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[25716] Re:[25714] [25712] [25710] [25707] 既知からの自由6-2 投稿者:宮啓 投稿日:2018/07/29(Sun) 08:36  

> > > ここで群れという言葉を持ち出したというのは情動的な群れている人間が今世紀の人間であるという認識からです。
> >
> >
> >  そして、その「群れ」自体が、理想的幻想、すなわち、思考の産物であり、一般ピープルは、幻想世界を漂っており、その漂いの中に暴力が渦巻いているということでしょうか。。
>
>
> 拝聴しました。よくわかります。そのうちAIとビッグデータで人間の政治的リーダーシップは幻想あるいはファンタジーを掻き立てるだけになるかもしれませんね。


 もっと身近では、教育現場で、ファンタジーが教えこまれています。

 クリシュナムルティ理解に携わる親は、その家庭教育において、ファンタジーと無縁な教育に携わることが、一定以上できるのかもしれません。


> 次は[正当化と非難]で、続けてアップします。



[25715] Re:[25713] [25711] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/07/29(Sun) 06:19  

> > しかし暴力を越えるにはそれを抑制できません、否定できません、「暴力は自分の一部だ、そういうことだよ」とか「私はそれを欲しない」と言う事はできません。私はそれを見なければなりません、学ばなければなりません。暴力と非常に親密にならなければならず、それを非難したり正当化したりするなら親密にはなれません。
> >
他の人は、ここをどう訳しているか見てみました。

大野氏
「しかし、暴力をこえるために、私はそれを抑圧したり、否定したりはできません。
私は
「たしかにそれは私の一部で、それだけの話だ」とか、
「私はそれを望まない」とか、言うことはできないのです。
私はそれを見なければなりません。それを調べなければなりません。
私はそれに精通しなければならず、もしもそれを非難したり正当化するようでは、そうなることはできないのです。
にもかかわらず、私たちはそれを非難してしまいます。私たちは正当化するのです。
ですから、今しばらくそれを非難したり、正当化したりするのはやめましょうと言っているのです。

注 「親密」と言う言葉は出てこない。ここにあたるのは「精通」か。

十菱さんのはシンプル

だが、暴力を超越するためには、それを抑えつけたり、否定したり、
「暴力は私の一部であって、それが問題だ」とか
「私は暴力を欲していない」
と言ってすませるわけにはいかない。それを見つめ、詳しく調べ、十分にそれを知らねばならない。
しかし、暴力について十分に知るには、それを非難したり正当化してはならない。
にもかかわらず、我々は暴力を非難し、正当化しているのではある。


自身の暴力について、逃げないで、避けないで徹底的に向き合う。
否定的接近として。外部にではなく。

>
> 暴力を理解する前にすでに価値判断(先入観)がある。



[25714] Re:[25712] [25710] [25707] 既知からの自由6-2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/28(Sat) 23:11  

> > > 6章-2 [怒り]
> > >
> > >  暴力のもっとも一般的な表現の一つは怒りです。私の妻や妹が攻撃されるとき、私は当然怒ると言います。自分の国が、自分の考えや、主義や、生き方が攻撃されたとき、私は当然怒ります。自分の習慣や取るに足らないちっぽけな意見が攻撃されたときもまた怒ります。足の指を踏まれたり侮辱されたとき怒りますし、もしあなたが私の妻と駆け落ちしたら私は嫉妬し、その嫉妬は、妻は私の所有物だから、正当だと見なされます。そしてこの全ての怒りは道徳的に正当化されます。でも国のために殺すこともまた正当化されます。そこで怒り、それは暴力の一部ですが、について話している時、私たちは怒りを正しいあるいは正しくない怒りという観点から、自分の性向や環境的な衝動にしたがって見るのでしょうか、それとも怒りのみを見るのでしょうか? いったい正しい怒りがあるのでしょうか? それともただ怒りのみがあるのでしょうか? いい影響とか悪い影響はなく、影響のみがありますが、自分に合わない何かによって影響されるとき私はそれを悪い影響と言うのです。
> >
> > ここに群れる人間の情動的な精神的振る舞いが、Kつまり群れの中の異例の人によって見えたままに述べられます。
>
>
>  群れも又幻想であるようです。幻想と幻想との関係が、いわゆるところの「群れ」。「幻想」とは思考の結果、思考の産物のことであり、一般ピープルが感じ取っている「群れ」とは思考の産物のこと。
>
>
> > >  あなたが自分の家族、国、旗と呼ばれる色のついた布切れ、信念、観念、教義、自分の必要なものや所有するものを守る瞬間、まさにその守ることが怒りを示します。ですからどんな説明も正当化もなしに、「自分の所有物を守らねばならない」とか「怒ったのは正しかった」とか「怒るなんて私はなんと愚かなのか」と言うことなしに、怒りを見ることができるでしょうか? 怒りをそれだけの何かのように見ることが出来ますか? それを完全に、客観的に見ることが出来ますか、それは怒りを防御したり非難したりしないという事ですが? 出来ますか?
> >
> > 群れている人間はそのように自分を見たりしないし、従って自分の振る舞いを知らないでしょう。完全に客観的に見ることがたまたまでも出来る人はまれでしょう。
>
>
>  思考の産物、すなわち幻想が現実の実際と思い込んでいる一般ピープルは、そのように見ない。
>
>
> > >  あなたに敵意を持っているとき、あるいはあなたがなんと素晴らしいんだと思っているとき、私はあなたを見ることが出来るでしょうか? あなたを見ることが出来るのはこのようなことが含まれていない或る注意を持って見るときだけです。では、私は怒りをそれと同じように見ることが出来るでしょうか? それは私が当の事柄に対して晒されていること、抵抗しないこと、この途方もない現象をそれに対する何の反応もなしに見つめていることを意味します。
> >
> > 「見る」という事はKの本を読む人でさえ分かりにくいことです。この説明はきっぱりとした声明です。
>
>
>  思考のフィルター無しに見る。
>
>
> > >  怒りは自分の一部であるので、怒りを冷静に見ることは非常に困難ですが、しかしそれが私のしようとしていることです。ここに私が、暴力的な人間がいます、黒、褐色、白色あるいは紫色だろうが。この暴力を遺伝で受け継いだのか社会が私の中に生み出したのかには、私は関わってはいません。私が関心のある全ては暴力から自由であることがいったい可能かどうかということです。暴力から解放されることが私にとっては全てです。それは私にはセックスや食べ物や地位よりもっと重要です。というのは暴力は私を堕落させているからです。それは私を破壊しており、世界を破壊しています。そして私はそれを理解したいのです。それを越えたいのです。
> >
> > これに対して最大の関心・エネルギーを注いで見る。そして自分自身の振る舞いを理解したい。
>
>
>  「ほっこり」したとき、暴力はなく、愛がある。それに比べて、暴力のとき、>暴力は私を堕落させているからです。それは私を破壊しており、世界を破壊しています。−−、これを感じ取ることができれば、>暴力から解放されることが私にとっては全てです。それは私にはセックスや食べ物や地位よりもっと重要です。−−、となる。
>
>  どんな美女を得るよりも、暴力からの解放を切望する。
>
>  人は、恐怖によって条件づけられることが多い。学校教育でも家庭教育でも。そして、その恐怖は暴力から来ているのではないだろうか。
>
>  暴力から解放されたら、条件づけからも解放されるかもしれない。
>
>
>
> > > 私はこの世界中のあらゆる怒りと暴力に責任を感じます。私は責任を感じます ― ただの言葉ではありません ― そして自分に「自分自身が怒りを越え、暴力を越え、困難を越える時のみ何かをすることができる」と言います。自分自身の中の暴力を理解しなければならないという私の持つこの感情が、見いだそうとするとてつもない活力と情熱をもたらすのです。
> >
> > ここの責任という言葉は私は受け止められません。自発的に何としてでも越えるという決意があるという意味でしょうか。それがとてつもないエネルギーをもたらしている。
>
>
>  私が社会であり、私が世界であるならば、私の暴力が世界の暴力と同等に感じられるのかもしれません。
>
>
> > >  しかし暴力を越えるにはそれを抑制できません、否定できません、「暴力は自分の一部だ、そういうことだよ」とか「私はそれを欲しない」と言う事はできません。私はそれを見なければなりません、学ばなければなりません。暴力と非常に親密にならなければならず、それを非難したり正当化したりするなら親密にはなれません。にもかかわらず、私達は非難するのです。正当化するのです。それゆえ、さしあたり、非難したり、正当化することをやめようと言っているのです。
> >
> > ここでの親密は打ち解けた間柄にあるという事ですか。
>
>
>  もしも、親密でないならば、その相手に対して緊張感を抱くのではないでしょうか。その緊張感は必ず思考を伴っているのではないでしょうか。
>
>  その相手と共に居て、思考がゆっくりで・・、ぼーっとできるのは、その相手が家族などの場合ではないでしょうか。
>
>
>
> > > (続く)
> >
> > ここで群れという言葉を持ち出したというのは情動的な群れている人間が今世紀の人間であるという認識からです。
>
>
>  そして、その「群れ」自体が、理想的幻想、すなわち、思考の産物であり、一般ピープルは、幻想世界を漂っており、その漂いの中に暴力か渦巻いているということでしょうか。。


拝聴しました。よくわかります。そのうちAIとビッグデータで人間の政治的リーダーシップは幻想あるいはファンタジーを掻き立てるだけになるかもしれませんね。

次は[正当化と非難]で、続けてアップします。


[25713] Re:[25711] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/28(Sat) 22:40  

> しかし暴力を越えるにはそれを抑制できません、否定できません、「暴力は自分の一部だ、そういうことだよ」とか「私はそれを欲しない」と言う事はできません。私はそれを見なければなりません、学ばなければなりません。暴力と非常に親密にならなければならず、それを非難したり正当化したりするなら親密にはなれません。
>
> 何で暴力と親密になるのか?矛盾も甚だしい!!
> 暴力を非難正当化しないと親密になる?
> 暴力を容認か。

暴力を理解する前にすでに価値判断(先入観)がある。


[25712] Re:[25710] [25707] 既知からの自由6-2 投稿者:宮啓 投稿日:2018/07/28(Sat) 21:21  

> > 6章-2 [怒り]
> >
> >  暴力のもっとも一般的な表現の一つは怒りです。私の妻や妹が攻撃されるとき、私は当然怒ると言います。自分の国が、自分の考えや、主義や、生き方が攻撃されたとき、私は当然怒ります。自分の習慣や取るに足らないちっぽけな意見が攻撃されたときもまた怒ります。足の指を踏まれたり侮辱されたとき怒りますし、もしあなたが私の妻と駆け落ちしたら私は嫉妬し、その嫉妬は、妻は私の所有物だから、正当だと見なされます。そしてこの全ての怒りは道徳的に正当化されます。でも国のために殺すこともまた正当化されます。そこで怒り、それは暴力の一部ですが、について話している時、私たちは怒りを正しいあるいは正しくない怒りという観点から、自分の性向や環境的な衝動にしたがって見るのでしょうか、それとも怒りのみを見るのでしょうか? いったい正しい怒りがあるのでしょうか? それともただ怒りのみがあるのでしょうか? いい影響とか悪い影響はなく、影響のみがありますが、自分に合わない何かによって影響されるとき私はそれを悪い影響と言うのです。
>
> ここに群れる人間の情動的な精神的振る舞いが、Kつまり群れの中の異例の人によって見えたままに述べられます。


 群れも又幻想であるようです。幻想と幻想との関係が、いわゆるところの「群れ」。「幻想」とは思考の結果、思考の産物のことであり、一般ピープルが感じ取っている「群れ」とは思考の産物のこと。


> >  あなたが自分の家族、国、旗と呼ばれる色のついた布切れ、信念、観念、教義、自分の必要なものや所有するものを守る瞬間、まさにその守ることが怒りを示します。ですからどんな説明も正当化もなしに、「自分の所有物を守らねばならない」とか「怒ったのは正しかった」とか「怒るなんて私はなんと愚かなのか」と言うことなしに、怒りを見ることができるでしょうか? 怒りをそれだけの何かのように見ることが出来ますか? それを完全に、客観的に見ることが出来ますか、それは怒りを防御したり非難したりしないという事ですが? 出来ますか?
>
> 群れている人間はそのように自分を見たりしないし、従って自分の振る舞いを知らないでしょう。完全に客観的に見ることがたまたまでも出来る人はまれでしょう。


 思考の産物、すなわち幻想が現実の実際と思い込んでいる一般ピープルは、そのように見ない。


> >  あなたに敵意を持っているとき、あるいはあなたがなんと素晴らしいんだと思っているとき、私はあなたを見ることが出来るでしょうか? あなたを見ることが出来るのはこのようなことが含まれていない或る注意を持って見るときだけです。では、私は怒りをそれと同じように見ることが出来るでしょうか? それは私が当の事柄に対して晒されていること、抵抗しないこと、この途方もない現象をそれに対する何の反応もなしに見つめていることを意味します。
>
> 「見る」という事はKの本を読む人でさえ分かりにくいことです。この説明はきっぱりとした声明です。


 思考のフィルター無しに見る。


> >  怒りは自分の一部であるので、怒りを冷静に見ることは非常に困難ですが、しかしそれが私のしようとしていることです。ここに私が、暴力的な人間がいます、黒、褐色、白色あるいは紫色だろうが。この暴力を遺伝で受け継いだのか社会が私の中に生み出したのかには、私は関わってはいません。私が関心のある全ては暴力から自由であることがいったい可能かどうかということです。暴力から解放されることが私にとっては全てです。それは私にはセックスや食べ物や地位よりもっと重要です。というのは暴力は私を堕落させているからです。それは私を破壊しており、世界を破壊しています。そして私はそれを理解したいのです。それを越えたいのです。
>
> これに対して最大の関心・エネルギーを注いで見る。そして自分自身の振る舞いを理解したい。


 「ほっこり」したとき、暴力はなく、愛がある。それに比べて、暴力のとき、>暴力は私を堕落させているからです。それは私を破壊しており、世界を破壊しています。−−、これを感じ取ることができれば、>暴力から解放されることが私にとっては全てです。それは私にはセックスや食べ物や地位よりもっと重要です。−−、となる。

 どんな美女を得るよりも、暴力からの解放を切望する。

 人は、恐怖によって条件づけられることが多い。学校教育でも家庭教育でも。そして、その恐怖は暴力から来ているのではないだろうか。

 暴力から解放されたら、条件づけからも解放されるかもしれない。



> > 私はこの世界中のあらゆる怒りと暴力に責任を感じます。私は責任を感じます ― ただの言葉ではありません ― そして自分に「自分自身が怒りを越え、暴力を越え、困難を越える時のみ何かをすることができる」と言います。自分自身の中の暴力を理解しなければならないという私の持つこの感情が、見いだそうとするとてつもない活力と情熱をもたらすのです。
>
> ここの責任という言葉は私は受け止められません。自発的に何としてでも越えるという決意があるという意味でしょうか。それがとてつもないエネルギーをもたらしている。


 私が社会であり、私が世界であるならば、私の暴力が世界の暴力と同等に感じられるのかもしれません。


> >  しかし暴力を越えるにはそれを抑制できません、否定できません、「暴力は自分の一部だ、そういうことだよ」とか「私はそれを欲しない」と言う事はできません。私はそれを見なければなりません、学ばなければなりません。暴力と非常に親密にならなければならず、それを非難したり正当化したりするなら親密にはなれません。にもかかわらず、私達は非難するのです。正当化するのです。それゆえ、さしあたり、非難したり、正当化することをやめようと言っているのです。
>
> ここでの親密は打ち解けた間柄にあるという事ですか。


 もしも、親密でないならば、その相手に対して緊張感を抱くのではないでしょうか。その緊張感は必ず思考を伴っているのではないでしょうか。

 その相手と共に居て、思考がゆっくりで・・、ぼーっとできるのは、その相手が家族などの場合ではないでしょうか。



> > (続く)
>
> ここで群れという言葉を持ち出したというのは情動的な群れている人間が今世紀の人間であるという認識からです。


 そして、その「群れ」自体が、理想的幻想、すなわち、思考の産物であり、一般ピープルは、幻想世界を漂っており、その漂いの中に暴力が渦巻いているということでしょうか。。


[25711] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/07/28(Sat) 18:56  

しかし暴力を越えるにはそれを抑制できません、否定できません、「暴力は自分の一部だ、そういうことだよ」とか「私はそれを欲しない」と言う事はできません。私はそれを見なければなりません、学ばなければなりません。暴力と非常に親密にならなければならず、それを非難したり正当化したりするなら親密にはなれません。

何で暴力と親密になるのか?矛盾も甚だしい!!
暴力を非難正当化しないと親密になる?
暴力を容認か。




[25710] Re:[25707] 既知からの自由6-2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/28(Sat) 16:48  

> 6章-2 [怒り]
>
>  暴力のもっとも一般的な表現の一つは怒りです。私の妻や妹が攻撃されるとき、私は当然怒ると言います。自分の国が、自分の考えや、主義や、生き方が攻撃されたとき、私は当然怒ります。自分の習慣や取るに足らないちっぽけな意見が攻撃されたときもまた怒ります。足の指を踏まれたり侮辱されたとき怒りますし、もしあなたが私の妻と駆け落ちしたら私は嫉妬し、その嫉妬は、妻は私の所有物だから、正当だと見なされます。そしてこの全ての怒りは道徳的に正当化されます。でも国のために殺すこともまた正当化されます。そこで怒り、それは暴力の一部ですが、について話している時、私たちは怒りを正しいあるいは正しくない怒りという観点から、自分の性向や環境的な衝動にしたがって見るのでしょうか、それとも怒りのみを見るのでしょうか? いったい正しい怒りがあるのでしょうか? それともただ怒りのみがあるのでしょうか? いい影響とか悪い影響はなく、影響のみがありますが、自分に合わない何かによって影響されるとき私はそれを悪い影響と言うのです。

ここに群れる人間の情動的な精神的振る舞いが、Kつまり群れの中の異例の人によって見えたままに述べられます。

>  あなたが自分の家族、国、旗と呼ばれる色のついた布切れ、信念、観念、教義、自分の必要なものや所有するものを守る瞬間、まさにその守ることが怒りを示します。ですからどんな説明も正当化もなしに、「自分の所有物を守らねばならない」とか「怒ったのは正しかった」とか「怒るなんて私はなんと愚かなのか」と言うことなしに、怒りを見ることができるでしょうか? 怒りをそれだけの何かのように見ることが出来ますか? それを完全に、客観的に見ることが出来ますか、それは怒りを防御したり非難したりしないという事ですが? 出来ますか?

群れている人間はそのように自分を見たりしないし、従って自分の振る舞いを知らないでしょう。完全に客観的に見ることがたまたまでも出来る人はまれでしょう。

>  あなたに敵意を持っているとき、あるいはあなたがなんと素晴らしいんだと思っているとき、私はあなたを見ることが出来るでしょうか? あなたを見ることが出来るのはこのようなことが含まれていない或る注意を持って見るときだけです。では、私は怒りをそれと同じように見ることが出来るでしょうか? それは私が当の事柄に対して晒されていること、抵抗しないこと、この途方もない現象をそれに対する何の反応もなしに見つめていることを意味します。

「見る」という事はKの本を読む人でさえ分かりにくいことです。この説明はきっぱりとした声明です。

>  怒りは自分の一部であるので、怒りを冷静に見ることは非常に困難ですが、しかしそれが私のしようとしていることです。ここに私が、暴力的な人間がいます、黒、褐色、白色あるいは紫色だろうが。この暴力を遺伝で受け継いだのか社会が私の中に生み出したのかには、私は関わってはいません。私が関心のある全ては暴力から自由であることがいったい可能かどうかということです。暴力から解放されることが私にとっては全てです。それは私にはセックスや食べ物や地位よりもっと重要です。というのは暴力は私を堕落させているからです。それは私を破壊しており、世界を破壊しています。そして私はそれを理解したいのです。それを越えたいのです。

これに対して最大の関心・エネルギーを注いで見る。そして自分自身の振る舞いを理解したい。

> 私はこの世界中のあらゆる怒りと暴力に責任を感じます。私は責任を感じます ― ただの言葉ではありません ― そして自分に「自分自身が怒りを越え、暴力を越え、困難を越える時のみ何かをすることができる」と言います。自分自身の中の暴力を理解しなければならないという私の持つこの感情が、見いだそうとするとてつもない活力と情熱をもたらすのです。

ここの責任という言葉は私は受け止められません。自発的に何としてでも越えるという決意があるという意味でしょうか。それがとてつもないエネルギーをもたらしている。

>  しかし暴力を越えるにはそれを抑制できません、否定できません、「暴力は自分の一部だ、そういうことだよ」とか「私はそれを欲しない」と言う事はできません。私はそれを見なければなりません、学ばなければなりません。暴力と非常に親密にならなければならず、それを非難したり正当化したりするなら親密にはなれません。にもかかわらず、私達は非難するのです。正当化するのです。それゆえ、さしあたり、非難したり、正当化することをやめようと言っているのです。

ここでの親密は打ち解けた間柄にあるという事ですか。

> (続く)

ここで群れという言葉を持ち出したというのは情動的な群れている人間が今世紀の人間であるという認識からです。


[25709] 分離 投稿者:無明 投稿日:2018/07/28(Sat) 08:52  

分離という言葉が、このサイトでよく出てきます。花岡修平氏が「分離」について、どのように述べているか参考に紹介します。
感性が優れた人の文章は違う。


分離はない

主語を使わない、あるいは、犬とか猫とか、木とか空とか雲とか、名詞を使わない。
そのような事が、何の役に立つのかと言う事を、以前申し上げました。

これは、世界に置かれた個々についての境目を消し去る事なのです。

そのような気持ちで周囲を見てみると、見える全てが全体的に、分かれずに、
あたかもひとつの全部がただ部分的に模様が違っているように見えるのです。

注意深く読んでください。一読では伝わりません。
感覚に入れなければ伝わりません。

つまり、まず全てが現れる場が用意されて、場そのものの様々な変容が模様となって
見えているという事です。

その場とはつまり、そのために費やされる程の意識の事であり、この身体も、世界の一々も、そしてこの「わたし(という観念)」も、同じ意識エネルギーを利用して現されていて、ほんとうは区分が無く、これら全てがひとつだと言う事です。


これは「あるがまま」あるものを、そのとおり「あるがまま」見ている状態です。
模様の違いには気づいても、模様の違いの境目が個々としての境目である見方は消えているのです。

全部に気づいていながら、「あるがまま」見ている状態。
全的に見ているそこに、「わたし」という特別な状態はありません。

特定の範囲を示す言葉、名前を思い浮かべたとき、そこには分離が生じます。
分離するから、区別が生じ、区別するから「わたし」が現れます。
名前は、世界を個々に区別する魔法となるのです。

それはまた、世の中(人々の営み)に摩擦(苦しみ)を生じさせる魔法でもあります。
名前で分離し、区別するから比較をしてしまいます。

比較が格差を際立たせ、それによって人々は不平等からなる不満を思うのです。

一々に名前を適用せず、全体を見て、しかも違いにも気づいている。
気づいていても、その違いによって区別しない。
あくまでも、全的に見る。

それは現れというこの今を、「あるがまま」見ている姿であって、それは全く赤ちゃんの見方です。
赤ちゃんも個々の形や色の違いは気づいているのでしょうが、個々という見方を知るはずもありません。

なぜなら、言葉も名前も知らないからです。
まったく、現れを、現れるがまま見て、名前を付けず、世界と「わたし」という分離もなく、素直にただ見ているだけです。

そのような赤ちゃんには、「わたし」はありません。
あるのは、見ている状態だけがあるのです。
在る事に「気づいている」だけです。
価値的に断定もせず、裁きもしません。

嬉しく快適であれば笑い、そうでなければ泣いている。
始めてみる世界は、彼にとって驚きでしょう。
五感の感覚は新鮮でしょう。

そのように世界を見て見なさい。

我々だって、一瞬一瞬が、初めて見る世界なのです。
今見ている世界は、さっきの世界ではありません。
それは既に、記憶に落ちて消えてしまいました。
この今の世界が新鮮でないはずがありません。
新鮮でないのは、過去の、消え去った世界を見ているのです。
それは、記憶側のイメージを適用して見ているだけで、今を見ていません。

この今、初めて見る世界を、全的に享受するのです。
美しくないはずがありません。
輝いていないはずがありません。

しかし、美しくても「美しい」とかも思わず、ただ感動しなければいけません。
言葉を思い浮かべる事無く、ただ世界に感動してみるのです。

それができるだけの天真さを、誰もが以前は持っていました。
そのような純粋な者であったのです。

それが、世界の一々に名前を付け、区別し、意味づけをした結果、というより、そのような手法を(世間から)押し付けられ、「あたりまえ」としたから、我々はこの世界以外の真実を忘却してしまいました。

神を悟る事は、人として生まれた事の重大な意義です。
しかし、「神」という「名前」を付けてしまうから、「わたし」と「神」は分離してしまいます。

それには、ほんとうは名前はありません。
ほんとうは、我々は、それでもあるのです。
それしか無いのです。
それだけが在るのです。

その「それ」に気づいていて、しかも、世界にも気づいていて、一切を全的に見る事が
できるでしょうか。

世界にも「それ」を見る事ができるでしょうか。

ここからは、全く言葉が適用できないゾーンです。
感性に委ね、感覚し、「それ」と「世界」の隔たりが無い事に気づけるでしょうか。
この感動、この驚き、この素晴らしさに泣けるでしょうか。

何も目的を持たず、到達しようという思いを捨て、あるがままを享受しようとするなら、何かが起こるでしょう。

実は、分離は分離を超え、一元に帰るために現れます。
苦悩は苦悩を超え、苦悩など無く、ただ在る事に気づくために現れます。

神は概念です。
「わたし」は観念です。

名付ける事で意味づけているだけではないでしょうか。

唯一実体は、「在る」そのそれです。
それを「わかる」事ができるでしょうか。

共に在り、また、それで在る事を、わかる事ができるでしょうか。
この全てを、愛する事ができるでしょうか。

永遠という概念を超え、つまり、初めも終わりも永遠も適用する意味など無いその「在る」で在る事に納得できるでしょうか。

だからと言って、そんな事を考える必要はありません。
ただ、それで在るかどうかです。
それで在るとき、自ずと知る事になります。
人はそれ自身で知るように出来ているのです。



[25708] Re:[25707] 既知からの自由6-2 投稿者:無明 投稿日:2018/07/28(Sat) 08:39  

> 6章-2 [怒り]
>
>  暴力のもっとも一般的な表現の一つは怒りです。私の妻や妹が攻撃されるとき、私は当然怒ると言います。自分の国が、自分の考えや、主義や、生き方が攻撃されたとき、私は当然怒ります。自分の習慣や取るに足らないちっぽけな意見が攻撃されたときもまた怒ります。足の指を踏まれたり侮辱されたとき怒りますし、もしあなたが私の妻と駆け落ちしたら私は嫉妬し、その嫉妬は、妻は私の所有物だから、正当だと見なされます。

はい。妻は私の所有物です。体裁のいい永久家政婦です。便利屋です。その妻が浮気でもしたら烈火のごとく怒ります。その深層心理は、妻がよその男に走られたら困るという恐怖心からくる。
世の旦那方の気持ちを代弁しました。もちろん口には出しません。

>そしてこの全ての怒りは道徳的に正当化されます。でも国のために殺すこともまた正当化されます。そこで怒り、それは暴力の一部ですが、について話している時、私たちは怒りを正しいあるいは正しくない怒りという観点から、自分の性向や環境的な衝動にしたがって見るのでしょうか、それとも怒りのみを見るのでしょうか? いったい正しい怒りがあるのでしょうか? それともただ怒りのみがあるのでしょうか? 

正しい怒りがあるか、怒りのみがあるか。

>いい影響とか悪い影響はなく、影響のみがありますが、自分に合わない何かによって影響されるとき私はそれを悪い影響と言うのです。

怒りというのは周囲に、よくない影響を与えます。自分自身にも。
なんとも言えない不快な気持ちになる。
人の喧嘩を見ると気分が悪い。とくに夫婦喧嘩。

>

>  あなたが自分の家族、国、旗と呼ばれる色のついた布切れ、信念、観念、教義、自分の必要なものや所有するものを守る瞬間、まさにその守ることが怒りを示します。ですからどんな説明も正当化もなしに、「自分の所有物を守らねばならない」とか「怒ったのは正しかった」とか「怒るなんて私はなんと愚かなのか」と言うことなしに、怒りを見ることができるでしょうか? 

言葉なしに怒りを見ることができるか。

>怒りをそれだけの何かのように見ることが出来ますか? それを完全に、客観的に見ることが出来ますか、

ここで「客観的に見る」という言葉が出てきた。K の記述では、あまり見たことがない。

>それは怒りを防御したり非難したりしないという事ですが? 出来ますか?
>
>  あなたに敵意を持っているとき、あるいはあなたがなんと素晴らしいんだと思っているとき、私はあなたを見ることが出来るでしょうか? あなたを見ることが出来るのはこのようなことが含まれていない或る注意を持って見るときだけです。では、私は怒りをそれと同じように見ることが出来るでしょうか? それは私が当の事柄に対して晒されていること、抵抗しないこと、この途方もない現象をそれに対する何の反応もなしに見つめていることを意味します。


別な著書「自我の終焉」では、怒りに直面する人はほとんどいないとある。
ほとんどいないとは、全然いないと同じではないだろうか?
>
>  怒りは自分の一部であるので、怒りを冷静に見ることは非常に困難ですが、

怒りを冷静に見る?
あなたはできないことを我々に言われるのだろうか。

>しかしそれが私のしようとしていることです。ここに私が、暴力的な人間がいます、黒、褐色、白色あるいは紫色だろうが。この暴力を遺伝で受け継いだのか社会が私の中に生み出したのかには、私は関わってはいません。私が関心のある全ては暴力から自由であることがいったい可能かどうかということです。暴力から解放されることが私にとっては全てです。それは私にはセックスや食べ物や地位よりもっと重要です。というのは暴力は私を堕落させているからです。それは私を破壊しており、世界を破壊しています。そして私はそれを理解したいのです。それを越えたいのです。私はこの世界中のあらゆる怒りと暴力に責任を感じます。私は責任を感じます ― ただの言葉ではありません ― そして自分に「自分自身が怒りを越え、暴力を越え、困難を越える時のみ何かをすることができる」と言います。自分自身の中の暴力を理解しなければならないという私の持つこの感情が、見いだそうとするとてつもない活力と情熱をもたらすのです。

なんで世界中の暴力に責任を感じるのですか。
>
>  しかし暴力を越えるにはそれを抑制できません、否定できません、「暴力は自分の一部だ、そういうことだよ」とか「私はそれを欲しない」と言う事はできません。私はそれを見なければなりません、学ばなければなりません。暴力と非常に親密にならなければならず、それを非難したり正当化したりするなら親密にはなれません。

暴力と親密?
あなたは何をおっしゃっているのですか。
そうではなく、暴力を手放すことです。即座に。

>にもかかわらず、私達は非難するのです。正当化するのです。それゆえ、さしあたり、非難したり、正当化することをやめようと言っているのです。

暴力を非難したり、正当化することはやめようということですか?
世間では暴力を非難しています。戦争反対というのもそうです。
>
> (続く)


[25707] 既知からの自由6-2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/28(Sat) 07:11  

6章-2 [怒り]

 暴力のもっとも一般的な表現の一つは怒りです。私の妻や妹が攻撃されるとき、私は当然怒ると言います。自分の国が、自分の考えや、主義や、生き方が攻撃されたとき、私は当然怒ります。自分の習慣や取るに足らないちっぽけな意見が攻撃されたときもまた怒ります。足の指を踏まれたり侮辱されたとき怒りますし、もしあなたが私の妻と駆け落ちしたら私は嫉妬し、その嫉妬は、妻は私の所有物だから、正当だと見なされます。そしてこの全ての怒りは道徳的に正当化されます。でも国のために殺すこともまた正当化されます。そこで怒り、それは暴力の一部ですが、について話している時、私たちは怒りを正しいあるいは正しくない怒りという観点から、自分の性向や環境的な衝動にしたがって見るのでしょうか、それとも怒りのみを見るのでしょうか? いったい正しい怒りがあるのでしょうか? それともただ怒りのみがあるのでしょうか? いい影響とか悪い影響はなく、影響のみがありますが、自分に合わない何かによって影響されるとき私はそれを悪い影響と言うのです。

 あなたが自分の家族、国、旗と呼ばれる色のついた布切れ、信念、観念、教義、自分の必要なものや所有するものを守る瞬間、まさにその守ることが怒りを示します。ですからどんな説明も正当化もなしに、「自分の所有物を守らねばならない」とか「怒ったのは正しかった」とか「怒るなんて私はなんと愚かなのか」と言うことなしに、怒りを見ることができるでしょうか? 怒りをそれだけの何かのように見ることが出来ますか? それを完全に、客観的に見ることが出来ますか、それは怒りを防御したり非難したりしないという事ですが? 出来ますか?

 あなたに敵意を持っているとき、あるいはあなたがなんと素晴らしいんだと思っているとき、私はあなたを見ることが出来るでしょうか? あなたを見ることが出来るのはこのようなことが含まれていない或る注意を持って見るときだけです。では、私は怒りをそれと同じように見ることが出来るでしょうか? それは私が当の事柄に対して晒されていること、抵抗しないこと、この途方もない現象をそれに対する何の反応もなしに見つめていることを意味します。

 怒りは自分の一部であるので、怒りを冷静に見ることは非常に困難ですが、しかしそれが私のしようとしていることです。ここに私が、暴力的な人間がいます、黒、褐色、白色あるいは紫色だろうが。この暴力を遺伝で受け継いだのか社会が私の中に生み出したのかには、私は関わってはいません。私が関心のある全ては暴力から自由であることがいったい可能かどうかということです。暴力から解放されることが私にとっては全てです。それは私にはセックスや食べ物や地位よりもっと重要です。というのは暴力は私を堕落させているからです。それは私を破壊しており、世界を破壊しています。そして私はそれを理解したいのです。それを越えたいのです。私はこの世界中のあらゆる怒りと暴力に責任を感じます。私は責任を感じます ― ただの言葉ではありません ― そして自分に「自分自身が怒りを越え、暴力を越え、困難を越える時のみ何かをすることができる」と言います。自分自身の中の暴力を理解しなければならないという私の持つこの感情が、見いだそうとするとてつもない活力と情熱をもたらすのです。

 しかし暴力を越えるにはそれを抑制できません、否定できません、「暴力は自分の一部だ、そういうことだよ」とか「私はそれを欲しない」と言う事はできません。私はそれを見なければなりません、学ばなければなりません。暴力と非常に親密にならなければならず、それを非難したり正当化したりするなら親密にはなれません。にもかかわらず、私達は非難するのです。正当化するのです。それゆえ、さしあたり、非難したり、正当化することをやめようと言っているのです。

(続く)


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