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[26186] 無題 投稿者:明日を暗示する黄昏 投稿日:2018/11/01(Thu) 13:33  

科学とか民主主義とかエコロジーとか方法論として正しくても災厄をもたらすことはある。


[26185] 既知からの自由16−3 投稿者:ゴト 投稿日:2018/11/01(Thu) 11:23  

16章ー3 [エネルギー]

 私達は自分自身の中に全的な革命をもたらすためだけでなく、調査し、見、行動するためにもエネルギーを要します。そして私達の何かの関係の中に、夫と妻の間、人間と人間の間、一つの社会と別の社会、あるいは一つの国と別の国、一つのイデオロギーと別のイデオロギーの間のいずれであろうと、何らかの摩擦がある限りは ― もし何らかの内的摩擦あるいはどんな形にせよ何らかの外的争いがあるなら、それがどんなに微妙であっても ― エネルギーの浪費があります。

 観察者と観察されるものとの間に時間の間隔がある限り、摩擦が生じ、したがってエネルギーの浪費があります。そのエネルギーがその最高点にまで集められるのは、観察者が観察されるものであり、その中に時間の間隔が全くない時です。そのとき動機のないエネルギーがあり、それはそれ自体の行動の水路を見つけるでしょう。なぜならその時は「私」が存在しないからです。

 私達がその中で生きている混乱を理解するためには途方もない量のエネルギーを必要とし、「理解しなければならない」という感情は見出すための活力をもたらします。しかし見出すこと、探索、は時間を意味し、そして、既に見てきたように、心を徐々に条件付けから外すことは適策ではありません。時間はその方法ではありません。老いていても若くても、生の全過程が別の次元に移ることができるのは、いまです。自分達のあるがままのものの反対を求めるのは適策ではなく、方式や教師や哲学者、司祭によって課される人為的な訓戒も同じです ― それらはすべてあまりにも子供じみています。この事を実感するとき、私達は自分自身に、数世紀のこの重い条件付けを即座に打ち破り、別の条件付けに入らないこと ― 自由であること、その結果心が全く新しく、敏感で、生き生きと、気づいて、強烈で、有能であり得ることは可能かと尋ねます。それが私達の問題です。他の問題はありません。なぜなら心が新しくなるときはどんな問題にも取り組めるからです。それが自分自身に問うべき唯一の問題です。

 しかし私達は尋ねません。私達は教えられるのを望みます。私達の精神構造の最も奇妙な点の一つは、私達が幾千年の宣伝の結果であるがゆえに、みな教えられることを望むという事です。私達は自分たちの思考が他人によって確認され、確証されるのを望みます。ところが質問を尋ねることはそれを自分自身に尋ねることです。私の言うことは何の価値もありません。この本を閉じた瞬間忘れるでしょうし、またはある個所を覚えて繰り返すか、ここで読んだことを他の本と比較するでしょう ― しかしあなたは自分自身の生に直面しないでしょう。そしてそれが重要なことのすべてです ― あなたの生、あなた自身、あなたの狭量さ、浅薄さ、残忍さ、暴力、貪欲、野心、日常の苦悩と果てしない悲しみ ― それがあなたが理解しなければならない事であり、そしてそれからあなたを救ってくれるのは地上にも天国にも自分自身のほか誰もいないのです。


 自分の日常の生活、自分の日常の活動の中で行なわれているあらゆることを見ながら ― ペンをとるとき、話すとき、ドライブに出かけるときや、森の中を一人で歩いているとき ― あなたはひと息で、ひと目で、自分自身を単純に、あるがままに知ることができるでしょうか? 自分自身をあるがままに知るとき、そのときあなたは人間の努力、欺瞞、偽善、探求の全構造を理解します。これをするにはあなたは自分の全存在を通じて自分自身に驚くほど正直でなければなりません。あなたが自分の主義にしたがって行動する時あなたは不正直でいるのです。なぜならあるべきであると考えるものにしたがってあなたが行動するとき、あなたはあるがままのあなたではないからです。理想を持つことは残忍なことです。何かの理想、信念、主義を持つならとても自分自身を直接見ることはできません。それゆえ完全に否定的で、完全に静かで、考えも恐れもせず、そしてなお途方もなく情熱的で生き生きとしていることができるでしょうか?

 もはや努めることをしない心のその状態は真の宗教的な心です。そしてその心の状態の中であなたは、真理とか実在とか至福とか神とか美とか愛と呼ばれるこのものに出会うかもしれません。このものは招くことはできません。どうかその非常に単純な事実を理解してください。それは招くことができず、捜し求められ得ないのです。なぜならあの巨大な、あの広大なものにとって、あなたの小さな家に、踏みにじられ唾を吐かれたあなたの生の小さな片隅に招かれるには、心はあまりに愚かで、あまりに小さく、あなたの感情は余りに下劣で、あなたの生き方は余りに混乱しているからです。あなたはそれを招くことはできません。それを招くためにはそれを知らなければならず、あなたはそれを知ることはできません。誰が言おうと問題ではありません。「私は知っている」という瞬間、彼は知らないのです。あなたが自分はそれを見つけたと言う瞬間、見つけてはいないのです。それを経験したと言うなら、あなたは決して経験してはいないのです。それらは皆他の人間を搾取するやり方なのです ― 友達だろうと敵だろうとです。

 人はそのとき、招くことなしに、待つことなしに、求めたり探索したりすることなしに、このものに出会うことが可能かどうか自分自身に尋ねます ― ちょうど部屋の窓を開け放しにしておいた時に入ってくる涼しい微風のようにそれが起きることが可能かどうかを。風を招くことはできませんが窓を開けておかなければなりません。それは待っている状態にあるという意味ではありません。それは別の形の欺瞞です。受け入れるために自分自身を開かなければならないという意味ではありません。それは別種の思考です。

(続く)


[26184] Re:[26183] [26175] 既知からの自由16−2 投稿者:宮啓 投稿日:2018/11/01(Thu) 10:49  

> > 16章ー2 [宗教的な心]
> >
> >  宗教的な心は宗教を信じる心とは全く違うものです。あなたは宗教的でありそしてなおヒンドゥ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、仏教徒であることはできません。宗教的な心は全く求めることをしません。それは真理を実験することはできません。真理は快楽や苦痛によって、あるいはヒンドゥ教とか、あなたがどんな宗教に属していてもその教徒としての条件付けによって指令される何かではありません。宗教的な心は、その中に恐怖がなく、したがってどんな信念もなく、ただあるがままのもの ― 実際にあるものだけがある心の状態です。
>
>
> 『宗教的な心は宗教を信じる心とは全く違うものです』
>  かつてはこういうコメントを読んでも、なぜと説明を求めていた。ここへきてようやくただ聞いて感じることができる。


 科学者にとって「信じる」とは論理的破壊を意味します。クリシュナムルティは科学的宗教心を推奨しています。

 「信じるな」「疑え」そして、もはや疑う余地がない理解を知覚せよ。



> 『宗教的な心は、その中に恐怖がなく、したがってどんな信念もなく、ただあるがままのもの ― 実際にあるものだけがある心の状態です』
>  ここは訳の難しい言葉が出ている、あるがままのもの=what is、実際にあるもの=what actually is、です。しかし、恐怖がない、したがってどんな信念もないあるがままの心…わかりません。


 あるがままのものだけがある心。
 過去は脳細胞の連結線としてある。「私」は脳細胞の連結線としてある。未来は脳細胞の連結線として予期されている。条件付けは脳細胞の連結線としてある。そしてそれら連結線は吹けば飛ぶこと間違いないイメージとして現にある。

 そのようなあるがままのものだけがある心。


> >  宗教的な心の中には私達が既に調べた沈黙の状態があり、それは思考によって造り出されたのではなく、気づきの結果です。それは観察者が全くいない瞑想です。その沈黙の中にはいかなる葛藤もないエネルギーの状態があります。エネルギーは行為であり、動きです。すべての行為は動きであり、すべての行為はエネルギーです。すべての欲望はエネルギーです。すべての感情はエネルギーです。すべての思考はエネルギーです。すべての生きることはエネルギーです。すべての生はエネルギーです。そのエネルギーがどんな矛盾もなしに、どんな摩擦もなしに、どんな葛藤もなしに流れることが許されるなら、その時そのエネルギーは限りがなく、終わりがありません。摩擦がないときエネルギーに限界はありません。エネルギーに制限を与えるのは摩擦です。そこで、一度このことを見たなら、なぜ人間は常にエネルギーに摩擦を持ち込むのでしょうか? なぜ人間は生と呼ぶこの動きの中に摩擦をつくり出すのでしょうか? 純粋なエネルギー、制限のないエネルギーは人間にとってはただの考えなのでしょうか? それは現実性を持たないの
> でしょうか?
>
>
> 宗教的な心には既に気づきによってつくりだされた沈黙の状態がある…うむ。
>  ここでエネルギーの話が出てきました。次の段落でエネルギーについてさらに語られますが、この問いもまた根源的な問いです、私には鳩が豆鉄砲で撃たれた感じでした。


 沈黙のエネルギーは、たまたま希に訪れる。

 しかし、摩擦があるエネルギーは生活の中で、多々感じることができる。

 人はなぜ、摩擦を持ち込むのか。。と問われている。


 その摩擦は自我を増長させることはあっても、弱めることはないだろう。

 定年退職したら、その摩擦は幾分減るのだろうか。。


> > (続く)


[26183] Re:[26175] 既知からの自由16−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/11/01(Thu) 10:10  

> 16章ー2 [宗教的な心]
>
>  宗教的な心は宗教を信じる心とは全く違うものです。あなたは宗教的でありそしてなおヒンドゥ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、仏教徒であることはできません。宗教的な心は全く求めることをしません。それは真理を実験することはできません。真理は快楽や苦痛によって、あるいはヒンドゥ教とか、あなたがどんな宗教に属していてもその教徒としての条件付けによって指令される何かではありません。宗教的な心は、その中に恐怖がなく、したがってどんな信念もなく、ただあるがままのもの ― 実際にあるものだけがある心の状態です。


『宗教的な心は宗教を信じる心とは全く違うものです』
 かつてはこういうコメントを読んでも、なぜと説明を求めていた。ここへきてようやくただ聞いて感じることができる。

『宗教的な心は、その中に恐怖がなく、したがってどんな信念もなく、ただあるがままのもの ― 実際にあるものだけがある心の状態です』
 ここは訳の難しい言葉が出ている、あるがままのもの=what is、実際にあるもの=what actually is、です。しかし、恐怖がない、したがってどんな信念もないあるがままの心…わかりません。


>  宗教的な心の中には私達が既に調べた沈黙の状態があり、それは思考によって造り出されたのではなく、気づきの結果です。それは観察者が全くいない瞑想です。その沈黙の中にはいかなる葛藤もないエネルギーの状態があります。エネルギーは行為であり、動きです。すべての行為は動きであり、すべての行為はエネルギーです。すべての欲望はエネルギーです。すべての感情はエネルギーです。すべての思考はエネルギーです。すべての生きることはエネルギーです。すべての生はエネルギーです。そのエネルギーがどんな矛盾もなしに、どんな摩擦もなしに、どんな葛藤もなしに流れることが許されるなら、その時そのエネルギーは限りがなく、終わりがありません。摩擦がないときエネルギーに限界はありません。エネルギーに制限を与えるのは摩擦です。そこで、一度このことを見たなら、なぜ人間は常にエネルギーに摩擦を持ち込むのでしょうか? なぜ人間は生と呼ぶこの動きの中に摩擦をつくり出すのでしょうか? 純粋なエネルギー、制限のないエネルギーは人間にとってはただの考えなのでしょうか? それは現実性を持たないのでしょうか?


宗教的な心には既に気づきによってつくりだされた沈黙の状態がある…うむ。
 ここでエネルギーの話が出てきました。次の段落でエネルギーについてさらに語られますが、この問いもまた根源的な問いです、私には鳩が豆鉄砲で撃たれた感じでした。

> (続く)


[26182] Re:[26176] [26175] 既知からの自由16−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/31(Wed) 16:13  

> > 16章ー2 [宗教的な心]
> >
> >  宗教的な心は宗教を信じる心とは全く違うものです。あなたは宗教的でありそしてなおヒンドゥ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、仏教徒であることはできません。宗教的な心は全く求めることをしません。それは真理を実験することはできません。真理は快楽や苦痛によって、あるいはヒンドゥ教とか、あなたがどんな宗教に属していてもその教徒としての条件付けによって指令される何かではありません。宗教的な心は、その中に恐怖がなく、したがってどんな信念もなく、ただあるがままのもの ― 実際にあるものだけがある心の状態です。
>
>  お言葉ですが、そのような心の状態は、宗教的な心とは呼びません。愛のかけらもないものです。
>  あるものだけがあるといわれますが、そこに愛がありますか。

全く求めることのない心がホントの愛です。


> >  宗教的な心の中には私達が既に調べた沈黙の状態があり、それは思考によって造り出されたのではなく、気づきの結果です。それは観察者が全くいない瞑想です。その沈黙の中にはいかなる葛藤もないエネルギーの状態があります。エネルギーは行為であり、動きです。すべての行為は動きであり、すべての行為はエネルギーです。すべての欲望はエネルギーです。すべての感情はエネルギーです。すべての思考はエネルギーです。すべての生きることはエネルギーです。すべての生はエネルギーです。そのエネルギーがどんな矛盾もなしに、どんな摩擦もなしに、どんな葛藤もなしに流れることが許されるなら、その時そのエネルギーは限りがなく、終わりがありません。摩擦がないときエネルギーに限界はありません。エネルギーに制限を与えるのは摩擦です。そこで、一度このことを見たなら、なぜ人間は常にエネルギーに摩擦を持ち込むのでしょうか? なぜ人間は生と呼ぶこの動きの中に摩擦をつくり出すのでしょうか? 純粋なエネルギー、制限のないエネルギーは人間にとってはただの考えなのでしょうか? それは現実性を持たないのでしょうか?

見るという事は思考の介入なしにという事ばかり頭にありましたが、矛盾、摩擦のない最高のエネルギ−状態という事があったのですね。

> > (続く)
>
>  あらゆるエネルギーの中で、明らかに「異質」と感じるものが、愛のエネルギーです。
>  それは、遺伝子のスイッチをオフからオンに生じなければ、愛と呼ぶエネルギーは生じません。
>  それには、わくわくする、イキイキする、生き方を心掛けることです。
>
> 注  
>  今、遺伝子研究の第一人者村上和雄先生の本を読んでいるが、「わくわくする、イキイキする」というと言葉を聞いて、きしくも新しい芽氏が、イキイキする。ワクワクする、という言葉を読書会で言っていたことを思い出しました。
>  イキイキする。わくわくする。はつらつと前向きに生きる。
> そのとき眠っている遺伝子がオンになる。それこそ生命が喜ぶ状態。人生を成功に導き、幸福を感じることが可能になる。
>  ある聖賢の言葉「細胞に意識がある」というのは、事実だったようです。
>  人間は脳細胞をほとんど使わないまま死んでいくという話を聞いたことがありますが、驚くべきことに、人間は遺伝子細胞の95パーセントオフのまま死んでいくという。(村上談)
>  人間というのは無限の可能性というもの、自ら閉じているということです。
>
>


[26181] Re:[26179] [26174] [26172] [26168] 既知からの自由16−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/31(Wed) 15:59  

> > > >  再度自分自身に問いましょう。私達が自分自身をよりよく理解するようになったいま、この残虐で暴力的で無慈悲な世界で ― ますます効率的になりしたがってますます無慈悲になりつつある世界で ― 普通の日常生活を送る人間にとって、外的関係だけではなく、自分の思考、感情、行動と反応のすべての分野に革命をもたらすことができるでしょうか?
> > > >
> > >
> > > しかし、現実問題として憎悪嫉妬等の無慈悲を向けられたら相当なストレスです。自分が変わるといっても限界がある。じっと我慢するのだろうか?
> >
> > 憎悪、嫉妬等からの自由の問題ですね。自由がある時どうなるか、そのときにわかるでしょう。
> >
> >
>
> とにかく普通の人は自分の価値観を押し付けたがる。しかし、そこはそことして相手のことを尊重する。私はという常に自分を支持し尊重する。相手に振り回されないようにする。
> 例えば心配。親の心配、医師の心配、友達の心配等。これはなぜ心配するかといえば自分の理想に沿ってないからなんですね。それに一々合わせる必要はない。私はあるがままでいい。そういうことを一人でやっているのですが、普通の人はなかなか執念深く自分に合わせようとする。それが負担だということ。

相手は相手の現在のあるがままの姿を見せる。それは自分と直面するときと同じで評価判断なしに見、聞いている。で、それで済めばいいが、こちらの反応を知りたがる。例えば「それがなかなか」とか言って笑って終わりになるといいですが、相手がとてつもなくまじめに言ってくる場合はそうとも行かない。そのときは真剣にこちらの思いを言うしかない気がします。しかし相手がレベルが低くしかも押しつけがましい時は困りますね。何とか打ち切りたいですね。


> > > >  私達は人間の中の暴力の結果として世界に起こる恐るべきことを、毎日見たり読んだりします。「自分はそれについて何もできない」とか「どうやって世界に影響を与えられるだろうか?」と言うかもしれません。あなたが自分自身の中で暴力的でないなら、あなたが毎日実際に平和な生活 ― 競い合わず、野心的でなく、嫉妬しない生活 ― 敵意を作り出さない生活を送るなら、あなたは世界に途方もない影響を及ぼすことができると私は思います。小さな火は強い炎になることができます。私達は自分の自己中心的な活動によって、自分の偏見、憎悪、国家主義で世界を現在の混沌の状態におとし入れてしまいました。そしてそれについて何もできないと言うとき、自分たち自身の中にある無秩序を避けられないものとして受け入れているのです。私達は世界をばらばらに裂いてしまい、そして私達自身が破壊され、ばらばらにされているなら、私達の世界との関係もまた破壊されるでしょう。しかしもし、私達が行動するとき、全的に行動するなら、その時私達の世界との関係は驚くべき革命を受けるでしょう。
> > > >
> > >
> > > Kはどんな生活をしていたのか知りませんが、現代社会でKを読み実践して愛をもってしてもやはり他人はかわらないのです。
> >
> > いいえ、実践できるものかどうかは、つまり自分の意志で実現できるかどうかはわかりませんが、それが起こり始めれば不思議に人は同じ方向に向きます。職場で権力を振り回さない、無心に協力する、規則を盾に取らない、人の言うことがそのまま聞かれるなどが起き始めます。そういう職場にとってはそれは当たり前ですが、そうでない職場から来た人にとっては違いはすぐ分かります。
> >
> >
> これはゴトさんが変わったときに職場の方も変化したということですか?そんな奇跡的なことが起こるのでしょうか?

いいえ、そうした職場に行ったという事です。それが普通のことではないというのは後輩の人に聞きました。その人はさらに多くの職場を見たので。


> > > >  結局、価値ある動き、深い意義を持つ行為は、どんなものでも私達一人一人から始めなければなりません。私が最初に変わらなければなりません。私が世界との自分の関係の性質と構造を見なければなりません ― そしてまさにその見ることの中に行為があります、それゆえ私は、この世界に生きる人間として、違う性質をもたらし、そしてその性質は、私には宗教的な心の性質であると思われるのです。
> > > >
> > >
> > > 心から愛の存在を祈り、自分が変容して世界に影響を及ぼそうとしても何かは少し変わるのかもしれないが(それが宗教心か)みんなは相も変わらす競争に明け暮れテレビを見てはらんちきさわぎ。嫌になります、ほんとう。
> >
> > 自分が人間(自分?)の動きようを理解するしかないですね。

自分・人間はある意味どうしようもない存在ですが、とてつもない光の部分、愛、慈悲、英知のきらめきも見ることのできる存在です。その存在を見て理解するのは思考の、既知のものの介入なしに見る時にあります。そのように見るには高いエネルギーが必要ですが。16−2はその点にも入りかけています。
>
> > > > (続く)


[26180] Re:[26175] 既知からの自由16−2 投稿者:南方 投稿日:2018/10/31(Wed) 11:26  

> 16章ー2 [宗教的な心]
>
>  宗教的な心は宗教を信じる心とは全く違うものです。あなたは宗教的でありそしてなおヒンドゥ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、仏教徒であることはできません。宗教的な心は全く求めることをしません。それは真理を実験することはできません。真理は快楽や苦痛によって、あるいはヒンドゥ教とか、あなたがどんな宗教に属していてもその教徒としての条件付けによって指令される何かではありません。宗教的な心は、その中に恐怖がなく、したがってどんな信念もなく、ただあるがままのもの ― 実際にあるものだけがある心の状態です。
>

これはちょっと信じがたいですね。仏教徒であれ何であれ混乱を静める方々はいると思いますが。

>  宗教的な心の中には私達が既に調べた沈黙の状態があり、それは思考によって造り出されたのではなく、気づきの結果です。それは観察者が全くいない瞑想です。その沈黙の中にはいかなる葛藤もないエネルギーの状態があります。エネルギーは行為であり、動きです。すべての行為は動きであり、すべての行為はエネルギーです。すべての欲望はエネルギーです。すべての感情はエネルギーです。すべての思考はエネルギーです。すべての生きることはエネルギーです。すべての生はエネルギーです。そのエネルギーがどんな矛盾もなしに、どんな摩擦もなしに、どんな葛藤もなしに流れることが許されるなら、その時そのエネルギーは限りがなく、終わりがありません。摩擦がないときエネルギーに限界はありません。エネルギーに制限を与えるのは摩擦です。そこで、一度このことを見たなら、なぜ人間は常にエネルギーに摩擦を持ち込むのでしょうか? なぜ人間は生と呼ぶこの動きの中に摩擦をつくり出すのでしょうか? 純粋なエネルギー、制限のないエネルギーは人間にとってはただの考えなのでしょうか? それは現実性を持たないのでしょうか?
>

エネルギーの滞りがない心の状態。自分がそれを実現したとしても釘を刺してくる人が世の中には沢山います。
「元気がないね?」という言葉をかけられる。私は穏やかであるのにその言葉によってエネルギーが乱される。すぐに私は元の状態に戻れるが、現代社会のひっきりなしの会話にあってはそれが終わるまでエネルギーは乱れっぱなし。それが辛い。

> (続く)

http://


[26179] Re:[26174] [26172] [26168] 既知からの自由16−1 投稿者:南方 投稿日:2018/10/31(Wed) 11:16  

> > >  再度自分自身に問いましょう。私達が自分自身をよりよく理解するようになったいま、この残虐で暴力的で無慈悲な世界で ― ますます効率的になりしたがってますます無慈悲になりつつある世界で ― 普通の日常生活を送る人間にとって、外的関係だけではなく、自分の思考、感情、行動と反応のすべての分野に革命をもたらすことができるでしょうか?
> > >
> >
> > しかし、現実問題として憎悪嫉妬等の無慈悲を向けられたら相当なストレスです。自分が変わるといっても限界がある。じっと我慢するのだろうか?
>
> 憎悪、嫉妬等からの自由の問題ですね。自由がある時どうなるか、そのときにわかるでしょう。
>
>

とにかく普通の人は自分の価値観を押し付けたがる。しかし、そこはそことして相手のことを尊重する。私はという常に自分を支持し尊重する。相手に振り回されないようにする。
例えば心配。親の心配、医師の心配、友達の心配等。これはなぜ心配するかといえば自分の理想に沿ってないからなんですね。それに一々合わせる必要はない。私はあるがままでいい。そういうことを一人でやっているのですが、普通の人はなかなか執念深く自分に合わせようとする。それが負担だということ。




> > >  私達は人間の中の暴力の結果として世界に起こる恐るべきことを、毎日見たり読んだりします。「自分はそれについて何もできない」とか「どうやって世界に影響を与えられるだろうか?」と言うかもしれません。あなたが自分自身の中で暴力的でないなら、あなたが毎日実際に平和な生活 ― 競い合わず、野心的でなく、嫉妬しない生活 ― 敵意を作り出さない生活を送るなら、あなたは世界に途方もない影響を及ぼすことができると私は思います。小さな火は強い炎になることができます。私達は自分の自己中心的な活動によって、自分の偏見、憎悪、国家主義で世界を現在の混沌の状態におとし入れてしまいました。そしてそれについて何もできないと言うとき、自分たち自身の中にある無秩序を避けられないものとして受け入れているのです。私達は世界をばらばらに裂いてしまい、そして私達自身が破壊され、ばらばらにされているなら、私達の世界との関係もまた破壊されるでしょう。しかしもし、私達が行動するとき、全的に行動するなら、その時私達の世界との関係は驚くべき革命を受けるでしょう。
> > >
> >
> > Kはどんな生活をしていたのか知りませんが、現代社会でKを読み実践して愛をもってしてもやはり他人はかわらないのです。
>
> いいえ、実践できるものかどうかは、つまり自分の意志で実現できるかどうかはわかりませんが、それが起こり始めれば不思議に人は同じ方向に向きます。職場で権力を振り回さない、無心に協力する、規則を盾に取らない、人の言うことがそのまま聞かれるなどが起き始めます。そういう職場にとってはそれは当たり前ですが、そうでない職場から来た人にとっては違いはすぐ分かります。
>
>

これはゴトさんが変わったときに職場の方も変化したということですか?そんな奇跡的なことが起こるのでしょうか?


> > >  結局、価値ある動き、深い意義を持つ行為は、どんなものでも私達一人一人から始めなければなりません。私が最初に変わらなければなりません。私が世界との自分の関係の性質と構造を見なければなりません ― そしてまさにその見ることの中に行為があります、それゆえ私は、この世界に生きる人間として、違う性質をもたらし、そしてその性質は、私には宗教的な心の性質であると思われるのです。
> > >
> >
> > 心から愛の存在を祈り、自分が変容して世界に影響を及ぼそうとしても何かは少し変わるのかもしれないが(それが宗教心か)みんなは相も変わらす競争に明け暮れテレビを見てはらんちきさわぎ。嫌になります、ほんとう。
>
> 自分が人間(自分?)の動きようを理解するしかないですね。



> >
> >
> > > (続く)

http://


[26178] 訂正 投稿者:無明 投稿日:2018/10/31(Wed) 11:03  

>  クリシュナムルティの言葉を信じ切って、そのまま鵜吞
(ここは「の」です)

みにするのはそれこそ洗脳です。宗教団体の教祖の言葉を信ずる信者と同じ。

ペンネームは「無明」です。パソコンでは「無名」となっていました。



[26177] 無題 投稿者:無名 投稿日:2018/10/31(Wed) 10:58  

 クリシュナムルティの言葉を信じ切って、そのまま鵜吞みにするのはそれこそ洗脳です。宗教団体の教祖の言葉を信ずる信者と同じ。
 それこそほんとかどうか、言葉を疑ってみる。というのが本来の検証。
 新しい芽氏も言われているが、クリシュナムルティの言っていることは間違っているかもしれない。だから一つ一つ検証すると。彼のスタンスは事実の追求。
 常に思考を疑う姿勢。ホントかどうか。
 思考というのはずる賢く、常に欺瞞を演じるので、常に思考を見る。
 どのように気づいているか。

 (注 正直いうと、長い間この簡単な言葉の意味がわからかった)


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