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[25918] Re:[25917] 既知からの自由11−4 投稿者:無明 投稿日:2018/09/27(Thu) 15:11  

> 11章−4 [空間]
>
>  この時空の隔たりなしに、自分自身と自分が怖れているものとのギャップなしにあらゆる問題に出会う事は可能でしょうか? それは観察者が、イメージのつくり手である観察者、記憶と観念の集まったものであり、抽象の束である観察者が継続しない時のみ可能です。
>
>  星を見るとき空の星を見ているあなたがいます。空は輝く星で満ち、涼しい空気があり、そしてあなたが、観察f者、経験者、思考者が、痛む心を持ったあなたが、あなた、中心、が空間をつくり出しながら、います。あなたは自分自身と星の間の、自分自身と妻あるいは夫、または友との間の空間を決して理解しないでしょう。なぜならあなたは決してイメージなしで見たことがないからであり、そしてそれが美が何か、愛が何か知らない理由なのです。あなたはそれについて語り、それについて書きますが、おそらく全くの自己放棄の稀な合間を除いては決してそれを知っていません。空間を周囲につくり出す中心がある限り、愛も美もどちらもありません。中心も周辺もないとき、美があります。そしてあなたが愛するときあなたは美です。
>
>  向かい合っている人の顔を見るとき、あなたは中心から見ており、中心は人と人との間の空間をつくります。そしてそれが私たちの生が非常に空虚で無感覚な理由です。愛や美を育成することはできないし、真理を考え出すこともできません。しかしいつも自分がしていることに気づいているなら、気づきを育成することはでき、その気づきからあなたは快楽、欲望や悲しみ、人の全くの孤独と退屈の本質を見始めるでしょう。そしてそのとき「空間」と呼ばれるあのものに出会い始めるでしょう。

ここでいっている「空間」と全体で言っている空間は意味が違うのではないだろうか?
同じスペースだと読者は混乱するのではないか。

>
>  自分と自分が観察している対象の間に空間があるとき、

ここでいう空間と、さっきの「空間」と呼ばれるあのものに出会うの「空間」


>愛はないことをあなたは知るでしょうし、そして愛なしでは、いくら世界を改革したり新しい社会秩序をもたらそうと必死に試みても、改革について多く語っても、苦しみをつくり出すだけでしょう。それゆえそれはあなたの責任です。指導者も、教師もいません。あなたに何をすべきか教える誰もいないのです。あなたはこの狂った残忍な世界に一人でいるのです。
>
> (終わり)

矛盾しています。
空間がある時、愛はないといいながら、片方では気づきを育成したとき空間と呼ばれるあのものに出会うという。

気づくというには、空間がないということです。思考なしに、中心なし、観察者なしと同じ意味。
それが何で、空間と呼ばれるあのものに出会うのか?

そもそも「空間で呼ばれるあのもの」って何だ、ということになります。


[25917] 既知からの自由11−4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/27(Thu) 14:22  

11章−4 [空間]

 この時空の隔たりなしに、自分自身と自分が怖れているものとのギャップなしにあらゆる問題に出会う事は可能でしょうか? それは観察者が、イメージのつくり手である観察者、記憶と観念の集まったものであり、抽象の束である観察者が継続しない時のみ可能です。

 星を見るとき空の星を見ているあなたがいます。空は輝く星で満ち、涼しい空気があり、そしてあなたが、観察f者、経験者、思考者が、痛む心を持ったあなたが、あなた、中心、が空間をつくり出しながら、います。あなたは自分自身と星の間の、自分自身と妻あるいは夫、または友との間の空間を決して理解しないでしょう。なぜならあなたは決してイメージなしで見たことがないからであり、そしてそれが美が何か、愛が何か知らない理由なのです。あなたはそれについて語り、それについて書きますが、おそらく全くの自己放棄の稀な合間を除いては決してそれを知っていません。空間を周囲につくり出す中心がある限り、愛も美もどちらもありません。中心も周辺もないとき、美があります。そしてあなたが愛するときあなたは美です。

 向かい合っている人の顔を見るとき、あなたは中心から見ており、中心は人と人との間の空間をつくります。そしてそれが私たちの生が非常に空虚で無感覚な理由です。愛や美を育成することはできないし、真理を考え出すこともできません。しかしいつも自分がしていることに気づいているなら、気づきを育成することはでき、その気づきからあなたは快楽、欲望や悲しみ、人の全くの孤独と退屈の本質を見始めるでしょう。そしてそのとき「空間」と呼ばれるあのものに出会い始めるでしょう。

 自分と自分が観察している対象の間に空間があるとき、愛はないことをあなたは知るでしょうし、そして愛なしでは、いくら世界を改革したり新しい社会秩序をもたらそうと必死に試みても、改革について多く語っても、苦しみをつくり出すだけでしょう。それゆえそれはあなたの責任です。指導者も、教師もいません。あなたに何をすべきか教える誰もいないのです。あなたはこの狂った残忍な世界に一人でいるのです。

(終わり)


[25916] 新鮮 投稿者:無明 投稿日:2018/09/27(Thu) 11:25  

私たちは毎日家族と、会社では上司や同僚と毎日顔を合わせています。果たして新鮮に見てるでしょうか? 初めて会ったごとく。
昨日までのことは、一切引きずらないで、人と関わることができるでしょうか。
わかりやすく単純にいうと、毎日顔を合わせる奥さんの顔を新鮮に見てるでしょうか?
それとも過去のイメージを投影して見てるのでしょうか?


いくらクリシュナムルティの難しい文献を並べても、身近な日常で、できなければ、文字通り絵に描いた餅。

気に食わない奴は、今後一切接触を断つというのが、普段の社会。
二度と付き合わない。口を利かない。
今度の貴乃花騒動が如実に表している。

例えば昨日喧嘩した相手に、今日何事もなかったごとく、接触できるでしょうか?
しこりなしに。昨日のことは死んでいるので。

結局、クリシュナムルティのいっていることはこういうことだろうか?
日々、イメージなしに生きる。新鮮に。
だとすれば私にはできないということです。




[25915] Re:[25911] 時間の外にある瞬間 投稿者:無明 投稿日:2018/09/27(Thu) 11:00  

>  Timeless Stillness → page6 →「時間の外にある瞬間」
>
>  そこで陳述されている内容が、「いかにして」の問いに答えているように感じています。
>
>  文字数が多いので、張り付けておきます。
>
>  http://timelessstillness.web.fc2.com/index.html

今、「既知からの自由」を皆で検討しているところだろう。現在11章に入っている。
なのに、何で違う文献をよそから引っ張り出すのだ。混乱を呼ぶだろう。話がそれてしまう。まったく空気の読めない男だ。

「見る」「聞く」を真剣に検討しろ。


[25914] Re:[25911] 時間の外にある瞬間 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/27(Thu) 08:09  

>  Timeless Stillness → page6 →「時間の外にある瞬間」
>
>  そこで陳述されている内容が、「いかにして」の問いに答えているように感じています。
>
>  文字数が多いので、張り付けておきます。
>
>  http://timelessstillness.web.fc2.com/index.html


「時間の外にある瞬間」読みました。興味深い問答でした。

昔、10万年ぐらい前、いやもっとか?、人類に突然変異が起きてサピエンスが誕生した。その遺伝子の元をたどるとアフリカの「イヴ」と名付けられた一女性に達するという。そしてサピエンス以外の人類はみな絶滅した。数々の大型獣が絶滅した。サピエンスは世界に拡がり、進化の頂点に立った(?)。その後の言語から農業、産業の革命、医学、科学、インターネットから人工知能まで、その間にサピエンスに突然変異があったかどうかは知らないが、変化を続け、さらに加速しているようです。そして遺伝子を組み替える技術を持つようになりつつある。どう変化させるか誰も知らず、超特権階級が「超人」になる恐れもある。

実はこんな連想が起きてしまった。真面目に変容を探究したい。突然変異とは怖い言葉だな。


[25913] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/09/26(Wed) 21:58  

貴乃花親方が相撲協会を去った。
自身の信条、プライド、ポリシーを頑くなに守ったと言えるだろう。
その行動は人よりも並外れている。こうと決めたらこう。人のことは一切聞かず、我が道を行く。まさに孤高。
何で幹部の人と話合わぬのか。全くの不思議。
コミニュケーションなし。これでは組織におれぬ。
もうちょっと柔軟な思考があれば、違った道があったはずなのだが。



[25912] 真理 投稿者:南方 投稿日:2018/09/26(Wed) 20:07  

一人につき一真理であって、一真理につき一人ではない。


[25911] 時間の外にある瞬間 投稿者:宮啓 投稿日:2018/09/26(Wed) 19:20  

 Timeless Stillness → page6 →「時間の外にある瞬間」

 そこで陳述されている内容が、「いかにして」の問いに答えているように感じています。

 文字数が多いので、張り付けておきます。

 http://timelessstillness.web.fc2.com/index.html


[25910] Re:[25909] [25908] [25907] [25905] 既知からの自由11−3 投稿者:宮啓 投稿日:2018/09/26(Wed) 14:00  

> > > > 11章ー3 [イメージ] [問題]
> > > >
> > > >  如何なる先入観もイメージもなく見るときのみ、生の中の何事にも直接接触することができます。全ての関係は本当に想像上のものです ― つまり、思考によってつくられたイメージに基づいています。私があなたにあるイメージを持ち、あなたが私にイメージを持つなら、当然お互いを実際のありのままに見てはいません。私たちが見ているのは自分がお互いに関して造ったイメージであり、そのことは触れ合いを妨げ、それが関係が悪くなる理由です。
> > > >
> > > >  あなたを知っていると私が言うとき、あなたを昨日知ったということを意味します。あなたを実際にいま知っていません。知っている全てはあなたについての私のイメージです。そのイメージはあなたが私を誉めたり侮辱して言ったこと、私に対してしたことによって組み立てられます ― そのイメージはあなたについて持っている全ての記憶によって組み立てられます ― そしてあなたの私についてのイメージも同様に組み立てられ、関係を持つのはそれらのイメージであり、それはお互いに本当に交流するのを妨げます。
> > > >
> > > >  長い間一緒に暮らしてきた二人はお互いのイメージを持っており、それは本当に関係を持つことを妨げます。関係を理解すれば協力することができますが、協力はイメージや象徴やイデオロギー的概念を通じてはとても存在できません。お互いの間の真の関係を理解するときのみ愛の可能性があり、そして愛はイメージを持つとき否定されます。したがって、どのようにイメージを自分の妻、夫、隣人、子供、国、指導者、政治家、神についてつくっているか、知的にではなく実際に日常生活において理解することが重要です ― あなたはイメージしか持っていないのです。
> > > >
> > > >  これらイメージはあなたとあなたが観察するものの間に空間をつくり、その空間に葛藤があります。そこで私たちがいま一緒に見いだそうとしていることは、私たちが自分自身の外部のみならず内部にもつくりだした空間、あらゆる関係の中で人々を分離する空間から、自由になることが可能かどうかです。
> > >
> > >
> > > 人間は確かに人間的意識の上ではイメージとそれに基づく経験しか持つことができないでしょう。
> > >  だがここで一つ質問があります。もしある二人が偶然にせよお互いに直接に相手を数秒でも見たとします。その時愛があります。それは意識的意識に残りません。ひっかき傷のような記憶、経験など残りません。それはその瞬間だけのことで何の変化も残さず、その後の生については無意味なのでしょうか? イメージの関係がその後も積み重ねられるだけで何の意味もないのでしょうか? 皆さんはどう思いますか?
> >
> >
> >  『生の全体性』第2部にて、「現にあるもの」を見る(知覚する)ことが英知であり、英知は洞察をもたらすと、クリシュナムルティによって陳述されています。
> >
> >  もしも、真にお互いが「現にあるお互い」を見たならば、そこには英知があり、洞察がある・・と、クリシュナムルティは述べているのではないでしょうか。。
>
>
> はい、二人の間のお互いのイメージは払しょくされます。しかし、私はそのほかに何千というイメージを持っています。その二人の間に起こった洞察はその他の何千というイメージにどういう作用を及ぼすでしょうか? それらもいっぺんに吹き消してくれるのでしょうか? それは無理だろうと私は言いたいのです。しかしいっぺんに全部を引き消さない洞察は後戻りするに決まっているから意味がないのでしょうか?
> >
> >
> >
> > > >  さて問題に払う注意そのものがまさにその問題を解決するエネルギーです。完全な注意を払うとき ― 自分の全てでという意味ですが ― 観察者は全くありません。全的エネルギーである注意の状態のみがあり、その全的エネルギーは英知の最高の形です。当然その心の状態は完全に沈黙しているはずであり、その沈黙、その静寂は全的注意があるとき生じ、訓練された静寂ではありません。観察者も観察されるものもないその完全な沈黙は宗教的な心の最高の形です。しかしその状態の中で起きていることを言葉にすることはできません。なぜなら言葉で言われたことは事実ではないからです。自分自身で見いだすためには、あなたはそれを通らなければなりません。
>
>
> ここに言われていることは私は大洞察であろうがミニ洞察であろうが等しく言えることだと思います。
> > > >
> > > >  あらゆる問題はほかのあらゆる関係に関連しているので、一つの問題を完全に解決できるなら ― それが何であっても構いません ― ほかの全ての問題に容易に出会い解決できることがわかるでしょう。
>
>
> ええ、そうですが、並みの問題は解決できるでしょうが、さらに規模の大きな問題につき当たると前のミニ洞察では手に負えません。新らしいケースの大きい洞察が起こらないと解決できないでしょう。じたばたせずに見ているという事は同じにしても。
>
> > > > ここで言っていることは、もちろん心理的問題です。問題は時間の中だけに、つまりその問題に不完全に出会うときのみ存在することをすでに見てきました。それゆえ問題の性質と構造に気づいてそれを完全に見なければならないだけでなく、問題が起きる都度それに直面し、直ちに解決し、それが心に根を下ろさないようにしなければなりません。問題を一か月または一日、あるいは数分間でさえ持続させてしまうなら、それは、心を歪めます。それゆえ問題に即座に何の歪みもなしに出会い、即座に、完全にそれから解放され、心に記憶、ひっかき傷を残さないことができるでしょうか? これらの記憶は私たちが持ち運んでいるイメージであり、生と呼ばれるこの途方もないものに出会うのはこれらのイメージなのです。それゆえ矛盾があり、したがって葛藤があります。生はまさに現実です ― 生は抽象ではありません ― そして生にイメージを持って出会うとき問題があります。
> > >
> > >
> > > 偶然でもいいから直接何かを見ることに話題が入り始めました。しかもそれは油断しないで持続させないと後戻りするだろうと言っています。これは正しいでしょうか? 
> > >  人間意識全体にその愛の状態をもたらそうとするときそうなります。しかしこれはやや欲張りでないか? それには数秒でもその状態を持つときの変容という事の有無を考える必要があります。
> > > >
> > > > (続く)
> >
> >
> >  「注意」には努力等が含まれることはありません。
>
> はい。ではどうやって油断が防げるのでしょう? それは油断への気づきがあるか否かです。どうすれはその気づきが起こるのでしょうか? 気づきは意識の領域外にあります。意識的努力の及ぶところではありません。
>
> >
> >
> >  Timeless Stillness 「完全な注意」より引用
> >
> > 参照 http://timelessstillness.web.fc2.com/
> >
> >
> > 完全な注意 1955
> >
> > Q:あなたは先日完全な注意の緊急性を語りました。完全な注意が何を意味するのか説明して下さい。
> >
> > クリシュナムルティ:私が完全な注意で何を意味しているかという質問に答えるのではなく、それを一緒に調べていきましょう。多分そうすれば完全な注意が何であるか発見できるでしょう。
> >
> > 注意とはどういう意味でしょう。あなたは話を聴いています。でもあなたは他のことを考えます。あなたのマインドはさまよい出ています。そして話を聴くためにそれを引き戻します。それが注意でしょうか。あなたは部屋の中で行なわれていることに飽きて窓の外を見ていたい。でもあなたの行儀の良さや礼儀正しさが聴くことを要求します。そのためあなたは思考を外の海から引き戻して話を聴きます。それが注意でしょうか。あなたが聴くために努力しているときや、見出して理解するために集中しようとしているとき、そこに注意があるでしょうか。それがあなたがしていることではありませんか。あなたは聴くために努力します。そしてその集中のプロセスは本当は排他的なものです。あなたは他のことを考えたい、でもあなたのマインドは戻ってくることを強いられます。あなたは何処かに至る事や成果をあげることを求めているからです。
> >
> > インセンティヴがあるかぎり注意があるでしょうか。生徒が先生が話すことに注意を払うのは試験に通るというインセンティヴがあるからです。そういう注意は努力であり、集中であり、他のすべての思考を排除して成果をあげるために特定の思考を課すことです。つまりインセンティヴや動機があります。そしてこの何かを達成しようという動機があるかぎり注意があるでしょうか。我々が知っているのはすべて集中であってその中にはあきらかに排除があります。特定の主題に集中するため他のすべてを締め出すことです。もちろんそれは注意でありません。努力があるところに注意があるでしょうか。そしてインセンティヴがあるかぎり必ず努力があります。
> >
> > では、インセンティヴも動機もない注意がありうるでしょうか。我々が知っているのは注意なのか、そうでなければ動機をもった集中です。私は瞑想したい、あるいは試験に受かりたい、あるいは確かな地位を確立したい、そのため私は他のすべてのものを排除して集中します。もし私が排除しなければ私は消え去ります。つまり消え去らないために私は集中を強いるのです。それが排除のプロセスです。それは絶え間ない緊張とエネルギ−の浪費を伴います。なぜならそこに努力と抵抗があるからです。抵抗のあるところに注意があるでしょうか。注意はあきらかに抵抗のない状態を意味しています。抵抗を作り出す瞬間あなたはたんに集中しています。それは注意とはまったく異なります。
> >
> > あなたが神を探すためでも何処かに至るためでも成果をあげるためにでもなく、何のインセンティヴももたず、そのためまったく緊張せずに話を聴いていれば、それによってあなたのマインドが広大に気づきを拡げているのを発見するでしょう。あなたはカラスや列車や商売の雑音やあらゆるさまざまな音も聴いています。そしてそこに動機もインセンティヴもない注意があるとき、それは排除しない集中へと変わることができます。それは抵抗することなく見、観察し、見張っていることができます。
> >
> > あなたが試してみればたんに集中しているかぎり必ず努力があるということを自分で見出すでしょう。あなたがしていることに興味があってそれに心を奪われていたとしても。そういう集中は排除のプロセスであってそれゆえそこには抵抗があります。夢中になることは注意ではありません。夢中になることの中には排除があるからです。集中は注意ではありません。そのなかにインセンティヴや動機があり、インセンティヴや動機があるところには必ず抵抗があるからです。それに対しこのあきらかな事実を聴いてその真実を理解すれば、あなたはインセンティヴのない注意が、どんな固定された視点ももたない注意があるのを知るでしょう。そのマインドは抵抗しておらず完全に開かれていて、そのような注意を全開にしたマインドは抵抗のない集中ができるように転換します。
> >
> > 創造的なリアリティの瞬間にはマインドは完全に静まって注意深くなります。それは動機をもちません。見たものを言葉や詩や何らかの伝達するための形式に翻訳することは集中や焦点を合わせる作業を要求するかもしれません。――「集中」という言葉から離れましょう。――でも焦点を合わせるということは抵抗ではありません。我々の知っているものはすべて抵抗です。それは我々は本当はやっていることを愛していないことを意味しています。我々の心は我々のやっていることのなかにはありません。だからそれを成し遂げるためにマインドは動機やインセンティヴを発明しなければならないのです。でもあなたがインセンティヴや集中や努力のプロセス全体を理解すれば、その実際の事実を見てマインドがどのように作動するかを見れば、動機のない注意をもつために完全に警戒し、気づきと感覚を全開にした途方もないものを見るでしょう。そういうマインドだけが抵抗せずに焦点を合わせることができます。
> >
> > Bombay 3rd Public Talk 23th February 1955
> >
> >  ― ― ― 以上引用 ― ― ―


 質問の骨子は、クリシュナムルティが述べていることが起こらない・・。ということではないでしょうか。。

 これは渡辺さんの問いでもありました。


 「インセンティヴ」(Timeless Stillness 「完全な注意」参照)が重要なワードになるように思います。

 クリシュナムルティ理解への取り組みにおいて、モチベーション、あるいはインセンティヴが重要で必要不可欠なものとなります。

 そして、理解が進むにつれて、ある一定段階以上からは、そのモチベーション、あるいはインセンティヴが、クリシュナムルティ理解の取り組みにおいて重大な障害となる旨がクリシュナムルティによって陳述されているのです(Timeless Stillness 「完全な注意」参照)。


 そこで何もなすことができない。。と絶望的にもなるかもしれません。。それが自己憐憫、あるいは自我憐憫なのかもしれません。

 その自我憐憫を絶望の中で、具体的に見る(知覚する)とどうなるのかを、私自身でやって試してみたいと思います。


[25909] Re:[25908] [25907] [25905] 既知からの自由11−3 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/26(Wed) 12:50  

> > > 11章ー3 [イメージ] [問題]
> > >
> > >  如何なる先入観もイメージもなく見るときのみ、生の中の何事にも直接接触することができます。全ての関係は本当に想像上のものです ― つまり、思考によってつくられたイメージに基づいています。私があなたにあるイメージを持ち、あなたが私にイメージを持つなら、当然お互いを実際のありのままに見てはいません。私たちが見ているのは自分がお互いに関して造ったイメージであり、そのことは触れ合いを妨げ、それが関係が悪くなる理由です。
> > >
> > >  あなたを知っていると私が言うとき、あなたを昨日知ったということを意味します。あなたを実際にいま知っていません。知っている全てはあなたについての私のイメージです。そのイメージはあなたが私を誉めたり侮辱して言ったこと、私に対してしたことによって組み立てられます ― そのイメージはあなたについて持っている全ての記憶によって組み立てられます ― そしてあなたの私についてのイメージも同様に組み立てられ、関係を持つのはそれらのイメージであり、それはお互いに本当に交流するのを妨げます。
> > >
> > >  長い間一緒に暮らしてきた二人はお互いのイメージを持っており、それは本当に関係を持つことを妨げます。関係を理解すれば協力することができますが、協力はイメージや象徴やイデオロギー的概念を通じてはとても存在できません。お互いの間の真の関係を理解するときのみ愛の可能性があり、そして愛はイメージを持つとき否定されます。したがって、どのようにイメージを自分の妻、夫、隣人、子供、国、指導者、政治家、神についてつくっているか、知的にではなく実際に日常生活において理解することが重要です ― あなたはイメージしか持っていないのです。
> > >
> > >  これらイメージはあなたとあなたが観察するものの間に空間をつくり、その空間に葛藤があります。そこで私たちがいま一緒に見いだそうとしていることは、私たちが自分自身の外部のみならず内部にもつくりだした空間、あらゆる関係の中で人々を分離する空間から、自由になることが可能かどうかです。
> >
> >
> > 人間は確かに人間的意識の上ではイメージとそれに基づく経験しか持つことができないでしょう。
> >  だがここで一つ質問があります。もしある二人が偶然にせよお互いに直接に相手を数秒でも見たとします。その時愛があります。それは意識的意識に残りません。ひっかき傷のような記憶、経験など残りません。それはその瞬間だけのことで何の変化も残さず、その後の生については無意味なのでしょうか? イメージの関係がその後も積み重ねられるだけで何の意味もないのでしょうか? 皆さんはどう思いますか?
>
>
>  『生の全体性』第2部にて、「現にあるもの」を見る(知覚する)ことが英知であり、英知は洞察をもたらすと、クリシュナムルティによって陳述されています。
>
>  もしも、真にお互いが「現にあるお互い」を見たならば、そこには英知があり、洞察がある・・と、クリシュナムルティは述べているのではないでしょうか。。


はい、二人の間のお互いのイメージは払しょくされます。しかし、私はそのほかに何千というイメージを持っています。その二人の間に起こった洞察はその他の何千というイメージにどういう作用を及ぼすでしょうか? それらもいっぺんに吹き消してくれるのでしょうか? それは無理だろうと私は言いたいのです。しかしいっぺんに全部を引き消さない洞察は後戻りするに決まっているから意味がないのでしょうか?
>
>
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> > >  さて問題に払う注意そのものがまさにその問題を解決するエネルギーです。完全な注意を払うとき ― 自分の全てでという意味ですが ― 観察者は全くありません。全的エネルギーである注意の状態のみがあり、その全的エネルギーは英知の最高の形です。当然その心の状態は完全に沈黙しているはずであり、その沈黙、その静寂は全的注意があるとき生じ、訓練された静寂ではありません。観察者も観察されるものもないその完全な沈黙は宗教的な心の最高の形です。しかしその状態の中で起きていることを言葉にすることはできません。なぜなら言葉で言われたことは事実ではないからです。自分自身で見いだすためには、あなたはそれを通らなければなりません。


ここに言われていることは私は大洞察であろうがミニ洞察であろうが等しく言えることだと思います。
> > >
> > >  あらゆる問題はほかのあらゆる関係に関連しているので、一つの問題を完全に解決できるなら ― それが何であっても構いません ― ほかの全ての問題に容易に出会い解決できることがわかるでしょう。


ええ、そうですが、並みの問題は解決できるでしょうが、さらに規模の大きな問題につき当たると前のミニ洞察では手に負えません。新らしいケースの大きい洞察が起こらないと解決できないでしょう。じたばたせずに見ているという事は同じにしても。

> > > ここで言っていることは、もちろん心理的問題です。問題は時間の中だけに、つまりその問題に不完全に出会うときのみ存在することをすでに見てきました。それゆえ問題の性質と構造に気づいてそれを完全に見なければならないだけでなく、問題が起きる都度それに直面し、直ちに解決し、それが心に根を下ろさないようにしなければなりません。問題を一か月または一日、あるいは数分間でさえ持続させてしまうなら、それは、心を歪めます。それゆえ問題に即座に何の歪みもなしに出会い、即座に、完全にそれから解放され、心に記憶、ひっかき傷を残さないことができるでしょうか? これらの記憶は私たちが持ち運んでいるイメージであり、生と呼ばれるこの途方もないものに出会うのはこれらのイメージなのです。それゆえ矛盾があり、したがって葛藤があります。生はまさに現実です ― 生は抽象ではありません ― そして生にイメージを持って出会うとき問題があります。
> >
> >
> > 偶然でもいいから直接何かを見ることに話題が入り始めました。しかもそれは油断しないで持続させないと後戻りするだろうと言っています。これは正しいでしょうか? 
> >  人間意識全体にその愛の状態をもたらそうとするときそうなります。しかしこれはやや欲張りでないか? それには数秒でもその状態を持つときの変容という事の有無を考える必要があります。
> > >
> > > (続く)
>
>
>  「注意」には努力等が含まれることはありません。

はい。ではどうやって油断が防げるのでしょう? それは油断への気づきがあるか否かです。どうすれはその気づきが起こるのでしょうか? 気づきは意識の領域外にあります。意識的努力の及ぶところではありません。

>
>
>  Timeless Stillness 「完全な注意」より引用
>
> 参照 http://timelessstillness.web.fc2.com/
>
>
> 完全な注意 1955
>
> Q:あなたは先日完全な注意の緊急性を語りました。完全な注意が何を意味するのか説明して下さい。
>
> クリシュナムルティ:私が完全な注意で何を意味しているかという質問に答えるのではなく、それを一緒に調べていきましょう。多分そうすれば完全な注意が何であるか発見できるでしょう。
>
> 注意とはどういう意味でしょう。あなたは話を聴いています。でもあなたは他のことを考えます。あなたのマインドはさまよい出ています。そして話を聴くためにそれを引き戻します。それが注意でしょうか。あなたは部屋の中で行なわれていることに飽きて窓の外を見ていたい。でもあなたの行儀の良さや礼儀正しさが聴くことを要求します。そのためあなたは思考を外の海から引き戻して話を聴きます。それが注意でしょうか。あなたが聴くために努力しているときや、見出して理解するために集中しようとしているとき、そこに注意があるでしょうか。それがあなたがしていることではありませんか。あなたは聴くために努力します。そしてその集中のプロセスは本当は排他的なものです。あなたは他のことを考えたい、でもあなたのマインドは戻ってくることを強いられます。あなたは何処かに至る事や成果をあげることを求めているからです。
>
> インセンティヴがあるかぎり注意があるでしょうか。生徒が先生が話すことに注意を払うのは試験に通るというインセンティヴがあるからです。そういう注意は努力であり、集中であり、他のすべての思考を排除して成果をあげるために特定の思考を課すことです。つまりインセンティヴや動機があります。そしてこの何かを達成しようという動機があるかぎり注意があるでしょうか。我々が知っているのはすべて集中であってその中にはあきらかに排除があります。特定の主題に集中するため他のすべてを締め出すことです。もちろんそれは注意でありません。努力があるところに注意があるでしょうか。そしてインセンティヴがあるかぎり必ず努力があります。
>
> では、インセンティヴも動機もない注意がありうるでしょうか。我々が知っているのは注意なのか、そうでなければ動機をもった集中です。私は瞑想したい、あるいは試験に受かりたい、あるいは確かな地位を確立したい、そのため私は他のすべてのものを排除して集中します。もし私が排除しなければ私は消え去ります。つまり消え去らないために私は集中を強いるのです。それが排除のプロセスです。それは絶え間ない緊張とエネルギ−の浪費を伴います。なぜならそこに努力と抵抗があるからです。抵抗のあるところに注意があるでしょうか。注意はあきらかに抵抗のない状態を意味しています。抵抗を作り出す瞬間あなたはたんに集中しています。それは注意とはまったく異なります。
>
> あなたが神を探すためでも何処かに至るためでも成果をあげるためにでもなく、何のインセンティヴももたず、そのためまったく緊張せずに話を聴いていれば、それによってあなたのマインドが広大に気づきを拡げているのを発見するでしょう。あなたはカラスや列車や商売の雑音やあらゆるさまざまな音も聴いています。そしてそこに動機もインセンティヴもない注意があるとき、それは排除しない集中へと変わることができます。それは抵抗することなく見、観察し、見張っていることができます。
>
> あなたが試してみればたんに集中しているかぎり必ず努力があるということを自分で見出すでしょう。あなたがしていることに興味があってそれに心を奪われていたとしても。そういう集中は排除のプロセスであってそれゆえそこには抵抗があります。夢中になることは注意ではありません。夢中になることの中には排除があるからです。集中は注意ではありません。そのなかにインセンティヴや動機があり、インセンティヴや動機があるところには必ず抵抗があるからです。それに対しこのあきらかな事実を聴いてその真実を理解すれば、あなたはインセンティヴのない注意が、どんな固定された視点ももたない注意があるのを知るでしょう。そのマインドは抵抗しておらず完全に開かれていて、そのような注意を全開にしたマインドは抵抗のない集中ができるように転換します。
>
> 創造的なリアリティの瞬間にはマインドは完全に静まって注意深くなります。それは動機をもちません。見たものを言葉や詩や何らかの伝達するための形式に翻訳することは集中や焦点を合わせる作業を要求するかもしれません。――「集中」という言葉から離れましょう。――でも焦点を合わせるということは抵抗ではありません。我々の知っているものはすべて抵抗です。それは我々は本当はやっていることを愛していないことを意味しています。我々の心は我々のやっていることのなかにはありません。だからそれを成し遂げるためにマインドは動機やインセンティヴを発明しなければならないのです。でもあなたがインセンティヴや集中や努力のプロセス全体を理解すれば、その実際の事実を見てマインドがどのように作動するかを見れば、動機のない注意をもつために完全に警戒し、気づきと感覚を全開にした途方もないものを見るでしょう。そういうマインドだけが抵抗せずに焦点を合わせることができます。
>
> Bombay 3rd Public Talk 23th February 1955
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>  ― ― ― 以上引用 ― ― ―


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