雑感
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[24387] Re:[24386] [24383] 無題 投稿者:vaamana 投稿日:2017/08/28(Mon) 21:57  

> > 阿羅漢の段階だと、まだ他者を知るために思考が必要だが、仏の段階になると、自他の区別が消え無思考になる。
>
>
>
> カバラに解脱ってあるんすか?
> 俺的なカバラにって意味でも。

カバラは、イニシエーションがある。


[24386] Re:[24383] 無題 投稿者:南方 投稿日:2017/08/28(Mon) 21:39  

> 阿羅漢の段階だと、まだ他者を知るために思考が必要だが、仏の段階になると、自他の区別が消え無思考になる。



カバラに解脱ってあるんすか?
俺的なカバラにって意味でも。


[24385] Re:[24382] [24381] [24376] 無題 投稿者:南方 投稿日:2017/08/28(Mon) 20:26  

> > > 普通の人に、内側を見るといっても、不可解であろう。
> > >
> > > しかし、普段、ふと、自他の内側を見ていることは誰にでもある。
> > >
> > > 大抵の人は、外側のものを鏡として、それから自己イメージを形成して、自分を見ている。
> > >
> > >
> > > したがって、観念を媒介として自分を見てしまっている。
> > >
> > > 直接、自分を知らない。
> > >
> > > あらゆる自己イメージを落としなさい。自我を形成する他者の存在を内面から締め出しなさい。
> > >
> > > たった一人になりなさい。
> > >
> > >
> > > 他者の内側も、われわれが先入観を持ってみるから不可解なのだ。
> > >
> > > 知性とは、誰もが潜在的にもっているものだが、その直覚力を駆使できる人はわずか。
> > >
> > > 他者の思考を読む能力というのは、自他の区別を超えた人の特徴。
> >
> >
> >
> > 私の思考はあなたの思考、あなたの思考は私の思考。
> >
> > なぜ思考に自他を設けるのか、そもそもその自他の区別の前提
> > の意味がわからない。
>
> 思考は一つながりのリングみたいなものだ。
> 第六人種のとき、情緒界が物質界にあらわれ、他者の感情が見えるようになる。
>
> 第七人種のとき、思考も可視化され、精神界は物質界にあらわれる。



いや〜とはいったものの見えるのも辛い、辛そうですよね。
みんなそうなれば楽園なんすけどね。


[24384] 無題 投稿者:vaamana 投稿日:2017/08/28(Mon) 19:51  

イニシエーションと人種

レムリア人種 肉体的 第一イニシエーション
アトランティス人種 感情的 第二イニシエーション
アーリア人種 精神的 第三イニシエーション
第六人種 直観的 第四イニシエーション
第七人種 統一意識的 第五イニシエーション


[24383] 無題 投稿者:vaamana 投稿日:2017/08/28(Mon) 19:49  

阿羅漢の段階だと、まだ他者を知るために思考が必要だが、仏の段階になると、自他の区別が消え無思考になる。


[24382] Re:[24381] [24376] 無題 投稿者:vaamana 投稿日:2017/08/28(Mon) 19:44  

> > 普通の人に、内側を見るといっても、不可解であろう。
> >
> > しかし、普段、ふと、自他の内側を見ていることは誰にでもある。
> >
> > 大抵の人は、外側のものを鏡として、それから自己イメージを形成して、自分を見ている。
> >
> >
> > したがって、観念を媒介として自分を見てしまっている。
> >
> > 直接、自分を知らない。
> >
> > あらゆる自己イメージを落としなさい。自我を形成する他者の存在を内面から締め出しなさい。
> >
> > たった一人になりなさい。
> >
> >
> > 他者の内側も、われわれが先入観を持ってみるから不可解なのだ。
> >
> > 知性とは、誰もが潜在的にもっているものだが、その直覚力を駆使できる人はわずか。
> >
> > 他者の思考を読む能力というのは、自他の区別を超えた人の特徴。
>
>
>
> 私の思考はあなたの思考、あなたの思考は私の思考。
>
> なぜ思考に自他を設けるのか、そもそもその自他の区別の前提
> の意味がわからない。

思考は一つながりのリングみたいなものだ。
第六人種のとき、情緒界が物質界にあらわれ、他者の感情が見えるようになる。

第七人種のとき、思考も可視化され、精神界は物質界にあらわれる。


[24381] Re:[24376] 無題 投稿者:南方 投稿日:2017/08/28(Mon) 19:36  

> 普通の人に、内側を見るといっても、不可解であろう。
>
> しかし、普段、ふと、自他の内側を見ていることは誰にでもある。
>
> 大抵の人は、外側のものを鏡として、それから自己イメージを形成して、自分を見ている。
>
>
> したがって、観念を媒介として自分を見てしまっている。
>
> 直接、自分を知らない。
>
> あらゆる自己イメージを落としなさい。自我を形成する他者の存在を内面から締め出しなさい。
>
> たった一人になりなさい。
>
>
> 他者の内側も、われわれが先入観を持ってみるから不可解なのだ。
>
> 知性とは、誰もが潜在的にもっているものだが、その直覚力を駆使できる人はわずか。
>
> 他者の思考を読む能力というのは、自他の区別を超えた人の特徴。



私の思考はあなたの思考、あなたの思考は私の思考。

なぜ思考に自他を設けるのか、そもそもその自他の区別の前提
の意味がわからない。


[24380] Re:[24374] [24329] [24325] [24301] [24288] [24280] [24279] [24277] [24276] [24253] 愚さんの言葉 投稿者:ゴト 投稿日:2017/08/28(Mon) 15:21  

> > > >しかし、それはいわば原初の無意識どまりです。
> > >
> > >  何で反論するのか?何が「しかし」ですか?「原初の無意識どまり」ってどういうことですか。

人間の意識は必ずしもそうではないのが現実ではないでしょうか?
例えですが、日曜日家族総出で花なり、絵の展覧会なりを見に行ったとしましょう。
子供は絵を無心に見ているかもしれませんが、父親は、ほんとは家で休んでいたかったが、家族サービスしなければなるまいと、努めて愛想よくふるまっているかもしれません。母親は夫の様子を気にしていて、しかし優しくふるまっているので安心もするが、晩飯には何をサービスするか献立を考えているかもしれません。そのように意識が花を{新鮮に}見るという事は現実には簡単でないのでは?
ただし原始的な無意識にはちゃんと花も絵も届いてるでしょうが。

> > >  花を見ている状態がある、ということをいってるだけです。
>
>  花を見ている、ということをいっているのに、それがどんな意識だなんていうことはいっていない。
>  厳密に、花を見ている、ということは見ている自分と、見られている花があって、はじめて花が意識されるわけです。こうした原理的なことはあなたにはわからないでしょう。「みるもの」「みられるもの」があってはじめて意識が成立する。片方では成立しない。

意識が志向して初めてよく見るのではなかったっけ。

>  花を見ている、というのは正確には、花を見ている自分がいるということ。
>  「自分」と「花」がいて、はじめて成立。これが意識の成立原理。
> >
> > > >「あいつ、こんなことを言いやがった」とか。つまり実際の知覚に対しては上の空だったりします。
> >
> > > > そうではなく、思考の干渉なしに瞬時瞬時の出来事をそのまま見ている。
> > >
> > >  ですから、花をただ見ている、ということを申し上げた。「ただ見ている」というのは難しいことでも何でもなく、一般の普通の人がやっていることです。
> > >  ここまではよろしいでしょうか。

あまりよくないです。というのは、初めて外国に行ってみる時は新鮮に、わくわくして見る。しかし、自分の家の周りは見飽きて新鮮さを失っている。ちらりと見るだけ。新鮮に見れない。

> > >  「ただ見ている」というのはむずかしいといわれるので、様々な例を申しあげました。
> > >  芝居を見ているとき、テレビを見ているとき、スポーツを見ているとき皆見そうです。もちろんその後の感想は様々。
> > >  はじめから文句をつけて見てるかと言う話です。
> >
> > 始めの純粋に見ている知覚はそのまま意識に登らず、様々な思いを通した状態があります。それがヒトの表面意識の現実の状態です。 
>
> あのですね。自分のことを観察して下さいよ。どうなってるか。
> 花を見てるときは、花を見てるだけでしょう。こんな簡単なことがわかりませか。花を見てるとき、いちいち評価しますか。感じるだけでしょう。何かをです。
> ここがわからないと以下の話はわからなくなる。

そう見れるならそれは瞑想の境地です。普通はできません。あなたの言っている「見る」がどういう状態かわかりません。

> > >
> > >  ここから「内観」の話。
> >
>
> > >  もう一度いうと、花を見るのは即座であり、簡単だが、心を観るのは簡単ではない。
> > >  簡単に言うと相手から文句を言われる。「馬鹿やろう何やってるんだ」
> > >  即座に反応。「何言っていやがる。ふざけるな」。
> > >  普通ありがちなやりとり。意識は外に向いている。
> > >  つまり相手に文句を言われたとき、意識は当然相手に向いている。当たり前のことです。このとき意識は内面に向いていない。わかりやすくいうと、相手から文句を言われたとき、「何いってやがる。ふざけるな」という思考を自覚していない。別な言い方だと客観的に自分を見ていない。怒っている自分を見ているもう一つの自分がいる。
> >
> > この最後の一句「 怒っている自分を見ているもう一つの自分がいる。」がわかりません。この句を除いて答えます。
>
>  これがわからないと、「見る」ことをやっていないことと同じ。言葉をかえていうと自覚する。相手にバカヤローといっている自分を自覚する。
>  真の観察者、真我ともいう。手のひらで踊っている孫悟空を見ている観音様と言えばわかりだろう。
>  ようするに、絶望に陥っている自分自身に対し、客観的な観察、客観的な態度がとれるかどうか。実は絶望している自分自身に対し、客観的になれるということ自体が、超越的になることであり、私は私でない私を発見をしたことになる。
> >
> > 「何いってやがる。ふざけるな」と言っている自分は思考なのです。だから客観的に見れないのです。
>
>  それを客観的に見ろとKは言っている。思考の動きをです。だが普通の人間は客観的な態度は取れない。そこに難しさだある。
>  思考を眺めるのは、思考をながめるものがいなければならない。火中の栗では見えない。栗が外に出て火を見る。これは分離ではなく、分離している思考を見る。
>
> >ただ見ているという時、思考のただの、純粋な知覚だけがあります、それが意識に登って見えています。一度このように見るなら分かります。
>
>  真我が、自我である思考過程を見ている。ただ見ているというのは誤解のある表現。花を見ているというと、対象が花になるが、思考過程をみているという場合、対象は思考過程になる。
>  心が静かになると、鏡のように思考過程がよく見える。
>  「ばかやろう」となるまでのいきさつが。よく見えると、「ばかやろう」に反応しなくなる。

その通り。心が静かであるとは、心が思考過程から外れて、同一化しないで、思考過程を見ているという事。

>  思考は知覚ではない。知覚というのは、五感をいう。視覚、聴覚、触覚、味覚。臭覚。思うことと感じることは別です。

思考の知覚というのは、思考が発生し消えるのを知覚しているという事です。念のため。

> > > >
> > > > 思考で取り組んでもその状態が実現しないところに難しさがある。
> > >
> > >  思考で取り組むって、どういうことですか。「観る」ことに思考で取り組みもないでしょう。観れば言いわけですから。観るか観ないかの話。
> >
> > 思考(者)が出来事(の知覚)に対し反応している状態。つまり思考(者)が出来事に取り組んでいるのです。
>
> 「ばかやろう」「このやろう」に反応していることを思考に取り組むと言うわけですか。取り組むと言っても、思考に反応してるだけでしょう。

反応も思考過程であり、自分の心が思考過程になって現場でふるまっているわけです。


> > > >なぜなら、その取り組む思考が、思考なしに知覚している状態を破壊するから。
> > >  今の例は相手から文句を言われて反応する。これがリアルタイムで起きた出来事。
> > >  それで取り組み思考って何ですか?

つまり反応しているなら、自分も思考の過程を進めているわけです。従って心は騒いでいる。花を見るように見てはいない。

> > 思考が相手の言葉や言い方に反応したという事が、この事件に思考が取り組んでいることを示します。条件づけられた脳が反応したと言ってもいいでしょう。
> >
> > >
> > > >もちろん瞬間思って、思考なしに見ている状態に突入してしまえばどうという事はないのですが。
> > >
> > >  思考なしに見るとよくいわれるが、思考なしに何を見てるのですか?
>
> 思考過程を見ている。自分を侮辱したので、何だとコノヤローと反撃した。その過程、一部始終を見ている。俳優がモニターで自分の演技を見るように。

一瞬後に心が静かに見ていることに切り替わるときのことですね。続いて何が起こるかを見ている。私の思考感情はどう動くかわかりませんが、もし動けばそれを(モニターで)客観的に見ることができる。

> > その場面の知覚されることを見ています。自分の心理的思考(をつかさどる部分)は見る主体の側にはありません。外にあるものの知覚としてあります。
> >
> > > > > > それは本当に重大な時こそ、判断なしに見ることが必要なのであって、では普段はどうでもいいというわけではありませんが、何というか、注意はおのずとされているようになるのです。
> > > > >
> > > > >  都合のいい時に、気づきは起こるのですか?普段は注意しなくても。

その瞬間に静かな心に変わって見ることはどうしてもできなかったので、初めて変わった時は食い入るように見ていました。

> > > >
> > > > 猛獣のいる平原や密林に行くと人はおのずと注意深くなります。これは実際の危険があるからで、太古の動物から受け継いでいます。しかし、心理的危険は人間がその進化から自ら作り出した初めての危険で、猛獣や崖の危険のように直感的に気づくまで至っていません。
> > >
> > >  Kのいう心理的危険というのは猛獣になぞらえての比喩です。そのぐらい危険だと言及している。つまりや争いの原因。もちろん普通の人間は、そんなことはつゆとも思っていない。
> > >
> > >  そこで、重大なことをお聞きします。(心理的)思考の中で危険というシグナルというのは出てくるものなのでしょうか。

それを気づきと言ってもしいです。利己的な心で頭がうじゃうじゃしているという知覚(洞察?)がある。そこで違った行為(課程)が始まる。

> > 危険というシグナルは特にありません。初心のうちは思考をすべて疑ったらどうですか?
>
>  それは飯尾氏の言葉です。彼は終生疑うといっている。あなたのように、都合のいい時だけ見ることはしない。
>  シグナルがないとすれば、四六中見るしかないでしょう。
> >
> > >  あなたはそれがわかっているので、即座に気づきができるということでしょうか。それを合図として。
> >
> > 感情が動くときにわかります。
>
>  感情は誰だって動くでしょう。特別なことではない。

> > >  相手から、文句を言われて反応する。思考が出てくる。そのとき、いつ「危険のシグナル」が出るのかということです。危険とわかるもの。

感情が出てくる、感情的になるというのは心理的思考ですし、思う通りにならないこと(苦しみ)があって、そこに人を自分の意にそわそうとする力の発生を感じます。気づきます。これが危険の察知です。それは初めからではありません。変化があって気づくようになるのです。

> >
> > 心理的なものって感情の動きでわかりませんか、ネガティブなものだけでなく、しめた、もうけたと舌なめずりするような感覚も含めて。
>
>  感情の動きならわかりますよ。体に如実にあらわれるから。
> >
> > >  頭が熱くなり、胸がカッカする。鳩尾が痛くなるのはいつものこと。典型的な怒りの現象。それは身体にあらわれる。それが危険信号なのかな?
> >
> > そういう肉体感覚を不快でなく客観的に感じることも、ただ知覚していることの一部です。
> >
> > > > >  それだと、イエスや飯尾氏のスタンスと違いますね。
> > > > >  イエス氏曰く、「自身の想念に寝ずの番人をせよ」
> > > > >  飯尾氏曰く  「自分の思考は信用しない」
> > > > >  両者に共通するのは、いつ心が暴君になるかもしれないので、常に見張るということです。
> > > > >  クリシュナムルティが思考を危険分子とみなしているのと共通
> >
> > > > そうです。しかし心理的思考の危険に気づけないという事でしたね。
> > >
> > > はい。そういった危険信号が出るのかどうか。
> >
> > 上にすでに書きました。とにかく思考を疑う事から始めて、思考の危険を自分で知りましょう。
>
>  危険信号というものがないなら、思考を見張るしかないでしょう。
> >
> > > > > >Kの本を関心を持って読んでいれば自ずとそうなります。
> > > > >
> > > > >  Kの本を読むと、都合のいいときに「気づき」と起こると。ふと?
> >
> > > > Kの本をよく読んでいると思考の危険を初めて知ります。そして心の動きが心理的になるのがわかるなら即座に気づきます。それはいつの間にか起こり始めます。
> >
> > >  私は起こりません。本の理解が先です。読み終わると日常。

気づきが起こるのは本当の理解があった時だと思います。知的理解でなく。

> > > > >  あなたのスタンスがよくわかりました。違いが明確になったようです。
> > > > > >
> > > > > > それからそれを持続するという事をひどく重視していますが、それは達成願望にとらわれています。(ゲームのように勝ったり負けたりしながら進んでいけばいいとKが言っています)。
> > > > >
> > > > >  達成願望というのは思考の世界でしょう。そうではなく、Kのいうのは24時間見続ける。ということであり、それには初めも終わりもないということです。達成したら『終わり」ということではない。
> > > > >  24時間というのは象徴的な意味で使ったので、実際は起きてから寝るまです。Kの言わせれば無理をせず、できる範囲でやる。文字ドウリぼとぼちと。
> > > > >  たいていの人は、「何のためにやってるのか馬鹿馬鹿しくなった」と挫折するのが大半。
> > >
> > >  実は私がそう。観ることはやってません。必要なし。日常で愛を実践するのみ。まずは掃除から。慈愛の気持ちで、事にあたる。これは南方さんから学びました。
> > > >
> > > > 始めも終わりもないという事は、24時間でもなく、目が覚めてまた眠るまででもなく、心理的思考(不注意)の発生している「いま」という事です。
>  ですから日常、四六中見てないとわからない。

最後に一言。四六時中見ると言ってもそれは心身の全体でするのであって、自我意識が出しゃばってすることではないですが。
今回の対話で、私は私の言ってきたことを随分意識化し、言葉化できたように感じます。ありがとうございました。


[24379] 無題 投稿者:vaamana 投稿日:2017/08/28(Mon) 14:24  

ふと思った。われわれのような、見性を求めてがんばってるのはかなりの変人じゃないか?

世の中には、見性なんかより、女や金に命かけてるやつだってごまんといる。



[24378] 一切皆苦 投稿者:vaamana 投稿日:2017/08/28(Mon) 13:08  

苦には二つの用法がある。一つは楽や不苦不楽に対する苦であり、他は「一切皆苦」といわれるときの苦である。前者は日常的感覚における苦受であり、肉体的な身苦(苦)と精神的な心苦(憂)に分けられることもある。しかしながら、精神的苦痛が苦であることはいうまでもないが、楽もその壊れるときには苦となり、不苦不楽もすべては無常であって生滅変化を免れえないからこそ苦であるとされ、これを苦苦・壊苦・行苦の三苦という。すなわち、どちらの立場にしても、苦ではないものはないわけで、一切皆苦とはこの意であるとされる。


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