雑感
[トップに戻る] [留意事項] [ワード検索] [管理用]
おなまえ
Eメール メールアドレスは入力禁止
タイトル
コメント 【コメント中のURLは先頭のhを抜いて書き込んで下さい。】
コメント中には参照先URLと同じURLを書き込まないで下さい
参照先
暗証キー (記事メンテ用)

[25370] Re:[25368] 真の心のコミニュケーション作用 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/07(Thu) 16:17  

> 1週間の「話しあい合宿 」に出たことがある。 山岸会、エンカウンタースクールなど。詳細は避けるが、簡単に言うと、見知らぬ他人が1週間共にして様々なテーマを話し合う。初めはお互いに言いたいことを言いあい他人を責めたりする非難中傷が続くが、時間がたつにつれ徐々にお互い打ち解け、最後は皆仲良しになる。そこで真の心の交換作用が生まれる。そして別れは辛くなる。互いに号泣する。

得難いお話をありがとう。

> さてクリシュナムルティの読書会に何度か参加したが、そこではうわべだけの話し合いで、心の交換作用など生まれようがない。互いに言いたいことを言うだけだ。
> 建前は「生の問題」を話すということだが、クリシュナムルティを読む人の意識レベルに差がありすぎて、議論にならないこともしばしば。
> そこに来る人はクリシュナムルティの本を少しでも理解したいというニーズには答えられなかった。主催する飯尾氏はクリシュナムルティの解説者ではなかった。
> 彼にすればクリシュナムルティは話し合いのきっかけにすぎぬという。それでは初心者はついていけぬ。
> ご承知のようにクリシュナムルティの本というには、一般の人が軽く読めるような代物ではない。専門用語やインドの言葉が出て来る。ある程度「解説」が必要ではないだろうか。というのはKの本に対する見解があまりにまちまち。最低限の「統一見解」が必要だ。
> 解説といっても、そこらへんの素人の解説ではなく、専門家の解説が必須。KB 会の渡辺充氏やKsポイントの森本氏など適任である。私は残念ながらこれらの存在を知るのが遅かった。
> ご承知のように飯尾氏の文章は難解で分かりずらい。彼の肉声を改めて聞きたいと思うが今はその機会はない。
> 読書会→掲示板ではなく、掲示板→読書会なら彼に対する理解に近ずけたかもしれない。
>
> 最後に心の交換作用に戻るが、結局は「愛の気持ち」が芽生えなければ、真の交換作用は生まれようがない。
>
> (世間で使う取り引き的な愛」という意味ではない)
>
> 判断なしに見る。葛藤なしに見る、あなたのお好きなキャッチフレーズのようだが、それではよくわからない。
>
> 愛の気持ちを持って物事に接すると言うのならよくわかる。
> 相手にに対して交換作用が生まれるには、まず相手を信頼することが必須だろう。
>
> そうではなくあなたのいう「無機質に判断なしに見る」という
> ことか。何も思わずに?
> それではどういうときに、どう言う状況の時に
> 「判断なしに見る」という状態が現れるのだろうか。

よそ事が何もかも忘れられいる時、真剣な時、完全にリラックスして心がオープンな時、時の流れが意識されていない時。そのような時に実現する。その時は愛のある時でもある。


[25369] Re:[25367] [25364] [25363] [25362] [25361] [25360] [25359] [25356] [25354] [25350] [25349] [25343] [25339] [25337] [25334] 人間の持つ五感 投稿者:宮啓 投稿日:2018/06/07(Thu) 11:28  

> > > > > > > >  『クリシュナムルティの生と死』にて、クリシュナムルティが述べていることの中に、以下のことがあります。
> > > > > > > >
> > > > > > > >  「生に与(くみ)する者は、生に与するものと繋がろうとする。これは愛である。(旨)」
> > > > > > > >
> > > > > > > >  愛の働きは、先を読むことができない。
> > > > > > > >
> > > > > > > >  しかし、愛が英知であるならば、愛が導いてゆくのかもしれません。。
> > > > > > >
> > > > > > >
> > > > > > > ホントにそうですね。人の振る舞いはゆがんだ思考から出る反応(自尊心や知識や先入観等々)は実に多種多様なものがあるし、愛から出る気づかいや慈愛に満ちた行為もあるに違いない。しかしながら人はそれに対し鋭敏な感受性を持っているのですが、その感受の仕方に個人的癖があって混乱し、カオスに陥っているままに社会やシステムを含めて乱走状態になっているのでしょう。
> > > > > > >
> > > > > > >
> > > > > > > やっぱりこの盲目的な状態を直さなければならないが、人は結構天狗になっているので、そうはならない。優劣にとらわれ、嫉妬し、所有欲にかられと言い出せばキリがない。どうすればいいのか?
> > > > > > >
> > > > > > > 魚類や鳥類の大きな群れが乱れずに集団行動するのは簡単な原則があればよいので、それは個体同士が近づきすぎず、離れないで同一方向に向かうという事だけだそうです。
> > > > > > >
> > > > > > > 判断なしに見ている。葛藤なしに生きる。自分を含めての全体を見る。こんな簡単なことがなぜ、Kの本を読んだ人でさえできないのか、Kとボームに頼らないで、自分たちみんなで考えて、話し合ってみたらどうでしょう。
> > > > > > >
> > > > > > > 私は新しい芽さんの会で、当時、まだそのように尋ねることができなかった。
> > > > > >
> > > > > >
> > > > > >  それは哲学の延長となるように思うのですが・・。。
> > > > >
> > > > >
> > > > > うーむ、意外なレスをいただきました。哲学は同じところを循環し、過ちを正していくのは不可能なこととお考えですか? 思考は、いや話し合う事は無意味とお考えですか?
> > > > >
> > > > > 私は何気なく人の言ったことが心に飛び込んではっと目が覚めたようにわかるという経験を何度もしました。人が実際に会っての話し合いがよいのですが、掲示板のやり取りでも人は影響されます。もちろん静かに見、聴いていない限り、その受け取り方は良くも悪しくもになりますが、私は話し合いに期待します。それはある不思議さを持っていないですか?
> > > >
> > > >
> > > >  そこに、なぜ、クリシュナムルティなしに、ボームなしにと、限定を入れるのかが分かりません。
> > >
> > >
> > > Kとボームに{頼る}ことなしにと書きました。排斥でなく、依存なしに自分の頭で考えるということです。Kも「私が言ったからでなく、自分で見て、あるいは考えて理解するように」とよく言っています。ここが立脚点なのかもしれません。
> > >
> > > しかし、そこに人間には条件付けがあります。それゆえ意見の対立もあり得ます。しかし、よく相手の言う事を聴きながら話をすることもできます。ただし、論理だけで話が通じることは狭く限定された事柄に限られます。心が通じ合うこと(交感)が必要です。これはそう簡単なことではありません。
> > >
> > > 「Kですら間違っているかもしれない」、これが度を過ぎた懐疑心になると前に進めないことも確かですが、要は「最初に自由がある」ことですか。
> > >
> > > だがやはり、混乱を含んだ話し合いがカギになると思っています。
> >
> >
> >
> >  はい。
> >
> >  そこで、重要なことは、クリシュナムルティの陳述内容で、ひっかかりがあるところが要となるように思います。
> >
> >  ひっかかっているにも関わらず、クリシュナムルティは嘘をつかないから、クリシュナムルティは絶えず正しいから。真実を述べるからと、ひっかかりを脇に置いて、そのままスルーして、陳述されたとおりに受け入れることを、クリシュナムルティはそれを正すために、>Kも「私が言ったからでなく、自分で見て、あるいは考えて理解するように」−−、という陳述が出たのだと思います。
> >
> >  私の感ずるところは、>こんな簡単なことがなぜ、Kの本を読んだ人でさえできないのか−−、その理由として、クリシュナムルティの陳述内容を理解できていないからと捉えています。
>
> ここの理解は知的理解の意味で使っていますか、それとも気づきの理解でしょうか?


 まず、知的理解においても、ひっかかりがあるということです。

 例えば、クリシュナムルティが「親子の愛は真の愛ではない」と陳述した場合、受け手側が「これは一般的な親子のことであり、例外はありえる」と解釈した場合、その例外が、時間の外を生きている親子の場合と捉えればよいのですが、時間の枠内の親子にその例外を認めたならば、この受け手がクリシュナムルティの陳述を知的に理解したとは思えないのです。


> >  『時間の終焉』や『英知へのターニングポイント』を翻訳した渡辺氏でさえ、>こんな簡単なことがなぜ、Kの本を読んだ人でさえできないのか−−、これに当てはまるのです。
> >
> >  あのような最高品質の邦訳を為したものでさえ、クリシュナムルティの陳述内容を理解していないのです。
>
> 渡辺さんの理解が>こんな簡単なことがなぜ、Kの本を読んだ人でさえできないのか−−、これに当てはまるというのがはっきりしません。> 判断なしに見ている。葛藤なしに生きる。自分を含めての全体を見る。−‐ これがこんなこんな簡単なことを指すと思っていいですか?
> そうだとするとどんなことがあったのか、変に思えて信じ難いのですが。


 渡辺さんが掲示板を閉じる前に、何度か渡辺さんとやりとりを行いました。

 私が、渡辺さんのやり方をとりあげ、これはクリシュナムルティの陳述と異なる旨を何度か指摘しました。

 渡辺さんは、その指摘を、指摘通りクリシュナムルティの陳述とは異なる旨を認めました。

 そして、渡辺さんは渡辺さんのやり方でやりたいので、そのままクリシュナムルティの陳述とは異なる方法を試したい旨を告げてきました。


> >  そして、私が痛感していることは、クリシュナムルティの陳述内容の理解なしに、クリシュナムルティの裾から離れることは、絵に描いた餅となると常々感じています。
>
> 知的理解でもいいのですが、それもなく離れることはどうなのかな。無意識に種がまかれていることはあるかもしれないがそこらはわからない・・・。掲示板の論点が広がることを危惧していらっしゃるのはわかりました。
>
> >  クリシュナムルティなしに、ボームなしに・・、これはクリシュナムルティの陳述内容の理解が大前提となるのではないでしょうか。
> >
> >  クリシュナムルティの陳述内容の理解なしに、「クリシュナムルティなしに、ボームなしに・・」、これは、クリシュナムルティの回避にしか聞こえないのです。。
>
> わかりました。
>
> >  したがって、もしも、>混乱を含んだ話し合い−−を望むのであれば、それは真っ先に、クリシュナムルティの陳述内容で、ひっかかりがあるところ・・、まずこれを洗い出し、ひとつひとつ、丁寧に、>混乱を含んだ話し合い−−へと持ち込むことが、建設的ではないでしょうか。。
>
> あなたの話の趣旨は了解したのでそのようにしましょう。
> だが初めに申し上げたいのですが、条件づけられた者同士が話すので話し合いには常に混乱が含まれます。意見が対立するかもしれませんがそれを楽しみましょう。
>  それで、ゴト訳「既知からの自由」を読んでみるつもりです。実は今興味がわいているので。それから、このKのテキストを牧師さんが聖書を読むような解説はやめて、ひっかる点を挙げて話し合いをしましょう。なお、ほかに読みたいKの本があれば、どなたかそれを投稿していただいて引っかかる点のつつき合いをするのもいいですね。


 とても嬉しく思います。

 ありがとうございます。

 ちなみに、新しい芽さん翻訳の「既知のものからの自由」は読んだことがあるのですが、ゴトさんも翻訳していたとは知りませんでした。。

 楽しみにしています。


[25368] 真の心のコミニュケーション作用 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/07(Thu) 11:09  

1週間の「話しあい合宿 」に出たことがある。 山岸会、エンカウンタースクールなど。詳細は避けるが、簡単に言うと、見知らぬ他人が1週間共にして様々なテーマを話し合う。初めはお互いに言いたいことを言いあい他人を責めたりする非難中傷が続くが、時間がたつにつれ徐々にお互い打ち解け、最後は皆仲良しになる。そこで真の心の交換作用が生まれる。そして別れは辛くなる。互いに号泣する。

さてクリシュナムルティの読書会に何度か参加したが、そこではうわべだけの話し合いで、心の交換作用など生まれようがない。互いに言いたいことを言うだけだ。
建前は「生の問題」を話すということだが、クリシュナムルティを読む人の意識レベルに差がありすぎて、議論にならないこともしばしば。
そこに来る人はクリシュナムルティの本を少しでも理解したいというニーズには答えられなかった。主催する飯尾氏はクリシュナムルティの解説者ではなかった。
彼にすればクリシュナムルティは話し合いのきっかけにすぎぬという。それでは初心者はついていけぬ。
ご承知のようにクリシュナムルティの本というには、一般の人が軽く読めるような代物ではない。専門用語やインドの言葉が出て来る。ある程度「解説」が必要ではないだろうか。というのはKの本に対する見解があまりにまちまち。最低限の「統一見解」が必要だ。
解説といっても、そこらへんの素人の解説ではなく、専門家の解説が必須。KB 会の渡辺充氏やKsポイントの森本氏など適任である。私は残念ながらこれらの存在を知るのが遅かった。
ご承知のように飯尾氏の文章は難解で分かりずらい。彼の肉声を改めて聞きたいと思うが今はその機会はない。
読書会→掲示板ではなく、掲示板→読書会なら彼に対する理解に近ずけたかもしれない。

最後に心の交換作用に戻るが、結局は「愛の気持ち」が芽生えなければ、真の交換作用は生まれようがない。

(世間で使う取り引き的な愛」という意味ではない)

判断なしに見る。葛藤なしに見る、あなたのお好きなキャッチフレーズのようだが、それではよくわからない。

愛の気持ちを持って物事に接すると言うのならよくわかる。
相手にに対して交換作用が生まれるには、まず相手を信頼することが必須だろう。

そうではなくあなたのいう「無機質に判断なしに見る」という
ことか。何も思わずに?
それではどういうときに、どう言う状況の時に
「判断なしに見る」という状態が現れるのだろうか。













[25367] Re:[25364] [25363] [25362] [25361] [25360] [25359] [25356] [25354] [25350] [25349] [25343] [25339] [25337] [25334] 人間の持つ五感 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/06(Wed) 23:16  

> > > > > > >  『クリシュナムルティの生と死』にて、クリシュナムルティが述べていることの中に、以下のことがあります。
> > > > > > >
> > > > > > >  「生に与(くみ)する者は、生に与するものと繋がろうとする。これは愛である。(旨)」
> > > > > > >
> > > > > > >  愛の働きは、先を読むことができない。
> > > > > > >
> > > > > > >  しかし、愛が英知であるならば、愛が導いてゆくのかもしれません。。
> > > > > >
> > > > > >
> > > > > > ホントにそうですね。人の振る舞いはゆがんだ思考から出る反応(自尊心や知識や先入観等々)は実に多種多様なものがあるし、愛から出る気づかいや慈愛に満ちた行為もあるに違いない。しかしながら人はそれに対し鋭敏な感受性を持っているのですが、その感受の仕方に個人的癖があって混乱し、カオスに陥っているままに社会やシステムを含めて乱走状態になっているのでしょう。
> > > > > >
> > > > > >
> > > > > > やっぱりこの盲目的な状態を直さなければならないが、人は結構天狗になっているので、そうはならない。優劣にとらわれ、嫉妬し、所有欲にかられと言い出せばキリがない。どうすればいいのか?
> > > > > >
> > > > > > 魚類や鳥類の大きな群れが乱れずに集団行動するのは簡単な原則があればよいので、それは個体同士が近づきすぎず、離れないで同一方向に向かうという事だけだそうです。
> > > > > >
> > > > > > 判断なしに見ている。葛藤なしに生きる。自分を含めての全体を見る。こんな簡単なことがなぜ、Kの本を読んだ人でさえできないのか、Kとボームに頼らないで、自分たちみんなで考えて、話し合ってみたらどうでしょう。
> > > > > >
> > > > > > 私は新しい芽さんの会で、当時、まだそのように尋ねることができなかった。
> > > > >
> > > > >
> > > > >  それは哲学の延長となるように思うのですが・・。。
> > > >
> > > >
> > > > うーむ、意外なレスをいただきました。哲学は同じところを循環し、過ちを正していくのは不可能なこととお考えですか? 思考は、いや話し合う事は無意味とお考えですか?
> > > >
> > > > 私は何気なく人の言ったことが心に飛び込んではっと目が覚めたようにわかるという経験を何度もしました。人が実際に会っての話し合いがよいのですが、掲示板のやり取りでも人は影響されます。もちろん静かに見、聴いていない限り、その受け取り方は良くも悪しくもになりますが、私は話し合いに期待します。それはある不思議さを持っていないですか?
> > >
> > >
> > >  そこに、なぜ、クリシュナムルティなしに、ボームなしにと、限定を入れるのかが分かりません。
> >
> >
> > Kとボームに{頼る}ことなしにと書きました。排斥でなく、依存なしに自分の頭で考えるということです。Kも「私が言ったからでなく、自分で見て、あるいは考えて理解するように」とよく言っています。ここが立脚点なのかもしれません。
> >
> > しかし、そこに人間には条件付けがあります。それゆえ意見の対立もあり得ます。しかし、よく相手の言う事を聴きながら話をすることもできます。ただし、論理だけで話が通じることは狭く限定された事柄に限られます。心が通じ合うこと(交感)が必要です。これはそう簡単なことではありません。
> >
> > 「Kですら間違っているかもしれない」、これが度を過ぎた懐疑心になると前に進めないことも確かですが、要は「最初に自由がある」ことですか。
> >
> > だがやはり、混乱を含んだ話し合いがカギになると思っています。
>
>
>
>  はい。
>
>  そこで、重要なことは、クリシュナムルティの陳述内容で、ひっかかりがあるところが要となるように思います。
>
>  ひっかかっているにも関わらず、クリシュナムルティは嘘をつかないから、クリシュナムルティは絶えず正しいから。真実を述べるからと、ひっかかりを脇に置いて、そのままスルーして、陳述されたとおりに受け入れることを、クリシュナムルティはそれを正すために、>Kも「私が言ったからでなく、自分で見て、あるいは考えて理解するように」−−、という陳述が出たのだと思います。
>
>  私の感ずるところは、>こんな簡単なことがなぜ、Kの本を読んだ人でさえできないのか−−、その理由として、クリシュナムルティの陳述内容を理解できていないからと捉えています。

ここの理解は知的理解の意味で使っていますか、それとも気づきの理解でしょうか?

>
>  『時間の終焉』や『英知へのターニングポイント』を翻訳した渡辺氏でさえ、>こんな簡単なことがなぜ、Kの本を読んだ人でさえできないのか−−、これに当てはまるのです。
>
>  あのような最高品質の邦訳を為したものでさえ、クリシュナムルティの陳述内容を理解していないのです。

渡辺さんの理解が>こんな簡単なことがなぜ、Kの本を読んだ人でさえできないのか−−、これに当てはまるというのがはっきりしません。> 判断なしに見ている。葛藤なしに生きる。自分を含めての全体を見る。−‐ これがこんなこんな簡単なことを指すと思っていいですか?
そうだとするとどんなことがあったのか、変に思えて信じ難いのですが。

>  そして、私が痛感していることは、クリシュナムルティの陳述内容の理解なしに、クリシュナムルティの裾から離れることは、絵に描いた餅となると常々感じています。

知的理解でもいいのですが、それもなく離れることはどうなのかな。無意識に種がまかれていることはあるかもしれないがそこらはわからない・・・。掲示板の論点が広がることを危惧していらっしゃるのはわかりました。

>  クリシュナムルティなしに、ボームなしに・・、これはクリシュナムルティの陳述内容の理解が大前提となるのではないでしょうか。
>
>  クリシュナムルティの陳述内容の理解なしに、「クリシュナムルティなしに、ボームなしに・・」、これは、クリシュナムルティの回避にしか聞こえないのです。。

わかりました。

>  したがって、もしも、>混乱を含んだ話し合い−−を望むのであれば、それは真っ先に、クリシュナムルティの陳述内容で、ひっかかりがあるところ・・、まずこれを洗い出し、ひとつひとつ、丁寧に、>混乱を含んだ話し合い−−へと持ち込むことが、建設的ではないでしょうか。。

あなたの話の趣旨は了解したのでそのようにしましょう。
だが初めに申し上げたいのですが、条件づけられた者同士が話すので話し合いには常に混乱が含まれます。意見が対立するかもしれませんがそれを楽しみましょう。
 それで、ゴト訳「既知からの自由」を読んでみるつもりです。実は今興味がわいているので。それから、このKのテキストを牧師さんが聖書を読むような解説はやめて、ひっかる点を挙げて話し合いをしましょう。なお、ほかに読みたいKの本があれば、どなたかそれを投稿していただいて引っかかる点のつつき合いをするのもいいですね。


[25366] Re:[25365] クリシュナムルティの陳述 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/06(Wed) 21:51  

> > > > > > > 判断なしに見ている。葛藤なしに生きる。自分を含めての全体を見る。こんな簡単なことがなぜ、Kの本を読んだ人でさえできないのか、Kとボームに頼らないで、自分たちみんなで考えて、話し合ってみたらどうでしょう。
>
> ここで「簡単なこと」とはどういうことか?
> そうはっきり言い切れるのか?
> そういうあなたは実現できてるのか?
> という問いが浮かぶ。
>
> それはおいといて

一般的、人類的に話す。素晴らしい。

> 皆と話し合うという時は、過去の予備知識無しに、「白紙」で話す。自分の知識は一旦置いといて。それはそうです。
> それが読書会の原則。ところがなかなかそうはならない。
> クリシュナムルティをよく読んでいるという人の方が知識を振りかざす。
> > > > > > >
> > > > > > > 私は新しい芽さんの会で、当時、まだそのように尋ねることができなかった。
>
> どのようにですか?たとえば「そんな簡単なことできないのか」
> 、とみんなにいうことですか?

知識を振りかざさないという事は簡単なことですが、なかなかそうはできない。「そんな条件づけられた私たちが話し合う事に効果があるか」?という問いが浮かんでこなかった。もっとそれは当たり前で、当時は飯尾さんの話すことに夢中になって聞いていたから。

> それとも、予備知識無しに話し合おう、ということですか。それを皆に呼びかける。
> そこでは「白紙」で話すというのが原則。本を読んだ知識を振り回すのではなく。とくに「クリシュナムルティ」。あるいは精神世界の知識はを持ってる人は優越感にしたりやすい。

その通りですが、優劣感を持つのを良い、悪いというふうに言う事、判断する事はやめましょう。そうしないと話し合いが楽しくならないからです。しかし言わずにはいられない人もいます。それはそれで、条件付けを持ち否定できない人間でありながら、非難正当化なしに見ることを話し合っている対話を大事にしたい。時に何か心にひらめくことがあればいい。

> > > > > 私は何気なく人の言ったことが心に飛び込んではっと目が覚めたようにわかるという経験を何度もしました。人が実際に会っての話し合いがよいのですが、掲示板のやり取りでも人は影響されます。もちろん静かに見、聴いていない限り、その受け取り方は良くも悪しくもになりますが、私は話し合いに期待します。それはある不思議さを持っていないですか?
>
> 私自身も、読書会やここでの掲示板でも気づかされたことは多々あります。というか、日常生活というのは「気づき」の延長ではないでしょうか。周囲の人々の何気ない言葉。木々、花々。石ころ。

はい。ここでの啓示板も入れてくださってありがとう。世界で心が通じ合ってピカピカっとなる瞬間が増えれば増えるほど世界は平和になると思います。

> > > しかし、そこに人間には条件付けがあります。それゆえ意見の対立もあり得ます。しかし、よく相手の言う事を聴きながら話をすることもできます。ただし、論理だけで話が通じることは狭く限定された事柄に限られます。心が通じ合うこと(交感)が必要です。これはそう簡単なことではありません。
>
> さっき「簡単なこと」とおっしゃったのは、そのことではなかったのですか。
> もちろん、人との交感作用は容易ではない。周りの身近な人間に対しても。

理屈だけではだめだという事はほとんどの人がわかっている簡単なことです。しかし、心を通じ合うという事は簡単にできない。Kの言っていることは実践のむずかしさがあります。

> > > 「Kですら間違っているかもしれない」、これが度を過ぎた懐疑心になると前に進めないことも確かですが、要は「最初に自由がある」ことですか。
>
> 最初に自由になるとは「白紙」で望むということ。

そこが難しさです。そこを話し合う事が肝心と宮啓氏は言っているのでしょうか。


[25365] クリシュナムルティの陳述 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/06(Wed) 18:37  


> > > > > > 判断なしに見ている。葛藤なしに生きる。自分を含めての全体を見る。こんな簡単なことがなぜ、Kの本を読んだ人でさえできないのか、Kとボームに頼らないで、自分たちみんなで考えて、話し合ってみたらどうでしょう。

ここで「簡単なこと」とはどういうことか?
そうはっきり言い切れるのか?
そういうあなたは実現できてるのか?
という問いが浮かぶ。

それはおいといて
皆と話し合うという時は、過去の予備知識無しに、「白紙」で話す。自分の知識は一旦置いといて。それはそうです。
それが読書会の原則。ところがなかなかそうはならない。
クリシュナムルティをよく読んでいるという人の方が知識を振りかざす。
> > > > > >
> > > > > > 私は新しい芽さんの会で、当時、まだそのように尋ねることができなかった。

どのようにですか?たとえば「そんな簡単なことできないのか」
、とみんなにいうことですか?
それとも、予備知識無しに話し合おう、ということですか。それを皆に呼びかける。
そこでは「白紙」で話すというのが原則。本を読んだ知識を振り回すのではなく。とくに「クリシュナムルティ」。あるいは精神世界の知識はを持ってる人は優越感にしたりやすい。

> > > > >
> > > > >
> > > > >  それは哲学の延長となるように思うのですが・・。

ここで奇妙な問い。何で「哲学の延長」なの?哲学の意味を取り違えているようだ。、ようするに議論が噛み合わない。
読書会は哲学を話す場ではない。
ちなみに読書会というのは「仕切り役」がいないと成立しない。たしかに皆と同じ立場で話すというのは、理想だが。現実に各自の発言に「差」が出てしまう。
> > > >
> > > >
> > > > うーむ、意外なレスをいただきました。哲学は同じところを循環し、過ちを正していくのは不可能なこととお考えですか? 思考は、いや話し合う事は無意味とお考えですか?

何かクリシュナムルティの読書会を否定された感じを受けました。
哲学の延長ではないかと。
> > > >
> > > > 私は何気なく人の言ったことが心に飛び込んではっと目が覚めたようにわかるという経験を何度もしました。人が実際に会っての話し合いがよいのですが、掲示板のやり取りでも人は影響されます。もちろん静かに見、聴いていない限り、その受け取り方は良くも悪しくもになりますが、私は話し合いに期待します。それはある不思議さを持っていないですか?

私自身も、読書会やここでの掲示板でも気づかされたことは多々あります。というか、日常生活というのは「気づき」の延長ではないでしょうか。周囲の人々の何気ない言葉。木々、花々。石ころ。
> > >
> > >
> > >  そこに、なぜ、クリシュナムルティなしに、ボームなしにと、限定を入れるのかが分かりません。

何でそれが「限定」なのか。つまり過去の知識を一切捨て、白紙で、日々日常に向かうということ。それを端的に「クリシュナムルティなしに」といった。
イタズラに本で読んだ知識を、人に振りかざすことではない。
> >
> >
> > Kとボームに{頼る}ことなしにと書きました。排斥でなく、依存なしに自分の頭で考えるということです。Kも「私が言ったからでなく、自分で見て、あるいは考えて理解するように」とよく言っています。ここが立脚点なのかもしれません。

おっしゃるとおり。
> >
> > しかし、そこに人間には条件付けがあります。それゆえ意見の対立もあり得ます。しかし、よく相手の言う事を聴きながら話をすることもできます。ただし、論理だけで話が通じることは狭く限定された事柄に限られます。心が通じ合うこと(交感)が必要です。これはそう簡単なことではありません。

さっき「簡単なこと」とおっしゃったのは、そのことではなかったのですか。
もちろん、人との交感作用は容易ではない。周りの身近な人間に対しても。
> >
> > 「Kですら間違っているかもしれない」、これが度を過ぎた懐疑心になると前に進めないことも確かですが、要は「最初に自由がある」ことですか。

最初に自由になるとは「白紙」で望むということ。
> >
> > だがやはり、混乱を含んだ話し合いがカギになると思っています。

しかし、実際はそういうことにはならない。自身にある「権威」が顔を出す。必然的に混乱へ。
>
以下は宮啓氏のコメント。まるで新興宗教の信者のようなコメント。
クリシュナムルティの記述を「絶対視」して、それ以外を排斥する。この人のスタンスは、一貫してこのスタイル。
>
>  はい。
>
>  そこで、重要なことは、クリシュナムルティの陳述内容で、ひっかかりがあるところが要となるように思います。
>
>  ひっかかっているにも関わらず、クリシュナムルティは嘘をつかないから、クリシュナムルティは絶えず正しいから。真実を述べるからと、ひっかかりを脇に置いて、そのままスルーして、陳述されたとおりに受け入れることを、クリシュナムルティはそれを正すために、>Kも「私が言ったからでなく、自分で見て、あるいは考えて理解するように」−−、という陳述が出たのだと思います。
>
>  私の感ずるところは、>こんな簡単なことがなぜ、Kの本を読んだ人でさえできないのか−−、その理由として、クリシュナムルティの陳述内容を理解できていないからと捉えています。
>
>  『時間の終焉』や『英知へのターニングポイント』を翻訳した渡辺氏でさえ、>こんな簡単なことがなぜ、Kの本を読んだ人でさえできないのか−−、これに当てはまるのです。
>
>  あのような最高品質の邦訳を為したものでさえ、クリシュナムルティの陳述内容を理解していないのです。

渡辺氏のことを言っているのか。
クリシュナムルティの陳述内容を理解していない。
あなたはそうはっきり言い切れるのか?
>
>  そして、私が痛感していることは、クリシュナムルティの陳述内容の理解なしに、クリシュナムルティの裾から離れることは、絵に描いた餅となると常々感じています。

それでは聞くが、あなたはクリシュナムルティの陳述内容をはっきり理解したのか。
>
>  クリシュナムルティなしに、ボームなしに・・、これはクリシュナムルティの陳述内容の理解が大前提となるのではないでしょうか。
>
>  クリシュナムルティの陳述内容の理解なしに、「クリシュナムルティなしに、ボームなしに・・」、これは、クリシュナムルティの回避にしか聞こえないのです。。

何かこの人は勘違いしているようです。
>
>  したがって、もしも、>混乱を含んだ話し合い−−を望むのであれば、それは真っ先に、クリシュナムルティの陳述内容で、ひっかかりがあるところ・・、まずこれを洗い出し、ひとつひとつ、丁寧に、>混乱を含んだ話し合い−−へと持ち込むことが、建設的ではないでしょうか。。

それであなたのいう「クリシュナムルティの陳述内容」って何ですか?
渡辺氏は、愚さんのサイトで、あなたにこういった。
「クリシュナムルティなんか捨てちまえ」。
その真意がわかっていない。
私は渡辺氏の会合に何回か出たが、こんなにわかりやすく仏教や
クリシュナムルティを解説してる人はいません。ユーチューブで公開されている。
その人に向かって「クリシュナムルティの記述がわかってない」などと良く言えたものだ。


[25364] Re:[25363] [25362] [25361] [25360] [25359] [25356] [25354] [25350] [25349] [25343] [25339] [25337] [25334] 人間の持つ五感 投稿者:宮啓 投稿日:2018/06/06(Wed) 16:51  

> > > > > >  『クリシュナムルティの生と死』にて、クリシュナムルティが述べていることの中に、以下のことがあります。
> > > > > >
> > > > > >  「生に与(くみ)する者は、生に与するものと繋がろうとする。これは愛である。(旨)」
> > > > > >
> > > > > >  愛の働きは、先を読むことができない。
> > > > > >
> > > > > >  しかし、愛が英知であるならば、愛が導いてゆくのかもしれません。。
> > > > >
> > > > >
> > > > > ホントにそうですね。人の振る舞いはゆがんだ思考から出る反応(自尊心や知識や先入観等々)は実に多種多様なものがあるし、愛から出る気づかいや慈愛に満ちた行為もあるに違いない。しかしながら人はそれに対し鋭敏な感受性を持っているのですが、その感受の仕方に個人的癖があって混乱し、カオスに陥っているままに社会やシステムを含めて乱走状態になっているのでしょう。
> > > > >
> > > > >
> > > > > やっぱりこの盲目的な状態を直さなければならないが、人は結構天狗になっているので、そうはならない。優劣にとらわれ、嫉妬し、所有欲にかられと言い出せばキリがない。どうすればいいのか?
> > > > >
> > > > > 魚類や鳥類の大きな群れが乱れずに集団行動するのは簡単な原則があればよいので、それは個体同士が近づきすぎず、離れないで同一方向に向かうという事だけだそうです。
> > > > >
> > > > > 判断なしに見ている。葛藤なしに生きる。自分を含めての全体を見る。こんな簡単なことがなぜ、Kの本を読んだ人でさえできないのか、Kとボームに頼らないで、自分たちみんなで考えて、話し合ってみたらどうでしょう。
> > > > >
> > > > > 私は新しい芽さんの会で、当時、まだそのように尋ねることができなかった。
> > > >
> > > >
> > > >  それは哲学の延長となるように思うのですが・・。。
> > >
> > >
> > > うーむ、意外なレスをいただきました。哲学は同じところを循環し、過ちを正していくのは不可能なこととお考えですか? 思考は、いや話し合う事は無意味とお考えですか?
> > >
> > > 私は何気なく人の言ったことが心に飛び込んではっと目が覚めたようにわかるという経験を何度もしました。人が実際に会っての話し合いがよいのですが、掲示板のやり取りでも人は影響されます。もちろん静かに見、聴いていない限り、その受け取り方は良くも悪しくもになりますが、私は話し合いに期待します。それはある不思議さを持っていないですか?
> >
> >
> >  そこに、なぜ、クリシュナムルティなしに、ボームなしにと、限定を入れるのかが分かりません。
>
>
> Kとボームに{頼る}ことなしにと書きました。排斥でなく、依存なしに自分の頭で考えるということです。Kも「私が言ったからでなく、自分で見て、あるいは考えて理解するように」とよく言っています。ここが立脚点なのかもしれません。
>
> しかし、そこに人間には条件付けがあります。それゆえ意見の対立もあり得ます。しかし、よく相手の言う事を聴きながら話をすることもできます。ただし、論理だけで話が通じることは狭く限定された事柄に限られます。心が通じ合うこと(交感)が必要です。これはそう簡単なことではありません。
>
> 「Kですら間違っているかもしれない」、これが度を過ぎた懐疑心になると前に進めないことも確かですが、要は「最初に自由がある」ことですか。
>
> だがやはり、混乱を含んだ話し合いがカギになると思っています。



 はい。

 そこで、重要なことは、クリシュナムルティの陳述内容で、ひっかかりがあるところが要となるように思います。

 ひっかかっているにも関わらず、クリシュナムルティは嘘をつかないから、クリシュナムルティは絶えず正しいから。真実を述べるからと、ひっかかりを脇に置いて、そのままスルーして、陳述されたとおりに受け入れることを、クリシュナムルティはそれを正すために、>Kも「私が言ったからでなく、自分で見て、あるいは考えて理解するように」−−、という陳述が出たのだと思います。

 私の感ずるところは、>こんな簡単なことがなぜ、Kの本を読んだ人でさえできないのか−−、その理由として、クリシュナムルティの陳述内容を理解できていないからと捉えています。

 『時間の終焉』や『英知へのターニングポイント』を翻訳した渡辺氏でさえ、>こんな簡単なことがなぜ、Kの本を読んだ人でさえできないのか−−、これに当てはまるのです。

 あのような最高品質の邦訳を為したものでさえ、クリシュナムルティの陳述内容を理解していないのです。

 そして、私が痛感していることは、クリシュナムルティの陳述内容の理解なしに、クリシュナムルティの裾から離れることは、絵に描いた餅となると常々感じています。

 クリシュナムルティなしに、ボームなしに・・、これはクリシュナムルティの陳述内容の理解が大前提となるのではないでしょうか。

 クリシュナムルティの陳述内容の理解なしに、「クリシュナムルティなしに、ボームなしに・・」、これは、クリシュナムルティの回避にしか聞こえないのです。。

 したがって、もしも、>混乱を含んだ話し合い−−を望むのであれば、それは真っ先に、クリシュナムルティの陳述内容で、ひっかかりがあるところ・・、まずこれを洗い出し、ひとつひとつ、丁寧に、>混乱を含んだ話し合い−−へと持ち込むことが、建設的ではないでしょうか。。


[25363] Re:[25362] [25361] [25360] [25359] [25356] [25354] [25350] [25349] [25343] [25339] [25337] [25334] 人間の持つ五感 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/06(Wed) 09:38  

> > > > >  『クリシュナムルティの生と死』にて、クリシュナムルティが述べていることの中に、以下のことがあります。
> > > > >
> > > > >  「生に与(くみ)する者は、生に与するものと繋がろうとする。これは愛である。(旨)」
> > > > >
> > > > >  愛の働きは、先を読むことができない。
> > > > >
> > > > >  しかし、愛が英知であるならば、愛が導いてゆくのかもしれません。。
> > > >
> > > >
> > > > ホントにそうですね。人の振る舞いはゆがんだ思考から出る反応(自尊心や知識や先入観等々)は実に多種多様なものがあるし、愛から出る気づかいや慈愛に満ちた行為もあるに違いない。しかしながら人はそれに対し鋭敏な感受性を持っているのですが、その感受の仕方に個人的癖があって混乱し、カオスに陥っているままに社会やシステムを含めて乱走状態になっているのでしょう。
> > > >
> > > >
> > > > やっぱりこの盲目的な状態を直さなければならないが、人は結構天狗になっているので、そうはならない。優劣にとらわれ、嫉妬し、所有欲にかられと言い出せばキリがない。どうすればいいのか?
> > > >
> > > > 魚類や鳥類の大きな群れが乱れずに集団行動するのは簡単な原則があればよいので、それは個体同士が近づきすぎず、離れないで同一方向に向かうという事だけだそうです。
> > > >
> > > > 判断なしに見ている。葛藤なしに生きる。自分を含めての全体を見る。こんな簡単なことがなぜ、Kの本を読んだ人でさえできないのか、Kとボームに頼らないで、自分たちみんなで考えて、話し合ってみたらどうでしょう。
> > > >
> > > > 私は新しい芽さんの会で、当時、まだそのように尋ねることができなかった。
> > >
> > >
> > >  それは哲学の延長となるように思うのですが・・。。
> >
> >
> > うーむ、意外なレスをいただきました。哲学は同じところを循環し、過ちを正していくのは不可能なこととお考えですか? 思考は、いや話し合う事は無意味とお考えですか?
> >
> > 私は何気なく人の言ったことが心に飛び込んではっと目が覚めたようにわかるという経験を何度もしました。人が実際に会っての話し合いがよいのですが、掲示板のやり取りでも人は影響されます。もちろん静かに見、聴いていない限り、その受け取り方は良くも悪しくもになりますが、私は話し合いに期待します。それはある不思議さを持っていないですか?
>
>
>  そこに、なぜ、クリシュナムルティなしに、ボームなしにと、限定を入れるのかが分かりません。


Kとボームに{頼る}ことなしにと書きました。排斥でなく、依存なしに自分の頭で考えるということです。Kも「私が言ったからでなく、自分で見て、あるいは考えて理解するように」とよく言っています。ここが立脚点なのかもしれません。

しかし、そこに人間には条件付けがあります。それゆえ意見の対立もあり得ます。しかし、よく相手の言う事を聴きながら話をすることもできます。ただし、論理だけで話が通じることは狭く限定された事柄に限られます。心が通じ合うこと(交感)が必要です。これはそう簡単なことではありません。

「Kですら間違っているかもしれない」、これが度を過ぎた懐疑心になると前に進めないことも確かですが、要は「最初に自由がある」ことですか。

だがやはり、混乱を含んだ話し合いがカギになると思っています。


[25362] Re:[25361] [25360] [25359] [25356] [25354] [25350] [25349] [25343] [25339] [25337] [25334] 人間の持つ五感 投稿者:宮啓 投稿日:2018/06/05(Tue) 19:23  

> > > >  『クリシュナムルティの生と死』にて、クリシュナムルティが述べていることの中に、以下のことがあります。
> > > >
> > > >  「生に与(くみ)する者は、生に与するものと繋がろうとする。これは愛である。(旨)」
> > > >
> > > >  愛の働きは、先を読むことができない。
> > > >
> > > >  しかし、愛が英知であるならば、愛が導いてゆくのかもしれません。。
> > >
> > >
> > > ホントにそうですね。人の振る舞いはゆがんだ思考から出る反応(自尊心や知識や先入観等々)は実に多種多様なものがあるし、愛から出る気づかいや慈愛に満ちた行為もあるに違いない。しかしながら人はそれに対し鋭敏な感受性を持っているのですが、その感受の仕方に個人的癖があって混乱し、カオスに陥っているままに社会やシステムを含めて乱走状態になっているのでしょう。
> > >
> > >
> > > やっぱりこの盲目的な状態を直さなければならないが、人は結構天狗になっているので、そうはならない。優劣にとらわれ、嫉妬し、所有欲にかられと言い出せばキリがない。どうすればいいのか?
> > >
> > > 魚類や鳥類の大きな群れが乱れずに集団行動するのは簡単な原則があればよいので、それは個体同士が近づきすぎず、離れないで同一方向に向かうという事だけだそうです。
> > >
> > > 判断なしに見ている。葛藤なしに生きる。自分を含めての全体を見る。こんな簡単なことがなぜ、Kの本を読んだ人でさえできないのか、Kとボームに頼らないで、自分たちみんなで考えて、話し合ってみたらどうでしょう。
> > >
> > > 私は新しい芽さんの会で、当時、まだそのように尋ねることができなかった。
> >
> >
> >  それは哲学の延長となるように思うのですが・・。。
>
>
> うーむ、意外なレスをいただきました。哲学は同じところを循環し、過ちを正していくのは不可能なこととお考えですか? 思考は、いや話し合う事は無意味とお考えですか?
>
> 私は何気なく人の言ったことが心に飛び込んではっと目が覚めたようにわかるという経験を何度もしました。人が実際に会っての話し合いがよいのですが、掲示板のやり取りでも人は影響されます。もちろん静かに見、聴いていない限り、その受け取り方は良くも悪しくもになりますが、私は話し合いに期待します。それはある不思議さを持っていないですか?


 そこに、なぜ、クリシュナムルティなしに、ボームなしにと、限定を入れるのかが分かりません。


[25361] Re:[25360] [25359] [25356] [25354] [25350] [25349] [25343] [25339] [25337] [25334] 人間の持つ五感 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/05(Tue) 18:23  

> > >  『クリシュナムルティの生と死』にて、クリシュナムルティが述べていることの中に、以下のことがあります。
> > >
> > >  「生に与(くみ)する者は、生に与するものと繋がろうとする。これは愛である。(旨)」
> > >
> > >  愛の働きは、先を読むことができない。
> > >
> > >  しかし、愛が英知であるならば、愛が導いてゆくのかもしれません。。
> >
> >
> > ホントにそうですね。人の振る舞いはゆがんだ思考から出る反応(自尊心や知識や先入観等々)は実に多種多様なものがあるし、愛から出る気づかいや慈愛に満ちた行為もあるに違いない。しかしながら人はそれに対し鋭敏な感受性を持っているのですが、その感受の仕方に個人的癖があって混乱し、カオスに陥っているままに社会やシステムを含めて乱走状態になっているのでしょう。
> >
> >
> > やっぱりこの盲目的な状態を直さなければならないが、人は結構天狗になっているので、そうはならない。優劣にとらわれ、嫉妬し、所有欲にかられと言い出せばキリがない。どうすればいいのか?
> >
> > 魚類や鳥類の大きな群れが乱れずに集団行動するのは簡単な原則があればよいので、それは個体同士が近づきすぎず、離れないで同一方向に向かうという事だけだそうです。
> >
> > 判断なしに見ている。葛藤なしに生きる。自分を含めての全体を見る。こんな簡単なことがなぜ、Kの本を読んだ人でさえできないのか、Kとボームに頼らないで、自分たちみんなで考えて、話し合ってみたらどうでしょう。
> >
> > 私は新しい芽さんの会で、当時、まだそのように尋ねることができなかった。
>
>
>  それは哲学の延長となるように思うのですが・・。。


うーむ、意外なレスをいただきました。哲学は同じところを循環し、過ちを正していくのは不可能なこととお考えですか? 思考は、いや話し合う事は無意味とお考えですか?

私は何気なく人の言ったことが心に飛び込んではっと目が覚めたようにわかるという経験を何度もしました。人が実際に会っての話し合いがよいのですが、掲示板のやり取りでも人は影響されます。もちろん静かに見、聴いていない限り、その受け取り方は良くも悪しくもになりますが、私は話し合いに期待します。それはある不思議さを持っていないですか?


[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20] [21] [22] [23] [24] [25] [26] [27] [28] [29] [30] [31] [32] [33] [34] [35] [36] [37] [38] [39] [40] [41] [42] [43] [44] [45] [46] [47] [48] [49] [50] [51] [52] [53] [54] [55] [56] [57] [58] [59] [60] [61] [62] [63] [64] [65] [66] [67] [68] [69] [70] [71] [72] [73] [74] [75] [76] [77] [78] [79] [80] [81] [82] [83] [84] [85] [86] [87] [88] [89] [90] [91] [92] [93] [94] [95] [96] [97] [98] [99] [100]

処理 記事No 暗証キー
- LightBoard - Modified by isso