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[24894] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/06(Sat) 10:54  

今日はこれから一日中出掛けます。また明日。


[24893] Re:[24890] [24888] [24886] 「心を変える瞑想」(3) 投稿者:宮啓 投稿日:2018/01/06(Sat) 09:50  

> > > ゴト: ヒトが聖と言ってきたものも思考によってつくられた聖だったのです。思考を通して作動している心は思考から自由になれるでしょうか、完全に断片化されずにいることができるでしょうか? 人の主体性というのは思考のそれ、そのものなのでしょうか? 続く。
> >
> >
> >  クリシュナムルティ理解に取り組むことにも動機がある。その動機(方向性)をも許さないもの。
> >
> >  年末年始休で明日のことを考えずに済むゆとりある生活では、動機(方向性)少なく穏やかにいることができるが、仕事が始まって生計を立てることにあくせくしている。
> >
> >  生計を立てることは、私の神的存在である妻子と家屋敷を失わないためである。
>
>
> あなたの心的存在である妻子や家屋敷、妻子をを守ることには動機があるのでしょうか?
>
> 引き換えに何かの見返りを求めていますか? 生計を立てるために働くことが、ひどい悪事なのでしょうか?
>
> そうではなく、主体が思考にあって、言葉からなる観念・結論に従って行為がある状態が実際の現実です。だがそうだと結論を出し、変容をするための行動を始めるのでなく、見ている。行為は思考と関係なく起こる・・・


 「動機がない行為」・・。

 空腹のとき食することをクリシュナムルティは「動機がある行為」とは言っていないですね。思春期花盛りでその機会に恵まれたときに繁殖行動を行うことも「動機がある行為」ではない。繁殖行動によってしでかした子どもを子育て本能によって育てることも「動機ある行為」ではない・・。ということですね。
 分かりやすく言えば、動物は「動機がある行為」を行わない。

 「動機がある行為」とは、ゴトさんが述べるように>主体が思考にあって、言葉からなる観念・結論に従って行為がある状態−−、これがクリシュナムルティが述べるところの「動機がある行為」ということですね。


 >見ている。行為は思考と関係なく起こる・・・−−、職場においても、見ているがゆえに自然と起こる行為があることに気づきました。


 >あなたの心的存在である妻子や家屋敷、妻子をを守ることには動機があるのでしょうか?−−、見ていると動機でないものと動機である部分が重なっているようです。初めて気づきました。
 動機である部分としては、私は「ひとかどの人間」でありたい。私の老後の安心のためという動機。
 動機ではない部分としては、見るがゆえに妻子の苦悩が見える。将来の苦悩も含めて。暗黒の中において暗黒とは知らず楽観していきている様が見える。見えるがゆえに守り、そして備える。

 私は少しでも動機が含まれていれば、それを動機ある行為と見なしていたことに気づきました。ひとつの行為においても結論づけられないのですね・・。。

 妻子への愛が「愛」か?という問いは、100パーセント「愛」ということはなくとも、見ることによる行為が含まれていたのですね。

 



[24892] Re:[24889] [24888] [24886] 「心を変える瞑想」(3) 投稿者:宮啓 投稿日:2018/01/06(Sat) 09:00  

> >  クリシュナムルティ理解に取り組むことにも動機がある。その動機(方向性)をも許さないもの。
> >
> 自我の終焉 第9章 自我とは何か 4行目  から以下引用。
> あなたが精神の動きをじっと見つめ、
> 完全に知り尽くしてしまったとき、
> あなたは非常に静かになるのではないでしょうか。
> しかもそれは強制や報酬や、あるいは恐怖によって生まれた静けさではありません。
> 精神のすべての活動は単に自我を強化する雛形にほかならないことを認識して、
> それを注意深く見守り、理解したとき、
> また活動している精神を完全に知り、
> 観念や言葉や、投影された経験によるのでなく、
> あなたが本当にその核心に迫ったとき、
> そのときあなたは、精神が完全に静止して、
> もう創作する力が無いことに気づくでしょう。
> 精神が創作するものはすべて一つの円の中にあり、
> 自我の領域の中にあるのです。
> ですから、精神が創作を止めたとき初めて、
> 認識作用ではない真の創造が生まれるのです。
> ーー 以上引用 −−
> 大事なのは時々刻々の内面の動きをただ観察する事だと思います。
> その中で何らかの気づきが発生するかも知れません。
> こころに動揺が走るような場面ではそこに自我の働きがあるはずで、
> そこはより一層注意深い観察により自分のこころにある何かに気づく可能性が高いと思います。
> あなたの発言の「その動機(方向性)をも許さないもの」の「許す」のあたりが気になります。
> 動機があるのを悪いと捉え、動機がなければそれは良い事と考えていませんか?
> 心配事がなく穏やかに生活していて動機がなく平和でも
> そこには何の価値もないように思います。
> また何か動揺を起こさせる事にぶつかったらまた心が乱れるだけでしょう。
> 大事なのは気づき・理解が発生して根本的に静かになる事だと思います。
> だから個々の動機とかに捕らわれずだた見ているのが良いと思います。
> そうすれば運が良ければ気づき・理解がやってくるのでは?
> 自我の働き・構造を理解して根源的に変化するわけですから。
> 老婆心かも知れませんが。



 お久しぶりです。

 久々の投稿を嬉しく思っています。

 クリシュナムルティの引用は力がありますね・・。

 私は読書会には参加したことがないのですが、このように引用を活用した読書会のようなものがあったらいいなと思っています。
 更にネットワークを活用すれば、多様な引用が共有できる のでネット上の読書会などいかがでしょうか。
 今更気づくのですが、ゴトさんとそのような読書会を以前から行っているようです。。

 KMさんがご指摘のような「見る」ことは、私の場合、ある程度自然に身についているようです。そのため職場でも、以前と比べて内面の深いところでは落ち着いているようです。
 そして、ご指摘のように>こころに動揺が走るような場面ではそこに自我の働きがあるはずで、そこはより一層注意深い観察により自分のこころにある何かに気づく可能性が高いと思います。−−、これが起きています。

 「関係」は鏡の働きをする貴重な存在として、関係が数多くそして多様な職場は、クリシュナムルティ理解への取り組みにおける最善の場だと感じています。

 >あなたの発言の「その動機(方向性)をも許さないもの」の「許す」のあたりが気になります。−−という問いに答えるには、渡辺充氏のことを持ち出すことになります。

 氏はクリシュナムルティが述べることがご自身には起きない旨を述べていました。氏は曹洞宗と臨済宗の二つで印可証明を受けています(ふたつで印可証明を受けた人は歴史上でも稀にしかいないとのことです)。
 そのような氏であっても、今のところどこにも辿り着けないのです。

 それゆえに、私もどこにも辿り着けないかもしれない。が・・、探求はやめないだろう・・ということです。

 「動機」とは不思議なことに、クリシュナムルティはところどころで叱咤激励を行っていますね。「精励」や「情熱」等々の言葉を用いていますが、「動機」も言葉としてはクリシュナムルティの言わんとするところのそのものを示すことはできないのかもしれません。

 そして、その示すところに鍵があるのかもしれないのです。


[24891] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/06(Sat) 00:02  

KMさん、お久しぶりです。

投稿 有難うございます。


[24890] Re:[24888] [24886] 「心を変える瞑想」(3) 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/05(Fri) 23:57  

> > ゴト: ヒトが聖と言ってきたものも思考によってつくられた聖だったのです。思考を通して作動している心は思考から自由になれるでしょうか、完全に断片化されずにいることができるでしょうか? 人の主体性というのは思考のそれ、そのものなのでしょうか? 続く。
>
>
>  クリシュナムルティ理解に取り組むことにも動機がある。その動機(方向性)をも許さないもの。
>
>  年末年始休で明日のことを考えずに済むゆとりある生活では、動機(方向性)少なく穏やかにいることができるが、仕事が始まって生計を立てることにあくせくしている。
>
>  生計を立てることは、私の神的存在である妻子と家屋敷を失わないためである。


あなたの心的存在である妻子や家屋敷、妻子をを守ることには動機があるのでしょうか?

引き換えに何かの見返りを求めていますか? 生計を立てるために働くことが、ひどい悪事なのでしょうか?

そうではなく、主体が思考にあって、言葉からなる観念・結論に従って行為がある状態が実際の現実です。だがそうだと結論を出し、変容をするための行動を始めるのでなく、見ている。行為は思考と関係なく起こる・・・


[24889] Re:[24888] [24886] 「心を変える瞑想」(3) 投稿者:KM 投稿日:2018/01/05(Fri) 18:02  

>  クリシュナムルティ理解に取り組むことにも動機がある。その動機(方向性)をも許さないもの。
>
自我の終焉 第9章 自我とは何か 4行目  から以下引用。
あなたが精神の動きをじっと見つめ、
完全に知り尽くしてしまったとき、
あなたは非常に静かになるのではないでしょうか。
しかもそれは強制や報酬や、あるいは恐怖によって生まれた静けさではありません。
精神のすべての活動は単に自我を強化する雛形にほかならないことを認識して、
それを注意深く見守り、理解したとき、
また活動している精神を完全に知り、
観念や言葉や、投影された経験によるのでなく、
あなたが本当にその核心に迫ったとき、
そのときあなたは、精神が完全に静止して、
もう創作する力が無いことに気づくでしょう。
精神が創作するものはすべて一つの円の中にあり、
自我の領域の中にあるのです。
ですから、精神が創作を止めたとき初めて、
認識作用ではない真の創造が生まれるのです。
ーー 以上引用 −−
大事なのは時々刻々の内面の動きをただ観察する事だと思います。
その中で何らかの気づきが発生するかも知れません。
こころに動揺が走るような場面ではそこに自我の働きがあるはずで、
そこはより一層注意深い観察により自分のこころにある何かに気づく可能性が高いと思います。
あなたの発言の「その動機(方向性)をも許さないもの」の「許す」のあたりが気になります。
動機があるのを悪いと捉え、動機がなければそれは良い事と考えていませんか?
心配事がなく穏やかに生活していて動機がなく平和でも
そこには何の価値もないように思います。
また何か動揺を起こさせる事にぶつかったらまた心が乱れるだけでしょう。
大事なのは気づき・理解が発生して根本的に静かになる事だと思います。
だから個々の動機とかに捕らわれずだた見ているのが良いと思います。
そうすれば運が良ければ気づき・理解がやってくるのでは?
自我の働き・構造を理解して根源的に変化するわけですから。
老婆心かも知れませんが。



[24888] Re:[24886] 「心を変える瞑想」(3) 投稿者:宮啓 投稿日:2018/01/05(Fri) 15:06  

> ゴト: ヒトが聖と言ってきたものも思考によってつくられた聖だったのです。思考を通して作動している心は思考から自由になれるでしょうか、完全に断片化されずにいることができるでしょうか? 人の主体性というのは思考のそれ、そのものなのでしょうか? 続く。


 クリシュナムルティ理解に取り組むことにも動機がある。その動機(方向性)をも許さないもの。

 年末年始休で明日のことを考えずに済むゆとりある生活では、動機(方向性)少なく穏やかにいることができるが、仕事が始まって生計を立てることにあくせくしている。

 生計を立てることは、私の神的存在である妻子と家屋敷を失わないためである。


[24887] 「心を変える瞑想」(4) 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/05(Fri) 13:09  

「心を変える瞑想」(4)

K: それゆえ全体である心は注意深く、それゆえ気遣います。そして深い、変わらない愛の感覚のこの性質を持っています。そのような心は全体です。瞑想が何であるか探究し始めるとき、あなたはそれに出会います。そのとき私たちは聖であるものを見出すことに進むことができます。どうか聞いてください、それはあなたの生です。違った生き方を見出すために、あなたのハートと心を傾注してください。それは心がすべての制御を放棄してしまっているときを意味します。それはあなたが、あらゆる欲望に、あらゆる好色な目配せや反応に、あらゆる快楽に、快楽の追求のあらゆる要求に負けて、好きなことをして生を送ることを意味しません。そうではなく、見出すこと、あなたが毎日の生を一つの制御もなしに生きることができるかどうかを見出すことを意味します。それは瞑想の一部です。それは人がこの注意の性質を持つ必要があることを意味します。その注意、それは思考の正しい場所について洞察をもたらしました。そして思考は断片的であり、そして制御があるところ制御者と制御されるものがあり、それは断片的です。それゆえ 一つの制御もない生き方を見出すためには、それは驚くべき注意、大きな規律を必要とします。あなたが慣れている規律ではありません、それは単なる抑制、制御、順応です。しかし私たちは学ぶことを意味している規律について話しているのです。規律という語は弟子という語から来ています。弟子はここでは学ぶということです。いまここでは教師も、弟子もありません。あなたが学んでいるなら、あなたが教師であり、あなたが弟子です。そしてその学んでいる行為そのものがそれ自身の秩序をもたらします。

さて、思考はそれ自身の場所、その正しい場所を見つけました。そこで心は物質的過程、それは思考です、としての運動をもはや背負わされていません。それは心が絶対的に静かであることを意味します。それは自然に静かであり、静かにさせられてではありません。静かにさせられたものは役に立ちません。たまたま静かであるもの、その静かさの中に、その空虚の中に、新しいものが起こることができるのです。

それで心は、あなたの心は、制御なしに、思考の運動なしに、絶対に静かであることができるでしょうか? あなたが実際に洞察−思考に正しい場所をもたらす洞察−を持つなら、心は自然に静かであるでしょう。そこから思考はその正しい場所を持ち、したがって心は静かです。静寂と静かという言葉が何を意味しているかおわかりでしょうか? ほら、ドラッグを用いることによって、マントラや言葉を繰り返すことによって、心を静かにさせることが出来ますね。継続して繰り返し、繰り返し、繰り返すなら、自然にあなたの心は静かになるでしょう。そのとき、そのような心は鈍く愚かな心です。そして二つの雑音の間の静寂があります。二つの鳥のさえずりの間の静寂があります。二つの思考の動きの間の静寂があります。夕べの静寂があります。鳥はその雑音、さえずりをしてねぐらに帰りました。そして木の葉の間にゆらぎがありません、そよ風がありません。絶対の静けさがあります。町の中でなく自然と共に戸外にいるとき、木と一緒にいるとき、あるいは川の岸に座っているとき、そこに静寂が大地に降り、そしてあなたはその静寂の一部です。それゆえさまざまな種類の静寂があります。しかし私達が今話している静寂、心の静けさ、その静寂は買うことができません、練習することができません。あなたが獲得する何か、報酬、醜い生への補償ではありません。それは醜い生が善い生に変容したときにのみあります。善いという言葉によって、私は多く持っていることではなく、善である生、その善の開花、美を意味しています。そのとき静寂が生じます。

そしてまた美とは何であるか探究する必要があります。美とは何でしょうか? あなたは今までにこの質問を調べたことがあるでしょうか? それとも、それを本の中に見つけて私に教えたり、あるいはその本が美はしかじかであると言っているのをお互いに教えあったりするのでしょうか。美とは何でしょうか? そこに座っているとき、この夕方の日没をあなたは見ましたか。日没は話し手の後にありました。それを見ましたか? その光と葉の上のその光の輝きを感じましたか? それともあなたは美は感覚の、感覚に訴えるものであり、そして聖なるものを追求している心は美に魅かれることはできない、美とは何の関係もないと思い、したがって自分自身の思考から善として投影したあなたの小さいイメージに集中するだけなのでしょうか。そこであなたは見出す必要があります。瞑想が何であるか見出したいなら、あなたは美は何であるか見出す必要があります。顔の中の美、性格の中の美−性格ではなく、性格は安っぽいものです、それは環境の反応によって決まり、その反応の育成が性格と呼ばれます。行為の美、振舞、行いの美、内面の美、歩き方、話し方、身ぶりの美、そういったすべては美です。そしてそれを持つことなしには、瞑想は単に逃避、補償、意味のない行為になります。そして質素の中の美があります、大きな厳粛さの中の美があります−僧の厳粛さではありません。秩序を持っている心の厳粛さ。秩序は、あなたがその中で生きている無秩序全体を理解するとき生じます。そしてその無秩序から自然に秩序が生じ、それが徳です。したがって徳、秩序は最高の厳粛さです。日に三度の食事の否定や断食、頭を剃ること、その他すべてのごたごたではなく。

それで秩序があります、それは美です。愛の美、思いやりの美があります。そしてまたきれいな街の、建物の建築上のいい形の美があります。木の美があります、うっとりするほど美しい葉、すばらしい大きな枝。そのすべてを見ることは美です。単に美術館に行き果てしなく美について語るに過ぎないのではなく。それで静かな心の静寂はその美の精髄です。そしてそれが静かであるので、それが思考の玩具でないので、そのときその静寂の中に不滅のもの、聖なるものが生じます。そして聖なるものの生じる中で、そのとき生は聖になります。あなたの生は聖になります。私たちの関係は聖になります。あらゆるものが聖になります。あなたが聖であるそのものに触れたので。

そしてまた私たちは瞑想の中に、永遠のもの、始めも終わりもないものがあるのか、それともないのか、見出さなければなりません。それはこういうことです、時間の領域の中で養成されてきた心、その心は悠久であるあのものを見出す、出会う、あるいは見ることができるでしょうか? それで、それは心が時間なしにあることができるかということを意味します−時間はここからそこに行くためやその他諸々のために必要ですが、その心ができるでしょうか、ここからそこに心理的ではなく物理的に行き、時間の中で作動しているまさにその同じ心、その心が時間なしにあることができるでしょうか? それはこういうことです、その心は過去なしに、現在なしに、未来なしにいられるでしょうか? その心は絶対の無の中にあることができるでしょうか? その語を恐れないで下さい。それは空であるので広大な空間を得ました。あなたは自分自身の心の中に、そこにいったい何らかの空間を持っているかどうか、観察したことが今までにあるでしょうか? ちょっとした空間、ほら、少々の空間? それともあらゆる物事で一杯ですか? あなたの心配で一杯ですか、あなたのセックスあるいはセックスのないことで、あなたの業績で、あなたの知識で、あなたの野心、恐怖で、あなたの苦悩、あなたの取るにたらないことで一杯ですか。そしてそのような心がどうして理解することや、あの存在の状態の中にあることや、あの巨大な空間を持つことができるでしょうか? 空間は常に巨大です。

そして日常生活の中で空間を持たない心は、とても永遠である、始めも終わりもないものに出会うことはできません。そしてそれが、瞑想が途方もなく重要になる理由です。あなた方皆が練習する瞑想ではありません。それは全く瞑想ではありません。しかし私たちが今話している瞑想が心を変えます。そして宗教的な心であるのはそのような心のみです。異なる文化、異なる生き方、異なる関係、神聖の感覚、したがって偉大な美と正直をもたらすことができるのは、そのような宗教的な心だけです。このすべては努力なしに、闘いなしに、犠牲なしに、制御なしに、自然に生じます。そしてこれが瞑想の始めであり終わりです。

ゴト: これでKのトークは終わり、あと質問があるのみです。
ここは私は何も言う事ができず、皆様の傾聴に待つしかありません。


[24886] 「心を変える瞑想」(3) 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/04(Thu) 14:02  

「心を変える瞑想」(3)

K: それで瞑想とは何でしょうか? そしていったいなぜ人は瞑想すべきなのでしょうか? ところで瞑想という言葉はよく考えることを、熟考することを意味します。そしてまた瞑想は測る能力を意味します。そして測ることはこれとあれとの間の運動を意味します。それは比較を意味します。それは模倣を意味します。そういったすべてがその瞑想という言葉に含まれています。

それで私は見出したいのですが、心は測ることなしにあることができるでしょうか? おわかりですか? 心は思考の運動なしにあることができるでしょうか?、それは時間ですが。時間は測ることです。時間は方向です。時間、時計による時間があります、ここからそこへの運動としての時間があります、時間はここからそこへ行くのに必要です−必要な時間。時間は運動です。そして瞑想は時間の中の運動でしょうか? 運動としての時間は聖なるものを見出すことができるでしょうか? 私の質問がおわかりですか? 思考は物質的な過程だと私たちは言いました。そして瞑想が何であるかを探究するために、どんな場所を思考は持っているのでしょうか?−時間である思考、測定である思考、方向である思考、それはここからそこへです。思考はどんな場所を持っているのでしょうか? どうか。それはいったい何かの場所を持っているでしょうか? それがどんな場所もまったく持っていないなら、そのとき心は思考をどうすればいいでしょうか? それは何かの場所をいったい持っているのでしょうか? それが場所をまったく持っていないなら、そのとき心は思考をどうすればいいでしょうか? それが瞑想の中に場所を持っていないなら、そのときあなたは、心が捕えられているこの途方もない思考の運動をどうしますか? 絶え間なく喋り続けている心、「私は達成しよう、私は獲得しよう、私は比較しているのだ」と言う心、それは何時も絶え間なく動いています。あなたはその思考をどうしますか? あなたはそれを否定することはできません、それはそこにあります。そこであなたは「私はそれを制御しよう、対象に、イメージに、私が聖であると考えるものに集中することを学び、そしてそれに留まり、あらゆるほかの思考を排除しよう」と言い始めます。それがあなたがやっていることです。そこで闘いが始まります。何かに集中しようとする苦闘、そして逸れる思考。この打ち続く絶え間ない苦闘。集中は、思考が高尚である、優れている、真実であるとして選んだものに思考を集中することを意味します。いいですか? それゆえ思考は観念、絵、イメージを投影しました。そして思考は「私はそれに集中しよう」と言います。そして集中の過程の中で、それは他のあらゆるものを排除するに違いありません。そして断片的である思考、その排除は断片化の運動です。

それゆえ、観念への、画像への、思考が必要と考える何かへの集中は、時間の中の運動、測定の運動、特定の方向への運動であり、したがってそれは断片的であるに違いありません。そこでそれを見て「私は集中すまい」と私は言います−おしまい、それは終わりです。

ゴト: そこでいよいよ瞑想とは何か調べが始まりましたが、まず、瞑想の中での心や思考の在り方が出てきます。そのとりとめのないさ迷いは皆が知っています、そこで集中のコントロールの問題が出てくるのですが、断片化であることは明らかであり、すぐおしまいにします。

K: そこで瞑想の意味を探究している心は次の事実に出会います。思考は測ることであり、思考は時間の運動であり、思考は意志として方向を定めます。そして思考は本質的に断片であるので、なぜなら思考は記憶の反応であり、記憶は経験としての知識の集積であるから、それは過去のものであり、それゆえそれは断片です。思考は断片です。瞑想とは何かという探究の中で、ひとはこのことを発見します。

この思考の運動を、人はどうすればいいのでしょうか? それは制御されるべきでしょうか? そしてあなたがそれを制御しているなら、制御者は誰でしょうか? 思考者自身が思考ではないでしょうか? それゆえ制御者は制御されるものです。では思考を、この思考の運動をどうすればいいでしょうか? 心は思考をその正しい場所におく術を見出さなければなりません。即ち、知識は必要です。知識は経験としての思考の運動です。それゆえ思考は知識の分野、あるいは領域の中で必要です。車を運転するため、話すため、日々の仕事、技術などを行なうため、知識はそこで必要であり、思考は最も効率的に、明確に、非個人的に、その領域で機能しなければなりません。それゆえ瞑想が何であるか理解する中で、心は思考がその正しい場所を持っていることを発見しました。そして思考が正しい場所を持つことを思考が発見するとき、そのとき思考はもはや重要な事柄ではないことが見えるでしょう。

ゴト: 思考はその持ち場を知ることが大切です。それは思考自身により自覚しなければなりません。

K: では次の質問はこうです。方式、方法、あなたがする様々な練習、それは何か妥当性を持っているでしょうか? それともそれは、思考の一部である機械的習慣の養成でしょうか? おわかりですか? なんといっても、あなたは瞑想の方式を持っているのではないでしょうか? 禅から現代に至る様々な瞑想の方式、あるいは瞑想の古代の方法や方式や練習。あなたが練習するとき、それは何を意味していますか? それは方向を意味します。いいですか? あなたは方向を定め、そしてその結果を得るために毎日練習しています−結果、導師、他の人が定めた本が、結果であるそれを据えました。それゆえあなたは明確な結果、固定した結果を得るために練習しているのです。もしそれが生きているものものであるなら、あなたはそれに到達するために練習できません。それは何時も動いています。それゆえあなたが方法を練習しているとき、それはあなたが方向を定め、それに向かって動いていることを意味しますが、その方向と結果は思考によって組み立てられているのです。それゆえあなたは思考の外にはいません。あなたは、なお、思考の運動の中にいます。いいですか?

それゆえあなたはそのとき見ます、その中に洞察を持ちます。それで方向がありません、それは意志のないことを意味します。意志は結局 欲望の強調、誇張です。いいですか? あなたは悟りを持ちたいと望みます。あなたは解脱や、解放、天国を、あるいはあなたがそれを言う何であれ、望みます。あなたはそれを望み、そしてそのために働きます。もしあなたがまじめであってそれをもてあそんでいないならば。おそらくもてあそんでいるのでしょう。しかしあなたがまじめなら、あなたはそのとき方向を定め、そして「その解脱、その天国、その解放を得るために、私は規則正しくこれらのことをしよう」と言います−目的が何であろうが、あなた自身で定めた決勝点は、なお思考の領域の範囲内に、物の領域の範囲内に、時間の領域の範囲内に、測ることの領域の範囲内にあります。それゆえあなたはまったく思考を離れていません。あなたはなおその中に捕えられています。そして瞑想を探究している心は、彼がこの事実に気づいており、したがって方式はなく、方法はなく、決勝点はなく、方向はなく、それゆえ導師はないのを見ます。

ゴト: ヒトは古代から信仰のための修業を積み重ねてきました。これらは結局思考の組み立てた方法なのです。意志、欲望で結果を求めて、その行き先はわからないとしてもその努力はなお思考の領域内にあります。古代から思考によって生きてきたのです。

K: それに、私たちが言ったように、思考が聖なるものとして組み立てたものは、聖ではありません。それらは生に意義を与えるためのただの言葉です。なぜなら、あなたが生きているような生は神聖でないから、尊くないからです。尊いという語、H-O-L-Y は全体であることから来ています。それは健康、正気を意味し、したがって尊いのです。そのすべてがその語に含まれています。そこで心は−どうかこのすべてをわかってください−思考を通じて作動している心は、神聖なものを見つけることをどんなに熱望していても、なお時間の分野の中で、断片化の分野の中で行動しています。それゆえ、心は断片にされないで、全体であることができるでしょうか? これが瞑想が何であるかを理解することのすべての部分です。心はできるでしょうか、それは進化の産物、時間の産物、そんなにも多くの影響、そんなにも多くの傷、そんなにも多くの苦しみ、このような大きな悲しみ、大きな不安の産物です。心はそういったすべてに捕まっています。そしてそういったすべては思考の結果です。そして思考は、私たちが言ったように、その性質そのものによって断片的です。そして心はそれが今そうであるように、思考の結果です。それゆえ心は思考の運動から自由であることができるでしょうか? 心は完全に断片化されずにあることができるでしょうか? あなたは生を全体として見ることができるでしょうか? 心は全体であることができるでしょうか?、それは一つの断片もないことを意味します。したがってこのことでの精励が生じます。心はそれが精励するとき全体です。それは気遣いを持つことを意味します、大きな愛情、大きな愛を持つことを意味します。それは男と女の愛とは全く違います。

ゴト: ヒトが聖と言ってきたものも思考によってつくられた聖だったのです。思考を通して作動している心は思考から自由になれるでしょうか、完全に断片化されずにいることができるでしょうか? 人の主体性というのは思考のそれ、そのものなのでしょうか? 続く。


[24885] Re:[24883] 無題 投稿者:宮啓 投稿日:2018/01/04(Thu) 08:45  

> 今晩BS1chで見たNHKの「資本主義の欲望2018」は非常に面白かった。世界の多くの人がこの問題を考えている。
>
> 人間が資本主義をやめることはかなり難しく、資本を増やすことが無意味になる日まで続くという見方の方が多いみたい。


 録画の予約をしていたのですが何故か録画されていませんでした。

 再放送に期待することにします。


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