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[25495] Re:[25493] [25491] [25489] エネルギー 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/16(Sat) 16:58  

> > エネルギーなんて簡単だ。ヘラブナ釣りにいそいそ出かける時はエネルギーは十分ある。何となく行く気がしないときはエネルギーがない。
> >
> > 努力して過労死したらエネルギーの使い過ぎ。葛藤があるなら、あるいは嫌々ながらするときは摩擦があり、その時はエネルギーの浪費。
>
> はい。ここまではわかります。問題は次。
> >
> > ただ見ている時はエネルギーの浪費されていない高い状態。
>
> 何で急に「見る」話になるのですか?

ナンだってさ、あなたが、>このサイトは、よく「思考なしに見る」「ただ見る、ただ聞く」と言う言葉がよく出てくるが、このことはエネルギーというものがいるものだろうか。−−
 とつぶやきか質問かをしたから見る話をしたんです。

> > 活動はエネルギーがたっぷりないとできないぜ。
>
> そうです。エネルギーの話はそうです。
>
> 私にとって見ること、聞くことは自然です。努力もエネルギーも、いりません。なぜなら自然と聞こえるのですから。
> 鳥の声を聞くのに、何で努力がいるのですか?

努力は確かに要らない。努力の浪費・消失はないです。だから高いエネルギー状態があるでしょう。

> 何か私は勘違いしているのでしょうか?
> それとも「見ることはエネルギー」とおっしゃりたい?
> クリシュナムルティがそういってるからですか。
> 見ることはエネルギーがいるということは、力任せに金剛力で「見る」ということですか。

違います。そのような状態が続くわけはない。

> そうしないと見ることはできないと。

そうやって金剛力で思考を止めていると、思考なしに話している状態が起こってそれが見えてしまう。探究時代の一つの出来事。

> そうすると一体何を見るんですか、ということになります。
> 初心者の質問として。


思考のスクリーンを通さないで見ると、あるがままのものが見える。


[25494] 体験談 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/16(Sat) 11:40  

>
>  しかしそれを捨て去り、全く恐怖のない ― 過ちを犯すという恐怖のない、正しいあるいは間違ったことをするという恐怖のない ― このエネルギーを持つとき、その時そのエネルギー自体が変容ではないでしょうか? 私たちは途方もない量のエネルギーを必要とし、それを恐怖を通じて浪費していますが、あらゆる形の恐怖を捨て去ることから生じるこのエネルギーがあるとき、そのエネルギー自体が根本的な内面の革命を生み出します。それについてしなければならないことは何もありません。
>
>  それゆえあなたは自分自身と共に残されます。それがこのこと全てについて真剣である人にとって、あるべき実際の状態です。そしてもはや助けを求めて誰かや何かに頼っていないので、あなたはすでに自由に発見できます。自由があるとき、エネルギーがあります。自由があるときは決して間違ったことをすることができません。自由は反抗とは全く違います。自由があるときには、正しかったり、間違ったりするというような事はないのです。あなたは自由であり、その中心から行動します。それゆえ恐怖はなく、そして恐怖のない心は大いなる愛が可能です。そして愛があるときは望むことをすることができます。

いつも思うのだが、クリシュナムルティの言ってることを実際に実現している人がいるのでしょうか。
少なくとも日本ではそういった体験談の本は日本では見たことがない。外国でそのような本を出版しているのだろうか。あったとしても、訳されていないのか。それはわかりません。

クリシュナムルティの研究者、探求者、訳者、信奉者、愛読者という人はおられます。変容した人は?
没後32年世界は何ら変わっていない。ますます混乱の道へ。


[25493] Re:[25491] [25489] エネルギー 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/16(Sat) 11:00  

> エネルギーなんて簡単だ。ヘラブナ釣りにいそいそ出かける時はエネルギーは十分ある。何となく行く気がしないときはエネルギーがない。
>
> 努力して過労死したらエネルギーの使い過ぎ。葛藤があるなら、あるいは嫌々ながらするときは摩擦があり、その時はエネルギーの浪費。

はい。ここまではわかります。問題は次。
>
> ただ見ている時はエネルギーの浪費されていない高い状態。

何で急に「見る」話になるのですか?

> 活動はエネルギーがたっぷりないとできないぜ。

そうです。エネルギーの話はそうです。

私にとって見ること、聞くことは自然です。努力もエネルギーも、いりません。なぜなら自然と聞こえるのですから。
鳥の声を聞くのに、何で努力がいるのですか?

何か私は勘違いしているのでしょうか?
それとも「見ることはエネルギー」とおっしゃりたい?
クリシュナムルティがそういってるからですか。
見ることはエネルギーがいるということは、力任せに金剛力で「見る」ということですか。
そうしないと見ることはできないと。
そうすると一体何を見るんですか、ということになります。
初心者の質問として。


[25492] 既知からの自由1−6 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/16(Sat) 10:06  

[権威からの自由]

 今私たちがしようとしていることは、それゆえ、自分自身について学ぶことです。私や分析者や哲学者に従うのではなく ― なぜなら他の誰かに従って自分自身について学ぶなら、私たちは自分自身についてではなく、彼らについて学んでいるからです ― 私たちは自分が実際にどうであるのか学ぼうとしているのです。

 自分自身の精神の構造の内部に完全な革命をもたらす中で、どんな外部の権威にも依存できないことを理解しても、自分自身の内部の権威、自分自身の特定の小さな経験と蓄積された意見、知識、観念と理想という権威を拒否するという、より遥かに大きな困難があります。あなたは昨日何かをあなたに教えるある経験をしました。そしてそれがあなたに教えたことは新しい権威になります ― そしてその昨日の権威は千年の権威と同じように破壊的です。自分自身を理解するためには昨日の権威も千年の権威も必要ではありません。なぜなら私たちは生きたものであり、常に動き、流れ、決して休んではいないからです。昨日の権威をもって自分自身を見る時は、生きている動きとその動きの美と質を理解しそこなうでしょう。

 全ての権威から、自分自身のそして他人の経験から自由であることは、昨日のあらゆる事に対して死ぬことであり、その結果あなたの心は常に新鮮で、常に若く、天真爛漫で、活気と情熱に満ちています。人が学び観察するのはそのような状態の中のみです。そしてこのためには大変な気付きが必要とされます。自分自身の内部で起こっている事についての、修正したり、どうあるべきかどうあるべきでないか告げたりしない、実際の気づきが必要です。なぜならそれを修正する瞬間、あなたは別の権威、検閲者を確立してしまうからです。

 そこで今私たちは自分自身を一緒に調べようとしています ― 一人の人が説明し、一方であなたは読み、頁の上の言葉を追いながら著者に同意したり反対したりするのではなく、一緒に旅を、私たちの心の最も秘密の片隅に発見の旅をしようとしています。そのような旅をするには身軽に旅行しなければなりません。意見や偏見、結論 ― 過去二千年以上もの間収集したあの古い家具をすべて背負っていく事はできません。自分自身について知っている全てを忘れましょう。かつて自分自身について考えた事は全て忘れましょう。私たちはあたかも何も知らなかったように、出発しようとしています。

 昨夜はひどく降りました。そして今空は晴れ始めています。新しい新鮮な日です。その新鮮な日にあたかもそれが唯一の日であるかのように出会いましょう。昨日の記憶はすべて置き去りにして一緒に旅立ちましょう ― そして初めて自分自身を理解し始めましょう。

(1.終わり)


[25491] Re:[25489] エネルギー 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/16(Sat) 09:49  

エネルギーなんて簡単だ。ヘラブナ釣りにいそいそ出かける時はエネルギーは十分ある。何となく行く気がしないときはエネルギーがない。

努力して過労死したらエネルギーの使い過ぎ。葛藤があるなら、あるいは嫌々ながらするときは摩擦があり、その時はエネルギーの浪費。

ただ見ている時はエネルギーの浪費されていない高い状態。
活動はエネルギーがたっぷりないとできないぜ。


[25490] Re:[25487] 既知からの自由1−5 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/16(Sat) 08:09  

> [自己変容・エネルギーの浪費]
>
>  では、あなたと私は、どんな外部の影響もなしに、どんな説得もなしに、どんな処罰の恐怖もなしに、自分自身の中に ― 私たちの存在のまさにその本質に、全体的な革命、心理的な変容をもたらすことができるでしょうか? その結果私たちはもはや残忍、暴力、競争、心配、怖れ、貪欲、嫉妬、その他、自分が日常生活をしているこの腐敗した社会を作り上げた私たちの性質が少しも現れることなしにいられるでしょうか?
>  私は哲学や神学上の観念の構造、神学的概念を公式化しているのではないということを、最初から理解することが重要です。イデオロギーはすべて全く馬鹿げていると私には思われます。重要なことは人生の哲学ではなく、私たちの日常生活の中で実際に起きていることを、内面的にまた外面的に観察することです。起きていることを非常に綿密に観察し調べるなら、それは知的な概念に基づいているのが見えるでしょう。そして知性は存在の全体の場ではありません。それは断片であり、そして断片は、どんなに利口に組み立てられていても、どんなに古く伝統的でも、なお存在の小さな部分にすぎません。ところが私たちは生の全体を取り扱わなければならないのです。そして世界で起きていることを見る時、私たちは外部と内部の過程はないことを理解し始めます。ただ一つの単一の過程があるだけであり、それは全体の、全部の動きです。内部の動きはそれ自身を外部の動きとして表現し、外部は内部に再び作用しています。これを見ることができるのが必要とされる全てであると私には思われます。なぜなら私たちがどのように見るかを知るなら、その時全部のことは非常に明確になるからで、そして見るためには哲学も、教師もいりません。誰もあなたにどうやって見るか教える必要はありません。あなたはただ見るだけです。
>
>  その時あなたは、この全体の光景を見て、それを言葉の上でなく実際に見て、容易に、自発的に、自分自身を変容させることができるでしょうか? それが真の問題です。精神に完全な革命をもたらすことができるでしょうか?
>
>
>  このような質問に対するあなたの反応はどのようなものでしょうか?「私は変わりたいと思いません」と言うかもしれません。そして多くの人々は変わりたいと思わないのです。特に社会的に経済的にかなり安泰な人や、教条的な信念を保持し、そのままのあるいは少しばかり修正した形の、自分自身と物事を受け入れることに満足している人はそうです。それらの人々に私たちは関わってはいません。あるいはもっと微妙に「ところで、それは難し過ぎて、私向きではない」というかもしれません。その場合にはすでに自分を閉ざしてしまい、調べることをやめてしまっており、さらに進んでも何にもならないでしょう。でなければ「自分自身の中に根本的な内面の変化が必要なことはわかりますが、どうやってそれをもたらすべきでしょうか? どうか道を示し、それへ向けて私を助けてください」と言うかもしれません。もしそう言うなら、その時あなたが関わっているものは変化それ自身ではなく、根本的な革命に本当に関心があるのではありません。単に変化をもたらす方法、体系を探しているだけです。
>
>  もし私があなたに体系を与えるほど愚かで、そしてもしあなたがそれに従うほど愚かならば、あなたは単にコピーし、模倣し、従い、受け入れているだけです。そしてそうするとき、あなたは自分自身の中に他人の権威を作り上げており、それゆえあなたとその権威の間に葛藤があります。これこれの事をするように教えられたので、それをしなければならないと感じますが、しかもなおそうする事ができません。自分が従うべきであると考える体系と相容れない自分自身の特有の傾向、成功、圧力をあなたは持っており、それゆえ矛盾があります。ですから体系のイデオロギーと日常の生存の実際との間で二重生活を過ごすでしょう。イデオロギーに順応しようとして自分自身を抑圧する ― ところが実際に真実なのは、イデオロギーでなくてあなたのあるがままです。他人にしてがって自分自身を学ぼうとするなら、あなたは常に受け売り人間のままでしょう。
>
>  「私は変わりたい、どうやるか教えてください」と言う人はとても熱心で、とても真剣なように思われますが、そうではありません。自分の中に秩序をもたらしてくれると期待できる権威を望んでいるのです。しかし権威は本当に内的秩序をもたらすことができるでしょうか? 外から押し付けられる秩序は常に無秩序を生むに違いありません。あなたはこの真理を知的には理解するかもしれませんが、しかし心がもはやどんな権威も、本、教師、妻や夫、両親、友人や社会の権威を投影しないように、それを実際に適用できるでしょうか? なぜなら私たちは常にある方式の型の内部で機能しているので、方式がイデオロギーと権威になるからです。しかし「どのようにして私は変わることができるでしょうか?」という質問が新しい権威を組み立てることを本当に見る瞬間、あなたは永久に権威を終えたのです。
>
>  もう一度はっきり述べましょう。私は自分が自分の存在の根源から完全に変化しなければならないことを見ます。伝統はこの巨大な怠惰、受容、服従をもたらしたので、私はもはやどのような伝統にも依存することはできません。変わるのを助けてくれるよう他人に頼ることはとてもできません。どんな教師にも、どんな神、どんな信念、どんな体系、どんな外部の圧力あるいは影響にも。その時何が起きるでしょうか?
>
>  まず第一に、あなたは全ての権威を拒否できますか? もし出来るなら、それはあなたはもはや恐れていないことを意味します。何世代も自分と共に持ち運んできた偽りのものを拒否するとき、どんな種類の重荷であれ捨て去るとき、何が起きるでしょうか? あなたはより多くのエネルギーを持っているのではないでしょうか? より多くの能力、より多くの精力、より大きな強烈さと活力を持っています。もしこれを感じないなら、その時は重荷を捨て去っていません、権威の死んだ重さを捨ててはいないのです。
>
>  しかしそれを捨て去り、全く恐怖のない ― 過ちを犯すという恐怖のない、正しいあるいは間違ったことをするという恐怖のない ― このエネルギーを持つとき、その時そのエネルギー自体が変容ではないでしょうか? 私たちは途方もない量のエネルギーを必要とし、それを恐怖を通じて浪費していますが、あらゆる形の恐怖を捨て去ることから生じるこのエネルギーがあるとき、そのエネルギー自体が根本的な内面の革命を生み出します。それについてしなければならないことは何もありません。
>
>  それゆえあなたは自分自身と共に残されます。それがこのこと全てについて真剣である人にとって、あるべき実際の状態です。そしてもはや助けを求めて誰かや何かに頼っていないので、あなたはすでに自由に発見できます。自由があるとき、エネルギーがあります。自由があるときは決して間違ったことをすることができません。自由は反抗とは全く違います。自由があるときには、正しかったり、間違ったりするというような事はないのです。あなたは自由であり、その中心から行動します。それゆえ恐怖はなく、そして恐怖のない心は大いなる愛が可能です。そして愛があるときは望むことをすることができます。
>
>
> (続く)


この1−5は長いですがクリシュナムルティの言っていることの中核が示されています。次が最終の部分ですが、これも早く読んで一緒に見た方がいいと思うのです。

権威を樹立し、そこに群れ集まって順応する、これが個人の内部にあってここを根本的に変えようという事を言っていると読みました。内的権威について次に書いているので掲載を急ぎます。

全ての精神的権威を否定する。これは大きな問題です。


[25489] エネルギー 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/16(Sat) 07:18  

>まず第一に、あなたは全ての権威を拒否できますか? もし出来るなら、それはあなたはもはや恐れていないことを意味します。何世代も自分と共に持ち運んできた偽りのものを拒否するとき、どんな種類の重荷であれ捨て去るとき、何が起きるでしょうか? あなたはより多くのエネルギーを持っているのではないでしょうか? より多くの能力、より多くの精力、より大きな強烈さと活力を持っています。もしこれを感じないなら、その時は重荷を捨て去っていません、権威の死んだ重さを捨ててはいないのです。

 しかしそれを捨て去り、全く恐怖のない ― 過ちを犯すという恐怖のない、正しいあるいは間違ったことをするという恐怖のない ― このエネルギーを持つとき、その時そのエネルギー自体が変容ではないでしょうか? 私たちは途方もない量のエネルギーを必要とし、それを恐怖を通じて浪費していますが、あらゆる形の恐怖を捨て去ることから生じるこのエネルギーがあるとき、そのエネルギー自体が根本的な内面の革命を生み出します。それについてしなければならないことは何もありません。

クリシュナムルティは「エネルギー」と言う言葉を多用する。一体どのような意味で使っているのだろうか?


 >それゆえあなたは自分自身と共に残されます。それがこのこと全てについて真剣である人にとって、あるべき実際の状態です。そしてもはや助けを求めて誰かや何かに頼っていないので、あなたはすでに自由に発見できます。自由があるとき、エネルギーがあります。自由があるときは決して間違ったことをすることができません。自由は反抗とは全く違います。自由があるときには、正しかったり、間違ったりするというような事はないのです。あなたは自由であり、その中心から行動します。それゆえ恐怖はなく、そして恐怖のない心は大いなる愛が可能です。そして愛があるときは望むことをすることができます。

参考にウィキペディアで調べると、「活動力」「物体が仕事を為し得る能力」

このサイトは、よく「思考なしに見る」「ただ見る、ただ聞く」と言う言葉がよく出てくるが、このことはエネルギーというものがいるものだろうか。
わたしには「努力する」ということがエネルギーを大いに用いるように思われる。世間の話だが。ひとかどの人間になるよう、頑張る、努力すると言うように。

ところがクリシュナムルティは、努力を否定する。何もしない。
何もしないと言うのなら、エネルギーなどいらないだろう。
人間は活動の動物である。


クリシュナムルティを読んでいくと次々疑問点が出てくる。いちいちそれやってたら、先にいけないようです。
関心なければ、どんどん先に進んでください。



[25488] 変性意識 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/15(Fri) 20:25  

参考

変性意識の概略(「ウィキペディア」より)

Altered state of consciousnessという表現は、1966にArnold M. Ludwigが提唱し[1]、1969年発行のチャールズ・タート(英語版)の著作[2]を通じて一般に知られるようになった。Altered state of mindまたはaltered state of awarenessともいう。

通常の覚醒時のベータ波意識とは異なる、一時的な意識状態をさす。人々がその体験を共有することも可能であり、社会学分野において研究対象となっている。

変性意識状態は「宇宙」との一体感、全知全能感、強い至福感などを伴い、この体験は時に人の世界観を一変させるほどの強烈なものと言われる。その体験は精神や肉体が極限まで追い込まれた状態、瞑想や薬物の使用などによってもたらされるとされる。また催眠等による、非常にリラックスした状態を心理学でこういうこともある。

トランスパーソナル心理学ではこれを、人間に肯定的な効果をもたらすものとして研究する。また精神疾患に対する有効な療法として、一時的にこの状態を患者に与える方法が活用されている。

宮台真司は、心理学における変性意識の、社会学的な写像(カウンターパート、対応物)がカリスマであると言った[3]。

変性意識状態の代表としてトランス状態を挙げることができる[4]。

様々な面で応用可能な自己の精神操作としてスポーツ、教育、ビジネスの場でも取り組まれる事も多い。(この操作を引き起こす為、スポーツ選手は小さな仕草や動き・決まったポーズを取る「ルーティン」と呼ばれる動作を取る事がよく見られる。)


[25487] 既知からの自由1−5 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/15(Fri) 20:00  

[自己変容・エネルギーの浪費]

 では、あなたと私は、どんな外部の影響もなしに、どんな説得もなしに、どんな処罰の恐怖もなしに、自分自身の中に ― 私たちの存在のまさにその本質に、全体的な革命、心理的な変容をもたらすことができるでしょうか? その結果私たちはもはや残忍、暴力、競争、心配、怖れ、貪欲、嫉妬、その他、自分が日常生活をしているこの腐敗した社会を作り上げた私たちの性質が少しも現れることなしにいられるでしょうか?
 私は哲学や神学上の観念の構造、神学的概念を公式化しているのではないということを、最初から理解することが重要です。イデオロギーはすべて全く馬鹿げていると私には思われます。重要なことは人生の哲学ではなく、私たちの日常生活の中で実際に起きていることを、内面的にまた外面的に観察することです。起きていることを非常に綿密に観察し調べるなら、それは知的な概念に基づいているのが見えるでしょう。そして知性は存在の全体の場ではありません。それは断片であり、そして断片は、どんなに利口に組み立てられていても、どんなに古く伝統的でも、なお存在の小さな部分にすぎません。ところが私たちは生の全体を取り扱わなければならないのです。そして世界で起きていることを見る時、私たちは外部と内部の過程はないことを理解し始めます。ただ一つの単一の過程があるだけであり、それは全体の、全部の動きです。内部の動きはそれ自身を外部の動きとして表現し、外部は内部に再び作用しています。これを見ることができるのが必要とされる全てであると私には思われます。なぜなら私たちがどのように見るかを知るなら、その時全部のことは非常に明確になるからで、そして見るためには哲学も、教師もいりません。誰もあなたにどうやって見るか教える必要はありません。あなたはただ見るだけです。

 その時あなたは、この全体の光景を見て、それを言葉の上でなく実際に見て、容易に、自発的に、自分自身を変容させることができるでしょうか? それが真の問題です。精神に完全な革命をもたらすことができるでしょうか?


 このような質問に対するあなたの反応はどのようなものでしょうか?「私は変わりたいと思いません」と言うかもしれません。そして多くの人々は変わりたいと思わないのです。特に社会的に経済的にかなり安泰な人や、教条的な信念を保持し、そのままのあるいは少しばかり修正した形の、自分自身と物事を受け入れることに満足している人はそうです。それらの人々に私たちは関わってはいません。あるいはもっと微妙に「ところで、それは難し過ぎて、私向きではない」というかもしれません。その場合にはすでに自分を閉ざしてしまい、調べることをやめてしまっており、さらに進んでも何にもならないでしょう。でなければ「自分自身の中に根本的な内面の変化が必要なことはわかりますが、どうやってそれをもたらすべきでしょうか? どうか道を示し、それへ向けて私を助けてください」と言うかもしれません。もしそう言うなら、その時あなたが関わっているものは変化それ自身ではなく、根本的な革命に本当に関心があるのではありません。単に変化をもたらす方法、体系を探しているだけです。

 もし私があなたに体系を与えるほど愚かで、そしてもしあなたがそれに従うほど愚かならば、あなたは単にコピーし、模倣し、従い、受け入れているだけです。そしてそうするとき、あなたは自分自身の中に他人の権威を作り上げており、それゆえあなたとその権威の間に葛藤があります。これこれの事をするように教えられたので、それをしなければならないと感じますが、しかもなおそうする事ができません。自分が従うべきであると考える体系と相容れない自分自身の特有の傾向、成功、圧力をあなたは持っており、それゆえ矛盾があります。ですから体系のイデオロギーと日常の生存の実際との間で二重生活を過ごすでしょう。イデオロギーに順応しようとして自分自身を抑圧する ― ところが実際に真実なのは、イデオロギーでなくてあなたのあるがままです。他人にしてがって自分自身を学ぼうとするなら、あなたは常に受け売り人間のままでしょう。

 「私は変わりたい、どうやるか教えてください」と言う人はとても熱心で、とても真剣なように思われますが、そうではありません。自分の中に秩序をもたらしてくれると期待できる権威を望んでいるのです。しかし権威は本当に内的秩序をもたらすことができるでしょうか? 外から押し付けられる秩序は常に無秩序を生むに違いありません。あなたはこの真理を知的には理解するかもしれませんが、しかし心がもはやどんな権威も、本、教師、妻や夫、両親、友人や社会の権威を投影しないように、それを実際に適用できるでしょうか? なぜなら私たちは常にある方式の型の内部で機能しているので、方式がイデオロギーと権威になるからです。しかし「どのようにして私は変わることができるでしょうか?」という質問が新しい権威を組み立てることを本当に見る瞬間、あなたは永久に権威を終えたのです。

 もう一度はっきり述べましょう。私は自分が自分の存在の根源から完全に変化しなければならないことを見ます。伝統はこの巨大な怠惰、受容、服従をもたらしたので、私はもはやどのような伝統にも依存することはできません。変わるのを助けてくれるよう他人に頼ることはとてもできません。どんな教師にも、どんな神、どんな信念、どんな体系、どんな外部の圧力あるいは影響にも。その時何が起きるでしょうか?

 まず第一に、あなたは全ての権威を拒否できますか? もし出来るなら、それはあなたはもはや恐れていないことを意味します。何世代も自分と共に持ち運んできた偽りのものを拒否するとき、どんな種類の重荷であれ捨て去るとき、何が起きるでしょうか? あなたはより多くのエネルギーを持っているのではないでしょうか? より多くの能力、より多くの精力、より大きな強烈さと活力を持っています。もしこれを感じないなら、その時は重荷を捨て去っていません、権威の死んだ重さを捨ててはいないのです。

 しかしそれを捨て去り、全く恐怖のない ― 過ちを犯すという恐怖のない、正しいあるいは間違ったことをするという恐怖のない ― このエネルギーを持つとき、その時そのエネルギー自体が変容ではないでしょうか? 私たちは途方もない量のエネルギーを必要とし、それを恐怖を通じて浪費していますが、あらゆる形の恐怖を捨て去ることから生じるこのエネルギーがあるとき、そのエネルギー自体が根本的な内面の革命を生み出します。それについてしなければならないことは何もありません。

 それゆえあなたは自分自身と共に残されます。それがこのこと全てについて真剣である人にとって、あるべき実際の状態です。そしてもはや助けを求めて誰かや何かに頼っていないので、あなたはすでに自由に発見できます。自由があるとき、エネルギーがあります。自由があるときは決して間違ったことをすることができません。自由は反抗とは全く違います。自由があるときには、正しかったり、間違ったりするというような事はないのです。あなたは自由であり、その中心から行動します。それゆえ恐怖はなく、そして恐怖のない心は大いなる愛が可能です。そして愛があるときは望むことをすることができます。


(続く)


[25486] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/06/14(Thu) 18:00  

自分を知るものはすべてを知る。このことわざは間違いだ。しかし、自分をまずしることなしにすべてを知ることはできないというのは正しい。まず4段階で自己知にいたり、5段階で他者もしらなけくてはいけない。自己知と言っても理屈ではない。それは何があっても無意識に陥らない覚醒した至福の意識である。クリシュナムルティはここまではいった。


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