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[25790] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/11(Sat) 22:47  

今晩、NHKのBSプレミアム 映像の世紀:「難民」を途中から見た。難民は今世紀のシリア難民に限ったことではなく、第二次大戦のユダヤ人のパレスチナへの難民や、ヴェトナム戦争でのヴェトナム難民など、延々と続いているものなんだ。テロもそうだ。オリンピックにイスラエルが参加を認められた時、パレスチナはテロで抗議を世界に示すほかなかった。

アラブとしてのまとまりを示す基礎が欠けているようだ。ISステイトも失敗した。産業組織の未成熟によるのかもしれない。

が、この世界という複雑系の成り行きは予断を許さないものがあるが。


[25789] Re:[25788] [25783] [25779] 既知からの自由7−4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/11(Sat) 22:08  

> > > 7章‐4 [欲望・理想・偽善]

> > > あなたは自分がどうあるべきかどのように行動すべきかの概念を持っており、そしていつも実際には全く違う行動をしています。それゆえ原理、信念、理想は必然的に偽善で不正直な生に導くということを見ます。−−
> >
> >  私たちの現実の姿が明らかに私たち自身で見ることができる地点に来ました。反対物はいらないですね、捨てましょう。


私も同じことを感じます。このようにはっきり感じさせれるのは初めてのように思います。


>  ひとかどの者になりたくて、その欲望が混乱を生じさせていることを見るならば、ひとかどの者になるための「行為」をそのように見る。すると、その行為が止むのではないでしょうか。

はい。


[25788] Re:[25783] [25779] 既知からの自由7−4 投稿者:宮啓 投稿日:2018/08/11(Sat) 18:03  

> > 7章‐4 [欲望・理想・偽善]
> >
> >  私が誰と争っているか知りたいとは思いません。自分の存在の周辺の争いを知りたいとは思いません。私が知りたいのはいったいなぜ葛藤が存在するのだろうかということです。その質問を自分自身にするとき、周辺の争いやその解決には何の関わりもない、根本的な論点を私は見ます。私は中心的な問題に関わっており、そして欲望の性質そのものが、適切に理解されないなら、必然的に葛藤に導くに違いないということを見ます ― もしかするとあなたも見ます?
>
>
> 中心、周辺とはこういう事でしたか。今まで分かりませんでした。葛藤の問題を周辺的な多数の争いごととして見るのではなく、中心に据えてその持つ意義・構造を見る。


 クリシュナムルティは、長年、ロザリンドの旦那とクリシュナムルティ関連の資産を巡って法的に争っていた。この争いは、金銭トラブルだけではなく、個人的な情事的トラブル、個人のメンツ(プライド)、社会規範などなどが複雑に絡み合っていた。

 しかし、クリシュナムルティは、自分が誰と争っているかには関心がなかったとのことです。争いの内容にも関心がない。争いの解決にも関心がない。

 したがって、クリシュナムルティのように深く悟った存在は、争いごとに巻き込まれないという保証はないということ。

 光明を得ても、争いごとに巻き込まれる。

 しかし、問題はそこにはない。

 欲望を理解する。




> >  欲望は常に矛盾しています。私は矛盾したものを望みます ― それは欲望を破壊し、抑圧、制御または昇華しなければならないということではありません ― 私は欲望がそれ自体矛盾しているのを単に見ます。矛盾しているのは欲望の対象ではなく欲望の性質そのものです。そして葛藤を理解できる前に、欲望の性質を理解しなければなりません。自分自身の中で私たちは矛盾の状態にあり、そしてその矛盾の状態は欲望によってもたらされています ― 欲望は快楽の追求と苦痛の回避です。そのことには既に触れました。
>
>
> この欲望はデザイアです。wantではありません。念のため。


 ロザリンドの旦那との争いにおいて、クリシュナムルティに欲望があるとすれば、それは>苦痛の回避−−。

 このケースにおける苦痛の回避は、一番手っ取り早いのは、ロザリンドの旦那へ、クリシュナムルティへの寄付によって生じた資産を、ロザリンドの旦那の要求通りに与えるということ。しかし、このことは矛盾を含んでいる。
 寄付してくれた人々の意に反して、将来のクリシュナムルティ普及に寄与するであろう資産を、情事一人分で失うことは別の苦痛をもたらす。

 欲望とは、このようにすべてめでたしめでたしとなることはなく、必ず矛盾をかかえる。

 結婚したいという欲望は、それが叶った暁に(3年後)、多くは苦痛として姿を変える。一人っ子世帯の増大。これ以上は無理!!

 このような矛盾を含まない「欲望」とはあるのか・・。


> >  それゆえ私たちは欲望を全ての矛盾 ― 何かを望みそしてそれを望まない ― 二重性の活動、の根源として見ます。何か楽しいことをするとき少しも努力は含まれないのではないでしょうか? しかし快楽が苦痛をもたらすと苦痛を避けるための苦闘があり、それは再びエネルギーの浪費です。いったいなぜ私たちは二重性を持つのでしょうか? もちろん、自然の中に二重性はあります ― 男性と女性、光と影、夜と昼 ― しかし内的に、心理的に、なぜ私たちは二重性を持つのでしょう? どうかこのことを私と共に考え抜いてください。私があなたに話すのを待たないでください。見いだすためには自分の心を働かせなければなりません。私の言葉は自分自身を観察するための単なる鏡です。なぜ私たちはこの心理的二重性を持つのでしょう? 常に「あるがままのもの」と「あるべきもの」を比較するように育てられてきたということでしょうか? 正しいものと間違ったもの、良いものと悪いもの、道徳的なものと不道徳なものに条件付けられてきました。この二重性は、暴力の反対物、羨望の、嫉妬の、卑しさの反対物についての思考が、それらのものを除くことを助けると信じるために生じるのでしょうか? あるがままのものを除くための梃子として反対物を使いますか? それともそれは現実からの逃避でしょうか?
>
>
> 私たちの倫理的精神構造の中に反対物が(これは精神の創作物か?)あり、あるべきものとしてそれに向かって苦闘することが今までのやり方になっている。
>  これは現実からの逃避でしかないのか?


 ひとかどの者になりたくて、その欲望にしたがって、就職し結婚し、家庭を持つ。

 自由がどれほどあるのだろうか。独身時代に比べて。学生時代に比べて。
 家庭がなければ、自由を求めて転職や起業もできるのだが・・。定年まで、この生活を続けなくてはならない。

 二重性(働きたくないが働きたい)、二重性(自由になりたいが妻子を手放せない)、それゆえに>それゆえ私たちは欲望を全ての矛盾 ― 何かを望みそしてそれを望まない ― 二重性の活動、の根源として見ます。−−

 また、妻子を手放すことは理想(道徳的なもの)に反するから敷居が高い。しかし、その道徳的行為を続けたとして、私は道徳的な存在になるのか。否、不道徳な私をカモフラージュするだけの、現実逃避となっているだけではないのか。



> >  あなたは反対物を、どう取り扱えばいいのかわからない現実を避ける手段として使うのでしょうか? あるいは現実に対処するために理想 ― 「あるがままのもの」の反対物 ― を持たなければならないと何千年もの宣伝によって教えられてきたからでしょうか? 理想を持つときそれは「あるがままのもの」を除く助けになると考えますが、決して助けにはなりません。あなたは残りの人生の間非暴力を説くかもしれませんが、ずっと暴力の種を蒔き続けるでしょう。
>
>
> 伝統のやり方は効果がなく、エネルギーの浪費ではないかと明確に示唆されています。
>
>
> >  あなたは自分がどうあるべきかどのように行動すべきかの概念を持っており、そしていつも実際には全く違う行動をしています。それゆえ原理、信念、理想は必然的に偽善で不正直な生に導くということを見ます。あるがままの反対物を作り出すのは理想であり、それゆえ「あるがままのもの」とどのように一緒にいるか分かるなら、そのとき反対物は必要ありません。
>
>
> > あなたは自分がどうあるべきかどのように行動すべきかの概念を持っており、そしていつも実際には全く違う行動をしています。それゆえ原理、信念、理想は必然的に偽善で不正直な生に導くということを見ます。−−
>
>  私たちの現実の姿が明らかに私たち自身で見ることができる地点に来ました。反対物はいらないですね、捨てましょう。
>
>
> >  誰かのように、あるいは自分の理想のようになろうとすることは矛盾、混乱、葛藤の主な原因の一つです。混乱した心は、どんなレベルで何をしようとも、混乱したままでしょう。混乱から生まれるどんな行動も一層の混乱に導きます。私はこれを非常にはっきりと見ます。咄嗟の肉体的危険を見るのと同じようにはっきり見ます。そこで何が起きるでしょう? 私はそれ以上混乱の見地から行動することをやめます。それゆえ行動しないことが完全な行動なのです。
>
>
> (成り行く)行動をしないことが完全な行動であると明確になりました。
>
>
> > (7章 終わり)


 ひとかどの者になりたくて、その欲望が混乱を生じさせていることを見るならば、ひとかどの者になるための「行為」をそのように見る。すると、その行為が止むのではないでしょうか。


[25787] Re:[25786] [25772] [25771] 既知からの自由7−3 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/11(Sat) 13:11  

> > 比較なしはイコール断片化なしということかもしれませんが、社会の伝統的成長の仕方に根本的に疑問がありはしないかとクリシュナムルティは訴えているのでしょうか?
>
> 社会は何事についても評価したりラベルを張ったりすることを求めるようになっていますね。言語によるコミュニケーションにはそれが必然であるかのようにさえ思えます。比較の無い心の方がかなり特殊なことなんではないかという印象です。


そうなんです。自然に見えてしまう、地動説より天動説の方が。
 地球が球形で自転しているって初めて聞いた人はとてもとても理解できなかったでしょうね。

Kの言っていることもコペルニクス的大転回でしょうね。私は相対性理論はまだよくわかりません。クリシュナムルティの言う事は数式が出てこないから、きっとわかるはずだと頑張っています。


[25786] Re:[25772] [25771] 既知からの自由7−3 投稿者:ヨミ 投稿日:2018/08/11(Sat) 10:13  

> 比較なしはイコール断片化なしということかもしれませんが、社会の伝統的成長の仕方に根本的に疑問がありはしないかとクリシュナムルティは訴えているのでしょうか?

社会は何事についても評価したりラベルを張ったりすることを求めるようになっていますね。言語によるコミュニケーションにはそれが必然であるかのようにさえ思えます。比較の無い心の方がかなり特殊なことなんではないかという印象です。



[25785] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/08/11(Sat) 09:23  

いったい 「何」が思ったり感じたりしているのかという、はっきりとした言及がないから、思考が見ている、なんてわけのわからないことをいいだしてしまう。とくにK信者。渡辺氏もユーチューブで、そのようなことを言っている。観察者は観察されるもの。つまり私たちは思考が思考を見ていると。 観察者が観察されるものと理解されるには、別な観察者がいることが自明の話だろう。手のひらで踊る孫悟空を見るもの。


[25784] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/08/11(Sat) 09:12  

>誰かのように、あるいは自分の理想のようになろうとすることは矛盾、混乱、葛藤の主な原因の一つです。混乱した心は、どんなレベルで何をしようとも、混乱したままでしょう。混乱から生まれるどんな行動も一層の混乱に導きます。私はこれを非常にはっきりと見ます。咄嗟の肉体的危険を見るのと同じようにはっきり見ます。そこで何が起きるでしょう? 私はそれ以上混乱の見地から行動することをやめます。それゆえ行動しないことが完全な行動なのです。


行動しないことが行動?
まるで言葉のロジック遊びですね。
具体的な言葉が何一つない。
いったい何を見るのか?
例えばの話。混乱した心を、混乱「なし」で見ろというのか?
混乱と共に生きる、言っておきながら、片方では「あるがまま」生きろと。こんな矛盾はない。

クリシュナムルティの本は、ほとんどが講演されたものをテープに録音し、それをわざわざ本にしたもの。そこに無理があり、言葉の整合性がない。ところどころ矛盾が出てくる。
もし、自分で本を記したものなら、何度も見直しをするだろう。本人あるいは本の出版の責任者、編集者がです。


K自身が書いたと思われる著書というのは、私の知る限り「教育と人生の意義」「生の全体性」の後半の部分。これもゴーストの可能性がある。本人が書くとは考えられない。あまりにも少なすぎるからである。

Kの講演録というのは、Kの話した言葉を何の修正も校正せず、そのまま本にしてしまうのだろうか。
例えばあのときはこういったが、今度はそれと違うことをいうとか。そういうことは多々あるはずである。それをも検討せず。Kの話した言葉をそのまま本にしてしまうのだろうか。



[25783] Re:[25779] 既知からの自由7−4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/11(Sat) 08:05  

> 7章‐4 [欲望・理想・偽善]
>
>  私が誰と争っているか知りたいとは思いません。自分の存在の周辺の争いを知りたいとは思いません。私が知りたいのはいったいなぜ葛藤が存在するのだろうかということです。その質問を自分自身にするとき、周辺の争いやその解決には何の関わりもない、根本的な論点を私は見ます。私は中心的な問題に関わっており、そして欲望の性質そのものが、適切に理解されないなら、必然的に葛藤に導くに違いないということを見ます ― もしかするとあなたも見ます?


中心、周辺とはこういう事でしたか。今まで分かりませんでした。葛藤の問題を周辺的な多数の争いごととして見るのではなく、中心に据えてその持つ意義・構造を見る。


>  欲望は常に矛盾しています。私は矛盾したものを望みます ― それは欲望を破壊し、抑圧、制御または昇華しなければならないということではありません ― 私は欲望がそれ自体矛盾しているのを単に見ます。矛盾しているのは欲望の対象ではなく欲望の性質そのものです。そして葛藤を理解できる前に、欲望の性質を理解しなければなりません。自分自身の中で私たちは矛盾の状態にあり、そしてその矛盾の状態は欲望によってもたらされています ― 欲望は快楽の追求と苦痛の回避です。そのことには既に触れました。


この欲望はデザイアです。wantではありません。念のため。


>  それゆえ私たちは欲望を全ての矛盾 ― 何かを望みそしてそれを望まない ― 二重性の活動、の根源として見ます。何か楽しいことをするとき少しも努力は含まれないのではないでしょうか? しかし快楽が苦痛をもたらすと苦痛を避けるための苦闘があり、それは再びエネルギーの浪費です。いったいなぜ私たちは二重性を持つのでしょうか? もちろん、自然の中に二重性はあります ― 男性と女性、光と影、夜と昼 ― しかし内的に、心理的に、なぜ私たちは二重性を持つのでしょう? どうかこのことを私と共に考え抜いてください。私があなたに話すのを待たないでください。見いだすためには自分の心を働かせなければなりません。私の言葉は自分自身を観察するための単なる鏡です。なぜ私たちはこの心理的二重性を持つのでしょう? 常に「あるがままのもの」と「あるべきもの」を比較するように育てられてきたということでしょうか? 正しいものと間違ったもの、良いものと悪いもの、道徳的なものと不道徳なものに条件付けられてきました。この二重性は、暴力の反対物、羨望の、嫉妬の、卑しさの反対物についての思考が、それらのものを除くことを助けると信じるために生じるのでしょうか? あるがままのものを除くための梃子として反対物を使いますか? それともそれは現実からの逃避でしょうか?


私たちの倫理的精神構造の中に反対物が(これは精神の創作物か?)あり、あるべきものとしてそれに向かって苦闘することが今までのやり方になっている。
 これは現実からの逃避でしかないのか?


>  あなたは反対物を、どう取り扱えばいいのかわからない現実を避ける手段として使うのでしょうか? あるいは現実に対処するために理想 ― 「あるがままのもの」の反対物 ― を持たなければならないと何千年もの宣伝によって教えられてきたからでしょうか? 理想を持つときそれは「あるがままのもの」を除く助けになると考えますが、決して助けにはなりません。あなたは残りの人生の間非暴力を説くかもしれませんが、ずっと暴力の種を蒔き続けるでしょう。


伝統のやり方は効果がなく、エネルギーの浪費ではないかと明確に示唆されています。


>  あなたは自分がどうあるべきかどのように行動すべきかの概念を持っており、そしていつも実際には全く違う行動をしています。それゆえ原理、信念、理想は必然的に偽善で不正直な生に導くということを見ます。あるがままの反対物を作り出すのは理想であり、それゆえ「あるがままのもの」とどのように一緒にいるか分かるなら、そのとき反対物は必要ありません。


> あなたは自分がどうあるべきかどのように行動すべきかの概念を持っており、そしていつも実際には全く違う行動をしています。それゆえ原理、信念、理想は必然的に偽善で不正直な生に導くということを見ます。−−

 私たちの現実の姿が明らかに私たち自身で見ることができる地点に来ました。反対物はいらないですね、捨てましょう。


>  誰かのように、あるいは自分の理想のようになろうとすることは矛盾、混乱、葛藤の主な原因の一つです。混乱した心は、どんなレベルで何をしようとも、混乱したままでしょう。混乱から生まれるどんな行動も一層の混乱に導きます。私はこれを非常にはっきりと見ます。咄嗟の肉体的危険を見るのと同じようにはっきり見ます。そこで何が起きるでしょう? 私はそれ以上混乱の見地から行動することをやめます。それゆえ行動しないことが完全な行動なのです。


(成り行く)行動をしないことが完全な行動であると明確になりました。


> (7章 終わり)


[25782] Re:[25781] [25776] [25773] [25768] 象徴もしくはイメージ 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/11(Sat) 07:03  

> > > キリスト教の愛は、それによって「律法が成就する」と聖書には説かれていますので、偶像(多分、イメージや観念)を作らなくするものです。
> > > でも殆どのクリスチャンは、ゴトさんの仰るように愛の行為のイメージや「イエスならこうされるだろう」といったイメージに従うように努める発想しかないと思われます。
> >
> > ヨミさん、ご教示有難うございます。
> > 愛により律法が成就するのですか。なるほど。イメージ、観念を介在させない。素晴らしい秩序ですね。
> > それが実現するキイはどこにあるのか?…
>
> 最も重要な教えとしては「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」というのが掲げられてます。全身全霊というわけですから葛藤がない状態を示しているんだと思います。
> 少し実際的なものとしては、信者さんたち同士が愛し合うようにという「戒め」がイエスの言葉としてあります。
> でももちろんその他にも様々なことが教え(御言葉)としてあって、これといったわかりやすいキイは無いように思います。
> まあ逆に安易な方法とか説かれてないのが、真面さの表れだともいえそうです。


>最も重要な教えとしては「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」というのが掲げられてます。−−

神を恐れあがめよという事でなく主を愛するという事ですか。この意味するところが本当に読み解けるといいですね。
深夜のご返信ありがとうございます。


[25781] Re:[25776] [25773] [25768] 象徴もしくはイメージ 投稿者:ヨミ 投稿日:2018/08/11(Sat) 01:00  

> > キリスト教の愛は、それによって「律法が成就する」と聖書には説かれていますので、偶像(多分、イメージや観念)を作らなくするものです。
> > でも殆どのクリスチャンは、ゴトさんの仰るように愛の行為のイメージや「イエスならこうされるだろう」といったイメージに従うように努める発想しかないと思われます。
>
> ヨミさん、ご教示有難うございます。
> 愛により律法が成就するのですか。なるほど。イメージ、観念を介在させない。素晴らしい秩序ですね。
> それが実現するキイはどこにあるのか?…

最も重要な教えとしては「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」というのが掲げられてます。全身全霊というわけですから葛藤がない状態を示しているんだと思います。
少し実際的なものとしては、信者さんたち同士が愛し合うようにという「戒め」がイエスの言葉としてあります。
でももちろんその他にも様々なことが教え(御言葉)としてあって、これといったわかりやすいキイは無いように思います。
まあ逆に安易な方法とか説かれてないのが、真面さの表れだともいえそうです。


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