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[25451] 投影 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/06/12(Tue) 14:24  

1主体と客体の区別がつかない未熟な意識 2投影対象が具体的で理想化されている意識  3投影が抽象的で客観的な意識 4客体に投影せず自己が投影対象となる反逆的意識  5自己の限界を知り投影が止む意識。


[25450] Re:[25449] イメージ 投稿者:南方 投稿日:2018/06/12(Tue) 09:43  

> 投影というのはイメージということでしょうか。イメージをやめるというのはありえないでしょう。人間というのは思考イメージ次次起きるということです。それが人間です。「考えない」というのはありえない。
> 実際やってみればわかります。続かない。
> (スポーツをやってるときとか、密林の中では集中しているので例外です)
> クリシュナムルティのいうのは、自身に次次起きるイメージ(想起)を見てみようということです。
> 座禅の目的は、心を滅する方法の代表格ですが、人間の心の本質を無視する本末転倒のやりかたであり、それをK は危惧してるわけです。
> 世間では今でも心をコントロールする方法、メソッドは大流行りです。心の商売化。
> 何でも必要以上に規制するべきではありません。
> 心理的思考を問題にしているので「創造的思考」は大いに発揮せよということです。
> 現代の「無」から「有」を生み出したのはまさに創造的思考です。


投影というと、自分の影を相手に投げ掛けることだと解釈して下さい。

自分というのは断片に過ぎませんから、引っかかる人がいればすぐに投影をやめる。というか投影している自分をただみる。

それだけです。

祈ったら投影やめられるかも?です。

僕であり僕でない兄弟の虚無さん、引っかかることに気づかせて頂きありがとうございます。


[25449] イメージ 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/12(Tue) 08:59  

投影というのはイメージということでしょうか。イメージをやめるというのはありえないでしょう。人間というのは思考イメージ次次起きるということです。それが人間です。「考えない」というのはありえない。
実際やってみればわかります。続かない。
(スポーツをやってるときとか、密林の中では集中しているので例外です)
クリシュナムルティのいうのは、自身に次次起きるイメージ(想起)を見てみようということです。
座禅の目的は、心を滅する方法の代表格ですが、人間の心の本質を無視する本末転倒のやりかたであり、それをK は危惧してるわけです。
世間では今でも心をコントロールする方法、メソッドは大流行りです。心の商売化。
何でも必要以上に規制するべきではありません。
心理的思考を問題にしているので「創造的思考」は大いに発揮せよということです。
現代の「無」から「有」を生み出したのはまさに創造的思考です。


[25448] Re:[25443] [25437] 無題 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/12(Tue) 08:33  

> > 人は過去起きた暴力や不正は指摘するが現在のには目をつぶる。自分が損する時は特に
>
>
> なぜだろう。自分の損得だけでなく、言っても問題の解決にならず、別の対立を生じる場合もあるからか?

> 「ほらほら、またご飯をこぼした」

ご飯をこぼしたのは「事実」です。実際起きたことです。

> 「亭主に向かって何たる口のききよう!」。

それはあなたの反応。判断、思考。

相手は事実を指摘しただけ。非はない。

その起きた事実に対する反応。 中身は、自身の過去の経験、記憶、判断、評価。
もちろん、相手に対して反応の言葉を吐かないというのはいうまでもありません。言われたとき、心の中でそのような反応が起きた。
私もですが、こういったケースは今まで生きてきた中で、たくさんあります。事実を指摘されたとき。

大抵の人は自身の手慣れた習慣的な反応を起こしてしまいます。
リアルタイムで反応が起きた時、その反応に目を向けることはありません。大抵は、「外」に向くということです。
外に責任を押し付ける。 外、つまり外部。
又、内省的な人は自分に責任を押し付ける傾向がある。自分を責め自分が悪いと。これもよくあるケース。
つまりは、事実起きたことに対し、非難正当化なしに見る。
外にも内にも。



[25447] 無題 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/12(Tue) 08:01  

結論めいたことを言う人がいますが、まだ始まったばかりです。
「既知からの自由」第1章半分もいってない。


[25446] Re:[25445] [25444] [25438] [25428] 既知からの自由 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/12(Tue) 07:59  

> > > > [人間と個人・生存の戦い]
> > > >
> > > >  神、真理、実在、あるいはそれをどう呼ぼうとも、それがあるかどうかという問いは本や司祭、哲学者や救世主によっては決して答えられません。自分自身のほかには誰も何もその問いに答えることはできず、そしてそのことが自分自身を知らなければならない理由です。未熟さは自己についてのまったくの無知の中にのみあります。自分自身を理解することが知恵の始まりです。
> > > >
> > > >  そしてあなた自身とは、個人としてのあなたとは何でしょうか? 私は人間と個人の間には違いがあると考えます、個人は局地的な存在であって、特定の国で生活し、特定の文化、特定の社会、特定の宗教に属しています。人間は局地的存在ではありません。あらゆる場所にいます。もし個人が生の広大な場の特定の隅で行動するだけなら、その時彼の行動は全体と全く無関係です。ですから私たちは部分でなく全体について話していることを心に留めておかねばなりません。なぜなら大の中に小はあり得ますが、小の中に大はないからです。個人は小さな条件づけられた、惨めな、欲求不満の存在であり、自分の小さな神と小さな伝統に満足していますが、他方人間は世界の全体の幸福、全体の惨めさ、全体の混乱に関係しているのです。
> > > >
> > > >
> > > >  私たち人間は何百万年の間そうであったままです ― とてつもなく貪欲で、羨望的で、攻撃的で、嫉妬深く、不安で、絶望しており、たまさかの喜びと愛情の閃きを伴うに過ぎません。私たちは憎しみ、恐怖、優しさの奇妙な混合物です。暴力と平和の両方です。牛車からジェット機まで外部の進歩はありましたが、心理的には個人は全く変わっておらず、世界中の社会の構造は個人によってつくり出されてきたのです。外部の社会の構造は、人間関係の内部の心理的な構造の結果です。というのは個人は人間の全経験、全知識、全行為の結果だからです。各人一人一人が全ての過去の倉庫です。個人は全て人類である人間なのです。人間の歴史全体が私たち自身の中に書かれています。人間の歴史全体が私たち自身の中に書かれています。
> > > >
> > > >  権力、地位、信望、名声、成功、等々に対する欲望と共に生きている競争的な文化の中で、自分自身の内部と外部で実際に起きていることを観察しましょう ― 自分がそんなにも誇りにしている業績を観察しましょう。憎悪、敵意、残忍さ、果てしない戦争を引き起こしている、あらゆる形の関係の中に葛藤があるあなたが生と呼ぶこの場を観察しましょう。この場、この生が私たちの知っているすべてです。そして生存の巨大な戦いを理解できないので、私たちは当然それを恐れ、あらゆる種類の巧妙な方法でそれからの逃避を見つけます。そして私たちはまた未知のものを恐れます ― 死を恐れ、明日の彼方にあるものを恐れます。それゆえ私たちは既知のものを恐れ、また未知のものを恐れています。それが私たちの日常生活であり、その中に希望はありません。それゆえあらゆる形の哲学、あらゆる形の神学的概念は、あるがままの現実からの単なる逃避にすぎません。
> > >
> > >
> > > これは簡単に言うと「投影」をやめるということです。
> > >
> > > 釈迦に説法かも知れませんが、僕はようやく「投影」をやめれました。
> > >
> > > やめたらどうなるかは、やめてみれぱわかります。
> > >
> > > 一にも二も「投影」をやめる。それにつきます。
> >
> >
> > 南方さんも読んでくださって! 嬉しいな。
> >
> > 「投影」、その通りかもしれません。しかし投影は無意識的で、不随意で、やめることのむずかしさは大変だ。
> > やめるヒントでもいただけましょうか。
>
>
> 仏様が言った、無我の境地「私でさえ私のもではない」ということを心底納得します。
> それを納得するには宇宙の因とは一つであることを、これもまた心底納得するまで考える必要があります。
> そうすると自身は神であり、またそうではないことがわかります。
>
> それらを納得できたらキリストの言う「人類皆兄弟姉妹」という言葉か心底納得できるはずです。
>
> ざっとですがこんなものです。


早速コメントくださってありがとうございます。

壮大なヴィジョンから発しているのですね。宇宙の因は一つ・・・・ そこは思いをはせたことがなかった。。


[25445] Re:[25444] [25438] [25428] 既知からの自由 投稿者:南方 投稿日:2018/06/12(Tue) 02:39  

> > > [人間と個人・生存の戦い]
> > >
> > >  神、真理、実在、あるいはそれをどう呼ぼうとも、それがあるかどうかという問いは本や司祭、哲学者や救世主によっては決して答えられません。自分自身のほかには誰も何もその問いに答えることはできず、そしてそのことが自分自身を知らなければならない理由です。未熟さは自己についてのまったくの無知の中にのみあります。自分自身を理解することが知恵の始まりです。
> > >
> > >  そしてあなた自身とは、個人としてのあなたとは何でしょうか? 私は人間と個人の間には違いがあると考えます、個人は局地的な存在であって、特定の国で生活し、特定の文化、特定の社会、特定の宗教に属しています。人間は局地的存在ではありません。あらゆる場所にいます。もし個人が生の広大な場の特定の隅で行動するだけなら、その時彼の行動は全体と全く無関係です。ですから私たちは部分でなく全体について話していることを心に留めておかねばなりません。なぜなら大の中に小はあり得ますが、小の中に大はないからです。個人は小さな条件づけられた、惨めな、欲求不満の存在であり、自分の小さな神と小さな伝統に満足していますが、他方人間は世界の全体の幸福、全体の惨めさ、全体の混乱に関係しているのです。
> > >
> > >
> > >  私たち人間は何百万年の間そうであったままです ― とてつもなく貪欲で、羨望的で、攻撃的で、嫉妬深く、不安で、絶望しており、たまさかの喜びと愛情の閃きを伴うに過ぎません。私たちは憎しみ、恐怖、優しさの奇妙な混合物です。暴力と平和の両方です。牛車からジェット機まで外部の進歩はありましたが、心理的には個人は全く変わっておらず、世界中の社会の構造は個人によってつくり出されてきたのです。外部の社会の構造は、人間関係の内部の心理的な構造の結果です。というのは個人は人間の全経験、全知識、全行為の結果だからです。各人一人一人が全ての過去の倉庫です。個人は全て人類である人間なのです。人間の歴史全体が私たち自身の中に書かれています。人間の歴史全体が私たち自身の中に書かれています。
> > >
> > >  権力、地位、信望、名声、成功、等々に対する欲望と共に生きている競争的な文化の中で、自分自身の内部と外部で実際に起きていることを観察しましょう ― 自分がそんなにも誇りにしている業績を観察しましょう。憎悪、敵意、残忍さ、果てしない戦争を引き起こしている、あらゆる形の関係の中に葛藤があるあなたが生と呼ぶこの場を観察しましょう。この場、この生が私たちの知っているすべてです。そして生存の巨大な戦いを理解できないので、私たちは当然それを恐れ、あらゆる種類の巧妙な方法でそれからの逃避を見つけます。そして私たちはまた未知のものを恐れます ― 死を恐れ、明日の彼方にあるものを恐れます。それゆえ私たちは既知のものを恐れ、また未知のものを恐れています。それが私たちの日常生活であり、その中に希望はありません。それゆえあらゆる形の哲学、あらゆる形の神学的概念は、あるがままの現実からの単なる逃避にすぎません。
> >
> >
> > これは簡単に言うと「投影」をやめるということです。
> >
> > 釈迦に説法かも知れませんが、僕はようやく「投影」をやめれました。
> >
> > やめたらどうなるかは、やめてみれぱわかります。
> >
> > 一にも二も「投影」をやめる。それにつきます。
>
>
> 南方さんも読んでくださって! 嬉しいな。
>
> 「投影」、その通りかもしれません。しかし投影は無意識的で、不随意で、やめることのむずかしさは大変だ。
> やめるヒントでもいただけましょうか。


仏様が言った、無我の境地「私でさえ私のもではない」ということを心底納得します。
それを納得するには宇宙の因とは一つであることを、これもまた心底納得するまで考える必要があります。
そうすると自身は神であり、またそうではないことがわかります。

それらを納得できたらキリストの言う「人類皆兄弟姉妹」という言葉か心底納得できるはずです。

ざっとですがこんなものです。


[25444] Re:[25438] [25428] 既知からの自由 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/11(Mon) 22:26  

> > [人間と個人・生存の戦い]
> >
> >  神、真理、実在、あるいはそれをどう呼ぼうとも、それがあるかどうかという問いは本や司祭、哲学者や救世主によっては決して答えられません。自分自身のほかには誰も何もその問いに答えることはできず、そしてそのことが自分自身を知らなければならない理由です。未熟さは自己についてのまったくの無知の中にのみあります。自分自身を理解することが知恵の始まりです。
> >
> >  そしてあなた自身とは、個人としてのあなたとは何でしょうか? 私は人間と個人の間には違いがあると考えます、個人は局地的な存在であって、特定の国で生活し、特定の文化、特定の社会、特定の宗教に属しています。人間は局地的存在ではありません。あらゆる場所にいます。もし個人が生の広大な場の特定の隅で行動するだけなら、その時彼の行動は全体と全く無関係です。ですから私たちは部分でなく全体について話していることを心に留めておかねばなりません。なぜなら大の中に小はあり得ますが、小の中に大はないからです。個人は小さな条件づけられた、惨めな、欲求不満の存在であり、自分の小さな神と小さな伝統に満足していますが、他方人間は世界の全体の幸福、全体の惨めさ、全体の混乱に関係しているのです。
> >
> >
> >  私たち人間は何百万年の間そうであったままです ― とてつもなく貪欲で、羨望的で、攻撃的で、嫉妬深く、不安で、絶望しており、たまさかの喜びと愛情の閃きを伴うに過ぎません。私たちは憎しみ、恐怖、優しさの奇妙な混合物です。暴力と平和の両方です。牛車からジェット機まで外部の進歩はありましたが、心理的には個人は全く変わっておらず、世界中の社会の構造は個人によってつくり出されてきたのです。外部の社会の構造は、人間関係の内部の心理的な構造の結果です。というのは個人は人間の全経験、全知識、全行為の結果だからです。各人一人一人が全ての過去の倉庫です。個人は全て人類である人間なのです。人間の歴史全体が私たち自身の中に書かれています。人間の歴史全体が私たち自身の中に書かれています。
> >
> >  権力、地位、信望、名声、成功、等々に対する欲望と共に生きている競争的な文化の中で、自分自身の内部と外部で実際に起きていることを観察しましょう ― 自分がそんなにも誇りにしている業績を観察しましょう。憎悪、敵意、残忍さ、果てしない戦争を引き起こしている、あらゆる形の関係の中に葛藤があるあなたが生と呼ぶこの場を観察しましょう。この場、この生が私たちの知っているすべてです。そして生存の巨大な戦いを理解できないので、私たちは当然それを恐れ、あらゆる種類の巧妙な方法でそれからの逃避を見つけます。そして私たちはまた未知のものを恐れます ― 死を恐れ、明日の彼方にあるものを恐れます。それゆえ私たちは既知のものを恐れ、また未知のものを恐れています。それが私たちの日常生活であり、その中に希望はありません。それゆえあらゆる形の哲学、あらゆる形の神学的概念は、あるがままの現実からの単なる逃避にすぎません。
>
>
> これは簡単に言うと「投影」をやめるということです。
>
> 釈迦に説法かも知れませんが、僕はようやく「投影」をやめれました。
>
> やめたらどうなるかは、やめてみれぱわかります。
>
> 一にも二も「投影」をやめる。それにつきます。


南方さんも読んでくださって! 嬉しいな。

「投影」、その通りかもしれません。しかし投影は無意識的で、不随意で、やめることのむずかしさは大変だ。
やめるヒントでもいただけましょうか。


[25443] Re:[25437] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/11(Mon) 22:14  

> 人は過去起きた暴力や不正は指摘するが現在のには目をつぶる。自分が損する時は特に


なぜだろう。自分の損得だけでなく、言っても問題の解決にならず、別の対立を生じる場合もあるからか?
「ほらほら、またご飯をこぼした」「亭主に向かって何たる口のききよう!」。


[25442] Re:[25436] [25430] [25428] 既知からの自由 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/11(Mon) 22:00  

> > > [人間と個人・生存の戦い]
> > >
> > >  神、真理、実在、あるいはそれをどう呼ぼうとも、それがあるかどうかという問いは本や司祭、哲学者や救世主によっては決して答えられません。自分自身のほかには誰も何もその問いに答えることはできず、そしてそのことが自分自身を知らなければならない理由です。未熟さは自己についてのまったくの無知の中にのみあります。自分自身を理解することが知恵の始まりです。
> >
> > 自分自身を知らなければならないという事は、アテネの時代から言われているし、Kも基本的なこととして言及しているという知識はある。しかし自分でそこを見て、実感・理解しているかどうかは怪しい。自信が持てない。
>
>
>  それは科学の世界でも未知の世界で、肯定も否定もされていない。
>
>  ただ、それを迷信だと頭から否定する者も居るが、それは真理だ・・と確信する者も居る。
>
>  科学の進歩によって科学的な証拠によって結論づける報告(ニュース)を待つのか・・。
>
>  徳がひしひしと伝わってくる正直な霊媒師とコンタクトをとって、それを伝えて貰うか。。
>
>  クリシュナムルティが述べるには、そのいずれも困難とのこと。
>
>  ただし、それの答えは遠くに書かれているのではなく、すぐそこにあるとのこと。
>
>
> > >  そしてあなた自身とは、個人としてのあなたとは何でしょうか? 私は人間と個人の間には違いがあると考えます、個人は局地的な存在であって、特定の国で生活し、特定の文化、特定の社会、特定の宗教に属しています。人間は局地的存在ではありません。あらゆる場所にいます。もし個人が生の広大な場の特定の隅で行動するだけなら、その時彼の行動は全体と全く無関係です。ですから私たちは部分でなく全体について話していることを心に留めておかねばなりません。なぜなら大の中に小はあり得ますが、小の中に大はないからです。個人は小さな条件づけられた、惨めな、欲求不満の存在であり、自分の小さな神と小さな伝統に満足していますが、他方人間は世界の全体の幸福、全体の惨めさ、全体の混乱に関係しているのです。
> >
> > 個人と人間というここにある見方・考え方は、この本を訳したから当然知っているはずなのに、頭の中になかった。今度注目できるのは、ここ一年近く哲学の本を読んだおかげである。傾聴した。
> >
> > >
> > >  私たち人間は何百万年の間そうであったままです ― とてつもなく貪欲で、羨望的で、攻撃的で、嫉妬深く、不安で、絶望しており、たまさかの喜びと愛情の閃きを伴うに過ぎません。私たちは憎しみ、恐怖、優しさの奇妙な混合物です。暴力と平和の両方です。牛車からジェット機まで外部の進歩はありましたが、心理的には個人は全く変わっておらず、世界中の社会の構造は個人によってつくり出されてきたのです。外部の社会の構造は、人間関係の内部の心理的な構造の結果です。というのは個人は人間の全経験、全知識、全行為の結果だからです。各人一人一人が全ての過去の倉庫です。個人は全て人類である人間なのです。人間の歴史全体が私たち自身の中に書かれています。人間の歴史全体が私たち自身の中に書かれています。
> >
> >
> > 何百万年か前に人類は誕生したが、背は低く、1メーター20くらいで、脳も小さかった。背が高く、脳の重量が増したのは2万年ぐらい前に過ぎない。人の心理状態は少なくとも脳の重量が増すことによって変わっていると思う。がそんなことは置いといて、人間らしくなってからは心理状態は変わっていないという事だと聞きました。
> >  しかし、牛車からジェット機までの外部の変化は、人間の心理にいろいろな変化を与えないのだろうか?
>
>
>  快楽原理に基づく活動においては、外面的には大きな変化をもたらすが、その動機や内面の動きは、依然として昔ながらの快楽原理として変化していないという意味ではなかろうか。本質的な事柄が変らない。
>
>
> > >  権力、地位、信望、名声、成功、等々に対する欲望と共に生きている競争的な文化の中で、自分自身の内部と外部で実際に起きていることを観察しましょう ― 自分がそんなにも誇りにしている業績を観察しましょう。憎悪、敵意、残忍さ、果てしない戦争を引き起こしている、あらゆる形の関係の中に葛藤があるあなたが生と呼ぶこの場を観察しましょう。この場、この生が私たちの知っているすべてです。そして生存の巨大な戦いを理解できないので、私たちは当然それを恐れ、あらゆる種類の巧妙な方法でそれからの逃避を見つけます。そして私たちはまた未知のものを恐れます ― 死を恐れ、明日の彼方にあるものを恐れます。それゆえ私たちは既知のものを恐れ、また未知のものを恐れています。それが私たちの日常生活であり、その中に希望はありません。それゆえあらゆる形の哲学、あらゆる形の神学的概念は、あるがままの現実からの単なる逃避にすぎません。
> >
> >
> > この生存の場についての記述は傾聴します。
> > 生を見て理解できない。はい、そこに恐怖が生じ、いろいろ考える、それは逃避に過ぎない ― 問題の解決につながらないと。ここは引っかかる。哲学は形而上学的で理念に引っかかっていた。それを乗り越え、変化している。それが全く役立たないという根拠が古い状態に対してしか成立しない。
>
>
>  しかし、その哲学を追い求めることは、ビカミングであり、ウィンドーショッピングであることが、クリシュナムルティの主訴ではなかろうか。。
>
>  それは渡辺さんが求めていた坐禅にも言えることではなかろうか。。
>
>  クリシュナムルティは、初めから坐禅や哲学を否定していないだろうか。。
>
>  私には、その根拠が毅然と示されているように感じる。。
>
>  ただし、私は坐禅やその哲学の専門ではないので、はっきりと結論づけるつもりはありません。


そうですね、おいおい、しっかりした議論に入ってくるでしょう。何せ16章ある中の第1章の半分も読んでいませんからね。


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