雑感
[トップに戻る] [留意事項] [ワード検索] [管理用]
おなまえ
Eメール メールアドレスは入力禁止
タイトル
コメント 【コメント中のURLは先頭のhを抜いて書き込んで下さい。】
コメント中には参照先URLと同じURLを書き込まないで下さい
参照先
暗証キー (記事メンテ用)

[25210] Re:[25209] [25208] [25207] [25206] [25205] 「生の書物」を読んで。 投稿者:宮啓 投稿日:2018/04/05(Thu) 16:56  

> > > >  今、私は、2週間ほど前から『クリシュナムルティの生と死』メアリー・ルティエンス著を読んでいます。今、全ページの半分を過ぎたところです。
> > >
> > > 中略
> > >
> > > >  更には、クリシュナムルティ自身の陳述では意図的に避けられていたところのシャーマニズム的要素は、その身近な人々には明白に晒されており、その要素が多く盛り込まれています。
> > > >
> > > >  また、この要素を世に知らしめることは、クリシュナムルティがメアリー・ルティエンスへ許可したとのことです。
> > > >
> > > >  私は、この要素については『クリシュナムルティとは誰だったのか』の本で多くを学んできましたが、クリシュナムルティの身近な人から、更にクリシュナムルティの許可を得て発信された、この要素の記述に感じ入っています。
>
>
> 昔のメアリー・ルティエンスの三部作は読んでいますが、『クリシュナムルティの生と死』は購入していませんが関心が生じました。アリエル・サナト著「クリシュナムルティは誰だったのか」は読みかけになっていたので先に目を通してみます。シャーマニズムについては、私はその実際には触れたことがないに等しいのですが、本は多少読んでいるので少し突っ込んでみましょう。
>
> > > >  この『クリシュナムルティの生と死』では、様々なタイトルの本がでてくるので、あの本もまだ読んでいない、この本もまだ読んでいないと・・、今後読んでみたい本が少なからずあることを知って、気が引き締まる思いです。
> > >
> > >
> > > 興味あるお話、有難うございました。
> > >
> > > 私のクリシュナムルティに対する関心と探求・精進は自分自身の持つ苦しみ、悲しみが消えるとともに、ほっこりした気分になって先がなくなってしまいました。
> >
> >
> >  そのレベルまで自己理解できるのであれば、クリシュナムルティ理解への取り組みは有意義ということではないでしょうか・・。
> >
> >  他者へ堂々と勧めることができる取り組み。
>
> そのほっこりとしたときは一人で山登りやハイキング・散歩で、足るを知ると言いますか天国にいるような時期が続きました。だが、何かもっと夢中になってやることが欲しいとか関係を広げたいという気持ちがわいてきたのです。これからが本当の生を生きるという事なのかもしれません。


 私は、まだそのような境地には至っていないので、今後が楽しみです。

 根源的な変容とは如何なるものかは計り知れませんが・・、クリシュナムルティと同程度の変容まではいかなくとも、ゴトさんレベルの変容であっても、十分すぎるほどの価値を感じます。
 また、このレベルであれば、全人類で数人と言わずに、もっと多くの人がそこに至れるように思っています。
 ますます、クリシュナムルティ理解への取り組みへのモチベーションが出てくるようです。又、更により多くの人々へ伝えたいという思いも大きくなるようです。。


> > > 日曜の晩だったと思いますがテレビでタモリの「人体」とかいう番組を観ました。顕微鏡を初めて作って、細胞というものがあるのを発見した人、レントゲンで人体を透視できることを発見した人、その後にも多くの人が熱中して挑んでいます。これは結果に驚異を感じ、とめどもなくさらに上を見たいという意欲が湧くのでしょう。
>
>
> >  クリシュナムルティ理解への取り組みの初期の段階での動機は、苦しみ・悲しみへの対処であれ、超常能力への興味・関心であってもかまわないのかもしれません。クリシュナムルティ理解が進むにつれ、真理への探究へと向かう可能性があるように思います。
> >
> >
> > > Kは純粋に精神の持ち方を説いてくれました。如何なる神に跪拝することもなく。これは普遍性の原点の条件の一つです。見るところは、個人的ではありますが、心に浮かぶ欲望、力動、切迫、思考、感情等のすべてです。これは万人が感じ合う可能性を持つというところで普遍性に通じます。
> > >
> > > 人の心に浮かぶ思いをまとめて欲望と呼び、それを始原の要素として扱い、それ以前はブラックボックスとして分析の対象とはしないと唱える哲学が誕生しました。竹田氏の欲望論とはそう意味を持つものでした。その心に浮かぶ思いは実存(存在ではない)なのです。
> > >
> > > 今私の手元に普遍宗教への階梯―スワミ・ヴィヴェカーナンダ講演集 大野純一編訳という本があります。だいぶ前からツン読になっていたのですが、普遍宗教をキイワードに拾い読みして見ようかなと思います。
> >
> >
> >  私の場合、哲学や宗教は、「『最優秀観察者』への道」のように思えて、なかなか興味が湧きません。
> >  スワミ・ヴィヴェカーナンダのことは未知数ですが・・。
>
> スワミ・ヴィヴェカーナンダはKより古い人ですが、西欧に対して大宗教が別々の神を立てて対立抗争している愚かさ・悲惨を説き、普遍的宗教によって抗争の解消ができないかと言い、ヨーガを紹介した人でした。こういう世界的な見る目を持った先人がいるのですね。
>
> 私の独断で省略したところがあります。ご了解ください。


 そのような先人達も、クリシュナムルティレベルの変容までは至っていないが、その途上までは行ったのかもしれませんね・・。


[25209] Re:[25208] [25207] [25206] [25205] 「生の書物」を読んで。 投稿者:ゴト 投稿日:2018/04/04(Wed) 22:41  

> > >  今、私は、2週間ほど前から『クリシュナムルティの生と死』メアリー・ルティエンス著を読んでいます。今、全ページの半分を過ぎたところです。
> >
> > 中略
> >
> > >  更には、クリシュナムルティ自身の陳述では意図的に避けられていたところのシャーマニズム的要素は、その身近な人々には明白に晒されており、その要素が多く盛り込まれています。
> > >
> > >  また、この要素を世に知らしめることは、クリシュナムルティがメアリー・ルティエンスへ許可したとのことです。
> > >
> > >  私は、この要素については『クリシュナムルティとは誰だったのか』の本で多くを学んできましたが、クリシュナムルティの身近な人から、更にクリシュナムルティの許可を得て発信された、この要素の記述に感じ入っています。


昔のメアリー・ルティエンスの三部作は読んでいますが、『クリシュナムルティの生と死』は購入していませんが関心が生じました。アリエル・サナト著「クリシュナムルティは誰だったのか」は読みかけになっていたので先に目を通してみます。シャーマニズムについては、私はその実際には触れたことがないに等しいのですが、本は多少読んでいるので少し突っ込んでみましょう。

> > >  この『クリシュナムルティの生と死』では、様々なタイトルの本がでてくるので、あの本もまだ読んでいない、この本もまだ読んでいないと・・、今後読んでみたい本が少なからずあることを知って、気が引き締まる思いです。
> >
> >
> > 興味あるお話、有難うございました。
> >
> > 私のクリシュナムルティに対する関心と探求・精進は自分自身の持つ苦しみ、悲しみが消えるとともに、ほっこりした気分になって先がなくなってしまいました。
>
>
>  そのレベルまで自己理解できるのであれば、クリシュナムルティ理解への取り組みは有意義ということではないでしょうか・・。
>
>  他者へ堂々と勧めることができる取り組み。

そのほっこりとしたときは一人で山登りやハイキング・散歩で、足るを知ると言いますか天国にいるような時期が続きました。だが、何かもっと夢中になってやることが欲しいとか関係を広げたいという気持ちがわいてきたのです。これからが本当の生を生きるという事なのかもしれません。


> > 日曜の晩だったと思いますがテレビでタモリの「人体」とかいう番組を観ました。顕微鏡を初めて作って、細胞というものがあるのを発見した人、レントゲンで人体を透視できることを発見した人、その後にも多くの人が熱中して挑んでいます。これは結果に驚異を感じ、とめどもなくさらに上を見たいという意欲が湧くのでしょう。


>  クリシュナムルティ理解への取り組みの初期の段階での動機は、苦しみ・悲しみへの対処であれ、超常能力への興味・関心であってもかまわないのかもしれません。クリシュナムルティ理解が進むにつれ、真理への探究へと向かう可能性があるように思います。
>
>
> > Kは純粋に精神の持ち方を説いてくれました。如何なる神に跪拝することもなく。これは普遍性の原点の条件の一つです。見るところは、個人的ではありますが、心に浮かぶ欲望、力動、切迫、思考、感情等のすべてです。これは万人が感じ合う可能性を持つというところで普遍性に通じます。
> >
> > 人の心に浮かぶ思いをまとめて欲望と呼び、それを始原の要素として扱い、それ以前はブラックボックスとして分析の対象とはしないと唱える哲学が誕生しました。竹田氏の欲望論とはそう意味を持つものでした。その心に浮かぶ思いは実存(存在ではない)なのです。
> >
> > 今私の手元に普遍宗教への階梯―スワミ・ヴィヴェカーナンダ講演集 大野純一編訳という本があります。だいぶ前からツン読になっていたのですが、普遍宗教をキイワードに拾い読みして見ようかなと思います。
>
>
>  私の場合、哲学や宗教は、「『最優秀観察者』への道」のように思えて、なかなか興味が湧きません。
>  スワミ・ヴィヴェカーナンダのことは未知数ですが・・。

スワミ・ヴィヴェカーナンダはKより古い人ですが、西欧に対して大宗教が別々の神を立てて対立抗争している愚かさ・悲惨を説き、普遍的宗教によって抗争の解消ができないかと言い、ヨーガを紹介した人でした。こういう世界的な見る目を持った先人がいるのですね。

私の独断で省略したところがあります。ご了解ください。


[25208] Re:[25207] [25206] [25205] 「生の書物」を読んで。 投稿者:宮啓 投稿日:2018/04/03(Tue) 13:49  

> >  『生の書物』は私も数年前(初版出版当時)に購入して一読しました。その後、再読もしたと思います。
> >
> >
> >  今、私は、2週間ほど前から『クリシュナムルティの生と死』メアリー・ルティエンス著を読んでいます。今、全ページの半分を過ぎたところです。
>
> 中略
>
> >  更には、クリシュナムルティ自身の陳述では意図的に避けられていたところのシャーマニズム的要素は、その身近な人々には明白に晒されており、その要素が多く盛り込まれています。
> >
> >  また、この要素を世に知らしめることは、クリシュナムルティがメアリー・ルティエンスへ許可したとのことです。
> >
> >  私は、この要素については『クリシュナムルティとは誰だったのか』の本で多くを学んできましたが、クリシュナムルティの身近な人から、更にクリシュナムルティの許可を得て発信された、この要素の記述に感じ入っています。
> >
> >  私はクリシュナムルティについては詳しく知っていると思っていたのですが、よく振り返ってみると60冊程のクリシュナムルティの邦訳本のうち、その半分しか読んでいませんでした。
> >  この『クリシュナムルティの生と死』では、様々なタイトルの本がでてくるので、あの本もまだ読んでいない、この本もまだ読んでいないと・・、今後読んでみたい本が少なからずあることを知って、気が引き締まる思いです。
>
>
> 興味あるお話、有難うございました。
>
> 私のクリシュナムルティに対する関心と探求・精進は自分自身の持つ苦しみ、悲しみが消えるとともに、ほっこりした気分になって先がなくなってしまいました。


 そのレベルまで自己理解できるのであれば、クリシュナムルティ理解への取り組みは有意義ということではないでしょうか・・。

 他者へ堂々と勧めることができる取り組み。


> それで対話の中で私のわかったことを伝えようと思ったのですが、あまり理解されたようには思えなかったのです。
>
> 日曜の晩だったと思いますがテレビでタモリの「人体」とかいう番組を観ました。顕微鏡を初めて作って、細胞というものがあるのを発見した人、レントゲンで人体を透視できることを発見した人、その後にも多くの人が熱中して挑んでいます。これは結果に驚異を感じ、とめどもなくさらに上を見たいという意欲が湧くのでしょう。
>
> 精神性にもそのようなとめどもない興味がわくことはありますが、それは概して超常能力に関係してではないかと思います。


 クリシュナムルティ理解への取り組みの初期の段階での動機は、苦しみ・悲しみへの対処であれ、超常能力への興味・関心であってもかまわないのかもしれません。クリシュナムルティ理解が進むにつれ、真理への探究へと向かう可能性があるように思います。


> Kは純粋に精神の持ち方を説いてくれました。如何なる神に跪拝することもなく。これは普遍性の原点の条件の一つです。見るところは、個人的ではありますが、心に浮かぶ欲望、力動、切迫、思考、感情等のすべてです。これは万人が感じ合う可能性を持つというところで普遍性に通じます。
>
> 人の心に浮かぶ思いをまとめて欲望と呼び、それを始原の要素として扱い、それ以前はブラックボックスとして分析の対象とはしないと唱える哲学が誕生しました。竹田氏の欲望論とはそう意味を持つものでした。その心に浮かぶ思いは実存(存在ではない)なのです。
>
> 今私の手元に普遍宗教への階梯―スワミ・ヴィヴェカーナンダ講演集 大野純一編訳という本があります。だいぶ前からツン読になっていたのですが、普遍宗教をキイワードに拾い読みして見ようかなと思います。


 私の場合、哲学や宗教は、「『最優秀観察者』への道」のように思えて、なかなか興味が湧きません。
 スワミ・ヴィヴェカーナンダのことは未知数ですが・・。


[25207] Re:[25206] [25205] 「生の書物」を読んで。 投稿者:ゴト 投稿日:2018/04/03(Tue) 10:26  

>  『生の書物』は私も数年前(初版出版当時)に購入して一読しました。その後、再読もしたと思います。
>
>
>  今、私は、2週間ほど前から『クリシュナムルティの生と死』メアリー・ルティエンス著を読んでいます。今、全ページの半分を過ぎたところです。

中略

>  更には、クリシュナムルティ自身の陳述では意図的に避けられていたところのシャーマニズム的要素は、その身近な人々には明白に晒されており、その要素が多く盛り込まれています。
>
>  また、この要素を世に知らしめることは、クリシュナムルティがメアリー・ルティエンスへ許可したとのことです。
>
>  私は、この要素については『クリシュナムルティとは誰だったのか』の本で多くを学んできましたが、クリシュナムルティの身近な人から、更にクリシュナムルティの許可を得て発信された、この要素の記述に感じ入っています。
>
>  私はクリシュナムルティについては詳しく知っていると思っていたのですが、よく振り返ってみると60冊程のクリシュナムルティの邦訳本のうち、その半分しか読んでいませんでした。
>  この『クリシュナムルティの生と死』では、様々なタイトルの本がでてくるので、あの本もまだ読んでいない、この本もまだ読んでいないと・・、今後読んでみたい本が少なからずあることを知って、気が引き締まる思いです。


興味あるお話、有難うございました。

私のクリシュナムルティに対する関心と探求・精進は自分自身の持つ苦しみ、悲しみが消えるとともに、ほっこりした気分になって先がなくなってしまいました。

それで対話の中で私のわかったことを伝えようと思ったのですが、あまり理解されたようには思えなかったのです。

日曜の晩だったと思いますがテレビでタモリの「人体」とかいう番組を観ました。顕微鏡を初めて作って、細胞というものがあるのを発見した人、レントゲンで人体を透視できることを発見した人、その後にも多くの人が熱中して挑んでいます。これは結果に驚異を感じ、とめどもなくさらに上を見たいという意欲が湧くのでしょう。

精神性にもそのようなとめどもない興味がわくことはありますが、それは概して超常能力に関係してではないかと思います。
Kは純粋に精神の持ち方を説いてくれました。如何なる神に跪拝することもなく。これは普遍性の原点の条件の一つです。見るところは、個人的ではありますが、心に浮かぶ欲望、力動、切迫、思考、感情等のすべてです。これは万人が感じ合う可能性を持つというところで普遍性に通じます。

人の心に浮かぶ思いをまとめて欲望と呼び、それを始原の要素として扱い、それ以前はブラックボックスとして分析の対象とはしないと唱える哲学が誕生しました。竹田氏の欲望論とはそう意味を持つものでした。その心に浮かぶ思いは実存(存在ではない)なのです。

今私の手元に普遍宗教への階梯―スワミ・ヴィヴェカーナンダ講演集 大野純一編訳という本があります。だいぶ前からツン読になっていたのですが、普遍宗教をキイワードに拾い読みして見ようかなと思います。


[25206] Re:[25205] 「生の書物」を読んで。 投稿者:宮啓 投稿日:2018/04/01(Sun) 08:51  

> J.クリシュナムルティ著「生の書物」を読みました。
>
> 70ページちょっとの小冊子で、スリランカのコロンボでの4回のトーク集ですが、私には実にぴったりと全体がまとめられている感じで、読んでよかったと思います。
>
> 今二度目を1章づつゆっくり読んでいます。読んで深く感じるだけでいいという感じがします。Kの晩年(85歳)の素朴に話された境地を感じます。


 『生の書物』は私も数年前(初版出版当時)に購入して一読しました。その後、再読もしたと思います。


 今、私は、2週間ほど前から『クリシュナムルティの生と死』メアリー・ルティエンス著を読んでいます。今、全ページの半分を過ぎたところです。

 クリシュナムルティの伝記については、『クリシュナムルティ・目覚めの時代』を数年前に読んで、数ページで止まっていました。その後、『実践の時代』『開いた扉』と後2冊続くのです。途方もないページ数に圧倒され止まってしまっていたのです(本は中古本を買って3冊とも揃えていました)。

 それゆえに、クリシュナムルティの伝記は、これまでほとんど読んでいませんでした。

 ネットのどこかのサイトにて、『クリシュナムルティの生と死』に触れる部分を見て、読み始めました。

 これは、先述の3冊組の伝記を1冊にまとめたような本で、又、クリシュナムルティの教えを網羅し集約したようになるようメアリー・ルティエンスによってとりはかられているようです。

 更には、クリシュナムルティ自身の陳述では意図的に避けられていたところのシャーマニズム的要素は、その身近な人々には明白に晒されており、その要素が多く盛り込まれています。

 また、この要素を世に知らしめることは、クリシュナムルティがメアリー・ルティエンスへ許可したとのことです。

 私は、この要素については『クリシュナムルティとは誰だったのか』の本で多くを学んできましたが、クリシュナムルティの身近な人から、更にクリシュナムルティの許可を得て発信された、この要素の記述に感じ入っています。

 私はクリシュナムルティについては詳しく知っていると思っていたのですが、よく振り返ってみると60冊程のクリシュナムルティの邦訳本のうち、その半分しか読んでいませんでした。
 この『クリシュナムルティの生と死』では、様々なタイトルの本がでてくるので、あの本もまだ読んでいない、この本もまだ読んでいないと・・、今後読んでみたい本が少なからずあることを知って、気が引き締まる思いです。


[25205] 「生の書物」を読んで。 投稿者:ゴト 投稿日:2018/03/31(Sat) 13:14  

J.クリシュナムルティ著「生の書物」を読みました。

70ページちょっとの小冊子で、スリランカのコロンボでの4回のトーク集ですが、私には実にぴったりと全体がまとめられている感じで、読んでよかったと思います。

今二度目を1章づつゆっくり読んでいます。読んで深く感じるだけでいいという感じがします。Kの晩年(85歳)の素朴に話された境地を感じます。


[25204] Re:[25203] [25202] [25201] [25200] [25199] [25198] [25197] [25196] 情熱 投稿者:ゴト 投稿日:2018/03/30(Fri) 23:17  

> > 見ることというのは実際に生起する事柄を見ているという事と、その事柄の持つ意味を見るという事があると思います。そこに新しい発見があるとき、それが思考において起こるなら新しい理解があり、行動が発生し、知識となるという具合に因果的連鎖、運動が起こります。
> > しかし、それが感受性による時、意味を見ることは理解(=洞察、直観)であり、感受性の変化(=変容?)であり、これらは因果的連鎖、過程ではないように思います。
> >
> > 感受性は感情とはちょっと違うし、情緒という言葉が近いかな、生の本源的な感受で全体性を持つのかもしれません。
>
>
>  このような場面において、クリシュナムルティの陳述が鏡となっているように感じます。その陳述を受け入れるのではなく、見ることの中で、起こっていることがクリシュナムルティの陳述がこれではないか・・と感じ入る。

見ることは実際にやってみることで、各人が試し、調べ、確かめ合うことができるとクリシュナムルティは言います。これはとても重大なことだと思います。そういう意味は普遍性を得る可能性を示しているからです。物理学と同じ意味があります。既成宗教では神や教祖に対する帰依という事があって、すべてを疑う自由がありません。もちろん自分の経験や信念に束縛されずに見ること―自由が必要ですが、自由は、自由に疑う事ができるという事も大事ですね。


> > >  言葉で指し示すことができないことを、言葉によって意思疎通する。テクニカル的な難問ということではないでしょうか。「実存」の言葉も含めて。
> >
> > 思考から思考へ伝達するときは言葉は機械的情報としてその定義が大変です。
> > しかし、感受性から感受性に伝達するときは、その都度発信者の気持ちの表現として創造的に言葉が発せられ、しかも創造的に受け取られます。こういう話の方が面白いのですが、思考のコンピューターふうなやり取りも重要です。公文書ですら、他人は感性を働かせて読みますから神経を使いますね。
>
>
>  クリシュナムルティは聴くアート(芸術)・見るアートと述べていますね・・。言葉を超えた意思疎通は奇跡的な事柄かもしれません。。


聴くアート(芸術)・見るアートは少し議論がいるかもしれません。
メロディを聴いている時、短時間ではあるが音の変化を聴いているわけですが、そこに時間という感覚はなくやはり今の中にあり、そこに興趣というか感じる印象があるでしょう。それが流れるように進んでいくわけです。その間注意というか、無意識をを含めてのトータルな意識のホーカスが結ばれているわけです。

Kの話しを聴くのも同様で、それが心という基盤(感受性もその一部か全部に近いのか)に届き、何らかの感応を起こすのかもしれません。昔Kは種を蒔かさせて下さいというふうに言いました。それが心の深層から顕在意識まで育って理解となると、自分の理解として会話できるようになるのかも。。


[25203] Re:[25202] [25201] [25200] [25199] [25198] [25197] [25196] 情熱 投稿者:宮啓 投稿日:2018/03/30(Fri) 10:38  

> > > 感受性が見て違う何かを新たに感じ取った時、感受性の変化(成長?、ミニ変容?)が起こるわけですが、それは後戻りしないように思います。嫉妬が、あるいは所有欲がやまるという事はすごく大きく、ミニ変容と言う資格はあると思うのですが。ただしそれが起こるには見ることの純粋さ、本当さがいります。
> >
> >
> >  はい。一般ピープルにとっては偶然の変容は一時的で時間の流れの中に飲み込まれてゆくのでしょうが、自己理解が進んでいる人にとっては、>自我が寂滅する速度よりも、時と共に自我が増長するスピードの方がより大きい−−、これはないように思います。
> >
> >  それゆえに、いかに「理解することが重要」であるのかということに感じます。
>
>
> 見ることというのは実際に生起する事柄を見ているという事と、その事柄の持つ意味を見るという事があると思います。そこに新しい発見があるとき、それが思考において起こるなら新しい理解があり、行動が発生し、知識となるという具合に因果的連鎖、運動が起こります。
> しかし、それが感受性による時、意味を見ることは理解(=洞察、直観)であり、感受性の変化(=変容?)であり、これらは因果的連鎖、過程ではないように思います。
>
> 感受性は感情とはちょっと違うし、情緒という言葉が近いかな、生の本源的な感受で全体性を持つのかもしれません。


 このような場面において、クリシュナムルティの陳述が鏡となっているように感じます。その陳述を受け入れるのではなく、見ることの中で、起こっていることがクリシュナムルティの陳述がこれではないか・・と感じ入る。


> 思考と感受性が二元的に感じられ、気になるのですが、ひょっとすると言葉の二重性もこれに絡んでいるのだろうか?
>
> >
> >  坐禅は、この自己理解が不十分ということではないでしょうか。ブッダから2千5百年経過したということで、不十分は避けえない。これに対して、クリシュナムルティ理解への取り組みは、直接の記述が保存されている。
> >
> >
> > > > > 近隣では、小規模の範囲では了解が成立するでしょうが、二人の間でもどうしても分かり合えないという人もいるし、規模の大きい集団や、共同体・国家間ではどのようにして相互了解が成立するか、それはどういう目で見ればいいかも調べてみたいと思っています。
> > > >
> > > >
> > > >  思考の範囲内での「相互了解」と思考を超えた「相互了解」があるように思います。
> > > >
> > > >  思考を超えた「相互了解」があるときに、思考の範囲内での「相互了解」が自ずと確立するのかもしれません。。
> > >
> > > そう、多くの言葉には何かの二重性があるようです。光と影のような。「見る」にしても、光が射すようなものと影の中にいるようなものと。愛にも自我のない愛と、愛憎の愛がありますね。これは新しい芽さんに教わりました。しかしなぜかと問うほど私はまだ成長していませんでした。
> >
> >
> >  言葉で指し示すことができないことを、言葉によって意思疎通する。テクニカル的な難問ということではないでしょうか。「実存」の言葉も含めて。
>
> 思考から思考へ伝達するときは言葉は機械的情報としてその定義が大変です。
> しかし、感受性から感受性に伝達するときは、その都度発信者の気持ちの表現として創造的に言葉が発せられ、しかも創造的に受け取られます。こういう話の方が面白いのですが、思考のコンピューターふうなやり取りも重要です。公文書ですら、他人は感性を働かせて読みますから神経を使いますね。


 クリシュナムルティは聴くアート(芸術)・見るアートと述べていますね・・。言葉を超えた意思疎通は奇跡的な事柄かもしれません。。


[25202] Re:[25201] [25200] [25199] [25198] [25197] [25196] 情熱 投稿者:ゴト 投稿日:2018/03/29(Thu) 23:57  

> > 感受性が見て違う何かを新たに感じ取った時、感受性の変化(成長?、ミニ変容?)が起こるわけですが、それは後戻りしないように思います。嫉妬が、あるいは所有欲がやまるという事はすごく大きく、ミニ変容と言う資格はあると思うのですが。ただしそれが起こるには見ることの純粋さ、本当さがいります。
>
>
>  はい。一般ピープルにとっては偶然の変容は一時的で時間の流れの中に飲み込まれてゆくのでしょうが、自己理解が進んでいる人にとっては、>自我が寂滅する速度よりも、時と共に自我が増長するスピードの方がより大きい−−、これはないように思います。
>
>  それゆえに、いかに「理解することが重要」であるのかということに感じます。


見ることというのは実際に生起する事柄を見ているという事と、その事柄の持つ意味を見るという事があると思います。そこに新しい発見があるとき、それが思考において起こるなら新しい理解があり、行動が発生し、知識となるという具合に因果的連鎖、運動が起こります。
しかし、それが感受性による時、意味を見ることは理解(=洞察、直観)であり、感受性の変化(=変容?)であり、これらは因果的連鎖、過程ではないように思います。

感受性は感情とはちょっと違うし、情緒という言葉が近いかな、生の本源的な感受で全体性を持つのかもしれません。

思考と感受性が二元的に感じられ、気になるのですが、ひょっとすると言葉の二重性もこれに絡んでいるのだろうか?

>
>  坐禅は、この自己理解が不十分ということではないでしょうか。ブッダから2千5百年経過したということで、不十分は避けえない。これに対して、クリシュナムルティ理解への取り組みは、直接の記述が保存されている。
>
>
> > > > 近隣では、小規模の範囲では了解が成立するでしょうが、二人の間でもどうしても分かり合えないという人もいるし、規模の大きい集団や、共同体・国家間ではどのようにして相互了解が成立するか、それはどういう目で見ればいいかも調べてみたいと思っています。
> > >
> > >
> > >  思考の範囲内での「相互了解」と思考を超えた「相互了解」があるように思います。
> > >
> > >  思考を超えた「相互了解」があるときに、思考の範囲内での「相互了解」が自ずと確立するのかもしれません。。
> >
> > そう、多くの言葉には何かの二重性があるようです。光と影のような。「見る」にしても、光が射すようなものと影の中にいるようなものと。愛にも自我のない愛と、愛憎の愛がありますね。これは新しい芽さんに教わりました。しかしなぜかと問うほど私はまだ成長していませんでした。
>
>
>  言葉で指し示すことができないことを、言葉によって意思疎通する。テクニカル的な難問ということではないでしょうか。「実存」の言葉も含めて。

思考から思考へ伝達するときは言葉は機械的情報としてその定義が大変です。
しかし、感受性から感受性に伝達するときは、その都度発信者の気持ちの表現として創造的に言葉が発せられ、しかも創造的に受け取られます。こういう話の方が面白いのですが、思考のコンピューターふうなやり取りも重要です。公文書ですら、他人は感性を働かせて読みますから神経を使いますね。


[25201] Re:[25200] [25199] [25198] [25197] [25196] 情熱 投稿者:宮啓 投稿日:2018/03/29(Thu) 09:31  

> > > > > 情熱というのは人間の内側のエネルギーが、何かに向かって多量に流れることなのだろうが、それは個人においてはどのような時に起こるのだろうか?
> > > > >
> > > > > 私は自分の体験を踏まえながら、クリシュナムルティの説くところに向かって、どういう時、情熱が生まれるかを考えてみたいのです。人によってさまざまでしょうが、それは一種の(聖なる)狂気、忘我の状態、世間的な損得・名声を顧みないで上を目指すといった感じではないでしょうか。
> > > > >
> > > > > それでKの本を読む、聴く。それがすでに忘我、あるいは瞑想の状態で聞くことであるし、生活の場面場面でそのように見る、聴く、知覚する、あるいは気づいているという情熱がすべてではないかと思います。それが示唆されたからそうすることは極めて困難であって、いつの間にか自ずとそうしているという事でしょう。
> > > > >
> > > > > このように日常の生活で見ているには大きな情熱がいります。しかし実際はそうはいきません。大きな葛藤、抗争があるときは見ます。それがなくなると何をしていいかわかりません。家の秩序はどうなっているかって?、まあ、こんなものではないでしょうか?
> > > > >
> > > > > それで真・善・美の確かな立脚点は何か、「本当」とはどういうことか調べました。それは次回報告します。
> > > >
> > > >
> > > >  動物が有する情熱。
> > > >
> > > >  人はこれにプラスして観念による情熱があるように思います。
> > > >
> > > >  クリシュナムルティ理解への取り組みも、その入り口においては上記の情熱がモチベーションとなるように思います。
> > > >
> > > >  そして理解が進むにつれ、暗黒が直視できるようになるように思います。
> > > >
> > > >  暗黒が直視できないのは、観念の光(理想・友愛・無償の愛等々)によって照らされているからではないでしょうか・・。
> > > >
> > > >  観念の光によって照らされた世界では、人は「光」を求めることがあるのでしょうか・・。
> > > >
> > > >  人が「光」を求めるのは、暗黒であることに目覚めて初めて取り組むことができるように思います。
> > > >
> > > >  クリシュナムルティ理解への取り組みに多くの人が関心を示さないのは、その観念の光ゆえではないでしょうか・・。
> > > >
> > > >  真理を求める情熱とは、目覚めて「暗黒」が「本当」であると理解したときに、クリシュナムルティの示唆があるが故に、光を求めることを諦めない情熱ということではないでしょうか・・。
> > >
> > >
> > > 私の言葉の足りない文にレスをくださってありがとうございます。
> > >
> > > おっしゃる通り、理性的・観念的な取り組みではあるべきとか、〜すべきが入り込み、なかなかというところがありそうです。なんというか、理屈抜きでの実存的な心身一体での取り組みが必要でしょう。
> > >
> > > ですが実存的に取り組んでも、そこに自己中心性が何かしらある時、関係の中にならかの葛藤・対立・苦悩があります。例えば恋愛の中にも恍惚だけでなく、支配欲、嫉妬、不安が入り込みます。それらが何かでふっと見られ解消するとき、自己中心性(暗黒)の当面の課題が消え、変容?があるのでしょうか。
> >
> >
> >  「実存」という言葉が気になっています。クリシュナムルティを読み込んでいる者は、上記の記述の意味をくみ取ることができるのですが・・、クリシュナムルティに取り組んでいないが実存哲学を知っている者にとっては、「実存」の意味を取り違えて解釈するのでは・・と気になっています。
> >
> >  実存哲学の「実存」とクリシュナムルティの「生」とは、別ものではないでしょうか。。
> >
> >  そのような混同を避けるため、私なら「実存」の言葉を用いないと思います。
> >
>
> そうですね。私も今読んで実存という言葉がいきなり登場して違和感があります。しかし今、その実際の状況を具体的に言い表そうとするとどうなりますか、頭でなく、マインド&ハートでとか、感受性の目でとかいう事になりますが、短く言うと見るでいいのですがちょっと物足りない。
>
> > > たぶん、人は多かれ少なかれ、このようなことを少なくとも小規模で味わったことがあるでしょう。そうして個人的にも他者とも愛、了解を持っていくのでしょう。この、自己中心性なく見、聴き、知覚している、対象との分離のない心身一体の境地がすべての基盤なのかもしれません。
> >
> >
> >  その境地が基盤であることは了解ですが、その小さな変容によって自我が寂滅する速度よりも、時と共に自我が増長するスピードの方がより大きいように感じています。
>
> 感受性が見て違う何かを新たに感じ取った時、感受性の変化(成長?、ミニ変容?)が起こるわけですが、それは後戻りしないように思います。嫉妬が、あるいは所有欲がやまるという事はすごく大きく、ミニ変容と言う資格はあると思うのですが。ただしそれが起こるには見ることの純粋さ、本当さがいります。


 はい。一般ピープルにとっては偶然の変容は一時的で時間の流れの中に飲み込まれてゆくのでしょうが、自己理解が進んでいる人にとっては、>自我が寂滅する速度よりも、時と共に自我が増長するスピードの方がより大きい−−、これはないように思います。

 それゆえに、いかに「理解することが重要」であるのかということに感じます。

 坐禅は、この自己理解が不十分ということではないでしょうか。ブッダから2千5百年経過したということで、不十分は避けえない。これに対して、クリシュナムルティ理解への取り組みは、直接の記述が保存されている。


> > > 近隣では、小規模の範囲では了解が成立するでしょうが、二人の間でもどうしても分かり合えないという人もいるし、規模の大きい集団や、共同体・国家間ではどのようにして相互了解が成立するか、それはどういう目で見ればいいかも調べてみたいと思っています。
> >
> >
> >  思考の範囲内での「相互了解」と思考を超えた「相互了解」があるように思います。
> >
> >  思考を超えた「相互了解」があるときに、思考の範囲内での「相互了解」が自ずと確立するのかもしれません。。
>
> そう、多くの言葉には何かの二重性があるようです。光と影のような。「見る」にしても、光が射すようなものと影の中にいるようなものと。愛にも自我のない愛と、愛憎の愛がありますね。これは新しい芽さんに教わりました。しかしなぜかと問うほど私はまだ成長していませんでした。


 言葉で指し示すことができないことを、言葉によって意思疎通する。テクニカル的な難問ということではないでしょうか。「実存」の言葉も含めて。


[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20] [21] [22] [23] [24] [25] [26] [27] [28] [29] [30] [31] [32] [33] [34] [35] [36] [37] [38] [39] [40] [41] [42] [43] [44] [45] [46] [47] [48] [49] [50] [51] [52] [53] [54] [55] [56] [57] [58] [59] [60] [61] [62] [63] [64] [65] [66] [67] [68] [69] [70] [71] [72] [73] [74] [75] [76] [77] [78] [79] [80] [81] [82] [83] [84] [85] [86] [87] [88] [89] [90] [91] [92] [93] [94] [95] [96] [97] [98] [99] [100]

処理 記事No 暗証キー
- LightBoard - Modified by isso