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[25645] Re:[25641] [25637] [25636] 既知からの自由 4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/12(Thu) 18:27  

>  条件付けの最大のものが、「快楽原理」なのかもしれません。
>
>  これによって、「見る」「聴く」に条件付けのフィルターがかぶさり、直接の知覚を妨げる。
>
>  私は、フィルターなしに知覚されるものが、「現にあるもの」として、「あるがまま」と区別しています。
>
>  すなわち、
>
>  [あるがまま]=[現にあるもの]+[幻想]

そうなんですか! 言葉の使い方として了解しました。

>
>
>  ゴトさんが、条件づけ(思考・幻想)を含めて、「あるがまま」として「見る」「聴く」と言うとき、その「見る」「聴く」には、フィルターが纏われていないのではないでしょうか。。

はい、そうです。あるがままのものをそのままにただ見ることを言っています。直視も同じです。思考の介入なしにも同じです。

>  フィルターの有無は、「気づき」「注意」の有無によって分かるのではないでしょうか。

これはどういう意味なのだろうか? 注意の有無はわからないのでは? 気づきもそうです。ただ不注意があって気づいたとき、はっと注意に戻ることはわかります。むしろ思考の在り方でわかる気もします。

>
>  それによって、王様は裸であることが理解できるところの。。

私には王様の比喩は正直ピンときませんです。


[25644] Re:[25640] [25634] [25633] [25625] [25623] [25619] [25616] [25614] [25609] Timeless Stillness より 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/12(Thu) 17:55  

>  裸の王様が何を言おうと、どのような自己イメージを所持していても、それを「裸の王様」と見るのか、それを「王様」と見るのか・・。
>
>  その見え方、見方には区別があるのではないでしょうか。。
>
>  もしも、「裸の王様」として見えれば、少なくとも自身には条件付け(思考・幻想)がないのではないでしょうか。
>
>  これが、もしも「王様」として見えれば、自身には条件づけ(思考・幻想)があるのではないでしょうか。。
>
>  もしも、「裸の王様」として見えれば、自身の応答は、反応ではなく行為になるように感じます。
>
>  それに対して、「王様」として見えれば、自身の応答は、反応になるのではないでしょうか。
>
>  すなわち、自身の応答が「行為」か「反応」か、すなわち、条件づけられた応答か、条件づけられていない応答かの分かれ目となるのではないでしょうか。
>
>  ここで、まとめると、条件付けが、あちらにある場合、こちらにある場合、あちらにもこちらにもある場合、あちらにもこちらにもない場合と、場合分けができるにも関わらず、一色単に条件づけ(思考・幻想)のあるなしについて語ることによって、説明言葉の混乱が生じているように思います。
>
>  すなわち、言わんとするところは、ゴトさんと同じではないでしょうか。。

条件付けなしに見ることが唯一の拠り所だと思います。あるがままのものをあるがままに見るという事ですね。そこから私は再出発しましょう。


[25643] Re:[25639] [25631] [25629] [25628] [25627] [25622] 葛藤なしに見る?という幻想 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/12(Thu) 17:30  

> > > 問題をすり替えましたね。今、普遍的なテーマ、嫉妬の感情について、検討しようとしている。
> > > 自分の妻がよその男と浮気したとき、どんな気持ちになるか。実際に体験がなくても、誰でも状況がわかる話。
> > > 普通なら、その相手に「敵対心」が起きるということ。
> > >
> > > ここで一体何が起きるか。観察者とは何か、全注意とはどういうことかという話。
> >
> >
> > そういう話をすると、一向にリアルな話にならず、気づきを議論していた、車が山羊を引いたのに気づかない紳士たちのようになってしまう。まあ同思の人とやってみてください。
>
> 同思?同志では。
> 山羊の話は「不注意」の話。
> >
> > > もし、こうしたリアルな問題に対して取り上げたくないというならこの件は無視してください。
> >
> > 私はリアルに答えたが、これで満足できないなら、実は思考の道を求めているのではないか。嫉妬が実際に生じたら、その動静に気づきながらその場にいるしかないと思うよ。
>
> もちろんそうです。
> >
> > 議論は好きな人やればいいが、少なくともその前提として、彼女と彼氏の間に所有、依存、支配関係があるかないか、対等の立場があるかないか、それらがどう絡んでいるかぐらいは示してね。
>
> それは分析でしょう。様々なケースがある。原因究明は後の話。
> ここでの事実は、妻が不倫したこと、
> そのとき反応が起きる。そのまま見れるかどうか。

その通りだが、今までの彼女との関係が何だったのか、分析でなくリアルな実際が分かるかどうか。


> > > つまり、こうしたことは経験がない。その時になってみなければわからないので検討しない。つまり何言っても想像になるから。事実と違う。
>
> あるK信者の言い分。体裁のいい逃げ口上。いつも修羅場から逃げる。
>
>
> >
> > 私はリアルな話をしているぜ。個人的な事情は抜かしたけれど。


[25642] Re:[25638] [25635] [25630] ふと? 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/12(Thu) 17:21  

> > > > > 条件付けはいつか必ず発動します。その一瞬は条件付けの生の姿がいやおうなしに出ます。それに気づく。
> > >
> > > 気づくも何も 、自分の妻が浮気したら烈火のごとく怒ります。当然だ。
> >
> > それが多くの人の条件づけられた反応です。
> >
> > > 自分の妻が浮気した時、烈火のごとく怒る夫の思考が観察者ですか?
> >
> > そうです。観察者の反応です。
> >
> > > (注 )
> > > 平和な家庭を営んでいるあなたにとって不愉快かもしれないが、普遍的なテーマとして、わかりやすい例を出している。あなたには関係ないかもしれないが、私自身、何組もそう言った例を知っている。世の中平和な家庭ばかりではない。
> > > 私がもしそういう立場になれば腹わらが煮え繰りかえるいうこと。
> > > 即刻、荷物をまとめてお引き取り願う。
> > >
> > >
> > > >しかし、感情が、思考が形づくる間もなく飛び出るとき(以前本音が飛び出すときと書きました)、
> > >
> > > 裏切った妻に罵声を浴びせます。つまり本音をいう。
> > >
> > > (注)一つの例です。2時間ドラマでよくあるシーン
> > >
> > >
> > > >いやでも直視されてしまいます。見えてしまいます。
> > >
> > > 何が?
> >
> > 妻に浴びせた罵声が。そして妻の反応、心の内の本音も聞けるかも。それから何が起こるか、沈黙があるか、捨て台詞がおこるか。そのすべてを見ることがあり得ます。自分たちの関係はいったい何だったのか?
>
>
> 例えば、罵声を浴びせたあと、妻の反応がかえってくるかもしれません。夫に対する不満。これを聞いた夫は妻の思いがけない反応に驚く。こうした不満の鬱積が、妻の 不倫の道に走らされた。
> もちろん一つの例です。今のは夫への不満が形に現れたものですが、何不自由ない平凡な家庭でも起きえます。魔がさしたというか。ケースバイケース。そういうのはドラマでもお馴染み。
> 考えて見ると、このケースは、全体のほんの一部。
> >
> > > >これがチャンスです。それは図らずしてやってきます。不図(ふと)やってきます。予期することなしにやってきます。だからあるがままの姿を見ることができます。
> > >
> > > ?
> > > ここは全く意味がわかりません。何か話がいっきょに飛躍しているように感じられます。

妻の不倫は思いもかけなかったことではないですか、予期できなかったことではないですか? だから飾らない本音が飛び出て見えてしまったのです。続いて妻の本音も初めて聞けるかもしれません。すべてが図らずして展開し見えてしまいました。何の飛躍もありません。劇的な展開があります。予期していなかった展開があります。事実は小説より奇なのです。
 そうして今までの夫婦関係がイメージ、幻想であるがことが、その空虚さが実態であることがわかれば新しい生が開けるかもしれません。

> > > あなたの独自な個人的な体験でしょうか。
> > > いったいどういう状況のとき、そういった体験が出て来るのでしょうか。以前お話されたタバコが止まった経験でしょうか。

条件付けなしの、観察者のいない観察は普段ないに等しいのです。このように本音が目まぐるしく飛び交う予期できない展開があるとき、鈍い思考はついていけません。この時思考の介入なしに見えてしまうのです。本物の即時の理解があるのです。インスピレーションもあるのです。

> > > 何が「ふと」してやって来るのでしょうか?
> > > さっぱりわかりません。クリシュナムルティの探求者何人か聞いてますが、そのような話は聞いたことがない。

思考の隙間の実物の話をしています。実物を知っていない人は何も話せません。

> > > やはり、あなたの独自な経験としか言いようがないです。

あなたは大勢の権威者の裏付けが欲しいのですね。

> > Kも盤珪禅師も言っています。私は受け売りで言っています。自分の経験も多数ありますが。
>
> クリシュナムルティや盤珪師から、あなたのようなお話を残念ながら聞いたことがない。ついでに飯尾氏も言っていない。他に大野、高橋その他。
独自にオリジナルのようです。あなた流のとらえ方。

Kは言っていると思いますが、いくつもあると思うが忘れた。盤珪禅師はふとすべては不生のままで済むのかと悟った。予期せずして聞くのが不生の一念で聞くこととか言った。
思考の隙間はふと訪れるといってもわかりませんか?

> 頭が空白のとき、くつろいでいる時、何も考えないでぽかんとしている時、「ふと」英知というか、いいアイディアがやってくる(外部から)というのならわかりますが、「気づき」がやってくるというには聞いたことがない。

それが思考のない貴重な間隙です。それがふと起こる。その時観察者のいない観察、色メガネのない見る、聴く、知覚・気づきがある。貴重なチャンスです。

> 財布を忘れたことに気づくというには、日常では、よくあります。
> Kのいう「気づき」「理解」はそのようなものとは違うでしょう。

思考の干渉のない時が重要という事は知っていますよね。

> 「気づき」というには意識的に見るものであって、「ふと」起きるというものではない。

思考の間隙に見ている。その知覚は意識に浮かぶ。普段見ている時は思考がその場にいてすぐ解釈判断が起きてただ見れない。

> ここが、あなたの絶対譲れないところですね。。
> 「ふと、見ることできる」?

いえいえ、意識的に見て思考の介入がないなら、それであなたは人生の達人です。私は初心者の時、観察者のいない観察を得ようとしてできず、あきらめていた時、それはふと訪れたと言いました。

> > > >ええと、今現に出た生のものを名付けずに見ているわけですね。それは一瞬に出て終わる叫びです。
>
> 何が起きてくるのか、じっと見ます。それは目に見える外部のことあって、心の内面の方は、瞬時に反応する。
>
> 例えばの話。芝居映画ドラマを見てる時の私たちは「一心」に画面を見てるでしょう。そこでいろんな反応をする。笑ったり、悲しんだり。
> そこで、芝居を見て笑ってるとき、いちいち笑っている自分というものを見ていないということです。言い換えると、その時笑っている自分を自覚していない。無意識に笑っている。
> これは普通の反応。
> > >
> > > 現実には名付けてしまうでしょう。
> > > 例えば自分の妻と恋仲になった男に
> > > 「何やってんだ、この野郎!!人の女房に手を出しやがってうんぬん」などなど。
> > > この時の心情がわかるでしょう。憤懣やるかたない気持ち。
> >
> > 本音が出ていますね。ですが、それも残念ながら条件づけられものの一つの型です。
>
> あたりまえです。本音というのは、条件づけです。ところが今まで、言いたいことが言えなかった。対話不足が事態を招いた。
>
> 感情的になる前に、相手にどういういきさつでそうなったか、冷静になってまず聞いて見ることが肝要ですが、難しいでしょうね。本人の性格にもよりますが。
>
> >
> > 筋道をはっきりするために省略をかなりしました。
> >
> > > >事後に伝達するために言えば鋭い尖った声音、語調です。普通他人がいる時は言葉は柔らかく取り繕って話します。そうではなく、それなしに飛び出てしまった生の本音。そのときそれは条件付けられているかもしれないし、感情交じりの心理的思考かもしれないが、名付けられていないリアルな何かをじかに見たのです。それが理解と変容を自分にもたらし、そしてその場にいる人全部に伝わり、雰囲気の変化があります。
> > >
> > > 理解と変容?
> > > 何で?
> > > 自分の妻の浮気を容認することが「変容」ですか?
> > > 浮気は事実。その時のリアルタイムの反応。その時に起きる思考感情は過去の記憶の反応ですか?だから事実ではない。現場でそうやって割り切れるものだろうか。名付けたものは、死んだもので事実ではない、と。
> > > 何か妙ですね。腑に落ちません。
> > > だいたい葛藤というのは、起きる元は「人間関係」です。とくに男女関係。その問題を素通りすることは真理もへったくれもないとある人が言ってました。

それで多くの人は私のようにKを読んでいてさえものたうち回って苦しみます。それで自力で立ち上がっていきます。Kはこういう事を言っていたのかと事後にわかることが多い。

> > 本当に破局を経験すれば、妻との関係が何だったのか感じるところがあるかもしれませんよ。自分を正当化する観察者の目でのみ見ては何にもなりませんが。
>
> 冷静になって、まずそうなった理由を聞くことが先決なように思います。それが真の解決策。
>
> 注
> 正直いうと、不倫というのは映画ドラマテレビの世界しか知りませ。今まで生きて来た中で、周囲にそうした話をほとんど聞いたことがない。同じように事件事故に遭遇した人もいない。ニュースで知るだけ。
> 有名人だったらその地位を利用してありえるだろうという話。


[25641] Re:[25637] [25636] 既知からの自由 4 投稿者:宮啓 投稿日:2018/07/12(Thu) 16:21  

> >  [快楽の追求・欲望・思考による歪曲] [記憶・喜び]
>
>
> この章は「快楽」についての完璧な記述であると私には思えます。始めは二つに分けるつもりでしたが、まとめて全章を一挙に掲載しました。どうかこの快楽を全体的に理解して終わりにしてください。
>
> 嫉妬の苦しみも快楽の問題なのですね。しかもこれは人間の意識が抱え込んだ問題だと私は思います。少なくともこの問題に気づいて話し合いましょう。とても分かりやすく全体がまとめてあります。



 条件付けの最大のものが、「快楽原理」なのかもしれません。

 これによって、「見る」「聴く」に条件付けのフィルターがかぶさり、直接の知覚を妨げる。

 私は、フィルターなしに知覚されるものが、「現にあるもの」として、「あるがまま」と区別しています。

 すなわち、

 [あるがまま]=[現にあるもの]+[幻想]



 ゴトさんが、条件づけ(思考・幻想)を含めて、「あるがまま」として「見る」「聴く」と言うとき、その「見る」「聴く」には、フィルターが纏われていないのではないでしょうか。。

 フィルターの有無は、「気づき」「注意」の有無によって分かるのではないでしょうか。

 それによって、王様は裸であることが理解できるところの。。


[25640] Re:[25634] [25633] [25625] [25623] [25619] [25616] [25614] [25609] Timeless Stillness より 投稿者:宮啓 投稿日:2018/07/12(Thu) 12:03  

> > > > > > > 命名が古い軌道を走り出すきっかけなのだ!とKが言います。
> > > > > > >
> > > > > > > 名づけずに見ている。これが第一の関門ですが、これはコメントとしてはっきりしています。
> > > > > > >
> > > > > > > 名づけることなしに見ていることは困難だと言われればそうですが…
> > > > > > >
> > > > > > > > ここに感情があります。それは事実です。精神はその事実になんらかの用語や、意見や、評価や、非難がましい態度をもってアプローチします。それらは死んだものです。理解できますか? それらは死んでいるものです。何の価値もありません。それらはただの記憶、その事実のうえで働く記憶です。
> > > > > > >
> > > > > > > どうしても名づける前の嫉妬の感情の噴出に気づく! その時何が起こるかわかりませんが、それこそが多分唯一の入口でしょう。ここから先に進みましょう。
> > > > > > >
> > > > > > > > Bombay 8th Public Talk 28th March 1956
> > > > > >
> > > > > >
> > > > > >  「条件付け」が目に見えるもの、内面で感じられるものにフィルターをかけているようです。。
> > > > > >
> > > > > >  したがって、外の現にあるものを、そのまま見ることはできず、内面にある現にあるものを、そのまま見ることができないようです。
> > > > > >
> > > > > >  このフィルターすなわち条件付けを見ることができるか。
> > > > >
> > > > > 条件付けはいつか必ず発動します。その一瞬は条件付けの生の姿がいやおうなしに出ます。それに気づく。
> > > > >
> > > > > 条件付けが今思考によって練って、練って、練り上げて出ている時は思考に覆われて直接見れません。観察者は思考者なのです。しかし、感情が、思考が形づくる間もなく飛び出るとき(以前本音が飛び出すときと書きました)、いやでも直視されてしまいます。見えてしまいます。これがチャンスです。それは図らずしてやってきます。不図(ふと)やってきます。予期することなしにやってきます。だからあるがままの姿を見ることができます。
> > > >
> > > >
> > > >  それは条件づけられた感情ではないでしょうか。
> > >
> > > ええと、今現に出た生のものを名付けずに見ているわけですね。それは一瞬に出て終わる叫びです。事後に伝達するために言えば鋭い尖った声音、語調です。普通他人がいる時は言葉は柔らかく取り繕って話します。そうではなく、それなしに飛び出てしまった生の本音。そのときそれは条件付けられているかもしれないし、感情交じりの心理的思考かもしれないが、名付けられていないリアルな何かをじかに見たのです。それが理解と変容を自分にもたらし、そしてその場にいる人全部に伝わり、雰囲気の変化があります。
> > >
> > >
> > > 私はこの感じをリアルに伝えられないかとトライしています。名づけや分別のまったくなしの場があることを分かってほしいのです。
> > >
> > >
> > > >  「条件づけられた感情」として、あるがままに見る。なら、分かりますが・・。
>
>
> 「条件づけられた感情」としてという事はすでに命名したという事ですか? 今あるののが真実であろうが虚偽であろうが、条件づけられた思考であろうが、とにもかくにもそれが「今あるものです。
>
> > > >  その感情は現にあるものに触れての感情ではなく、条件づけられた感情ではないでしょうか。
>
> 今あるものが既に何かであるはずのものと規定されて見られています。見て理解されるというプロセスでない。これは問題ではないでしょうか?
>
> > > >  『ボームの思考論』は、これに触れていて、知覚はすでに条件づけられており、現にあるものを知覚することはできない旨が述べられています。
> > > >
> > > >  クリシュナムルティは感情と思考を区別していません。両方とも機械的運動として捉えられています。
> > > >
> > > >  すなわち、脳機能なしに感情はないということです。
> > > >
> > > >  感情は思考と同様に、不確かなのではないでしょうか。
> > > >
> > > >  知覚が不確かであるのと同じように。
> > > >
> > > >  『思考の限界』でも、同様な主旨が述べられています。
>
> あなたは知識を前提として見ることを考えの中で組み立てていませんか? 
>
>
> >  このところ、「直接の知覚」と「条件づけられた認知」の間隔に気づくようになりました。
> >
> >  夜、床に入って寝入りかけたところに、「ドン」という音にビックリした後、「こんな夜遅くに・・・」「せっかく安らかにしていたのに・・」という思考(条件づけ)のために、小さな怒りが生じたのです。初めの知覚(ドンという音を聞いた瞬間)は、中心はなく、観察者と観察されるもとの分離はなく、分離なき深き音だけがあったのです。その瞬間後に思考がやってきて怒りの感情、不満の感情が発生したのです。
> >
> >  そのようにして、何かに付け、初めの直接の知覚の瞬間後に思考がやってくるのが分かるようになっているようです。。
> >
> >  ハウツーではないのですが、ポイントは「現にあるもの」を直接の知覚によって捉えようとするのではなく、否定的接近、すなわち、条件づけを見ようとする見方、聴き方があるように思います。
> >
> >  条件付けは、おおよそ「今現在」あるので、これを「今」探索することができる。
> >
> >  それに対して、「現にあるもの」は、おおよそ「今現在、思考(条件づけ)に纏われて表れていない」がゆえに、近い未来に見える(聞える)であろう「現にあるもの」を追うことは、時間の過程に巻き込まれるということではないでしょうか・・。
>
> 現にあるものは真実であろうが、条件づけられた死体同様のものがあるにせよ、それが現にあるもの。今現にあるものです。あるがままのものです。あなたは見えるものを変に規定して決め込んでいる。私は現にあるもの、今現にあるもの、あるがままのものを使い分けしていません。何かあなたと食い違っているものが今浮かび上がろうとしています。はっきりするといいですね。
>
> 最初ドンという音がした時はそれがあるがままのもの、つぎがびっくりしたかんじ、つぎに「こんな夜遅くに・・・」「せっかく安らかにしていたのに・・」つぎにと出てきた思考がその時のあるがままのもの。
>
> それらを見るとは、非難も正当化もなしに、解釈や判断なしに、抑制や逃避なしにただ見ることです。それがないと怒りは増幅するかもしれません。観察者なしに見ているなら反応はいつしか終わり寝るでしょう。
>
> >
> >
> >  ある専制君主に絶対服従を強いられていた魂が、実は「王様は裸だ」と薄々感じたがゆえに、本当のことを見い出したいと、その専制君主を瞬きもせずに見る。そのとき、その専制君主を透視するのではなく、自身の内側の条件付けを探索する。
> >
> >
> >  もしも、これを今の北朝鮮国民、あるいは戦中・戦前の本国国民がクリシュナムルティ理解をしていれば、その専制君主は裸であることに気づいたのではなかろうか。



 裸の王様が何を言おうと、どのような自己イメージを所持していても、それを「裸の王様」と見るのか、それを「王様」と見るのか・・。

 その見え方、見方には区別があるのではないでしょうか。。

 もしも、「裸の王様」として見えれば、少なくとも自身には条件付け(思考・幻想)がないのではないでしょうか。

 これが、もしも「王様」として見えれば、自身には条件づけ(思考・幻想)があるのではないでしょうか。。

 もしも、「裸の王様」として見えれば、自身の応答は、反応ではなく行為になるように感じます。

 それに対して、「王様」として見えれば、自身の応答は、反応になるのではないでしょうか。

 すなわち、自身の応答が「行為」か「反応」か、すなわち、条件づけられた応答か、条件づけられていない応答かの分かれ目となるのではないでしょうか。

 ここで、まとめると、条件付けが、あちらにある場合、こちらにある場合、あちらにもこちらにもある場合、あちらにもこちらにもない場合と、場合分けができるにも関わらず、一色単に条件づけ(思考・幻想)のあるなしについて語ることによって、説明言葉の混乱が生じているように思います。

 すなわち、言わんとするところは、ゴトさんと同じではないでしょうか。。


[25639] Re:[25631] [25629] [25628] [25627] [25622] 葛藤なしに見る?という幻想 投稿者:無明 投稿日:2018/07/12(Thu) 10:46  

> > 問題をすり替えましたね。今、普遍的なテーマ、嫉妬の感情について、検討しようとしている。
> > 自分の妻がよその男と浮気したとき、どんな気持ちになるか。実際に体験がなくても、誰でも状況がわかる話。
> > 普通なら、その相手に「敵対心」が起きるということ。
> >
> > ここで一体何が起きるか。観察者とは何か、全注意とはどういうことかという話。
>
>
> そういう話をすると、一向にリアルな話にならず、気づきを議論していた、車が山羊を引いたのに気づかない紳士たちのようになってしまう。まあ同思の人とやってみてください。

同思?同志では。
山羊の話は「不注意」の話。
>
> > もし、こうしたリアルな問題に対して取り上げたくないというならこの件は無視してください。
>
> 私はリアルに答えたが、これで満足できないなら、実は思考の道を求めているのではないか。嫉妬が実際に生じたら、その動静に気づきながらその場にいるしかないと思うよ。

もちろんそうです。
>
> 議論は好きな人やればいいが、少なくともその前提として、彼女と彼氏の間に所有、依存、支配関係があるかないか、対等の立場があるかないか、それらがどう絡んでいるかぐらいは示してね。

それは分析でしょう。様々なケースがある。原因究明は後の話。
ここでの事実は、妻が不倫したこと、
そのとき反応が起きる。そのまま見れるかどうか。
>
> >
> > つまり、こうしたことは経験がない。その時になってみなければわからないので検討しない。つまり何言っても想像になるから。事実と違う。

あるK信者の言い分。体裁のいい逃げ口上。いつも修羅場から逃げる。


>
> 私はリアルな話をしているぜ。個人的な事情は抜かしたけれど。


[25638] Re:[25635] [25630] ふと? 投稿者:無明 投稿日:2018/07/12(Thu) 10:33  

> > > > 条件付けはいつか必ず発動します。その一瞬は条件付けの生の姿がいやおうなしに出ます。それに気づく。
> >
> > 気づくも何も 、自分の妻が浮気したら烈火のごとく怒ります。当然だ。
>
> それが多くの人の条件づけられた反応です。
>
> > 自分の妻が浮気した時、烈火のごとく怒る夫の思考が観察者ですか?
>
> そうです。観察者の反応です。
>
> > (注 )
> > 平和な家庭を営んでいるあなたにとって不愉快かもしれないが、普遍的なテーマとして、わかりやすい例を出している。あなたには関係ないかもしれないが、私自身、何組もそう言った例を知っている。世の中平和な家庭ばかりではない。
> > 私がもしそういう立場になれば腹わらが煮え繰りかえるいうこと。
> > 即刻、荷物をまとめてお引き取り願う。
> >
> >
> > >しかし、感情が、思考が形づくる間もなく飛び出るとき(以前本音が飛び出すときと書きました)、
> >
> > 裏切った妻に罵声を浴びせます。つまり本音をいう。
> >
> > (注)一つの例です。2時間ドラマでよくあるシーン
> >
> >
> > >いやでも直視されてしまいます。見えてしまいます。
> >
> > 何が?
>
> 妻に浴びせた罵声が。そして妻の反応、心の内の本音も聞けるかも。それから何が起こるか、沈黙があるか、捨て台詞がおこるか。そのすべてを見ることがあり得ます。自分たちの関係はいったい何だったのか?


例えば、罵声を浴びせたあと、妻の反応がかえってくるかもしれません。夫に対する不満。これを聞いた夫は妻の思いがけない反応に驚く。こうした不満の鬱積が、妻の 不倫の道に走らされた。
もちろん一つの例です。今のは夫への不満が形に現れたものですが、何不自由ない平凡な家庭でも起きえます。魔がさしたというか。ケースバイケース。そういうのはドラマでもお馴染み。
考えて見ると、このケースは、全体のほんの一部。
>
> > >これがチャンスです。それは図らずしてやってきます。不図(ふと)やってきます。予期することなしにやってきます。だからあるがままの姿を見ることができます。
> >
> > ?
> > ここは全く意味がわかりません。何か話がいっきょに飛躍しているように感じられます。
> >
> > あなたの独自な個人的な体験でしょうか。
> > いったいどういう状況のとき、そういった体験が出て来るのでしょうか。以前お話されたタバコが止まった経験でしょうか。
> >
> > 何が「ふと」してやって来るのでしょうか?
> > さっぱりわかりません。クリシュナムルティの探求者何人か聞いてますが、そのような話は聞いたことがない。
> > やはり、あなたの独自な経験としか言いようがないです。
>
> Kも盤珪禅師も言っています。私は受け売りで言っています。自分の経験も多数ありますが。

クリシュナムルティや盤珪師から、あなたのようなお話を残念ながら聞いたことがない。ついでに飯尾氏も言っていない。他に大野、高橋その他。
あなた独自にオリジナルのようです。あなた流のとらえ方。

頭が空白のとき、くつろいでいる時、何も考えないでぽかんとしている時、「ふと」英知というか、いいアイディアがやってくる(外部から)というのならわかりますが、「気づき」がやってくるというには聞いたことがない。
財布を忘れたことに気づくというには、日常では、よくあります。
Kのいう「気づき」「理解」はそのようなものとは違うでしょう。
「気づき」というには意識的に見るものであって、「ふと」起きるというものではない。
ここが、あなたの絶対譲れないところですね。。
「ふと、見ることできる」?
>
> > >ええと、今現に出た生のものを名付けずに見ているわけですね。それは一瞬に出て終わる叫びです。

何が起きてくるのか、じっと見ます。それは目に見える外部のことあって、心の内面の方は、瞬時に反応する。

例えばの話。芝居映画ドラマを見てる時の私たちは「一心」に画面を見てるでしょう。そこでいろんな反応をする。笑ったり、悲しんだり。
そこで、芝居を見て笑ってるとき、いちいち笑っている自分というものを見ていないということです。言い換えると、その時笑っている自分を自覚していない。無意識に笑っている。
これは普通の反応。
> >
> > 現実には名付けてしまうでしょう。
> > 例えば自分の妻と恋仲になった男に
> > 「何やってんだ、この野郎!!人の女房に手を出しやがってうんぬん」などなど。
> > この時の心情がわかるでしょう。憤懣やるかたない気持ち。
>
> 本音が出ていますね。ですが、それも残念ながら条件づけられものの一つの型です。

あたりまえです。本音というのは、条件づけです。ところが今まで、言いたいことが言えなかった。対話不足が事態を招いた。

感情的になる前に、相手にどういういきさつでそうなったか、冷静になってまず聞いて見ることが肝要ですが、難しいでしょうね。本人の性格にもよりますが。

>
> 筋道をはっきりするために省略をかなりしました。
>
> > >事後に伝達するために言えば鋭い尖った声音、語調です。普通他人がいる時は言葉は柔らかく取り繕って話します。そうではなく、それなしに飛び出てしまった生の本音。そのときそれは条件付けられているかもしれないし、感情交じりの心理的思考かもしれないが、名付けられていないリアルな何かをじかに見たのです。それが理解と変容を自分にもたらし、そしてその場にいる人全部に伝わり、雰囲気の変化があります。
> >
> > 理解と変容?
> > 何で?
> > 自分の妻の浮気を容認することが「変容」ですか?
> > 浮気は事実。その時のリアルタイムの反応。その時に起きる思考感情は過去の記憶の反応ですか?だから事実ではない。現場でそうやって割り切れるものだろうか。名付けたものは、死んだもので事実ではない、と。
> > 何か妙ですね。腑に落ちません。
> > だいたい葛藤というのは、起きる元は「人間関係」です。とくに男女関係。その問題を素通りすることは真理もへったくれもないとある人が言ってました。
>
> 本当に破局を経験すれば、妻との関係が何だったのか感じるところがあるかもしれませんよ。自分を正当化する観察者の目でのみ見ては何にもなりませんが。

冷静になって、まずそうなった理由を聞くことが先決なように思います。それが真の解決策。


正直いうと、不倫というのは映画ドラマテレビの世界しか知りませ。今まで生きて来た中で、周囲にそうした話をほとんど聞いたことがない。同じように事件事故に遭遇した人もいない。ニュースで知るだけ。
有名人だったらその地位を利用してありえるだろうという話。



[25637] Re:[25636] 既知からの自由 4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/12(Thu) 08:43  

>  [快楽の追求・欲望・思考による歪曲] [記憶・喜び]


この章は「快楽」についての完璧な記述であると私には思えます。始めは二つに分けるつもりでしたが、まとめて全章を一挙に掲載しました。どうかこの快楽を全体的に理解して終わりにしてください。

嫉妬の苦しみも快楽の問題なのですね。しかもこれは人間の意識が抱え込んだ問題だと私は思います。少なくともこの問題に気づいて話し合いましょう。とても分かりやすく全体がまとめてあります。



[25636] 既知からの自由 4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/12(Thu) 08:15  

 [快楽の追求・欲望・思考による歪曲]

前の章で喜びは快楽とは全く違った何かだと言いました。そこで快楽には何が含まれているか、また快楽ではなく、喜び、至福の途方もない感覚の世界に生きることが、果たして可能かどうか見いだしましょう。

 私たちはみな何らかの形で快楽の追求に携わっています ― 知的な、感覚的あるいは文化的快楽、改革し、他人に何をすべきか教え、社会の悪を修正し、よいことを行う快楽 ― より多くの知識の快楽、より多くの肉体的満足、より大きな経験、より偉大な生の理解、利口で抜け目のない心の物事のすべて ― そして究極の快楽は、もちろん、神を持つことです。

 快楽は社会の構造です。子供の時から死ぬまで、私達は密かに、抜目なく、あるいはあからさまに快楽を追求しています。ですから快楽の形が何であれ、それが人生を導き形作るので、それについて非常に明確でなければならないと私は考えます。したがって私達の一人一人がこの快楽の問題を、綿密に、ためらいながら、細心の注意をして調べることが重要です。というのは快楽を見いだし、そしてそれを育て維持することは生の基本的要求であり、それなしでは生きることは退屈で、馬鹿げて、単独で、無意味になるからです。

 ではなぜ生は快楽によって導かれるべきではないのかとあなたは尋ねるかも知れません。それは快楽は苦痛、欲求不満、悲しみ、そして恐怖をもたらし、そして、その恐怖から暴力をもたらすに違いないという非常に簡単な理由からです。もしそのように生きたいなら、そのように生きなさい。世界の大多数は、ともかく、そうします。しかし悲しみから自由でありたいなら快楽の構造の全体を理解しなければなりません。

 快楽を理解することはそれを否定することではありません。快楽を非難したり、それが正しいとか間違っているとか言っているのではなく、快楽を求めるならいつも快楽を探し求めている心は不可避的にその影、苦痛を見いださなければならないことを知って、両目を開けて、そうしましょう。私達は快楽を追いかけ、苦痛を避けようと努めますが、快楽と苦痛は分離することはできません。


 さてなぜ心は常に快楽を要求しているのでしょうか? なぜ私達は快楽の底流のもとに高貴なあるいは下劣なことをするのでしょうか? なぜ私達は快楽の細い糸の上で犠牲を供し、苦しむのでしょうか? 快楽とは何であって、それはどんなふうに生じるのでしょうか? 誰か自分自身にこれらの問いを尋ねて、答えをその最後まで追ったことがあるのかどうか、私は疑問に思います。

 快楽は四つの段階 ― 知覚、感覚、接触、欲望、を通じて生じます。私は美しい自動車を見ます。次にそれを見て感覚、反応を得ます。それからそれに触り、またはそれに触ることを想像し、そして次には所有しその中の自分を見せびらかそうとする欲望があります。あるいは美しい雲を見ます。あるいは空にくっきりとそびえたつ山、春に芽吹いたばかりの木の葉、魅力と壮麗さに満ちた深い峡谷、素晴らしい夕焼け、あるいは美しい顔、聡明で、生き生きして、自分を意識してそれゆえもはや美しくないのではなく。私はこれらのものを強い歓喜を持って見、そしてそれらを観察するとき観察者はなくただ愛のような純粋の美があるだけです。一瞬、すべての問題、心配、惨めさを抱える私は不在です ― あの素晴らしいものがあるだけです。私はそれを喜びを持って見ることができ、次の瞬間それを忘れます。そうでなければ心が入り込み、それから問題が始まります。私の心は見たものを思い巡らしそれはいかに美しかったか考えます。それをまた見たいと何度も自分自身に話します。思考は比較、判断をし始め、「私は明日また同じ経験をしなければ」と言います。瞬間的に歓喜を与えた経験の継続が、思考によって維持されます。

 静的な欲望あるいはどんな形のほかの欲望についても同じです。欲望に何も間違ったことはありません。反応することは完全に正常です。もしあなたが私にピンを刺すならマヒしていない限り私は反応するでしょう。しかしその後で思考が入り込み、喜びをよく考え、それを快楽に変えます。思考は経験を繰り返そうと望み、繰り返せば繰り返すほど、それはますます機械的になります。それについて考えれば考えるほど、思考はますます快楽に強さを与えます。それゆえ思考は欲望を通じて快楽をつくりだして維持し、それに継続性を与え、したがって美しいものに対する欲望の自然な反応は、思考によって歪曲されます。思考はそれを記憶に変え、そして記憶はその後何度もそれについて考えることによって強められます。

 もちろん記憶はあるレベルの持ち場があります。毎日の生活において記憶がなければ全く機能できません。それ自体の場の中ではそれは効率的であるに違いありませんが、記憶の持ち場が殆どない心の状態があります。記憶によって損なわれていない心は真の自由を持っています。

[記憶・喜び]

 何かに全身全霊で全的に応答するとき、殆ど記憶がないことに、今までに気づいたことがありますか? 挑戦に自分の全存在で応答しないときだけ、葛藤、苦闘があり、これが混乱と快楽または苦痛をもたらします。そして苦闘は記憶を生みます。その記憶は常に他の記憶によって増大させられ、応答するのはこれらの記憶です。記憶の結果であるものは何であっても古く、それゆえ決して自由ではありません。思考の自由というようなものはありません。それは全くのナンセンスです。

 思考は決して新しくありません。というのは思考は記憶、経験、知識の応答だからです。思考は、古いものだから、この歓喜を持って見、そしてその瞬間非常に素晴らしく感じたものを古いものにします。古いものから快楽を引き出すのであり、新しいものからではありません。新しいものには時間はありません。

 それゆえもし快楽が忍び入るのを許さずに全てのものを見るなら ― 美しい顔、鳥、サリーの色、日にきらめく水面の美、喜びを与えるどんなものでも ― 経験が繰り返されるのを望まずに見ることができるなら、その時苦痛はなく、恐怖はなく、したがって途方もない喜びがあるでしょう。

 快楽を苦痛に変えるのは、それを繰り返し、永続させようとする苦闘です。それを自分自身の中に見守りなさい。快楽を繰り返そうとするその要求そのものが苦痛をもたらします。なぜなら快楽は昨日あったものと同じではないからです。あなたは自分の審美的な感覚に対してだけでなく、心の同じ内的資質に対しても、同じ喜びを得ようと苦闘し、それが拒否されるので傷つき失望します。


 少しばかりの楽しみを拒否されるとき自分に何が起きるか観察したことがありますか? 望むものが得られないとき、切望し、妬み、いらいらします。飲酒や喫煙、セックス、あるいは何であれその快楽を拒否されたとき ― どんな戦いを味合うか気づいたことがありますか? そしてその全ては恐怖の一つの姿ではないでしょうか? 欲することを得ないこと、あるいは持っているものを失うことを恐れています。何年も保持してきた或る特別な信仰やイデオロギーが、論理または生活によって振り飛ばされたり引き離されたりしたとき、一人で立つことを恐れないでしょうか? その信念は何年も満足と快楽を与えてきました。そしてそれが取り去られるとき、途方に暮れ、虚脱したままになり、そして恐怖は別の形の快楽、別の信念を見出すまで存続します。

 それは私には非常に単純に思われ、そしてそんなにも単純なので私達はその単純さを見ようとしません。私達はあらゆるものを複雑化することを好みます。妻が自分を見捨てるとき嫉妬しませんか? 怒りませんか? 彼女を魅惑した男を憎みませんか? その全ては、たくさんの快楽、信仰、ある保証の性質と所有の満足を与えてくれたものを失う恐怖でなくて何でしょうか?

 それゆえたとえ快楽の追求があるところには苦痛があるに違いないことを理解しても、もしそのように生きたいならそう生きなさい。だが決してその中に陥ってはいけません。もし快楽を終えることを望むなら、それは苦痛を終えることですが、快楽の構造の全体に完全に注意深くなければなりません ― 修道士や苦行僧は、女性を見るのは罪だと考えて決して見ず、それによって理解の活力を破壊していますが、そのようにして快楽を断つのではなく ― 快楽の全体の意味と意義を見ることです。その時生の中に途方もない喜びを持つでしょう。喜びについて考えることはできません。喜びは即時のものであって、それについて考えることにより喜びは快楽に変わります。現在に生きることは、それから快楽を求めることのない、美の即時の知覚であり、その中にある大きな歓喜です。

(4章 終わり)


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