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[24332] Re:[24331] [24321] [24311] [24304] テレパシー 投稿者:南方 投稿日:2017/08/26(Sat) 18:10  

> > > > 僕はテレパシーと会話で完全にコミュニケーションをとるのが目標で夢です。
> > >
> > > 人間以外の動物はテレパシーで交信しています。人間は言葉を与えられているため別に必要はないんじゃないですか。テレパしーがなくても日常生活は支障なし。
> > > 一部の動植物は超音波能力、予知能力があります。地震の前ぶれなど。それがないと生きていけない。
> > > ごくまれに、テレパシーが出来る人はいるようです。 感受性に鋭い人、豊かな人。
> > > しかし、一般には、テレパシーの受信を妨害しているのは、人間の「思考」です。思考のバリヤーが流入を防ぐ。又来たとしてもわからない。
> > > この話は、精神科学の本を読まねばわかりません。
> >
> >
> >
> > ミラーニューロンは科学的に証明されてますよね。
>
> 参考 アダムスキー3部作
>  「宇宙哲学」「生命の科学」「テレパシー」すべて絶版。
>  現在、ユニバース出版社によって再販されている。アダムスキー全10巻として
>
>  「テレパシー」まえがき 副題 精神感応 無言の会話術
>
>  精神感応力はあらゆる生きものに具わっている能力であって、これによって自分の感じていることを他の全ての生きものを伝えることができます。
>  「自然」はいうまでもなくこの法則にしたがっていて、「自然」のいずれの要素も一つの統一された全体とそての「現れ」の成就をもたらすための自身を解放しています。
>  人間とは「活動している想念(ソート)」です。
>  しかし理解力の乏しさから、人類はさまざまなゆがみを引き起こし、そのために現在いたるところにみられるような大混乱を生じるに至りました。
>  人間ははたらくための道具をいろいろもっていますが、無我の自己表現というもっと大きな分野で人間に奉仕する力が自分の中に具わっているという自覚は失わってきています。
>  低劣な想念を高く、向上させて押し進めていく人間の能力は、円、三角、四角の形をしたものが収めてある万華鏡に例えることができます。
>  回転するごとに新しい模様が展開します。
>  同じ模様は一つもありません。
>  人間が宇宙と一体であるという自覚に達するとき、万華鏡の場合と同じ、「変化の法則」が絶えず変転し生長してやまない模様を描き出して、充実した生命観を人間に起こさせるでしょう。
>  この目的を達するためには、触感とは神経の反応にすぎないけれども「感じ」とは「注意の状態」であるということを理解する必要があります。
>  真の注意の状態とは、意識的な意識であって、これこそ全てを包括する「宇宙の英知」です。
>  
>  注 
>  70年代前後に訳者久保田八郎氏によってアダムスキー啓蒙団体「日本GAP」が設立された。以後グループ活動は久保田氏の死去まで続き、90年代に解散した。それ以外も幾かのグループ活動があったが今はない。現在が大きな本屋でアダムスキー全集を見かけるだけである。
>  久保田氏は、最後まで機関誌を発行し続けた。実はクリシュナムルティの名を初めて知ったのは、この機関誌である。70代前後、「未来への伝言」として訳された。原初「ライフアヘッド」。そこから、インドに興味を持ち「自己変革の方法」を手にする。
>  前述の訳「注意の状態」は何の訳なのだろうか?今となってはわからない。
>  はたしてawarenessなのか。クリシュナムルティとは因縁を感じる。
>
>
>  



僕は光の存在オリンに頼んでます。

「パーソナル・パワー」 サネヤ・ロウマン著


[24331] Re:[24321] [24311] [24304] テレパシー 投稿者:外野 投稿日:2017/08/26(Sat) 17:39  

> > > 僕はテレパシーと会話で完全にコミュニケーションをとるのが目標で夢です。
> >
> > 人間以外の動物はテレパシーで交信しています。人間は言葉を与えられているため別に必要はないんじゃないですか。テレパしーがなくても日常生活は支障なし。
> > 一部の動植物は超音波能力、予知能力があります。地震の前ぶれなど。それがないと生きていけない。
> > ごくまれに、テレパシーが出来る人はいるようです。 感受性に鋭い人、豊かな人。
> > しかし、一般には、テレパシーの受信を妨害しているのは、人間の「思考」です。思考のバリヤーが流入を防ぐ。又来たとしてもわからない。
> > この話は、精神科学の本を読まねばわかりません。
>
>
>
> ミラーニューロンは科学的に証明されてますよね。

参考 アダムスキー3部作
 「宇宙哲学」「生命の科学」「テレパシー」すべて絶版。
 現在、ユニバース出版社によって再販されている。アダムスキー全10巻として

 「テレパシー」まえがき 副題 精神感応 無言の会話術

 精神感応力はあらゆる生きものに具わっている能力であって、これによって自分の感じていることを他の全ての生きものを伝えることができます。
 「自然」はいうまでもなくこの法則にしたがっていて、「自然」のいずれの要素も一つの統一された全体とそての「現れ」の成就をもたらすための自身を解放しています。
 人間とは「活動している想念(ソート)」です。
 しかし理解力の乏しさから、人類はさまざまなゆがみを引き起こし、そのために現在いたるところにみられるような大混乱を生じるに至りました。
 人間ははたらくための道具をいろいろもっていますが、無我の自己表現というもっと大きな分野で人間に奉仕する力が自分の中に具わっているという自覚は失わってきています。
 低劣な想念を高く、向上させて押し進めていく人間の能力は、円、三角、四角の形をしたものが収めてある万華鏡に例えることができます。
 回転するごとに新しい模様が展開します。
 同じ模様は一つもありません。
 人間が宇宙と一体であるという自覚に達するとき、万華鏡の場合と同じ、「変化の法則」が絶えず変転し生長してやまない模様を描き出して、充実した生命観を人間に起こさせるでしょう。
 この目的を達するためには、触感とは神経の反応にすぎないけれども「感じ」とは「注意の状態」であるということを理解する必要があります。
 真の注意の状態とは、意識的な意識であって、これこそ全てを包括する「宇宙の英知」です。
 
 注 
 70年代前後に訳者久保田八郎氏によってアダムスキー啓蒙団体「日本GAP」が設立された。以後グループ活動は久保田氏の死去まで続き、90年代に解散した。それ以外も幾かのグループ活動があったが今はない。現在が大きな本屋でアダムスキー全集を見かけるだけである。
 久保田氏は、最後まで機関誌を発行し続けた。実はクリシュナムルティの名を初めて知ったのは、この機関誌である。70代前後、「未来への伝言」として訳された。原初「ライフアヘッド」。そこから、インドに興味を持ち「自己変革の方法」を手にする。
 前述の訳「注意の状態」は何の訳なのだろうか?今となってはわからない。
 はたしてawarenessなのか。クリシュナムルティとは因縁を感じる。


 


[24330] 無題 投稿者:vaamana 投稿日:2017/08/26(Sat) 16:06  

ただあってごらん。

存在してごらん。

あなたは「知」にいたるだろう。

思い込みをすべて落としなさい。


[24329] Re:[24325] [24301] [24288] [24280] [24279] [24277] [24276] [24253] 愚さんの言葉 投稿者:ゴト 投稿日:2017/08/26(Sat) 15:24  

> > >  花を見ている、ということは、ただ見ているのではないですか。

> > > 「花」は象徴的な意味で使いました。対象は何でもいい。
> > >  目に見えるもの、聞こえるものは即座です。
> >
> > それはその通りです。
>
>  ここを了解してもらってはじめて次にいけます。
>  絵の展覧会で、皆無心に絵を眺めている。
>
> >しかし、それはいわば原初の無意識どまりです。
>
>  何で反論するのか?何が「しかし」ですか?「原初の無意識どまり」ってどういうことですか。

動物の意識?ととりあえず思ってください。

>  花を見ている状態がある、ということをいってるだけです。

> >「あいつ、こんなことを言いやがった」とか。つまり実際の知覚に対しては上の空だったりします。

> > そうではなく、思考の干渉なしに瞬時瞬時の出来事をそのまま見ている。
>
>  ですから、花をただ見ている、ということを申し上げた。「ただ見ている」というのは難しいことでも何でもなく、一般の普通の人がやっていることです。
>  ここまではよろしいでしょうか。
>  「ただ見ている」というのはむずかしいといわれるので、様々な例を申しあげました。
>  芝居を見ているとき、テレビを見ているとき、スポーツを見ているとき皆見そうです。もちろんその後の感想は様々。
>  はじめから文句をつけて見てるかと言う話です。

始めの純粋に見ている知覚はそのまま意識に登らず、様々な思いを通した状態があります。それがヒトの現実の状態です。

>
>  ここから「内観」の話。

> > 心の中だと見にくい、知覚しにくいという事が、私はまったくわかりません。

>  今、心を観る話をしています。見にくい、知覚しにくいのはない。
>  今,問題としているのは、我々日常生活で、心を観る、ということは可能かどうか。

> > 嫉妬の念が燃え盛る、いやな奴が何かを言うと「なんという事を言うのか、いつも言葉尻をつかまていちゃもんをつける」と憎しみが飛び出す、心が騒ぐ。それがわからないという事がまるでわからない。

>  そんなことは誰でもわかる。それと心を観ることは違うと言う話です。
>  今言われた「すったもんだ」は日常茶判事。
>  今、瞑想の話しをしている。心が騒いでいる状態とは真逆。静寂の状態。

そうです。ここが肝心かなめの論点。静寂の中で心の(心理的)動きが力を持たないで(いわば去勢されて)見られている。日常茶飯事において。


> > >  そこで、何のためにこういうことをやるか。目的をはっきりさせないと挫折する。「ただ座る」は究極の境地。

意識が、純粋な知覚を、外部についてだけでなく心の動きについても持ち、心身が共有するため。

> >ただ、あえて言うと、ただ見ている時は、心身の全体で見ている。貴重な瞬間。

>  観る話と、目的を持つのとは別でしょう。
>  いいですか、観ること自体は、思考なしに見るというだけです。
>
>  もう一言つけくわえると、あなたは何らかの動機があってクリシュナムルティを読んだわけでしょう。詳しくは知りますが。たとえば悩み苦しみから逃れるための。目的と言えば目的。

はい。悩み苦しみから逃れたいという欲求、それが悟りたいという願望につながります。そしてさらにKの言う事を理解したいとなります。ここで追いかけているものは架空のもの(自分の心の投影)なのです。

> > >  あなたのいう「ただ見る」は、何故簡単ではないのかという疑問が浮かびます。
>  この問いは繰り返しになります。
>  もう一度いうと、花を見るのは即座であり、簡単だが、心を観るのは簡単ではない。
>  簡単に言うと相手から文句を言われる。「馬鹿やろう何やってるんだ」
>  即座に反応。「何言っていやがる。ふざけるな」。
>  普通ありがちなやりとり。意識は外に向いている。
>  つまり相手に文句を言われたとき、意識は当然相手に向いている。当たり前のことです。このとき意識は内面に向いていない。わかりやすくいうと、相手から文句を言われたとき、「何いってやがる。ふざけるな」という思考を自覚していない。別な言い方だと客観的に自分を見ていない。怒っている自分を見ているもう一つの自分がいる。

この最後の一句「 怒っている自分を見ているもう一つの自分がいる。」がわかりません。この句を除いて答えます。

「何いってやがる。ふざけるな」と言っている自分は思考なのです。だから客観的に見れないのです。ただ見ているという時、思考のただの、純粋な知覚だけがあります、それが意識に登って見えています。一度このように見るなら分かります。

> >
> > 思考で取り組んでもその状態が実現しないところに難しさがある。
>
>  思考で取り組むって、どういうことですか。「観る」ことに思考で取り組みもないでしょう。観れば言いわけですから。観るか観ないかの話。

思考(者)が出来事(の知覚)に対し反応している状態。つまり思考(者)が出来事に取り組んでいるのです。

> >なぜなら、その取り組む思考が、思考なしに知覚している状態を破壊するから。
>  今の例は相手から文句を言われて反応する。これがリアルタイムで起きた出来事。
>  それで取り組み思考って何ですか?

思考が相手の言葉や言い方に反応したという事が、この事件に思考が取り組んでいることを示します。条件づけられた脳が反応したと言ってもいいでしょう。

>
> >もちろん瞬間思って、思考なしに見ている状態に突入してしまえばどうという事はないのですが。
>
>  思考なしに見るとよくいわれるが、思考なしに何を見てるのですか?

その場面の知覚されることを見ています。自分の心理的思考(をつかさどる部分)は見る主体の側にはありません。外にあるものの知覚としてあります。

> > > > それは本当に重大な時こそ、判断なしに見ることが必要なのであって、では普段はどうでもいいというわけではありませんが、何というか、注意はおのずとされているようになるのです。
> > >
> > >  都合のいい時に、気づきは起こるのですか?普段は注意しなくても。
> >
> > 猛獣のいる平原や密林に行くと人はおのずと注意深くなります。これは実際の危険があるからで、太古の動物から受け継いでいます。しかし、心理的危険は人間がその進化から自ら作り出した初めての危険で、猛獣や崖の危険のように直感的に気づくまで至っていません。
>
>  Kのいう心理的危険というのは猛獣になぞらえての比喩です。そのぐらい危険だと言及している。つまりや争いの原因。もちろん普通の人間は、そんなことはつゆとも思っていない。
>
>  そこで、重大なことをお聞きします。(心理的)思考の中で危険というシグナルというのは出てくるものなのでしょうか。

危険というシグナルは特にありません。初心のうちは思考をすべて疑ったらどうですか?

>  あなたはそれがわかっているので、即座に気づきができるということでしょうか。それを合図として。

感情が動くときにわかります。

>  相手から、文句を言われて反応する。思考が出てくる。そのとき、いつ「危険のシグナル」が出るのかということです。危険とわかるもの。

心理的なものって感情の動きでわかりませんか、ネガティブなものだけでなく、しめた、もうけたと舌なめずりするような感覚も含めて。

>  頭が熱くなり、胸がカッカする。鳩尾が痛くなるのはいつものこと。典型的な怒りの現象。それは身体にあらわれる。それが危険信号なのかな?

そういう肉体感覚を不快でなく客観的に感じることも、ただ知覚していることの一部です。

> > >  それだと、イエスや飯尾氏のスタンスと違いますね。
> > >  イエス氏曰く、「自身の想念に寝ずの番人をせよ」
> > >  飯尾氏曰く  「自分の思考は信用しない」
> > >  両者に共通するのは、いつ心が暴君になるかもしれないので、常に見張るということです。
> > >  クリシュナムルティが思考を危険分子とみなしているのと共通

> > そうです。しかし心理的思考の危険に気づけないという事でしたね。
>
> はい。そういった危険信号が出るのかどうか。

上にすでに書きました。とにかく思考を疑う事から始めて、思考の危険を自分で知りましょう。

> > > >Kの本を関心を持って読んでいれば自ずとそうなります。
> > >
> > >  Kの本を読むと、都合のいいときに「気づき」と起こると。ふと?

> > Kの本をよく読んでいると思考の危険を初めて知ります。そして心の動きが心理的になるのがわかるなら即座に気づきます。それはいつの間にか起こり始めます。

>  私は起こりません。本の理解が先です。読み終わると日常。
> >
> > >  あなたのスタンスがよくわかりました。違いが明確になったようです。
> > > >
> > > > それからそれを持続するという事をひどく重視していますが、それは達成願望にとらわれています。(ゲームのように勝ったり負けたりしながら進んでいけばいいとKが言っています)。
> > >
> > >  達成願望というのは思考の世界でしょう。そうではなく、Kのいうのは24時間見続ける。ということであり、それには初めも終わりもないということです。達成したら『終わり」ということではない。
> > >  24時間というのは象徴的な意味で使ったので、実際は起きてから寝るまです。Kの言わせれば無理をせず、できる範囲でやる。文字ドウリぼとぼちと。
> > >  たいていの人は、「何のためにやってるのか馬鹿馬鹿しくなった」と挫折するのが大半。
>
>  実は私がそう。観ることはやってません。必要なし。日常で愛を実践するのみ。まずは掃除から。慈愛の気持ちで、事にあたる。これは南方さんから学びました。
> >
> > 始めも終わりもないという事は、24時間でもなく、目が覚めてまた眠るまででもなく、心理的思考(不注意)の発生している「いま」という事です。
>
>  ですから常に目をあけていないと「不注意」を見逃すことになる。
>  目を開けるという意味は、はっきり観ること。
>  イエスは、人は目をあけているようで見ていない。という皮肉をいいました。
>  そういえば私たちははっきりと周囲を見ていない。常に何か「考え事」しながら歩いています。関心ある対象が出てくると思考停止になる。
>  今、秋葉では、たくさんの女の子がメイド姿でビラを配っている。関心なければ目もくれない。ところが地方から「おたく」は立ち止まる。よりどりみどり。
> >
> > >  ある人曰く、人里離れた一人暮らしなら可能かも知れません。人と多く関わり合う社会では不可能。それこそ鉄の意志がいる。たぶん飯尾氏は、やりとげたのでしょう。想像ですが。本人は一切語ることはない。
> >
> > 日常生活こそ、なまの心理的思考の起こる場所です。
>
> はい。
> >
> > > > > > やり始めのうちは、実際はそうはいかないで種々の反応が出てくる。それもできるだけ心のうちで見ている。そのようにただ見、聴き、知覚している状態が聖なる全体です。
> > >
> > >  結局、少しずつできるようになる。ということですか?だからボチボチ。
> > >  「全体」というのは、思考での滞りが起きていないこと。
> > > > >
> > > > >  やはり「見る」ことを実践するということですか。あきらめずに。
> > > >
> > > > そう言うと従来の伝統と同じになってしまいます。そこに成り行こうとする過程が入っているのです。努力と挫折の過程です。
>
>  いいじゃないですか。誰でも失敗はある。挫折をおそれては何もできない。
>
> > > > >  はい。ぼとぼちあせらずに。
> > >
> > >  ぼちぼち。使わせてもらいました。亀の歩(あゆみ)みみたいですね。
> >
> > 時間の経過という意識がなくなります。
>
>  ぼちぼちというのは、のんびりとやる。気が向いたらやる。まさに時間。即座ではない。
>  あなたの釣りは即座でしょう。何よりもそれが優先。ぼちぼち釣りにでかけるか、ではない。

ヘラブナ釣りは必死になって瞬時も油断なく浮きを見つめていては目が疲れてしまいます。ゆったりと構えて楽しんでぼちぼち釣ってください。これが名人の私への教えです。ぽつぽつ釣れるのはうまい人です。私は釣れなくなったら1〜2時間全然釣れません。下手すると終日釣れません。


[24328] 無題 投稿者:vaamana 投稿日:2017/08/26(Sat) 13:22  

目の前にかがみがあるとする。

その鏡をあなたは見ている。

不意に鏡が割れる。

それが光明だよ。


[24327] 無題 投稿者:vaamana 投稿日:2017/08/26(Sat) 12:57  

第一段階 定寂身次第:曼荼羅と脈管などの観想
第二段階 定寂語次第(金剛念誦次第):左右管に気を入れて四相を見る
第三段階 定寂心次第(心清浄次第):中央菅から不滅の心滴に気を流入して四空を体験
第四段階 自加持次第(幻身):気を逆流出して新しく幻身(魂の体)を作る
第五段階 楽現覚次第(光明):再度、気を不滅の心滴に流入して「勝義の光明」を体験
第六段階 双入次第:再度、気を不滅の心滴から流出して「清浄な幻身」を作る


[24326] 無題 投稿者:vaamana 投稿日:2017/08/26(Sat) 12:53  

この客体としてのありのままの大自然、世界こそが真実であり、それは汚されたり清められたりしないんだ。


[24325] Re:[24301] [24288] [24280] [24279] [24277] [24276] [24253] 愚さんの言葉 投稿者:外野 投稿日:2017/08/26(Sat) 11:14  


> >  花を見ている、ということは、ただ見ているのではないですか。
> >  花を見ているとき、思考がああだこうだ言ってみていますか。
> >  ただ感じるだけではないですか。
> >  こういうことはみなやってます。
> > 「花」は象徴的な意味で使いました。対象は何でもいい。
> >  目に見えるもの、聞こえるものは即座です。
>
> それはその通りです。

 ここを了解してもらってはじめて次にいけます。
 絵の展覧会で、皆無心に絵を眺めている。

>しかし、それはいわば原初の無意識どまりです。

 何で反論するのか?何が「しかし」ですか?「原初の無意識どまり」ってどういうことですか。
 花を見ている状態がある、ということをいってるだけです。

> 現実の顕在意識は多くの場合思考が渦巻いています。

 まだ、そういう話ではないでしょう。先に「見る」話をしている。花を見る時は即座です。当たり前ですが。
 あなたは、花に向って文句を言っているのでしょうか?他の人は静かに絵を鑑賞してるのに、あなたは絵に対して、いいがかりをいっているように思えます。
 例えばピカソの絵。「こんなの見てもわかんねえや」
 これを見ていないことと同じでしょう。絵を見ている間に思考が介入している。

>「あいつ、こんなことを言いやがった」とか。つまり実際の知覚に対しては上の空だったりします。

 さっきの例では、あなたはピカソの絵に「いいがかり」をつけている。

> そうではなく、思考の干渉なしに瞬時瞬時の出来事をそのまま見ている。

 ですから、花をただ見ている、ということを申し上げた。「ただ見ている」というのは難しいことでも何でもなく、一般の普通の人がやっていることです。
 ここまではよろしいでしょうか。
 「ただ見ている」というのはむずかしいといわれるので、様々な例を申しあげました。
 芝居を見ているとき、テレビを見ているとき、スポーツを見ているとき皆見そうです。もちろんその後の感想は様々。
 はじめから文句をつけて見てるかと言う話です。

 ここから「内観」の話。今までは外の話。内も外もないと言う人がいるがまぎれもなく人間の意識は外に向いているでしょうか。いわば「外方」に向いている。当たり前の話。これがわからなければ意識についての勉強不足。
目を開ければ外方。間違っても「内面」ではない。
 もう一度繰り返すと、内面とは人間の心を指す。心というのは思考感情。
>
> >  ところが座禅や瞑想のように、対象が心の中だと、たやすいことではない。つまりは観る。内観。経験者が知っている。

 日常生活では意識が外方に向いているので、内面を観るのは容易ではない。
 もちろん感情の起伏による身体の変化はわかります。わざわざ内面を観なくても。
> >  目に瞑ってる状態でもむずかしいのに、クリシュナムルティは日常で、それをやれという。生活即瞑想。

 生活即瞑想。いわば瞑想の状態で、日常をすごす。しかし、実際にどういうことをあらわしているのはわからない。言葉はキャッチフレーズでかっこいいが。究極の目標なのだろうか。こうありたいという。

> >  座禅の体験者はお手上げとなる。禅をやる人は、生活即瞑想(禅)は理想。まず出来る範囲からやるという。
>
> 心の中だと見にくい、知覚しにくいという事が、私はまったくわかりません。
 今、心を観る話をしています。見にくい、知覚しにくいのはない。
 今,問題としているのは、我々日常生活で、心を観る、ということは可能かどうか。

> 嫉妬の念が燃え盛る、いやな奴が何かを言うと「なんという事を言うのか、いつも言葉尻をつかまていちゃもんをつける」と憎しみが飛び出す、心が騒ぐ。それがわからないという事がまるでわからない。

 そんなことは誰でもわかる。それと心を観ることは違うと言う話です。
 今言われた「すったもんだ」は日常茶判事。
 今、瞑想の話しをしている。心が騒いでいる状態とは真逆。静寂の状態。
>
> >  そこで、何のためにこういうことをやるか。目的をはっきりさせないと挫折する。「ただ座る」は究極の境地。
>
> 目的(心理的)を持つと挫折する。

 目的を持つと何で挫折するのですか?そうとは限らないでしょう。目的を持つというのは心理的なことは関係ありません。いい学校に入りたい。いい会社に入りたいというのは、単に指針です。指標。
 指標がなくて何て生きていけるのか。若い人に夢を持つな、ということでしょうか。

>目的を持つことが心理的(目的)になると心が騒ぐことがわかりますか? 

 クリシュナムルティがそういってるから、それに便乗してるだけですか。
 何か結論ありきで、過程を、とばしてるような感じがします。
 人間、皆目的を持って生きているではないですか。何が悪いの。
 マイホームを持ちたい。事業で成功したい。◯◯になりたい。
 皆捨てろ、ということですか。

>ただ、あえて言うと、ただ見ている時は、心身の全体で見ている。貴重な瞬間。
 観る話と、目的を持つのとは別でしょう。
 いいですか、観ること自体は、思考なしに見るというだけです。

 もう一言つけくわえると、あなたは何らかの動機があってクリシュナムルティを読んだわけでしょう。詳しくは知りますが。たとえば悩み苦しみから逃れるための。目的と言えば目的。

再録
>目的を持つことが心理的(目的)になると心が騒ぐことがわかりますか? 

 よくわかりません。何で目的を持つことが、心が騒ぐことになるのか。

> >  あなたのいう「ただ見る」は、何故簡単ではないのかという疑問が浮かびます。
 この問いは繰り返しになります。
 もう一度いうと、花を見るのは即座であり、簡単だが、心を観るのは簡単ではない。
 簡単に言うと相手から文句を言われる。「馬鹿やろう何やってるんだ」
 即座に反応。「何言っていやがる。ふざけるな」。
 普通ありがちなやりとり。意識は外に向いている。
 つまり相手に文句を言われたとき、意識は当然相手に向いている。当たり前のことです。このとき意識は内面に向いていない。わかりやすくいうと、相手から文句を言われたとき、「何いってやがる。ふざけるな」という思考を自覚していない。別な言い方だと客観的に自分を見ていない。怒っている自分を見ているもう一つの自分がいる。
>
> 思考で取り組んでもその状態が実現しないところに難しさがある。

 思考で取り組むって、どういうことですか。「観る」ことに思考で取り組みもないでしょう。観れば言いわけですから。観るか観ないかの話。

>なぜなら、その取り組む思考が、思考なしに知覚している状態を破壊するから。
 今の例は相手から文句を言われて反応する。これがリアルタイムで起きた出来事。
 それで取り組み思考って何ですか?

>もちろん瞬間思って、思考なしに見ている状態に突入してしまえばどうという事はないのですが。

 思考なしに見るとよくいわれるが、思考なしに何を見てるのですか?
>
> > > それは本当に重大な時こそ、判断なしに見ることが必要なのであって、では普段はどうでもいいというわけではありませんが、何というか、注意はおのずとされているようになるのです。
> >
> >  都合のいい時に、気づきは起こるのですか?普段は注意しなくても。
>
> 猛獣のいる平原や密林に行くと人はおのずと注意深くなります。これは実際の危険があるからで、太古の動物から受け継いでいます。しかし、心理的危険は人間がその進化から自ら作り出した初めての危険で、猛獣や崖の危険のように直感的に気づくまで至っていません。

 Kのいう心理的危険というのは猛獣になぞらえての比喩です。そのぐらい危険だと言及している。つまりや争いの原因。もちろん普通の人間は、そんなことはつゆとも思っていない。

 そこで、重大なことをお聞きします。(心理的)思考の中で危険というシグナルというのは出てくるものなのでしょうか。
 あなたはそれがわかっているので、即座に気づきができるということでしょうか。それを合図として。
 相手から、文句を言われて反応する。思考が出てくる。そのとき、いつ「危険のシグナル」が出るのかということです。危険とわかるもの。
 頭が熱くなり、胸がカッカする。鳩尾が痛くなるのはいつものこと。典型的な怒りの現象。それは身体にあらわれる。それが危険信号なのかな?
>
> >  それだと、イエスや飯尾氏のスタンスと違いますね。
> >  イエス氏曰く、「自身の想念に寝ずの番人をせよ」
> >  飯尾氏曰く  「自分の思考は信用しない」
> >  両者に共通するのは、いつ心が暴君になるかもしれないので、常に見張るということです。
> >  クリシュナムルティが思考を危険分子とみなしているのと共通
>
> そうです。しかし心理的思考の危険に気づけないという事でしたね。

はい。そういった危険信号が出るのかどうか。
>
> >  (注 「新しい芽」というサイトはなくなりましたので、実名の飯尾氏にします。訳者で本が公開されているからです)
> >
> > >Kの本を関心を持って読んでいれば自ずとそうなります。
> >
> >  Kの本を読むと、都合のいいときに「気づき」と起こると。ふと?
>
> Kの本をよく読んでいると思考の危険を初めて知ります。そして心の動きが心理的になるのがわかるなら即座に気づきます。それはいつの間にか起こり始めます。
 私は起こりません。本の理解が先です。読み終わると日常。
>
> >  あなたのスタンスがよくわかりました。違いが明確になったようです。
> > >
> > > それからそれを持続するという事をひどく重視していますが、それは達成願望にとらわれています。(ゲームのように勝ったり負けたりしながら進んでいけばいいとKが言っています)。
> >
> >  達成願望というのは思考の世界でしょう。そうではなく、Kのいうのは24時間見続ける。ということであり、それには初めも終わりもないということです。達成したら『終わり」ということではない。
> >  24時間というのは象徴的な意味で使ったので、実際は起きてから寝るまです。Kの言わせれば無理をせず、できる範囲でやる。文字ドウリぼとぼちと。
> >  たいていの人は、「何のためにやってるのか馬鹿馬鹿しくなった」と挫折するのが大半。

 実は私がそう。観ることはやってません。必要なし。日常で愛を実践するのみ。まずは掃除から。慈愛の気持ちで、事にあたる。これは南方さんから学びました。
>
> 始めも終わりもないという事は、24時間でもなく、目が覚めてまた眠るまででもなく、心理的思考(不注意)の発生している「いま」という事です。

 ですから常に目をあけていないと「不注意」を見逃すことになる。
 目を開けるという意味は、はっきり観ること。
 イエスは、人は目をあけているようで見ていない。という皮肉をいいました。
 そういえば私たちははっきりと周囲を見ていない。常に何か「考え事」しながら歩いています。関心ある対象が出てくると思考停止になる。
 今、秋葉では、たくさんの女の子がメイド姿でビラを配っている。関心なければ目もくれない。ところが地方から「おたく」は立ち止まる。よりどりみどり。
>
> >  ある人曰く、人里離れた一人暮らしなら可能かも知れません。人と多く関わり合う社会では不可能。それこそ鉄の意志がいる。たぶん飯尾氏は、やりとげたのでしょう。想像ですが。本人は一切語ることはない。
>
> 日常生活こそ、なまの心理的思考の起こる場所です。

はい。
>
> > > > > やり始めのうちは、実際はそうはいかないで種々の反応が出てくる。それもできるだけ心のうちで見ている。そのようにただ見、聴き、知覚している状態が聖なる全体です。
> >
> >  結局、少しずつできるようになる。ということですか?だからボチボチ。
> >  「全体」というのは、思考での滞りが起きていないこと。
> > > >
> > > >  やはり「見る」ことを実践するということですか。あきらめずに。
> > >
> > > そう言うと従来の伝統と同じになってしまいます。そこに成り行こうとする過程が入っているのです。努力と挫折の過程です。

 いいじゃないですか。誰でも失敗はある。挫折をおそれては何もできない。

> > > >  はい。ぼとぼちあせらずに。
> >
> >  ぼちぼち。使わせてもらいました。亀の歩(あゆみ)みみたいですね。
>
> 時間の経過という意識がなくなります。

 ぼちぼちというのは、のんびりとやる。気が向いたらやる。まさに時間。即座ではない。
 あなたの釣りは即座でしょう。何よりもそれが優先。ぼちぼち釣りにでかけるか、ではない。




[24324] 無題 投稿者:vaamana 投稿日:2017/08/26(Sat) 10:47  

それらは、漠然と進化の段階をあらわしてるにすぎない。

阿頼耶識とかアマラ識とかケンリツダヤ識とかもそう。霊界はそんな明確にわけれるもんじゃない。


[24323] 無題 投稿者:vaamana 投稿日:2017/08/26(Sat) 10:45  

六大神通も六道もそうだが、すべてあまりにも文字通り解釈すべきではない。


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