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[25961] Re:[25960] [25958] 悪魔のささやき 投稿者:南方 投稿日:2018/10/04(Thu) 20:42  

> > 「起こるだろう」という悪魔的期待を神はお見通しである。
> >
> > そのようなものには何も起こらない。
> >
> > そもそも何が起こるというのか。
> >
> > ただ在る、それだけしかないのに。
>
>
>  それは、観念ではないでしょうか。

在るということが観念だということですか?

違います。状態です。

「なる」という状態から「在る」という状態に移行するということを言っています。


[25960] Re:[25958] 悪魔のささやき 投稿者:宮啓 投稿日:2018/10/04(Thu) 20:35  

> 「起こるだろう」という悪魔的期待を神はお見通しである。
>
> そのようなものには何も起こらない。
>
> そもそも何が起こるというのか。
>
> ただ在る、それだけしかないのに。


 それは、観念ではないでしょうか。


[25959] 既知からの自由12−4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/04(Thu) 19:00  

12章[観察者と観察されるもの〕−4

 観察者の側からのどんな動きも、観察者が観察されるものであるということを、観察者が理解・実感したのでないなら、別の一連のイメージをつくり出すだけであり、そして再び観察者はそれらのイメージに捕えられてしまいます。しかし観察者は観察されるものであるということを、観察者が気づいている時、何が起こりますか? ゆっくり行きましょう、非常にゆっくり行きましょう。なぜなら私達がいま入ろうとしていることは非常に複雑なことだからです。何が起こるでしょう?観察者は全く行動しません。観察者はいつも「これらのイメージについて何かしなければならない、抑圧するか、あるいは別の形を与えなければならない」と言ってきたのです。観察者は観察されるものに関して常に活動的であり、情熱的あるいは行き当たりばったりに行動し反応しており、そしてこの観察者の部分での好き嫌いの活動が積極的な活動と呼ばれます ― 「好きだから取っておかなければならない、嫌いだから取り除かねばならない」。しかし観察者が、自分が行動している対象は自分自身であることを悟るとき、観察者自身とそのイメージとの間に葛藤はありません。観察者はそれなのです。彼はそれと分離していないのです。彼が分離しているときには、それについて何かをします。あるいはしようと試みます。しかし観察者が自分はそれなのだということを理解・実感するとき、好き、嫌いはなく葛藤は終わります。

 観察者は何のためにしようとするのでしょうか?何かがあなたであるなら、何をすることが出来るでしょうか? それに反抗することも、それから逃げることも、それを受け入れることさえもできません。それはそこにあります。それゆえ好き嫌いに対する反応から生じた全ての活動は終わっています。そのとき驚くべく生き生きとなった気づきがあるのを見いだすでしょう。その気づきはどんな中心的問題にも、どんなイメージにも縛られません ― そしてその気づきの強烈さから注意である違った質があり、それゆえ心は ― なぜなら心はこの気づきですから ― 途方もない感受性と高い英知を持つようになったのです。

(終わり)


[25958] 悪魔のささやき 投稿者:南方 投稿日:2018/10/04(Thu) 16:07  

「起こるだろう」という悪魔的期待を神はお見通しである。

そのようなものには何も起こらない。

そもそも何が起こるというのか。

ただ在る、それだけしかないのに。


[25957] Re:[25955] [25953] 既知からの自由12−3 投稿者:宮啓 投稿日:2018/10/04(Thu) 15:41  

> > 12章[観察者と観察されるもの〕−3
> >
> >  自分自身に質問するなら、答えを受け取ろうとしている実体は誰でしょうか? 調べようとしている実体は誰でしょうか? その実体が意識の一部、思考の一部であるなら、その時は見いだすことはできません。見いだせることは気づきの状態だけです。しかし、その気づきの状態の中になお「気づいていなければならない、気づきを練習しなければならない」という実体があるなら、それは再びもう一つのイメージです。
>
>
> 人間の観察者と観察されるものと言うイメージの分離のある状態の中に進んでいるといクリシュナムルティの気づきを聞いて、私たちもその状態に気づき始めています。
>  しかし気づきを通して答えを受け取ろうとする意識の一部、思考の一部があるなら、気づいていよう、気づきを強化しようとしている実体が何かあるなら、気づきは再びイメージであって気づき、直結した知覚ではありません
>
>
> >  観察者は観察されるものであるというこの気づきは、観察されるものと同一化する過程ではありません。自分自身を何かと同一化するのはかなり容易です。私達はたいてい自分を何かと ― 家族、夫や妻、国と ― 同一化しています。そしてそれは大変な悲惨や戦争に導きます。私達は全く違う何かを考えているのであり、言葉の上でではなく自分の奥底で、まさに自分の存在の根源で理解しなければなりません。古代の中国で、ある芸術家は何か ― 例えば木 ― を描き始める前に、その木の前に何日も、何か月も、何年も、どれほど長いかは重要ではありません、彼が木になるまで座るのです。自分を木と同一化させるのではなく、彼が木であるのです。このことは彼と木の間に空間はなく、観察者と観察されるものの間に空間はなく、美、動き、影、葉の深さ、色の質を経験する経験者がないことを意味します。彼は完全に木であり、その状態でのみ彼は描くことができたのです。
>
>
> 私たちはイメージを持つことにより分離(空間・時間のギャップ)を持っていますが、観察者は観察されるものであるというこの気づきは、観察されるものと同一化する過程ではありません。同一化の過程は群れて人間同士の群れが対立する危険な過程で盲目性は依然としてあります。理解はありません。この気づきはまさに自分の存在の根源で理解しなければなりません。
>  そこから中国の古代の芸術家が木を描く話になりました。木の美、動き、影、葉の深さ、色の質を経験する経験者がなくなるまで、直接に木とつながって描くというのです。経験者のいない気付きor見ることを言っていますね。見ることだけがある。本物の気づきであることが強調されています。
>
> > (続く)


 この「既知からの自由12」は、クリシュナムルティ理解の核心となるように思います。

 そして、クリシュナムルティが述べていることが起こらない理由が、ここで述べられているように思います。

 動機があれば・・、なりゆくならば・・、時間があれば・・、思考があれば・・、「私」があれば・・、たとえわずかでも、それは起こらない。


[25956] 世界観 投稿者:南方 投稿日:2018/10/04(Thu) 12:28  

神界から物質界まで、どのような見えない世界観を造るかが大事である。

自己満足の悟りで、その人の世界観に入ったとき息苦しさを感じるなら、それはあなたの世界観で生きているのではなく、他人の世界観に「依存」して生きているからだ。


自分の世界観に人が見えない領域でも入って来たときに、恥ずかしくない世界観を構築せねばならない。

そういう意味ではここの掲示板の人の世界観に繋がると緊張感を感じるので、私にも学ぶところがあり、又私から学ぶところも多いのだろう。




[25955] Re:[25953] 既知からの自由12−3 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/04(Thu) 07:40  

> 12章[観察者と観察されるもの〕−3
>
>  自分自身に質問するなら、答えを受け取ろうとしている実体は誰でしょうか? 調べようとしている実体は誰でしょうか? その実体が意識の一部、思考の一部であるなら、その時は見いだすことはできません。見いだせることは気づきの状態だけです。しかし、その気づきの状態の中になお「気づいていなければならない、気づきを練習しなければならない」という実体があるなら、それは再びもう一つのイメージです。


人間の観察者と観察されるものと言うイメージの分離のある状態の中に進んでいるといクリシュナムルティの気づきを聞いて、私たちもその状態に気づき始めています。
 しかし気づきを通して答えを受け取ろうとする意識の一部、思考の一部があるなら、気づいていよう、気づきを強化しようとしている実体が何かあるなら、気づきは再びイメージであって気づき、直結した知覚ではありません


>  観察者は観察されるものであるというこの気づきは、観察されるものと同一化する過程ではありません。自分自身を何かと同一化するのはかなり容易です。私達はたいてい自分を何かと ― 家族、夫や妻、国と ― 同一化しています。そしてそれは大変な悲惨や戦争に導きます。私達は全く違う何かを考えているのであり、言葉の上でではなく自分の奥底で、まさに自分の存在の根源で理解しなければなりません。古代の中国で、ある芸術家は何か ― 例えば木 ― を描き始める前に、その木の前に何日も、何か月も、何年も、どれほど長いかは重要ではありません、彼が木になるまで座るのです。自分を木と同一化させるのではなく、彼が木であるのです。このことは彼と木の間に空間はなく、観察者と観察されるものの間に空間はなく、美、動き、影、葉の深さ、色の質を経験する経験者がないことを意味します。彼は完全に木であり、その状態でのみ彼は描くことができたのです。


私たちはイメージを持つことにより分離(空間・時間のギャップ)を持っていますが、観察者は観察されるものであるというこの気づきは、観察されるものと同一化する過程ではありません。同一化の過程は群れて人間同士の群れが対立する危険な過程で盲目性は依然としてあります。理解はありません。この気づきはまさに自分の存在の根源で理解しなければなりません。
 そこから中国の古代の芸術家が木を描く話になりました。木の美、動き、影、葉の深さ、色の質を経験する経験者がなくなるまで、直接に木とつながって描くというのです。経験者のいない気付きor見ることを言っていますね。見ることだけがある。本物の気づきであることが強調されています。

> (続く)


[25954] Re:[25952] [25948] 既知からの自由12ー2 投稿者:宮啓 投稿日:2018/10/03(Wed) 20:36  

> > 12章[観察者と観察されるもの〕−2
> >
> >  一つのイメージが観察者として、彼自身の周りと内部の他の何十ものイメージを観察し、「このイメージは好きだ、それをとっておこう」とか「あのイメージは嫌いだから取り除こう」と言います。しかし観察者自身が、ほかの種々のイメージに対する反応を通じて生まれた様々なイメージによって、組み立てられてきたのです。そこでこう言うことが出来ます。「種々のほかのイメージを通じて生じたこの観察者は自分自身を永続すると考え、そして彼と彼が造ったイメージの間には分離、時間の間隔がある。これが、観察者自身と彼が自分のトラブルの原因だと信じるイメージとの間の葛藤をつくり出す。そこで『この葛藤を除かねばならない』と言うが、葛藤を取り除きたいという要望そのものが別のイメージをつくる」。
>
>
> 今ここで我々は人間の精神の動き、精神の形成のされ方、その変化継続の様相をKのこの講話を手掛かりとして見ています。
>
> 我々は経験記憶から何千というイメージを創り出し、好き、嫌いと微妙に価値づけし、動物とは異なった記憶、経験として常に改変しながらしまい込んでいます。
>  この作業をするのが観察者というもので、これもまた同じように改変を受けながら形成されてきた一つのイメージなのです。
>  赤ん坊の時からどれほどの出来事にさらされながら育ってきたか今の私、それだけでも驚くべき存在ですが、それが世界には何十億といて、それがまた相互に嫌いとか好きだとか思い合って生きています。競争やもめごと、内戦や戦争があるのは当たり前に思えます。何か意味や秩序があり得るなら、それはどこにありうるのだろうか?


 赤ん坊の時からのイメージ作り。そのイメージを素材に「私」が組み立てられている。

 トラブルの原因は、イメージと現にあるものとの間の、分離・時間の感覚。葛藤の原因。オオカミを羊とイメージすると葛藤を免れ得ない。優しい男性を羊とイメージする美女の行く先が見えている男性陣。

 そのようにして「私」のイメージが積み上げられてゆく。混沌。非現実的。混乱を免れ得ない。




> >  この全てにおいての気づきは、それは本当の瞑想なのですが、ほかのあらゆるイメージによって組み立てられる中心のイメージがあり、そしてこの中心のイメージつまり観察者は、検閲者、経験者、評価者、裁判官であり、ほかのイメージを征服、服従させようと望んでいることを、あるいは全く破壊してしまおうと望んでいることを明らかにします。ほかのイメージは観察者による判断、意見、結論の結果であり、観察者はほかのあらゆるイメージの結果です ― それゆえ観察者は観察されるものです。
>
>
> はい。観察者はサバイバルの強者の主導者というイメージの中心をつくりだしてきたがそれは盲目的です。行き当たりばったりで、どこへ行くか不明です。しかしそれに乗っかるしかないのかもしれませんが。


 混沌とした「私」。現にあるものは混沌(混乱)ではない。秩序。やはり、「私」は現にあるものではなく、イメージか・・。もしも、イメージであれば、それは投影であり、観察される対象であり、感受者としての実態ではないのか。。


> >  そのように気づきが自分の心の種々の状態を明らかにしました。種々のイメージとそのイメージの間の矛盾を明らかにしました。その結果生じる葛藤と、それについて何もできないことの絶望と、それから逃げようとする様々な企てを明らかにしました。これら全てが慎重なためらいがちな気づきを通じて明らかにされ続けています。そして観察者は観察されるものであるという気づきが生じます。このことに気づくのは超越した実体ではありません、高位の自己ではありません(超越した実体、高位の自己は単なる発明されたもので、いっそうのイメージに過ぎません)。観察者が観察されるものであるということを明らかにしたのは気づきそれ自体です。
>
>
> この気づきが今観察者(検閲者、経験者、評価者、裁判官でもある)の領域外にあるものとして浮かび上がってきました。話の続きを読みましょう。気づきとは何者であるのか?
>
> > (続く)


 上記の文面は、クリシュナムルティ理解の核心部分のように思います。


[25953] 既知からの自由12−3 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/03(Wed) 07:13  

12章[観察者と観察されるもの〕−3

 自分自身に質問するなら、答えを受け取ろうとしている実体は誰でしょうか? 調べようとしている実体は誰でしょうか? その実体が意識の一部、思考の一部であるなら、その時は見いだすことはできません。見いだせることは気づきの状態だけです。しかし、その気づきの状態の中になお「気づいていなければならない、気づきを練習しなければならない」という実体があるなら、それは再びもう一つのイメージです。

 観察者は観察されるものであるというこの気づきは、観察されるものと同一化する過程ではありません。自分自身を何かと同一化するのはかなり容易です。私達はたいてい自分を何かと ― 家族、夫や妻、国と ― 同一化しています。そしてそれは大変な悲惨や戦争に導きます。私達は全く違う何かを考えているのであり、言葉の上でではなく自分の奥底で、まさに自分の存在の根源で理解しなければなりません。古代の中国で、ある芸術家は何か ― 例えば木 ― を描き始める前に、その木の前に何日も、何か月も、何年も、どれほど長いかは重要ではありません、彼が木になるまで座るのです。自分を木と同一化させるのではなく、彼が木であるのです。このことは彼と木の間に空間はなく、観察者と観察されるものの間に空間はなく、美、動き、影、葉の深さ、色の質を経験する経験者がないことを意味します。彼は完全に木であり、その状態でのみ彼は描くことができたのです。

(続く)


[25952] Re:[25948] 既知からの自由12ー2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/02(Tue) 23:22  

> 12章[観察者と観察されるもの〕−2
>
>  一つのイメージが観察者として、彼自身の周りと内部の他の何十ものイメージを観察し、「このイメージは好きだ、それをとっておこう」とか「あのイメージは嫌いだから取り除こう」と言います。しかし観察者自身が、ほかの種々のイメージに対する反応を通じて生まれた様々なイメージによって、組み立てられてきたのです。そこでこう言うことが出来ます。「種々のほかのイメージを通じて生じたこの観察者は自分自身を永続すると考え、そして彼と彼が造ったイメージの間には分離、時間の間隔がある。これが、観察者自身と彼が自分のトラブルの原因だと信じるイメージとの間の葛藤をつくり出す。そこで『この葛藤を除かねばならない』と言うが、葛藤を取り除きたいという要望そのものが別のイメージをつくる」。


今ここで我々は人間の精神の動き、精神の形成のされ方、その変化継続の様相をKのこの講話を手掛かりとして見ています。

我々は経験記憶から何千というイメージを創り出し、好き、嫌いと微妙に価値づけし、動物とは異なった記憶、経験として常に改変しながらしまい込んでいます。
 この作業をするのが観察者というもので、これもまた同じように改変を受けながら形成されてきた一つのイメージなのです。
 赤ん坊の時からどれほどの出来事にさらされながら育ってきたか今の私、それだけでも驚くべき存在ですが、それが世界には何十億といて、それがまた相互に嫌いとか好きだとか思い合って生きています。競争やもめごと、内戦や戦争があるのは当たり前に思えます。何か意味や秩序があり得るなら、それはどこにありうるのだろうか?


>  この全てにおいての気づきは、それは本当の瞑想なのですが、ほかのあらゆるイメージによって組み立てられる中心のイメージがあり、そしてこの中心のイメージつまり観察者は、検閲者、経験者、評価者、裁判官であり、ほかのイメージを征服、服従させようと望んでいることを、あるいは全く破壊してしまおうと望んでいることを明らかにします。ほかのイメージは観察者による判断、意見、結論の結果であり、観察者はほかのあらゆるイメージの結果です ― それゆえ観察者は観察されるものです。


はい。観察者はサバイバルの強者の主導者というイメージの中心をつくりだしてきたがそれは盲目的です。行き当たりばったりで、どこへ行くか不明です。しかしそれに乗っかるしかないのかもしれませんが。


>  そのように気づきが自分の心の種々の状態を明らかにしました。種々のイメージとそのイメージの間の矛盾を明らかにしました。その結果生じる葛藤と、それについて何もできないことの絶望と、それから逃げようとする様々な企てを明らかにしました。これら全てが慎重なためらいがちな気づきを通じて明らかにされ続けています。そして観察者は観察されるものであるという気づきが生じます。このことに気づくのは超越した実体ではありません、高位の自己ではありません(超越した実体、高位の自己は単なる発明されたもので、いっそうのイメージに過ぎません)。観察者が観察されるものであるということを明らかにしたのは気づきそれ自体です。


この気づきが今観察者(検閲者、経験者、評価者、裁判官でもある)の領域外にあるものとして浮かび上がってきました。話の続きを読みましょう。気づきとは何者であるのか?

> (続く)


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