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[24794] Re:[24791] [24790] 無題 投稿者:外野席 投稿日:2017/11/12(Sun) 15:29  

一つ一つ検討してみましょう。

> > 自我の「私」には目が無い。

目が無い?意味がわからないですね。
「木を見ている」というのは簡単な例題ですが、木を見ているというのは目で見ている、つまり視覚で見ているのではないですか。

>木から目へと見るという視覚作用がある。

?木から目へ

>そして、好き嫌いの反応がある。

木に対して好き嫌いの反応が起きれば、木を見たことにはならないのではないですか。つまりは思考のスクリーンを通してみると、木はよく見えない。
比喩として色眼鏡をかけると、よく見えない。
対象は何でもいいですが、対象を見てるとき考え事などしていると、対象はよく見えなません。対象に気づきません。
道で、考え事して歩いているとき、何かにつまづくことがあるでしょう。見ているつもりが、よく見ていなかった。私も段差に気づかず転んだ経験があります。考え事していてよく見ていなかった。

>この反応は、自我の「私」には目が無いことを考えると、見るという一連のエネルギーの異なった作用形態であることがわかる。

 ここはおっしゃることはよくわかりません。

 木を見てるときは、人間の意識の矛先は木にいきます。
 途中考え事が入ると、人間の意識の矛先は考え事、つまり思考に焦点が行きます。すると木がそのときはっきりみえなくなる。
 このいうのは、日常で、よくやっていることです。

 目の前で、人差し指を掲げてみましょう。人差し指に焦点をあてると、遠くの景色はぼやけます。遠くの景色に焦点をあてると、人差指がぼやけます。
 このように人間の意識は、焦点をあてるという志向性という性質を持っています。
 その志向する対象についての判断、評価。推理といったものを「心」と呼んでいます。
 意識というのは、一言で言うと「対象への気づき」。

 私自身の経験でいうと、以前気功をやったことがあるのですが、手のひらに意識をあてると、手のひらがむずむずします。手を挙げたとき、腕に意識を集中すると、その腕に人がぶらさがってもビクともしません。
 意識というのは志向性のことです。
> >
> > もっと言えば自我の「私」の好き嫌いの反応は過去の記憶を見てくるものであり、現在の見ている木そのものではない。

 思考を通して木を見る時は、木を見ていないことと同じ。
 人間の日常を見てみると、周囲の景色は見ているようで見ていない。その証拠に昨日のことは覚えていない。関心あるもの以外。
 人間は思考に占領されているのが実態。
>
>
>
> そして反応があった時「誰」がみているか?という問いかけに
> 業火の中にいることはわかるのではないか?という答え。

業火というのは意味不明。

 反応を見ているのは「真我」です。仏教で言う「本当の自分」。
 反応を起こしてるのは「自我」
 わかりやすい比喩
 観音様(真我)の手のひらで踊っている孫悟空(自我)。いわば孫悟空が手のひらで一人相撲をとっている。これが一般の我々。
 つまり怒りや争いの原因は、相手ではなく、自分が作り出している。
>
> 反応があってそれでおしまい。それをどうこうしようとすると

反応があっておしまいではなく、反応に気づいてるかどうか。
そのときの反応にリアルタイムで見れるかどうか。
そのとき意識の切り替えが出来るかどうか。常に外方に向いている意識を、瞬時に内(内面)に向けられるかどうか。
禅や瞑想というのは、内面を見るということですが、Kのいうのは日常生活で、「生活即瞑想」を実践するという。そこに困難さがあります。
我々の目の開いた日常というのは、常に意識は「外方」に向いているわけです。



[24793] Re:[24789] [24788] [24787] [24786] 反応への気づき 投稿者:外野席 投稿日:2017/11/12(Sun) 14:21  

> >  どのように見るかが肝要です。
> >  どのように気づいているか。どんなふうに気づいているか。
>
> ただ見ています。ただ聞いています。ただ知覚しています。

 そうではなく、どのように見ているか、どのように聞いているか、どのように気づいているか。
 あなたの師匠、新しい芽氏から、そのように教わったのではないですか。違いますか?
 それともあなたの独自路線ですか。
 ただ見る、聞くなら誰でも出来る。見ればいいわけですから。
>
> >  一つ質問しましょう。
> >  思考が次々想起しているとき、どうやって「見る」んですか。
> >  そのとき思考を止めるんですか?
>
> いいえ。何もしません。

 何もしなければそのままですよ。次々想起するのみ。
「今日の予定はどこにいこうかなあ。久しぶりに晴れの日曜日」
 これが普段の人間。ちなみに私は家で九州場所を観戦します。
 このように次々に思いが出てきます。
 浮かんでは消え、浮かんで消え、というのが私たちの実態です。
 もちろんその間、生活の実務はこなしていきます。釣りの計算は必要です。
 暇になると、妄想は膨らむ。
 忙しい人は、よけいことを考えている暇はない。
>
> >  ドアを見ればいいのに、何で「あるもの」という抽象的な言葉を使うのですか。
> >  ドア(木)を見るのは誰でもできますよ。こんなのは問題ではない。当たり前の話です。
>
> いいえ、木も花も、実はあまりよく見、感じていません。関心があまりないから。
 木も花も、見ればわかります。即座に。赤ん坊でもわかる。
 いちいち認識しなくても、見ればわかるという話です。普段は気にもとめない。
 特定の関心が芽生えるときのみ思考は立ち留まります。
 道で、きれいな女性が歩いていると、思わず我々は男性陣は、立ち留まります。
>
> >  問題は反応を見る、ということです。

 反応というのは、思考感情つまりは思考過程。振る舞い。
 わかりやすくいうと、自分の気に食わない奴(野郎)に、何か言われたとき、
 「いちいちうるせえな、このやろう(馬鹿野郎)」
 というのが心理的反応。口に出そうが出すまいが。
 これだけ具体的にいえばあなたでもわかるだろう。長い人生には、こういうことは何度も経験するだろうということ。会社でも家庭でも。聖人君子以外は。
 嫌いな人間というのは、自分が、その人間に「嫌い」と名付けたにすぎない。実際はそこに人間がいるだけ。その評価は自分でつける。
 思考イメージというのは二元性のものであって、かならず相手があって成立する。考える対象というのがある。
 この世界は自分を中心とした二元性の世界。自分と周囲(相手)
 思考イメージの場合の対象というのは、「自分自身」です。

> >  反応が起きたとき、「誰」が見ますか?

 反応というは自我の仕業。その自我の様を見るには別の「主体」が出現するということ。つまり自我の思考過程を見るものがいる。
 このことは一般の人間にはわからぬ。人間は観念と一体化している。即座に言語化するよう習慣づけられいる。名付けてしまうと人間は知ったつもりになる。探求しない。
 
>
> 普通は反応と心が同一化しています。だから正確に言えば、わかる(認識・分別・判断はしている)けれど見てはいません。あなたの言い方で言うと孫悟空が見ている。

 わかるけれど見ていない?というのはどういうこと?
>
> >  火中の栗では、火は見えません。火の外に出なければ。
>
> ? 業火の中にいることぐらいはわかるのではないですか?

 業火って何?誤字ですか?
 火中の栗とは観念と一体化しているという比喩。それぐらいわからなくては。
 その思考のやりとりをリアルタイムでつぶさに見るには、モニターで、自分の演技をチェックしないとわからないということです。
 あるいは映画で演じている自分を観客席で見ている。
 これらは孫悟空のはなしを含めて。一般の人に対してわかろやすく言葉で説明した比喩です。

 人が争っているのを見ると、滑稽に見えるが、当事者になってしまうと滑稽さがわからない。
 たとえばアメリカと北朝鮮の争いは、はたでみると滑稽だが、いざ政権の当時者になると、面子、立ち場というものが重要になるということです。政治家がそうプライド、肩書きの塊。保身に入る。「自己」の壁として、防衛本能を押し出す。
 会社などで、ある重要な役職をついた方ならわかるはず。


[24792] Re:[24791] [24790] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2017/11/12(Sun) 10:11  

> > ここまでのゴト氏と外野氏の問答からあきらかになったこと。
> >
> > 自我の「私」には目が無い。木から目へと見るという視覚作用がある。そして、好き嫌いの反応がある。この反応は、自我の「私」には目が無いことを考えると、見るという一連のエネルギーの異なった作用形態であることがわかる。
> >
> > もっと言えば自我の「私」の好き嫌いの反応は過去の記憶を見てくるものであり、現在の見ている木そのものではない。
>
>
>
> そして反応があった時「誰」がみているか?という問いかけに
> 業火の中にいることはわかるのではないか?という答え。
>
> 反応があってそれでおしまい。それをどうこうしようとすると
> 「なろう」とすると分離した私が出てくる。それは過去の産物。心理的二元性の始まり。ではどうすれば?それも過去の産物の私を産み出す。こういうループに気づきましょうということはKは言っているのですか?

反応をどうこうしようとすることなしに見ている、よく感じていることがすべてです。それが理解です。

反応は頭の中だけで見られていることもあるし、咄嗟に声なり何なり表に出るのもあるでしょう。その分離をもたらすときは思考が行動の主体になっているわけです。

しかし、気づきの知覚がしっかりと見られている時は主体は思考ではなく気づき、知覚であるわけです。その時理解があります。仏教の言葉で言うと妙観察知が働きます。心は全体、自分の全組織のみでなく、周囲にも働くようです。そしてその反応も自分を理解し消えていくようです。それはその場ではなく、のちにわかることですが。ここに書いたことはKの言った事ではなく、私の観察からの仮説です。



[24791] Re:[24790] 無題 投稿者:南方 投稿日:2017/11/12(Sun) 07:44  

> ここまでのゴト氏と外野氏の問答からあきらかになったこと。
>
> 自我の「私」には目が無い。木から目へと見るという視覚作用がある。そして、好き嫌いの反応がある。この反応は、自我の「私」には目が無いことを考えると、見るという一連のエネルギーの異なった作用形態であることがわかる。
>
> もっと言えば自我の「私」の好き嫌いの反応は過去の記憶を見てくるものであり、現在の見ている木そのものではない。



そして反応があった時「誰」がみているか?という問いかけに
業火の中にいることはわかるのではないか?という答え。

反応があってそれでおしまい。それをどうこうしようとすると
「なろう」とすると分離した私が出てくる。それは過去の産物。心理的二元性の始まり。ではどうすれば?それも過去の産物の私を産み出す。こういうループに気づきましょうということはKは言っているのですか?


[24790] 無題 投稿者:南方 投稿日:2017/11/12(Sun) 04:06  

ここまでのゴト氏と外野氏の問答からあきらかになったこと。

自我の「私」には目が無い。木から目へと見るという視覚作用がある。そして、好き嫌いの反応がある。この反応は、自我の「私」には目が無いことを考えると、見るという一連のエネルギーの異なった作用形態であることがわかる。

もっと言えば自我の「私」の好き嫌いの反応は過去の記憶を見てくるものであり、現在の見ている木そのものではない。


[24789] Re:[24788] [24787] [24786] 反応への気づき 投稿者:ゴト 投稿日:2017/11/11(Sat) 23:59  

>  どのように見るかが肝要です。
>  どのように気づいているか。どんなふうに気づいているか。

ただ見ています。ただ聞いています。ただ知覚しています。

>  一つ質問しましょう。
>  思考が次々想起しているとき、どうやって「見る」んですか。
>  そのとき思考を止めるんですか?

いいえ。何もしません。

>  ドアを見ればいいのに、何で「あるもの」という抽象的な言葉を使うのですか。
>  ドア(木)を見るのは誰でもできますよ。こんなのは問題ではない。当たり前の話です。

いいえ、木も花も、実はあまりよく見、感じていません。関心があまりないから。

>  問題は反応を見る、ということです。
>  反応が起きたとき、「誰」が見ますか?

普通は反応と心が同一化しています。だから正確に言えば、わかる(認識・分別・判断はしている)けれど見てはいません。あなたの言い方で言うと孫悟空が見ている。

>  火中の栗では、火は見えません。火の外に出なければ。

? 業火の中にいることぐらいはわかるのではないですか?


[24788] Re:[24787] [24786] 反応への気づき 投稿者:外野席 投稿日:2017/11/11(Sat) 22:38  

> ここまでは特にいう事もありませんが、間を持つというのが実際は言うは易いが実行は難しいという事はありますが。

間を持つというのは実際に間を持つことであり、簡単もむずかしいもない。
間を持てばいい。

>しかしこのことに関心をもって実際によく見るなら実現します。そうですよね。

違います。
間を持つだけです。思考が終わると再生します。このことは自身を観察しないことにはわかりません。
>
> >  思考なしに見るという表現は誤弊があります。私たちは瞬時瞬時、思考が想起しているのはまぎれもなく事実のことです。
> >  どのように気づいているか、どのように見ているのか、聞いているのかが重要です。ただ見てるというのではなく。
> >  次次湧いてくる思考を、「思考なしで見る」という言い方は妙な表現です。
>
> 実際は審査なしに、解釈や判断なしに見ていればいいわけで、ここを考え始めると言葉を使うのが難しくなります。

 違います。どのように気づいているのかが肝要です。判断なしということではなく。

>簡略な書き方で、実際にやっていればわかるぐらいでどうですか?

 簡単な書き方だと、肝心要めの重要点が抜けています。

>言葉は実際ではないのだから。ドアと言う言葉はドアではない。実際にあるものを見ていましょう。

 どのように見るかが肝要です。
 どのように気づいているか。どんなふうに気づいているか。

 一つ質問しましょう。
 思考が次々想起しているとき、どうやって「見る」んですか。
 そのとき思考を止めるんですか?
 ドアを見ればいいのに、何で「あるもの」という抽象的な言葉を使うのですか。
 ドア(木)を見るのは誰でもできますよ。こんなのは問題ではない。当たり前の話です。
 問題は反応を見る、ということです。
 反応が起きたとき、「誰」が見ますか?
 火中の栗では、火は見えません。火の外に出なければ。


[24787] Re:[24786] 反応への気づき 投稿者:ゴト 投稿日:2017/11/11(Sat) 17:09  

ここまでは特にいう事もありませんが、間を持つというのが実際は言うは易いが実行は難しいという事はありますが。しかしこのことに関心をもって実際によく見るなら実現します。そうですよね。

>  思考なしに見るという表現は誤弊があります。私たちは瞬時瞬時、思考が想起しているのはまぎれもなく事実のことです。
>  どのように気づいているか、どのように見ているのか、聞いているのかが重要です。ただ見てるというのではなく。
>  次次湧いてくる思考を、「思考なしで見る」という言い方は妙な表現です。

実際は審査なしに、解釈や判断なしに見ていればいいわけで、ここを考え始めると言葉を使うのが難しくなります。簡略な書き方で、実際にやっていればわかるぐらいでどうですか? 言葉は実際ではないのだから。ドアと言う言葉はドアではない。実際にあるものを見ていましょう。


[24786] 反応への気づき 投稿者:外野席 投稿日:2017/11/11(Sat) 10:15  

クリシュナムルティ

途中略

「そういうわけでその木の、その鳥の、そのドアの表面の気づきがあり、それに対して思考や感覚や感情といった反応があります。さて私たちがこの反応に気づき始めるとき、私たちはそれを気づきの第二段階と呼べましょう。その薔薇について気づきがあり、その薔薇に対する反応について気づきがあります。しばしば私たちはその薔薇に対するこの反応に気づきません。」

 薔薇に対するこの反応への気づきについて、これまで何人かのK信者にお聞きしたことがあるが、今もって明解な答えは得られていない。
 Kのいう「見る」「聞く」を実践していると自称するならば、このことは明解に答えられるのではないだろうか。やっていればです。
 答えられないとすれば,やっていないと同じ。
 具体的な事例を出せと言っても、抽象的な言葉を駆使するだけ。
 それぞれ見て下さいというだけ。

 反応に気づくとは、どういうことか。
 例えば家人から用を頼まれたとしよう。頼まれごとをやって手が離せないというとき、思わず「うるさい」と感情的に反応してしまう。こういうことは誰でも経験があるだろう。今までたくさん生きているうちで。もちろん事例は何でもいい。思わず感情的に反応してしまう。心が騒いだケース。
 このとき反応に気づくとはどういうことか、ということである。
 Kは普通の人はこの反応に気づいていないという。もちろん、このとき「うるさい」といったは明確に記憶している。
 反応に気づいていないとは。
 反応がわからないということではない。
 「うるさい」というのは思考の反応ということはわかる。しかし、とっさに言葉が出てしまう。
 私流に、いうと反応に気づくというのは「踏みとどまる」ということであある。一瞬「間」(ま)をあける。
 つまり、人に用を頼まれたときに、瞬時に間(ま)をあける。
 普通は間一髪
、瞬時に反応してしまうのが常ではないだろうか。それが習慣的になっている。瞬間湯沸かし器のように。

>現実には同じ気づきがその薔薇を見て、この反応を見ます。

 薔薇を見るように反応を見る。はたしてたやすいことなのか。ある人がいうように、自然にできるものなのか。無意識に。

>これは一つの動作であり、外的な気づきとか内的な気づきとか言うのは間違いです。その木を見ていかなる心理的な関わり合いも持たなければ、関係に分離はありません。

木を見るだけでは、何の関わりもない。

>でもその木に対する心理的な反応があれば、その反応は条件付けられた反応であり、それは過去の記憶や経験の反応であり、その反応は関係の分離です。

この男は、嫌いだ。虫が好かぬ。合いそうもない。これは自分自身の過去の反応。それをこの人に名づけている。つまり「嫌い」というレッテルを張っている。色眼鏡。赤いと思えば赤く見える。

>この反応が私たちが関係において「私」とか「私以外」と呼ぶことになるものの始まりです。

心理的にいうと、「嫌いと思っている自分」と「嫌いと思われている相手」が出現したということ。分離。源泉は同一。これが相争う自分。
観音様の手のひらで踊っている二人の自分。
実際はそこに相手がいるだけ。

>これはあなたがどのようにご自身を世界と関係づけるかということです。これはあなたがどのように個人と共同体を考案するかということです。世界はあるがままではなく、記憶の「私」との種々の関わりにおいて見られます。この分離が「私」の人生であり、私たちが心理的なことと呼ぶ全てのことの百花繚乱であり、ここから全ての対立や分断が生じます。あなたはこれに気づいていることがはっきりしていますか?

対立や分断は、すべて思考の為せる業。
ここで間違えてならないのは、区別と差別は違うということ。
区分、区別は現実にあります。男と女は違う。

>その木の気づきがあるとき、評価はありません。でもその木に対する反応があれば、その木が好き嫌いで判断されれば、この意識の中に「私」と「私以外」として、観察される対象とは違う「私」として分離が起きます。この「私」は、関係において、過去の記憶や経験の反応です。では、いかなる審査も伴わないその木の気づきや観察はあり得るでしょうか、いかなる審査も伴わない反応や反動の観察があり得るでしょうか?こうして私たちは分離の原理-「私」と「私以外」の原理-を根絶します、その木と私たち自身の両方を見ることによって。

 思考なしに見るという表現は誤弊があります。私たちは瞬時瞬時、思考が想起しているのはまぎれもなく事実のことです。
 どのように気づいているか、どのように見ているのか、聞いているのかが重要です。ただ見てるというのではなく。
 次次湧いてくる思考を、「思考なしで見る」という言い方は妙な表現です。



[24785] 思考の隙間 投稿者:外野席 投稿日:2017/11/11(Sat) 08:54  

> > > 質問: 思考の間に間隙があります。
> > >
> > > クリシュナムルティ: 二つの思考の間に間隙があります。女性の方がそうだと言います。私はその間隙を知っていますと彼女は言います。さてその間隙に何が起こりますか? それは飽きたことによる間隙でしょうか―どうか調べてください―はい とか いいえと言わないでください―飽きたことによる、退屈による、白昼夢による間隙、それともそれは意識のある間隙でしょうか?
> > >
> > > 質問: (聞き取れない)
> > >
> > > クリシュナムルティ: 私はあなたのために質問しているのです。私のためではなく。
> > >
> > > 質問: あなたはそれを皆のために尋ねているのではない?
> > >
> > > クリシュナムルティ: 私はここにいる皆のために尋ねています。
> > >
> > > 質問: それならあなたはあなたのために尋ねています。それはあなたのためです。私たちは一緒に動いているでしょうか?
> > >
> > > クリシュナムルティ: いいえ、一緒に動いていません。単純な理由のためです。あなたはこの問題を決して調べたことがありません。心は、それは思考の道具です、それは記憶、経験、知識、そういったすべてである思考です―いつも働いているのでしょうかどうでしょうか? そして私はあなたのために調べていると言います。あなたはこの思考が自然に終る時間を少しでも見つけますか? あるいは二つの思考の間に間隙がありますか? あるいはその間隙は怠惰、怠慢、疲労であるのか、それともあなたはこの間隙に気づいているのでしょうか? そしてこの間隙に気づいているなら、そのとき何が起こりますか?
> > >
> > > 質問: その間隙にはエネルギーがあります―それがエネルギーであるものです。
> > >
> > > クリシュナムルティ: エネルギーがその間隙の中にある。また他の思考を取り上げるために? あなたは推測しているのですか? 不幸にも―これは私たちの悩みです―あなたはこれを調べていません。
> > >
> > > ゴト: 思考の間隙、これがなんであるか、私たちは調べたことがない! これは本当です。私も。

 いつも見る、聞くを推奨しているあなたが、思考の間隔について調べたことがないとは!

 この思考の隙間について、Kは様々な著書で述べています。「自我の終焉」でもあります。
> > >
> >
> >
> >
> >
> > 思考の間隙は「私」に直面することの困難による「私」分離の飛躍ではないでしょうか。

 この南方さんの質問は違うような気がします。
> >
> >
>
> 実際にはいろいろの場合がありましょう。長い間隙、一瞬の間隙、悩みぬいていた問題が解消してのしばしの憩いの間隙、誰かの本心の爆発が他の全員の思考を断ち切って生じる深い沈黙の間隙、物事がクライマックスに差し掛かり、思考が止まって皆が見、聴くために待機に入った間隙などなど。

 これはあなたの見解ですか。それともあなたの実際ですか。
>
> あなたのおっしゃった間隙はこの文言だけではわかりませんが、ご自身で見つめるとわかるのかも知れません。



クリシュナムルティは「思考は自然に終わる」と文面で述べているのではないですか?
これは誰にでも起こるまぎれないもない事実のことです。自分を見れいればわかるでしょう。普通の人はそれに気づかないだけです。
脳は必ず休憩をとります。
人間は長期間、考え続ける、悩み続けるというのはありえない。必ずふっと休み瞬間がある。

それと「見ること」と「思考すること」は両立しません。
嘘だと思うなら、自分で確かめればいい。




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