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[25615] Re:[25609] Timeless Stillness より(2) 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/08(Sun) 17:10  

>  参考になるかもしれません。引用します。
>
>
> 気づきについて

前略

> 気持ちが巻き込まれていなければ、視覚的な木への気づきがあるとき、その関係[私と木との結びつき]に分割はありません。しかし木への心理的な反応があれば、その反応は条件づけられた反応であり過去の記憶と経験の反応であって、それが関係を分割します。この反応こそが関係の中で「私」と呼ばれることになるものと「私でないもの」との誕生なのです。これがどのようにしてあなたがあなた自身を世界との関係の中に位置づけるかということです。これがあなたが個人と社会を作り出すやりかたです。

以下私と私でないものや個人と社会の分離の起源が述べられているが、これがよくわからない。心理的反応と私と私でないものの分離は果たして同じなのだろうか?

> 我々は世界をあるがままにではなく、記憶である「私」との様々な関係において見ます。この分割は[現実の]人生と、[心の中で]繁茂していくものすべて――それが精神的存在と呼ばれます――の分割であり、ここからすべての対立と分割が立ち上がるのです。このことにはっきりと気づいていますか?木への気づきがあるときは、そこに[価値]評価はありません。しかし、木への感情的な反応があれば、木が好き嫌いで判断されれば「私」と「私でないもの」の分割が起きます。この「私」は観察されるものとは別のものです。この「私」は関係の中の過去の記憶と過去の経験による反応です。


私の素朴な疑問は、別に木に対して悪意も敵意も 持っていないし、夏の木陰はうれしいが、「私」はいないのかな?

> それに気づいて、何も判断せずに木を観察し、何も判断せずにそれへの反応や反作用を観察できるでしょうか。こうして我々は木を見ることと自分自身を見ることの両方で分割の原理を、「私」と「私でないもの」の原理を根絶します。

ただ見ることが分割の原理や「私」・自我の原理を根絶すると言います。ここはわかるのだが、自我・「私」とはそもそもなにかというとわからない。


[25614] Re:[25609] Timeless Stillness より 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/08(Sun) 14:57  

>  参考になるかもしれません。引用します。
>
>
> 気づきのプロセス

ここから始めますが、かなり省略するつもりです。

前略

> それではもう少し先へ進みましょう。あなたが自分が貪欲で暴力的で妬み深いということに気づくと何が起きますか? 妬みを取り上げてみましょう。自分が妬み深いことに気づいていますか? どうか私と一緒に一歩一歩進んでください。そして決まったやり方[公式]にしたがっているのではないことを心に留めておいて下さい。これを公式化すれば、すべての意味を失ってしまうでしょう。私は気づきのプロセスを包み拡げています。しかしたんにそれを心で描写することによって学ぶだけなら、今いる場所に居つづけることになります。それに反し、自分が条件づけられているのを見始めれば――それは私が今説明していることに、リアルタイムであなた自身の精神の作動に気づくということですが――あなたは実際に変容が可能になる地点にやってくることになります。
>
> そうやってあなたは気づきます。外の物事とそれらへ解釈にだけでなく、[無意識の]妬みにも気づき始めたのです。では自分自身の妬みに気づいたとき何が起こりますか? それを非難するのではないでしょうか? あなたはそれは間違っている、妬んではいけない、愛するべきであると言います。それは理想です。事実はあなたが妬んでいるということです。一方理想はあなたがそうあるべきものです。理想の追求のなかであなたは二元性を作り出します。そこには絶え間ない葛藤があり、あなたはその葛藤に捕われます。

老婆心で言いますが、条件付けから来る理想の追求があれば葛藤にとらわれます。

> 私が描写しているプロセスにリアルタイムで気づいていますか? そこにはただひとつのこと、あなたが妬み深いということがあります。その他のもの、その理想は無意味です。それは現実のものではありません。そして精神が理想から自由であること、反対物から自由であることは精神にとって非常に難しいことです。なぜなら特定の文化の伝統を通して何世紀にもわたり、我々は英雄とその実例を、完全な人間の理想像を受け入れるように言われて、それに向かって奮闘してきたからです。それが我々が訓練されて来たことです。我々は妬みを妬まないことに変えたいと思います。しかし決してそれを変える方法を発見できません。そして終わりのない葛藤に捕らわれます。

嫉妬は醜いと言われてもどうしようもなく、開き直って嫉妬深くふるまうか、直そうとして葛藤に苦しむか、そこはみんな知っています。

> さて、精神が自分が妬み深いことに気づいた時、まさにその妬み深いという言葉は非難的です。これについて来ていますか? その感情のまさにそのネーミングが非難がましいのです。しかし精神は言葉によってしか考えることができません。一つの感情がわき起こり、それとともにある言葉が定義されます。そしてその感情は決してその言葉から独立できません。妬みのような感情があるとき、そこに名づけがあります。それであなたはいつも新しい感情に古い観念や蓄積された伝統によってアプローチするのです。感情はいつも新しいのにいつも古い用語に翻訳されます。

命名が古い軌道を走り出すきっかけなのだ!とKが言います。

> では、精神は妬みのような感情を名づけずに新しいものとして来たらしめることができるでしょうか? その感情の名づけそのものが、それを捕まえて古い枠組みに入れることでそれを古いものにしています。それでは精神は感情を名づけず、名前で呼ぶことによって翻訳せず、その結果非難したり受け入れたりせずにその感情を事実としてただ観察することが可能でしょうか?

名づけずに見ている。これが第一の関門ですが、これはコメントとしてはっきりしています。

> 自分で経験してみれば、あなたはどれほど精神にとって言語化しないこと、事実に名前をつけないことが難しいかを見ることになるでしょう。それはある感情をもったとき、その感情を名づけないままひとつの事実として純粋に見つめることができるかということです。あなたが感情をもち、それを名づけずにその最後まで実際に追うことができれば、あなたは自分にとても不思議なことが起こっているのに気づくでしょう。現状では精神は事実にアプローチするのに意見や、価値観や、評価や、否認や受容を伴っています。それがあなたがしていることです。

名づけることなしに見ていることは困難だと言われればそうですが…

> ここに感情があります。それは事実です。精神はその事実になんらかの用語や、意見や、評価や、非難がましい態度をもってアプローチします。それらは死んだものです。理解できますか? それらは死んでいるものです。何の価値もありません。それらはただの記憶、その事実のうえで働く記憶です。
>
> 精神は事実に死んだ記憶によってアプローチします。そのため事実は精神の上で働けません。しかしその精神が価値づけをせず、評価も非難も受容も同一化もせずにただ観察すれば、あなたはその事実それ自体が途方もない活力をもっているのを発見するでしょう。なぜならそれは新しいからです。新しいものは古いものを追い払えます。ゆえに、そこに妬まないようにしようとする奮闘はなく、妬みの完全な終止があります。力強さと活力をもっているのはその事実であって、その事実についてのあなたの評価や意見ではありません。その事実をまっすぐに貫いて、その最初から最後までを知ることが気づきのプロセスの全体です。
どうしても名づける前の嫉妬の感情の噴出に気づく! その時何が起こるかわかりませんが、それこそが多分唯一の入口でしょう。ここから先に進みましょう。

> Bombay 8th Public Talk 28th March 1956


[25613] Re:[25612] 他者 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/08(Sun) 14:05  

>  ここは読者にとって一番わかりにくい部分ではなかろうか。
>
>
> >私がいつもあなたを対象として測り、あなたのようであろうと苦闘しているなら、その時は私は、私のあるがままを自分自身で否定しているのです。したがって私は幻想をつくり出しているのです。私が自分自身を分析し、自分についての知識に少しづつ加えたり、国家、救世主あるいはイデオロギーの何であろうが、外観の何かに同一化するときと丁度同じように、比較はどんな形であれ、より大きな幻想とより多くの惨めさに導くという事を理解するとき ― そのような過程はすべてより大きな順応、従ってより大きな葛藤に導くだけであることを理解するとき ― このすべてを見るとき私はそれを完全に捨てます。その時私の心はもはや求めてはいません。これを理解することは非常に重要です。その時心はもはや模索、捜索、探索していません。これは心があるがままの物事に満足しているという意味ではなく、そのような心は幻想を持たないのです。そのような心はその時まったく違った次元の中に移ることができます。
>
> ここで「次元」ということばが出てきた。
>
> >私たちが通常その中で生きている次元、苦痛、快楽、恐怖である毎日の生は、心を条件付け、心の性質を制限していて、そして苦痛、快楽、恐怖が去ったときは(それはもはや喜びを持たないという意味ではありません。喜びは快楽とは全く異なる何かです) ― そのとき心は葛藤のない、「他者」の感覚のない、異なる次元の中で機能します。
>
> ここでは「他者」となっているが、他のところでは「他者意識」(十菱)「他アザーネス」(大野)となっている。
>
> 異なる次元の中で機能する?
>
> >比較し、測ることを捨てる時、心は別の次元に入ると。
> ?
>
> >  言葉の上ではただここまで来ることができるだけです。向こうにあるものは言葉にできません。なぜなら言葉はそのものではないからです。今までは記述し、説明することができましたが、言葉や説明は扉を開けることはできません。扉を開くのは日々の気づきと注意です ― どのように話すか、何を言うか、どのように歩くか、何を考えるかについての気づきです。それは部屋を掃除し、整理しておくのに似ています。部屋を整理しておくことはある意味で重要ですが、しかし別の意味では全く重要ではありません。部屋に秩序は無ければなりませんが、しかし秩序は扉や窓を開かないでしょう。扉を開くのは意欲や欲望ではありません。あなたはどうしてもあの別のものを招くことはできません。
>
> あの別のもの?ここの文章は意味がわからない。
>
> >あなたができるすべては部屋に秩序を保つことです。それはそれ自体で美徳であり、それがもたらすもののためではありません。正気で、合理的で、秩序正しくあること。その時おそらく、幸運なら、窓が開き、そよ風が入ってくるでしょう。あるいは入らないかもしれません。それはあなたの心の状態に依ります。そしてその心の状態は自分自身によってのみ理解されることができます。それを見守り、そして決してそれを形作ろうとせず、味方せず、反対せず、同意せず、正当化せず、非難せず、判断しないことによって ― それは何の選択もなしに見守ることを意味します。そしてこの無選択の気づきからたぶん扉は開くでしょう。そして葛藤も時間もないあの次元が何か知るでしょう。
>
> 葛藤のないあの次元?
>
> >葛藤がない。時間がない。それは実現するように思いますが、そして日常生活もできると思いますが、しかし全的な気付き、あるいは全注意の位置づけがよくわからない。何か超常的、神秘的に感じる気がします。母親の幼児に対する気配り、注意ならわかりますが。皆さんのご意見を聴きたいものです。
>
> クリシュナムルティは、ここに来て思わせぶりな言葉遣いをしています。
> 別なもののあの次元と言ったところで一般の人には何のことかわからないでしょう。
>
> > (3章 終わり)


ここに出てくる幾つかの無明さんのコメントの気持ちはわかります。
どうしてもここを分かって価値あるものか、そうでないのか、そうでなければ何があるのかを掴まなければなりません。

ちょっと時間をいただいて整理してみましょう。


[25612] 他者 投稿者:無明 投稿日:2018/07/08(Sun) 10:51  

 ここは読者にとって一番わかりにくい部分ではなかろうか。


>私がいつもあなたを対象として測り、あなたのようであろうと苦闘しているなら、その時は私は、私のあるがままを自分自身で否定しているのです。したがって私は幻想をつくり出しているのです。私が自分自身を分析し、自分についての知識に少しづつ加えたり、国家、救世主あるいはイデオロギーの何であろうが、外観の何かに同一化するときと丁度同じように、比較はどんな形であれ、より大きな幻想とより多くの惨めさに導くという事を理解するとき ― そのような過程はすべてより大きな順応、従ってより大きな葛藤に導くだけであることを理解するとき ― このすべてを見るとき私はそれを完全に捨てます。その時私の心はもはや求めてはいません。これを理解することは非常に重要です。その時心はもはや模索、捜索、探索していません。これは心があるがままの物事に満足しているという意味ではなく、そのような心は幻想を持たないのです。そのような心はその時まったく違った次元の中に移ることができます。

ここで「次元」ということばが出てきた。

>私たちが通常その中で生きている次元、苦痛、快楽、恐怖である毎日の生は、心を条件付け、心の性質を制限していて、そして苦痛、快楽、恐怖が去ったときは(それはもはや喜びを持たないという意味ではありません。喜びは快楽とは全く異なる何かです) ― そのとき心は葛藤のない、「他者」の感覚のない、異なる次元の中で機能します。

ここでは「他者」となっているが、他のところでは「他者意識」(十菱)「他アザーネス」(大野)となっている。

異なる次元の中で機能する?

>比較し、測ることを捨てる時、心は別の次元に入ると。


>  言葉の上ではただここまで来ることができるだけです。向こうにあるものは言葉にできません。なぜなら言葉はそのものではないからです。今までは記述し、説明することができましたが、言葉や説明は扉を開けることはできません。扉を開くのは日々の気づきと注意です ― どのように話すか、何を言うか、どのように歩くか、何を考えるかについての気づきです。それは部屋を掃除し、整理しておくのに似ています。部屋を整理しておくことはある意味で重要ですが、しかし別の意味では全く重要ではありません。部屋に秩序は無ければなりませんが、しかし秩序は扉や窓を開かないでしょう。扉を開くのは意欲や欲望ではありません。あなたはどうしてもあの別のものを招くことはできません。

あの別のもの?ここの文章は意味がわからない。

>あなたができるすべては部屋に秩序を保つことです。それはそれ自体で美徳であり、それがもたらすもののためではありません。正気で、合理的で、秩序正しくあること。その時おそらく、幸運なら、窓が開き、そよ風が入ってくるでしょう。あるいは入らないかもしれません。それはあなたの心の状態に依ります。そしてその心の状態は自分自身によってのみ理解されることができます。それを見守り、そして決してそれを形作ろうとせず、味方せず、反対せず、同意せず、正当化せず、非難せず、判断しないことによって ― それは何の選択もなしに見守ることを意味します。そしてこの無選択の気づきからたぶん扉は開くでしょう。そして葛藤も時間もないあの次元が何か知るでしょう。

葛藤のないあの次元?

>葛藤がない。時間がない。それは実現するように思いますが、そして日常生活もできると思いますが、しかし全的な気付き、あるいは全注意の位置づけがよくわからない。何か超常的、神秘的に感じる気がします。母親の幼児に対する気配り、注意ならわかりますが。皆さんのご意見を聴きたいものです。

クリシュナムルティは、ここに来て思わせぶりな言葉遣いをしています。
別なもののあの次元と言ったところで一般の人には何のことかわからないでしょう。




> (3章 終わり)




[25611] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/07/08(Sun) 10:04  

松本恵一訳「自己の変容」
かって読書会で、さんざんやってきた内容です。
気づきについて
気づきのプロセス
条件付けの解除。

いっていることは「1個」しかありません。


[25610] Re:[25609] Timeless Stillness より 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/07(Sat) 08:44  

>  参考になるかもしれません。引用します。

どうもありがとうございました。実に適切な引用をしてくださって、目が開けそうです。

最初の「気づきのプロセス」は私には丁寧なかつ完全な気付きの記述であり、かつ実践の手引き書に見えます。これなら大抵の人が実践できそうです。素晴らしいトークです。

後の「気づきについて」と「条件付けの解除」はより難しい。今日は出かけるので、ゆっくり読ましていただきます。

> 気づきのプロセス
>
> Q:あなたは気づきを通してだけ変容の可能性があるとおっしゃいました。気づきとは何を意味するのでしょうか?
>
> クリシュナムルティ:これは非常に複雑な問題です。あなたがこれを心から聴き、一歩一歩最後まで我慢してついてくるなら、私は何が気づくことなのかの輪郭を描いてみましょう。聴くことは私の言う言葉を追うだけではなくて、そこで描写されたことを実際に経験することです。それは私が話すのを聴いて、リアルタイムであなたの精神の作動する様子を見つめることを意味します。話されていることを追っているだけなら、あなたは精神を見張って注意深く気づいてはいません。話をただ追うだけということは、ガイドブックを読んでいるあいだに風景が通り過ぎるのに気づかないようなものです。しかし聴きながら自分の精神を見張っていれば、その描写は意味をもちます。そしてあなたは気づきが何を意味するかを自分で発見するでしょう。
>
> 気づきとは何を意味するのでしょう。最もわかりやすいレベルから始めましょう。あなたは鳴り続ける騒音に気づいています。車や鳥、木、電灯、周りに座っている人々、静かな空、風のないことに気づいています。それに全部気づいています。そうではないですか? 騒音や歌を聴くとき、また押されている荷車といったものを見るとき、聴いたものや見たものは精神によって翻訳され、評価されます。それがあなたがしていることではないでしょうか。
>
> どうかゆっくりとついてきてください。それぞれの経験、それぞれの反応はあなたの背景、あなたの記憶にしたがって解釈されます。初めて聴くノイズであれば、それが何の音であるか分からないでしょう。でも前に何十回も聴いたことがあれば、精神は即座にそれを解釈します。それが我々が思考と呼んでいるプロセスです。ある特定のノイズへのあなたの反応が荷車が押されているというものです。それは一つの気づきの形です。
>
> あなたは色に気づきます。さまざまな顔、さまざまな態度、表現、偏見といったものに気づきます。そしてあなたが完全に油断なく見張っていれば、それらにあなたがどう反応しているかにも、表面的にだけでなくより深いところで反応していることに気づきます。あなたは存在のそれぞれのレベルにおいてある価値観や観念、動機や衝動をもっています。それらすべての意識が気づきの一部分をなしています。あなたは何が良いか何が悪いか、何が正しく何が間違いかを判断します。その中で育った教育や文化の背景にしたがって非難したり評価したりします。この全てを見ることが気づきの一部です。違うでしょうか?
>
> それではもう少し先へ進みましょう。あなたが自分が貪欲で暴力的で妬み深いということに気づくと何が起きますか? 妬みを取り上げてみましょう。自分が妬み深いことに気づいていますか? どうか私と一緒に一歩一歩進んでください。そして決まったやり方[公式]にしたがっているのではないことを心に留めておいて下さい。これを公式化すれば、すべての意味を失ってしまうでしょう。私は気づきのプロセスを包み拡げています。しかしたんにそれを心で描写することによって学ぶだけなら、今いる場所に居つづけることになります。それに反し、自分が条件づけられているのを見始めれば――それは私が今説明していることに、リアルタイムであなた自身の精神の作動に気づくということですが――あなたは実際に変容が可能になる地点にやってくることになります。
>
> そうやってあなたは気づきます。外の物事とそれらへ解釈にだけでなく、[無意識の]妬みにも気づき始めたのです。では自分自身の妬みに気づいたとき何が起こりますか? それを非難するのではないでしょうか? あなたはそれは間違っている、妬んではいけない、愛するべきであると言います。それは理想です。事実はあなたが妬んでいるということです。一方理想はあなたがそうあるべきものです。理想の追求のなかであなたは二元性を作り出します。そこには絶え間ない葛藤があり、あなたはその葛藤に捕われます。
>
> 私が描写しているプロセスにリアルタイムで気づいていますか? そこにはただひとつのこと、あなたが妬み深いということがあります。その他のもの、その理想は無意味です。それは現実のものではありません。そして精神が理想から自由であること、反対物から自由であることは精神にとって非常に難しいことです。なぜなら特定の文化の伝統を通して何世紀にもわたり、我々は英雄とその実例を、完全な人間の理想像を受け入れるように言われて、それに向かって奮闘してきたからです。それが我々が訓練されて来たことです。我々は妬みを妬まないことに変えたいと思います。しかし決してそれを変える方法を発見できません。そして終わりのない葛藤に捕らわれます。
>
> さて、精神が自分が妬み深いことに気づいた時、まさにその妬み深いという言葉は非難的です。これについて来ていますか? その感情のまさにそのネーミングが非難がましいのです。しかし精神は言葉によってしか考えることができません。一つの感情がわき起こり、それとともにある言葉が定義されます。そしてその感情は決してその言葉から独立できません。妬みのような感情があるとき、そこに名づけがあります。それであなたはいつも新しい感情に古い観念や蓄積された伝統によってアプローチするのです。感情はいつも新しいのにいつも古い用語に翻訳されます。
>
> では、精神は妬みのような感情を名づけずに新しいものとして来たらしめることができるでしょうか? その感情の名づけそのものが、それを捕まえて古い枠組みに入れることでそれを古いものにしています。それでは精神は感情を名づけず、名前で呼ぶことによって翻訳せず、その結果非難したり受け入れたりせずにその感情を事実としてただ観察することが可能でしょうか?
>
> 自分で経験してみれば、あなたはどれほど精神にとって言語化しないこと、事実に名前をつけないことが難しいかを見ることになるでしょう。それはある感情をもったとき、その感情を名づけないままひとつの事実として純粋に見つめることができるかということです。あなたが感情をもち、それを名づけずにその最後まで実際に追うことができれば、あなたは自分にとても不思議なことが起こっているのに気づくでしょう。現状では精神は事実にアプローチするのに意見や、価値観や、評価や、否認や受容を伴っています。それがあなたがしていることです。
>
> ここに感情があります。それは事実です。精神はその事実になんらかの用語や、意見や、評価や、非難がましい態度をもってアプローチします。それらは死んだものです。理解できますか? それらは死んでいるものです。何の価値もありません。それらはただの記憶、その事実のうえで働く記憶です。
>
> 精神は事実に死んだ記憶によってアプローチします。そのため事実は精神の上で働けません。しかしその精神が価値づけをせず、評価も非難も受容も同一化もせずにただ観察すれば、あなたはその事実それ自体が途方もない活力をもっているのを発見するでしょう。なぜならそれは新しいからです。新しいものは古いものを追い払えます。ゆえに、そこに妬まないようにしようとする奮闘はなく、妬みの完全な終止があります。力強さと活力をもっているのはその事実であって、その事実についてのあなたの評価や意見ではありません。その事実をまっすぐに貫いて、その最初から最後までを知ることが気づきのプロセスの全体です。
>
> Bombay 8th Public Talk 28th March 1956


[25609] Timeless Stillness より 投稿者:宮啓 投稿日:2018/07/06(Fri) 19:43  

 参考になるかもしれません。引用します。


気づきのプロセス

Q:あなたは気づきを通してだけ変容の可能性があるとおっしゃいました。気づきとは何を意味するのでしょうか?

クリシュナムルティ:これは非常に複雑な問題です。あなたがこれを心から聴き、一歩一歩最後まで我慢してついてくるなら、私は何が気づくことなのかの輪郭を描いてみましょう。聴くことは私の言う言葉を追うだけではなくて、そこで描写されたことを実際に経験することです。それは私が話すのを聴いて、リアルタイムであなたの精神の作動する様子を見つめることを意味します。話されていることを追っているだけなら、あなたは精神を見張って注意深く気づいてはいません。話をただ追うだけということは、ガイドブックを読んでいるあいだに風景が通り過ぎるのに気づかないようなものです。しかし聴きながら自分の精神を見張っていれば、その描写は意味をもちます。そしてあなたは気づきが何を意味するかを自分で発見するでしょう。

気づきとは何を意味するのでしょう。最もわかりやすいレベルから始めましょう。あなたは鳴り続ける騒音に気づいています。車や鳥、木、電灯、周りに座っている人々、静かな空、風のないことに気づいています。それに全部気づいています。そうではないですか? 騒音や歌を聴くとき、また押されている荷車といったものを見るとき、聴いたものや見たものは精神によって翻訳され、評価されます。それがあなたがしていることではないでしょうか。

どうかゆっくりとついてきてください。それぞれの経験、それぞれの反応はあなたの背景、あなたの記憶にしたがって解釈されます。初めて聴くノイズであれば、それが何の音であるか分からないでしょう。でも前に何十回も聴いたことがあれば、精神は即座にそれを解釈します。それが我々が思考と呼んでいるプロセスです。ある特定のノイズへのあなたの反応が荷車が押されているというものです。それは一つの気づきの形です。

あなたは色に気づきます。さまざまな顔、さまざまな態度、表現、偏見といったものに気づきます。そしてあなたが完全に油断なく見張っていれば、それらにあなたがどう反応しているかにも、表面的にだけでなくより深いところで反応していることに気づきます。あなたは存在のそれぞれのレベルにおいてある価値観や観念、動機や衝動をもっています。それらすべての意識が気づきの一部分をなしています。あなたは何が良いか何が悪いか、何が正しく何が間違いかを判断します。その中で育った教育や文化の背景にしたがって非難したり評価したりします。この全てを見ることが気づきの一部です。違うでしょうか?

それではもう少し先へ進みましょう。あなたが自分が貪欲で暴力的で妬み深いということに気づくと何が起きますか? 妬みを取り上げてみましょう。自分が妬み深いことに気づいていますか? どうか私と一緒に一歩一歩進んでください。そして決まったやり方[公式]にしたがっているのではないことを心に留めておいて下さい。これを公式化すれば、すべての意味を失ってしまうでしょう。私は気づきのプロセスを包み拡げています。しかしたんにそれを心で描写することによって学ぶだけなら、今いる場所に居つづけることになります。それに反し、自分が条件づけられているのを見始めれば――それは私が今説明していることに、リアルタイムであなた自身の精神の作動に気づくということですが――あなたは実際に変容が可能になる地点にやってくることになります。

そうやってあなたは気づきます。外の物事とそれらへ解釈にだけでなく、[無意識の]妬みにも気づき始めたのです。では自分自身の妬みに気づいたとき何が起こりますか? それを非難するのではないでしょうか? あなたはそれは間違っている、妬んではいけない、愛するべきであると言います。それは理想です。事実はあなたが妬んでいるということです。一方理想はあなたがそうあるべきものです。理想の追求のなかであなたは二元性を作り出します。そこには絶え間ない葛藤があり、あなたはその葛藤に捕われます。

私が描写しているプロセスにリアルタイムで気づいていますか? そこにはただひとつのこと、あなたが妬み深いということがあります。その他のもの、その理想は無意味です。それは現実のものではありません。そして精神が理想から自由であること、反対物から自由であることは精神にとって非常に難しいことです。なぜなら特定の文化の伝統を通して何世紀にもわたり、我々は英雄とその実例を、完全な人間の理想像を受け入れるように言われて、それに向かって奮闘してきたからです。それが我々が訓練されて来たことです。我々は妬みを妬まないことに変えたいと思います。しかし決してそれを変える方法を発見できません。そして終わりのない葛藤に捕らわれます。

さて、精神が自分が妬み深いことに気づいた時、まさにその妬み深いという言葉は非難的です。これについて来ていますか? その感情のまさにそのネーミングが非難がましいのです。しかし精神は言葉によってしか考えることができません。一つの感情がわき起こり、それとともにある言葉が定義されます。そしてその感情は決してその言葉から独立できません。妬みのような感情があるとき、そこに名づけがあります。それであなたはいつも新しい感情に古い観念や蓄積された伝統によってアプローチするのです。感情はいつも新しいのにいつも古い用語に翻訳されます。

では、精神は妬みのような感情を名づけずに新しいものとして来たらしめることができるでしょうか? その感情の名づけそのものが、それを捕まえて古い枠組みに入れることでそれを古いものにしています。それでは精神は感情を名づけず、名前で呼ぶことによって翻訳せず、その結果非難したり受け入れたりせずにその感情を事実としてただ観察することが可能でしょうか?

自分で経験してみれば、あなたはどれほど精神にとって言語化しないこと、事実に名前をつけないことが難しいかを見ることになるでしょう。それはある感情をもったとき、その感情を名づけないままひとつの事実として純粋に見つめることができるかということです。あなたが感情をもち、それを名づけずにその最後まで実際に追うことができれば、あなたは自分にとても不思議なことが起こっているのに気づくでしょう。現状では精神は事実にアプローチするのに意見や、価値観や、評価や、否認や受容を伴っています。それがあなたがしていることです。

ここに感情があります。それは事実です。精神はその事実になんらかの用語や、意見や、評価や、非難がましい態度をもってアプローチします。それらは死んだものです。理解できますか? それらは死んでいるものです。何の価値もありません。それらはただの記憶、その事実のうえで働く記憶です。

精神は事実に死んだ記憶によってアプローチします。そのため事実は精神の上で働けません。しかしその精神が価値づけをせず、評価も非難も受容も同一化もせずにただ観察すれば、あなたはその事実それ自体が途方もない活力をもっているのを発見するでしょう。なぜならそれは新しいからです。新しいものは古いものを追い払えます。ゆえに、そこに妬まないようにしようとする奮闘はなく、妬みの完全な終止があります。力強さと活力をもっているのはその事実であって、その事実についてのあなたの評価や意見ではありません。その事実をまっすぐに貫いて、その最初から最後までを知ることが気づきのプロセスの全体です。

Bombay 8th Public Talk 28th March 1956



気づきについて

Q:気づきということであなたが何を意味しているのか知りたいのです。あなたは常々気づくことがあなたの本当に教えたいことだとおっしゃっているからです。私はあなたの話を聴き、本を読んで理解しようとしてきました。そしてそれが分かるまでにほど遠くはないと思っています。それが練習できることではないのを知っています。そしてなぜあなたがどんな訓練も反復練習も、そういう体系や規則や手順を断固として認めないのかも理解しています。私はその重要性がわかります。でも一方では気づきが機械的になって、最後には精神が鈍く退屈になってしまいます。私はあなたと一緒に気づきとは何かという問いを最後まで探求できればと思います。あなたはこの言葉に特別の深い意味を与えておられるように見えます。それでもいまだに私は、それは一日中何が起こっているかにに気づいていることだと思っています。私が怒っているとき、私はそれを知っています。私が悲しいとき、私はそれを知っています。ハッピーなときそれを知っています。

クリシュナムルティ:我々は本当に怒りや悲しみや嬉びに気づいているでしょうか。それらに気づくのは、いつもそれが終わってしまってからなのではありませんか。それについてまだ何も知らないかのように、同じスタートラインから始めましょう。断言も独断もせず、曖昧にもせずに。しかしそのなかに非常に深く入っていけば、精神が決して触れたことのない途方もない状態、表面的な気づきの触れたことのない次元が現れるでしょう。では表面から始めましょう。

我々は眼で見ます。五感によって周りのものを知覚します。花の色を、花の上のハチドリを、カリフォルニアの日射しを。様々な微妙に異なる音の響きを。樹の影の深さとその樹そのものの高さを。それらを同じように体で感じます。それはそうした様々な表面的な感覚を知覚する計測器です。これらの知覚がその表面レベルにとどまっていれば、そこで全く混乱はおきないでしょう。あの花、あのパンジー、あのバラがそににある。それがすべてです。それらは知覚されます。そこには好みも比較も、好き嫌いもありません。それらはなんの心理的な関与もないただのものとして我々の前にあります。この表面的な感覚的知覚あるいは気づきについては問題ないでしょうか。それは星や深海といった科学のフロンティアの観察にまで現代技術の計器をつかって拡張できます。

Q:はい。それは分かります。

K:それであなたはそのバラを、全世界とそのなかの人々を、あなたの妻を、星を、海を、山を、微生物を、原子を、中性子を、この部屋を、ドアを、現実にあるものを見ます。では次のステップです。これらについて考えること、あるいはこれらについて感じることはあなたの心理的な応答です。そしてこれを我々は思考とか感情とか呼んでいます。

最初の表面的な気づきは非常に単純なことです。そこにドアがあります。しかしドアの描写はそのドアではありません。そしてあなたがその描写に感情的に巻き込まれているときには、ドアを見ていません。その描写は言葉かも、科学論文かも、強い感情的な反応かもしれませんが、どれもドアそのものではありません。

この正しさを最初から理解していることが非常に重要です。これを理解しないと、さらに混乱することになります。描写は決して描写されたものではありません。でも我々はこの今でさえ、何かを描写しています。そして我々が描写しているものはその描写ではないということを、どうかこの話の間ずっと、このことを心に留めておいて下さい。決して言葉とそれが描写するものとを混同してはいけません。その言葉は決してリアルなものではありません。ですが我々は、気づきの次のステージに入り、そこでそれが私事にふれるものになってその言葉に情緒的になると、容易にそれに夢中になってしまいます。

まずそこに樹や鳥やドアへの表面的な気づきがあり、そしてそれへの反応があります。それが思考であり、感情であり、情動です。そこで、我々がこの反応に気づくとき、それを気づきの第二の深さと呼べるかもしれません。バラへの気づきがあります。そしてバラへの反応への気づきがあります。しばしば我々はバラへの反応に気づいていていません。現実には、バラを見る気づきとそれへの反応を見る気づきは同じ気づきなのです。それはそれは一つの動きであって、それを外側の気づきと内側の気づきと言うことは間違いです。

気持ちが巻き込まれていなければ、視覚的な木への気づきがあるとき、その関係[私と木との結びつき]に分割はありません。しかし木への心理的な反応があれば、その反応は条件づけられた反応であり過去の記憶と経験の反応であって、それが関係を分割します。この反応こそが関係の中で「私」と呼ばれることになるものと「私でないもの」との誕生なのです。これがどのようにしてあなたがあなた自身を世界との関係の中に位置づけるかということです。これがあなたが個人と社会を作り出すやりかたです。

我々は世界をあるがままにではなく、記憶である「私」との様々な関係において見ます。この分割は[現実の]人生と、[心の中で]繁茂していくものすべて――それが精神的存在と呼ばれます――の分割であり、ここからすべての対立と分割が立ち上がるのです。このことにはっきりと気づいていますか?木への気づきがあるときは、そこに[価値]評価はありません。しかし、木への感情的な反応があれば、木が好き嫌いで判断されれば「私」と「私でないもの」の分割が起きます。この「私」は観察されるものとは別のものです。この「私」は関係の中の過去の記憶と過去の経験による反応です。

それに気づいて、何も判断せずに木を観察し、何も判断せずにそれへの反応や反作用を観察できるでしょうか。こうして我々は木を見ることと自分自身を見ることの両方で分割の原理を、「私」と「私でないもの」の原理を根絶します。




条件づけの解除

クリシュナムルティ:あなたがすべてにおいて真剣なら、精神の条件づけを解除することができるかどうかは最も根本的な問題の一つであるにちがいありません。世界のさまざまな地域で、それぞれの文化と社会道徳のなかで、人間がとても深く条件づけられているのが観察されます。人はある線に沿って考え、パターンにしたがって行動し、働いています。

彼は過去の背景を通して現在に関係します。彼はたくさんの知識を培ってきました。彼は何百万年の経験をもっています。教育、文化、社会道徳、宣伝、宗教のすべてが彼を条件づけてきました。そして彼はこれらに対して特定のリアクションをします。そのリアクションは条件づけの別のかたちです。

この条件づけの意味の全体を、それがどのように人々を国家的、宗教的、社会的、言語的に分割しているのかを十分注意深く見なければなりません。その分割は途方もない障壁であり対立と暴力を生み出しました。

完全に平和で創造的に生きようとすれば――我々はまもなくこの「平和」と「創造」という言葉の中に入っていくことになるでしょう――その道を生きようとすれば、この条件づけを精神の表面的、周辺的なものとしてだけでなく、深く潜在的なものとしても理解しなければなりません。この条件づけの全ての構造が露わになるかどうかを発見しなくてはなりません。そしてそれが発見されたとき、それを超えるために何ができるでしょう。

自分が条件づけられているのを観察して「精神の条件づけを解除することは不可能だ」と言えば問題はそれで終わりです。人は決して条件づけから出られないだろうという公式をもって始めれば探求は終わりです。人はすでに抵抗した。そしてその問題に答えた。それで終わりです。そのときはその条件づけをさらに飾り立てることができるだけです。しかしこれにずっと深く入っていって問題の全体に気づいたら、そのときは何をするでしょう。これが非常に真摯な挑戦であって掃いて捨てるようなものでないならどう反応するでしょう。それが命にかかわるような人生にとってきわめて重要なことなら、どう反応するでしょう?

あなたがこの条件づけを発見したとすれば、どうやって発見したのでしょう? 自分自身で観察したのでしょうか、それとも誰かがそれをあなたに言ったのでしょうか? これは本当に極めて重要な質問です。誰かにそう言われて「はい。私は条件づけられています」と言っているのであれば、あなたは助言に反応しているということです。それは現実のことではありません。それは単にあなたが受け入れ、それに同意したという言語上の概念でしかありません。それとあなた自身で発見することとは全く別のことです。自分で発見すれば、それは恐ろしく致命的なものであり、あなたはそこから脱出する道を探す情熱をもつからです。

あなたが探求し、捜索し、その中を見て条件づけられていることを発見したのでしょうか? そうであれば「誰」がそれを発見したのでしょうか?観察者なのか、試験官なのか、分析者なのか?「誰」がその混乱と狂気のすべてを、この条件づけがこの世界に原因をもつことを観察し、考査し、分析しているのでしょうか。「誰」が観察によってこの条件づけの構造とその結果を発見したのでしょうか?

外側と内側で何が起こっているかを観察して――対立、戦争、悲惨、内と外での混乱(外側はその人の一部分です)――をすぐそばで観察して(これが世界中で起こっていることです)私は自分が条件づけられていることを発見しました。この条件づけの結果を見つけました。

そこにその、彼が条件づけられていることを発見した観察者がいます。すると疑問が湧いてきます。その観察者は彼が観察して発見したものと別のものなのか、それは彼自身から分離したものなのか? それが分離したものなら、再びそこで分割があり、そのためどのように条件づけを克服するか、どのようにしてこの条件づけから自由になるか、それについて何をすれば良いかという葛藤が生じます。そこに二つの分離したもの、二つの分離した運動、観察者と観察されるものがあるのかどうかを発見しなけばなりません。

それらは分離しているでしょうか? それとも観察者が観察されたのでしょうか? これを見出すことはとてつもなく重要です。それを見れば考え方の全体が完全に変化します。それは最も根底的な発見であり、その結果、道徳の構造や[内側で続く]途切れることのない知識は自分自身にとって全く違った意味をもつようになります。

あなた自身でこれを発見したのかどうか、それが事実であると言われてきたことを受け入れたのか、それとも「それはそういうものだ」と外側で語る代理人なしに自分自身で発見したのかを見定めることです。それがあなたの発見なら、それはものすごいエネルギーを解放します。それは今まで観察者と観察されるもの分離の間で浪費されてきたものです。

途切れることなく続く知識の連鎖(心理的条件づけ)はエネルギーの浪費です。知識は観察者によって集められてきました。観察者はその知識を使って活動します。しかしその知識は活動から分離したものです。よってここに葛藤があります。そしてこの知識――それが彼の条件づけの本質です――を保持している実体はその観察者なのです。自分でこの基本的な原則を発見しなくてはなりません。それは原則であって、何か固定してとっておけるようなものではありません。それは決して再びあとで尋ねることのできないリアリティーです。

心理学的に言って、この観察者が観察されたというシンプルな事実を発見した精神に何が起こるでしょうか。これが発見されて、高次の自己とか魂とかいう身体から分離したものの概念によって長いこと条件づけられてきた精神の質に何が起きるでしょう?この発見が目的のない自由[何かのための自由ではない自由]への扉を開かないなら、それはいまだにちょっとした知的な思いつきであって、人をどこへも導きません。

しかしそれが実際に発見であり、実際のリアリティであるならそこに自由があるはずです。それは好きなことをする自由や、希望をかなえる自由や、何かになる自由や、決定する自由ではありません。また好きなように考え、望み通りに行動する自由でもありません。自由な精神が選択するでしょうか? 選択はこれかあれかを決定することを意味しています。しかしいったい選択が必要としているものは何でしょう?(どうかみなさん、これは言葉の上だけの声明ではないのです。我々はその中に入っていって、その中で毎日生きなければなりません。そのとき、これのもつ美しさや生命力や情熱や激しさを見出すでしょう)

選択は決定を含意しています。決定は意志の行動です。これをしようかあれをしようかと意志を働かせている実体とは誰でしょう。どうか注意深くついて来てください。観察者が観察されたのなら、もはや何を決定する必要があるでしょうか? 心理的に、選択に基づく何らかの決定があるとき、それは精神が混乱していることを示しています。はっきり理解している精神は選択しません。ただ行動だけがあります。透明さが失われるのは観察者と観察されるものの分割があるときです。


 以上引用


[25608] Re:[25602] 既知からの自由3−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/06(Fri) 12:09  

> [気付き]
>
>  注意は集中と同じものではありません。集中は排除です。注意は、全的な気付きであり、排除ではありません。私たちは大抵、自分の話している事だけでなく、環境、周りの色彩、人々、木の形、雲、水の動きにも気づいていないように思われます。おそらくそれは私たちが自分自身に、自分自身のとるに足らない小さな問題、観念、快楽、追求、野心に非常に関心があるので、客観的に気づいていないからです。しかもなお私たちは気付きに対して多くのことを話します。かつてインドで私は車で旅行していました。お抱え運転手が運転していて、私は隣に座っていたのです。後ろに三人の紳士がいて非常に熱心に気づきを議論し、私に気づきについて質問していました。そして不運にも運転手がよそを見ていた瞬間山羊を轢いてしまったのですが、三人の紳士はなお気付きを議論していたのです ― 山羊を轢いてしまったことに全く気付かないで。この注意の欠如が、気付いていようとしていたその紳士たちに指摘されたとき、彼らは非常に驚きました。

議論したりしていると他のことには気づかない。それはそうです。でも女性の悲鳴や消防車のサイレンには気づきます。これらは特に注意を喚起する音ですから。他の並みの音では気づかない。そこらは私たちはよく知っています。排除ではない全的な気付きとなるとはてな?、となります。

>  そして私たちの大抵にとって、それは同じです。私たちは外部の物事あるいは内部の物事に気づいていません。もし小鳥、ハエ、葉、あるいは複雑さのすべてを持つ人間の美を理解したいなら、自分のすべての注意を注がねばならず、それは気づきです。そして自分の全部の注意を注ぐことができるのはあなたが気遣うときのみです。それはあなたが理解することを本当に愛しているということを意味します ― その時あなたは自分のハートと心のすべてを、見いだすことに注ぎます。

そんなふうに私はだれを愛しているだろう?・・・

>  そのような気付きは部屋の中で蛇と住んでいるようなものです。蛇のあらゆる動きを見守ります。それが立てる微かな音にも、とても、とても敏感です。そのような注意の状態は全体的なエネルギーです。そのような気付きの中で自分自身の全体が、瞬時に明らかにされます。

蛇を怖がっているのわわかるが、上の文の気づかい、愛はどこにあるのだろう? これは関係のない話なのだろうか? 赤ん坊を気遣っている母親の注意の方がまだしもよく分かるのですが。

>  自分自身を非常に深く見ているとき、より深く進むことができます。「より深く」という言葉を使うとき比較しているのではありません。私たちは比較の中で考えます ― 深いと浅い、幸福と不幸、私たちは常に測り、比較しています。さて浅いまたは深いというそんな状態が自分自身の中にあるでしょうか? 「私の心は浅く、取るに足らず、狭く、限られている」と言うとき、どうやってこれら全てのことを知るのでしょうか? なぜなら自分の心をあなたの、より柔軟で、より能力があり、より聡明で油断のない心と比較したからです。私は自分の取るに足らなさを比較なしに知るでしょうか? 空腹なとき、その空腹を昨日の空腹と比べはしません。昨日の空腹は観念です、記憶です。
>
>  私がいつもあなたを対象として測り、あなたのようであろうと苦闘しているなら、その時は私は、私のあるがままを自分自身で否定しているのです。したがって私は幻想をつくり出しているのです。私が自分自身を分析し、自分についての知識に少しづつ加えたり、国家、救世主あるいはイデオロギーの何であろうが、外観の何かに同一化するときと丁度同じように、比較はどんな形であれ、より大きな幻想とより多くの惨めさに導くという事を理解するとき ― そのような過程はすべてより大きな順応、従ってより大きな葛藤に導くだけであることを理解するとき ― このすべてを見るとき私はそれを完全に捨てます。その時私の心はもはや求めてはいません。これを理解することは非常に重要です。その時心はもはや模索、捜索、探索していません。これは心があるがままの物事に満足しているという意味ではなく、そのような心は幻想を持たないのです。そのような心はその時まったく違った次元の中に移ることができます。私たちが通常その中で生きている次元、苦痛、快楽、恐怖である毎日の生は、心を条件付け、心の性質を制限していて、そして苦痛、快楽、恐怖が去ったときは(それはもはや喜びを持たないという意味ではありません。喜びは快楽とは全く異なる何かです) ― そのとき心は葛藤のない、「他者」の感覚のない、異なる次元の中で機能します。

比較し、測ることを捨てる時、心は別の次元に入ると。

>  言葉の上ではただここまで来ることができるだけです。向こうにあるものは言葉にできません。なぜなら言葉はそのものではないからです。今までは記述し、説明することができましたが、言葉や説明は扉を開けることはできません。扉を開くのは日々の気づきと注意です ― どのように話すか、何を言うか、どのように歩くか、何を考えるかについての気づきです。それは部屋を掃除し、整理しておくのに似ています。部屋を整理しておくことはある意味で重要ですが、しかし別の意味では全く重要ではありません。部屋に秩序は無ければなりませんが、しかし秩序は扉や窓を開かないでしょう。扉を開くのは意欲や欲望ではありません。あなたはどうしてもあの別のものを招くことはできません。あなたができるすべては部屋に秩序を保つことです。それはそれ自体で美徳であり、それがもたらすもののためではありません。正気で、合理的で、秩序正しくあること。その時おそらく、幸運なら、窓が開き、そよ風が入ってくるでしょう。あるいは入らないかもしれません。それはあなたの心の状態に依ります。そしてその心の状態は自分自身によってのみ理解されることができます。それを見守り、そして決してそれを形作ろうとせず、味方せず、反対せず、同意せず、正当化せず、非難せず、判断しないことによって ― それは何の選択もなしに見守ることを意味します。そしてこの無選択の気づきからたぶん扉は開くでしょう。そして葛藤も時間もないあの次元が何か知るでしょう。

葛藤がない。時間がない。それは実現すように思いますが、そして日常生活もできると思いますが、しかし全的な気付き、あるいは全注意の位置づけがよくわからない。何か超常的、神秘的に感じる気がします。母親の幼児に対する気配り、注意ならわかりますが。皆さんのご意見を聴きたいものです。

> (3章 終わり)


[25607] Re:[25604] [25601] [25596] 見る 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/05(Thu) 11:23  

> > > > 1日24時間見るというのは、もちろん誇張した言い方ですが、そのぐらい自分の思考を見張れということです。いつ暴君になるかわからない。いつエゴが顔出すか。イエスの「寝ずの番人」をする。
> > >
> > > <見る、聞くはいつも行われている気がするんですが…
> > >
> > > あの〜、ここのところを確認しておきましょう。
> > > 一般の人の見る、聞くの対象は「外部」です。
> > > 人の話を聞く、鳥の声を聞く。対象は「人」「鳥」。
> > > 全くの当たり前の話です。
> > >
> > > 私たちが話し合っている「見る」「聞く」の対象は「内部」です。
> > > 内部というのは、もちろん私たちの心です。精神世界でいうところの心を見る。(観る)。いわば内観のこと。座禅瞑想というのは、内面で動く心を見るということ。
> > >
> > > 具体的にいうと、鳥の声をを聞く、というとき、鳥の声を聞くと同時に、内部、つまり心に起きる反応を見るということです。

鳥の鳴き声は外部から発している知るが、私たちが見ているのは脳内で意識に浮かんだ、目と頭脳が画像処理をしたノウハウのいっぱい詰まった情報です。心の動き、思考の反応も頭の中に浮かぶので、対ベルギー戦で、日本が2点取った時は、「ええっ! どうなってんの」と仰天したのが外部も内部もなく現場でわかるので、それを同時に感じることなんかあったり前田のクラッカーで、内部とか外部と何でごちゃどちゃ言うのかわからない。

以下略。ここから出発しませんか?


[25606] Re:[25603] [25594] [25587] 既知からの自由 3-1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/05(Thu) 10:46  

> > > [意識・生の全体性]

省略

> > ここには引っかかるところはありません。そのままに聞いています。
>
> わたしには大いにあります。が、ここはそのままにしましょう。

はい、そうしましょう。

> > >  私たちは意識の一つの小さな片隅に没頭しており、それが私たちの生の殆どです。残りは、それを私たちは潜在意識と呼びますが、そのすべての動機、その恐怖、その人種的遺伝的素質を含めて、どうやってその中に入るか知りさえしません。さてお尋ねします、いったい潜在意識というようなものはあるのでしょうか? 私たちはその言葉を好き勝手に使います。私たちはそのようなものが有ることを受け入れ、精神分析者と心理学者のすべての専門的なわけの分からない言い回しが言葉の中にしみこんでいます。しかしそのようなものは有るのでしょうか? そしてそれにこのような途方もない重要性を与えるのは何故でしょうか? 私にはそれは意識的な心と同じように取るに足らない愚かなものだと思われます ― 狭く、頑迷で、条件づけられ、心配しまた卑劣なものであると思われます。
>
> 潜在意識の話はいりません。
> >
> > 意識には近く、感覚、思考、感情が浮かんでは去り、また多様な違った何かが浮かび、去る。この意識は人間の意識であって、主観的に知っているし、他者もほぼ同じような意識を持つという事は関係を通じて確かなことだとして疑わない。
>
> 同じような意識を持つ?
> 同じ人間なら誰でも思い悩む。それはそうですが、人間一人一人考えかた、感じ方が違います。それが「個性」です。

個性というか、差異ぐらいでいいことが多い気がする。

> >  で、この意識を通じて心の入力を知ることができます。
>
> 入力?

入力と出力の両方と書いた気にでいたのだが、入力だけになっていた。呆けたな。
入力は景色や人の言ったことなど。出力は反応や解釈等。これが意識に浮かぶのでわかる。

> >しかし心の中身や構造は知ることができず、推察し仮説を立てることしか現在はできません。したがって潜在意識は仮説です。そして隠れている部分思いも狭く、頑迷で条件付けられ、心配しまた卑劣であるようだという事にはまあ、そう思われます。
>
> ですから潜在意識の話はやめましょう。私たちが問題にしてるのは「表面意識」です。「顕在意識」ともいう。何を思っているかは、表に出さないとわかりません。

はい、そうしましょう。

> > >  そこで単にその一部や断片にではなく、意識の全部の場にすっかり気づいていることは可能でしょうか? 全体に気づいていることができるなら、その時は部分的な注意ではなく、全体の注意でずっと機能しているのです。これを理解することが重要です。何故ならあなたが意識の場全体にすっかり気づいているとき、摩擦がないからです。摩擦があるのはあなたが、思考、感情、行為のすべてである意識を、異なったレベルに分ける時だけです。
>
> で、意識全体に気付いているというのはどういうことですか。わたしはジャングルの例を出しますがそういうことでいいですか?

さあ、それはよくわかりません。そう少しKの話しを聴きたいと思います。

> > 意識全体を眺めることができるか? そのように見ている時摩擦がない? 意識を異なった意識に分ける時摩擦がある??
> >  意識と無意識の間の対立というようなことを言っているのだろうか? よくわからないので先を読みましょう。
>
>
> はい。先に進みましょう。
> >
> > >  私たちは断片的に生きています。事務所で一つのものであり、家庭ではもう一つのものです。民主主義について語り、心の中では独裁的です。隣人を愛することについて語り、でも戦争で彼を殺します。他の部分と無関係に働き、見ている一部があります。自分自身の中のこのバラバラな存在に気づいていますか? 
>
> いえ、気付いていません。
>
> >そしてそれ自身の機能、それ自身の思考を断片にしてしまった頭脳にとって ― そんな頭脳にとって全体の場に気づいていることは可能でしょうか? 意識の全体を完全に、全部見ることは、全的な人間であることを意味しますが、それは可能でしょうか?
>
> さあ、わかりません。
> >
> > 心の中に断片化したいくつかの構造があり、職場や仕事場で使いわけているので矛盾が生じている?、そうかもしれません。そんな頭脳に全体に気づいていることことができるでしょうか?と。
> >
> > >  もし、途方もない複雑さ全てを含めて「私」、自己、の全構造を理解しようとするために、一層づつ覆いを取り、あらゆる思考、感情、動機を調べながら、一歩一歩進むならば、分析的過程に巻き込まれてしまい、数週間、数か月、数年かかるかも知れません ― そして自分自身を理解する過程の中に時間を許すなら、あらゆる形の歪みを認めざるを得ません。なぜなら自分は複雑な存在で、それに連鎖的に作用しているあらゆる種類の圧力、緊張、影響を受け、動き、生きていて、もがき、欲し、拒んでいるからです。それであなたは自分でこれは道ではないことを見いだすでしょう。自分自身を見る唯一のやり方は全的で、即座で、時間を伴わないことを理解するでしょう。
>
> 即座?時間ではなく。
>
> >そして心が断片化されていないときのみ自分自身の全体を見ることができます。全体の中に見るものが真理です。
>
> ?
> >
> > 言っていることがわかってきました。断片化した複雑な心で見る、分析的に調べるのではだめだと言っています。心が断片化していないときにのみ、自自分自身の全体を見ることができると。
> >
> > >  さてそうすることが出来るでしょうか? 私たちの大部分はできません。なぜなら決して問題にそんなに真剣に接近しないし、決して本当に自分自身を見ないからです。決してしません。他人を非難し、物事を言い逃れ、あるいは見ることを恐れています。しかし全的に見るとき、あなたは自分の全部の注意を、自分の全存在、自分自身のあらゆる物、自分の目、自分の耳、自分の神経を傾注するでしょう。そしてその時恐怖の余地、矛盾の余地はなく、したがって葛藤はありません。
>
> ?
> 葛藤がない?

心がバラバラになっていればその間で葛藤、対立があります。統合されていれば葛藤・対立はない。

> > ここでは全体的に見るという事をKは説いてくれました。しかし断片的に生きている私たちにはできそうもありません。どうなりますか?
> >
> > > (続く)
>
> 先に行きましょう。


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