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[25866] Re:[25863] [25861] 既知からの自由10−3 投稿者:宮啓 投稿日:2018/09/13(Thu) 16:48  

> > 10[愛]−3
> >
> >  愛する誰かを失うときあなたは涙を流します ― その涙は自分自身のためでしょうか、それとも亡くなった人のためでしょうか? 自分自身のために泣いているのでしょうか、それともほかの人のために泣いているのでしょうか? ほかの人のために泣いたことが一体あるでしょうか? 戦場で殺された息子のために泣いたことがあるでしょうか? あなたは泣きました、だがその涙は自己憐憫から出るのでしょうか、それとも一人の人間が殺されたから泣いたのでしょうか? 自己憐憫から泣くのなら、自分自身に関心があるのだから、あなたの涙は意味がないのです。多くの愛情を注いできた人を失ったので泣いているのなら、それは真の愛情ではないのです。死んだ自分の兄弟のために泣くときには彼のために泣きなさい。彼が死んだので自分自身のために泣くのは非常に容易です。明らかに心が痛み泣いているのですが、しかし彼のために痛むのではなく、自己憐憫によって痛むだけなのです。そして自己憐憫は自分を冷酷にし、閉ざし、鈍く愚かにします。
>
> 自分の愛する人が死んだという話を聞くだけで私は涙が出そうになります。あるいは沈黙に閉ざされるかです。心が痛み、泣くのですが、それは死んだ人を思いやって泣くのではなく、自己憐憫から泣いているというを私は今まで、本当に考えてはいませんでした。
>
> >  自分自身のために泣くときそれは愛でしょうか? ― 淋しいから、残されてしまったから、もはや強力ではないから泣いています ― 自分の運命、自分の環境に不平を言っています ― 涙の中に常に自分。このことを理解するなら、それは木や柱や手に触れるように直接それと接触することを意味しますが、そのとき悲しみは自分でつくりだしたものであり、悲しみは思考によってつくられ、悲しみが時間の結果であることを見るでしょう。私は三年前兄弟がありましたが、今兄弟は死んでおり、今私は孤独で、心がうずきます。慰めや友情を期待できる人は誰もありません。そしてそれが私の目に涙をもたらします。
>
> > 涙の中に常に自分。−− それが自分は本当にわかっていませんでした。本当によく見ていませんでした。


 クリシュナムルティが普及しにくい理由は、この厳格さにあるように思えてきます。

 先日の北海道の地震、関西の台風にて、亡くなった肉親を想っての涙がありましたが、その涙に「私」を見てとるのです。看破。

 その涙さえ焼き尽くす炎によってしか真理は姿を現さない。

 徹底した自己放棄。これがクリシュナムルティ理解の取り組みにおいて必要不可欠のようです。


> >  それを注視するなら、自分自身の内部に起きているこの全てを見ることができます。分析の時間をかけることなく、十分に、完全に、一目で見ることができます。この見せかけだけのつまらない「私」と呼ばれるものの全構造と性質を瞬間に見ることができます。私の涙、私の家族、私の国、私の信念、私の宗教 ― その醜さの全て、それは全て自分の内部にあります。それをマインドではなく、あなたのハートで見るとき、それをあなたのハートのまさに奥底から見るとき、そのときあなたは悲しみを終わらせる鍵を持ちます。
>
> 悲しみは崇高に見えても感情なのです。思考と相伴うもの、過去のものなのです。それがわかりました。


 自身にそれを見るということは、他者の中にもそれを見ること。その醜さを見ても優劣は変らない。劣等感も優越感も変らない。他者といっしょだから。。

 ただし、他者はそれに気づいていない。



> >  悲しみと愛は相伴うことはできません。しかしキリスト教の世界では苦難を理想化し、十字架の上に置き、崇拝してきました。それはあなたはあの特定の一つの扉を通る以外には、決して苦しみから逃れることはできないということを意味し、そしてこれが搾取している宗教社会の全体の構造なのです。
>
> 崇高な苦悩を通り抜ける?、それによって苦しみから脱皮できる? キリスト教はあまり知りません。


 キリスト教を含む諸宗教は、悲しみ・苦しみに対して耐え忍ぶことを良しとするのではないでしょうか。今堪えていれば、忍ぶことができれば、将来に救いがやってくると・・。


> >  そこで愛が何か問うとき、あまりに怖くて答えを見れないかも知れません。それは完全な激変を意味するかもしれません。家庭を粉砕するかもしれません。妻や夫や子供を愛していないということを発見するかも知れません ― 違いますか? ― 建てた家を粉々に壊さなければならないかも知れません。寺院に決して戻らないかも知れません。
> >
> >  しかしなおあなたが見いだそうと望むなら、あなたは恐怖は愛ではないということを、依存は愛ではなく、嫉妬は愛ではなく、所有と支配は愛ではなく、責任と義務は愛ではなく、自己憐憫は愛ではなく、愛されていない苦悩は愛ではなく、謙遜が虚栄の反対物でないのと同様に愛は憎悪の反対物ではないことを見るでしょう。そこで強制によってではなく雨が葉から何日もの埃を洗うように洗い流すことによって、これらを全て除去することが出来るなら、そのときおそらく人が常に渇望しているこの不思議な花に出会うでしょう。
>
> よく見る、知的でない理解はこれらの錯覚を雨のように洗い流してくれます。


 慈善活動家、理想家、平和主義者、福祉事業に携わる人々、教育活動に携わる人々(教諭等)、彼らの中に愛のかけらさえないことを見ることができるのか。。


> >  あなたが愛を持っていないなら ― 僅かばかりでなく豊富に ― 愛で満たされていないなら ― 世界は完全な失敗に向けて進むでしょう。人類の統合が不可欠であり愛が唯一の道であることを知的には知っていても、どうやって愛するか誰が教えるのでしょう? 何かの権威、方法、体系がどうやって愛するか教えてくれるでしょうか? 誰かが教えてくれるなら、それは愛ではありません。「私は愛を実践しよう。来る日も来る日も座って愛について考えよう。親切で優しいことを実践し、他人に注意を払うよう自分自身に強制しよう」と言うことが出来るでしょうか? 愛するように自分自身を強制できる、愛するように意志を発揮できると言うつもりですか? 愛するために規律や意志を用いるとき、愛は窓から出ていきます。愛するための方法や体系を行なうことによって途方もなく賢くなるか、もっと親切になるか、あるいは非暴力の状態になるかも知れませんが、しかしそれは愛とはまったく何の関係もありません。
>
> 愛を皆が知っていなければ文明は失敗に向かうでしょう、はい。確かに。
>  で、愛を知るには強制的な鍛錬、しつけの類は無益であることは知っているというか、受け付けられません。


 慈善活動家、理想家、平和主義者、福祉事業に携わる人々、教育活動に携わる人々(教諭等)、彼らは>途方もなく賢くなるか、もっと親切になるか、あるいは非暴力の状態になるかも知れませんが、しかしそれは愛とはまったく何の関係もありません。−−


 私たちが我が子らへと注ぐ愛着は、思考の範囲内、意識の範囲内のエネルギーであり、世界を完全な失敗へ向けて推進させるエネルギーであるようです。

 すなわち、アメリカ国民の最大多数派のトランプ支持者達は、我が子らを慈しむ慈悲深い親でもあるようです。
 そのような米国の親たちも、我が子らに対してはゴトさんの亡き母がゴトさんに尽くしたような親たちなのかもしれません。そうでしょうか。。


> > (続く)


[25864] 既知からの自由10−4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/13(Thu) 11:43  

10[愛]−4

 この引き裂かれた砂漠のような世界の中では、快楽と欲望が最も大きな役割を演じるので愛はありません。それにもかかわらず愛なしには毎日の生活は意味がありません。そしてもし美がないなら、愛を持つことはできません。美は目で見る何かではありません ― 美しい木、美しい絵、美しい建物あるいは美しい女性ではありません。ハートと心が愛が何かを知るときのみ、美があります。愛と美のあの感覚なしに徳はなく、そしてあなたは欲することをし、社会を改良し、貧民を養っても一層の災厄を造り出しているだけであろうという事を非常によく知っています。というのは愛なしには自分自身のハートと心の中には醜さと貧しさがあるだけだからです。しかし愛と美があるときは、することは何であろうが正しく、何であろうが秩序があります。いかに愛するかを知っているなら、そのとき好きなことをすることが出来ます。なぜならそれがほかの問題をすべて解決するでしょうから。

 そこで私たちは要点に達します。訓練なしに、思考なしに、強制なしに、どんな本やどんな教師や指導者もなしに、心は愛に出会うことが ― 美しい夕焼けに出会うようにそれに出会うことができるでしょうか? 私には一つのことが絶対に必要であり、そしてそれは動機なき情熱 ― ある献身や執着の結果でない情熱、渇望ではない情熱であると思われます。情熱が何か知らない人は決して愛を知らないでしょう。なぜなら愛は完全な自己放棄があるときのみ存在できるからです。

 求めている心は情熱的な心ではなく、そして求めることなく愛に出会うことが、それを見いだす唯一の道です ― 知らずに、どんな努力や経験の結果としてでもなく愛と出会うことがです。その様な愛は、あなたは見出すでしょうが、時間のものではありません。そのような愛は個人的でまた非個人的であり、一つのものでありまた多数のものでもあります。香りを持つ花のように、その香りをかぐこともできるし、そばを通り過ぎることもできます。その花はあらゆる人のためにあり、そして深くその香りを吸い、喜びをもってそれを見る労をとる一人の人のためにあります。人が庭園の非常に近くにいようが非常に遠くにいようが、それは花にとって同じです。なぜなら花は芳香に満ちており、それゆえ花はあらゆる人と分かち合っていますから。

 愛は新しい、新鮮な、生きている何かです。愛は昨日も明日も持ちません。愛は思考の混乱を超えています。愛が何であるかを知るのは天真爛漫な心のみです。そして天真爛漫な心は、天真爛漫でない世界の中で生きることができます。犠牲を通して、礼拝を通して、関係を通して、性を通して、あらゆる形の快楽と苦痛を通して、人間が果てしなく求めてきたこの途方もないものを見いだすことは、思考が自分自体を理解するに至り、自然に終わる時のみ可能です。そのとき愛は反対物を持たず、そのとき愛は葛藤を持ちません。

 あなたは「その様な愛を私が見つけたなら、妻や子や家庭に何が起こるでしょうか? 彼らには安全がなければなりません」と尋ねるかも知れません。その様な質問をするとき、あなたは決して思考の領域の、意識の領域の外側にいたことがないのです。一度でもその領域の外側にいたことがあるなら、決してその様な質問はしないでしょう。なぜならそのとき、思考がなく、したがって時間がない愛が何か知るからです。この文章を魅了され、うっとりとして読むかもしれませんが、実際に思考と時間を超えることは ― それは悲しみを超えることを意味しますが ― 愛と呼ばれる違った次元があることに気づくことです。

 しかしあなたはどうやってこの途方もない源泉に到達するか知りません ― そこで何をしますか?何をすべきかわからないなら、何もしないのではないでしょうか? まったく何も。そのとき内面的にあなたは完全に静かです。それが何を意味するかわかりますか? あなたは求めておらず、望んでおらず、追求していないことを意味します。中心はありません。そのとき愛があります。

(10章 終わり)


[25863] Re:[25861] 既知からの自由10−3 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/12(Wed) 15:46  

> 10[愛]−3
>
>  愛する誰かを失うときあなたは涙を流します ― その涙は自分自身のためでしょうか、それとも亡くなった人のためでしょうか? 自分自身のために泣いているのでしょうか、それともほかの人のために泣いているのでしょうか? ほかの人のために泣いたことが一体あるでしょうか? 戦場で殺された息子のために泣いたことがあるでしょうか? あなたは泣きました、だがその涙は自己憐憫から出るのでしょうか、それとも一人の人間が殺されたから泣いたのでしょうか? 自己憐憫から泣くのなら、自分自身に関心があるのだから、あなたの涙は意味がないのです。多くの愛情を注いできた人を失ったので泣いているのなら、それは真の愛情ではないのです。死んだ自分の兄弟のために泣くときには彼のために泣きなさい。彼が死んだので自分自身のために泣くのは非常に容易です。明らかに心が痛み泣いているのですが、しかし彼のために痛むのではなく、自己憐憫によって痛むだけなのです。そして自己憐憫は自分を冷酷にし、閉ざし、鈍く愚かにします。

自分の愛する人が死んだという話を聞くだけで私は涙が出そうになります。あるいは沈黙に閉ざされるかです。心が痛み、泣くのですが、それは死んだ人を思いやって泣くのではなく、自己憐憫から泣いているというを私は今まで、本当に考えてはいませんでした。

>  自分自身のために泣くときそれは愛でしょうか? ― 淋しいから、残されてしまったから、もはや強力ではないから泣いています ― 自分の運命、自分の環境に不平を言っています ― 涙の中に常に自分。このことを理解するなら、それは木や柱や手に触れるように直接それと接触することを意味しますが、そのとき悲しみは自分でつくりだしたものであり、悲しみは思考によってつくられ、悲しみが時間の結果であることを見るでしょう。私は三年前兄弟がありましたが、今兄弟は死んでおり、今私は孤独で、心がうずきます。慰めや友情を期待できる人は誰もありません。そしてそれが私の目に涙をもたらします。

> 涙の中に常に自分。−− それが自分は本当にわかっていませんでした。本当によく見ていませんでした。

>  それを注視するなら、自分自身の内部に起きているこの全てを見ることができます。分析の時間をかけることなく、十分に、完全に、一目で見ることができます。この見せかけだけのつまらない「私」と呼ばれるものの全構造と性質を瞬間に見ることができます。私の涙、私の家族、私の国、私の信念、私の宗教 ― その醜さの全て、それは全て自分の内部にあります。それをマインドではなく、あなたのハートで見るとき、それをあなたのハートのまさに奥底から見るとき、そのときあなたは悲しみを終わらせる鍵を持ちます。

悲しみは崇高に見えても感情なのです。思考と相伴うもの、過去のものなのです。それがわかりました。

>  悲しみと愛は相伴うことはできません。しかしキリスト教の世界では苦難を理想化し、十字架の上に置き、崇拝してきました。それはあなたはあの特定の一つの扉を通る以外には、決して苦しみから逃れることはできないということを意味し、そしてこれが搾取している宗教社会の全体の構造なのです。

崇高な苦悩を通り抜ける?、それによって苦しみから脱皮できる? キリスト教はあまり知りません。

>  そこで愛が何か問うとき、あまりに怖くて答えを見れないかも知れません。それは完全な激変を意味するかもしれません。家庭を粉砕するかもしれません。妻や夫や子供を愛していないということを発見するかも知れません ― 違いますか? ― 建てた家を粉々に壊さなければならないかも知れません。寺院に決して戻らないかも知れません。
>
>  しかしなおあなたが見いだそうと望むなら、あなたは恐怖は愛ではないということを、依存は愛ではなく、嫉妬は愛ではなく、所有と支配は愛ではなく、責任と義務は愛ではなく、自己憐憫は愛ではなく、愛されていない苦悩は愛ではなく、謙遜が虚栄の反対物でないのと同様に愛は憎悪の反対物ではないことを見るでしょう。そこで強制によってではなく雨が葉から何日もの埃を洗うように洗い流すことによって、これらを全て除去することが出来るなら、そのときおそらく人が常に渇望しているこの不思議な花に出会うでしょう。

よく見る、知的でない理解はこれらの錯覚を雨のように洗い流してくれます。

>  あなたが愛を持っていないなら ― 僅かばかりでなく豊富に ― 愛で満たされていないなら ― 世界は完全な失敗に向けて進むでしょう。人類の統合が不可欠であり愛が唯一の道であることを知的には知っていても、どうやって愛するか誰が教えるのでしょう? 何かの権威、方法、体系がどうやって愛するか教えてくれるでしょうか? 誰かが教えてくれるなら、それは愛ではありません。「私は愛を実践しよう。来る日も来る日も座って愛について考えよう。親切で優しいことを実践し、他人に注意を払うよう自分自身に強制しよう」と言うことが出来るでしょうか? 愛するように自分自身を強制できる、愛するように意志を発揮できると言うつもりですか? 愛するために規律や意志を用いるとき、愛は窓から出ていきます。愛するための方法や体系を行なうことによって途方もなく賢くなるか、もっと親切になるか、あるいは非暴力の状態になるかも知れませんが、しかしそれは愛とはまったく何の関係もありません。

愛を皆が知っていなければ文明は失敗に向かうでしょう、はい。確かに。
 で、愛を知るには強制的な鍛錬、しつけの類は無益であることは知っているというか、受け付けられません。

> (続く)


[25862] Re:[25860] [25859] [25858] 既知からの自由10−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/11(Tue) 22:49  

>  なりゆく世界、時間の世界、「私」の世界において、自身が愛でありうるのか・・?
>
>  繁殖本能をベースに、尽くす愛、無償の愛はありえないのか。。
>
>  子育て本能を土台にして、尽くす愛、無償の愛はありえないのか。。
>
>  自身が愛であるとき、時間の世界、なりゆく世界、「私」の世界から脱しているのか。。


人間の自己中心があらゆる問題、無秩序の源であるなら、それのない動物の本能的な愛は秩序をもたらす愛ではないかと思います。
 ただ10章は進行中なので、済んでから議論に入るか、疑問が氷解しているか、そこが楽しみですね。


[25861] 既知からの自由10−3 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/11(Tue) 22:19  

10[愛]−3

 愛する誰かを失うときあなたは涙を流します ― その涙は自分自身のためでしょうか、それとも亡くなった人のためでしょうか? 自分自身のために泣いているのでしょうか、それともほかの人のために泣いているのでしょうか? ほかの人のために泣いたことが一体あるでしょうか? 戦場で殺された息子のために泣いたことがあるでしょうか? あなたは泣きました、だがその涙は自己憐憫から出るのでしょうか、それとも一人の人間が殺されたから泣いたのでしょうか? 自己憐憫から泣くのなら、自分自身に関心があるのだから、あなたの涙は意味がないのです。多くの愛情を注いできた人を失ったので泣いているのなら、それは真の愛情ではないのです。死んだ自分の兄弟のために泣くときには彼のために泣きなさい。彼が死んだので自分自身のために泣くのは非常に容易です。明らかに心が痛み泣いているのですが、しかし彼のために痛むのではなく、自己憐憫によって痛むだけなのです。そして自己憐憫は自分を冷酷にし、閉ざし、鈍く愚かにします。

 自分自身のために泣くときそれは愛でしょうか? ― 淋しいから、残されてしまったから、もはや強力ではないから泣いています ― 自分の運命、自分の環境に不平を言っています ― 涙の中に常に自分。このことを理解するなら、それは木や柱や手に触れるように直接それと接触することを意味しますが、そのとき悲しみは自分でつくりだしたものであり、悲しみは思考によってつくられ、悲しみが時間の結果であることを見るでしょう。私は三年前兄弟がありましたが、今兄弟は死んでおり、今私は孤独で、心がうずきます。慰めや友情を期待できる人は誰もありません。そしてそれが私の目に涙をもたらします。

 それを注視するなら、自分自身の内部に起きているこの全てを見ることができます。分析の時間をかけることなく、十分に、完全に、一目で見ることができます。この見せかけだけのつまらない「私」と呼ばれるものの全構造と性質を瞬間に見ることができます。私の涙、私の家族、私の国、私の信念、私の宗教 ― その醜さの全て、それは全て自分の内部にあります。それをマインドではなく、あなたのハートで見るとき、それをあなたのハートのまさに奥底から見るとき、そのときあなたは悲しみを終わらせる鍵を持ちます。

 悲しみと愛は相伴うことはできません。しかしキリスト教の世界では苦難を理想化し、十字架の上に置き、崇拝してきました。それはあなたはあの特定の一つの扉を通る以外には、決して苦しみから逃れることはできないということを意味し、そしてこれが搾取している宗教社会の全体の構造なのです。


 そこで愛が何か問うとき、あまりに怖くて答えを見れないかも知れません。それは完全な激変を意味するかもしれません。家庭を粉砕するかもしれません。妻や夫や子供を愛していないということを発見するかも知れません ― 違いますか? ― 建てた家を粉々に壊さなければならないかも知れません。寺院に決して戻らないかも知れません。

 しかしなおあなたが見いだそうと望むなら、あなたは恐怖は愛ではないということを、依存は愛ではなく、嫉妬は愛ではなく、所有と支配は愛ではなく、責任と義務は愛ではなく、自己憐憫は愛ではなく、愛されていない苦悩は愛ではなく、謙遜が虚栄の反対物でないのと同様に愛は憎悪の反対物ではないことを見るでしょう。そこで強制によってではなく雨が葉から何日もの埃を洗うように洗い流すことによって、これらを全て除去することが出来るなら、そのときおそらく人が常に渇望しているこの不思議な花に出会うでしょう。

 あなたが愛を持っていないなら ― 僅かばかりでなく豊富に ― 愛で満たされていないなら ― 世界は完全な失敗に向けて進むでしょう。人類の統合が不可欠であり愛が唯一の道であることを知的には知っていても、どうやって愛するか誰が教えるのでしょう? 何かの権威、方法、体系がどうやって愛するか教えてくれるでしょうか? 誰かが教えてくれるなら、それは愛ではありません。「私は愛を実践しよう。来る日も来る日も座って愛について考えよう。親切で優しいことを実践し、他人に注意を払うよう自分自身に強制しよう」と言うことが出来るでしょうか? 愛するように自分自身を強制できる、愛するように意志を発揮できると言うつもりですか? 愛するために規律や意志を用いるとき、愛は窓から出ていきます。愛するための方法や体系を行なうことによって途方もなく賢くなるか、もっと親切になるか、あるいは非暴力の状態になるかも知れませんが、しかしそれは愛とはまったく何の関係もありません。

(続く)


[25860] Re:[25859] [25858] 既知からの自由10−2 投稿者:宮啓 投稿日:2018/09/10(Mon) 19:20  

> > 10[愛]−2
> >
> >  さて愛と呼ぶこの炎が何であるか、どうやって見いだしましょうか? ― それをほかの人にどう表現するかではなく、それ自体何を意味しているかです。最初に教会、社会、両親や友達、あらゆる人やあらゆる本が愛について言ったことを私は退けようと思います。なぜなら愛が何であるか自分自身で見いだしたいからです。ここで人類全体に関わる大問題があります。愛を定義づける無数のやり方があり、そして自分自身がそのときの好みや楽しみによってあれこれのパターンに捕われます ― それゆえ私は、理解するために、最初に自分自身が、自分の傾向と偏見から自由であるべきではないでしょうか? 私は混乱し、自分自身の欲望によってかき乱されています、そこで私は自分に「まず自分自身の混乱をきれいにすること。たぶん愛でないものを通して、愛が何であるか発見できるかも知れない」と言います。
>
> 愛とは何であるか、他人の見解を多数集めて比較し、自分がもっとらしいと考えるものを選び、自分が知っているかのごとく喋り散らす。つまり我々の大抵は受け売り人間なのですが、ここでは本当に自分で見出そうとKが言います。
>  だが自分自身が混乱しているのです。好み、偏見に捉えられています。Kが >「まず自分自身の混乱をきれいにすること。たぶん愛でないものを通して、愛が何であるか発見できるかも知れない」−− と言います。
>
> >  政府は「祖国への愛のために行って殺せ」と言います。それは愛でしょうか? 宗教は「神への愛のために性をあきらめなさい」と言います。それは愛でしょうか? 愛は欲望でしょうか? いいえと言わないでください。大抵の人にとってそれはそうなのです ― 快楽をともなった欲望、感覚を通じて、性的執着と性的行為を通じて得られる快楽なのです。私は性に対して反対しているのではなく、性に含まれているものを見ているのです。性が瞬間的に与えるものは、自分自身の完全な放棄です。それからあなたは自分の混乱と共にもとに戻り、それゆえ悩みのない、問題のない、自己の状態を何度も何度も繰り返すことを望みます。あなたは妻を愛すると言います。その愛は性的な快楽、家の中で子供の世話をし、料理する誰かを持つ快楽が含まれています。あなたは彼女に依存します。彼女はあなたに肉体、感情、激励、ある安心感と幸福感を与えてきました。そして彼女はあなたから去ります。彼女はうんざりしてしまったか、あるいは誰かほかの人と逃げ、あなたの情緒的バランス全体が破壊され、この好ましくない心の乱れは嫉妬と呼ばれます。その中に苦痛があり、心配、憎悪、暴力があります。それゆえあなたが言っていることは本当は、「あなたが私のものである限りあなたを愛するが、そうでなくなる瞬間、私は憎み始める。性的、あるいはその他の要求を満たすことを当てにできる限り愛するが、私の望むものをくれるのをやめる瞬間、あなたを好きでない」です。ですから敵対があなた方の間にあり、分離があります。そして相手から分離していると感じるとき愛はありません。しかしこれらの矛盾した状態、これらの絶え間ない争いのすべてを自分自身の中につくり出す思考なしに妻と生きることができるなら、そのときおそらく ― おそらく ― 愛が何であるか知るでしょう。そのときあなたは完全に自由でありまた彼女もそうです。ところが自分の快楽のすべてのために彼女に依存するなら、あなたは彼女の奴隷です。それゆえ人が愛するときは、他人からだけでなく自分自身からも、自由があるに違いありません。
>
> Kの言うことが多くの場合の事実です。自分自身から自由な人がいるだろうか。自分はどうかな。…
>
> >  この他人へ属すること、他人によって心理的に養われていること、他人に依存すること ― この全ての中に常に心配、恐怖、嫉妬、罪悪感があるに違いなく、そして恐怖がある限り愛はありません。悲しみに支配されている心は決して愛が何であるか知らないでしょう。感傷と情緒は愛とはまったく何の関係もありません。それゆえ愛は快楽や欲望とは関係がないのです。
>
> 愛は喜怒哀楽の情から独立している何かであると。
>
> >  愛は過去のものである思考の産物ではありません。思考はとうてい愛を育てることはできません。愛は嫉妬で囲われたり捕えられたりはしません。というのは嫉妬は過去のものだからです。愛は常に活動的な現在です。「私は愛するだろう」とか「私は愛した」ではありません。愛を知っているならあなたはどんな人にも従わないでしょう。愛は服従しません。愛するとき尊敬も無礼もありません。
>
> ああ、愛は現在のものなのですね。慣習には関係なく、服従も尊敬も無礼もない。
>
> >  誰かを愛することが本当に何を意味するかわかりますか? ― 憎むことなしに、嫉妬することなしに、怒ることなしに、その人がしていることや考えていることに干渉したいと思わずに、非難することなしに、比較することなしに愛すること ― それが何を意味するかわかりますか? 愛があるところに比較がありますか? 誰かを全てのハートで、全ての心で、全身で、全存在で愛するとき、比較がありますか? あなたがその愛に完全に自己を放棄するとき、他者はありません。
>
> 否定的に愛を述べていますが、愛の光輝と迫真性を始めて感じました。涙が出そうです。
>
> >  愛は責任と義務を持つでしょうか? そしてそれらの言葉を使うでしょうか? 義務から何かをするときその中に少しでも愛があるでしょうか? 義務の中に愛はありません。人間が捕えられている義務の構造は人間を破壊しています。義務であるため何かをするよう強制される限り、あなたは自分のしていることを愛しません。愛があるとき義務はなく責任はありません。
>
> その通り!
>
> >  多くの両親は不幸にも自分は自分の子供たちに対して責任があると考え、そして彼らの責任の感覚は子供たちに何をすべきで何をすべきでないか、何になるべきで何にはなるべきでないかを教える形をとります。両親は自分の子供たちがしっかりした地位を社会の中に持つよう望みます。両親が責任と呼ぶものは彼らが尊敬する世間体の一部なのです。そして世間体があるところには秩序はありません。両親はただ完全な有産階級の市民になることだけに関心があるのです。自分の子供を社会に適合するよう教育するとき、彼らは戦争、葛藤、残忍さを永続させているのです。それを世話や愛と呼ぶでしょうか?
>
> 子供に責任や義務で当たらないでください。そんなことを教えないでください。
>  ただ、子供を社会に適合するように教育するとき、戦争、葛藤、残忍さを永続さているというのはやや機械的かもしれない。先進国の間で戦争が現代たやすく起こるとは思えないから。
>
> >  本当に世話をするということは、木や植物のために、水をやり、必要なものや最も適した土壌をよく調べ、優しく親切に面倒をみるのと同じように世話をすることです。― しかし社会に適合するよう子供を準備させるときは、殺されるように子供を準備させているのです。もし子供を愛しているなら、あなたは戦争しないでしょう。
>
> 本当に世話をすることと現代の世界の間に矛盾があり、しかも文明、文化、社会、組織は個人のコントロールを離れてどこへ行くか不明の迷走を始めている状況に目下あるかと思う。
>
> > (続く)



 なりゆく世界、時間の世界、「私」の世界において、自身が愛でありうるのか・・?

 繁殖本能をベースに、尽くす愛、無償の愛はありえないのか。。

 子育て本能を土台にして、尽くす愛、無償の愛はありえないのか。。

 自身が愛であるとき、時間の世界、なりゆく世界、「私」の世界から脱しているのか。。


[25859] Re:[25858] 既知からの自由10−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/10(Mon) 12:44  

> 10[愛]−2
>
>  さて愛と呼ぶこの炎が何であるか、どうやって見いだしましょうか? ― それをほかの人にどう表現するかではなく、それ自体何を意味しているかです。最初に教会、社会、両親や友達、あらゆる人やあらゆる本が愛について言ったことを私は退けようと思います。なぜなら愛が何であるか自分自身で見いだしたいからです。ここで人類全体に関わる大問題があります。愛を定義づける無数のやり方があり、そして自分自身がそのときの好みや楽しみによってあれこれのパターンに捕われます ― それゆえ私は、理解するために、最初に自分自身が、自分の傾向と偏見から自由であるべきではないでしょうか? 私は混乱し、自分自身の欲望によってかき乱されています、そこで私は自分に「まず自分自身の混乱をきれいにすること。たぶん愛でないものを通して、愛が何であるか発見できるかも知れない」と言います。

愛とは何であるか、他人の見解を多数集めて比較し、自分がもっとらしいと考えるものを選び、自分が知っているかのごとく喋り散らす。つまり我々の大抵は受け売り人間なのですが、ここでは本当に自分で見出そうとKが言います。
 だが自分自身が混乱しているのです。好み、偏見に捉えられています。Kが >「まず自分自身の混乱をきれいにすること。たぶん愛でないものを通して、愛が何であるか発見できるかも知れない」−− と言います。

>  政府は「祖国への愛のために行って殺せ」と言います。それは愛でしょうか? 宗教は「神への愛のために性をあきらめなさい」と言います。それは愛でしょうか? 愛は欲望でしょうか? いいえと言わないでください。大抵の人にとってそれはそうなのです ― 快楽をともなった欲望、感覚を通じて、性的執着と性的行為を通じて得られる快楽なのです。私は性に対して反対しているのではなく、性に含まれているものを見ているのです。性が瞬間的に与えるものは、自分自身の完全な放棄です。それからあなたは自分の混乱と共にもとに戻り、それゆえ悩みのない、問題のない、自己の状態を何度も何度も繰り返すことを望みます。あなたは妻を愛すると言います。その愛は性的な快楽、家の中で子供の世話をし、料理する誰かを持つ快楽が含まれています。あなたは彼女に依存します。彼女はあなたに肉体、感情、激励、ある安心感と幸福感を与えてきました。そして彼女はあなたから去ります。彼女はうんざりしてしまったか、あるいは誰かほかの人と逃げ、あなたの情緒的バランス全体が破壊され、この好ましくない心の乱れは嫉妬と呼ばれます。その中に苦痛があり、心配、憎悪、暴力があります。それゆえあなたが言っていることは本当は、「あなたが私のものである限りあなたを愛するが、そうでなくなる瞬間、私は憎み始める。性的、あるいはその他の要求を満たすことを当てにできる限り愛するが、私の望むものをくれるのをやめる瞬間、あなたを好きでない」です。ですから敵対があなた方の間にあり、分離があります。そして相手から分離していると感じるとき愛はありません。しかしこれらの矛盾した状態、これらの絶え間ない争いのすべてを自分自身の中につくり出す思考なしに妻と生きることができるなら、そのときおそらく ― おそらく ― 愛が何であるか知るでしょう。そのときあなたは完全に自由でありまた彼女もそうです。ところが自分の快楽のすべてのために彼女に依存するなら、あなたは彼女の奴隷です。それゆえ人が愛するときは、他人からだけでなく自分自身からも、自由があるに違いありません。

Kの言うことが多くの場合の事実です。自分自身から自由な人がいるだろうか。自分はどうかな。…

>  この他人へ属すること、他人によって心理的に養われていること、他人に依存すること ― この全ての中に常に心配、恐怖、嫉妬、罪悪感があるに違いなく、そして恐怖がある限り愛はありません。悲しみに支配されている心は決して愛が何であるか知らないでしょう。感傷と情緒は愛とはまったく何の関係もありません。それゆえ愛は快楽や欲望とは関係がないのです。

愛は喜怒哀楽の情から独立している何かであると。

>  愛は過去のものである思考の産物ではありません。思考はとうてい愛を育てることはできません。愛は嫉妬で囲われたり捕えられたりはしません。というのは嫉妬は過去のものだからです。愛は常に活動的な現在です。「私は愛するだろう」とか「私は愛した」ではありません。愛を知っているならあなたはどんな人にも従わないでしょう。愛は服従しません。愛するとき尊敬も無礼もありません。

ああ、愛は現在のものなのですね。慣習には関係なく、服従も尊敬も無礼もない。

>  誰かを愛することが本当に何を意味するかわかりますか? ― 憎むことなしに、嫉妬することなしに、怒ることなしに、その人がしていることや考えていることに干渉したいと思わずに、非難することなしに、比較することなしに愛すること ― それが何を意味するかわかりますか? 愛があるところに比較がありますか? 誰かを全てのハートで、全ての心で、全身で、全存在で愛するとき、比較がありますか? あなたがその愛に完全に自己を放棄するとき、他者はありません。

否定的に愛を述べていますが、愛の光輝と迫真性を始めて感じました。涙が出そうです。

>  愛は責任と義務を持つでしょうか? そしてそれらの言葉を使うでしょうか? 義務から何かをするときその中に少しでも愛があるでしょうか? 義務の中に愛はありません。人間が捕えられている義務の構造は人間を破壊しています。義務であるため何かをするよう強制される限り、あなたは自分のしていることを愛しません。愛があるとき義務はなく責任はありません。

その通り!

>  多くの両親は不幸にも自分は自分の子供たちに対して責任があると考え、そして彼らの責任の感覚は子供たちに何をすべきで何をすべきでないか、何になるべきで何にはなるべきでないかを教える形をとります。両親は自分の子供たちがしっかりした地位を社会の中に持つよう望みます。両親が責任と呼ぶものは彼らが尊敬する世間体の一部なのです。そして世間体があるところには秩序はありません。両親はただ完全な有産階級の市民になることだけに関心があるのです。自分の子供を社会に適合するよう教育するとき、彼らは戦争、葛藤、残忍さを永続させているのです。それを世話や愛と呼ぶでしょうか?

子供に責任や義務で当たらないでください。そんなことを教えないでください。
 ただ、子供を社会に適合するように教育するとき、戦争、葛藤、残忍さを永続さているというのはやや機械的かもしれない。先進国の間で戦争が現代たやすく起こるとは思えないから。

>  本当に世話をするということは、木や植物のために、水をやり、必要なものや最も適した土壌をよく調べ、優しく親切に面倒をみるのと同じように世話をすることです。― しかし社会に適合するよう子供を準備させるときは、殺されるように子供を準備させているのです。もし子供を愛しているなら、あなたは戦争しないでしょう。

本当に世話をすることと現代の世界の間に矛盾があり、しかも文明、文化、社会、組織は個人のコントロールを離れてどこへ行くか不明の迷走を始めている状況に目下あるかと思う。

> (続く)


[25858] 既知からの自由10−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/09(Sun) 17:55  

10[愛]−2

 さて愛と呼ぶこの炎が何であるか、どうやって見いだしましょうか? ― それをほかの人にどう表現するかではなく、それ自体何を意味しているかです。最初に教会、社会、両親や友達、あらゆる人やあらゆる本が愛について言ったことを私は退けようと思います。なぜなら愛が何であるか自分自身で見いだしたいからです。ここで人類全体に関わる大問題があります。愛を定義づける無数のやり方があり、そして自分自身がそのときの好みや楽しみによってあれこれのパターンに捕われます ― それゆえ私は、理解するために、最初に自分自身が、自分の傾向と偏見から自由であるべきではないでしょうか? 私は混乱し、自分自身の欲望によってかき乱されています、そこで私は自分に「まず自分自身の混乱をきれいにすること。たぶん愛でないものを通して、愛が何であるか発見できるかも知れない」と言います。

 政府は「祖国への愛のために行って殺せ」と言います。それは愛でしょうか? 宗教は「神への愛のために性をあきらめなさい」と言います。それは愛でしょうか? 愛は欲望でしょうか? いいえと言わないでください。大抵の人にとってそれはそうなのです ― 快楽をともなった欲望、感覚を通じて、性的執着と性的行為を通じて得られる快楽なのです。私は性に対して反対しているのではなく、性に含まれているものを見ているのです。性が瞬間的に与えるものは、自分自身の完全な放棄です。それからあなたは自分の混乱と共にもとに戻り、それゆえ悩みのない、問題のない、自己の状態を何度も何度も繰り返すことを望みます。あなたは妻を愛すると言います。その愛は性的な快楽、家の中で子供の世話をし、料理する誰かを持つ快楽が含まれています。あなたは彼女に依存します。彼女はあなたに肉体、感情、激励、ある安心感と幸福感を与えてきました。そして彼女はあなたから去ります。彼女はうんざりしてしまったか、あるいは誰かほかの人と逃げ、あなたの情緒的バランス全体が破壊され、この好ましくない心の乱れは嫉妬と呼ばれます。その中に苦痛があり、心配、憎悪、暴力があります。それゆえあなたが言っていることは本当は、「あなたが私のものである限りあなたを愛するが、そうでなくなる瞬間、私は憎み始める。性的、あるいはその他の要求を満たすことを当てにできる限り愛するが、私の望むものをくれるのをやめる瞬間、あなたを好きでない」です。ですから敵対があなた方の間にあり、分離があります。そして相手から分離していると感じるとき愛はありません。しかしこれらの矛盾した状態、これらの絶え間ない争いのすべてを自分自身の中につくり出す思考なしに妻と生きることができるなら、そのときおそらく ― おそらく ― 愛が何であるか知るでしょう。そのときあなたは完全に自由でありまた彼女もそうです。ところが自分の快楽のすべてのために彼女に依存するなら、あなたは彼女の奴隷です。それゆえ人が愛するときは、他人からだけでなく自分自身からも、自由があるに違いありません。

 この他人へ属すること、他人によって心理的に養われていること、他人に依存すること ― この全ての中に常に心配、恐怖、嫉妬、罪悪感があるに違いなく、そして恐怖がある限り愛はありません。悲しみに支配されている心は決して愛が何であるか知らないでしょう。感傷と情緒は愛とはまったく何の関係もありません。それゆえ愛は快楽や欲望とは関係がないのです。

 愛は過去のものである思考の産物ではありません。思考はとうてい愛を育てることはできません。愛は嫉妬で囲われたり捕えられたりはしません。というのは嫉妬は過去のものだからです。愛は常に活動的な現在です。「私は愛するだろう」とか「私は愛した」ではありません。愛を知っているならあなたはどんな人にも従わないでしょう。愛は服従しません。愛するとき尊敬も無礼もありません。

 誰かを愛することが本当に何を意味するかわかりますか? ― 憎むことなしに、嫉妬することなしに、怒ることなしに、その人がしていることや考えていることに干渉したいと思わずに、非難することなしに、比較することなしに愛すること ― それが何を意味するかわかりますか? 愛があるところに比較がありますか? 誰かを全てのハートで、全ての心で、全身で、全存在で愛するとき、比較がありますか? あなたがその愛に完全に自己を放棄するとき、他者はありません。

 愛は責任と義務を持つでしょうか? そしてそれらの言葉を使うでしょうか? 義務から何かをするときその中に少しでも愛があるでしょうか? 義務の中に愛はありません。人間が捕えられている義務の構造は人間を破壊しています。義務であるため何かをするよう強制される限り、あなたは自分のしていることを愛しません。愛があるとき義務はなく責任はありません。

 多くの両親は不幸にも自分は自分の子供たちに対して責任があると考え、そして彼らの責任の感覚は子供たちに何をすべきで何をすべきでないか、何になるべきで何にはなるべきでないかを教える形をとります。両親は自分の子供たちがしっかりした地位を社会の中に持つよう望みます。両親が責任と呼ぶものは彼らが尊敬する世間体の一部なのです。そして世間体があるところには秩序はありません。両親はただ完全な有産階級の市民になることだけに関心があるのです。自分の子供を社会に適合するよう教育するとき、彼らは戦争、葛藤、残忍さを永続させているのです。それを世話や愛と呼ぶでしょうか?

 本当に世話をするということは、木や植物のために、水をやり、必要なものや最も適した土壌をよく調べ、優しく親切に面倒をみるのと同じように世話をすることです。― しかし社会に適合するよう子供を準備させるときは、殺されるように子供を準備させているのです。もし子供を愛しているなら、あなたは戦争しないでしょう。

(続く)


[25857] Re:[25856] [25855] 既知からの自由10−1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/09/07(Fri) 14:20  

> > 10[愛]−1
>
> この章は「愛」という見出し一つしかありません。
>
> > 関係の中で安全でありたいという要求は必然的に悲しみと恐怖を生みます。この安全を求めることが不安を招いているのです。どんな関係の中であれ、安全を見いだしたことがあるでしょうか? ありますか? 私たちはたいてい愛することと愛されることの安全を望みますが、各人が自分自身の安全を、自分自身の特定の道を求めているとき、愛があるでしょうか? 私たちはどのように愛するか知らないので、愛されないのです。
>
> > 私たちはどのように愛するか知らないので、愛されないのです。−−
>  愛すれば、愛される。そのようにして愛(実物)をお互いに知るなら、関係の安全を求めることはない。
>
> >  愛とは何でしょう? その言葉はあまりに重荷を負わされ腐敗しているので私はあまり使いたくはありません。あらゆる人が愛について話します ― あらゆる雑誌と新聞、あらゆる宣教師が絶えず愛について語ります。私は祖国を愛する、王様を愛する、ある本を愛する、あの山を愛する、快楽を愛する、妻を愛する、神を愛する。愛は観念でしょうか? もしそうなら、それは耕され、養われ、大切にされ、押し回され、好きなように捻じ曲げることができます。神を愛すると言うとき、それは何を意味するでしょう? それは自分自身の想像の投影を愛するということです。気高く神聖であると自分が考える、ある立派さをまとった自分自身の投影を愛するということです。ですから「私は神を愛します」と言うことは、まったくのナンセンスです。神を崇拝するとき、あなたは自分自身を崇拝しているのです ― そしてそれは愛ではありません。
>
> 愛という言葉は観念のようにあらゆる使いまわしをされて、実はわけが分からなくなっている。
>
> >  愛と呼ばれるこの人間的なものを解明できないため、私たちは抽象の中に逃げます。愛は人間の困難、問題、苦悩の全てに対する究極の回答かも知れません。そこで愛が何であるか、どうやって見いだそうとしているでしょうか? 単なる定義づけによってですか? 教会はそれをあるやり方で、社会は別のやり方で、定義付けし、そしてあらゆる種類の逸脱と曲解があります。誰かを深く敬愛すること、誰かと寝ること、情緒の交換、仲間づきあい ― それが愛の意味するものでしょうか? それがずっと標準、パターンであり、そして愛は非常に個人的な、官能的な、そして限定されたものになってしまい、そのため宗教は愛は何かもっとこれ以上のものであると言明してきました。彼らは彼らが人間愛と呼ぶものの中に、快楽、競争、嫉妬、所有し、保持し、支配し、他人の思考に干渉したい欲望があるのを見ます。そしてこれらすべての複雑さを知って彼らは、神聖で、美しい、触れられていない、堕落していない別の種類の愛がなければならないと言います。
>
> はい。
>
> >  世界中至る所で、いわゆる聖者は、女性を見ることは何かまったく悪いことであると主張してきました。彼らは性に耽るなら神に近づくことはできないと言います。それゆえ性に夢中になっているのにそれを押し退けます。しかし性的なことを否定することによって、彼らば目を取り出し舌を切り取ります。というのは地上の美全体を否定するからです。彼らはハートと心を飢えさしているのです。彼らは干からびた人間です。彼らは美が女性と関係しているので美を追放してしまったのです。
>
> はい。
>
> >  愛は神聖な愛と世俗的な愛に、人間的な愛と神聖な愛とに分けられるのでしょうか、それともただ愛だけがあるのでしょうか? 愛はただ一人へのものであって、多くの人へのものではないのでしょうか? 「あなたを愛します」と言うなら、それはほかの人達への愛を排除するのでしょうか?愛は個人的、あるいは非個人的なのでしょうか? 道徳的、あるいは不道徳的? 家族的、あるいは非家族的? 人類を愛するなら特定の個人を愛することができるでしょうか? 愛は感傷でしょうか? 愛は情緒でしょうか? 愛は快楽と欲望でしょうか? これらの質問は全て、私たちが愛について観念を持っていることを、愛が何であるべきか、あるべきでないかについての観念を、私たちが生きている文化によって発展した型や規則を持っていることを、指し示してはいないでしょうか?
>
> まさしく。
>
> >  それゆえ愛が何であるかという問題に入っていくためには、最初に愛を何世紀もの殻から解放し、愛が何であるべきか、あるべきでないかという理想やイデオロギーを全て捨てなけれはなりません。何かをあるべきものとあるがままのものに分けることは、生を取り扱うもっとも欺瞞的なやり方です。
>
> あるべきものとあるがままのものの存在は最も欺瞞的なものだが、それが世の中にはびこっている。
>  ここまで、序論として愛のこの社会における現状が概観されました。
>
> > (続く)


 特に、本能に基づく「愛(と一般的に認められているもの)」がクリシュナムルティの述べるところの「愛」なのかに関心があります。

 本能に基ずく愛とは、種の維持に関わるもので、「生殖本能」と「子育て本能」です。

 私の個人的な見解では、隣に本能に基づく愛で結ばれた二人が居るとします。

 その二人にとって私は、関心の薄い存在になることでしょう。

 すなわち、隣に居る本能に基づく愛で結ばれた二人は、私にとって危険な存在となるのではないでしょうか。


[25856] Re:[25855] 既知からの自由10−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/07(Fri) 13:52  

> 10[愛]−1

この章は「愛」という見出し一つしかありません。

> 関係の中で安全でありたいという要求は必然的に悲しみと恐怖を生みます。この安全を求めることが不安を招いているのです。どんな関係の中であれ、安全を見いだしたことがあるでしょうか? ありますか? 私たちはたいてい愛することと愛されることの安全を望みますが、各人が自分自身の安全を、自分自身の特定の道を求めているとき、愛があるでしょうか? 私たちはどのように愛するか知らないので、愛されないのです。

> 私たちはどのように愛するか知らないので、愛されないのです。−−
 愛すれば、愛される。そのようにして愛(実物)をお互いに知るなら、関係の安全を求めることはない。

>  愛とは何でしょう? その言葉はあまりに重荷を負わされ腐敗しているので私はあまり使いたくはありません。あらゆる人が愛について話します ― あらゆる雑誌と新聞、あらゆる宣教師が絶えず愛について語ります。私は祖国を愛する、王様を愛する、ある本を愛する、あの山を愛する、快楽を愛する、妻を愛する、神を愛する。愛は観念でしょうか? もしそうなら、それは耕され、養われ、大切にされ、押し回され、好きなように捻じ曲げることができます。神を愛すると言うとき、それは何を意味するでしょう? それは自分自身の想像の投影を愛するということです。気高く神聖であると自分が考える、ある立派さをまとった自分自身の投影を愛するということです。ですから「私は神を愛します」と言うことは、まったくのナンセンスです。神を崇拝するとき、あなたは自分自身を崇拝しているのです ― そしてそれは愛ではありません。

愛という言葉は観念のようにあらゆる使いまわしをされて、実はわけが分からなくなっている。

>  愛と呼ばれるこの人間的なものを解明できないため、私たちは抽象の中に逃げます。愛は人間の困難、問題、苦悩の全てに対する究極の回答かも知れません。そこで愛が何であるか、どうやって見いだそうとしているでしょうか? 単なる定義づけによってですか? 教会はそれをあるやり方で、社会は別のやり方で、定義付けし、そしてあらゆる種類の逸脱と曲解があります。誰かを深く敬愛すること、誰かと寝ること、情緒の交換、仲間づきあい ― それが愛の意味するものでしょうか? それがずっと標準、パターンであり、そして愛は非常に個人的な、官能的な、そして限定されたものになってしまい、そのため宗教は愛は何かもっとこれ以上のものであると言明してきました。彼らは彼らが人間愛と呼ぶものの中に、快楽、競争、嫉妬、所有し、保持し、支配し、他人の思考に干渉したい欲望があるのを見ます。そしてこれらすべての複雑さを知って彼らは、神聖で、美しい、触れられていない、堕落していない別の種類の愛がなければならないと言います。

はい。

>  世界中至る所で、いわゆる聖者は、女性を見ることは何かまったく悪いことであると主張してきました。彼らは性に耽るなら神に近づくことはできないと言います。それゆえ性に夢中になっているのにそれを押し退けます。しかし性的なことを否定することによって、彼らば目を取り出し舌を切り取ります。というのは地上の美全体を否定するからです。彼らはハートと心を飢えさしているのです。彼らは干からびた人間です。彼らは美が女性と関係しているので美を追放してしまったのです。

はい。

>  愛は神聖な愛と世俗的な愛に、人間的な愛と神聖な愛とに分けられるのでしょうか、それともただ愛だけがあるのでしょうか? 愛はただ一人へのものであって、多くの人へのものではないのでしょうか? 「あなたを愛します」と言うなら、それはほかの人達への愛を排除するのでしょうか?愛は個人的、あるいは非個人的なのでしょうか? 道徳的、あるいは不道徳的? 家族的、あるいは非家族的? 人類を愛するなら特定の個人を愛することができるでしょうか? 愛は感傷でしょうか? 愛は情緒でしょうか? 愛は快楽と欲望でしょうか? これらの質問は全て、私たちが愛について観念を持っていることを、愛が何であるべきか、あるべきでないかについての観念を、私たちが生きている文化によって発展した型や規則を持っていることを、指し示してはいないでしょうか?

まさしく。

>  それゆえ愛が何であるかという問題に入っていくためには、最初に愛を何世紀もの殻から解放し、愛が何であるべきか、あるべきでないかという理想やイデオロギーを全て捨てなけれはなりません。何かをあるべきものとあるがままのものに分けることは、生を取り扱うもっとも欺瞞的なやり方です。

あるべきものとあるがままのものの存在は最も欺瞞的なものだが、それが世の中にはびこっている。
 ここまで、序論として愛のこの社会における現状が概観されました。

> (続く)


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