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[25777] Re:[25774] 矛盾 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/10(Fri) 09:39  

> >それを別の言い方で言ってくれました。ただ見るということでなく、比較をしないであるがままの自分と生きるという事です。それをより詳細に言っています。あるがままのものと生きる時平和があります。
>  >その時自分の全部の注意を、少しもそらすこともなしに、自分自身の中にあるものに注ぐことができます ― それが{絶望、醜さ、残忍さ、恐怖、不安、孤独}であろうとも ― そして完全にそれと共に生きなさい。そのとき矛盾はなくしたがって葛藤はありません。
>
>  >向上した人格でなく、絶望、醜さや何であろうがあるがままのものと生きる。 
>
> つまり、わかりやすいいい方に変えると
> 「葛藤なしに生きる」
> 「絶望なしに生きる」
> 「醜さなしに生きる」
> 「比較なしに生きる」
> ではなく
> 「葛藤と共に生きる」

ここだけが変わってくるのです。あるがままと生きると葛藤がなくて平和が訪れるのです。それでもはや葛藤はありません。

> 「絶望と共に生きる」
> 「醜さと共に生きる」
> 「比較と共に生きる」
>
>
> 恐怖なしに生きるのではなく、恐怖と共に生きる。何であろうと。
>


[25776] Re:[25773] [25768] 象徴もしくはイメージ 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/10(Fri) 09:31  

> > キリスト教の愛は私にとっては言葉、観念、イメージであって、リンゴや机、コップと違って、実物をよく知っているというものではない。
> >
> > しかし世間話で使うにはまあ不自由するというほどでもないが、周りがみなキリスト教徒だと自分が素人であると意識する。
> >
> > 所がKの話は精神的な、それも西洋やインドの風習の中でポンポン出てくる言葉・語がたくさんある。しかし人間としての共通性があると思っているので、怒り、悲しみ、嫉妬などで悩むことはない。しかし、理解はわかりにくい。知的理解と書いてくればまあわかる。愛もわかりにくい。なぜだろう。実物を推定するとイメージになってしまう。
> >
> > どうも西洋は概念をきっちり決めて、そこから行動するのが好きなのだろうか?
>
>
> キリスト教の愛は、それによって「律法が成就する」と聖書には説かれていますので、偶像(多分、イメージや観念)を作らなくするものです。
> でも殆どのクリスチャンは、ゴトさんの仰るように愛の行為のイメージや「イエスならこうされるだろう」といったイメージに従うように努める発想しかないと思われます。

ヨミさん、ご教示有難うございます。
愛により律法が成就するのですか。なるほど。イメージ、観念を介在させない。素晴らしい秩序ですね。
それが実現するキイはどこにあるのか?…


[25775] 何を言いたいのか? 投稿者:無明 投稿日:2018/08/10(Fri) 06:07  

Kは何をいいたいのか?

例えばこの度、東京医大の女性差別が明らかになりました。
それで?
差別はやめろということ?

マスコミは正義の見方ずらして、ここぞとばかり大学側を叩く。

大学側の言い分としては、女子は「出産」という名目で、現場を離れる可能性があるということです。なるべくならとりたくない。




[25774] 矛盾 投稿者:無明 投稿日:2018/08/10(Fri) 05:47  

>それを別の言い方で言ってくれました。ただ見るということでなく、比較をしないであるがままの自分と生きるという事です。それをより詳細に言っています。あるがままのものと生きる時平和があります。
 >その時自分の全部の注意を、少しもそらすこともなしに、自分自身の中にあるものに注ぐことができます ― それが{絶望、醜さ、残忍さ、恐怖、不安、孤独}であろうとも ― そして完全にそれと共に生きなさい。そのとき矛盾はなくしたがって葛藤はありません。

 >向上した人格でなく、絶望、醜さや何であろうがあるがままのものと生きる。 

つまり、わかりやすいいい方に変えると
「葛藤なしに生きる」
「絶望なしに生きる」
「醜さなしに生きる」
「比較なしに生きる」
ではなく
「葛藤と共に生きる」
「絶望と共に生きる」
「醜さと共に生きる」
「比較と共に生きる」


恐怖なしに生きるのではなく、恐怖と共に生きる。何であろうと。



[25773] Re:[25768] 象徴もしくはイメージ 投稿者:ヨミ 投稿日:2018/08/09(Thu) 22:51  

> キリスト教の愛は私にとっては言葉、観念、イメージであって、リンゴや机、コップと違って、実物をよく知っているというものではない。
>
> しかし世間話で使うにはまあ不自由するというほどでもないが、周りがみなキリスト教徒だと自分が素人であると意識する。
>
> 所がKの話は精神的な、それも西洋やインドの風習の中でポンポン出てくる言葉・語がたくさんある。しかし人間としての共通性があると思っているので、怒り、悲しみ、嫉妬などで悩むことはない。しかし、理解はわかりにくい。知的理解と書いてくればまあわかる。愛もわかりにくい。なぜだろう。実物を推定するとイメージになってしまう。
>
> どうも西洋は概念をきっちり決めて、そこから行動するのが好きなのだろうか?


キリスト教の愛は、それによって「律法が成就する」と聖書には説かれていますので、偶像(多分、イメージや観念)を作らなくするものです。
でも殆どのクリスチャンは、ゴトさんの仰るように愛の行為のイメージや「イエスならこうされるだろう」といったイメージに従うように努める発想しかないと思われます。


[25772] Re:[25771] 既知からの自由7−3 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/09(Thu) 14:00  

> 7章‐3[比較]
>
>  もし模倣するなら、権威を受け入れるなら、司祭、儀式、教義、政党あるいは何かのイデオロギーに依存するなら、エネルギーの浪費はないと考えるかもしれません。しかしイデオロギーにしたがったり受容したりすることは、それがよかろうと悪かろうと、神聖であろうとなかろうと、断片的な活動であり、それゆえ葛藤の原因です。そして「あるべきもの」と「あるがままのもの」との間の分離がある限り、葛藤は不可避的に起こり、そしてどんな葛藤もエネルギーの浪費です。


教義にしろ、イデオロギーにしろそれを受け入れて行動するなら、それは断片的活動であり、そして「あるべきもの」と「あるがままのもの」との間の分離があるので葛藤は不可避的に起こり、それは徒労に終わる。これはこの社会に広く起こっていることの本質的記述であり、疑問の余地はない。、


>  「どうすれば葛藤から解放されるだろうか?」と自分自身に問うなら、あなたは別の問題を作り出しており、故に葛藤を増大させています。ところがそれを事実としてただ見るだけなら ― ある具体的な対象を見るかのようにそれを見るなら ― 明確に、直接的に見るなら ― その時葛藤のまったくない生の真理を本質的に理解するでしょう。


ここにおいて葛藤からの解放を求めるなら、またもや新たに葛藤を創り出して徒労の苦闘の道に入る。
 ところがそれを事実としてただ見るだけなら( ― ある具体的な対象を見るかのようにそれを見るなら ― 明確に、直接的に見るなら ― )その時{葛藤のまったくない}生の姿を本質的に理解するでしょう。


>  それを別の言い方で言ってみましょう。私達は常にあるがままの自分をあるべき自分と比較しています。あるべきものは自分がそうあるべきだと考えるものの投影です。比較があるとき矛盾が存在します。何かとのまたは誰かとの比較だけではなく、昨日の自分との比較です。それ故そうであったものと、あるがままのものとの間に葛藤があります。比較が全くないときのみあるがままのものがあり、そしてあるがままであるものと生きることは平和であることです。その時自分の全部の注意を、少しもそらすこともなしに、自分自身の中にあるものに注ぐことができます ― それが絶望、醜さ、残忍さ、恐怖、不安、孤独であろうとも ― そして完全にそれと共に生きなさい。そのとき矛盾はなくしたがって葛藤はありません。


それを別の言い方で言ってくれました。ただ見るということでなく、比較をしないであるがままの自分と生きるという事です。それをより詳細に言っています。あるがままのものと生きる時平和があります。
 >その時自分の全部の注意を、少しもそらすこともなしに、自分自身の中にあるものに注ぐことができます ― それが{絶望、醜さ、残忍さ、恐怖、不安、孤独}であろうとも ― そして完全にそれと共に生きなさい。そのとき矛盾はなくしたがって葛藤はありません。−−
 向上した人格でなく、絶望、醜さや何であろうがあるがままのものと生きる。 


>  しかしいつも私達は自分自身を比較しています ― より裕福で、より立派な、より知的な、より情愛の深い、より有名な、よりこうで、よりああである人達と。「より以上」が生の中で並外れて重要な役割を演じています。このいつも自分自身を何かあるいは誰かに対して測ることが葛藤の主な原因の一つです。


しかし、私たちは比較をしないでいるという事も実際にはできないようです。


>  さてなぜいったい比較ということがあるのでしょうか? この比較ということは子供の時から教えられてきました。あらゆる学校でAはBと比較され、そしてAはBのようになるために自分自身を破壊します。全く比較しないとき、理想も反対物も二重性もないとき、あるがままの自分と違ったものになるための苦闘がもはやないとき ― あなたの心に何が起きましたか? あなたの心は反対物を作り出すことをやめてしまい、非常に聡明に、非常に敏感に、膨大な情熱を持つ事が出来るようになりました。なぜなら努力は情熱 ― 生き生きしたエネルギーである情熱の浪費であり、情熱なしには何もすることはできません。


Kは何を私たちに伝えたいのだろう? あるがままの自分と違ったものになりたいという苦闘が終わるときに情熱にあふれる新天地の存在することを伝えたいのだろうか? そのとき非常に聡明で、非常に敏感で、情熱にあふれる自分がありはしないかと?


>  他人と自分自身を比較しないなら、あなたはあるがままの自分でしょう。比較を通じて進化し、成長し、より聡明になり、より美しくなることを望みます。しかしなりますか? 事実はあるがままの自分であり、そして比較することによってあなたは事実を断片化しており、それはエネルギーの浪費です。どんな比較もなしに実際に自分のあるがままを見ることは見るための途方もないエネルギーを与えます。自分を比較なしに見ることが出来るときあなたは比較を越えており、それは心が満足して淀んでいることを意味しません。そこで生の全体を理解するために必要なエネルギーを、心がいかに浪費するかを、私たちは本質的に知るのです。


比較なしはイコール断片化なしということかもしれませんが、社会の伝統的成長の仕方に根本的に疑問がありはしないかとクリシュナムルティは訴えているのでしょうか?
>
> (続く)


[25771] 既知からの自由7−3 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/09(Thu) 10:13  

7章‐3[比較]

 もし模倣するなら、権威を受け入れるなら、司祭、儀式、教義、政党あるいは何かのイデオロギーに依存するなら、エネルギーの浪費はないと考えるかもしれません。しかしイデオロギーにしたがったり受容したりすることは、それがよかろうと悪かろうと、神聖であろうとなかろうと、断片的な活動であり、それゆえ葛藤の原因です。そして「あるべきもの」と「あるがままのもの」との間の分離がある限り、葛藤は不可避的に起こり、そしてどんな葛藤もエネルギーの浪費です。

 「どうすれば葛藤から解放されるだろうか?」と自分自身に問うなら、あなたは別の問題を作り出しており、故に葛藤を増大させています。ところがそれを事実としてただ見るだけなら ― ある具体的な対象を見るかのようにそれを見るなら ― 明確に、直接的に見るなら ― その時葛藤のまったくない生の真理を本質的に理解するでしょう。

 それを別の言い方で言ってみましょう。私達は常にあるがままの自分をあるべき自分と比較しています。あるべきものは自分がそうあるべきだと考えるものの投影です。比較があるとき矛盾が存在します。何かとのまたは誰かとの比較だけではなく、昨日の自分との比較です。それ故そうであったものと、あるがままのものとの間に葛藤があります。比較が全くないときのみあるがままのものがあり、そしてあるがままであるものと生きることは平和であることです。その時自分の全部の注意を、少しもそらすこともなしに、自分自身の中にあるものに注ぐことができます ― それが絶望、醜さ、残忍さ、恐怖、不安、孤独であろうとも ― そして完全にそれと共に生きなさい。そのとき矛盾はなくしたがって葛藤はありません。

 しかしいつも私達は自分自身を比較しています ― より裕福で、より立派な、より知的な、より情愛の深い、より有名な、よりこうで、よりああである人達と。「より以上」が生の中で並外れて重要な役割を演じています。このいつも自分自身を何かあるいは誰かに対して測ることが葛藤の主な原因の一つです。

 さてなぜいったい比較ということがあるのでしょうか? この比較ということは子供の時から教えられてきました。あらゆる学校でAはBと比較され、そしてAはBのようになるために自分自身を破壊します。全く比較しないとき、理想も反対物も二重性もないとき、あるがままの自分と違ったものになるための苦闘がもはやないとき ― あなたの心に何が起きましたか? あなたの心は反対物を作り出すことをやめてしまい、非常に聡明に、非常に敏感に、膨大な情熱を持つ事が出来るようになりました。なぜなら努力は情熱 ― 生き生きしたエネルギーである情熱の浪費であり、情熱なしには何もすることはできません。

 他人と自分自身を比較しないなら、あなたはあるがままの自分でしょう。比較を通じて進化し、成長し、より聡明になり、より美しくなることを望みます。しかしなりますか? 事実はあるがままの自分であり、そして比較することによってあなたは事実を断片化しており、それはエネルギーの浪費です。どんな比較もなしに実際に自分のあるがままを見ることは見るための途方もないエネルギーを与えます。自分を比較なしに見ることが出来るときあなたは比較を越えており、それは心が満足して淀んでいることを意味しません。そこで生の全体を理解するために必要なエネルギーを、心がいかに浪費するかを、私たちは本質的に知るのです。

(続く)


[25770] Re:[25752] 既知からの自由7−2 投稿者:宮啓 投稿日:2018/08/08(Wed) 18:20  

> 7章‐2[葛藤・社会・清貧・ドラッグ・依存]
>
>  人は葛藤を日常の生の生得的な部分として受け入れてきました。なぜなら戦争、嫉妬、貪欲、利欲心、攻撃を自然な生き方として受け入れてきたからです。そのような生き方を受け入れるとき、私達はあるがままの社会の構造を受け入れ、世間体の型の範囲内で生きます。そしてそれが私達の多くが捉えられていることであり、それは私達の多くがひどく世間体を気にするからです。自分自身の心とハートを、考え方、感じ方そして日常生活で自分がいかに行動するかを調べるとき、社会の型に順応する限り生は戦場であるに違いないということが分かります。もしそれを受け入れないならば ― そして宗教的な人はとてもそのような社会を受け入れられません ― その時社会の心理的構造から完全に解放されるでしょう。


 一般には上記の内容は意識には登らずに無意識の中で行われる。すなわち、「戦場」を現実として生きることになる。

 絶望を回避するために、安全地帯を希求する。その安全地帯が「愛」である場合が少なくない。もちろん、それは深層下で行われるので、絶望の回避や安全地帯の希求は意識されない。
 これが「決して手放すことできない確信」の創造の過程ではないでしょうか。。


>  私達の多くは社会のもので一杯です。社会が私達の中に作り出したもの、そして私達が自分自身の中に作り出したものは貪欲、羨望、怒り、憎悪、嫉妬、心配です ― そしてこれらのあらゆるもので私達は一杯です。世界中の様々な宗教は清貧を説いてきました。修道士は法衣を身につけ、名を改め、頭を剃り、独房に入り、清貧と純潔の誓いを立てます。東洋では一枚の腰布、一枚の法衣を持ち、一日に一度の食事をとります ― そして私達は皆その様な清貧を尊敬します。しかし清貧の法衣を身につけたこれらの人々はなお内的に、心理的に、社会のもので一杯です。なぜなら彼らはなお地位と名声を求めているからです。彼らはあれこれの教団、あれこれの宗教に属します。彼らはなお文化、伝統の分離の中で生きています。それは清貧ではありません。清貧は社会から完全に自由であることです。少し多くの衣類を持ち、少し多くの食事を取るかも知れないけれど ― これは驚いた、誰か気にします? しかし不幸にも多くの人の中にこの自己顕示癖の衝動があります。


 いかに愛を説こうとも、理想を強化して現実として主張し確信しようと、その愛を実践しても、自身の中の愛の欺瞞性は、他者の中の愛の欺瞞性を見ることによって、気づくことができるのではないでしょうか。


>  心が社会から自由であるとき、清貧は素晴らしく美しいものになります。人は内的に貧しくならなければなりません。というのはその時捜すことがなく、求めることがなく、欲望がなく ― 何もありません! 葛藤がまったくない生の真理を見ることが出来るのはこの内部の清貧のみです。そのような生はどんな教会や寺院にも見いだされない祝福です。


 欺瞞の垢を拭い去った無垢性は、欺瞞の典型である「社会」から自由であり、この無垢という「内部の清貧」が真理と交わることができる。


>  では社会の心理的な構造から自分自身を解放することが、それは葛藤の本質から自分自身を解放することですが、どうすれば可能なのでしょうか? 葛藤のある枝を刈り込み、切り落とすことは難しくありません。だが私達は、完全な内部の静穏の中に、それゆえ外部の静穏の中に生きることは可能か?と自分自身に尋ねているのです。それは単調な生活をするとか沈滞するという意味ではありません。それどころか活動的で、生き生きとし、エネルギーがあふれるでしょう。
>
>  どんな問題でもそれを理解し、それから自由であるためには情熱的で持続する膨大なエネルギーを必要とします。肉体的なそして知的なエネルギーだけでなく、どんな動機や、心理的刺激やドラッグにも依存しないエネルギーを必要とします。何かの刺激に依存するなら、その依存そのものが心を鈍く、無感覚にします。ある種のドラッグを服用することによって、ものごとを非常に明確に見るための十分なエネルギーを一時的に得るかもしれませんが、以前の状態に戻り、したがってそのドラッグにますます依存するようになります。それゆえ全ての刺激は、教会のであろうと、アルコールやドラッグや書かれた、あるいは話された言葉の刺激であろうと、必然的に依存を引き起こし、その依存は自分自身で明確に見ることを妨げ、従って生き生きとしたエネルギーを持つことを妨げます。


 この確信を拭い去ることは至難である。「心理的な死」に匹敵するほど恐ろしい。できない。膨大なエネルギーの動きが必要だ・・。
 しかし、その確信への依存は、日々の「安全地帯」において、不注意、怠慢、それゆえの腐敗によって、エネルギーを浪費させてしまう。



>  私達は皆不幸にも心理的に何かに依存しています。なぜ依存するのでしょう? なぜ依存しようという衝動があるのでしょう? 私達は一緒にこの旅をしています。自分の依存の原因を教えられるために私を待っているのではありません。一緒に問うなら共に発見するでしょうし、それゆえその発見は自分自身のものであり、そして、自分のものなので、自分に活力を与えるでしょう。


 欺瞞(愛)に依存するのは、その確信なしには、その戦場を生きていけないから。

 この「既知からの自由7−2」の主題。



>  私は自分自身で自分が何かに依存していることを見いだします ― 聴衆、例えばですが、それは私を刺激するでしょう。私はその聴衆から、多数の人に話しかけることから一種のエネルギーを得ます。そこで私はその聴衆、それらの人々に、その人たちが賛成であろうが反対であろうが、依存します。反対すればするほど、彼らはより多くの活力を私に与えます。もし彼らが賛成するならば、それは非常に浅薄で空虚なものになります。それゆえ自分は聴衆を必要とすることを見いだしました。なぜなら人々に講演するのは非常に刺激になることだからです。さてなぜでしょう? なぜ私は依存するのでしょう? なぜなら自分自身の中で私は浅薄であるから、自分自身の中に何も持っていないから、自分自身の中に常に満ち溢れている源泉を持っていないからです。だから私は依存します。私は原因を見いだしました。


 私は>自分自身の中に常に満ち溢れている源泉を持っていないから−−、だから「愛(のイメージ)」を創造し、それに確信を与える反応を生きる。



>  しかし原因の発見は依存から私を解放するでしょうか? 原因の発見は知的なものにすぎず、それゆえ明らかに依存から心を解放しません。観念の単なる知的な受容、あるいはイデオロギーの情緒的な黙認は、心をそれに刺激を与える何かへ依存することから解放しません。心を依存から解放するものは、刺激と依存の全体の構造と性質、そしていかにその依存が心を愚かに、鈍く、不活発にするかを見ることです。その全体を見ることのみが心を解放します。
>
>  そこで全体的に見るという事は、どういう事か調べなければなりません。私が特定の観点から、あるいは大事にしているある特定の経験から、あるいは私が集めたある特定の知識から、それは私の背景であり、「私」ですが、そこから生を見る限り、全体的に見ることはできません。私は知的に、言葉の上で、分析を通じて、自分の依存の原因を見いだしました。しかし思考が模索するものはどんなものでも必然的に断片的であるに違いありません。ですから思考が干渉しない時のみあるものの全体を見ることができます。
>
>  その時自分の依存という事実を見ます。実際にあるがままのものを見ます。それをどんな好きも嫌いもなしに見ます。それを除こうとかその原因から解放されようとか望みません。私はそれを観察し、この種の観察があるとき、断片ではなく全体像を見、心が全体像を見るとき自由があります。さて、断片化があるときエネルギーの浪費があるということを私は発見しました。エネルギーの浪費のまさにその源を見いだしたのです。


 深く深く入ってゆくためには、欺瞞を放棄せねばならない。
 心理的な死を覚悟してでも、欺瞞を放棄して手ぶらになる。手ぶらにならねば深く深く入ってゆくことはできないのではないでしょうか。

 その欺瞞の確信を、死の床まで持ってゆくつもりでないのなら、放棄してみてはどうでしょうか。それとも、その欺瞞はあの世へもってゆけるのでしょうか。

 その全体像を見る。






> (続く)


[25769] Re:[25768] 象徴もしくはイメージ 投稿者:宮啓 投稿日:2018/08/08(Wed) 17:44  

> キリスト教の愛は私にとっては言葉、観念、イメージであって、リンゴや机、コップと違って、実物をよく知っているというものではない。
>
> しかし世間話で使うにはまあ不自由するというほどでもないが、周りがみなキリスト教徒だと自分が素人であると意識する。
>
> 所がKの話は精神的な、それも西洋やインドの風習の中でポンポン出てくる言葉・語がたくさんある。しかし人間としての共通性があると思っているので、怒り、悲しみ、嫉妬などで悩むことはない。しかし、理解はわかりにくい。知的理解と書いてくればまあわかる。愛もわかりにくい。なぜだろう。実物を推定するとイメージになってしまう。
>
> どうも西洋は概念をきっちり決めて、そこから行動するのが好きなのだろうか?


 これは私の個人的な見解ですが。。

 例えば、現実にあるものとしての「愛」の確信は、>7章‐2[葛藤・社会・清貧・ドラッグ・依存]
 人は葛藤を日常の生の生得的な部分として受け入れてきました。なぜなら戦争、嫉妬、貪欲、利欲心、攻撃を自然な生き方として受け入れてきたからです。そのような生き方を受け入れるとき、私達はあるがままの社会の構造を受け入れ、世間体の型の範囲内で生きます。そしてそれが私達の多くが捉えられていることであり、それは私達の多くがひどく世間体を気にするからです。自分自身の心とハートを、考え方、感じ方そして日常生活で自分がいかに行動するかを調べるとき、社会の型に順応する限り生は戦場であるに違いないということが分かります。−−、この戦場に対する反応ではないでしょうか。

 この戦場の中では、せめて親子の愛を「真の愛」として認めたい。親子の愛まで否定されては、この戦場で何を頼りに生きていけるというのか・・。

 キリストの愛を否定して、何を頼りに生きてゆけるというのか・・。

 これが、人の深層にあるのではないでしょうか。

 決して手放すことのできない確信。

 従って、[25752] 既知からの自由7−2 これを、人の深層が如何ようにして、理想のイメージ(愛)を形成してゆくのかを示したものとして読んでゆくことができないだろうか。。


 追記:試しに[25770]にて、そのように読んでみました。尚、個人的な見解なので、ご参考程度に。。


[25768] 象徴もしくはイメージ 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/08(Wed) 13:05  

キリスト教の愛は私にとっては言葉、観念、イメージであって、リンゴや机、コップと違って、実物をよく知っているというものではない。

しかし世間話で使うにはまあ不自由するというほどでもないが、周りがみなキリスト教徒だと自分が素人であると意識する。

所がKの話は精神的な、それも西洋やインドの風習の中でポンポン出てくる言葉・語がたくさんある。しかし人間としての共通性があると思っているので、怒り、悲しみ、嫉妬などで悩むことはない。しかし、理解はわかりにくい。知的理解と書いてくればまあわかる。愛もわかりにくい。なぜだろう。実物を推定するとイメージになってしまう。

どうも西洋は概念をきっちり決めて、そこから行動するのが好きなのだろうか?


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