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[26046] Re:[26041] [26039] 既知からの自由14-2 投稿者:宮啓 投稿日:2018/10/16(Tue) 21:53  

> > 14章−2 [達成] [規律]
> >
> >  生の中の最も大きな障害の一つは、到達し、達成し、獲得しようとするこの絶え間ない努力であると私には思われます。私達は子供の時から獲得し、達成するように訓練されました ― 脳細胞それ自体が物理的安全を得るためにこの達成のパターンをつくり、要求します。しかし心理的安全は達成の領域の内側にはありません。私達は安全をあらゆる関係、態度、活動の中で要求しますが、見てきたように、実際には安全というようなものはありません。どんな関係の中にも安全という形はないという事を自分自身で見出すことは ― 心理的に永久なものは何もないということを理解・実感することは ― 生に全く違う接近法を与えます。もちろん、外的安全 ― 住居、衣服、食物 ― は不可欠ですが、その外的安全は心理的安全への要求によって破壊されるのです。
>
>
> 心理的安全の達成、獲得の努力は生の中の最も大きな妨害の一つであるとKは説き始めました。なぜなら、心理的に永久なものは何もないからだという事です。人はこのことをよく考えたことがあるでしょうか?


 ブッダとクリシュナムルティ』の第2部は、なぜクリシュナムルティが述べることが起きないのか?についての、クリシュナムルティの陳述がまとめられています。

 そこで述べられていることが、「変容」への到達し、達成し、獲得しようとするこの絶え間ない努力である旨が述べられています。

 クリシュナムルティ理解への取組においては、難解な文書を読むためのモチベーションを要するが、一定段階以上からは、そのモチベーションさえ、「到達し、達成し、獲得しようとするこの絶え間ない努力」として、大きな障害となるということのようです。


> >  空間と沈黙は意識の限界を超えていくのに必要ですが、しかし自己関心の中で絶え間なく活動的な心は、どうやって静かでいられるでしょうか? 心を鍛錬し、制御し、形作ることはできますが、そのような責め苦は心を静かにしません。心を鈍くするだけです。静かな心を持つという理想を単に追いかけることは明らかに価値がありません。なぜなら心は、規制すればするほどますます狭くなり、停滞するからです。どんな形の制御も、抑圧のように、葛藤を生むだけです。それゆえ制御や外的な規律はその方法ではなく、無規律の生も何の価値もありません。
>
>
> 静かな心というものは外的な制御・規律では葛藤を生むだけです。
>
>
> >  私達の生の殆どは、社会の要求や、家族や、自分自身の苦しみや、自分自身の体験や、特定のイデオロギーまたは事実に基づく型に従うことによって、外的に訓練されます ― そしてその形の規律は最も鈍らせるものです。規律は、制御なしに、抑圧なしに、どんな形の恐怖もなしになければなりません。どのようにこの規律は生じるでしょうか? 規律が最初でそれから自由ではありません。自由はまさに初めにあり、終わりにあるのではありません。この自由、規律への順応からの自由、を理解することが規律そのものなのです。まさに学ぶ行為そのものが規律であり(結局 規律 dis-cipline という語のもとの意味は学ぶということです)、学ぶ行為そのものが明晰さになるのです。制御、抑圧、放縦の性質と構造の全体を理解するためには注意が必要です。それを学ぶために規律を課す必要はありませんが、学ぶ行為そのものが何の抑圧もないそれ自体の規律をもたらすのです。
>
>
> 私たちは社会から型に従うよう訓練されますが、この形からなる固定的な規律は心の鋭敏さを破壊します。>規律は、制御なしに、抑圧なしに、どんな形の恐怖もなしになければなりません−−この規律をほとんどの人は知らないのではないかと思います。では、そのような規律はどのようにして生じるのでしょうか? 規律への順応に対する自由が理解されるとき、自ずと規律がそこにあります。学ぶ行為そのものが何の抑圧もないそれ自体の規律をもたらすのです。


 静寂な心(空間と沈黙)が意識の限界を超えていくのに必要であるが、>社会の要求や、家族や、自分自身の苦しみや、自分自身の体験や、特定のイデオロギーまたは事実に基づく型に従うことによって、外的に訓練されます−−、これによって静寂な心が妨害されている。



> >  権威を否定するためには(私達は心理的権威の話をしているのであって、法の権威ではありません) ― あらゆる宗教的組織、伝統、経験の権威を否定するためには、なぜ人は普通服従するのかを見なければなりません ― 実際にそれを学ばなければなりません。そしてそれを学ぶためには非難、正当化、意見、受容からの自由がなければなりません。さて権威を受け入れしかもそれを学ぶことはできません ― それは不可能です。私達自身の中の権威の全心理的構造を学ぶためには自由がなければなりません。そして学んでいるとき私達はその全構造を否定しており、その否定そのものが権威から自由である心の光です。外的な規律、指導性、理想主義のような、価値があると考えられてきたあらゆるものを否定することがそれを学ぶことです。そのとき学ぶ行為そのものが規律であるのみならず、規律の否定でもあり、そしてまさにその否定が肯定的な行為なのです。それゆえ私達は心の静寂をもたらすために重要だと考えられるこれらの全てを否定しています。
>
>
> 権威の全心理的構造を学ぶことが実は伝統的価値構造の否定につながります。なぜ人は服従するかを理解すること。そもそも自由があるか否かが心もとない。
>
>
> >  このようにして静寂に導くのは制御ではないということを見ます。あるいは心が対象を持ち、夢中になってその対象に没入しているときも、心は静かではありません。これは子供に面白いおもちゃを与えるようなものです。子供はとても静かになりますが、そのおもちゃを取り除くと、またいたずらを始めます。私達はみんな自分を夢中にしてくれるおもちゃを持っており、自分は非常に静かだと考えますが、もし人が、科学、文学、あるいは何であれ、ある特定の形の活動に打ち込んでいるなら、単にそのおもちゃが夢中にさせているのであって、彼が本当に静かなのではありません。
>
>
> このおもちゃの話はきつい。手放せません。逆に言えばほかに価値あることを持っていない。ここで「既知から自由」を読んでいることはおもちゃではなさそうですが。
> >
> > (続く)


 静寂になるために、我々はあまたの手法を持っている。しかし、それらは結局のところ、役に立たない。たとえ、それが禅の手法であったとしても。渡辺さんしかり。

 ここを理解しないと、先がないということか。。


[26045] 自由と運命 投稿者:南方 投稿日:2018/10/16(Tue) 18:55  

自由の究極的目標は人が人らしくあることである。

運命の究極的目標は人を人たらしめんことである。


よって両者は矛盾しない。

自我あっても人らしくあることはできるのである。
ここにどれだけの練磨された意志を持つことが重要かが伺われる。単に自我の終焉を願うだけなら何も起こらない。
反対に練磨された意志を持つ自我は正しく物事を捉えられるのである。




[26044] 運命と自由 投稿者:南方 投稿日:2018/10/16(Tue) 18:42  

運命とは普遍性に対する個別性への挑戦であると受け取られている傾向がある。

自由とは個別性に対する普遍性への挑戦であると受け取られている傾向がある。

しかし両者はその否利益性の属性故に相反するものではないのである。

自由が利己的に変わり、運命が神の我が儘と変わり、勘違いされてきた人間が産み出した解釈の誤解なのである。

ここで真の自我性と無我性が打ち解け合うのである。


[26043] 働かなくて幸せ 投稿者:南方 投稿日:2018/10/16(Tue) 16:40  

世間では挨拶がわりに「お仕事は何を?」と聞かれることが多い。

無職の私はそれでなにも答えられずなんか勝手に「見下されてる!馬鹿にされてる!」と心の癖が発動し自己憐憫に浸っていた。

それを埋めようと必死に職業を見つけよう、手に入れようともがいていた。

がそれで得られるのは肩書きに引っ付いてくる人々の称賛とそれの自惚れだけ。

あまりに虚しい人生。

ただ少し心の癖を変えるだけで幸せはやってくるのに。


[26042] 愛するものが職業 投稿者:南方 投稿日:2018/10/16(Tue) 14:37  

していることを愛することによる職業というのが、今の現実社会で生計を立てる上で非常に難しい。。。

外側の肩書きに囚われてしまう。

今、書いていてそういうことかと重荷を手放した。

瞬時瞬時気づいて手放す。人間関係もこれで辛くはない。ようは心の在り方が愛のある働き方。


[26041] Re:[26039] 既知からの自由14-2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/16(Tue) 11:57  

> 14章−2 [達成] [規律]
>
>  生の中の最も大きな障害の一つは、到達し、達成し、獲得しようとするこの絶え間ない努力であると私には思われます。私達は子供の時から獲得し、達成するように訓練されました ― 脳細胞それ自体が物理的安全を得るためにこの達成のパターンをつくり、要求します。しかし心理的安全は達成の領域の内側にはありません。私達は安全をあらゆる関係、態度、活動の中で要求しますが、見てきたように、実際には安全というようなものはありません。どんな関係の中にも安全という形はないという事を自分自身で見出すことは ― 心理的に永久なものは何もないということを理解・実感することは ― 生に全く違う接近法を与えます。もちろん、外的安全 ― 住居、衣服、食物 ― は不可欠ですが、その外的安全は心理的安全への要求によって破壊されるのです。


心理的安全の達成、獲得の努力は生の中の最も大きな妨害の一つであるとKは説き始めました。なぜなら、心理的に永久なものは何もないからだという事です。人はこのことをよく考えたことがあるでしょうか?


>  空間と沈黙は意識の限界を超えていくのに必要ですが、しかし自己関心の中で絶え間なく活動的な心は、どうやって静かでいられるでしょうか? 心を鍛錬し、制御し、形作ることはできますが、そのような責め苦は心を静かにしません。心を鈍くするだけです。静かな心を持つという理想を単に追いかけることは明らかに価値がありません。なぜなら心は、規制すればするほどますます狭くなり、停滞するからです。どんな形の制御も、抑圧のように、葛藤を生むだけです。それゆえ制御や外的な規律はその方法ではなく、無規律の生も何の価値もありません。


静かな心というものは外的な制御・規律では葛藤を生むだけです。


>  私達の生の殆どは、社会の要求や、家族や、自分自身の苦しみや、自分自身の体験や、特定のイデオロギーまたは事実に基づく型に従うことによって、外的に訓練されます ― そしてその形の規律は最も鈍らせるものです。規律は、制御なしに、抑圧なしに、どんな形の恐怖もなしになければなりません。どのようにこの規律は生じるでしょうか? 規律が最初でそれから自由ではありません。自由はまさに初めにあり、終わりにあるのではありません。この自由、規律への順応からの自由、を理解することが規律そのものなのです。まさに学ぶ行為そのものが規律であり(結局 規律 dis-cipline という語のもとの意味は学ぶということです)、学ぶ行為そのものが明晰さになるのです。制御、抑圧、放縦の性質と構造の全体を理解するためには注意が必要です。それを学ぶために規律を課す必要はありませんが、学ぶ行為そのものが何の抑圧もないそれ自体の規律をもたらすのです。


私たちは社会から型に従うよう訓練されますが、この形からなる固定的な規律は心の鋭敏さを破壊します。>規律は、制御なしに、抑圧なしに、どんな形の恐怖もなしになければなりません−−この規律をほとんどの人は知らないのではないかと思います。では、そのような規律はどのようにして生じるのでしょうか? 規律への順応に対する自由が理解されるとき、自ずと規律がそこにあります。学ぶ行為そのものが何の抑圧もないそれ自体の規律をもたらすのです。


>  権威を否定するためには(私達は心理的権威の話をしているのであって、法の権威ではありません) ― あらゆる宗教的組織、伝統、経験の権威を否定するためには、なぜ人は普通服従するのかを見なければなりません ― 実際にそれを学ばなければなりません。そしてそれを学ぶためには非難、正当化、意見、受容からの自由がなければなりません。さて権威を受け入れしかもそれを学ぶことはできません ― それは不可能です。私達自身の中の権威の全心理的構造を学ぶためには自由がなければなりません。そして学んでいるとき私達はその全構造を否定しており、その否定そのものが権威から自由である心の光です。外的な規律、指導性、理想主義のような、価値があると考えられてきたあらゆるものを否定することがそれを学ぶことです。そのとき学ぶ行為そのものが規律であるのみならず、規律の否定でもあり、そしてまさにその否定が肯定的な行為なのです。それゆえ私達は心の静寂をもたらすために重要だと考えられるこれらの全てを否定しています。


権威の全心理的構造を学ぶことが実は伝統的価値構造の否定につながります。なぜ人は服従するかを理解すること。そもそも自由があるか否かが心もとない。


>  このようにして静寂に導くのは制御ではないということを見ます。あるいは心が対象を持ち、夢中になってその対象に没入しているときも、心は静かではありません。これは子供に面白いおもちゃを与えるようなものです。子供はとても静かになりますが、そのおもちゃを取り除くと、またいたずらを始めます。私達はみんな自分を夢中にしてくれるおもちゃを持っており、自分は非常に静かだと考えますが、もし人が、科学、文学、あるいは何であれ、ある特定の形の活動に打ち込んでいるなら、単にそのおもちゃが夢中にさせているのであって、彼が本当に静かなのではありません。


このおもちゃの話はきつい。手放せません。逆に言えばほかに価値あることを持っていない。ここで「既知から自由」を読んでいることはおもちゃではなさそうですが。
>
> (続く)


[26040] 祈り 投稿者:無明 投稿日:2018/10/15(Mon) 15:53  

祈りは遺伝子を「活性化」する 慈悲の心が免疫機能の強化につながる 筑波大学名誉教授・村上和雄

注 いや〜この言葉は凄い。産経新聞のインタビューからだそうだ。詳しくはネットで。


生命の暗号 村上和雄
祈り・原理と作法 京都嵯峨大学 学長 森本武

この2冊は持っている。森本氏というにはKsポイントの代表。
今まで20年近く、本業とは別にクリシュナムルティ関連の講演をやっているというから驚きだ。主に大学内で。わたしはつい最近まで知らなかった。2回ほど直に話を聞いている。

これらの本を読んで祈りについて大きな誤解をしていました。
祈りというのは古来から行われていて人間と神が交流する唯一の手段です。
それは決して人間の個人的な願望を達成するものではありません。本来は神や大自然に対する感謝の儀式です。

大きな誤解を与えたのがクリシュナムルティ。
彼は信仰や祈りをけなす。私は早目にKに見切りをつけるべきでした。時すでに遅し。

土曜日に、あるセミナーに行きました。
内容は100万回「ありがとう」を唱えたら、癌が消えたという話。実話です。ここで感じたのは、言葉というのはエネルギーそのものであること。昔から言霊と言われる所以。それと愛感謝のエネルギーは膨大だということ。これらを学びました。ある種の祈りです。100万回祈る。そのきっかけは先程の村上氏の本です。遺伝子の研究者。何冊かの本を出していて名前は知っていました。
生かされて生きている。何事にも感謝する。愛感謝のエネルギーははるかに強大。ネガティヴな想念をも打ち消す。

ここで新しい芽氏のどのように気づいているか、どんなふうに気づいているかの答えがわかった気がします。

愛の気持ちで気づいているか。又は慈愛の目で気づいているか。

(このことは薄々気づいていたのだが、今回にセミナーではっきりしました)
強烈な気づきという時、それは「愛」だということです。




[26039] 既知からの自由14-2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/14(Sun) 18:14  

14章−2 [達成] [規律]

 生の中の最も大きな障害の一つは、到達し、達成し、獲得しようとするこの絶え間ない努力であると私には思われます。私達は子供の時から獲得し、達成するように訓練されました ― 脳細胞それ自体が物理的安全を得るためにこの達成のパターンをつくり、要求します。しかし心理的安全は達成の領域の内側にはありません。私達は安全をあらゆる関係、態度、活動の中で要求しますが、見てきたように、実際には安全というようなものはありません。どんな関係の中にも安全という形はないという事を自分自身で見出すことは ― 心理的に永久なものは何もないということを理解・実感することは ― 生に全く違う接近法を与えます。もちろん、外的安全 ― 住居、衣服、食物 ― は不可欠ですが、その外的安全は心理的安全への要求によって破壊されるのです。

 空間と沈黙は意識の限界を超えていくのに必要ですが、しかし自己関心の中で絶え間なく活動的な心は、どうやって静かでいられるでしょうか? 心を鍛錬し、制御し、形作ることはできますが、そのような責め苦は心を静かにしません。心を鈍くするだけです。静かな心を持つという理想を単に追いかけることは明らかに価値がありません。なぜなら心は、規制すればするほどますます狭くなり、停滞するからです。どんな形の制御も、抑圧のように、葛藤を生むだけです。それゆえ制御や外的な規律はその方法ではなく、無規律の生も何の価値もありません。

 私達の生の殆どは、社会の要求や、家族や、自分自身の苦しみや、自分自身の体験や、特定のイデオロギーまたは事実に基づく型に従うことによって、外的に訓練されます ― そしてその形の規律は最も鈍らせるものです。規律は、制御なしに、抑圧なしに、どんな形の恐怖もなしになければなりません。どのようにこの規律は生じるでしょうか? 規律が最初でそれから自由ではありません。自由はまさに初めにあり、終わりにあるのではありません。この自由、規律への順応からの自由、を理解することが規律そのものなのです。まさに学ぶ行為そのものが規律であり(結局 規律 dis-cipline という語のもとの意味は学ぶということです)、学ぶ行為そのものが明晰さになるのです。制御、抑圧、放縦の性質と構造の全体を理解するためには注意が必要です。それを学ぶために規律を課す必要はありませんが、学ぶ行為そのものが何の抑圧もないそれ自体の規律をもたらすのです。


 権威を否定するためには(私達は心理的権威の話をしているのであって、法の権威ではありません) ― あらゆる宗教的組織、伝統、経験の権威を否定するためには、なぜ人は普通服従するのかを見なければなりません ― 実際にそれを学ばなければなりません。そしてそれを学ぶためには非難、正当化、意見、受容からの自由がなければなりません。さて権威を受け入れしかもそれを学ぶことはできません ― それは不可能です。私達自身の中の権威の全心理的構造を学ぶためには自由がなければなりません。そして学んでいるとき私達はその全構造を否定しており、その否定そのものが権威から自由である心の光です。外的な規律、指導性、理想主義のような、価値があると考えられてきたあらゆるものを否定することがそれを学ぶことです。そのとき学ぶ行為そのものが規律であるのみならず、規律の否定でもあり、そしてまさにその否定が肯定的な行為なのです。それゆえ私達は心の静寂をもたらすために重要だと考えられるこれらの全てを否定しています。

 このようにして静寂に導くのは制御ではないということを見ます。あるいは心が対象を持ち、夢中になってその対象に没入しているときも、心は静かではありません。これは子供に面白いおもちゃを与えるようなものです。子供はとても静かになりますが、そのおもちゃを取り除くと、またいたずらを始めます。私達はみんな自分を夢中にしてくれるおもちゃを持っており、自分は非常に静かだと考えますが、もし人が、科学、文学、あるいは何であれ、ある特定の形の活動に打ち込んでいるなら、単にそのおもちゃが夢中にさせているのであって、彼が本当に静かなのではありません。

(続く)


[26038] 見ることができない? 投稿者:無明 投稿日:2018/10/14(Sun) 06:43  

>原因が、>恐怖からの自由、悲しみや心配、そして人が自分自身で仕掛けるあらゆる罠からの自由という基礎を築かない限り、心にとって実際に静かであることがどんなふうに可能か、私にはわかりません。これは伝達することが最も難しいことの一つです。−−、それができないから、「見る」ことができない。

これじゃしょうがない。今までクリシュナムルティの何を読んできたのか。今までのおたくのコメントを見てみる限り議論さえできないようだ。ようするにみんなの対話の中に入れない。
「見る」ことができないとは。退場されたし。

見ることをやって見て継続は難しいということならわかる。
ほとんどの人がそうだから。
それも初めから「見る」ことはできないとは。
何を読んでんの。
何のために、ゴトさんが今回クリシュナムルティの訳を出してるのか。皆で検討するためだろう。

これでは新しい芽氏のいう「どのように気づいているか」
ゴトさんのいう「思考なしに見る、実物を理解する」
ということがチンプンカンプンということになる。
話にならん。議論もできない。

何もわかってない男が仏教の達人渡辺氏に対しあれこれ言うなといいたい。
ゴト氏や新しい芽氏をクリシュナムルティの第一人者と言ったり。
渡辺氏はKのいうことが起きてないと言ったり。
呆れたコメントばかり。
何で「見る」ことを真剣に検討しないのか。
何がクリシュナムルティ理解だ。
理解するのは自分自身だろう。





[26037] 何のために 投稿者:無明 投稿日:2018/10/13(Sat) 12:45  

クリシュナムルティの本を読んでわからないことがあれば、人に質問したり、Kの会合に参加したり、他の覚者の本を読んだりして、その手がかりを得るために答えを探します。そうやって探求するというのが普通です。
クリシュナムルティの翻訳をされる人ならクリシュナムルティの教えをわかってると思えるので、いろんな人の翻訳者の見解を聞く。
ある程度確信を得たら自分で実行してみる。うまくいかないとすれば再度人に聞く。その繰り返しです。
途中何のためにそういうことをするのかという自問自答が湧き出てくる。何のために自己観察するのか。何のメリットがあるのか。
ここで初めてクリシュナムルティを読んだ動機というものが再度問われるでしょう。


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