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[25535] 怒りと偏見 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/21(Thu) 18:12  

>渡辺さんは、「クリシュナムルティが述べることが起こらなかった。」と述べているにも関わらず、クリシュナムルティの陳述内容を理解していると思い込んでいるのです。

この文章には、はらわたが煮えくり返った。
実は渡辺氏とは何回かお会いして、いくつか質問している。そこでは明瞭な解答をいただいた。
KB会以外に、クリシュナムルティの会の忘年会で、大野氏と共に参加していただいたことがある。そこではいろんな話を聞いた。
私にとっては世話になった方であり、ユーチューブでも大いに参考になっている。

そう言った大変世話になったその人に対し、何もわからない人間が、
クリシュナムルティの陳述内容を理解していると「思い込んでいる」とは恐れ入った。

そういうおたくこそ歪んだ偏見の塊である。まさに自己流の思い込みの世界。クリシュナムルティにまつわる背景など、全く無知であり、しかも情報源はネットのみ。
クリシュナムルティの言葉を絶対視して、それに従わない者は、排除するという独善主義に陥っているその典型。

それにしても、何で人のことが気になるのだろうか?
要するにクリシュナムルティの「誰も変わりやしなかった」。
これに引っかかっている。
何で渡辺氏が変わったどうかというのが気になるのか。ということだ。
そこをよく考えろ?
人が変わったかどうかでなく、何でそれが引っかかるのか?





[25534] 気配りの欠如。 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/21(Thu) 17:46  

宮啓、文章消せよ!!
長いと思わないのか。
相手側の人が文章を読むのが大変だろう。
いちいち遡登らなければならない。
いつも文章を消して短くしているのは相手方のゴトさんの方。
パソコンでなく、いつもスマホで投稿しているのか。
つまり消すのは相手任せ。

同じ文章を何度も載せることはない。会話の程を為さぬ。
まったく、他人への配慮も気配りもない。つまり愛の欠如。クリシュナムルティなど語る資格はない。

何ぼ偉そうなこと言っても、掲示板上で、愛の実践が出来なければしょうがない。絵に描いたよう餅。
おそらく、会社でも家でもそうなのだろう。気配りの欠如。




[25533] Re:[25532] [25530] 既知からの自由2−1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/06/21(Thu) 12:09  

> > [自分自身を学ぶ・単純さと謙虚さ]
> >
> > 自分自身について学ぶことが重要だと、私か誰かが告げたからというだけでそれが重要だと考えるなら、その時私たちの間のコミュニケーションは全て終わるのではないかと私は恐れます。しかし自分自身を完全に理解することが極めて重要であるという点で私たちが一致するなら、その時私たちは全く違った関係を持っており、幸福な、注意深く聡明な調査で一緒に探求することができます。
>
>
> 自分自身を完全に理解することが極めて重要であるという点で一致するほどわかっていませんが、自分自身を知ることってどういうことか、興味を持ったのでついていきます。
>
>
> >  私はあなたの信用を求めません。自分を権威として仕立てていません。あなたに教えることは何もありません ― 新しい哲学も、新しい方式も、実在への新しい道もありません。実在への道がないのは真理への道がないのと同じです。どのような権威もすべて、特に思考と理解の場においては、最も破壊的で邪悪なものです。指導者は追随者を破滅させ、追随者は指導者を破滅させます。あなたは自分自身の教師であり、また自分自身の弟子でなければなりません。あなたは、人間が価値があるとして、必要として受け入れているあらゆるものを問わねばなりません。
>
>
> 人間が現在価値あるものとしているものはすべて問わなければならない。権威のといた価値あるものを疑えという事か。
>
>
> >  誰かに従わないなら非常に孤独に感じます。その時は孤独でいなさい。なぜ一人でいることを恐れるのでしょう? なぜならありのままの自分自身に直面させられ、自分が空虚で、鈍く、愚かで、醜く、罪深く、不安で ― 取るに足りない、見掛け倒しの、受け売りの存在であるという事を見いだすからです。事実に直面なさい。それを見なさい、それから逃げ出さないこと。逃げ出す瞬間恐怖が始まります。
>
>
> 私は上司に従っているわけだが、実際は一人で立っていたので、ある意味単独であったが、孤独ではなかった。もちろん誰とでも相談できたが生意気ともいわれた。(仕事に関しては俺は違うぞと言いたがっている? ただ聞いてついていくのは楽だが、今は何とかコメントしようとしている。)
>
>
> >  自分自身を調べるとき、私たちは残りの世界から自分を孤立させてはいません。それは不健全な過程ではありません。世界中の人間は私たちと同じ日常の問題に巻き込まれています。それゆえ自分を調べながら私たちは少しも神経症的な状態ではありません。なぜなら個人と集団の間に違いはないからです。それは実際の事実です。私は自分がいまそうであるように世界をつくり上げました。それゆえ個人と全体の間のこの戦いの中で迷わないようにしましょう。
>
>
> これは神経症的な過程ではない? ずいぶん気を使っているな。
>
>
> >  さてどこで私たちは自分自身を理解し始めるのでしょうか? 私はここにいます。そしてどんなふうに自分自身を調べ、観察し、自分自身の内部で実際に起きているものを見るべきでしょうか? 全ての生は関係なので、関係の中でのみ自分自身を観察できます。隅に座って自分自身について瞑想しても無駄です。自分だけで存在することはできません。私は人々や、物、観念との関係の中にのみ存在します。そして内部のものに対してだけでなく、外部のものや人々との関係を調べる中で、自分自身を理解し始めます。あらゆる他の形の理解は単なる抽象であり、私は抽象の中で自分自身を調べることはできません。私は抽象的存在ではありません。従って現実の中の自分自身を調べなければなりません ― ありたいと願うものとしての自分ではなく、ありのままの自分を。
>
>
> 関係の中の現実のありのままの自分を調べる。行き先が明瞭になった。(これで序のの段落はおしまい)
> >
> >
> >  理解は知的過程ではありません。自分自身についての知識を獲得することと、自分自身について学ぶことは二つの違ったものです。というのは自分について集めた知識は常に過去のものであり、過去の重荷を負った心は悲しみに暮れる心です。自分自身について学ぶことは言語や技術や科学を学ぶようなことではありません ― その場合は明らかに蓄積し記憶しなければなりません。全てをもう一度始めるのは馬鹿げています ― しかし心理的分野では自分自身について学ぶことは常に現在にあり、そして知識は常に過去にあります。そして私たちはたいてい過去に生き、過去に満足しているので、知識が途方もなく重要になります。それが私たちが博識な人、利口な人、抜け目のない人を崇拝する理由です。しかしあなたがいつも学んでいるなら、どの瞬間も学び、注視し傾聴することによって学び、見る事と行なう事によって学んでいるなら、その時学ぶことは過去のない絶えず続く動きであることを見いだすでしょう。
>
>
> 自分を学ぶことは知的ではない理解であると言ってる。
>
> >
> >  あなたが自分自身について少しづつ、次第に加えながら、徐々に学ぼうと言うなら、あなたは自分自身を今ありのままに調べているのではなく、獲得した知識を通じて調べているのです。学ぶことは大変な感受性を意味します。観念があるなら感受性はありません。観念は過去のものであり、現在を支配しています。その時心はもはや敏捷で、柔軟で、機敏ではありません。私たちはたいてい肉体的にさえ敏感ではありません。食べ過ぎをし、正しい食事に気を遣わず、煙草を吸い過ぎ飲酒するので身体は肥大し鈍感になります。有機体自体の注意の質が鈍くなります。有機体自体が鈍くて重いならばどうして非常に機敏で、敏感で、明晰な心があり得るでしょうか? 私たちは自分に個人的に触れる何かには敏感かもしれませんが、生の全ての含蓄に完全に敏感であるためには有機体と精神の間に分離がないことが必要です。それは全体的な動きです。
>
>
> 学ぶことは感受性による。身体を鈍らせないように。これは全体的動きだから。
>
> >
> >  何であっても理解するためにはそれと共に生きなければなりません。観察しなければなりません。その内容、その性質、その構造、その動きを全て知らなければなりません。あなたは今までに自分自身と一緒に生きることを試みたことがありますか? もしそうであるなら、自分自身が静的な状態ではなく、新鮮な生きたものであることを見始めるでしょう。そして生きているものと共に生きるためにはあなたの心もまた生きていなければなりません。心が意見や判断や価値に捉えられているなら、心は生きていることは出来ません。
>
>
> 理解するとは、共に生きる、観察すること。意見や判断価値に捉えられていては生きた観察はあり得ないと。
>
> >
> >  自分の心とハートの、自分の全存在の動きを観察するためには、自由な心がなければなりません。議論で一方に味方し、単に言葉について論争し、同意したり同意しなかったりする心ではなく、むしろ理解しようという意向を持ってついていく心です ― そうすることは非常に難しいことです。なぜなら私たちの大抵は自分自身の存在をどのように見、あるいは聞くかを、どのように川の美しさを見、木の間のそよ風を聴くかより、少しもよくは知らないからです。
> >
>
> 自由が登場。理解しようという意向を持ってついていく心。そうすることは非常に難しい?
>
> >  非難や正当化をするときは明確に見ることはできないし、心がとめどなく喋っているときもできません。その時はあるがままのものを観察していないのです。私たちが自分自身で作った投影を見ているに過ぎません。各人が自分はそうであると考えるもの、あるいはあるべきものというイメージを持っており、そのイメージ、その心像が、自分自身を実際にそうであるままに見ることを完全に妨げます。
> >
>
> 投影、イメージを見ていて、あるがままに見ることを完全に妨げる!
>
> >  どんなものでも単純に見るということは世界で最も難しいことの一つです。なぜなら私たちの心は非常に複雑で単純さという性質を失っているからです。私は服や食べ物の単純さ、腰布だけをつけたり、断食の記録を破ったり、聖者達が培うあの未熟なナンセンスの何かを言っているのではありません。そうではなく、恐怖なしに直接にものを見ることができる単純さ ― 自分自身を実際にそうであるままにどんな歪みもなしに見ることができる単純さを言っているのです ― 私たちが嘘をついている時は私たちは嘘をついていると言うことです、それを隠したり、それから逃げたりするのではなく。
> >
> >  また自分自身を理解するためには非常な謙虚さを必要とします。もし「私は私自身を知っている」と言って始めるなら、すでに自分自身について学ぶことをやめているのです。あるいは「私はただの記憶、観念、経験、伝統の集まりだから私自身について学ぶことはたいしてない」と言うなら、その時もまた自分自身について学ぶことをやめているのです。何であれ達成した瞬間、あなたはあの無垢と謙虚の性質を失います。結論を持つ瞬間あるいは知識から調べ始める瞬間、あなたは終りなのです。というのはその時あらゆる生きているものを古い項目で解釈しているからです。ところが、足場を持たないなら、確実性、達成がないなら、見たり、達成したりする自由があります。そして自由と共に見るときそれはいつも新しいのです。確信している人は死んでいる人間です。
> >
>
> 単純さ、無垢、謙虚はあるがままに見る、理解する、学ぶことの一環として出てくるのか。発見です。
>  自自分自身を知るという事は、知識の集積という人間的意識の分野で行うのではなく、過去をわきにおいといて見る、即時の理解という(原初意識?の)経路でのみなされるし、それ(ある種のフィードバック?)がないといけない、混乱が生じるという事か?
> >
> > (続く)


 坐禅、哲学。

 坐禅は関係の鏡の中ではなく学ぼうとするので不毛。

 哲学は、知識から始めるので不毛。

 生だけが不毛ではなく、生きている。

 学ぶとは、生と共に生きるということか・・。。


[25532] Re:[25530] 既知からの自由2−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/21(Thu) 07:03  

> [自分自身を学ぶ・単純さと謙虚さ]
>
> 自分自身について学ぶことが重要だと、私か誰かが告げたからというだけでそれが重要だと考えるなら、その時私たちの間のコミュニケーションは全て終わるのではないかと私は恐れます。しかし自分自身を完全に理解することが極めて重要であるという点で私たちが一致するなら、その時私たちは全く違った関係を持っており、幸福な、注意深く聡明な調査で一緒に探求することができます。


自分自身を完全に理解することが極めて重要であるという点で一致するほどわかっていませんが、自分自身を知ることってどういうことか、興味を持ったのでついていきます。


>  私はあなたの信用を求めません。自分を権威として仕立てていません。あなたに教えることは何もありません ― 新しい哲学も、新しい方式も、実在への新しい道もありません。実在への道がないのは真理への道がないのと同じです。どのような権威もすべて、特に思考と理解の場においては、最も破壊的で邪悪なものです。指導者は追随者を破滅させ、追随者は指導者を破滅させます。あなたは自分自身の教師であり、また自分自身の弟子でなければなりません。あなたは、人間が価値があるとして、必要として受け入れているあらゆるものを問わねばなりません。


人間が現在価値あるものとしているものはすべて問わなければならない。権威のといた価値あるものを疑えという事か。


>  誰かに従わないなら非常に孤独に感じます。その時は孤独でいなさい。なぜ一人でいることを恐れるのでしょう? なぜならありのままの自分自身に直面させられ、自分が空虚で、鈍く、愚かで、醜く、罪深く、不安で ― 取るに足りない、見掛け倒しの、受け売りの存在であるという事を見いだすからです。事実に直面なさい。それを見なさい、それから逃げ出さないこと。逃げ出す瞬間恐怖が始まります。


私は上司に従っているわけだが、実際は一人で立っていたので、ある意味単独であったが、孤独ではなかった。もちろん誰とでも相談できたが生意気ともいわれた。(仕事に関しては俺は違うぞと言いたがっている? ただ聞いてついていくのは楽だが、今は何とかコメントしようとしている。)


>  自分自身を調べるとき、私たちは残りの世界から自分を孤立させてはいません。それは不健全な過程ではありません。世界中の人間は私たちと同じ日常の問題に巻き込まれています。それゆえ自分を調べながら私たちは少しも神経症的な状態ではありません。なぜなら個人と集団の間に違いはないからです。それは実際の事実です。私は自分がいまそうであるように世界をつくり上げました。それゆえ個人と全体の間のこの戦いの中で迷わないようにしましょう。


これは神経症的な過程ではない? ずいぶん気を使っているな。


>  さてどこで私たちは自分自身を理解し始めるのでしょうか? 私はここにいます。そしてどんなふうに自分自身を調べ、観察し、自分自身の内部で実際に起きているものを見るべきでしょうか? 全ての生は関係なので、関係の中でのみ自分自身を観察できます。隅に座って自分自身について瞑想しても無駄です。自分だけで存在することはできません。私は人々や、物、観念との関係の中にのみ存在します。そして内部のものに対してだけでなく、外部のものや人々との関係を調べる中で、自分自身を理解し始めます。あらゆる他の形の理解は単なる抽象であり、私は抽象の中で自分自身を調べることはできません。私は抽象的存在ではありません。従って現実の中の自分自身を調べなければなりません ― ありたいと願うものとしての自分ではなく、ありのままの自分を。


関係の中の現実のありのままの自分を調べる。行き先が明瞭になった。(これで序のの段落はおしまい)
>
>
>  理解は知的過程ではありません。自分自身についての知識を獲得することと、自分自身について学ぶことは二つの違ったものです。というのは自分について集めた知識は常に過去のものであり、過去の重荷を負った心は悲しみに暮れる心です。自分自身について学ぶことは言語や技術や科学を学ぶようなことではありません ― その場合は明らかに蓄積し記憶しなければなりません。全てをもう一度始めるのは馬鹿げています ― しかし心理的分野では自分自身について学ぶことは常に現在にあり、そして知識は常に過去にあります。そして私たちはたいてい過去に生き、過去に満足しているので、知識が途方もなく重要になります。それが私たちが博識な人、利口な人、抜け目のない人を崇拝する理由です。しかしあなたがいつも学んでいるなら、どの瞬間も学び、注視し傾聴することによって学び、見る事と行なう事によって学んでいるなら、その時学ぶことは過去のない絶えず続く動きであることを見いだすでしょう。


自分を学ぶことは知的ではない理解であると言ってる。

>
>  あなたが自分自身について少しづつ、次第に加えながら、徐々に学ぼうと言うなら、あなたは自分自身を今ありのままに調べているのではなく、獲得した知識を通じて調べているのです。学ぶことは大変な感受性を意味します。観念があるなら感受性はありません。観念は過去のものであり、現在を支配しています。その時心はもはや敏捷で、柔軟で、機敏ではありません。私たちはたいてい肉体的にさえ敏感ではありません。食べ過ぎをし、正しい食事に気を遣わず、煙草を吸い過ぎ飲酒するので身体は肥大し鈍感になります。有機体自体の注意の質が鈍くなります。有機体自体が鈍くて重いならばどうして非常に機敏で、敏感で、明晰な心があり得るでしょうか? 私たちは自分に個人的に触れる何かには敏感かもしれませんが、生の全ての含蓄に完全に敏感であるためには有機体と精神の間に分離がないことが必要です。それは全体的な動きです。


学ぶことは感受性による。身体を鈍らせないように。これは全体的動きだから。

>
>  何であっても理解するためにはそれと共に生きなければなりません。観察しなければなりません。その内容、その性質、その構造、その動きを全て知らなければなりません。あなたは今までに自分自身と一緒に生きることを試みたことがありますか? もしそうであるなら、自分自身が静的な状態ではなく、新鮮な生きたものであることを見始めるでしょう。そして生きているものと共に生きるためにはあなたの心もまた生きていなければなりません。心が意見や判断や価値に捉えられているなら、心は生きていることは出来ません。


理解するとは、共に生きる、観察すること。意見や判断価値に捉えられていては生きた観察はあり得ないと。

>
>  自分の心とハートの、自分の全存在の動きを観察するためには、自由な心がなければなりません。議論で一方に味方し、単に言葉について論争し、同意したり同意しなかったりする心ではなく、むしろ理解しようという意向を持ってついていく心です ― そうすることは非常に難しいことです。なぜなら私たちの大抵は自分自身の存在をどのように見、あるいは聞くかを、どのように川の美しさを見、木の間のそよ風を聴くかより、少しもよくは知らないからです。
>

自由が登場。理解しようという意向を持ってついていく心。そうすることは非常に難しい?

>  非難や正当化をするときは明確に見ることはできないし、心がとめどなく喋っているときもできません。その時はあるがままのものを観察していないのです。私たちが自分自身で作った投影を見ているに過ぎません。各人が自分はそうであると考えるもの、あるいはあるべきものというイメージを持っており、そのイメージ、その心像が、自分自身を実際にそうであるままに見ることを完全に妨げます。
>

投影、イメージを見ていて、あるがままに見ることを完全に妨げる!

>  どんなものでも単純に見るということは世界で最も難しいことの一つです。なぜなら私たちの心は非常に複雑で単純さという性質を失っているからです。私は服や食べ物の単純さ、腰布だけをつけたり、断食の記録を破ったり、聖者達が培うあの未熟なナンセンスの何かを言っているのではありません。そうではなく、恐怖なしに直接にものを見ることができる単純さ ― 自分自身を実際にそうであるままにどんな歪みもなしに見ることができる単純さを言っているのです ― 私たちが嘘をついている時は私たちは嘘をついていると言うことです、それを隠したり、それから逃げたりするのではなく。
>
>  また自分自身を理解するためには非常な謙虚さを必要とします。もし「私は私自身を知っている」と言って始めるなら、すでに自分自身について学ぶことをやめているのです。あるいは「私はただの記憶、観念、経験、伝統の集まりだから私自身について学ぶことはたいしてない」と言うなら、その時もまた自分自身について学ぶことをやめているのです。何であれ達成した瞬間、あなたはあの無垢と謙虚の性質を失います。結論を持つ瞬間あるいは知識から調べ始める瞬間、あなたは終りなのです。というのはその時あらゆる生きているものを古い項目で解釈しているからです。ところが、足場を持たないなら、確実性、達成がないなら、見たり、達成したりする自由があります。そして自由と共に見るときそれはいつも新しいのです。確信している人は死んでいる人間です。
>

単純さ、無垢、謙虚はあるがままに見る、理解する、学ぶことの一環として出てくるのか。発見です。
 自自分自身を知るという事は、知識の集積という人間的意識の分野で行うのではなく、過去をわきにおいといて見る、即時の理解という(原初意識?の)経路でのみなされるし、それ(ある種のフィードバック?)がないといけない、混乱が生じるという事か?
>
> (続く)


[25531] 人のことが何でわかるの?自分のことさえわからないのに 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/20(Wed) 19:33  

<このことが起これば、このことの意味(陳述内容の理解)が分かるのではないでしょうか。

 しかし、私には、これが起こっていない。

 それゆえに、このことの意味(陳述内容の理解)は、未だ分かったとは言えない。

今だ、わかってないあなたが何で人のことをああだこうだ言えるのか?

< 一番手に終えないことは、これが起こっていないにも関わらず、「私は陳述内容を理解した」と思い込むことではないでしょうか。

誰が?オタクですか?

> このことは、渡辺さんにも起こったことです。

渡辺氏が「クリシュナムルティの陳述を理解している」と思い込んでいる。
そう思い込んでいるのは、まさしくおたくの方では。
それに何で力量不足のあなたが渡辺氏に対して理解していないと言えるのか?
渡辺氏は曹洞宗で「印可証明」を受けたお方だ。
馬鹿も休み休み言え!

>渡辺さんは、「クリシュナムルティが述べることが起こらなかった。」と述べているにも関わらず、クリシュナムルティの陳述内容を理解していると思い込んでいるのです。

おたくは直に渡辺氏と会ったことがあるのか。ないだろう。
それで何でそんなことが言えるのか?

Kの訳者の人は、クリシュナムルティの言ってることはわかってるよ。一字一句訳してるのだから。当たり前の話だ。皆学者だ。
訳者は大学教授など皆頭のいい人、優秀な人であり、おたくのような頭の悪い人間ではない。
難しいKの言葉を訳すのに、それなりの見識、学識がないと訳せない。又インド文化、インド哲学に精通していなければ、真意を伝えることができない。だいいちインドに行ったことがあるのか?
Kの存命中にアメリカに行ったことがあるのかと言いたい。



 >クリシュナムルティは頭での理解は理解ではないと述べています。

 実際に起こって初めて、陳述内容が理解できると、私は受け取っています。

だったら自分でやってみればいい。わからないくせに。
わからかったらゴトさんに聞けよ。そのためにこのサイトがある。

ずっとおたくの言動を見ているが何か勘違いしている。
クリシュナムルティを旗印にした「排他主義」に陥っている。

沖縄の孤島では、Kに関する情報はネットのみしか得られない。実際のKの関係者にあったことがない。だからおやくは、生きた言葉にならず、いうことが独断、独善となる。



[25530] 既知からの自由2−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/19(Tue) 19:35  

[自分自身を学ぶ・単純さと謙虚さ]

自分自身について学ぶことが重要だと、私か誰かが告げたからというだけでそれが重要だと考えるなら、その時私たちの間のコミュニケーションは全て終わるのではないかと私は恐れます。しかし自分自身を完全に理解することが極めて重要であるという点で私たちが一致するなら、その時私たちは全く違った関係を持っており、幸福な、注意深く聡明な調査で一緒に探求することができます。

 私はあなたの信用を求めません。自分を権威として仕立てていません。あなたに教えることは何もありません ― 新しい哲学も、新しい方式も、実在への新しい道もありません。実在への道がないのは真理への道がないのと同じです。どのような権威もすべて、特に思考と理解の場においては、最も破壊的で邪悪なものです。指導者は追随者を破滅させ、追随者は指導者を破滅させます。あなたは自分自身の教師であり、また自分自身の弟子でなければなりません。あなたは、人間が価値があるとして、必要として受け入れているあらゆるものを問わねばなりません。

 誰かに従わないなら非常に孤独に感じます。その時は孤独でいなさい。なぜ一人でいることを恐れるのでしょう? なぜならありのままの自分自身に直面させられ、自分が空虚で、鈍く、愚かで、醜く、罪深く、不安で ― 取るに足りない、見掛け倒しの、受け売りの存在であるという事を見いだすからです。事実に直面なさい。それを見なさい、それから逃げ出さないこと。逃げ出す瞬間恐怖が始まります。

 自分自身を調べるとき、私たちは残りの世界から自分を孤立させてはいません。それは不健全な過程ではありません。世界中の人間は私たちと同じ日常の問題に巻き込まれています。それゆえ自分を調べながら私たちは少しも神経症的な状態ではありません。なぜなら個人と集団の間に違いはないからです。それは実際の事実です。私は自分がいまそうであるように世界をつくり上げました。それゆえ個人と全体の間のこの戦いの中で迷わないようにしましょう。

 さてどこで私たちは自分自身を理解し始めるのでしょうか? 私はここにいます。そしてどんなふうに自分自身を調べ、観察し、自分自身の内部で実際に起きているものを見るべきでしょうか? 全ての生は関係なので、関係の中でのみ自分自身を観察できます。隅に座って自分自身について瞑想しても無駄です。自分だけで存在することはできません。私は人々や、物、観念との関係の中にのみ存在します。そして内部のものに対してだけでなく、外部のものや人々との関係を調べる中で、自分自身を理解し始めます。あらゆる他の形の理解は単なる抽象であり、私は抽象の中で自分自身を調べることはできません。私は抽象的存在ではありません。従って現実の中の自分自身を調べなければなりません ― ありたいと願うものとしての自分ではなく、ありのままの自分を。


 理解は知的過程ではありません。自分自身についての知識を獲得することと、自分自身について学ぶことは二つの違ったものです。というのは自分について集めた知識は常に過去のものであり、過去の重荷を負った心は悲しみに暮れる心です。自分自身について学ぶことは言語や技術や科学を学ぶようなことではありません ― その場合は明らかに蓄積し記憶しなければなりません。全てをもう一度始めるのは馬鹿げています ― しかし心理的分野では自分自身について学ぶことは常に現在にあり、そして知識は常に過去にあります。そして私たちはたいてい過去に生き、過去に満足しているので、知識が途方もなく重要になります。それが私たちが博識な人、利口な人、抜け目のない人を崇拝する理由です。しかしあなたがいつも学んでいるなら、どの瞬間も学び、注視し傾聴することによって学び、見る事と行なう事によって学んでいるなら、その時学ぶことは過去のない絶えず続く動きであることを見いだすでしょう。

 あなたが自分自身について少しづつ、次第に加えながら、徐々に学ぼうと言うなら、あなたは自分自身を今ありのままに調べているのではなく、獲得した知識を通じて調べているのです。学ぶことは大変な感受性を意味します。観念があるなら感受性はありません。観念は過去のものであり、現在を支配しています。その時心はもはや敏捷で、柔軟で、機敏ではありません。私たちはたいてい肉体的にさえ敏感ではありません。食べ過ぎをし、正しい食事に気を遣わず、煙草を吸い過ぎ飲酒するので身体は肥大し鈍感になります。有機体自体の注意の質が鈍くなります。有機体自体が鈍くて重いならばどうして非常に機敏で、敏感で、明晰な心があり得るでしょうか? 私たちは自分に個人的に触れる何かには敏感かもしれませんが、生の全ての含蓄に完全に敏感であるためには有機体と精神の間に分離がないことが必要です。それは全体的な動きです。

 何であっても理解するためにはそれと共に生きなければなりません。観察しなければなりません。その内容、その性質、その構造、その動きを全て知らなければなりません。あなたは今までに自分自身と一緒に生きることを試みたことがありますか? もしそうであるなら、自分自身が静的な状態ではなく、新鮮な生きたものであることを見始めるでしょう。そして生きているものと共に生きるためにはあなたの心もまた生きていなければなりません。心が意見や判断や価値に捉えられているなら、心は生きていることは出来ません。

 自分の心とハートの、自分の全存在の動きを観察するためには、自由な心がなければなりません。議論で一方に味方し、単に言葉について論争し、同意したり同意しなかったりする心ではなく、むしろ理解しようという意向を持ってついていく心です ― そうすることは非常に難しいことです。なぜなら私たちの大抵は自分自身の存在をどのように見、あるいは聞くかを、どのように川の美しさを見、木の間のそよ風を聴くかより、少しもよくは知らないからです。

 非難や正当化をするときは明確に見ることはできないし、心がとめどなく喋っているときもできません。その時はあるがままのものを観察していないのです。私たちが自分自身で作った投影を見ているに過ぎません。各人が自分はそうであると考えるもの、あるいはあるべきものというイメージを持っており、そのイメージ、その心像が、自分自身を実際にそうであるままに見ることを完全に妨げます。

 どんなものでも単純に見るということは世界で最も難しいことの一つです。なぜなら私たちの心は非常に複雑で単純さという性質を失っているからです。私は服や食べ物の単純さ、腰布だけをつけたり、断食の記録を破ったり、聖者達が培うあの未熟なナンセンスの何かを言っているのではありません。そうではなく、恐怖なしに直接にものを見ることができる単純さ ― 自分自身を実際にそうであるままにどんな歪みもなしに見ることができる単純さを言っているのです ― 私たちが嘘をついている時は私たちは嘘をついていると言うことです、それを隠したり、それから逃げたりするのではなく。

 また自分自身を理解するためには非常な謙虚さを必要とします。もし「私は私自身を知っている」と言って始めるなら、すでに自分自身について学ぶことをやめているのです。あるいは「私はただの記憶、観念、経験、伝統の集まりだから私自身について学ぶことはたいしてない」と言うなら、その時もまた自分自身について学ぶことをやめているのです。何であれ達成した瞬間、あなたはあの無垢と謙虚の性質を失います。結論を持つ瞬間あるいは知識から調べ始める瞬間、あなたは終りなのです。というのはその時あらゆる生きているものを古い項目で解釈しているからです。ところが、足場を持たないなら、確実性、達成がないなら、見たり、達成したりする自由があります。そして自由と共に見るときそれはいつも新しいのです。確信している人は死んでいる人間です。


(続く)


[25529] Re:[25525] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/19(Tue) 17:10  

> 衝動 反抗  適応 反逆  創造  断じてこの順番で起こるのであって逆はありえない。反抗とは欲望から既存のシステムと激突すること。反逆はそれらの虚しさを見抜くことから起こる。適応し幸福を極めた人にしか反逆はおこらない。反逆し自尊心を極めた人にしか創造は起こらない。


興味深く読みました。


[25528] Re:[25526] [25520] [25519] [25517] [25487] 既知からの自由1−5(3) 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/19(Tue) 17:06  

> > >  私の場合、まず私自身、まだ完全に目を覚ましていないようだ。。
> > >
> > >  内側に、>私たちは常にある方式の型の内部で機能しているので、方式がイデオロギーと権威になるからです。−−、これがあるようだ。。
> > >
> > >  若いころと比べて、だいぶ順応してしまっている。。
> >
> >
> > 自分の立ち位置を計っている? 気になる? 影響されずにただ見ている。。


よしないことを言いました。ごめんなさい。

>
>
>  >しかしそれを捨て去り、全く恐怖のない ― 過ちを犯すという恐怖のない、正しいあるいは間違ったことをするという恐怖のない ― このエネルギーを持つとき、その時そのエネルギー自体が変容ではないでしょうか? 私たちは途方もない量のエネルギーを必要とし、それを恐怖を通じて浪費していますが、あらゆる形の恐怖を捨て去ることから生じるこのエネルギーがあるとき、そのエネルギー自体が根本的な内面の革命を生み出します。それについてしなければならないことは何もありません。
> > >
> > > >  それゆえあなたは自分自身と共に残されます。それがこのこと全てについて真剣である人にとって、あるべき実際の状態です。そしてもはや助けを求めて誰かや何かに頼っていないので、あなたはすでに自由に発見できます。自由があるとき、エネルギーがあります。自由があるときは決して間違ったことをすることができません。自由は反抗とは全く違います。自由があるときには、正しかったり、間違ったりするというような事はないのです。あなたは自由であり、その中心から行動します。それゆえ恐怖はなく、そして恐怖のない心は大いなる愛が可能です。そして愛があるときは望むことをすることができます。−−
>
>
>  このことが起これば、このことの意味(陳述内容の理解)が分かるのではないでしょうか。
>
>  しかし、私には、これが起こっていない。
>
>  それゆえに、このことの意味(陳述内容の理解)は、未だ分かったとは言えない。
>
>  一番手に終えないことは、これが起こっていないにも関わらず、「私は陳述内容を理解した」と思い込むことではないでしょうか。
>
>  このことは、渡辺さんにも起こったことです。
>
>  渡辺さんは、「クリシュナムルティが述べることが起こらなかった。」と述べているにも関わらず、クリシュナムルティの陳述内容を理解していると思い込んでいるのです。
>
>
>  クリシュナムルティは頭での理解は理解ではないと述べています。
>
>  実際に起こって初めて、陳述内容が理解できると、私は受け取っています。


はい。


[25527] Re:[25523] [25517] [25487] 既知からの自由1−5(3) 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/19(Tue) 16:41  

> > > [自己変容・エネルギーの浪費]
> > >
> > >  このような質問に対するあなたの反応はどのようなものでしょうか?「私は変わりたいと思いません」と言うかもしれません。そして多くの人々は変わりたいと思わないのです。特に社会的に経済的にかなり安泰な人や、教条的な信念を保持し、そのままのあるいは少しばかり修正した形の、自分自身と物事を受け入れることに満足している人はそうです。それらの人々に私たちは関わってはいません。あるいはもっと微妙に「ところで、それは難し過ぎて、私向きではない」というかもしれません。その場合にはすでに自分を閉ざしてしまい、調べることをやめてしまっており、さらに進んでも何にもならないでしょう。でなければ「自分自身の中に根本的な内面の変化が必要なことはわかりますが、どうやってそれをもたらすべきでしょうか? どうか道を示し、それへ向けて私を助けてください」と言うかもしれません。もしそう言うなら、その時あなたが関わっているものは変化それ自身ではなく、根本的な革命に本当に関心があるのではありません。単に変化をもたらす方法、体系を探しているだけです。
>
>
> お言葉ですが、何もわからない人は、わかっていると思われる人に「道しるべ」というものを聞くと言うのは普通のことではないですか。
> 習い事の世界、修業の世界もそうです。スポーツすべて。なんにしても先生、指導者、グルが必要です。教える人、導く人。


もちろんそうですが、たった一つ、自分自身を知るという事は自分でしかできない。そういう事ですが、それでいいでしょうか?

> それを権威ずけするかは、その人の問題です。

ではそうしてください。


> 何でもかんでも自分でやれというには無理な相談です。それはあなたの理想論でしかないでしょう。
> 小学生の頭で大学の学問がわかるわけはない。(例え)


そんなことは言っていない。自分自身を見ることだけは自分自身でやるしかないといっている。


> > >  もし私があなたに体系を与えるほど愚かで、そしてもしあなたがそれに従うほど愚かならば、あなたは単にコピーし、模倣し、従い、受け入れているだけです。そしてそうするとき、あなたは自分自身の中に他人の権威を作り上げており、それゆえあなたとその権威の間に葛藤があります。これこれの事をするように教えられたので、それをしなければならないと感じますが、しかもなおそうする事ができません。自分が従うべきであると考える体系と相容れない自分自身の特有の傾向、成功、圧力をあなたは持っており、それゆえ矛盾があります。ですから体系のイデオロギーと日常の生存の実際との間で二重生活を過ごすでしょう。イデオロギーに順応しようとして自分自身を抑圧する ― ところが実際に真実なのは、イデオロギーでなくてあなたのあるがままです。他人にしてがって自分自身を学ぼうとするなら、あなたは常に受け売り人間のままでしょう。
>
> 初めはコピーでいいのではないですか。最初はなんでも受け売りです。そこから独自のものを築いていけばいいのではないですか。もちろん初めからコピー人間で終わる人もいます。人それぞれ。


自分自身を知れと受け売りで言う事はできる。好きならふれ回ったらいい。しかし自分自身を知ること自体は自分がやるしかない。


> > >  「私は変わりたい、どうやるか教えてください」と言う人はとても熱心で、とても真剣なように思われますが、そうではありませ
> ん。
> なんで?
>
> <自分の中に秩序をもたらしてくれると期待できる権威を望んでいるのです。しかし権威は本当に内的秩序をもたらすことができるでしょうか? 外から押し付けられる秩序は常に無秩序を生むに違いありません。あなたはこの真理を知的には理解するかもしれませんが、
>
> それは何で悪いのですか。なんでも初めは知的理解でしょう。


知的理解で何かをしなければならないとなると、建前と本音の食い違い、葛藤が生じ、努力、エネルギーの浪費となる。そこで何か違うとなり、諦めてやめればいい。するとある日、ふと・・・何かが起こる。


> >しかし心がもはやどんな権威も、本、教師、妻や夫、両親、友人や社会の権威を投影しないように、それを実際に適用できるでしょうか? 
> いくらでも適用できます。
>
> >なぜなら私たちは常にある方式の型の内部で機能しているので、方式がイデオロギーと権威になるからです。しかし「どのようにして私は変わることができるでしょうか?」という質問が新しい権威を組み立てることを本当に見る瞬間、あなたは永久に権威を終えたのです。
>
>
> それでは、人間は変わらなくていいということですか?


?? 最後で権威を終わりにしたから変容があったのではないですか?

> 人間変わりたいという思うのは普通の成り行きでしょう。常に変化を求める。それともあなたは人間は現状維持でいいということですか。


変わりたいのは結構だが、自分自身を知ることから入らないと無駄になる。それはあいにく権威が本人に代わりやってあげることができない。そこは本人がやってくださいと言っている。

> それでは「停滞」です。

確かに本人にやる気がないと「停滞」です。他に気に入った道を進んでも、自分自身を知らない限り、ソッポで停滞してしまうかもしれません。

> それと、最後の新しい権威を組み立てることを本当に見る瞬間、永久に権威を終えるってどういう意味ですか?
> ここにところを具体的にわかりやすく言ってください。

しかし「どのようにして私は変わることができるでしょうか?」という質問が新しい権威を組み立てることを本当に見る瞬間、つまり、自分が怠惰かやる気のなさか、自分で考えずに
権威にすがっているその奴隷根性を見る、悟る瞬間、権威は終わりになります。もうすがれません、すがりません。変容が起きたのです。
>
>
> 以下は意味がわかりません。
> >
> > クリシュナムルティは権威を終える人を望み、そうでない人は大衆(群れる人達)の中に返す気なのだろうか?
>
> ?

権威を終えるような情熱を持つ人に話しかけ、そうでない人には普通に日常生活を生きて欲しいのだろうかと言いました。

> > 受け売りから抜け出す気のない群れる人達のつくる社会は、ソドムとゴモラのように行き止まり破滅するので、心ある人は抜け出て、隠れアウトローとして暮らせと言っているのだろうか。そうすれば人類は生き延びると。
>
> ?

今の文明社会は転換点が来て、AIに世話をさせて、幻想の快楽の中に溺れるようになり、滅びてしまうかもね。
しかし、一応変容した人は目覚めていて、人類はその人たちによって存続するかもと言っている。

> > しかしそれでは死んでも死にきれないぞ。その群れる人たちの目を覚まさせなくちゃ! これが想像力の夢ならいいが。。
>
> 目を覚せとは?

自分自身を知ること。人間のもとの野性的根性を取り戻せと解釈してもらってもいい。


[25526] Re:[25520] [25519] [25517] [25487] 既知からの自由1−5(3) 投稿者:宮啓 投稿日:2018/06/19(Tue) 15:01  

> > > >  「私は変わりたい、どうやるか教えてください」と言う人はとても熱心で、とても真剣なように思われますが、そうではありません。自分の中に秩序をもたらしてくれると期待できる権威を望んでいるのです。しかし権威は本当に内的秩序をもたらすことができるでしょうか? 外から押し付けられる秩序は常に無秩序を生むに違いありません。あなたはこの真理を知的には理解するかもしれませんが、しかし心がもはやどんな権威も、本、教師、妻や夫、両親、友人や社会の権威を投影しないように、それを実際に適用できるでしょうか? なぜなら私たちは常にある方式の型の内部で機能しているので、方式がイデオロギーと権威になるからです。しかし「どのようにして私は変わることができるでしょうか?」という質問が新しい権威を組み立てることを本当に見る瞬間、あなたは永久に権威を終えたのです。
> > >
> > >
> > > クリシュナムルティは権威を終える人を望み、そうでない人は大衆(群れる人達)の中に返す気なのだろうか?
> > >
> > > 受け売りから抜け出す気のない群れる人達のつくる社会は、ソドムとゴモラのように行き止まり破滅するので、心ある人は抜け出て、隠れアウトローとして暮らせと言っているのだろうか。そうすれば人類は生き延びると。
> > >
> > > しかしそれでは死んでも死にきれないぞ。その群れる人たちの目を覚まさせなくちゃ! これが想像力の夢ならいいが。。
> >
> >
> >  私の場合、まず私自身、まだ完全に目を覚ましていないようだ。。
> >
> >  内側に、>私たちは常にある方式の型の内部で機能しているので、方式がイデオロギーと権威になるからです。−−、これがあるようだ。。
> >
> >  若いころと比べて、だいぶ順応してしまっている。。
>
>
> 自分の立ち位置を計っている? 気になる? 影響されずにただ見ている。。



 >しかしそれを捨て去り、全く恐怖のない ― 過ちを犯すという恐怖のない、正しいあるいは間違ったことをするという恐怖のない ― このエネルギーを持つとき、その時そのエネルギー自体が変容ではないでしょうか? 私たちは途方もない量のエネルギーを必要とし、それを恐怖を通じて浪費していますが、あらゆる形の恐怖を捨て去ることから生じるこのエネルギーがあるとき、そのエネルギー自体が根本的な内面の革命を生み出します。それについてしなければならないことは何もありません。
> >
> > >  それゆえあなたは自分自身と共に残されます。それがこのこと全てについて真剣である人にとって、あるべき実際の状態です。そしてもはや助けを求めて誰かや何かに頼っていないので、あなたはすでに自由に発見できます。自由があるとき、エネルギーがあります。自由があるときは決して間違ったことをすることができません。自由は反抗とは全く違います。自由があるときには、正しかったり、間違ったりするというような事はないのです。あなたは自由であり、その中心から行動します。それゆえ恐怖はなく、そして恐怖のない心は大いなる愛が可能です。そして愛があるときは望むことをすることができます。−−


 このことが起これば、このことの意味(陳述内容の理解)が分かるのではないでしょうか。

 しかし、私には、これが起こっていない。

 それゆえに、このことの意味(陳述内容の理解)は、未だ分かったとは言えない。

 一番手に終えないことは、これが起こっていないにも関わらず、「私は陳述内容を理解した」と思い込むことではないでしょうか。

 このことは、渡辺さんにも起こったことです。

 渡辺さんは、「クリシュナムルティが述べることが起こらなかった。」と述べているにも関わらず、クリシュナムルティの陳述内容を理解していると思い込んでいるのです。


 クリシュナムルティは頭での理解は理解ではないと述べています。

 実際に起こって初めて、陳述内容が理解できると、私は受け取っています。


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