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[24947] Re:[24945] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/22(Mon) 16:36  

> 新しい芽氏のホームページの過去ログがみたいのですがなんとかならないでしょうか

残念ながら私はログを保存していないので、お役に立てません。


[24946] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/01/22(Mon) 14:36  

すべての思考は他者と関係している。あなたが思考しなければならないのは、自他のく別があるからだ。愛とは、自他のく別を越えた太洋的共感である。自分とか自分のものという意識がないとき、あなたは全体だ。全体であるあなたは、部分と自己を同一視することはない。孤立した統一だ。宇宙でたった一人だ。めまいがするだろう。どこにも捕まれるところはない。このトータルな闇がリアリティだ。アナタは本来、なにも持つてないし、そもそもこ別のあなたなどないのだ。海であるあなたは波が自分だと思っていたのだ!それが部分であるにもすぎず。全体とあなたという間違った対立を作り出してくれいたのだ。


[24945] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/01/22(Mon) 14:04  

新しい芽氏のホームページの過去ログがみたいのですがなんとかならないでしょうか


[24944] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/01/22(Mon) 13:46  

不純さから悲しみが起こる。じゅんすいさから安らぎがある。


[24943] Re:[24942] [24907] 消去の過程 その8 投稿者:宮啓 投稿日:2018/01/21(Sun) 20:45  

> >  『白い炎』p115 より引用 (コスモス・ライブラリー 発行 大野純一 編訳)
> >
> >
> >  指摘させていただきたいことは、−−で、これは以前すでに言いましたが、−−私が言っていることは、すでに存在している無数の理論、哲学、思想体系に追加されるべき新しい理論ではありません。それは、そういったすべてとは無関係なのです。それは、私がみなしているものとしての<生>−−その全体−−なのです。で、私はそれを生きているので、それはすべての生の精髄であり、すべての生の極致であり、すべての生の開花だと申し上げているのです。私は、私の生、ひいては万人の生の実現について話しているのです。ですから、私が言っていることを考察されるべき知的理論として、あるいは享受されるべき感情の動きとして扱わないでください。
> >  私は、自分にとって真実である何か、自分が生きている何かについて話しているのです。が、そのすべてはあなた方には異質です。なぜなら、依然として進化するための理論、信念、方式に耽っているからです。私が言っていることは、本質的、決定的に、単に少数にとってでなく、万人にとって完璧にされねばならない生、あの日常的生に関わっているのです。
>
>  話していることは日常の生に関わることであると。(ゴト)
>
> >  私が<生>という時、私はそれに特別な意味を込めています。すなわち、あなた方や私のそれとしての部分としての生ではなく、あなた方や私のそれを含むあの全体としての生−−すべてのものの種子である生、動きかつ不動なる生、つかの間のものでありかつ永遠なるものである生−−を意味しているのです。それはあらゆるものなのです。あらゆるものの種子であり、人間と神を創造したあの生のことです。神とは単に、気高く自由になった人間のことです。そしてその神である人間は、永遠なるものとしての生と和合しているのです。自分の「私」、自分の自己を永遠なるものと和合させること−−それが人間に課せられた役割です。あなた方がこの和合を確立するのは、瞑想や哲学によってではなく、苦闘、制御、そしてさらなる苦闘によってであり、で、それをあなた方はお望みではない。あなた方は苦闘を望まず、安易な、滑らかな道を望んでおられる。この調和は、われわれの各々の中にあるつかの間のものと、やはりわれわれの各々の中にある不変不易なるものとの間に確立されねばならないのです。
>
>  永遠の私に向かって前進する道は苦闘、制御、また苦闘によってであり、皆さんは滑らかな道を望んでいる。この調和が、我々の中のつかの間のものと普遍不易なものとの間に確立されねばならないと。ここはもう少し読まないとよくわかりません。(ゴト)
>
> >  <生>は人間を創造し、そして彼を完全に独立した存在、腐敗しやすく、制限された存在、環境の奴隷とします。彼は独立しており、自由なので、自分の判断で選ぶことはできます。が、真偽を見分ける力がなく、本質的なものを知らないので、彼は自分のまわりの取るに足りないものを選んでしまうのです。
>
>  世界の中に今ある私は皆そのようにあるでしょうね。そうなんでしょうね。(ゴト)
>
> >  もしあなた方が自分自身を検証してみれば、これがあなた方の各々に言えることがおわかりになるでしょう。もしあなた方が自分自身の内面を覗き込んでみれば、変わりやすい「私」と不変の「私」があることに気づくでしょう。これらを「エゴ」と「モナド」[訳注:いわゆる高次の自己、ないし真の自己のこと]として翻訳して、安心したりしないようにしてください。あなた方は、私が言っていることについて知らないのと同様に、それらについて何も知らないのです。もしあなた方が自分自身の内面を見つめてみれば、変わりやすい、けっして静かにしていない、絶えず変わり続けている自己がいることがわかるでしょう。違いますか?それと同時に、一定不変の、静かな、確固不動の自己がいるのです。その自己についてあなた方は何もご存じないのです。
>
>  はい。(ゴト)
>
> >  いずれにせよそれら二つの自己があり、ゆえに私たち各人の関心は変わりやすい「私」、変わりやすい自己を、不変のものに変える、というよりはむしろ変容させねばならないのです。なぜなら、あなた方は不変のものを変わりやすいものに引き下げ、永遠なるものをつかの間のものに引き込むことはできないのであり、むしろ浄化によって、奮闘、否定、犠牲、たゆみない苦闘によって、変わりやすいものを変容させ、それを不変なるものに引き上げねばならないからです。永遠なるものをつかの間のものに引き込み、永遠なる自己を引き下ろして、変わりやすい、前進的な自己と和合させることはできないので、あなた方はその前進的な変わりやすい自己を永遠なる自己に変じさせねばならないのです。ところが、誰もがしようとしていることは、永遠なるものをつかの間のものに引き込むことです。あなた方はすべての苦闘、苦痛、悲しみを避けることを欲し、変容をもたらすかわりに回避することを望んでいるので、慰めてくれるもの、哲学、神々、寺院、教会、宗教といったすべてに庇護を求めるのです。あなた方は避け、忘れ、そして永遠なるものに飛び込むことを望むのです。が、それは不可能です!腐敗しやすいものがあるところには、不壊なるものは存在できません。不完全があるところでは、完全が支配することは不可能です。
>
>  何んとなく言っていることがわかるような気がしてきました。(ゴト)
>
> >  ですからあなた方は、あの前進的な、変わりやすい、絶えず変化している「私」を、腐敗しがたい、不変不易の、すべてを維持し、すべてを保持している永遠の「私」−−存在でも非存在でもなく、知恵でも無知でもない「私」−−に変えねばならないのです。
> >  真理は、単なる達成の中にではなく、変容の過程の中にあるのです。最終的到達の中にではなく、永遠なるものをめざしてあなた方が前進している途中に真理があるのです。最終的到達は、連続的前進過程の自然な結果なのです。前進的なものを不変なるもの、永遠なるものに変容させる過程の最中に、あの真理、あの<生>、あの解放、あの幸福を探さなければならないのです。それゆえあなた方は前進的である「私」に関心を向けねばならないのであり、そしてその面倒を見、それを純粋で、強く、剛胆にし、すべての錯覚を払い去らせてそれ自体の内で完全にさせること−−まさにその過程に永遠なるものとの調和があるのです。
>
>  前進する自分の過程の中に真理と調和があると聞きました。(ゴト)
> >
> >  − − − 以上引用 − − −
> >
> >  長々と引用させていただき、お許しください。
> >
> >  そのような厳しい「消去の過程」をも厭わない、「見る」。
> >  見るがゆえの行為としての「消去の過程」。
> >
> >
> >  >これから抜け出るのが難しいようです。−−、その厳しさゆえに難しいのではないでしょうか‥。
>
> どうも引用大変ありがとうございました。今までに聞いたことがない内容ががありました。
>
> 一通り読んだわけですが、これから全般についていろいろ話し合っていきたいと思っております。進路が骨格的に示されたような感じがして、そこで力が入ると従来の修業的パターンに入りそうで、どこに違いがあるかも調べてい事の一つです。


 よろしくお願いします。


> それとこの(その8)に示された部分は骨格が伝統的パターンと酷似している気がしませんか?そこも検討したいところです。


 はい。伝統的パターンとして聞こえます。

 言葉で表せないことを、言葉を用いて述べているので、クリシュナムルティを読み込んで初めて、誤解なく意味を受け取れるように感じます。

 戦前のクリシュナムルティは、伝統的な表現を用いて(たとえば「道」とか・・)、伝統の中に浸かっている人々に発信したように思います。

 これに対して戦後のクリシュナムルティは、伝統的な文化から離れた文言の使い方をしています。終戦はクリシュナムルティがちょうど還暦のときで、聴衆もクリシュナムルティが述べることのニュアンスに慣れてきた頃を見計らって、伝統的文体からクリシュナムルティ文体へと陳述の仕方が変わったのかもしれません。



[24942] Re:[24907] 消去の過程 その8 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/21(Sun) 19:51  

>  『白い炎』p115 より引用 (コスモス・ライブラリー 発行 大野純一 編訳)
>
>
>  指摘させていただきたいことは、−−で、これは以前すでに言いましたが、−−私が言っていることは、すでに存在している無数の理論、哲学、思想体系に追加されるべき新しい理論ではありません。それは、そういったすべてとは無関係なのです。それは、私がみなしているものとしての<生>−−その全体−−なのです。で、私はそれを生きているので、それはすべての生の精髄であり、すべての生の極致であり、すべての生の開花だと申し上げているのです。私は、私の生、ひいては万人の生の実現について話しているのです。ですから、私が言っていることを考察されるべき知的理論として、あるいは享受されるべき感情の動きとして扱わないでください。
>  私は、自分にとって真実である何か、自分が生きている何かについて話しているのです。が、そのすべてはあなた方には異質です。なぜなら、依然として進化するための理論、信念、方式に耽っているからです。私が言っていることは、本質的、決定的に、単に少数にとってでなく、万人にとって完璧にされねばならない生、あの日常的生に関わっているのです。

 話していることは日常の生に関わることであると。(ゴト)

>  私が<生>という時、私はそれに特別な意味を込めています。すなわち、あなた方や私のそれとしての部分としての生ではなく、あなた方や私のそれを含むあの全体としての生−−すべてのものの種子である生、動きかつ不動なる生、つかの間のものでありかつ永遠なるものである生−−を意味しているのです。それはあらゆるものなのです。あらゆるものの種子であり、人間と神を創造したあの生のことです。神とは単に、気高く自由になった人間のことです。そしてその神である人間は、永遠なるものとしての生と和合しているのです。自分の「私」、自分の自己を永遠なるものと和合させること−−それが人間に課せられた役割です。あなた方がこの和合を確立するのは、瞑想や哲学によってではなく、苦闘、制御、そしてさらなる苦闘によってであり、で、それをあなた方はお望みではない。あなた方は苦闘を望まず、安易な、滑らかな道を望んでおられる。この調和は、われわれの各々の中にあるつかの間のものと、やはりわれわれの各々の中にある不変不易なるものとの間に確立されねばならないのです。

 永遠の私に向かって前進する道は苦闘、制御、また苦闘によってであり、皆さんは滑らかな道を望んでいる。この調和が、我々の中のつかの間のものと普遍不易なものとの間に確立されねばならないと。ここはもう少し読まないとよくわかりません。(ゴト)

>  <生>は人間を創造し、そして彼を完全に独立した存在、腐敗しやすく、制限された存在、環境の奴隷とします。彼は独立しており、自由なので、自分の判断で選ぶことはできます。が、真偽を見分ける力がなく、本質的なものを知らないので、彼は自分のまわりの取るに足りないものを選んでしまうのです。

 世界の中に今ある私は皆そのようにあるでしょうね。そうなんでしょうね。(ゴト)

>  もしあなた方が自分自身を検証してみれば、これがあなた方の各々に言えることがおわかりになるでしょう。もしあなた方が自分自身の内面を覗き込んでみれば、変わりやすい「私」と不変の「私」があることに気づくでしょう。これらを「エゴ」と「モナド」[訳注:いわゆる高次の自己、ないし真の自己のこと]として翻訳して、安心したりしないようにしてください。あなた方は、私が言っていることについて知らないのと同様に、それらについて何も知らないのです。もしあなた方が自分自身の内面を見つめてみれば、変わりやすい、けっして静かにしていない、絶えず変わり続けている自己がいることがわかるでしょう。違いますか?それと同時に、一定不変の、静かな、確固不動の自己がいるのです。その自己についてあなた方は何もご存じないのです。

 はい。(ゴト)

>  いずれにせよそれら二つの自己があり、ゆえに私たち各人の関心は変わりやすい「私」、変わりやすい自己を、不変のものに変える、というよりはむしろ変容させねばならないのです。なぜなら、あなた方は不変のものを変わりやすいものに引き下げ、永遠なるものをつかの間のものに引き込むことはできないのであり、むしろ浄化によって、奮闘、否定、犠牲、たゆみない苦闘によって、変わりやすいものを変容させ、それを不変なるものに引き上げねばならないからです。永遠なるものをつかの間のものに引き込み、永遠なる自己を引き下ろして、変わりやすい、前進的な自己と和合させることはできないので、あなた方はその前進的な変わりやすい自己を永遠なる自己に変じさせねばならないのです。ところが、誰もがしようとしていることは、永遠なるものをつかの間のものに引き込むことです。あなた方はすべての苦闘、苦痛、悲しみを避けることを欲し、変容をもたらすかわりに回避することを望んでいるので、慰めてくれるもの、哲学、神々、寺院、教会、宗教といったすべてに庇護を求めるのです。あなた方は避け、忘れ、そして永遠なるものに飛び込むことを望むのです。が、それは不可能です!腐敗しやすいものがあるところには、不壊なるものは存在できません。不完全があるところでは、完全が支配することは不可能です。

 何んとなく言っていることがわかるような気がしてきました。(ゴト)

>  ですからあなた方は、あの前進的な、変わりやすい、絶えず変化している「私」を、腐敗しがたい、不変不易の、すべてを維持し、すべてを保持している永遠の「私」−−存在でも非存在でもなく、知恵でも無知でもない「私」−−に変えねばならないのです。
>  真理は、単なる達成の中にではなく、変容の過程の中にあるのです。最終的到達の中にではなく、永遠なるものをめざしてあなた方が前進している途中に真理があるのです。最終的到達は、連続的前進過程の自然な結果なのです。前進的なものを不変なるもの、永遠なるものに変容させる過程の最中に、あの真理、あの<生>、あの解放、あの幸福を探さなければならないのです。それゆえあなた方は前進的である「私」に関心を向けねばならないのであり、そしてその面倒を見、それを純粋で、強く、剛胆にし、すべての錯覚を払い去らせてそれ自体の内で完全にさせること−−まさにその過程に永遠なるものとの調和があるのです。

 前進する自分の過程の中に真理と調和があると聞きました。(ゴト)
>
>  − − − 以上引用 − − −
>
>  長々と引用させていただき、お許しください。
>
>  そのような厳しい「消去の過程」をも厭わない、「見る」。
>  見るがゆえの行為としての「消去の過程」。
>
>
>  >これから抜け出るのが難しいようです。−−、その厳しさゆえに難しいのではないでしょうか‥。

どうも引用大変ありがとうございました。今までに聞いたことがない内容ががありました。

一通り読んだわけですが、これから全般についていろいろ話し合っていきたいと思っております。進路が骨格的に示されたような感じがして、そこで力が入ると従来の修業的パターンに入りそうで、どこに違いがあるかも調べてい事の一つです。
それとこの(その8)に示された部分は骨格が伝統的パターンと酷似している気がしませんか?そこも検討したいところです。


[24941] Re:[24940] [24939] [24938] [24937] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/21(Sun) 18:01  

>  私が今感じている分かれ目は、「快楽感覚」に対して、これが非本質的な事柄であることが見えるか・・。ということではないでしょうか・・。
>
>  現代の娯楽産業は華々しい。まさに先端の科学技術の応用が娯楽の先鋭化と安価に向けられている・・。
>  一昔前までは定年退職が近づいてくるころ、退職後の趣味や生活で、何をやろうか・・、やることがないので、今から手習いでも始めようか・・、趣味でも見つけようか・・と将来に不安を抱く50代も少なくなかったように見受けられる。
>  しかし、今はエンターテインメントの進化と安価によって、暇をもてあそぶことを心配しなくてよいようだ・・。
>
>  その「快楽感覚」に対して、頭で「それはとるに足りないことだ・・、しかし、誰にも迷惑をかけていないので、それをやり続けてもよいではないか・・」と、「快楽感覚」を理解してしまう。
>
>  「快楽感覚」は、その他にも、安心・安全の確保による快楽感覚等々、種々多様です。
>
>  これが世間一般では、肯定され、良いように評価され、奨励されてもいる。
>
>  この「快楽感覚」への対応の仕方によって、分かれ目が生じてくるのではないでしょうか・・。


快楽感覚は私にとっては明らかに魅惑です。記憶があるからこそ惹かれるのです。刺激興奮ですね。そして始めと終わりがあります。そして若さ、体力、心的エネルギーも使うのかな。それあってのことで、老化すると疲労で後が大変です。しかし若い時は心身の能力の訓練発達に寄与するので、それなりの効果があります。しかし、のめりこむときがあります。それもなかなか大変です。

そのうち、それが非本質的なものだったかなという理解が起こるでしょう。知識から、つまり考えから否定してしまう事が一番の逆コースでしょうか。


[24940] Re:[24939] [24938] [24937] 無題 投稿者:宮啓 投稿日:2018/01/21(Sun) 08:29  

> > > 非本質的なことの消去はどうやって実現するのだろうか。非本質的なことが全く明らかに見えたとき笑って、終わるのだろうか?
> > >
> > > 一度見た前進的な私がその理解をときたま忘れているそきのころ初期のころ、永遠の私が気づきの暗示をほのめかしてくれるのだろうか?
> > >
> > > 闘うとはどういう事だろうか?非難や逃避や錯覚などに走り、目をそらしていないかと見ていることだろうか。
> >
> >
> >  「解放の習慣」。これが確立されれば、「到達」、すなわち「根源的な変容」に無頓着でいてよいと思います。
>
> はい、そうでしょうね。
>
> >  「解放の習慣」にて、小さな事柄においても、それが解放されるときに「完全」「完成」が含まれており、この「完全」「完成」は、根源的な変容の「完全」「完成」と同等である旨を、クリシュナムルティは述べていますね([24927] 「解放の習慣」参照)。
>
> つまり、小さな解放であれ、完全でないと完全な解放そのものが起こらないでしょう。
>
> >  私たち一般ピープルが求めるのは、「根源的な変容」よりはむしろ「解放の習慣」ということではないでしょうか・・。これなら見通しが持てるところの・・。
> >
> >  そして、それが「最初で最後の自由」かもしれないのです。。
>
> 見通しはつかないでしょうが、非本質的なことのとりこになっていたという真実を見ることは本質的なことを見たわけで、解放という事の本質の理解が始まったわけですね。


 クリシュナムルティを読みこんでいると、クリシュナムルティならこれは非本質的な事柄と言うだろうと、頭で類推できます。
 そのようにして、頭によって非本質的なことのとりこになっていたという真実を類推することは比較的容易であるが、直接知覚することは難しい・・。断崖を見るように、毒蛇を見るように見る・・。これは私にとっては容易なことではない。
 そこで「生」がやってきて挑戦をもたらす・・。それを見せるために・・。



> 解放の習慣に入るという事は、苦しみが求める気持ちへ導くのだと思うのですが、恨みや憎しみを抱いたり、かえって逸れてしまう場合もあります。そこの分かれ目はどういう事にあるのでしょうか?生計を立てることが決して容易ではないので、解放とか自由に目が向かないのでしょうか、自由をはき違えることもありそうです。
>
> そんなふうに考えもしたりしています。


 私が今感じている分かれ目は、「快楽感覚」に対して、これが非本質的な事柄であることが見えるか・・。ということではないでしょうか・・。

 現代の娯楽産業は華々しい。まさに先端の科学技術の応用が娯楽の先鋭化と安価に向けられている・・。
 一昔前までは定年退職が近づいてくるころ、退職後の趣味や生活で、何をやろうか・・、やることがないので、今から手習いでも始めようか・・、趣味でも見つけようか・・と将来に不安を抱く50代も少なくなかったように見受けられる。
 しかし、今はエンターテインメントの進化と安価によって、暇をもてあそぶことを心配しなくてよいようだ・・。

 その「快楽感覚」に対して、頭で「それはとるに足りないことだ・・、しかし、誰にも迷惑をかけていないので、それをやり続けてもよいではないか・・」と、「快楽感覚」を理解してしまう。

 「快楽感覚」は、その他にも、安心・安全の確保による快楽感覚等々、種々多様です。

 これが世間一般では、肯定され、良いように評価され、奨励されてもいる。

 この「快楽感覚」への対応の仕方によって、分かれ目が生じてくるのではないでしょうか・・。


[24939] Re:[24938] [24937] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/20(Sat) 21:54  

> > 非本質的なことの消去はどうやって実現するのだろうか。非本質的なことが全く明らかに見えたとき笑って、終わるのだろうか?
> >
> > 一度見た前進的な私がその理解をときたま忘れているそきのころ初期のころ、永遠の私が気づきの暗示をほのめかしてくれるのだろうか?
> >
> > 闘うとはどういう事だろうか?非難や逃避や錯覚などに走り、目をそらしていないかと見ていることだろうか。
>
>
>  「解放の習慣」。これが確立されれば、「到達」、すなわち「根源的な変容」に無頓着でいてよいと思います。

はい、そうでしょうね。

>  「解放の習慣」にて、小さな事柄においても、それが解放されるときに「完全」「完成」が含まれており、この「完全」「完成」は、根源的な変容の「完全」「完成」と同等である旨を、クリシュナムルティは述べていますね([24927] 「解放の習慣」参照)。

つまり、小さな解放であれ、完全でないと完全な解放そのものが起こらないでしょう。

>  私たち一般ピープルが求めるのは、「根源的な変容」よりはむしろ「解放の習慣」ということではないでしょうか・・。これなら見通しが持てるところの・・。
>
>  そして、それが「最初で最後の自由」かもしれないのです。。

見通しはつかないでしょうが、非本質的なことのとりこになっていたという真実を見ることは本質的なことを見たわけで、解放という事の本質の理解が始まったわけですね。

解放の習慣に入るという事は、苦しみが求める気持ちへ導くのだと思うのですが、恨みや憎しみを抱いたり、かえって逸れてしまう場合もあります。そこの分かれ目はどういう事にあるのでしょうか?生計を立てることが決して容易ではないので、解放とか自由に目が向かないのでしょうか、自由をはき違えることもありそうです。

そんなふうに考えもしたりしています。


[24938] Re:[24937] 無題 投稿者:宮啓 投稿日:2018/01/20(Sat) 10:35  

> 非本質的なことの消去はどうやって実現するのだろうか。非本質的なことが全く明らかに見えたとき笑って、終わるのだろうか?
>
> 一度見た前進的な私がその理解をときたま忘れているそきのころ初期のころ、永遠の私が気づきの暗示をほのめかしてくれるのだろうか?
>
> 闘うとはどういう事だろうか?非難や逃避や錯覚などに走り、目をそらしていないかと見ていることだろうか。


 「解放の習慣」。これが確立されれば、「到達」、すなわち「根源的な変容」に無頓着でいてよいと思います。

 「解放の習慣」にて、小さな事柄においても、それが解放されるときに「完全」「完成」が含まれており、この「完全」「完成」は、根源的な変容の「完全」「完成」と同等である旨を、クリシュナムルティは述べていますね([24927] 「解放の習慣」参照)。

 私たち一般ピープルが求めるのは、「根源的な変容」よりはむしろ「解放の習慣」ということではないでしょうか・・。これなら見通しが持てるところの・・。

 そして、それが「最初で最後の自由」かもしれないのです。。


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