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[25847] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/09/05(Wed) 08:12  

時間の終焉」でKは基底という事を言い出した。

 >基底とは何かというとKが探究の果てにたどり着いたもので、最後の根源的なものでその上はないという。無機質の星々や有機的生物、宇宙全体がそのうえで生まれ、死んでそこに戻る基盤、もしくは場(ground)であるという。

以下略

Kは科学者ですか?単なる一人の人間でしょう。
Kは物理学の知識がありますか。
科学というのは人類の総合的研究の上で成り立つものです。現在も、宇宙の構造の探求が進行中。いわば量子、素粒子のミクロの世界。
アインシュタインが提出した引力、重力波の問題を今やっきとなって研究している。
Kがつかんだものがあるとすれば、あくまで個人的な脳内現象です。
個人の頭だけの話。
元々、精神世界と科学は相入れません。
たとえば釈尊一人が悟りを開いても、宇宙の構造には、なんら関係ない。



[25846] Re:[25845] 基底と人間の関係 投稿者:宮啓 投稿日:2018/09/04(Tue) 15:19  

> 「時間の終焉」でKは基底という事を言い出した。
>
>  基底とは何かというとKが探究の果てにたどり着いたもので、最後の根源的なものでその上はないという。無機質の星々や有機的生物、宇宙全体がそのうえで生まれ、死んでそこに戻る基盤、もしくは場(ground)であるという。
>
>  それで人間は基盤とどのような関係が持てるかというと、覚者のみが関係を持てる、知覚し得るということがあって非覚者はここで止まってしまうわけです。ではどうすればいいかと尋ねるしかありませんが、それはまた成り行く過程に入ってしまう事になります。
>
>  そこで覚者は「じたばたすることはない。何もすることはない」と言います。非覚者はじっと待機して何が起こるか見ていようとすることができるしょうか?実際には非覚者は何か追求し始めてしまうのです。
>
>  さて、では非覚者は、言い換えれば今の社会は絶望的でしょうか? Kは基盤まで持ち出してきましたがそれは事態を少しも換えないのでしょうか。別の筋道を話してみます。
>
>  Kは子どもの頃学校でよく立たされていましたが、ついに憎しみを感じることはなかった。これは普通か普通でないかという話があって、ボームを含めた対談者は普通は誰もが憎しみを感じると答えるのですが、Kは覚者にとってはそれが自然だと言います。そして覚者も親から生まれた普通の人間だと強調します。質問者も憎しみは感じるけれど憎みたくないと相反する感情を持つと言います。それは憎みたくないという自然な感情があるが、いつも区別して人間は進路を誤ってしまう。それは人間の持つ自己中心性の思考から出るのでその自己中心性が暗黒である。区別を生み出すこの自己中心を終わりにしないと葛藤はなくならないという話も出ます。これも求め始めると成り行く過程に巻き込まれそうですね。
>
>  そこで覚者の声を聴く、感じるという事になります。これは本質的にじたばたせず何が起こるか見守る、聴くという事なのでしょう。それができないという事ですね。どうしても主体的に能動的に何かしたくなる。運動したくなる。これはKの言う基底の非運動では全くないですね。
>
>  感じるという事は人間の場合、精神の共鳴、共振、同期あるいは同調のようなものではないかと感じています。共鳴、共振、同期、同調は振り子やメトロノーム、電波のように物質、エネルギイー、生物の全部を通じて起こります。これが全体の基底を感じる唯一の道でしょう。
>
>  人間は有史前から天地とのつながりを求めてきたのではないでしょうか、宗教者、哲学者、芸術家、美術家、音楽家、名もなき人も。そして自分の感じたものとなんとか伝えようとしてきたのでしょう。でもそれは人間全体に感じる雰囲気を創り出すには至っていません。その中で宇宙的共鳴の感覚を澄まして、見、聴いていましょう。



 「ビカミングではない」という事柄は重大な意味を持つことでしょう。

 あぐらを組んでじっと座っているから(何もしていないから)「ビカミングではない」とは言えない。
 なぜ、そこにじっと座っているのか?動機がある。内側にビカミングがある。

 なぜクリシュナムルティの本を読むのか?そこにビカミングがある。

 なぜ、ビカミングを止めようとするのか?思考を止めようとするのか?そこにビカミングがある。

 なぜ、宇宙と共鳴しようとするのか?そこにビカミングがある。

 ビカミングが自ら止む、すなわち「ビカミングではない」ことが起きる「ルート」について、『時間の終焉』や『生の全体性』において、あわせて5〜6ルートが示されているように思います。

 先日『時間の終焉』を読み終え(朗読本)、今は『生の全体性(朗読本)』を読んでいるのですが、そのルートの数は決まっているのではなく、無数にあっても不思議ではないように感じています。


[25845] 基底と人間の関係 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/04(Tue) 14:14  

「時間の終焉」でKは基底という事を言い出した。

 基底とは何かというとKが探究の果てにたどり着いたもので、最後の根源的なものでその上はないという。無機質の星々や有機的生物、宇宙全体がそのうえで生まれ、死んでそこに戻る基盤、もしくは場(ground)であるという。

 それで人間は基盤とどのような関係が持てるかというと、覚者のみが関係を持てる、知覚し得るということがあって非覚者はここで止まってしまうわけです。ではどうすればいいかと尋ねるしかありませんが、それはまた成り行く過程に入ってしまう事になります。

 そこで覚者は「じたばたすることはない。何もすることはない」と言います。非覚者はじっと待機して何が起こるか見ていようとすることができるしょうか?実際には非覚者は何か追求し始めてしまうのです。

 さて、では非覚者は、言い換えれば今の社会は絶望的でしょうか? Kは基盤まで持ち出してきましたがそれは事態を少しも換えないのでしょうか。別の筋道を話してみます。

 Kは子どもの頃学校でよく立たされていましたが、ついに憎しみを感じることはなかった。これは普通か普通でないかという話があって、ボームを含めた対談者は普通は誰もが憎しみを感じると答えるのですが、Kは覚者にとってはそれが自然だと言います。そして覚者も親から生まれた普通の人間だと強調します。質問者も憎しみは感じるけれど憎みたくないと相反する感情を持つと言います。それは憎みたくないという自然な感情があるが、いつも区別して人間は進路を誤ってしまう。それは人間の持つ自己中心性の思考から出るのでその自己中心性が暗黒である。区別を生み出すこの自己中心を終わりにしないと葛藤はなくならないという話も出ます。これも求め始めると成り行く過程に巻き込まれそうですね。

 そこで覚者の声を聴く、感じるという事になります。これは本質的にじたばたせず何が起こるか見守る、聴くという事なのでしょう。それができないという事ですね。どうしても主体的に能動的に何かしたくなる。運動したくなる。これはKの言う基底の非運動では全くないですね。

 感じるという事は人間の場合、精神の共鳴、共振、同期あるいは同調のようなものではないかと感じています。共鳴、共振、同期、同調は振り子やメトロノーム、電波のように物質、エネルギイー、生物の全部を通じて起こります。これが全体の基底を感じる唯一の道でしょう。

 人間は有史前から天地とのつながりを求めてきたのではないでしょうか、宗教者、哲学者、芸術家、美術家、音楽家、名もなき人も。そして自分の感じたものとなんとか伝えようとしてきたのでしょう。でもそれは人間全体に感じる雰囲気を創り出すには至っていません。その中で宇宙的共鳴の感覚を澄まして、見、聴いていましょう。


[25844] Re:[25843] 心理的に死ぬ 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/01(Sat) 11:02  

> 生きている間に心理的に死ぬことの実際のヒントをKが話してくれました。実際にやって見てください。知識で知るのでなく実際に知る、わかる。
>
> 心理的に死ぬということは、結局は、瞬時瞬時起きてくる思考に、問いかけるということではないですか。
> ほんとかどうか、事実を問う。
> この事実に問うと、自分に問うというのも同じ意味です。
> それは終生続くものであり、「終わり」はありません。
>
> 新しい芽氏の、「どのように」気づいているか、「どんなふう」に気づいているかが問題。ただ気づいているというのでなく。
>
> ここまでは「心理的に死ぬ」の私の見解。
>
> 次はあなたの見解の方です。
> 心理的に死ぬことについて「実際に知る、わかる」ことだと言われていますが、どういうことですか?
> よくわかりません。
> Kの文章をよく読んでくれというのが答えですか?
> その前に「心理的に死ぬ」というのはどういうことなのか?
>
> 人間、瞬時瞬時想起している。ここまではわかります。
> 問題は、その思考の中身ですか?それは過去のもの?
> 内容は何であれ、起きていることは事実でしょう。
> 好き嫌い、いい悪いは心理的なものですが、自分の意見、主張、考え、アイデアはどうですか?それはいいんですか。それともそれも過去のものとして切り捨てるのですか?
> ここでいう心理的に死ぬというのがよくわからない。
>
>
自分にはとても大事な手放せない思いというのがあるでしょう。いろいろあるでしょうが。しかしそれを貫くと大変なことになる、極端な場合は戦争。そうでなくとも大騒動になる。
そのとき自分の思い、あるいはそれを行動することをやめる。すべてを手放す。そして死んだようにことの推移を見ている。まな板の上の鯉のように、じたばたすることなく。

過去のものに対して死ぬ。肉体でなく自意識がその最も大事にする思いを手放す。

今日はこれから出かけ晩に帰ります。


[25843] 心理的に死ぬ 投稿者:無明 投稿日:2018/09/01(Sat) 09:21  

生きている間に心理的に死ぬことの実際のヒントをKが話してくれました。実際にやって見てください。知識で知るのでなく実際に知る、わかる。

心理的に死ぬということは、結局は、瞬時瞬時起きてくる思考に、問いかけるということではないですか。
ほんとかどうか、事実を問う。
この事実に問うと、自分に問うというのも同じ意味です。
それは終生続くものであり、「終わり」はありません。

新しい芽氏の、「どのように」気づいているか、「どんなふう」に気づいているかが問題。ただ気づいているというのでなく。

ここまでは「心理的に死ぬ」の私の見解。

次はあなたの見解の方です。
心理的に死ぬことについて「実際に知る、わかる」ことだと言われていますが、どういうことですか?
よくわかりません。
Kの文章をよく読んでくれというのが答えですか?
その前に「心理的に死ぬ」というのはどういうことなのか?

人間、瞬時瞬時想起している。ここまではわかります。
問題は、その思考の中身ですか?それは過去のもの?
内容は何であれ、起きていることは事実でしょう。
好き嫌い、いい悪いは心理的なものですが、自分の意見、主張、考え、アイデアはどうですか?それはいいんですか。それともそれも過去のものとして切り捨てるのですか?
ここでいう心理的に死ぬというのがよくわからない。




[25842] 無知、無妄 投稿者:無明 投稿日:2018/09/01(Sat) 08:39  

>この9章には、とても多くのことが語られています。

 その内容は、『時間の終焉』で更にボームとの対話によって、より詳細に述べられています。

 その実際のやりかたも、4通り程のやり方が示されているように思います。

 登頂アタックにおいて、数種類のルートが示されているように思います。

クリシュナムルティは、「やり方」など明示していない。
やり方、手法、方法、あらゆるメソッドは、ビカミング(なりゆく)の過程。
時間にとらわれている。
「いつか」こうなる。と。「どうしたら?」


>私は、たまたま夏季休業期間にあたり、『時間の終焉』の朗読本を読んでいるところでした。

「時間の終焉」を読みながら、時間にとらわれている。
「どうしたら変容できるのか?」と。

>その内容と、この『既知からの自由』の内容が、ちょうど重なるように感じ、『時間の終焉』と並行して読むことによって、より内容の理解が深まるように思いました。


併用して読むから頭が混乱する。知識だけ得ようとする。生きたものから得ようとしない。
真理の題材は、周囲にいくらでもころがっている。
クリシュナムルティの活字の中には真理はない。



[25841] Re:[25840] [25838] 既知からの自由9-3 投稿者:宮啓 投稿日:2018/08/31(Fri) 12:40  

> > 9章ー3[死]
> >
> >  私たちは生を死から分離しました。そして生と死の間隔が恐怖なのです。その間隔、その時間は、恐怖によって作り出されます。生は私たちの毎日の苦しみ、毎日の侮辱、悲しみ、混乱であり、時折魅惑的な海が見える窓が開くこともあります。それが私たちが生と呼ぶものです、そして私たちはこの惨めさを終わらせる死を恐れます。未知のものに直面するよりむしろ既知のものにしがみつきたがります ― 既知のものは自分の家、家具、家族、性格、知識、名声、孤独、神です ― 惨めな存在のそれ自体の限られたパターンで、それ自体の範囲内を絶え間なく動き回っている些細な事柄です。
>
>
> 確かに私たちは生と死を分離しています。そして死を怖がります。既知のものにすがりつきます。知らない未知に入るのは避けたいです。
>
>
> >  私たちは生きることは常に現在にあり、死ぬことは遥か先で待っている何かだと考えます。しかしこの毎日の生の戦いが果たして生きることなのだろうかと決して尋ねてみたことがないのです。輪廻転生について真相を知りたがり、魂が生き延びる証明を欲しがり、千里眼の人の主張や心霊研究の結果に耳を傾けますが、しかしいかに生きるかを ― 毎日歓喜し、魅せられて、美と共に生きるかを決して問いません。決して。私たちは生をその全ての苦悩や絶望と共にそのままに受け入れ、それに慣れてしまい、そして死を慎重に避けるべきものとして考えます。しかしいかに生きるかを知るとき、死は途方もなく生に似ています。死ぬことなしに生きることはできません。一瞬一瞬心理的に死なないなら生きることはできません。これは知的な逆説ではありません。毎日が新しい素晴らしい日のように、完全に、全的に生きるためには、昨日の全てのことに対して死ななければなりません。そうでなければ機械的に生きているのであり、そして機械的な心は愛が何であるか、自由が何であるか決して知ることはできません。
>
>
> だが生きるという事は何か?とは考えたことがありません。歓喜と美に魅せられての生を知りません。愛も自由も知りません。それは昨日に対して死んで生きることを知らないからです。
>
>
> >  私たちの多くは死ぬことを恐れていますが、それは生きることがどういうことか知らないからです。私たちはいかに生きるかを知らず、従っていかに死ぬか知りません。生を恐れている限り、死を恐れるでしょう。生を恐れていない人は、内的に、心理的に、安全はないという事を理解しているため、完全に不安定であることを恐れないのです。安全がないとき、終わりのない動きがあり、そのとき生と死は同じものです。葛藤なしに生きる人、美と愛と共に生きる人は死を恐れません。愛することは死ぬことだからです。
>
>
> この安全のない世界の中で死を恐れずに生きる人は、死んで生きることを知っている人です。
>
>
> >  もし自分の家族、自分の金、自分が感じてきた全てのものを含めて、知っているあらゆるものに対して死ぬならば、そのとき死は純化、若返りの過程です。そのとき死は無垢をもたらし、そして情熱的である人は無垢な人だけで、信じたり、死後に何が起こるかを見つけたがる人々ではありません。
>
>
> はい。
>
>
> >  死ぬとき何が実際に起こるか見いだすためには死ななければなりません。これは冗談ではありません。あなたは死ななければなりません。肉体的にではなく心理的に、内的に、あなたが大切にしてきたもの、また辛かった物事に対して死ななければなりません。自分の楽しみの一つに対して、それが一番小さいものでも最も大きいものでも、何の強制も議論もなく自然に死ぬなら、そのとき死ぬとはどういう意味か分かるでしょう。死ぬことはそれ自体について完全に空である心、その毎日の切望、快楽、苦悩のない心を持つことです。死は一新、変容であり、思考は古いものなのでそこでは全く機能しません。死があるとき、全く新しい何かがあります。既知のものからの自由は死であり、その時生きているのです。
>
>
> 生きている間に心理的に死ぬことの実際のヒントをKが話してくれました。実際にやって見てください。知識で知るのでなく実際に知る、わかる。
>
> 9章 終わり。



 この9章には、とても多くのことが語られています。

 その内容は、『時間の終焉』で更にボームとの対話によって、より詳細に述べられています。

 その実際のやりかたも、4通り程のやり方が示されているように思います。

 登頂アタックにおいて、数種類のルートが示されているように思います。

 私は、たまたま夏季休業期間にあたり、『時間の終焉』の朗読本を読んでいるところでした。

 その内容と、この『既知からの自由』の内容が、ちょうど重なるように感じ、『時間の終焉』と並行して読むことによって、より内容の理解が深まるように思いました。


[25840] Re:[25838] 既知からの自由9-3 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/31(Fri) 10:38  

> 9章ー3[死]
>
>  私たちは生を死から分離しました。そして生と死の間隔が恐怖なのです。その間隔、その時間は、恐怖によって作り出されます。生は私たちの毎日の苦しみ、毎日の侮辱、悲しみ、混乱であり、時折魅惑的な海が見える窓が開くこともあります。それが私たちが生と呼ぶものです、そして私たちはこの惨めさを終わらせる死を恐れます。未知のものに直面するよりむしろ既知のものにしがみつきたがります ― 既知のものは自分の家、家具、家族、性格、知識、名声、孤独、神です ― 惨めな存在のそれ自体の限られたパターンで、それ自体の範囲内を絶え間なく動き回っている些細な事柄です。


確かに私たちは生と死を分離しています。そして死を怖がります。既知のものにすがりつきます。知らない未知に入るのは避けたいです。


>  私たちは生きることは常に現在にあり、死ぬことは遥か先で待っている何かだと考えます。しかしこの毎日の生の戦いが果たして生きることなのだろうかと決して尋ねてみたことがないのです。輪廻転生について真相を知りたがり、魂が生き延びる証明を欲しがり、千里眼の人の主張や心霊研究の結果に耳を傾けますが、しかしいかに生きるかを ― 毎日歓喜し、魅せられて、美と共に生きるかを決して問いません。決して。私たちは生をその全ての苦悩や絶望と共にそのままに受け入れ、それに慣れてしまい、そして死を慎重に避けるべきものとして考えます。しかしいかに生きるかを知るとき、死は途方もなく生に似ています。死ぬことなしに生きることはできません。一瞬一瞬心理的に死なないなら生きることはできません。これは知的な逆説ではありません。毎日が新しい素晴らしい日のように、完全に、全的に生きるためには、昨日の全てのことに対して死ななければなりません。そうでなければ機械的に生きているのであり、そして機械的な心は愛が何であるか、自由が何であるか決して知ることはできません。


だが生きるという事は何か?とは考えたことがありません。歓喜と美に魅せられての生を知りません。愛も自由も知りません。それは昨日に対して死んで生きることを知らないからです。


>  私たちの多くは死ぬことを恐れていますが、それは生きることがどういうことか知らないからです。私たちはいかに生きるかを知らず、従っていかに死ぬか知りません。生を恐れている限り、死を恐れるでしょう。生を恐れていない人は、内的に、心理的に、安全はないという事を理解しているため、完全に不安定であることを恐れないのです。安全がないとき、終わりのない動きがあり、そのとき生と死は同じものです。葛藤なしに生きる人、美と愛と共に生きる人は死を恐れません。愛することは死ぬことだからです。


この安全のない世界の中で死を恐れずに生きる人は、死んで生きることを知っている人です。


>  もし自分の家族、自分の金、自分が感じてきた全てのものを含めて、知っているあらゆるものに対して死ぬならば、そのとき死は純化、若返りの過程です。そのとき死は無垢をもたらし、そして情熱的である人は無垢な人だけで、信じたり、死後に何が起こるかを見つけたがる人々ではありません。


はい。


>  死ぬとき何が実際に起こるか見いだすためには死ななければなりません。これは冗談ではありません。あなたは死ななければなりません。肉体的にではなく心理的に、内的に、あなたが大切にしてきたもの、また辛かった物事に対して死ななければなりません。自分の楽しみの一つに対して、それが一番小さいものでも最も大きいものでも、何の強制も議論もなく自然に死ぬなら、そのとき死ぬとはどういう意味か分かるでしょう。死ぬことはそれ自体について完全に空である心、その毎日の切望、快楽、苦悩のない心を持つことです。死は一新、変容であり、思考は古いものなのでそこでは全く機能しません。死があるとき、全く新しい何かがあります。既知のものからの自由は死であり、その時生きているのです。


生きている間に心理的に死ぬことの実際のヒントをKが話してくれました。実際にやって見てください。知識で知るのでなく実際に知る、わかる。

9章 終わり。


[25839] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/08/30(Thu) 19:12  

>渡辺氏は、クリシュナムルティが述べたことが起こらなかった・・旨を述べていました。

宮啓、渡辺氏に会ったこともないのにデタラメを言うではない。
これ以上、このサイトで、渡辺氏の名前は出さないでほしい。
オタクにあれこれ言われる筋合いがない。
心理的思考の罠にはまったとか、Kのいう変容は起きなかったとか。
大きなお世話だ。

私は打ち上げの席で渡辺氏に直接聞いている。クリシュナムルティのいう「変容」には疑問符があるとのこと。ラジネーシが言うように「誰も変わりやしなかった」というのでは、人間への普遍性の意味がない。何のために50年以上も講演したのか。彼の自己満足のためか。
意識の変容を成し遂げた人間がいないということは、Kの言っていることが虚偽だったということになる。何が「空間に出会う」だ。没後30年。そんな言葉は通用しない。現代科学の最先端の研究は「五次元」の領域に入っている。



[25838] 既知からの自由9-3 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/29(Wed) 17:50  

9章ー3[死]

 私たちは生を死から分離しました。そして生と死の間隔が恐怖なのです。その間隔、その時間は、恐怖によって作り出されます。生は私たちの毎日の苦しみ、毎日の侮辱、悲しみ、混乱であり、時折魅惑的な海が見える窓が開くこともあります。それが私たちが生と呼ぶものです、そして私たちはこの惨めさを終わらせる死を恐れます。未知のものに直面するよりむしろ既知のものにしがみつきたがります ― 既知のものは自分の家、家具、家族、性格、知識、名声、孤独、神です ― 惨めな存在のそれ自体の限られたパターンで、それ自体の範囲内を絶え間なく動き回っている些細な事柄です。

 私たちは生きることは常に現在にあり、死ぬことは遥か先で待っている何かだと考えます。しかしこの毎日の生の戦いが果たして生きることなのだろうかと決して尋ねてみたことがないのです。輪廻転生について真相を知りたがり、魂が生き延びる証明を欲しがり、千里眼の人の主張や心霊研究の結果に耳を傾けますが、しかしいかに生きるかを ― 毎日歓喜し、魅せられて、美と共に生きるかを決して問いません。決して。私たちは生をその全ての苦悩や絶望と共にそのままに受け入れ、それに慣れてしまい、そして死を慎重に避けるべきものとして考えます。しかしいかに生きるかを知るとき、死は途方もなく生に似ています。死ぬことなしに生きることはできません。一瞬一瞬心理的に死なないなら生きることはできません。これは知的な逆説ではありません。毎日が新しい素晴らしい日のように、完全に、全的に生きるためには、昨日の全てのことに対して死ななければなりません。そうでなければ機械的に生きているのであり、そして機械的な心は愛が何であるか、自由が何であるか決して知ることはできません。


 私たちの多くは死ぬことを恐れていますが、それは生きることがどういうことか知らないからです。私たちはいかに生きるかを知らず、従っていかに死ぬか知りません。生を恐れている限り、死を恐れるでしょう。生を恐れていない人は、内的に、心理的に、安全はないという事を理解しているため、完全に不安定であることを恐れないのです。安全がないとき、終わりのない動きがあり、そのとき生と死は同じものです。葛藤なしに生きる人、美と愛と共に生きる人は死を恐れません。愛することは死ぬことだからです。

 もし自分の家族、自分の金、自分が感じてきた全てのものを含めて、知っているあらゆるものに対して死ぬならば、そのとき死は純化、若返りの過程です。そのとき死は無垢をもたらし、そして情熱的である人は無垢な人だけで、信じたり、死後に何が起こるかを見つけたがる人々ではありません。

 死ぬとき何が実際に起こるか見いだすためには死ななければなりません。これは冗談ではありません。あなたは死ななければなりません。肉体的にではなく心理的に、内的に、あなたが大切にしてきたもの、また辛かった物事に対して死ななければなりません。自分の楽しみの一つに対して、それが一番小さいものでも最も大きいものでも、何の強制も議論もなく自然に死ぬなら、そのとき死ぬとはどういう意味か分かるでしょう。死ぬことはそれ自体について完全に空である心、その毎日の切望、快楽、苦悩のない心を持つことです。死は一新、変容であり、思考は古いものなのでそこでは全く機能しません。死があるとき、全く新しい何かがあります。既知のものからの自由は死であり、その時生きているのです。

(終わり)


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