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[26507] Re:[26506] [26505] [26502] 最初のザーネン講話 8-2 投稿者:南方 投稿日:2019/02/13(Wed) 21:00  

> > > 1961年ザーネン公開講話 8−2
> > >
> > >
> >
> >
> > 思考が恐怖を育てる実感がありません。恐怖というものはそもそもあり、そこから思考が逃げようとする時問題が生じるのであって思考に恐怖という属性はないと思いますが。
>
> 思考が逃げようとするなり何なりする時問題が生じるという属性が思考にあるという事ですね。その起こる問題を恐怖と私は呼んでいる気がします。コブラにせよ、世間の口にしろ、それは怖いものですが、あるがままのです。それに出会うとき心理的な問題(恐怖)が起きるとすれば、思考の性質に何かちょっと持ってよと言いたくなります。
>


なるほど、恐怖から逃げようとする属性ですか。それならわかります。

> > >
> > >  私たちは先日肯定的な思考と否定的な思考を話しました。私は否定的な思考は思考の最高の形であると言いました。そしてすべての思考は、肯定的にせよ否定的にせよ、限定されていると言いました。肯定的な思考は決して自由でありません。しかし否定的な思考は自由でありえます。したがって、知らない無意識を見ている否定的な心は、それと直接の関係にあります。
> > >
> > >  どうか、これは奇妙な何か、新しい流行、新しい思考の仕方なのではありません。それはすべて未熟で子供じみています。しかし自分自身で恐怖を見出し、断片的にではなく完全に、すっかり免れようと望むなら、そのとき、ひとは自分の心の深い所を調べなければなりません。そしてその調査は肯定的な過程ではありません。表面的な心が掘り返すために創案したり、作ったりできる道具はありません。表面的な心がなし得ることのすべては、静かにしていること、その知識、能力、才能のすべてを自発的に、気楽に脇に置き、その技能のすべてに頼らずにいることです。それがそうするとき、それは否定的な状態にあります。そうするためには、思考を理解しなければなりません。
> > >
> > >
> > > ゴト: 肯定的と否定的思考がこの大切な局面で出てきました。よくわからないが、ここは読み抜きましょう。
> > >
> > >
> >
> >
> >
> > 恐怖を肯定するのか否定るのかの違いであって思考そのものに恐怖があるわけでわけではない。ということ。
>
> そもそも今恐怖と言われている何かが見られた時、思考は発動すべきなのだろうか? 直接の知覚と行為があるのみではなかろうか。それが命名して認識するとき、すでに肯定的に動き始めており、否定的ではいないのが問題なのですね。
> >
> >
> >


逃げるのが肯定的、直視が否定的ということですね。


> > >  思考は、思考の全体は−ただの一つや二つの思考ではなく−恐怖を引き起こさないでしょうか? もしも明日が、あるいは次の瞬間がないなら、恐怖があるでしょうか? 思考に対して死ぬことが恐怖の終わりです。そして意識のすべては思考です。
> > >
> > >
> > > 思考=意識に対して死ぬことが出てきました。
> > >
> > >
> >
> >
> > 思考に対して死ぬということは反対概念を生み出すことではなく出発点に戻るということ。
>
> はい。思考は立ち止まる。じっと見始める。


[26506] Re:[26505] [26502] 最初のザーネン講話 8-2 投稿者:ゴト 投稿日:2019/02/13(Wed) 20:46  

> > 1961年ザーネン公開講話 8−2
> >
> >
>
>
> 思考が恐怖を育てる実感がありません。恐怖というものはそもそもあり、そこから思考が逃げようとする時問題が生じるのであって思考に恐怖という属性はないと思いますが。

思考が逃げようとするなり何なりする時問題が生じるという属性が思考にあるという事ですね。その起こる問題を恐怖と私は呼んでいる気がします。コブラにせよ、世間の口にしろ、それは怖いものですが、あるがままのです。それに出会うとき心理的な問題(恐怖)が起きるとすれば、思考の性質に何かちょっと持ってよと言いたくなります。

> >
> >  私たちは先日肯定的な思考と否定的な思考を話しました。私は否定的な思考は思考の最高の形であると言いました。そしてすべての思考は、肯定的にせよ否定的にせよ、限定されていると言いました。肯定的な思考は決して自由でありません。しかし否定的な思考は自由でありえます。したがって、知らない無意識を見ている否定的な心は、それと直接の関係にあります。
> >
> >  どうか、これは奇妙な何か、新しい流行、新しい思考の仕方なのではありません。それはすべて未熟で子供じみています。しかし自分自身で恐怖を見出し、断片的にではなく完全に、すっかり免れようと望むなら、そのとき、ひとは自分の心の深い所を調べなければなりません。そしてその調査は肯定的な過程ではありません。表面的な心が掘り返すために創案したり、作ったりできる道具はありません。表面的な心がなし得ることのすべては、静かにしていること、その知識、能力、才能のすべてを自発的に、気楽に脇に置き、その技能のすべてに頼らずにいることです。それがそうするとき、それは否定的な状態にあります。そうするためには、思考を理解しなければなりません。
> >
> >
> > ゴト: 肯定的と否定的思考がこの大切な局面で出てきました。よくわからないが、ここは読み抜きましょう。
> >
> >
>
>
>
> 恐怖を肯定するのか否定るのかの違いであって思考そのものに恐怖があるわけでわけではない。ということ。

そもそも今恐怖と言われている何かが見られた時、思考は発動すべきなのだろうか? 直接の知覚と行為があるのみではなかろうか。それが命名して認識するとき、すでに肯定的に動き始めており、否定的ではいないのが問題なのですね。
>
>
>
> >  思考は、思考の全体は−ただの一つや二つの思考ではなく−恐怖を引き起こさないでしょうか? もしも明日が、あるいは次の瞬間がないなら、恐怖があるでしょうか? 思考に対して死ぬことが恐怖の終わりです。そして意識のすべては思考です。
> >
> >
> > 思考=意識に対して死ぬことが出てきました。
> >
> >
>
>
> 思考に対して死ぬということは反対概念を生み出すことではなく出発点に戻るということ。

はい。思考は立ち止まる。じっと見始める。


[26505] Re:[26502] 最初のザーネン講話 8-2 投稿者:南方 投稿日:2019/02/13(Wed) 13:07  

> 1961年ザーネン公開講話 8−2
>
>  さて、恐怖とは何でしょう? 誰もが彼自身の一連の恐怖を持っています。暗闇を恐れる、世論を恐れる、死を恐れる、人生で成功しないことを、挫折を、成就できないことを、能力を持たないことを、自分を劣っていると思うことを恐れるかも知れません。心のどの曲がり角にも恐怖があります。思考のどのささやきも、意識的あるいは無意識的に、恐怖と言われる怖れられるものを育てます。
>
>
> ゴト: そうですね。私も恐怖の理解を今回はっきりしましょう。
>
>


思考が恐怖を育てる実感がありません。恐怖というものはそもそもあり、そこから思考が逃げようとする時問題が生じるのであって思考に恐怖という属性はないと思いますが。


>  そこで恐怖とは何でしょうか? そしてどうかその質問をあなた自身にしてください。それは分離した、単独で、関連のないものでしょうか、それとも常に何かと関連しているでしょうか? 私の言っていることを理解してくださると思います。なぜなら私たちは精神分析にふけっているのではないからです。私たちはすっかり恐怖を心から取り除くことができるかどうか見出そうとしているのです−少しづつではなくて全面的に、完全に。そしてそれを見出すために、私たちは恐怖とは何なのか、それはどうやって生じるかを調べなければなりません。それを見出すために思考を、意識的な考えることだけでなく無意識を、自分自身の存在の深い層を調べなければなりません。無意識を調べることは確かに分析の過程ではありません。なぜなら、あなたが分析するとき、あるいは他の人が分析するとき、常に観察者、分析している分析者があり、したがって分離、非類似性、それゆえ葛藤があります。
>
>  私はどんなふうに恐怖が生じるか見出したいのです。私たちが私たち自身の恐怖に気づいているかどうか、そしてどんなふうに気づいているか私は知りません。私たちは単に言葉に気づいているに過ぎないのでしょうか、それとも恐怖を引き起こすものと直接に接触しているのでしょうか? 恐怖を引き起こすものは断片的なものでしょうか? それとも、恐怖の様々に変る表現を持つ全体的なものでしょうか? 私は死を恐れるかもしれません。あなたは隣人、世論を恐れるかもしれません。他の人は妻、夫によって支配されることを恐れるかもしれません。しかし原因は一つであるに違いありません。確かに、いくつかのタイプの恐怖を生むいくつかの原因があるのではありません。そして恐怖の原因の発見は心を恐怖から解放するでしょうか? 私が世論を恐れるのを知ること、そういうこととしておきましょう、そのことが心から恐怖を除くでしょうか? 恐怖の原因の発見は恐怖からの解放ではありません。
>
>  どうかこのことを少々理解してください。今朝、広い領域にわたらなければならないので詳細に調べる時間がありません。
>
>  原因、つまり恐怖を引き起こす無数の原因を知ること、そのことは心から恐怖を出してしまうでしょうか? それとも何か他の要素が必要でしょうか?
>
>  恐怖が何であるか調べるとき、外側の反応に気づいているだけでなく、無意識にも気づいていなければなりません。私は「無意識」というその言葉を、哲学的や心理学的、精神分析的にではなく、非常に単純な仕方で使っています。無意識は隠れた動機、微妙な思考、秘密の欲望、強迫、衝動、要求です。さて、どうやって無意識を調べますか、あるいは観察しますか? 意識を、好きと嫌い、苦痛と快楽という意識の反応を通して観察することはかなり簡単です。しかしどうやって無意識を他の人の助けなしに調べますか? なぜなら、他の人の助けを得るなら、その他人は先入観を持ち、限定されているため、彼は解釈することを誤まるかもしれないからです。それゆえ、隠れた心と言われるこの巨大なものを、どうやって解釈なしに調べればいいでしょうか。どうやってそれを、少しづつではなく、全体的に見、吸収し、理解すればいいでしょうか? なぜならそれを断片的に調べるなら、それぞれの調査がその跡を残し、その跡を伴なって次の断片を調べ、それによって歪みを助長するからです。したがって分析を通じては明確さはありません。私が話していることをあなたが理解しているかなと思います。
>
>
> ゴト: 恐怖を調べるには無意識を理解しなければならない。だが断片の積み重ねという形でなく調べなければならない。はい。
>
>
>  恐怖の原因を発見することが心を恐怖から解放しないこと、そして分析がそれからの解放をもたらさないことをどちらも、確かに、見ることができます。全体の理解、無意識の全体を完全にあらわにすることがあるに違いありません。そしてどうやってそれに取り掛かりますか? 問題が見えますか?
>
>
> ゴト: その問題がわかります。見えます。
>
>
>  無意識は、確かに、意識的な心を通して見ることはできません。意識的な心は最近のものです。環境に適応するために条件づけられてきたという意味で最近のものです。それは生きるために、生活の糧を得るために、特定の技術を獲得するよう教育を通して新たに形成されてきました。それは教化された記憶を持っており、したがって、本質的に腐敗し 愚かな社会の中で浅薄な生を送ることができます。意識的な心は適応することができ、その機能はそうすることです。そして環境に適応することができないとき、そのとき神経症、矛盾した状態、などなどがあります。しかし教育された、最近の心は、古い、歳月の残滓に属する、あらゆる人種的経験に属する無意識をとうてい調べることができません。無意識は起こった物事についての無限の知識の貯蔵庫です。そこで、どうやって意識的な心はそれを見ればいいでしょうか? それはできません。なぜならそれは最近の知識、最近の出来事、経験、教え、野心、調整によって、そんなにも条件付けられ、そんなにも限定されているからです。そのような意識的な心はとうてい無意識を見ることはできません。そしてそれは理解するのがかなり簡単だと思います。どうか、これは同意や不同意の事柄ではありません。私たちが「あなたはまったく正しい」とか「あなたはまったく間違っている」というその事をやりだすなら、そのときそれは意味がありません。私たちは迷ってしまいます。これの意義が即座に見えるなら、そのとき同意や不同意はありません。なぜなら調べているからです。
>
>
> ゴト: はい。
>
>
>  さて、人が無意識を調べ、すべての残滓を運び出し、無意識をすっかりきれいにし、その結果、葛藤を引き起こすすべての矛盾を作り出さないようにしなければならないなら、何が必要でしょうか? 教育された心はそれを見る能力がないこと、分析者もそうであることを知るとき(その調査は断片的です)、どんなふうに無意識を調べることに着手すればいいでしょうか? このような膨大な秘宝、経験の貯蔵庫、人種的風土的影響、伝統、絶え間ない印象を持つこの途方もない心を、どうやって見ればいいでしょうか? どうやってそれをすべて運び出せばいいでしょうか? それを断片的に運び出しますか? それとも全体的に運び出すべきでしょうか? 問題がわからないなら、そのときさらに進んだ探求は意味がありません。私が言っていることは、無意識が断片的に検査されるのなら、そのときそれに終わりはないということです。なぜなら、あなたが断片的に検査して解釈するという事実そのものが、隠れた心の層を強化するからです。それは全体の絵として検査されなければなりません。確かに、愛は断片的ではありません。それは神聖なものと神聖でないものに分割されたり、上品さのさまざまの範疇に入れられるべきではありません。愛は全体的なものであり、愛を解剖する心は、決して愛が何であるか知ることができません。愛を感じ、理解するためには、それに断片的でない接近がなければなりません。
>  そこで、そのこと−全体は断片化を通しては理解できないこと−がほんとうに明確であるなら、そのとき変化が起こったのではないでしょうか? あなたが私の要点に出会っているかどうかわかりません。
>
>
> ゴト: 本当に明確であるなら変化が起こっているでしょうと。!
>
>
>  さて、無意識の心は否定的に接近されなければなりません。なぜならそれが何であるか、あなたは知らないからです。私たちは他の人たちがそれについて言ったことを知っています。そして時折、暗示、ほのめかしを通してそれを知ります。しかしそれの屈折のすべて、無意識の途方もない性質、根源のすべてを知りません。したがって、知らないものを理解するために、ひとは答えを求めていない心で、否定的にそれに接近しなければなりません。
>
>  私たちは先日肯定的な思考と否定的な思考を話しました。私は否定的な思考は思考の最高の形であると言いました。そしてすべての思考は、肯定的にせよ否定的にせよ、限定されていると言いました。肯定的な思考は決して自由でありません。しかし否定的な思考は自由でありえます。したがって、知らない無意識を見ている否定的な心は、それと直接の関係にあります。
>
>  どうか、これは奇妙な何か、新しい流行、新しい思考の仕方なのではありません。それはすべて未熟で子供じみています。しかし自分自身で恐怖を見出し、断片的にではなく完全に、すっかり免れようと望むなら、そのとき、ひとは自分の心の深い所を調べなければなりません。そしてその調査は肯定的な過程ではありません。表面的な心が掘り返すために創案したり、作ったりできる道具はありません。表面的な心がなし得ることのすべては、静かにしていること、その知識、能力、才能のすべてを自発的に、気楽に脇に置き、その技能のすべてに頼らずにいることです。それがそうするとき、それは否定的な状態にあります。そうするためには、思考を理解しなければなりません。
>
>
> ゴト: 肯定的と否定的思考がこの大切な局面で出てきました。よくわからないが、ここは読み抜きましょう。
>
>



恐怖を肯定するのか否定るのかの違いであって思考そのものに恐怖があるわけでわけではない。ということ。



>  思考は、思考の全体は−ただの一つや二つの思考ではなく−恐怖を引き起こさないでしょうか? もしも明日が、あるいは次の瞬間がないなら、恐怖があるでしょうか? 思考に対して死ぬことが恐怖の終わりです。そして意識のすべては思考です。
>
>
> 思考=意識に対して死ぬことが出てきました。
>
>


思考に対して死ぬということは反対概念を生み出すことではなく出発点に戻るということ。






[26504] Re:[26501] [26497] 最初のザーネン講話 8-1 投稿者:無明 投稿日:2019/02/13(Wed) 11:11  

> >  私たちの大抵にとってこれは困難です。なぜなら、私たちは理解は時間の事柄、比較の事柄、より多くの情報、より多くの知識を収集する事柄であると思っているからです。しかし理解はこれのどれも必要としません。それはただ一つのことを必要とします。それは直接の知覚、解釈や比較なしに直接見ることです。それゆえ恐怖を理解することなしには、私たちの問題は常に増加するのです。
> >
> >
> > ゴト: 私たちの知的理解で対処するやり方が問題を常に増加させている?
>
>
>
>  幼子は、母親から離れると不安(恐怖)を憶える。
>
>  幼児は、母親から多少離れても何とかなるが、更に離れると不安(恐怖)を憶える。
>
>  児童は、母親からだいぶ離れても何とかなるが、さらにもっと離れると不安(恐怖)を憶える。
>
>  少年は、母親からかなり離れても何とかなるが、さらに更にもっと離れると不安(恐怖)を憶える。
>
>  青年は、母親からさらにもっともっと離れても何とかなるが、母親代わりとなる友愛や恋愛が希少であれば不安(恐怖)を憶える。
>
>  壮年は母親代わりとなる友愛や恋愛が希少であれば、役職や家屋敷の所有、趣味等々で不安(恐怖)を緩和できる。
>
>  老年は過去にしがみつくことによって不安(恐怖)を緩和できる。
>
>  そのようにしてひとは恐怖に対応していることを見ることはない。

全く違う。オタクの観念論。幼児そのものに恐怖はない。
その幼児に対して恐怖という観念を植え付けるのが、周囲の大人だろうが。
>
>
>
>

おたくはマザーコンプレックスか。常に「母親」が出てくる。愛着と絡み合わせて。いつも観念論。
母親と恐怖の問題とは関係ない話だ。


[26503] 恐怖 投稿者:無明 投稿日:2019/02/13(Wed) 10:58  

新しい芽氏の引用 2012年9月24日
この時の題名は「気づいている」

崖などで、縁に立つと、身の乗り出し方と共に変わる緊張などの何かの感じがあります。
それなりに用心があって動いていたり、用がなければ、身を引いたりすることは、それなりのものです。
その感じを恐怖と呼ぶこともありますが、どうでしょうか。

普通、恐怖と呼ぶときには、崖などで感じるものを、心の中で嫌うようにする、逃げる、取り除こうとする、打ち勝とうとする、勇気を持とうとする動きがあるでしょう。
そのとき、崖の感じに、記憶からのもので、応答しているわけです。
その時に感じる強い感情とその動きを恐怖と呼びます。

さて、恐怖に、受動的に気づいているとき、どんな状態なのでしょうか?そのとき恐怖はあるでしょうか?


恐怖というのは、心理的に作り出したもので、実体はない、というのは頭では理解できますが、実際に体験するとなると。

心の中で、恐怖を取り除こう、避けようとする、打ち勝とうとする。それらは全て記憶からの動きなので、それらが見えれば、恐怖と呼ぶものは止むということなのか。
恐怖という思考が現れると、当然ながら体が反応します。

さて、戦争のない我々の日常で、恐怖とは何だろうか。
(戦争中は、いつ死ぬかわからないという恐怖)
サラリーマンなら、職を失う恐怖。会社をクビになったらどうしようとか。
我々の世代なら、病気になったらどうしようだろう。たとえば癌になったら。あるいは災害。地震が来たらどうしようとか。
恐怖というより不安。いずれにしろ、それらは、その時になって見なければわからないので、考えてもしょうがないというところです。
明日事故にあうかもしれないとか。







[26502] 最初のザーネン講話 8-2 投稿者:ゴト 投稿日:2019/02/12(Tue) 23:44  

1961年ザーネン公開講話 8−2

 さて、恐怖とは何でしょう? 誰もが彼自身の一連の恐怖を持っています。暗闇を恐れる、世論を恐れる、死を恐れる、人生で成功しないことを、挫折を、成就できないことを、能力を持たないことを、自分を劣っていると思うことを恐れるかも知れません。心のどの曲がり角にも恐怖があります。思考のどのささやきも、意識的あるいは無意識的に、恐怖と言われる怖れられるものを育てます。


ゴト: そうですね。私も恐怖の理解を今回はっきりしましょう。


 そこで恐怖とは何でしょうか? そしてどうかその質問をあなた自身にしてください。それは分離した、単独で、関連のないものでしょうか、それとも常に何かと関連しているでしょうか? 私の言っていることを理解してくださると思います。なぜなら私たちは精神分析にふけっているのではないからです。私たちはすっかり恐怖を心から取り除くことができるかどうか見出そうとしているのです−少しづつではなくて全面的に、完全に。そしてそれを見出すために、私たちは恐怖とは何なのか、それはどうやって生じるかを調べなければなりません。それを見出すために思考を、意識的な考えることだけでなく無意識を、自分自身の存在の深い層を調べなければなりません。無意識を調べることは確かに分析の過程ではありません。なぜなら、あなたが分析するとき、あるいは他の人が分析するとき、常に観察者、分析している分析者があり、したがって分離、非類似性、それゆえ葛藤があります。

 私はどんなふうに恐怖が生じるか見出したいのです。私たちが私たち自身の恐怖に気づいているかどうか、そしてどんなふうに気づいているか私は知りません。私たちは単に言葉に気づいているに過ぎないのでしょうか、それとも恐怖を引き起こすものと直接に接触しているのでしょうか? 恐怖を引き起こすものは断片的なものでしょうか? それとも、恐怖の様々に変る表現を持つ全体的なものでしょうか? 私は死を恐れるかもしれません。あなたは隣人、世論を恐れるかもしれません。他の人は妻、夫によって支配されることを恐れるかもしれません。しかし原因は一つであるに違いありません。確かに、いくつかのタイプの恐怖を生むいくつかの原因があるのではありません。そして恐怖の原因の発見は心を恐怖から解放するでしょうか? 私が世論を恐れるのを知ること、そういうこととしておきましょう、そのことが心から恐怖を除くでしょうか? 恐怖の原因の発見は恐怖からの解放ではありません。

 どうかこのことを少々理解してください。今朝、広い領域にわたらなければならないので詳細に調べる時間がありません。

 原因、つまり恐怖を引き起こす無数の原因を知ること、そのことは心から恐怖を出してしまうでしょうか? それとも何か他の要素が必要でしょうか?

 恐怖が何であるか調べるとき、外側の反応に気づいているだけでなく、無意識にも気づいていなければなりません。私は「無意識」というその言葉を、哲学的や心理学的、精神分析的にではなく、非常に単純な仕方で使っています。無意識は隠れた動機、微妙な思考、秘密の欲望、強迫、衝動、要求です。さて、どうやって無意識を調べますか、あるいは観察しますか? 意識を、好きと嫌い、苦痛と快楽という意識の反応を通して観察することはかなり簡単です。しかしどうやって無意識を他の人の助けなしに調べますか? なぜなら、他の人の助けを得るなら、その他人は先入観を持ち、限定されているため、彼は解釈することを誤まるかもしれないからです。それゆえ、隠れた心と言われるこの巨大なものを、どうやって解釈なしに調べればいいでしょうか。どうやってそれを、少しづつではなく、全体的に見、吸収し、理解すればいいでしょうか? なぜならそれを断片的に調べるなら、それぞれの調査がその跡を残し、その跡を伴なって次の断片を調べ、それによって歪みを助長するからです。したがって分析を通じては明確さはありません。私が話していることをあなたが理解しているかなと思います。


ゴト: 恐怖を調べるには無意識を理解しなければならない。だが断片の積み重ねという形でなく調べなければならない。はい。


 恐怖の原因を発見することが心を恐怖から解放しないこと、そして分析がそれからの解放をもたらさないことをどちらも、確かに、見ることができます。全体の理解、無意識の全体を完全にあらわにすることがあるに違いありません。そしてどうやってそれに取り掛かりますか? 問題が見えますか?


ゴト: その問題がわかります。見えます。


 無意識は、確かに、意識的な心を通して見ることはできません。意識的な心は最近のものです。環境に適応するために条件づけられてきたという意味で最近のものです。それは生きるために、生活の糧を得るために、特定の技術を獲得するよう教育を通して新たに形成されてきました。それは教化された記憶を持っており、したがって、本質的に腐敗し 愚かな社会の中で浅薄な生を送ることができます。意識的な心は適応することができ、その機能はそうすることです。そして環境に適応することができないとき、そのとき神経症、矛盾した状態、などなどがあります。しかし教育された、最近の心は、古い、歳月の残滓に属する、あらゆる人種的経験に属する無意識をとうてい調べることができません。無意識は起こった物事についての無限の知識の貯蔵庫です。そこで、どうやって意識的な心はそれを見ればいいでしょうか? それはできません。なぜならそれは最近の知識、最近の出来事、経験、教え、野心、調整によって、そんなにも条件付けられ、そんなにも限定されているからです。そのような意識的な心はとうてい無意識を見ることはできません。そしてそれは理解するのがかなり簡単だと思います。どうか、これは同意や不同意の事柄ではありません。私たちが「あなたはまったく正しい」とか「あなたはまったく間違っている」というその事をやりだすなら、そのときそれは意味がありません。私たちは迷ってしまいます。これの意義が即座に見えるなら、そのとき同意や不同意はありません。なぜなら調べているからです。


ゴト: はい。


 さて、人が無意識を調べ、すべての残滓を運び出し、無意識をすっかりきれいにし、その結果、葛藤を引き起こすすべての矛盾を作り出さないようにしなければならないなら、何が必要でしょうか? 教育された心はそれを見る能力がないこと、分析者もそうであることを知るとき(その調査は断片的です)、どんなふうに無意識を調べることに着手すればいいでしょうか? このような膨大な秘宝、経験の貯蔵庫、人種的風土的影響、伝統、絶え間ない印象を持つこの途方もない心を、どうやって見ればいいでしょうか? どうやってそれをすべて運び出せばいいでしょうか? それを断片的に運び出しますか? それとも全体的に運び出すべきでしょうか? 問題がわからないなら、そのときさらに進んだ探求は意味がありません。私が言っていることは、無意識が断片的に検査されるのなら、そのときそれに終わりはないということです。なぜなら、あなたが断片的に検査して解釈するという事実そのものが、隠れた心の層を強化するからです。それは全体の絵として検査されなければなりません。確かに、愛は断片的ではありません。それは神聖なものと神聖でないものに分割されたり、上品さのさまざまの範疇に入れられるべきではありません。愛は全体的なものであり、愛を解剖する心は、決して愛が何であるか知ることができません。愛を感じ、理解するためには、それに断片的でない接近がなければなりません。
 そこで、そのこと−全体は断片化を通しては理解できないこと−がほんとうに明確であるなら、そのとき変化が起こったのではないでしょうか? あなたが私の要点に出会っているかどうかわかりません。


ゴト: 本当に明確であるなら変化が起こっているでしょうと。!


 さて、無意識の心は否定的に接近されなければなりません。なぜならそれが何であるか、あなたは知らないからです。私たちは他の人たちがそれについて言ったことを知っています。そして時折、暗示、ほのめかしを通してそれを知ります。しかしそれの屈折のすべて、無意識の途方もない性質、根源のすべてを知りません。したがって、知らないものを理解するために、ひとは答えを求めていない心で、否定的にそれに接近しなければなりません。

 私たちは先日肯定的な思考と否定的な思考を話しました。私は否定的な思考は思考の最高の形であると言いました。そしてすべての思考は、肯定的にせよ否定的にせよ、限定されていると言いました。肯定的な思考は決して自由でありません。しかし否定的な思考は自由でありえます。したがって、知らない無意識を見ている否定的な心は、それと直接の関係にあります。

 どうか、これは奇妙な何か、新しい流行、新しい思考の仕方なのではありません。それはすべて未熟で子供じみています。しかし自分自身で恐怖を見出し、断片的にではなく完全に、すっかり免れようと望むなら、そのとき、ひとは自分の心の深い所を調べなければなりません。そしてその調査は肯定的な過程ではありません。表面的な心が掘り返すために創案したり、作ったりできる道具はありません。表面的な心がなし得ることのすべては、静かにしていること、その知識、能力、才能のすべてを自発的に、気楽に脇に置き、その技能のすべてに頼らずにいることです。それがそうするとき、それは否定的な状態にあります。そうするためには、思考を理解しなければなりません。


ゴト: 肯定的と否定的思考がこの大切な局面で出てきました。よくわからないが、ここは読み抜きましょう。


 思考は、思考の全体は−ただの一つや二つの思考ではなく−恐怖を引き起こさないでしょうか? もしも明日が、あるいは次の瞬間がないなら、恐怖があるでしょうか? 思考に対して死ぬことが恐怖の終わりです。そして意識のすべては思考です。


思考=意識に対して死ぬことが出てきました。


 私たちは、次に、時間と言われるものに至ります。時間とは何でしょうか? 時間というものはあるのでしょうか? 時計に基づいて時間があります。そして私たちはまた内的な、心理的時間もあると思います。しかし、年代順の時間は別にして、時間はあるのでしょうか? 時間をつくりだすのは思考です。なぜなら思考それ自体が時間の、多くの昨日の産物であるからです−「私はそうであった。私は今こうである。そしてあれであるだろう」。月に行くには時間を要します。ロケットを組み立てるには何日も、何ヶ月もかかります。そしてどうやってロケットを組み立てるかの知識を得るにも時間を要します。しかしそのすべては機械的な時間、時計による時間です。距離が月に行くことに含まれています。そして距離もまた時間の領域の内に、何時間、何日、何ヶ月の領域の内にあります。しかしその時間は別にして、いったい時間はあるでしょうか? 確かに思考が時間をつくり出しました。思考があります−私は聡明にならなければならない、どうやって競争するか見出さなければならない、努力し、成功しなければならない。私はどうやって尊敬されるようになればいいのだろうか、私の野心、怒り、残忍性を抑えればいいのだろうか? そしてこの絶え間ない考える過程が、それは機械的な脳の一部ですが、まさに時間を生むのです。しかし思考が止むなら、時間があるでしょうか? これがわかりますか? 思考が止むなら、恐怖はあるでしょうか? 私が世論を恐れているとしましょう−人々が私をどう言うか、私をどう思うか。それについてのその考えることが恐怖を生みます。もしも思考がないなら、私は公衆の意見を少しも意に介さないでしょうし、したがって恐怖はないでしょうに。それで、私は思考が恐怖を生むということ、思考は時間の結果であるということを見出し始めます。そして思考は、それは多くの昨日の結果であり、現在のすべての経験によって修正されていますが、未来をつくり出します−それはなお思考です。

 それで意識の全内容は思考の過程です。したがってそれは時間の領域内に限られています。このすべてにあなたがついてきていると私は思います。


ゴト: ついてきています。


 さて、心は時間から自由であることができるでしょうか? 私は年代的時間から自由であることを話していません−それは正気ではないでしょう、精神的に錯乱しているでしょう。私は達成としての、成功としての、明日何かであることとしての、なることやならないこととしての、成就と挫折としての、何かをなし遂げることや他の何かを獲得することとしての時間を話しています。それは問題が次のことだということです。思考は−それは意識の全体、あらわなものとあらわでないものですが−完全に死ぬことが、あるのをやめることができるでしょうか? それがそうするとき、あなたは意識の全体を理解したのです。


ゴト: あぁあぁ。


 それゆえ、思考に対して−快楽を知る思考に対して、苦しむ思考に対して、徳を知った、関係を知った、現われて、常に時間の領域内で、種々のやり方でそれ自身を表現した思考に対して−死ぬことは、確かに、全体的な死です。私は機械的・有機的な死、身体の死ぬことを話しているのではありません。医者たちは、身体の有機的な存在が百五十年か二百年続くことを可能にする何かの薬品を発明するかもしれません−何のためか誰も知りません! しかしそれはまったく見当違いです。有意義なことはその中に恐怖のない、死ぬことです。

 そこで、心はそれが知ったことごとくのものに対して、それは過去のものですが、死ぬことができるでしょうか?−それが死です。それが私たちが皆恐れるものです。死。突然止むこと。その中に何の議論もありません。死を議論することはできません。それは終わりです。そして止むことは思考に対して、それゆえ時間に対して死ぬということです。

 いったい、あなたがこれを実験したことがあるかどうか知りません。苦しみに対して死ぬことはかなり容易です。どの人もそうすることを望みます。しかし、快楽、大事にしてきた物事、刺激を与える、幸福の感じを与える記憶に対し死ぬこと、時間の領域内にあるすべてのものに対し死ぬことはできないでしょうか? それを調べたなら、それをやったなら、そのときあなたは、死が衰退の死とまったく異なる意味を持つことがわかるでしょう。

 私たちはそれのすべてに対して死にませんね。その代わり、瞬時瞬時私たちは衰退し、堕落し、退廃し、腐朽しているのです。死ぬことは思考の連続性を持たないことを意味します。あなたは「それはすることが非常に難しい。それで人がそれをしたなら、その価値は何なのですか?」と言うかもしれません。それは難しくありません。しかし、それを調べるには巨大なエネルギーを要します。それは若く、新鮮な、恐れない、したがって時間を脱している心を要します。そしてそれはどんな価値を持っているのでしょう? たぶん何の実益的な価値も持っていないでしょう。思考に対して、したがって時間に対して死ぬということは創造を発見するということです−毎瞬、破壊し あらゆるものを新たに創り出している創造。そのことの中に退廃、腐朽はありません。腐朽するのは思考のみです−「私」と「私でないもの」としての中心をつくり出す思考−、それが唯一の 衰退を知っているものです。

 それで、心が蓄積し、収集し、経験したあらゆる物事に対し死ぬこと、即座に止めることが創造です。その中に連続性はありません。連続性を持っているものは常に衰退しています。連続することを求めるこの絶え間ない熱望に、それを私たちの大抵は持っているのですが、夫と妻、父と息子、その他もろもろの間の特定の関係の連続することを求める欲望に、あなたが気づいているかどうかわかりません。関係は、それが連続的であるとき、衰退しています。死んでいます。価値がありません。しかし連続性に対して死ぬとき、新しさ、新鮮さがあります。


ゴト: 妻との関係が命あって連続的に続くことを希求しています。それがわかっています。その時命の絶えることに耐えがたい悲しみがあります。


 それゆえ、心は死が何であるか直接経験できます。それはまったく並外れています。私たちの大抵は生きることが何か知りません。それゆえ死ぬことを知りません。私たちは生きることが何か知っているでしょうか? 私たちは苦闘が何か知っています。私たちは羨望が何か知っています。私たちは生存の残虐、その卑俗性をすべて知っています。憎しみ、野心、腐敗、葛藤。私たちはそのすべてを知っています。それが私たちの生です。しかし私たちは死を知りません。それでそれを恐れます。たぶん、もしも生が何であるか知るなら、死ぬことが何であるかも知るでしょうに。生きることは、確かに、その中で心がもはや蓄積していない、始めも終わりもない運動なのです。蓄積した瞬間、あなたは衰退の状態の中にあります。なぜなら、それが漠然とした経験にせよ、小さい経験にせよ、その周りにあなたは安全のための壁を建てるからです。

 それゆえ、生きることが何であるか知ることは、自分が獲得したもの、内面の快楽、内面の苦痛に対して、あらゆる瞬間に死ぬということです。時間の過程の中でではなくて、それが起こるときに死ぬことです。そのときあなたは、あなたがそこまで行ったならば、死は生のようであるということを見出すでしょう。そのとき生きることは死ぬことと分離していません。そしてそれは途方もない美の感覚を与えます。その美は思考と感情を越えています。そしてそれを組み立てて、絵を描くことや詩を書くこと、楽器を演奏することの中に使うことはできません。それらは関係がありません。生と死が同じであるとき、生きることと死ぬことが同義であるとき生じる美があります。なぜなら、そのとき生と死は心を完全に豊かに、全体で、欠けることなく残しておくからです。


(このあと質問に入ります)


[26501] Re:[26497] 最初のザーネン講話 8-1 投稿者:宮啓 投稿日:2019/02/12(Tue) 21:09  

>  私たちの大抵にとってこれは困難です。なぜなら、私たちは理解は時間の事柄、比較の事柄、より多くの情報、より多くの知識を収集する事柄であると思っているからです。しかし理解はこれのどれも必要としません。それはただ一つのことを必要とします。それは直接の知覚、解釈や比較なしに直接見ることです。それゆえ恐怖を理解することなしには、私たちの問題は常に増加するのです。
>
>
> ゴト: 私たちの知的理解で対処するやり方が問題を常に増加させている?



 幼子は、母親から離れると不安(恐怖)を憶える。

 幼児は、母親から多少離れても何とかなるが、更に離れると不安(恐怖)を憶える。

 児童は、母親からだいぶ離れても何とかなるが、さらにもっと離れると不安(恐怖)を憶える。

 少年は、母親からかなり離れても何とかなるが、さらに更にもっと離れると不安(恐怖)を憶える。

 青年は、母親からさらにもっともっと離れても何とかなるが、母親代わりとなる友愛や恋愛が希少であれば不安(恐怖)を憶える。

 壮年は母親代わりとなる友愛や恋愛が希少であれば、役職や家屋敷の所有、趣味等々で不安(恐怖)を緩和できる。

 老年は過去にしがみつくことによって不安(恐怖)を緩和できる。

 そのようにしてひとは恐怖に対応していることを見ることはない。




> (続く)


[26500] ここのように 投稿者:sbopiccoro 投稿日:2019/02/12(Tue) 12:49  

簡単な訪問方法です そして見てきたのでとても便利

このような良い場所で話を共有できることに非常に感銘を受けました。

http://bmwccn.no/forum/viewtopic.php?f=141&t=7990&p=73471#p73471


[26499] Re:[26498] 知的な逃げ 投稿者:ゴト 投稿日:2019/02/12(Tue) 11:50  

> このような様々な「知的な逃げ」が、いい悪いの判断、結論、方向付けの一部であるということに、事実に事柄として、いい悪いなしに気づいていることができるでしょうか?


ああ、今になってようやくわかり始めました。


[26498] 知的な逃げ 投稿者:無明 投稿日:2019/02/12(Tue) 10:43  

クリシュナムルティの本を読んでいる人に、陥りやすいトリックとして、「様々な知的な逃げ」に題して、新しい芽氏は言及しています。

続き

しかし、自分の傾向に、人から言われたり、あるいは、自分自身で、いい悪いを含んで気づくことがありえます。
つまり、憤慨していることが一つの違和感として人から指摘されたり、自分でも感じる場合があり、そのとき何らかの抵抗があるということです。
たとえば、他の人は馬鹿にするつもりで言ったのではないということが、かなり明らかになる場合とか、
憤慨したままで他の人と関わることが、人にとって、関係をやっかいにしていることが感じられるので、やめたい場合とか。
そのとき、自分の傾向に知的な何かがあって気づいていることがありうるのです。
が、知的に問題を感じているので、どうしても憤慨の気持ちの中で、
他の人や自分自身を非難したり、正当化したりして時が過ぎます。
また、憤慨したままであがいても、それではどうしようもないと感じて、却って苦痛になり、挫折を感じます。
そこで、憤慨に気持ちを十分の味わおうとしたり、そのままやりすごそうとしたり。意識的に何もしないで努めたりして、その重要性の指針に添おうとします。
それで、一時的に、憤慨が収まってきますので、いい悪いを意識的に持ち出さないで、自分の傾向に気づいている結果を達成した、だから憤慨を消えたのだと思います。

注 クリシュナムルティのいう「気づき」が出来ていると勘違いする。

しかし、又似たような別に機会には、また馬鹿にされた憤慨してしまうのです。
それで、大事なことは、自分はそういう傾向を持っていることに気づくことですと言います。
また、そのときは、自分の傾向から本質的に解放されるこちはできていない、難しいことなので、それで自分の傾向が出てくるたびに、意識的に、いい悪いなしに気づくことが大事だと思うのです。

注 クリシュナムルティは難しいという人の言い訳に多く見られる。

このような様々な「知的な逃げ」が、いい悪いの判断、結論、方向付けの一部であるということに、事実に事柄として、いい悪いなしに気づいていることができるでしょうか?





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