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[25511] Re:[25510] [25497] [25494] 体験談 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/17(Sun) 22:28  

> どうも話が伝わりませんね。権威云々の話になっている。権威に背を向けている人はいくらでもいます。アウトロー的な生き方。

アウトロー的な生き方をしている人とは多くいる?…ほんとかな? もう一度Kの文章を読みましょう。


> > >  しかしそれを捨て去り、全く恐怖のない ― 過ちを犯すという恐怖のない、正しいあるいは間違ったことをするという恐怖のない ― このエネルギーを持つとき、その時そのエネルギー自体が変容ではないでしょうか? 私たちは途方もない量のエネルギーを必要とし、それを恐怖を通じて浪費していますが、あらゆる形の恐怖を捨て去ることから生じるこのエネルギーがあるとき、そのエネルギー自体が根本的な内面の革命を生み出します。それについてしなければならないことは何もありません。
> > >
> > >  それゆえあなたは自分自身と共に残されます。それがこのこと全てについて真剣である人にとって、あるべき実際の状態です。そしてもはや助けを求めて誰かや何かに頼っていないので、あなたはすでに自由に発見できます。自由があるとき、エネルギーがあります。自由があるときは決して間違ったことをすることができません。自由は反抗とは全く違います。自由があるときには、正しかったり、間違ったりするというような事はないのです。あなたは自由であり、その中心から行動します。それゆえ恐怖はなく、そして恐怖のない心は大いなる愛が可能です。そして愛があるときは望むことをすることができます。

このような人がいるかいないか、Kは確認できないから一人もいないと言った。
しかし、上に引用した文章を自分のこととして理解出来る人はかなりいるだろうよ。自分から名乗りを上げないだろうがね。
誰も名乗りを上げないのもあるがままの事実とすれば、そう認めればいい。

> 例えば会社勤めが嫌なら、自分で起業すればいい。
> そういった外部の話ではなく、自身の中に「権威」というものが潜んでいないかです。そこを調べる。プライド、ポリシー、男としての親父としての権力などなど。

その通りだが、それ(自分自身の中の権威)は1−6にKの言葉がある。以下に引用しておきます。

> 自分自身の精神の構造の内部に完全な革命をもたらす中で、どんな外部の権威にも依存できないことを理解しても、自分自身の内部の権威、自分自身の特定の小さな経験と蓄積された意見、知識、観念と理想という権威を拒否するという、より遥かに大きな困難があります。あなたは昨日何かをあなたに教えるある経験をしました。そしてそれがあなたに教えたことは新しい権威になります ― そしてその昨日の権威は千年の権威と同じように破壊的です。自分自身を理解するためには昨日の権威も千年の権威も必要ではありません。なぜなら私たちは生きたものであり、常に動き、流れ、決して休んではいないからです。昨日の権威をもって自分自身を見る時は、生きている動きとその動きの美と質を理解損なうでしょう。

> 全ての権威から、自分自身のそして他人の経験から自由であることは、昨日のあらゆる事に対して死ぬことであり、その結果あなたの心は常に新鮮で、常に若く、天真爛漫で、活気と情熱に満ちています。人が学び観察するのはそのような状態の中のみです。そしてこのためには大変な気付きが必要とされます。自分自身の内部で起こっている事についての、修正したり、どうあるべきかどうあるべきでないか告げたりしない、実際の気づきが必要です。なぜならそれを修正する瞬間、あなたは別の権威、検閲者を確立してしまうからです。


私にこの気づきがあるかないかは個人情報で言う必要はない。本人は知っている。当たり前だが。



[25510] Re:[25497] [25494] 体験談 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/17(Sun) 19:33  

> > >  しかしそれを捨て去り、全く恐怖のない ― 過ちを犯すという恐怖のない、正しいあるいは間違ったことをするという恐怖のない ― このエネルギーを持つとき、その時そのエネルギー自体が変容ではないでしょうか? 私たちは途方もない量のエネルギーを必要とし、それを恐怖を通じて浪費していますが、あらゆる形の恐怖を捨て去ることから生じるこのエネルギーがあるとき、そのエネルギー自体が根本的な内面の革命を生み出します。それについてしなければならないことは何もありません。
> > >
> > >  それゆえあなたは自分自身と共に残されます。それがこのこと全てについて真剣である人にとって、あるべき実際の状態です。そしてもはや助けを求めて誰かや何かに頼っていないので、あなたはすでに自由に発見できます。自由があるとき、エネルギーがあります。自由があるときは決して間違ったことをすることができません。自由は反抗とは全く違います。自由があるときには、正しかったり、間違ったりするというような事はないのです。あなたは自由であり、その中心から行動します。それゆえ恐怖はなく、そして恐怖のない心は大いなる愛が可能です。そして愛があるときは望むことをすることができます。

ここまでは重複しているにで消したいのだが、アイパットではうまく、いきません。パソコンだとすぐ消せるのだが。
> >
> > いつも思うのだが、クリシュナムルティの言ってることを実際に実現している人がいるのでしょうか。
> > 少なくとも日本ではそういった体験談の本は日本では見たことがない。外国でそのような本を出版しているのだろうか。あったとしても、訳されていないのか。それはわかりません。
>
> 権威を否定した人は体験本を欲しがったり、書いたりはしないのじゃないだろうか。

そういう人だけではない。ほんとにそういうことか起きるかどうか確かめたい人もいるだろう。Kの言ってることが本当かどうか。
宗教の信者が世界に多数いる。
とくに仏教、キリスト教、ヒンズー教の信者。これらの人はKのいうことにカチンと来ている。何にために信仰か。

>  変容が実現しているかどうかは普通は会っても分からないんじゃないだろうか。刺青やバッジをしているわけではないからな。

Kが本当に「誰も変わらなかった」というのでは普遍性はない。特別な人だけのものになる。
>
> > クリシュナムルティの研究者、探求者、訳者、信奉者、愛読者という人はおられます。変容した人は?

Kの言葉で言うと誰もいないとなる。

> > 没後32年世界は何ら変わっていない。ますます混乱の道へ。
>
> >変容した人は?−− それがなぜ気になるの? さっそくその人に会って、気に入ればだが、権威としてその人の言葉を集めたいから? それとも結果を見て支持、不支持を決めたいから? 一人立つ者はそんなことしないよね。

変容した人がいないと言うことであれば、Kの言葉は普遍性はありません。K一人だけのものになる。
他の世界では変容した人はいくらでも知っている。

どうも話が伝わりませんね。権威云々の話になっている。権威に背を向けている人はいくらでもいます。アウトロー的な生き方。
例えば会社勤めが嫌なら、自分で起業すればいい。
そういった外部の話ではなく、自身の中に「権威」というものが潜んでいないかです。そこを調べる。プライド、ポリシー、男としての親父としての権力などなど。


[25509] クリシュナムルティの教えの欠点 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/17(Sun) 18:54  

クリシュナムルティは人間の感情の問題についておざなりにしている。何でもかんでも「思考」という言葉にひとくくりにしてしまっている。思考と感情は違う。
何で人間は感情的になるのかという言及はない。
(K自身は「恋愛感情」が克服できなかった。又、晩年は裁判や後継者問題を抱えて「平安」でいられぬはずはない)
もう一つ、無から有を生み出す人間の想像力を否定してしまっている。イメージと心理的思考の混同。
何でもかんでも「思考」を目の敵にしている。
ようするに周囲というのは「道具」であり、使い方の問題なのである。


クリシュナムルティの信奉者、あるいはKの言葉を信じ切って人は、上の文を読むと感情的になるだろう。あるいは血相変えておこる?
そうではなく、Kの信奉者は明確に自分の言葉で反論できるだろうか?Kをよく読むでは説得力はない。


[25508] 既知からの自由1−5(2) 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/17(Sun) 16:34  

>  もう一度はっきり述べましょう。私は自分が自分の存在の根源から完全に変化しなければならないことを見ます。伝統はこの巨大な怠惰、受容、服従をもたらしたので、私はもはやどのような伝統にも依存することはできません。変わるのを助けてくれるよう他人に頼ることはとてもできません。どんな教師にも、どんな神、どんな信念、どんな体系、どんな外部の圧力あるいは影響にも。その時何が起きるでしょうか?

>  まず第一に、あなたは全ての権威を拒否できますか? もし出来るなら、それはあなたはもはや恐れていないことを意味します。何世代も自分と共に持ち運んできた偽りのものを拒否するとき、どんな種類の重荷であれ捨て去るとき、何が起きるでしょうか? あなたはより多くのエネルギーを持っているのではないでしょうか? より多くの能力、より多くの精力、より大きな強烈さと活力を持っています。もしこれを感じないなら、その時は重荷を捨て去っていません、権威の死んだ重さを捨ててはいないのです。

>  しかしそれを捨て去り、全く恐怖のない ― 過ちを犯すという恐怖のない、正しいあるいは間違ったことをするという恐怖のない ― このエネルギーを持つとき、その時そのエネルギー自体が変容ではないでしょうか? 私たちは途方もない量のエネルギーを必要とし、それを恐怖を通じて浪費していますが、あらゆる形の恐怖を捨て去ることから生じるこのエネルギーがあるとき、そのエネルギー自体が根本的な内面の革命を生み出します。それについてしなければならないことは何もありません。

>  それゆえあなたは自分自身と共に残されます。それがこのこと全てについて真剣である人にとって、あるべき実際の状態です。そしてもはや助けを求めて誰かや何かに頼っていないので、あなたはすでに自由に発見できます。自由があるとき、エネルギーがあります。自由があるときは決して間違ったことをすることができません。自由は反抗とは全く違います。自由があるときには、正しかったり、間違ったりするというような事はないのです。あなたは自由であり、その中心から行動します。それゆえ恐怖はなく、そして恐怖のない心は大いなる愛が可能です。そして愛があるときは望むことをすることができます。


クリシュナムルティは世界を根本的に変える変容の内容を、ここではっきり言ってくれました。実に明瞭です。

でも私は疑問があります。人間の群れ集って言語を交わし伝達しあって進んでいくこの性質は、これまで同様大いに活用すべきものなのかどうか? もちろん変容してもですが。そこが私にはまだよくわかりません。



[25507] Re:[25503] [25495] [25493] [25491] [25489] エネルギー 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/17(Sun) 15:16  

> > > > エネルギーなんて簡単だ。ヘラブナ釣りにいそいそ出かける時はエネルギーは十分ある。何となく行く気がしないときはエネルギーがない。
> > > >
> > > > 努力して過労死したらエネルギーの使い過ぎ。葛藤があるなら、あるいは嫌々ながらするときは摩擦があり、その時はエネルギーの浪費。
> > >
> > > はい。ここまではわかります。問題は次。
> > > >
> > > > ただ見ている時はエネルギーの浪費されていない高い状態。
>
> ?
> エネルギーが「高い」?状態。
> ただ見てる時はエネルギーは使いません。何か集中するときエネルギーを使います。ギュっと。
> 私の経験です。
> > >
> > > 何で急に「見る」話になるのですか?
> >
> > ナンだってさ、あなたが、>このサイトは、よく「思考なしに見る」「ただ見る、ただ聞く」と言う言葉がよく出てくるが、このことはエネルギーというものがいるものだろうか。−−
> >  とつぶやきか質問かをしたから見る話をしたんです。
>
>
> そうです。その状態はエネルギーはいりません。
> >
> > > > 活動はエネルギーがたっぷりないとできないぜ。
> > >
> > > そうです。エネルギーの話はそうです。
> > >
> > > 私にとって見ること、聞くことは自然です。努力もエネルギーも、いりません。なぜなら自然と聞こえるのですから。
> > > 鳥の声を聞くのに、何で努力がいるのですか?
> >
> > 努力は確かに要らない。努力の浪費・消失はないです。だから高いエネルギー状態があるでしょう。
>
>
> エネルギーが高い?普通でしょう。
> >
> > > 何か私は勘違いしているのでしょうか?
> > > それとも「見ることはエネルギー」とおっしゃりたい?
> > > クリシュナムルティがそういってるからですか。
> > > 見ることはエネルギーがいるということは、力任せに金剛力で「見る」ということですか。
> >
> > 違います。そのような状態が続くわけはない。
> >
> > > そうしないと見ることはできないと。
> >
> > そうやって金剛力で思考を止めていると、思考なしに話している状態が起こってそれが見えてしまう。探究時代の一つの出来事。
> >
> > > そうすると一体何を見るんですか、ということになります。
> > > 初心者の質問として。
> >
> >
> > 思考のスクリーンを通さないで見ると、あるがままのものが見える。
> ですから、その状態はエネルギーはいりません。
>
> さっきのKの話ですが、「全く恐怖のないエネルギーを持つ時、そのエネルギー自体が変容」といっています。その時起きたエネルギーというのは、私たちの日常とは違う「異質」のエネルギーが起きたということではないでしょうか?
>
> 単純に、ただ見る、聞くということではないと思います。簡単にスクリーンを通さないで、あるがままに見るという話ではない。
> そう言った無機質な言い方ではなく、そこには心がともなっていなければならないでしょう。そこには情熱がいるということです。情熱を注ぐ。
>
> 今まであなた方は、(あなた方というのは飯尾さんも含めて)、
> 見ることについて、ふと起きる、あるいは自然に起きる、無意識に起きるとか、言われてきたように思います。つまり努力なし、だとしたらエネルギーなどいらないのではと、あなた方に問題を提起したということです。今でもこれについて納得がいかなった次第。


寝につく時は疲れていて、溜まっているエネルギーが減って低い状態。
朝目が覚めたときは減ったエネルギーが充電されてエネルギーがたっぷり溜まっている、いわばエネルギー量が高い状態。

そういう意味で高い、低いと言っています。朝は一般に高い状態。夜は低い状態。

それで見るにはエネルギーを消耗はしませんが、溜まっているエネルギー量が低いとぼんやり見ている感じ。エネルギーがたっぷり溜まって疲労もない時は明晰に見える感じ。

エネルギーを消費しているという事ではない。努力していないから。情熱を注ぐのは見ることに対してでなく、溜まっているエネルギーが高ければ高いほど、明晰で敏感に気づく。

情熱を注ぐのは見ることに対してでなく、関心に向かって注ぐ。集中して見ると、見てもエネルギーを消耗する。受動的に見ている人は消耗しない。ヘラブナ釣りで、浮きの見方は前者はへぼ、認識しようとしている。初心者は仕方がないが。後者は達人、直覚している。


[25506] Re:[25500] [25496] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/06/17(Sun) 13:32  

> > 非難正当化せずにありのままに見ると楽になりますよ。という簡単な話。事実の受容
>
> 非難正当化なしに見ている人はすでにすべての権威を拒否した人なのだろうか?  文化や権威に組み込まれることへの抵抗がありそれらを超脱しているでしょう。


[25505] Re:[25501] [25498] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/06/17(Sun) 13:27  

> > 我の消滅、こそが安らぎだ。
>
>
> 我、セルフ、自己意識についてはいずれゆっくりやろうぜ。本質は何で、何が消滅するのか。何も消滅しない。もともとないから。ただひとつながりの全体があるだけだから。無明の立場からすると海に溶け合う川の如く見えるだろう。


[25504] Re:[25502] [25487] 既知からの自由1−5(1) 投稿者:宮啓 投稿日:2018/06/17(Sun) 12:56  

> > [自己変容・エネルギーの浪費]
> >
> >  では、あなたと私は、どんな外部の影響もなしに、どんな説得もなしに、どんな処罰の恐怖もなしに、自分自身の中に ― 私たちの存在のまさにその本質に、全体的な革命、心理的な変容をもたらすことができるでしょうか? その結果私たちはもはや残忍、暴力、競争、心配、怖れ、貪欲、嫉妬、その他、自分が日常生活をしているこの腐敗した社会を作り上げた私たちの性質が少しも現れることなしにいられるでしょうか?
>
>
> この腐敗した社会を作り上げたのは、残忍、暴力、競争、心配、怖れ、貪欲、嫉妬、その他という私たちの性質です。これを自ら変えて、表に出ないようにできるだろうか? これがまさに、本当の我々の課題ではないだろうか!
>
>
> >  私は哲学や神学上の観念の構造、神学的概念を公式化しているのではないということを、最初から理解することが重要です。イデオロギーはすべて全く馬鹿げていると私には思われます。重要なことは人生の哲学ではなく、私たちの日常生活の中で実際に起きていることを、内面的にまた外面的に観察することです。起きていることを非常に綿密に観察し調べるなら、それは知的な概念に基づいているのが見えるでしょう。そして知性は存在の全体の場ではありません。それは断片であり、そして断片は、どんなに利口に組み立てられていても、どんなに古く伝統的でも、なお存在の小さな部分にすぎません。ところが私たちは生の全体を取り扱わなければならないのです。そして世界で起きていることを見る時、私たちは外部と内部の過程はないことを理解し始めます。ただ一つの単一の過程があるだけであり、それは全体の、全部の動きです。内部の動きはそれ自身を外部の動きとして表現し、外部は内部に再び作用しています。これを見ることができるのが必要とされる全てであると私には思われます。なぜなら私たちがどのように見るかを知るなら、その時全部のことは非常に明確になるからで、そして見るためには哲学も、教師もいりません。誰もあなたにどうやって見るか教える必要はありません。あなたはただ見るだけです。
>
>
> >私たちの日常生活の中で実際に起きていることを、内面的にまた外面的に観察することです。起きていることを非常に綿密に観察し調べるなら、それは知的な概念に基づいているのが見えるでしょう。−−
>
>  観察は内部も含めていまはかなり良く行われています。で、知的な概念に基づいて行われるのは言葉で伝達しあうということから来るので、それは拒否できないと思います。これから来る局所性と誤解・混乱は乗り越える必要がありますが、これも容易ではない。ただ話し合う人たちが観察を共にしていれば通じ合う事はかなり容易です。
>
> >ところが私たちは生の全体を取り扱わなければならないのです。そして世界で起きていることを見る時、私たちは外部と内部の過程はないことを理解し始めます。ただ一つの単一の過程があるだけであり、それは全体の、全部の動きです。内部の動きはそれ自身を外部の動きとして表現し、外部は内部に再び作用しています。これを見ることができるのが必要とされる全てであると私には思われます。−−
>
>  この事は今や世界的に知られ始めています。社会と個人の心・心理の相互作用は複雑系そのものです。
>
>
> >  その時あなたは、この全体の光景を見て、それを言葉の上でなく実際に見て、容易に、自発的に、自分自身を変容させることができるでしょうか? それが真の問題です。精神に完全な革命をもたらすことができるでしょうか?
>
>
> 真の問題が何かはっきり話されました。


 私の一番の課題は、

 >このような質問に対するあなたの反応はどのようなものでしょうか?「私は変わりたいと思いません」と言うかもしれません。そして多くの人々は変わりたいと思わないのです。特に社会的に経済的にかなり安泰な人や、教条的な信念を保持し、そのままのあるいは少しばかり修正した形の、自分自身と物事を受け入れることに満足している人はそうです。それらの人々に私たちは関わってはいません。あるいはもっと微妙に「ところで、それは難し過ぎて、私向きではない」というかもしれません。その場合にはすでに自分を閉ざしてしまい、調べることをやめてしまっており、さらに進んでも何にもならないでしょう。でなければ「自分自身の中に根本的な内面の変化が必要なことはわかりますが、どうやってそれをもたらすべきでしょうか? どうか道を示し、それへ向けて私を助けてください」と言うかもしれません。もしそう言うなら、その時あなたが関わっているものは変化それ自身ではなく、根本的な革命に本当に関心があるのではありません。単に変化をもたらす方法、体系を探しているだけです。−−


 上記のような人にならないようにしたい。


 クリシュナムルティの陳述は、上記の人々とは無関係であることが、クリシュナムルティによって陳述されている。


 クリシュナムルティの本を、その多くが読まないのは、上記の理由であった。。

 そして、クリシュナムルティの本を読んで一定以上、読みこなしているにも関わらず、クリシュナムルティの本流から逸れる理由も、上記にある通りではなかろうか。。

 大野龍一氏、渡辺さん、・・クリシュナムルティ邦訳の第一人者であっても、上記にある通りであれば、クリシュナムルティの本流から逸れてゆく。

 クリシュナムルティが陳述の中で否定しているものへと、枝分かれしてゆく。

 すなわち、>その時あなたが関わっているものは変化それ自身ではなく、根本的な革命に本当に関心があるのではありません。単に変化をもたらす方法、体系を探しているだけです。−−、本流からの分離者は、方法・体系を探求していたに過ぎなかったのではなかろうか。。

 しかし、それは私にとっても他人ごとではない。。



[25503] Re:[25495] [25493] [25491] [25489] エネルギー 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/17(Sun) 10:39  

> > > エネルギーなんて簡単だ。ヘラブナ釣りにいそいそ出かける時はエネルギーは十分ある。何となく行く気がしないときはエネルギーがない。
> > >
> > > 努力して過労死したらエネルギーの使い過ぎ。葛藤があるなら、あるいは嫌々ながらするときは摩擦があり、その時はエネルギーの浪費。
> >
> > はい。ここまではわかります。問題は次。
> > >
> > > ただ見ている時はエネルギーの浪費されていない高い状態。


エネルギーが「高い」?状態。
ただ見てる時はエネルギーは使いません。何か集中するときエネルギーを使います。ギュっと。
私の経験です。
> >
> > 何で急に「見る」話になるのですか?
>
> ナンだってさ、あなたが、>このサイトは、よく「思考なしに見る」「ただ見る、ただ聞く」と言う言葉がよく出てくるが、このことはエネルギーというものがいるものだろうか。−−
>  とつぶやきか質問かをしたから見る話をしたんです。


そうです。その状態はエネルギーはいりません。
>
> > > 活動はエネルギーがたっぷりないとできないぜ。
> >
> > そうです。エネルギーの話はそうです。
> >
> > 私にとって見ること、聞くことは自然です。努力もエネルギーも、いりません。なぜなら自然と聞こえるのですから。
> > 鳥の声を聞くのに、何で努力がいるのですか?
>
> 努力は確かに要らない。努力の浪費・消失はないです。だから高いエネルギー状態があるでしょう。


エネルギーが高い?普通でしょう。
>
> > 何か私は勘違いしているのでしょうか?
> > それとも「見ることはエネルギー」とおっしゃりたい?
> > クリシュナムルティがそういってるからですか。
> > 見ることはエネルギーがいるということは、力任せに金剛力で「見る」ということですか。
>
> 違います。そのような状態が続くわけはない。
>
> > そうしないと見ることはできないと。
>
> そうやって金剛力で思考を止めていると、思考なしに話している状態が起こってそれが見えてしまう。探究時代の一つの出来事。
>
> > そうすると一体何を見るんですか、ということになります。
> > 初心者の質問として。
>
>
> 思考のスクリーンを通さないで見ると、あるがままのものが見える。
ですから、その状態はエネルギーはいりません。

さっきのKの話ですが、「全く恐怖のないエネルギーを持つ時、そのエネルギー自体が変容」といっています。その時起きたエネルギーというのは、私たちの日常とは違う「異質」のエネルギーが起きたということではないでしょうか?

単純に、ただ見る、聞くということではないと思います。簡単にスクリーンを通さないで、あるがままに見るという話ではない。
そう言った無機質な言い方ではなく、そこには心がともなっていなければならないでしょう。そこには情熱がいるということです。情熱を注ぐ。

今まであなた方は、(あなた方というのは飯尾さんも含めて)、
見ることについて、ふと起きる、あるいは自然に起きる、無意識に起きるとか、言われてきたように思います。つまり努力なし、だとしたらエネルギーなどいらないのではと、あなた方に問題を提起したということです。今でもこれについて納得がいかなった次第。



[25502] Re:[25487] 既知からの自由1−5(1) 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/17(Sun) 07:53  

> [自己変容・エネルギーの浪費]
>
>  では、あなたと私は、どんな外部の影響もなしに、どんな説得もなしに、どんな処罰の恐怖もなしに、自分自身の中に ― 私たちの存在のまさにその本質に、全体的な革命、心理的な変容をもたらすことができるでしょうか? その結果私たちはもはや残忍、暴力、競争、心配、怖れ、貪欲、嫉妬、その他、自分が日常生活をしているこの腐敗した社会を作り上げた私たちの性質が少しも現れることなしにいられるでしょうか?


この腐敗した社会を作り上げたのは、残忍、暴力、競争、心配、怖れ、貪欲、嫉妬、その他という私たちの性質です。これを自ら変えて、表に出ないようにできるだろうか? これがまさに、本当の我々の課題ではないだろうか!


>  私は哲学や神学上の観念の構造、神学的概念を公式化しているのではないということを、最初から理解することが重要です。イデオロギーはすべて全く馬鹿げていると私には思われます。重要なことは人生の哲学ではなく、私たちの日常生活の中で実際に起きていることを、内面的にまた外面的に観察することです。起きていることを非常に綿密に観察し調べるなら、それは知的な概念に基づいているのが見えるでしょう。そして知性は存在の全体の場ではありません。それは断片であり、そして断片は、どんなに利口に組み立てられていても、どんなに古く伝統的でも、なお存在の小さな部分にすぎません。ところが私たちは生の全体を取り扱わなければならないのです。そして世界で起きていることを見る時、私たちは外部と内部の過程はないことを理解し始めます。ただ一つの単一の過程があるだけであり、それは全体の、全部の動きです。内部の動きはそれ自身を外部の動きとして表現し、外部は内部に再び作用しています。これを見ることができるのが必要とされる全てであると私には思われます。なぜなら私たちがどのように見るかを知るなら、その時全部のことは非常に明確になるからで、そして見るためには哲学も、教師もいりません。誰もあなたにどうやって見るか教える必要はありません。あなたはただ見るだけです。


>私たちの日常生活の中で実際に起きていることを、内面的にまた外面的に観察することです。起きていることを非常に綿密に観察し調べるなら、それは知的な概念に基づいているのが見えるでしょう。−−

 観察は内部も含めていまはかなり良く行われています。で、知的な概念に基づいて行われるのは言葉で伝達しあうということから来るので、それは拒否できないと思います。これから来る局所性と誤解・混乱は乗り越える必要がありますが、これも容易ではない。ただ話し合う人たちが観察を共にしていれば通じ合う事はかなり容易です。

>ところが私たちは生の全体を取り扱わなければならないのです。そして世界で起きていることを見る時、私たちは外部と内部の過程はないことを理解し始めます。ただ一つの単一の過程があるだけであり、それは全体の、全部の動きです。内部の動きはそれ自身を外部の動きとして表現し、外部は内部に再び作用しています。これを見ることができるのが必要とされる全てであると私には思われます。−−

 この事は今や世界的に知られ始めています。社会と個人の心・心理の相互作用は複雑系そのものです。


>  その時あなたは、この全体の光景を見て、それを言葉の上でなく実際に見て、容易に、自発的に、自分自身を変容させることができるでしょうか? それが真の問題です。精神に完全な革命をもたらすことができるでしょうか?


真の問題が何かはっきり話されました。


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