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[26192] Re:[26191] 無題 投稿者:南方 投稿日:2018/11/01(Thu) 17:22  

> 神も仏もいない真っ暗闇を通り抜けてこそ悟れる。


何を悟るんですか?

http://


[26191] 無題 投稿者:明日を暗示する黄昏 投稿日:2018/11/01(Thu) 16:13  

神も仏もいない真っ暗闇を通り抜けてこそ悟れる。


[26190] Re:[26185] 既知からの自由16−3 投稿者:南方 投稿日:2018/11/01(Thu) 13:55  

> 16章ー3 [エネルギー]
>
>  私達は自分自身の中に全的な革命をもたらすためだけでなく、調査し、見、行動するためにもエネルギーを要します。そして私達の何かの関係の中に、夫と妻の間、人間と人間の間、一つの社会と別の社会、あるいは一つの国と別の国、一つのイデオロギーと別のイデオロギーの間のいずれであろうと、何らかの摩擦がある限りは ― もし何らかの内的摩擦あるいはどんな形にせよ何らかの外的争いがあるなら、それがどんなに微妙であっても ― エネルギーの浪費があります。
>

私は直にそのエネルギーを感じます。頭が破裂しそうになるんです。幸か不幸か。


>  観察者と観察されるものとの間に時間の間隔がある限り、摩擦が生じ、したがってエネルギーの浪費があります。そのエネルギーがその最高点にまで集められるのは、観察者が観察されるものであり、その中に時間の間隔が全くない時です。そのとき動機のないエネルギーがあり、それはそれ自体の行動の水路を見つけるでしょう。なぜならその時は「私」が存在しないからです。
>

これは自分自身の話になっている。快不快の思考が生じたときに離れず見る。どうこうしようとしない。分裂しない。


>  私達がその中で生きている混乱を理解するためには途方もない量のエネルギーを必要とし、「理解しなければならない」という感情は見出すための活力をもたらします。しかし見出すこと、探索、は時間を意味し、そして、既に見てきたように、心を徐々に条件付けから外すことは適策ではありません。時間はその方法ではありません。老いていても若くても、生の全過程が別の次元に移ることができるのは、いまです。自分達のあるがままのものの反対を求めるのは適策ではなく、方式や教師や哲学者、司祭によって課される人為的な訓戒も同じです ― それらはすべてあまりにも子供じみています。この事を実感するとき、私達は自分自身に、数世紀のこの重い条件付けを即座に打ち破り、別の条件付けに入らないこと ― 自由であること、その結果心が全く新しく、敏感で、生き生きと、気づいて、強烈で、有能であり得ることは可能かと尋ねます。それが私達の問題です。他の問題はありません。なぜなら心が新しくなるときはどんな問題にも取り組めるからです。それが自分自身に問うべき唯一の問題です。
>

子供のときから評価され批判を受けてきた精神はあるがままを見失う。しかしそれらは人の意見であり自分ではない。自分は産まれたときそのままでパーフェクト。理想やらなんやらを押し付けるから自分はとるに足りないものと感じるようになる。

>  しかし私達は尋ねません。私達は教えられるのを望みます。私達の精神構造の最も奇妙な点の一つは、私達が幾千年の宣伝の結果であるがゆえに、みな教えられることを望むという事です。私達は自分たちの思考が他人によって確認され、確証されるのを望みます。ところが質問を尋ねることはそれを自分自身に尋ねることです。私の言うことは何の価値もありません。この本を閉じた瞬間忘れるでしょうし、またはある個所を覚えて繰り返すか、ここで読んだことを他の本と比較するでしょう ― しかしあなたは自分自身の生に直面しないでしょう。そしてそれが重要なことのすべてです ― あなたの生、あなた自身、あなたの狭量さ、浅薄さ、残忍さ、暴力、貪欲、野心、日常の苦悩と果てしない悲しみ ― それがあなたが理解しなければならない事であり、そしてそれからあなたを救ってくれるのは地上にも天国にも自分自身のほか誰もいないのです。
>
>

綺麗、正義でありたいという願望それが美しさを損なう。醜いとき醜さから離れない、弁護しない。見る。

>  自分の日常の生活、自分の日常の活動の中で行なわれているあらゆることを見ながら ― ペンをとるとき、話すとき、ドライブに出かけるときや、森の中を一人で歩いているとき ― あなたはひと息で、ひと目で、自分自身を単純に、あるがままに知ることができるでしょうか? 自分自身をあるがままに知るとき、そのときあなたは人間の努力、欺瞞、偽善、探求の全構造を理解します。これをするにはあなたは自分の全存在を通じて自分自身に驚くほど正直でなければなりません。あなたが自分の主義にしたがって行動する時あなたは不正直でいるのです。なぜならあるべきであると考えるものにしたがってあなたが行動するとき、あなたはあるがままのあなたではないからです。理想を持つことは残忍なことです。何かの理想、信念、主義を持つならとても自分自身を直接見ることはできません。それゆえ完全に否定的で、完全に静かで、考えも恐れもせず、そしてなお途方もなく情熱的で生き生きとしていることができるでしょうか?
>
>  もはや努めることをしない心のその状態は真の宗教的な心です。そしてその心の状態の中であなたは、真理とか実在とか至福とか神とか美とか愛と呼ばれるこのものに出会うかもしれません。このものは招くことはできません。どうかその非常に単純な事実を理解してください。それは招くことができず、捜し求められ得ないのです。なぜならあの巨大な、あの広大なものにとって、あなたの小さな家に、踏みにじられ唾を吐かれたあなたの生の小さな片隅に招かれるには、心はあまりに愚かで、あまりに小さく、あなたの感情は余りに下劣で、あなたの生き方は余りに混乱しているからです。あなたはそれを招くことはできません。それを招くためにはそれを知らなければならず、あなたはそれを知ることはできません。誰が言おうと問題ではありません。「私は知っている」という瞬間、彼は知らないのです。あなたが自分はそれを見つけたと言う瞬間、見つけてはいないのです。それを経験したと言うなら、あなたは決して経験してはいないのです。それらは皆他の人間を搾取するやり方なのです ― 友達だろうと敵だろうとです。
>

条件付けられた心から派生した神は条件付けられている。あるがままの心から派生した神はあるがままである。

>  人はそのとき、招くことなしに、待つことなしに、求めたり探索したりすることなしに、このものに出会うことが可能かどうか自分自身に尋ねます ― ちょうど部屋の窓を開け放しにしておいた時に入ってくる涼しい微風のようにそれが起きることが可能かどうかを。風を招くことはできませんが窓を開けておかなければなりません。それは待っている状態にあるという意味ではありません。それは別の形の欺瞞です。受け入れるために自分自身を開かなければならないという意味ではありません。それは別種の思考です。
>

愛のエネルギーは神を思わせる。理屈はいらない。


> (続く)

http://


[26189] 無題 投稿者:明日を暗示する黄昏 投稿日:2018/11/01(Thu) 13:54  

方法論や論理や議論の上だけの形式的正しさではなく、もっと立体的にありのままに見てみよう。科学者が紙の上で考えるような正しさではなく、もっと自分自身のスタンスを根本から疑ってみよう。


[26188] 無題 投稿者:明日を暗示する黄昏 投稿日:2018/11/01(Thu) 13:47  

例えば女性優位論者がいたとする。多少偏ってて苦手な考えでもその人の話を自分の考えをおいといて共感してみようと思う。そうすると、観念でないありのままが見えてくる。闇がないと自己満足と閉鎖の中では成長はない。成長ってのはあるがままに戻って行くことなんだな。


[26187] 無題 投稿者:明日を暗示する黄昏 投稿日:2018/11/01(Thu) 13:39  

口先だけであらゆる考えは相対的だというのは簡単自分の考えをおいといてまず相手の立場にたって全面的に共感して徹底的に自分を揺るがしてみよ。そうすれば立体的にありのままにものごとをしるだろう。


[26186] 無題 投稿者:明日を暗示する黄昏 投稿日:2018/11/01(Thu) 13:33  

科学とか民主主義とかエコロジーとか方法論として正しくても災厄をもたらすことはある。


[26185] 既知からの自由16−3 投稿者:ゴト 投稿日:2018/11/01(Thu) 11:23  

16章ー3 [エネルギー]

 私達は自分自身の中に全的な革命をもたらすためだけでなく、調査し、見、行動するためにもエネルギーを要します。そして私達の何かの関係の中に、夫と妻の間、人間と人間の間、一つの社会と別の社会、あるいは一つの国と別の国、一つのイデオロギーと別のイデオロギーの間のいずれであろうと、何らかの摩擦がある限りは ― もし何らかの内的摩擦あるいはどんな形にせよ何らかの外的争いがあるなら、それがどんなに微妙であっても ― エネルギーの浪費があります。

 観察者と観察されるものとの間に時間の間隔がある限り、摩擦が生じ、したがってエネルギーの浪費があります。そのエネルギーがその最高点にまで集められるのは、観察者が観察されるものであり、その中に時間の間隔が全くない時です。そのとき動機のないエネルギーがあり、それはそれ自体の行動の水路を見つけるでしょう。なぜならその時は「私」が存在しないからです。

 私達がその中で生きている混乱を理解するためには途方もない量のエネルギーを必要とし、「理解しなければならない」という感情は見出すための活力をもたらします。しかし見出すこと、探索、は時間を意味し、そして、既に見てきたように、心を徐々に条件付けから外すことは適策ではありません。時間はその方法ではありません。老いていても若くても、生の全過程が別の次元に移ることができるのは、いまです。自分達のあるがままのものの反対を求めるのは適策ではなく、方式や教師や哲学者、司祭によって課される人為的な訓戒も同じです ― それらはすべてあまりにも子供じみています。この事を実感するとき、私達は自分自身に、数世紀のこの重い条件付けを即座に打ち破り、別の条件付けに入らないこと ― 自由であること、その結果心が全く新しく、敏感で、生き生きと、気づいて、強烈で、有能であり得ることは可能かと尋ねます。それが私達の問題です。他の問題はありません。なぜなら心が新しくなるときはどんな問題にも取り組めるからです。それが自分自身に問うべき唯一の問題です。

 しかし私達は尋ねません。私達は教えられるのを望みます。私達の精神構造の最も奇妙な点の一つは、私達が幾千年の宣伝の結果であるがゆえに、みな教えられることを望むという事です。私達は自分たちの思考が他人によって確認され、確証されるのを望みます。ところが質問を尋ねることはそれを自分自身に尋ねることです。私の言うことは何の価値もありません。この本を閉じた瞬間忘れるでしょうし、またはある個所を覚えて繰り返すか、ここで読んだことを他の本と比較するでしょう ― しかしあなたは自分自身の生に直面しないでしょう。そしてそれが重要なことのすべてです ― あなたの生、あなた自身、あなたの狭量さ、浅薄さ、残忍さ、暴力、貪欲、野心、日常の苦悩と果てしない悲しみ ― それがあなたが理解しなければならない事であり、そしてそれからあなたを救ってくれるのは地上にも天国にも自分自身のほか誰もいないのです。


 自分の日常の生活、自分の日常の活動の中で行なわれているあらゆることを見ながら ― ペンをとるとき、話すとき、ドライブに出かけるときや、森の中を一人で歩いているとき ― あなたはひと息で、ひと目で、自分自身を単純に、あるがままに知ることができるでしょうか? 自分自身をあるがままに知るとき、そのときあなたは人間の努力、欺瞞、偽善、探求の全構造を理解します。これをするにはあなたは自分の全存在を通じて自分自身に驚くほど正直でなければなりません。あなたが自分の主義にしたがって行動する時あなたは不正直でいるのです。なぜならあるべきであると考えるものにしたがってあなたが行動するとき、あなたはあるがままのあなたではないからです。理想を持つことは残忍なことです。何かの理想、信念、主義を持つならとても自分自身を直接見ることはできません。それゆえ完全に否定的で、完全に静かで、考えも恐れもせず、そしてなお途方もなく情熱的で生き生きとしていることができるでしょうか?

 もはや努めることをしない心のその状態は真の宗教的な心です。そしてその心の状態の中であなたは、真理とか実在とか至福とか神とか美とか愛と呼ばれるこのものに出会うかもしれません。このものは招くことはできません。どうかその非常に単純な事実を理解してください。それは招くことができず、捜し求められ得ないのです。なぜならあの巨大な、あの広大なものにとって、あなたの小さな家に、踏みにじられ唾を吐かれたあなたの生の小さな片隅に招かれるには、心はあまりに愚かで、あまりに小さく、あなたの感情は余りに下劣で、あなたの生き方は余りに混乱しているからです。あなたはそれを招くことはできません。それを招くためにはそれを知らなければならず、あなたはそれを知ることはできません。誰が言おうと問題ではありません。「私は知っている」という瞬間、彼は知らないのです。あなたが自分はそれを見つけたと言う瞬間、見つけてはいないのです。それを経験したと言うなら、あなたは決して経験してはいないのです。それらは皆他の人間を搾取するやり方なのです ― 友達だろうと敵だろうとです。

 人はそのとき、招くことなしに、待つことなしに、求めたり探索したりすることなしに、このものに出会うことが可能かどうか自分自身に尋ねます ― ちょうど部屋の窓を開け放しにしておいた時に入ってくる涼しい微風のようにそれが起きることが可能かどうかを。風を招くことはできませんが窓を開けておかなければなりません。それは待っている状態にあるという意味ではありません。それは別の形の欺瞞です。受け入れるために自分自身を開かなければならないという意味ではありません。それは別種の思考です。

(続く)


[26184] Re:[26183] [26175] 既知からの自由16−2 投稿者:宮啓 投稿日:2018/11/01(Thu) 10:49  

> > 16章ー2 [宗教的な心]
> >
> >  宗教的な心は宗教を信じる心とは全く違うものです。あなたは宗教的でありそしてなおヒンドゥ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、仏教徒であることはできません。宗教的な心は全く求めることをしません。それは真理を実験することはできません。真理は快楽や苦痛によって、あるいはヒンドゥ教とか、あなたがどんな宗教に属していてもその教徒としての条件付けによって指令される何かではありません。宗教的な心は、その中に恐怖がなく、したがってどんな信念もなく、ただあるがままのもの ― 実際にあるものだけがある心の状態です。
>
>
> 『宗教的な心は宗教を信じる心とは全く違うものです』
>  かつてはこういうコメントを読んでも、なぜと説明を求めていた。ここへきてようやくただ聞いて感じることができる。


 科学者にとって「信じる」とは論理的破壊を意味します。クリシュナムルティは科学的宗教心を推奨しています。

 「信じるな」「疑え」そして、もはや疑う余地がない理解を知覚せよ。



> 『宗教的な心は、その中に恐怖がなく、したがってどんな信念もなく、ただあるがままのもの ― 実際にあるものだけがある心の状態です』
>  ここは訳の難しい言葉が出ている、あるがままのもの=what is、実際にあるもの=what actually is、です。しかし、恐怖がない、したがってどんな信念もないあるがままの心…わかりません。


 あるがままのものだけがある心。
 過去は脳細胞の連結線としてある。「私」は脳細胞の連結線としてある。未来は脳細胞の連結線として予期されている。条件付けは脳細胞の連結線としてある。そしてそれら連結線は吹けば飛ぶこと間違いないイメージとして現にある。

 そのようなあるがままのものだけがある心。


> >  宗教的な心の中には私達が既に調べた沈黙の状態があり、それは思考によって造り出されたのではなく、気づきの結果です。それは観察者が全くいない瞑想です。その沈黙の中にはいかなる葛藤もないエネルギーの状態があります。エネルギーは行為であり、動きです。すべての行為は動きであり、すべての行為はエネルギーです。すべての欲望はエネルギーです。すべての感情はエネルギーです。すべての思考はエネルギーです。すべての生きることはエネルギーです。すべての生はエネルギーです。そのエネルギーがどんな矛盾もなしに、どんな摩擦もなしに、どんな葛藤もなしに流れることが許されるなら、その時そのエネルギーは限りがなく、終わりがありません。摩擦がないときエネルギーに限界はありません。エネルギーに制限を与えるのは摩擦です。そこで、一度このことを見たなら、なぜ人間は常にエネルギーに摩擦を持ち込むのでしょうか? なぜ人間は生と呼ぶこの動きの中に摩擦をつくり出すのでしょうか? 純粋なエネルギー、制限のないエネルギーは人間にとってはただの考えなのでしょうか? それは現実性を持たないの
> でしょうか?
>
>
> 宗教的な心には既に気づきによってつくりだされた沈黙の状態がある…うむ。
>  ここでエネルギーの話が出てきました。次の段落でエネルギーについてさらに語られますが、この問いもまた根源的な問いです、私には鳩が豆鉄砲で撃たれた感じでした。


 沈黙のエネルギーは、たまたま希に訪れる。

 しかし、摩擦があるエネルギーは生活の中で、多々感じることができる。

 人はなぜ、摩擦を持ち込むのか。。と問われている。


 その摩擦は自我を増長させることはあっても、弱めることはないだろう。

 定年退職したら、その摩擦は幾分減るのだろうか。。


> > (続く)


[26183] Re:[26175] 既知からの自由16−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/11/01(Thu) 10:10  

> 16章ー2 [宗教的な心]
>
>  宗教的な心は宗教を信じる心とは全く違うものです。あなたは宗教的でありそしてなおヒンドゥ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、仏教徒であることはできません。宗教的な心は全く求めることをしません。それは真理を実験することはできません。真理は快楽や苦痛によって、あるいはヒンドゥ教とか、あなたがどんな宗教に属していてもその教徒としての条件付けによって指令される何かではありません。宗教的な心は、その中に恐怖がなく、したがってどんな信念もなく、ただあるがままのもの ― 実際にあるものだけがある心の状態です。


『宗教的な心は宗教を信じる心とは全く違うものです』
 かつてはこういうコメントを読んでも、なぜと説明を求めていた。ここへきてようやくただ聞いて感じることができる。

『宗教的な心は、その中に恐怖がなく、したがってどんな信念もなく、ただあるがままのもの ― 実際にあるものだけがある心の状態です』
 ここは訳の難しい言葉が出ている、あるがままのもの=what is、実際にあるもの=what actually is、です。しかし、恐怖がない、したがってどんな信念もないあるがままの心…わかりません。


>  宗教的な心の中には私達が既に調べた沈黙の状態があり、それは思考によって造り出されたのではなく、気づきの結果です。それは観察者が全くいない瞑想です。その沈黙の中にはいかなる葛藤もないエネルギーの状態があります。エネルギーは行為であり、動きです。すべての行為は動きであり、すべての行為はエネルギーです。すべての欲望はエネルギーです。すべての感情はエネルギーです。すべての思考はエネルギーです。すべての生きることはエネルギーです。すべての生はエネルギーです。そのエネルギーがどんな矛盾もなしに、どんな摩擦もなしに、どんな葛藤もなしに流れることが許されるなら、その時そのエネルギーは限りがなく、終わりがありません。摩擦がないときエネルギーに限界はありません。エネルギーに制限を与えるのは摩擦です。そこで、一度このことを見たなら、なぜ人間は常にエネルギーに摩擦を持ち込むのでしょうか? なぜ人間は生と呼ぶこの動きの中に摩擦をつくり出すのでしょうか? 純粋なエネルギー、制限のないエネルギーは人間にとってはただの考えなのでしょうか? それは現実性を持たないのでしょうか?


宗教的な心には既に気づきによってつくりだされた沈黙の状態がある…うむ。
 ここでエネルギーの話が出てきました。次の段落でエネルギーについてさらに語られますが、この問いもまた根源的な問いです、私には鳩が豆鉄砲で撃たれた感じでした。

> (続く)


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