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[25971] Re:[25967] 既知からの自由13−1 投稿者:無明 投稿日:2018/10/06(Sat) 20:49  

> 13章−1 [思考とは何か?] [観念と行為] [挑戦]
>
> では思考が何であるか、注意し、論理的に、正気で(日々の仕事のために)働かさなければならない思考の意義と、全く意義を持たない思考という問題を調べましょう。その二種類のものを知ることなしには、思考が触れることが出来ないずっと深い何かを理解することは、とうてい出来ません。そこで思考とは何か、記憶とは何か、どのように思考は始まるのか、どのように思考はあらゆる行為を条件づけるのか、というこの全体の複雑な構造を理解してみましょう。そしてこの全てを理解する中で、思考が決して発見したことのない何か、思考がそれへの扉を開くことが出来ない何かに、もしかすると偶然出会うかもしれません。

あなたは今まで空間に出会うとか、気づきに出会うとか、わけのわからないことをいって読者を煙に巻いている。
偶然出会う?ありえない。
>
>  なぜ思考が私達のあらゆる生活の中でそんなにも重要になってしまったのでしょうか? ― 観念であり、脳細胞の中の蓄積された記憶に対する反応である思考が。もしかするとあなた方の多くはかつてそのような質問をしたことさえないか、もしあるなら「思考はほとんど重要ではない ― 重要なのは感情だ」と言ったのかも知れません。しかし私はその二つをどうやって分けることが出来るのかわかりません。思考が感情に継続性を与えないなら、感情は非常に早く死にます。

感情というのは思考という餌がなければ自然と萎む。花が枯れるように。思考が継続性ではなく、思考の間を開ければおのずと感情は増幅しない。「思い切る」とはそういうことだ。

>そこでなぜ日常生活の中で、辛い単調な、退屈な、おびえた生活の中で、思考はそのような過度の重要性を帯びてきたのでしょうか? 私が自分に問うているように、自分に問うて下さい ― なぜ人は思考の奴隷なのでしょうか? ― ずるい、賢い、組織することが出来、物事を始めることが出来、とても多くの発明をし、とても多くの戦争を起こし、とても多くの恐怖、とても多くの心配をつくってきた思考、永久にイメージをつくり続け、自分自身の尾を追い続ける思考 ― 昨日の快楽を楽しみ、現在に、そしてまた未来にも、その快楽に継続性を与えている思考 ― 常に活動的で、おしゃべりで、動いており、組み立てており、取り去っており、加えており、推測している思考の奴隷なのでしょうか?

ようするに思考に振り回されるのではなく、思考を使う側に回るということ。そのためには常に思考を客観的に見る態度が必要。
どのように思考に気づいているかにつながる。
>
>  観念は私達には行為よりはるかに重要になっています ― 観念はあらゆる分野で知識人によって本の中でそれほど如才なく表現されています。観念がより狡猾でより巧妙であればあるほど、私達は観念とそれが書いてある本をますます崇拝します。私達はそれらの本です。それらの観念です。それほど私達はそれらによってひどく条件付けられています。私達は絶えず観念と理想を議論し、弁証巧みに意見を提出しています。あらゆる宗教は教義や信条や神に到達するための自分の足場を持っています。そして思考の始まりを調査するとき、私達は観念のこの全体系の重要さを問うているのです。私達は行為から観念を分離しています。なぜなら観念は常に過去であり、行為は常に現在ですから ― つまり生は常に現在ですから。私達は生を恐れており、従って過去が、観念として私達にそんなに重要になったのです。

観念は過去ではない。瞬時、瞬時起きて来るものだ。想念、思考は常に想起している。そこを見る。どのように気づいているか。
>
>
>  自分自身の思考の働きをじっと見ること、どのように考え、思考と呼ばれるその反応がどこから生じるかをただ観察することは、本当に途方もなく興味深いことです。

だから瞬時瞬時見るわけです。どのように思考の動きに気づいているか?


>明らかに記憶からです。いったい思考に始まりはあるのでしょうか? 

それはよけいな思考でしょう。

>あるなら、その始まりを ― つまり、記憶の始まりを、なぜならもし記憶がなければ思考はありませんから、見いだすことは出来るでしょうか?

記憶の始まりは想起した瞬間。
>
>  私達はどのように思考が昨日持った快楽を維持し継続性を与えるかを、どのように思考はまた快楽の反対、つまり恐怖と苦痛を維持するか見てきました。それゆえ経験者は、それは思考者ですが、快楽と苦痛であり、また快楽と苦痛を育成する実体なのです。思考者は快楽と苦痛を分離します。思考者は快楽に対する要求そのものの中で、自分が苦痛と恐怖を招いているという事を見ないのです。人間関係の中の思考は常に快楽を要求しており、快楽を、忠実、助ける、与える、支持する、奉仕するというような違う言葉で覆い隠しています、私達はなぜ奉仕することを望むのでしょう? ガソリンスタンドはよいサービスをします。助ける、与える、奉仕するというこれらの言葉は何を意味するのでしょうか? それは一体何なのでしょうか? 美と光と愛らしさに満ちた花は「私は与え、助け、奉仕します」と言うでしょうか? 花はただあります! そしてそれは何もしようとしていないがゆえに、大地を覆います。

そんなよけいなことは考えず、瞬時瞬時見るだけです。少し喋りすぎです。思考者、経験者などとよけいな言葉は
使わないでください。

>  思考は非常にずるく、利口なので、自分の都合のためにあらゆるものを歪めます。思考は快楽への自分の要求の中で自分自身を束縛します。思考は私達の関係全てにおける二重性の育成者です。私達の中に暴力があり、それは私達に快楽を与えますが、また平和への欲求、親切で優しくありたい欲求もあります。これが私達のあらゆる生の中でいつも起きていることです。思考は私達の中のこの二重性、この矛盾を育てるだけでなく、私達が快楽と苦痛として持った無数の記憶もまた蓄積し、そしてこれらの記憶から思考は再生するのです。それゆえ、既に言ったように、思考は過去のものであり、思考は常に古いのです。

瞬時瞬時起きてることは今でしょう。どのように気づいているか。
>
>  あらゆる挑戦に過去の見地から出会うので ― 挑戦は常に新しいのです ― 私達の挑戦との出会いは常に全く不適切でしょう。それゆえ私達は矛盾、葛藤、そしてあらゆる悲惨と悲しみの相続人なのです。私達の小さな頭脳は、それが何をしようが葛藤の中にあります。私達の頭脳が熱望し、模倣し、順応し、抑圧し、昇華し、自分を拡大するためにドラッグを飲もうとも ― 何をしても ― 私達の頭脳は葛藤の状態にあり、争いを生むでしょう。

葛藤が人間を大きく成長させるのです。悩みぬくことが重要。
ここがあなたとスタンスが大きく違っています。いいですか。生まれ葛藤のない人などいないでしょう。問題は葛藤から逃げないで直面することです。向き合う。葛藤と対峙する。その時点で、自分を成長させる糧となる。
>
> (続く)

後記

考えて見ると新しい芽氏と森本氏は、クリシュナムルティの言葉の矛盾に気づいていたので、あまりKの言葉の解説をしなかったようだ。
この両氏は仏教に造詣が深い。クリシュナムルティは 神、仏を思考の産物と言ったが、あえてこれに触れなかった。このことは仏教徒にとって聞き捨てならない一門である。
どのように思考に気づいているか、だけでいい。
それだけで心理的思考は減ってしまう。


[25970] Re:[25966] 渡辺さん健在 投稿者:無明 投稿日:2018/10/06(Sat) 11:41  

>  去った9月27日にKB会があったようです。。
>
>  以下のサイトの、[動画]タグをクリック。
>
>  https://www.youtube.com/user/KrishBohm/videos
>
>
>  この動画の1時間10分時点頃から、観察者(主体)がないこと等の話が出てきます。

彼の話はあくまで仏教の立場からの話。仏教という観点からの彼の人生にとらえ方。あくまで参考。
自分自身にほんとかどうか、事実かどうかを問い続けるのみ。


[25969] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/10/06(Sat) 11:36  

何でこうもクリシュナムルティは思考を目の敵にするのだろうか?
人間は思考なしでは生きられないということがわからないのだろう か?
動物じゃあるまいし。喝だ!
クリシュナムルティは争いの原因を思考などと断定しているが、人間には古代から生きるに必要な「自己防衛本能」があるということだ。
それと神から与えられた思考とをマッチングさせた。
だからこそ現代まで生きながらえてきたのである。

どのように気づくか、どのように考え抜くのか、が問題。
新しい芽氏の言わんとしていることは、これにつきる。

彼曰く、観察者などはどうでもいい。その解釈に明け暮れ、すぐにでも実践しようとしない人がほとんどだ。


[25968] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/06(Sat) 10:44  

13章は思考についての全貌が述べられています。少し長いですが、2回で読みます。


[25967] 既知からの自由13−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/06(Sat) 10:39  

13章−1 [思考とは何か?] [観念と行為] [挑戦]

では思考が何であるか、注意し、論理的に、正気で(日々の仕事のために)働かさなければならない思考の意義と、全く意義を持たない思考という問題を調べましょう。その二種類のものを知ることなしには、思考が触れることが出来ないずっと深い何かを理解することは、とうてい出来ません。そこで思考とは何か、記憶とは何か、どのように思考は始まるのか、どのように思考はあらゆる行為を条件づけるのか、というこの全体の複雑な構造を理解してみましょう。そしてこの全てを理解する中で、思考が決して発見したことのない何か、思考がそれへの扉を開くことが出来ない何かに、もしかすると偶然出会うかもしれません。

 なぜ思考が私達のあらゆる生活の中でそんなにも重要になってしまったのでしょうか? ― 観念であり、脳細胞の中の蓄積された記憶に対する反応である思考が。もしかするとあなた方の多くはかつてそのような質問をしたことさえないか、もしあるなら「思考はほとんど重要ではない ― 重要なのは感情だ」と言ったのかも知れません。しかし私はその二つをどうやって分けることが出来るのかわかりません。思考が感情に継続性を与えないなら、感情は非常に早く死にます。そこでなぜ日常生活の中で、辛い単調な、退屈な、おびえた生活の中で、思考はそのような過度の重要性を帯びてきたのでしょうか? 私が自分に問うているように、自分に問うて下さい ― なぜ人は思考の奴隷なのでしょうか? ― ずるい、賢い、組織することが出来、物事を始めることが出来、とても多くの発明をし、とても多くの戦争を起こし、とても多くの恐怖、とても多くの心配をつくってきた思考、永久にイメージをつくり続け、自分自身の尾を追い続ける思考 ― 昨日の快楽を楽しみ、現在に、そしてまた未来にも、その快楽に継続性を与えている思考 ― 常に活動的で、おしゃべりで、動いており、組み立てており、取り去っており、加えており、推測している思考の奴隷なのでしょうか?

 観念は私達には行為よりはるかに重要になっています ― 観念はあらゆる分野で知識人によって本の中でそれほど如才なく表現されています。観念がより狡猾でより巧妙であればあるほど、私達は観念とそれが書いてある本をますます崇拝します。私達はそれらの本です。それらの観念です。それほど私達はそれらによってひどく条件付けられています。私達は絶えず観念と理想を議論し、弁証巧みに意見を提出しています。あらゆる宗教は教義や信条や神に到達するための自分の足場を持っています。そして思考の始まりを調査するとき、私達は観念のこの全体系の重要さを問うているのです。私達は行為から観念を分離しています。なぜなら観念は常に過去であり、行為は常に現在ですから ― つまり生は常に現在ですから。私達は生を恐れており、従って過去が、観念として私達にそんなに重要になったのです。


 自分自身の思考の働きをじっと見ること、どのように考え、思考と呼ばれるその反応がどこから生じるかをただ観察することは、本当に途方もなく興味深いことです。明らかに記憶からです。いったい思考に始まりはあるのでしょうか? あるなら、その始まりを ― つまり、記憶の始まりを、なぜならもし記憶がなければ思考はありませんから、見いだすことは出来るでしょうか?

 私達はどのように思考が昨日持った快楽を維持し継続性を与えるかを、どのように思考はまた快楽の反対、つまり恐怖と苦痛を維持するか見てきました。それゆえ経験者は、それは思考者ですが、快楽と苦痛であり、また快楽と苦痛を育成する実体なのです。思考者は快楽と苦痛を分離します。思考者は快楽に対する要求そのものの中で、自分が苦痛と恐怖を招いているという事を見ないのです。人間関係の中の思考は常に快楽を要求しており、快楽を、忠実、助ける、与える、支持する、奉仕するというような違う言葉で覆い隠しています、私達はなぜ奉仕することを望むのでしょう? ガソリンスタンドはよいサービスをします。助ける、与える、奉仕するというこれらの言葉は何を意味するのでしょうか? それは一体何なのでしょうか? 美と光と愛らしさに満ちた花は「私は与え、助け、奉仕します」と言うでしょうか? 花はただあります! そしてそれは何もしようとしていないがゆえに、大地を覆います。

 思考は非常にずるく、利口なので、自分の都合のためにあらゆるものを歪めます。思考は快楽への自分の要求の中で自分自身を束縛します。思考は私達の関係全てにおける二重性の育成者です。私達の中に暴力があり、それは私達に快楽を与えますが、また平和への欲求、親切で優しくありたい欲求もあります。これが私達のあらゆる生の中でいつも起きていることです。思考は私達の中のこの二重性、この矛盾を育てるだけでなく、私達が快楽と苦痛として持った無数の記憶もまた蓄積し、そしてこれらの記憶から思考は再生するのです。それゆえ、既に言ったように、思考は過去のものであり、思考は常に古いのです。

 あらゆる挑戦に過去の見地から出会うので ― 挑戦は常に新しいのです ― 私達の挑戦との出会いは常に全く不適切でしょう。それゆえ私達は矛盾、葛藤、そしてあらゆる悲惨と悲しみの相続人なのです。私達の小さな頭脳は、それが何をしようが葛藤の中にあります。私達の頭脳が熱望し、模倣し、順応し、抑圧し、昇華し、自分を拡大するためにドラッグを飲もうとも ― 何をしても ― 私達の頭脳は葛藤の状態にあり、争いを生むでしょう。

(続く)


[25966] 渡辺さん健在 投稿者:宮啓 投稿日:2018/10/05(Fri) 17:26  

 去った9月27日にKB会があったようです。。

 以下のサイトの、[動画]タグをクリック。

 https://www.youtube.com/user/KrishBohm/videos


 この動画の1時間10分時点頃から、観察者(主体)がないこと等の話が出てきます。


[25965] 役に立つ 投稿者:Ramayana 投稿日:2018/10/05(Fri) 17:25  

これらの偉大な情報は他人にとって非常に有用であると考えてください。

http://vimeo.com/maxbet888


[25964] Re:[25962] [25959] 既知からの自由12−4 投稿者:宮啓 投稿日:2018/10/05(Fri) 15:24  

> > 12章[観察者と観察されるもの〕−4
> >
> >  観察者の側からのどんな動きも、観察者が観察されるものであるということを、観察者が理解・実感したのでないなら、別の一連のイメージをつくり出すだけであり、そして再び観察者はそれらのイメージに捕えられてしまいます。しかし観察者は観察されるものであるということを、観察者が気づいている時、何が起こりますか? ゆっくり行きましょう、非常にゆっくり行きましょう。なぜなら私達がいま入ろうとしていることは非常に複雑なことだからです。何が起こるでしょう?観察者は全く行動しません。観察者はいつも「これらのイメージについて何かしなければならない、抑圧するか、あるいは別の形を与えなければならない」と言ってきたのです。観察者は観察されるものに関して常に活動的であり、情熱的あるいは行き当たりばったりに行動し反応しており、そしてこの観察者の部分での好き嫌いの活動が積極的な活動と呼ばれます ― 「好きだから取っておかなければならない、嫌いだから取り除かねばならない」。しかし観察者が、自分が行動している対象は自分自身であることを悟るとき、観察者自身とそのイメージとの間に葛藤はありません。観察者はそれなのです。彼はそれと分離していないのです。彼が分離しているときには、それについて何かをします。あるいはしようと試みます。しかし観察者が自分はそれなのだということを理解・実感するとき、好き、嫌いはなく葛藤は終わります。
> >
> >  観察者は何のためにしようとするのでしょうか?何かがあなたであるなら、何をすることが出来るでしょうか? それに反抗することも、それから逃げることも、それを受け入れることさえもできません。それはそこにあります。それゆえ好き嫌いに対する反応から生じた全ての活動は終わっています。そのとき驚くべく生き生きとなった気づきがあるのを見いだすでしょう。その気づきはどんな中心的問題にも、どんなイメージにも縛られません ― そしてその気づきの強烈さから注意である違った質があり、それゆえ心は ― なぜなら心はこの気づきですから ― 途方もない感受性と高い英知を持つようになったのです。
> >
> > (終わり)
>
>
> コメントはありません。出て来ません。
>
> 余計な一言:少々の感受性と少々の知性を持った心がうろうろしています。


 クリシュナムルティが陳述したことが起こらないのは、なぜなのか。

 頭での理解は理解ではない。ということに尽きるのかもしれません。

 >観察者が理解・実感したのでないなら、別の一連のイメージをつくり出すだけであり、そして再び観察者はそれらのイメージに捕えられてしまいます。−−、これが渡辺さんに起きたのかもしれません。

 私たちは、これを他山の石として進むしかないようです。


[25963] 無題 投稿者:明日を暗示する黄昏 投稿日:2018/10/05(Fri) 15:16  

赦しがあれば心は安らぐ。


[25962] Re:[25959] 既知からの自由12−4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/05(Fri) 14:02  

> 12章[観察者と観察されるもの〕−4
>
>  観察者の側からのどんな動きも、観察者が観察されるものであるということを、観察者が理解・実感したのでないなら、別の一連のイメージをつくり出すだけであり、そして再び観察者はそれらのイメージに捕えられてしまいます。しかし観察者は観察されるものであるということを、観察者が気づいている時、何が起こりますか? ゆっくり行きましょう、非常にゆっくり行きましょう。なぜなら私達がいま入ろうとしていることは非常に複雑なことだからです。何が起こるでしょう?観察者は全く行動しません。観察者はいつも「これらのイメージについて何かしなければならない、抑圧するか、あるいは別の形を与えなければならない」と言ってきたのです。観察者は観察されるものに関して常に活動的であり、情熱的あるいは行き当たりばったりに行動し反応しており、そしてこの観察者の部分での好き嫌いの活動が積極的な活動と呼ばれます ― 「好きだから取っておかなければならない、嫌いだから取り除かねばならない」。しかし観察者が、自分が行動している対象は自分自身であることを悟るとき、観察者自身とそのイメージとの間に葛藤はありません。観察者はそれなのです。彼はそれと分離していないのです。彼が分離しているときには、それについて何かをします。あるいはしようと試みます。しかし観察者が自分はそれなのだということを理解・実感するとき、好き、嫌いはなく葛藤は終わります。
>
>  観察者は何のためにしようとするのでしょうか?何かがあなたであるなら、何をすることが出来るでしょうか? それに反抗することも、それから逃げることも、それを受け入れることさえもできません。それはそこにあります。それゆえ好き嫌いに対する反応から生じた全ての活動は終わっています。そのとき驚くべく生き生きとなった気づきがあるのを見いだすでしょう。その気づきはどんな中心的問題にも、どんなイメージにも縛られません ― そしてその気づきの強烈さから注意である違った質があり、それゆえ心は ― なぜなら心はこの気づきですから ― 途方もない感受性と高い英知を持つようになったのです。
>
> (終わり)


コメントはありません。出て来ません。

余計な一言:少々の感受性と少々の知性を持った心がうろうろしています。


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