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[24844] 無題 投稿者:外野席 投稿日:2017/11/27(Mon) 15:41  

 ここのお二方、ゴト氏と宮啓氏は、あまりにも意識レベルが低すぎる。まさに力量不足の露呈。勉強不足。言葉不足。
 それではクリシュナムルティを題材とした真理に関しての検討の話は土台無理なようだ。

 結局何もわかっていない。真理の入り口さえも。
 Kの本を読んで自己満足するのみ。Kの本を読んでいる間
カタルシスに酔う。それだけが非日常の異空間。


[24843] Re:[24842] [24841] [24839] [24833] [24832] 絶対的な価値 投稿者:宮啓 投稿日:2017/11/27(Mon) 12:01  

> > > >  私の場合は、「絶対的な価値は?」と問われれば、「色眼鏡なく歪みなく見える視座」と思うことでしょう。
> > > >
> > > >  この視座がいかに困難かは、今の自他を見ても、歴史を見ても明らかに思います。
> > > >
> > > >  伝統や時代による歪み・色眼鏡。人の見方をいかようにも、本末転倒的にでも、転倒夢想的にでも、いかようにも見せることができる色眼鏡。
> > > >
> > > >  そんな中、「色眼鏡なく歪みなく見える視座」の価値が高まるようです。
> > >
> > >
> > > 見る、聴く、知覚するには単なる視覚、聴覚でなく、精神的なものを含めての全体状況を知ること(洞察)ができる事にはちょっと触れましたが、そこで展開する人間関係は実は意識の領分での感情を交えたゲーム感覚というべきもので、科学的な認証関係ではないのかと思います。ユーモアとか、笑いはそれを表す一面、潤滑油のようなものかもしれません。Kは講話ではジョークは少ないですが言いますし、ジョークは結構好きだったらしいです。
> > >
> > > しかし、本当の宗教心は僧堂のそれではない厳粛さがあるという事ですし、そこはよくわかりません。ひとつのすべ(術・アート)なのかな。権威主義的なものがある雰囲気を溶かすとかもあるのかな。 暴力的なものの台頭の予防にもなるかも。
> > >
> > > それで、精神的事柄について話すときは、科学について話すときと違う何かを必要とすると私は思うのですが、もちろん論理だけではないし、心の交感があるための注意(attention)のホーカスが自ずと生まれる雰囲気とでも言うべきものが必要であると思います。我々はそのいわゆる宗教的儀式は大なり小なり知っていると思います。怪しげな偽物のあることも。
> > >
> > > だがまあ、それらは置いといて論理的な偽物は少なくとも自分で看破できなければならないと思いますが、一向に自信がない。自分自身の独我論的思い込みの前提、神話的英雄伝説の類、言葉を使う事でのパラドックスに突き当たるとき、突き当たっている壁を見破れるか? 自分の思考が、これこそは真実として握りしめる観念を虚偽のものと見抜くことができない限り、闇の中をさまようしかないのですが、我々の意識は自由な主体であるのか?無意識的に操られているだけの存在なのか?
> > >
> > > さて、どう進みますか。
> >
> >
> >  探求は止まないようですね‥。
> >
> >  初めは、クリシュナムルティ理解として、クリシュナムルティの陳述内容を理解することに焦点を当てていましたが、クリシュナムルティが存在しなかったと仮定しても、その同じ探求は避けて通れない自然(宇宙)の理(ことわり)。
> >
> >  昨晩、「心を変える瞑想」を読みました。
> >
> >  ひと月ほど前、ゴトさんが「生の中の聖なるもの」とセットで読んだものです。
> >
> >  そのとき、ゴトさんが「探求は終わった・・」旨を述べていたので不思議に思っていました。
>
> 確かにそのように言ったように思います。しかしその心のありようが完全に忘れられています。そして好奇心は元通りにあります。焦った脅迫的な衝動ではなく。


 はい。真理は固定的ではないので、恣意的には再現できないのですね。。


> いずれ、もういちど「心を変える瞑想」は読むことになるという確信がありますが、竹田青嗣氏が言っていることを理解して読まないといけないような気がして。少々気が長い話ですが。まだKを読みきるには成熟不十分なんですね。


 「心を変える瞑想」をこの板で取り上げて頂けることを、心よりお待ちしております。


[24842] Re:[24841] [24839] [24833] [24832] 絶対的な価値 投稿者:ゴト 投稿日:2017/11/27(Mon) 11:03  

> > > > 自然科学での進め方は、どうも事物についての検討の一方法で、実験による検証を多くの人が行い、着実に成果を上げてよに認められてきました。
> > > >
> > > > しかし、事物にしても我々の進退がはっきり捉えれるものは感覚にしろわずかな範囲に限られています。昔に比べれば随分広がっていますが。
> >
> > 註 ここの進退は誤変換で「身体」が正しいです。すみませんでした。
> >
> > > >
> > > > で、そうでなく調べる方法というものはないかというと知覚する、見る、聴くです。
> > > >
> > > > この見る、聴くという事を単なる感覚として、写真のごときものと考えると全く違います。まず人間同士の話すこと、身振り、振る舞いから、相手の気分、関心、体の調子、そんなことがかなり分かります。相手がそれを隠しているならそれも察せるという具合です。予想も想像もできます。
> > > >
> > > > これが心の持っている能力です。その心はどのようにして今自分に備わってあるのでしょうか?
> > > >
> > > > 生まれたばかりの赤ん坊は、まずお腹がすけば泣いてその欠乏を知らせます。母親はそれにこたえて乳首を含ませ、赤ん坊は母乳を吸って欠乏を満たすことができて眠ります。
> > > > 最初は生理的な欠乏の感覚が、泣くというその時赤ん坊の唯一能う事で欲求を伝えます。それに母が答えるだけですが、それは最初のわずかの間で、赤ん坊の肉体の発達は舌や手が加わり、排泄時の泣き声も加わるというふうに事態は発展し、泣き声のトーンが多様化し、母の声掛けによってコミュニケーションが試行錯誤的に始まります。
> > > >
> > > > 赤ん坊はすぐに、眠ってばかりでなく、覚めて遊ぶ時間が出現します。親にせがんで高く差し上げてゆすったりしてもらってよろこんだり。そして家の中を歩き回ったり外へ連れて行ってもらったりして世界を広げます。玩具やテレビやアニメなどをどんどん知っていきます。
> > > >
> > > > そして始めはすべて欲求は受容されたのですが、必ずしもそうでなくなり禁止にも出会います。次の子供が生まれると競合者となり、嫉妬や、孤独も味わいます。美(例えば花の美しさ)の意味を子供時代に知るなら、これは高度の感覚?が備わったと言えるかもしれません。
> > > >
> > > > どうやら心とはこのようなもので、これを脳の機能であると言ってもよいかもしれませんが、脳の機能そのものがブラックボックスの中にあるので、あまり役に立たないでしょう。
> > > >
> > > > さて、心とは始め母親からの言語を通じた全人的交流によって試行錯誤的に形成され始め、それに他者・社会も参加し、広がっていきます。そして大人の心も常に変転していくものでしょうが、そしてそれは世の中を渡っていくための自分でもあるわけですが、自我とも言っていいようです。いや、実際にどうなのかな?
> > > >
> > > > このような心にとっての価値とは、特に絶対的な価値とは何だろうかと思って、Kの本や、最近出た竹田青嗣の欲望論1,2の2巻目「価値」の原理論を読んでいます。なお、1巻目は「意味」の原理論です。いずれも500ページの大著ですが、読んでみるつもりです。私にはかなりしっかり書かれた哲学書に見えます、啓蒙書ではありません。絶対的な価値がもし見えてきたらうれしいのですが。
> > >
> > >
> > >  私の場合は、「絶対的な価値は?」と問われれば、「色眼鏡なく歪みなく見える視座」と思うことでしょう。
> > >
> > >  この視座がいかに困難かは、今の自他を見ても、歴史を見ても明らかに思います。
> > >
> > >  伝統や時代による歪み・色眼鏡。人の見方をいかようにも、本末転倒的にでも、転倒夢想的にでも、いかようにも見せることができる色眼鏡。
> > >
> > >  そんな中、「色眼鏡なく歪みなく見える視座」の価値が高まるようです。
> >
> >
> > 見る、聴く、知覚するには単なる視覚、聴覚でなく、精神的なものを含めての全体状況を知ること(洞察)ができる事にはちょっと触れましたが、そこで展開する人間関係は実は意識の領分での感情を交えたゲーム感覚というべきもので、科学的な認証関係ではないのかと思います。ユーモアとか、笑いはそれを表す一面、潤滑油のようなものかもしれません。Kは講話ではジョークは少ないですが言いますし、ジョークは結構好きだったらしいです。
> >
> > しかし、本当の宗教心は僧堂のそれではない厳粛さがあるという事ですし、そこはよくわかりません。ひとつのすべ(術・アート)なのかな。権威主義的なものがある雰囲気を溶かすとかもあるのかな。 暴力的なものの台頭の予防にもなるかも。
> >
> > それで、精神的事柄について話すときは、科学について話すときと違う何かを必要とすると私は思うのですが、もちろん論理だけではないし、心の交感があるための注意(attention)のホーカスが自ずと生まれる雰囲気とでも言うべきものが必要であると思います。我々はそのいわゆる宗教的儀式は大なり小なり知っていると思います。怪しげな偽物のあることも。
> >
> > だがまあ、それらは置いといて論理的な偽物は少なくとも自分で看破できなければならないと思いますが、一向に自信がない。自分自身の独我論的思い込みの前提、神話的英雄伝説の類、言葉を使う事でのパラドックスに突き当たるとき、突き当たっている壁を見破れるか? 自分の思考が、これこそは真実として握りしめる観念を虚偽のものと見抜くことができない限り、闇の中をさまようしかないのですが、我々の意識は自由な主体であるのか?無意識的に操られているだけの存在なのか?
> >
> > さて、どう進みますか。
>
>
>  探求は止まないようですね‥。
>
>  初めは、クリシュナムルティ理解として、クリシュナムルティの陳述内容を理解することに焦点を当てていましたが、クリシュナムルティが存在しなかったと仮定しても、その同じ探求は避けて通れない自然(宇宙)の理(ことわり)。
>
>  昨晩、「心を変える瞑想」を読みました。
>
>  ひと月ほど前、ゴトさんが「生の中の聖なるもの」とセットで読んだものです。
>
>  そのとき、ゴトさんが「探求は終わった・・」旨を述べていたので不思議に思っていました。

確かにそのように言ったように思います。しかしその心のありようが完全に忘れられています。そして好奇心は元通りにあります。焦った脅迫的な衝動ではなく。

いずれ、もういちど「心を変える瞑想」は読むことになるという確信がありますが、竹田青嗣氏が言っていることを理解して読まないといけないような気がして。少々気が長い話ですが。まだKを読みきるには成熟不十分なんですね。


[24841] Re:[24839] [24833] [24832] 絶対的な価値 投稿者:宮啓 投稿日:2017/11/27(Mon) 09:27  

> > > 自然科学での進め方は、どうも事物についての検討の一方法で、実験による検証を多くの人が行い、着実に成果を上げてよに認められてきました。
> > >
> > > しかし、事物にしても我々の進退がはっきり捉えれるものは感覚にしろわずかな範囲に限られています。昔に比べれば随分広がっていますが。
>
> 註 ここの進退は誤変換で「身体」が正しいです。すみませんでした。
>
> > >
> > > で、そうでなく調べる方法というものはないかというと知覚する、見る、聴くです。
> > >
> > > この見る、聴くという事を単なる感覚として、写真のごときものと考えると全く違います。まず人間同士の話すこと、身振り、振る舞いから、相手の気分、関心、体の調子、そんなことがかなり分かります。相手がそれを隠しているならそれも察せるという具合です。予想も想像もできます。
> > >
> > > これが心の持っている能力です。その心はどのようにして今自分に備わってあるのでしょうか?
> > >
> > > 生まれたばかりの赤ん坊は、まずお腹がすけば泣いてその欠乏を知らせます。母親はそれにこたえて乳首を含ませ、赤ん坊は母乳を吸って欠乏を満たすことができて眠ります。
> > > 最初は生理的な欠乏の感覚が、泣くというその時赤ん坊の唯一能う事で欲求を伝えます。それに母が答えるだけですが、それは最初のわずかの間で、赤ん坊の肉体の発達は舌や手が加わり、排泄時の泣き声も加わるというふうに事態は発展し、泣き声のトーンが多様化し、母の声掛けによってコミュニケーションが試行錯誤的に始まります。
> > >
> > > 赤ん坊はすぐに、眠ってばかりでなく、覚めて遊ぶ時間が出現します。親にせがんで高く差し上げてゆすったりしてもらってよろこんだり。そして家の中を歩き回ったり外へ連れて行ってもらったりして世界を広げます。玩具やテレビやアニメなどをどんどん知っていきます。
> > >
> > > そして始めはすべて欲求は受容されたのですが、必ずしもそうでなくなり禁止にも出会います。次の子供が生まれると競合者となり、嫉妬や、孤独も味わいます。美(例えば花の美しさ)の意味を子供時代に知るなら、これは高度の感覚?が備わったと言えるかもしれません。
> > >
> > > どうやら心とはこのようなもので、これを脳の機能であると言ってもよいかもしれませんが、脳の機能そのものがブラックボックスの中にあるので、あまり役に立たないでしょう。
> > >
> > > さて、心とは始め母親からの言語を通じた全人的交流によって試行錯誤的に形成され始め、それに他者・社会も参加し、広がっていきます。そして大人の心も常に変転していくものでしょうが、そしてそれは世の中を渡っていくための自分でもあるわけですが、自我とも言っていいようです。いや、実際にどうなのかな?
> > >
> > > このような心にとっての価値とは、特に絶対的な価値とは何だろうかと思って、Kの本や、最近出た竹田青嗣の欲望論1,2の2巻目「価値」の原理論を読んでいます。なお、1巻目は「意味」の原理論です。いずれも500ページの大著ですが、読んでみるつもりです。私にはかなりしっかり書かれた哲学書に見えます、啓蒙書ではありません。絶対的な価値がもし見えてきたらうれしいのですが。
> >
> >
> >  私の場合は、「絶対的な価値は?」と問われれば、「色眼鏡なく歪みなく見える視座」と思うことでしょう。
> >
> >  この視座がいかに困難かは、今の自他を見ても、歴史を見ても明らかに思います。
> >
> >  伝統や時代による歪み・色眼鏡。人の見方をいかようにも、本末転倒的にでも、転倒夢想的にでも、いかようにも見せることができる色眼鏡。
> >
> >  そんな中、「色眼鏡なく歪みなく見える視座」の価値が高まるようです。
>
>
> 見る、聴く、知覚するには単なる視覚、聴覚でなく、精神的なものを含めての全体状況を知ること(洞察)ができる事にはちょっと触れましたが、そこで展開する人間関係は実は意識の領分での感情を交えたゲーム感覚というべきもので、科学的な認証関係ではないのかと思います。ユーモアとか、笑いはそれを表す一面、潤滑油のようなものかもしれません。Kは講話ではジョークは少ないですが言いますし、ジョークは結構好きだったらしいです。
>
> しかし、本当の宗教心は僧堂のそれではない厳粛さがあるという事ですし、そこはよくわかりません。ひとつのすべ(術・アート)なのかな。権威主義的なものがある雰囲気を溶かすとかもあるのかな。 暴力的なものの台頭の予防にもなるかも。
>
> それで、精神的事柄について話すときは、科学について話すときと違う何かを必要とすると私は思うのですが、もちろん論理だけではないし、心の交感があるための注意(attention)のホーカスが自ずと生まれる雰囲気とでも言うべきものが必要であると思います。我々はそのいわゆる宗教的儀式は大なり小なり知っていると思います。怪しげな偽物のあることも。
>
> だがまあ、それらは置いといて論理的な偽物は少なくとも自分で看破できなければならないと思いますが、一向に自信がない。自分自身の独我論的思い込みの前提、神話的英雄伝説の類、言葉を使う事でのパラドックスに突き当たるとき、突き当たっている壁を見破れるか? 自分の思考が、これこそは真実として握りしめる観念を虚偽のものと見抜くことができない限り、闇の中をさまようしかないのですが、我々の意識は自由な主体であるのか?無意識的に操られているだけの存在なのか?
>
> さて、どう進みますか。


 探求は止まないようですね‥。

 初めは、クリシュナムルティ理解として、クリシュナムルティの陳述内容を理解することに焦点を当てていましたが、クリシュナムルティが存在しなかったと仮定しても、その同じ探求は避けて通れない自然(宇宙)の理(ことわり)。

 昨晩、「心を変える瞑想」を読みました。

 ひと月ほど前、ゴトさんが「生の中の聖なるもの」とセットで読んだものです。

 そのとき、ゴトさんが「探求は終わった・・」旨を述べていたので不思議に思っていました。


[24840] Re:[24836] [24832] 絶対的な価値 投稿者:ゴト 投稿日:2017/11/26(Sun) 22:07  

> > 美(例えば花の美しさ)の意味を子供時代に知るなら、これは高度の感覚?が備わったと言えるかもしれません。
>
> 美しさって何でしょうか。たしかに成長に従ってその感覚に気付いたり変化したりするように思えますが、条件付けなどではないような気がします。かといって音楽のように自然界には無かったはずのものに美を感じるのも不思議です。


美について何か言えるようになったら必ず書きます。でも今は書く力がありません。
ただ、対象化した対象に美を感じていたのですが、その知覚をもたらしてくれるたまたまのぴったりの陽光と背景があることと、それを美しく感じる自分は何なのだろうと思いました。


[24839] Re:[24833] [24832] 絶対的な価値 投稿者:ゴト 投稿日:2017/11/26(Sun) 21:44  

> > 自然科学での進め方は、どうも事物についての検討の一方法で、実験による検証を多くの人が行い、着実に成果を上げてよに認められてきました。
> >
> > しかし、事物にしても我々の進退がはっきり捉えれるものは感覚にしろわずかな範囲に限られています。昔に比べれば随分広がっていますが。

註 ここの進退は誤変換で「身体」が正しいです。すみませんでした。

> >
> > で、そうでなく調べる方法というものはないかというと知覚する、見る、聴くです。
> >
> > この見る、聴くという事を単なる感覚として、写真のごときものと考えると全く違います。まず人間同士の話すこと、身振り、振る舞いから、相手の気分、関心、体の調子、そんなことがかなり分かります。相手がそれを隠しているならそれも察せるという具合です。予想も想像もできます。
> >
> > これが心の持っている能力です。その心はどのようにして今自分に備わってあるのでしょうか?
> >
> > 生まれたばかりの赤ん坊は、まずお腹がすけば泣いてその欠乏を知らせます。母親はそれにこたえて乳首を含ませ、赤ん坊は母乳を吸って欠乏を満たすことができて眠ります。
> > 最初は生理的な欠乏の感覚が、泣くというその時赤ん坊の唯一能う事で欲求を伝えます。それに母が答えるだけですが、それは最初のわずかの間で、赤ん坊の肉体の発達は舌や手が加わり、排泄時の泣き声も加わるというふうに事態は発展し、泣き声のトーンが多様化し、母の声掛けによってコミュニケーションが試行錯誤的に始まります。
> >
> > 赤ん坊はすぐに、眠ってばかりでなく、覚めて遊ぶ時間が出現します。親にせがんで高く差し上げてゆすったりしてもらってよろこんだり。そして家の中を歩き回ったり外へ連れて行ってもらったりして世界を広げます。玩具やテレビやアニメなどをどんどん知っていきます。
> >
> > そして始めはすべて欲求は受容されたのですが、必ずしもそうでなくなり禁止にも出会います。次の子供が生まれると競合者となり、嫉妬や、孤独も味わいます。美(例えば花の美しさ)の意味を子供時代に知るなら、これは高度の感覚?が備わったと言えるかもしれません。
> >
> > どうやら心とはこのようなもので、これを脳の機能であると言ってもよいかもしれませんが、脳の機能そのものがブラックボックスの中にあるので、あまり役に立たないでしょう。
> >
> > さて、心とは始め母親からの言語を通じた全人的交流によって試行錯誤的に形成され始め、それに他者・社会も参加し、広がっていきます。そして大人の心も常に変転していくものでしょうが、そしてそれは世の中を渡っていくための自分でもあるわけですが、自我とも言っていいようです。いや、実際にどうなのかな?
> >
> > このような心にとっての価値とは、特に絶対的な価値とは何だろうかと思って、Kの本や、最近出た竹田青嗣の欲望論1,2の2巻目「価値」の原理論を読んでいます。なお、1巻目は「意味」の原理論です。いずれも500ページの大著ですが、読んでみるつもりです。私にはかなりしっかり書かれた哲学書に見えます、啓蒙書ではありません。絶対的な価値がもし見えてきたらうれしいのですが。
>
>
>  私の場合は、「絶対的な価値は?」と問われれば、「色眼鏡なく歪みなく見える視座」と思うことでしょう。
>
>  この視座がいかに困難かは、今の自他を見ても、歴史を見ても明らかに思います。
>
>  伝統や時代による歪み・色眼鏡。人の見方をいかようにも、本末転倒的にでも、転倒夢想的にでも、いかようにも見せることができる色眼鏡。
>
>  そんな中、「色眼鏡なく歪みなく見える視座」の価値が高まるようです。


見る、聴く、知覚するには単なる視覚、聴覚でなく、精神的なものを含めての全体状況を知ること(洞察)ができる事にはちょっと触れましたが、そこで展開する人間関係は実は意識の領分での感情を交えたゲーム感覚というべきもので、科学的な認証関係ではないのかと思います。ユーモアとか、笑いはそれを表す一面、潤滑油のようなものかもしれません。Kは講話ではジョークは少ないですが言いますし、ジョークは結構好きだったらしいです。

しかし、本当の宗教心は僧堂のそれではない厳粛さがあるという事ですし、そこはよくわかりません。ひとつのすべ(術・アート)なのかな。権威主義的なものがある雰囲気を溶かすとかもあるのかな。 暴力的なものの台頭の予防にもなるかも。

それで、精神的事柄について話すときは、科学について話すときと違う何かを必要とすると私は思うのですが、もちろん論理だけではないし、心の交感があるための注意(attention)のホーカスが自ずと生まれる雰囲気とでも言うべきものが必要であると思います。我々はそのいわゆる宗教的儀式は大なり小なり知っていると思います。怪しげな偽物のあることも。

だがまあ、それらは置いといて論理的な偽物は少なくとも自分で看破できなければならないと思いますが、一向に自信がない。自分自身の独我論的思い込みの前提、神話的英雄伝説の類、言葉を使う事でのパラドックスに突き当たるとき、突き当たっている壁を見破れるか? 自分の思考が、これこそは真実として握りしめる観念を虚偽のものと見抜くことができない限り、闇の中をさまようしかないのですが、我々の意識は自由な主体であるのか?無意識的に操られているだけの存在なのか?

さて、どう進みますか。


[24838] クリシュナムルティと盤珪 投稿者:外野席 投稿日:2017/11/26(Sun) 10:12  

 中野多一郎という人は、クリシュナムルティのたくさんの訳者の中で異色な人のようである。彼の著書のあとがきには盤珪師のことが書かれてある。両者に一致点を見出したようだ。両者共特定の組織に属さないアウトサイダーとして。

 彼は又Kの訳書を出した。「思考の欺瞞ー知性のまやかし」。この本はクリシュナムルティとボームの対談集。以前の訳は「クリシュナムルティ・ノート」(たま出版)。
 いずれも大野氏のコスモライブラリー出版ではない。他の訳者とは一線を画している。詳しい経歴は書かれていない。
 その中野氏がホームページを出しているというので、「クリシュナムルティと盤珪」を検索したら24837の文章につきあたったというわけである。



[24837] 不生の仏心 投稿者:外野席 投稿日:2017/11/26(Sun) 09:55  

引用
クリシュナムルティと盤珪 関連

心の通信H22・7・6《不生の仏心》


不生の仏心

 江戸初期の禅僧盤珪禅師が指摘された「不生で一切がととのう」とは、いったいどういうことなのであろうか。
 盤珪禅師は何度もこう語りかけられる。
 「親の産み付けたもったは、仏心一つでござる。余のものは一つも産み付けはさしゃりませぬ。その親の産み付けてたもった仏心は、不生にして霊明(れいみょう)なものでござって、不生で一切のことが調いまする。
 その不生で一切のことが調いまする証拠は、みなの衆がこちらを向いて、身どもが言うことを聞いてござるうちに、後ろにてカラスの声、雀の声、それぞれの声が、聞こうと思う念を生ぜずに居るに、カラスの声、雀の声が通じ別れて、聞きたがわず聞かるるは、不生で聞くというものでござる。その如くに一切のことが不生で調いまする。これが不生の証拠でござる。
 その不生にして霊明なる仏心にきわまったと決定(けつじょう)して、直に仏心のままで居る人は、今生より未来永劫の活仏(いきぼとけ)活如来(いきにょらい)でござるわいの。今日より活仏心でおる故に、我が宗を仏心宗と言いまする」。
 この盤珪禅師が直裁なことばに、解説はいらないのだが、それでも、禅師は江戸初期の方、現代は「仏心」、「不生」、「決定」、「活仏」、「活如来」ということばにはほとんどなじみがないので、理解しにくいと感じる。実は、僧侶でも必ずしもこの辺りを直截に把握できるものは、盤珪禅師の頃も、現代も少ないと言われている。これほど、簡単明瞭であるものが、どうして、難しくなるかというと、頭で理解しようとしているからにほかならない。「悟得」がなければ、ただのことばに過ぎないことを示している。
 それにしても、盤珪禅師が述べられる「仏心」とは何であろう。
 端的に示せば「仏のもつ心」、「仏のような慈悲深い心」を云い、その「仏心」一つのみをわれわれ自身に生み付けられ、活きているということである。  「仏」というのは「ほとけ」であるがこれは「完全なる覚り」を開いた「ブッダ(仏陀)」のことである。それは、とりもなおさずお釈迦さまであるのだが、正確には、ひとりの人間であるお釈迦さまが「完全なる覚り」を開いて、正覚者「ブッダ(仏陀)」となられたということである。
 ここで、大事なことは、ひとりの人間、それはとりもなおさずお釈迦さまであり、盤珪禅師であり、これをお読み下さっている読者ご自身、つまり、「私自身」であるが、まさに「ひとりの人間が覚醒してブッダ」となるというところである。

  「仏」というのは「ほとけ」であるがこれは「完全なる覚り」を開いた「ブッダ(仏陀)」のことである。それは、とりもなおさずお釈迦さまであるのだが、正確には、ひとりの人間であるお釈迦さまが「完全なる覚り」を開いて、正覚者「ブッダ(仏陀)」となられたということである。
 ここで、大事なことは、ひとりの人間、それはとりもなおさずお釈迦さまであり、盤珪禅師であり、これをお読み下さっている読者ご自身、つまり、「私自身」であるが、まさに「ひとりの人間が覚醒してブッダ」となるというところである。 では、「真理と云うが、いったいどんな真理に覚醒してブッダとなるのか」。実は、ここからが難しい。いや、難しいというのは、真理を覚るための修行や方法、その内容が難しいというのではない。難しいのは、人はよく「真理を覚るべきだ」というが、そういう場合、大抵は経験や幻想の自己欺瞞に陥りやすく(これは、『こころの通信』で何度も指摘してきたところであるが)、真理を見誤りがちであるという難しさである。

 だから、どんな真理に到達してブッダとなるかという命題は仏教の根本命題でありながら、まさに、そういった意味で難しい。
 その困難さを克服されブッダになられたお釈迦さまは、では一体、何を覚醒されたのか。その内容をことばにすること自体が間違いなので、もちろん、お釈迦さまはお説きになられることはなかった。それは、龍樹尊者やクリシュナムルティも同様であった。説くことの欺瞞性をブッダも龍樹尊者もクリシュナムルティも見抜いておられた。(龍樹:2000年前、インドの大乗仏教を確立した僧)
 ゆえに、ブッダは教えるのを拒まれたわけではなく、言語概念を超え、しかも、感覚が麻痺した神秘体験などの欺瞞性とは異なる、全き精神の沈黙や透徹した明晰性がなければ人が「不生」を覚醒することはありえないために、各人の覚醒を呼びかけられたのであった。
 では、この現象世界に繰り広げられる「生滅」あるいは「生死流転」に非ざる「不生」を活きるには上記のように、寂滅した境地や精神の沈黙に依らざれば不可能なのだろうか。それゆえ厳しい修行と修練が必要なのであろうかというと、ブッダも龍樹もクリシュナムルティも盤珪も、そのようなことは、また何かに至ろうとする欺瞞であると指摘をすることはあっても、そのような意味での修行によって至れるとは一言も発せられていない。ただ禅定と智慧(思惟)によってであると言われる。
 では、この現象世界に繰り広げられる「生滅」あるいは「生死流転」に非ざる「不生」を活きるには上記のように、寂滅した境地や精神の沈黙に依らざれば不可能なのだろうか。それゆえ厳しい修行と修練が必要なのであろうかというと、ブッダも龍樹もクリシュナムルティも盤珪も、そのようなことは、また何かに至ろうとする欺瞞であると指摘をすることはあっても、そのような意味での修行によって至れるとは一言も発せられていない。ただ禅定と智慧(思惟)によってであると言われる。
 では、「不生」とは何であるのか。筆者は「不生」は現代的に云えば「エネルギー」であると見ている。確かに「エネルギー」は直接把握できないが、この現象界にさまざまに形態として、発生し、作用し、変化し、滅するけれども、まさにそのエネルギーそのものは変わらない。すなわち、「エネルギー不滅の法則」こそ、「不生」の法則性を如実に示している。エネルギーが先験的になければ、ものは発生してこない。そしていったん出現したものは即消滅しなければ、エネルギーが新たに開花することはない。この現象界も、あるいは物質界を超えたエーテル界、アストラル界、メンタル界、ブッディ界、コザール界などといわれる意識界や霊界といわれるものもエネルギーが生死流転することによって展開している虚妄なる世界である。ゆえに「それらに執着するな」とブッダも龍樹もクリシュナムルティも語られ、盤珪は「身びいきが執着と迷いを生むからそれを離れよ」と語る。生滅する世界に執着するのは自己中心性にほかならない。遍満しているエネルギーを断片化しようとするものである。太陽光を切り出して使おうとしても、切り出した途端、光は消えるようなもので、光源であるエネルギーが背後に脈々と息づいていなければ光は生まれることはないようなものであろう。つまり、「エネルギー」も「不生」も現象世界を生み出しはしても、この現象世界でそれらを把握することはできないが、それは、決して「零」や「虚無」、「うつろな空っぽの空」とは全く異なり、「常に新たに創出する」無碍自在に遍満する「慈愛」そのものにほかならないものである。「不生」が無限のエネルギーとして到来し現象化するがゆえに「如来」といわれ、エネルギーが常に新たに刻々に創造されるがゆえに「活仏」といわれ、まさにわれわれ自身をもたらしているものこそ、この刻々のエネルギーすなわち「不生」であり、刻々に意識化する「不生の仏心」であり、それは後天的に獲得され、脚色されるような代物ではなく、「カラスの声、雀の声、それぞれの声が、聞こうと思う念を生ぜずに居るに、カラスの声、雀の声が通じ別れて、聞きたがわず聞かるるは、不生で聞く」あるがままで天真爛漫な「不生の仏心」である。
 まさしく、その「不生にして霊明なる仏心にきわまったと決定(けつじょう)して、直に仏心のままで居る人は、今生より未来永劫の活仏(いきぼとけ)活如来(いきにょらい)でござるわいの」である。





[24836] Re:[24832] 絶対的な価値 投稿者:ヨミ 投稿日:2017/11/25(Sat) 23:30  

> 美(例えば花の美しさ)の意味を子供時代に知るなら、これは高度の感覚?が備わったと言えるかもしれません。

美しさって何でしょうか。たしかに成長に従ってその感覚に気付いたり変化したりするように思えますが、条件付けなどではないような気がします。かといって音楽のように自然界には無かったはずのものに美を感じるのも不思議です。


[24835] テレパシー 投稿者:外野席 投稿日:2017/11/25(Sat) 10:05  

精神感応「テレパシー」無言の会話術 1978年発行
ジョージアダムスキー著 久保田八郎訳

まえがき

 精神感応力(テレパシー)は、あらゆる生きものに本来そなわっている能力であって、これによって自分の感じていることを他のすべての生きものに伝えることが出来ます。
 「自然」はいうまでもなくこの法則に従っていて、「自然」のいずれの要素も一つの統一された全体として「現われ」の成就をもたらすために自身を解放しています。
 人間とは「活動してる想念(ソート)」です。
 しかし、理解力の乏しさから、人類は様々なゆがみをひきおこし、そのために現在いたるところに見られるような大混乱を生じるに至りました。
 人間は働くための道具を色々もっていますが、無我の自己表現というもっと大きな分野で人間に奉仕する力が自分の中に具わっているという自覚は失ってきています。
 低劣な想念を高く向上させて押し進めてゆく人間の能力は、円、三角、四角の形をしたものが収めてある万華鏡にたとえることができます。
 回転するごとに新しい模様が展開します。
 同じ模様は一つもありません。
 人間が宇宙と一体であるという自覚に達するとき、万華鏡の場合と同じ「変化の法則」が絶えず変転し生長してやまない模様を描き出して、充実した生命観を人間におこさせるでしょう。
 この目的を達するために、触感とは神経の反応にすぎませんが、「感じ」とは「注意の状態」であるということを理解する必要があります。
 真の「注意の状態」とは意識的な意識であって、これこそ包容する「宇宙の英知」です。
        ジョージ・アダムスキー

追記 
 「注意の状態」について。
 本文では、そこのところが「警戒の状態」となっていたが、ある人から「注意の状態」の訳が方がふさわしいといわれ修正したものである。はたして原文の英語はどうなっているのだろうか?現在となってはわからない。
 警戒する、注意するの原文は? awareness ? なのだろうか。




 



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