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[26287] いじめ 投稿者:ゴト 投稿日:2018/12/04(Tue) 09:17  

いじめを人間の暗部として取り上げよう。これは我々がよく知っている心理からなっている。

誰かがいじめの対象とされる。そいつをかばう事はやばい。それは自分が目立ち、次のいじめの対象になることを意味する。自分はワルにぼこぼこにされるかもしれない。こわい。「こいつっていやな奴だよなあ?」と衆人環視の中で同意を求められる。踏み絵を踏まされる。自分はどうする?

しぶしぶ同意して見せるか、積極的に同意するか? 「これはいじめだ。やめろ」と断固として言えるか。帰りにワルに仲間と待ち伏せされぶちのめされるかもしれないと時間の中の恐怖が走る。

ここで頑として「やめろ!」と言える人間だけが生きているのだ。まじめで真剣な人だ。

子供は学園漫画で、こういうことはたくさん読んで知っているのだ。では腕力の強い子供はなぜワルになるのか? 学校教育の、いや、大人社会の根本が狂っているからか。

ではザーネン講話を先に進めよう。


[26286] Re:[26282] 最初のザーネン講話 1−1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/12/03(Mon) 21:37  

> 1961年ザーネン講話 1回目−1
>
> 私たちがここに来た理由について、始めから非常に明確でなければならないと思います。私にはこれらの会合は非常に真面目なものであり、私はその言葉を特別な意味で使っています。真面目さは、私たちの大部分にとって、思考の一定の方向、特別の生き方を採用すること、選ばれた型の振る舞いに従うことを意味します。そして次第にその型、その生のやり方は規則となり、それによって私たちは生きます。私には、それは真面目さを構成しません。そして私は、もしも私たちが、私たちの一人一人が、私たちが真面目にと解しているものが何であるか見出そうとすることができるなら、それは非常に適した、価値のあることであると思います。
>
>  たぶん私たちのたいていは、意識的、あるいは無意識的に、いろいろな形の安全、財産においての、関係においての、観念においての安全を追求しています。そしてこれらの追求を私たちは非常に真面目なことと解しています。私には、再び、それは真面目さではありません。
>  私には、「真面目さ」という言葉はある心の浄化を意味します。私は「心」という言葉を特別にではなく、一般的に使っています。そして後ほど、その言葉の意味を調べるでしょう。真面目な心は絶えず気づいています。そしてそれによってそれ自身を浄化しています。そしてその中にどんな種類の安全を求める追求もありません。それは特定の空想を追跡していません。思考の何か特定のグループや、何かの宗教、教条、国籍や国家に属しません。そして生活の直接の問題に関わっていません。ひとは毎日の出来事に注意しなければなりませんが。ほんとうに真面目な心は途方もなく生き生きとしており、鋭いのでなければなりません。そのためそれは幻想を持たず、有益だとか価値があるとか楽しいと思われる経験に捕われません。
>
>  そこで、もしもこれらの集会のまさに始めから、どの程度、どれほど深く私たちが真剣であるかが私達自身にとって非常に明確であることができれば、それは賢明でしょう。私たちの心が鋭く、聡明で、真面目であるなら、そのとき私たちは世界中の人間生活の全パターンを見、そしてその全体の理解から特定のものに、個人に到ることができると思います。そこで、世界で起こっていることの全体を見ましょう。単に情報としてではなく、何か特定の問題―ひとつの国や特定の党派や社会、民主主義、共産主義者、自由主義のいずれにせよ―の究明ではなくて、むしろ世界に現実に起こっていることを見ましょう。そしてそこから、全体を見た後で、外部の出来事の意義の理解の後で―情報、意見としてではなく、起こっていることの現実の事実を見て―それから私たちは個人に到ることが出来ます。それが私がしたいと思っていることです。
>
>
> ゴト: 私がこの講話を読んでみたいと思ったのはこのまじめさ、真剣さを本当に理解したいと思ったからです。私は本当にまじめさ真剣さを知っているでしょうか?、いや、この講話を聴いてまた次の講話を読んでではなく、ここで聞いて終わりにする真剣さを持つことができなければ明日はないという真剣さ、まじめさを持つことなしにはこの生に意味はありません。
>
>
>  ご承知のように、意見、判断、評価は事実の前ではすべて全く無益です。あなたが何を考えているか、どんな意見を持っているか、どんな宗教や党派に属しているか、どんな経験を持ったのか―これらは事実の前ではまったく意味がありません。事実は事実についてのあなたの考えよりはるかに重要です。事実はあなたの意見、それはあなたの教育、宗教、特定の文化、条件付けに基いているのですが、それよりはるかに大きな意義を持っています。それゆえ、私たちは意見、観念、判断を取り扱おうとしているのではありません。私たちは、できるなら、事実をそれがそうであるとおりに見ようとしているのです。それは自由な心、見ることができる心を必要とします。
>
>  私はあなたが一体、見る、見えるということはどういうことなのかという問題を熟考したのかなと思います。それは単に視覚的な知覚の問題に過ぎないのでしょうか、それとも見えること、見ることは単なる視覚的な見えることよりはるかに深遠な何かでしょうか? 私たちの大部分にとっては、見えることは目前のこと、つまり今日起こっていることと明日起ころうとしていることを意味します。そして明日起ころうとしていることは昨日によって色づけられているのです。それゆえ私たちの見ることは非常に狭く、非常に閉ざされ、限られており、私たちの見る能力は非常に制限されています。丘を越えて、山を越えて、河と緑の牧草地を越えて、地平線を越えて―見る、見えることを望むなら、自由という特定の性質がなければならないと私は感じます。それは非常に安定した心を必要とします。そして心は、それが自由でないとき、安定でありません。そして、この見えるという能力を持つべきだということが私には非常に重要に思われます。単に見たいものだけでなく、私たちの狭い限られた経験による楽しいことでなく、ものごとがそうであるままに見えること。ものごとがそうであるままに見えることは心を解放します。それは実際に途方もないことです―直接に、単純に、すっかり知覚することは。
>
>  さて、その一般論と共に進み、世界で起こっているあらゆるものごとを見ましょう。あなたは多分それをたいそう多く知っているでしょう。なぜなら新聞、雑誌、論説を読んでいるからです。それらはすべて著者、編集者、政党の先入観にしたがって作りだされています。印刷された言葉は私たちの大部分にとって大変重要です。私はたまたま新聞を読みませんが、たくさん旅行し、とても多くの人たちに会いました。私は非常に貧しい人が住んでいる狭い横町にいたことがあります。また政治家、重要人物―少なくとも彼らは自分は重要だと思っています―と話しました。そしてあなたはあなた自身で何が起こっているか知っています。飢餓、悲惨、退廃、貧困が東洋にあります。彼等はたっぷりとした、十分な食事をするためには何でもするでしょう。したがって彼等は思考の、慣習の、伝統の限界を打破したいのです。それから、もうひとつの極端、巨大な繁栄、世界が決して知らなかった繁栄のある場所、そしてこの国におけるように、食べ物が豊富で、衣服は多く、家が清潔で快適な場所があります。そしてこれらの快適さは特定の満足、凡庸、ものごとを受け入れ、妨害されることを望まないという特定の態度を育てるということに気づきます。
>
>  世界は政治的に、宗教的に、経済的に、思想と哲学において、ばらばらにされています。そして世界の出来事はばらばらなのです。宗教と政治は人間の心を追っています。それらは人間の心を制御しよう、専門家、兵士、技師、科学者、数学者に型にはめて作ろうと望んでいます。なぜならそのとき、社会に役立つからです。そして組織化された宗教や信念―カソリック教や共産主義―が広がっています。あなたはこのすべてを非常によく知っているに違いありません。組織化された信念は人の心を型にはめて作っているのです。それが民主主義、共産主義、キリスト教、イスラム教の組織化された信念のどれにしても。このすべてを熟考してください。そして「このすべてを繰り返し話して、あなたは時間を浪費している」と言わないでください。私はしていません。なぜなら私は最初に何が現実に起こっているかを見たい。そして次に、可能なら、私達自身の中のそのすべてを破壊したい、それをすっかり破壊したいからです。なぜなら外部の運動は、それを私たちは世界と呼びますが、内部に向かう同じ潮流であるからです。外部の世界は内部の世界と違っていません。そして外部の世界の理解なしに内部に向かうことはまったく意味がありません。外部の世界、残酷さ、無慈悲さ、成功への凄まじい衝動―いかに強く何かに属することを、観念、思考、感情の特定の集団にかかわることをひとが望むか、理解することが絶対必要であると私は感じます。私たちがすべての外部の出来事を理解することができるなら、詳細にではなくてその全体を、先入観のない、恐れていない、安全を追求していない、それ自身の好みの理論、希望、空想の背後に隠れていない眼で、そのすべてを見ることによって理解するなら、そのとき内部の運動はまったく異なった意味を持ちます。私が真面目さと呼ぶのは、外部を理解してしまった内部の運動です。
>
>
> ゴト: クリシュナムルティがまじめさと呼ぶのは、外部の動きを大きく全的に理解、つまり看破してしまった内部の運動であると。
>
>
>  それで、世界中で人間の心は型にはめられ、制御されていますね―宗教によって、神の名において、平和、永遠の生、などなどの名において。そしてまた政府によって、絶え間ない宣伝を通じて、経済的強制を通じて、仕事、銀行預金、教育などなどを通じて。それでその終りには、あなたは単なる機械にすぎないのです。ある方向における電子計算機のようにいい機械ではないけれども。あなたは情報で一杯です。それが教育が私たちにしていることです。そこで私たちは徐々に、ますます機械的になっています。あなたはスイス人、アメリカ人、ロシア人、イギリス人、ドイツ人、その他のどれかです。あなたは皆生活のために型の中に刻印されています。何かの空想的な宗教や空想的な信念に逃れるのを除いては、ごく僅かのひとがこの恐怖から逃れるだけです。
>
>
> ゴト: 自分は社会によって形作られた機械、操り人形であるというのが事実であると。



 『クリシュナムルティ・ノート(旧タイトル:「クリシュナムルティの神秘体験」)』p84(1961.8.20)より引用


 (前略)

 それはそれら全てを遙かに超えていました。それは目や耳で見ることも聞くこともできない荘厳さや轟と共に現れていました。それは、思考的な頭脳が、森の中の枯れ果てた葉のように全く色褪せてしまうほどの豊かさと力強さを伴って現れていました。それは愛であり、不可思議な創造であり、破壊でした。その他には何もありませんでした。
 深さの本質がありました。思考の本質は、思考が存在しない状態です。いかに深く広く思考が追い求められても、思考はいつも浅くて表面的なままでしょう。思考の消滅こそが、その本質の始まりです。
 思考の消滅は否定です。否定のための肯定的な方法はありません。思考を終わらせるための、いかなる方法もシステムもありません。方法やシステムは、否定への肯定的な取り組みですから、それでは思考は自身の本質を見つけることができません。その本質が存在するためには、それが止まねばなりません。存在の本質は非在です。非在の深みを”見る”ためには、何ものかになろうとすることから自由でなければなりません。継続性があると自由は存在しません。継続性があるものは時間に縛られています。あらゆる経験は思考を時間に縛り付けます。
 経験をしていない状態の精神が、あらゆる本質に気づきます。
 (以下省略)

 − − − 以上引用 − − −


 「事実」「創造」「破壊」の言葉がでてきます。

 前に読んだときには、「破壊」の意味がよく分かりませんでしたが、このザーネンの一番初めの講話で、説明がありました。








> (続く)


[26285] Re:[26284] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/12/03(Mon) 18:08  

> 私がもし、癌宣告を受けたなら、生と向き合うだけである。
> 人の本など一切読まぬ。それは単なる言葉にすぎぬ。
> 生イコール死。生と向き合うことは死と向き合うことと同じである。
> 全てのもの一切衆生のものは生かされて生きている。
> 現に「生きている」という事実のみがある。


現に生きているというのはあなたの観念ではなかろうか? 実際は機械同様、言葉、シンボルに揺れ動いているだけの存在ではなかろうか?! それが見えて何の恐怖もなく世の流れを大死一番、全否定するとき、初めて生きることを知る。


[26284] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/12/03(Mon) 17:19  

私がもし、癌宣告を受けたなら、生と向き合うだけである。
人の本など一切読まぬ。それは単なる言葉にすぎぬ。
生イコール死。生と向き合うことは死と向き合うことと同じである。
全てのもの一切衆生のものは生かされて生きている。
現に「生きている」という事実のみがある。


[26283] Re:[26280] 全的な否定 投稿者:無明 投稿日:2018/12/03(Mon) 17:09  

> 全的な否定とは何か? これがこのところ気になっています。


はい。
そこで、「全的否定」について、ご自分で、考え抜いてはいかがですか?
何も頼らずに。何も依存せずに。




[26282] 最初のザーネン講話 1−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/12/02(Sun) 18:39  

1961年ザーネン講話 1回目−1

私たちがここに来た理由について、始めから非常に明確でなければならないと思います。私にはこれらの会合は非常に真面目なものであり、私はその言葉を特別な意味で使っています。真面目さは、私たちの大部分にとって、思考の一定の方向、特別の生き方を採用すること、選ばれた型の振る舞いに従うことを意味します。そして次第にその型、その生のやり方は規則となり、それによって私たちは生きます。私には、それは真面目さを構成しません。そして私は、もしも私たちが、私たちの一人一人が、私たちが真面目にと解しているものが何であるか見出そうとすることができるなら、それは非常に適した、価値のあることであると思います。

 たぶん私たちのたいていは、意識的、あるいは無意識的に、いろいろな形の安全、財産においての、関係においての、観念においての安全を追求しています。そしてこれらの追求を私たちは非常に真面目なことと解しています。私には、再び、それは真面目さではありません。
 私には、「真面目さ」という言葉はある心の浄化を意味します。私は「心」という言葉を特別にではなく、一般的に使っています。そして後ほど、その言葉の意味を調べるでしょう。真面目な心は絶えず気づいています。そしてそれによってそれ自身を浄化しています。そしてその中にどんな種類の安全を求める追求もありません。それは特定の空想を追跡していません。思考の何か特定のグループや、何かの宗教、教条、国籍や国家に属しません。そして生活の直接の問題に関わっていません。ひとは毎日の出来事に注意しなければなりませんが。ほんとうに真面目な心は途方もなく生き生きとしており、鋭いのでなければなりません。そのためそれは幻想を持たず、有益だとか価値があるとか楽しいと思われる経験に捕われません。

 そこで、もしもこれらの集会のまさに始めから、どの程度、どれほど深く私たちが真剣であるかが私達自身にとって非常に明確であることができれば、それは賢明でしょう。私たちの心が鋭く、聡明で、真面目であるなら、そのとき私たちは世界中の人間生活の全パターンを見、そしてその全体の理解から特定のものに、個人に到ることができると思います。そこで、世界で起こっていることの全体を見ましょう。単に情報としてではなく、何か特定の問題―ひとつの国や特定の党派や社会、民主主義、共産主義者、自由主義のいずれにせよ―の究明ではなくて、むしろ世界に現実に起こっていることを見ましょう。そしてそこから、全体を見た後で、外部の出来事の意義の理解の後で―情報、意見としてではなく、起こっていることの現実の事実を見て―それから私たちは個人に到ることが出来ます。それが私がしたいと思っていることです。


ゴト: 私がこの講話を読んでみたいと思ったのはこのまじめさ、真剣さを本当に理解したいと思ったからです。私は本当にまじめさ真剣さを知っているでしょうか?、いや、この講話を聴いてまた次の講話を読んでではなく、ここで聞いて終わりにする真剣さを持つことができなければ明日はないという真剣さ、まじめさを持つことなしにはこの生に意味はありません。


 ご承知のように、意見、判断、評価は事実の前ではすべて全く無益です。あなたが何を考えているか、どんな意見を持っているか、どんな宗教や党派に属しているか、どんな経験を持ったのか―これらは事実の前ではまったく意味がありません。事実は事実についてのあなたの考えよりはるかに重要です。事実はあなたの意見、それはあなたの教育、宗教、特定の文化、条件付けに基いているのですが、それよりはるかに大きな意義を持っています。それゆえ、私たちは意見、観念、判断を取り扱おうとしているのではありません。私たちは、できるなら、事実をそれがそうであるとおりに見ようとしているのです。それは自由な心、見ることができる心を必要とします。

 私はあなたが一体、見る、見えるということはどういうことなのかという問題を熟考したのかなと思います。それは単に視覚的な知覚の問題に過ぎないのでしょうか、それとも見えること、見ることは単なる視覚的な見えることよりはるかに深遠な何かでしょうか? 私たちの大部分にとっては、見えることは目前のこと、つまり今日起こっていることと明日起ころうとしていることを意味します。そして明日起ころうとしていることは昨日によって色づけられているのです。それゆえ私たちの見ることは非常に狭く、非常に閉ざされ、限られており、私たちの見る能力は非常に制限されています。丘を越えて、山を越えて、河と緑の牧草地を越えて、地平線を越えて―見る、見えることを望むなら、自由という特定の性質がなければならないと私は感じます。それは非常に安定した心を必要とします。そして心は、それが自由でないとき、安定でありません。そして、この見えるという能力を持つべきだということが私には非常に重要に思われます。単に見たいものだけでなく、私たちの狭い限られた経験による楽しいことでなく、ものごとがそうであるままに見えること。ものごとがそうであるままに見えることは心を解放します。それは実際に途方もないことです―直接に、単純に、すっかり知覚することは。

 さて、その一般論と共に進み、世界で起こっているあらゆるものごとを見ましょう。あなたは多分それをたいそう多く知っているでしょう。なぜなら新聞、雑誌、論説を読んでいるからです。それらはすべて著者、編集者、政党の先入観にしたがって作りだされています。印刷された言葉は私たちの大部分にとって大変重要です。私はたまたま新聞を読みませんが、たくさん旅行し、とても多くの人たちに会いました。私は非常に貧しい人が住んでいる狭い横町にいたことがあります。また政治家、重要人物―少なくとも彼らは自分は重要だと思っています―と話しました。そしてあなたはあなた自身で何が起こっているか知っています。飢餓、悲惨、退廃、貧困が東洋にあります。彼等はたっぷりとした、十分な食事をするためには何でもするでしょう。したがって彼等は思考の、慣習の、伝統の限界を打破したいのです。それから、もうひとつの極端、巨大な繁栄、世界が決して知らなかった繁栄のある場所、そしてこの国におけるように、食べ物が豊富で、衣服は多く、家が清潔で快適な場所があります。そしてこれらの快適さは特定の満足、凡庸、ものごとを受け入れ、妨害されることを望まないという特定の態度を育てるということに気づきます。

 世界は政治的に、宗教的に、経済的に、思想と哲学において、ばらばらにされています。そして世界の出来事はばらばらなのです。宗教と政治は人間の心を追っています。それらは人間の心を制御しよう、専門家、兵士、技師、科学者、数学者に型にはめて作ろうと望んでいます。なぜならそのとき、社会に役立つからです。そして組織化された宗教や信念―カソリック教や共産主義―が広がっています。あなたはこのすべてを非常によく知っているに違いありません。組織化された信念は人の心を型にはめて作っているのです。それが民主主義、共産主義、キリスト教、イスラム教の組織化された信念のどれにしても。このすべてを熟考してください。そして「このすべてを繰り返し話して、あなたは時間を浪費している」と言わないでください。私はしていません。なぜなら私は最初に何が現実に起こっているかを見たい。そして次に、可能なら、私達自身の中のそのすべてを破壊したい、それをすっかり破壊したいからです。なぜなら外部の運動は、それを私たちは世界と呼びますが、内部に向かう同じ潮流であるからです。外部の世界は内部の世界と違っていません。そして外部の世界の理解なしに内部に向かうことはまったく意味がありません。外部の世界、残酷さ、無慈悲さ、成功への凄まじい衝動―いかに強く何かに属することを、観念、思考、感情の特定の集団にかかわることをひとが望むか、理解することが絶対必要であると私は感じます。私たちがすべての外部の出来事を理解することができるなら、詳細にではなくてその全体を、先入観のない、恐れていない、安全を追求していない、それ自身の好みの理論、希望、空想の背後に隠れていない眼で、そのすべてを見ることによって理解するなら、そのとき内部の運動はまったく異なった意味を持ちます。私が真面目さと呼ぶのは、外部を理解してしまった内部の運動です。


ゴト: クリシュナムルティがまじめさと呼ぶのは、外部の動きを大きく全的に理解、つまり看破してしまった内部の運動であると。


 それで、世界中で人間の心は型にはめられ、制御されていますね―宗教によって、神の名において、平和、永遠の生、などなどの名において。そしてまた政府によって、絶え間ない宣伝を通じて、経済的強制を通じて、仕事、銀行預金、教育などなどを通じて。それでその終りには、あなたは単なる機械にすぎないのです。ある方向における電子計算機のようにいい機械ではないけれども。あなたは情報で一杯です。それが教育が私たちにしていることです。そこで私たちは徐々に、ますます機械的になっています。あなたはスイス人、アメリカ人、ロシア人、イギリス人、ドイツ人、その他のどれかです。あなたは皆生活のために型の中に刻印されています。何かの空想的な宗教や空想的な信念に逃れるのを除いては、ごく僅かのひとがこの恐怖から逃れるだけです。


ゴト: 自分は社会によって形作られた機械、操り人形であるというのが事実であると。


(続く)


[26281] Re:[26280] 全的な否定 投稿者:宮啓 投稿日:2018/12/02(Sun) 09:06  

> 全的な否定とは何か? これがこのところ気になっています。
>
> それで、退院した今晩、このサイトの翻訳「1961年ザーネン公開講話」を読みました。「創造と破壊」という言葉が出てきますが、この言葉を自分は本当に聞いているでしょうか。取っ組んでみようと思います。


 私も早速プリントアウトしました。

 読んでみようと思います。有り難いことです。。


[26280] 全的な否定 投稿者:ゴト 投稿日:2018/12/01(Sat) 22:48  

全的な否定とは何か? これがこのところ気になっています。

それで、退院した今晩、このサイトの翻訳「1961年ザーネン公開講話」を読みました。「創造と破壊」という言葉が出てきますが、この言葉を自分は本当に聞いているでしょうか。取っ組んでみようと思います。


[26279] Re:[26278] ただいま帰りました。 投稿者:宮啓 投稿日:2018/12/01(Sat) 22:18  

> 月曜日、内視鏡検査を受けたら3個も大腸癌がみつかり、1個はすぐ切ったのでおしまいだが、2個を始末しなければならない。そのまま今日まで入院して検査の結果、私は全身麻酔に耐える体力があることがわかり、再来週から2週間再入院して切除することになった。
>
> その後、どれだけ体力が戻るかは不明ですが、ヘラブナ釣りは無理だろう。その現状に合わせて生きていこう。


 お身体をお大事に。。

 現役を引退しても、次から次へと生の挑戦は止まないのですね・・。。

 こちらも、身が引き締まる思いです。


> この掲示板をどうするかは手術後の気分で、落ち着いてゆっくり決めます。


 はい。


[26278] ただいま帰りました。 投稿者:ゴト 投稿日:2018/12/01(Sat) 19:12  

月曜日、内視鏡検査を受けたら3個も大腸癌がみつかり、1個はすぐ切ったのでおしまいだが、2個を始末しなければならない。そのまま今日まで入院して検査の結果、私は全身麻酔に耐える体力があることがわかり、再来週から2週間再入院して切除することになった。

その後、どれだけ体力が戻るかは不明ですが、ヘラブナ釣りは無理だろう。その現状に合わせて生きていこう。

この掲示板をどうするかは手術後の気分で、落ち着いてゆっくり決めます。


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