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[24221] Re:[24219] [24215] [24213] [24202] [24201] [24199] 生と死 投稿者:南方 投稿日:2017/08/21(Mon) 07:30  

> > > > > > ここまで書いてきて、肉体という制約がなければ、さらに躍動的で自由もあるかなと思い直しました。
> > >
> > >  肉体は牢獄と言う発想ですか?危険ですね。
> >
> >
> > ここまでくるとちょっと気になります。歴史的にどういうことが起こったのですか?
>
>  肉体が不自由、制約を受けるというのは、心霊主義者の発想のように思えました。
>  心霊主義者の多くは肉体とは霊の棲み家であり、霊の外衣ととらえている点にあります。
>  霊界、幽界、アストラル体、肉体。「神智学」の発想。一部の宗教でもこうした考え方がある。白光信仰会、生長の家。
>  そういう霊にとっては肉体を纏わぬ方がよほど自由なのだろうか。という疑問が浮かぶ。
>  この世は地獄。あの世は天国という発想。
>  その天国にいくために、様々な修業、方法、メソッドがある。
>  ヨガのように身体をいじめ抜いて,解脱をめざすというのもそう。
>  肉体には7つのチャクラがある。まさに肉体を器械と見なす。
>  話が違ってきたかな。
>



修行もメソッドも本格的にしたことはないですが、確かに自分にはそのような傾向があると自覚します。
神智学がそのような思想を持っていることは知りませんでしたが、シュタイナーには影響を受けているので。
気を付けます。


[24220] Re:[24219] [24215] [24213] [24202] [24201] [24199] 生と死 投稿者:南方 投稿日:2017/08/21(Mon) 07:24  

>
>  あなたは心の中でKと相談しているということですか?神秘的ですね。
>  霊媒師のようにKと対話していると。
>


統合失調症というのは上手く生かせばこのように天分の才のようにも生かせると思います。ここまでくるのにきつかったですが。




> > >  Kのいう心理的死というのは、そういった不安を呼び起こす思考を消していくということです。ほっとけば消えていく。
> > >  まさに思考が,不安を引き起こす。
> >
> >
> > ここですね、ひっかかるのは。余計な思考かもしれませんが意識の光に当てることはしなければならないと思うのです。現代の人がやっているのは逃避。
>
> 意識の光?
>


意識するという単純なことです。


> > 確かにその不安を日常的に抱え込んだら生活に支障をきたすでしょう。しかし、その不安を闇に葬ることと光に当て(ここの掲示板流でいくと見て)消化していくこととは別だと思います。それが死と向き合う生の生き方。心理的死を通して、肉体的死と向き合う。
>
>  おっしゃる意味がよくわかりません。クリシュナムルティは肉体の死に向き合うなどとは一言もいっていないように思います。心理的死だけです。
>  実際の死にまつわる恐怖、不安を捨てよと言っている。考えてもしょうがないので。ようするに心理的イメージを捨てる。
>  瞬間瞬間、(古い思考)を捨てていく。
>  Kのどこかの本で、ある人が罪を犯し、死刑を受けたら、その事実を素直に受け入れるとある。つまり心理的にじたばたしても、どうしょうもないということだ。肉体の死に向きあうとしたらその場合。又一般では癌か何かで余命幾年といわれたとき。そのとき死というものにはじめて向き合うということになるのではないか。普段の生活では死ということを考える必要はないでしょう。
>


必要ないですかね。では、ここは僕にとって必要ということにします。で、いま肉体的死に思考の方向を向けるのですが、心臓がドキドキして漠然とした不安がある。それを捨てていく。いつもやるわけではないですが、気が向いた時にはこれをやる、ということをしていけたら、自分と言うものをよく知れるのではないかと思います。


>  「死」という言葉を使われますが、「死」と「生」は対語です。現実には生も死もないのではないですか。すべては形を変えて流転しているだけです。
>  生成流転。(心理的に)死ぬことが生きること。
>


そうですね。だから不思議なのです。恐怖があることが。

> > > その人がホントに好きであれば、容姿とか学歴は関係なくなるということです。
> > > >
> >
> >
> > 学歴はともかく容姿は生理的なものがある。人類は長い間、人を美しい容貌と醜い容貌にわけてきた。その記憶から自由になれるか。
>
>  こだわりますね。見かけより心です。


心が美しければそれが外へと輝き出る。


[24219] Re:[24215] [24213] [24202] [24201] [24199] 生と死 投稿者:外野 投稿日:2017/08/20(Sun) 23:28  


> 僕が行っているのがマントラと言っていいのかどうかはわかりませんが、今Kはあなたのは麻痺させると言う意味でのマントラではないと訴えます。僕はKに相談できますかと僕は心の中で話しかけます。Kは相談にはもう少し時間がかかるでしょうと訴えます。そして、今思考が同士の交流がエネルギーへと変換され、次にまた新たな展開へと、という感じです。

 あなたは心の中でKと相談しているということですか?神秘的ですね。
 霊媒師のようにKと対話していると。

> > > > > ここまで書いてきて、肉体という制約がなければ、さらに躍動的で自由もあるかなと思い直しました。
> >
> >  肉体は牢獄と言う発想ですか?危険ですね。
>
>
> ここまでくるとちょっと気になります。歴史的にどういうことが起こったのですか?

 肉体が不自由、制約を受けるというのは、心霊主義者の発想のように思えました。
 心霊主義者の多くは肉体とは霊の棲み家であり、霊の外衣ととらえている点にあります。
 霊界、幽界、アストラル体、肉体。「神智学」の発想。一部の宗教でもこうした考え方がある。白光信仰会、生長の家。
 そういう霊にとっては肉体を纏わぬ方がよほど自由なのだろうか。という疑問が浮かぶ。
 この世は地獄。あの世は天国という発想。
 その天国にいくために、様々な修業、方法、メソッドがある。
 ヨガのように身体をいじめ抜いて,解脱をめざすというのもそう。
 肉体には7つのチャクラがある。まさに肉体を器械と見なす。
 話が違ってきたかな。

> >  Kのいう心理的死というのは、そういった不安を呼び起こす思考を消していくということです。ほっとけば消えていく。
> >  まさに思考が,不安を引き起こす。
>
>
> ここですね、ひっかかるのは。余計な思考かもしれませんが意識の光に当てることはしなければならないと思うのです。現代の人がやっているのは逃避。

意識の光?

> 確かにその不安を日常的に抱え込んだら生活に支障をきたすでしょう。しかし、その不安を闇に葬ることと光に当て(ここの掲示板流でいくと見て)消化していくこととは別だと思います。それが死と向き合う生の生き方。心理的死を通して、肉体的死と向き合う。

 おっしゃる意味がよくわかりません。クリシュナムルティは肉体の死に向き合うなどとは一言もいっていないように思います。心理的死だけです。
 実際の死にまつわる恐怖、不安を捨てよと言っている。考えてもしょうがないので。ようするに心理的イメージを捨てる。
 瞬間瞬間、(古い思考)を捨てていく。
 Kのどこかの本で、ある人が罪を犯し、死刑を受けたら、その事実を素直に受け入れるとある。つまり心理的にじたばたしても、どうしょうもないということだ。肉体の死に向きあうとしたらその場合。又一般では癌か何かで余命幾年といわれたとき。そのとき死というものにはじめて向き合うということになるのではないか。普段の生活では死ということを考える必要はないでしょう。

 「死」という言葉を使われますが、「死」と「生」は対語です。現実には生も死もないのではないですか。すべては形を変えて流転しているだけです。
 生成流転。(心理的に)死ぬことが生きること。

> > その人がホントに好きであれば、容姿とか学歴は関係なくなるということです。
> > >
>
>
> 学歴はともかく容姿は生理的なものがある。人類は長い間、人を美しい容貌と醜い容貌にわけてきた。その記憶から自由になれるか。

 こだわりますね。見かけより心です。


[24218] 無題 投稿者:YHWH 投稿日:2017/08/20(Sun) 14:55  

曾つて彼は  

曾つて彼は
五月の山谷の残雪の下から出た   
一本の真紅の独活であった
その日彼は春霞む山々を見ながら
自らが神であることを知つた

曾つて彼は
ねむの花かげの
小さい渓流の中の
子供の小指ほどの
一尾の小魚であつた
その時彼はさざめきながれる夏川水の清らかさの中で
美しい夏山を神と見た

彼は曾つて
村の小川の一尾の鮒であつた
その流れにうつる のうばらの白い花かげに
ひそかなるおもひをよせた

彼は曾つて 秋の山路の一株の 紅玉にうるる秋ぐみであつた
山の子等が
かちどきをあげては彼にとリつき
その甘い実を舌にのせるとき
彼は自分が母たる大地であることを知った

彼は曾つて
一つの栗のいがであつた
そのつややかな褐色の三つ栗を笑みわらせ
流れる朝霧の中で
山がらの声を美しくきいた

彼は曾つて
春霞すむ中国山脈の一つの峯であつた
北には はるかに日本海が その春霞に煙つて見えた
彼はその目本海を自分の恋人と思つた

彼は曾つて
洋々と流れる大河であつた
白帆をうかべ
魚竈をすませ
彼は自らが一つの文化の大動脈であることを知った

彼は又曾つて 一つの岩石であつた
千年ぢつと人知れぬ山中に
夏は蝉の声をしみいらせて
みどりの松林としづかに対話し
秋は色づいた山葡葡の葉に 自らをかくした

彼は又曾つて
一尾の蛇であつた
幾度か自らの皮を脱ぎ
新しい自然と和した

彼は又曾て 鷲さへ来ぬ深山の老松であつた
彼がそのみどりの節を失はないことを知つてゐるのは唯白雲だけであつた
然し彼自らは その節よりも
その初夏の花粉の日をひとりたのしんでゐた

彼は又曾つて 一匹の狼であつた
群することを忘れた彼は
若き日の牙もぬけ
狐や狸に馬鹿にされながら 洞窟の中でさびしく餓死した

彼は又曾つて 一匹の山椒魚であつた
彼は山深い沼にひとり住んでゐたが
その沼に十五日毎にうつる 満月の夜の月を愛し
その虚しいなげきをくりかへした

彼は曾つて又 一羽の鶴でもあった
明月の夜
山河湖海を下に見て
自分のふるさとへかえつた
彼のふるさとは月であつた

彼はついに何であつたらうか
彼は最後に人間の体をして生れたが
平凡にろくろくとして老い朽ち
その子らが彼を火葬にしたとき
一片の白骨すらとどめず
青いけむりだけが天にのぼつた
それは子供の時 彼が手製の竹の小串にさして焼いた川魚の
あの青いけむりそのままだつた

https://soundcloud.com/taishi-ohira-745737342/yugaadi-krit


[24217] 無題 投稿者:YHWH 投稿日:2017/08/20(Sun) 14:46  

平穏な愛 
召使の愛 絶対の安心
友情の愛 絶対の情熱
親子の愛 絶対の愛
恋愛の愛 絶対の自由


この五つが、バクティヨーガの5段階だ。

5番目の段階で、完全に人は永遠の今にいきれるようになる


[24216] Re:[24214] [24212] [24210] [24204] [24202] [24201] [24199] 生と死 投稿者:南方 投稿日:2017/08/20(Sun) 13:49  

> >
> >
> > それが死ですか。ずいぶん簡単ですね。Kの本を読めば何ともすることができないことだらけ。
>
> これは実際の物事が理解されたのとは違い、思考から出ていませんか。
>

そうですね。思考から出ています。
実際の物事が理解されたのならそもそも書き込みません。

> > 思考は混乱し、そして停止します。
>
> 混乱して停止するのは、理解があり停止するのとは違いますよね。
>

混乱して、そして叡智による停止という意味で使いました。その後いつも理解がある。
普通は混乱して停止しません。




>
> > 一個人の結論?
> > Kの実践は自己完結。ではこの掲示板の意味とは?
>
> はい、一個人の経験を話しています。共感してくれる人が一人でもいればと思って。あるいはこのことを少しでも考えて見てくれればと思って。
> それとこういう話は何かの縁がないとしにくいものです。その縁を求める意味もこの掲示板にはあるかと思います。


そうですね。今後ともよろしくお願いします。


[24215] Re:[24213] [24202] [24201] [24199] 生と死 投稿者:南方 投稿日:2017/08/20(Sun) 13:36  

> >
> > 思考群(価値観、固定観念等)や記憶の刷り込み等からの自由は各自やり方があるようです。僕の場合、Kとマントラを唱えます。
>
>  マントラというと真言密教?若いときやったときがあります。仏教でお経を読むことは一つのマントラです。一種の想念浄化法。
>  般若心経、何無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経。
>  クリシュナムルティは、このマントラヨガ類を、自己催眠法の一種だとして批判している。「自己変革の方法」241P
>  ある言葉をいつまでも繰り返し、反復によって心は平静になる。だとすればアーメン、オーム、コカコーラといった言葉をくりかえせば何らかの経験をもつようになる。
>  (これによって超自然的体験を得たということを何人も聞いた。一種のトランス状態)
>  これは何千年もの昔からインドで行われた有名な現象ーーーマントラヨガ
>  以下略
>


僕が行っているのがマントラと言っていいのかどうかはわかりませんが、今Kはあなたのは麻痺させると言う意味でのマントラではないと訴えます。僕はKに相談できますかと僕は心の中で話しかけます。Kは相談にはもう少し時間がかかるでしょうと訴えます。そして、今思考が同士の交流がエネルギーへと変換され、次にまた新たな展開へと、という感じです。




>  この章は、座禅を好む仏教者が聞いたら逆なですることが書かれている。
>
>  以下「死」という言葉がよく出てきますが、あまり使わない方がいいと思います。この言葉は、多くのイメージがこびりついているので。
>  (人間の想念というのは、周囲の空間に伝搬して多くの人に影響を受けます。なるべくポシティブシンキングにせよというのは、そういったネガチィブな想念を受けないためです)
>
>
> > > > わからないのは、いや、わかろうとしないのかもしれませんが死がこれと同じ躍動的で自由だということです。
> > >
> > >  死が自由?
>
> 危険な発想です。死を美化することに繋がる。

公の場で他人が鵜呑みにするということまで気が回りませんでした。僕の場合、決して厭世的でもないのです。




> >永遠の繰り返し。
>  それは事実です。
>
> >まさに地獄。
>
>  地獄というのは方便。天国と地獄。キリスト教が、好む概念。
>


嘘も方便。だからドグマ的宗教をあれほどKは嫌った。



> > > >
> > > > ここまで書いてきて、肉体という制約がなければ、さらに躍動的で自由もあるかなと思い直しました。
>
>  肉体は牢獄と言う発想ですか?危険ですね。


ここまでくるとちょっと気になります。歴史的にどういうことが起こったのですか?




> > とここまで書いて、何かもやもやとわかってきたような気もしないでもないです。死と向き合うということと今を生きるということの表裏一体性。漠然と。
>
>  具体的にいうと、死の準備をするというのは、どういうことか。例えば地震。いつ大地震がくるかわからない。だからといっていつも地震のことを考えているだろうか。そういうのは、よけいな思考ではないだろう。そういった思考が不安を呼び起こす。いつ死ぬかわからないなんていうのは、よけいな思考。もし、事故で死んだらそれまでの話です。
>  Kのいう心理的死というのは、そういった不安を呼び起こす思考を消していくということです。ほっとけば消えていく。
>  まさに思考が,不安を引き起こす。


ここですね、ひっかかるのは。余計な思考かもしれませんが意識の光に当てることはしなければならないと思うのです。現代の人がやっているのは逃避。
確かにその不安を日常的に抱え込んだら生活に支障をきたすでしょう。しかし、その不安を闇に葬ることと光に当て(ここの掲示板流でいくと見て)消化していくこととは別だと思います。それが死と向き合う生の生き方。心理的死を通して、肉体的死と向き合う。


 

> > >
> > >  愛する対象ができたときは、それらは関係ありません。
>
> その人がホントに好きであれば、容姿とか学歴は関係なくなるということです。
> >


学歴はともかく容姿は生理的なものがある。人類は長い間、人を美しい容貌と醜い容貌にわけてきた。その記憶から自由になれるか。


[24214] Re:[24212] [24210] [24204] [24202] [24201] [24199] 生と死 投稿者:ゴト 投稿日:2017/08/20(Sun) 11:12  

> > > >
> > > >
> > > > 今を生きると死を考えるは同義かな。
> > > >
> > > >
> >
> > 死とは何ともすることができないことがわかり、マインドが停止すること。
> >
>
>
> それが死ですか。ずいぶん簡単ですね。Kの本を読めば何ともすることができないことだらけ。

これは実際の物事が理解されたのとは違い、思考から出ていませんか。

> 思考は混乱し、そして停止します。

混乱して停止するのは、理解があり停止するのとは違いますよね。

> それだけで死とは思えないですね。

例えば実際に仕事が行き詰まる、長期にわたってやってきた仕事がです。心はもだえ苦しみ考える。だが先の展望が見えない。上司や信頼する人にそれを話す。しかし、既にほかの数々の組織も動いており、今やめると大混乱が起きる。大きな不確実性・リスクがあるにしろ前進するしかない。もはや自分の力ではどうすることもできない事態に立ち至っている。
こういうことがわかった時、理解があるとき、マインドは自己の計らいを停止します。事態の推移をただ見守るしかありません。
これが私の言うマインドの停止=死の状態です。

>
> > その時、過去 現在 未来はなく、いまの中に生きています。
> > 欲望も羨望も嫉妬も怒りも悲しみも恐怖も不安もありません。それは実際にあるマインドの状態です。
> > その時もう一つの生があります。
>
>
> それを生きられているようで、生きられてないようで、何か違うんじゃないかという不安があり、Kはよるべきところのない不安定な状態こそが生であると言っている。その状態がどのようかは人に認めてもらうことでない。
> とすると、ゴトさんのその落ち着いた状態とはなんなのか?

不安はマインドの停止の前にあります。不安で心(マインド)は大騒ぎしています。
状態を理解してまな板の上のコイのようになった時、心は不安も何もなく、動きはありません。その時の客観的情勢がどう推移するかは見通せず、不安定そのものです。それに恐怖してマインドが大騒ぎしている時が、停止以前の状態です。これは後で言えることです。洞察があって停止したわけではありません。むしろ自分の力ではどうすることもできないとわかった時の理解が洞察なのかもしれません。
あえて言えば自分にとっての生きながらの死とはこういうマインドの状態です。

> 一個人の結論?
> Kの実践は自己完結。ではこの掲示板の意味とは?

はい、一個人の経験を話しています。共感してくれる人が一人でもいればと思って。あるいはこのことを少しでも考えて見てくれればと思って。
それとこういう話は何かの縁がないとしにくいものです。その縁を求める意味もこの掲示板にはあるかと思います。


[24213] Re:[24202] [24201] [24199] 生と死 投稿者:外野 投稿日:2017/08/20(Sun) 10:32  


> > 思考や記憶からの自由が生ということですか?

> 思考や記憶からの自由というよりも、そこからの判断の自由といったほうがいいと思います。

 それをクルシュナムルティは一言で「既知のものからの自由」
 既知とか、過去の記憶経験知識。
 自由というのは、それらにとらわれない。いつでも手放せる。
 こだわりがない。執着がない。
>
> 思考群(価値観、固定観念等)や記憶の刷り込み等からの自由は各自やり方があるようです。僕の場合、Kとマントラを唱えます。

 マントラというと真言密教?若いときやったときがあります。仏教でお経を読むことは一つのマントラです。一種の想念浄化法。
 般若心経、何無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経。
 クリシュナムルティは、このマントラヨガ類を、自己催眠法の一種だとして批判している。「自己変革の方法」241P
 ある言葉をいつまでも繰り返し、反復によって心は平静になる。だとすればアーメン、オーム、コカコーラといった言葉をくりかえせば何らかの経験をもつようになる。
 (これによって超自然的体験を得たということを何人も聞いた。一種のトランス状態)
 これは何千年もの昔からインドで行われた有名な現象ーーーマントラヨガ
 以下略

 この章は、座禅を好む仏教者が聞いたら逆なですることが書かれている。

 以下「死」という言葉がよく出てきますが、あまり使わない方がいいと思います。この言葉は、多くのイメージがこびりついているので。
 (人間の想念というのは、周囲の空間に伝搬して多くの人に影響を受けます。なるべくポシティブシンキングにせよというのは、そういったネガチィブな想念を受けないためです)


> > > わからないのは、いや、わかろうとしないのかもしれませんが死がこれと同じ躍動的で自由だということです。
> >
> >  死が自由?

危険な発想です。死を美化することに繋がる。
>
>
> 肉体的に死んだとします。残るのは意識と記憶、そして思考群からの判断。

 たとえばそこで殺されたとします。恨みとか悔いの想念がその場所に残ります。想念がエネルギーとなって空間に伝搬する。人によっては想念が物証化され、(幽)霊となって見えることもあるでしょう。こうした例は枚挙にいとまがない。
 それは別にして人間死ねば、残るものはありません。灰になり元の原子に変えるだけです。
 生まれ変わり論者は、人間は転生を繰り返すといいます。その場合「記憶」は引き継がれる。前世の記憶を持っている人を何人も知っている。
 その正否はあなたの判断にまかせます。
 人間死んだら「終わり」なのだろうか。現代科学者、唯物論者は、その見解。一部の宗教は、当然輪廻転生。
 釈迦とクリシュナムルティは、肯定も否定もしない立ち場と聞く。


>永遠の繰り返し。
 それは事実です。

>まさに地獄。

 地獄というのは方便。天国と地獄。キリスト教が、好む概念。

> ここでいう死が自由とは生を瞬間瞬間に死にながら、肉体的に死んだ時、それ以上の爽快感があるのではないかということです。だからと言って、別に希死念慮があるわけではないのですが。

 死んだとき爽快感がある?
 誰も死んだ経験をしたことがありません。死ねばそれまで。
>
>
> > >
> > > ここまで書いてきて、肉体という制約がなければ、さらに躍動的で自由もあるかなと思い直しました。

 肉体は牢獄と言う発想ですか?危険ですね。
> >
> >  Kのいう死は心理的思考の死ではないですか。
> >  思考は現れては消える。思考は現れては消える。その消えることが思考の死。
> >  これをあやまってとらえると肉体を粗末にする自殺願望になる。崖に飛び込めば自由だと。あるいは平気で自爆テロというように肉体を粗末に扱う。

> 肉体を粗末に扱うのは生きるものとして許される行為ではないが、肉体にとらわれすぎるのもまた心というものを粗末にする。現代においては、そのバランスが欠けている。

 肉体も自由。精神も自由。肉体は魂の道具です。どのように肉体を使うか。良く手入れをするか。体を酷使すると、あとでツケがまわってきます。
 思考もそう。そのように思考を使うかが問題。
 せっかくの脳細胞をほとんど使われないで人間死ぬと言う。まさに「宝の持ち腐れ」。
 宇宙哲学の巨人アダムスキーは、人間は神の意識であり、与えられた思考と肉体を有意義に使えといいます。神のように振る舞うか、悪にふるまうかはその人次第。
 その人の自由意志にまかされている。
 人間の意識というのは,イメージと同じで限界はありません。
 (水面にしたたる雫をイメージすればわかるでしょう。「同心円」)
 意識は深まりいくものです。愛にはこれまでというような限界はない。愛し愛しつくす。それによって人間は少しでも神に近づく。そういった意味で人間とは神の意識。 
 (この愛というのは、世間的な意味での愛情ではありません)
 人間とは神そのものではなく、神のように振る舞う(過程、プロセス)ことによってエゴが緩和される。
 毎日の日常で、自身で、人のためになるということを実践していく。気配り、配慮。身近で、できるもの。結果的にエゴから序序に遠ざかる。
 これはアダムスキーの教えです。参考まで。

> >  何アのマンデラ大頭領は、私はたとえ牢獄にいようとも自由だといった。肉体は牢屋にいれられ自由に活動できないが、思想考え方は自由だと。ようするに思考への執着はない。

 最近来た、ウルグアイの世界一貧しい大統領も、すばらしい見識の持ち主でした。「今までの既成の考え方をやめよ」
> >
>
>
>
> 政治家となる人が失礼ながら、思考の自由があるとは思えない。詳しくは知りませんが。大衆を牢獄に(思想的に)閉じ込めるのが政治家ではないですか?

 政治家でも、立派な人はいます。全部ではない。

> > > しかしながら、死の恐怖が消えることはまだありません。様々な記憶からくる思考の判断のせいでしょう。
> >
> >  肉体の死が怖いというのは誰でも同じ。その恐怖をやわらげるためにある宗教は輪廻転生を説いた。死んだら極楽を生けると。
> >  しかし、死は誰でもくるものですが、実際そのことを考えてもしょうがない。
> >  仮に、がんが発見され余命1年と言われたとき、どのような気持になるか想像つきません。

> 前述したように、その時になってからでは遅いと思うのですね。死と向き合うとは今と向き合うと同義だと思います。そういう感じでとらえていただければと思います。決して先のことではない今死ぬかもしれない。人間いつ死ぬかなんてわからない。先かもしれないし今かもしれない。その心の準備は必要不可欠。

 そうですか。ご立派です。なるほど、人間いつ死ぬかわからない。いつ何があるかわからない。それでいつも死の準備をすると。
 ニュースを見ると、人間何らかの事故で毎日死んでます。
>
> とここまで書いて、何かもやもやとわかってきたような気もしないでもないです。死と向き合うということと今を生きるということの表裏一体性。漠然と。

 具体的にいうと、死の準備をするというのは、どういうことか。例えば地震。いつ大地震がくるかわからない。だからといっていつも地震のことを考えているだろうか。そういうのは、よけいな思考ではないだろう。そういった思考が不安を呼び起こす。いつ死ぬかわからないなんていうのは、よけいな思考。もし、事故で死んだらそれまでの話です。
 Kのいう心理的死というのは、そういった不安を呼び起こす思考を消していくということです。ほっとけば消えていく。
 まさに思考が,不安を引き起こす。
 
> > > 愛することは死ぬこと。
> >
> > あやまってとらえると大変なことに。心中とか。

> おもしろいこといいますね。

心中とは愛し合う男女が何らかの事情で死ぬこと。だから愛することは死ぬことなり。
>
> > > あの人がああだったこうだった、こうあるべきだとイメージが先行して関係すれば、愛することがどうしてできるでしょう。
> >
> >  愛する対象ができたときは、それらは関係ありません。

その人がホントに好きであれば、容姿とか学歴は関係なくなるということです。
>
>
>
> 僕は買い物に行くときも、最近は心理的に死にその従業員の方々と接するようにしています。

 つまり愛をもってということでしょう。言葉を変えれば「親密」に接する。

> 不思議と嫌な感じが消え失せ、親近感を覚え、相手もまた親切にしてくれるようです。

 それが愛の実践の一つです。慈愛をもって接する。分け隔てなく。




[24212] Re:[24210] [24204] [24202] [24201] [24199] 生と死 投稿者:南方 投稿日:2017/08/20(Sun) 06:38  

> > >
> > >
> > > 今を生きると死を考えるは同義かな。
> > >
> > >
>
> 死とは何ともすることができないことがわかり、マインドが停止すること。
>


それが死ですか。ずいぶん簡単ですね。Kの本を読めば何ともすることができないことだらけ。
思考は混乱し、そして停止します。
それだけで死とは思えないですね。



> その時、過去 現在 未来はなく、いまの中に生きています。
> 欲望も羨望も嫉妬も怒りも悲しみも恐怖も不安もありません。それは実際にあるマインドの状態です。
> その時もう一つの生があります。


それを生きられているようで、生きられてないようで、何か違うんじゃないかという不安があり、Kはよるべきところのない不安定な状態こそが生であると言っている。その状態がどのようかは人に認めてもらうことでない。
とすると、ゴトさんのその落ち着いた状態とはなんなのか?

一個人の結論?
Kの実践は自己完結。ではこの掲示板の意味とは?


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