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[25860] Re:[25859] [25858] 既知からの自由10−2 投稿者:宮啓 投稿日:2018/09/10(Mon) 19:20  

> > 10[愛]−2
> >
> >  さて愛と呼ぶこの炎が何であるか、どうやって見いだしましょうか? ― それをほかの人にどう表現するかではなく、それ自体何を意味しているかです。最初に教会、社会、両親や友達、あらゆる人やあらゆる本が愛について言ったことを私は退けようと思います。なぜなら愛が何であるか自分自身で見いだしたいからです。ここで人類全体に関わる大問題があります。愛を定義づける無数のやり方があり、そして自分自身がそのときの好みや楽しみによってあれこれのパターンに捕われます ― それゆえ私は、理解するために、最初に自分自身が、自分の傾向と偏見から自由であるべきではないでしょうか? 私は混乱し、自分自身の欲望によってかき乱されています、そこで私は自分に「まず自分自身の混乱をきれいにすること。たぶん愛でないものを通して、愛が何であるか発見できるかも知れない」と言います。
>
> 愛とは何であるか、他人の見解を多数集めて比較し、自分がもっとらしいと考えるものを選び、自分が知っているかのごとく喋り散らす。つまり我々の大抵は受け売り人間なのですが、ここでは本当に自分で見出そうとKが言います。
>  だが自分自身が混乱しているのです。好み、偏見に捉えられています。Kが >「まず自分自身の混乱をきれいにすること。たぶん愛でないものを通して、愛が何であるか発見できるかも知れない」−− と言います。
>
> >  政府は「祖国への愛のために行って殺せ」と言います。それは愛でしょうか? 宗教は「神への愛のために性をあきらめなさい」と言います。それは愛でしょうか? 愛は欲望でしょうか? いいえと言わないでください。大抵の人にとってそれはそうなのです ― 快楽をともなった欲望、感覚を通じて、性的執着と性的行為を通じて得られる快楽なのです。私は性に対して反対しているのではなく、性に含まれているものを見ているのです。性が瞬間的に与えるものは、自分自身の完全な放棄です。それからあなたは自分の混乱と共にもとに戻り、それゆえ悩みのない、問題のない、自己の状態を何度も何度も繰り返すことを望みます。あなたは妻を愛すると言います。その愛は性的な快楽、家の中で子供の世話をし、料理する誰かを持つ快楽が含まれています。あなたは彼女に依存します。彼女はあなたに肉体、感情、激励、ある安心感と幸福感を与えてきました。そして彼女はあなたから去ります。彼女はうんざりしてしまったか、あるいは誰かほかの人と逃げ、あなたの情緒的バランス全体が破壊され、この好ましくない心の乱れは嫉妬と呼ばれます。その中に苦痛があり、心配、憎悪、暴力があります。それゆえあなたが言っていることは本当は、「あなたが私のものである限りあなたを愛するが、そうでなくなる瞬間、私は憎み始める。性的、あるいはその他の要求を満たすことを当てにできる限り愛するが、私の望むものをくれるのをやめる瞬間、あなたを好きでない」です。ですから敵対があなた方の間にあり、分離があります。そして相手から分離していると感じるとき愛はありません。しかしこれらの矛盾した状態、これらの絶え間ない争いのすべてを自分自身の中につくり出す思考なしに妻と生きることができるなら、そのときおそらく ― おそらく ― 愛が何であるか知るでしょう。そのときあなたは完全に自由でありまた彼女もそうです。ところが自分の快楽のすべてのために彼女に依存するなら、あなたは彼女の奴隷です。それゆえ人が愛するときは、他人からだけでなく自分自身からも、自由があるに違いありません。
>
> Kの言うことが多くの場合の事実です。自分自身から自由な人がいるだろうか。自分はどうかな。…
>
> >  この他人へ属すること、他人によって心理的に養われていること、他人に依存すること ― この全ての中に常に心配、恐怖、嫉妬、罪悪感があるに違いなく、そして恐怖がある限り愛はありません。悲しみに支配されている心は決して愛が何であるか知らないでしょう。感傷と情緒は愛とはまったく何の関係もありません。それゆえ愛は快楽や欲望とは関係がないのです。
>
> 愛は喜怒哀楽の情から独立している何かであると。
>
> >  愛は過去のものである思考の産物ではありません。思考はとうてい愛を育てることはできません。愛は嫉妬で囲われたり捕えられたりはしません。というのは嫉妬は過去のものだからです。愛は常に活動的な現在です。「私は愛するだろう」とか「私は愛した」ではありません。愛を知っているならあなたはどんな人にも従わないでしょう。愛は服従しません。愛するとき尊敬も無礼もありません。
>
> ああ、愛は現在のものなのですね。慣習には関係なく、服従も尊敬も無礼もない。
>
> >  誰かを愛することが本当に何を意味するかわかりますか? ― 憎むことなしに、嫉妬することなしに、怒ることなしに、その人がしていることや考えていることに干渉したいと思わずに、非難することなしに、比較することなしに愛すること ― それが何を意味するかわかりますか? 愛があるところに比較がありますか? 誰かを全てのハートで、全ての心で、全身で、全存在で愛するとき、比較がありますか? あなたがその愛に完全に自己を放棄するとき、他者はありません。
>
> 否定的に愛を述べていますが、愛の光輝と迫真性を始めて感じました。涙が出そうです。
>
> >  愛は責任と義務を持つでしょうか? そしてそれらの言葉を使うでしょうか? 義務から何かをするときその中に少しでも愛があるでしょうか? 義務の中に愛はありません。人間が捕えられている義務の構造は人間を破壊しています。義務であるため何かをするよう強制される限り、あなたは自分のしていることを愛しません。愛があるとき義務はなく責任はありません。
>
> その通り!
>
> >  多くの両親は不幸にも自分は自分の子供たちに対して責任があると考え、そして彼らの責任の感覚は子供たちに何をすべきで何をすべきでないか、何になるべきで何にはなるべきでないかを教える形をとります。両親は自分の子供たちがしっかりした地位を社会の中に持つよう望みます。両親が責任と呼ぶものは彼らが尊敬する世間体の一部なのです。そして世間体があるところには秩序はありません。両親はただ完全な有産階級の市民になることだけに関心があるのです。自分の子供を社会に適合するよう教育するとき、彼らは戦争、葛藤、残忍さを永続させているのです。それを世話や愛と呼ぶでしょうか?
>
> 子供に責任や義務で当たらないでください。そんなことを教えないでください。
>  ただ、子供を社会に適合するように教育するとき、戦争、葛藤、残忍さを永続さているというのはやや機械的かもしれない。先進国の間で戦争が現代たやすく起こるとは思えないから。
>
> >  本当に世話をするということは、木や植物のために、水をやり、必要なものや最も適した土壌をよく調べ、優しく親切に面倒をみるのと同じように世話をすることです。― しかし社会に適合するよう子供を準備させるときは、殺されるように子供を準備させているのです。もし子供を愛しているなら、あなたは戦争しないでしょう。
>
> 本当に世話をすることと現代の世界の間に矛盾があり、しかも文明、文化、社会、組織は個人のコントロールを離れてどこへ行くか不明の迷走を始めている状況に目下あるかと思う。
>
> > (続く)



 なりゆく世界、時間の世界、「私」の世界において、自身が愛でありうるのか・・?

 繁殖本能をベースに、尽くす愛、無償の愛はありえないのか。。

 子育て本能を土台にして、尽くす愛、無償の愛はありえないのか。。

 自身が愛であるとき、時間の世界、なりゆく世界、「私」の世界から脱しているのか。。


[25859] Re:[25858] 既知からの自由10−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/10(Mon) 12:44  

> 10[愛]−2
>
>  さて愛と呼ぶこの炎が何であるか、どうやって見いだしましょうか? ― それをほかの人にどう表現するかではなく、それ自体何を意味しているかです。最初に教会、社会、両親や友達、あらゆる人やあらゆる本が愛について言ったことを私は退けようと思います。なぜなら愛が何であるか自分自身で見いだしたいからです。ここで人類全体に関わる大問題があります。愛を定義づける無数のやり方があり、そして自分自身がそのときの好みや楽しみによってあれこれのパターンに捕われます ― それゆえ私は、理解するために、最初に自分自身が、自分の傾向と偏見から自由であるべきではないでしょうか? 私は混乱し、自分自身の欲望によってかき乱されています、そこで私は自分に「まず自分自身の混乱をきれいにすること。たぶん愛でないものを通して、愛が何であるか発見できるかも知れない」と言います。

愛とは何であるか、他人の見解を多数集めて比較し、自分がもっとらしいと考えるものを選び、自分が知っているかのごとく喋り散らす。つまり我々の大抵は受け売り人間なのですが、ここでは本当に自分で見出そうとKが言います。
 だが自分自身が混乱しているのです。好み、偏見に捉えられています。Kが >「まず自分自身の混乱をきれいにすること。たぶん愛でないものを通して、愛が何であるか発見できるかも知れない」−− と言います。

>  政府は「祖国への愛のために行って殺せ」と言います。それは愛でしょうか? 宗教は「神への愛のために性をあきらめなさい」と言います。それは愛でしょうか? 愛は欲望でしょうか? いいえと言わないでください。大抵の人にとってそれはそうなのです ― 快楽をともなった欲望、感覚を通じて、性的執着と性的行為を通じて得られる快楽なのです。私は性に対して反対しているのではなく、性に含まれているものを見ているのです。性が瞬間的に与えるものは、自分自身の完全な放棄です。それからあなたは自分の混乱と共にもとに戻り、それゆえ悩みのない、問題のない、自己の状態を何度も何度も繰り返すことを望みます。あなたは妻を愛すると言います。その愛は性的な快楽、家の中で子供の世話をし、料理する誰かを持つ快楽が含まれています。あなたは彼女に依存します。彼女はあなたに肉体、感情、激励、ある安心感と幸福感を与えてきました。そして彼女はあなたから去ります。彼女はうんざりしてしまったか、あるいは誰かほかの人と逃げ、あなたの情緒的バランス全体が破壊され、この好ましくない心の乱れは嫉妬と呼ばれます。その中に苦痛があり、心配、憎悪、暴力があります。それゆえあなたが言っていることは本当は、「あなたが私のものである限りあなたを愛するが、そうでなくなる瞬間、私は憎み始める。性的、あるいはその他の要求を満たすことを当てにできる限り愛するが、私の望むものをくれるのをやめる瞬間、あなたを好きでない」です。ですから敵対があなた方の間にあり、分離があります。そして相手から分離していると感じるとき愛はありません。しかしこれらの矛盾した状態、これらの絶え間ない争いのすべてを自分自身の中につくり出す思考なしに妻と生きることができるなら、そのときおそらく ― おそらく ― 愛が何であるか知るでしょう。そのときあなたは完全に自由でありまた彼女もそうです。ところが自分の快楽のすべてのために彼女に依存するなら、あなたは彼女の奴隷です。それゆえ人が愛するときは、他人からだけでなく自分自身からも、自由があるに違いありません。

Kの言うことが多くの場合の事実です。自分自身から自由な人がいるだろうか。自分はどうかな。…

>  この他人へ属すること、他人によって心理的に養われていること、他人に依存すること ― この全ての中に常に心配、恐怖、嫉妬、罪悪感があるに違いなく、そして恐怖がある限り愛はありません。悲しみに支配されている心は決して愛が何であるか知らないでしょう。感傷と情緒は愛とはまったく何の関係もありません。それゆえ愛は快楽や欲望とは関係がないのです。

愛は喜怒哀楽の情から独立している何かであると。

>  愛は過去のものである思考の産物ではありません。思考はとうてい愛を育てることはできません。愛は嫉妬で囲われたり捕えられたりはしません。というのは嫉妬は過去のものだからです。愛は常に活動的な現在です。「私は愛するだろう」とか「私は愛した」ではありません。愛を知っているならあなたはどんな人にも従わないでしょう。愛は服従しません。愛するとき尊敬も無礼もありません。

ああ、愛は現在のものなのですね。慣習には関係なく、服従も尊敬も無礼もない。

>  誰かを愛することが本当に何を意味するかわかりますか? ― 憎むことなしに、嫉妬することなしに、怒ることなしに、その人がしていることや考えていることに干渉したいと思わずに、非難することなしに、比較することなしに愛すること ― それが何を意味するかわかりますか? 愛があるところに比較がありますか? 誰かを全てのハートで、全ての心で、全身で、全存在で愛するとき、比較がありますか? あなたがその愛に完全に自己を放棄するとき、他者はありません。

否定的に愛を述べていますが、愛の光輝と迫真性を始めて感じました。涙が出そうです。

>  愛は責任と義務を持つでしょうか? そしてそれらの言葉を使うでしょうか? 義務から何かをするときその中に少しでも愛があるでしょうか? 義務の中に愛はありません。人間が捕えられている義務の構造は人間を破壊しています。義務であるため何かをするよう強制される限り、あなたは自分のしていることを愛しません。愛があるとき義務はなく責任はありません。

その通り!

>  多くの両親は不幸にも自分は自分の子供たちに対して責任があると考え、そして彼らの責任の感覚は子供たちに何をすべきで何をすべきでないか、何になるべきで何にはなるべきでないかを教える形をとります。両親は自分の子供たちがしっかりした地位を社会の中に持つよう望みます。両親が責任と呼ぶものは彼らが尊敬する世間体の一部なのです。そして世間体があるところには秩序はありません。両親はただ完全な有産階級の市民になることだけに関心があるのです。自分の子供を社会に適合するよう教育するとき、彼らは戦争、葛藤、残忍さを永続させているのです。それを世話や愛と呼ぶでしょうか?

子供に責任や義務で当たらないでください。そんなことを教えないでください。
 ただ、子供を社会に適合するように教育するとき、戦争、葛藤、残忍さを永続さているというのはやや機械的かもしれない。先進国の間で戦争が現代たやすく起こるとは思えないから。

>  本当に世話をするということは、木や植物のために、水をやり、必要なものや最も適した土壌をよく調べ、優しく親切に面倒をみるのと同じように世話をすることです。― しかし社会に適合するよう子供を準備させるときは、殺されるように子供を準備させているのです。もし子供を愛しているなら、あなたは戦争しないでしょう。

本当に世話をすることと現代の世界の間に矛盾があり、しかも文明、文化、社会、組織は個人のコントロールを離れてどこへ行くか不明の迷走を始めている状況に目下あるかと思う。

> (続く)


[25858] 既知からの自由10−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/09(Sun) 17:55  

10[愛]−2

 さて愛と呼ぶこの炎が何であるか、どうやって見いだしましょうか? ― それをほかの人にどう表現するかではなく、それ自体何を意味しているかです。最初に教会、社会、両親や友達、あらゆる人やあらゆる本が愛について言ったことを私は退けようと思います。なぜなら愛が何であるか自分自身で見いだしたいからです。ここで人類全体に関わる大問題があります。愛を定義づける無数のやり方があり、そして自分自身がそのときの好みや楽しみによってあれこれのパターンに捕われます ― それゆえ私は、理解するために、最初に自分自身が、自分の傾向と偏見から自由であるべきではないでしょうか? 私は混乱し、自分自身の欲望によってかき乱されています、そこで私は自分に「まず自分自身の混乱をきれいにすること。たぶん愛でないものを通して、愛が何であるか発見できるかも知れない」と言います。

 政府は「祖国への愛のために行って殺せ」と言います。それは愛でしょうか? 宗教は「神への愛のために性をあきらめなさい」と言います。それは愛でしょうか? 愛は欲望でしょうか? いいえと言わないでください。大抵の人にとってそれはそうなのです ― 快楽をともなった欲望、感覚を通じて、性的執着と性的行為を通じて得られる快楽なのです。私は性に対して反対しているのではなく、性に含まれているものを見ているのです。性が瞬間的に与えるものは、自分自身の完全な放棄です。それからあなたは自分の混乱と共にもとに戻り、それゆえ悩みのない、問題のない、自己の状態を何度も何度も繰り返すことを望みます。あなたは妻を愛すると言います。その愛は性的な快楽、家の中で子供の世話をし、料理する誰かを持つ快楽が含まれています。あなたは彼女に依存します。彼女はあなたに肉体、感情、激励、ある安心感と幸福感を与えてきました。そして彼女はあなたから去ります。彼女はうんざりしてしまったか、あるいは誰かほかの人と逃げ、あなたの情緒的バランス全体が破壊され、この好ましくない心の乱れは嫉妬と呼ばれます。その中に苦痛があり、心配、憎悪、暴力があります。それゆえあなたが言っていることは本当は、「あなたが私のものである限りあなたを愛するが、そうでなくなる瞬間、私は憎み始める。性的、あるいはその他の要求を満たすことを当てにできる限り愛するが、私の望むものをくれるのをやめる瞬間、あなたを好きでない」です。ですから敵対があなた方の間にあり、分離があります。そして相手から分離していると感じるとき愛はありません。しかしこれらの矛盾した状態、これらの絶え間ない争いのすべてを自分自身の中につくり出す思考なしに妻と生きることができるなら、そのときおそらく ― おそらく ― 愛が何であるか知るでしょう。そのときあなたは完全に自由でありまた彼女もそうです。ところが自分の快楽のすべてのために彼女に依存するなら、あなたは彼女の奴隷です。それゆえ人が愛するときは、他人からだけでなく自分自身からも、自由があるに違いありません。

 この他人へ属すること、他人によって心理的に養われていること、他人に依存すること ― この全ての中に常に心配、恐怖、嫉妬、罪悪感があるに違いなく、そして恐怖がある限り愛はありません。悲しみに支配されている心は決して愛が何であるか知らないでしょう。感傷と情緒は愛とはまったく何の関係もありません。それゆえ愛は快楽や欲望とは関係がないのです。

 愛は過去のものである思考の産物ではありません。思考はとうてい愛を育てることはできません。愛は嫉妬で囲われたり捕えられたりはしません。というのは嫉妬は過去のものだからです。愛は常に活動的な現在です。「私は愛するだろう」とか「私は愛した」ではありません。愛を知っているならあなたはどんな人にも従わないでしょう。愛は服従しません。愛するとき尊敬も無礼もありません。

 誰かを愛することが本当に何を意味するかわかりますか? ― 憎むことなしに、嫉妬することなしに、怒ることなしに、その人がしていることや考えていることに干渉したいと思わずに、非難することなしに、比較することなしに愛すること ― それが何を意味するかわかりますか? 愛があるところに比較がありますか? 誰かを全てのハートで、全ての心で、全身で、全存在で愛するとき、比較がありますか? あなたがその愛に完全に自己を放棄するとき、他者はありません。

 愛は責任と義務を持つでしょうか? そしてそれらの言葉を使うでしょうか? 義務から何かをするときその中に少しでも愛があるでしょうか? 義務の中に愛はありません。人間が捕えられている義務の構造は人間を破壊しています。義務であるため何かをするよう強制される限り、あなたは自分のしていることを愛しません。愛があるとき義務はなく責任はありません。

 多くの両親は不幸にも自分は自分の子供たちに対して責任があると考え、そして彼らの責任の感覚は子供たちに何をすべきで何をすべきでないか、何になるべきで何にはなるべきでないかを教える形をとります。両親は自分の子供たちがしっかりした地位を社会の中に持つよう望みます。両親が責任と呼ぶものは彼らが尊敬する世間体の一部なのです。そして世間体があるところには秩序はありません。両親はただ完全な有産階級の市民になることだけに関心があるのです。自分の子供を社会に適合するよう教育するとき、彼らは戦争、葛藤、残忍さを永続させているのです。それを世話や愛と呼ぶでしょうか?

 本当に世話をするということは、木や植物のために、水をやり、必要なものや最も適した土壌をよく調べ、優しく親切に面倒をみるのと同じように世話をすることです。― しかし社会に適合するよう子供を準備させるときは、殺されるように子供を準備させているのです。もし子供を愛しているなら、あなたは戦争しないでしょう。

(続く)


[25857] Re:[25856] [25855] 既知からの自由10−1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/09/07(Fri) 14:20  

> > 10[愛]−1
>
> この章は「愛」という見出し一つしかありません。
>
> > 関係の中で安全でありたいという要求は必然的に悲しみと恐怖を生みます。この安全を求めることが不安を招いているのです。どんな関係の中であれ、安全を見いだしたことがあるでしょうか? ありますか? 私たちはたいてい愛することと愛されることの安全を望みますが、各人が自分自身の安全を、自分自身の特定の道を求めているとき、愛があるでしょうか? 私たちはどのように愛するか知らないので、愛されないのです。
>
> > 私たちはどのように愛するか知らないので、愛されないのです。−−
>  愛すれば、愛される。そのようにして愛(実物)をお互いに知るなら、関係の安全を求めることはない。
>
> >  愛とは何でしょう? その言葉はあまりに重荷を負わされ腐敗しているので私はあまり使いたくはありません。あらゆる人が愛について話します ― あらゆる雑誌と新聞、あらゆる宣教師が絶えず愛について語ります。私は祖国を愛する、王様を愛する、ある本を愛する、あの山を愛する、快楽を愛する、妻を愛する、神を愛する。愛は観念でしょうか? もしそうなら、それは耕され、養われ、大切にされ、押し回され、好きなように捻じ曲げることができます。神を愛すると言うとき、それは何を意味するでしょう? それは自分自身の想像の投影を愛するということです。気高く神聖であると自分が考える、ある立派さをまとった自分自身の投影を愛するということです。ですから「私は神を愛します」と言うことは、まったくのナンセンスです。神を崇拝するとき、あなたは自分自身を崇拝しているのです ― そしてそれは愛ではありません。
>
> 愛という言葉は観念のようにあらゆる使いまわしをされて、実はわけが分からなくなっている。
>
> >  愛と呼ばれるこの人間的なものを解明できないため、私たちは抽象の中に逃げます。愛は人間の困難、問題、苦悩の全てに対する究極の回答かも知れません。そこで愛が何であるか、どうやって見いだそうとしているでしょうか? 単なる定義づけによってですか? 教会はそれをあるやり方で、社会は別のやり方で、定義付けし、そしてあらゆる種類の逸脱と曲解があります。誰かを深く敬愛すること、誰かと寝ること、情緒の交換、仲間づきあい ― それが愛の意味するものでしょうか? それがずっと標準、パターンであり、そして愛は非常に個人的な、官能的な、そして限定されたものになってしまい、そのため宗教は愛は何かもっとこれ以上のものであると言明してきました。彼らは彼らが人間愛と呼ぶものの中に、快楽、競争、嫉妬、所有し、保持し、支配し、他人の思考に干渉したい欲望があるのを見ます。そしてこれらすべての複雑さを知って彼らは、神聖で、美しい、触れられていない、堕落していない別の種類の愛がなければならないと言います。
>
> はい。
>
> >  世界中至る所で、いわゆる聖者は、女性を見ることは何かまったく悪いことであると主張してきました。彼らは性に耽るなら神に近づくことはできないと言います。それゆえ性に夢中になっているのにそれを押し退けます。しかし性的なことを否定することによって、彼らば目を取り出し舌を切り取ります。というのは地上の美全体を否定するからです。彼らはハートと心を飢えさしているのです。彼らは干からびた人間です。彼らは美が女性と関係しているので美を追放してしまったのです。
>
> はい。
>
> >  愛は神聖な愛と世俗的な愛に、人間的な愛と神聖な愛とに分けられるのでしょうか、それともただ愛だけがあるのでしょうか? 愛はただ一人へのものであって、多くの人へのものではないのでしょうか? 「あなたを愛します」と言うなら、それはほかの人達への愛を排除するのでしょうか?愛は個人的、あるいは非個人的なのでしょうか? 道徳的、あるいは不道徳的? 家族的、あるいは非家族的? 人類を愛するなら特定の個人を愛することができるでしょうか? 愛は感傷でしょうか? 愛は情緒でしょうか? 愛は快楽と欲望でしょうか? これらの質問は全て、私たちが愛について観念を持っていることを、愛が何であるべきか、あるべきでないかについての観念を、私たちが生きている文化によって発展した型や規則を持っていることを、指し示してはいないでしょうか?
>
> まさしく。
>
> >  それゆえ愛が何であるかという問題に入っていくためには、最初に愛を何世紀もの殻から解放し、愛が何であるべきか、あるべきでないかという理想やイデオロギーを全て捨てなけれはなりません。何かをあるべきものとあるがままのものに分けることは、生を取り扱うもっとも欺瞞的なやり方です。
>
> あるべきものとあるがままのものの存在は最も欺瞞的なものだが、それが世の中にはびこっている。
>  ここまで、序論として愛のこの社会における現状が概観されました。
>
> > (続く)


 特に、本能に基づく「愛(と一般的に認められているもの)」がクリシュナムルティの述べるところの「愛」なのかに関心があります。

 本能に基ずく愛とは、種の維持に関わるもので、「生殖本能」と「子育て本能」です。

 私の個人的な見解では、隣に本能に基づく愛で結ばれた二人が居るとします。

 その二人にとって私は、関心の薄い存在になることでしょう。

 すなわち、隣に居る本能に基づく愛で結ばれた二人は、私にとって危険な存在となるのではないでしょうか。


[25856] Re:[25855] 既知からの自由10−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/07(Fri) 13:52  

> 10[愛]−1

この章は「愛」という見出し一つしかありません。

> 関係の中で安全でありたいという要求は必然的に悲しみと恐怖を生みます。この安全を求めることが不安を招いているのです。どんな関係の中であれ、安全を見いだしたことがあるでしょうか? ありますか? 私たちはたいてい愛することと愛されることの安全を望みますが、各人が自分自身の安全を、自分自身の特定の道を求めているとき、愛があるでしょうか? 私たちはどのように愛するか知らないので、愛されないのです。

> 私たちはどのように愛するか知らないので、愛されないのです。−−
 愛すれば、愛される。そのようにして愛(実物)をお互いに知るなら、関係の安全を求めることはない。

>  愛とは何でしょう? その言葉はあまりに重荷を負わされ腐敗しているので私はあまり使いたくはありません。あらゆる人が愛について話します ― あらゆる雑誌と新聞、あらゆる宣教師が絶えず愛について語ります。私は祖国を愛する、王様を愛する、ある本を愛する、あの山を愛する、快楽を愛する、妻を愛する、神を愛する。愛は観念でしょうか? もしそうなら、それは耕され、養われ、大切にされ、押し回され、好きなように捻じ曲げることができます。神を愛すると言うとき、それは何を意味するでしょう? それは自分自身の想像の投影を愛するということです。気高く神聖であると自分が考える、ある立派さをまとった自分自身の投影を愛するということです。ですから「私は神を愛します」と言うことは、まったくのナンセンスです。神を崇拝するとき、あなたは自分自身を崇拝しているのです ― そしてそれは愛ではありません。

愛という言葉は観念のようにあらゆる使いまわしをされて、実はわけが分からなくなっている。

>  愛と呼ばれるこの人間的なものを解明できないため、私たちは抽象の中に逃げます。愛は人間の困難、問題、苦悩の全てに対する究極の回答かも知れません。そこで愛が何であるか、どうやって見いだそうとしているでしょうか? 単なる定義づけによってですか? 教会はそれをあるやり方で、社会は別のやり方で、定義付けし、そしてあらゆる種類の逸脱と曲解があります。誰かを深く敬愛すること、誰かと寝ること、情緒の交換、仲間づきあい ― それが愛の意味するものでしょうか? それがずっと標準、パターンであり、そして愛は非常に個人的な、官能的な、そして限定されたものになってしまい、そのため宗教は愛は何かもっとこれ以上のものであると言明してきました。彼らは彼らが人間愛と呼ぶものの中に、快楽、競争、嫉妬、所有し、保持し、支配し、他人の思考に干渉したい欲望があるのを見ます。そしてこれらすべての複雑さを知って彼らは、神聖で、美しい、触れられていない、堕落していない別の種類の愛がなければならないと言います。

はい。

>  世界中至る所で、いわゆる聖者は、女性を見ることは何かまったく悪いことであると主張してきました。彼らは性に耽るなら神に近づくことはできないと言います。それゆえ性に夢中になっているのにそれを押し退けます。しかし性的なことを否定することによって、彼らば目を取り出し舌を切り取ります。というのは地上の美全体を否定するからです。彼らはハートと心を飢えさしているのです。彼らは干からびた人間です。彼らは美が女性と関係しているので美を追放してしまったのです。

はい。

>  愛は神聖な愛と世俗的な愛に、人間的な愛と神聖な愛とに分けられるのでしょうか、それともただ愛だけがあるのでしょうか? 愛はただ一人へのものであって、多くの人へのものではないのでしょうか? 「あなたを愛します」と言うなら、それはほかの人達への愛を排除するのでしょうか?愛は個人的、あるいは非個人的なのでしょうか? 道徳的、あるいは不道徳的? 家族的、あるいは非家族的? 人類を愛するなら特定の個人を愛することができるでしょうか? 愛は感傷でしょうか? 愛は情緒でしょうか? 愛は快楽と欲望でしょうか? これらの質問は全て、私たちが愛について観念を持っていることを、愛が何であるべきか、あるべきでないかについての観念を、私たちが生きている文化によって発展した型や規則を持っていることを、指し示してはいないでしょうか?

まさしく。

>  それゆえ愛が何であるかという問題に入っていくためには、最初に愛を何世紀もの殻から解放し、愛が何であるべきか、あるべきでないかという理想やイデオロギーを全て捨てなけれはなりません。何かをあるべきものとあるがままのものに分けることは、生を取り扱うもっとも欺瞞的なやり方です。

あるべきものとあるがままのものの存在は最も欺瞞的なものだが、それが世の中にはびこっている。
 ここまで、序論として愛のこの社会における現状が概観されました。

> (続く)


[25855] 既知からの自由10−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/06(Thu) 06:15  

10[愛]−1

関係の中で安全でありたいという要求は必然的に悲しみと恐怖を生みます。この安全を求めることが不安を招いているのです。どんな関係の中であれ、安全を見いだしたことがあるでしょうか? ありますか? 私たちはたいてい愛することと愛されることの安全を望みますが、各人が自分自身の安全を、自分自身の特定の道を求めているとき、愛があるでしょうか? 私たちはどのように愛するか知らないので、愛されないのです。

 愛とは何でしょう? その言葉はあまりに重荷を負わされ腐敗しているので私はあまり使いたくはありません。あらゆる人が愛について話します ― あらゆる雑誌と新聞、あらゆる宣教師が絶えず愛について語ります。私は祖国を愛する、王様を愛する、ある本を愛する、あの山を愛する、快楽を愛する、妻を愛する、神を愛する。愛は観念でしょうか?もしそうなら、それは耕され、養われ、大切にされ、押し回され、好きなように捻じ曲げることができます。神を愛すると言うとき、それは何を意味するでしょう? それは自分自身の想像の投影を愛するということです。気高く神聖であると自分が考える、ある立派さをまとった自分自身の投影を愛するということです。ですから「私は神を愛します」と言うことは、まったくのナンセンスです。神を崇拝するとき、あなたは自分自身を崇拝しているのです ― そしてそれは愛ではありません。


 愛と呼ばれるこの人間的なものを解明できないため、私たちは抽象の中に逃げます。愛は人間の困難、問題、苦悩の全てに対する究極の回答かも知れません。そこで愛が何であるか、どうやって見いだそうとしているでしょうか? 単なる定義づけによってですか? 教会はそれをあるやり方で、社会は別のやり方で、定義付けし、そしてあらゆる種類の逸脱と曲解があります。誰かを深く敬愛すること、誰かと寝ること、情緒の交換、仲間づきあい ― それが愛の意味するものでしょうか? それがずっと標準、パターンであり、そして愛は非常に個人的な、官能的な、そして限定されたものになってしまい、そのため宗教は愛は何かもっとこれ以上のものであると言明してきました。彼らは彼らが人間愛と呼ぶものの中に、快楽、競争、嫉妬、所有し、保持し、支配し、他人の思考に干渉したい欲望があるのを見ます。そしてこれらすべての複雑さを知って彼らは、神聖で、美しい、触れられていない、堕落していない別の種類の愛がなければならないと言います。

 世界中至る所で、いわゆる聖者は、女性を見ることは何かまったく悪いことであると主張してきました。彼らは性に耽るなら神に近づくことはできないと言います。それゆえ性に夢中になっているのにそれを押し退けます。しかし性的なことを否定することによって、彼らば目を取り出し舌を切り取ります。というのは地上の美全体を否定するからです。彼らはハートと心を飢えさしているのです。彼らは干からびた人間です。彼らは美が女性と関係しているので美を追放してしまったのです。

 愛は神聖な愛と世俗的な愛に、人間的な愛と神聖な愛とに分けられるのでしょうか、それともただ愛だけがあるのでしょうか? 愛はただ一人へのものであって、多くの人へのものではないのでしょうか? 「あなたを愛します」と言うなら、それはほかの人達への愛を排除するのでしょうか?愛は個人的、あるいは非個人的なのでしょうか? 道徳的、あるいは不道徳的? 家族的、あるいは非家族的? 人類を愛するなら特定の個人を愛することができるでしょうか? 愛は感傷でしょうか? 愛は情緒でしょうか? 愛は快楽と欲望でしょうか? これらの質問は全て、私たちが愛について観念を持っていることを、愛が何であるべきか、あるべきでないかについての観念を、私たちが生きている文化によって発展した型や規則を持っていることを、指し示してはいないでしょうか?

 それゆえ愛が何であるかという問題に入っていくためには、最初に愛を何世紀もの殻から解放し、愛が何であるべきか、あるべきでないかという理想やイデオロギーを全て捨てなけれはなりません。何かをあるべきものとあるがままのものに分けることは、生を取り扱うもっとも欺瞞的なやり方です。

(続く)


[25854] Re:[25853] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/05(Wed) 21:57  

> 悲しみが止むのは、二元性が消え分離の感覚がない時だけである。


二元性はどういう意味で使っていらっしゃるのでしょうか?


[25853] 無題 投稿者:明日を暗示する黄昏 投稿日:2018/09/05(Wed) 17:59  

悲しみが止むのは、二元性が消え分離の感覚がない時だけである。


[25852] Re:[25849] [25847] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/05(Wed) 14:31  

> > 時間の終焉」でKは基底という事を言い出した。
> >
> >  >基底とは何かというとKが探究の果てにたどり着いたもので、最後の根源的なものでその上はないという。無機質の星々や有機的生物、宇宙全体がそのうえで生まれ、死んでそこに戻る基盤、もしくは場(ground)であるという。
>
> > 以下
>
> これこそクリシュナムルティ自身のつくりだしたイメージ。脳内現象。
> そんな「もの」は現実にはない。
>
> この宇宙には「プロセス」があるだけだ。
> 全てのものは生成流転を繰り返す。常住なるものは何一つない。

はい。生々流転の繰り返し。この生成流転の意味、意義は何だろう? 何もないのだろうか?


しょうじょうるてんュ生々流転

岡本かの子の長編小説。著者没後に発見された遺稿で、昭和14年(1939)「文学界」誌に発表。乞食だった父をもつ女性の波乱に満ちた人生を描く。(デジタル大辞泉)

読んでみたくなった。


[25851] Re:[25848] [25845] 基底と人間の関係 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/05(Wed) 14:03  

> >  それで人間は基盤とどのような関係が持てるかというと、覚者のみが関係を持てる、知覚し得るということがあって非覚者はここで止まってしまうわけです。ではどうすればいいかと尋ねるしかありませんが、それはまた成り行く過程に入ってしまう事になります。
>
> 何で「成り行く過程に入ってしまう」とダメなのですか?

成り行く過程というのはそこに到達したい目的というのがあるのですのですが、それはイメージであって、挫折しないで実際に到達できたしても、上には上があることがわかって達成の欲望は募るばかりだし、一将功なって骨枯れるという事があるし、競争社会に平和はないし、当人も挫折の恐怖に駆り立てられ、絶えず努力に迫れて心の安住はなく…という事でどうですか?

> >  そこで覚者は「じたばたすることはない。何もすることはない」と言います。非覚者はじっと待機して何が起こるか見ていようとすることができるしょうか?実際には非覚者は何か追求し始めてしまうのです。

> それが人間です。何かを追求した結果、今の文明があるのです。

はい、それはその通りです。

> >  さて、では非覚者は、言い換えれば今の社会は絶望的でしょうか? Kは基盤まで持ち出してきましたがそれは事態を少しも換えないのでしょうか。別の筋道を話してみます。
>
> お言葉ですが、覚者というには、全体のほんのほんのごく一部でしょう。

はい、そうです。今は果たして覚者はいるのだろうか?

> >  Kは子どもの頃学校でよく立たされていましたが、ついに憎しみを感じることはなかった。これは普通か普通でないかという話があって、ボームを含めた対談者は普通は誰もが憎しみを感じると答えるのですが、Kは覚者にとってはそれが自然だと言います。そして覚者も親から生まれた普通の人間だと強調します。質問者も憎しみは感じるけれど憎みたくないと相反する感情を持つと言います。それは憎みたくないという自然な感情があるが、いつも区別して人間は進路を誤ってしまう。それは人間の持つ自己中心性の思考から出るのでその自己中心性が暗黒である。区別を生み出すこの自己中心を終わりにしないと葛藤はなくならないという話も出ます。これも求め始めると成り行く過程に巻き込まれそうですね。
>
> 何度も言いますが、人間というのは葛藤挫折を何度も繰り返しながら心は成長します。

はい、そうです。葛藤はしかし苦しいですよ。それと成長に役立ちますか? 葛藤は、実際は自己の分裂ですよ。分裂が終わるのが成長なら葛藤もなくなるのでは。

> >  そこで覚者の声を聴く、感じるという事になります。これは本質的にじたばたせず何が起こるか見守る、聴くという事なのでしょう。
>
> あなたは覚者に依存しているのですか?

子供の声を聴く、妻の言う事を聴く。しかし子供にも妻にも依存していませんね。覚者の言うことをまずよく聴くという事です、一人立つ人間として。

> >それができないという事ですね。どうしても主体的に能動的に何かしたくなる。運動したくなる。これはKの言う基底の非運動では全くないですね。

> 主体的能動的にやることが人間です。

そう人間は信じ、そこに価値を置いています。受動的という事の価値を知りません。主体的能動的に行う事の主人は自我なのであって真我ではありません。大丈夫かな?(注 敢えて真我という言葉を使ってみました)

> >  感じるという事は人間の場合、精神の共鳴、共振、同期あるいは同調のようなものではないかと感じています。共鳴、共振、同期、同調は振り子やメトロノーム、電波のように物質、エネルギイー、生物の全部を通じて起こります。これが全体の基底を感じる唯一の道でしょう。

> あなたは人間、思考は必要ないとおっしゃっているのでしょうか?
> 原始時代に戻れと。

思考はいります。原始時代には戻れません。

> >  人間は有史前から天地とのつながりを求めてきたのではないでしょうか、宗教者、哲学者、芸術家、美術家、音楽家、名もなき人も。そして自分の感じたものとなんとか伝えようとしてきたのでしょう。でもそれは人間全体に感じる雰囲気を創り出すには至っていません。その中で宇宙的共鳴の感覚を澄まして、見、聴いていましょう。
>
> 思考はどうなりましたか。必要ない?

思考はいるし、それを備えていることが人間のあるがままの姿でそれはどうすることもできません。だがその在り方、使い方には最大限の注意を払う必要があります。

> あなたは人間の持っている想像力に対して、どう思っているのだろうか?

想像力は人間が得た動物にない大能力の一つです。実際にないことを思考しうる。そして楽しむことができる。想像力が仮説、理論を様々に組み立てる。膨大な実験設備が組み立てられ、実験結果が正確か否かが確かめられる。それに伴うテクノロジーの発達。しかし、フェイクニュースが世界に飛び交うという反面もありますね。

今日はいくつかの基本的、現代的問題に答えられてよかった。


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