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[26337] Re:[26323] [26321] [26319] [26308] Kの盲点 投稿者:無明 投稿日:2018/12/31(Mon) 11:16  

> > しかし私たちの大抵はそれぞれに問題を抱えていて、その解決を求めてクリシュナムルティに近づく。
> > 実は判断・解釈なしに見、聴くことが実現するだけで個人の問題は根本的に解決する。それが実は困難なのだが……
>
>
>  ゴトさんは、この「全体的に見る」ことが起こっているのですね。
>
>  私は、まだまだ、そこまで起こっていないように思われます。
>
>  観自在ゴトさん。



観自在ゴトさんとは?
人をおちょくっているのだろうか?

この人はいつも「個人」に関心があるようだ。

上記のコメントにあるように、
例えば「全体的に見る」 について、この人には起こっている。この人には起こっていない。

というように、常に人を評価する。
>  
>
> > それを越えて人の関心は初めて、個別から離れて普遍へと向かう。


[26336] Re:[26335] 最初のザーネン講話3−2 投稿者:宮啓 投稿日:2018/12/30(Sun) 14:27  

> 1961年ザーネンの公開講話 3回目の2
>
>  今朝は葛藤の問題を調べ、できればそれのまさに終わりまで行き、心が完全に、まったく、すべての葛藤なしにあることができるかどうか、単に観念としてだけでなく実際に私達自身で経験したいと思います。それを自分自身で本当に発見するためには、とても観念のレベルに留まっていることはできません。
>
>
> ゴト: 今回の講話のテーマは葛藤です。この葛藤がまた人の持つ自然の観念としては、苦しいがこれに打ち克って越えた人が偉大な人物であるとされています。これに対してどう説くか、聴きましょう。
>
>
>  明らかに外部の世界の中にある葛藤について、ひとは何もすることができません。それは世界中で、僅かの制御されていない人たちによって引き起こされています。そして私たちは彼等によって破滅させられるかもしれませんし、あるいは生き続けるかもしれません。ロシア、アメリカ、あるいは他の誰かが私たちを皆戦争に投げ込むかもしれず、私たちはそれについてほとんど何もできません。
>
>
> ゴト: 外部の世界の出来事につてのこの無力感については言えると思います。しかしベトナム戦争はついに大国アメリカの撤退に終わりました。次第に戦争の中の残虐性が民間の報道等によって多くの人の知られるときのパワーの大きさもあることがいまではわかっています。しかしそれがわかって、逆に報道管制や、権力側の逆報道も巧妙の度を加えています。しかし、世界の政府と国民の知性のレベルにも大きな差が、文字通りピンからキリまであることもわかってきました。


 グレートファミリーと呼ばれる大資本家も世界に多大な影響を与えているようです。
 NHKの「映像の世紀」によると、第一次世界大戦における戦後処理において、賠償金は取らない方向で進められる予定だったところ、JP.モルガンによって、莫大な賠償金が課せられることになります。

 1929年のアメリカの株価暴落において、アメリカ経済が打撃を受けることを避けるために、アメリカは保護貿易政策を打ち出しました。

 よって、第二次世界大戦の直接的な原因はJP.モルガンの巨額の賠償請求と、アメリカの株価暴落ではなく保護貿易政策(その後の世界的なブロック経済)であったのです。

 すなわち、数名の(僅かの制御されていない人たち)思惑によって、数千万名の生命が失われたのでした。

 これが、自我としての人類の構造となっているがゆえに、個人ではどうしようもないということではないでしょうか。。


> しかし私達自身の内部の葛藤について非常に根本的なことをすることができると私は思います。そしてそれが私が討論したいことなのです。なぜ私たちの内部で、私たちの皮膚の内側で、心理的に、私たちはこのような葛藤の中にあるのでしょうか? それは必要でしょうか? そして植物化し、眠ってしまうことなしに、まったく何の葛藤もない生を送ることができるでしょうか? あなたがそれを考えたことがあるかどうか、そしてそれがあなたにとって問題であるかどうか私は知りません。私にとっては、葛藤はあらゆる形の感受性を破壊します。それはすべての思考を歪めます。そして葛藤があるところ、愛はありません。
>
>
> ゴト: それで、まず、私たち自身の内部のことから始めましょう。根本的にできることがあると。
>  葛藤は人間を磨くのに役立つという通念があるように思います。それに対しクリシュナムルティは葛藤は感受性を破壊し、思考を歪め、そこに愛はないと言います。
>
>
>  葛藤は本質的に野心、成功の崇拝です。そして私たちは、表面のレベルだけでなく意識の非常に深い奥もまた、内的に葛藤の状態にあります。私たちがそれに気づいているかどうかなと私は思います。そして気づいているなら、それをどうしますか? 私たちは教会、本、ラジオを通して、楽しみ、娯楽、セックス、その他あらゆるものを通して、私たちが崇拝する神を含んで、葛藤から逃避するのでしょうか? それとも、それとどうやって取り組むか、どうやってこの葛藤と取っ組み合うか、どうやってそれのまさに終りまで行き、心がすべての葛藤からまったく自由であることができるかどうかを見出すか、私たちは知っているのでしょうか?
>
>
> ゴト: 葛藤は本質的に野心、成功の崇拝であると。スポーツ選手を見るとわかるのではないでしょうか。彼らはすごいストレスの元にあり、刺激の強い強度の娯楽(含むばくち)、パワハラ、セクハラ等の話がしきりにあります。しかもそれは大きな経済基盤を形成していて、国民的娯楽をつくっています。一流スポーツ選手は国民の英雄です。葛藤を論ずることはどこに行きつくのでしょうか? 葛藤から自由であることの意味、意義、何よりその状態を知っている人はどれほどいるのでしょうか?


 葛藤にはビールというのが一般的のようです。

 しかし、ビールでは戦争は繰り返されるようです。

 葛藤の意味。。


[26335] 最初のザーネン講話3−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/12/30(Sun) 10:59  

1961年ザーネンの公開講話 3回目の2

 今朝は葛藤の問題を調べ、できればそれのまさに終わりまで行き、心が完全に、まったく、すべての葛藤なしにあることができるかどうか、単に観念としてだけでなく実際に私達自身で経験したいと思います。それを自分自身で本当に発見するためには、とても観念のレベルに留まっていることはできません。


ゴト: 今回の講話のテーマは葛藤です。この葛藤がまた人の持つ自然の観念としては、苦しいがこれに打ち克って越えた人が偉大な人物であるとされています。これに対してどう説くか、聴きましょう。


 明らかに外部の世界の中にある葛藤について、ひとは何もすることができません。それは世界中で、僅かの制御されていない人たちによって引き起こされています。そして私たちは彼等によって破滅させられるかもしれませんし、あるいは生き続けるかもしれません。ロシア、アメリカ、あるいは他の誰かが私たちを皆戦争に投げ込むかもしれず、私たちはそれについてほとんど何もできません。


ゴト: 外部の世界の出来事につてのこの無力感については言えると思います。しかしベトナム戦争はついに大国アメリカの撤退に終わりました。次第に戦争の中の残虐性が民間の報道等によって多くの人の知られるときのパワーの大きさもあることがいまではわかっています。しかしそれがわかって、逆に報道管制や、権力側の逆報道も巧妙の度を加えています。しかし、世界の政府と国民の知性のレベルにも大きな差が、文字通りピンからキリまであることもわかってきました。


しかし私達自身の内部の葛藤について非常に根本的なことをすることができると私は思います。そしてそれが私が討論したいことなのです。なぜ私たちの内部で、私たちの皮膚の内側で、心理的に、私たちはこのような葛藤の中にあるのでしょうか? それは必要でしょうか? そして植物化し、眠ってしまうことなしに、まったく何の葛藤もない生を送ることができるでしょうか? あなたがそれを考えたことがあるかどうか、そしてそれがあなたにとって問題であるかどうか私は知りません。私にとっては、葛藤はあらゆる形の感受性を破壊します。それはすべての思考を歪めます。そして葛藤があるところ、愛はありません。


ゴト: それで、まず、私たち自身の内部のことから始めましょう。根本的にできることがあると。
 葛藤は人間を磨くのに役立つという通念があるように思います。それに対しクリシュナムルティは葛藤は感受性を破壊し、思考を歪め、そこに愛はないと言います。


 葛藤は本質的に野心、成功の崇拝です。そして私たちは、表面のレベルだけでなく意識の非常に深い奥もまた、内的に葛藤の状態にあります。私たちがそれに気づいているかどうかなと私は思います。そして気づいているなら、それをどうしますか? 私たちは教会、本、ラジオを通して、楽しみ、娯楽、セックス、その他あらゆるものを通して、私たちが崇拝する神を含んで、葛藤から逃避するのでしょうか? それとも、それとどうやって取り組むか、どうやってこの葛藤と取っ組み合うか、どうやってそれのまさに終りまで行き、心がすべての葛藤からまったく自由であることができるかどうかを見出すか、私たちは知っているのでしょうか?


ゴト: 葛藤は本質的に野心、成功の崇拝であると。スポーツ選手を見るとわかるのではないでしょうか。彼らはすごいストレスの元にあり、刺激の強い強度の娯楽(含むばくち)、パワハラ、セクハラ等の話がしきりにあります。しかもそれは大きな経済基盤を形成していて、国民的娯楽をつくっています。一流スポーツ選手は国民の英雄です。葛藤を論ずることはどこに行きつくのでしょうか? 葛藤から自由であることの意味、意義、何よりその状態を知っている人はどれほどいるのでしょうか?


[26334] Re:[26333] [26332] [26331] 最初のザーネン講話3−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/12/29(Sat) 21:44  

> > > 1961年ザーネンの公開講話 3回目の1
> > >
> > > これらの討論の始めに言ったように、私は真面目であることが非常に重要であると思います。ここで私たちは観念を話しているのではありません。そして不幸にも私たちの多くは観念と親密であり、「そうであるもの」とではないように思われます。「そうであるもの」、事実、自分の存在の実際の状態を追跡することが、私には非常に重要に思われます。実際のことをまさに終わりまで追跡し、物事の本質を発見することが、結局、真面目さです。私たちは討論し、議論し、観念と接触していることを好みます。しかし、私には観念はどこへも導かず、非常に表面的であり、ただ象徴であるだけのように思われます。象徴に執着することは非常に浅薄な生存に通じます。観念をわきにおき、あるいは通り抜け、そうであるものに、私達自身の心、私達自身のハートの実際の状態に接触していることはきわめて骨の折れる仕事です。そして私にとっては、そのことに非常に深く、完全に、徹底的に入り込むことが真面目さを構成するのです。まさに終わりまで行く過程を通して本質の発見があり、その結果人は全体性を経験します。そしてそのとき、私たちの問題はまったく違った意味を持ちます。
> > >
> > >
> > > ゴト: 存在の実際の状態を追跡すること。そうであるものに、私達自身の心、私達自身のハートの実際の状態に接触していること。そのことに非常に深く、完全に、徹底的に入り込むことが真面目さを構成する。
> >
> >
> > この状態が人間の生きる基本姿勢であると確信するのですが、それが実は自然体としてあるのではなく、力を込めてて形成するものになりがちです。意識するとそうなります。そう言う意味で非常に困難ですね。成り行く過程に入ってしまいます。
> >  私はそのとき力が入っているなあと気づいているぐらいしかできません。新しい芽さんの訓えです。
>
>
>  >その結果人は全体性を経験します。−−、この「全体性」と「全体的に見る」も、同じレベルを述べているように思います。
>
>  「全体性」が起こるために、「そうであるもの」との直接の接触を要し、それが「真面目さ」であり、安心・安全・達成・増長を希求して、クリシュナムルティ理解を求めることは、真面目ではない。。ようです。
>
>
>  そうであるものの事実関係の知覚よりも、安心・安全・達成・増長の確立を優先することは、真面目ではない。


ここが、安心・安全・達成・増長の確立を優先することが、私たち人間の最初の過ちではないでしょうか?
 しかもこれは人間の自然的観念による生き方に思います。運動会で駆けっこして1等賞になる。それがいいことで、こころよくて、みんなに認められる。昔なかった偏差値というようなものもある。

ここを抜け出して物事の実際に親密に生きるのは大変です。もちろんこのキチガイじみた競争社会に疑問を持ち背を向けている人はいるでしょう。でも多くは対極の観念にとどまって抜け出れません。難しいですね。

講話の先を読みたいと思います。この頃、クリシュナムルティの困難を知っての説き方に注目するような気分が出てきました。


[26333] Re:[26332] [26331] 最初のザーネン講話3−1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/12/29(Sat) 16:06  

> > 1961年ザーネンの公開講話 3回目の1
> >
> > これらの討論の始めに言ったように、私は真面目であることが非常に重要であると思います。ここで私たちは観念を話しているのではありません。そして不幸にも私たちの多くは観念と親密であり、「そうであるもの」とではないように思われます。「そうであるもの」、事実、自分の存在の実際の状態を追跡することが、私には非常に重要に思われます。実際のことをまさに終わりまで追跡し、物事の本質を発見することが、結局、真面目さです。私たちは討論し、議論し、観念と接触していることを好みます。しかし、私には観念はどこへも導かず、非常に表面的であり、ただ象徴であるだけのように思われます。象徴に執着することは非常に浅薄な生存に通じます。観念をわきにおき、あるいは通り抜け、そうであるものに、私達自身の心、私達自身のハートの実際の状態に接触していることはきわめて骨の折れる仕事です。そして私にとっては、そのことに非常に深く、完全に、徹底的に入り込むことが真面目さを構成するのです。まさに終わりまで行く過程を通して本質の発見があり、その結果人は全体性を経験します。そしてそのとき、私たちの問題はまったく違った意味を持ちます。
> >
> >
> > ゴト: 存在の実際の状態を追跡すること。そうであるものに、私達自身の心、私達自身のハートの実際の状態に接触していること。そのことに非常に深く、完全に、徹底的に入り込むことが真面目さを構成する。
>
>
> この状態が人間の生きる基本姿勢であると確信するのですが、それが実は自然体としてあるのではなく、力を込めてて形成するものになりがちです。意識するとそうなります。そう言う意味で非常に困難ですね。成り行く過程に入ってしまいます。
>  私はそのとき力が入っているなあと気づいているぐらいしかできません。新しい芽さんの訓えです。


 >その結果人は全体性を経験します。−−、この「全体性」と「全体的に見る」も、同じレベルを述べているように思います。

 「全体性」が起こるために、「そうであるもの」との直接の接触を要し、それが「真面目さ」であり、安心・安全・達成・増長を希求して、クリシュナムルティ理解を求めることは、真面目ではない。。ようです。


 そうであるものの事実関係の知覚よりも、安心・安全・達成・増長の確立を優先することは、真面目ではない。
 


[26332] Re:[26331] 最初のザーネン講話3−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/12/29(Sat) 11:07  

> 1961年ザーネンの公開講話 3回目の1
>
> これらの討論の始めに言ったように、私は真面目であることが非常に重要であると思います。ここで私たちは観念を話しているのではありません。そして不幸にも私たちの多くは観念と親密であり、「そうであるもの」とではないように思われます。「そうであるもの」、事実、自分の存在の実際の状態を追跡することが、私には非常に重要に思われます。実際のことをまさに終わりまで追跡し、物事の本質を発見することが、結局、真面目さです。私たちは討論し、議論し、観念と接触していることを好みます。しかし、私には観念はどこへも導かず、非常に表面的であり、ただ象徴であるだけのように思われます。象徴に執着することは非常に浅薄な生存に通じます。観念をわきにおき、あるいは通り抜け、そうであるものに、私達自身の心、私達自身のハートの実際の状態に接触していることはきわめて骨の折れる仕事です。そして私にとっては、そのことに非常に深く、完全に、徹底的に入り込むことが真面目さを構成するのです。まさに終わりまで行く過程を通して本質の発見があり、その結果人は全体性を経験します。そしてそのとき、私たちの問題はまったく違った意味を持ちます。
>
>
> ゴト: 存在の実際の状態を追跡すること。そうであるものに、私達自身の心、私達自身のハートの実際の状態に接触していること。そのことに非常に深く、完全に、徹底的に入り込むことが真面目さを構成する。


この状態が人間の生きる基本姿勢であると確信するのですが、それが実は自然体としてあるのではなく、力を込めてて形成するものになりがちです。意識するとそうなります。そう言う意味で非常に困難ですね。成り行く過程に入ってしまいます。
 私はそのとき力が入っているなあと気づいているぐらいしかできません。新しい芽さんの訓えです。



[26331] 最初のザーネン講話3−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/12/28(Fri) 21:41  

1961年ザーネンの公開講話 3回目の1

これらの討論の始めに言ったように、私は真面目であることが非常に重要であると思います。ここで私たちは観念を話しているのではありません。そして不幸にも私たちの多くは観念と親密であり、「そうであるもの」とではないように思われます。「そうであるもの」、事実、自分の存在の実際の状態を追跡することが、私には非常に重要に思われます。実際のことをまさに終わりまで追跡し、物事の本質を発見することが、結局、真面目さです。私たちは討論し、議論し、観念と接触していることを好みます。しかし、私には観念はどこへも導かず、非常に表面的であり、ただ象徴であるだけのように思われます。象徴に執着することは非常に浅薄な生存に通じます。観念をわきにおき、あるいは通り抜け、そうであるものに、私達自身の心、私達自身のハートの実際の状態に接触していることはきわめて骨の折れる仕事です。そして私にとっては、そのことに非常に深く、完全に、徹底的に入り込むことが真面目さを構成するのです。まさに終わりまで行く過程を通して本質の発見があり、その結果人は全体性を経験します。そしてそのとき、私たちの問題はまったく違った意味を持ちます。


ゴト: 存在の実際の状態を追跡すること。そうであるものに、私達自身の心、私達自身のハートの実際の状態に接触していること。そのことに非常に深く、完全に、徹底的に入り込むことが真面目さを構成する。

(続く) やっぱり読み始めました。


[26330] Re:[26329] [26328] [26327] [26326] 判断 投稿者:ゴト 投稿日:2018/12/27(Thu) 21:07  

>  「全体的に見る」の意味の説明も、肯定的には述べることが難しいのですね。。
>
>  クリシュナムルティは、それを多様な方向から説明していますね。
>
>  いくら講話を重ねても、それで説明終了とはならない・・。
>
>  60年間、講話で世界を回って、その60年分の記録が保存され、世界に公開されている。


言葉による伝達というのは不思議なものですね。言葉の内容というより、言葉群が話者の伝えたがっている気持ちを分からせようとしているという事でしょうか。


>  今、最初のザーネン講話の第5回を読んでいるところです。


ドキン! 全く念頭にありませんでした。忘れていました。読んでみたいな。
ただしこの掲示板では今すぐは無理みたい。体調が完全ではないみたい。そういえば読みかけだったなあ! 思い出さしてくださってありがとう。

 
>  どれだけ、多様な講話に繰り返し触れても、学ぶことが尽きません。

ホントにそうですね。生きる中で学びましょう。


[26329] Re:[26328] [26327] [26326] 判断 投稿者:宮啓 投稿日:2018/12/27(Thu) 19:04  

> >  クリシュナムルティ理解のどこで躓きやすいのか・・、なぜ普及が遅いのか・・、なぜ、多くがクリシュナムルティから離れてゆくのか・・、等々の理解にも繋がるように思えます。
>
>
> クリシュナムルティの持つ香気に波長が合って感じる人がついていくのでしょう。気づきとかあるがままとかは巷にあふれています。精神的な香気は、LSDなどのドラッグのそれと混同されてわかりにくくなっています。しかし洞察(妙観察知)、直視などの価値は日本人は知っていると思います。精密な仕事に手工芸的に取り組む人はそうです。しかしトータルな精神価値と知っている人が少ないだけです。しかし世の中もどう変わるかは人知を超えています。
>
>
> >  肯定的にではなく、否定的に言うとは、どのような意味でしょうか?
>
>
> 愛といったものにアプローチするとき、そのものを肯定的に記述しようとするのではなく、例えば所有の愛は真実の愛ではないというふうに否定的に接近しますね。
>
> 真理を肯定的に言う事は甚だしく困難です。でもこれは真理、あるいは真実ではないと否定する(理屈抜きに)ことは可能でしょう。そこには論理的な精緻さではなく、確固さ、貫き通す直観・勇気のような大なる心的エネルギーが必要な気がします。そんなことを考えて書きました。


 「全体的に見る」の意味の説明も、肯定的には述べることが難しいのですね。。

 クリシュナムルティは、それを多様な方向から説明していますね。

 いくら講話を重ねても、それで説明終了とはならない・・。

 60年間、講話で世界を回って、その60年分の記録が保存され、世界に公開されている。


 今、最初のザーネン講話の第5回を読んでいるところです。

 どれだけ、多様な講話に繰り返し触れても、学ぶことが尽きません。


[26328] Re:[26327] [26326] 判断 投稿者:ゴト 投稿日:2018/12/27(Thu) 16:56  

>  クリシュナムルティ理解のどこで躓きやすいのか・・、なぜ普及が遅いのか・・、なぜ、多くがクリシュナムルティから離れてゆくのか・・、等々の理解にも繋がるように思えます。


クリシュナムルティの持つ香気に波長が合って感じる人がついていくのでしょう。気づきとかあるがままとかは巷にあふれています。精神的な香気は、LSDなどのドラッグのそれと混同されてわかりにくくなっています。しかし洞察(妙観察知)、直視などの価値は日本人は知っていると思います。精密な仕事に手工芸的に取り組む人はそうです。しかしトータルな精神価値と知っている人が少ないだけです。しかし世の中もどう変わるかは人知を超えています。


>  肯定的にではなく、否定的に言うとは、どのような意味でしょうか?


愛といったものにアプローチするとき、そのものを肯定的に記述しようとするのではなく、例えば所有の愛は真実の愛ではないというふうに否定的に接近しますね。

真理を肯定的に言う事は甚だしく困難です。でもこれは真理、あるいは真実ではないと否定する(理屈抜きに)ことは可能でしょう。そこには論理的な精緻さではなく、確固さ、貫き通す直観・勇気のような大なる心的エネルギーが必要な気がします。そんなことを考えて書きました。


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