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[26146] Re:[26145] 既知からの自由15−3 投稿者:南方 投稿日:2018/10/28(Sun) 09:12  

> 15章−3 [瞑想]
>
>  この全問題を調べることが瞑想です。この言葉は東洋でも西洋でも、最も残念なやり方で使われてきました。様々な瞑想の学校、種々の方法と方式があります。「自分の親指の動きを見守りなさい。それを見守って、見守って、見守りなさい」という方式があります。他の方式があり、それは規則的に呼吸したり、気づきを練習しながらある特定の姿勢で座ることを主唱します。これらはみんな完全に機械的です。別の方法はあなたにある言葉を与え、それを繰り返すことを続けるなら、ある並外れた超越的な経験をするだろうと教えます。これは全くのナンセンスです。それは自己催眠の一形態です。アーメンとかオームとかコカ・コーラと無限に繰り返すことによって明らかにある経験を持つでしょう。なぜなら繰り返すことによって心は静かになるからです。それはよく知られた現象で、インドで数千年の間行われてきました ― マントラ・ヨガと呼ばれます。繰り返すことによって心をおとなしく穏やかに誘導することができますが、それはなお貧弱で、見掛け倒しで、小さな心です。庭で拾った一本の棒切れをマントルピースの上に置き、それに毎日花を供えても同様でしょう。一か月であなたは棒切れを拝んでおり、その前に花を置かないことは罪になるでしょう。
>
>  瞑想は何かの方式に従うことではありません。絶え間のない繰り返しや模倣ではありません。瞑想は集中ではありません。集中、すなわち心を一つの思考に固定し、他の思考をみんな追い出すことを学ぶのを生徒に強要するのは瞑想の教師のお気に入りの手始めの手の一つです。これは最も愚かな醜いことであり、学校の生徒でも、強要されるのですることができます。それは集中しなけれがならないという一方の主張と、他方あらゆる種類のほかの物事にさまよう心との間に、いつも戦いがあることを意味します。ところが、心がどこにさまよおうが、あなたは心のあらゆる動きに注意深くなければならないのです。心がさ迷っているときは、それはあなたが何か他のものに関心があることを意味します。
>
>
>  瞑想は驚くほど油断のない心を必要とします。瞑想はあらゆる形の断片化がやんだ生の全体の理解です。瞑想は思考の制御ではありません。というのは思考が制御されるとき、それは心の中に葛藤を引き起こすからです。しかし思考の構造と起源を理解するとき、それについては既に検討してきましたが、そのとき思考は干渉しないでしょう。思考の構造の理解こそが思考の規律そのものであり、それは瞑想です。
>
>  瞑想はあらゆる思考とあらゆる感情に気づいていることです。決して正しいとか間違っているとか言わず、ただ見守り、共に動いていることです。その見守ることの中であなたは思考と感情の動きの全体を理解し始めます。そしてこの気づきから沈黙が生じます。思考によって組み立てられた沈黙は停滞であり、死んでいますが、しかし思考がそれ自体の始まり、自分自身の性質を理解し、どのようにあらゆる思考が決して自由でなく常に古いかを理解するときに生じる沈黙は ― この沈黙はその中に瞑想者が全くいない瞑想です。というのは心がそれ自体から中の過去のものを出して空っぽにしたからです。
>
>  この本を丸一時間も注意深く読んできたなら、それは瞑想です。単にいくつかの言葉を持ち去り、後で検討するためにいくつかの考えを集めただけなら、それはもはや瞑想ではありません。瞑想はあらゆるものを完全な注意で、単に一部ではなく、全体的に熟視している心の状態です。そして誰もあなたにどうやって注意深くあるか、教えることはできません。何かの方式がどうやって注意深くあるか教えるなら、その時その方式に注意深いので、それは注意ではありません。瞑想は生の中の最も偉大な技術の一つです ― たぶん最大のものです。そして人は誰かから瞑想を学ぶことはとてもできません。それがその美しさです。それは技術を持たず、したがって権威を持ちません。自分自身について学ぶとき、自分自身を見守るとき、自分の歩き方、どのように食べるか、何を言うか、噂話、憎しみ、嫉妬を見守るとき ― 自分自身の中のそのすべてに、どんな選択もなしに気づいているなら。それは瞑想の一部です。
>
>  それゆえ瞑想はバスの中で座っているときや光と影に満ちた森の中を歩いているとき、あるいは鳥が歌っているのを聞いているときや妻や子供の顔を見ているときに起こり得るのです。
>
>  瞑想の理解の中に愛があります。そして愛は方式、習慣、方法に従うことの産物ではありません。愛は思考によって養成することはできません。愛はおそらく完全な沈黙、瞑想者が全くいない沈黙があるとき生じることができます。そして心は自分自身の動きを思考と感情として理解するときのみ、心は沈黙していることができます。思考と感情のこの動きを理解するためには、それを観察する中に非難はあり得ません。そのようなやり方で観察することが規律であり、そしてそのような規律は、順応の規律ではなく、流動的で、自由です。
>
> (終わり)


言葉は精神と物質を繋ぐ架け橋のようなものです。ですから、何かの言葉を発したときにその言葉が肉体に影響を及ぼすのは当然です。
そういう意味で考えるとマントラも無意味ではない。それは古代の叡知からくる薬のようなものである。心が静かになるようなものではない。

Kは非物質から産まれる物質である言葉のことをあまりに短絡的に捉えていないだろうか。


[26145] 既知からの自由15−3 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/28(Sun) 08:30  

15章−3 [瞑想]

 この全問題を調べることが瞑想です。この言葉は東洋でも西洋でも、最も残念なやり方で使われてきました。様々な瞑想の学校、種々の方法と方式があります。「自分の親指の動きを見守りなさい。それを見守って、見守って、見守りなさい」という方式があります。他の方式があり、それは規則的に呼吸したり、気づきを練習しながらある特定の姿勢で座ることを主唱します。これらはみんな完全に機械的です。別の方法はあなたにある言葉を与え、それを繰り返すことを続けるなら、ある並外れた超越的な経験をするだろうと教えます。これは全くのナンセンスです。それは自己催眠の一形態です。アーメンとかオームとかコカ・コーラと無限に繰り返すことによって明らかにある経験を持つでしょう。なぜなら繰り返すことによって心は静かになるからです。それはよく知られた現象で、インドで数千年の間行われてきました ― マントラ・ヨガと呼ばれます。繰り返すことによって心をおとなしく穏やかに誘導することができますが、それはなお貧弱で、見掛け倒しで、小さな心です。庭で拾った一本の棒切れをマントルピースの上に置き、それに毎日花を供えても同様でしょう。一か月であなたは棒切れを拝んでおり、その前に花を置かないことは罪になるでしょう。

 瞑想は何かの方式に従うことではありません。絶え間のない繰り返しや模倣ではありません。瞑想は集中ではありません。集中、すなわち心を一つの思考に固定し、他の思考をみんな追い出すことを学ぶのを生徒に強要するのは瞑想の教師のお気に入りの手始めの手の一つです。これは最も愚かな醜いことであり、学校の生徒でも、強要されるのですることができます。それは集中しなけれがならないという一方の主張と、他方あらゆる種類のほかの物事にさまよう心との間に、いつも戦いがあることを意味します。ところが、心がどこにさまよおうが、あなたは心のあらゆる動きに注意深くなければならないのです。心がさ迷っているときは、それはあなたが何か他のものに関心があることを意味します。


 瞑想は驚くほど油断のない心を必要とします。瞑想はあらゆる形の断片化がやんだ生の全体の理解です。瞑想は思考の制御ではありません。というのは思考が制御されるとき、それは心の中に葛藤を引き起こすからです。しかし思考の構造と起源を理解するとき、それについては既に検討してきましたが、そのとき思考は干渉しないでしょう。思考の構造の理解こそが思考の規律そのものであり、それは瞑想です。

 瞑想はあらゆる思考とあらゆる感情に気づいていることです。決して正しいとか間違っているとか言わず、ただ見守り、共に動いていることです。その見守ることの中であなたは思考と感情の動きの全体を理解し始めます。そしてこの気づきから沈黙が生じます。思考によって組み立てられた沈黙は停滞であり、死んでいますが、しかし思考がそれ自体の始まり、自分自身の性質を理解し、どのようにあらゆる思考が決して自由でなく常に古いかを理解するときに生じる沈黙は ― この沈黙はその中に瞑想者が全くいない瞑想です。というのは心がそれ自体から中の過去のものを出して空っぽにしたからです。

 この本を丸一時間も注意深く読んできたなら、それは瞑想です。単にいくつかの言葉を持ち去り、後で検討するためにいくつかの考えを集めただけなら、それはもはや瞑想ではありません。瞑想はあらゆるものを完全な注意で、単に一部ではなく、全体的に熟視している心の状態です。そして誰もあなたにどうやって注意深くあるか、教えることはできません。何かの方式がどうやって注意深くあるか教えるなら、その時その方式に注意深いので、それは注意ではありません。瞑想は生の中の最も偉大な技術の一つです ― たぶん最大のものです。そして人は誰かから瞑想を学ぶことはとてもできません。それがその美しさです。それは技術を持たず、したがって権威を持ちません。自分自身について学ぶとき、自分自身を見守るとき、自分の歩き方、どのように食べるか、何を言うか、噂話、憎しみ、嫉妬を見守るとき ― 自分自身の中のそのすべてに、どんな選択もなしに気づいているなら、それは瞑想の一部です。

 それゆえ瞑想はバスの中で座っているときや光と影に満ちた森の中を歩いているとき、あるいは鳥が歌っているのを聞いているときや妻や子供の顔を見ているときに起こり得るのです。

 瞑想の理解の中に愛があります。そして愛は方式、習慣、方法に従うことの産物ではありません。愛は思考によって養成することはできません。愛はおそらく完全な沈黙、瞑想者が全くいない沈黙があるとき生じることができます。そして心は自分自身の動きを思考と感情として理解するときのみ、心は沈黙していることができます。思考と感情のこの動きを理解するためには、それを観察する中に非難はあり得ません。そのようなやり方で観察することが規律であり、そしてそのような規律は、順応の規律ではなく、流動的で、自由です。

(終わり)


[26144] Re:[26143] [26132] 既知からの自由15−2 投稿者:宮啓 投稿日:2018/10/27(Sat) 21:13  

> > 15章−2 [満足] [二重性]
> >
> >  さて、もしどんな経験も全く持たないならば、何が起きるでしょうか? 私達は自分を目覚めさせておくために経験、挑戦に依存しています。もし自分自身の中の葛藤、変化、妨害がなければ私達はみんなぐっすり眠ってしまうでしょう。それゆえ挑戦は私達の多くにとって必要です。私達は挑戦がないと心は愚かで鈍重になるだろうと考え、それゆえ、自分により興奮と強さを与えるため、自分の心をより強くするため、挑戦や経験に依存します。しかし実際には、自分を目覚めさせておくために挑戦や経験にこのように依存することは心をより鈍くするだけです ― それは少しも私達を本当に目覚めさせておきはしません。そこで私は自分自身に尋ねます。全的に目覚めていることは可能でしょうか。自分の存在のいくつかの点で周辺的にだけでなく、どんな挑戦や経験もなしで、全的に目覚めていることが? このことは肉体的にも心理的にも多大の感受性を意味します。それは全ての要求から自由でなければならないことを意味します。というのは要求する瞬間、経験するからです。そして要求と満足から自由であることは、自分自身の調査と、要求の全体の性質の理解を必要とします。
>
>
> 私達は刺激に頼り興奮の生を送っている。本当に目覚めているのではなく、刺激と興奮で鈍感になっている。
> 本当に目覚めることが訪れるには刺激、興奮を求める心の要求から自由にならなければならない。要求の全体の理解を必要とする。
>  我々が普段よく考えないで適当に生きていることが覆いをとって明らかにされようとしている。
>
>
> >  要求は二重性から生まれます。「私は不幸だから幸福にならなければならない」というように。幸福にならなければならないというその要求そのものの中に不幸があります。善であろうと努力するとき、その善そのものの中に反対のもの、悪があります。主張されたあらゆるものはそれ自身の反対のものを含んでおり、克服するための努力は戦っている相手を強めます。あなたが真理あるいは実在の経験を求める時、まさにその要求そのものがあるがままのものに対するあなたの不満から生まれます。したがってその要求が反対のものをつくり出すのです。そして反対のものの中にはあるがままであったものがあります。それゆえ人はこの絶え間ない要求から自由でなければなりません。さもなければ二重性の回廊に終わりはないでしょう。このことは自分自身を非常に完全に知り、その結果心はもはや何も求めてはいないということを意味します。
>
>
> 要求についてしっかり述べられています。理解のあるところ、心はもはや要求しません。
>
>
> >  そのような心は経験を求めません。それは挑戦を求めたり挑戦を知ることができません。それは「私は眠っている」とか「私は目覚めている」とかは言いません。それは完全にあるがままです。欲求不満で、狭い、浅い心、条件づけられた心のみが常により以上のものを求めています。ではこの世界の中でより以上のものを求めることなしに生きることが可能でしょうか? ― こののべつ幕なしの比較なしに。確かに可能ですか? しかし人は自分で見出さなければなりません。
>
>
> もはや要求しない人の実際が述べられ、このように生きることが可能ですかと問われます。
> > しかし人は自分で見出さなければなりません。−−


 恐怖や不安、怒りや悲しみ等々のマイナス思考が出てきたときに、ふとそれに気づき、対応することができる。崖を見るように毒蛇を見るように、ぞっとして瞬時にそれに気づき離れることができる。

 ところが、要求と満足の希求は、そのようなマイナス思考的ではないので、見逃しがちだ。
 気づくと要求と希求に囚われ、それに気づいてもなかなか逃れられない。
 延々と続く思考。

 思考が止むには、時間が終わるには、そのようなマイナス思考的ではない動きにも油断なくきづく必要があるようだ。。

 目覚め続けているためにも。



> > (続く)


[26143] Re:[26132] 既知からの自由15−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/27(Sat) 15:18  

> 15章−2 [満足] [二重性]
>
>  さて、もしどんな経験も全く持たないならば、何が起きるでしょうか? 私達は自分を目覚めさせておくために経験、挑戦に依存しています。もし自分自身の中の葛藤、変化、妨害がなければ私達はみんなぐっすり眠ってしまうでしょう。それゆえ挑戦は私達の多くにとって必要です。私達は挑戦がないと心は愚かで鈍重になるだろうと考え、それゆえ、自分により興奮と強さを与えるため、自分の心をより強くするため、挑戦や経験に依存します。しかし実際には、自分を目覚めさせておくために挑戦や経験にこのように依存することは心をより鈍くするだけです ― それは少しも私達を本当に目覚めさせておきはしません。そこで私は自分自身に尋ねます。全的に目覚めていることは可能でしょうか。自分の存在のいくつかの点で周辺的にだけでなく、どんな挑戦や経験もなしで、全的に目覚めていることが? このことは肉体的にも心理的にも多大の感受性を意味します。それは全ての要求から自由でなければならないことを意味します。というのは要求する瞬間、経験するからです。そして要求と満足から自由であることは、自分自身の調査と、要求の全体の性質の理解を必要とします。


私達は刺激に頼り興奮の生を送っている。本当に目覚めているのではなく、刺激と興奮で鈍感になっている。
本当に目覚めることが訪れるには刺激、興奮を求める心の要求から自由にならなければならない。要求の全体の理解を必要とする。
 我々が普段よく考えないで適当に生きていることが覆いをとって明らかにされようとしている。


>  要求は二重性から生まれます。「私は不幸だから幸福にならなければならない」というように。幸福にならなければならないというその要求そのものの中に不幸があります。善であろうと努力するとき、その善そのものの中に反対のもの、悪があります。主張されたあらゆるものはそれ自身の反対のものを含んでおり、克服するための努力は戦っている相手を強めます。あなたが真理あるいは実在の経験を求める時、まさにその要求そのものがあるがままのものに対するあなたの不満から生まれます。したがってその要求が反対のものをつくり出すのです。そして反対のものの中にはあるがままであったものがあります。それゆえ人はこの絶え間ない要求から自由でなければなりません。さもなければ二重性の回廊に終わりはないでしょう。このことは自分自身を非常に完全に知り、その結果心はもはや何も求めてはいないということを意味します。


要求についてしっかり述べられています。理解のあるところ、心はもはや要求しません。


>  そのような心は経験を求めません。それは挑戦を求めたり挑戦を知ることができません。それは「私は眠っている」とか「私は目覚めている」とかは言いません。それは完全にあるがままです。欲求不満で、狭い、浅い心、条件づけられた心のみが常により以上のものを求めています。ではこの世界の中でより以上のものを求めることなしに生きることが可能でしょうか? ― こののべつ幕なしの比較なしに。確かに可能ですか? しかし人は自分で見出さなければなりません。


もはや要求しない人の実際が述べられ、このように生きることが可能ですかと問われます。
> しかし人は自分で見出さなければなりません。−−

> (続く)


[26142] Re:[26139] [26136] 不思議な共感作用 投稿者:無明 投稿日:2018/10/27(Sat) 14:58  

> > 人と思い切り争って喧嘩したとき、人とお互いに、言いたいことを言い合って、出しあったとき、そのあと、不思議な共感作用に包まれたことはないだろうか。憎しみから親しみへの転換である。
>
> 思い切り言い合ったので、蓄積した思いを吐き出し、一種の浄化が行われたのだろうか。しかし思いを蓄積すること自体がやまったわけではないので、また相手に積もった思いをぶちまけるのでははた迷惑ではないだろうか。

お互いに真の共感作用が生まれれば、二度と争うことはありません。
これが相互理解。
>
> > しかし、言いたいことは言えるのは親友と呼べる一部の人たちだけである。会社でも、学校ではもちろん、家庭、家族であっ てでも、言いたいことを言えるような間柄ではない。
> > 例えば、こういうことをいうと、相手が傷つくのではないかと。
> > 人は人に嫌われたくないという思いをもっている。つまり「いい人」を装うことが習慣になっている。
> > ですから、人は思い切り喧嘩をすることはない。仲直りもない。
> > 嫌いな奴は嫌いな奴で終わりである。それもイメージとは気づかずに。
> >
> > あるエンカウンターの集まりで、見知らぬ男女が集まり、一週間の合宿を行なったことがあった。初めては、ばり罵倒、悪口の応酬。お互い言いたいことが言えると楽になったのか、最後は不思議な共感が生まれ、別れるときは、互いに号泣する有様だ。あまりに変わりようにびっくり。みんな仲良く人類皆兄弟という感じだった。
>
> しばらくするとまたその経験を繰り返し持ちたくなったりしない?

二度とありません。先にも述べたように、真の共感作用が生まれれば、本当の親友になるということです。

しかし、大多数の人間は、内に秘め事を抱えながら一生を終わります。長年、一緒に住んでいる夫婦ですら、そうだというから驚きます。所詮は他人ですか。
言いたいことを言い合えるには、小学生の同期だけですね。
なんでも相談できる仲。社会人では、いません。親友と呼べるのは。


[26141] Re:[26140] どうしても 投稿者:南方 投稿日:2018/10/27(Sat) 14:36  

> どうしても暇であることが苦痛だ。暇のままでいられればいいんだろうに。


今回はこれをテーマに悟りを開こうと思う。


[26140] どうしても 投稿者:南方 投稿日:2018/10/27(Sat) 14:24  

どうしても暇であることが苦痛だ。暇のままでいられればいいんだろうに。


[26139] Re:[26136] 不思議な共感作用 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/26(Fri) 22:04  

> 人と思い切り争って喧嘩したとき、人とお互いに、言いたいことを言い合って、出しあったとき、そのあと、不思議な共感作用に包まれたことはないだろうか。憎しみから親しみへの転換である。

思い切り言い合ったので、蓄積した思いを吐き出し、一種の浄化が行われたのだろうか。しかし思いを蓄積すること自体がやまったわけではないので、また相手に積もった思いをぶちまけるのでははた迷惑ではないだろうか。

> しかし、言いたいことは言えるのは親友と呼べる一部の人たちだけである。会社でも、学校ではもちろん、家庭、家族であっ てでも、言いたいことを言えるような間柄ではない。
> 例えば、こういうことをいうと、相手が傷つくのではないかと。
> 人は人に嫌われたくないという思いをもっている。つまり「いい人」を装うことが習慣になっている。
> ですから、人は思い切り喧嘩をすることはない。仲直りもない。
> 嫌いな奴は嫌いな奴で終わりである。それもイメージとは気づかずに。
>
> あるエンカウンターの集まりで、見知らぬ男女が集まり、一週間の合宿を行なったことがあった。初めては、ばり罵倒、悪口の応酬。お互い言いたいことが言えると楽になったのか、最後は不思議な共感が生まれ、別れるときは、互いに号泣する有様だ。あまりに変わりようにびっくり。みんな仲良く人類皆兄弟という感じだった。

しばらくするとまたその経験を繰り返し持ちたくなったりしない?

# 二つ同文の投稿があったので一つを削除した。注意してください。


[26138] Re:[26135] [25864] 既知からの自由10−4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/26(Fri) 21:40  

> ここは重要な文章なので再掲。ここさえ十分に理解すれば、あとのクリシュナムルティの文章は、いらないだろう。とさえ思える。
>
> (実はこのとき、十分な議論がなされなかった。例の「横やり」で)
>
>
> > 10[愛]−4
> >
> >  この引き裂かれた砂漠のような世界の中では、快楽と欲望が最も大きな役割を演じるので愛はありません。それにもかかわらず愛なしには毎日の生活は意味がありません。そしてもし美がないなら、愛を持つことはできません。美は目で見る何かではありません ― 美しい木、美しい絵、美しい建物あるいは美しい女性ではありません。ハートと心が愛が何かを知るときのみ、美があります。愛と美のあの感覚なしに徳はなく、そしてあなたは欲することをし、社会を改良し、貧民を養っても一層の災厄を造り出しているだけであろうという事を非常によく知っています。というのは愛なしには自分自身のハートと心の中には醜さと貧しさがあるだけだからです。しかし愛と美があるときは、することは何であろうが正しく、何であろうが秩序があります。いかに愛するかを知っているなら、そのとき好きなことをすることが出来ます。なぜならそれがほかの問題をすべて解決するでしょうから。
> >
> >  そこで私たちは要点に達します。訓練なしに、思考なしに、強制なしに、どんな本やどんな教師や指導者もなしに、心は愛に出会うことが ― 美しい夕焼けに出会うようにそれに出会うことができるでしょうか? 私には一つのことが絶対に必要であり、そしてそれは動機なき情熱 ― ある献身や執着の結果でない情熱、渇望ではない情熱であると思われます。情熱が何か知らない人は決して愛を知らないでしょう。なぜなら愛は完全な自己放棄があるときのみ存在できるからです。
>
>  自己放棄といっても、世俗を捨てることではない。
>  マザーテレサのような愛の権化になることではない。
> >
> >  求めている心は情熱的な心ではなく、そして求めることなく愛に出会うことが、それを見いだす唯一の道です ― 知らずに、どんな努力や経験の結果としてでもなく愛と出会うことがです。その様な愛は、あなたは見出すでしょうが、時間のものではありません。そのような愛は個人的でまた非個人的であり、一つのものでありまた多数のものでもあります。香りを持つ花のように、その香りをかぐこともできるし、そばを通り過ぎることもできます。その花はあらゆる人のためにあり、そして深くその香りを吸い、喜びをもってそれを見る労をとる一人の人のためにあります。人が庭園の非常に近くにいようが非常に遠くにいようが、それは花にとって同じです。なぜなら花は芳香に満ちており、それゆえ花はあらゆる人と分かち合っていますから。
> >
> >  愛は新しい、新鮮な、生きている何かです。愛は昨日も明日も持ちません。愛は思考の混乱を超えています。愛が何であるかを知るのは天真爛漫な心のみです。そして天真爛漫な心は、天真爛漫でない世界の中で生きることができます。犠牲を通して、礼拝を通して、関係を通して、性を通して、あらゆる形の快楽と苦痛を通して、人間が果てしなく求めてきたこの途方もないものを見いだすことは、思考が自分自体を理解するに至り、自然に終わる時のみ可能です。そのとき愛は反対物を持たず、そのとき愛は葛藤を持ちません。
> >
> >  あなたは「その様な愛を私が見つけたなら、妻や子や家庭に何が起こるでしょうか? 彼らには安全がなければなりません」と尋ねるかも知れません。その様な質問をするとき、あなたは決して思考の領域の、意識の領域の外側にいたことがないのです。一度でもその領域の外側にいたことがあるなら、決してその様な質問はしないでしょう。なぜならそのとき、思考がなく、したがって時間がない愛が何か知るからです。この文章を魅了され、うっとりとして読むかもしれませんが、実際に思考と時間を超えることは ― それは悲しみを超えることを意味しますが ― 愛と呼ばれる違った次元があることに気づくことです。
> >
> 」思考と時間を超えるには、愛と呼ばれる違った次元があることに気づくだろう。
>  ここが重要。ようするに、違った次元がある。相対、二元を超えたもの。絶対愛。
>  ここがクリシュナムルティの言いたいところ。


引用文が少し違って、意味が取れない。
そのままに引用すると、>実際に思考と時間を超えることは愛と呼ばれる違った次元があることに気づくことです。 −−

これでよくわかった。思考と時間を超えると違った次元があるのに気づくのだが、それは愛と呼ばれているんだ。


>  強烈な気づき、とはまさに愛と呼ぶところの異質のエネルギー。
>
> (愛という言葉は様々なところで述べられてきた。世間的な好き嫌いとか、求める、求めないとか取引的な愛のことをいうのではないことはいうまでもない)
>
> >  しかしあなたはどうやってこの途方もない源泉に到達するか知りません ― そこで何をしますか?何をすべきかわからないなら、何もしないのではないでしょうか? まったく何も。そのとき内面的にあなたは完全に静かです。それが何を意味するかわかりますか? あなたは求めておらず、望んでおらず、追求していないことを意味します。中心はありません。そのとき愛があります。


これだけだとあおり言葉的に聞こえてしまう。15章は絶対必要だ。それにより理解となる。


> 「何もしない」というと、親鸞の絶対他力を思い浮かべる。お任せの境地。全托。一切神様におまかせする。人事をつくして天命を待つ。
>  Kのいう「受動的気づき」の真の意味はこれだったのかと思う。
>
>
>
> > (10章 終わり)


[26136] 不思議な共感作用 投稿者:無明 投稿日:2018/10/26(Fri) 17:13  

人と思い切り争って喧嘩したとき、人とお互いに、言いたいことを言い合って、出しあったとき、そのあと、不思議な共感作用に包まれたことはないだろうか。憎しみから親しみへの転換である。
しかし、言いたいことは言えるのは親友と呼べる一部の人たちだけである。会社でも、学校ではもちろん、家庭、家族であっ てでも、言いたいことを言えるような間柄ではない。
例えば、こういうことをいうと、相手が傷つくのではないかと。
人は人に嫌われたくないという思いをもっている。つまり「いい人」を装うことが習慣になっている。
ですから、人は思い切り喧嘩をすることはない。仲直りもない。
嫌いな奴は嫌いな奴で終わりである。それもイメージとは気づかずに。

あるエンカウンターの集まりで、見知らぬ男女が集まり、一週間の合宿を行なったことがあった。初めては、ばり罵倒、悪口の応酬。お互い言いたいことが言えると楽になったのか、最後は不思議な共感が生まれ、別れるときは、互いに号泣する有様だ。あまりに変わりようにびっくり。みんな仲良く人類皆兄弟という感じだった。



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