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[25951] 気づきそれ自体? 投稿者:無明 投稿日:2018/10/02(Tue) 10:40  

以下の文章は、われわれの立場からすると見解が異なる。


>そのように気づきが自分の心の種々の状態を明らかにしました。種々のイメージとそのイメージの間の矛盾を明らかにしました。その結果生じる葛藤と、それについて何もできないことの絶望と、それから逃げようとする様々な企てを明らかにしました。これら全てが慎重なためらいがちな気づきを通じて明らかにされ続けています。そして観察者は観察されるものであるという気づきが生じます。

それでは、一体「誰」が気づくのか?
観察者が観察されるものと気づくには、別の「実体」が、いなければならないだろう。
それはまさに「自分」ですよ。真の自分。思考を使うもの。
音は耳が聞くのではない。耳という感覚器官を司っているものが聞く。それは自分自身。肉体を使っているものです。
それは肉体は朽ちても残る不滅の実体です。


>このことに気づくのは超越した実体ではありません、高位の自己ではありません(超越した実体、高位の自己は単なる発明されたもので、いっそうのイメージに過ぎません)。

そんなことはない!
クリシュナムルティは、他のところでも神や仏、ブラフマンは思考の
産物とみなして、仏教やキリスト教、ヒンズー教徒を非難している。
このことで、一部にクリシュナムルティは唯物論者ではないかと評されている。
神を認めないのは共産主義者と同じ。
それではクリシュナムルティに聞くが、こうして毎日人間の命を営んでいるのは何なのかと問いたい。
例えば心臓の働きをなしているのは何なのか。
それこそ「生命の働き」だろう!
イメージなんかじゃない。現に生きているものだ!!
宇宙の法則というものも、現にあるものだ。
規則正しく地球が動く。
それもイメージというのか。


>観察者が観察されるものであるということを明らかにしたのは気づきそれ自体です。

まさに矛盾した文章。
神やブラフマンをけなすから、こうした矛盾した文章になる。
何が気づき自体だ。気づくものがいるだろう。

クリシュナムルティ信奉者で、ここのところを明確に言葉で説明できるものはおられるのだろうか?

私はよく観音様の手のひらの比喩を出す。
その手のひらで二人の孫悟空が踊っている。いわば思考者。いわば一人相撲。要する人間というのは、実生活で、自分の思考という色眼鏡を掛けて世間を見ているということ。要するに一人相撲です。
対象というものを自分の思考で作り出している。それを実際の対象と重ね合わせてしまう。
その有様をつぶさに観察するには、一歩離れた観音様の目がいるということです。
でなければ観察者は実は自分自身の思考ということがわかりようがありません。



[25950] Re:[25947] [25946] [25928] 既知からの自由12−1 投稿者:無明 投稿日:2018/10/02(Tue) 10:00  

> > 観察者というのは過去の経験記憶といったばかりではないか?
>
> はい。
>
> > 何で現在というものが出てくるのか?
>
> 現在もピンクのシャツを着た人を見て反応しています。

事実は、そこにピンクのシャツを着た人はいる、ということ。
反応しているのは、自分自身の過去の記憶からの反応。
反応が起きなければ、そこに「今」だけがあるということです。
>
> > 何で明日が出てくるのか?
>
> 明日の会合にどんなシャツを着て行けばいいか、人はどう思うだろうか?と明日のことをイメージして心配するからでしょう。

それはイメージでしょう。イメージの中に、過去、現在、未来がある。
>
> > 何で新しいものが出てくるのか?

それもイメージ。
>
> 明日の会に新人がいるかもしれないし、知っている人も意外な反応を示すかもしれません。

それもイメージ。


[25949] ノーベル賞 投稿者:無明 投稿日:2018/10/02(Tue) 09:40  

この度、ノーベル賞を受賞した本庶佑(ほんじょたくみ)先生のお言葉。
日常生活での基本態度は「疑う」ということ。
教科書で習ったことは鵜呑みにしない。情報洪水の世の中で、言葉に流されないということ。あくまで自分の頭で考え抜く。

このスタンスは、数少ないクリシュナムルティの実戦者、新しい芽氏や森本武氏ときしくも同じである。

常識というものを徹底的に疑う姿勢。
新しい芽氏いわく、「自分の思考でさえ信用しない」
徹底的に自分を問う。


[25948] 既知からの自由12ー2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/01(Mon) 21:15  

12章[観察者と観察されるもの〕−2

 一つのイメージが観察者として、彼自身の周りと内部の他の何十ものイメージを観察し、「このイメージは好きだ、それをとっておこう」とか「あのイメージは嫌いだから取り除こう」と言います。しかし観察者自身が、ほかの種々のイメージに対する反応を通じて生まれた様々なイメージによって、組み立てられてきたのです。そこでこう言うことが出来ます。「種々のほかのイメージを通じて生じたこの観察者は自分自身を永続すると考え、そして彼と彼が造ったイメージの間には分離、時間の間隔がある。これが、観察者自身と彼が自分のトラブルの原因だと信じるイメージとの間の葛藤をつくり出す。そこで『この葛藤を除かねばならない』と言うが、葛藤を取り除きたいという要望そのものが別のイメージをつくる」。

 この全てにおいての気づきは、それは本当の瞑想なのですが、ほかのあらゆるイメージによって組み立てられる中心のイメージがあり、そしてこの中心のイメージつまり観察者は、検閲者、経験者、評価者、裁判官であり、ほかのイメージを征服、服従させようと望んでいることを、あるいは全く破壊してしまおうと望んでいることを明らかにします。ほかのイメージは観察者による判断、意見、結論の結果であり、観察者はほかのあらゆるイメージの結果です ― それゆえ観察者は観察されるものです。

 そのように気づきが自分の心の種々の状態を明らかにしました。種々のイメージとそのイメージの間の矛盾を明らかにしました。その結果生じる葛藤と、それについて何もできないことの絶望と、それから逃げようとする様々な企てを明らかにしました。これら全てが慎重なためらいがちな気づきを通じて明らかにされ続けています。そして観察者は観察されるものであるという気づきが生じます。このことに気づくのは超越した実体ではありません、高位の自己ではありません(超越した実体、高位の自己は単なる発明されたもので、いっそうのイメージに過ぎません)。観察者が観察されるものであるということを明らかにしたのは気づきそれ自体です。

(続く)


[25947] Re:[25946] [25928] 既知からの自由12−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/30(Sun) 16:12  

> 観察者というのは過去の経験記憶といったばかりではないか?

はい。

> 何で現在というものが出てくるのか?

現在もピンクのシャツを着た人を見て反応しています。

> 何で明日が出てくるのか?

明日の会合にどんなシャツを着て行けばいいか、人はどう思うだろうか?と明日のことをイメージして心配するからでしょう。

> 何で新しいものが出てくるのか?

明日の会に新人がいるかもしれないし、知っている人も意外な反応を示すかもしれません。


[25946] Re:[25928] 既知からの自由12−1 投稿者:無明 投稿日:2018/09/30(Sun) 15:16  

> 12章[観察者と観察されるもの〕−1
>
> 私と一緒にもう少し先へ進みましょう。やや複雑で微妙かもしれませんが、どうかそれと共に進みましょう。
>
>  さて私があなたについて、あるいは何かについてイメージをつくるとき、私はそのイメージを見ることができます。そこでイメージとイメージの観察者があります。私は誰かを、例えば赤いシャツを着た人を見、そして私の即座の反応はそれが好き、あるいは好きでないということです。その好き、嫌いは私の文化、訓練、つきあい、性向、後天的または先天的な性格の結果です。

例えば男の人がピンクのシャツを着ていたとします。私が毛嫌いします。嫌うのは自分の性向です。過去の記憶反応。
男のくせにピンクを着ているのは女々しい感じがする。というのが自分の思い。赤シャツも派手すぎて、好きではない。要するに私は着ることはない。
事実はそこに赤シャツの人がいて、その赤シャツの人に対して、「好き」だ「嫌い」だ、というのは私自身の反応。
「見るもの」「見られるもの」の分離。「自分」と「対象」(この場合、赤シャツの人間)
つまり赤シャツの人を見ている自分と、対象である赤シャツの人、の二つが同時に意識されることによって、認識が成立する。片方だけでは認識は成立しない。

いいかえると、花を見ているという時、花を見ている自分も同時に花とともに意識されているということです。
もちろん実生活では花を見ているというとき、花を見ている自分は省略されている。あまりにも当たり前なので。
要するに思考が生じると分離されるということ。
嫌っている自分と、嫌われてる赤シャツの人間(対象)というように。


>観察し判断するのはその中心からで、したがって観察者は観察されるものから切り離されています。

観察し、判断するのはその中心からで、とあるが、「中心」とは何を意味してるのか?
しかも観察者 は観察されるものと切り離されている、という。

以下の文を読むと観察者とは思考者を意味するようだ。
又、別に「私」とも表現する。これが読者に混乱を呼ぶ。

私とか自分というのは、普通日常生活では生身の自分自身のを指す。当たり前だが。その私が毎日、日々の生活で思考を使っている。これも当たり前。思考を使ってい生きているのは、この私なのである。

それを、ここでは思考者を、「中心」あるいは「私」と呼ぶからややこしくなる。
読者が頭を悩ます問題。

>  しかし観察者は一つ以上のイメージに気づいています。

観察者が気づいているというのも、妙な表現。日々日常で、思考が生じるときに気づくのは、文字通り生身の自分自身です。思考を使っているから。


>それは何千ものイメージをつくります。しかし観察者はそれらのイメージと違うのでしょうか? 観察者はただのもう一つのイメージなのではないでしょうか? 観察者は常に彼の現状に、付け加えたり差し引いたりしています。観察者は生きているもので、内外からの圧力の結果としていつも量り、比較し、判断し、修正し、変化しています ― 彼自身の知識、影響、数え切れないほどの計算である意識の領域の中に住みながら。同時に、観察者を見るなら、観察者は自分自身ですが、それは記憶、経験、出来事、影響、伝統、あらゆる種類の苦悩からできていて、それらは皆過去であることが見えます。

ここでは観察者を、過去の経験記憶からきた思考者といいたい。

>それゆえ観察者は過去と現在の両方であり、

何で現在が出てくるのか。さっき過去といったばかりではないか?

>そして明日が待っていて、それもまた観察者の一部分です。彼は半分生きて半分死んでおり、この死と生で彼は見ているのです。死んだそして生きている葉で。そして心のその状態の中で、それは時間の領域の内側にありますが、あなた(観察者)は恐怖を、嫉妬を、戦争を、家族(家族と呼ばれるあの醜い閉ざされた存在)を見、そして挑戦、新しいもの、である観察されたものについての問題を解こうと試みます。あなたは常に新しいものを古いものの立場で解釈しており、従って絶え間なく葛藤の中にあるのです。

観察者というのは過去の経験記憶といったばかりではないか?
何で現在というものが出てくるのか?
何で明日が出てくるのか?
何で新しいものが出てくるのか?

追記
このように詳細に検討すれば、次次疑問が出てくる。
クリシュナムルティの信仰者は、疑問も持たず盲目的に聞いているだけなのだろうか?神さまの教えを聞くように。













>
> (続く。4回に分けて掲載します)


[25945] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/09/30(Sun) 14:02  

>このイメージ(自我)が、いかにして止むのか・・?
 この後の陳述に興味があります。

そもそもイメージイコール自我というのが間違ったとらえ方。

> 台風で昨日から停電しており、パソコンが使えず、スマホで書いています。。長い文が書けないので、短文ですみません。。

今までパソコンでやっている?
だったら長文を消せるだろう。シフトキーを押せばいいのだから。

この前、金曜日の2時44分に投稿していた。25932
会社にいる時間なのにだ。何で投稿できるのか!
隙を見てスマホ で投稿したのだろう。



[25944] Re:[25943] [25942] [25928] 既知からの自由12−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/30(Sun) 11:23  

> > > 12章[観察者と観察されるもの〕−1
> > >
> > > 私と一緒にもう少し先へ進みましょう。やや複雑で微妙かもしれませんが、どうかそれと共に進みましょう。
> >
> > ええ、一緒に進みましょう。私はこの観察者、中心がどのようにして生じるか、どのように言語に習熟し、経験を記憶、整理し、思考、感情を示すようにあるかに本当に関心があるのです。
> >
> > >  さて私があなたについて、あるいは何かについてイメージをつくるとき、私はそのイメージを見ることができます。そこでイメージとイメージの観察者があります。私は誰かを、例えば赤いシャツを着た人を見、そして私の即座の反応はそれが好き、あるいは好きでないということです。その好き、嫌いは私の文化、訓練、つきあい、性向、後天的または先天的な性格の結果です。観察し判断するのはその中心からで、したがって観察者は観察されるものから切り離されています。
> >
> > > その好き、嫌いは私の文化、訓練、つきあい、性向、後天的または先天的な性格の結果です。観察し判断するのはその中心からで、したがって観察者は観察されるものから切り離されています。−−
> >  この中心が自己、私ですが、それが身体をも使って実用的な生活面から文化的活動まで一切を可能にしています。
> >  これはサピエンスに与えられた独特のものです。言語を使った人間意識が形成されていることそのものです。
> >
> > >  しかし観察者は一つ以上のイメージに気づいています。それは何千ものイメージをつくります。しかし観察者はそれらのイメージと違うのでしょうか? 観察者はただのもう一つのイメージなのではないでしょうか? 観察者は常に彼の現状に、付け加えたり差し引いたりしています。観察者は生きているもので、内外からの圧力の結果としていつも量り、比較し、判断し、修正し、変化しています ― 彼自身の知識、影響、数え切れないほどの計算である意識の領域の中に住みながら。同時に、観察者を見るなら、観察者は自分自身ですが、それは記憶、経験、出来事、影響、伝統、あらゆる種類の苦悩からできていて、それらは皆過去であることが見えます。それゆえ観察者は過去と現在の両方であり、そして明日が待っていて、それもまた観察者の一部分です。彼は半分生きて半分死んでおり、この死と生で彼は見ているのです。死んだそして生きている葉で。そして心のその状態の中で、それは時間の領域の内側にありますが、あなた(観察者)は恐怖を、嫉妬を、戦争を、家族(家族と呼ばれるあの醜い閉ざされた存在)を見、そして挑戦、新しいもの、である観察されたものについての問題を解こうと試みます。あなたは常に新しいものを古いものの立場で解釈しており、従って絶え間なく葛藤の中にあるのです。
> >
> > > 観察者はただのもう一つのイメージなのではないでしょうか? 観察者は常に彼の現状に、付け加えたり差し引いたりしています。観察者は生きているもので、内外からの圧力の結果としていつも量り、比較し、判断し、修正し、変化しています ― 彼自身の知識、影響、数え切れないほどの計算である意識の領域の中に住みながら。−−
> >
> >  簡潔にその全体像を示してくれました。観察者が意識の領域内で、つまり意識的に行動するにはすべてをイメージ化することが必要なのだろうと思います。それはどんどん実情に合わせて修正されますが。
> >  そしてそれらをまとめるのに政治的、社会的、宗教的な枠組・パラダイムというものがないとまとめられないのではないか?と思います。たとえば封建制とか王政、共和制などなど。
> >
> > > そして心のその状態の中で、それは時間の領域の内側にありますが、あなた(観察者)は恐怖を、嫉妬を、戦争を、家族(家族と呼ばれるあの醜い閉ざされた存在)を見、そして挑戦、新しいもの、である観察されたものについての問題を解こうと試みます。あなたは常に新しいものを古いものの立場で解釈しており、従って絶え間なく葛藤の中にあるのです。−−
> >
> >  イメ−ジを使ってやることのできる限界はたぶん機械的事柄の範囲に限られるのでしょう。葛藤、苦悩、恐怖。悲しみが出るのは必定という感じですね。
> >
> > > (続く。4回に分けて掲載します)
>
>
>  このイメージ(自我)が、いかにして止むのか・・?
>  この後の陳述に興味があります。


この自我は人間世界の実用面での生活を悪戦苦闘しながら築いてきました。そして改良しようと必死です。しかし精神は矛盾と苦悩の中にいる場合が多い。孤立しながらつながろうとしている。そこで何をすることが必要か。確かに先が楽しみですね。


>  台風で昨日から停電しており、パソコンが使えず、スマホで書いています。。長い文が書けないので、短文ですみません。。

いや、今度台風は進行速度が遅く長くとどまっていたとか、お見舞い申し上げます。停電が早く治るといいですね。


[25943] Re:[25942] [25928] 既知からの自由12−1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/09/30(Sun) 08:22  

> > 12章[観察者と観察されるもの〕−1
> >
> > 私と一緒にもう少し先へ進みましょう。やや複雑で微妙かもしれませんが、どうかそれと共に進みましょう。
>
> ええ、一緒に進みましょう。私はこの観察者、中心がどのようにして生じるか、どのように言語に習熟し、経験を記憶、整理し、思考、感情を示すようにあるかに本当に関心があるのです。
>
> >  さて私があなたについて、あるいは何かについてイメージをつくるとき、私はそのイメージを見ることができます。そこでイメージとイメージの観察者があります。私は誰かを、例えば赤いシャツを着た人を見、そして私の即座の反応はそれが好き、あるいは好きでないということです。その好き、嫌いは私の文化、訓練、つきあい、性向、後天的または先天的な性格の結果です。観察し判断するのはその中心からで、したがって観察者は観察されるものから切り離されています。
>
> > その好き、嫌いは私の文化、訓練、つきあい、性向、後天的または先天的な性格の結果です。観察し判断するのはその中心からで、したがって観察者は観察されるものから切り離されています。−−
>  この中心が自己、私ですが、それが身体をも使って実用的な生活面から文化的活動まで一切を可能にしています。
>  これはサピエンスに与えられた独特のものです。言語を使った人間意識が形成されていることそのものです。
>
> >  しかし観察者は一つ以上のイメージに気づいています。それは何千ものイメージをつくります。しかし観察者はそれらのイメージと違うのでしょうか? 観察者はただのもう一つのイメージなのではないでしょうか? 観察者は常に彼の現状に、付け加えたり差し引いたりしています。観察者は生きているもので、内外からの圧力の結果としていつも量り、比較し、判断し、修正し、変化しています ― 彼自身の知識、影響、数え切れないほどの計算である意識の領域の中に住みながら。同時に、観察者を見るなら、観察者は自分自身ですが、それは記憶、経験、出来事、影響、伝統、あらゆる種類の苦悩からできていて、それらは皆過去であることが見えます。それゆえ観察者は過去と現在の両方であり、そして明日が待っていて、それもまた観察者の一部分です。彼は半分生きて半分死んでおり、この死と生で彼は見ているのです。死んだそして生きている葉で。そして心のその状態の中で、それは時間の領域の内側にありますが、あなた(観察者)は恐怖を、嫉妬を、戦争を、家族(家族と呼ばれるあの醜い閉ざされた存在)を見、そして挑戦、新しいもの、である観察されたものについての問題を解こうと試みます。あなたは常に新しいものを古いものの立場で解釈しており、従って絶え間なく葛藤の中にあるのです。
>
> > 観察者はただのもう一つのイメージなのではないでしょうか? 観察者は常に彼の現状に、付け加えたり差し引いたりしています。観察者は生きているもので、内外からの圧力の結果としていつも量り、比較し、判断し、修正し、変化しています ― 彼自身の知識、影響、数え切れないほどの計算である意識の領域の中に住みながら。−−
>
>  簡潔にその全体像を示してくれました。観察者が意識の領域内で、つまり意識的に行動するにはすべてをイメージ化することが必要なのだろうと思います。それはどんどん実情に合わせて修正されますが。
>  そしてそれらをまとめるのに政治的、社会的、宗教的な枠組・パラダイムというものがないとまとめられないのではないか?と思います。たとえば封建制とか王政、共和制などなど。
>
> > そして心のその状態の中で、それは時間の領域の内側にありますが、あなた(観察者)は恐怖を、嫉妬を、戦争を、家族(家族と呼ばれるあの醜い閉ざされた存在)を見、そして挑戦、新しいもの、である観察されたものについての問題を解こうと試みます。あなたは常に新しいものを古いものの立場で解釈しており、従って絶え間なく葛藤の中にあるのです。−−
>
>  イメ−ジを使ってやることのできる限界はたぶん機械的事柄の範囲に限られるのでしょう。葛藤、苦悩、恐怖。悲しみが出るのは必定という感じですね。
>
> > (続く。4回に分けて掲載します)


 このイメージ(自我)が、いかにして止むのか・・?
 この後の陳述に興味があります。

 台風で昨日から停電しており、パソコンが使えず、スマホで書いています。。長い文が書けないので、短文ですみません。。


[25942] Re:[25928] 既知からの自由12−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/29(Sat) 10:43  

> 12章[観察者と観察されるもの〕−1
>
> 私と一緒にもう少し先へ進みましょう。やや複雑で微妙かもしれませんが、どうかそれと共に進みましょう。

ええ、一緒に進みましょう。私はこの観察者、中心がどのようにして生じるか、どのように言語に習熟し、経験を記憶、整理し、思考、感情を示すようにあるかに本当に関心があるのです。

>  さて私があなたについて、あるいは何かについてイメージをつくるとき、私はそのイメージを見ることができます。そこでイメージとイメージの観察者があります。私は誰かを、例えば赤いシャツを着た人を見、そして私の即座の反応はそれが好き、あるいは好きでないということです。その好き、嫌いは私の文化、訓練、つきあい、性向、後天的または先天的な性格の結果です。観察し判断するのはその中心からで、したがって観察者は観察されるものから切り離されています。

> その好き、嫌いは私の文化、訓練、つきあい、性向、後天的または先天的な性格の結果です。観察し判断するのはその中心からで、したがって観察者は観察されるものから切り離されています。−−
 この中心が自己、私ですが、それが身体をも使って実用的な生活面から文化的活動まで一切を可能にしています。
 これはサピエンスに与えられた独特のものです。言語を使った人間意識が形成されていることそのものです。

>  しかし観察者は一つ以上のイメージに気づいています。それは何千ものイメージをつくります。しかし観察者はそれらのイメージと違うのでしょうか? 観察者はただのもう一つのイメージなのではないでしょうか? 観察者は常に彼の現状に、付け加えたり差し引いたりしています。観察者は生きているもので、内外からの圧力の結果としていつも量り、比較し、判断し、修正し、変化しています ― 彼自身の知識、影響、数え切れないほどの計算である意識の領域の中に住みながら。同時に、観察者を見るなら、観察者は自分自身ですが、それは記憶、経験、出来事、影響、伝統、あらゆる種類の苦悩からできていて、それらは皆過去であることが見えます。それゆえ観察者は過去と現在の両方であり、そして明日が待っていて、それもまた観察者の一部分です。彼は半分生きて半分死んでおり、この死と生で彼は見ているのです。死んだそして生きている葉で。そして心のその状態の中で、それは時間の領域の内側にありますが、あなた(観察者)は恐怖を、嫉妬を、戦争を、家族(家族と呼ばれるあの醜い閉ざされた存在)を見、そして挑戦、新しいもの、である観察されたものについての問題を解こうと試みます。あなたは常に新しいものを古いものの立場で解釈しており、従って絶え間なく葛藤の中にあるのです。

> 観察者はただのもう一つのイメージなのではないでしょうか? 観察者は常に彼の現状に、付け加えたり差し引いたりしています。観察者は生きているもので、内外からの圧力の結果としていつも量り、比較し、判断し、修正し、変化しています ― 彼自身の知識、影響、数え切れないほどの計算である意識の領域の中に住みながら。−−

 簡潔にその全体像を示してくれました。観察者が意識の領域内で、つまり意識的に行動するにはすべてをイメージ化することが必要なのだろうと思います。それはどんどん実情に合わせて修正されますが。
 そしてそれらをまとめるのに政治的、社会的、宗教的な枠組・パラダイムというものがないとまとめられないのではないか?と思います。たとえば封建制とか王政、共和制などなど。

> そして心のその状態の中で、それは時間の領域の内側にありますが、あなた(観察者)は恐怖を、嫉妬を、戦争を、家族(家族と呼ばれるあの醜い閉ざされた存在)を見、そして挑戦、新しいもの、である観察されたものについての問題を解こうと試みます。あなたは常に新しいものを古いものの立場で解釈しており、従って絶え間なく葛藤の中にあるのです。−−

 イメ−ジを使ってやることのできる限界はたぶん機械的事柄の範囲に限られるのでしょう。葛藤、苦悩、恐怖。悲しみが出るのは必定という感じですね。

> (続く。4回に分けて掲載します)


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