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[25706] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/07/27(Fri) 19:32  

>  さて私が暴力的な人間であるということが私に明らかでなければなりません。私は、怒りの中の暴力、私の性的要求の中の暴力、敵意を生み出す憎悪の中の暴力、嫉妬の中の暴力などを経験しました ― 私は経験しました。私は知りました。そして自分自身に言います。「私はこの問題全体を戦争に現れたただの一断片だけでなく、動物にも存在し私もその一部である人間のこの攻撃性を理解したい」と。
>
>  この攻撃性を理解したい。・・・

この攻撃性を理解することが重要。それには自身の暴力性を調べる
>
> >  暴力は単に他の人を殺すことではありません。とげとげしい言葉を使うとき、人を無視するそぶりをするとき、恐怖があるため服従するとき、それは暴力です。ですから暴力は単に神の名のもとでの、社会や国家の名のもとでの、組織的な虐殺だけではありません。暴力はずっと微妙で、ずっと深く、そして私達は暴力のまさにその深みを調べようとしているのです。
>
> 暴力の深みに入って行く。・・・

何故そうなるのか。
外部に暴力があるのはわかりきっている。そうではなく、内部を調べる。暴力の正体。



[25705] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/07/27(Fri) 19:26  

真我に目覚めていない人間のクリシュナムルティの解説はいりません。
思考が解説してもしょうがない。
クリシュナムルティがいうように何で、自身にある暴力性に向き合うことをしないのか。
トランプとか北朝鮮など関係ないだろう。
外部しか見ようとしない。







[25704] Re:[25703] [25702] 既知からの自由6-1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/07/27(Fri) 15:02  

> > 6章-1 [暴力]
> >
> > 恐怖、快楽、悲しみ、思考そして暴力は全て相互に関係しています。私達のほとんどは暴力に、誰かを嫌ったり、特定の人種や集団の人たちを憎んだり、他人に対して敵対的な感情を持つことに快楽を味合います。しかしあらゆる暴力が終わった心の状態には、葛藤と憎悪と恐怖を伴う暴力の快楽とは全く異なる喜びがあります。
>
>  >私達のほとんどは暴力に、誰かを嫌ったり、特定の人種や集団の人たちを憎んだり、他人に対して敵対的な感情を持つことに快楽を味合います。−− 事実ですがこうも的確に示されると怖い現実ですね。
>  >しかしあらゆる暴力が終わった心の状態には、葛藤と憎悪と恐怖を伴う暴力の快楽とは全く異なる喜びがあります。−− これも事実ですが、実際にそれを知っている、微かなその香気だけにせよ、人でないと言えない言明です。


 >恐怖、快楽、悲しみ、思考そして暴力は全て相互に関係しています。−−、恐怖と快楽の関係は、前に記されている。そして、「暴力の中の快楽」についても明確に陳述された。

 暴力を見るときに、恐怖を見るときのように、その全体を見ようとするならば、「恐怖」「快楽」「悲しみ」「思考」「葛藤」「憎悪」そして「暴力」を、全体として見る。


> >  暴力の根源そのものまで進み、それから解放されることが出来るでしょうか? さもなければ私達は果てしなく互いに戦って生きていくでしょう。それがあなたの望む生き方なら ― 殆どの人がそうしている様ですが ― その時は続けてください。「おや、残念ですが、暴力は決して終わることはできません」と言われるのなら、あなたと私に交流の手段はなく、あなたは自分を閉ざしてしまったのです。しかしもし違った生き方があるかも知れないと言われるならば、互いに交流できるかも知れません。
>
>  この探求の旅に加わって交流できるのは、群れ集う人の中の異例の人になりそうですね。


 「暴力の中の快楽」これが暴力を惹きつける。娯楽の中で暴力的な事柄は重要な刺激的要素となっている。実際の人間関係においても、いじめなど暴力が絶えない。
 特に「勝ち組」は暴力の刺激を放棄しにくい。人の上に立って、下の者たちを支配したがる。その典型的な例がトランプ。彼は快楽の湯ぶねに浸かっている。暴力を手放す気はない。


 暴力の中に、快楽と共に、恐怖や葛藤、憎悪や悲しみを見ることができるか。もしも、これができなければ、「暴力の中の快楽」によって暴力に惹きつけられ続けるのではなかろうか。

 暴力から離れるのは、暴力と共にある「恐怖」「悲しみ」「憎悪」そして「葛藤」を見る場合ではなかろうか。


> >  そこで自分自身の中のあらゆる形の暴力を完全に終わらせ、そしてなおこのぞっとするような残虐な世界に生きることが可能かどうか、交流できる私達で一緒に考えましょう。私はそれは可能だと思います。私は自分に少しの憎悪、嫉妬、心配または恐怖を持ちたくありません。私は完全に平和に生きたいのです。それは死にたいという事ではありません。私は、とても満ち、とても豊かで、とても美しいこの素晴らしい地上で生きたいのです。木、花、川、草原、女性、男の子や女の子を見たいし、同時に自分自身や世界と完全に平和に生きたいのです。私は何をすることができるでしょうか?
>
>  これが私の本当に望むささやかな願いです。


 >私は自分に少しの憎悪、嫉妬、心配または恐怖を持ちたくありません。私は完全に平和に生きたいのです。それは死にたいという事ではありません。私は、とても満ち、とても豊かで、とても美しいこの素晴らしい地上で生きたいのです。木、花、川、草原、女性、男の子や女の子を見たいし、同時に自分自身や世界と完全に平和に生きたいのです。−−、「真のユートピア」とはこのようなものかもしれません。。外面的な事柄ではなく、内面的な事柄が記されている。
 私の幼児期の記憶では、なぜか、そのような世界に生きていたような記憶があるが・・。


> >  外部の社会の中の暴力 ― 戦争、暴動、国家の対立、階級闘争 ― だけでなく、自分の内部においてもまた、暴力をどんなふうに見るかを知れば、おそらくそれを越えることが出来るでしょう。
> >
> >  ここに一つの非常に複雑な問題があります。何世紀につぐ何世紀もの間、人間は暴力的でした。宗教は世界中で人を手なずけようとしてきましたが、どれ一つ成功しませんでした。ですからこの問題に入って行くなら、少なくとも非常に真剣でなければならないと思われます。なぜならそれは私達を全く違う領域に導くだろうからです。しかし単に知的な楽しみのためにこの問題をもてあそぶなら、、殆ど得るものはないでしょう。
>
>  はい。


 前回、恐怖を見ることによって、自我が終焉し、時間のない世界へ移行したように、暴力を見ることによっても、それができることをほのめかしているようだ。。



> >  この問題について自分は非常に真剣なのだが、世界中の非常に多くの他の人たちが真剣でなく、それについて何かをする用意ができていない限り、自分のすることは何の役に立つのだろうかと感じるかもしれません。私は他の人たちがそれを真剣に取り上げようが取り上げまいが気にしません。私はそれを真剣に取り上げ、それで十分です。そんなことまで私の知ったことではありません。私自身が、一人の人間として、この暴力の問題について強く感じており、自分自身の中で自分が暴力的でないのを見たいのです ― しかし私はあなたや他の人に「暴力的であってはいけない」と言うことは出来ません。それは意味がありません ― あなたが自分でそれを望まない限り。そこであなた自身がこの暴力の問題を理解することを本当に欲するなら、探求の旅を一緒に続けましょう。
>
>  >世界中の非常に多くの他の人たちが真剣でなく、それについて何かをする用意ができていない限り、自分のすることは何の役に立つのだろうかと感じるかもしれません。−− 私もそう考え、絶望的な気分になります。
>  >私はそれを真剣に取り上げ、それで十分です。・・・私自身が、一人の人間として、この暴力の問題について強く感じており、自分自身の中で自分が暴力的でないのを見たいのです −− ハイ、よくわかりました。ここにKの教え(探求というべきか)の根本精神があります。これは自分のみの平安にかかわっていることではありません。
>  ここまでこの章の導入部です。


 他者の変容を願っても、本人が>あなたが自分でそれを望まない限り−−、その願いは無意味となる。

 他者の変容によって世の中の変容を願うのではなく、まずは自身の変容。



> >  この暴力の問題は外側にあるのでしょうか、それともここにあるのでしょうか? 問題を外部の世界で解決したいのでしょうか、それとも暴力自体を、それが自分の中にあるので問題にしているのでしょうか? 自分の中で暴力から自由なら、「暴力、取得欲、貪欲、羨望、残虐性に満ちた世界で、私はどうやって生きていけばよいのだろうか? 私は破滅させられるのではないだろうか?」という質問が起きます。それは必然的に問われる当然の質問です。そのような質問をするとき、あなたは実際には平和に生きていないように私には思われます。平和に生きているなら全く何の問題もありません。軍隊に参加するのを拒否するので投獄されるかも知れないし、戦うのを拒否するので銃殺されるかも知れません ― しかしこれは問題ではありません。あなたは銃殺されます。このことを理解することは途方もなく重要です。
>
>  >自分の中で暴力から自由なら、「暴力、取得欲、貪欲、羨望、残虐性に満ちた世界で、私はどうやって生きていけばよいのだろうか? 私は破滅させられるのではないだろうか?」という質問が起きます。それは必然的に問われる当然の質問です。そのような質問をするとき、あなたは実際には平和に生きていないように私には思われます。平和に生きているなら全く何の問題もありません。−− 上記のような質問をするとき、実際には平和に生きていないように思われるというのはそうですね。平和に生きているなら、物事は問題にはならずに何とかするでしょう。熊に出会った時のように。
>  心の平和な人間にはサバイバルという問題もない!?・・・


 野生を見ていると、防衛力を備えています。いも類のほとんどは毒を有しています。食べられないために。

 そこで、人は防衛力を有せずには、他者の暴力、取得欲、貪欲、羨望、残虐性の餌食になるのではないのか?という問いが>必然的に問われる当然の質問−−となるとのこと。

 ネアンデルタール人はホモ・サピエンスにやられた。

 アメリカ大陸原住民は西洋人にやられた。

 アフリカ大陸原住民は奴隷となった。

 防衛力なしに搾取されるのではないのか・・という問い。

 この問いは二元性(自他の区別)から発せられる問いである。

 二元性を生きている中には平和はありえない。二元性の生の中には、生死がある。

 自他の区別なく、生死の区別がないところでは、そのような問いは生じない。>平和に生きているなら全く何の問題もありません。軍隊に参加するのを拒否するので投獄されるかも知れないし、戦うのを拒否するので銃殺されるかも知れません ― しかしこれは問題ではありません。あなたは銃殺されます。このことを理解することは途方もなく重要です。−−、始まりは自由からということでしょうか。

 前回の恐怖を見ることによって、二元性から離れ、平和に生き、そうであれば、>このことを理解することは途方もなく重要です−−、このことを理解できる。


 前回の真理の核心事項が活きてくる。


> >  私達は暴力を事実として、観念としてではなく、人間に存在する事実として理解しようとしており、そして人間とは私自身です。そして問題に入って行くには私はそれに対して完全に傷つきやすく、開いていなければなりません、私は自分自身を自分自身にさらけ出さなければなりません ― 必ずしも私をあなたにさらけ出すのではなく、何故ならあなたは興味がないかもしれませんから ― しかし私は、どの地点でも止まってもうこれ以上行けないと言うことのない、終わりまでこのものを正確に見ることを要求する心の状態になければなりません。
>
>  暴力を観念として取り上げるのでなく、事実(リアル)として正確に見るという態度を貫く。自分に防御の障壁を張り巡らすことなく。


 死を厭わずについてゆく。



> >  さて私が暴力的な人間であるということが私に明らかでなければなりません。私は、怒りの中の暴力、私の性的要求の中の暴力、敵意を生み出す憎悪の中の暴力、嫉妬の中の暴力などを経験しました ― 私は経験しました。私は知りました。そして自分自身に言います。「私はこの問題全体を戦争に現れたただの一断片だけでなく、動物にも存在し私もその一部である人間のこの攻撃性を理解したい」と。
>
>  この攻撃性を理解したい。・・・
>
> >  暴力は単に他の人を殺すことではありません。とげとげしい言葉を使うとき、人を無視するそぶりをするとき、恐怖があるため服従するとき、それは暴力です。ですから暴力は単に神の名のもとでの、社会や国家の名のもとでの、組織的な虐殺だけではありません。暴力はずっと微妙で、ずっと深く、そして私達は暴力のまさにその深みを調べようとしているのです。
>
> 暴力の深みに入って行く。・・・


 死を厭うことなく。


> >  自分をインド人またはイスラム教徒、キリスト教徒、ヨーロッパ人あるいは他の何であれそう呼ぶとき、あなたは暴力的です。なぜそれが暴力的なのか分かりますか? なぜなら自分を残りの人間から分離しているからです。自分を信念、国籍、伝統、によって分離するとき、それは暴力を生みます。それゆえ暴力を理解しようと努めている人はどの国にも、どの宗教、どの政党や部分的な組織にも属しません。その人は人間の全的理解に関心があるのです。
>
>  人間の間に分離をもたらすものに対する探求心・注目。


 自他の区別、二元性がすでに暴力ということなのか。。平和には生きていない・・とは、このことか・・。>そのような質問をするとき、あなたは実際には平和に生きていないように私には思われます。平和に生きているなら全く何の問題もありません。軍隊に参加するのを拒否するので投獄されるかも知れないし、戦うのを拒否するので銃殺されるかも知れません ― しかしこれは問題ではありません。あなたは銃殺されます。このことを理解することは途方もなく重要です。−−



> >  さて暴力について二つの主な考え方があります。その一つは「暴力は人間の生得のものである」と言います。そしてもう一つは「人間がその中で生きている社会的文化的遺産の結果である」と言います。私達はどちらの派に属するかに関わってはいません ― それは重要なことではありません。重要なことは私達が暴力的であるという事実であり、その理由ではありません。
>
> 暴力の種々相が示されましたが、その依って来るゆえんには関わらない。今ある実際のリアルな暴力に関わるという事か。アプローチの仕方が述べられている。


 その依って来るゆえんについては、延々と討論することができるほどの幅広さを有している。しかし、それは脇において、直接知覚できる暴力に焦点を絞る。



> > (続く)


[25703] Re:[25702] 既知からの自由6-1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/27(Fri) 11:26  

> 6章-1 [暴力]
>
> 恐怖、快楽、悲しみ、思考そして暴力は全て相互に関係しています。私達のほとんどは暴力に、誰かを嫌ったり、特定の人種や集団の人たちを憎んだり、他人に対して敵対的な感情を持つことに快楽を味合います。しかしあらゆる暴力が終わった心の状態には、葛藤と憎悪と恐怖を伴う暴力の快楽とは全く異なる喜びがあります。

 >私達のほとんどは暴力に、誰かを嫌ったり、特定の人種や集団の人たちを憎んだり、他人に対して敵対的な感情を持つことに快楽を味合います。−− 事実ですがこうも的確に示されると怖い現実ですね。
 >しかしあらゆる暴力が終わった心の状態には、葛藤と憎悪と恐怖を伴う暴力の快楽とは全く異なる喜びがあります。−− これも事実ですが、実際にそれを知っている、微かなその香気だけにせよ、人でないと言えない言明です。

>  暴力の根源そのものまで進み、それから解放されることが出来るでしょうか? さもなければ私達は果てしなく互いに戦って生きていくでしょう。それがあなたの望む生き方なら ― 殆どの人がそうしている様ですが ― その時は続けてください。「おや、残念ですが、暴力は決して終わることはできません」と言われるのなら、あなたと私に交流の手段はなく、あなたは自分を閉ざしてしまったのです。しかしもし違った生き方があるかも知れないと言われるならば、互いに交流できるかも知れません。

 この探求の旅に加わって交流できるのは、群れ集う人の中の異例の人になりそうですね。

>  そこで自分自身の中のあらゆる形の暴力を完全に終わらせ、そしてなおこのぞっとするような残虐な世界に生きることが可能かどうか、交流できる私達で一緒に考えましょう。私はそれは可能だと思います。私は自分に少しの憎悪、嫉妬、心配または恐怖を持ちたくありません。私は完全に平和に生きたいのです。それは死にたいという事ではありません。私は、とても満ち、とても豊かで、とても美しいこの素晴らしい地上で生きたいのです。木、花、川、草原、女性、男の子や女の子を見たいし、同時に自分自身や世界と完全に平和に生きたいのです。私は何をすることができるでしょうか?

 これが私の本当に望むささやかな願いです。

>  外部の社会の中の暴力 ― 戦争、暴動、国家の対立、階級闘争 ― だけでなく、自分の内部においてもまた、暴力をどんなふうに見るかを知れば、おそらくそれを越えることが出来るでしょう。
>
>  ここに一つの非常に複雑な問題があります。何世紀につぐ何世紀もの間、人間は暴力的でした。宗教は世界中で人を手なずけようとしてきましたが、どれ一つ成功しませんでした。ですからこの問題に入って行くなら、少なくとも非常に真剣でなければならないと思われます。なぜならそれは私達を全く違う領域に導くだろうからです。しかし単に知的な楽しみのためにこの問題をもてあそぶなら、、殆ど得るものはないでしょう。

 はい。

>  この問題について自分は非常に真剣なのだが、世界中の非常に多くの他の人たちが真剣でなく、それについて何かをする用意ができていない限り、自分のすることは何の役に立つのだろうかと感じるかもしれません。私は他の人たちがそれを真剣に取り上げようが取り上げまいが気にしません。私はそれを真剣に取り上げ、それで十分です。そんなことまで私の知ったことではありません。私自身が、一人の人間として、この暴力の問題について強く感じており、自分自身の中で自分が暴力的でないのを見たいのです ― しかし私はあなたや他の人に「暴力的であってはいけない」と言うことは出来ません。それは意味がありません ― あなたが自分でそれを望まない限り。そこであなた自身がこの暴力の問題を理解することを本当に欲するなら、探求の旅を一緒に続けましょう。

 >世界中の非常に多くの他の人たちが真剣でなく、それについて何かをする用意ができていない限り、自分のすることは何の役に立つのだろうかと感じるかもしれません。−− 私もそう考え、絶望的な気分になります。
 >私はそれを真剣に取り上げ、それで十分です。・・・私自身が、一人の人間として、この暴力の問題について強く感じており、自分自身の中で自分が暴力的でないのを見たいのです −− ハイ、よくわかりました。ここにKの教え(探求というべきか)の根本精神があります。これは自分のみの平安にかかわっていることではありません。
 ここまでこの章の導入部です。


>  この暴力の問題は外側にあるのでしょうか、それともここにあるのでしょうか? 問題を外部の世界で解決したいのでしょうか、それとも暴力自体を、それが自分の中にあるので問題にしているのでしょうか? 自分の中で暴力から自由なら、「暴力、取得欲、貪欲、羨望、残虐性に満ちた世界で、私はどうやって生きていけばよいのだろうか? 私は破滅させられるのではないだろうか?」という質問が起きます。それは必然的に問われる当然の質問です。そのような質問をするとき、あなたは実際には平和に生きていないように私には思われます。平和に生きているなら全く何の問題もありません。軍隊に参加するのを拒否するので投獄されるかも知れないし、戦うのを拒否するので銃殺されるかも知れません ― しかしこれは問題ではありません。あなたは銃殺されます。このことを理解することは途方もなく重要です。

 >自分の中で暴力から自由なら、「暴力、取得欲、貪欲、羨望、残虐性に満ちた世界で、私はどうやって生きていけばよいのだろうか? 私は破滅させられるのではないだろうか?」という質問が起きます。それは必然的に問われる当然の質問です。そのような質問をするとき、あなたは実際には平和に生きていないように私には思われます。平和に生きているなら全く何の問題もありません。−− 上記のような質問をするとき、実際には平和に生きていないように思われるというのはそうですね。平和に生きているなら、物事は問題にはならずに何とかするでしょう。熊に出会った時のように。
 心の平和な人間にはサバイバルという問題もない!?・・・

>  私達は暴力を事実として、観念としてではなく、人間に存在する事実として理解しようとしており、そして人間とは私自身です。そして問題に入って行くには私はそれに対して完全に傷つきやすく、開いていなければなりません、私は自分自身を自分自身にさらけ出さなければなりません ― 必ずしも私をあなたにさらけ出すのではなく、何故ならあなたは興味がないかもしれませんから ― しかし私は、どの地点でも止まってもうこれ以上行けないと言うことのない、終わりまでこのものを正確に見ることを要求する心の状態になければなりません。

 暴力を観念として取り上げるのでなく、事実(リアル)として正確に見るという態度を貫く。自分に防御の障壁を張り巡らすことなく。

>  さて私が暴力的な人間であるということが私に明らかでなければなりません。私は、怒りの中の暴力、私の性的要求の中の暴力、敵意を生み出す憎悪の中の暴力、嫉妬の中の暴力などを経験しました ― 私は経験しました。私は知りました。そして自分自身に言います。「私はこの問題全体を戦争に現れたただの一断片だけでなく、動物にも存在し私もその一部である人間のこの攻撃性を理解したい」と。

 この攻撃性を理解したい。・・・

>  暴力は単に他の人を殺すことではありません。とげとげしい言葉を使うとき、人を無視するそぶりをするとき、恐怖があるため服従するとき、それは暴力です。ですから暴力は単に神の名のもとでの、社会や国家の名のもとでの、組織的な虐殺だけではありません。暴力はずっと微妙で、ずっと深く、そして私達は暴力のまさにその深みを調べようとしているのです。

暴力の深みに入って行く。・・・

>  自分をインド人またはイスラム教徒、キリスト教徒、ヨーロッパ人あるいは他の何であれそう呼ぶとき、あなたは暴力的です。なぜそれが暴力的なのか分かりますか? なぜなら自分を残りの人間から分離しているからです。自分を信念、国籍、伝統、によって分離するとき、それは暴力を生みます。それゆえ暴力を理解しようと努めている人はどの国にも、どの宗教、どの政党や部分的な組織にも属しません。その人は人間の全的理解に関心があるのです。

 人間の間に分離をもたらすものに対する探求心・注目。

>  さて暴力について二つの主な考え方があります。その一つは「暴力は人間の生得のものである」と言います。そしてもう一つは「人間がその中で生きている社会的文化的遺産の結果である」と言います。私達はどちらの派に属するかに関わってはいません ― それは重要なことではありません。重要なことは私達が暴力的であるという事実であり、その理由ではありません。

暴力の種々相が示されましたが、その依って来るゆえんには関わらない。今ある実際のリアルな暴力に関わるという事か。アプローチの仕方が述べられている。

> (続く)


[25702] 既知からの自由6-1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/26(Thu) 12:01  

6章-1 [暴力]

恐怖、快楽、悲しみ、思考そして暴力は全て相互に関係しています。私達のほとんどは暴力に、誰かを嫌ったり、特定の人種や集団の人たちを憎んだり、他人に対して敵対的な感情を持つことに快楽を味合います。しかしあらゆる暴力が終わった心の状態には、葛藤と憎悪と恐怖を伴う暴力の快楽とは全く異なる喜びがあります。

 暴力の根源そのものまで進み、それから解放されることが出来るでしょうか? さもなければ私達は果てしなく互いに戦って生きていくでしょう。それがあなたの望む生き方なら ― 殆どの人がそうしている様ですが ― その時は続けてください。「おや、残念ですが、暴力は決して終わることはできません」と言われるのなら、あなたと私に交流の手段はなく、あなたは自分を閉ざしてしまったのです。しかしもし違った生き方があるかも知れないと言われるならば、互いに交流できるかも知れません。

 そこで自分自身の中のあらゆる形の暴力を完全に終わらせ、そしてなおこのぞっとするような残虐な世界に生きることが可能かどうか、交流できる私達で一緒に考えましょう。私はそれは可能だと思います。私は自分に少しの憎悪、嫉妬、心配または恐怖を持ちたくありません。私は完全に平和に生きたいのです。それは死にたいという事ではありません。私は、とても満ち、とても豊かで、とても美しいこの素晴らしい地上で生きたいのです。木、花、川、草原、女性、男の子や女の子を見たいし、同時に自分自身や世界と完全に平和に生きたいのです。私は何をすることができるでしょうか?

 外部の社会の中の暴力 ― 戦争、暴動、国家の対立、階級闘争 ― だけでなく、自分の内部においてもまた、暴力をどんなふうに見るかを知れば、おそらくそれを越えることが出来るでしょう。

 ここに一つの非常に複雑な問題があります。何世紀につぐ何世紀もの間、人間は暴力的でした。宗教は世界中で人を手なずけようとしてきましたが、どれ一つ成功しませんでした。ですからこの問題に入って行くなら、少なくとも非常に真剣でなければならないと思われます。なぜならそれは私達を全く違う領域に導くだろうからです。しかし単に知的な楽しみのためにこの問題をもてあそぶなら、、殆ど得るものはないでしょう。

 この問題について自分は非常に真剣なのだが、世界中の非常に多くの他の人たちが真剣でなく、それについて何かをする用意ができていない限り、自分のすることは何の役に立つのだろうかと感じるかもしれません。私は他の人たちがそれを真剣に取り上げようが取り上げまいが気にしません。私はそれを真剣に取り上げ、それで十分です。そんなことまで私の知ったことではありません。私自身が、一人の人間として、この暴力の問題について強く感じており、自分自身の中で自分が暴力的でないのを見たいのです ― しかし私はあなたや他の人に「暴力的であってはいけない」と言うことは出来ません。それは意味がありません ― あなたが自分でそれを望まない限り。そこであなた自身がこの暴力の問題を理解することを本当に欲するなら、探求の旅を一緒に続けましょう。


 この暴力の問題は外側にあるのでしょうか、それともここにあるのでしょうか? 問題を外部の世界で解決したいのでしょうか、それとも暴力自体を、それが自分の中にあるので問題にしているのでしょうか? 自分の中で暴力から自由なら、「暴力、取得欲、貪欲、羨望、残虐性に満ちた世界で、私はどうやって生きていけばよいのだろうか? 私は破滅させられるのではないだろうか?」という質問が起きます。それは必然的に問われる当然の質問です。そのような質問をするとき、あなたは実際には平和に生きていないように私には思われます。平和に生きているなら全く何の問題もありません。軍隊に参加するのを拒否するので投獄されるかも知れないし、戦うのを拒否するので銃殺されるかも知れません ― しかしこれは問題ではありません。あなたは銃殺されます。このことを理解することは途方もなく重要です。

 私達は暴力を事実として、観念としてではなく、人間に存在する事実として理解しようとしており、そして人間とは私自身です。そして問題に入って行くには私はそれに対して完全に傷つきやすく、開いていなければなりません、私は自分自身を自分自身にさらけ出さなければなりません ― 必ずしも私をあなたにさらけ出すのではなく、何故ならあなたは興味がないかもしれませんから ― しかし私は、どの地点でも止まってもうこれ以上行けないと言うことのない、終わりまでこのものを正確に見ることを要求する心の状態になければなりません。

 さて私が暴力的な人間であるということが私に明らかでなければなりません。私は、怒りの中の暴力、私の性的要求の中の暴力、敵意を生み出す憎悪の中の暴力、嫉妬の中の暴力などを経験しました ― 私は経験しました。私は知りました。そして自分自身に言います。「私はこの問題全体を戦争に現れたただの一断片だけでなく、動物にも存在し私もその一部である人間のこの攻撃性を理解したい」と。

 暴力は単に他の人を殺すことではありません。とげとげしい言葉を使うとき、人を無視するそぶりをするとき、恐怖があるため服従するとき、それは暴力です。ですから暴力は単に神の名のもとでの、社会や国家の名のもとでの、組織的な虐殺だけではありません。暴力はずっと微妙で、ずっと深く、そして私達は暴力のまさにその深みを調べようとしているのです。

 自分をインド人またはイスラム教徒、キリスト教徒、ヨーロッパ人あるいは他の何であれそう呼ぶとき、あなたは暴力的です。なぜそれが暴力的なのか分かりますか? なぜなら自分を残りの人間から分離しているからです。自分を信念、国籍、伝統、によって分離するとき、それは暴力を生みます。それゆえ暴力を理解しようと努めている人はどの国にも、どの宗教、どの政党や部分的な組織にも属しません。その人は人間の全的理解に関心があるのです。

 さて暴力について二つの主な考え方があります。その一つは「暴力は人間の生得のものである」と言います。そしてもう一つは「人間がその中で生きている社会的文化的遺産の結果である」と言います。私達はどちらの派に属するかに関わってはいません ― それは重要なことではありません。重要なことは私達が暴力的であるという事実であり、その理由ではありません。

(続く)



[25701] Re:[25699] [25692] 既知からの自由5−4 投稿者:宮啓 投稿日:2018/07/26(Thu) 09:19  

> > 5章の4 [恐怖の終わり]
> >
> >  恐怖をどんな結論もなしに、恐怖について蓄積してきた知識のどんな干渉もなしに見つめることができますか? できないのなら、その時あなたが見つめているものは過去であり、恐怖ではありません。出来るならば、その時恐怖を初めて過去の干渉なしに見つめているのです。
>
> はい。


 非難・正当化なしに見る場合において、恐怖を非難・正当化なしに見ることは難しい。条件付けは恐怖の瞬間後、非難し、回避、抵抗、抑圧、反撃、怒りの反応を生じさせる。


> >  心が非常に静かなときにのみ見つめることができます。誰かが言っていることを聴くことができるのは、心がそれ自体でおしゃべりしていたり、それ自体の問題や心配について対話をしたりしていない時だけだというのと丁度同じです。同じように自分の恐怖を、それを解決しようと努めることなしに、その反対物、勇気を持ち込んだりせずに見ることができますか ― 実際にそれを見、それから逃げようとしないことができますか? 「恐怖を制御しなければならない、それを抜け出さなければならない、それを理解しなければならない」という時、あなたはそれから逃げようとしているのです。
>
> はい。


 表立ってある恐怖はその存在に気づきやすいが、深層の恐怖はふっとしたときや夢の中で気づく。
 そのふっとしたときとは、心が非常に静かなときではなかろうか。
 あるいは、過去の恐怖と関連する事柄を見たり聞いたりすることで思い出し、その恐怖が蘇り、その深層の恐怖に気づくこともある。



> >  あなたは雲や、木や、川の流れを、それらは自分にとってあまり重要でないので、かなり静かな心で観察することができますが、自分自身を見つめることは、そこでは要求はとても実際的だし、反応はとても素早いので、遥かに困難です。そこで恐怖、または絶望、孤独、嫉妬、あるいは何かほかの醜い心の状態に直接接触するとき、心がそれを見るのに充分静かなほど、あなたはそれを非常に完全に見ることができるでしょうか?
>
> 反応を見ることの困難さが身に沁みるがごとく示されました。


 >雲や、木や、川の流れを、それらは自分にとってあまり重要でない−−、これを非難・正当化なしに見ることは難しくない。

 >恐怖、または絶望、孤独、嫉妬、あるいは何かほかの醜い心−−、これを非難・正当化なしに見ることができるか。

 条件付けは非難・正当化の反応を引き起こすように働くのではないだろうか。

 他者の>恐怖、または絶望、孤独、嫉妬、あるいは何かほかの醜い心−−そのような心。あるいは映画やドラマの中の登場人物のそれに対しても、条件付けは非難・正当化の反応を引き起こす。




> >  心は恐怖の種々の形ではなく、恐怖を知覚できるでしょうか ― あなたが恐れているものではなく、恐怖全体を知覚できるでしょうか? 恐怖の細部だけを見たり、自分の恐怖を一つ一つ処理しようとするなら、恐怖と共に生きることを学ぶという核心には決して到達しないでしょう。
>
> ・・・



 もしも、非難・正当化しないならば、>恐怖と共に生きる−−、これを避けることはできないのではないだろうか。


 隣に幽霊が立っていたとして、逃げ出さずに、共に生き、観察する。
 死を覚悟していなければできない。自我であれば、必ず回避・抵抗・反撃の反応を起こす。


> >  恐怖のような生きているものと共に生きるためには、途方もなく敏感で、何の結論を持たない、それゆえ恐怖のあらゆる動きについて行くことができる心とハートが必要です。そして観察しそれと共に生きるなら ― そしてこれはまる一日はかかりません。恐怖の全性質を知るのは一分か一秒でできます ― 非常に完全にそれと共に生きるならあなたは当然尋ねます。「恐怖と共に生きている実体は誰なのか? 恐怖を観察し、恐怖の中心的な事実に気づいているだけでなく、様々な形の恐怖の動きの全てを見つめているのは誰なのか? 観察者は、自分自身についてのたくさんの知識と情報を蓄積してきた死んだ実体、静的な存在なのだろうか、そして恐怖の動きを観察し、それと共に生きているのはその死んだものなのだろうか? 観察者は過去のものなのだろうか、それとも彼は生きているものなのだろうか?」あなたの答えは何でしょうか? 私に答えないで、自分自身に答えてください。あなた、観察者、は生きたものを見つめている死んだ実体ですか、それとも生きたものを見つめている生きているものでしょうか? なぜなら観察者には二つの状態が存在するからです。
>
> ・・・


 観察者@:生きたものを見つめている死んだ実体

 観察者A:生きたものを見つめている生きているもの



> >  観察者は恐怖を望まない検閲官です。観察者は恐怖についての彼の全経験の総体です。それゆえ観察者は恐怖と呼ぶそのものとは別です。それらの間には空間があります。観察者は永久に恐怖を克服しようとし、あるいはそれから逃げようとします。そしてそのために彼自身と恐怖の間の戦いがあります ― この戦いはエネルギーの大変な浪費です。
>
> 死んだ(過去のものの束である)観察者の場合。


 恐怖以外にも、>絶望、孤独、嫉妬、あるいは何かほかの醜い心−−、これらを非難・正当化して見る観察者はエネルギーの浪費の反応を保持する。
 


> >  見つめるにつれて、観察者は何の確実性も実質もない単なる観念と記憶の束に過ぎないが、しかし恐怖は現実であること、そして自分が事実を抽象で理解しようとしていることを学びます。そんなことはもちろん出来ないのですが。しかし、実際のところ、「私は怖れている」という観察者は観察されるものつまり恐怖と何か異なるのでしょうか? 観察者は恐怖です。そしてそのことが実感されるときもはや恐怖を免れようとする努力の中でのエネルギーの浪費はなく、観察者と観察されるものの間の時空の隔たりは消えます。自分が恐怖の一部であり、それと別のものではないことを ― 自分が恐怖であることを ― 見るとき、あなたはそれについて何もすることはできません。その時恐怖は完全に終わります。
>
> >そして自分が事実を抽象で理解しようとしていることを学びます。−− 言葉であるいは観念的に理解しようとしていることがわかる。それはナンセンスなのだが。
>
> しかし恐怖は現実である。私が心理的に恐れている時、私が生きた恐怖です。この言い方はどうですか?
>
> > (5章 終わり)


 この>恐怖、または絶望、孤独、嫉妬、あるいは何かほかの醜い心の状態に直接接触するとき、心がそれを見るのに充分静かなほど、あなたはそれを非常に完全に見ることができるでしょうか?−−、このことを通して、自我が終焉し、観察者は観察されるものである場へと移行する。

 すなわち、時間の世界から時間がない世界への移行。次元の転換。

 ここで述べられていることが真理の核心事項であるように思われる。


[25700] 変容 投稿者:無明 投稿日:2018/07/26(Thu) 09:02  

> > 変容とか、大げさな言葉を繰り出す必要はない。
> > 変容したければどうぞ。としかいいようがない。
> > いつもいうが、この世に常住するものはない。すべてにおいて変化している。何で改めて変容するのか。
>
> 変化しているのは限定された領域の中にあって変容はないという事。(ではないだろうか?)

限定された領域?


参考

花岡修平

「大いなる変容とは、あるべき何かになる事ではなく、あるがままに戻る事です。赤ちゃんの無為に戻る事です。分離がそのように、倒錯を生み出すのです。」以下略。


単純に人間というものをとらえてみると、年月がたてば、我々は歳をとる。年輪を重ねるということです。「昨日」と「今」とは同じではない。
見た目で変化のないような「石」でさえも、内部の原子構造が変化する。長い年月によると風化します。
このようにミクロの世界もマクロの世界も変化している。
わたしがいうのは当たり前の現実世界。

仏教で言われているのは、とっくに過ぎ去っていく思考に、いつまでもしがみつくのが「迷い」と称している。
思いと事実は違う。

花岡氏のいうのはあるがままに戻ることが変容。
精神世界でいう「変容」というのは願望が含まれているのではないか、と問いかけている。例えば「悟りを得たい」「悟りたい」という願望。





[25699] Re:[25692] 既知からの自由5−4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/25(Wed) 21:20  

> 5章の4 [恐怖の終わり]
>
>  恐怖をどんな結論もなしに、恐怖について蓄積してきた知識のどんな干渉もなしに見つめることができますか? できないのなら、その時あなたが見つめているものは過去であり、恐怖ではありません。出来るならば、その時恐怖を初めて過去の干渉なしに見つめているのです。

はい。

>  心が非常に静かなときにのみ見つめることができます。誰かが言っていることを聴くことができるのは、心がそれ自体でおしゃべりしていたり、それ自体の問題や心配について対話をしたりしていない時だけだというのと丁度同じです。同じように自分の恐怖を、それを解決しようと努めることなしに、その反対物、勇気を持ち込んだりせずに見ることができますか ― 実際にそれを見、それから逃げようとしないことができますか? 「恐怖を制御しなければならない、それを抜け出さなければならない、それを理解しなければならない」という時、あなたはそれから逃げようとしているのです。

はい。

>  あなたは雲や、木や、川の流れを、それらは自分にとってあまり重要でないので、かなり静かな心で観察することができますが、自分自身を見つめることは、そこでは要求はとても実際的だし、反応はとても素早いので、遥かに困難です。そこで恐怖、または絶望、孤独、嫉妬、あるいは何かほかの醜い心の状態に直接接触するとき、心がそれを見るのに充分静かなほど、あなたはそれを非常に完全に見ることができるでしょうか?

反応を見ることの困難さが身に沁みるがごとく示されました。

>  心は恐怖の種々の形ではなく、恐怖を知覚できるでしょうか ― あなたが恐れているものではなく、恐怖全体を知覚できるでしょうか? 恐怖の細部だけを見たり、自分の恐怖を一つ一つ処理しようとするなら、恐怖と共に生きることを学ぶという核心には決して到達しないでしょう。

・・・


>  恐怖のような生きているものと共に生きるためには、途方もなく敏感で、何の結論を持たない、それゆえ恐怖のあらゆる動きについて行くことができる心とハートが必要です。そして観察しそれと共に生きるなら ― そしてこれはまる一日はかかりません。恐怖の全性質を知るのは一分か一秒でできます ― 非常に完全にそれと共に生きるならあなたは当然尋ねます。「恐怖と共に生きている実体は誰なのか? 恐怖を観察し、恐怖の中心的な事実に気づいているだけでなく、様々な形の恐怖の動きの全てを見つめているのは誰なのか? 観察者は、自分自身についてのたくさんの知識と情報を蓄積してきた死んだ実体、静的な存在なのだろうか、そして恐怖の動きを観察し、それと共に生きているのはその死んだものなのだろうか? 観察者は過去のものなのだろうか、それとも彼は生きているものなのだろうか?」あなたの答えは何でしょうか? 私に答えないで、自分自身に答えてください。あなた、観察者、は生きたものを見つめている死んだ実体ですか、それとも生きたものを見つめている生きているものでしょうか? なぜなら観察者には二つの状態が存在するからです。

・・・

>  観察者は恐怖を望まない検閲官です。観察者は恐怖についての彼の全経験の総体です。それゆえ観察者は恐怖と呼ぶそのものとは別です。それらの間には空間があります。観察者は永久に恐怖を克服しようとし、あるいはそれから逃げようとします。そしてそのために彼自身と恐怖の間の戦いがあります ― この戦いはエネルギーの大変な浪費です。

死んだ(過去のものの束である)観察者の場合。

>  見つめるにつれて、観察者は何の確実性も実質もない単なる観念と記憶の束に過ぎないが、しかし恐怖は現実であること、そして自分が事実を抽象で理解しようとしていることを学びます。そんなことはもちろん出来ないのですが。しかし、実際のところ、「私は怖れている」という観察者は観察されるものつまり恐怖と何か異なるのでしょうか? 観察者は恐怖です。そしてそのことが実感されるときもはや恐怖を免れようとする努力の中でのエネルギーの浪費はなく、観察者と観察されるものの間の時空の隔たりは消えます。自分が恐怖の一部であり、それと別のものではないことを ― 自分が恐怖であることを ― 見るとき、あなたはそれについて何もすることはできません。その時恐怖は完全に終わります。

>そして自分が事実を抽象で理解しようとしていることを学びます。−− 言葉であるいは観念的に理解しようとしていることがわかる。それはナンセンスなのだが。

しかし恐怖は現実である。私が心理的に恐れている時、私が生きた恐怖です。この言い方はどうですか?

> (5章 終わり)


[25698] Re:[25697] 何が見ているのか 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/25(Wed) 20:26  

> 変容とか、大げさな言葉を繰り出す必要はない。
> 変容したければどうぞ。としかいいようがない。
> いつもいうが、この世に常住するものはない。すべてにおいて変化している。何で改めて変容するのか。

変化しているのは限定された領域の中にあって変容はないという事。(ではないだろうか?)


[25697] 何が見ているのか 投稿者:無明 投稿日:2018/07/25(Wed) 10:24  

ようするに、私たちは毎日見ている、周りの世界に対して、自分の繰り出した思考で見ているのではないか、というのが、古今の覚者、賢者の私たちに対する問いかけではないでしょうか。たんなる問いかけ。それを自身に問う。
変容とか、大げさな言葉を繰り出す必要はない。
変容したければどうぞ。としかいいようがない。
いつもいうが、この世に常住するものはない。すべてにおいて変化している。何で改めて変容するのか。

簡単に言うと、思考のスクリーンで見ている。よくいう色眼鏡をかけて世界を見ている。
雷親父が怖いのは、自分が勝手に「怖い」という形容詞をつけている。
事実はそこに親父がいるのみ。

それをわざわざ、「観察者とは誰か?」とか、「わたしは誰か」なんて、かっこつけていう必要はありません。

禅坊主の禅門答は得意技。かんたんなことをあえて難しくいう。俺は悟っているといわんばかりに。ようするにエゴ。優越意識の表れだろう。悟りたいというのは一種の願望。エゴ。
精神主義者はこのことに気づかない。
「自己」というものを益々意識してしまうパラドックスに陥る。
その証拠に、一般の普通の人は、何か問題が起きた以外は「自己」は意識しない。

思考者とか、思考が見ているという表現もそうです。
思考を見ている、という表言ということならわからないではないが、思考「が」見ているという言い方は何のこっちゃっ、ということになる。渡辺氏がよく使う。


こうして毎日思考を使っているのは、まぎれもなく生身の自分自身です。一般の人間は思考に振りまわされて生きているだけ。
人と接しているとよくわかる。だからといってその人にとやかくいうことはない。


誰が見ているのか?「自分自身」にきまっているだろう。
「思考」ではない。「わたし」でもない。
自分自身の繰り出す「思い」で世界を見ている。

恐怖を見ている、というのもそう。
お化けが怖い。そこにお化けが怖い「自分」がいるということ。
見ている対象は「お化け」。お岩さんを想像すればよくわかる
その「お化け」に対して、あれこれ評価判断しているのが自分の思考。「怖い」という思考。



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