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[26373] Re:[26371] [26370] [26369] [26368] 事実のみに生きるのが人間か? 投稿者:南方 投稿日:2019/01/08(Tue) 06:43  

> > > > 家族が醜悪なものであるという教えは大局的に見て考えた場合それはそうかな、と思いますが大概の人は家族をとても大切に思っている。
> > > >
> > > > 私はそれに対して嫌悪感を覚えるが、それでは本末転倒であって家族は醜悪なものであると考え抜いてそうだと結論したにせよ、それを正義とみなせば、そうでない家族主義の人人に対立することになってしまうので、私の見解ではKの家族は醜悪なものであるという事実を言った所で誰にも分かってもらえないどころか、怒りが湧いてくるということになり、返って毒だと思うのだが、家族は醜悪なものであるというのは事実でしょううか?Kの観念でしょうか?
> > >
> > > 私は西洋のファミリーの実態をまったくと言っていいほど知りませんが、人間の集合体は何にしてもそこにある愛次第だと思いますよ。組織は醜悪であると言えば、それは観念だと思います。ただ時代によってどう見ても醜悪だと思えるような時代があったとしても不思議とは思いません。
> > >
> >
> >
> > どう見てもとはどういう意味ですか?判断解釈の余地ありですか?
>
> おそらく近世の初期でしょうが、映画で女学校の寄宿舎の舎監の振る舞いなど見ると本当にひどいと思ったときがあります。どう見てもとは、世間一般の通念で言いました。
>
>
> > > 家族については日本の家族は西洋のファミリーとだいぶ違うようですし、日本の中でも違いなすね。
> > >
> > > 私は家族についてのKの発言は最初から異様な感じがしているし、それを真剣に考えたことはありません。ただ親が固い頭の持ち主で規律一点張りでしつけるような家庭に育った人は気の読だと思います。
> > >
> >
> >
> > 私は家族の醜悪さについてはなるほどなと考えさせられた部分が多々ありました。<私>という外部に現れる最小単位であり、それが争いの火種になっている。
>
> ああ、そういう家族もありますね。
>
>
> > > > そして事実だとしても、人間は事実のみに生きるべきでしょうか?
> > >
> > > 人間の生はそんなに固定した事実で割り切れるものではないと思っています。
> >
> >
> > では、そもそも判断解釈なしに見る聞くということが無意味ではないですか?
> > 私は、判断解釈なしに見る聞くとは事実のみを切り取るものだと思っておりました。観念の余地なしに。
>
> それはおっしゃる通りです。
> 私が事実だと言ったのは、世間で事実があまりに無造作に乱用されるので、そういった意味の事実から離れたところに生のまっとうな営みがあるのではないかという意味で話しました。



失礼しました。俗語の事実と判断解釈なしに見る事実との混同をしていたのは私のほうでした。
そこで、俗語の事実として家族は醜悪である、というこを話すことは無意味でしょうか?それは観念であり単なる言い合いにしかならないものでしょうか。

私は事実として家族が平和の弊害になると思うのですが。それは理念になりかねない危険なものだとは分かります。
家族に愛があるときとおっしゃいますが、愛とはなんなのでしょう?



> 頭にある言葉遣いが完全に俗語ふうになっていました。


[26372] 家族の愛着 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/07(Mon) 20:32  

 血縁は戦国時代でも最強の絆として機能していました。

 又、近い血縁者によって人質制度も機能できていた。

 この本能的な愛着は思考の産物ではなく、生命進化の結晶ともいえると思います。

 そこで問いが生じたのが、この本能的な愛着(家族の愛着)は自我の愛着と分けることができるのか・・?という問いです。

 たとえば、親子の愛着を強く感じたとして、それは自我の愛着でもあるのか。。それとも、この親子の愛着を自我から切り離すことができるのか?

 別の観点から言うと、自我の暗黒・醜さを強く見て、これを滅したいという衝動と共に、家族愛を「私」が有していると主張する「自我」とその「本能的愛着」を同時に見てしまうとき、本当に「本能的な愛着」を自我が有しているのか?
 それとも、それは自我の偽りなのか・・?という問いです。

 上記のことは観念ではなく、今朝、実際に見たことです。

 「本能的な愛着を有する自我」ということが実体としてあるように感じました。


[26371] Re:[26370] [26369] [26368] 事実のみに生きるのが人間か? 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/07(Mon) 19:12  

> > > 家族が醜悪なものであるという教えは大局的に見て考えた場合それはそうかな、と思いますが大概の人は家族をとても大切に思っている。
> > >
> > > 私はそれに対して嫌悪感を覚えるが、それでは本末転倒であって家族は醜悪なものであると考え抜いてそうだと結論したにせよ、それを正義とみなせば、そうでない家族主義の人人に対立することになってしまうので、私の見解ではKの家族は醜悪なものであるという事実を言った所で誰にも分かってもらえないどころか、怒りが湧いてくるということになり、返って毒だと思うのだが、家族は醜悪なものであるというのは事実でしょううか?Kの観念でしょうか?
> >
> > 私は西洋のファミリーの実態をまったくと言っていいほど知りませんが、人間の集合体は何にしてもそこにある愛次第だと思いますよ。組織は醜悪であると言えば、それは観念だと思います。ただ時代によってどう見ても醜悪だと思えるような時代があったとしても不思議とは思いません。
> >
>
>
> どう見てもとはどういう意味ですか?判断解釈の余地ありですか?

おそらく近世の初期でしょうが、映画で女学校の寄宿舎の舎監の振る舞いなど見ると本当にひどいと思ったときがあります。どう見てもとは、世間一般の通念で言いました。


> > 家族については日本の家族は西洋のファミリーとだいぶ違うようですし、日本の中でも違いなすね。
> >
> > 私は家族についてのKの発言は最初から異様な感じがしているし、それを真剣に考えたことはありません。ただ親が固い頭の持ち主で規律一点張りでしつけるような家庭に育った人は気の読だと思います。
> >
>
>
> 私は家族の醜悪さについてはなるほどなと考えさせられた部分が多々ありました。<私>という外部に現れる最小単位であり、それが争いの火種になっている。

ああ、そういう家族もありますね。


> > > そして事実だとしても、人間は事実のみに生きるべきでしょうか?
> >
> > 人間の生はそんなに固定した事実で割り切れるものではないと思っています。
>
>
> では、そもそも判断解釈なしに見る聞くということが無意味ではないですか?
> 私は、判断解釈なしに見る聞くとは事実のみを切り取るものだと思っておりました。観念の余地なしに。

それはおっしゃる通りです。
私が事実だと言ったのは、世間で事実があまりに無造作に乱用されるので、そういった意味の事実から離れたところに生のまっとうな営みがあるのではないかという意味で話しました。
頭にある言葉遣いが完全に俗語ふうになっていました。


[26370] Re:[26369] [26368] 事実のみに生きるのが人間か? 投稿者:南方 投稿日:2019/01/07(Mon) 17:40  

> > 家族が醜悪なものであるという教えは大局的に見て考えた場合それはそうかな、と思いますが大概の人は家族をとても大切に思っている。
> >
> > 私はそれに対して嫌悪感を覚えるが、それでは本末転倒であって家族は醜悪なものであると考え抜いてそうだと結論したにせよ、それを正義とみなせば、そうでない家族主義の人人に対立することになってしまうので、私の見解ではKの家族は醜悪なものであるという事実を言った所で誰にも分かってもらえないどころか、怒りが湧いてくるということになり、返って毒だと思うのだが、家族は醜悪なものであるというのは事実でしょううか?Kの観念でしょうか?
>
> 私は西洋のファミリーの実態をまったくと言っていいほど知りませんが、人間の集合体は何にしてもそこにある愛次第だと思いますよ。組織は醜悪であると言えば、それは観念だと思います。ただ時代によってどう見ても醜悪だと思えるような時代があったとしても不思議とは思いません。
>


どう見てもとはどういう意味ですか?判断解釈の余地ありですか?


> 家族については日本の家族は西洋のファミリーとだいぶ違うようですし、日本の中でも違いなすね。
>
> 私は家族についてのKの発言は最初から異様な感じがしているし、それを真剣に考えたことはありません。ただ親が固い頭の持ち主で規律一点張りでしつけるような家庭に育った人は気の読だと思います。
>


私は家族の醜悪さについてはなるほどなと考えさせられた部分が多々ありました。<私>という外部に現れる最小単位であり、それが争いの火種になっている。


> > そして事実だとしても、人間は事実のみに生きるべきでしょうか?
>
> 人間の生はそんなに固定した事実で割り切れるものではないと思っています。


では、そもそも判断解釈なしに見る聞くということが無意味ではないですか?
私は、判断解釈なしに見る聞くとは事実のみを切り取るものだと思っておりました。観念の余地なしに。


[26369] Re:[26368] 事実のみに生きるのが人間か? 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/07(Mon) 15:30  

> 家族が醜悪なものであるという教えは大局的に見て考えた場合それはそうかな、と思いますが大概の人は家族をとても大切に思っている。
>
> 私はそれに対して嫌悪感を覚えるが、それでは本末転倒であって家族は醜悪なものであると考え抜いてそうだと結論したにせよ、それを正義とみなせば、そうでない家族主義の人人に対立することになってしまうので、私の見解ではKの家族は醜悪なものであるという事実を言った所で誰にも分かってもらえないどころか、怒りが湧いてくるということになり、返って毒だと思うのだが、家族は醜悪なものであるというのは事実でしょううか?Kの観念でしょうか?

私は西洋のファミリーの実態をまったくと言っていいほど知りませんが、人間の集合体は何にしてもそこにある愛次第だと思いますよ。組織は醜悪であると言えば、それは観念だと思います。ただ時代によってどう見ても醜悪だと思えるような時代があったとしても不思議とは思いません。

家族については日本の家族は西洋のファミリーとだいぶ違うようですし、日本の中でも違いなすね。

私は家族についてのKの発言は最初から異様な感じがしているし、それを真剣に考えたことはありません。ただ親が固い頭の持ち主で規律一点張りでしつけるような家庭に育った人は気の読だと思います。

> そして事実だとしても、人間は事実のみに生きるべきでしょうか?

人間の生はそんなに固定した事実で割り切れるものではないと思っています。


[26368] 事実のみに生きるのが人間か? 投稿者:南方 投稿日:2019/01/07(Mon) 14:42  

家族が醜悪なものであるという教えは大局的に見て考えた場合それはそうかな、と思いますが大概の人は家族をとても大切に思っている。

私はそれに対して嫌悪感を覚えるが、それでは本末転倒であって家族は醜悪なものであると考え抜いてそうだと結論したにせよ、それを正義とみなせば、そうでない家族主義の人人に対立することになってしまうので、私の見解ではKの家族は醜悪なものであるという事実を言った所で誰にも分かってもらえないどころか、怒りが湧いてくるということになり、返って毒だと思うのだが、家族は醜悪なものであるというのは事実でしょううか?Kの観念でしょうか?

そして事実だとしても、人間は事実のみに生きるべきでしょうか?


[26367] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/07(Mon) 13:44  

ブロックを解こうとしたがもう記憶がない。

今でもブロックは利いているだろうか? じつはいじったのだがフリーズしてあわててしまった。


[26366] 無題 投稿者:明日を暗示する黄昏 投稿日:2019/01/07(Mon) 11:44  

そろそろ私もアクセスブロックとい
てほしい


[26365] 無題 投稿者:明日を暗示する黄昏 投稿日:2019/01/07(Mon) 11:43  

赦しとはあらゆる観念の不在。


[26364] Re:[26363] [26362] [26361] 最初のザーネン講話3−7 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/06(Sun) 11:16  

> > > 質問: 私たちが瞬時瞬時に生きるなら葛藤はないと思います。
> > >
> > > クリシュナムルティ: さて、ちょっと待ってください。どうやって私たちが考えの中に寝込んでしまうかわかりますか? 「私たちが瞬時瞬時に生きるなら」は条件付きです。それは考えです―それは私たちが決して何かに対して死んだことが、快楽に対して、苦痛に対して、私たちの要求と野心に対して死んだことがないということです。あなたは実際にそのすべてに対して死ぬことができますか?
> > >
> > >
> > > ゴト: 死んだことがあるというのは何があるかもしれないという思い(不安、迷い)を完全にどこかに打ちやって、何かに入って行くことです。実際にやった人には明確です。
> >
> >
> >  ゴトさんは実際にやったことがあるのですね。。
> >
> >  心理的な死、刻々の死、死の家、等々クリシュナムルティは時折述べます。
> >
> >  私はまだ、やったことがないかもしれません。。
> >
> >
> >  私たちの要求と野心に対して死ぬとはどういうことでしょうか。
>
>
> 私達は野心とは言えないとしてもこれだけはという切実な願いを持っていないでしょうか、仕事でも家庭でも。一例をあげますと、私の母は90を過ぎて寝たきりで痴呆が始まっていました。ずっと面倒を見てくれていた介護士が特養老人ホームの空きを見つけてくれて、妻と実の妹、介護士、私で、決定の会議を持ちました。
>
> 私は母を老人ホームに送ることはできなかった。私が面倒を一人で見るからと言いました。妻は猛反対しました。そんなこと一人で絶対できるわけがない。しかも先はまだ何年もあるだろうと。私と妻は強い言葉で主張を言い合いました。他の二人は黙っていました。妻の決意が確固としていて客観的あり、自分の主張は感情的なものであることがわかりました。しかし自分の気持ちも又強い物であったのですが、結局、私は母を老人ホームに送る決定を下しました。事は直ちに決まり、進んでいきました。私は死んだ気持ちでそれを見ていました。しかしそれからはよく見舞いに行き、交流は7年ほど続いて母は99歳でなくなりました。死ぬというのはそのとき持っていた切ない思いが死ぬことなんですね。しかし私はその同一化していた思いではなく、別の生が開けたのです。


 貴重なお話、ありがたく思います。。お答えいただき感謝します。


 最後は自分で決断して入ってゆく。

 これだけはという切実な願いは、なかなか自力では無くしがたいですね。
 何かの環境要因に押されて、止むなく諦めることはできるかもしれないが、そういう圧力がなければなかなか捨てきれない。

 「瞬時瞬時に生きる」とは、刻々に死ぬことであることをクリシュナムルティは述べています。

 しかも、瞬時瞬時に生きることを目的に(動機で)、その方便として刻々に死のうとすることはビカミングとなる。

 >それは私たちが決して何かに対して死んだことが、快楽に対して、苦痛に対して、私たちの要求と野心に対して死んだことがないということです。あなたは実際にそのすべてに対して死ぬことができますか?
−−

 最後まで行くことによって、そのすべてに対して死ぬことができるところの「全体的に見る」。



> > > 質問: 自分自身で葛藤の終局まで行くなら、そのとき世界にある葛藤をただ受け入れなければならないのでしょうか?
> > >
> > > クリシュナムルティ: 世界をそんなにこぎれいに、そして明確にあなた自身から分けることができるでしょうか? 世界はあなた自身とそんなに非常に違っているでしょうか? ほら、皆さん、そう言ってよいなら、私たちによって理解されてこなかったものがあると私は思います。私にとって、葛藤は外部的のみならず内部的にも非常に破壊的なものです。そして葛藤しないで生きるやり方があるかどうか、私は見出したいのです。そこで私はそれは避けられないと私自身に言いません。そして私が得ようとしている限り葛藤があるに違いないと私自身に説明しません。私はそれを理解したい、それをやり抜きたい、それを粉砕できるかどうか見たい、それなしに生きることができるかどうか見たいのです。私はそれをすることに飢えています。そしてどんな量の描写、説明も私を満足させません―それは意識のこの全体の過程を、それは「私」ですが、私が理解しなければならないということです。そしてそれを理解する中で、私は世界を理解しています。二つのものは別々ではありません。私の憎しみは世界の憎しみです。私の嫉妬、欲張り、私の成功を求める衝動―このすべてもまた世界に属します。それゆえ私の心はこのすべてを粉砕できるでしょうか? 「それを粉砕するやり方を私に教えてください」と言うなら、そのとき私は単に葛藤を征服する方法を用いているに過ぎません。そしてそれは葛藤の理解ではありません。
> > >  それで私は、私が葛藤に目覚め続けなければならない、それに気づいていなければならない、私の野心、貪欲、とりつかれたような衝動などなどの中での、それのどの動きも皆見守らなければならないということを見ます。そして私がそれらをただ見守るなら、たぶん私は見出すでしょう。しかし保証はありません。私が見出したいなら、何が絶対必要か非常によく知っていると感じます―すなわち、情熱、強烈さ、言葉と説明の無視。そのため心は非常に鋭く、油断なく、あらゆる形の葛藤から目を離さないようになります。確かに、それが葛藤のまさに終わりまで行く唯一の道です。
> > >
> > >
> > > ゴト: 世界の現実があります。それを受け入れるのでなく、抵抗するのでもなく、まさに見ていることができます。その時自分に、世界に何が起こるか、…… 誰も知らないし、わかりません。
> >
> >
> >  クリシュナムルティは、ときおり「骨が折れる」と述べます。何に骨を折っているのか・・?と関心がありましたが、それがここで述べられているのかもしれません。
> >
> >  何に骨を折っているかというと、>私が葛藤に目覚め続けなければならない、それに気づいていなければならない、私の野心、貪欲、とりつかれたような衝動などなどの中での、それのどの動きも皆見守らなければならないということを見ます。そして私がそれらをただ見守るなら、たぶん私は見出すでしょう。しかし保証はありません。私が見出したいなら、何が絶対必要か非常によく知っていると感じます―すなわち、情熱、強烈さ、言葉と説明の無視。そのため心は非常に鋭く、油断なく、あらゆる形の葛藤から目を離さないようになります。確かに、それが葛藤のまさに終わりまで行く唯一の道です。−−
> >
> >
> >  ここで「言葉と説明の無視」も取り上げられています。この「言葉と説明の無視」、これが「既知のものからの自由」ということかもしれません。。
>
>
> ただ見続けることが骨が折れるのかな。判断したり、逃避せずにいられない。


 表層のそれに気づき見ることは難しくないが、深層のそれに気づくことが難しいように感じます。深層のそれは、無意識だから見えないと諦めること無く、的確な指摘があれば、それに気づき見ることができる。それを自分で行うことが難しい。
 それゆえに、クリシュナムルティの本を読んで、そこにある無数の指摘を浴びることを良しとする。


> > > (終わり)


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