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[26347] Re:[26344] [26342] [26341] 最初のザーネン講話3−2 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/01(Tue) 12:46  

> > > 1961年ザーネンの公開講話 3回目の3
> > >
> >  分離・断片化の内側が自我。分離・断片化があると野心と成功の崇拝は避けられない。よって、分離があるところに葛藤がある。。
> >
> >  なぜ分離・断片化するのだろうか。
> >
> >  分離・断片化しようとする欲望・渇望があるのだろうか。
>
>
> これからクリシュナムルティがどういうかが楽しみですが、問いがあったので今自分で考えてみると、観察者が自分を見る時、それは実体をではなく、作り上げた観念・イメ−ジを見ているのだと思います。見る側も実体でなく、思考者とか経験者とかの観念でできている機構にすぎず、それゆえ、分離しているかのごとき、心理劇を展開できるのでしょう。
>
> 自分自身が自分自身の実態・あるがままのものを感受する・気づく・知覚することだけが、即時の理解、精神の変容につながる過程なのでしょうね。


 自己理解の中に、問いへの答えがあるということですね。。

 他のどこでもない、自己の理解の中に。


[26346] Re:[26345] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/01(Tue) 12:39  

> 教えというのはそれだけで思考がストップしてします。
> よくKの教えというが自問自答力こそが真理へのエンジンであると思う。真理への道は教えではない。
>
> そこで究極の自分への質問とうことになるが、それは「私は誰か?」ということになると思う。これをひたすら自問自答する。何年も年々も、真剣に。
>
> それで得られた自分で出した本当に腑に落ちる答えこそが真理であると思うようになった。教えの中には真理はない。究極の質問の自問自答の中に真理はあると私は思う。

傾聴いたしました。日本語の訳はあなたは誰か?とまるで名前を聞くようになりますが、自分は如何なる存在であるのかを深く問う事ですね。

 「老いて学べば死して朽ちず」恩師が30年ほど前に話してくださったことです。これは教えとも言えますが、先生の思いの伝達なんですね。今老いた身で思い出すとなんだか涙が出そうです。お陰様で学ぶ心は尽きません。
>
>
> 明けましておめでとうございます。

有難うございます。
新年、皆様 元気で生きていきましょう。


[26345] 無題 投稿者:南方 投稿日:2019/01/01(Tue) 08:42  

教えというのはそれだけで思考がストップしてします。
よくKの教えというが自問自答力こそが真理へのエンジンであると思う。真理への道は教えではない。

そこで究極の自分への質問とうことになるが、それは「私は誰か?」ということになると思う。これをひたすら自問自答する。何年も年々も、真剣に。

それで得られた自分で出した本当に腑に落ちる答えこそが真理であると思うようになった。教えの中には真理はない。究極の質問の自問自答の中に真理はあると私は思う。


明けましておめでとうございます。


[26344] Re:[26342] [26341] 最初のザーネン講話3−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/12/31(Mon) 18:28  

> > 1961年ザーネンの公開講話 3回目の3
> >
>  分離・断片化の内側が自我。分離・断片化があると野心と成功の崇拝は避けられない。よって、分離があるところに葛藤がある。。
>
>  なぜ分離・断片化するのだろうか。
>
>  分離・断片化しようとする欲望・渇望があるのだろうか。


これからクリシュナムルティがどういうかが楽しみですが、問いがあったので今自分で考えてみると、観察者が自分を見る時、それは実体をではなく、作り上げた観念・イメ−ジを見ているのだと思います。見る側も実体でなく、思考者とか経験者とかの観念でできている機構にすぎず、それゆえ、分離しているかのごとき、心理劇を展開できるのでしょう。

自分自身が自分自身の実態・あるがままのものを感受する・気づく・知覚することだけが、即時の理解、精神の変容につながる過程なのでしょうね。


[26343] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/12/31(Mon) 17:43  

皆さん、今年もあっという間に大晦日ですね。私は今日近くのスーパーに行き、帰りに本を少し立ち読みして結局買って帰ってきました。マインドという、ちくま文庫の本で、題名に惹かれました。かなり日常の姿に戻りつつあります。

ではよい新年をお迎えください。

葛藤はこれで絶対卒業という意気込みで読んでいますがいかがでしょうか?


[26342] Re:[26341] 最初のザーネン講話3−2 投稿者:宮啓 投稿日:2018/12/31(Mon) 17:32  

> 1961年ザーネンの公開講話 3回目の3
>
>  葛藤は確かに矛盾を意味します。感情の中の、思考の中の、行動の中の矛盾。矛盾は人が何かをしようと望み、しかしその反対をするよう強いられるとき存在します。私たちの大抵に、愛があるところまた嫉妬、憎しみがあります。そしてそれもまた矛盾です。愛着のなかに、その矛盾と葛藤を伴なって悲しみと苦痛があります。私たちの触れるものはなんでも葛藤をもたらし、そしてそれが朝から夜までの私たちの生活であるように私には思われます。そして眠るときでさえも、私たちの夢は毎日の生活を妨害する象徴です。
>
>
> ゴト: 葛藤は確かに矛盾です。理想はもっともですがついていけないとか、愛そうとする中に嫉妬や憎しみが生じます。私たちの触れるものはなんでも葛藤をもたらします。そう見えます。
>
>
>  そこで意識の全体の状態を熟慮するとき、私たちは自己矛盾の葛藤、善良であろう、高尚であろう、これであって あれでないようにしようという際限のない企ての中にあることを見ます。なぜそうなのかなと私は思います。いったいそれは必要なのでしょうか、そしてこの葛藤なしに生きることはできるのでしょうか?
>
>
> ゴト: 善良であろう、高尚であろう、これであって あれでないようにしようという際限のない企ての中にある……まったくそのとおりです。
>
>
>  言ったように、私たちはこれを、観念的にではなく実際に調べようとしています。それは私たちの葛藤の状態に気づいていること、その意味合いを理解すること、それと現実に接触していること―観念、言葉を通じてではなく、現実に接触していることです。それができるでしょうか? ひとは観念を通じて葛藤と接触することができますね。そして現実に私たちは事実それ自体より、葛藤の観念とより多く接触しています。そして問題は心が言葉を捨てて感覚と接触していることができるかどうかです。そして私たちが思考の全体の過程―他の誰かの思考の過程ではなくて私達自身の過程に気づいていないなら、なぜこの葛藤が存在するか発見することができるでしょうか?
>
>
> ゴト: 他の誰かの思考の過程ではなくて私達自身の過程に気づいていないなら、なぜこの葛藤が存在するか発見することができるでしょうか?
>  これは重要なことです。気づいていること、見ている、聴いている、感受性の展開がある。
>
>
>  確かに、際限なく思考を制御しよう、形作ろうとしている思考者を伴なう思考者と思考の間の分離があります。私たちはこのことが起こっていることを知っています。そしてこの分離が存在する限り葛藤があるに違いありません。二つの異なった状態として経験者と経験がある限り葛藤があるに違いありません。そして葛藤は感受性を破壊します。それは情熱、強烈さを破壊します。そして情熱、強烈さなしには、何かの感情、何かの思考、何かの行為のまさに終りまで行くことはできません。
>
>
> ゴト: 矛盾、観察者と観察されるものの分離、思考から来る正邪、善悪といった二元性にマインドが同一化していて、そのことを必然的なものとして受け入れる限り、葛藤は正当化化されるでしょう。情熱は葛藤、つまり苦闘とは違います。葛藤なしに生きるというのはどういう事でしょうか?
>
> (続く)


 分離・断片化の内側が自我。分離・断片化があると野心と成功の崇拝は避けられない。よって、分離があるところに葛藤がある。。

 なぜ分離・断片化するのだろうか。

 分離・断片化しようとする欲望・渇望があるのだろうか。


[26341] 最初のザーネン講話3−3 投稿者:ゴト 投稿日:2018/12/31(Mon) 17:18  

1961年ザーネンの公開講話 3回目の3

 葛藤は確かに矛盾を意味します。感情の中の、思考の中の、行動の中の矛盾。矛盾は人が何かをしようと望み、しかしその反対をするよう強いられるとき存在します。私たちの大抵に、愛があるところまた嫉妬、憎しみがあります。そしてそれもまた矛盾です。愛着のなかに、その矛盾と葛藤を伴なって悲しみと苦痛があります。私たちの触れるものはなんでも葛藤をもたらし、そしてそれが朝から夜までの私たちの生活であるように私には思われます。そして眠るときでさえも、私たちの夢は毎日の生活を妨害する象徴です。


ゴト: 葛藤は確かに矛盾です。理想はもっともですがついていけないとか、愛そうとする中に嫉妬や憎しみが生じます。私たちの触れるものはなんでも葛藤をもたらします。そう見えます。


 そこで意識の全体の状態を熟慮するとき、私たちは自己矛盾の葛藤、善良であろう、高尚であろう、これであって あれでないようにしようという際限のない企ての中にあることを見ます。なぜそうなのかなと私は思います。いったいそれは必要なのでしょうか、そしてこの葛藤なしに生きることはできるのでしょうか?


ゴト: 善良であろう、高尚であろう、これであって あれでないようにしようという際限のない企ての中にある……まったくそのとおりです。


 言ったように、私たちはこれを、観念的にではなく実際に調べようとしています。それは私たちの葛藤の状態に気づいていること、その意味合いを理解すること、それと現実に接触していること―観念、言葉を通じてではなく、現実に接触していることです。それができるでしょうか? ひとは観念を通じて葛藤と接触することができますね。そして現実に私たちは事実それ自体より、葛藤の観念とより多く接触しています。そして問題は心が言葉を捨てて感覚と接触していることができるかどうかです。そして私たちが思考の全体の過程―他の誰かの思考の過程ではなくて私達自身の過程に気づいていないなら、なぜこの葛藤が存在するか発見することができるでしょうか?


ゴト: 他の誰かの思考の過程ではなくて私達自身の過程に気づいていないなら、なぜこの葛藤が存在するか発見することができるでしょうか?
 これは重要なことです。気づいていること、見ている、聴いている、感受性の展開がある。


 確かに、際限なく思考を制御しよう、形作ろうとしている思考者を伴なう思考者と思考の間の分離があります。私たちはこのことが起こっていることを知っています。そしてこの分離が存在する限り葛藤があるに違いありません。二つの異なった状態として経験者と経験がある限り葛藤があるに違いありません。そして葛藤は感受性を破壊します。それは情熱、強烈さを破壊します。そして情熱、強烈さなしには、何かの感情、何かの思考、何かの行為のまさに終りまで行くことはできません。


ゴト: 矛盾、観察者と観察されるものの分離、思考から来る正邪、善悪といった二元性にマインドが同一化していて、そのことを必然的なものとして受け入れる限り、葛藤は正当化化されるでしょう。情熱は葛藤、つまり苦闘とは違います。葛藤なしに生きるというのはどういう事でしょうか?

(続く)


[26340] Re:[26331] 最初のザーネン講話3−1 投稿者:南方 投稿日:2018/12/31(Mon) 15:32  

> 1961年ザーネンの公開講話 3回目の1
>
> これらの討論の始めに言ったように、私は真面目であることが非常に重要であると思います。ここで私たちは観念を話しているのではありません。そして不幸にも私たちの多くは観念と親密であり、「そうであるもの」とではないように思われます。「そうであるもの」、事実、自分の存在の実際の状態を追跡することが、私には非常に重要に思われます。実際のことをまさに終わりまで追跡し、物事の本質を発見することが、結局、真面目さです。私たちは討論し、議論し、観念と接触していることを好みます。しかし、私には観念はどこへも導かず、非常に表面的であり、ただ象徴であるだけのように思われます。象徴に執着することは非常に浅薄な生存に通じます。観念をわきにおき、あるいは通り抜け、そうであるものに、私達自身の心、私達自身のハートの実際の状態に接触していることはきわめて骨の折れる仕事です。そして私にとっては、そのことに非常に深く、完全に、徹底的に入り込むことが真面目さを構成するのです。まさに終わりまで行く過程を通して本質の発見があり、その結果人は全体性を経験します。そしてそのとき、私たちの問題はまったく違った意味を持ちます。
>
>
> ゴト: 存在の実際の状態を追跡すること。そうであるものに、私達自身の心、私達自身のハートの実際の状態に接触していること。そのことに非常に深く、完全に、徹底的に入り込むことが真面目さを構成する。
>
> (続く) やっぱり読み始めました。



長く一緒にいると、それが家族でも恋人でもいいですが、この人はこういう人だという観念が出来上がる。それに基づいて人間関係が形成されるので、次第に私の場合はパートナーを尊敬することすらできなくなってしまっている状態である。

この現状を打開するためにはまず、今までその人に形成してきた観念を破壊することが求められる。振り返ってみると、膨大な観念が形成されており、私は何百回と判断解釈を繰り返してきたのだということが分かる。

愛ある関係でいようと思うと、パートナーというのは非常にありがたい存在である。己に愛が欠けていることを気づかせて頂けるという意味において。




[26339] Re:[26327] [26326] 判断 投稿者:無明 投稿日:2018/12/31(Mon) 11:49  

> > 全体的に見ることができる、できない、自分が、誰それが、という判断はいたずらにヒエラルキーをつくるだけで無意味であろう。
> > 他人の心を変えようとすることにつながる恐れもある。「人のことより自分のこと」という訓えもある。
>
>
>  「人のこと」というよりは、共に探求しているということです。渡辺さんであれば、分かるかもしれない。理解できるかもしれない。その可能性は十分にある。と感じています。

人のことはどうでもいい!
まず「自分のこと」だろうとゴトさんが言ってるだろう。
何で個人名を出す。渡辺氏の名を出すな。

>
>  また、そのやりとりから多くを学ぶことができるだろうとも思われます。
>
>  クリシュナムルティ理解のどこで躓きやすいのか・・、なぜ普及が遅いのか・・、なぜ、多くがクリシュナムルティから離れてゆくのか・・、等々の理解にも繋がるように思えます。

そんなことはどうでいい。
まず自分の理解だ。自分が理解するかだ。
>
>  それゆえに、その通信の場であった、渡辺さんの掲示板が、アポロンさんやタグさんの心ない妨害によって閉鎖されたことは、今思えば、返す返す残念です。。

妨害の遠因を作ったのは、オタクだろう。ここにKB会のユーチューブを掲げなければ、アポロン氏は、KB会を知るよしもなかった。
>
>
> > 独り立つ人、精神が、もし問うか、問われる場合、肯定的にでなく否定的にはっきり言えるだろうか。このエネルギー、確固さがあるか否かが、独り立つことの精髄に思われる。
>
>
>  ゴトさんには、そのエネルギーがあるのですね。

人のことはいい。
ホント悪い癖だな、
>
>  肯定的にではなく、否定的に言うとは、どのような意味でしょうか?
>
>  よろしくお願いします。

何それ。Kを読んでいれば、人に聞くよしもない。
これではKの否定的接近という意味もわからぬ。
そんな人間が、渡辺氏に対して
「全体的に見ることが起こっていない」とはよく言えたものだ。


[26338] Re:[26325] 全体的に見ることの難しさ 投稿者:無明 投稿日:2018/12/31(Mon) 11:33  

>  12月KB会を見て思ったことは、全体的に見ることの難しさでした。。

おたくが「全体的に見ること」についてわからないのでは。
>
>  渡辺さんは、内面を見るときに、例えば、怒りを見るときに、全体的に見ることが起こっていないように思われます。。

何でおたくは人のことがわかるのですか?自分がわからないのに。

>
>  これが、渡辺さんにおいてクリシュナムルティが述べたことが起こらない理由のように思われます。。
>
>  渡辺さんと連絡が取れることがあれば、是非とも伝えたいのですが、今は、その術がありません。。

あなたは何でいつも渡辺さんのことが気になるのですか?
その渡辺氏に対してクリシュナムルティが述べたことが起こらないというのはどういう意味ですか。
そのことを本人に直接会って伝えたいのですか。
一笑されますよ。

それよりKB会に直接参加されたらいかがですが。外野でつべこべ言わずに。



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