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[26041] Re:[26039] 既知からの自由14-2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/16(Tue) 11:57  

> 14章−2 [達成] [規律]
>
>  生の中の最も大きな障害の一つは、到達し、達成し、獲得しようとするこの絶え間ない努力であると私には思われます。私達は子供の時から獲得し、達成するように訓練されました ― 脳細胞それ自体が物理的安全を得るためにこの達成のパターンをつくり、要求します。しかし心理的安全は達成の領域の内側にはありません。私達は安全をあらゆる関係、態度、活動の中で要求しますが、見てきたように、実際には安全というようなものはありません。どんな関係の中にも安全という形はないという事を自分自身で見出すことは ― 心理的に永久なものは何もないということを理解・実感することは ― 生に全く違う接近法を与えます。もちろん、外的安全 ― 住居、衣服、食物 ― は不可欠ですが、その外的安全は心理的安全への要求によって破壊されるのです。


心理的安全の達成、獲得の努力は生の中の最も大きな妨害の一つであるとKは説き始めました。なぜなら、心理的に永久なものは何もないからだという事です。人はこのことをよく考えたことがあるでしょうか?


>  空間と沈黙は意識の限界を超えていくのに必要ですが、しかし自己関心の中で絶え間なく活動的な心は、どうやって静かでいられるでしょうか? 心を鍛錬し、制御し、形作ることはできますが、そのような責め苦は心を静かにしません。心を鈍くするだけです。静かな心を持つという理想を単に追いかけることは明らかに価値がありません。なぜなら心は、規制すればするほどますます狭くなり、停滞するからです。どんな形の制御も、抑圧のように、葛藤を生むだけです。それゆえ制御や外的な規律はその方法ではなく、無規律の生も何の価値もありません。


静かな心というものは外的な制御・規律では葛藤を生むだけです。


>  私達の生の殆どは、社会の要求や、家族や、自分自身の苦しみや、自分自身の体験や、特定のイデオロギーまたは事実に基づく型に従うことによって、外的に訓練されます ― そしてその形の規律は最も鈍らせるものです。規律は、制御なしに、抑圧なしに、どんな形の恐怖もなしになければなりません。どのようにこの規律は生じるでしょうか? 規律が最初でそれから自由ではありません。自由はまさに初めにあり、終わりにあるのではありません。この自由、規律への順応からの自由、を理解することが規律そのものなのです。まさに学ぶ行為そのものが規律であり(結局 規律 dis-cipline という語のもとの意味は学ぶということです)、学ぶ行為そのものが明晰さになるのです。制御、抑圧、放縦の性質と構造の全体を理解するためには注意が必要です。それを学ぶために規律を課す必要はありませんが、学ぶ行為そのものが何の抑圧もないそれ自体の規律をもたらすのです。


私たちは社会から型に従うよう訓練されますが、この形からなる固定的な規律は心の鋭敏さを破壊します。>規律は、制御なしに、抑圧なしに、どんな形の恐怖もなしになければなりません−−この規律をほとんどの人は知らないのではないかと思います。では、そのような規律はどのようにして生じるのでしょうか? 規律への順応に対する自由が理解されるとき、自ずと規律がそこにあります。学ぶ行為そのものが何の抑圧もないそれ自体の規律をもたらすのです。


>  権威を否定するためには(私達は心理的権威の話をしているのであって、法の権威ではありません) ― あらゆる宗教的組織、伝統、経験の権威を否定するためには、なぜ人は普通服従するのかを見なければなりません ― 実際にそれを学ばなければなりません。そしてそれを学ぶためには非難、正当化、意見、受容からの自由がなければなりません。さて権威を受け入れしかもそれを学ぶことはできません ― それは不可能です。私達自身の中の権威の全心理的構造を学ぶためには自由がなければなりません。そして学んでいるとき私達はその全構造を否定しており、その否定そのものが権威から自由である心の光です。外的な規律、指導性、理想主義のような、価値があると考えられてきたあらゆるものを否定することがそれを学ぶことです。そのとき学ぶ行為そのものが規律であるのみならず、規律の否定でもあり、そしてまさにその否定が肯定的な行為なのです。それゆえ私達は心の静寂をもたらすために重要だと考えられるこれらの全てを否定しています。


権威の全心理的構造を学ぶことが実は伝統的価値構造の否定につながります。なぜ人は服従するかを理解すること。そもそも自由があるか否かが心もとない。


>  このようにして静寂に導くのは制御ではないということを見ます。あるいは心が対象を持ち、夢中になってその対象に没入しているときも、心は静かではありません。これは子供に面白いおもちゃを与えるようなものです。子供はとても静かになりますが、そのおもちゃを取り除くと、またいたずらを始めます。私達はみんな自分を夢中にしてくれるおもちゃを持っており、自分は非常に静かだと考えますが、もし人が、科学、文学、あるいは何であれ、ある特定の形の活動に打ち込んでいるなら、単にそのおもちゃが夢中にさせているのであって、彼が本当に静かなのではありません。


このおもちゃの話はきつい。手放せません。逆に言えばほかに価値あることを持っていない。ここで「既知から自由」を読んでいることはおもちゃではなさそうですが。
>
> (続く)


[26040] 祈り 投稿者:無明 投稿日:2018/10/15(Mon) 15:53  

祈りは遺伝子を「活性化」する 慈悲の心が免疫機能の強化につながる 筑波大学名誉教授・村上和雄

注 いや〜この言葉は凄い。産経新聞のインタビューからだそうだ。詳しくはネットで。


生命の暗号 村上和雄
祈り・原理と作法 京都嵯峨大学 学長 森本武

この2冊は持っている。森本氏というにはKsポイントの代表。
今まで20年近く、本業とは別にクリシュナムルティ関連の講演をやっているというから驚きだ。主に大学内で。わたしはつい最近まで知らなかった。2回ほど直に話を聞いている。

これらの本を読んで祈りについて大きな誤解をしていました。
祈りというのは古来から行われていて人間と神が交流する唯一の手段です。
それは決して人間の個人的な願望を達成するものではありません。本来は神や大自然に対する感謝の儀式です。

大きな誤解を与えたのがクリシュナムルティ。
彼は信仰や祈りをけなす。私は早目にKに見切りをつけるべきでした。時すでに遅し。

土曜日に、あるセミナーに行きました。
内容は100万回「ありがとう」を唱えたら、癌が消えたという話。実話です。ここで感じたのは、言葉というのはエネルギーそのものであること。昔から言霊と言われる所以。それと愛感謝のエネルギーは膨大だということ。これらを学びました。ある種の祈りです。100万回祈る。そのきっかけは先程の村上氏の本です。遺伝子の研究者。何冊かの本を出していて名前は知っていました。
生かされて生きている。何事にも感謝する。愛感謝のエネルギーははるかに強大。ネガティヴな想念をも打ち消す。

ここで新しい芽氏のどのように気づいているか、どんなふうに気づいているかの答えがわかった気がします。

愛の気持ちで気づいているか。又は慈愛の目で気づいているか。

(このことは薄々気づいていたのだが、今回にセミナーではっきりしました)
強烈な気づきという時、それは「愛」だということです。




[26039] 既知からの自由14-2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/14(Sun) 18:14  

14章−2 [達成] [規律]

 生の中の最も大きな障害の一つは、到達し、達成し、獲得しようとするこの絶え間ない努力であると私には思われます。私達は子供の時から獲得し、達成するように訓練されました ― 脳細胞それ自体が物理的安全を得るためにこの達成のパターンをつくり、要求します。しかし心理的安全は達成の領域の内側にはありません。私達は安全をあらゆる関係、態度、活動の中で要求しますが、見てきたように、実際には安全というようなものはありません。どんな関係の中にも安全という形はないという事を自分自身で見出すことは ― 心理的に永久なものは何もないということを理解・実感することは ― 生に全く違う接近法を与えます。もちろん、外的安全 ― 住居、衣服、食物 ― は不可欠ですが、その外的安全は心理的安全への要求によって破壊されるのです。

 空間と沈黙は意識の限界を超えていくのに必要ですが、しかし自己関心の中で絶え間なく活動的な心は、どうやって静かでいられるでしょうか? 心を鍛錬し、制御し、形作ることはできますが、そのような責め苦は心を静かにしません。心を鈍くするだけです。静かな心を持つという理想を単に追いかけることは明らかに価値がありません。なぜなら心は、規制すればするほどますます狭くなり、停滞するからです。どんな形の制御も、抑圧のように、葛藤を生むだけです。それゆえ制御や外的な規律はその方法ではなく、無規律の生も何の価値もありません。

 私達の生の殆どは、社会の要求や、家族や、自分自身の苦しみや、自分自身の体験や、特定のイデオロギーまたは事実に基づく型に従うことによって、外的に訓練されます ― そしてその形の規律は最も鈍らせるものです。規律は、制御なしに、抑圧なしに、どんな形の恐怖もなしになければなりません。どのようにこの規律は生じるでしょうか? 規律が最初でそれから自由ではありません。自由はまさに初めにあり、終わりにあるのではありません。この自由、規律への順応からの自由、を理解することが規律そのものなのです。まさに学ぶ行為そのものが規律であり(結局 規律 dis-cipline という語のもとの意味は学ぶということです)、学ぶ行為そのものが明晰さになるのです。制御、抑圧、放縦の性質と構造の全体を理解するためには注意が必要です。それを学ぶために規律を課す必要はありませんが、学ぶ行為そのものが何の抑圧もないそれ自体の規律をもたらすのです。


 権威を否定するためには(私達は心理的権威の話をしているのであって、法の権威ではありません) ― あらゆる宗教的組織、伝統、経験の権威を否定するためには、なぜ人は普通服従するのかを見なければなりません ― 実際にそれを学ばなければなりません。そしてそれを学ぶためには非難、正当化、意見、受容からの自由がなければなりません。さて権威を受け入れしかもそれを学ぶことはできません ― それは不可能です。私達自身の中の権威の全心理的構造を学ぶためには自由がなければなりません。そして学んでいるとき私達はその全構造を否定しており、その否定そのものが権威から自由である心の光です。外的な規律、指導性、理想主義のような、価値があると考えられてきたあらゆるものを否定することがそれを学ぶことです。そのとき学ぶ行為そのものが規律であるのみならず、規律の否定でもあり、そしてまさにその否定が肯定的な行為なのです。それゆえ私達は心の静寂をもたらすために重要だと考えられるこれらの全てを否定しています。

 このようにして静寂に導くのは制御ではないということを見ます。あるいは心が対象を持ち、夢中になってその対象に没入しているときも、心は静かではありません。これは子供に面白いおもちゃを与えるようなものです。子供はとても静かになりますが、そのおもちゃを取り除くと、またいたずらを始めます。私達はみんな自分を夢中にしてくれるおもちゃを持っており、自分は非常に静かだと考えますが、もし人が、科学、文学、あるいは何であれ、ある特定の形の活動に打ち込んでいるなら、単にそのおもちゃが夢中にさせているのであって、彼が本当に静かなのではありません。

(続く)


[26038] 見ることができない? 投稿者:無明 投稿日:2018/10/14(Sun) 06:43  

>原因が、>恐怖からの自由、悲しみや心配、そして人が自分自身で仕掛けるあらゆる罠からの自由という基礎を築かない限り、心にとって実際に静かであることがどんなふうに可能か、私にはわかりません。これは伝達することが最も難しいことの一つです。−−、それができないから、「見る」ことができない。

これじゃしょうがない。今までクリシュナムルティの何を読んできたのか。今までのおたくのコメントを見てみる限り議論さえできないようだ。ようするにみんなの対話の中に入れない。
「見る」ことができないとは。退場されたし。

見ることをやって見て継続は難しいということならわかる。
ほとんどの人がそうだから。
それも初めから「見る」ことはできないとは。
何を読んでんの。
何のために、ゴトさんが今回クリシュナムルティの訳を出してるのか。皆で検討するためだろう。

これでは新しい芽氏のいう「どのように気づいているか」
ゴトさんのいう「思考なしに見る、実物を理解する」
ということがチンプンカンプンということになる。
話にならん。議論もできない。

何もわかってない男が仏教の達人渡辺氏に対しあれこれ言うなといいたい。
ゴト氏や新しい芽氏をクリシュナムルティの第一人者と言ったり。
渡辺氏はKのいうことが起きてないと言ったり。
呆れたコメントばかり。
何で「見る」ことを真剣に検討しないのか。
何がクリシュナムルティ理解だ。
理解するのは自分自身だろう。





[26037] 何のために 投稿者:無明 投稿日:2018/10/13(Sat) 12:45  

クリシュナムルティの本を読んでわからないことがあれば、人に質問したり、Kの会合に参加したり、他の覚者の本を読んだりして、その手がかりを得るために答えを探します。そうやって探求するというのが普通です。
クリシュナムルティの翻訳をされる人ならクリシュナムルティの教えをわかってると思えるので、いろんな人の翻訳者の見解を聞く。
ある程度確信を得たら自分で実行してみる。うまくいかないとすれば再度人に聞く。その繰り返しです。
途中何のためにそういうことをするのかという自問自答が湧き出てくる。何のために自己観察するのか。何のメリットがあるのか。
ここで初めてクリシュナムルティを読んだ動機というものが再度問われるでしょう。


[26036] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/10/13(Sat) 12:24  

気になったので一言

> コミュニケーションに際しての過去の蓄積の反応は取りあわずにただ見ているしかないですね。しかしとりあえずそこに反応した「私」を納得させるしかないのか。読書会で新しい芽さんに山ほどみな質問をしていて、だんだん減っていきます。

新しい芽氏に山ほど質問?
新しい芽氏は、先生あるいは教師ですか?

読書会というのは公平な立場で話し合うというのが趣旨ではないですか?
先生も生徒もなく。教える人も教えられる人もなく。

各自が自身の問題点を出し合って皆で話し合うということです。




[26035] Re:[26034] [26016] 既知からの自由14-1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/10/13(Sat) 12:06  

> > 14章−1 [昨日の重荷] [静かな心] [コミュニケーション]
> >
> > 私達が普通送っている生活には孤独が殆どありません。たとえ一人でいても、私達の生はとても多くの影響、多くの知識、多くの経験の多くの記憶、多くの心配、惨めさ、葛藤で一杯なため、心はますます鈍く、ますます鈍感になり、単調な日課の中で機能しています。私達は一体一人でしょうか? それとも昨日の重荷の全てを持ち運んでいるのでしょうか?
>
>
> ここでの孤独は一人でいることのようです。
> 家族がみんな出かけて一人になった時、何か解放感というかのんびりして気分になりませんか?そんな気分が含意されている言葉のようです。
> さて皆さんはもう重荷を下ろしましたか? 生計を立てているとできない? この章を読んだ後では問題が解決するでしょうか?
>
>
> >  二人の僧侶のなかなか面白い話があります。二人の僧侶が村から村へと歩いていると川の土手に座って泣いている少女に出会いました。僧侶の一人が彼女のそばに行き「娘さん、何を泣いているのですか?」と尋ねると彼女は「川の向こう岸のあの家が見えます? 私は今朝早く川を渡り、歩いて渡るのに何の問題もなかったのですが。いま川の水が増え帰ることができません。船がないのです」と言います。「ああ、それなら全然大丈夫ですよ」とその僧侶は言い、彼女を持ち上げて川を渡って運び、向こう岸に残して去りました。二、三時間して、もう一人の僧侶が「兄弟、我々は決して女性に触れないと誓ったじゃないか。君のしたことはひどい罪だよ。女性に触れて楽しい快感を覚えたかい?」と言いました。するともう一人の僧侶は答えました。「私は二時間前に彼女を後ろにおいてきたよ。君はまだ彼女を運んでいるのかい?」
> >
> >  それが私達のしていることです。私達はいつも自分の重荷を持ち運びます。重荷に対して決して死にもしないし、後ろに置き去りもしません。孤独があるのは問題に完全な注意を払い、即座に解決する時だけ ― 決して問題を次の日、次の瞬間まで持ち運ばないときだけです。そのとき、たとえ混みあった家に住んでいたりバスの中にいたとしても孤独があります。そしてその孤独は、新鮮な心、天真爛漫な心を示しています。
>
>
> 戒律にひっかる坊さんがそれを重荷として持ち運んでいるように、一般には心にいっぱい問題が詰め込まれているから過去のものはたまる一方の人も多いです。一回は完全に見て重荷を下ろし始めれば加速度的に気づいて重荷は減ります。重荷を減らさなければならないという思考をもし持てば、それは問題を増やしただけです。
>
>
> >  内的な孤独と空間を持つことは、そのことが存在し、動き、機能し、飛ぶための自由を意味するがゆえに非常に重要です。結局善性は、ちょうど徳が自由があるときのみ花開くことができるように、空間の中でのみ花開くことができます。私達は政治的自由を持っているかもしれませんが、内的には自由でないので空間はありません。どんな徳も、どんな価値ある性質も、自分自身の中のこの広大な空間なしには機能したり、育つことはできません。そして空間と沈黙は必要です。なせなら心が全く新しい何かに出会うことができるのは、心が影響されず、訓練されず、数えきれない様々な経験によって捕えられないで、一人でいる時だけだからです。
>
>
> 個々の空間は以前出てきた分離・隔たりの空間ではなく、心の中にごたごたが詰まっていない、空であるという意味の空間ですね。空間があることは我・「私」・中心が崩壊、縮小してきているという事と同じです。
>
>
> >  人は、心が沈黙しているときだけ明晰さの可能性があることを、直接見ることができます。東洋の瞑想の全目的はそのような心の状態をもたらすことです ― つまり思考を制御することで、それは心を静めるために祈りを絶えず繰り返し、その状態の中で自分の問題を理解したいと望むことと同じです。しかし恐怖からの自由、悲しみや心配、そして人が自分自身で仕掛けるあらゆる罠からの自由という基礎を築かない限り、心にとって実際に静かであることがどんなふうに可能か、私にはわかりません。これは伝達することが最も難しいことの一つです。私達の間のコミュニケーションは、あなたが私の使っている言葉を理解しなければならないだけでなく、両方が、あなたと私が、一瞬後でも一瞬前でもなく、同時に、熱意を持って同じレベルでお互いが出会うことができなければならないという事を、意味しているのではないでしょうか? そしてそのようなコミュニケーションは、あなたが読んでいることを自分自身の知識、快楽、意見に従って解釈するときや、あるいは理解するために大変な努力をしているときには可能ではありません。
>
>
> 座禅でも題目を唱えることでも思考を見る助けになります。だが完全に見ることによる「私」の崩壊の方が加速度的に全体的中心の崩壊につながように思います。日常生活の挑戦が常に後押ししてくれます。
>  コミュニケーションに際しての過去の蓄積の反応は取りあわずにただ見ているしかないですね。しかしとりあえずそこに反応した「私」を納得させるしかないのか。読書会で新しい芽さんに山ほどみな質問をしていて、だんだん減っていきます。
>
> > (続く)


 新しい芽さんも真理の第一人者であったのですね。世界の第一人者。

 そこから多くを学んだのですね。。「私」がだんだん減っていって消滅していく。

 私の場合、まだ>完全に見ることによる「私」の崩壊−−、これを自在に行うことができないようです。。

 その原因が、>恐怖からの自由、悲しみや心配、そして人が自分自身で仕掛けるあらゆる罠からの自由という基礎を築かない限り、心にとって実際に静かであることがどんなふうに可能か、私にはわかりません。これは伝達することが最も難しいことの一つです。−−、それができないから、「見る」ことができない。

 どうしても、生計を立てること(職場)を言い訳にしてしまう。定年退職したら、より心静かになるだろう・・と。。

 しかし、禅との相違は、生計を立てる場においても、完全に見て真理を掴むことがクリシュナムルティ理解の奥義ともいえる。。がんばろう〜。と、なりゆくといけないので・・。

 クリシュナムルティの陳述が、目の前を通りすがるときに、注意して読むのみ。。


[26034] Re:[26016] 既知からの自由14-1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/13(Sat) 11:19  

> 14章−1 [昨日の重荷] [静かな心] [コミュニケーション]
>
> 私達が普通送っている生活には孤独が殆どありません。たとえ一人でいても、私達の生はとても多くの影響、多くの知識、多くの経験の多くの記憶、多くの心配、惨めさ、葛藤で一杯なため、心はますます鈍く、ますます鈍感になり、単調な日課の中で機能しています。私達は一体一人でしょうか? それとも昨日の重荷の全てを持ち運んでいるのでしょうか?


ここでの孤独は一人でいることのようです。
家族がみんな出かけて一人になった時、何か解放感というかのんびりして気分になりませんか?そんな気分が含意されている言葉のようです。
さて皆さんはもう重荷を下ろしましたか? 生計を立てているとできない? この章を読んだ後では問題が解決するでしょうか?


>  二人の僧侶のなかなか面白い話があります。二人の僧侶が村から村へと歩いていると川の土手に座って泣いている少女に出会いました。僧侶の一人が彼女のそばに行き「娘さん、何を泣いているのですか?」と尋ねると彼女は「川の向こう岸のあの家が見えます? 私は今朝早く川を渡り、歩いて渡るのに何の問題もなかったのですが。いま川の水が増え帰ることができません。船がないのです」と言います。「ああ、それなら全然大丈夫ですよ」とその僧侶は言い、彼女を持ち上げて川を渡って運び、向こう岸に残して去りました。二、三時間して、もう一人の僧侶が「兄弟、我々は決して女性に触れないと誓ったじゃないか。君のしたことはひどい罪だよ。女性に触れて楽しい快感を覚えたかい?」と言いました。するともう一人の僧侶は答えました。「私は二時間前に彼女を後ろにおいてきたよ。君はまだ彼女を運んでいるのかい?」
>
>  それが私達のしていることです。私達はいつも自分の重荷を持ち運びます。重荷に対して決して死にもしないし、後ろに置き去りもしません。孤独があるのは問題に完全な注意を払い、即座に解決する時だけ ― 決して問題を次の日、次の瞬間まで持ち運ばないときだけです。そのとき、たとえ混みあった家に住んでいたりバスの中にいたとしても孤独があります。そしてその孤独は、新鮮な心、天真爛漫な心を示しています。


戒律にひっかる坊さんがそれを重荷として持ち運んでいるように、一般には心にいっぱい問題が詰め込まれているから過去のものはたまる一方の人も多いです。一回は完全に見て重荷を下ろし始めれば加速度的に気づいて重荷は減ります。重荷を減らさなければならないという思考をもし持てば、それは問題を増やしただけです。


>  内的な孤独と空間を持つことは、そのことが存在し、動き、機能し、飛ぶための自由を意味するがゆえに非常に重要です。結局善性は、ちょうど徳が自由があるときのみ花開くことができるように、空間の中でのみ花開くことができます。私達は政治的自由を持っているかもしれませんが、内的には自由でないので空間はありません。どんな徳も、どんな価値ある性質も、自分自身の中のこの広大な空間なしには機能したり、育つことはできません。そして空間と沈黙は必要です。なせなら心が全く新しい何かに出会うことができるのは、心が影響されず、訓練されず、数えきれない様々な経験によって捕えられないで、一人でいる時だけだからです。


個々の空間は以前出てきた分離・隔たりの空間ではなく、心の中にごたごたが詰まっていない、空であるという意味の空間ですね。空間があることは我・「私」・中心が崩壊、縮小してきているという事と同じです。


>  人は、心が沈黙しているときだけ明晰さの可能性があることを、直接見ることができます。東洋の瞑想の全目的はそのような心の状態をもたらすことです ― つまり思考を制御することで、それは心を静めるために祈りを絶えず繰り返し、その状態の中で自分の問題を理解したいと望むことと同じです。しかし恐怖からの自由、悲しみや心配、そして人が自分自身で仕掛けるあらゆる罠からの自由という基礎を築かない限り、心にとって実際に静かであることがどんなふうに可能か、私にはわかりません。これは伝達することが最も難しいことの一つです。私達の間のコミュニケーションは、あなたが私の使っている言葉を理解しなければならないだけでなく、両方が、あなたと私が、一瞬後でも一瞬前でもなく、同時に、熱意を持って同じレベルでお互いが出会うことができなければならないという事を、意味しているのではないでしょうか? そしてそのようなコミュニケーションは、あなたが読んでいることを自分自身の知識、快楽、意見に従って解釈するときや、あるいは理解するために大変な努力をしているときには可能ではありません。


座禅でも題目を唱えることでも思考を見る助けになります。だが完全に見ることによる「私」の崩壊の方が加速度的に全体的中心の崩壊につながように思います。日常生活の挑戦が常に後押ししてくれます。
 コミュニケーションに際しての過去の蓄積の反応は取りあわずにただ見ているしかないですね。しかしとりあえずそこに反応した「私」を納得させるしかないのか。読書会で新しい芽さんに山ほどみな質問をしていて、だんだん減っていきます。

> (続く)


[26033] Re:[26032] [26015] [26007] 高齢化社会 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/13(Sat) 10:05  

>  この掲示板の管理も、つらくなってきましたか。

念のために一言。辛いという事はないのですよ。大変であるだけで。
この頃、誤字、誤変換が増えましたね。すみません。




[26032] Re:[26015] [26007] 高齢化社会 投稿者:無名 投稿日:2018/10/13(Sat) 09:21  


> 老人が言いて行くのは思ったより大変です。私は杖もつかずにまだ歩けるが体力が弱ってきているのは確かです。妻も私と同程度に弱ってきます。食事や掃除洗濯、全部一人でやっていましたがもう無理で助け合って生きていくしかありません。健康にしてしかりです。自分の面倒が見れないまで弱った時にはどうするか、成るようになるでしょう。

 そうでしたか。体力、気力、思考力も低下。それだと建設的な議論はできないですね。
 ツッコミはやめしょう。以降は「ひとりごと」と受け取ってください。
 「既知からの自由」も今14章。あと少しですね。
 この掲示板の管理も、つらくなってきましたか。


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