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[25857] Re:[25856] [25855] 既知からの自由10−1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/09/07(Fri) 14:20  

> > 10[愛]−1
>
> この章は「愛」という見出し一つしかありません。
>
> > 関係の中で安全でありたいという要求は必然的に悲しみと恐怖を生みます。この安全を求めることが不安を招いているのです。どんな関係の中であれ、安全を見いだしたことがあるでしょうか? ありますか? 私たちはたいてい愛することと愛されることの安全を望みますが、各人が自分自身の安全を、自分自身の特定の道を求めているとき、愛があるでしょうか? 私たちはどのように愛するか知らないので、愛されないのです。
>
> > 私たちはどのように愛するか知らないので、愛されないのです。−−
>  愛すれば、愛される。そのようにして愛(実物)をお互いに知るなら、関係の安全を求めることはない。
>
> >  愛とは何でしょう? その言葉はあまりに重荷を負わされ腐敗しているので私はあまり使いたくはありません。あらゆる人が愛について話します ― あらゆる雑誌と新聞、あらゆる宣教師が絶えず愛について語ります。私は祖国を愛する、王様を愛する、ある本を愛する、あの山を愛する、快楽を愛する、妻を愛する、神を愛する。愛は観念でしょうか? もしそうなら、それは耕され、養われ、大切にされ、押し回され、好きなように捻じ曲げることができます。神を愛すると言うとき、それは何を意味するでしょう? それは自分自身の想像の投影を愛するということです。気高く神聖であると自分が考える、ある立派さをまとった自分自身の投影を愛するということです。ですから「私は神を愛します」と言うことは、まったくのナンセンスです。神を崇拝するとき、あなたは自分自身を崇拝しているのです ― そしてそれは愛ではありません。
>
> 愛という言葉は観念のようにあらゆる使いまわしをされて、実はわけが分からなくなっている。
>
> >  愛と呼ばれるこの人間的なものを解明できないため、私たちは抽象の中に逃げます。愛は人間の困難、問題、苦悩の全てに対する究極の回答かも知れません。そこで愛が何であるか、どうやって見いだそうとしているでしょうか? 単なる定義づけによってですか? 教会はそれをあるやり方で、社会は別のやり方で、定義付けし、そしてあらゆる種類の逸脱と曲解があります。誰かを深く敬愛すること、誰かと寝ること、情緒の交換、仲間づきあい ― それが愛の意味するものでしょうか? それがずっと標準、パターンであり、そして愛は非常に個人的な、官能的な、そして限定されたものになってしまい、そのため宗教は愛は何かもっとこれ以上のものであると言明してきました。彼らは彼らが人間愛と呼ぶものの中に、快楽、競争、嫉妬、所有し、保持し、支配し、他人の思考に干渉したい欲望があるのを見ます。そしてこれらすべての複雑さを知って彼らは、神聖で、美しい、触れられていない、堕落していない別の種類の愛がなければならないと言います。
>
> はい。
>
> >  世界中至る所で、いわゆる聖者は、女性を見ることは何かまったく悪いことであると主張してきました。彼らは性に耽るなら神に近づくことはできないと言います。それゆえ性に夢中になっているのにそれを押し退けます。しかし性的なことを否定することによって、彼らば目を取り出し舌を切り取ります。というのは地上の美全体を否定するからです。彼らはハートと心を飢えさしているのです。彼らは干からびた人間です。彼らは美が女性と関係しているので美を追放してしまったのです。
>
> はい。
>
> >  愛は神聖な愛と世俗的な愛に、人間的な愛と神聖な愛とに分けられるのでしょうか、それともただ愛だけがあるのでしょうか? 愛はただ一人へのものであって、多くの人へのものではないのでしょうか? 「あなたを愛します」と言うなら、それはほかの人達への愛を排除するのでしょうか?愛は個人的、あるいは非個人的なのでしょうか? 道徳的、あるいは不道徳的? 家族的、あるいは非家族的? 人類を愛するなら特定の個人を愛することができるでしょうか? 愛は感傷でしょうか? 愛は情緒でしょうか? 愛は快楽と欲望でしょうか? これらの質問は全て、私たちが愛について観念を持っていることを、愛が何であるべきか、あるべきでないかについての観念を、私たちが生きている文化によって発展した型や規則を持っていることを、指し示してはいないでしょうか?
>
> まさしく。
>
> >  それゆえ愛が何であるかという問題に入っていくためには、最初に愛を何世紀もの殻から解放し、愛が何であるべきか、あるべきでないかという理想やイデオロギーを全て捨てなけれはなりません。何かをあるべきものとあるがままのものに分けることは、生を取り扱うもっとも欺瞞的なやり方です。
>
> あるべきものとあるがままのものの存在は最も欺瞞的なものだが、それが世の中にはびこっている。
>  ここまで、序論として愛のこの社会における現状が概観されました。
>
> > (続く)


 特に、本能に基づく「愛(と一般的に認められているもの)」がクリシュナムルティの述べるところの「愛」なのかに関心があります。

 本能に基ずく愛とは、種の維持に関わるもので、「生殖本能」と「子育て本能」です。

 私の個人的な見解では、隣に本能に基づく愛で結ばれた二人が居るとします。

 その二人にとって私は、関心の薄い存在になることでしょう。

 すなわち、隣に居る本能に基づく愛で結ばれた二人は、私にとって危険な存在となるのではないでしょうか。


[25856] Re:[25855] 既知からの自由10−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/07(Fri) 13:52  

> 10[愛]−1

この章は「愛」という見出し一つしかありません。

> 関係の中で安全でありたいという要求は必然的に悲しみと恐怖を生みます。この安全を求めることが不安を招いているのです。どんな関係の中であれ、安全を見いだしたことがあるでしょうか? ありますか? 私たちはたいてい愛することと愛されることの安全を望みますが、各人が自分自身の安全を、自分自身の特定の道を求めているとき、愛があるでしょうか? 私たちはどのように愛するか知らないので、愛されないのです。

> 私たちはどのように愛するか知らないので、愛されないのです。−−
 愛すれば、愛される。そのようにして愛(実物)をお互いに知るなら、関係の安全を求めることはない。

>  愛とは何でしょう? その言葉はあまりに重荷を負わされ腐敗しているので私はあまり使いたくはありません。あらゆる人が愛について話します ― あらゆる雑誌と新聞、あらゆる宣教師が絶えず愛について語ります。私は祖国を愛する、王様を愛する、ある本を愛する、あの山を愛する、快楽を愛する、妻を愛する、神を愛する。愛は観念でしょうか? もしそうなら、それは耕され、養われ、大切にされ、押し回され、好きなように捻じ曲げることができます。神を愛すると言うとき、それは何を意味するでしょう? それは自分自身の想像の投影を愛するということです。気高く神聖であると自分が考える、ある立派さをまとった自分自身の投影を愛するということです。ですから「私は神を愛します」と言うことは、まったくのナンセンスです。神を崇拝するとき、あなたは自分自身を崇拝しているのです ― そしてそれは愛ではありません。

愛という言葉は観念のようにあらゆる使いまわしをされて、実はわけが分からなくなっている。

>  愛と呼ばれるこの人間的なものを解明できないため、私たちは抽象の中に逃げます。愛は人間の困難、問題、苦悩の全てに対する究極の回答かも知れません。そこで愛が何であるか、どうやって見いだそうとしているでしょうか? 単なる定義づけによってですか? 教会はそれをあるやり方で、社会は別のやり方で、定義付けし、そしてあらゆる種類の逸脱と曲解があります。誰かを深く敬愛すること、誰かと寝ること、情緒の交換、仲間づきあい ― それが愛の意味するものでしょうか? それがずっと標準、パターンであり、そして愛は非常に個人的な、官能的な、そして限定されたものになってしまい、そのため宗教は愛は何かもっとこれ以上のものであると言明してきました。彼らは彼らが人間愛と呼ぶものの中に、快楽、競争、嫉妬、所有し、保持し、支配し、他人の思考に干渉したい欲望があるのを見ます。そしてこれらすべての複雑さを知って彼らは、神聖で、美しい、触れられていない、堕落していない別の種類の愛がなければならないと言います。

はい。

>  世界中至る所で、いわゆる聖者は、女性を見ることは何かまったく悪いことであると主張してきました。彼らは性に耽るなら神に近づくことはできないと言います。それゆえ性に夢中になっているのにそれを押し退けます。しかし性的なことを否定することによって、彼らば目を取り出し舌を切り取ります。というのは地上の美全体を否定するからです。彼らはハートと心を飢えさしているのです。彼らは干からびた人間です。彼らは美が女性と関係しているので美を追放してしまったのです。

はい。

>  愛は神聖な愛と世俗的な愛に、人間的な愛と神聖な愛とに分けられるのでしょうか、それともただ愛だけがあるのでしょうか? 愛はただ一人へのものであって、多くの人へのものではないのでしょうか? 「あなたを愛します」と言うなら、それはほかの人達への愛を排除するのでしょうか?愛は個人的、あるいは非個人的なのでしょうか? 道徳的、あるいは不道徳的? 家族的、あるいは非家族的? 人類を愛するなら特定の個人を愛することができるでしょうか? 愛は感傷でしょうか? 愛は情緒でしょうか? 愛は快楽と欲望でしょうか? これらの質問は全て、私たちが愛について観念を持っていることを、愛が何であるべきか、あるべきでないかについての観念を、私たちが生きている文化によって発展した型や規則を持っていることを、指し示してはいないでしょうか?

まさしく。

>  それゆえ愛が何であるかという問題に入っていくためには、最初に愛を何世紀もの殻から解放し、愛が何であるべきか、あるべきでないかという理想やイデオロギーを全て捨てなけれはなりません。何かをあるべきものとあるがままのものに分けることは、生を取り扱うもっとも欺瞞的なやり方です。

あるべきものとあるがままのものの存在は最も欺瞞的なものだが、それが世の中にはびこっている。
 ここまで、序論として愛のこの社会における現状が概観されました。

> (続く)


[25855] 既知からの自由10−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/06(Thu) 06:15  

10[愛]−1

関係の中で安全でありたいという要求は必然的に悲しみと恐怖を生みます。この安全を求めることが不安を招いているのです。どんな関係の中であれ、安全を見いだしたことがあるでしょうか? ありますか? 私たちはたいてい愛することと愛されることの安全を望みますが、各人が自分自身の安全を、自分自身の特定の道を求めているとき、愛があるでしょうか? 私たちはどのように愛するか知らないので、愛されないのです。

 愛とは何でしょう? その言葉はあまりに重荷を負わされ腐敗しているので私はあまり使いたくはありません。あらゆる人が愛について話します ― あらゆる雑誌と新聞、あらゆる宣教師が絶えず愛について語ります。私は祖国を愛する、王様を愛する、ある本を愛する、あの山を愛する、快楽を愛する、妻を愛する、神を愛する。愛は観念でしょうか?もしそうなら、それは耕され、養われ、大切にされ、押し回され、好きなように捻じ曲げることができます。神を愛すると言うとき、それは何を意味するでしょう? それは自分自身の想像の投影を愛するということです。気高く神聖であると自分が考える、ある立派さをまとった自分自身の投影を愛するということです。ですから「私は神を愛します」と言うことは、まったくのナンセンスです。神を崇拝するとき、あなたは自分自身を崇拝しているのです ― そしてそれは愛ではありません。


 愛と呼ばれるこの人間的なものを解明できないため、私たちは抽象の中に逃げます。愛は人間の困難、問題、苦悩の全てに対する究極の回答かも知れません。そこで愛が何であるか、どうやって見いだそうとしているでしょうか? 単なる定義づけによってですか? 教会はそれをあるやり方で、社会は別のやり方で、定義付けし、そしてあらゆる種類の逸脱と曲解があります。誰かを深く敬愛すること、誰かと寝ること、情緒の交換、仲間づきあい ― それが愛の意味するものでしょうか? それがずっと標準、パターンであり、そして愛は非常に個人的な、官能的な、そして限定されたものになってしまい、そのため宗教は愛は何かもっとこれ以上のものであると言明してきました。彼らは彼らが人間愛と呼ぶものの中に、快楽、競争、嫉妬、所有し、保持し、支配し、他人の思考に干渉したい欲望があるのを見ます。そしてこれらすべての複雑さを知って彼らは、神聖で、美しい、触れられていない、堕落していない別の種類の愛がなければならないと言います。

 世界中至る所で、いわゆる聖者は、女性を見ることは何かまったく悪いことであると主張してきました。彼らは性に耽るなら神に近づくことはできないと言います。それゆえ性に夢中になっているのにそれを押し退けます。しかし性的なことを否定することによって、彼らば目を取り出し舌を切り取ります。というのは地上の美全体を否定するからです。彼らはハートと心を飢えさしているのです。彼らは干からびた人間です。彼らは美が女性と関係しているので美を追放してしまったのです。

 愛は神聖な愛と世俗的な愛に、人間的な愛と神聖な愛とに分けられるのでしょうか、それともただ愛だけがあるのでしょうか? 愛はただ一人へのものであって、多くの人へのものではないのでしょうか? 「あなたを愛します」と言うなら、それはほかの人達への愛を排除するのでしょうか?愛は個人的、あるいは非個人的なのでしょうか? 道徳的、あるいは不道徳的? 家族的、あるいは非家族的? 人類を愛するなら特定の個人を愛することができるでしょうか? 愛は感傷でしょうか? 愛は情緒でしょうか? 愛は快楽と欲望でしょうか? これらの質問は全て、私たちが愛について観念を持っていることを、愛が何であるべきか、あるべきでないかについての観念を、私たちが生きている文化によって発展した型や規則を持っていることを、指し示してはいないでしょうか?

 それゆえ愛が何であるかという問題に入っていくためには、最初に愛を何世紀もの殻から解放し、愛が何であるべきか、あるべきでないかという理想やイデオロギーを全て捨てなけれはなりません。何かをあるべきものとあるがままのものに分けることは、生を取り扱うもっとも欺瞞的なやり方です。

(続く)


[25854] Re:[25853] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/05(Wed) 21:57  

> 悲しみが止むのは、二元性が消え分離の感覚がない時だけである。


二元性はどういう意味で使っていらっしゃるのでしょうか?


[25853] 無題 投稿者:明日を暗示する黄昏 投稿日:2018/09/05(Wed) 17:59  

悲しみが止むのは、二元性が消え分離の感覚がない時だけである。


[25852] Re:[25849] [25847] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/05(Wed) 14:31  

> > 時間の終焉」でKは基底という事を言い出した。
> >
> >  >基底とは何かというとKが探究の果てにたどり着いたもので、最後の根源的なものでその上はないという。無機質の星々や有機的生物、宇宙全体がそのうえで生まれ、死んでそこに戻る基盤、もしくは場(ground)であるという。
>
> > 以下
>
> これこそクリシュナムルティ自身のつくりだしたイメージ。脳内現象。
> そんな「もの」は現実にはない。
>
> この宇宙には「プロセス」があるだけだ。
> 全てのものは生成流転を繰り返す。常住なるものは何一つない。

はい。生々流転の繰り返し。この生成流転の意味、意義は何だろう? 何もないのだろうか?


しょうじょうるてんュ生々流転

岡本かの子の長編小説。著者没後に発見された遺稿で、昭和14年(1939)「文学界」誌に発表。乞食だった父をもつ女性の波乱に満ちた人生を描く。(デジタル大辞泉)

読んでみたくなった。


[25851] Re:[25848] [25845] 基底と人間の関係 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/05(Wed) 14:03  

> >  それで人間は基盤とどのような関係が持てるかというと、覚者のみが関係を持てる、知覚し得るということがあって非覚者はここで止まってしまうわけです。ではどうすればいいかと尋ねるしかありませんが、それはまた成り行く過程に入ってしまう事になります。
>
> 何で「成り行く過程に入ってしまう」とダメなのですか?

成り行く過程というのはそこに到達したい目的というのがあるのですのですが、それはイメージであって、挫折しないで実際に到達できたしても、上には上があることがわかって達成の欲望は募るばかりだし、一将功なって骨枯れるという事があるし、競争社会に平和はないし、当人も挫折の恐怖に駆り立てられ、絶えず努力に迫れて心の安住はなく…という事でどうですか?

> >  そこで覚者は「じたばたすることはない。何もすることはない」と言います。非覚者はじっと待機して何が起こるか見ていようとすることができるしょうか?実際には非覚者は何か追求し始めてしまうのです。

> それが人間です。何かを追求した結果、今の文明があるのです。

はい、それはその通りです。

> >  さて、では非覚者は、言い換えれば今の社会は絶望的でしょうか? Kは基盤まで持ち出してきましたがそれは事態を少しも換えないのでしょうか。別の筋道を話してみます。
>
> お言葉ですが、覚者というには、全体のほんのほんのごく一部でしょう。

はい、そうです。今は果たして覚者はいるのだろうか?

> >  Kは子どもの頃学校でよく立たされていましたが、ついに憎しみを感じることはなかった。これは普通か普通でないかという話があって、ボームを含めた対談者は普通は誰もが憎しみを感じると答えるのですが、Kは覚者にとってはそれが自然だと言います。そして覚者も親から生まれた普通の人間だと強調します。質問者も憎しみは感じるけれど憎みたくないと相反する感情を持つと言います。それは憎みたくないという自然な感情があるが、いつも区別して人間は進路を誤ってしまう。それは人間の持つ自己中心性の思考から出るのでその自己中心性が暗黒である。区別を生み出すこの自己中心を終わりにしないと葛藤はなくならないという話も出ます。これも求め始めると成り行く過程に巻き込まれそうですね。
>
> 何度も言いますが、人間というのは葛藤挫折を何度も繰り返しながら心は成長します。

はい、そうです。葛藤はしかし苦しいですよ。それと成長に役立ちますか? 葛藤は、実際は自己の分裂ですよ。分裂が終わるのが成長なら葛藤もなくなるのでは。

> >  そこで覚者の声を聴く、感じるという事になります。これは本質的にじたばたせず何が起こるか見守る、聴くという事なのでしょう。
>
> あなたは覚者に依存しているのですか?

子供の声を聴く、妻の言う事を聴く。しかし子供にも妻にも依存していませんね。覚者の言うことをまずよく聴くという事です、一人立つ人間として。

> >それができないという事ですね。どうしても主体的に能動的に何かしたくなる。運動したくなる。これはKの言う基底の非運動では全くないですね。

> 主体的能動的にやることが人間です。

そう人間は信じ、そこに価値を置いています。受動的という事の価値を知りません。主体的能動的に行う事の主人は自我なのであって真我ではありません。大丈夫かな?(注 敢えて真我という言葉を使ってみました)

> >  感じるという事は人間の場合、精神の共鳴、共振、同期あるいは同調のようなものではないかと感じています。共鳴、共振、同期、同調は振り子やメトロノーム、電波のように物質、エネルギイー、生物の全部を通じて起こります。これが全体の基底を感じる唯一の道でしょう。

> あなたは人間、思考は必要ないとおっしゃっているのでしょうか?
> 原始時代に戻れと。

思考はいります。原始時代には戻れません。

> >  人間は有史前から天地とのつながりを求めてきたのではないでしょうか、宗教者、哲学者、芸術家、美術家、音楽家、名もなき人も。そして自分の感じたものとなんとか伝えようとしてきたのでしょう。でもそれは人間全体に感じる雰囲気を創り出すには至っていません。その中で宇宙的共鳴の感覚を澄まして、見、聴いていましょう。
>
> 思考はどうなりましたか。必要ない?

思考はいるし、それを備えていることが人間のあるがままの姿でそれはどうすることもできません。だがその在り方、使い方には最大限の注意を払う必要があります。

> あなたは人間の持っている想像力に対して、どう思っているのだろうか?

想像力は人間が得た動物にない大能力の一つです。実際にないことを思考しうる。そして楽しむことができる。想像力が仮説、理論を様々に組み立てる。膨大な実験設備が組み立てられ、実験結果が正確か否かが確かめられる。それに伴うテクノロジーの発達。しかし、フェイクニュースが世界に飛び交うという反面もありますね。

今日はいくつかの基本的、現代的問題に答えられてよかった。


[25850] Re:[25847] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/05(Wed) 12:08  

>  >基底とは何かというとKが探究の果てにたどり着いたもので、最後の根源的なものでその上はないという。無機質の星々や有機的生物、宇宙全体がそのうえで生まれ、死んでそこに戻る基盤、もしくは場(ground)であるという。
>
> 以下略
>
> 科学というのは人類の総合的研究の上で成り立つものです。現在も、宇宙の構造の探求が進行中。いわば量子、素粒子のミクロの世界。
> アインシュタインが提出した引力、重力波の問題を今やっきとなって研究している。
> Kがつかんだものがあるとすれば、あくまで個人的な脳内現象です。
> 個人の頭だけの話。

そうですが、科学もその人間の持つ頭、あるいはマインドが探り出した結果です。それは現在も進行中です。

> 元々、精神世界と科学は相入れません。
> たとえば釈尊一人が悟りを開いても、宇宙の構造には、なんら関係ない。

そうですね。釈尊ないし仏教は人間の苦を救わんとして精神の探求に努めてきたので、物理学とは関係ないと思います。苦は多くの人にとって問題であったので、現在も大きい意義を持っています。


[25849] Re:[25847] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/09/05(Wed) 09:28  

> 時間の終焉」でKは基底という事を言い出した。
>
>  >基底とは何かというとKが探究の果てにたどり着いたもので、最後の根源的なものでその上はないという。無機質の星々や有機的生物、宇宙全体がそのうえで生まれ、死んでそこに戻る基盤、もしくは場(ground)であるという。

> 以下

これこそクリシュナムルティ自身のつくりだしたイメージ。脳内現象。
そんな「もの」は現実にはない。

この宇宙には「プロセス」があるだけだ。
全てのものは生成流転を繰り返す。常住なるものは何一つない。


[25848] Re:[25845] 基底と人間の関係 投稿者:無明 投稿日:2018/09/05(Wed) 08:30  


>  それで人間は基盤とどのような関係が持てるかというと、覚者のみが関係を持てる、知覚し得るということがあって非覚者はここで止まってしまうわけです。ではどうすればいいかと尋ねるしかありませんが、それはまた成り行く過程に入ってしまう事になります。

何で「成り行く過程に入ってしまう」とダメなのですか?

>  そこで覚者は「じたばたすることはない。何もすることはない」と言います。非覚者はじっと待機して何が起こるか見ていようとすることができるしょうか?実際には非覚者は何か追求し始めてしまうのです。

それが人間です。何かを追求した結果、今の文明があるのです。
>
>  さて、では非覚者は、言い換えれば今の社会は絶望的でしょうか? Kは基盤まで持ち出してきましたがそれは事態を少しも換えないのでしょうか。別の筋道を話してみます。

お言葉ですが、覚者というには、全体のほんのほんのごく一部でしょう。
>
>  Kは子どもの頃学校でよく立たされていましたが、ついに憎しみを感じることはなかった。これは普通か普通でないかという話があって、ボームを含めた対談者は普通は誰もが憎しみを感じると答えるのですが、Kは覚者にとってはそれが自然だと言います。そして覚者も親から生まれた普通の人間だと強調します。質問者も憎しみは感じるけれど憎みたくないと相反する感情を持つと言います。それは憎みたくないという自然な感情があるが、いつも区別して人間は進路を誤ってしまう。それは人間の持つ自己中心性の思考から出るのでその自己中心性が暗黒である。区別を生み出すこの自己中心を終わりにしないと葛藤はなくならないという話も出ます。これも求め始めると成り行く過程に巻き込まれそうですね。

何度も言いますが、人間というのは葛藤挫折を何度も繰り返しながら心は成長します。
>
>  そこで覚者の声を聴く、感じるという事になります。これは本質的にじたばたせず何が起こるか見守る、聴くという事なのでしょう。

あなたは覚者に依存しているのですか?

>それができないという事ですね。どうしても主体的に能動的に何かしたくなる。運動したくなる。これはKの言う基底の非運動では全くないですね。

主体的能動的にやることが人間です。
>
>  感じるという事は人間の場合、精神の共鳴、共振、同期あるいは同調のようなものではないかと感じています。共鳴、共振、同期、同調は振り子やメトロノーム、電波のように物質、エネルギイー、生物の全部を通じて起こります。これが全体の基底を感じる唯一の道でしょう。

あなたは人間、思考は必要ないとおっしゃっているのでしょうか?
原始時代に戻れと。
>
>  人間は有史前から天地とのつながりを求めてきたのではないでしょうか、宗教者、哲学者、芸術家、美術家、音楽家、名もなき人も。そして自分の感じたものとなんとか伝えようとしてきたのでしょう。でもそれは人間全体に感じる雰囲気を創り出すには至っていません。その中で宇宙的共鳴の感覚を澄まして、見、聴いていましょう。

思考はどうなりましたか。必要ない?
あなたは人間の持っている想像力に対して、どう思っているのだろうか?


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