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[25340] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/06/03(Sun) 11:54  

真実に傷つくのは愚かだ。甘えとはそれとは別に無責任に相手を害すること。たとえ真実でも相手を害するなら言わないほうがいいこともある,。


[25339] Re:[25337] [25334] 人間の持つ五感 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/03(Sun) 00:50  

> > 人間の持つ五感は動物と違ったところがある。例えば、暖寒の感覚も衣服を着て育つことで、そうでない動物とは全く異なる。見る、聞くは見て取り、聴きわける。「空気が読める」である。言語はもちろんのこととして美醜を感じる。音楽を感じる。
> >
> > これらは五官そのものでなく、心の働きが付け加わっているのだろうか?
> >  ある大数学者によると、思索中に妻が入ってきてお茶にしませんかと言った。あまりに集中していたので、それが人語ではなくただの音響として聞こえた。そして妻の声と聞こえ、その言っている意味が分かり、咄嗟に要らないと言おうとしたが疲れていることがわかり、貰おうと答えた。
> >
> > 私は自分の経験としてはないが、ただの音響として聞くのはありうると思う。だがそうめったにないのではないだろうか。視覚においては、ただの色彩の氾濫として見えるということはありません。半ノイローゼ気味の時は色付きセロファンの切り抜きのように見えたことがありますが。
> >  このようなことで、私は単なる感覚として意識することはなく、分別がちゃんとされた像を見ていると思います。
> >
> > Kの言う命名なしに見ている、判断なしに見ていることは普通にあると思っています。せせらぎの音を聞いている。花に蝶が舞うのを見ている。分別はすでにあるが、それは命名したり判断したりすることとは別のことだと思います。Kを読んでいるほかの方はどう思うのかな。分別がしかねるような状況にいたらそれは異界にいること。とても平静ではいられません。それが未知の中に、神秘、畏怖の世界にいることで、Kはそのことを言っているとお考えでしょうか?
>
>
>  私は、まだそこまで分かりません。。

レスくださってありがとうございます。
>
>
> > 先に進みます。私は世界が分別されて見えている状態、これが人類の見、聴いている状態で、それは生来的というより、生まれてから母と言語ゲームをやり、徐々に学校、社会とへと場を広げ、経験や知識を持ち、直覚的に働くように発生的に形成された状態であって文明社会と別のものではないと言います。
> >
> > 私は世界であり、私(註 人類のこと、6/1 20時追加)の感覚は世界と別ではなしに成長してきた。ひょっとして生の全体性ってこの事?!
>
>
>  動物にとっては、世界とは外界のことではないでしょうか。
>
>  爬虫類が見ている外界。哺乳類の小動物が見ている外界。
>
>  哺乳類の大型動物が見ている外界。類人猿が見ている外界。
>
>  その見ている存在にとっての世界が、そのように見える外界。

はい。その通りだと思います。
>
>  さて、人類にとっての外界(世界)とは・・?
>
>  動物では、外界がどのように見えるかで、見ている存在は爬虫類である・・等々と、見ている存在の感覚レベルを知ることによって、その存在が類人猿なのか、あるいは小型哺乳類であるかが判別できます。
>
>  人類においても、外界がどのように見えるかの感覚レベルを知ることによって、その個体の精神レベルが判別できるのではないでしょか。

まあそうですが、それはどんどん変化します。個体同士の関係から、文明の変化との相互作用があって、それ等は複雑系として常に相互に関係しています。

>  クリシュナムルティは述べています。「精神が聖なるものでなければ、聖なるもの、美・愛・聖を見ることができない」(『神話と伝統を超えてDVDブック 第1巻』より)。

美を見て美しいと感じる心は美と共鳴するというか、美そのものかもしれませんが、これも発生的に形成されていくものだと思います。それは親や言語や文明・文化、つまり世界と別物ではないと今思っています。
>
>
>  その意味では、覚者であろうと娑婆人であろうと、観察者は観察されるもの(世界)である・・、これが当てはまるのかもしれません。。

はい。まさしく観察者と観察されるものであるかもしれませんね。
 ところで、で人類の課題は戦争をなくすことなのか覚者になることなのかという問いが浮かんできました。これはおかしな問いでしょうか?いや、戦争をやめることは個人ではできず、個々の国家をも超えた人類の問題です。覚者になることは個人的に現れるようです。この違いが妙に引っ掛かります。


[25338] Re:[25335] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/02(Sat) 23:00  

> 他者を傷つけて平気という甘えがある間は成長できない


これはすごく大きな問題です。心理的に傷つくとはどういう事でしょう? 傷つく人は自由に見、聴くことができず、言葉のやり取りの中で心が動揺するのでしょうか?

動揺する人は大勢います。その人は過去のことを背負っているので自由でないのでしょうか?

宗教はそのような人の心に働きかけ傷をいやすこと、あるいは自分で自由を得ることができるように手助けすることを意味するのでしょうか?

過去の重荷を下ろし、自由に探究し、心の振る舞い方がよくわかった人は慈悲の心から生きるのでしょうか?

いまだ意識的理解に達していない人は探究を重ねてそこに達せんとするのでしょうか?

Kの言っている変容のレベルは、心の振る舞い方をよく理解した人のことで、慈悲の域まで至っていない人は探究の内容をまだ語ってはいけないのでしょうか?

探究途上にある人が、お互いが師でありまた弟子でもあるように話し合う事はできないでしょうか? 覚者の監督、指導の下でなければしてはいけないという事で密教というものがあるのかもしれません。この点については私はわかりません。

しかし、私は今、話し合いたいと思っています。


[25337] Re:[25334] 人間の持つ五感 投稿者:宮啓 投稿日:2018/06/02(Sat) 12:54  

> 人間の持つ五感は動物と違ったところがある。例えば、暖寒の感覚も衣服を着て育つことで、そうでない動物とは全く異なる。見る、聞くは見て取り、聴きわける。「空気が読める」である。言語はもちろんのこととして美醜を感じる。音楽を感じる。
>
> これらは五官そのものでなく、心の働きが付け加わっているのだろうか?
>  ある大数学者によると、思索中に妻が入ってきてお茶にしませんかと言った。あまりに集中していたので、それが人語ではなくただの音響として聞こえた。そして妻の声と聞こえ、その言っている意味が分かり、咄嗟に要らないと言おうとしたが疲れていることがわかり、貰おうと答えた。
>
> 私は自分の経験としてはないが、ただの音響として聞くのはありうると思う。だがそうめったにないのではないだろうか。視覚においては、ただの色彩の氾濫として見えるということはありません。半ノイローゼ気味の時は色付きセロファンの切り抜きのように見えたことがありますが。
>  このようなことで、私は単なる感覚として意識することはなく、分別がちゃんとされた像を見ていると思います。
>
> Kの言う命名なしに見ている、判断なしに見ていることは普通にあると思っています。せせらぎの音を聞いている。花に蝶が舞うのを見ている。分別はすでにあるが、それは命名したり判断したりすることとは別のことだと思います。Kを読んでいるほかの方はどう思うのかな。分別がしかねるような状況にいたらそれは異界にいること。とても平静ではいられません。それが未知の中に、神秘、畏怖の世界にいることで、Kはそのことを言っているとお考えでしょうか?


 私は、まだそこまで分かりません。。


> 先に進みます。私は世界が分別されて見えている状態、これが人類の見、聴いている状態で、それは生来的というより、生まれてから母と言語ゲームをやり、徐々に学校、社会とへと場を広げ、経験や知識を持ち、直覚的に働くように発生的に形成された状態であって文明社会と別のものではないと言います。
>
> 私は世界であり、私(註 人類のこと、6/1 20時追加)の感覚は世界と別ではなしに成長してきた。ひょっとして生の全体性ってこの事?!


 動物にとっては、世界とは外界のことではないでしょうか。

 爬虫類が見ている外界。哺乳類の小動物が見ている外界。

 哺乳類の大型動物が見ている外界。類人猿が見ている外界。

 その見ている存在にとっての世界が、そのように見える外界。

 さて、人類にとっての外界(世界)とは・・?

 動物では、外界がどのように見えるかで、見ている存在は爬虫類である・・等々と、見ている存在の感覚レベルを知ることによって、その存在が類人猿なのか、あるいは小型哺乳類であるかが判別できます。

 人類においても、外界がどのように見えるかの感覚レベルを知ることによって、その個体の精神レベルが判別できるのではないでしょか。

 クリシュナムルティは述べています。「精神が聖なるものでなければ、聖なるもの、美・愛・聖を見ることができない」(『神話と伝統を超えてDVDブック 第1巻』より)。


 その意味では、覚者であろうと娑婆人であろうと、観察者は観察されるもの(世界)である・・、これが当てはまるのかもしれません。。


[25336] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/06/02(Sat) 11:37  

どうようするのがいやで既存の社外などを擁護する人もまたそうである。


[25335] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/06/02(Sat) 11:23  

他者を傷つけて平気という甘えがある間は成長できない


[25334] 人間の持つ五感 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/01(Fri) 13:44  

人間の持つ五感は動物と違ったところがある。例えば、暖寒の感覚も衣服を着て育つことで、そうでない動物とは全く異なる。見る、聞くは見て取り、聴きわける。「空気が読める」である。言語はもちろんのこととして美醜を感じる。音楽を感じる。

これらは五官そのものでなく、心の働きが付け加わっているのだろうか?
 ある大数学者によると、思索中に妻が入ってきてお茶にしませんかと言った。あまりに集中していたので、それが人語ではなくただの音響として聞こえた。そして妻の声と聞こえ、その言っている意味が分かり、咄嗟に要らないと言おうとしたが疲れていることがわかり、貰おうと答えた。

私は自分の経験としてはないが、ただの音響として聞くのはありうると思う。だがそうめったにないのではないだろうか。視覚においては、ただの色彩の氾濫として見えるということはありません。半ノイローゼ気味の時は色付きセロファンの切り抜きのように見えたことがありますが。
 このようなことで、私は単なる感覚として意識することはなく、分別がちゃんとされた像を見ていると思います。

Kの言う命名なしに見ている、判断なしに見ていることは普通にあると思っています。せせらぎの音を聞いている。花に蝶が舞うのを見ている。分別はすでにあるが、それは命名したり判断したりすることとは別のことだと思います。Kを読んでいるほかの方はどう思うのかな。分別がしかねるような状況にいたらそれは異界にいること。とても平静ではいられません。それが未知の中に、神秘、畏怖の世界にいることで、Kはそのことを言っているとお考えでしょうか?

先に進みます。私は世界が分別されて見えている状態、これが人類の見、聴いている状態で、それは生来的というより、生まれてから母と言語ゲームをやり、徐々に学校、社会とへと場を広げ、経験や知識を持ち、直覚的に働くように発生的に形成された状態であって文明社会と別のものではないと言います。

私は世界であり、私(註 人類のこと、6/1 20時追加)の感覚は世界と別ではなしに成長してきた。ひょっとして生の全体性ってこの事?!


[25333] Re:[25332] 自由意志 投稿者:ゴト 投稿日:2018/05/30(Wed) 16:34  

> 「時間の終焉」の訳者で知られる渡辺充氏はユーチューブで様々な題材で講義を行っている。誠に興味深い。その中で
> 「人間に自由意志はあるのか、ないのか」というテーマの講義があった。人間に真の意味で「自由意志」があるのか。
> 結論めいたことをいうと、渡辺氏は人間には真の意味での自由意志はない、ということを理解することが「悟り」だという。
> 本当にそうだろうか、という疑問が湧く。
> それではクリシュムルティの言っている「自由」というのは何何だろうか?という疑問が改めて湧いてくる。


「自由」とは何か、「自由意志」と同じか違うのか、「自由」という言葉を使いながらよくはわかっていない。そこらがよくわかればそれは悟りだと言う人は、悟っているからそう言えるのか、そう思ってしまったから言っているのか、もちろん聴いている凡人にはわからないのだが、質問したり、異議を唱えたりする。そういうおしゃべり(この頃私は受け売りだが気に入って、「言語ゲーム」と呼んでいる)をためらいなしにやっているとき、自由にしゃべっていると言えないだろうか?

> 我々は物理的時間に生きていることはまぎれもない事実である。それでは「心理的時間」とは?

おしゃべりをしていて、もしもだが、有名になろうとか、金もうけしようという下心があれば、結果が出るまで内心気にしている時間があるので、それを心理的時間と言うのはどうでしょうか?


[25332] 自由意志 投稿者:虚無 投稿日:2018/05/30(Wed) 09:00  

「時間の終焉」の訳者で知られる渡辺充氏はユーチューブで様々な題材で講義を行っている。誠に興味深い。その中で
「人間に自由意志はあるのか、ないのか」というテーマの講義があった。人間に真の意味で「自由意志」があるのか。
結論めいたことをいうと、渡辺氏は人間には真の意味での自由意志はない、ということを理解することが「悟り」だという。
本当にそうだろうか、という疑問が湧く。
それではクリシュムルティの言っている「自由」というのは何何だろうか?という疑問が改めて湧いてくる。
我々は物理的時間に生きていることはまぎれもない事実である。それでは「心理的時間」とは?


[25331] 無題 投稿者:虚無 投稿日:2018/05/30(Wed) 08:39  

>そのようにして、クリシュナムルティ理解へ取り組んでいます。

そもそも「クリシュナムルティ理解」って何ですか?
文字通りの意味なら、クリシュナムルティの本を読んで頭で理解する。そういう意味ですか?
だとするとクリシュナムルティの言わんとしていることを、今だ掴んでいないということになります。
ようするに知識だけが膨れ上がるのみ。

かって新しい芽氏が主催していたサイトの掲示板で、さんざん突っ込まれたところです。

「新しい芽」というのはペンネームで、もう飯尾氏でいいのではないでしょうか。なぜならすでに、本名で翻訳本を出されています。
大野氏と同じように。
老婆心ながら申し上げると、Kのいう「気づく」というのは「悟る」ということです。
今だ、あなたは真理というものをはき違えている。


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