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[25896] Kathryn 投稿者:Kathryn 投稿日:2018/09/21(Fri) 12:34  

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[25895] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/09/21(Fri) 09:17  

>終戦後間もなく、自然の豊かさは豊富にあったのではないでしょうか。。

何を想像してるのか。

> 海の幸、山の幸は、漁師や狩猟者等の専門職だけのものではなく、普通の人々が、ひょいと海や山へでかけ、収穫物をとってくる。。恵みの海、山。。愛のような海や山。

 そのような自然と、断絶が今の時代、大きくなっていないでしょうか。

おたくの言っていることは、いつも思考の領域。最後はいつも? がつく。
クリシュナムルティや新しい芽氏が最も意味嫌うところ。
彼らの記述は事実のみの描写であって、想像イメージではない。
感じたものを描写している。

>そのような自然との触れ合いが大きく、人の生命が尊ばれていた、終戦間もない戦後の時代、ミクロ的には、思考を超えた愛が、所々にちりばめられていたことを、ゴトさんは感じていたのですね。。亡き母の中にも・・。

何で人様のプライベートに踏み込むのか。
戦争中の話が何でクリシュナムルティと関係あるのか。
今議論になっているのは、「見る」「聞く」の話だろう。
何で話をそらすのか。



[25894] Re:[25892] [25873] 既知からの自由11−1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/09/20(Thu) 12:08  

> > 11章−1 [見ることと聞くこと] [芸術]
> >
> > 私たちは愛の性質を調べてきました。そして問題に対してより一層入ること、より一層気づくことが必要な地点に来たと私は思います。多くの人々にとって愛は、慰め、安心、残りの人生に対していつも情緒的満足が保証されることを意味することがわかりました。そして私のような誰かがやってきて、「それは本当に愛だろうか?」と尋ね、自分自身の内側を見るように求めます。そしてそれは心を乱すので見ないよう努めます ― あなたはむしろ魂とか政治や経済状況を論じたいのです ― しかし見る羽目に追い込まれるとき、いつも愛とだ思っていたものがまったく愛ではないことを実感します。それは相互の満足、相互の利用なのです。
>
>
> > 多くの人々にとって愛は、慰め、安心、残りの人生に対していつも情緒的満足が保証されることを意味することがわかりました。−−
> > しかし見る羽目に追い込まれるとき、いつも愛とだ思っていたものがまったく愛ではないことを実感します。それは相互の満足、相互の利用なのです。−−
>
> これらは現状をマクロ的には実にぴったりと表現しています。ミクロ的には様々な差異があるでしょう。そのなかには本当の愛も、差異を超えて、あるのかもしれません。


 終戦後、人の生命は大切に扱われたのではないでしょうか。。

 多くの死者(戦没者)を偲びつつ、生き延びた人々も紙一重で死と隣り合わせに居た。

 そのような時代には、生命が尊ばれ大切にされていたのではないでしょうか。。

 今の時代は、道徳、モラル、常識等々の観念が生命の大切さを指摘するが、心根にまで届いているのだろうか。。
 平気でいじめ抜く子ども達と我関せずの教師達。

 ゴトさんの戦後間もない時代、生命が尊ばれていたのではないでしょうか。。



> >  私が「愛には明日はなく、昨日もありませ
> ん」とか「中心がないとき愛がある」というとき、それは私にとっては現実ですが、あなたにとってはそうではありません。それを引用し、決まり文句にするかもしれませんが、それは正当性を持ちません。あなたはそれを自分自身で見るべきですが、そうするには見るための自由が、あらゆる非難、あらゆる判断、あらゆる同意や不同意からの自由がなければなりません。
>
>
> > あなたはそれを自分自身で見るべきですが、そうするには見るための自由が、あらゆる非難、あらゆる判断、あらゆる同意や不同意からの自由がなければなりません。−−
>  観念的理解から実際の理解に入るには非難、判断から自由な「見る」が必要であることが出てきました。
>
>
> >  さて、見ることは生において最も困難なことの一つです ― 聞くことも ― 見ることと聞くことは同じです。心配事で目が見えなくなるなら、日没の美しさを見ることはできません。ほとんどの人は自然との接触を失っています。文明はますます大都会に向かっています。私たちはますます都会人になっており、込み合ったアパートに住み、朝晩に空を見る空間もほとんどなく、それゆえ多くの美との接触を失っているのです。あなたが気づいているかどうか知りませんが、日の出や日の入り、月の光や水に反射する光を見る人のいかに少ないことか。
> >
> >  自然との接触を失ったので、私たちは自ずと知的能力を発達させる傾向にあります。非常にたくさんの本を読み、多くの美術館やコンサートに行き、テレビを見、そのほか多くの娯楽を持ちます。私たちは際限なく他人の考えを引用し、芸術について非常に多くを考え、語ります。私たちがそんなに芸術に依存するのは何故でしょうか? それはある種の逃避、刺激なのでしょうか? 自然と直接接触しているなら、飛んでいる鳥の動きを見つめ、空のあらゆる動きの美しさを見、日の影を見つめ、ほかの人の顔の美しさを見るなら、絵を見に美術館に行きたいと考えるでしょうか? おそらく自分の周りのあらゆるものをどのように見るか知らないので、よりよく見えるよう刺激するある種のドラッグに頼るのです。
>
>
> ここはすでに無明さんと語り合いましたね。>
>
>
> >  毎朝弟子に話をしていた。ある宗教の教師に話があります。ある朝教壇に立ってちょうど始めようとしたとき、一羽の小鳥が来て窓の敷居に止まりさえずり始め、元気一杯歌いました。それから鳴きやみ飛び去り、教師は「今朝の説教はおしまい」と言ったのです。
>
>
> このこの小話は見る、聴くことの重要性を示しているのでしょうが、それができないのは都会人でありかつ忙しい、つまり、心を何かに常に占有されているという事ですかね。
>
> > (続く)


 終戦後間もなく、自然の豊かさは豊富にあったのではないでしょうか。。

 海の幸、山の幸は、漁師や狩猟者等の専門職だけのものではなく、普通の人々が、ひょいと海や山へでかけ、収穫物をとってくる。。恵みの海、山。。愛のような海や山。

 そのような自然と、断絶が今の時代、大きくなっていないでしょうか。

 そのような自然との触れ合いが大きく、人の生命が尊ばれていた、終戦間もない戦後の時代、ミクロ的には、思考を超えた愛が、所々にちりばめられていたことを、ゴトさんは感じていたのですね。。亡き母の中にも・・。


[25893] 既知からの自由11ー2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/20(Thu) 09:19  

11章ー2 [美] [厳しさ]

 最も難しいことの一つは、外部のものだけでなく内部の生も、自分自身で本当に明確に見ることだと私は思います。木や花や人を見ると言うとき、実際に見ているでしょうか? それとも単にその言葉がつくり出したイメージを見ているだけなのでしょうか? つまり、木や、光と喜びに満ちた夕方の雲を見るとき、ただ目で、そして知的に見るだけでなく、全的に、完全に、実際に見ているでしょうか?

 あなたは一本の木のような対象物を、どんな連想も、それについて得たどんな知識もなしに、あなたと木の間に遮蔽物をつくって木をありのままに見ることを妨げるどんな偏見、どんな判断、どんな言葉もなしに見ることを実験したことがありますか? それをやってみて、木を全存在で、全エネルギーを注いで観察するとき、実際に何が起こるか見て下さい。その強烈さの中に観察者は全くないことを見いだすでしょう。注意だけがあります。観察者と観察されるものがあるのは不注意があるときです。何かを完全な注意で見ているとき、概念や、公式や記憶の入る余地はありません。このことを理解することが重要です。何故なら私たちは非常に注意深い探求を必要とすることに入りつつあるからです。

 完全な自己放棄で木や星やきらめく川の水を見る心だけが美とは何かを知ります。そして実際に見ているとき私たちは愛の状態にあります。普通は比較したり、人が組み立てたものを通じて美を知りますが、それは私たちが美を何かの対象に起因すると考えていることを意味します。 私は、私が美しい建築であると考えるものを見、そしてその美を自分の建築の知識のせいで、またそれを私が見たほかの建築と比較することによって味わうのです。しかしいま私は自分自身に「対象なしに美はあるだろうか?」と尋ねています。検閲者、経験者、思考者である観察者がいるとき、美は外部の何か、観察者が見て判断する何かであるため、美はありません。だが観察者がないとき ― そしてこのことは大変な瞑想、探求を必要とします ― そのとき対象なしの美があります。

 美は観察者と観察されるものの完全な放棄の中にあります。そして自己放棄があり得るのは完全な厳しさがあるときのみです ― 過酷さ、制裁、規則と服従を伴う聖職者の厳しさではなく ― 衣服、考え、食物、振舞の質素さではなく ― 完全に単純である厳しさであり、それは完全な謙虚さです。そのとき達成することはなく、登る梯子もありません。最初の一歩があるだけでその第一歩が永遠の一歩です。

 例えば一人、あるいは誰かと歩いていて、そして話すのをやめたとしましょう。自然に囲まれており、犬も吠えず、車の通る音も、鳥の羽ばたきさえもありません。あなたは完全に沈黙しており、まわりの自然もまた全く沈黙しています。観察者と観察されるものの両方のその沈黙な中に ― 観察者が彼の観察したものを思考に翻訳しないとき ― その沈黙の中に違う質の美があります。自然も観察者もありません。全く、完全に、ただ一人の心の状態があります。それは一人です ― 孤立ではありません ― 静寂の中にただ一人、そしてその静寂は美です。あなたが愛するとき観察者がいるでしょうか? 愛が欲望と快楽であるときのみ観察者がいます。欲望と快楽が愛と関連していないとき、愛は強烈です。愛は、美のように、日々全く新しいものです。すでに述べたように、愛は昨日や明日を持ちません。

(続く)


[25892] Re:[25873] 既知からの自由11−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/20(Thu) 09:05  

> 11章−1 [見ることと聞くこと] [芸術]
>
> 私たちは愛の性質を調べてきました。そして問題に対してより一層入ること、より一層気づくことが必要な地点に来たと私は思います。多くの人々にとって愛は、慰め、安心、残りの人生に対していつも情緒的満足が保証されることを意味することがわかりました。そして私のような誰かがやってきて、「それは本当に愛だろうか?」と尋ね、自分自身の内側を見るように求めます。そしてそれは心を乱すので見ないよう努めます ― あなたはむしろ魂とか政治や経済状況を論じたいのです ― しかし見る羽目に追い込まれるとき、いつも愛とだ思っていたものがまったく愛ではないことを実感します。それは相互の満足、相互の利用なのです。


> 多くの人々にとって愛は、慰め、安心、残りの人生に対していつも情緒的満足が保証されることを意味することがわかりました。−−
> しかし見る羽目に追い込まれるとき、いつも愛とだ思っていたものがまったく愛ではないことを実感します。それは相互の満足、相互の利用なのです。−−

これらは現状をマクロ的には実にぴったりと表現しています。ミクロ的には様々な差異があるでしょう。そのなかには本当の愛も、差異を超えて、あるのかもしれません。

>  私が「愛には明日はなく、昨日もありませ
ん」とか「中心がないとき愛がある」というとき、それは私にとっては現実ですが、あなたにとってはそうではありません。それを引用し、決まり文句にするかもしれませんが、それは正当性を持ちません。あなたはそれを自分自身で見るべきですが、そうするには見るための自由が、あらゆる非難、あらゆる判断、あらゆる同意や不同意からの自由がなければなりません。


> あなたはそれを自分自身で見るべきですが、そうするには見るための自由が、あらゆる非難、あらゆる判断、あらゆる同意や不同意からの自由がなければなりません。−−
 観念的理解から実際の理解に入るには非難、判断から自由な「見る」が必要であることが出てきました。


>  さて、見ることは生において最も困難なことの一つです ― 聞くことも ― 見ることと聞くことは同じです。心配事で目が見えなくなるなら、日没の美しさを見ることはできません。ほとんどの人は自然との接触を失っています。文明はますます大都会に向かっています。私たちはますます都会人になっており、込み合ったアパートに住み、朝晩に空を見る空間もほとんどなく、それゆえ多くの美との接触を失っているのです。あなたが気づいているかどうか知りませんが、日の出や日の入り、月の光や水に反射する光を見る人のいかに少ないことか。
>
>  自然との接触を失ったので、私たちは自ずと知的能力を発達させる傾向にあります。非常にたくさんの本を読み、多くの美術館やコンサートに行き、テレビを見、そのほか多くの娯楽を持ちます。私たちは際限なく他人の考えを引用し、芸術について非常に多くを考え、語ります。私たちがそんなに芸術に依存するのは何故でしょうか? それはある種の逃避、刺激なのでしょうか? 自然と直接接触しているなら、飛んでいる鳥の動きを見つめ、空のあらゆる動きの美しさを見、日の影を見つめ、ほかの人の顔の美しさを見るなら、絵を見に美術館に行きたいと考えるでしょうか? おそらく自分の周りのあらゆるものをどのように見るか知らないので、よりよく見えるよう刺激するある種のドラッグに頼るのです。


ここはすでに無明さんと語り合いましたね。>


>  毎朝弟子に話をしていた。ある宗教の教師に話があります。ある朝教壇に立ってちょうど始めようとしたとき、一羽の小鳥が来て窓の敷居に止まりさえずり始め、元気一杯歌いました。それから鳴きやみ飛び去り、教師は「今朝の説教はおしまい」と言ったのです。


このこの小話は見る、聴くことの重要性を示しているのでしょうが、それができないのは都会人でありかつ忙しい、つまり、心を何かに常に占有されているという事ですかね。

> (続く)


[25891] メッセージ 投稿者:無明 投稿日:2018/09/20(Thu) 08:23  

嵯峨美術大学森本武学長のメッセージ

脳というわがままで、自己防衛にやっきになっている肉塊から出てくる「考え」は信じないことです。自他の区別なく、一切を常に疑い、今起こっていることだけを受け入れるのが最善かとおもいます。大学は「疑い力養成道場」でいいのではないでしょうか。

きしくも新しい芽氏とスタンスが同じ。クリシュナムルティの真摯な探求者は、最後はここに行きつくようだ。

自身の考えは信じず、一切を常に疑い、今起こっていることだけを受け入れる。



[25890] 鈍感 投稿者:無明 投稿日:2018/09/20(Thu) 06:13  

25888をみてもわかるように、25886の長い文章を、何でそっくり載せる必要があるのか。まさに鈍感。感受性のかけらもない。下の何行かを貼り付けしてコメントすれば互いにやり取りがわかるはず。
このことは新しい芽氏が指摘したことでもある。
スマホなら、いざ知らず、パソコンなら文章を消せるはずだ。


[25889] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/09/20(Thu) 05:59  

>クリシュナムルティのレベルではなくとも、新しい芽さんのレベルまでは、何とか行きたいものですね。。

レベル?人を思考で計っているのか。

>これは、なりゆくことではないか・・?

意味不明。

>と、問われても、『生の全体性』や『時間の終焉』にて、それに至るために重要なことが、クリシュナムルティによって陳述されているので、どうしようもありませぬ。。

はい。どうしようもない 。本を読むだけでは。
頭でっかち。知識を募るのみ。
おたくは一向に自分自身に向き合おうとはしない。
本を読んで自身のカタルシスに酔う。
日常の異空間を楽しんでいるだけ。
まさにKに依存。Kの記述は、所詮言葉に過ぎぬ。
自分の言葉で話せず、人の引用に頼る。
外部のことなど、どうでもいい。
重要なのは、人の内部にある「内なる感受性」ということが一向にわからぬようだ。





[25888] Re:[25886] [25883] [25878] [25864] 既知からの自由10−4 投稿者:宮啓 投稿日:2018/09/19(Wed) 20:41  

> > > > 10[愛]−4
> > > >
> > > >  この引き裂かれた砂漠のような世界の中では、快楽と欲望が最も大きな役割を演じるので愛はありません。それにもかかわらず愛なしには毎日の生活は意味がありません。そしてもし美がないなら、愛を持つことはできません。美は目で見る何かではありません ― 美しい木、美しい絵、美しい建物あるいは美しい女性ではありません。ハートと心が愛が何かを知るときのみ、美があります。愛と美のあの感覚なしに徳はなく、そしてあなたは欲することをし、社会を改良し、貧民を養っても一層の災厄を造り出しているだけであろうという事を非常によく知っています。というのは愛なしには自分自身のハートと心の中には醜さと貧しさがあるだけだからです。しかし愛と美があるときは、することは何であろうが正しく、何であろうが秩序があります。いかに愛するかを知っているなら、そのとき好きなことをすることが出来ます。なぜならそれがほかの問題をすべて解決するでしょうから。
> > >
> > >
> > > この最後の10-4でKは愛についてのまとめあるいは意義を述べていると思います。それは実はトップダウン的な感じで受け取ることになるでしょう。それは少しく基礎が不足しているからではないかと思います。それが実は次の第11章の内容のようです。私は今11章を半分ぐらいしか読んでいませんがそう思います。
> >
> >
> >  トップダウン的な説明は、短い時間に述べるときに述べられる手法のように感じます。
> >  クリシュナムルティは1回の講話を、その1回自体でも完結しているように陳述されている旨を述べていました。
> >
> >  1シリーズの講話を初回から最終回まで聴ければ一番良いのですが、途中から聞いて、途中で去る聴衆もいるので、すべての回が、それ自体で完結できているように述べているとのことです。
> >
> >  愛について1回の講話で説明するならば、このようなトップダウン的に要約の陳述のみを行い、その詳細については、後日、各々の聴衆が自ら本やテープ、ビデオ等で改めて調べることができるということではないでしょうか。。
>
> トップダウンというか、結論を先に言う事は何の問題もありません。ただ私は大体基礎的なことは理解しているつもりでしたが、全く初めて聞いたので慌てたという事ですね。その基礎は11章にあるとすると、10章の1〜3は何を言っていたかという疑問がありますが、これは10−4の飛躍のための助走という感じがします。どうもお騒がせしてすみません。
>
>
> > >  > もし美がないなら、愛を持つことはできません。美は目で見る何かではありません ― 美しい木、美しい絵、美しい建物あるいは美しい女性ではありません。−− これは今まで読んできたことからはわかりません。11章はその意味で重要な章です。
> >
> >
> >  11章を楽しみにしています。。
> >
> >
> > > >  そこで私たちは要点に達します。訓練なしに、思考なしに、強制なしに、どんな本やどんな教師や指導者もなしに、心は愛に出会うことが ― 美しい夕焼けに出会うようにそれに出会うことができるでしょうか? 私には一つのことが絶対に必要であり、そしてそれは動機なき情熱 ― ある献身や執着の結果でない情熱、渇望ではない情熱であると思われます。情熱が何か知らない人は決して愛を知らないでしょう。なぜなら愛は完全な自己放棄があるときのみ存在できるからです。
> > >
> > >
> > > 「完全な自己放棄」― これはいったい何でしょう。実際にはどういう事をこの言葉は指し示しているのか? それがわからないとついていけないのではないでしょうか? 能動的、積極的でない情熱を私は知っているだろうか。
> > >
> > >
> > > >  求めている心は情熱的な心ではなく、そして求めることなく愛に出会うことが、それを見いだす唯一の道です ― 知らずに、どんな努力や経験の結果としてでもなく愛と出会うことがです。その様な愛は、あなたは見出すでしょうが、時間のものではありません。そのような愛は個人的でまた非個人的であり、一つのものでありまた多数のものでもあります。香りを持つ花のように、その香りをかぐこともできるし、そばを通り過ぎることもできます。その花はあらゆる人のためにあり、そして深くその香りを吸い、喜びをもってそれを見る労をとる一人の人のためにあります。人が庭園の非常に近くにいようが非常に遠くにいようが、それは花にとって同じです。なぜなら花は芳香に満ちており、それゆえ花はあらゆる人と分かち合っていますから。
> > >
> > >
> > > 求めて必死の努力をして、それでこそ頂上に立てる ― というのが一般の常識です。そうでなく或る日ひょっこり「愛」と出会う。Kのような人は500年に一遍しか現れないぐらいの人というなら分かります。しかし私は御免こうむると言う人が多いに決まっている。
> > >  このことは実際にどういう事かを実際にわからせてくださったのは新しい芽さんです。と私は主観的に思っています。証明はできませんが。
> >
> >
> >  ここでひとつ、新しい芽さんから教えの内容を詳しく教えて頂きたいのですが。
> >
> >  御免こうむると言う人についての内容でしょうか。。それとも500年に一遍しか現れないという内容でしょうか。。
> >  よろしければ、詳しく教えて頂けないでしょうか。
>
> すみません。またお騒がせしてしまったようです。「ごめん被る」も「500年に一度」も私の戯言にすぎません。
>  新しい芽さんはそういう事にではなく実際の事について話されました。我々が、一例としてあげれば、「見ると言っても実際にはいろいろ思ってしまうのですが?」と質問すると「いろいろ思っているなぁーぐらいに見ていればどうでしょう」と話が返ってきます。私はその前に「心理的思考をどうやって見分けるか?」と質問していたのですが、上記の質問が後から出されて上記の答えが出てきたのです。それから私の方を向いて「さっきの質問はどうなりましたか?」と問われたので、私は「いちいち区別しないで、思ってるなぁと見ていればいい気になりました」と答えてそのままになりました。別の機会に心理的思考の区別の話が出たとき、芽氏は「私ははっきりわかるがなぁ」と一言言われ、みな黙ってしまいました。
>  それから先に答えは言わない。自分でわかるのを待つという基本方針を持っていらっしゃいました。これには本当に感謝しています。しかし私にはまねできません。こんなことの積み重ねです。


 ご返答、ありがとうございます。。


 クリシュナムルティのレベルではなくとも、新しい芽さんのレベルまでは、何とか行きたいものですね。。

 これは、なりゆくことではないか・・?

 と、問われても、『生の全体性』や『時間の終焉』にて、それに至るために重要なことが、クリシュナムルティによって陳述されているので、どうしようもありませぬ。。


[25887] 我を張る 投稿者:無明 投稿日:2018/09/19(Wed) 19:44  

我を張るときに気づくという事は結構とてつもないことかも知れません。気づかずに結構我を張っている時もありそうです。そこで「思考を疑って見る」と新しい芽さんはおっしゃったのでしょうか、私が初めてお会いした時の2次会で、私の「何を心がければいいのでしょうか?」という質問にそう答えてくださいました。

我を張っているという時というのは、少なからずとも感情は動いているのではないですか? そのことを合図として自分を見て見る。
具体的には、常日頃外に向けている意識を、瞬時に内面に切り替える。
(クリシュナムルティは現象学を知らないので、こういう言い方はしません)



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