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[24927] 解放の習慣 投稿者:宮啓 投稿日:2018/01/16(Tue) 20:08  

 『真理の種子』p291 より引用

 さらにもう一点をこのすべてに結びつけることができる、と彼(クリシュナムルティ)は加えて言った。(※1928年クリシュナムルティ33歳:ウォードハウスの覚え書きより:解放とは。本然の生。等々の話のあとにつづいて・・)

 それは、我々の全議論を出発させた点――すなわち、解放は、進化のどの段階においてでも達成できるという言明――である。

 クリシュナムルティは言った。解放はこの意味で、進化の過程とは無関係である――進化的成長の異なった段階にある二人の人間のうち、より進化していない者の方が、他方よりも前に解放に達するかもしれないのである。もしも彼に、本質的な一事――すなわち、分離的な「私」という意識を全的に殺し去ること――を進んでしようとするより多くの気組みがあれば、器の開発ではなく、それこそが、解放の真の前提条件である。その一方で、次のことが――おそらくは――言えよう。すなわち、あらゆる人間が、各人の中に、このエゴ滅却の努力をしようとする真の願いを持つに至る前に、ある一定量の進化的過程が必要であるだろう、ということが。それゆえ、解放はどの段階でも達成できるという言明は、修正されねばならない。にもかかわらず、それについて言えることは、解放は、形態の問題ではなく、生のそれであるということである。すなわち、努力する能力さえ持っていれば、達成は、何ら長大な進化的成長過程を経る必要はないのである。そして最後に、解放への最初の運動は、ごく早い段階で行われ得るのであり、そしてこの「道」に沿ったどの歩みも、それ自体が解放なのである。仕事のたとえ小さな部分でも、それを成し遂げることによって、我々は、ある点で、その全部を成就するのである。
 クリシュナムルティは、この最後の発言で彼が何を意味したかを説明した。純粋なる生は細別され得ない。それは、多少ということを何ら知らない。それは一個の絶対物である。それゆえ、もしも、それが何であれ、何らかのものとの関係においてあなたが一つの執着を打破することによって生を解放すれば、あなたはその範囲内に(それがどれほど小さくとも)、生の全体を解放するのである。何らかの反応を純粋な行為に変えることは、かくして、その後の包括的な解放とまさに同じく、それ自体が一つの解放なのである(※「反応」と「行為」については、解放の証としての説明が前述されている)。この観点からすれば、解放への旅の全体が(言うなれば)、一つの長い解放なのである。肝要なことは、正しい方向に向かっていることである。しかる後は、旅にかかるかもしれない時間の長さは、問題ではない。「解放しはじめた」ことが大切なのである。なぜならそれは、人が、なさねばならない仕事において、はっきりと生の側にくみしたことを意味しているからである。
 解放は「瞬時にして」達成し得る、さらにそのような各々の瞬間は、全幅の解放の本質的性質を持っているという考えは、クリシュナムルティが殊に強調することである。それゆえに彼は、生のあらゆる小さな物事での完成を目指す必要について、時折語るのである。なぜなら、「完成」は、絶対的な生に触れる時に自動的に随伴する、そういう特性だからである。それは、純粋なる生の自然かつ自発的な表現なのである。その結果、細部における完成を目指すことは、間接的には、純粋なる生の解放を目指すことである。そしてすべての完璧な行為は、それがいかに小さくとも、かくして一つの解放なのである。
 最後に、クリシュナムルティは次のように言った。「こうすることによって、我々は、最終的な自由が達成されるはるか以前に、いわば『解放の習慣』を確立できるのである」

 ― ― ― 以上引用 ― ― ―

 最終的な悟りが達成されるはるか以前に、私たちは『解放の習慣』が確立できているようです。


[24926] 本然の生 投稿者:宮啓 投稿日:2018/01/16(Tue) 20:06  

 変容を遂げた後にあるところの「本然の生」が述べられているようなので、ご参考までに、引用させてください。


『真理の種子』p284より引用

 E・A・ウォードハウス:クリシュナムルティが少年時代の時の家庭教師。ドペルシュワルカール教授の恩師。

 1928(星の教団解散1年前:クリシュナムルティ33歳)


 ウォードハウスの問いかけ
「解放とは何か?我々は、解放された個人のことを、依然として何らかの仕方で活動的であるものとして考えるべきなのか?それとも解放は、寂滅を意味するのだろうか?多くの人々は、クリシュナムルティの教えを聞いて、解放を寂滅と考える。彼らはそれを、生に完全な終止符を打つことと取る。これは、一つには彼自身が、しばしばそれを『目標(ゴール)』として語ったため、一つには伝統的に(仏教その他で)それがまるであらゆるものの終わりを意味するかのように扱われているためであり、さらに一つには、個別的な生が普遍性へ溶け込んでしまったら、そこには、どのような種類のそれ以上の活動があり得るのか、多くの人々はそれを想像するのが困難であることを見いだすからである。」

 この難題に対して、クリシュナムルティは、解放を寂滅とみなすことは間違いである、と答えた。これは、図らずもタゴールの仏教理解と軌を一にしている。それは、より正しく言えば始まりなのである。それにもかかわらず、ある意味では、それは全くの始まりではない。なぜなら純粋な生は、完全に時間の外にあるからである。それでも、この特別の問いに答える目的のために、我々は、それを始まりとして話を進めてよいだろう、なぜならそれは、「真実の、あるいは本然の生」の始まりだからである。解放の時点までは、我々は見せかけの生を送っている。我々は、幻想の領域にいる。その後にのみ、我々は、それが真に意味しているものとしての生に入るのである。この観点からすれば、解放を「目標」として語ることは、確かにまぎらわしい。それに到達しようと努力している者にとっては、それは目標である。しかし本質的には、それは出発点というのがより本当である。

 解放それ自体には、現象界でのさらなる活動をはばむものは何もない。もちろん、何の強制もあり得ない。なぜなら強制からの自由が、解放という観念に含蓄されているからである。しかし、もしも解放された生がそう欲すれば、それは物質の世界に現れることができる。そしてそれが物質の世界に入る限りにおいて、それはその世界の法則、すなわち進化の下に置かれるであろう。
 しかし、たとえそうであっても、解放後に引き続いて起こる成長は、解放前のそれとは異なった種類のものであるだろう。なぜなら、それは絶対的、または純粋な生を吹き込まれた成長になるだろうからだ。以前には、エゴがあった(またはあるように思われた)、そして成長はこれの展開として現れた。今や、もはやエゴはない。それは、解放で永久に消滅してしまったのである。それゆえ我々が把握しなければならないことは、もしも我々ができるとすれば−−そしてそれは容易ならざることだが−−普遍的な生が、その自己表現のための新鮮な道具を築き上げていくという観念である。これらの道具は形態の世界にあり、そしてそれゆえその世界で個性の外見を持っている。

 解放後の活動の主な徴(しるし)は、それが絶対的に自然で、自発的で、無意識だ、ということだろう。それは、それ自身の普遍性を実現しているだろう。そして物事を妨げるような、いかなる個別的な「私(自我)性」の意識ももはやないので、その活動は、花のそれのように単純かつ自然であるだろう。

 ウォードハウスの問いかけ

 そのような生は、我々が今持っているようなその「自我性」の意識に対応するような何かを持っているのだろうか?すなわち、その経験は、我々のそれのように、認識する中心に帰されるのだろうか?それは、何らかの種類の意識的な自己主体性(アイデンティティ)を残しているのか、あるいはそれともそれは、その普遍性のゆえに、それ自身と他者の生との一体化において、これを完全に失うのだろうか?

 ウォードハウスのこれらの質問に対するクリシュナムルティの答えは、次のようなものだった。それは、依然として自己主体性意識と呼び得るようなものを残している。それは、言うなれば、依然としてそれ自身の目を通して世界を見つめ、そしてそのすべての経験をそれ自身に帰する。しかしその「セルフ」は、エゴではない。それは、あのより一層霊妙なもの−−個人の独自性(ユニークネス)である。そしてここにおいて、我々は、我々の思考力の網をほとんどかいくぐるに違いないあるものにぶつかる。個人の独自性は、エゴがそうであるような形態上の区別化ではない。それは、生自体に固有の区別化なのである。そしてそれは、言うなればエゴが存在することをやめた時にのみ、十全な活動に入るのである。かくのごとき独自性は、あらゆる個人の生を、他のすべてから区別し、そしてそれに、それ自身の意識の中心を付与するのである。そして、たとえ普遍的な生が実現されても、この独自性はそのまま残るのである。人はそれを、個人性からいっさいのエゴイズムがはき出された時に残る、あの、個人性の純粋に抽象的な「形(フォーム)」として語ることができよう。

 それは個人的であると同時に、普遍的なのである。具体的な言語表現でそれに迫る一番の近道は、それを焦点として、それを通じて普遍的な生が解き放たれるところの焦点、およびそれを通して、解放後に普遍的な生が自由に現れるところの焦点として述べることである。人間にとって、「生の全体性」への消滅という意味での、絶対者への完全な没入はあり得ないのであって、この個人の独自性に伴う抽象的かつ希薄な区別化は、ずっと存続していく。そして、もしも解放された生がそう欲すれば、形態の世界でそれが依然として経験し得る、その後引き続く進化的成長を可能にするのは、この独自性なのである。

 それゆえ、そのような独自性は消えたり、あるいは「蒸発」するものどころか、それは、実のところ、我々各人が生に対してする最高の賜物なのである。なぜなら、ひとたびそれがいっさいのエゴイズムから浄化されるや、それは、言うなれば新たな窓−−それを通して普遍的な生がそれ自身を実現できる−−になるのである。すべての個人的な生は、このようにして、宇宙を増やすのである。なぜならそれは、絶対者に対して新鮮な世界−−その中でそれ自身の「存在」を発見し、そして再創造できる−−を与えるからだ。なぜなら、エゴが、自らの手で営々と構築してきたものを捨て去り、そしてより大いなる生がこれを引き継ぐのは、その時だからである。別の言い方をすれば、エゴは、「生」が生き得るために、死ぬのである。

 そしてここにおいて、クリシュナムルティは、我々はこれこれの「解放を得る」という言い方は、用語の誤用であることが分かる、と指摘した。解放されるところのものは、個人ではなくて、常に生である。事実、そのような解放が達成されるのは、個人を犠牲にしてである。生のみがその取引によって益するのである。解放していく過程の両側に存続する個人の独自性は、それがエゴに属する代わりに、本当は、初めからずっと普遍的な生に属していたのだということを見いだすのである。しかしながらその発見は、解放時またはその後に行われるのである。解放への過程は、常に個人性を殺し去るようでなければならない−−このゆえにその苦痛がある。古いことわざである「汝は、生きるためには死なねばならない」は、依然として真実である。解放は、その時には、分離性の破壊による生の解放であり、それゆえその生は、その時以降は、個人の独自性の純粋な形によって、充分に働くことができるのである。そしてこれが、先に言及した「本然の生」である。解放において確立され、そしてまずそれ自身の手に入るところの−−。

 − − − 以上引用 − − −


 更に、話は進むようです‥。


[24925] Re:[24924] [24904] 消去の過程 その5 投稿者:宮啓 投稿日:2018/01/16(Tue) 12:06  

> >  この消去の過程の後、以上すべての非本質的なものから手を切った後に何が残るでしょう?お教えしましょう。動揺させられることのない静謐な精神と心、柔軟で、活気に満ち、情熱的な精神と心です。それらすべてを拒否した人の精神と心はバランスがとれ、強く、確信に満ち、恍惚とし、明晰で純粋で、決然としているのです。
>
>  ここです。ここの「以上すべての非本質的ななものから手を切った時、…」の中の『非本質的なもの』、これです。
>
> ここの「非本質的なもの」が、今回印刷して読んだ時、私には否定的なものを一瞥に照らし出す普遍的な言葉にとして心に飛び込んできました。
>
> 本質的と非本質的なものは、知覚と並んで直観できるものですよね。犬や猫やキリンは一目でそれとわかります。人類の共通に持つ直観です。本質的であるかどうかなら、心がだいぶさび付いていますが、そのつもりで心を使えばわかるのではないですか?自分で実験することができるでしょう。これで一億年問題になやまずに済みそうな気がします。(ゴト)


 クリシュナムルティ理解に取り組んで変ることは、本質的なものと非本質的なものを自然と見分けることができる「目(心・精神)」が育つことだと感じています。

 そして、それがありありと見えたとしても、なおも、非本質的なものの中に留まろうとする自分が見えるのです。

 これが「一億年問題」の本質であるように思います。


 >あなた方自身の内にこの断絶を生み出すには勇気、弁別力が必要ですが、あなた方はまだそれをお持ちではない。あなた方は、自分に好都合な程度までは歩みますが、けっして最後まで歩もうとはしません。(その1より引用)−−、これがよく見えます。

 勇気が100パーセントあっても、弁別力が不十分であれば、その先へは進めない。

 又、弁別力が100パーセントあっても、勇気が不十分であれば、その先へは進めない。


 勇気と弁別力の両方が十分に育つことは容易なことではないのか・・。



> >  そしてあなた方がその状態に至ると、永遠なるものの衣を纏うことができるのです−−それに至る以前にではなく。もしあなた方の精神と心の中に少しでも腐敗因子があれば、あなた方は腐敗を免れることはできません。
> >  さらに人間は、自由であるがゆえに、進んでみずからに制限を加える[訳注:好き勝手なことをしたり、放縦になることをみずからに許さない]のです。すなわち、人間は、彼を導くいかなる外部の権威も持たず、いかなる神の支配も受けないがゆえに、まさに自由に自分の望みどおりにするのです。彼は元来自由なのですが、みずからに制限を加えることによってみずからを自由にすべく努めていくのです。自由であるがゆえに(非本質的なものを)拒絶し、そのようにしてみずからを制限することによって、自由へと成長していくのです。あなた方は自由ではないでしょうか?まさに自分の望みどおりのことをしています。誰もあなた方を導いておらず、何が正しく何が間違っているかを誰もあなた方に教えてはいません。あなた方は、自分がすべき行為の選択、自分が感じるべき感情の選択、自分が考えるべき思考の選択においてまったく自由なのです。あなた方はまさに自由であるがゆえに、制限されるのです。たとえあなた方を導き、監督し、支配している超人的存在がおり、その存在は自由だとしても、あなた方自身はなお制限され、自由ではないのです。まさにあなた方は自由に自己選択できるがゆえに、あなた方の選択は制限され、それゆえあなた方の願望、思考は制限されるのです。自由であるがゆえにみずからに制限を加えるのです。獲得し、しかる後に放棄し、集め、しかる後に捨てることによって、あなた方は自分が意識するしないにかかわらずその部分になっているあの(本然の)<生>に他ならない自由に向かって成長するのです。自由であるがゆえに、あなた方は願望によって経験を蓄えるのです。願望は経験を求めます。経験はそのはけ口なのです。そして経験によってあなた方はあの状態−−すべての経験を味わい、あらゆる願望を持ったがゆえに至る、それらを越えたあの状態−−へと成長していくのです。
>
>  非本質的なことにとらわれる時は自由を失っている、つまりお金にとりこになっているようなものですね。(ゴト)


 それが見えていて、そこに留まっている。腐敗因子があっても、見えていても、それを消去できないでいる・・。



> >  あなた方が「私」の本質、その純粋さ、その力を知らないかぎり、「私」に対して鈍感なのです。あの輝ける「私」を発見し、あの静謐、あの乱しがたい状態、あの力と確信を備えるためには、以上述べたような消去の過程を経なければなりません。もし「私」が腐敗を免れ、完全に至るべきなら、それは徹底的に不完全さを免れなければなりません。なぜなら、完成はすべての不完全を拒むからです。消去、拒否、放棄−−あるいは、これらに相当するあなた方のお気に入りのもの−−の過程によって、あなた方は「私」が静謐で、明晰で、純粋で、決然とし、エネルギッシュで情熱的な状態にある、そういう精神と心の状態に至らねばなりません。で、あなた方がその状態に至る時、あなた方は「私」を教育し始めることができます。精神と心を永遠なるものの見地で陶冶するためには、すべての非本質的なものを取り除かねばならないのです。別の機会に言いましたように、非本質的なものは恐怖によって引き起こされるので、それらを取り除くことによって、あなた方は永遠なるもの、永続的なるもの、すなわち「私」に至るのです。それは、あなた方が世界を離れ、修道院に籠もり、あるいは出家しなければならないという意味ではなく、「私」の表現であるこの世界に住みながら、「私」の本性を理解しなければならないということです。そしてこの「私」を発見するためには、(非本質的な)あらゆるものを剥ぎ取らねばならないのです。それが唯一の直進路なのです。
>
>  非本質的なものを否定した時、あなたは「私」を教育し始めることができる?これは何を言い出しているのだろう。私はこれで終わりで後は生きることだけがあると思っていました。生の中ではもちろん学びが山ほどあるでしょうが。次を読まないとわからないかも。(ゴト)



 この>あなたは「私」を教育し始めることができる−−、これは『真理の種子』の中で、クリシュナムルティの元家庭教師との対話で「本然の生」について述べられているところのものと思います。



[24924] Re:[24904] 消去の過程 その5 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/16(Tue) 10:08  

>  この消去の過程の後、以上すべての非本質的なものから手を切った後に何が残るでしょう?お教えしましょう。動揺させられることのない静謐な精神と心、柔軟で、活気に満ち、情熱的な精神と心です。それらすべてを拒否した人の精神と心はバランスがとれ、強く、確信に満ち、恍惚とし、明晰で純粋で、決然としているのです。

 ここです。ここの「以上すべての非本質的ななものから手を切った時、…」の中の『非本質的なもの』、これです。

ここの「非本質的なもの」が、今回印刷して読んだ時、私には否定的なものを一瞥に照らし出す普遍的な言葉にとして心に飛び込んできました。

本質的と非本質的なものは、知覚と並んで直観できるものですよね。犬や猫やキリンは一目でそれとわかります。人類の共通に持つ直観です。本質的であるかどうかなら、心がだいぶさび付いていますが、そのつもりで心を使えばわかるのではないですか?自分で実験することができるでしょう。これで一億年問題になやまずに済みそうな気がします。(ゴト)

>  そしてあなた方がその状態に至ると、永遠なるものの衣を纏うことができるのです−−それに至る以前にではなく。もしあなた方の精神と心の中に少しでも腐敗因子があれば、あなた方は腐敗を免れることはできません。
>  さらに人間は、自由であるがゆえに、進んでみずからに制限を加える[訳注:好き勝手なことをしたり、放縦になることをみずからに許さない]のです。すなわち、人間は、彼を導くいかなる外部の権威も持たず、いかなる神の支配も受けないがゆえに、まさに自由に自分の望みどおりにするのです。彼は元来自由なのですが、みずからに制限を加えることによってみずからを自由にすべく努めていくのです。自由であるがゆえに(非本質的なものを)拒絶し、そのようにしてみずからを制限することによって、自由へと成長していくのです。あなた方は自由ではないでしょうか?まさに自分の望みどおりのことをしています。誰もあなた方を導いておらず、何が正しく何が間違っているかを誰もあなた方に教えてはいません。あなた方は、自分がすべき行為の選択、自分が感じるべき感情の選択、自分が考えるべき思考の選択においてまったく自由なのです。あなた方はまさに自由であるがゆえに、制限されるのです。たとえあなた方を導き、監督し、支配している超人的存在がおり、その存在は自由だとしても、あなた方自身はなお制限され、自由ではないのです。まさにあなた方は自由に自己選択できるがゆえに、あなた方の選択は制限され、それゆえあなた方の願望、思考は制限されるのです。自由であるがゆえにみずからに制限を加えるのです。獲得し、しかる後に放棄し、集め、しかる後に捨てることによって、あなた方は自分が意識するしないにかかわらずその部分になっているあの(本然の)<生>に他ならない自由に向かって成長するのです。自由であるがゆえに、あなた方は願望によって経験を蓄えるのです。願望は経験を求めます。経験はそのはけ口なのです。そして経験によってあなた方はあの状態−−すべての経験を味わい、あらゆる願望を持ったがゆえに至る、それらを越えたあの状態−−へと成長していくのです。

 非本質的なことにとらわれる時は自由を失っている、つまりお金にとりこになっているようなものですね。(ゴト)

>  あなた方が「私」の本質、その純粋さ、その力を知らないかぎり、「私」に対して鈍感なのです。あの輝ける「私」を発見し、あの静謐、あの乱しがたい状態、あの力と確信を備えるためには、以上述べたような消去の過程を経なければなりません。もし「私」が腐敗を免れ、完全に至るべきなら、それは徹底的に不完全さを免れなければなりません。なぜなら、完成はすべての不完全を拒むからです。消去、拒否、放棄−−あるいは、これらに相当するあなた方のお気に入りのもの−−の過程によって、あなた方は「私」が静謐で、明晰で、純粋で、決然とし、エネルギッシュで情熱的な状態にある、そういう精神と心の状態に至らねばなりません。で、あなた方がその状態に至る時、あなた方は「私」を教育し始めることができます。精神と心を永遠なるものの見地で陶冶するためには、すべての非本質的なものを取り除かねばならないのです。別の機会に言いましたように、非本質的なものは恐怖によって引き起こされるので、それらを取り除くことによって、あなた方は永遠なるもの、永続的なるもの、すなわち「私」に至るのです。それは、あなた方が世界を離れ、修道院に籠もり、あるいは出家しなければならないという意味ではなく、「私」の表現であるこの世界に住みながら、「私」の本性を理解しなければならないということです。そしてこの「私」を発見するためには、(非本質的な)あらゆるものを剥ぎ取らねばならないのです。それが唯一の直進路なのです。

 非本質的なものを否定した時、あなたは「私」を教育し始めることができる?これは何を言い出しているのだろう。私はこれで終わりで後は生きることだけがあると思っていました。生の中ではもちろん学びが山ほどあるでしょうが。次を読まないとわからないかも。(ゴト)

>
>  − − − 以上引用 − − −
>
>  つづく


[24923] Re:[24921] [24919] [24903] 消去の過程 その4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/16(Tue) 08:58  

> > >  再び、あなた方は権威から−−私の権威だけでなく、他のあらゆる権威から−−自由にならなければなりません。
> > >  − − − 以上引用 − − −
> >
> >
> > ここはかなり長文ですが、権威を創り出し、投影すること、そこから生じる恐怖という心の既成の軌道、構造から自由になることを書いているようです。これらは終戦以降のトークがはるかに精緻に書かれていると思います。個の自由であることが今あるか否かは多くの人を考えさせたのではないでしょうか。そして実際に生活を変えたのではないでしょうか?それともここが実際には不徹底であり、大した意義のないことと見ればそれまでになってしまいますが、しかし、私はそうは見ていないのです。
>
>
>  まず、>さらにあなた方は慣習、隣人たちが言うことへの恐れから自由でなければなりません。が、これはかなり困難です − 神々への恐れから自由になることよりもずっと困難なのです。−−、本当に、この困難を突破したのか・・。
>
>  >それからあなた方は喪失と獲得 − 金銭的、物質的、感情的、精神的喪失と獲得 − への恐れから自由にならなければなりません。−−、本当に、この金銭的、物質的、感情的、精神的喪失と獲得、これから自由になったのか・・。
>
>  >生と死への恐怖から自由でなければなりません。−−、本当に死への恐怖から自由になったのか・・。
>
>  重要なことは、自由になることではなく、自由でない私を「見る」ことであり、問題となるのは、自由でないにもかかわらず、自由であると見誤ることではないでしょうか・・。

 と言うと見誤っているか、いないかという審判官が登場します。そうなってはたまりません。どうしてもヴィジョンが必要だと思います。

次からKが全体像を語り始めていて、それを私は初めて読みました。戦後のトークでそれらしきものを読んだ覚えがありません。これは秘教的部分なのでしょうか?次に移らしてください。やみをはらす(?)ことばがのべられているきがするのです。



[24922] Re:[24920] [24917] [24915] [24913] [24901] 消去の過程 その2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/16(Tue) 08:27  

> > > > > (後略)これより先、「消去の過程」の実践的説明が述べられています。
> >
> > 前略
> > >
> > >  「闇」の権利、すなわち>もしあなた方が闇の中に留まっていれば、「私は闇の中で満足し、それを楽しむのだ」と言うでしょう。あなた方にはそうするための完全な権利があります。−−、私たちは、その「闇」をそれほど深く知らないのでしょうか・・。
> > >
> > >  クリシュナムルティは断崖や毒蛇のごとく、その「闇」を見ている。しかし、私たちは、その「闇」をそのようには、見ない。祖父や祖母、そして親や子たちが、そして皆、その「闇」で生まれ、生き、死んでいく・・。だから、その「闇」を断崖や毒蛇のごとくは見ていない。
> > >
> > >  その「闇」を断崖や毒蛇のごとく見る、頭で理解するのではなく、そのときに、変容が起こりうるのか・・。
> > >
> >  自分は生まれながらにして、肯定的にも否定的にも、否応なく条件づけられています。それがあるがままの実際です。その闇の部分を浄化せよと言われる。
> >
> >  まず第一に闇の部分とは何かは宗教的権威をはじめとしてこれからも話しを聴きますが、それは認識=分別せよという事なのか、崖の危険に気づくように直感的に、あるいは本能的に気づくことなのか。動物が本能的にわかることは動物並みの事柄で、数百万年かけて築かれたものと思われますが、ヒトは人並みの危険に本能的・直感的に気づくことをやらなければならないとすると、気づくスピードより、新しい危険の増すスピ−ドが速いのではないかと思うくらいですが、そうか、それを過たずに伝える世界教師(覚者)がK一人でなく数名いたら全然違うだろうという事ですか。
> >
> > 後略
>
>
>  重要なことは、今、選択を迫られていても、躊躇する私、熱くあるのか冷たくあるのか・・。決めきれない私・・。闇の深さが見えない・・光の深さが見えない・・。それゆえに、その一歩が踏み出せない私を、「見る」。
>
>  問題なのは、私は変容した・・。私は俯瞰している・・一瞥している。と、見誤ることではないでしょうか・・。
>
>  一億年先になるようなことに対して、大丈夫と見誤ること。


人は認識・分別、魅惑と躊躇の時間(達成)の中にいる。これを一瞥の中に見ないと1億年かかる。そこで先に進みましょう。


[24921] Re:[24919] [24903] 消去の過程 その4 投稿者:宮啓 投稿日:2018/01/15(Mon) 21:19  

> >  さらにあなた方は慣習、隣人たちが言うことへの恐れから自由でなければなりません。が、これはかなり困難です−−神々への恐れから自由になることよりもずっと困難なのです。慣習は弱虫たちのために作り上げられるのであり、弱虫は慣習によって作り上げられるのです。が、慣習への恐れからの自由は放縦を意味するわけではありません。慣習は、弱い人を力づくで道を外させないようにしておくために作り上げられます。が、もしあなた方が慣習への恐れから自由なら、それは自分が正しい行為をするよう、より厳しい要求を自分自身にすることを意味しているのです。あなた方は皆、殺人を犯そうと望んでいる一般人から慣習の束縛を取り除いたらどうなるか、心配しています。それは、誰の心にもすぐに浮かぶ問いです。心配無用です。彼を生み出し、彼の弱さ、彼の願望を生み出したのはあなた方なのです。なぜなら、あなた方自身が恐れていたからです。ですからあなた方が変わり、隣人たちが言うこと、家族が考えていること、社会が考えていることへの慣習的な恐れ、グルへの恐れといった、すべての無数の幼稚な恐れから自由にならなければならないのです。
> >  それからあなた方は喪失と獲得−−金銭的、物質的、感情的、精神的喪失と獲得−−への恐れから自由にならなければなりません。あなた方は自分自身に対する責任があります。これは、変わりやすいあらゆるものに言えるということにどうか注意してください。お金、力、愛といった無数のものには喪失と獲得両方の可能性があるのです。よくよく考えてみれば、おわかりになるでしょう。
> >  再び、生と死への恐怖から自由でなければなりません。<生>には生も死もありません。それは連続的過程であり、けっしてやむことなく、常に変化していくのです。<生>の中には、ある瞬間に誕生が、そして他の瞬間に死があるということはありえません。変わるのは身体的表現だけです。で、あなた方は皆生よりも死の方をより多く追い求めており、生において何が起こるかよりは死後何が起こるかにより多く関心があるのです。なぜなら、あなた方には生と死、すなわち誕生と死があるからです。昼と夜、光と闇があるように、誕生と死があるのです。あなた方はそれについての恐れから自由にならなければなりません。もしあなた方が自分自身の純粋さを発見し、自分自身の基準を立てることを願うのであれば、そうした恐れから自由にならなければならないのです。
> >  次に、孤独への恐れや仲間欲しさに駆られてはなりません。あなた方は独りぼっちでいることを恐れ、単独であることができません。誰か頼れる人がいてくれることを望み、励まされ、叱咤され、あるいは「よくやった」とほめてくれる人を欲しています。ちやほやされ、お世辞を言われたいのです。あなた方の全宗教はまさに賞罰に訴え、寄り添って、孤独をまぎらわしてもらいたがる心性につけ込むのです。火なしには純金を生み出すことはできませんが、ちょうどそのように、逆境なしには強い人間を生み出すことはできません。理解するためには泣き笑いしなければならないかもしれませんが、しかし<生>には笑いも涙もありません。あなた方は孤独や仲間付き合いに無頓着にして、単独でなければなりません。なぜなら、もしあなた方が<生>を愛すれば、孤独を恐れたり仲間欲しさに駆られたりしなくなるからです。それは”ただある”のです。
> >  さらにあなた方は、不確かさへの恐れから自由にならなければなりません。ここに聞きに来られた方々およびキャンプに滞在している方々の大半は不確かです。ある基準が掲げられていたのですが、それが崩されてしまったので、今や不確かになっているのです。あなた方は皆、問題を解決し、どうすればいいか教えてくれる指導者が欲しいのです。が、指導者たちが問題を解決してくれるわけではないのです。なぜなら、ここで話しているような種類の問題においては指導者も子供もないからです。あなた方が自分自身で問題を解決し、一定のことが疑う余地もなく正しいとみずから確信すれば、まさにそのような確信があなた方を不確かさへの恐れから自由にするのです。
> >
> >
> >  ですからあなた方はあらゆるものを疑い、まさにその懐疑の炎の中で確信を得るようにしなければならないのです。ものごとにうんざりしている時、不幸な時に疑ってはだめです。それなら誰にでもできます。あなたが恍惚に浸っている瞬間にのみ疑わなければなりません。なぜならその時、それでもなお残るものが真実か虚偽かを見出すことができるからです。
> >  再び、あなた方は権威から−−私の権威だけでなく、他のあらゆる権威から−−自由にならなければなりません。「私たちは、何世紀も前から今まで、これこれのことをするようにと言われてきました」とあなた方は言うかもしれませんが、それではだめです。あなた方は、誰かに言い聞かされる子供ではないのですから。霊的・宗教的なことがらにおいては、権威というものは一瞬たりとも通用しないのです。重要なのはあなた方の個人的体験であって、権威ではないのです。あなた方は、世界中のあらゆる宗教の中で、あなた方自身の理解によってのみ、あらゆる虚偽を拒絶することによってのみ真実を見出すと、繰り返し言われてきたにもかかわらず、なおも権威に従うのです。なぜなら、その方がずっと楽だからです。権威への恐れから自由になりなさい。それは木のように切り倒し、完全に崩すことができるのです。
> >  それからあなた方は、身体的、感情的、精神的慰藉への願望から自由にならなければなりません。慰藉は避難場への願望を生み出し、避難場は神の形をとって現われ、そしてその神は神殿、教会または寺院に祀られるのです。その神は恐怖から生まれるのです。ですから、身体的、感情的、精神的慰藉あるいは鼓舞から自由になりなさい。私が提供しているのは冷淡な哲学ではありません。私は<生>について話しているのであって、それは熱くも冷たくもなく、哲学でもなければ学説でもないのです。
> >  さらにあなた方は愛着や憎しみから自由でなければなりません。すなわち、自分が好かれているかいないかへのこだわりから自由であり、また自分が憎まれているかいないかに無頓着でなければならないのです。あなた方自身の行為は、愛憎からではなく、あなた方自身の固有の願いから生まれなければならないのです。どうかこれについて熟考していただきたい。愛着や憎しみを介在させてあなた方の判断を歪めさせてはならないのです。もしあなた方が、誰か特定の人への愛着ゆえに一定のことをしたり、一定の仕方で変わるのなら、それは本当の愛でもなければ、行為への本当の理由でもないのです。行為は無私なる動機から起こるべきです。なぜ私がこういったすべてをしていると思いますか?あなた方全員が私を好きだからですか?私がこうしているのは、それが正しいと思うからであり、他の誰かのせいではありません。私がこうしているのは、あの不変不易の<生>、終わりも誕生も死も持たず、いかなる恐怖の獄舎にも縛られていないあの<生>と和合しているからです。が、これはあなた方がお互いに愛し合ってはならないという意味ではありません。
> >  さらに、自分自身を表現しそこなうことへの恐れがあります。が、もしありのままの自分のことを知らなかったら、いかにして自分自身を表現することができるでしょう?ありのままの自分を見出すためには、以上述べたようなすべてのものから自由にならなければなりません。
> >  願望にまつわる恐れ、野心、嫉妬、羨望、競争にまつわる恐れ、さらに苦痛や悲しみへの恐れ−−最後に残る永遠なるものを発見するためには、あなた方はこれらすべてから自由でなければならないのです。自分が自由であると想像し、その自由を身体的表現に移してごらんなさい。もしあなた方が世界を変えるつもりなら、そのいずれかの部分に属することはできないのです。
> >  少しだけ変えても無駄です。完全な断絶がなければなりません−−それが前進するための唯一の道なのです。
> >
> >  − − − 以上引用 − − −
> >
> >  つづく
>
>
> ここはかなり長文ですが、権威を創り出し、投影すること、そこから生じる恐怖という心の既成の軌道、構造から自由になることを書いているようです。これらは終戦以降のトークがはるかに精緻に書かれていると思います。個の自由であることが今あるか否かは多くの人を考えさせたのではないでしょうか。そして実際に生活を変えたのではないでしょうか?それともここが実際には不徹底であり、大した意義のないことと見ればそれまでになってしまいますが、しかし、私はそうは見ていないのです。


 まず、>さらにあなた方は慣習、隣人たちが言うことへの恐れから自由でなければなりません。が、これはかなり困難です − 神々への恐れから自由になることよりもずっと困難なのです。−−、本当に、この困難を突破したのか・・。

 >それからあなた方は喪失と獲得 − 金銭的、物質的、感情的、精神的喪失と獲得 − への恐れから自由にならなければなりません。−−、本当に、この金銭的、物質的、感情的、精神的喪失と獲得、これから自由になったのか・・。

 >生と死への恐怖から自由でなければなりません。−−、本当に死への恐怖から自由になったのか・・。

 重要なことは、自由になることではなく、自由でない私を「見る」ことであり、問題となるのは、自由でないにもかかわらず、自由であると見誤ることではないでしょうか・・。


[24920] Re:[24917] [24915] [24913] [24901] 消去の過程 その2 投稿者:宮啓 投稿日:2018/01/15(Mon) 20:20  

> > > > (後略)これより先、「消去の過程」の実践的説明が述べられています。
>
> 前略
> > > >  もしあなた方の精神と心が崇拝、祈り、恐怖、不安によって抑制されていれば、その時にはあなた方の観念は完成であるところのあの永遠なるもの、あの不滅なるものに根ざすことはできません。ですから、そういったすべてのものにとらわれないようにしてください。どうか私が言っていることを持ち帰って、「あの人は違うことを言いたいのだ。彼は私たちがこの特定の教会、またはあの特定の宗教、または他の特定のことのためにわれわれが働くように言っているのだ」と言わないようにしてください。それは、あなた方が真理を見出すことができないがゆえの言い訳なのです。あなた方はそういったすべてのものの奴隷であり、それらの影の中に生きているのです。どうすれば日光を理解できると思いますか?あなた方自身以外の誰も、あなた方を日の下に引き出すことはできません。他の誰かに救いを求めることは実に幼稚です。誰もあなた方を救い出すことはできないのです。あなた方自身が多大の努力を払って、影から飛び出さねばならないのです。もしあなた方が闇の中に留まっていれば、「私は闇の中で満足し、それを楽しむのだ」と言うでしょう。あなた方にはそうするための完全な権利があります。が、もし光とその明るさ、清浄さ、静けさを味わいたければ、あなた方は闇から抜け出さねばならないのです。
> >
> >
> >  「闇」の権利、すなわち>もしあなた方が闇の中に留まっていれば、「私は闇の中で満足し、それを楽しむのだ」と言うでしょう。あなた方にはそうするための完全な権利があります。−−、私たちは、その「闇」をそれほど深く知らないのでしょうか・・。
> >
> >  クリシュナムルティは断崖や毒蛇のごとく、その「闇」を見ている。しかし、私たちは、その「闇」をそのようには、見ない。祖父や祖母、そして親や子たちが、そして皆、その「闇」で生まれ、生き、死んでいく・・。だから、その「闇」を断崖や毒蛇のごとくは見ていない。
> >
> >  その「闇」を断崖や毒蛇のごとく見る、頭で理解するのではなく、そのときに、変容が起こりうるのか・・。
> >
>  自分は生まれながらにして、肯定的にも否定的にも、否応なく条件づけられています。それがあるがままの実際です。その闇の部分を浄化せよと言われる。
>
>  まず第一に闇の部分とは何かは宗教的権威をはじめとしてこれからも話しを聴きますが、それは認識=分別せよという事なのか、崖の危険に気づくように直感的に、あるいは本能的に気づくことなのか。動物が本能的にわかることは動物並みの事柄で、数百万年かけて築かれたものと思われますが、ヒトは人並みの危険に本能的・直感的に気づくことをやらなければならないとすると、気づくスピードより、新しい危険の増すスピ−ドが速いのではないかと思うくらいですが、そうか、それを過たずに伝える世界教師(覚者)がK一人でなく数名いたら全然違うだろうという事ですか。
>
> 後略


 重要なことは、今、選択を迫られていても、躊躇する私、熱くあるのか冷たくあるのか・・。決めきれない私・・。闇の深さが見えない・・光の深さが見えない・・。それゆえに、その一歩が踏み出せない私を、「見る」。

 問題なのは、私は変容した・・。私は俯瞰している・・一瞥している。と、見誤ることではないでしょうか・・。

 一億年先になるようなことに対して、大丈夫と見誤ること。


[24919] Re:[24903] 消去の過程 その4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/15(Mon) 18:19  

>  さらにあなた方は慣習、隣人たちが言うことへの恐れから自由でなければなりません。が、これはかなり困難です−−神々への恐れから自由になることよりもずっと困難なのです。慣習は弱虫たちのために作り上げられるのであり、弱虫は慣習によって作り上げられるのです。が、慣習への恐れからの自由は放縦を意味するわけではありません。慣習は、弱い人を力づくで道を外させないようにしておくために作り上げられます。が、もしあなた方が慣習への恐れから自由なら、それは自分が正しい行為をするよう、より厳しい要求を自分自身にすることを意味しているのです。あなた方は皆、殺人を犯そうと望んでいる一般人から慣習の束縛を取り除いたらどうなるか、心配しています。それは、誰の心にもすぐに浮かぶ問いです。心配無用です。彼を生み出し、彼の弱さ、彼の願望を生み出したのはあなた方なのです。なぜなら、あなた方自身が恐れていたからです。ですからあなた方が変わり、隣人たちが言うこと、家族が考えていること、社会が考えていることへの慣習的な恐れ、グルへの恐れといった、すべての無数の幼稚な恐れから自由にならなければならないのです。
>  それからあなた方は喪失と獲得−−金銭的、物質的、感情的、精神的喪失と獲得−−への恐れから自由にならなければなりません。あなた方は自分自身に対する責任があります。これは、変わりやすいあらゆるものに言えるということにどうか注意してください。お金、力、愛といった無数のものには喪失と獲得両方の可能性があるのです。よくよく考えてみれば、おわかりになるでしょう。
>  再び、生と死への恐怖から自由でなければなりません。<生>には生も死もありません。それは連続的過程であり、けっしてやむことなく、常に変化していくのです。<生>の中には、ある瞬間に誕生が、そして他の瞬間に死があるということはありえません。変わるのは身体的表現だけです。で、あなた方は皆生よりも死の方をより多く追い求めており、生において何が起こるかよりは死後何が起こるかにより多く関心があるのです。なぜなら、あなた方には生と死、すなわち誕生と死があるからです。昼と夜、光と闇があるように、誕生と死があるのです。あなた方はそれについての恐れから自由にならなければなりません。もしあなた方が自分自身の純粋さを発見し、自分自身の基準を立てることを願うのであれば、そうした恐れから自由にならなければならないのです。
>  次に、孤独への恐れや仲間欲しさに駆られてはなりません。あなた方は独りぼっちでいることを恐れ、単独であることができません。誰か頼れる人がいてくれることを望み、励まされ、叱咤され、あるいは「よくやった」とほめてくれる人を欲しています。ちやほやされ、お世辞を言われたいのです。あなた方の全宗教はまさに賞罰に訴え、寄り添って、孤独をまぎらわしてもらいたがる心性につけ込むのです。火なしには純金を生み出すことはできませんが、ちょうどそのように、逆境なしには強い人間を生み出すことはできません。理解するためには泣き笑いしなければならないかもしれませんが、しかし<生>には笑いも涙もありません。あなた方は孤独や仲間付き合いに無頓着にして、単独でなければなりません。なぜなら、もしあなた方が<生>を愛すれば、孤独を恐れたり仲間欲しさに駆られたりしなくなるからです。それは”ただある”のです。
>  さらにあなた方は、不確かさへの恐れから自由にならなければなりません。ここに聞きに来られた方々およびキャンプに滞在している方々の大半は不確かです。ある基準が掲げられていたのですが、それが崩されてしまったので、今や不確かになっているのです。あなた方は皆、問題を解決し、どうすればいいか教えてくれる指導者が欲しいのです。が、指導者たちが問題を解決してくれるわけではないのです。なぜなら、ここで話しているような種類の問題においては指導者も子供もないからです。あなた方が自分自身で問題を解決し、一定のことが疑う余地もなく正しいとみずから確信すれば、まさにそのような確信があなた方を不確かさへの恐れから自由にするのです。
>
>
>  ですからあなた方はあらゆるものを疑い、まさにその懐疑の炎の中で確信を得るようにしなければならないのです。ものごとにうんざりしている時、不幸な時に疑ってはだめです。それなら誰にでもできます。あなたが恍惚に浸っている瞬間にのみ疑わなければなりません。なぜならその時、それでもなお残るものが真実か虚偽かを見出すことができるからです。
>  再び、あなた方は権威から−−私の権威だけでなく、他のあらゆる権威から−−自由にならなければなりません。「私たちは、何世紀も前から今まで、これこれのことをするようにと言われてきました」とあなた方は言うかもしれませんが、それではだめです。あなた方は、誰かに言い聞かされる子供ではないのですから。霊的・宗教的なことがらにおいては、権威というものは一瞬たりとも通用しないのです。重要なのはあなた方の個人的体験であって、権威ではないのです。あなた方は、世界中のあらゆる宗教の中で、あなた方自身の理解によってのみ、あらゆる虚偽を拒絶することによってのみ真実を見出すと、繰り返し言われてきたにもかかわらず、なおも権威に従うのです。なぜなら、その方がずっと楽だからです。権威への恐れから自由になりなさい。それは木のように切り倒し、完全に崩すことができるのです。
>  それからあなた方は、身体的、感情的、精神的慰藉への願望から自由にならなければなりません。慰藉は避難場への願望を生み出し、避難場は神の形をとって現われ、そしてその神は神殿、教会または寺院に祀られるのです。その神は恐怖から生まれるのです。ですから、身体的、感情的、精神的慰藉あるいは鼓舞から自由になりなさい。私が提供しているのは冷淡な哲学ではありません。私は<生>について話しているのであって、それは熱くも冷たくもなく、哲学でもなければ学説でもないのです。
>  さらにあなた方は愛着や憎しみから自由でなければなりません。すなわち、自分が好かれているかいないかへのこだわりから自由であり、また自分が憎まれているかいないかに無頓着でなければならないのです。あなた方自身の行為は、愛憎からではなく、あなた方自身の固有の願いから生まれなければならないのです。どうかこれについて熟考していただきたい。愛着や憎しみを介在させてあなた方の判断を歪めさせてはならないのです。もしあなた方が、誰か特定の人への愛着ゆえに一定のことをしたり、一定の仕方で変わるのなら、それは本当の愛でもなければ、行為への本当の理由でもないのです。行為は無私なる動機から起こるべきです。なぜ私がこういったすべてをしていると思いますか?あなた方全員が私を好きだからですか?私がこうしているのは、それが正しいと思うからであり、他の誰かのせいではありません。私がこうしているのは、あの不変不易の<生>、終わりも誕生も死も持たず、いかなる恐怖の獄舎にも縛られていないあの<生>と和合しているからです。が、これはあなた方がお互いに愛し合ってはならないという意味ではありません。
>  さらに、自分自身を表現しそこなうことへの恐れがあります。が、もしありのままの自分のことを知らなかったら、いかにして自分自身を表現することができるでしょう?ありのままの自分を見出すためには、以上述べたようなすべてのものから自由にならなければなりません。
>  願望にまつわる恐れ、野心、嫉妬、羨望、競争にまつわる恐れ、さらに苦痛や悲しみへの恐れ−−最後に残る永遠なるものを発見するためには、あなた方はこれらすべてから自由でなければならないのです。自分が自由であると想像し、その自由を身体的表現に移してごらんなさい。もしあなた方が世界を変えるつもりなら、そのいずれかの部分に属することはできないのです。
>  少しだけ変えても無駄です。完全な断絶がなければなりません−−それが前進するための唯一の道なのです。
>
>  − − − 以上引用 − − −
>
>  つづく


ここはかなり長文ですが、権威を創り出し、投影すること、そこから生じる恐怖という心の既成の軌道、構造から自由になることを書いているようです。これらは終戦以降のトークがはるかに精緻に書かれていると思います。個の自由であることが今あるか否かは多くの人を考えさせたのではないでしょうか。そして実際に生活を変えたのではないでしょうか?それともここが実際には不徹底であり、大した意義のないことと見ればそれまでになってしまいますが、しかし、私はそうは見ていないのです。


[24918] Re:[24916] [24914] [24902] 消去の過程 その3 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/15(Mon) 12:03  

> > > 『白い炎』p99 より引用 (コスモス・ライブラリー 発行 大野純一 編訳)
> > >
> > >  <以下は、1929年にオランダにある「星の教団」の拠点アイルダー城で、団員に向かっていかにして理解力を働かせ、真理の実現にとって不要なものを消去したらいいかを説いたトークである>
> > >
> > >  「消去の過程」の章 <消去の過程>
> > >
> > >  正しい価値、正しい基準を見出すためには、消去の過程を経なければなりません。が、それは単に知的または感情的にそうすれば済む問題ではありません。消去し、片付けたら、それは具体的な結果として現れなければならないのです。ここで注意すべきことは、真に理解する人にとっては、放棄とか自己犠牲はないということです。いかにしてありうるでしょう?自分に押しつけられたすべてのもの、自分が身に付けてきたすべてのものを片付け、何が自分の全存在の本質的核心なのかを見出すこと。そのように片付けることは放棄ではなく、"浄化"なのです。
> > >  すべての外面的なものからの自由を持ち、自分の真の本質を発見するためには、恐怖から自由でなければなりません。
> >
> >  自分の真の本質を発見することが完全な生に至ることでもあるのか?それには自由がいるが、そのためには目を曇らせるような障害から浄化されなければならないと。(ゴト)
> >
> > >  まず第一に、救いにまつわる恐怖から。なぜなら、あなた方自身以外の誰もあなた方を救うことができないからです。いかなる教会を建てようと、いかなる神々や神像を崇めようと、いかなる祈りや崇拝や儀式をおこなおうと、それによってあなた方はあの内なる理解と静謐さを与えられはしないのです。どうか私が掛け値なしにこう申し上げているということをご理解いただきたい。後で、「あの人が言いたいことは違うことなのだ」と言わないようにしてください。強い人間、腐敗しない人間、明晰なビジョンを持ち、明晰な理解を持った世代をこの世界に生み出すこと−−それが私の関心なのです。
> >
> >  そうです。そういう世代を生み出すことが大事だと思います。2人や6人でなく、そういう世代を。誰も思ったようには変容しなかったとは、記者に聞かれたからとはいえ、何の寝言か!(ゴト)
> >
> > >  次にあなた方は古代および現代の神々から自由にならなければなりません。あなた方はどうされようとしているのですか?自由になろうとしていますか、それとも弱い子供のように、導かれ、助けの手を差し伸べてもらおうとしているのですか?結局、人はたくましく成長し、すべての神々から自由にならなければなりません。なぜなら、"彼自身が潜在的に神的な存在だからです"。彼は唯一の神であり、他のいかなる神もいないのです。ですから、なんの価値もない外部のものをなぜ崇めるのですか?奇妙にも、あなた方は常に神々を崇めていますが、けっして野良仕事をしている人、あなた方自身、労働者を崇めようとはしません。あなた方が崇め奉る神とは誰なのですか?どうやって隣人と仲良く暮らしたらいいかも知らないのに、ずっと遠くにいる神様を崇めているのです!
> > >  次にあなた方は、伝統的な正邪の観念から自由にならなければなりません。あなた方は今何をしているでしょう?古い信念、伝統、恐怖、神々、マスター、神、人類が至らなければならない何かについてなのです。しかるにあなた方は中間的な段階のものを崇めており、それはなんの価値もないのです。もし世界を変えたければ、−−それを覆っている影を払い、健全で、純粋で、強固なものにしたければ、−−あなた方自身が強くなり、そういったすべてへの恐れから自由にならなければなりません。それこそは私があなた方に望んでいることです。あなた方は偽りの、非本質的なもの、迷信や混乱をもたらすものを打破しなければなりません。で、そうするためには、あなた方自身が恐怖の魔手に捕らえられてはならないのです。
> >
> >  1929年当時は神も正邪の存在も明らかであったかもしれないが、それらを信用する人がいなくなりだした。道徳のみならず生命についての倫理が医術の進歩とともに漂流しそうだ。(ゴト)
> >
> > >  さらにあなた方は、罰への恐れと報いの誘惑から自由でなければなりません。あなた方の多くがなぜここにおられるのか、私にはわかりません。私に聞くことによって何か特別の報い、特別の天国を手に入れられるとでも思っておられるのですか?それとも、聞かなければ罰を受けるとでも思っておられるのですか?あなた方は自分自身の本質によって報われ、自分自身の思考によって罰せられるのであって、他の誰もあなた方を妨げたり、罰や報いをあなたに与えたりはできないのです。ですからあなた方は、世界中に存在しているあの脅しから自由でなければなりません。「正しいことをすれば報われるであろう。悪いことをすれば罰せられるであろう」。あなた方はヒンドゥー教やキリスト教の伝統的な天国と地獄は片付けたかもしれませんが、しかしそれらに劣らず災いの元で、非現実的で、偽りの、別のそれらを考え出してきたのです。もしあなた方が自分自身の清浄さ、自分自身の理解、自分自身の力を発見したければ、賞罰の観念から自由にならなければなりません。
> >
> >  自分自身の正常さの基準は何が、あるいは誰が定めるのか?すべては自分が真たるべく努力するという事か?このいまの瞬間?(ゴト)
> > >
> > >  − − − 以上引用 − − −
> > >
> > >  つづく
> >
> >  今回は問いがやたら出てきました。自分で驚いています。
>
>
>  根源的変容を遂げた者がいるのか・・については、各論あるようですね。しかし、事実はひとつです。
>
>  クリシュナムルティは死の数日前に、記録をとりました。そのときの状況は、執筆が困難であったのでしょうか・・、録音機に向かって音声記録を遺したのです。
>
>  そこで述べられたことは、クリシュナムルティの周囲の人々の中で、誰も根源的な変容を遂げる者がいなかった。と述べたのです。
>
>  新しい芽さんは、これを以下のように解釈しています。それは、クリシュナムルティ亡き後、誰かがカリスマ的権威を求めてクリシュナムルティを利用する(組織を作る等)ことを防ぐためではないのか・・(旨)、新しい芽さんは、そのように述べていました。
>
>
>  しかし、私はクリシュナムルティの言葉通りに受け取っています。
>
>  ボームもイーブリン・ブローもメアリー・ルティエンスも、そしてべサント夫人やリード・ビーターでさえも、根源的変容を遂げてはいない。私は、そのように受け取っています。
>
>  しかし、それは悲観ではなく、励みにもなるのではないでしょうか‥。


 根源的変容を遂げたものはいない、それはそれで事実その通りだと思います。だが私はむしろ、ここに価値を置くのではなく、《強い人間、腐敗しない人間、明晰なビジョンを持ち、明晰な理解を持った世代をこの世界に生み出すこと−−それが私の関心なのです。》これがKの目指すところであったと思います。これは誰か傑出した人が出るとかでなく、目に見えにくい形のものですが、そこを考えた人の層が厚くなることが重要だと思います。

知覚のみでなく本質を直感しようとする本能的なものを人も強く持っています。その後で推察でや判断で結論を出すのでなく、思考が働きだすのを見ているとその意味が浮かんでくる。それが基本の生き方であるという事が重要です。それなしには煩悩は消去・浄化、あるいは成仏の過程を通れません。

昨日からプリントした消去の過程その4を読んでいます。今日返信を書きます。


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