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[26681] とてつもない? 投稿者:無明 投稿日:2019/03/06(Wed) 10:04  

 相変わらずノー天気なコメント。他の人に比べ、場違いのことに気づかないのだろうか。


>私は今は、後、数十年生きるだろうと思っているが故に、妻子への愛着がとてつもないものであることに気づいていない。

妻子への執着が、何で問題なのか?
「とてつもない」という言葉は、「とてつではないもの」に対する比較の言葉。

 >だから、クリシュナムルティ理解によって、これを超えることができるかもしれない・・と思っている。

意味不明。おそらく言ってる本人もわからないのかも。

>しかし、とてつもないことかもしれません。

言葉の遊び。

>とてつもないことが起こるには、とてつもないことを超えなければならないのですね。。

とてつもないということがわかっていない。

> 幸い、ここには、とてつもない本と、とてつもない掲示板と、とてつもないサイトがある。

そうやって持ち上げる。


> おそらく、地球で、ここだけかもしれません。

(苦笑)
あなたはとてつもなく〇〇です。
こんなコメントすると、誰も相手にされません。

要するに、こうあるべきだ、というばかりであり、ありのままの事実を、全く見ていない。




[26680] Re:[26679] [26674] [26668] クリシュナムルティの訓え 投稿者:南方 投稿日:2019/03/06(Wed) 08:19  

> > > 最初のザーネン講話、8回目の末尾の部分再録
> > >
> > >
> > > クリシュナムルティ:  それで、心が蓄積し、収集し、経験したあらゆる物事に対し死ぬこと、即座に止めることが創造です。その中に連続性はありません。連続性を持っているものは常に衰退しています。連続することを求めるこの絶え間ない熱望に、それを私たちの大抵は持っているのですが、夫と妻、父と息子、その他もろもろの間の特定の関係の連続することを求める欲望に、あなたが気づいているかどうかわかりません。関係は、それが連続的であるとき、衰退しています。死んでいます。価値がありません。しかし連続性に対して死ぬとき、新しさ、新鮮さがあります。
> > >
> >
> >
> > Kは「外側」の対象について死ぬということを説いたのか、それとも実在についての投影に死ぬことを説いたのか、をはっきりさせないと混乱します。
>
>
> この質問がどういう事かがよくわかりません。連続性に対して死ぬという事だけではなぜ混乱が起こると思うのか、その筋道が見えてこないのです。どんな風に混乱するのでしょうか?
>

実在に対して死ぬのと心理的思を見ておさまるのを待つのは探究の方向性として全く別物だと言いたかったのです。違いますか?私は混乱しませんが、Kの言説は両方まざっているのでこのサイトを見ているかたが混乱するのでは、ということです。



> >
> > >  それゆえ、心は死が何であるか直接経験できます。それはまったく並外れています。私たちの大抵は生きることが何か知りません。それゆえ死ぬことを知りません。私たちは生きることが何か知っているでしょうか? 私たちは苦闘が何か知っています。私たちは羨望が何か知っています。私たちは生存の残虐、その卑俗性をすべて知っています。憎しみ、野心、腐敗、葛藤。私たちはそのすべてを知っています。それが私たちの生です。しかし私たちは死を知りません。それでそれを恐れます。たぶん、もしも生が何であるか知るなら、死ぬことが何であるかも知るでしょうに。生きることは、確かに、その中で心がもはや蓄積していない、始めも終わりもない運動なのです。蓄積した瞬間、あなたは衰退の状態の中にあります。なぜなら、それが漠然とした経験にせよ、小さい経験にせよ、その周りにあなたは安全のための壁を建てるからです。
> > >
> >
> >
> > ここで「死」といっているのは実在のことですか?それとも外側の対象にたいして投影を辞めるということ?
>
>
> 内側のものにも投影はするでしょう。投影、あるいはイメージ作りは全部止まなければならないと思いますが……
>

そうです。投影は実在に対しても何に対してもやまなければなりません。

> >
> > >  それゆえ、生きることが何であるか知ることは、自分が獲得したもの、内面の快楽、内面の苦痛に対して、あらゆる瞬間に死ぬということです。時間の過程の中でではなくて、それが起こるときに死ぬことです。そのときあなたは、あなたがそこまで行ったならば、死は生のようであるということを見出すでしょう。そのとき生きることは死ぬことと分離していません。そしてそれは途方もない美の感覚を与えます。その美は思考と感情を越えています。そしてそれを組み立てて、絵を描くことや詩を書くこと、楽器を演奏することの中に使うことはできません。それらは関係がありません。生と死が同じであるとき、生きることと死ぬことが同義であるとき生じる美があります。なぜなら、そのとき生と死は心を完全に豊かに、全体で、欠けることなく残しておくからです。
> > >
> > > (終わり)
> > >
> > >
> > > ゴト: ここが訓えの最終点であり、入り口であった。
> >
> >
> >
> > ゴトさんは思考の枠内で思考をどうこうしようということを話したいのですか?
>
>
> ???、判断なしに見ることが起こるなら、その時思考の過程とは違う、過程に入っており、思考の枠から出ていると思いますが?
>  私の話したいことは転々と変わってきました。むしろ自分のしたい探求の話し相手が欲しかったようです。が基本線は自分が探求していたのです。自分の訳した(5年ぐらいかかっています)本をここで取り上げたのも自分の探求です。


そうですか。私は今投影なく実在に来てもらえるようになりました。別の言い方をすれば真我の実現。マインドはあるがままに放っています。


[26679] Re:[26674] [26668] クリシュナムルティの訓え 投稿者:ゴト 投稿日:2019/03/05(Tue) 22:29  

> > 最初のザーネン講話、8回目の末尾の部分再録
> >
> >
> > クリシュナムルティ:  それで、心が蓄積し、収集し、経験したあらゆる物事に対し死ぬこと、即座に止めることが創造です。その中に連続性はありません。連続性を持っているものは常に衰退しています。連続することを求めるこの絶え間ない熱望に、それを私たちの大抵は持っているのですが、夫と妻、父と息子、その他もろもろの間の特定の関係の連続することを求める欲望に、あなたが気づいているかどうかわかりません。関係は、それが連続的であるとき、衰退しています。死んでいます。価値がありません。しかし連続性に対して死ぬとき、新しさ、新鮮さがあります。
> >
>
>
> Kは「外側」の対象について死ぬということを説いたのか、それとも実在についての投影に死ぬことを説いたのか、をはっきりさせないと混乱します。


この質問がどういう事かがよくわかりません。連続性に対して死ぬという事だけではなぜ混乱が起こると思うのか、その筋道が見えてこないのです。どんな風に混乱するのでしょうか?

>
> >  それゆえ、心は死が何であるか直接経験できます。それはまったく並外れています。私たちの大抵は生きることが何か知りません。それゆえ死ぬことを知りません。私たちは生きることが何か知っているでしょうか? 私たちは苦闘が何か知っています。私たちは羨望が何か知っています。私たちは生存の残虐、その卑俗性をすべて知っています。憎しみ、野心、腐敗、葛藤。私たちはそのすべてを知っています。それが私たちの生です。しかし私たちは死を知りません。それでそれを恐れます。たぶん、もしも生が何であるか知るなら、死ぬことが何であるかも知るでしょうに。生きることは、確かに、その中で心がもはや蓄積していない、始めも終わりもない運動なのです。蓄積した瞬間、あなたは衰退の状態の中にあります。なぜなら、それが漠然とした経験にせよ、小さい経験にせよ、その周りにあなたは安全のための壁を建てるからです。
> >
>
>
> ここで「死」といっているのは実在のことですか?それとも外側の対象にたいして投影を辞めるということ?


内側のものにも投影はするでしょう。投影、あるいはイメージ作りは全部止まなければならないと思いますが……

>
> >  それゆえ、生きることが何であるか知ることは、自分が獲得したもの、内面の快楽、内面の苦痛に対して、あらゆる瞬間に死ぬということです。時間の過程の中でではなくて、それが起こるときに死ぬことです。そのときあなたは、あなたがそこまで行ったならば、死は生のようであるということを見出すでしょう。そのとき生きることは死ぬことと分離していません。そしてそれは途方もない美の感覚を与えます。その美は思考と感情を越えています。そしてそれを組み立てて、絵を描くことや詩を書くこと、楽器を演奏することの中に使うことはできません。それらは関係がありません。生と死が同じであるとき、生きることと死ぬことが同義であるとき生じる美があります。なぜなら、そのとき生と死は心を完全に豊かに、全体で、欠けることなく残しておくからです。
> >
> > (終わり)
> >
> >
> > ゴト: ここが訓えの最終点であり、入り口であった。
>
>
>
> ゴトさんは思考の枠内で思考をどうこうしようということを話したいのですか?


???、判断なしに見ることが起こるなら、その時思考の過程とは違う、過程に入っており、思考の枠から出ていると思いますが?
 私の話したいことは転々と変わってきました。むしろ自分のしたい探求の話し相手が欲しかったようです。が基本線は自分が探求していたのです。自分の訳した(5年ぐらいかかっています)本をここで取り上げたのも自分の探求です。


[26678] 無題 投稿者:無明 投稿日:2019/03/05(Tue) 19:28  

>心理的思考だけでなく、人との関わりも見ているのですね。内も外も区別しないで見ている。

瞬時瞬時、生じてくる心理的思考に、いい悪いなしに気づいていれば、自ずと全体が見えています。
そうではなく、判断推理評価、いわば心理的思考に気づかないと、全体が見えません。

>私の気づきは狭いですね。心理的思考を判断なしに見て問題が解消して終わりと。

それで十分です。それが最初の一歩であり、最後の一歩です。
狭いも広いもありません。気づいているだけです。

>「即時の認知・理解から即時の行動が起こる。その全部が見ることと一体のことです。」これが抜けていますね。

いい悪いなしに、気づいていること自体が、即時の理解です。
そのとき全体が、よく見えてます。知覚されています。

人間、問題が起きれば、自ずと思考が強く意識されます。
問題が「ない」ときは、そのまま時が流れるだけです。
何も特定なものに意識されません。

特定の思考に執着して、問題が起きれば、体に変化が現れます。体が知らせてくれます。特にみぞおち。
それを合図として、自分自身に起きたものを、直(じか)に見る。それだけです。すると問題は自ずと消えていきます。元の鞘に収まります。
消えていく特定の思考に、いつまでも、囚われている、掴まっている執着している状態が、「迷い」と言われる所以です。



[26677] Re:[26673] [26670] [26668] クリシュナムルティの訓え 投稿者:宮啓 投稿日:2019/03/05(Tue) 19:11  

> > > 最初のザーネン講話、8回目の末尾の部分再録
> > >
> > >
> > > クリシュナムルティ:  それで、心が蓄積し、収集し、経験したあらゆる物事に対し死ぬこと、即座に止めることが創造です。その中に連続性はありません。連続性を持っているものは常に衰退しています。連続することを求めるこの絶え間ない熱望に、それを私たちの大抵は持っているのですが、夫と妻、父と息子、その他もろもろの間の特定の関係の連続することを求める欲望に、あなたが気づいているかどうかわかりません。関係は、それが連続的であるとき、衰退しています。死んでいます。価値がありません。しかし連続性に対して死ぬとき、新しさ、新鮮さがあります。
> > >
> > >  それゆえ、心は死が何であるか直接経験できます。それはまったく並外れています。私たちの大抵は生きることが何か知りません。それゆえ死ぬことを知りません。私たちは生きることが何か知っているでしょうか? 私たちは苦闘が何か知っています。私たちは羨望が何か知っています。私たちは生存の残虐、その卑俗性をすべて知っています。憎しみ、野心、腐敗、葛藤。私たちはそのすべてを知っています。それが私たちの生です。しかし私たちは死を知りません。それでそれを恐れます。たぶん、もしも生が何であるか知るなら、死ぬことが何であるかも知るでしょうに。生きることは、確かに、その中で心がもはや蓄積していない、始めも終わりもない運動なのです。蓄積した瞬間、あなたは衰退の状態の中にあります。なぜなら、それが漠然とした経験にせよ、小さい経験にせよ、その周りにあなたは安全のための壁を建てるからです。
> > >
> > >  それゆえ、生きることが何であるか知ることは、自分が獲得したもの、内面の快楽、内面の苦痛に対して、あらゆる瞬間に死ぬということです。時間の過程の中でではなくて、それが起こるときに死ぬことです。そのときあなたは、あなたがそこまで行ったならば、死は生のようであるということを見出すでしょう。そのとき生きることは死ぬことと分離していません。そしてそれは途方もない美の感覚を与えます。その美は思考と感情を越えています。そしてそれを組み立てて、絵を描くことや詩を書くこと、楽器を演奏することの中に使うことはできません。それらは関係がありません。生と死が同じであるとき、生きることと死ぬことが同義であるとき生じる美があります。なぜなら、そのとき生と死は心を完全に豊かに、全体で、欠けることなく残しておくからです。
> > >
> > > (終わり)
> > >
> > >
> > > ゴト: ここが訓えの最終点であり、入り口であった。
> >
> >
> >  ゴトさんから見ても、「死」は必要不可欠でしょうか?
>
>
> 私はこの人生でいくつかの出来事に出会い、死んである期間を過ごした。それは自分の思考がつくった問題を解決し、やがて忘れ去った。
> それは連続性を根源的にやめたのではなかった。すべての執着を根源的にやめたのではなかった。
>
> 老齢と癌で、今妻との毎日の生活がいつまでも続いてほしいという欲望の強さを知った。連続性を根本的に断つ死がない限り衰退と堕落の生があることがわかった。完全な死が活きている内に訪れるかどうか知らない。



 私は今は、後、数十年生きるだろうと思っているが故に、妻子への愛着がとてつもないものであることに気づいていない。

 だから、クリシュナムルティ理解によって、これを超えることができるかもしれない・・と思っている。

 しかし、とてつもないことかもしれません。

 とてつもないことが起こるには、とてつもないことを超えなければならないのですね。。

 幸い、ここには、とてつもない本と、とてつもない掲示板と、とてつもないサイトがある。

 おそらく、地球で、ここだけかもしれません。


[26676] 訓える 投稿者:無明 投稿日:2019/03/05(Tue) 18:57  

訓える。
私はこの字が読めなかった。調べたら、「おしえる」だという。
おしえるなら、当然「教える」だろう。訓える、と、教える、はどう違うのか。普通は、教えるのはずだ。訓える、という言葉は使ったことがないし、知らなかった、

釈迦の教え。キリストの教え。つまり教典。
クリシュナムルティの言葉は「教え」ではない。
たんなる言葉である。
クリシュナムルティの講演の趣旨は、一方的に教祖や先生の話を聞くいうことではなく、Kと同等に立場で、同じ目線で、話し合うということだが、結局は「教える」「教えられる」の関係になってしまうようだ。
例えば、どのようにしたら「気づき」を得られるのでしょうか?
同じ立場で、探求する、検証する、ということではなく。


[26675] 生と死 投稿者:無明 投稿日:2019/03/05(Tue) 18:36  

生と死は同じ。言葉はかっこいいが、人はその言葉に惑わされる。
現象面は違っていても、根源的なものは、「同じ」ということだ。
水は、気体、液体、固体と様々な場所で形を変えるが、「水」そのものだ。

心理的に「死ぬ」ということ。死ねば再生する。その繰り返し。生成流転。それが宇宙の法則。常住なるものはない。
「川の流れ」のように。
迷いは時間のなせる業(わざ)である。



[26674] Re:[26668] クリシュナムルティの訓え 投稿者:南方 投稿日:2019/03/05(Tue) 11:37  

> 最初のザーネン講話、8回目の末尾の部分再録
>
>
> クリシュナムルティ:  それで、心が蓄積し、収集し、経験したあらゆる物事に対し死ぬこと、即座に止めることが創造です。その中に連続性はありません。連続性を持っているものは常に衰退しています。連続することを求めるこの絶え間ない熱望に、それを私たちの大抵は持っているのですが、夫と妻、父と息子、その他もろもろの間の特定の関係の連続することを求める欲望に、あなたが気づいているかどうかわかりません。関係は、それが連続的であるとき、衰退しています。死んでいます。価値がありません。しかし連続性に対して死ぬとき、新しさ、新鮮さがあります。
>


Kは「外側」の対象について死ぬということを説いたのか、それとも実在についての投影に死ぬことを説いたのか、をはっきりさせないと混乱します。

>  それゆえ、心は死が何であるか直接経験できます。それはまったく並外れています。私たちの大抵は生きることが何か知りません。それゆえ死ぬことを知りません。私たちは生きることが何か知っているでしょうか? 私たちは苦闘が何か知っています。私たちは羨望が何か知っています。私たちは生存の残虐、その卑俗性をすべて知っています。憎しみ、野心、腐敗、葛藤。私たちはそのすべてを知っています。それが私たちの生です。しかし私たちは死を知りません。それでそれを恐れます。たぶん、もしも生が何であるか知るなら、死ぬことが何であるかも知るでしょうに。生きることは、確かに、その中で心がもはや蓄積していない、始めも終わりもない運動なのです。蓄積した瞬間、あなたは衰退の状態の中にあります。なぜなら、それが漠然とした経験にせよ、小さい経験にせよ、その周りにあなたは安全のための壁を建てるからです。
>


ここで「死」といっているのは実在のことですか?それとも外側の対象にたいして投影を辞めるということ?

>  それゆえ、生きることが何であるか知ることは、自分が獲得したもの、内面の快楽、内面の苦痛に対して、あらゆる瞬間に死ぬということです。時間の過程の中でではなくて、それが起こるときに死ぬことです。そのときあなたは、あなたがそこまで行ったならば、死は生のようであるということを見出すでしょう。そのとき生きることは死ぬことと分離していません。そしてそれは途方もない美の感覚を与えます。その美は思考と感情を越えています。そしてそれを組み立てて、絵を描くことや詩を書くこと、楽器を演奏することの中に使うことはできません。それらは関係がありません。生と死が同じであるとき、生きることと死ぬことが同義であるとき生じる美があります。なぜなら、そのとき生と死は心を完全に豊かに、全体で、欠けることなく残しておくからです。
>
> (終わり)
>
>
> ゴト: ここが訓えの最終点であり、入り口であった。



ゴトさんは思考の枠内で思考をどうこうしようということを話したいのですか?


[26673] Re:[26670] [26668] クリシュナムルティの訓え 投稿者:ゴト 投稿日:2019/03/05(Tue) 11:04  

> > 最初のザーネン講話、8回目の末尾の部分再録
> >
> >
> > クリシュナムルティ:  それで、心が蓄積し、収集し、経験したあらゆる物事に対し死ぬこと、即座に止めることが創造です。その中に連続性はありません。連続性を持っているものは常に衰退しています。連続することを求めるこの絶え間ない熱望に、それを私たちの大抵は持っているのですが、夫と妻、父と息子、その他もろもろの間の特定の関係の連続することを求める欲望に、あなたが気づいているかどうかわかりません。関係は、それが連続的であるとき、衰退しています。死んでいます。価値がありません。しかし連続性に対して死ぬとき、新しさ、新鮮さがあります。
> >
> >  それゆえ、心は死が何であるか直接経験できます。それはまったく並外れています。私たちの大抵は生きることが何か知りません。それゆえ死ぬことを知りません。私たちは生きることが何か知っているでしょうか? 私たちは苦闘が何か知っています。私たちは羨望が何か知っています。私たちは生存の残虐、その卑俗性をすべて知っています。憎しみ、野心、腐敗、葛藤。私たちはそのすべてを知っています。それが私たちの生です。しかし私たちは死を知りません。それでそれを恐れます。たぶん、もしも生が何であるか知るなら、死ぬことが何であるかも知るでしょうに。生きることは、確かに、その中で心がもはや蓄積していない、始めも終わりもない運動なのです。蓄積した瞬間、あなたは衰退の状態の中にあります。なぜなら、それが漠然とした経験にせよ、小さい経験にせよ、その周りにあなたは安全のための壁を建てるからです。
> >
> >  それゆえ、生きることが何であるか知ることは、自分が獲得したもの、内面の快楽、内面の苦痛に対して、あらゆる瞬間に死ぬということです。時間の過程の中でではなくて、それが起こるときに死ぬことです。そのときあなたは、あなたがそこまで行ったならば、死は生のようであるということを見出すでしょう。そのとき生きることは死ぬことと分離していません。そしてそれは途方もない美の感覚を与えます。その美は思考と感情を越えています。そしてそれを組み立てて、絵を描くことや詩を書くこと、楽器を演奏することの中に使うことはできません。それらは関係がありません。生と死が同じであるとき、生きることと死ぬことが同義であるとき生じる美があります。なぜなら、そのとき生と死は心を完全に豊かに、全体で、欠けることなく残しておくからです。
> >
> > (終わり)
> >
> >
> > ゴト: ここが訓えの最終点であり、入り口であった。
>
>
>  ゴトさんから見ても、「死」は必要不可欠でしょうか?


私はこの人生でいくつかの出来事に出会い、死んである期間を過ごした。それは自分の思考がつくった問題を解決し、やがて忘れ去った。
それは連続性を根源的にやめたのではなかった。すべての執着を根源的にやめたのではなかった。

老齢と癌で、今妻との毎日の生活がいつまでも続いてほしいという欲望の強さを知った。連続性を根本的に断つ死がない限り衰退と堕落の生があることがわかった。完全な死が活きている内に訪れるかどうか知らない。



[26672] 無題 投稿者:無明 投稿日:2019/03/05(Tue) 09:56  

かって新しい芽氏から、クリシュナムルティは、喋りすぎだということを聞いたことがあるが、今思うとわかるような気がします。

要するに「言葉に酔ってしまう」人がほとんどで、真理を把握できることはない。
O氏は、これを「クリシュナムルティ病」と称した。


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