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[25671] 常住にあらず 投稿者:無明 投稿日:2018/07/18(Wed) 15:05  

この世は常住されたものはなく常に変化している、というのは釈尊の言葉だが、人間の思考も例外なく常に変化している。
つまり内外とも常に現象あるものはすべてに変化しているということだ。この過ぎ去った思考に、いつまでもしがみついてると「迷い」があらわれる。これが執着。思考を手放すというのが仏教の基本。その方法として「勤行」がある。その変化をヘルマンヘッセは「川の流れに」に例えた。いわば時間は実在しないことをいいあてている。
周囲とは現れては消えていくものであって固定されたものでない。
「存在」なくして「顕現」あり。
「ある」とか、「ない」とかではなく、顕れるものである。

よくある質問

神とはどんな姿をしているものでしょうか?

宇宙意識はどこにあるのでしょうか?

という質問がよく出される。
注意するなら、この質問者の心中には、神とは何らかの形態をもっているという先入観がかくされている。
また後者では、存在と実在の意味が混同されている。









[25670] Re:[25667] [25666] [25663] [25661] [25654] [25653] 既知からの自由 5−1 投稿者:無明 投稿日:2018/07/18(Wed) 14:33  

> > > ところで好奇心というのは快楽の内に入るのだろうか?

寓問です。
人間、好奇心というものがなければ、現在のような文明は築けなかったのではないでしょうか。
「宇宙は、はたしてどうなっているのか」の追求が科学を発達させました。
 好奇心というあきなく探求心。現在もはてしなく続く。この宇宙の構造はどうなっているか。
 この間のセミナー「宇宙は五次元である」という表題には驚きました。現在物理学はここまで進んでいる。
 人間の快楽とは別の話。
 人の生殖行為は快楽の代表格ですが、なんで好奇心と関係あるのでしょうか?
   
 好奇心を抱いて吉原にいったことがあります。あなたのいうのはそういうことですか。




> わかればそれをまた持ちたいなど絶対思わないから。


> >
> >


> 奇なるもの、珍しいもの、不思議なるものに対する好奇心というのは動機がない場合が多いのではないかと思います。つまり生計の資には関係ないというか、場合によっては変人扱いされるときもありそうです。

 若い時には、UFOとか超常現象に好奇心興味を抱いていました。いわば地球外生命。異星人。
 周りから変人扱いされました。
 今でもアカデニズムのありきたりの学問には興味ありません。

 人間と恐竜は共存してました。世界各地に証拠がある。
 ネアンデルタール人からクロマニヨンに移行するとき、地球外生命から品種改良された。
 聖書のノアの箱舟は実話。4000年前に大洪水が起き、大陸が海に沈んだ。洪水の正体は空を覆っていた氷の膜。隕石が突入して崩壊。
 地球外生命は有史以来やってきている。世界各地に将校が散在する。
 などなど。



>
> もう一つ、その時、見つめる、見守る(watch)という態度があり、これはKの講話にしょっちゅう出てくる例の言葉です。好奇心とは未知のものに出会った時の態度に近い、あるいはそのものではないかと思います。愛があるのかもしれません。

子供は好奇心そのもの。見るもの、聞くもの新鮮。
母親は子供のやることに、ああだこうだいわないで黙って子供を行動を見つめている。慈愛の目をもって。
何人子供がいようとも母親から注がれる愛は平等である。
一人への愛イコール千人への愛。
>


[25669] Re:[25668] [25659] [25656] リアルな実際 投稿者:無明 投稿日:2018/07/18(Wed) 13:03  


> > > 人間というのは、特別なこと以外は、一瞬一瞬想起し続けています。

特別なことというのは、何かに関心興味をもったとき。
まず何かなあと、じっと見つめる行為をする。
この行為は日常、よく出てきます。

ですから人間というのは四六時中、想念が出ているということではない。
暇な時、時間を持て余してるとき。
忙しく働いているときは、余分な思考はない。
> >
> > それを見ている。すると想念の出る時間間隔がだんだん長くなって、ついに終わると思いますが違うでしょうか?

私の場合、内面を観るというとき、思考と感情の蜜月関係は解消し、普段の平静な日常に戻る。
ようするに感情に思考の餌がなければ、おのずと萎んでいく。
思考が誘導して感情を増幅させる。
おかしいから笑う。笑うからおかしいのではない。

Kのキーポイントは感情が動く内容のときに内面を観る。
必づずしも、24時間観る必要はない。
各自のスタンスの違い。
イエスと飯尾氏は、こちらに近い。
イエス
「自分の想念に対し寝ずの番人にせよ。」
飯尾氏
常に問う。自分の思考さえ疑う。この人は「見る」「気づき」という言葉は使わない。誤弊があるので。
この人たちは達人。私たちは凡人であり、思考が動く内容
のときだけでいいのではないでしょうか。私の個人的見解。
Kは、他の本では常に観るいいことを言っている個所もある。

> >
> > > 特別なこととは、何か関心を向けて見つめる時です。何だろなと。
> > > 又、何かを好きになってる時も思考は生じません。秋田犬の子犬を見てる時。その子犬を見てる時、穏やかな気持ちになる。

「かわいい気持ち」「愛しい気持ち」。といった感情が生じます。


> >
> > 思考が生じているのを命名なしに見ている。実験してみてください。
> >
  矛盾してますね。
  思考が生じているというのは、命名ではないですか。
   
  そうではなく、子犬をかかわいと感じている「自分」を観るている。
   
  普通の人は、子犬をかかわいと感じているだけであって、そのときの「自分」は観ていない。

> > > 私とあなたは同じ人間なので知覚に違いはないはずですが。

 今日は暑いです。あなたも暑いですか。
> >
> > そう思います。考えで出来ないと言わずに実際にやってみてください。

知覚は人間共通です。違うのは、考え方、感じ方がおのおの違います。

 誰でも信号は赤い。青い。黄色い。これが共通の意識。
また誰でも同じに「見える」。

  
 認識というのは、「見るもの」と「見られるもの」があってはじめて成立する。
 片方だけでは成立しない。たとえば犬と人間。
 自分と対象(この場合「犬」)があって成立。
 「犬そのもの」と、「犬を見ている自分」が同時に意識される。そこで認識が成立。
  ですから、もし自分が地上にいなければ、宇宙はないのと同じ。なぜなら認識するものがないから。

 最後は余談でした。すいません。
 恐怖の話に戻ります。



[25668] Re:[25659] [25656] リアルな実際 投稿者:無明 投稿日:2018/07/18(Wed) 11:55  


> > <今あるものが今の現場でわかる、それがリアルな実際。
> >
> > 今あるものって何ですか?
> > クリシュナムルティを読んでいるということが前提で、「あるもの」という言葉を使っているのでしょうか?
>
> 今私はパソコンの前に座って返信を考えながら書いています。それが今あるもの 

それは今のあなたのおかれた状況でしょう。今何やってるかというという。


>酒を飲んだりはしていません。それは今ないものです。単純です。言葉通りです。


あなたの説明は飯尾氏の受け売りですか。
「ある」とか「ない」とか、というのは「モノ」を指し示す言葉でしょう。
酒を飲まないことが「ないもの」って何ですか?
すると酒を飲むと「あるもの」?


>
> > 一般の人には、わからないと思います。「あるもの」って。

はい。さっき説明した。
机の上にコップが「ある」「ない」。世間ではそのように使います。
> >   
> > <それが思考の目を介してでなく見えていることが必要。
> >
> > どういう意味ですか?現場ではリアルタイムに反応してるのですよ。
>
> 思考が作り出したイメージを見ているのでなければ、現実を見ていると思います。

誰だって現実をみています。リアルタイムの今を。
>
> > 反応というのは、瞬時瞬時想起してることです。
>
> はい、それは確かに今あるものです。

あるものではなく、起きてくるものです。進行形として。
>
> > <つまり常識や自分のつくっていたイメージなど一切なしに見えている。そこに新しい知覚、気づきがある。
> >
> > ですから、現場では、反応がリアルタイムに起きているにですから、思考なしに一切見えているのというのはありえないでしょう。
> > 違いますか。
>
> 馬鹿野郎と怒鳴ったら、それは確かに今起きたことです。

その人を見て、馬鹿野郎と怒鳴ったら、その人を判断、評価したということです。
逆に人から馬鹿野郎といわれたら、即座に意味がわかるでしょう。自分が侮辱されたと。卑下された。


>それが今あるものです。

違います。今まさに起きた反応です。リアルタイムに。


>それを名付けもしないで見ている。


違います。今「馬鹿野郎」と名付けたではないですか。


>その起きていることに反応しないで見ている。

何か言ってることがわかんないな。

たとえば家人から用事を頼まれる。パソコンにこうして集中してるとき、「うるせえな、今、手がはなせねんだ。あとにしてくれ 」と相手に怒鳴る。

注 
別に必ずしも怒鳴る場面ではないが、話をわかりやすくするために、怒鳴る場面に設定している。
自分が好きなことに熱中しているとき、相手からちゃちをいれられると思わずムッとすることがよくあるでしょう。邪魔された感じ。

これが反応ですよ。
あなたは、反応してることを、反応しないで見るというつもりですか?
論理的矛盾。

>。もし、続いて何か起こればそれも名付けたり、それに対する反応なしに見ている。どこまでも今起きているものについていく。

何か話が飛躍してようです。
馬鹿野郎と反応した話をしている。
感情が動く内容のとき、チャンスとして、外部に向いていた意識を瞬時に内部に向けるということ。
これが
「チェンジオブステージ」。180度変わる。
これをしないと馬鹿野郎という言葉がますます感情を増幅する。これが一般では無意識に習慣的に行われる。
>
> > 人間というのは、特別なこと以外は、一瞬一瞬想起し続けています。
>
> それを見ている。すると想念の出る時間間隔がだんだん長くなって、ついに終わると思いますが違うでしょうか?
>
> > 特別なこととは、何か関心を向けて見つめる時です。何だろなと。
> > 又、何かを好きになってる時も思考は生じません。秋田犬の子犬を見てる時。その子犬を見てる時、穏やかな気持ちになる。
>
> 思考が生じているのを命名なしに見ている。実験してみてください。
>
> > 私とあなたは同じ人間なので知覚に違いはないはずですが。
>
> そう思います。考えで出来ないと言わずに実際にやってみてください。


[25667] Re:[25666] [25663] [25661] [25654] [25653] 既知からの自由 5−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/17(Tue) 22:21  

> > ところで好奇心というのは快楽の内に入るのだろうか? わかればそれをまた持ちたいなど絶対思わないから。
>
>
>  愛を伴う好奇心は快楽ではないように思います。
>
>  ただし、愛着ではない愛。


奇なるもの、珍しいもの、不思議なるものに対する好奇心というのは動機がない場合が多いのではないかと思います。つまり生計の資には関係ないというか、場合によっては変人扱いされるときもありそうです。

もう一つ、その時、見つめる、見守る(watch)という態度があり、これはKの講話にしょっちゅう出てくる例の言葉です。好奇心とは未知のものに出会った時の態度に近い、あるいはそのものではないかと思います。愛があるのかもしれません。



[25666] Re:[25663] [25661] [25654] [25653] 既知からの自由 5−1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/07/17(Tue) 19:59  

> >  実際に現実にまさに今、起きていることは、「内的には私達は惨めさと不和の渦巻」、これが起きているのではないでしょうか。
>
> 実際にそれが起きているとわかっているなら、外の人の評判などナンセンスなはずですが外部の人の評価がないと不安になるのは自分自身が根拠ある理解を知らないという事ですか、実は何も自分ではわからない。群れとは付和雷同の性質があるにかな。
>
> ところで好奇心というのは快楽の内に入るのだろうか? わかればそれをまた持ちたいなど絶対思わないから。


 愛を伴う好奇心は快楽ではないように思います。

 ただし、愛着ではない愛。


[25665] 既知からの自由5-2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/17(Tue) 08:37  

5章の2 [恐怖と恐怖全体]

 恐怖は生においてもっとも大きい問題の一つです。恐怖に捕えられた心は混乱の中に、葛藤の中に生きており、それゆえ暴力的で、歪められていて、攻撃的に違いありません。それはそれ自体の思考のパターンからあえて離れようとせず、このことが偽善を生み出します。恐怖から自由にならない限り、最高峰に登り、あらゆる種類の神を創り出そうが、私達は常に暗闇の中に留まるでしょう。このような堕落した愚かな社会の中で、今のように生き、恐怖を生み出す競争的な教育を受けて、私達はみなある種の恐怖を背負っており、そして恐怖は私達の日々を歪め、捻じ曲げ、鈍くする恐ろしいものです。

 肉体的恐怖もありますがそれは私達が動物から受け継いだ反応です。ここで私達が関わっているのは心理的な恐怖です。というのは深く根差した心理的恐怖を理解すれば、動物的恐怖に応じることができますが、最初に動物的恐怖に関わることは、心理的恐怖を理解する助けには決してならないからです。

 私達はみな何かについて恐れます。抽象の中に恐怖はなく、それは常に何かとの関係の中にあります。あなたは自分自身の恐怖を知っているでしょうか? ― 自分の仕事を失う恐怖、食物やお金を十分持たない恐怖、隣人または世間が自分をどう思うかや、成功しないこと、社会的地位を失うこと、軽蔑され、あざ笑れる恐怖 ― 苦痛や病気の恐怖、支配の恐怖、愛が何であるか知らないこと、あるいは愛されていないこと、妻や子を失うこと、死、死のような世界に生きること、まったくの退屈、他人があなたについて作り上げたイメージに沿って生きないこと、信頼を失う事の恐怖 ― これらすべてや数え切れない他の恐怖 ― あなたは自分の特別の恐怖を知っているでしょうか? またそれらについて普段どうしていますか? それから逃げていないでしょうか、あるいはそれらを覆い隠す観念やイメージをつくり上げてはいないでしょうか? しかし恐怖から逃げることは恐怖を増すだけです。

 恐怖の主な原因の一つはあるがままの自分自身に直面したがらないことです。そこで、恐怖それ自体と同様、それから免れるためにつくり上げた逃避のネットワークも調べなければなりません。頭脳を含む心が恐怖を克服し、それを抑圧し、訓練し、制御し、他の何かの言葉に翻訳しようとするなら、摩擦があり、葛藤があり、そしてその葛藤はエネルギーの浪費です。

 そこで最初に自分に尋ねるべきことは、恐怖とは何かそしてそれはどのように起きるか?です。恐怖という言葉自体は何を意味しているのでしょうか? 私は、自分が何を恐れるかではなく、恐怖とは何か、と自分に尋ねているのです。

 私はある種の生を送っています。ある型で考えます。ある特定の信念や教義を持ち、それらの中に自分のルーツを持っているので、これらの存在の型が乱されるのを望みません。それらが乱されると未知の状態が生じるし、それが嫌いなので乱されたくありません。もし自分が知っていること、そして信じていることの全てから引き裂かれるなら、私が進もうとしている物事の状態がある程度は確かであるようにと望みます。ですから脳細胞は型を生み出し、そしてこの脳細胞は不確かかもしれない別の型を作り出すことを拒みます。確実から不確実への運動が、恐怖と私の呼ぶものです。

 ここに座っている現実の瞬間、私は恐れていません。現在恐れていません、何も起きてはいないし、誰も私を脅かしたり、私から何かを取り上げようとしていません。しかし現実の瞬間を越えて、より深い心の層があり、それは意識的あるいは無意識的に未来に起こるかもしれないことを考えたり、過去からの何かが自分を襲うかもしれないと心配しています。このように私は過去を恐れまた未来を恐れています。私は時間を過去と未来に分割しています。思考が入り込み、「それが再び起きないように気を付けよ」あるいは「未来に備えよ。未来は危険かもしれない。今は何かを得ているがそれを失うかも知れない。明日は死ぬかも知れないし、妻が逃げ去るかも知れないし、仕事を失うかもしれない。決して有名になれないかも知れない。寂しいかも知れない。明日について万全にしておきたい」と言います。

 さてあなた自身の特定の形の恐怖を取り上げましょう。それを見てご覧なさい。それに対するあなたの反応を見守りなさい。それを如何なる逃避、正当化、非難あるいは抑圧の動きなしに見ることができるでしょうか? その恐怖を、その恐怖を引き起こす言葉なしに見ることができるでしょうか? 例えば、死の恐怖を引き起こす言葉なしに、死を見ることができるでしょうか? 愛という言葉がそれ自体の震え、それ自体のイメージを持っているのと同様に、その言葉それ自体が震えをもたらすのではないでしょうか? さてあなたが自分の心の中に死について持っているイメージ、あなたが見てきた非常に多くの死の記憶と、それらの事件についてのあなた自身の関連 ― 恐怖を作っているのはそのイメージではないでしょうか? それとも終わりを作っているイメージではなく、終わりが来ることを実際に恐れているのでしょうか? あなたが恐れる原因となっているのは死という言葉でしょうか、それとも実際の終わりでしょうか? 恐れる原因となっているものが言葉または記憶なら、それは全く恐怖ではありません。

 2年前に病気だったとしてみましょう。そしてその苦痛、その病気の記憶が残り、今記憶が作動して「気を付けよ。また病気にならないように」と言います。そこで記憶がその関連と共に恐怖をつくっており、そして実際にはこの瞬間にはあなたは非常に健康であるので、それは全く恐怖ではありません。思考は、それは常に古いのです。なぜなら思考は記憶の反応であり、記憶は常に古いからです ― 思考は、時間の中に、怖れているという感情をつくりますがそれは実際の事実ではありません。実際の事実は健康だという事です。しかし経験は、それは心に記憶として残っていますが、「気をつけなさい。また病気にならないように」という思考を引き起こします。

 それゆえ思考が一つの種類の恐怖を生じさせるのがわかります。しかしそのことから離れていったい恐怖はあるでしょうか? 恐怖は常に思考の結果でしょうか、そしてもしそうなら、何か別の形の恐怖はあるでしょうか? 私達は死を恐れます ― つまり、明日、あるいは明後日、やがて起こる何かを恐れます。現実とそうなるであろうことの間には距離があります。さて思考はこの状態を経験してきました。死を観察することによって「私は死ぬのだ」と言います。思考は死の恐怖をつくり、そしてもし思考がつくらないなら、いったい恐怖はあるでしょうか?

 恐怖は思考の結果でしょうか? もしそうなら思考は常に古いので、恐怖はいつも古いのです。私達が言ってきたように、新しい思考はありません。私達がそれを認識するなら、それはすでに古いのです。ですから私達が怖れているものは古いものの繰り返し ― かつてあったものを未来に投影している思考です。それゆえ思考は恐怖に責任があります。こういうわけで、あなたはそれを自分自身で見ることができます。何かに即時に直面するとき恐怖はありません。恐怖があるのは思考が入ってくるときだけです。

 それゆえ今度の問題は、心にとって完全に、全的に、現在に生きることは可能か? ということです。そのような心のみが恐怖を持たないのです。しかしこのことを理解するためには、思考、記憶そして時間の構造を理解しなければなりません。そしてそれを、知的にでもなく、言葉の上でもなく、自分のハートで、自分の心で、自分のガッツで実際に理解する中で、あなたは恐怖から自由になるでしょう。その時心は恐怖をつくることなく思考を使う事ができます。

 思考は、記憶と同じように、もちろん日常生活に必要です。それはコミュニケーションや仕事などするための唯一の道具です。思考は記憶への応答であり、記憶は経験、知識、伝統、時間を通じて蓄積されてきました。そしてこの記憶の背景から私達は反応し、その反応が思考です。それゆえ思考はあるレベルでは不可欠ですが、思考がそれ自体を未来や過去のものとして心理的に投影し、快楽だけでなく恐怖もつくり出すとき、心は鈍くされ、したがって不活発は避けられません。

 そこで自分に尋ねます、「なぜ、なぜ、なぜ、そのような思考が恐怖をつくり出すことを知りながら、快楽と恐怖の見地から未来と過去について私は考えるのだろうか? 思考が心理的に止むことは出来ないのだろうか? というのはそうでなければ恐怖は決して終わらないから」

(続く)


[25664] Re:[25662] [25660] [25657] 見る 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/16(Mon) 18:13  

> > > 閑話休題
> > > awareness の訳に適したものがなく、「はっと気づく」というように、一種の悟り状態になることではなかろうか。最近そう思えてきました。
> >
> > 心理的思考の介入なしに見ている時は覚者の見ている状態と変わりはないのかもね。
>
> いえいえ違います。
> 「見る」「気づき」ではKの言わんとしていることが伝わらないのではなかろうか。こういった疑問が浮かびませんでしたか。

全然浮かびません。私にはわかりますし、多くの人がわかっているようです。

> それとも、自分さえわかればいい。自分さえ満足すればいいということでしょうか。

少なくとも私はわかって訳しているので、尋ねられれば説明しています

> > > 「見る」とか「気づき」は適切ではない。「自覚」の方がまだまし。

それはあなたの意見、私は違うので、今後も使うでしょう。より良い言葉が見つかれば替えるかも知れません。

> > 言葉で理解するのでなく実物の状態を知るとどんな言葉でもああ、こういうことを言っているのかとわかりませんか? つまり象さんのお鼻は丸太ン棒みたいだし、耳はウチワのようだし、足は柱のようだし、胴は壁のようだと言えば、知っていれば子供でも分かるが、実物を知らなければ見当もつかないという事があります。
>
> どうも論点が違うようです。やはり伝わりませんでしたか。
> あなたは今まで「見る」「気づき」一点張り。
> 実際にインドに行ったことのある人間と、 インドに行っていない人間とは受け取りかたが違う。

インドに行ったことがないのですみません。


[25663] Re:[25661] [25654] [25653] 既知からの自由 5−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/16(Mon) 17:57  

> > > 5章の1 [自己関心・地位への切望]
> > >
> > > 更に進む前に、生におけるあなたの根本的、永続的関心は何か?とお尋ねしたいのです。遠回しの答えはすべて脇に置き、この問を積極的に正直に扱うなら、あなたはどう答えられますか? 知っていられますか? それは自分自身ではないでしょうか? とにかく、正直に答えるなら殆どの人がそういうでしょう。私が関心があるのは自分の進歩、自分の仕事、自分の家族、自分の住んでいる小さな片隅、自分のためのより良い地位、より多くの威信、より多くの力、より多くの他人への支配を得ることなどです。ほとんどの人が主に関心があるのは ― 第一に「私」であるという事を、自分に対して認めるのは当然ではないかと私は思います。
> > >
> > >  何人かの人は自分に主として関心を持つのは間違っていると言うかもしれません。しかし私達は稀にしか、きちんと正直に認めないということを別にすれば、それの何が間違っているのでしょう? 認めれば私達はむしろそれを恥じます。実情はそうです ― 人は根本的に自分自身に関心があり、種々のイデオロギー的または伝統的理由でそれは間違っていると考えます。しかし人が考えるものは見当違いです。なぜその間違っているという要素を持ち込むのでしょうか? それは観念、概念です。事実は人は根本的にそして永続的に自分自身に関心があるという事です。
> > >
> > >  自分のことを考えるより他人を助けることの方がより満足できると言うかもしれません。何が違うのでしょう? それはなお自己関心です。他人を助けるということがあなたにより大きな満足を与えるのなら、より大きな満足を与えてくれるものにあなたは関心があるのです。なぜそのことに何かのイデオロギー的な概念を持ち込むのでしょう? なぜこの二重の考えがあるのでしょう? なぜ「私が本当に望んでいるのはセックスや、他人を助けることや、偉大な聖者、科学者、政治家になることの何れであろうが、満足です」と言わないのでしょう? それは同じ過程ではないでしょうか? 微妙と明白、あらゆる種類のやり方による満足が私達が望んでいるものです。自由が欲しいと言うとき、それが素晴らしく満足させてくれるかもしれないと考えるから望み、そして究極の満足は、もちろん自己実現というこの特別の観念です。私たちが本当に求めているのは不満のまったくない満足なのです
> > >
> > >  私達は大抵社会の中で地位を持つという満足を切望しますが、それは何者でもないことを恐れるからです。尊敬すべき地位を持つ市民は非常に丁重に扱われるのに対し、地位のない人は粗末に扱われるように社会は構成されています。世界中のあらゆる人が社会の中であれ、家族の中であれ、地位を、あるいは神の右手に座ることを求めます。そしてこの地位は他人によって認められなければなりません。そうでなければそれは少しも地位ではないのです。私達は常に演壇に座っていなければならないのです。内的には私達は惨めさと不和の渦巻きであり、したがって外的に立派な人だと見做されることは非常に満足させてくれます。この地位や名声や権力への切望、何らかの点で目立っていると社会によって認められたいとの切望は、他人を支配したいという願望であり、この支配欲は攻撃の一形態です。自分の神聖さに関して地位を追及する聖者は、農家の庭先でつついている鶏と同じように攻撃的なのです。そしてこの攻撃性の原因は何でしょうか? それは恐怖ではないでしょうか?
> >
> >
> > 5章の主題は恐怖です。この5−1はその導入部です。
> >
> > 私たちが本当に求めているのは不満のまったくない満足であると説き、社会の中で支配的な地位を求め、攻撃性を持つと。これは何者でもない事への恐怖ではないかと問われます。
> >
> > これは社会、ないし群れの中で生じるある種の緊張感から生じるものだろうか? 社会や群れには、異質に対する嫌悪、排除の感覚が生じるのは大いにありうることだと思われます。それが読めないと何が起こるか、よそよそしさから始まって孤立、いじめなどとか。社会と群れはどう違うのかもよくわからない。いじめが事件になると社会が騒然となる。
> >
> > この後恐怖が徹底的に問われます。なるべく早く掲載します。
>
>
>  まず、快楽原理による暗黒があります。
>
>  すなわち、>> > >  ではなぜ生は快楽によって導かれるべきではないのかとあなたは尋ねるかも知れません。それは快楽は苦痛、欲求不満、悲しみ、そして恐怖をもたらし、そして、その恐怖から暴力をもたらすに違いないという非常に簡単な理由からです。−−
>
>  ここに人間の暗黒面の基本線がある気がします。5章6章と続いている気がします。しっかり読んでこの構造を理解したいものです。−−−−([25658]より引用)
>
>
>  この暗黒や快楽原理に気づいていなくとも、現実に起きていることは、>内的には私達は惨めさと不和の渦巻きであり、したがって外的に立派な人だと見做されることは非常に満足させてくれます。−−
>
>  実際に現実にまさに今、起きていることは、「内的には私達は惨めさと不和の渦巻」、これが起きているのではないでしょうか。

実際にそれが起きているとわかっているなら、外の人の評判などナンセンスなはずですが外部の人の評価がないと不安になるのは自分自身が根拠ある理解を知らないという事ですか、実は何も自分ではわからない。群れとは付和雷同の性質があるにかな。

ところで好奇心というのは快楽の内に入るのだろうか? わかればそれをまた持ちたいなど絶対思わないから。


[25662] Re:[25660] [25657] 見る 投稿者:無明 投稿日:2018/07/16(Mon) 14:00  

> > 閑話休題
> > awareness の訳に適したものがなく、「はっと気づく」というように、一種の悟り状態になることではなかろうか。最近そう思えてきました。
>
> 心理的思考の介入なしに見ている時は覚者の見ている状態と変わりはないのかもね。

いえいえ違います。
「見る」「気づき」ではKの言わんとしていることが伝わらないのではなかろうか。こういった疑問が浮かびませんでしたか。
それとも、自分さえわかればいい。自分さえ満足すればいいということでしょうか。
>
> > 「見る」とか「気づき」は適切ではない。「自覚」の方がまだまし。
>
> 言葉で理解するのでなく実物の状態を知るとどんな言葉でもああ、こういうことを言っているのかとわかりませんか? つまり象さんのお鼻は丸太ン棒みたいだし、耳はウチワのようだし、足は柱のようだし、胴は壁のようだと言えば、知っていれば子供でも分かるが、実物を知らなければ見当もつかないという事があります。

どうも論点が違うようです。やはり伝わりませんでしたか。
あなたは今まで「見る」「気づき」一点張り。
実際にインドに行ったことのある人間と、 インドに行っていない人間とは受け取りかたが違う。


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