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[24887] 「心を変える瞑想」(4) 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/05(Fri) 13:09  

「心を変える瞑想」(4)

K: それゆえ全体である心は注意深く、それゆえ気遣います。そして深い、変わらない愛の感覚のこの性質を持っています。そのような心は全体です。瞑想が何であるか探究し始めるとき、あなたはそれに出会います。そのとき私たちは聖であるものを見出すことに進むことができます。どうか聞いてください、それはあなたの生です。違った生き方を見出すために、あなたのハートと心を傾注してください。それは心がすべての制御を放棄してしまっているときを意味します。それはあなたが、あらゆる欲望に、あらゆる好色な目配せや反応に、あらゆる快楽に、快楽の追求のあらゆる要求に負けて、好きなことをして生を送ることを意味しません。そうではなく、見出すこと、あなたが毎日の生を一つの制御もなしに生きることができるかどうかを見出すことを意味します。それは瞑想の一部です。それは人がこの注意の性質を持つ必要があることを意味します。その注意、それは思考の正しい場所について洞察をもたらしました。そして思考は断片的であり、そして制御があるところ制御者と制御されるものがあり、それは断片的です。それゆえ 一つの制御もない生き方を見出すためには、それは驚くべき注意、大きな規律を必要とします。あなたが慣れている規律ではありません、それは単なる抑制、制御、順応です。しかし私たちは学ぶことを意味している規律について話しているのです。規律という語は弟子という語から来ています。弟子はここでは学ぶということです。いまここでは教師も、弟子もありません。あなたが学んでいるなら、あなたが教師であり、あなたが弟子です。そしてその学んでいる行為そのものがそれ自身の秩序をもたらします。

さて、思考はそれ自身の場所、その正しい場所を見つけました。そこで心は物質的過程、それは思考です、としての運動をもはや背負わされていません。それは心が絶対的に静かであることを意味します。それは自然に静かであり、静かにさせられてではありません。静かにさせられたものは役に立ちません。たまたま静かであるもの、その静かさの中に、その空虚の中に、新しいものが起こることができるのです。

それで心は、あなたの心は、制御なしに、思考の運動なしに、絶対に静かであることができるでしょうか? あなたが実際に洞察−思考に正しい場所をもたらす洞察−を持つなら、心は自然に静かであるでしょう。そこから思考はその正しい場所を持ち、したがって心は静かです。静寂と静かという言葉が何を意味しているかおわかりでしょうか? ほら、ドラッグを用いることによって、マントラや言葉を繰り返すことによって、心を静かにさせることが出来ますね。継続して繰り返し、繰り返し、繰り返すなら、自然にあなたの心は静かになるでしょう。そのとき、そのような心は鈍く愚かな心です。そして二つの雑音の間の静寂があります。二つの鳥のさえずりの間の静寂があります。二つの思考の動きの間の静寂があります。夕べの静寂があります。鳥はその雑音、さえずりをしてねぐらに帰りました。そして木の葉の間にゆらぎがありません、そよ風がありません。絶対の静けさがあります。町の中でなく自然と共に戸外にいるとき、木と一緒にいるとき、あるいは川の岸に座っているとき、そこに静寂が大地に降り、そしてあなたはその静寂の一部です。それゆえさまざまな種類の静寂があります。しかし私達が今話している静寂、心の静けさ、その静寂は買うことができません、練習することができません。あなたが獲得する何か、報酬、醜い生への補償ではありません。それは醜い生が善い生に変容したときにのみあります。善いという言葉によって、私は多く持っていることではなく、善である生、その善の開花、美を意味しています。そのとき静寂が生じます。

そしてまた美とは何であるか探究する必要があります。美とは何でしょうか? あなたは今までにこの質問を調べたことがあるでしょうか? それとも、それを本の中に見つけて私に教えたり、あるいはその本が美はしかじかであると言っているのをお互いに教えあったりするのでしょうか。美とは何でしょうか? そこに座っているとき、この夕方の日没をあなたは見ましたか。日没は話し手の後にありました。それを見ましたか? その光と葉の上のその光の輝きを感じましたか? それともあなたは美は感覚の、感覚に訴えるものであり、そして聖なるものを追求している心は美に魅かれることはできない、美とは何の関係もないと思い、したがって自分自身の思考から善として投影したあなたの小さいイメージに集中するだけなのでしょうか。そこであなたは見出す必要があります。瞑想が何であるか見出したいなら、あなたは美は何であるか見出す必要があります。顔の中の美、性格の中の美−性格ではなく、性格は安っぽいものです、それは環境の反応によって決まり、その反応の育成が性格と呼ばれます。行為の美、振舞、行いの美、内面の美、歩き方、話し方、身ぶりの美、そういったすべては美です。そしてそれを持つことなしには、瞑想は単に逃避、補償、意味のない行為になります。そして質素の中の美があります、大きな厳粛さの中の美があります−僧の厳粛さではありません。秩序を持っている心の厳粛さ。秩序は、あなたがその中で生きている無秩序全体を理解するとき生じます。そしてその無秩序から自然に秩序が生じ、それが徳です。したがって徳、秩序は最高の厳粛さです。日に三度の食事の否定や断食、頭を剃ること、その他すべてのごたごたではなく。

それで秩序があります、それは美です。愛の美、思いやりの美があります。そしてまたきれいな街の、建物の建築上のいい形の美があります。木の美があります、うっとりするほど美しい葉、すばらしい大きな枝。そのすべてを見ることは美です。単に美術館に行き果てしなく美について語るに過ぎないのではなく。それで静かな心の静寂はその美の精髄です。そしてそれが静かであるので、それが思考の玩具でないので、そのときその静寂の中に不滅のもの、聖なるものが生じます。そして聖なるものの生じる中で、そのとき生は聖になります。あなたの生は聖になります。私たちの関係は聖になります。あらゆるものが聖になります。あなたが聖であるそのものに触れたので。

そしてまた私たちは瞑想の中に、永遠のもの、始めも終わりもないものがあるのか、それともないのか、見出さなければなりません。それはこういうことです、時間の領域の中で養成されてきた心、その心は悠久であるあのものを見出す、出会う、あるいは見ることができるでしょうか? それで、それは心が時間なしにあることができるかということを意味します−時間はここからそこに行くためやその他諸々のために必要ですが、その心ができるでしょうか、ここからそこに心理的ではなく物理的に行き、時間の中で作動しているまさにその同じ心、その心が時間なしにあることができるでしょうか? それはこういうことです、その心は過去なしに、現在なしに、未来なしにいられるでしょうか? その心は絶対の無の中にあることができるでしょうか? その語を恐れないで下さい。それは空であるので広大な空間を得ました。あなたは自分自身の心の中に、そこにいったい何らかの空間を持っているかどうか、観察したことが今までにあるでしょうか? ちょっとした空間、ほら、少々の空間? それともあらゆる物事で一杯ですか? あなたの心配で一杯ですか、あなたのセックスあるいはセックスのないことで、あなたの業績で、あなたの知識で、あなたの野心、恐怖で、あなたの苦悩、あなたの取るにたらないことで一杯ですか。そしてそのような心がどうして理解することや、あの存在の状態の中にあることや、あの巨大な空間を持つことができるでしょうか? 空間は常に巨大です。

そして日常生活の中で空間を持たない心は、とても永遠である、始めも終わりもないものに出会うことはできません。そしてそれが、瞑想が途方もなく重要になる理由です。あなた方皆が練習する瞑想ではありません。それは全く瞑想ではありません。しかし私たちが今話している瞑想が心を変えます。そして宗教的な心であるのはそのような心のみです。異なる文化、異なる生き方、異なる関係、神聖の感覚、したがって偉大な美と正直をもたらすことができるのは、そのような宗教的な心だけです。このすべては努力なしに、闘いなしに、犠牲なしに、制御なしに、自然に生じます。そしてこれが瞑想の始めであり終わりです。

ゴト: これでKのトークは終わり、あと質問があるのみです。
ここは私は何も言う事ができず、皆様の傾聴に待つしかありません。


[24886] 「心を変える瞑想」(3) 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/04(Thu) 14:02  

「心を変える瞑想」(3)

K: それで瞑想とは何でしょうか? そしていったいなぜ人は瞑想すべきなのでしょうか? ところで瞑想という言葉はよく考えることを、熟考することを意味します。そしてまた瞑想は測る能力を意味します。そして測ることはこれとあれとの間の運動を意味します。それは比較を意味します。それは模倣を意味します。そういったすべてがその瞑想という言葉に含まれています。

それで私は見出したいのですが、心は測ることなしにあることができるでしょうか? おわかりですか? 心は思考の運動なしにあることができるでしょうか?、それは時間ですが。時間は測ることです。時間は方向です。時間、時計による時間があります、ここからそこへの運動としての時間があります、時間はここからそこへ行くのに必要です−必要な時間。時間は運動です。そして瞑想は時間の中の運動でしょうか? 運動としての時間は聖なるものを見出すことができるでしょうか? 私の質問がおわかりですか? 思考は物質的な過程だと私たちは言いました。そして瞑想が何であるかを探究するために、どんな場所を思考は持っているのでしょうか?−時間である思考、測定である思考、方向である思考、それはここからそこへです。思考はどんな場所を持っているのでしょうか? どうか。それはいったい何かの場所を持っているでしょうか? それがどんな場所もまったく持っていないなら、そのとき心は思考をどうすればいいでしょうか? それは何かの場所をいったい持っているのでしょうか? それが場所をまったく持っていないなら、そのとき心は思考をどうすればいいでしょうか? それが瞑想の中に場所を持っていないなら、そのときあなたは、心が捕えられているこの途方もない思考の運動をどうしますか? 絶え間なく喋り続けている心、「私は達成しよう、私は獲得しよう、私は比較しているのだ」と言う心、それは何時も絶え間なく動いています。あなたはその思考をどうしますか? あなたはそれを否定することはできません、それはそこにあります。そこであなたは「私はそれを制御しよう、対象に、イメージに、私が聖であると考えるものに集中することを学び、そしてそれに留まり、あらゆるほかの思考を排除しよう」と言い始めます。それがあなたがやっていることです。そこで闘いが始まります。何かに集中しようとする苦闘、そして逸れる思考。この打ち続く絶え間ない苦闘。集中は、思考が高尚である、優れている、真実であるとして選んだものに思考を集中することを意味します。いいですか? それゆえ思考は観念、絵、イメージを投影しました。そして思考は「私はそれに集中しよう」と言います。そして集中の過程の中で、それは他のあらゆるものを排除するに違いありません。そして断片的である思考、その排除は断片化の運動です。

それゆえ、観念への、画像への、思考が必要と考える何かへの集中は、時間の中の運動、測定の運動、特定の方向への運動であり、したがってそれは断片的であるに違いありません。そこでそれを見て「私は集中すまい」と私は言います−おしまい、それは終わりです。

ゴト: そこでいよいよ瞑想とは何か調べが始まりましたが、まず、瞑想の中での心や思考の在り方が出てきます。そのとりとめのないさ迷いは皆が知っています、そこで集中のコントロールの問題が出てくるのですが、断片化であることは明らかであり、すぐおしまいにします。

K: そこで瞑想の意味を探究している心は次の事実に出会います。思考は測ることであり、思考は時間の運動であり、思考は意志として方向を定めます。そして思考は本質的に断片であるので、なぜなら思考は記憶の反応であり、記憶は経験としての知識の集積であるから、それは過去のものであり、それゆえそれは断片です。思考は断片です。瞑想とは何かという探究の中で、ひとはこのことを発見します。

この思考の運動を、人はどうすればいいのでしょうか? それは制御されるべきでしょうか? そしてあなたがそれを制御しているなら、制御者は誰でしょうか? 思考者自身が思考ではないでしょうか? それゆえ制御者は制御されるものです。では思考を、この思考の運動をどうすればいいでしょうか? 心は思考をその正しい場所におく術を見出さなければなりません。即ち、知識は必要です。知識は経験としての思考の運動です。それゆえ思考は知識の分野、あるいは領域の中で必要です。車を運転するため、話すため、日々の仕事、技術などを行なうため、知識はそこで必要であり、思考は最も効率的に、明確に、非個人的に、その領域で機能しなければなりません。それゆえ瞑想が何であるか理解する中で、心は思考がその正しい場所を持っていることを発見しました。そして思考が正しい場所を持つことを思考が発見するとき、そのとき思考はもはや重要な事柄ではないことが見えるでしょう。

ゴト: 思考はその持ち場を知ることが大切です。それは思考自身により自覚しなければなりません。

K: では次の質問はこうです。方式、方法、あなたがする様々な練習、それは何か妥当性を持っているでしょうか? それともそれは、思考の一部である機械的習慣の養成でしょうか? おわかりですか? なんといっても、あなたは瞑想の方式を持っているのではないでしょうか? 禅から現代に至る様々な瞑想の方式、あるいは瞑想の古代の方法や方式や練習。あなたが練習するとき、それは何を意味していますか? それは方向を意味します。いいですか? あなたは方向を定め、そしてその結果を得るために毎日練習しています−結果、導師、他の人が定めた本が、結果であるそれを据えました。それゆえあなたは明確な結果、固定した結果を得るために練習しているのです。もしそれが生きているものものであるなら、あなたはそれに到達するために練習できません。それは何時も動いています。それゆえあなたが方法を練習しているとき、それはあなたが方向を定め、それに向かって動いていることを意味しますが、その方向と結果は思考によって組み立てられているのです。それゆえあなたは思考の外にはいません。あなたは、なお、思考の運動の中にいます。いいですか?

それゆえあなたはそのとき見ます、その中に洞察を持ちます。それで方向がありません、それは意志のないことを意味します。意志は結局 欲望の強調、誇張です。いいですか? あなたは悟りを持ちたいと望みます。あなたは解脱や、解放、天国を、あるいはあなたがそれを言う何であれ、望みます。あなたはそれを望み、そしてそのために働きます。もしあなたがまじめであってそれをもてあそんでいないならば。おそらくもてあそんでいるのでしょう。しかしあなたがまじめなら、あなたはそのとき方向を定め、そして「その解脱、その天国、その解放を得るために、私は規則正しくこれらのことをしよう」と言います−目的が何であろうが、あなた自身で定めた決勝点は、なお思考の領域の範囲内に、物の領域の範囲内に、時間の領域の範囲内に、測ることの領域の範囲内にあります。それゆえあなたはまったく思考を離れていません。あなたはなおその中に捕えられています。そして瞑想を探究している心は、彼がこの事実に気づいており、したがって方式はなく、方法はなく、決勝点はなく、方向はなく、それゆえ導師はないのを見ます。

ゴト: ヒトは古代から信仰のための修業を積み重ねてきました。これらは結局思考の組み立てた方法なのです。意志、欲望で結果を求めて、その行き先はわからないとしてもその努力はなお思考の領域内にあります。古代から思考によって生きてきたのです。

K: それに、私たちが言ったように、思考が聖なるものとして組み立てたものは、聖ではありません。それらは生に意義を与えるためのただの言葉です。なぜなら、あなたが生きているような生は神聖でないから、尊くないからです。尊いという語、H-O-L-Y は全体であることから来ています。それは健康、正気を意味し、したがって尊いのです。そのすべてがその語に含まれています。そこで心は−どうかこのすべてをわかってください−思考を通じて作動している心は、神聖なものを見つけることをどんなに熱望していても、なお時間の分野の中で、断片化の分野の中で行動しています。それゆえ、心は断片にされないで、全体であることができるでしょうか? これが瞑想が何であるかを理解することのすべての部分です。心はできるでしょうか、それは進化の産物、時間の産物、そんなにも多くの影響、そんなにも多くの傷、そんなにも多くの苦しみ、このような大きな悲しみ、大きな不安の産物です。心はそういったすべてに捕まっています。そしてそういったすべては思考の結果です。そして思考は、私たちが言ったように、その性質そのものによって断片的です。そして心はそれが今そうであるように、思考の結果です。それゆえ心は思考の運動から自由であることができるでしょうか? 心は完全に断片化されずにあることができるでしょうか? あなたは生を全体として見ることができるでしょうか? 心は全体であることができるでしょうか?、それは一つの断片もないことを意味します。したがってこのことでの精励が生じます。心はそれが精励するとき全体です。それは気遣いを持つことを意味します、大きな愛情、大きな愛を持つことを意味します。それは男と女の愛とは全く違います。

ゴト: ヒトが聖と言ってきたものも思考によってつくられた聖だったのです。思考を通して作動している心は思考から自由になれるでしょうか、完全に断片化されずにいることができるでしょうか? 人の主体性というのは思考のそれ、そのものなのでしょうか? 続く。


[24885] Re:[24883] 無題 投稿者:宮啓 投稿日:2018/01/04(Thu) 08:45  

> 今晩BS1chで見たNHKの「資本主義の欲望2018」は非常に面白かった。世界の多くの人がこの問題を考えている。
>
> 人間が資本主義をやめることはかなり難しく、資本を増やすことが無意味になる日まで続くという見方の方が多いみたい。


 録画の予約をしていたのですが何故か録画されていませんでした。

 再放送に期待することにします。


[24884] Re:[24880] 心を変える瞑想(2) 投稿者:宮啓 投稿日:2018/01/04(Thu) 08:28  

> 心を変える瞑想(2)
>
> K: 宗教は自分自身の心で、聖なるものを理解すること、発見することを意味します。そしてまた、永遠と謂うようなものがあるかどうかを。宗教は美、善を、それはまた卓越を意味するのですが、そして聖なるものを見いだすこと、あるいは出会うことを意味します。そして思考によって触れられていないものの探究を意味します。なぜなら思考は時間であり、思考は測ることであるからです。そして名前がなく、時間のないもの、始めと終わりを持っていないものがあるのかどうか、あるいはないのかどうかを見いだすこと、そのすべてが宗教です。そしてすでに言ったように、その心の性質なしには、それは爆発的であり、黙従的ではないのですが、心のその性質なしにはあなたは絶対に必要である文化、少数の人によってではなく宗教的な心によってもたらされた文化を持つことはできません。それはあなた自身への光、他の人の光でなくあなた自身で見いだした光を意味します。そういったすべてが宗教に含まれています。
>
> ゴト: 宗教というのは知っているようでよくは知らないものの代表のようなものです。それについてKは確固として話し始めました。鋼鉄(はがね)のような言葉で。


 クリシュナムルティは専門用語を用いずに、「宗教」という言葉を巧みに活用しているようです。
 クリシュナムルティの述べる「宗教」は、一般ピープルの言う「宗教」とは全く異なる。しかし、一般ピープルが追い求めイメージしている「宗教」の意義(神的存在・永遠不滅の基盤)は、クリシュナムルティの述べる「宗教」と一致している。それゆえに、クリシュナムルティは「宗教」の言葉をそのまま活かしているように見受けられます。


> K: それゆえ、瞑想は聖なるものの探究です。そしてまた見いだすこと−いや、これらは言葉です、永遠があるかどうかを見いだすことはできません−それを感じること、実際に時間を越えた心のその性質を持つことです。それで、それが私達が一緒にしようとしていることです。私たちは一緒に瞑想しようとしているのではありません、それは別の偽物、想像の、ロマンチックなナンセンスです。しかし、瞑想するとはどういうことか、そして神聖であるそのものに出会い、そこから時間を越えているかも知れないものに移ることのできる、自由の能力を持つということはどういうことか、私たちは一緒に見いだそうとしています。
>
> ゴト: そして瞑想の持つ意義が示されました。


 そして、それが人類の脳にとって不可能ではないことが、ほのめかされているように感じます。


> K: これは非常に複雑な問題です。そして複雑なものは、心が実際に非常に単純であるとき、幼稚ではなく、未熟ではなく、単純であるときのみ理解することができます。しかしあなた方の大抵はおそらく本を読んだり、どこかの導師のところに行ったりしました。あるいは瞑想のあなた自身の形を考案したりし、それゆえ既に、あなたが瞑想と呼んでいるものを背負わされています。そして瞑想が何であるか見いだすためには、あなたは探究する必要があります、自分の特定の形の瞑想を脇にやる必要がああリます。さもなければ自分がしていることが本物か虚偽か見いだすことができません。さて、人が聖と呼んでもよいものを探究するためには、あなたはとても、どんな本も、 どんな指導者も、 どんな導師も、 どんな方式の権威も受け入れることはできません。なぜならあなたの心は自由に探究することが、自由に見出すことができなければならないからです。そしてあなたはこれをすることができるでしょうか? あなたがここに座って聞いているときに、瞑想について知っているすべてを脇にやることができるでしょうか? そしてそれは、あなたの心が日課の中で、習慣の中で、機械的に作動しているため非常に困難でしょう。そしてそのように慣れているものを捨てることは、途方もなく困難になります。なぜなら心は機械的に行動するように条件付けられており、この機械的習慣を捨てることは極度に困難であるからです。その危険を見る必要があります。そのとき、あなたがその危険を見るなら、そのときそれは力を持ちません。危険な動物を見るとき、あなたはそれをそのままにしておきます。それは力を持ちません。危険が存在するのはあなたが知らないときだけです。
>
> ゴト: ここで聖なるものの探究、瞑想に伴う危険について話が始まります。この問題は真実と思って幻想につかまる危険があることです。従来からの方法、権威が山ほどあってそれらは自由な心を機械的に鈍磨するばかりです。その危険について確固とした警告がありました、


 思考のネットワーク、あるいは時間の世界の中に居る時には、絶えず危険(危機)があることを見ること。このことの重要性が述べられているように思います。

 この危機を見ているときは、その危機は掌中にあり、それから自由であるがゆえに、家は秩序だっている。

 危機は、眼前の時空にあり、その証拠に、時間の経過とともに気づかぬうちに一人当たり一千万円の借金を背負わされている。又、時間の経過とともにいつの間にか核シェルターの整備・普及が急務となっている。
 歴史とは、戦争と戦争へのカウントダウンの歴史ではないだろうか。大正時代の映像等を見ると、悲しい気持ちで見ることになる。カウントダウンを感じるゆえ。


> K: 私は瞑想が何であるか見いだしたい、なぜなら私は、他の人たちがそれについて言ったことを何も知らないからです。そして私は他の人たちがそれについて言ったことを知りたくありません。私が虚栄心が強いということではなく、私がうぬぼれているということではなく、私が最初の経験を持ちたいということではなく、それらの人たちの言うことが妥当性を持っているかどうか知らないからです。彼らは私自身と同様に神経症的で、愚かで、狡猾で、当てにならず、幻想的、幻想に捕えられているかも知れません。私は探究している人間として話しています。私は個人的に自分自身について話していません。それゆえ私は人間、普通の人間です。そして現存する宗教は、その儀式、教義と迷信、権威、そのすべてと共に、正当性、意味、意義をまったく持っていないという実際を見ます。そのような心は「私は見いだしたい、私は瞑想するということはどういうことか見いだしたい」と言います。なぜなら、それはひょっとすると、聖なるものを示現する周囲、環境、雰囲気であるかもしれないからです。そこで私はああいったすべてを脇にやらなければなりません。そしてあなたもそうしていると思います。さもなければ私たちはお互いに伝達することができません。私たちが思考で組み立てたものすべての虚偽をあなた自身で見ない限り。それは、あなたは宗教と呼びますが、まったく何の意味も持っていないのです。そのことを見るなら、そのときあなたはこれらの事柄の中の権威をすべて捨てるでしょう−医師の権威ではありません。警官の権威ではありません。それは法に従っています。しかしあなたはどうしても法に従いません。あなたは利口すぎるのです。法を避けるあらゆる種類の曲がりくねったやり方をつくります。それはあなたの悲惨です。


 >私たちが思考で組み立てたものすべての虚偽をあなた自身で見ない限り。それは、あなたは宗教と呼びますが、まったく何の意味も持っていないのです。−−上記の「思考で組み立てたものすべて」を宗教に限らず、宗教的なものに広げて私は解釈しています。

 宗教的なものとは、私にとって最大のものが妻子・親兄弟の絆です。血縁の力です。これは太古から洋の東西を問わず普遍的に存在する先祖崇拝の根っことなるものです。
 親子の愛。これは「愛」でしょうか・・。ということです。

 宗教的なものは、他には「哲学・心理学等による真理の探究」・「自然科学による神の探求」があるように感じます。そして、その各々の人の信念によっては「政治」「実業」「教育」「福祉」等々が、宗教的にその個体を支えている「理想(聖なるもの)」と化しているケースがあるように思います。

 よって、これらを一括りに、「私たちが思考で組み立てたものすべて」として、この文書を読んでみてはいかがでしょうか・・。

 よって、これには困難が伴うということではないでしょうか‥。


> ゴト: 現存の宗教はすべて、何の正当性、意味、意義も持っていないという実際を見て、それらすべてを捨てる。この確固さを感じます。ここに起こりそうな非難や迷いの記述もあります。ここで再度切ります。


[24883] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/04(Thu) 00:10  

今晩BS1chで見たNHKの「資本主義の欲望2018」は非常に面白かった。世界の多くの人がこの問題を考えている。

人間が資本主義をやめることはかなり難しく、資本を増やすことが無意味になる日まで続くという見方の方が多いみたい。


[24882] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/03(Wed) 19:06  

[24876]に返信していません。現世利益と言っていいかどうか知りませんが、問題が大きすぎて返信できないでいます。

少なくとも精神的な悩みにそれらが助けになっている面があるのは事実です。しかし精神の全的自由という意味ではどうなのでしょう。今読んでいるこのテキストがどこまで根本的に説いてくれるのかとも思います。


[24881] Re:[24858] Kの言っていること 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/03(Wed) 18:49  

> 1)皆さんと話し手と一緒に、世界がどのようになったかを観察していくのです。外面的な出来事だけでなく、内面で心理的に起こっていることも含めて。政治家も学者も、誰も人類の問題を解決できませんでした。それゆえ、他人に頼ることはできないのです。
>
> 2)危機は経済的世界や政治的世界にはありません。危機は意識の中にあるのです。意識は信念、結論、国家主義、恐怖、快楽、死という問題をも含んでいます。これらが意識の中身です。これは人類の意識なのです。個人の意識のことではありません。人類の身体は直立二足歩行型です。それと同じく、動物とは違う人類共通の[人類の意識]です。そのなかに危機があるのです。
>
> 3)私たちのお互いの関係は問題が多く、よく見れば愛はなく、思考がまとめ上げたイメージの関係なのです。それで私たちは思考のあらゆる動きを理解しなければなりません。
>  人は思考とは何なのか、なぜ人間は思考に基づいて生きるのか、思考の驚くべきエネルギーと偉大な能力を理解するとともに、戦争や、関係の中の愛の欠如等の混沌や悲しみをなにゆえもたらすのか調べなければなりません。
>
> 4)[人類の意識]は格段の記憶と言語、思考を持ち、自己意識を知るようになり、過去、現在、未来というイメージ・幻想時間を持つようになりました。このことは伝達・通信の画期的拡大を通じて科学の発達、文明社会、文化を創り出し、それらは今も発達中です。しかし、精神的な分野でも動物の盲目的本能から脱して、高貴な真、善、美の世界の出現が期待されたのですがそうはいきませんでした。新しくできた意識から多くの厄介な問題が現れたのです。それらは思考の副産物とも言えるので、思考では解決しません。と言ってむき出しの暴力的制裁ではまた別の問題が生じます。
>
> 5)[人類の意識]で、現れたいくつかの現象を見て見ると欲望があります。幼児の無垢な欲求から、留まることを知らない欲望自体が目的化した貪欲まで。思考がかっこいいというイメージを創り上げ、欲望が発生します。それは長期にわたり継続されもします。ヒトは欲望のエネルギーで生きているようにも思えるほどです。 恐怖というものがあります。恐怖は記憶にある暗いイメージが未来にひどいことを引き起こすのを恐れるという、これも幻想時間の中での運動です。また、快楽の追求という事もあります。快楽はよく見ればこれも思い出、記憶の中にあるものです。
>
> 6)記憶、言語、思考はとてつもない利器ですが、一方で世界に大きな混乱と悲しみをもたらしています。その利器がどういうふうに混乱を引き起こすのか、人はその実際をありのままに観察し、気づくという事をしません。よく見てはっきりとわかれば、そんなことはしないです。
>  我々の矛盾対立、それが生む悲惨を見る時悲しみがあります。思考の生じ方次第で矛盾、分裂が生じます。それが無秩序です。無秩序が観察と理解で起こらなくなるとき、悲しみはなく、秩序があります。平和な心があります。
>
>
> あとがき
> 本の3,4日前まで、まさかこんな恐れ多い題で一文を投稿するなど夢にも考えられませんでした。ところが「心を変える瞑想」をこの掲示板で読もうと思たとき、瞑想に取り掛かる前にKは我々に何を話してくれたのだろうと思いました。それがはっきりと言えないで瞑想の話をしてもしょうがないのではないかと。
>  だが、さすがにそれは大変です。「最初で最後の自由」を要約するだけでも大変です。だが私にはヒントがあったのです。「思考のネットワーク」は1981年のザーネン・トークとアムステルダム・トークからなるのですが、後者はたった2回なのです。トーク2は死・宗教と題され、その前のトーク1は、真の宗教心を説く前の、教えの要約的位置にあると、私は直感したのです。だがそれは大変でした。短い文章ですが、4日かかっています。苦吟してわかりにくい文章です。つまり悪文ですね。
>  ですが、書いてみて初めて自分がどう理解しているかがおぼろげに浮かび上がっている気がします。皆さんにどしどし、質問や突っ込みを入れて頂いてまともにわかるものにできたらいいなと思っています。厚かましいお願いですが、どうかよろしく。


今日偶然のことからこの文章のことを思い出し読んでみたのですが、「心を変える瞑想」を読むにあたって、世界の位置づけを自覚するという意味ではそんなに悪い文章ではないと思ったので再掲さしていただきました。

しかし、Kに事細かく指摘してもらってきたことを振り返るという意味では全く不十分です。そういう意味では「気づき、知覚、洞察の性質」を読むのが一番ではないかと思いました。これも読もうと思っています。


[24880] 心を変える瞑想(2) 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/03(Wed) 16:08  

心を変える瞑想(2)

K: 宗教は自分自身の心で、聖なるものを理解すること、発見することを意味します。そしてまた、永遠と謂うようなものがあるかどうかを。宗教は美、善を、それはまた卓越を意味するのですが、そして聖なるものを見いだすこと、あるいは出会うことを意味します。そして思考によって触れられていないものの探究を意味します。なぜなら思考は時間であり、思考は測ることであるからです。そして名前がなく、時間のないもの、始めと終わりを持っていないものがあるのかどうか、あるいはないのかどうかを見いだすこと、そのすべてが宗教です。そしてすでに言ったように、その心の性質なしには、それは爆発的であり、黙従的ではないのですが、心のその性質なしにはあなたは絶対に必要である文化、少数の人によってではなく宗教的な心によってもたらされた文化を持つことはできません。それはあなた自身への光、他の人の光でなくあなた自身で見いだした光を意味します。そういったすべてが宗教に含まれています。

ゴト: 宗教というのは知っているようでよくは知らないものの代表のようなものです。それについてKは確固として話し始めました。鋼鉄(はがね)のような言葉で。

K: それゆえ、瞑想は聖なるものの探究です。そしてまた見いだすこと−いや、これらは言葉です、永遠があるかどうかを見いだすことはできません−それを感じること、実際に時間を越えた心のその性質を持つことです。それで、それが私達が一緒にしようとしていることです。私たちは一緒に瞑想しようとしているのではありません、それは別の偽物、想像の、ロマンチックなナンセンスです。しかし、瞑想するとはどういうことか、そして神聖であるそのものに出会い、そこから時間を越えているかも知れないものに移ることのできる、自由の能力を持つということはどういうことか、私たちは一緒に見いだそうとしています。

ゴト: そして瞑想の持つ意義が示されました。

K: これは非常に複雑な問題です。そして複雑なものは、心が実際に非常に単純であるとき、幼稚ではなく、未熟ではなく、単純であるときのみ理解することができます。しかしあなた方の大抵はおそらく本を読んだり、どこかの導師のところに行ったりしました。あるいは瞑想のあなた自身の形を考案したりし、それゆえ既に、あなたが瞑想と呼んでいるものを背負わされています。そして瞑想が何であるか見いだすためには、あなたは探究する必要があります、自分の特定の形の瞑想を脇にやる必要がああリます。さもなければ自分がしていることが本物か虚偽か見いだすことができません。さて、人が聖と呼んでもよいものを探究するためには、あなたはとても、どんな本も、 どんな指導者も、 どんな導師も、 どんな方式の権威も受け入れることはできません。なぜならあなたの心は自由に探究することが、自由に見出すことができなければならないからです。そしてあなたはこれをすることができるでしょうか? あなたがここに座って聞いているときに、瞑想について知っているすべてを脇にやることができるでしょうか? そしてそれは、あなたの心が日課の中で、習慣の中で、機械的に作動しているため非常に困難でしょう。そしてそのように慣れているものを捨てることは、途方もなく困難になります。なぜなら心は機械的に行動するように条件付けられており、この機械的習慣を捨てることは極度に困難であるからです。その危険を見る必要があります。そのとき、あなたがその危険を見るなら、そのときそれは力を持ちません。危険な動物を見るとき、あなたはそれをそのままにしておきます。それは力を持ちません。危険が存在するのはあなたが知らないときだけです。

ゴト: ここで聖なるものの探究、瞑想に伴う危険について話が始まります。この問題は真実と思って幻想につかまる危険があることです。従来からの方法、権威が山ほどあってそれらは自由な心を機械的に鈍磨するばかりです。その危険について確固とした警告がありました、

K: 私は瞑想が何であるか見いだしたい、なぜなら私は、他の人たちがそれについて言ったことを何も知らないからです。そして私は他の人たちがそれについて言ったことを知りたくありません。私が虚栄心が強いということではなく、私がうぬぼれているということではなく、私が最初の経験を持ちたいということではなく、それらの人たちの言うことが妥当性を持っているかどうか知らないからです。彼らは私自身と同様に神経症的で、愚かで、狡猾で、当てにならず、幻想的、幻想に捕えられているかも知れません。私は探究している人間として話しています。私は個人的に自分自身について話していません。それゆえ私は人間、普通の人間です。そして現存する宗教は、その儀式、教義と迷信、権威、そのすべてと共に、正当性、意味、意義をまったく持っていないという実際を見ます。そのような心は「私は見いだしたい、私は瞑想するということはどういうことか見いだしたい」と言います。なぜなら、それはひょっとすると、聖なるものを示現する周囲、環境、雰囲気であるかもしれないからです。そこで私はああいったすべてを脇にやらなければなりません。そしてあなたもそうしていると思います。さもなければ私たちはお互いに伝達することができません。私たちが思考で組み立てたものすべての虚偽をあなた自身で見ない限り。それは、あなたは宗教と呼びますが、まったく何の意味も持っていないのです。そのことを見るなら、そのときあなたはこれらの事柄の中の権威をすべて捨てるでしょう−医師の権威ではありません。警官の権威ではありません。それは法に従っています。しかしあなたはどうしても法に従いません。あなたは利口すぎるのです。法を避けるあらゆる種類の曲がりくねったやり方をつくります。それはあなたの悲惨です。

ゴト: 現存の宗教はすべて、何の正当性、意味、意義も持っていないという実際を見て、それらすべてを捨てる。この確固さを感じます。ここに起こりそうな非難や迷いの記述もあります。ここで再度切ります。


[24879] Re:[24878] [24877] 『英知へのターニングポイント(思考のネットワーク)』 投稿者:宮啓 投稿日:2018/01/03(Wed) 08:42  

> >  『英知へのターニングポイント(思考のネットワーク)』を読み終えました。
> >
> >  後半のアムステルダムトーク(全2回)は、自身の「家」を秩序だて整頓することが、「瞑想」の大前提であるという陳述と、そして「瞑想」について述べられています。
> >
> >  ゴトさんが述べるように、クリシュナムルティの神髄が、本人のダイジェストとして、わずか全2回のみに集約されているように感じます。
> >
> >  1981年アムステルダムトークをご紹介頂き感謝しております。
>
>
> アムステルダム・トークをそのように感じられたとのこと、こちらこそ嬉しく思います。
>
> 実は家の秩序はちゃんとあると思っていました。しかしみんなの体力の衰えと共に炊事掃除洗濯などの家事が今まで通りにはやっていけなくなるとともに、どんどん変わっていかなければならないのですが、あまりにも変化が激しいので、凡人には大変です。
>
> 普通にやっていたことへの執着があるので、維持しようとする苦闘がどうしてもあります。私はそれに気づきますが、家人の方はどうしても無理をし、できないで葛藤します。話すのも耳が遠くなると、おしゃべりそのものが大変なのです。
>
> だから、こうしなければならぬ、こうしたいなどから行為が出ると、すなわち、思考から出る当然とか、目的を経由して行為が出るのが習いとなっていると、変化が起こるとき、摩擦葛藤が生じるのですね。大いに学んでいます。
> 息子は歩いて10分ぐらいのところに住んでいますが、毎日の日常生活には離れていますし、一緒に住むような大邸宅は建てかねます。


 人類は「老い」の苦労があるのですね。ブッダが述べた生老病死の「老」の苦労と察します。

 「人類は『老い』の苦労がある」という現にある事実を知覚すれば秩序があるのだが、「私は特別に『老い』で苦労している」と見間違えると自己憐憫と葛藤という無秩序で、自身の「家」がごったがえす・・ということですね。。

 クリシュナムルティが述べるには、60年かけて、皆さんの家を整頓してきた旨が『英知へのターニングポイント(思考のネットワーク)』で述べられています。


[24878] Re:[24877] 『英知へのターニングポイント(思考のネットワーク)』 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/02(Tue) 23:43  

>  『英知へのターニングポイント(思考のネットワーク)』を読み終えました。
>
>  後半のアムステルダムトーク(全2回)は、自身の「家」を秩序だて整頓することが、「瞑想」の大前提であるという陳述と、そして「瞑想」について述べられています。
>
>  ゴトさんが述べるように、クリシュナムルティの神髄が、本人のダイジェストとして、わずか全2回のみに集約されているように感じます。
>
>  1981年アムステルダムトークをご紹介頂き感謝しております。


アムステルダム・トークをそのように感じられたとのこと、こちらこそ嬉しく思います。

実は家の秩序はちゃんとあると思っていました。しかしみんなの体力の衰えと共に炊事掃除洗濯などの家事が今まで通りにはやっていけなくなるとともに、どんどん変わっていかなければならないのですが、あまりにも変化が激しいので、凡人には大変です。

普通にやっていたことへの執着があるので、維持しようとする苦闘がどうしてもあります。私はそれに気づきますが、家人の方はどうしても無理をし、できないで葛藤します。話すのも耳が遠くなると、おしゃべりそのものが大変なのです。

だから、こうしなければならぬ、こうしたいなどから行為が出ると、すなわち、思考から出る当然とか、目的を経由して行為が出るのが習いとなっていると、変化が起こるとき、摩擦葛藤が生じるのですね。大いに学んでいます。
息子は歩いて10分ぐらいのところに住んでいますが、毎日の日常生活には離れていますし、一緒に住むような大邸宅は建てかねます。


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