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[25815] Re:[25814] 既知からの自由9−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/21(Tue) 17:52  

> 9章ー1[時間・悲しみ]
>
> 神のところに行き、真理を教えてほしいと頼んだある偉大な使徒についての話しを繰り返してみたいのです。この哀れな神はこう言いました。「友よ、今日はとても暑い、どうか私に水を一杯持ってきて下さらんか」そこで使徒は出かけて行き、出くわした最初の家の戸を叩くと、若い美しい女性が戸を開けました。使徒は彼女と恋に落ち、結婚して数人の子供をもうけました。そしてある日雨が降り始め、降って、降って、降り続けたのです ― 激流がふくれあがり、町はあふれ、家は流されました。使徒は妻に掴まり肩に子供をかついで、押し流されながら叫びました。「神よ、どうかお助け下さい」すると神は言いました。「私が頼んだ水はどこだね?」

この話は私には面白みがわかりません。

>  私たちの多くは時間の見地から考えるので、これはなかなか良い物語です。人間は時間によって生きています。未来を案出するのは人間の好む逃避のゲームです。

女性が出てきて恋に落ち、子供も受け洪水にあっての話は使徒の束の間の白昼夢だったのでしょうか? そうでもしないと意味が分かりません。

>  自分たちの中の変化は時間の中で起こることができ、自分たちの中の秩序は少しづつ築かれ、日に日に付け加えられることができると私たちは考えます。しかし時間は秩序あるいは平和をもたらしません。そこで私たちは徐々にという見地から考えることをやめなければなりません。このことは私たちにとって平和でいられるはずの明日などないということです。この瞬間秩序正しくなければなりません。

時間は実際には心理的な白昼夢と限らず、例えば一晩考えるのを脇に置いて平和に寝ると頭が静まって明晰になり、いい考えが浮かびます。自分だけでなく関係するほかの人々にもそういう事が起こる可能性が大いにあります。しかしそういう事ではなく妄想して過ごす時間は全くのロスでしかないという事と考えればいいのでしょうか? 確かに正気のつもりでいるが妄想をしていた期間があるという事はあって、それは確かに問題です。

>  本当の危険があるとき時間は消えます。そうではないでしょうか? 即座の行為があります。しかし私たちは自分の多くの危険を見ないので、それらを克服する手段として時間を考え出します。時間は、私たちの中に変化をもたらすのを助けることは何もしないので、人をだますものです。時間は一つの動きであって、それを人間が過去、現在、未来に分けたのです。分けている限り人間はいつも争いの中にいるでしょう。

確かに人は自分の危険に気が付けないでいるらしいです。それで夏休みには子供と海に行ったりします。これは白昼夢なのかな、いや女性に見とれていた時間もあるでしょうが、子供と波を共にかぶったのはリアルなものでしょう。という事で、過去現在未来に分けているのは道を横断するとき、自動車の予測をして渡ります。これは思考なのかな、見て分かるうちに入るのかな? やはり判断があるようです。
 分けている限り争いの中にいる? ちょっとこれだけではわかりません。


>  学ぶことは時間の問題でしょうか? 私たちはこの数千年、結局、お互いに憎み殺しあう以外によりよい生き方があることを学びませんでした。今のように恐ろしくまた無意味にするのを助長してきたこの生を解決するつもりならば、時間の問題は理解すべき非常に重要なものの一つです。
>
>  まず最初に理解することは、すでに検討してきた新鮮で無垢な心でのみ、時間を見ることができるということです。私たちは多くの問題で混乱し、その混乱の中で迷っています。さて森の中で迷ったなら、最初にすることは何でしょう? 立ち止まるのではないでしょうか? 立ち止まって見回します。しかし混乱して生に迷えば迷うほど、私たちはますます捜し、尋ね、求め、懇願しながら走り回ります。そこでまず第一にすることは、示唆させて貰うなら、内的に完全に立ち止まることです。そして内的に、心理的に立ち止まるとき、心はとても平和に、とても明晰になります。その時この時間の問題を本当に見ることができます。

静かに騒いでいない心でいるのと無垢がどうつながるかはよくわかりませんが、見ることができるためにはある落ち着きがいるのは確かです。

>  問題は時間の中にのみ、すなわち物事に不完全に出会うときにのみ存在します。この不完全に物事に出会うことが問題を作り出します。挑戦に部分的に、断片的に出会ったり、それから逃げようとするとき ― つまり、完全な注意なしにそれと出会うとき ― 私たちは問題を引き起こすのです。そして問題に不完全な注意を払い続ける限り、そのうち解決するだろうと思っている限り、問題は続きます。

物事に不完全に出会うと問題が起こることはそうに決まっています。不完全に出会うときとは心が騒いでいる時、つまり心理的時間の中にいる時という事のようです。

>  時間とは何か知っていますか? 時計による時間や、年代的な時間ではなく、心理的な時間を知っていますか? それは考えと行為の間の間隔です。考えは明らかに自己防衛のためのものであって、それは安全であることについての考えです。行為は常に即座です。それは過去のものでも未来のものでもありません。行為はいつも現在になければなりませんが、行為はとても危険で不確かなので、そのためある安全を与えてくれると思う考えに従うのです。

つまり人間は動物と違って咄嗟に出る行動を、新たに遺伝子の突然変異で出来た意識で、安全のために一瞬確認し、その判断を持って行動するようになりました。サピエンスは体がそうなっています。この事は自動車と横断歩道、交通信号という文明形態をもたらしました。もちろん、陰の部分を伴うでしょう。

>  このことを自分自身の中で見ること。あなたは正しいあるいは間違っているという考え、あるいは自分自身と社会についてイデオロギー的な概念を持っています。そしてその概念にしたがって行動しようとします。それゆえ行為はその考えにしたがったものであり、その考えに近づけたもので、そのためいつも争いがあります。考えがあり、間隔があり、行為があります。そしてその間隔の中に時間の全領域があります。その間隔は本質的に思考です。明日は幸せだろうと考える時、ある結果をそのうちに達成する自分自身のイメージを持っています。思考は、観察を通し、欲望と一層の思考によって維持されるその欲望の継続を通して、こう言います。「明日は幸せになるだろう。明日は成功するだろう。明日世界は美しい場所になるだろう」 このように思考は間隔をつくり、その間隔は時間です。

時間は思考をする間隔(合間)ですか。そうならこの思考が一方で問題を起こしていると言えばいいように思いますが、なぜ時間が出てくるのでしょうか?

>  さて、私たちは問うています。時間を止めることはできるでしょうか?思考にとって考えるべき明日がないほど完全に生きることができるでしょうか? なぜなら時間は悲しみだからです。すなわち昨日または千日も前に、あなたは愛し、あるいは亡くなった友がいました。その記憶は残りあなたはその快とその痛みについて考えています ― 振り返り、願い、望み、悔やみます。そのように思考は、それを何度も何度も繰り返し、私たちが悲しみと呼ぶこのものを生じさせ、時間に継続を与えます。

悲しみに継続を与える。思考はそうします。思考はいろいろなことを思い継続させ、それはどうしようもない、生きたとは言えない時間なのでしょうか?

>  思考によって育てられてきたこの時間の間隔がある限り、悲しみがあり、恐怖が続くに違いありません。そこでこの間隔は終わり得るかと自分に尋ねます。もし「いったいそれは終わるだろうか?」と言うなら、それはすでに考えであり、自分が成し遂げたいと思う何かであり、それゆえ間隔があり、再び捉えられているのです。

思考の持つマイナス面が時間と結びつけて述べられているように読みました。そのマイナス面が理解できるように浮かび上がっているとは思いません。

> (続く)


[25814] 既知からの自由9−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/20(Mon) 15:39  

9章ー1[時間・悲しみ]

神のところに行き、真理を教えてほしいと頼んだある偉大な使徒についての話しを繰り返してみたいのです。この哀れな神はこう言いました。「友よ、今日はとても暑い、どうか私に水を一杯持ってきて下さらんか」そこで使徒は出かけて行き、出くわした最初の家の戸を叩くと、若い美しい女性が戸を開けました。使徒は彼女と恋に落ち、結婚して数人の子供をもうけました。そしてある日雨が降り始め、降って、降って、降り続けたのです ― 激流がふくれあがり、町はあふれ、家は流されました。使徒は妻に掴まり肩に子供をかついで、押し流されながら叫びました。「神よ、どうかお助け下さい」すると神は言いました。「私が頼んだ水はどこだね?」

 私たちの多くは時間の見地から考えるので、これはなかなか良い物語です。人間は時間によって生きています。未来を案出するのは人間の好む逃避のゲームです。

 自分たちの中の変化は時間の中で起こることができ、自分たちの中の秩序は少しづつ築かれ、日に日に付け加えられることができると私たちは考えます。しかし時間は秩序あるいは平和をもたらしません。そこで私たちは徐々にという見地から考えることをやめなければなりません。このことは私たちにとって平和でいられるはずの明日などないということです。この瞬間秩序正しくなければなりません。

 本当の危険があるとき時間は消えます。そうではないでしょうか? 即座の行為があります。しかし私たちは自分の多くの危険を見ないので、それらを克服する手段として時間を考え出します。時間は、私たちの中に変化をもたらすのを助けることは何もしないので、人をだますものです。時間は一つの動きであって、それを人間が過去、現在、未来に分けたのです。分けている限り人間はいつも争いの中にいるでしょう。


 学ぶことは時間の問題でしょうか? 私たちはこの数千年、結局、お互いに憎み殺しあう以外によりよい生き方があることを学びませんでした。今のように恐ろしくまた無意味にするのを助長してきたこの生を解決するつもりならば、時間の問題は理解すべき非常に重要なものの一つです。

 まず最初に理解することは、すでに検討してきた新鮮で無垢な心でのみ、時間を見ることができるということです。私たちは多くの問題で混乱し、その混乱の中で迷っています。さて森の中で迷ったなら、最初にすることは何でしょう? 立ち止まるのではないでしょうか? 立ち止まって見回します。しかし混乱して生に迷えば迷うほど、私たちはますます捜し、尋ね、求め、懇願しながら走り回ります。そこでまず第一にすることは、示唆させて貰うなら、内的に完全に立ち止まることです。そして内的に、心理的に立ち止まるとき、心はとても平和に、とても明晰になります。その時この時間の問題を本当に見ることができます。

 問題は時間の中にのみ、すなわち物事に不完全に出会うときにのみ存在します。この不完全に物事に出会うことが問題を作り出します。挑戦に部分的に、断片的に出会ったり、それから逃げようとするとき ― つまり、完全な注意なしにそれと出会うとき ― 私たちは問題を引き起こすのです。そして問題に不完全な注意を払い続ける限り、そのうち解決するだろうと思っている限り、問題は続きます。

 時間とは何か知っていますか? 時計による時間や、年代的な時間ではなく、心理的な時間を知っていますか? それは考えと行為の間の間隔です。考えは明らかに自己防衛のためのものであって、それは安全であることについての考えです。行為は常に即座です。それは過去のものでも未来のものでもありません。行為はいつも現在になければなりませんが、行為はとても危険で不確かなので、そのためある安全を与えてくれると思う考えに従うのです。

 このことを自分自身の中で見ること。あなたは正しいあるいは間違っているという考え、あるいは自分自身と社会についてイデオロギー的な概念を持っています。そしてその概念にしたがって行動しようとします。それゆえ行為はその考えにしたがったものであり、その考えに近づけたもので、そのためいつも争いがあります。考えがあり、間隔があり、行為があります。そしてその間隔の中に時間の全領域があります。その間隔は本質的に思考です。明日は幸せだろうと考える時、ある結果をそのうちに達成する自分自身のイメージを持っています。思考は、観察を通し、欲望と一層の思考によって維持されるその欲望の継続を通して、こう言います。「明日は幸せになるだろう。明日は成功するだろう。明日世界は美しい場所になるだろう」 このように思考は間隔をつくり、その間隔は時間です。

 さて、私たちは問うています。時間を止めることはできるでしょうか?思考にとって考えるべき明日がないほど完全に生きることができるでしょうか? なぜなら時間は悲しみだからです。すなわち昨日または千日も前に、あなたは愛し、あるいは亡くなった友がいました。その記憶は残りあなたはその快とその痛みについて考えています ― 振り返り、願い、望み、悔やみます。そのように思考は、それを何度も何度も繰り返し、私たちが悲しみと呼ぶこのものを生じさせ、時間に継続を与えます。

 思考によって育てられてきたこの時間の間隔がある限り、悲しみがあり、恐怖が続くに違いありません。そこでこの間隔は終わり得るかと自分に尋ねます。もし「いったいそれは終わるだろうか?」と言うなら、それはすでに考えであり、自分が成し遂げたいと思う何かであり、それゆえ間隔があり、再び捉えられているのです。

(続く)


[25813] Re:[25812] 抽象的 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/18(Sat) 12:24  

クリシュナムルティ関連の文献を読み、人を見てきたが、見事に10人が10人見解が別れる。統一的なものがない。訳者もそれぞれ違う。
> 試しにKをネットで検索してみればわかる。
>
> たとえばの話
> 空間に出会う、自由に出会う、人に尋ねると10人とも違う。
> だから他のところへうつってしまう。


確かに見解が分かれるというのはその通りだと思う。しかし大宗教を見るとものすごい数の人が信じている。ところがそれはいい加減でもあり、まじめに教えを追及すると実に数多くの諸派に分かれる。なぜなのだろう?

大体人は物理学だってろくに知りはしないのだが信用している。新幹線や高層ビルを怖がる人は少ないと思う。Kの言っているのは一体何かというといわゆる宗教や哲学、思想とは言いにくいことで、これが民主主義のように共同的な理解、信用を得るためにはかなりの時間がいるというと拒否反応を示されてしまうかもしれないので正確に言うと、かなりの探求実践とその紹介本の普及がないとだめだろう。何よりも日常生活の実践の中で理解を得た人がその社会的意義をはっきり書いて著名人として世界に知られることが必要でしょう。

Kの本だけではなく、正確な理解の上に立って現代社会でクリシュナムルティ理解の実際と持つ意義を自分の言葉で書ける人が! とまあ私はそう思っています。凡人はあるがままの自分と共に生きることができるところまでお墓が待ってくれれば十分でしょうか。


[25812] 抽象的 投稿者:無明 投稿日:2018/08/18(Sat) 11:00  

いずれ出てくるが、11章の最後の方でも、空間に出会う、というような抽象的な言葉をいって、聴衆を煙に巻いている。今回は自由に出会う、意識の領域を超えた存在。
こうした抽象的な言葉を聴く人は、各自のイメージを乱発させる。よく出てくる「あるがまま」というのもそう。
あえて抽象的なことをいって、聞いた人間の判断に委ねるということか。そうすると混乱を呼ぶ。
クリシュナムルティ関連の文献を読み、人を見てきたが、見事に10人が10人見解が別れる。統一的なものがない。訳者もそれぞれ違う。
試しにKをネットで検索してみればわかる。

たとえばの話
空間に出会う、自由に出会う、人に尋ねると10人とも違う。
だから他のところへうつってしまう。


[25811] 無私の精神 投稿者:無明 投稿日:2018/08/18(Sat) 08:29  

行方不明だった2歳児を発見した「スーパーボランティア」の方には驚かされた。脱帽。65歳で、仕事をリタイアし、その後は日本各地で起きる災害のボランティア活動をしているという。まさに「お返しの人生」。お客様のおかげで、今の自分がある。無私の精神とはまさにこのことだろう。
仕事というのは魚屋ということだが、お客様が魚を買ってくださるおかげで、今の自分がある。こういう考え方があるとは思わなかった。
商売というのは、人様のお陰で成り立つと。
人間とはどう思うか、どのように考えるかで、その人のスタンスがきまる。





[25810] Re:[25809] 自由 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/17(Fri) 22:00  

> >  次の質問はその自由を意識することが出来るかということです。「私は自由だ」と言うなら、そのとき自由ではありません。それは「私は幸福だ」と言っている人のようなものです。「私は幸福だ」と言う瞬間、過ぎ去ったものの記憶の中で生きているのです。自由はただ自然に生じ得るのみであって、願い、望み、求めることによってではありません。またそれが自由だと考えるイメージを創り出すことによっては見いだせません。
>
> ここまではわかります。人は幸福のとき、わざわざ「自分は幸福だ」とは意識しない。
> 人は悩み苦しみの時、「自己」を強く意識する。
> 普通の生活では、とりたて「自己」を意識しない。
>
> >自由と出会うには、心は生を見ることを学ばねばならず、それは時間の束縛のない広大な動きです。
>
> 次に何で自由と出会う話になるのか。
> 時間の束縛のない広大な動きといわれるが、それはあなたのイメージか。
> 宇宙は確かに広い。それは比較したからだ。

自由と出会う、どういうころなんでしょうね、出会うという事は?
 たぶん、見ている中で、自分の心の状態がたまたま自由であるとき、自由と出会ったという事になるのでしょうね。

> >なぜなら、自由は意識の領域を超えて存在するからです。
>
> ピンとこない。自由を「神」に置き換えれば、何となくわかる気がする。意識の領域を超えて存在する、のは神。

ええ、意識の領域にはないと言うなら出会ったと意識することもないはずですが、それがわかるというのは意識の領域を超えて見ているところにいるからでしょうね。

> 自由は存在するとはどういうことか?
> 自由は「ある」とか「ない」とは、いったものではない。あくまで心の中でのもの。

自分の心の中でわかるわけですが、意識の領域、記憶、思考の領域を超えたところで観えて分かるもんでしょうか。

> マンデラ曰く、たとえ牢獄に入れられようとも、私の心は自由である。
>
>
> >意識の領域を超える。・・・
>
> 我々は、生きて死ぬまで、時間空間の中で生きている。
> その生きている中で、時間の網から脱するというのは不可能ではないか。というのが普通の捉え方。

はい。

> 意識の領域を超えるというのは、インドの迷信、あるいは聖者覚者の妄想ではないのか、とか物理学者に疑われるだろう。
> 古来の神智学では、意識を超えた領域とは、「霊界」を指す。
> いわば脳内現象の領域。
>
>
> >意識の領域を超える。
> Kのいう自由とは、意識できないもの。大野さんによれば、時間通常の領域を超えた「全一」の感覚。いわばアローンネス。
> .
> 結局Kは、「それ」になれと我々に提唱しているのだろうか。

私はそのような言い方では神秘的というか、象徴界というか、心の単なる創造物と見分けがつかなくなるので、見て分かる、(悟る)ことに固執します。平たく言えば、それを証拠、立脚点とするという事ですね。結局は先入観も偏見もなしに見ているという事ですね。

個人が覚者になれという事ではなく、社会の中にある共同的主観あるいは共同的幻想(一例をあげれば人種差別とか)から人間が解放される、自由になるという事でしょうか?

この頃夏バテ気味ですか皆さんの元気をもらって頑張ります。


[25809] 自由 投稿者:無明 投稿日:2018/08/17(Fri) 10:41  


>  次の質問はその自由を意識することが出来るかということです。「私は自由だ」と言うなら、そのとき自由ではありません。それは「私は幸福だ」と言っている人のようなものです。「私は幸福だ」と言う瞬間、過ぎ去ったものの記憶の中で生きているのです。自由はただ自然に生じ得るのみであって、願い、望み、求めることによってではありません。またそれが自由だと考えるイメージを創り出すことによっては見いだせません。

ここまではわかります。人は幸福のとき、わざわざ「自分は幸福だ」とは意識しない。
人は悩み苦しみの時、「自己」を強く意識する。
普通の生活では、とりたて「自己」を意識しない。

>自由と出会うには、心は生を見ることを学ばねばならず、それは時間の束縛のない広大な動きです。

次に何で自由と出会う話になるのか。
時間の束縛のない広大な動きといわれるが、それはあなたのイメージか。
宇宙は確かに広い。それは比較したからだ。

>なぜなら、自由は意識の領域を超えて存在するからです。

ピンとこない。自由を「神」に置き換えれば、何となくわかる気がする。意識の領域を超えて存在する、のは神。

自由は存在するとはどういうことか?
自由は「ある」とか「ない」とは、いったものではない。あくまで心の中でのもの。
マンデラ曰く、たとえ牢獄に入れられようとも、私の心は自由である。


>意識の領域を超える。・・・

我々は、生きて死ぬまで、時間空間の中で生きている。
その生きている中で、時間の網から脱するというのは不可能ではないか。というのが普通の捉え方。
意識の領域を超えるというのは、インドの迷信、あるいは聖者覚者の妄想ではないのか、とか物理学者に疑われるだろう。
古来の神智学では、意識を超えた領域とは、「霊界」を指す。
いわば脳内現象の領域。


>意識の領域を超える。
Kのいう自由とは、意識できないもの。大野さんによれば、時間通常の領域を超えた「全一」の感覚。いわばアローンネス。
.
結局Kは、「それ」になれと我々に提唱しているのだろうか。


[25808] Re:[25807] 孤立と孤独 投稿者:無明 投稿日:2018/08/17(Fri) 10:06  

> 大野龍一著「既知からの自由」93ページ
>
> 訳注
>
> 彼は別のところでは孤立isolationと孤独solitudeを一緒にし、それはalonenessとは別だと言っている。(たとえば「生と出会う」48頁)
> だから言葉それ自体にこだわる人にはクリシュナムルティは混乱して見えるかも知れないが、文脈からは明白である。
> 彼は個人の意識は人類の意識だといい、それを巨大な流れthe Streamにたとえる。
> そこからの離脱がここで言う「孤立ではない孤独」である(但し「私」が離脱するのではない)。
> また彼はaloneとはall-one のことだといい、それが「自他のない一(いち)」だということをしさすることでもある。
> アローンネスの中で人は時間・通常の領域を越えた地平に達し、その時「全一」の感覚があるということを指しているのかと思う。
> 123頁の記述もこのあたりのことを踏まえて読むとわかりやすい。
>
>
>  次の質問はその自由を意識することが出来るかということです。「私は自由だ」と言うなら、そのとき自由ではありません。それは「私は幸福だ」と言っている人のようなものです。「私は幸福だ」と言う瞬間、過ぎ去ったものの記憶の中で生きているのです。自由はただ自然に生じ得るのみであって、願い、望み、求めることによってではありません。またそれが自由だと考えるイメージを創り出すことによっては見いだせません。自由と出会うには、心は生を見ることを学ばねばならず、それは時間の束縛のない広大な動きです。なぜなら、自由は意識の領域を超えて存在するからです。


意識の領域を超える。・・・


意識の領域を超える。
Kのいう自由とは、そういうことのようです。意識できないもの。
大野さんによれば、時間通常の領域を超えた「全一」の感覚。いわばアローンネス。

ま、一般の我々にはわからない感覚です。

宗教の世界では、これらの「全一」の体験を神秘体験、至高体験などと称するが、それには様々なプロセスを得なければならない。Kは一切のプロセスを排す。Kのいう「時間や意識を超えた領域」は、一般の宗教の言っている到達点と同じなのだろうか?違うのだろうか?
「見る」だけで時間の領域を超える?

「時間は実在しない」ということを悟るには、様々なプロセス(過程、時間)が必要である。

>


[25807] 孤立と孤独 投稿者:無明 投稿日:2018/08/16(Thu) 13:48  

大野龍一著「既知からの自由」93ページ

訳注

彼は別のところでは孤立isolationと孤独solitudeを一緒にし、それはalonenessとは別だと言っている。(たとえば「生と出会う」48頁)
だから言葉それ自体にこだわる人にはクリシュナムルティは混乱して見えるかも知れないが、文脈からは明白である。
彼は個人の意識は人類の意識だといい、それを巨大な流れthe. Streamにたとえる。
そこからの離脱がここで言う「孤立ではない孤独」である(但し「私」が離脱するのではない)。
また彼はaloneとはall-one のことだといい、それが「自他のない一(いち)」だということをしさすることでもある。
アローンネスの中で人は時間・通常の領域を越えた地平に達し、その時「全一」の感覚があるということを指しているのかと思う。
123頁の記述もこのあたりのことを踏まえて読むとわかりやすい。






[25806] Re:[25804] [25803] 既知からの自由8−2 投稿者:宮啓 投稿日:2018/08/15(Wed) 18:31  

> > 8章ー2[孤独・天真爛漫・あるがままの自分自身と生きる]
> >
> >  自由は心の状態です ― 何かからの自由ではなくて自由の感覚、全てを疑い問う自由です。それゆえ非常に熱心で活発で精力的なので、あらゆる形の依存、隷属、順応、受容を投げ捨てます。その様な自由は完全に一人であることを含みます。しかしあまりにも環境やそれ自体の風潮に依存している文化の中で育てられた心は、完全な孤独であり、指導も伝統も権威もないあの自由を果たして見いだすことができるでしょうか? この孤独はどのような刺激にも知識にも依存しない心の内的な状態であり、何かの経験や結論の結果ではありません。私たちはたいてい、内的に、決して一人ではありません。自分を切り離す孤立と、単独性、孤独との間には違いがあります。私たちは皆孤立することがどういう事か知っています ― 決して傷つけられたり傷つきやすくならないために自分の周りに壁を建てたり、苦悩の別の形である世俗からの離脱を育んだり、あるいは何かの空想的なイデオロギーの象牙の塔の中で生きたりです。単独性は全く異なるものです。
>
>
> >>  自由は心の状態です ― 何かからの自由ではなくて自由の感覚、全てを疑い問う自由です。それゆえ非常に熱心で活発で精力的なので、あらゆる形の依存、隷属、順応、受容を投げ捨てます。その様な自由は完全に一人であることを含みます。−−
>
> あらゆる形の依存、隷属、順応、受容を投げ捨てる・・・完全に一人であることを含む。 さらっと言われてしまったけれど、この意味するところは怖すぎます。今の社会は完全に分業が進んですべてを専門的な職業人に頼っていますよ。それは物質的な事柄に限られているのではないかという質問があるかもしれません。Kは心理的に一人立つことを言っているというかもしれません。しかし、私はもしスーパーで気を失った時、周りの店員や居合わせた客が一人の人間として何とかしようとしてくれることを疑ったことはありません。依存でも受容でもありませんが、そういう信頼を持っています。財布を持っていかれないかと心配したりしません。私は見当はずれのことを言っているのでしょうか?


 スーパーで気を失った時、周りの店員や居合わせた客が一人の人間として何とかしようとしてくれることも良し、また、してくれないことも「あり」。どちらもオーケー。

 財布を持っていかれないことも良し、また、持っていかれることも「あり」。どちらもオーケー。

 もしも、オーケーでない場合。人は、助けてくれるよう、人との和を保ち、助力してくれる関係を構築し、〇〇し、・・●●し、・・と計算高く生きようとする。財布を持っていかれないように、外出は控えめにし、絶えず警戒し、貯蓄の防衛を強化する。しないだろうか・・。

 「どちらもオーケー」とは自由であり、そうなろうとしてなれるものではなく、クリシュナムルティ理解の暁にそうなっているもの。。


> >  あなたは決して孤独ではありません、というのは全ての記憶、全ての条件付け、昨日のつぶやきの全てであなたは一杯だからです。あなたの心はそれが集めてきた全てのガラクタを決してきれいにしません。一人であるためには過去に対して死ななければなりません。あなたが一人であるとき、完全に一人であるとき、どの家族にも、どの国にも、どんな文化にも、どの特定の大陸にも属しないとき、アウトサイダーである感覚があります。このように完全に一人である人は天真爛漫であり、心をこの悲しみから解放するのはこの天真爛漫さです。私たちは何千もの人々が語ってきた重荷や自分のあらゆる不幸の記憶を身につけています。その全てをすっかり捨てることが一人であることであり、そして一人である心は天真爛漫であるだけでなく若いのです ― 時間や年齢の中にいないで、何歳であろうと若く、天真爛漫で、生き生きとしているのです ― そしてそのような心のみが真理であるものを、言葉では測り知れないものを見ることができるのです。
>
>
> >>  あなたは決して孤独ではありません、というのは全ての記憶、全ての条件付け、昨日のつぶやきの全てであなたは一杯だからです。あなたの心はそれが集めてきた全てのガラクタを決してきれいにしません。一人であるためには過去に対して死ななければなりません。あなたが一人であるとき、完全に一人であるとき、どの家族にも、どの国にも、どんな文化にも、どの特定の大陸にも属しないとき、アウトサイダーである感覚があります。−−
>
> 私は決して孤独あるいは単独性を持っていない、何故なら記憶、条件付け、昨日のつぶやきでいっぱいになっているから。はい。それはごもっとも。しかしこの社会で生きていくだけで山ほど記憶していないと困る事柄もうんざりするほどあります。
>  完全に一人であるとき、どの家族にも、どの国にも、どんな文化にも、どの特定の大陸にも属しないとき、そりゃ確かにアウトサイダーの感覚もするでしょう。家族や国に属しないってどういうことなのかなあ。国には健康保険や税金や、何しろ¥の札びらを毎日使っています。しかし心理的に属さないってこと?
>
> > このように完全に一人である人は天真爛漫であり、心をこの悲しみから解放するのはこの天真爛漫さです。私たちは何千もの人々が語ってきた重荷や自分のあらゆる不幸の記憶を身につけています。その全てをすっかり捨てることが一人であることであり・・・−−
>
> ここはものすごく重いことです・・・


 クリシュナムルティが述べるところの「孤独」とは、依存できる他者と心理的に疎遠であるという意味だけではなく、依存できる知識・記憶・概念・理想等々からも心理的に疎遠であることを意味していることが分かります。

 家族や社会や国に属さないという意味は、そこから実際に離れるということではなく、もしも、離れることがあっても、それも良し。という自由があること。どちらもオーケー。という自由。しかし、観念だけの自由ではなく、本当の自由。それはそうなろうとしてなれるものではなく、クリシュナムルティ理解の暁にそうなっているもの。。



> >  この孤独の中であなたは、あるべきだと考えたり、そうであった自分ではなく、あるがままの自分自身と共に生きることの必要性を理解し始めます。自分自身を少しの震えも、偽りの謙遜も、恐怖も、どんな正当化や非難もなく、眺めることができるかどうかを見なさい ― 実際のあるがままの自分自身と共にただ生きなさい。
>
>
> ・・・


 その自由とは、単独性とは、観念なのか・・。

 その孤立している存在は、確かに地に足がついている。呼吸をしている。生きている。この大地の上で。社会の中で。地球の上で。宇宙の中で。本当か。この大地とは・・。社会とは・・。地球とは・・。宇宙とは・・。実在しているのか。この孤立する存在は。

 >実際のあるがままの自分自身と共にただ生きなさい。−−



> >  親しく何かと共に生きるときのみ、あなたはそれを理解し始めます。しかしそれに慣れる瞬間 ― 自分の不安や羨望や何であってもそれに慣れるときあなたはもはやそれと共に生きていないのです。川のそばに住んでいるなら、数日後には水音がもう聞こえません。また、部屋の中の絵を毎日見ているなら、一週間後には忘れます。山や谷や木もそれと同じです ― あなたの家族、夫、妻も同じです。しかし嫉妬、羨望あるいは不安のようなものと生きるには決してそれに慣れたり、受け入れたりしてはなりません。新しく植えた木を大事にし、太陽や嵐に対して保護するように、それを大事にしなければなりません。それを非難したり正当化しないで大事にしなければなりません。それゆえあなたはそれを愛し始めます。それを大事にするときあなたはそれを愛し始めているのです。非常に多くの人達がするように、羨望したり不安でいるのを愛するということではなく、むしろ見つめることを大事にするという事です。
>
>
> むしろ見つめることを大事にする・・・


 孤立に慣れることの落とし穴が指摘されている。

 孤立や羨望や不安は「注意」を喚起するが、それらに慣れてしまうと「注意」喚起は弱まる。すると見なくなる。

 孤立がもたらす「注意」喚起を大切に、「見る」を大事にする。


> >  そこであなたは ― あなたと私は ― 実際にあるがままの自分と共に生きることが出来るでしょうか? 自分自身が鈍感で、羨望し、怖れていることを知りながら、持っていないのに大きな愛情を持っていると信じ、容易に傷つけられ、容易にお世辞に乗り、そして退屈しながら ― それを受け入れも否定もしないで、病的になったり、気落ちしたり得意になったりすることなく、それをただ観察しながら、その全部と共に生きることができるでしょうか?
>
>
> ・・・


 その全部と共に生きる。

 その全部と共に生きることが大事。


> >  さて更に進んだ質問を自分自身に尋ねましょう。この自由、この孤独、この自分自身の中のあるがままの全構造と接触すること ― それは時間を通じて出会うのでしょうか? すなわち、自由は漸進的な過程を通じて達成されるのでしょうか? 明らかに違います、何故なら時間を導入するや否や、あなたはますます奴隷になるからです。徐々に自由になることはできません。それは時間の問題ではないのです。
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>
> 奴隷? では誰が主人なのだ? 既知のもの? それは人類の財産ではないと?


 生の全体性からみれば、既知のものは取るに足りないのではないでしょうか。しかし、それは観念によって思考される事柄ではなく、クリシュナムルティ理解の暁にそうなっているもの。。



> >  次の質問はその自由を意識することが出来るかということです。「私は自由だ」と言うなら、そのとき自由ではありません。それは「私は幸福だ」と言っている人のようなものです。「私は幸福だ」と言う瞬間、過ぎ去ったものの記憶の中で生きているのです。自由はただ自然に生じ得るのみであって、願い、望み、求めることによってではありません。またそれが自由だと考えるイメージを創り出すことによっては見いだせません。自由と出会うには、心は生を見ることを学ばねばならず、それは時間の束縛のない広大な動きです。なぜなら、自由は意識の領域を超えて存在するからです。
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> 意識の領域を超える。・・・


 意識の領域を超えた場については、『時間の終焉』にてボームとの対談があります。


 「自由を意識できるか?」「自由と出会うには、心は生を見ることを学ばねばならず、それは時間の束縛のない広大な動きです。なぜなら、自由は意識の領域を超えて存在するからです。」

 これは思考ではどうすることもできない。クリシュナムルティ理解の暁にそうなっているもの。。


 クリシュナムルティの陳述内容の理解とは、クリシュナムルティ理解のこと。

 

> > (終わり)


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