでしょうか? それをくる日もくる日も見て、小作農がなるように、私たちはそれに鈍くなり、それを二度と実際に本当に見ようとしません。しかしそれと共に生きること、毎日新鮮さ、明確さをもって、感謝をもって、愛をもってそれを見ること―そのことは多量のエネルギーを必要とします。そして醜いものが心を堕落させ、むしばむことなしに、醜いものと共に生きること―そのことも等しく多量のエネルギーを必要とします。美しいものと醜いものの両方と共に生きることは―ひとが生の中でしなければならないように―巨大なエネルギーを要します。そしてこのエネルギーは絶え間ない葛藤の状態にあるとき、否定され、破壊されるのです。
>
>
> ゴト: 美しいものとも醜いものとも、影響されることなしに共に生きる。そのエネルギーは葛藤するとき消耗されてしまう。


 美しいものが共にあるとき、その場はやがて過ぎ去るつかの間の快と、わびさびの思考を巡らす。

 美しい(性格や顔が)人を目の前にして、そのエゴを深読みする思考(一皮むけば、オオカミかも・・等々)。

 その美と共に留まることは難しい。

 美に対しても醜に対しても、共に留まることが、>ひとが生の中でしなければならない−−ことと言うことか・・。

 美に対しても醜に対しても、ビカミングを起こさない。共に留まると、エネルギーの浪費が止み、高エネルギー状態となり、「見る」が起こるようになる。このことは、直接知覚できるようだ。。



>  それゆえ、心は葛藤の全体を見ることが、それと共に生きることが出来るでしょうか? それを受け入れたり否定したりすることなしに、私たちの心を捩じ曲げようとする葛藤を認めることなしに、葛藤をつくり出す私達自身の欲望の内部の運動のすべてを実際に観察して。私はそれは可能だと思います―ただ可能なだけでなく、私たちがそれを非常に深く調べたとき、心が単に観察しているに過ぎず、抵抗していないで、否定していないで、選択していないでいるとき、それは可能です。そのとき、時間や空間の見地でなくて葛藤の全体の実際の経験の中で、そこまで行くなら、そのときあなたはあなた自身で、心がもっとずっと強烈に、情熱的に、活力に満ちて生きることが出来るということを発見するでしょう。そしてそのような心があの測り知れないものが生じるのに絶対必要です。葛藤の中の心は真実であるものを決して見出すことができません。それは神、善、精神性、その他あらゆることを果てしなくぺちゃくちゃ喋るかもしれませんが、名付けられないもの、測ることが出来ないものを受取ることができるのは、葛藤の性質を完全に理解してしまい、それゆえその外にいる心だけです。
>
>
> ゴト: 葛藤とも、それを受け入れたり否定することなしに、共に生きる時、心は葛藤を完全に理解し、その外に立っている。人はそうあることが可能である。その心だけが不可測のものを受け取ることができると。


 >抵抗していないで、否定していないで、選択していないでいるとき、−−。抵抗するとき、否定するとき、選択するとき、そのときビカミングしているのではないのか・・ということのようです。。


 ビカミングに気づくと、それが止むことは即座である。そして、葛藤は極身近にある。
 この即座で極身近にあるドアのみが唯一で最終のゲートであり、それゆえに、時間はまったく必要ではなく、ただ、そのドアの意味を「見る」ことによって知覚する。



> 今回の講話はこれで終わり、質問に移ります。

> (続く)


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