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[25465] Re:[25463] [25460] [25459] 既知からの自由1-4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/13(Wed) 14:16  

> > > [責任・真理]
> > >
> > >  戦争、革命、改革、法律及びイデオロギーによってもたらされた全ての外部的な変化は、人間の、それゆえ社会の基本的な性質を変えることに完全に失敗してきました。このぞっとするような醜い世界に生きている人間として、自分自身に尋ねましょう。競争と残忍さと恐怖に基づいているこの社会は終わることができるでしょうか? 
>
> できません。
>
> <知的な概念としてではなく、希望としてではなく、実際の事実として終わり、それゆえ心が新鮮に、新しく、天真爛漫になり、全く違う世界をもたらすことができるでしょうか? 
>
> できません。
>
> <それは私たちが、個人として、人間として、世界のどんな部分にたまたま生きていても、どんな文化にたまたま属していても、世界の状態全体に対して完全に責任があるという中心的な事実を、私たちの一人一人が理解するときにのみ起こりうると私は考えます。
>
> 人の争いごとに、何で自分に責任があるのですか?
>
> > >  私たち一人一人が、自分自身の生の攻撃性ゆえに、国家主義、利己主義、神、偏見、理想、私たちを分離させる全てのゆえに、あらゆる戦争に対して、責任があります。
>
> 何でですか?
> 何でもかんでも「全体責任」と、おっしゃりたいのか。
>
>
> <そして、あなたと私がこの存在している全ての混乱に対して、世界中の全ての惨めさに対して、自分の日常生活の中でそれに寄与しており、また戦争、対立、醜さ、残忍さ、貪欲を伴うこのぞっとするような社会の一部であるが故に責任があることを、知的にではなく実際に、空腹や痛みを認識するのと同じように実際に実感するときのみ ― その時のみ私たちは行動するでしょう。
>
> ありえないでしょう。自分の生活が大事です。
> 人の争いごとに首を突っ込むことはない。
> >
> >
> > この責任があるというのは実感・理解できるのでしょうか? 
>
> まったくできません。
>
> <私には責任は観念であり、実感できないものだとしか思えません。
>
> おっしゃるとおりです。
>
> <実際の生の場では一生懸命、真剣に、まじめに行動するだけだと思います。
>
> はい。そうです。
>
> <責任がある(レスポンシブル)」というのは誤訳に近く、自分が引き起こしているという事でしょうか? それならわかります。言葉の問題かな。
>
> 自分が引き起こす?他人が起こしている戦争をですか?
>
> もちろん、毎日悲惨なニュースが流れています。だからといって私たちはどうすることもできません。毎日一生懸命に真面目に生きるだけです。


人間が先祖から受け継いだ性質のせいで、競争や残忍さや恐怖の社会の中に人間は住んでいます。それでも2,3百万年前の人類にからは大幅な進化をしています。だから変化の可能性はあるでしょう。ただ何処へ行くかはわからないのですが。

それで、その受け継いだ基本性質を変えることのできるのは私たちだけです。それを責任とは言われたくありません。ただ競争的でなく、残忍でなく、恐怖抜きに生きたいとは思っています。

人間としての悲しみは感じていました。しかし実際は個人的苦悩を何とかしたいという意味でいろいろな本を読み、クリシュナムルティにたどりついたわけで、その苦悩は解決しました。

それで、人間としてどうすればいいかが私のいまの課題です。
> > >
> > >
> > >  しかし人間は、完全に異なる社会を創造するために、何をすることができるでしょうか ― あなたと私は何ができるでしょうか? 
>
> できません。
>
> <!私たちは自分自身に非常に真剣な質問をしているのです。一体なされるべき何かがあるのでしょうか? 私たちは何をすることができるでしょうか? 誰かが教えてくれるのでしょうか? いろいろの人が私たちに教えてきました。いわゆる宗教上の指導者が、彼らはこれらのことを私たちよりよく理解していると思われているのですが、私たちを捻じ曲げ、新しい様式の型にはめ込もうと試みることによって私たちに教えてきましたが、大した効果はありませんでした。知的に洗練された学識ある人々が私たちに教えてきましたが、あまり役に立ちませんでした。私たちは全ての道は真理に導くと教えられてきました ― あなたはヒンドゥ教徒としての自分の道を持っており、ほかの誰かはキリスト教徒としての、また別の人はイスラム教徒としての道を持っていて、そしてみんな同じ扉の前で出会う ― それは、見てみれば、明らかに馬鹿げています。真理は道を持ちません。そしてそれが真理の美しさです。それは生きています。死んだ物は静的なのでそれへの道を持っています。しかし真理は生きた、動いている何かであり、それは休む場所を持っておらず、どんな寺院やモスクや教会の中にもなく、宗教も、教師も、哲学者も、誰もあなたをそこに導くことはできないという事を見る時、その時この生きているものが実際のあるがままのあなた ― あなたの怒り、あなたの暴力、あなたの絶望、あなたがその中で生きている苦悩と悲しみであることもまた、あなたは見るでしょう。このすべてを理解することの中に真理があり、そして自分の生の中でこれらのものをどんなふうに見るか知っている時のみそれを理解することができます。イデオロギーを通しては、言葉のスクリーンを通しては、希望と恐怖を通しては見ることができません。
>
> おっしゃることはわかりますが、責任の話はどうなりましたか。今言った話とつながりましたか?


人間の持っている基本的性質はいいところもあります。がしかし、悲しすぎます。
それで責任とかでなく、私は人間として何とかしたいのです。私個人のためでなく。


[25464] Re:[25455] [25442] [25436] [25430] [25428] 既知からの自由 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/13(Wed) 11:46  

> > > > >  権力、地位、信望、名声、成功、等々に対する欲望と共に生きている競争的な文化の中で、自分自身の内部と外部で実際に起きていることを観察しましょう ― 自分がそんなにも誇りにしている業績を観察しましょう。憎悪、敵意、残忍さ、果てしない戦争を引き起こしている、あらゆる形の関係の中に葛藤があるあなたが生と呼ぶこの場を観察しましょう。この場、この生が私たちの知っているすべてです。そして生存の巨大な戦いを理解できないので、私たちは当然それを恐れ、あらゆる種類の巧妙な方法でそれからの逃避を見つけます。そして私たちはまた未知のものを恐れます ― 死を恐れ、明日の彼方にあるものを恐れます。それゆえ私たちは既知のものを恐れ、また未知のものを恐れています。それが私たちの日常生活であり、その中に希望はありません。それゆえあらゆる形の哲学、あらゆる形の神学的概念は、あるがままの現実からの単なる逃避にすぎません。
> > > >
> > > >
> > > > この生存の場についての記述は傾聴します。
> > > > 生を見て理解できない。はい、そこに恐怖が生じ、いろいろ考える、それは逃避に過ぎない ― 問題の解決につながらないと。ここは引っかかる。哲学は形而上学的で理念に引っかかっていた。それを乗り越え、変化している。それが全く役立たないという根拠が古い状態に対してしか成立しない。
> > >
> > >
> > >  しかし、その哲学を追い求めることは、ビカミングであり、ウィンドーショッピングであることが、クリシュナムルティの主訴ではなかろうか。。


Kの言っている哲学は真理を形而上学的な理想、理念として追いかけていて、それゆえ神学と同様壊滅状態になった。最近の哲学にそれをはっきり否定して観察から言えることに立脚し始めたのがあるので、私は注目しているという事が一点。

次に哲学を追いかけることはビカミングではないかという事ですが、哲学者のその観察がなかなか深いので注目しています。ひとかどの者かになるためという事ではないです。哲学者も世の人も人間を知るためにいろいろなやり方で一生懸命やっていますよ。

> > >
> > >  それは渡辺さんが求めていた坐禅にも言えることではなかろうか。。


それはビカミングというより、そこに機械的なエクササイズの積み重ねという感じで、Kは、修行の機械化、ルーティン化が精神の鈍化につながることを警告しているのではないか?

> > >
> > >  クリシュナムルティは、初めから坐禅や哲学を否定していないだろうか。。
> > >
> > >  私には、その根拠が毅然と示されているように感じる。。
> > >
> > >  ただし、私は坐禅やその哲学の専門ではないので、はっきりと結論づけるつもりはありません。
> >
> >
> > そうですね、おいおい、しっかりした議論に入ってくるでしょう。何せ16章ある中の第1章の半分も読んでいませんからね。
>
>
>  はい。先送りは悪いことではないと思います。ただ、何と何を先送りにしたかを留めておくことは、条件付けを見つけるために役に立つのではないでしょうか。。
>
>  ご参考までに。
>
>  第1回目の先送り
>
> [25381] Re:[25376] [25373] 既知からの自由 1−1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/06/08(Fri) 16:12
>
> > > [人間の探求・苦悶する心]
> > >
> > > 人間はどの時代にも自分自身を超え、物質的な幸福を超えた何かを ― 真理とか神とか真の実在と呼ぶ何か、時間のない状態 ― 環境や思考や人間の堕落によってかき乱されない何かを求めてきました。
> >
> > ウーム、これは西洋の有閑階級の心理なのかな? 哲学青年的な感じもする。
>
>
>  もっと身近に見渡すと、多くの家に仏壇や神棚があるのではないだろうか。手入れを要する墓も有していないだろうか。
>
>  死後の世界を信じていないだろうか。先だった人があの世で待っていると期待していないだろうか。
>
>  これらが、>人間はどの時代にも自分自身を超え、物質的な幸福を超えた何かを ― 真理とか神とか真の実在と呼ぶ何か、時間のない状態 ― 環境や思考や人間の堕落によってかき乱されない何かを求めてきました。−−、これに当てはまるのではないでしょうか。。
>
>  それゆえに、自身の死後に、その中心が存続すると期待していないだろうか。


墓とか死後の再生を願う心はかなり古い時代からある。一方真理とか神、真の実在というのはかなり後ではないだろうか、概念が出ているから。

さて、個人が死後にその中心が実在するかと問うと、霊とか魂と言われるとそれが何かわからないし、死後どうなるかもわからない。中心が今形成されている自己意識だとすると、なくなってしまうように私は思う。人間、あるいは人類は少なくとも当分は生きていそうだ。人間の細胞はどんどん死んでは再生しているが、人間としてはかなり長く生きている。そのように
個人は死んでも、人間・人類としてかなり長く生きてきたし、これからも生きそうだ。知識も伝えられている。これは事実上輪廻転生か? しかしそんなことはどうでもよいと思っています。。

>
>  − − − − − −
>
>
>  第2回目の先送り
>
>  [25426]文末より
>
> > 断崖、毒蛇という記述もありますが、Kの講話を一心に聞いているとします。その時鳥がケーンと鳴く、自動車の警笛が鳴る。それは予期せずに鮮烈に聞こえてしまう。これが時間のない内面の意識で聞くというもの。とまあ私はこう思っているわけです。これはこのくらいにしておきませんか。私の意は一応話したと思います。
>
>
>  そのときに、>その愚かさと未熟さを理解するのでそれを否定するならば、あなたが自由であって怖れていないので、それを途方もない英知で拒絶するならば、自分自身の中とあなたの周りに大きな動揺を引き起こすでしょうが、だがあなたは世間体の罠から抜け出すでしょう。その時あなたはもはや求めてはいないことを見出すでしょう。それが学ぶべき最初のことです。−−、これが起きているということでしょうか。。
>
>  それとも、これが起こることについての理解は、とりあえず先送りにするということでしょうか。。
>
>  私にとっては、それが今は未だ起きていない・・。として十分なのですが‥。
>
>  − − − − − −
>
>
>  おそらく、無意識下の条件付けにより、なかなか議論にならないのかもしれません。。
>
>  しかし、そこでストップしてしまうのはもったいないので、そこは、いずれ近い将来に議論できることを楽しみにして、先に進むことがよいと思います。


見ることは誰でもしていることで、だからそれについては特に言いませんとKは言う。しかし思考のスクリーンを介して知るのではだめであるとも言います。

予期せずして見る、あるいは見えちゃったときは思考の介入の時間なしに直面しているのです。そういうふうに、思考の介入なしに自分のネガティブな振舞いを見るなら、非難正当化はなく、その持つ関係の中の意義というか意味の即時の理解があり得ます。するともうそのネガティブな振舞いはしなくなります。この辺は先走りしてますね。しかしあなたが引っかかっているような気がしたので、ちょっと書きました。



[25463] Re:[25460] [25459] 既知からの自由1-4 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/13(Wed) 11:30  

> > [責任・真理]
> >
> >  戦争、革命、改革、法律及びイデオロギーによってもたらされた全ての外部的な変化は、人間の、それゆえ社会の基本的な性質を変えることに完全に失敗してきました。このぞっとするような醜い世界に生きている人間として、自分自身に尋ねましょう。競争と残忍さと恐怖に基づいているこの社会は終わることができるでしょうか? 

できません。

<知的な概念としてではなく、希望としてではなく、実際の事実として終わり、それゆえ心が新鮮に、新しく、天真爛漫になり、全く違う世界をもたらすことができるでしょうか? 

できません。

<それは私たちが、個人として、人間として、世界のどんな部分にたまたま生きていても、どんな文化にたまたま属していても、世界の状態全体に対して完全に責任があるという中心的な事実を、私たちの一人一人が理解するときにのみ起こりうると私は考えます。

人の争いごとに、何で自分に責任があるのですか?

> >  私たち一人一人が、自分自身の生の攻撃性ゆえに、国家主義、利己主義、神、偏見、理想、私たちを分離させる全てのゆえに、あらゆる戦争に対して、責任があります。

何でですか?
何でもかんでも「全体責任」と、おっしゃりたいのか。


<そして、あなたと私がこの存在している全ての混乱に対して、世界中の全ての惨めさに対して、自分の日常生活の中でそれに寄与しており、また戦争、対立、醜さ、残忍さ、貪欲を伴うこのぞっとするような社会の一部であるが故に責任があることを、知的にではなく実際に、空腹や痛みを認識するのと同じように実際に実感するときのみ ― その時のみ私たちは行動するでしょう。

ありえないでしょう。自分の生活が大事です。
人の争いごとに首を突っ込むことはない。
>
>
> この責任があるというのは実感・理解できるのでしょうか? 

まったくできません。

<私には責任は観念であり、実感できないものだとしか思えません。

おっしゃるとおりです。

<実際の生の場では一生懸命、真剣に、まじめに行動するだけだと思います。

はい。そうです。

<責任がある(レスポンシブル)」というのは誤訳に近く、自分が引き起こしているという事でしょうか? それならわかります。言葉の問題かな。

自分が引き起こす?他人が起こしている戦争をですか?

もちろん、毎日悲惨なニュースが流れています。だからといって私たちはどうすることもできません。毎日一生懸命に真面目に生きるだけです。
> >
> >
> >  しかし人間は、完全に異なる社会を創造するために、何をすることができるでしょうか ― あなたと私は何ができるでしょうか? 

できません。

<!私たちは自分自身に非常に真剣な質問をしているのです。一体なされるべき何かがあるのでしょうか? 私たちは何をすることができるでしょうか? 誰かが教えてくれるのでしょうか? いろいろの人が私たちに教えてきました。いわゆる宗教上の指導者が、彼らはこれらのことを私たちよりよく理解していると思われているのですが、私たちを捻じ曲げ、新しい様式の型にはめ込もうと試みることによって私たちに教えてきましたが、大した効果はありませんでした。知的に洗練された学識ある人々が私たちに教えてきましたが、あまり役に立ちませんでした。私たちは全ての道は真理に導くと教えられてきました ― あなたはヒンドゥ教徒としての自分の道を持っており、ほかの誰かはキリスト教徒としての、また別の人はイスラム教徒としての道を持っていて、そしてみんな同じ扉の前で出会う ― それは、見てみれば、明らかに馬鹿げています。真理は道を持ちません。そしてそれが真理の美しさです。それは生きています。死んだ物は静的なのでそれへの道を持っています。しかし真理は生きた、動いている何かであり、それは休む場所を持っておらず、どんな寺院やモスクや教会の中にもなく、宗教も、教師も、哲学者も、誰もあなたをそこに導くことはできないという事を見る時、その時この生きているものが実際のあるがままのあなた ― あなたの怒り、あなたの暴力、あなたの絶望、あなたがその中で生きている苦悩と悲しみであることもまた、あなたは見るでしょう。このすべてを理解することの中に真理があり、そして自分の生の中でこれらのものをどんなふうに見るか知っている時のみそれを理解することができます。イデオロギーを通しては、言葉のスクリーンを通しては、希望と恐怖を通しては見ることができません。

おっしゃることはわかりますが、責任の話はどうなりましたか。今言った話とつながりましたか?



>
> 真理が明確に説かれました。そう感じました。
> >
> >  それゆえ誰にも依存できないことがわかります。道案内も、教師も、権威もないのです。あなただけが ― 他人との、そして世界との、あなたの関係だけがあります ― ほかの何もありません。あなたがこのことを実感するとき、それは大きな絶望をもたらし、それから皮肉や辛辣さが生まれるか、あるいは、世界に対してまた自分自身に対して、自分が考えることや自分の感じることや自分の行動の仕方に対して、自分に責任があり他の誰にあるのでもないという事実に直面し、すべての自己憐憫が去るか、その何れかです。普通私たちは他人を非難していい気になっていますが、それは自己憐憫の一形式です。
>
>
> 他人を非難していい気になっているとき、分離を自分が引き起こしていないか?
>


[25462] Re:[25460] [25459] 既知からの自由1-4 投稿者:宮啓 投稿日:2018/06/12(Tue) 22:35  

> > [責任・真理]
> >
> >  戦争、革命、改革、法律及びイデオロギーによってもたらされた全ての外部的な変化は、人間の、それゆえ社会の基本的な性質を変えることに完全に失敗してきました。このぞっとするような醜い世界に生きている人間として、自分自身に尋ねましょう。競争と残忍さと恐怖に基づいているこの社会は終わることができるでしょうか? 知的な概念としてではなく、希望としてではなく、実際の事実として終わり、それゆえ心が新鮮に、新しく、天真爛漫になり、全く違う世界をもたらすことができるでしょうか? それは私たちが、個人として、人間として、世界のどんな部分にたまたま生きていても、どんな文化にたまたま属していても、世界の状態全体に対して完全に責任があるという中心的な事実を、私たちの一人一人が理解するときにのみ起こりうると私は考えます。
> >
> >  私たち一人一人が、自分自身の生の攻撃性ゆえに、国家主義、利己主義、神、偏見、理想、私たちを分離させる全てのゆえに、あらゆる戦争に対して、責任があります。そして、あなたと私がこの存在している全ての混乱に対して、世界中の全ての惨めさに対して、自分の日常生活の中でそれに寄与しており、また戦争、対立、醜さ、残忍さ、貪欲を伴うこのぞっとするような社会の一部であるが故に責任があることを、知的にではなく実際に、空腹や痛みを認識するのと同じように実際に実感するときのみ ― その時のみ私たちは行動するでしょう。
>
>
> この責任があるというのは実感・理解できるのでしょうか? 私には責任は観念であり、実感できないものだとしか思えません。実際の生の場では一生懸命、真剣に、まじめに行動するだけだと思います。「責任がある(レスポンシブル)」というのは誤訳に近く、自分が引き起こしているという事でしょうか? それならわかります。言葉の問題かな。


 自分自身を見て、ぞっとするか・・。知的にではなく・・。

 自身の中に暴力を見るときに、暴力が自身の外側にあると思うがゆえに、自身は潔白であり、暴力(およびその原因)が悪いと感じるがゆえに、自身を見てぞっとすることはない。そして、その暴力に対応するために非暴力等々を生み出す。社会や国家も自分の外にあると思っているので、戦争や犯罪、不正等々も、私は潔白で、外部(国・社会・犯罪者・為政者)が悪いと感じる。

 そのような分離があるときには、自身は絶えず潔白であり続け、外部に悪がある。

 よって、自身にぞっとするのは、分離がないときではなかうか。。

 自身が暴力・怒り・貪欲であるとき。



> >  しかし人間は、完全に異なる社会を創造するために、何をすることができるでしょうか ― あなたと私は何ができるでしょうか? 私たちは自分自身に非常に真剣な質問をしているのです。一体なされるべき何かがあるのでしょうか? 私たちは何をすることができるでしょうか? 誰かが教えてくれるのでしょうか? いろいろの人が私たちに教えてきました。いわゆる宗教上の指導者が、彼らはこれらのことを私たちよりよく理解していると思われているのですが、私たちを捻じ曲げ、新しい様式の型にはめ込もうと試みることによって私たちに教えてきましたが、大した効果はありませんでした。知的に洗練された学識ある人々が私たちに教えてきましたが、あまり役に立ちませんでした。私たちは全ての道は真理に導くと教えられてきました ― あなたはヒンドゥ教徒としての自分の道を持っており、ほかの誰かはキリスト教徒としての、また別の人はイスラム教徒としての道を持っていて、そしてみんな同じ扉の前で出会う ― それは、見てみれば、明らかに馬鹿げています。真理は道を持ちません。そしてそれが真理の美しさです。それは生きています。死んだ物は静的なのでそれへの道を持っています。しかし真理は生きた、動いている何かであり、それは休む場所を持っておらず、どんな寺院やモスクや教会の中にもなく、宗教も、教師も、哲学者も、誰もあなたをそこに導くことはできないという事を見る時、その時この生きているものが実際のあるがままのあなた ― あなたの怒り、あなたの暴力、あなたの絶望、あなたがその中で生きている苦悩と悲しみであることもまた、あなたは見るでしょう。このすべてを理解することの中に真理があり、そして自分の生の中でこれらのものをどんなふうに見るか知っている時のみそれを理解することができます。イデオロギーを通しては、言葉のスクリーンを通しては、希望と恐怖を通しては見ることができません。
>
>
> 真理が明確に説かれました。そう感じました。


 分離がないとき、>その時この生きているものが実際のあるがままのあなた ― あなたの怒り、あなたの暴力、あなたの絶望、あなたがその中で生きている苦悩と悲しみであることもまた、あなたは見るでしょう。−−、すなわち観察されるものが観察者(あなた)であるとき、それが生きている>真理は生きた、動いている何かであり、それは休む場所を持っておらず、−−、分離なき観察者としての生。



> >  それゆえ誰にも依存できないことがわかります。道案内も、教師も、権威もないのです。あなただけが ― 他人との、そして世界との、あなたの関係だけがあります ― ほかの何もありません。あなたがこのことを実感するとき、それは大きな絶望をもたらし、それから皮肉や辛辣さが生まれるか、あるいは、世界に対してまた自分自身に対して、自分が考えることや自分の感じることや自分の行動の仕方に対して、自分に責任があり他の誰にあるのでもないという事実に直面し、すべての自己憐憫が去るか、その何れかです。


 静かに、分離なき観察者の生は、穏やかに事実に直面し、そのとき自己憐憫という名も忘れている。



>普通私たちは他人を非難していい気になっていますが、それは自己憐憫の一形式です。
>
>
> 他人を非難していい気になっているとき、分離を自分が引き起こしていないか?
>


[25461] Re:[25457] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/12(Tue) 21:57  

> 1知識  2自由  3幸福  4義務  5安らぎ    この5つの順番で精神は発達する。


この4義務というのはいったい何だい? 不思議な感じがする。


[25460] Re:[25459] 既知からの自由1-4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/12(Tue) 21:43  

> [責任・真理]
>
>  戦争、革命、改革、法律及びイデオロギーによってもたらされた全ての外部的な変化は、人間の、それゆえ社会の基本的な性質を変えることに完全に失敗してきました。このぞっとするような醜い世界に生きている人間として、自分自身に尋ねましょう。競争と残忍さと恐怖に基づいているこの社会は終わることができるでしょうか? 知的な概念としてではなく、希望としてではなく、実際の事実として終わり、それゆえ心が新鮮に、新しく、天真爛漫になり、全く違う世界をもたらすことができるでしょうか? それは私たちが、個人として、人間として、世界のどんな部分にたまたま生きていても、どんな文化にたまたま属していても、世界の状態全体に対して完全に責任があるという中心的な事実を、私たちの一人一人が理解するときにのみ起こりうると私は考えます。
>
>  私たち一人一人が、自分自身の生の攻撃性ゆえに、国家主義、利己主義、神、偏見、理想、私たちを分離させる全てのゆえに、あらゆる戦争に対して、責任があります。そして、あなたと私がこの存在している全ての混乱に対して、世界中の全ての惨めさに対して、自分の日常生活の中でそれに寄与しており、また戦争、対立、醜さ、残忍さ、貪欲を伴うこのぞっとするような社会の一部であるが故に責任があることを、知的にではなく実際に、空腹や痛みを認識するのと同じように実際に実感するときのみ ― その時のみ私たちは行動するでしょう。


この責任があるというのは実感・理解できるのでしょうか? 私には責任は観念であり、実感できないものだとしか思えません。実際の生の場では一生懸命、真剣に、まじめに行動するだけだと思います。「責任がある(レスポンシブル)」というのは誤訳に近く、自分が引き起こしているという事でしょうか? それならわかります。言葉の問題かな。
>
>
>  しかし人間は、完全に異なる社会を創造するために、何をすることができるでしょうか ― あなたと私は何ができるでしょうか? 私たちは自分自身に非常に真剣な質問をしているのです。一体なされるべき何かがあるのでしょうか? 私たちは何をすることができるでしょうか? 誰かが教えてくれるのでしょうか? いろいろの人が私たちに教えてきました。いわゆる宗教上の指導者が、彼らはこれらのことを私たちよりよく理解していると思われているのですが、私たちを捻じ曲げ、新しい様式の型にはめ込もうと試みることによって私たちに教えてきましたが、大した効果はありませんでした。知的に洗練された学識ある人々が私たちに教えてきましたが、あまり役に立ちませんでした。私たちは全ての道は真理に導くと教えられてきました ― あなたはヒンドゥ教徒としての自分の道を持っており、ほかの誰かはキリスト教徒としての、また別の人はイスラム教徒としての道を持っていて、そしてみんな同じ扉の前で出会う ― それは、見てみれば、明らかに馬鹿げています。真理は道を持ちません。そしてそれが真理の美しさです。それは生きています。死んだ物は静的なのでそれへの道を持っています。しかし真理は生きた、動いている何かであり、それは休む場所を持っておらず、どんな寺院やモスクや教会の中にもなく、宗教も、教師も、哲学者も、誰もあなたをそこに導くことはできないという事を見る時、その時この生きているものが実際のあるがままのあなた ― あなたの怒り、あなたの暴力、あなたの絶望、あなたがその中で生きている苦悩と悲しみであることもまた、あなたは見るでしょう。このすべてを理解することの中に真理があり、そして自分の生の中でこれらのものをどんなふうに見るか知っている時のみそれを理解することができます。イデオロギーを通しては、言葉のスクリーンを通しては、希望と恐怖を通しては見ることができません。


真理が明確に説かれました。そう感じました。
>
>  それゆえ誰にも依存できないことがわかります。道案内も、教師も、権威もないのです。あなただけが ― 他人との、そして世界との、あなたの関係だけがあります ― ほかの何もありません。あなたがこのことを実感するとき、それは大きな絶望をもたらし、それから皮肉や辛辣さが生まれるか、あるいは、世界に対してまた自分自身に対して、自分が考えることや自分の感じることや自分の行動の仕方に対して、自分に責任があり他の誰にあるのでもないという事実に直面し、すべての自己憐憫が去るか、その何れかです。普通私たちは他人を非難していい気になっていますが、それは自己憐憫の一形式です。


他人を非難していい気になっているとき、分離を自分が引き起こしていないか?



[25459] 既知からの自由1-4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/12(Tue) 20:10  

[責任・真理]

 戦争、革命、改革、法律及びイデオロギーによってもたらされた全ての外部的な変化は、人間の、それゆえ社会の基本的な性質を変えることに完全に失敗してきました。このぞっとするような醜い世界に生きている人間として、自分自身に尋ねましょう。競争と残忍さと恐怖に基づいているこの社会は終わることができるでしょうか? 知的な概念としてではなく、希望としてではなく、実際の事実として終わり、それゆえ心が新鮮に、新しく、天真爛漫になり、全く違う世界をもたらすことができるでしょうか? それは私たちが、個人として、人間として、世界のどんな部分にたまたま生きていても、どんな文化にたまたま属していても、世界の状態全体に対して完全に責任があるという中心的な事実を、私たちの一人一人が理解するときにのみ起こりうると私は考えます。

 私たち一人一人が、自分自身の生の攻撃性ゆえに、国家主義、利己主義、神、偏見、理想、私たちを分離させる全てのゆえに、あらゆる戦争に対して、責任があります。そして、あなたと私がこの存在している全ての混乱に対して、世界中の全ての惨めさに対して、自分の日常生活の中でそれに寄与しており、また戦争、対立、醜さ、残忍さ、貪欲を伴うこのぞっとするような社会の一部であるが故に責任があることを、知的にではなく実際に、空腹や痛みを認識するのと同じように実際に実感するときのみ ― その時のみ私たちは行動するでしょう。


 しかし人間は、完全に異なる社会を創造するために、何をすることができるでしょうか ― あなたと私は何ができるでしょうか? 私たちは自分自身に非常に真剣な質問をしているのです。一体なされるべき何かがあるのでしょうか? 私たちは何をすることができるでしょうか? 誰かが教えてくれるのでしょうか? いろいろの人が私たちに教えてきました。いわゆる宗教上の指導者が、彼らはこれらのことを私たちよりよく理解していると思われているのですが、私たちを捻じ曲げ、新しい様式の型にはめ込もうと試みることによって私たちに教えてきましたが、大した効果はありませんでした。知的に洗練された学識ある人々が私たちに教えてきましたが、あまり役に立ちませんでした。私たちは全ての道は真理に導くと教えられてきました ― あなたはヒンドゥ教徒としての自分の道を持っており、ほかの誰かはキリスト教徒としての、また別の人はイスラム教徒としての道を持っていて、そしてみんな同じ扉の前で出会う ― それは、見てみれば、明らかに馬鹿げています。真理は道を持ちません。そしてそれが真理の美しさです。それは生きています。死んだ物は静的なのでそれへの道を持っています。しかし真理は生きた、動いている何かであり、それは休む場所を持っておらず、どんな寺院やモスクや教会の中にもなく、宗教も、教師も、哲学者も、誰もあなたをそこに導くことはできないという事を見る時、その時この生きているものが実際のあるがままのあなた ― あなたの怒り、あなたの暴力、あなたの絶望、あなたがその中で生きている苦悩と悲しみであることもまた、あなたは見るでしょう。このすべてを理解することの中に真理があり、そして自分の生の中でこれらのものをどんなふうに見るか知っている時のみそれを理解することができます。イデオロギーを通しては、言葉のスクリーンを通しては、希望と恐怖を通しては見ることができません。

 それゆえ誰にも依存できないことがわかります。道案内も、教師も、権威もないのです。あなただけが ― 他人との、そして世界との、あなたの関係だけがあります ― ほかの何もありません。あなたがこのことを実感するとき、それは大きな絶望をもたらし、それから皮肉や辛辣さが生まれるか、あるいは、世界に対してまた自分自身に対して、自分が考えることや自分の感じることや自分の行動の仕方に対して、自分に責任があり他の誰にあるのでもないという事実に直面し、すべての自己憐憫が去るか、その何れかです。普通私たちは他人を非難していい気になっていますが、それは自己憐憫の一形式です。


[25458] 既知からの自由1−3(再掲) 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/12(Tue) 20:03  

[人間と個人・生存の戦い・人間の基本的性質]

 神、真理、実在、あるいはそれをどう呼ぼうとも、それがあるかどうかという問いは本や司祭、哲学者や救世主によっては決して答えられません。自分自身のほかには誰も何もその問いに答えることはできず、そしてそのことが自分自身を知らなければならない理由です。未熟さは自己についてのまったくの無知の中にのみあります。自分自身を理解することが知恵の始まりです。

 そしてあなた自身とは、個人としてのあなたとは何でしょうか? 私は人間と個人の間には違いがあると考えます、個人は局地的な存在であって、特定の国で生活し、特定の文化、特定の社会、特定の宗教に属しています。人間は局地的存在ではありません。あらゆる場所にいます。もし個人が生の広大な場の特定の隅で行動するだけなら、その時彼の行動は全体と全く無関係です。ですから私たちは部分でなく全体について話していることを心に留めておかねばなりません。なぜなら大の中に小はあり得ますが、小の中に大はないからです。個人は小さな条件づけられた、惨めな、欲求不満の存在であり、自分の小さな神と小さな伝統に満足していますが、他方人間は世界の全体の幸福、全体の惨めさ、全体の混乱に関係しているのです。


 私たち人間は何百万年の間そうであったままです ― とてつもなく貪欲で、羨望的で、攻撃的で、嫉妬深く、不安で、絶望しており、たまさかの喜びと愛情の閃きを伴うに過ぎません。私たちは憎しみ、恐怖、優しさの奇妙な混合物です。暴力と平和の両方です。牛車からジェット機まで外部の進歩はありましたが、心理的には個人は全く変わっておらず、世界中の社会の構造は個人によってつくり出されてきたのです。外部の社会の構造は、人間関係の内部の心理的な構造の結果です。というのは個人は人間の全経験、全知識、全行為の結果だからです。各人一人一人が全ての過去の倉庫です。個人は全て人類である人間なのです。人間の歴史全体が私たち自身の中に書かれています。人間の歴史全体が私たち自身の中に書かれています。

 権力、地位、信望、名声、成功、等々に対する欲望と共に生きている競争的な文化の中で、自分自身の内部と外部で実際に起きていることを観察しましょう ― 自分がそんなにも誇りにしている業績を観察しましょう。憎悪、敵意、残忍さ、果てしない戦争を引き起こしている、あらゆる形の関係の中に葛藤があるあなたが生と呼ぶこの場を観察しましょう。この場、この生が私たちの知っているすべてです。そして生存の巨大な戦いを理解できないので、私たちは当然それを恐れ、あらゆる種類の巧妙な方法でそれからの逃避を見つけます。そして私たちはまた未知のものを恐れます ― 死を恐れ、明日の彼方にあるものを恐れます。それゆえ私たちは既知のものを恐れ、また未知のものを恐れています。それが私たちの日常生活であり、その中に希望はありません。それゆえあらゆる形の哲学、あらゆる形の神学的概念は、あるがままの現実からの単なる逃避にすぎません。


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タイトルに番号を付け加えました。

本文のトップの表題に「人間の基本的性質」を付け加え、[人間と個人・生存の戦い・人間の基本的性質]と改訂しました。

以下の本文に変更はありません。どうも失礼しました。


[25457] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/06/12(Tue) 18:41  

1知識  2自由  3幸福  4義務  5安らぎ    この5つの順番で精神は発達する。


[25456] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/06/12(Tue) 18:18  

トランプが偉業を成し遂げた。


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