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[25661] Re:[25654] [25653] 既知からの自由 5−1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/07/16(Mon) 07:56  

> > 5章の1 [自己関心・地位への切望]
> >
> > 更に進む前に、生におけるあなたの根本的、永続的関心は何か?とお尋ねしたいのです。遠回しの答えはすべて脇に置き、この問を積極的に正直に扱うなら、あなたはどう答えられますか? 知っていられますか? それは自分自身ではないでしょうか? とにかく、正直に答えるなら殆どの人がそういうでしょう。私が関心があるのは自分の進歩、自分の仕事、自分の家族、自分の住んでいる小さな片隅、自分のためのより良い地位、より多くの威信、より多くの力、より多くの他人への支配を得ることなどです。ほとんどの人が主に関心があるのは ― 第一に「私」であるという事を、自分に対して認めるのは当然ではないかと私は思います。
> >
> >  何人かの人は自分に主として関心を持つのは間違っていると言うかもしれません。しかし私達は稀にしか、きちんと正直に認めないということを別にすれば、それの何が間違っているのでしょう? 認めれば私達はむしろそれを恥じます。実情はそうです ― 人は根本的に自分自身に関心があり、種々のイデオロギー的または伝統的理由でそれは間違っていると考えます。しかし人が考えるものは見当違いです。なぜその間違っているという要素を持ち込むのでしょうか? それは観念、概念です。事実は人は根本的にそして永続的に自分自身に関心があるという事です。
> >
> >  自分のことを考えるより他人を助けることの方がより満足できると言うかもしれません。何が違うのでしょう? それはなお自己関心です。他人を助けるということがあなたにより大きな満足を与えるのなら、より大きな満足を与えてくれるものにあなたは関心があるのです。なぜそのことに何かのイデオロギー的な概念を持ち込むのでしょう? なぜこの二重の考えがあるのでしょう? なぜ「私が本当に望んでいるのはセックスや、他人を助けることや、偉大な聖者、科学者、政治家になることの何れであろうが、満足です」と言わないのでしょう? それは同じ過程ではないでしょうか? 微妙と明白、あらゆる種類のやり方による満足が私達が望んでいるものです。自由が欲しいと言うとき、それが素晴らしく満足させてくれるかもしれないと考えるから望み、そして究極の満足は、もちろん自己実現というこの特別の観念です。私たちが本当に求めているのは不満のまったくない満足なのです
> >
> >  私達は大抵社会の中で地位を持つという満足を切望しますが、それは何者でもないことを恐れるからです。尊敬すべき地位を持つ市民は非常に丁重に扱われるのに対し、地位のない人は粗末に扱われるように社会は構成されています。世界中のあらゆる人が社会の中であれ、家族の中であれ、地位を、あるいは神の右手に座ることを求めます。そしてこの地位は他人によって認められなければなりません。そうでなければそれは少しも地位ではないのです。私達は常に演壇に座っていなければならないのです。内的には私達は惨めさと不和の渦巻きであり、したがって外的に立派な人だと見做されることは非常に満足させてくれます。この地位や名声や権力への切望、何らかの点で目立っていると社会によって認められたいとの切望は、他人を支配したいという願望であり、この支配欲は攻撃の一形態です。自分の神聖さに関して地位を追及する聖者は、農家の庭先でつついている鶏と同じように攻撃的なのです。そしてこの攻撃性の原因は何でしょうか? それは恐怖ではないでしょうか?
>
>
> 5章の主題は恐怖です。この5−1はその導入部です。
>
> 私たちが本当に求めているのは不満のまったくない満足であると説き、社会の中で支配的な地位を求め、攻撃性を持つと。これは何者でもない事への恐怖ではないかと問われます。
>
> これは社会、ないし群れの中で生じるある種の緊張感から生じるものだろうか? 社会や群れには、異質に対する嫌悪、排除の感覚が生じるのは大いにありうることだと思われます。それが読めないと何が起こるか、よそよそしさから始まって孤立、いじめなどとか。社会と群れはどう違うのかもよくわからない。いじめが事件になると社会が騒然となる。
>
> この後恐怖が徹底的に問われます。なるべく早く掲載します。


 まず、快楽原理による暗黒があります。

 すなわち、>> > >  ではなぜ生は快楽によって導かれるべきではないのかとあなたは尋ねるかも知れません。それは快楽は苦痛、欲求不満、悲しみ、そして恐怖をもたらし、そして、その恐怖から暴力をもたらすに違いないという非常に簡単な理由からです。−−

 ここに人間の暗黒面の基本線がある気がします。5章6章と続いている気がします。しっかり読んでこの構造を理解したいものです。−−−−([25658]より引用)


 この暗黒や快楽原理に気づいていなくとも、現実に起きていることは、>内的には私達は惨めさと不和の渦巻きであり、したがって外的に立派な人だと見做されることは非常に満足させてくれます。−−

 実際に現実にまさに今、起きていることは、「内的には私達は惨めさと不和の渦巻」、これが起きているのではないでしょうか。


[25660] Re:[25657] 見る 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/15(Sun) 22:21  

> 閑話休題
> awareness の訳に適したものがなく、「はっと気づく」というように、一種の悟り状態になることではなかろうか。最近そう思えてきました。

心理的思考の介入なしに見ている時は覚者の見ている状態と変わりはないのかもね。

> 「見る」とか「気づき」は適切ではない。「自覚」の方がまだまし。

言葉で理解するのでなく実物の状態を知るとどんな言葉でもああ、こういうことを言っているのかとわかりませんか? つまり象さんのお鼻は丸太ン棒みたいだし、耳はウチワのようだし、足は柱のようだし、胴は壁のようだと言えば、知っていれば子供でも分かるが、実物を知らなければ見当もつかないという事があります。


[25659] Re:[25656] リアルな実際 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/15(Sun) 21:54  

> <リアルな実際が、その場でわかるのですか。それが即時の理解?
>
> <今あるものが今の現場でわかる、それがリアルな実際。それが思考の目を介してでなく見えていることが必要。つまり常識や自分のつくっていたイメージなど一切なしに見えている。そこに新しい知覚、気づきがある。
>
> 残念ながら、あなたのおっしゃっていることがよくわからない。
> あなたの言葉の限界でしょうか?
>
> 再録
>
> <今あるものが今の現場でわかる、それがリアルな実際。
>
> 今あるものって何ですか?
> クリシュナムルティを読んでいるということが前提で、「あるもの」という言葉を使っているのでしょうか?

今私はパソコンの前に座って返信を考えながら書いています。それが今あるものです。酒を飲んだりはしていません。それは今ないものです。単純です。言葉通りです。

> 一般の人には、わからないと思います。「あるもの」って。
>
> <それが思考の目を介してでなく見えていることが必要。
>
> どういう意味ですか?現場ではリアルタイムに反応してるのですよ。

思考が作り出したイメージを見ているのでなければ、現実を見ていると思います。

> 反応というのは、瞬時瞬時想起してることです。

はい、それは確かに今あるものです。

> <つまり常識や自分のつくっていたイメージなど一切なしに見えている。そこに新しい知覚、気づきがある。
>
> ですから、現場では、反応がリアルタイムに起きているにですから、思考なしに一切見えているのというのはありえないでしょう。
> 違いますか。

馬鹿野郎と怒鳴ったら、それは確かに今起きたことです。それが今あるものです。それを名付けもしないで見ている。その起きていることに反応しないで見ている。もし、続いて何か起こればそれも名付けたり、それに対する反応なしに見ている。どこまでも今起きているものについていく。

> 人間というのは、特別なこと以外は、一瞬一瞬想起し続けています。

それを見ている。すると想念の出る時間間隔がだんだん長くなって、ついに終わると思いますが違うでしょうか?

> 特別なこととは、何か関心を向けて見つめる時です。何だろなと。
> 又、何かを好きになってる時も思考は生じません。秋田犬の子犬を見てる時。その子犬を見てる時、穏やかな気持ちになる。

思考が生じているのを命名なしに見ている。実験してみてください。

> 私とあなたは同じ人間なので知覚に違いはないはずですが。

そう思います。考えで出来ないと言わずに実際にやってみてください。


[25658] Re:[25655] [25636] 既知からの自由 4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/15(Sun) 21:07  

長文をしっかりと読んでくださってありがとう。

Kの言う構造を見るという事がよくわかりました。
私達は実在する歓喜を考えの中のイメージに変えてその幻想を追っているのですね。

> > >  ではなぜ生は快楽によって導かれるべきではないのかとあなたは尋ねるかも知れません。それは快楽は苦痛、欲求不満、悲しみ、そして恐怖をもたらし、そして、その恐怖から暴力をもたらすに違いないという非常に簡単な理由からです。−−

ここに人間の暗黒面の基本線がある気がします。5章6章と続いている気がします。しっかり読んでこの構造を理解したいものです。


[25657] 見る 投稿者:無明 投稿日:2018/07/15(Sun) 19:28  

見るというには、テレビを見るというように、視覚のことではなく、内面を見るということです。わかりやすくいうと
テレビを見てそれに反応している「自分」を見るということ。
見るというと誤弊があるので「観る」というのが適切。又「気づき」という言葉も誤解を呼ぶ。
テレビでのドラマで、笑ったり怒ったり泣いたりしている自分自身をというものを自覚している。というのが正確な言い方。
別な言い方で、客観的に自分を見ている。

「既知のからの自由」後半を読み進めていくと、1日1日瞬時瞬時見続けるといった、我々に対して無理な要求場面がしばしば出てくる。
一方では感情が動く場面をチャンスとして見るという。必ずしも一定していない。


ですから、受け取り側もバラバラであり、という統一見解がない。訳者の間でもそうである。
これも人間の認識のメカニズムに対しての探求不足から来ている。


閑話休題
awareness の訳に適したものがなく、「はっと気づく」というように、一種の悟り状態になることではなかろうか。最近そう思えてきました。
「見る」とか「気づき」は適切ではない。「自覚」の方がまだまし。


[25656] リアルな実際 投稿者:無明 投稿日:2018/07/15(Sun) 18:54  

<リアルな実際が、その場でわかるのですか。それが即時の理解?

<今あるものが今の現場でわかる、それがリアルな実際。それが思考の目を介してでなく見えていることが必要。つまり常識や自分のつくっていたイメージなど一切なしに見えている。そこに新しい知覚、気づきがある。

残念ながら、あなたのおっしゃっていることがよくわからない。
あなたの言葉の限界でしょうか?

再録

<今あるものが今の現場でわかる、それがリアルな実際。

今あるものって何ですか?
クリシュナムルティを読んでいるということが前提で、「あるもの」という言葉を使っているのでしょうか?
一般の人には、わからないと思います。「あるもの」って。

<それが思考の目を介してでなく見えていることが必要。

どういう意味ですか?現場ではリアルタイムに反応してるのですよ。
反応というのは、瞬時瞬時想起してることです。

<つまり常識や自分のつくっていたイメージなど一切なしに見えている。そこに新しい知覚、気づきがある。

ですから、現場では、反応がリアルタイムに起きているにですから、思考なしに一切見えているのというのはありえないでしょう。
違いますか。
人間というのは、特別なこと以外は、一瞬一瞬想起し続けています。
特別なこととは、何か関心を向けて見つめる時です。何だろなと。
又、何かを好きになってる時も思考は生じません。秋田犬の子犬を見てる時。その子犬を見てる時、穏やかな気持ちになる。

私とあなたは同じ人間なので知覚に違いはないはずですが。




[25655] Re:[25636] 既知からの自由 4 投稿者:宮啓 投稿日:2018/07/15(Sun) 10:43  

>  [快楽の追求・欲望・思考による歪曲]
>
> 前の章で喜びは快楽とは全く違った何かだと言いました。そこで快楽には何が含まれているか、また快楽ではなく、喜び、至福の途方もない感覚の世界に生きることが、果たして可能かどうか見いだしましょう。
>
>  私たちはみな何らかの形で快楽の追求に携わっています ― 知的な、感覚的あるいは文化的快楽、改革し、他人に何をすべきか教え、社会の悪を修正し、よいことを行う快楽 ― より多くの知識の快楽、より多くの肉体的満足、より大きな経験、より偉大な生の理解、利口で抜け目のない心の物事のすべて ― そして究極の快楽は、もちろん、神を持つことです。


 >より偉大な生の理解−−、これはすなわち「クリシュナムルティ理解」にも当てはまるということですね。。

 クリシュナムルティ理解への取り組みは、とても充実しており、快楽も喜びも大きいように感じます。


 >そして究極の快楽は、もちろん、神を持つことです。−−、クリシュナムルティ理解における「神」的な存在は、「基底」「ザー・アーザー」等々、さまざまな名前で陳述される。クリシュナムルティは、講話等の陳述の締めに、よくその名なきものの存在をほのめかす。日記や手記(『コメンタリー』)の締めでも、よくこれをほのめかす。

 現世利益ではないが、クリシュナムルティ理解に取り組んでいる者にとっては、とてもありがたい励みになる言葉である。


>  快楽は社会の構造です。子供の時から死ぬまで、私達は密かに、抜目なく、あるいはあからさまに快楽を追求しています。ですから快楽の形が何であれ、それが人生を導き形作るので、それについて非常に明確でなければならないと私は考えます。したがって私達の一人一人がこの快楽の問題を、綿密に、ためらいながら、細心の注意をして調べることが重要です。というのは快楽を見いだし、そしてそれを育て維持することは生の基本的要求であり、それなしでは生きることは退屈で、馬鹿げて、単独で、無意味になるからです。


 就学、受験、進学、就職、結婚。これらが社会構造であり、それらは快楽原理に基づいている。

 >というのは快楽を見いだし、そしてそれを育て維持することは生の基本的要求であり、それなしでは生きることは退屈で、馬鹿げて、単独で、無意味になるからです。−−、クリシュナムルティ理解への取り組みが遅々として普及しないのは、この快楽原理との折り合いが厳しいからかもしれません。。
 雲水として出家する覚悟と同じくらいの真剣さがなければ、「快楽原理」があるために、ついてゆくことが難しい。


>  ではなぜ生は快楽によって導かれるべきではないのかとあなたは尋ねるかも知れません。それは快楽は苦痛、欲求不満、悲しみ、そして恐怖をもたらし、そして、その恐怖から暴力をもたらすに違いないという非常に簡単な理由からです。もしそのように生きたいなら、そのように生きなさい。世界の大多数は、ともかく、そうします。しかし悲しみから自由でありたいなら快楽の構造の全体を理解しなければなりません。


 快楽の追求が恐怖や暴力の源であることが述べられています。

 恐怖や暴力を、人が自身の内側に見たときに、そこに「快楽原理」を見ることができるか。。


>  快楽を理解することはそれを否定することではありません。快楽を非難したり、それが正しいとか間違っているとか言っているのではなく、快楽を求めるならいつも快楽を探し求めている心は不可避的にその影、苦痛を見いださなければならないことを知って、両目を開けて、そうしましょう。私達は快楽を追いかけ、苦痛を避けようと努めますが、快楽と苦痛は分離することはできません。


 職場での苦痛。。より多くの金銭、ステイタス、そして安楽を求めるがゆえに、その「快楽」による影が「苦痛」として現れている。

 だから、金銭、ステイタス、安楽を求めることはよしましょう。ではなく、その「苦痛」は「快楽」の両輪としてあることを、見て、その苦痛と快楽と共に歩む。両目を開けて歩む。


>  さてなぜ心は常に快楽を要求しているのでしょうか? なぜ私達は快楽の底流のもとに高貴なあるいは下劣なことをするのでしょうか? なぜ私達は快楽の細い糸の上で犠牲を供し、苦しむのでしょうか? 快楽とは何であって、それはどんなふうに生じるのでしょうか? 誰か自分自身にこれらの問いを尋ねて、答えをその最後まで追ったことがあるのかどうか、私は疑問に思います。


 奴隷や強制収容所、あるいは農奴や貧困民、障碍者や男尊女卑社会での女性等の社会的弱者も、そして虐待児なども快楽を願う。そして、その両輪としての苦痛を味わう。

 本来の福祉の意味は、願わずとも与えられる一定以上の快楽の無償提供。

 更には、その恐怖と暴力によって、一定の変革がもたらされる一揆や革命。搾取者は安寧に永続的な搾取行為が許されない、快楽→恐怖→暴力→変革の因果。


>  快楽は四つの段階 ― 知覚、感覚、接触、欲望、を通じて生じます。私は美しい自動車を見ます。次にそれを見て感覚、反応を得ます。それからそれに触り、またはそれに触ることを想像し、そして次には所有しその中の自分を見せびらかそうとする欲望があります。あるいは美しい雲を見ます。あるいは空にくっきりとそびえたつ山、春に芽吹いたばかりの木の葉、魅力と壮麗さに満ちた深い峡谷、素晴らしい夕焼け、あるいは美しい顔、聡明で、生き生きして、自分を意識してそれゆえもはや美しくないのではなく。私はこれらのものを強い歓喜を持って見、そしてそれらを観察するとき観察者はなくただ愛のような純粋の美があるだけです。一瞬、すべての問題、心配、惨めさを抱える私は不在です ― あの素晴らしいものがあるだけです。私はそれを喜びを持って見ることができ、次の瞬間それを忘れます。そうでなければ心が入り込み、それから問題が始まります。私の心は見たものを思い巡らしそれはいかに美しかったか考えます。それをまた見たいと何度も自分自身に話します。思考は比較、判断をし始め、「私は明日また同じ経験をしなければ」と言います。瞬間的に歓喜を与えた経験の継続が、思考によって維持されます。


 思考。条件付け、フィルターとなって、現にあるものを歪めてしまう煙。
 これが、どこから来るのか。快楽原理との繋がりが深そうだ。


>  静的な欲望あるいはどんな形のほかの欲望についても同じです。欲望に何も間違ったことはありません。反応することは完全に正常です。もしあなたが私にピンを刺すならマヒしていない限り私は反応するでしょう。しかしその後で思考が入り込み、喜びをよく考え、それを快楽に変えます。思考は経験を繰り返そうと望み、繰り返せば繰り返すほど、それはますます機械的になります。それについて考えれば考えるほど、思考はますます快楽に強さを与えます。それゆえ思考は欲望を通じて快楽をつくりだして維持し、それに継続性を与え、したがって美しいものに対する欲望の自然な反応は、思考によって歪曲されます。思考はそれを記憶に変え、そして記憶はその後何度もそれについて考えることによって強められます。


 性的欲望は種の維持へ向かう。食欲は個体の維持。
 そこへ思考がやって来て、風俗・性産業、グルメ産業と娯楽産業として肥大化してゆく。


>  もちろん記憶はあるレベルの持ち場があります。毎日の生活において記憶がなければ全く機能できません。それ自体の場の中ではそれは効率的であるに違いありませんが、記憶の持ち場が殆どない心の状態があります。記憶によって損なわれていない心は真の自由を持っています。


 時間の終焉、自我の終焉の場。


> [記憶・喜び]
>
>  何かに全身全霊で全的に応答するとき、殆ど記憶がないことに、今までに気づいたことがありますか? 挑戦に自分の全存在で応答しないときだけ、葛藤、苦闘があり、これが混乱と快楽または苦痛をもたらします。そして苦闘は記憶を生みます。その記憶は常に他の記憶によって増大させられ、応答するのはこれらの記憶です。記憶の結果であるものは何であっても古く、それゆえ決して自由ではありません。思考の自由というようなものはありません。それは全くのナンセンスです。


 思考の場(時間の場)、なりゆく場では、快楽、恐怖、暴力、苦痛がある。それは、不注意、すなわち、>挑戦に自分の全存在で応答しない−−、その不注意によってもたらされる。

 そして、>そして苦闘は記憶を生みます。その記憶は常に他の記憶によって増大させられ、応答するのはこれらの記憶です。記憶の結果であるものは何であっても古く、それゆえ決して自由ではありません。思考の自由というようなものはありません。それは全くのナンセンスです。−−、これが思考の正体ということでしょうか。自我の正体。

 若いほど柔軟で優しい。乳幼児は愛がある。年を重ねるうちに苦闘の記憶が蓄積されてゆく。柔軟さは硬直化し、優しさは冷酷へと変わってゆく。思考の正体。自我の正体。


>  思考は決して新しくありません。というのは思考は記憶、経験、知識の応答だからです。思考は、古いものだから、この歓喜を持って見、そしてその瞬間非常に素晴らしく感じたものを古いものにします。古いものから快楽を引き出すのであり、新しいものからではありません。新しいものには時間はありません。


 分析・選択するためには、認識のケースに収めなければならない。思考は新しいものに反応して、それを認識のケースに収めるという反応が条件づけられている。
 条件付けそのものが過去化を意味しているようだ。


>  それゆえもし快楽が忍び入るのを許さずに全てのものを見るなら ― 美しい顔、鳥、サリーの色、日にきらめく水面の美、喜びを与えるどんなものでも ― 経験が繰り返されるのを望まずに見ることができるなら、その時苦痛はなく、恐怖はなく、したがって途方もない喜びがあるでしょう。


 ぎょっとするときだけに、注意を払うのではなく、喜びのとき、美のときにも注意をはらう。歓喜の瞬間に注意する。


>  快楽を苦痛に変えるのは、それを繰り返し、永続させようとする苦闘です。それを自分自身の中に見守りなさい。快楽を繰り返そうとするその要求そのものが苦痛をもたらします。なぜなら快楽は昨日あったものと同じではないからです。あなたは自分の審美的な感覚に対してだけでなく、心の同じ内的資質に対しても、同じ喜びを得ようと苦闘し、それが拒否されるので傷つき失望します。


 渡辺さんは、板を閉じる頃に、「近頃、坐禅の効果が薄くなってきている(旨)」を述べていました。>心の同じ内的資質に対しても、同じ喜びを得ようと苦闘し、それが拒否されるので傷つき失望します。−−、これが起きていたのです。

 渡辺さんを傷つけたのは「快楽の希求」であったのです。

 これはクリシュナムルティ理解への取り組みにおいても、大きな落とし穴となりうることなので、「快楽原理」はしっかりと理解したいものです。


>  少しばかりの楽しみを拒否されるとき自分に何が起きるか観察したことがありますか? 望むものが得られないとき、切望し、妬み、いらいらします。飲酒や喫煙、セックス、あるいは何であれその快楽を拒否されたとき ― どんな戦いを味合うか気づいたことがありますか? そしてその全ては恐怖の一つの姿ではないでしょうか? 欲することを得ないこと、あるいは持っているものを失うことを恐れています。何年も保持してきた或る特別な信仰やイデオロギーが、論理または生活によって振り飛ばされたり引き離されたりしたとき、一人で立つことを恐れないでしょうか? その信念は何年も満足と快楽を与えてきました。そしてそれが取り去られるとき、途方に暮れ、虚脱したままになり、そして恐怖は別の形の快楽、別の信念を見出すまで存続します。


 人がなかなか変われないのは、その信念の除去が怖くて、手放せないのですね。自我が存在するという信念。自分が存在するという信念。

 自分が存在するという信念は、快楽の最たるものであったのですね。。それゆえに、恐怖・暴力の最たるものであるところの。。苦闘の根源。


>  それは私には非常に単純に思われ、そしてそんなにも単純なので私達はその単純さを見ようとしません。私達はあらゆるものを複雑化することを好みます。妻が自分を見捨てるとき嫉妬しませんか? 怒りませんか? 彼女を魅惑した男を憎みませんか? その全ては、たくさんの快楽、信仰、ある保証の性質と所有の満足を与えてくれたものを失う恐怖でなくて何でしょうか?


 「あなた」や「わたし」が死んでくれたら、そこはただちに楽園であること。単純なこと。ただし、肉体の死でははなく自我の死のこと。。

>  それゆえたとえ快楽の追求があるところには苦痛があるに違いないことを理解しても、もしそのように生きたいならそう生きなさい。だが決してその中に陥ってはいけません。もし快楽を終えることを望むなら、それは苦痛を終えることですが、快楽の構造の全体に完全に注意深くなければなりません ― 修道士や苦行僧は、女性を見るのは罪だと考えて決して見ず、それによって理解の活力を破壊していますが、そのようにして快楽を断つのではなく ― 快楽の全体の意味と意義を見ることです。その時生の中に途方もない喜びを持つでしょう。喜びについて考えることはできません。喜びは即時のものであって、それについて考えることにより喜びは快楽に変わります。現在に生きることは、それから快楽を求めることのない、美の即時の知覚であり、その中にある大きな歓喜です。


 私は知らずに結婚し子をもうけた。今更、快楽を放棄するために妻子を放棄することはできない。クリシュナムルティは放棄せよとは言っていない。クリシュナムルティは次のように言っている、>それゆえたとえ快楽の追求があるところには苦痛があるに違いないことを理解しても、もしそのように生きたいならそう生きなさい。だが決してその中に陥ってはいけません。−−。クリシュナムルティは現実的なことしか言わない。安心してついてゆくことができる。。

 それに比べて、他のスピリチュアルでは、>修道士や苦行僧は、女性を見るのは罪だと考えて決して見ず、それによって理解の活力を破壊していますが、−−、このようなハウツーが一般的ではないだろうか。寂聴さんは肉を食べているが、これは破戒とのこと。

 そうではなく、>快楽の全体の意味と意義を見ることです。その時生の中に途方もない喜びを持つでしょう。喜びについて考えることはできません。喜びは即時のものであって、それについて考えることにより喜びは快楽に変わります。現在に生きることは、それから快楽を求めることのない、美の即時の知覚であり、その中にある大きな歓喜です。
−−





> (4章 終わり)


[25654] Re:[25653] 既知からの自由 5−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/15(Sun) 07:36  

> 5章の1 [自己関心・地位への切望]
>
> 更に進む前に、生におけるあなたの根本的、永続的関心は何か?とお尋ねしたいのです。遠回しの答えはすべて脇に置き、この問を積極的に正直に扱うなら、あなたはどう答えられますか? 知っていられますか? それは自分自身ではないでしょうか? とにかく、正直に答えるなら殆どの人がそういうでしょう。私が関心があるのは自分の進歩、自分の仕事、自分の家族、自分の住んでいる小さな片隅、自分のためのより良い地位、より多くの威信、より多くの力、より多くの他人への支配を得ることなどです。ほとんどの人が主に関心があるのは ― 第一に「私」であるという事を、自分に対して認めるのは当然ではないかと私は思います。
>
>  何人かの人は自分に主として関心を持つのは間違っていると言うかもしれません。しかし私達は稀にしか、きちんと正直に認めないということを別にすれば、それの何が間違っているのでしょう? 認めれば私達はむしろそれを恥じます。実情はそうです ― 人は根本的に自分自身に関心があり、種々のイデオロギー的または伝統的理由でそれは間違っていると考えます。しかし人が考えるものは見当違いです。なぜその間違っているという要素を持ち込むのでしょうか? それは観念、概念です。事実は人は根本的にそして永続的に自分自身に関心があるという事です。
>
>  自分のことを考えるより他人を助けることの方がより満足できると言うかもしれません。何が違うのでしょう? それはなお自己関心です。他人を助けるということがあなたにより大きな満足を与えるのなら、より大きな満足を与えてくれるものにあなたは関心があるのです。なぜそのことに何かのイデオロギー的な概念を持ち込むのでしょう? なぜこの二重の考えがあるのでしょう? なぜ「私が本当に望んでいるのはセックスや、他人を助けることや、偉大な聖者、科学者、政治家になることの何れであろうが、満足です」と言わないのでしょう? それは同じ過程ではないでしょうか? 微妙と明白、あらゆる種類のやり方による満足が私達が望んでいるものです。自由が欲しいと言うとき、それが素晴らしく満足させてくれるかもしれないと考えるから望み、そして究極の満足は、もちろん自己実現というこの特別の観念です。私たちが本当に求めているのは不満のまったくない満足なのです
>
>  私達は大抵社会の中で地位を持つという満足を切望しますが、それは何者でもないことを恐れるからです。尊敬すべき地位を持つ市民は非常に丁重に扱われるのに対し、地位のない人は粗末に扱われるように社会は構成されています。世界中のあらゆる人が社会の中であれ、家族の中であれ、地位を、あるいは神の右手に座ることを求めます。そしてこの地位は他人によって認められなければなりません。そうでなければそれは少しも地位ではないのです。私達は常に演壇に座っていなければならないのです。内的には私達は惨めさと不和の渦巻きであり、したがって外的に立派な人だと見做されることは非常に満足させてくれます。この地位や名声や権力への切望、何らかの点で目立っていると社会によって認められたいとの切望は、他人を支配したいという願望であり、この支配欲は攻撃の一形態です。自分の神聖さに関して地位を追及する聖者は、農家の庭先でつついている鶏と同じように攻撃的なのです。そしてこの攻撃性の原因は何でしょうか? それは恐怖ではないでしょうか?


5章の主題は恐怖です。この5−1はその導入部です。

私たちが本当に求めているのは不満のまったくない満足であると説き、社会の中で支配的な地位を求め、攻撃性を持つと。これは何者でもない事への恐怖ではないかと問われます。

これは社会、ないし群れの中で生じるある種の緊張感から生じるものだろうか? 社会や群れには、異質に対する嫌悪、排除の感覚が生じるのは大いにありうることだと思われます。それが読めないと何が起こるか、よそよそしさから始まって孤立、いじめなどとか。社会と群れはどう違うのかもよくわからない。いじめが事件になると社会が騒然となる。

この後恐怖が徹底的に問われます。なるべく早く掲載します。


[25653] 既知からの自由 5−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/15(Sun) 07:12  

5章の1 [自己関心・地位への切望]

更に進む前に、生におけるあなたの根本的、永続的関心は何か?とお尋ねしたいのです。遠回しの答えはすべて脇に置き、この問を積極的に正直に扱うなら、あなたはどう答えられますか? 知っていられますか? それは自分自身ではないでしょうか? とにかく、正直に答えるなら殆どの人がそういうでしょう。私が関心があるのは自分の進歩、自分の仕事、自分の家族、自分の住んでいる小さな片隅、自分のためのより良い地位、より多くの威信、より多くの力、より多くの他人への支配を得ることなどです。ほとんどの人が主に関心があるのは ― 第一に「私」であるという事を、自分に対して認めるのは当然ではないかと私は思います。

 何人かの人は自分に主として関心を持つのは間違っていると言うかもしれません。しかし私達は稀にしか、きちんと正直に認めないということを別にすれば、それの何が間違っているのでしょう? 認めれば私達はむしろそれを恥じます。実情はそうです ― 人は根本的に自分自身に関心があり、種々のイデオロギー的または伝統的理由でそれは間違っていると考えます。しかし人が考えるものは見当違いです。なぜその間違っているという要素を持ち込むのでしょうか? それは観念、概念です。事実は人は根本的にそして永続的に自分自身に関心があるという事です。

 自分のことを考えるより他人を助けることの方がより満足できると言うかもしれません。何が違うのでしょう? それはなお自己関心です。他人を助けるということがあなたにより大きな満足を与えるのなら、より大きな満足を与えてくれるものにあなたは関心があるのです。なぜそのことに何かのイデオロギー的な概念を持ち込むのでしょう? なぜこの二重の考えがあるのでしょう? なぜ「私が本当に望んでいるのはセックスや、他人を助けることや、偉大な聖者、科学者、政治家になることの何れであろうが、満足です」と言わないのでしょう? それは同じ過程ではないでしょうか? 微妙と明白、あらゆる種類のやり方による満足が私達が望んでいるものです。自由が欲しいと言うとき、それが素晴らしく満足させてくれるかもしれないと考えるから望み、そして究極の満足は、もちろん自己実現というこの特別の観念です。私たちが本当に求めているのは不満のまったくない満足なのです

 私達は大抵社会の中で地位を持つという満足を切望しますが、それは何者でもないことを恐れるからです。尊敬すべき地位を持つ市民は非常に丁重に扱われるのに対し、地位のない人は粗末に扱われるように社会は構成されています。世界中のあらゆる人が社会の中であれ、家族の中であれ、地位を、あるいは神の右手に座ることを求めます。そしてこの地位は他人によって認められなければなりません。そうでなければそれは少しも地位ではないのです。私達は常に演壇に座っていなければならないのです。内的には私達は惨めさと不和の渦巻きであり、したがって外的に立派な人だと見做されることは非常に満足させてくれます。この地位や名声や権力への切望、何らかの点で目立っていると社会によって認められたいとの切望は、他人を支配したいという願望であり、この支配欲は攻撃の一形態です。自分の神聖さに関して地位を追及する聖者は、農家の庭先でつついている鶏と同じように攻撃的なのです。そしてこの攻撃性の原因は何でしょうか? それは恐怖ではないでしょうか?


[25652] Re:[25651] [25650] [25645] [25641] [25637] [25636] 既知からの自由 4 投稿者:宮啓 投稿日:2018/07/13(Fri) 21:10  

> >  仮の話です。。
> >
> >  もしも、ゴトさんが「特別未来学校小学部」にて、終身教育の授業で、皇民化教育ではなく、クリシュナムルティ理解教育を受けていたならば、現人神は実は人間ではないのかと疑ったのではないでしょうか。
> >
> >
> >  その皇民化教育による条件づけは致命的であるのが見えたのではないでしょうか。。
>
>
> 天皇が現人神でないこと、人間であることなど、子供も大人もわかっていましたよ。
>  ただ、それは口に出して言えないタブーだったのです。言えば何か恐ろしいことが起こる。


 人は馬鹿ではなかったのですね。

 今の北朝鮮も国民は見抜いているのですね。。


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