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[25827] Re:[25826] わかりやすい説明 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/25(Sat) 12:18  

> 渡辺氏の講話はユーチューブで見ることができる。その中身は仏教、物理学、クリシュナムルティなど多岐にわたる。とくに彼のクリシュナムルティの解説はわかりやすかった。自ら訳した「時間の終焉」についての解説もある。「ああクリシュナムルティは、こういうことをいってるのか」と改めて理解した次第。やはり独学では限界があり、真理がある程度わかっておられる方の話も聞くことが肝要だ。一人では知識が乏しくKの解釈が独善的になりやすい。
> 私は今まで大野氏や高橋氏の「クリシュナムルティの会」、飯尾氏や古澤氏などのKの読書会に出入りしたが、クリシュナムルティの解説はあっても、クリシュナムルティの教えに関する解説はなかった気がする。そい言った意味でKB会での、クリシュナムルティの解説は貴重なものとなるだろう。いかんせん私は、その存在を知るのがあまりにも遅かった。森本武氏のKsポイントもそうである。
> その時には、他の人の本に関心がうつっていった。
> 飯尾氏の会はKの読書会と銘打っているが、Kというのは対話のきっかけであり、Kについての解説は、ほとんどなかったに等しい。自身の問題点を出して、皆で話し合う。趣旨はわからないでないが、プライベートな部分は、各自ほとんど出さないので、突っ込んだ話とはならなかった。うわべだけで、大部分は飯尾氏が話して終わり。
> 神秘体験とは何かと尋ねても、毎日毎日が神秘体験と称して終わり。
> 要するに飯尾氏はグルではない。クリシュナムルティ流を通した。自分で考え抜けと。言ってることは正しいかもしれないが、我々は「手がかり」「ヒント」というか、そういったものがなければどうしようもない。他では、それを明示している。
>
>
Kは数十年にわたって彼の教えを説いてきた。『時間の終焉』を何回も読んできたが、自分でKはこう言っていますとは話せなかったけれどようやく話せるようになったので話します。

人間は、数千年来ブッダやキリストを始めとする教えを聞いてきたが、心理的時間―ビカミングの過程に捉えられ、変化することができなかった。

Kは確固として説く。心理的時間―ビカミングの過程を捨てよ!決してその古いパターンに戻るなと。

ほかに道はありません。(これは私の余計な一言。『時間の終焉』4章参照)


[25826] わかりやすい説明 投稿者:無明 投稿日:2018/08/25(Sat) 10:50  

渡辺氏の講話はユーチューブで見ることができる。その中身は仏教、物理学、クリシュナムルティなど多岐にわたる。とくに彼のクリシュナムルティの解説はわかりやすかった。自ら訳した「時間の終焉」についての解説もある。「ああクリシュナムルティは、こういうことをいってるのか」と改めて理解した次第。やはり独学では限界があり、真理がある程度わかっておられる方の話も聞くことが肝要だ。一人では知識が乏しくKの解釈が独善的になりやすい。
私は今まで大野氏や高橋氏の「クリシュナムルティの会」、飯尾氏や古澤氏などのKの読書会に出入りしたが、クリシュナムルティの解説はあっても、クリシュナムルティの教えに関する解説はなかった気がする。そい言った意味でKB会での、クリシュナムルティの解説は貴重なものとなるだろう。いかんせん私は、その存在を知るのがあまりにも遅かった。森本武氏のKsポイントもそうである。
その時には、他の人の本に関心がうつっていった。
飯尾氏の会はKの読書会と銘打っているが、Kというのは対話のきっかけであり、Kについての解説は、ほとんどなかったに等しい。自身の問題点を出して、皆で話し合う。趣旨はわからないでないが、プライベートな部分は、各自ほとんど出さないので、突っ込んだ話とはならなかった。うわべだけで、大部分は飯尾氏が話して終わり。
神秘体験とは何かと尋ねても、毎日毎日が神秘体験と称して終わり。
要するに飯尾氏はグルではない。クリシュナムルティ流を通した。自分で考え抜けと。言ってることは正しいかもしれないが、我々は「手がかり」「ヒント」というか、そういったものがなければどうしようもない。他では、それを明示している。




[25825] 印可証明 投稿者:無明 投稿日:2018/08/25(Sat) 09:47  

渡辺充氏とは

ウィキより

「1950年生まれ。1974年東京大学理学部物理学科卒業後、同年4月に三菱商事入社。2001年1月退社。主にIT・教育関連の複数社の役員を経て、現在会社役員。

1980年に坐禅を始め、2003年に曹洞宗、原田祖岳禅師門下、佐藤正真老師より印可証明を受ける。その後も参禅中。

現在、KB会(クリシュナムルティvsデビッド・ボームの会)を主宰し、主にJ・クリシュナムルティとD・ボームの対談集『時間の終焉』をテキストにした勉強会を開いている。」

現在勉強会は中止、今も参禅中。
本筋は「禅」。たまたま縁あってクリシュナムルティの翻訳をしたが、クリシュナムルティなど問題にしていない。
方法無くして真理に到達しえない。師がいらぬというのは極論。
Kの問題点は、多々あるが、肉体面の言及がない。人間の根源である
感情のコントロールについての言及もなし。一切喝采「思考」という言葉にくくりつけてしまうことに無理がある。Kは肝心なことになると言葉をぼかしてしまう。ボームとの対話で明らか。しどろもどろになる。たとえばアラウンドとは何かとボームに尋ねられても、明確に答えられない。

その渡辺氏に対して「罠に陥っている」とは笑止千万。
仏教の世界で、印可証明を受けるというには、とんでもないことだ。
そのお方に対して、真理がわかってないとでもいいたいようだ。しかも本人にあったこともない。いった何様のつもりだろう。
沖縄の孤島にあって情報を得るのは本と ネットだけ。
外に出て生身のクリシュムルティ関係者と会わなければ、Kの本当のことはわからぬ。誇大妄想もほどがある。
インドにもアメリカにも行ったことがない。
全くの「クリシュナムルティ教」の信者。大野龍一氏からいわせると、このような人を「クリシュナムルティ病」と呼んでいる。

繰り返すと渡辺氏が罠に陥っているというのは、ふざけた一文。
人のことより、心理的に罠に陥っているのは、宮啓まさに「お前」の方だろう。


[25824] Re:[25822] [25821] [25818] [25817] [25816] [25815] [25814] 既知からの自由9−1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/08/24(Fri) 22:42  

> > > > > > > 9章ー1[時間・悲しみ]
>
>
> > >  >内的に立ち止まる−−、これは過去、何千年もの間、取り組まれてきたスピリチュアル的な事柄です。しかし、この取り組みはどこにも辿り着かないことが、クリシュナムルティによって、『時間の終焉』にて陳述されています。
> >
> >
> > ここを読んで驚きました。>内的に立ち止まる−− これは「既知からの自由」のいま読んでいるところで、クリシュナムルティが言っていることではないですか? しかしこの取り組みはどこにもたどり着かない? Kが後年『時間の終焉』の中で否定したと? 俗流瞑想が効果をもたらさなかったという事なら分かります。そういう文脈なのでしょうか?
> >
> > >  これが、渡辺さんが陥った罠です。
> > >
> > >  その対応についても、『時間の終焉』にてクリシュナムルティによって陳述されています。
> > >
> > >  結局は、『時間の終焉』の理解が不可欠となることでしょう。
> >
> > ともかく『時間の終焉』を探し出して読んでみますが、いったいどんな罠なのだろうか? はっきりさせる必要があります。
>
>
> 以下自己レスです。『時間の終焉』を見つけ、今第1章を読んだところです。
>
> 第1章で初めて目が開け、クリシュナムルティ理解の骨格がわかりました。
>
> 動物はサピエンスのような記憶を持たず、秩序がありました。
> サピエンスは記憶を持ち、時間(過去・現在・未来)の中で生きるようになり、外的世界の中で現在の文明、文化を造り出しました。
>
> 他方内的世界に心理的時間=ビカミングからなる思考を持ち込んだために、矛盾、葛藤、混乱、対立、抗争が生じ、秩序は失われました。
> 内的な精神の世界では、直観、洞察、即時の理解でしか問題は解決できないのです。
>
> 心理的知識、経験はすべて心理的時間(罠)です。


 そのようなことで、私はネアンデルタール人に興味をもったのです。

 ネアンデルタール人の社会組織は、大家族程度(20〜30人)に留まっていたことが、先日のNHK特集で放映されました(ゴトさんもこれを視聴したとのことでした)。

 すなわち、ネアンデルタール人の「組織化」は、本能的な範囲での必要最小限に留まっているのです。

 とても家族的ないい雰囲気を感じ、愛着を誘います。

 本当のところは不確定ですが・・。


> どうもありがとうございました。


[25823] Re:[25821] [25818] [25817] [25816] [25815] [25814] 既知からの自由9−1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/08/24(Fri) 22:36  

> > > > > > 9章ー1[時間・悲しみ]
>
>
> >  思考があるとき、その心理のより深いところの運動に気づくことはできない。
> >
> >  その心理のより深いところに運動(意識されないうちは無意識と呼ばれる隠れた思考)があれば、それよりも更に深いところにある運動に気づくことはできない。
> >
> >  人は、それよりも更に深いところにある運動がビカミングしていることに気づくことができるのだろうか。。
> >
> >  人は、そのような気づきに乏しい場合において、>今のリアルな問題−−を理解できるのでしょうか。
>
>
> 気づけない時はあきらめるしかないでしょう。気づけないことはないことと同じですから。


 「気づけないことは無いことと同じ」、これは性急な結論付けではないでしょうか。
 地球の裏側の出来事に気づくことができないのだから、それは「無い」と結論付けるのではなく、「不確定」でよいのではないでしょうか。。


> ただ身体の運動はどの筋肉をどう動かそうと意識しないでも無意識で事が足ります。計らいなしで用が足ります。だから思考は意味がないのかもしれません。これは盤珪禅師の悟りのようです。必要なことは静かにしていると気づくかも。鳥の鳴き声に気づくように。
>
>
> > > 分けるというのは過去現在未来のことではないのですか? 自我の終焉とは本の題名でなく自他の全き終焉ですか? 自他があって差別なしにいることでいいですか? いつも忘我でいなければなりませんか? 空気を読めることは敏感ないいことですか?
> > >  おかしいな、これが白昼夢というものかな、自信がなくなった。
> >
> >
> >  これらのことについては『時間の終焉』にて、ボームとの対話が収録されています。
> >
> >  最終的には、『時間の終焉』におけるクリシュナムルティの陳述内容の理解が不可欠となるように思えます。
>
>
> そうですか、読んでみようとして捜したのですが、『自我の終焉』が見つかりません。そのうち捜して読みます。
>
>
> >  「無意識がない」ということは、表面が静かになれば、深層が知覚できるという意味として受け取っています。
> >  すなわち、「無意識」は知覚されればもはや無意識ではなく「意識」であるということです。
>
>
> これはやや難しい問題です。健康な時は体のことなど意識しないが具合が悪いと気づきます。気づきは必要があるときと必要なものがあるように思います。それが受動的に行われたり、能動的に探したりする。
>
>
> >  >内的に立ち止まる−−、これは過去、何千年もの間、取り組まれてきたスピリチュアル的な事柄です。しかし、この取り組みはどこにも辿り着かないことが、クリシュナムルティによって、『時間の終焉』にて陳述されています。
>
>
> ここを読んで驚きました。>内的に立ち止まる−− これは「既知からの自由」のいま読んでいるところで、クリシュナムルティが言っていることではないですか? しかしこの取り組みはどこにもたどり着かない? Kが後年『時間の終焉』の中で否定したと? 俗流瞑想が効果をもたらさなかったという事なら分かります。そういう文脈なのでしょうか?
>
> >  これが、渡辺さんが陥った罠です。
> >
> >  その対応についても、『時間の終焉』にてクリシュナムルティによって陳述されています。
> >
> >  結局は、『時間の終焉』の理解が不可欠となることでしょう。
>
> ともかく『時間の終焉』を探し出して読んでみますが、いったいどんな罠なのだろうか? はっきりさせる必要があります。


[25822] Re:[25821] [25818] [25817] [25816] [25815] [25814] 既知からの自由9−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/24(Fri) 21:26  

> > > > > > 9章ー1[時間・悲しみ]


> >  >内的に立ち止まる−−、これは過去、何千年もの間、取り組まれてきたスピリチュアル的な事柄です。しかし、この取り組みはどこにも辿り着かないことが、クリシュナムルティによって、『時間の終焉』にて陳述されています。
>
>
> ここを読んで驚きました。>内的に立ち止まる−− これは「既知からの自由」のいま読んでいるところで、クリシュナムルティが言っていることではないですか? しかしこの取り組みはどこにもたどり着かない? Kが後年『時間の終焉』の中で否定したと? 俗流瞑想が効果をもたらさなかったという事なら分かります。そういう文脈なのでしょうか?
>
> >  これが、渡辺さんが陥った罠です。
> >
> >  その対応についても、『時間の終焉』にてクリシュナムルティによって陳述されています。
> >
> >  結局は、『時間の終焉』の理解が不可欠となることでしょう。
>
> ともかく『時間の終焉』を探し出して読んでみますが、いったいどんな罠なのだろうか? はっきりさせる必要があります。


以下自己レスです。『時間の終焉』を見つけ、今第1章を読んだところです。

第1章で初めて目が開け、クリシュナムルティ理解の骨格がわかりました。

動物はサピエンスのような記憶を持たず、秩序がありました。
サピエンスは記憶を持ち、時間(過去・現在・未来)の中で生きるようになり、外的世界の中で現在の文明、文化を造り出しました。

他方内的世界に心理的時間=ビカミングからなる思考を持ち込んだために、矛盾、葛藤、混乱、対立、抗争が生じ、秩序は失われました。
内的な精神の世界では、直観、洞察、即時の理解でしか問題は解決できないのです。

心理的知識、経験はすべて心理的時間(罠)です。

どうもありがとうございました。


[25821] Re:[25818] [25817] [25816] [25815] [25814] 既知からの自由9−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/24(Fri) 16:08  

> > > > > 9章ー1[時間・悲しみ]


>  思考があるとき、その心理のより深いところの運動に気づくことはできない。
>
>  その心理のより深いところに運動(意識されないうちは無意識と呼ばれる隠れた思考)があれば、それよりも更に深いところにある運動に気づくことはできない。
>
>  人は、それよりも更に深いところにある運動がビカミングしていることに気づくことができるのだろうか。。
>
>  人は、そのような気づきに乏しい場合において、>今のリアルな問題−−を理解できるのでしょうか。


気づけない時はあきらめるしかないでしょう。気づけないことはないことと同じですから。

ただ身体の運動はどの筋肉をどう動かそうと意識しないでも無意識で事が足ります。計らいなしで用が足ります。だから思考は意味がないのかもしれません。これは盤珪禅師の悟りのようです。必要なことは静かにしていると気づくかも。鳥の鳴き声に気づくように。


> > 分けるというのは過去現在未来のことではないのですか? 自我の終焉とは本の題名でなく自他の全き終焉ですか? 自他があって差別なしにいることでいいですか? いつも忘我でいなければなりませんか? 空気を読めることは敏感ないいことですか?
> >  おかしいな、これが白昼夢というものかな、自信がなくなった。
>
>
>  これらのことについては『時間の終焉』にて、ボームとの対話が収録されています。
>
>  最終的には、『時間の終焉』におけるクリシュナムルティの陳述内容の理解が不可欠となるように思えます。


そうですか、読んでみようとして捜したのですが、『自我の終焉』が見つかりません。そのうち捜して読みます。


>  「無意識がない」ということは、表面が静かになれば、深層が知覚できるという意味として受け取っています。
>  すなわち、「無意識」は知覚されればもはや無意識ではなく「意識」であるということです。


これはやや難しい問題です。健康な時は体のことなど意識しないが具合が悪いと気づきます。気づきは必要があるときと必要なものがあるように思います。それが受動的に行われたり、能動的に探したりする。


>  >内的に立ち止まる−−、これは過去、何千年もの間、取り組まれてきたスピリチュアル的な事柄です。しかし、この取り組みはどこにも辿り着かないことが、クリシュナムルティによって、『時間の終焉』にて陳述されています。


ここを読んで驚きました。>内的に立ち止まる−− これは「既知からの自由」のいま読んでいるところで、クリシュナムルティが言っていることではないですか? しかしこの取り組みはどこにもたどり着かない? Kが後年『時間の終焉』の中で否定したと? 俗流瞑想が効果をもたらさなかったという事なら分かります。そういう文脈なのでしょうか?

>  これが、渡辺さんが陥った罠です。
>
>  その対応についても、『時間の終焉』にてクリシュナムルティによって陳述されています。
>
>  結局は、『時間の終焉』の理解が不可欠となることでしょう。

ともかく『時間の終焉』を探し出して読んでみますが、いったいどんな罠なのだろうか? はっきりさせる必要があります。


[25820] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/08/24(Fri) 10:57  

クリシュナムルティの記述の検討というには、家族がみんな寝た後、寝静まって一人になったとき、静かになって検討するというものだろう。とくにサラリーマンはだ。
会社にいるときとか、家族と一緒のときはクリシュナムルティの検討は不可能なはず。
日中のあいた時間に、スマホで気軽に、投稿するものではない。それではまるで娯楽である。空いた時間の一服。
クリシュナムルティというのは、そんな底の浅いものではない。

一人静かな時間に、考え考え抜いてコメントすべきだ。とくにクリシュナムルティに関してはだ。読むときも。それが瞑想。


[25819] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/08/24(Fri) 10:45  

>内的に立ち止まる−−、これは過去、何千年もの間、取り組まれてきたスピリチュアル的な事柄です。しかし、この取り組みはどこにも辿り着かないことが、クリシュナムルティによって、『時間の終焉』にて陳述されています。

> これが、渡辺さんが陥った罠です。

力量不足で、なおかつ、ただKの本を読んだだけという知識のみの人間が、仏教の「悟者」である渡辺氏に対して、あれこれ言えた柄か。

> その対応についても、『時間の終焉』にてクリシュナムルティによって陳述されています。

>結局は、『時間の終焉』の理解が不可欠となることでしょう。

本の理解、頭の理解だと。そうではない。

今、「時間の終焉」のことではなく、「既知からの自由」の検討だ。
おたくの姿勢を見ると、Kの言葉を検討しようとはせず、Kの言葉を持ち上げ、優越感にしたるだけ。

それにしても、おたくには霊的な素養がまるでない。
内なる感受性のかけらもない。
クリシュナムルティを読むには力量不足もいいところだ。
本を読んだ知識を振り回しているだけ。
感性というものがない。内容がない。

スマホで気軽に投稿するなと言いたい。




[25818] Re:[25817] [25816] [25815] [25814] 既知からの自由9−1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/08/24(Fri) 09:22  

> > > > 9章ー1[時間・悲しみ]
> > > >
> > > > 神のところに行き、真理を教えてほしいと頼んだある偉大な使徒についての話しを繰り返してみたいのです。この哀れな神はこう言いました。「友よ、今日はとても暑い、どうか私に水を一杯持ってきて下さらんか」そこで使徒は出かけて行き、出くわした最初の家の戸を叩くと、若い美しい女性が戸を開けました。使徒は彼女と恋に落ち、結婚して数人の子供をもうけました。そしてある日雨が降り始め、降って、降って、降り続けたのです ― 激流がふくれあがり、町はあふれ、家は流されました。使徒は妻に掴まり肩に子供をかついで、押し流されながら叫びました。「神よ、どうかお助け下さい」すると神は言いました。「私が頼んだ水はどこだね?」
> > >
> > > この話は私には面白みがわかりません。
> >
> >
> >  クリシュナムルティ理解の取り組みにおいて最初に気をつけることは、「真理を言語で表すことができない」という基本があるということではないでしょうか。。
> >
> >  ちんぷんかんぷんだからダメということではなく、「まだお経(経典)よりはちんぷんかんぷんではない。」という認識が大切なことではないでしょうか。
> >
> >  そこでクリシュナムルティが為したことは、言語で示しえない真理を、何とか言語で発信しようと努めてきたということです。
> >
> >  そのためには、一方向からの言説ではなく、多方向からの言説を用いているように思います。
> >  喩えると、未踏峰に登頂する場合に、一つのルートに拘るのではなく、四方八方のルートからの挑戦に及ぶということです。
> >  しかも、初心者から5年経験者、十年経験者、そして長年経験者の全てに対して言語にて発信するという奇跡的なことを行っているように思えます。
>
> はい。それも世界中の人に対して。どうもこの小噺はインドでは割合ポピュラーな話なのでしょうね。
>
>
>
> > > >  私たちの多くは時間の見地から考えるので、これはなかなか良い物語です。人間は時間によって生きています。未来を案出するのは人間の好む逃避のゲームです。
> > >
> > > 女性が出てきて恋に落ち、子供も受け洪水にあっての話は使徒の束の間の白昼夢だったのでしょうか? そうでもしないと意味が分かりません。
> >
> >
> >  仏陀の弟子をイメージしてみると、その一番弟子や二番弟子弟子達(舎利子や目蓮等)は、美女に会ったことはあっても、絶世の美女に誘惑されたことは無かったのではないでしょうか。
> >  今で言えば、億単位の宝くじに当たったら(2年前に仮想通貨を百万円分所持していたならば・・)。国政選挙や県知事への出馬を要請されたならば・・。等々。このような欲望を刺激する大きな出来事が「女性の登場」として取り扱われているのではないでしょうか。
> >  もちろん、真理探究の意欲がほどほどなら、その欲望を刺激するものがほどほどのものであったとしても、その欲望にかられて真理探究を脇に置くことは容易に想像できるのではないでしょうか。
> >
> >  これがクリシュナムルティ理解が普及しにくい最大の理由かもしれません。
>
> ええ、何かの思考(出来事)に人間は、私も含めて、すぐ何日も何年もも捉えられてしまいます。これが文明や文化を進めることは否めませんが。しかしそれは白昼夢みたいなもので、真の意義を持っていない?
> それを言われると弱いなあ〜。反論しにくい。しかし責任があるだろうと言われると困ってしまう。
>
> > > >  自分たちの中の変化は時間の中で起こることができ、自分たちの中の秩序は少しづつ築かれ、日に日に付け加えられることができると私たちは考えます。しかし時間は秩序あるいは平和をもたらしません。そこで私たちは徐々にという見地から考えることをやめなければなりません。このことは私たちにとって平和でいられるはずの明日などないということです。この瞬間秩序正しくなければなりません。
> > >
> > > 時間は実際には心理的な白昼夢と限らず、例えば一晩考えるのを脇に置いて平和に寝ると頭が静まって明晰になり、いい考えが浮かびます。自分だけでなく関係するほかの人々にもそういう事が起こる可能性が大いにあります。しかしそういう事ではなく妄想して過ごす時間は全くのロスでしかないという事と考えればいいのでしょうか? 確かに正気のつもりでいるが妄想をしていた期間があるという事はあって、それは確かに問題です。
> >
> >
> >  >未来を案出するのは人間の好む逃避のゲームです。−−。
>
> よく寝てクリヤーになった心で一体自分は何を考えているのだろう??
>
> >  「時間」とは「心理的時間」のことであり、「今」よりもっと愛(ぬくもり)を、平和(安らぎ)を、人望(交友等)を、金銭を、権力を、秩序を、という「ビカミング」を表しているのではないでしょうか。
> >
> >  美女と結ばれても、宝くじに当たっても、ビットコインで儲けても、選挙で当選しても、誰一人として愛を得ることも平和を得ることも分け隔てなく人望を得ることも、金銭が足りることも、秩序を得ることも成しえた者は居なかったのではないでししょうか。信長、秀吉、家康がそうではなかったでしょうか。。
> >
> >  ビカミングは幻想であり、現にある「今」からの逃避ではないでしょうか。
>
> 時間をかけて効果があるのは思考で解決できる問題(物質的?)に限られているという事でしょう。はて、ここで突然問題に突き当たりました。心理的思考というのは物質的過程でしょうか?そうなら数学や物理の問題を解くように時間が有効なはずです。心理的問題は精神の問題であって即時の理解以外では解決できないという事でしょうか? いやいまのリアルな問題からの逃避なんだ!、と今気づかなければ! 違う。今のリアルな問題が理解されていない!


 思考があるとき、その心理のより深いところの運動に気づくことはできない。

 その心理のより深いところに運動(意識されないうちは無意識と呼ばれる隠れた思考)があれば、それよりも更に深いところにある運動に気づくことはできない。

 人は、それよりも更に深いところにある運動がビカミングしていることに気づくことができるのだろうか。。

 人は、そのような気づきに乏しい場合において、>今のリアルな問題−−を理解できるのでしょうか。



> > > >  本当の危険があるとき時間は消えます。そうではないでしょうか? 即座の行為があります。しかし私たちは自分の多くの危険を見ないので、それらを克服する手段として時間を考え出します。時間は、私たちの中に変化をもたらすのを助けることは何もしないので、人をだますものです。時間は一つの動きであって、それを人間が過去、現在、未来に分けたのです。分けている限り人間はいつも争いの中にいるでしょう。
> > >
> > > 確かに人は自分の危険に気が付けないでいるらしいです。それで夏休みには子供と海に行ったりします。これは白昼夢なのかな、いや女性に見とれていた時間もあるでしょうが、子供と波を共にかぶったのはリアルなものでしょう。という事で、過去現在未来に分けているのは道を横断するとき、自動車の予測をして渡ります。これは思考なのかな、見て分かるうちに入るのかな? やはり判断があるようです。
> > >  分けている限り争いの中にいる? ちょっとこれだけではわかりません。
> >
> >
> >  分けている限り「ビカミング」のまっただ中に居るのではないでしょうか。その中心は「私」すなわち自我ではないでしょうか。
> >  「分けている限り」とは「時間の終焉」「自我の終焉」が無い限りという意味として、私は受け取っています。
>
> 分けるというのは過去現在未来のことではないのですか? 自我の終焉とは本の題名でなく自他の全き終焉ですか? 自他があって差別なしにいることでいいですか? いつも忘我でいなければなりませんか? 空気を読めることは敏感ないいことですか?
>  おかしいな、これが白昼夢というものかな、自信がなくなった。


 これらのことについては『時間の終焉』にて、ボームとの対話が収録されています。

 最終的には、『時間の終焉』におけるクリシュナムルティの陳述内容の理解が不可欠となるように思えます。


> > > >  学ぶことは時間の問題でしょうか? 私たちはこの数千年、結局、お互いに憎み殺しあう以外によりよい生き方があることを学びませんでした。今のように恐ろしくまた無意味にするのを助長してきたこの生を解決するつもりならば、時間の問題は理解すべき非常に重要なものの一つです。
> > > >
> > > >  まず最初に理解することは、すでに検討してきた新鮮で無垢な心でのみ、時間を見ることができるということです。私たちは多くの問題で混乱し、その混乱の中で迷っています。さて森の中で迷ったなら、最初にすることは何でしょう? 立ち止まるのではないでしょうか? 立ち止まって見回します。しかし混乱して生に迷えば迷うほど、私たちはますます捜し、尋ね、求め、懇願しながら走り回ります。そこでまず第一にすることは、示唆させて貰うなら、内的に完全に立ち止まることです。そして内的に、心理的に立ち止まるとき、心はとても平和に、とても明晰になります。その時この時間の問題を本当に見ることができます。
> > >
> > > 静かに騒いでいない心でいるのと無垢がどうつながるかはよくわかりませんが、見ることができるためにはある落ち着きがいるのは確かです。
> >
> >
> >  クリシュナムルティが発信していることは「ドアの方向」ではないでしょうか。しかも、その陳述は四方八方のルートのうち、そのひとつからの示唆であり、初心者からベテランへの一括した発信であるため、その受信には、周波数の一致のようなものがあるのかもしれません。。
> >
> >  クリシュナムルティがここで発信しようとしていることは、ドアは内面の深層にあることを示唆してはいないでしょうか。すなわち、>静かに騒いでいない心−−は、はたして表面のみではないか、もっと内面の深く奥側にクルクル回っている思考があるのではないのか・・と示唆していないでしょうか。。
>
> 奥側でぐるぐる騒いでいてそれが表面に出てこないとすれば無意識を認めることになる。心が落ち着いていないなという事は分かるのではないだろうか?


 「無意識がない」ということは、表面が静かになれば、深層が知覚できるという意味として受け取っています。
 すなわち、「無意識」は知覚されればもはや無意識ではなく「意識」であるということです。



> > > >  問題は時間の中にのみ、すなわち物事に不完全に出会うときにのみ存在します。この不完全に物事に出会うことが問題を作り出します。挑戦に部分的に、断片的に出会ったり、それから逃げようとするとき ― つまり、完全な注意なしにそれと出会うとき ― 私たちは問題を引き起こすのです。そして問題に不完全な注意を払い続ける限り、そのうち解決するだろうと思っている限り、問題は続きます。
> > >
> > > 物事に不完全に出会うと問題が起こることはそうに決まっています。不完全に出会うときとは心が騒いでいる時、つまり心理的時間の中にいる時という事のようです。
> > >
> > > >  時間とは何か知っていますか? 時計による時間や、年代的な時間ではなく、心理的な時間を知っていますか? それは考えと行為の間の間隔です。考えは明らかに自己防衛のためのものであって、それは安全であることについての考えです。行為は常に即座です。それは過去のものでも未来のものでもありません。行為はいつも現在になければなりませんが、行為はとても危険で不確かなので、そのためある安全を与えてくれると思う考えに従うのです。
> > >
> > > つまり人間は動物と違って咄嗟に出る行動を、新たに遺伝子の突然変異で出来た意識で、安全のために一瞬確認し、その判断を持って行動するようになりました。サピエンスは体がそうなっています。この事は自動車と横断歩道、交通信号という文明形態をもたらしました。もちろん、陰の部分を伴うでしょう。
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> >  ホモ・サピエンスは思考が最重要になったということではないでしょうか。
> >  もしも、4万年前にネアンデルタール人を滅ぼさなかったならば、共存していたならば、そしてもしもネアンデルタール人が思考を最重要視していなければ、今では、ネアンデルタール人の生き方から多くを学び、思考を最重要視しない生き方が遍く普及していたのでしょうか。。
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> > > >  このことを自分自身の中で見ること。あなたは正しいあるいは間違っているという考え、あるいは自分自身と社会についてイデオロギー的な概念を持っています。そしてその概念にしたがって行動しようとします。それゆえ行為はその考えにしたがったものであり、その考えに近づけたもので、そのためいつも争いがあります。考えがあり、間隔があり、行為があります。そしてその間隔の中に時間の全領域があります。その間隔は本質的に思考です。明日は幸せだろうと考える時、ある結果をそのうちに達成する自分自身のイメージを持っています。思考は、観察を通し、欲望と一層の思考によって維持されるその欲望の継続を通して、こう言います。「明日は幸せになるだろう。明日は成功するだろう。明日世界は美しい場所になるだろう」 このように思考は間隔をつくり、その間隔は時間です。
> > >
> > > 時間は思考をする間隔(合間)ですか。そうならこの思考が一方で問題を起こしていると言えばいいように思いますが、なぜ時間が出てくるのでしょうか?
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> >  ネアンデルタール人と共存せずに、彼らを絶滅させようと駆り立てたのは時間ではないでしょうか。私やあなたの中にある「時間」。なぜ、私やあなたはネアンデルタール人を絶滅するよう働いたのでしょうか。
> >  >このことを自分自身の中で見ること。−−
> >
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> > > >  さて、私たちは問うています。時間を止めることはできるでしょうか?思考にとって考えるべき明日がないほど完全に生きることができるでしょうか? なぜなら時間は悲しみだからです。すなわち昨日または千日も前に、あなたは愛し、あるいは亡くなった友がいました。その記憶は残りあなたはその快とその痛みについて考えています ― 振り返り、願い、望み、悔やみます。そのように思考は、それを何度も何度も繰り返し、私たちが悲しみと呼ぶこのものを生じさせ、時間に継続を与えます。
> > >
> > > 悲しみに継続を与える。思考はそうします。思考はいろいろなことを思い継続させ、それはどうしようもない、生きたとは言えない時間なのでしょうか?
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> >  その時間が「私」を構成していないでしょうか。
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> > > >  思考によって育てられてきたこの時間の間隔がある限り、悲しみがあり、恐怖が続くに違いありません。そこでこの間隔は終わり得るかと自分に尋ねます。もし「いったいそれは終わるだろうか?」と言うなら、それはすでに考えであり、自分が成し遂げたいと思う何かであり、それゆえ間隔があり、再び捉えられているのです。
> > >
> > > 思考の持つマイナス面が時間と結びつけて述べられているように読みました。そのマイナス面が理解できるように浮かび上がっているとは思いません。
> >
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> >  ここで陳述されている「時間」は物理的時間を意味してはいません。なぜネアンデルタール人を絶滅させたのか?私やあなたの責任ではないのか。
>
> ネアンデルタール人が絶滅したのは事実ですが、事実は当時、他のホモ属も、大型動物のほとんど全ても、サピエンスが世界に広がるとともに絶滅しています。サピエンスが身体強健という事ではなく、群れて協力して大型動物を狩ることができるようになったらしいです。他の人類は生存競争的に肩を並べられなかったのでしょう。もちろん狩場をめぐっての闘争もあったのでしょうが、獲物そのものが減って行ったのでしょう。
>  なお、それはあなたや私の責任ではないか問うとき、思考の継続に入っている気がいます。
> 私の発した思考もいっぱいありますが、思考は延期であるとも見えるし、何か言わなければならないという気もします。このように人間は騒いでいるのか?その果てに真理がひらめくと信じて? 
> それとも初めから静かにしていればいい(内的に立ち止まる)のか。


 ネアンデルタール人虐殺問題は、過去のことなのか、今現在のことなのか?ということです。

 もしも、これを見ることができれば、責任については、思考の問題ではなくなるのではないでしょうか。

 >内的に立ち止まる−−、これは過去、何千年もの間、取り組まれてきたスピリチュアル的な事柄です。しかし、この取り組みはどこにも辿り着かないことが、クリシュナムルティによって、『時間の終焉』にて陳述されています。

 これが、渡辺さんが陥った罠です。

 その対応についても、『時間の終焉』にてクリシュナムルティによって陳述されています。

 結局は、『時間の終焉』の理解が不可欠となることでしょう。




> > > > (続く)
>
> 少しこれだけ一度に掲載したのは長すぎましたか。次は少し短くしてみましょう。


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