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[25837] Re:[25836] [25835] [25834] [25833] [25832] [25829] [25828] 既知からの自由9−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/29(Wed) 13:54  

> > > > > > > 9章ー2[死]
> >
> > >  『時間の終焉』の死に関する章において、記されていることは。
> > >
> > >  精神が基底に触れると、「死の恐怖が止む」と陳述されています。
> > >
> > >  基底は不死であり、そして基底は区別が無く(一元的)、精神と基底が一致することが知覚されるから。
> > >
> > >  すなわち、内面の奥底に、クルクルがあるのではないでしょうか。
> > >  夜、西枕では眠れない運動である、意識できないクルクルが。。
> > >
> > >
> > >  私がこれに固執するのは、もしも、ビカミングを止めたとして、それが表面的なことであり、深層では、死の回避運動ビカミングがクルクルしている場合、何年時を過ごして待ち続けても、洞察の閃光がやってくることがない可能性があるからです。
> > >
> > >  渡辺氏は、クリシュナムルティが述べたことが起こらなかった・・旨を述べていました。
> > >
> > >  私は、そこに「死の回避運動ビカミング」が深層にあることを見落としたのではないのか・・と推し量っているのです。
> >
> >
> > ビカミングが止まってもそれは表層だけで、奥底ではクルクルが回っている。それゆえ洞察の閃光が来ないことが問題になっています。
> >  これはなろうとしている思考がクルクル回っているのと違いますか? そうとすれば考えても無益です。古いパターンの一部ですから。
> >
> > 基底については『時間の終焉』5章にありますが、Kは話しにくそうで私は書くのをやめました。基底に関係を持つことが人間には現状で出来そうにないからでしょう。
> >
> >
> > >  すなわち、「泰然」は心理の表面の出来事ではないでしょうか。。
> >
> > ともかく自分の気づける範囲でビカミングの過程を終わりにしましょう。するとまた何か下の層からクルクルが出れば即終わりにする。。あるいはあるがままにただ見ている。エネルギーを浪費しません。
>
>
>  このクルクルについては、『時間の終焉』にて、脳細胞の変容における章にて陳述されるところによれば、知識から自由でなければ(既知からの自由)、ビカミングは止まない旨が述べられています。
>
>  すなわち、クルクルを止めようとする中心は、尚、自我であるのです。
>
>  自我がクルクルを止めようと応じます。すると、止まったように感じるのだが、その奥で尚も、中心が「なりゆく運動」があるとのことです。


「止めよう」は時間ぽい表現ですが。明日でなく即やめれば時間の中でない行為があります。

人間の意識する時自我が存在しています。なろうとするのが知覚される時意識の上にその知覚が登るのですが(気付き)、それをやめるのに数秒、あるいは数十秒かかろうが数分掛かろが、やまれば理解(注意)が働いています。これは思考(ビカミング)の過程でなく理解、気づきの過程です。

おっしゃる自我の終焉の章は6章だと思うので読んでみます。
既知からの自由9章の終りをアップします。


[25836] Re:[25835] [25834] [25833] [25832] [25829] [25828] 既知からの自由9−2 投稿者:宮啓 投稿日:2018/08/28(Tue) 21:47  

> > > > > > 9章ー2[死]
>
> >  『時間の終焉』の死に関する章において、記されていることは。
> >
> >  精神が基底に触れると、「死の恐怖が止む」と陳述されています。
> >
> >  基底は不死であり、そして基底は区別が無く(一元的)、精神と基底が一致することが知覚されるから。
> >
> >  すなわち、内面の奥底に、クルクルがあるのではないでしょうか。
> >  夜、西枕では眠れない運動である、意識できないクルクルが。。
> >
> >
> >  私がこれに固執するのは、もしも、ビカミングを止めたとして、それが表面的なことであり、深層では、死の回避運動ビカミングがクルクルしている場合、何年時を過ごして待ち続けても、洞察の閃光がやってくることがない可能性があるからです。
> >
> >  渡辺氏は、クリシュナムルティが述べたことが起こらなかった・・旨を述べていました。
> >
> >  私は、そこに「死の回避運動ビカミング」が深層にあることを見落としたのではないのか・・と推し量っているのです。
>
>
> ビカミングが止まってもそれは表層だけで、奥底ではクルクルが回っている。それゆえ洞察の閃光が来ないことが問題になっています。
>  これはなろうとしている思考がクルクル回っているのと違いますか? そうとすれば考えても無益です。古いパターンの一部ですから。
>
> 基底については『時間の終焉』5章にありますが、Kは話しにくそうで私は書くのをやめました。基底に関係を持つことが人間には現状で出来そうにないからでしょう。
>
>
> >  すなわち、「泰然」は心理の表面の出来事ではないでしょうか。。
>
> ともかく自分の気づける範囲でビカミングの過程を終わりにしましょう。するとまた何か下の層からクルクルが出れば即終わりにする。。あるいはあるがままにただ見ている。エネルギーを浪費しません。


 このクルクルについては、『時間の終焉』にて、脳細胞の変容における章にて陳述されるところによれば、知識から自由でなければ(既知からの自由)、ビカミングは止まない旨が述べられています。

 すなわち、クルクルを止めようとする中心は、尚、自我であるのです。

 自我がクルクルを止めようと応じます。すると、止まったように感じるのだが、その奥で尚も、中心が「なりゆく運動」があるとのことです。


[25835] Re:[25834] [25833] [25832] [25829] [25828] 既知からの自由9−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/28(Tue) 18:29  

> > > > > 9章ー2[死]

>  『時間の終焉』の死に関する章において、記されていることは。
>
>  精神が基底に触れると、「死の恐怖が止む」と陳述されています。
>
>  基底は不死であり、そして基底は区別が無く(一元的)、精神と基底が一致することが知覚されるから。
>
>  すなわち、内面の奥底に、クルクルがあるのではないでしょうか。
>  夜、西枕では眠れない運動である、意識できないクルクルが。。
>
>
>  私がこれに固執するのは、もしも、ビカミングを止めたとして、それが表面的なことであり、深層では、死の回避運動ビカミングがクルクルしている場合、何年時を過ごして待ち続けても、洞察の閃光がやってくることがない可能性があるからです。
>
>  渡辺氏は、クリシュナムルティが述べたことが起こらなかった・・旨を述べていました。
>
>  私は、そこに「死の回避運動ビカミング」が深層にあることを見落としたのではないのか・・と推し量っているのです。


ビカミングが止まってもそれは表層だけで、奥底ではクルクルが回っている。それゆえ洞察の閃光が来ないことが問題になっています。
 これはなろうとしている思考がクルクル回っているのと違いますか? そうとすれば考えても無益です。古いパターンの一部ですから。

基底については『時間の終焉』5章にありますが、Kは話しにくそうで私は書くのをやめました。基底に関係を持つことが人間には現状で出来そうにないからでしょう。


>  すなわち、「泰然」は心理の表面の出来事ではないでしょうか。。

ともかく自分の気づける範囲でビカミングの過程を終わりにしましょう。するとまた何か下の層からクルクルが出れば即終わりにする。。あるいはあるがままにただ見ている。エネルギーを浪費しません。


[25834] Re:[25833] [25832] [25829] [25828] 既知からの自由9−2 投稿者:宮啓 投稿日:2018/08/28(Tue) 11:29  

> > > > 9章ー2[死]
> > > >
> > > >  さて多くの人にとって大変な問題である死の問題を取り上げましょう。あなたは死を知っています。死は毎日あなたの傍らを歩いています。死について問題を全く作り出さないほど完全に死に出会うことが可能でしょうか? その様に死に出会うためには、死についての全ての信念、全ての希望、全ての恐怖は終わらなければなりません。さもなければ、この途方もないものに結論やイメージやあらかじめ考えられた心配と共に出会っているのであり、それゆえ死に時間と共に出会っているのです。
> > >
> > >
> > > 時間と共に出会っている、はい。
> >
> >
> >  死を恐れないために、人類の歴史の中で、ほぼすべてが出そろった。
> >
> >  輪廻転生。天国。復活。死者(先祖・親兄弟・友人等々)のあの世でのお迎えと死後の世界での生活。
> >
> >  だから死を恐れない。しかし、それは表面の意識ではないだろうか。目に入る風景に墓地が入ると目を逸らす。夜寝るときに、枕は西枕では不気味な気がする。心霊写真や心霊動画投稿の番組を見ると、(死ぬのは怖くないのに)夜、トイレや暗がりに行くのが怖い。
> >
> >  表面では知覚できはしないが、深層に「死の恐怖」がクルクル回ってはいないだろうか。
> >
> >  その「死の恐怖」は、臨終の床で、死がそこまで迫ってからしか知覚することができないのか・・。
> >
> >  死の床で、死が迫って、初めて「もしも、あの世が無かったならば・・、誰も迎えがなかったら‥、生まれ変わりがでっち上げであったならば・・」等々と、そのときに、はじめて「死の恐怖」が無意識に潜んでいたことを発見するのか。。すなわち、「私」がその恐怖を抑圧し続けるクルクルを深層で廻らせていたことに、その時に気づくのか・・。
> >
> >  それとも、無意識に興味・関心を有して、無意識が有意識となるほどに、無意識の隠れたクルクルを明るみに出す、クリシュナムルティ手法を身につけるのか。。
> >
> >
> > > >  時間は観察者と観察されるものの間の間隔です。すなわち、観察者、あなた、は死と呼ばれるこのものに出会うことを恐れています。あなたはそれが何を意味するか知りません。あなたはそれについてあらゆる種類の希望と理論を持っています。輪廻転生、復活、あるいは魂と呼ばれるあるもの、アートマン、時間を超えた、いろいろな名前で呼ばれる霊的な存在を信じます。さて自分自身で魂があるかどうか見いだしましたか? それともそれはあなたに伝えられてきた考えですか? 永遠で継続的で、思考を超えている何かがあるのですか? 思考がそれについて考えることができるならそれは思考の領域内にあり、従ってそれは永久的ではあり得ません。なぜなら思考の領域内には永久的なものは何もないからです。何物も永久的ではないということを発見することはものすごく重要です。というのはそのときのみ心は自由であり、そのときあなたは見ることができ、その中に大いなる喜びがあるからです。
> > >
> > >
> > > >何物も永久的ではないということを発見することはものすごく重要です。というのはそのときのみ心は自由であり、そのときあなたは見ることができ、その中に大いなる喜びがあるからです。−− これはほとんどの人にとって未発見の事柄ですが、Kは述べてくれています。解説はありません。
> >
> >
> >  そのクルクルは、終わらないでおこうという欲望ではないでしょうか。
> >  死を回避する、延長するクルクル。
> >
> >  死が回避できるものであれば、延長することができるものであれば、そのクルクルは合理的で実利的である。
> >
> >  しかし、死を回避すること延長することが現実として不可能ではないのか。
> >
> >  >何物も永久的ではない−−、これが分かるということは、自ずと、そのクルクルが止むということ。死に対して受け入れる。無頓着になる。沢田研二の「時の過ぎゆくままに」となる。?その物語(楽曲)の中の沢田は自由ではないでしょうか。
> >
> >
> > > >  未知のものを恐れることはできません。未知のものが何であるか知らないので、そこで恐れさせられる何もないのです。死は言葉です。恐怖をつくり出すのはその言葉、イメージです。そこで死を、死のイメージなしに見ることができるでしょうか? そこから思考が生じるイメージが存在する限り、思考は常に恐怖をつくるに違いありません。そして自分の死の恐怖を合理化し、避けられないものに対して抵抗するか、あるいは死の恐怖から自分を守るために無数の信念をつくりだします。それであなたと恐れているものとの間にギャップがあります。この時空の間隙の中に恐怖や不安や自己憐憫である葛藤があるに違いありません。死の恐怖を生み出す思考は「死を延期しよう、それを避けよう、できるだけ遠くにおいておこう、それについて考えないようにしよう」と言います ― しかしそれについて考えています。「それについて考えまい」と言うとき、すでにそれをどうやって避けるか考えだそうとしています。あなたが死を恐れるのは死を後回しにしたからです。
> > >
> > >
> > > イメージがあるという事はギャップが、間隔、分離、時間があるという事ですが、こういう説明は議論、思考を呼び、時間をやめるのを妨げる延期、ガラクタになります。
> > >  これら古いパターンをやめよ!というKの声明をよく聴くのみ(『時間の終焉』4章参照)。
> >
> >
> >  その古いパターンが、今でも、私やあなたの無意識の奥でクルクルと回っていることに気づく。
>
>
>
> 「人間は必ず死ぬ」これは真理としてだれも疑わなかった。
> いやもちろん人は不死ではない。事故で死ぬから。しかし病で死ぬのは、科学が無知から脱出するとともに、ずいぶん減った。それで人の寿命はずいぶん延びた。特に絶対的な行き止まりの壁は見つからない。老化現象と若返りについても科学は明らかにしつつある。投資もあるし、市場も大きいから資本主義も安泰だ。
>
> それと共に死後の世界に対する人間の関心は急速に薄れているのが実情ではないだろうか? 現代的には体力が衰えた老人の生き様が問題だ。私どもの切実な問題である。精神的には泰然としている。あるがままに生き始めたから。だが医者通いにはうんざりしている。
>
> > > > ([死]は)2回に分けて掲載します)



 『時間の終焉』の死に関する章において、記されていることは。

 精神が基底に触れると、「死の恐怖が止む」と陳述されています。

 基底は不死であり、そして基底は区別が無く(一元的)、精神と基底が一致することが知覚されるから。

 すなわち、内面の奥底に、クルクルがあるのではないでしょうか。
 夜、西枕では眠れない運動である、意識できないクルクルが。。


 私がこれに固執するのは、もしも、ビカミングを止めたとして、それが表面的なことであり、深層では、死の回避運動ビカミングがクルクルしている場合、何年時を過ごして待ち続けても、洞察の閃光がやってくることがない可能性があるからです。

 渡辺氏は、クリシュナムルティが述べたことが起こらなかった・・旨を述べていました。

 私は、そこに「死の回避運動ビカミング」が深層にあることを見落としたのではないのか・・と推し量っているのです。


 すなわち、「泰然」は心理の表面の出来事ではないでしょうか。。


[25833] Re:[25832] [25829] [25828] 既知からの自由9−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/28(Tue) 09:06  

> > > 9章ー2[死]
> > >
> > >  さて多くの人にとって大変な問題である死の問題を取り上げましょう。あなたは死を知っています。死は毎日あなたの傍らを歩いています。死について問題を全く作り出さないほど完全に死に出会うことが可能でしょうか? その様に死に出会うためには、死についての全ての信念、全ての希望、全ての恐怖は終わらなければなりません。さもなければ、この途方もないものに結論やイメージやあらかじめ考えられた心配と共に出会っているのであり、それゆえ死に時間と共に出会っているのです。
> >
> >
> > 時間と共に出会っている、はい。
>
>
>  死を恐れないために、人類の歴史の中で、ほぼすべてが出そろった。
>
>  輪廻転生。天国。復活。死者(先祖・親兄弟・友人等々)のあの世でのお迎えと死後の世界での生活。
>
>  だから死を恐れない。しかし、それは表面の意識ではないだろうか。目に入る風景に墓地が入ると目を逸らす。夜寝るときに、枕は西枕では不気味な気がする。心霊写真や心霊動画投稿の番組を見ると、(死ぬのは怖くないのに)夜、トイレや暗がりに行くのが怖い。
>
>  表面では知覚できはしないが、深層に「死の恐怖」がクルクル回ってはいないだろうか。
>
>  その「死の恐怖」は、臨終の床で、死がそこまで迫ってからしか知覚することができないのか・・。
>
>  死の床で、死が迫って、初めて「もしも、あの世が無かったならば・・、誰も迎えがなかったら‥、生まれ変わりがでっち上げであったならば・・」等々と、そのときに、はじめて「死の恐怖」が無意識に潜んでいたことを発見するのか。。すなわち、「私」がその恐怖を抑圧し続けるクルクルを深層で廻らせていたことに、その時に気づくのか・・。
>
>  それとも、無意識に興味・関心を有して、無意識が有意識となるほどに、無意識の隠れたクルクルを明るみに出す、クリシュナムルティ手法を身につけるのか。。
>
>
> > >  時間は観察者と観察されるものの間の間隔です。すなわち、観察者、あなた、は死と呼ばれるこのものに出会うことを恐れています。あなたはそれが何を意味するか知りません。あなたはそれについてあらゆる種類の希望と理論を持っています。輪廻転生、復活、あるいは魂と呼ばれるあるもの、アートマン、時間を超えた、いろいろな名前で呼ばれる霊的な存在を信じます。さて自分自身で魂があるかどうか見いだしましたか? それともそれはあなたに伝えられてきた考えですか? 永遠で継続的で、思考を超えている何かがあるのですか? 思考がそれについて考えることができるならそれは思考の領域内にあり、従ってそれは永久的ではあり得ません。なぜなら思考の領域内には永久的なものは何もないからです。何物も永久的ではないということを発見することはものすごく重要です。というのはそのときのみ心は自由であり、そのときあなたは見ることができ、その中に大いなる喜びがあるからです。
> >
> >
> > >何物も永久的ではないということを発見することはものすごく重要です。というのはそのときのみ心は自由であり、そのときあなたは見ることができ、その中に大いなる喜びがあるからです。−− これはほとんどの人にとって未発見の事柄ですが、Kは述べてくれています。解説はありません。
>
>
>  そのクルクルは、終わらないでおこうという欲望ではないでしょうか。
>  死を回避する、延長するクルクル。
>
>  死が回避できるものであれば、延長することができるものであれば、そのクルクルは合理的で実利的である。
>
>  しかし、死を回避すること延長することが現実として不可能ではないのか。
>
>  >何物も永久的ではない−−、これが分かるということは、自ずと、そのクルクルが止むということ。死に対して受け入れる。無頓着になる。沢田研二の「時の過ぎゆくままに」となる。?その物語(楽曲)の中の沢田は自由ではないでしょうか。
>
>
> > >  未知のものを恐れることはできません。未知のものが何であるか知らないので、そこで恐れさせられる何もないのです。死は言葉です。恐怖をつくり出すのはその言葉、イメージです。そこで死を、死のイメージなしに見ることができるでしょうか? そこから思考が生じるイメージが存在する限り、思考は常に恐怖をつくるに違いありません。そして自分の死の恐怖を合理化し、避けられないものに対して抵抗するか、あるいは死の恐怖から自分を守るために無数の信念をつくりだします。それであなたと恐れているものとの間にギャップがあります。この時空の間隙の中に恐怖や不安や自己憐憫である葛藤があるに違いありません。死の恐怖を生み出す思考は「死を延期しよう、それを避けよう、できるだけ遠くにおいておこう、それについて考えないようにしよう」と言います ― しかしそれについて考えています。「それについて考えまい」と言うとき、すでにそれをどうやって避けるか考えだそうとしています。あなたが死を恐れるのは死を後回しにしたからです。
> >
> >
> > イメージがあるという事はギャップが、間隔、分離、時間があるという事ですが、こういう説明は議論、思考を呼び、時間をやめるのを妨げる延期、ガラクタになります。
> >  これら古いパターンをやめよ!というKの声明をよく聴くのみ(『時間の終焉』4章参照)。
>
>
>  その古いパターンが、今でも、私やあなたの無意識の奥でクルクルと回っていることに気づく。



「人間は必ず死ぬ」これは真理としてだれも疑わなかった。
いやもちろん人は不死ではない。事故で死ぬから。しかし病で死ぬのは、科学が無知から脱出するとともに、ずいぶん減った。それで人の寿命はずいぶん延びた。特に絶対的な行き止まりの壁は見つからない。老化現象と若返りについても科学は明らかにしつつある。投資もあるし、市場も大きいから資本主義も安泰だ。

それと共に死後の世界に対する人間の関心は急速に薄れているのが実情ではないだろうか? 現代的には体力が衰えた老人の生き様が問題だ。私どもの切実な問題である。精神的には泰然としている。あるがままに生き始めたから。だが医者通いにはうんざりしている。

> > > ([死]は)2回に分けて掲載します)


[25832] Re:[25829] [25828] 既知からの自由9−2 投稿者:宮啓 投稿日:2018/08/27(Mon) 20:56  

> > 9章ー2[死]
> >
> >  さて多くの人にとって大変な問題である死の問題を取り上げましょう。あなたは死を知っています。死は毎日あなたの傍らを歩いています。死について問題を全く作り出さないほど完全に死に出会うことが可能でしょうか? その様に死に出会うためには、死についての全ての信念、全ての希望、全ての恐怖は終わらなければなりません。さもなければ、この途方もないものに結論やイメージやあらかじめ考えられた心配と共に出会っているのであり、それゆえ死に時間と共に出会っているのです。
>
>
> 時間と共に出会っている、はい。


 死を恐れないために、人類の歴史の中で、ほぼすべてが出そろった。

 輪廻転生。天国。復活。死者(先祖・親兄弟・友人等々)のあの世でのお迎えと死後の世界での生活。

 だから死を恐れない。しかし、それは表面の意識ではないだろうか。目に入る風景に墓地が入ると目を逸らす。夜寝るときに、枕は西枕では不気味な気がする。心霊写真や心霊動画投稿の番組を見ると、(死ぬのは怖くないのに)夜、トイレや暗がりに行くのが怖い。

 表面では知覚できはしないが、深層に「死の恐怖」がクルクル回ってはいないだろうか。

 その「死の恐怖」は、臨終の床で、死がそこまで迫ってからしか知覚することができないのか・・。

 死の床で、死が迫って、初めて「もしも、あの世が無かったならば・・、誰も迎えがなかったら‥、生まれ変わりがでっち上げであったならば・・」等々と、そのときに、はじめて「死の恐怖」が無意識に潜んでいたことを発見するのか。。すなわち、「私」がその恐怖を抑圧し続けるクルクルを深層で廻らせていたことに、その時に気づくのか・・。

 それとも、無意識に興味・関心を有して、無意識が有意識となるほどに、無意識の隠れたクルクルを明るみに出す、クリシュナムルティ手法を身につけるのか。。


> >  時間は観察者と観察されるものの間の間隔です。すなわち、観察者、あなた、は死と呼ばれるこのものに出会うことを恐れています。あなたはそれが何を意味するか知りません。あなたはそれについてあらゆる種類の希望と理論を持っています。輪廻転生、復活、あるいは魂と呼ばれるあるもの、アートマン、時間を超えた、いろいろな名前で呼ばれる霊的な存在を信じます。さて自分自身で魂があるかどうか見いだしましたか? それともそれはあなたに伝えられてきた考えですか? 永遠で継続的で、思考を超えている何かがあるのですか? 思考がそれについて考えることができるならそれは思考の領域内にあり、従ってそれは永久的ではあり得ません。なぜなら思考の領域内には永久的なものは何もないからです。何物も永久的ではないということを発見することはものすごく重要です。というのはそのときのみ心は自由であり、そのときあなたは見ることができ、その中に大いなる喜びがあるからです。
>
>
> >何物も永久的ではないということを発見することはものすごく重要です。というのはそのときのみ心は自由であり、そのときあなたは見ることができ、その中に大いなる喜びがあるからです。−− これはほとんどの人にとって未発見の事柄ですが、Kは述べてくれています。解説はありません。


 そのクルクルは、終わらないでおこうという欲望ではないでしょうか。
 死を回避する、延長するクルクル。

 死が回避できるものであれば、延長することができるものであれば、そのクルクルは合理的で実利的である。

 しかし、死を回避すること延長することが現実として不可能ではないのか。

 >何物も永久的ではない−−、これが分かるということは、自ずと、そのクルクルが止むということ。死に対して受け入れる。無頓着になる。沢田研二の「時の過ぎゆくままに」となる。?その物語(楽曲)の中の沢田は自由ではないでしょうか。


> >  未知のものを恐れることはできません。未知のものが何であるか知らないので、そこで恐れさせられる何もないのです。死は言葉です。恐怖をつくり出すのはその言葉、イメージです。そこで死を、死のイメージなしに見ることができるでしょうか? そこから思考が生じるイメージが存在する限り、思考は常に恐怖をつくるに違いありません。そして自分の死の恐怖を合理化し、避けられないものに対して抵抗するか、あるいは死の恐怖から自分を守るために無数の信念をつくりだします。それであなたと恐れているものとの間にギャップがあります。この時空の間隙の中に恐怖や不安や自己憐憫である葛藤があるに違いありません。死の恐怖を生み出す思考は「死を延期しよう、それを避けよう、できるだけ遠くにおいておこう、それについて考えないようにしよう」と言います ― しかしそれについて考えています。「それについて考えまい」と言うとき、すでにそれをどうやって避けるか考えだそうとしています。あなたが死を恐れるのは死を後回しにしたからです。
>
>
> イメージがあるという事はギャップが、間隔、分離、時間があるという事ですが、こういう説明は議論、思考を呼び、時間をやめるのを妨げる延期、ガラクタになります。
>  これら古いパターンをやめよ!というKの声明をよく聴くのみ(『時間の終焉』4章参照)。


 その古いパターンが、今でも、私やあなたの無意識の奥でクルクルと回っていることに気づく。



> > ([死]は)2回に分けて掲載します)


[25831] Re:[25830] 時間は実在しない 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/27(Mon) 19:24  

> >Kは数十年にわたって彼の教えを説いてきた。『時間の終焉』を何回も読んできたが、自分でKはこう言っていますとは話せなかったけれどようやく話せるようになったので話します。
>
> 人間は、数千年来ブッダやキリストを始めとする教えを聞いてきたが、心理的時間―ビカミングの過程に捉えられ、変化することができなかった。
>
> Kは確固として説く。心理的時間―ビカミングの過程を捨てよ!決してその古いパターンに戻るなと。
>
> ビカミング?何ですか。念のため調べてみたら「ふさわしい」となっている。

ビカミングはbecomeの現在進行形で成り行く過程の意味で使いました。明日、あるいはいつか社長になるとか、何でもいいのですが過去・現在・未来の流れの中で何かになろうとする過程です。

> 心理的時間って何ですか?

過去・現在・未来と時間を分割し、今はこうだが明日はああなろうと思って行動するとき、心理的に時間の中にいます。

> 心理的時間イコールふさわしいということですか?

いいえ、心理的時間、すなわち成り行く過程に捉われているという意味です。

> 単純な疑問ですが、実生活で、心理的思考と実用的な思考とどうやって区別するのですか?

人間の肉体が赤ん坊から大人になるのは時計の時間。人がいつかは悟りを開こうと努力して修行するのは心理的時間。

> 実際には明確には分けられないでしょう。

覚者の声明を聴き感じるしかありません。質問と同時に思考のわなに入っています。

> たとえば心理的思考はダメ、実用的な思考はいいと。
> 釣り銭を間違えたのは必要な思考。その間違えたコンビニの店員に怒るのは無駄な思考。ということですか。

Kは説明を拒否しています。そのような探究が思考のわなだそうです。

> 会社の会議で意見を出しあう。技術的思考と心理的思考、微妙に混じり合っている。
>
> いずれにしろ、確実に言えるには人間瞬時瞬時想起しているということです。内容が何にしろ。
>
> >ほかに道はありません。(これは私の余計な一言。『時間の終焉』4章参照)
>
> 余計ですね。そんなことはありません。

はい。私の言葉はほっておいてください。

> 心理的思考のプロセスを捨てるということではなく、その過程を見るということです。思考過程を観察する。ボンボリのように。

お好きなようにやってみてください。

> 渡辺氏がいうには、観察者は観察されるもの、というように自分の見てる世界は、結局は自身のイメージの投影ではないかと、という問いかけです。
> 一切は自身の心の影ではないのか?一人相撲をとっているのではないか。手のひらで踊っているだけではないか、という問いかけ。
> これは別にクリシュナムルティの専売特許ではなく、古くから覚者たちが言ってることです。
> 覚者たちは、究極的に「時間は実在しない」ということを悟ります。
>
> その中で飯尾氏の手法はユニーク。徹底的に自身の思考を疑うというもの。ほんとかどうか。事実かどうか。心理的思考かどうかは関係なく、一切の思考を疑う。彼にはクリシュナムルティのくの字もない。
> 自身の言葉で話す。イエスのいう「自身の想念に寝ずの番人をせよ」という教えをそのまま実践したということでしょう。自身のエゴに一切妥協しない。(このような自己に厳しい人は他にも知っています。私たちには真似できない)
>
> 最後に疑問なのですが、たとえばの話。あなたは1億人全てが悟らない限り、真の平和はないと考えているのでしょうか。あなた流の「気づき」でもいいです。世界の人全員が気づけば、平和が訪れる。
> お言葉ですが、人間、意識(魂)レベルに差があります。人間「同じ」ではありません。

私にはわかりません。自分が時間を終わりにするので精一杯です。


[25830] 時間は実在しない 投稿者:無明 投稿日:2018/08/27(Mon) 16:14  

>Kは数十年にわたって彼の教えを説いてきた。『時間の終焉』を何回も読んできたが、自分でKはこう言っていますとは話せなかったけれどようやく話せるようになったので話します。

人間は、数千年来ブッダやキリストを始めとする教えを聞いてきたが、心理的時間―ビカミングの過程に捉えられ、変化することができなかった。

Kは確固として説く。心理的時間―ビカミングの過程を捨てよ!決してその古いパターンに戻るなと。

ビカミング?何ですか。念のため調べてみたら「ふさわしい」となっている。
心理的時間って何ですか?
心理的時間イコールふさわしいということですか?
単純な疑問ですが、実生活で、心理的思考と実用的な思考とどうやって区別するのですか?
実際には明確には分けられないでしょう。
たとえば心理的思考はダメ、実用的な思考はいいと。
釣り銭を間違えたのは必要な思考。その間違えたコンビニの店員に怒るのは無駄な思考。ということですか。
会社の会議で意見を出しあう。技術的思考と心理的思考、微妙に混じり合っている。

いずれにしろ、確実に言えるには人間瞬時瞬時想起しているということです。内容が何にしろ。

>ほかに道はありません。(これは私の余計な一言。『時間の終焉』4章参照)

余計ですね。そんなことはありません。
心理的思考のプロセスを捨てるということではなく、その過程を見るということです。思考過程を観察する。ボンボリのように。

渡辺氏がいうには、観察者は観察されるもの、というように自分の見てる世界は、結局は自身のイメージの投影ではないかと、という問いかけです。
一切は自身の心の影ではないのか?一人相撲をとっているのではないか。手のひらで踊っているだけではないか、という問いかけ。
これは別にクリシュナムルティの専売特許ではなく、古くから覚者たちが言ってることです。
覚者たちは、究極的に「時間は実在しない」ということを悟ります。

その中で飯尾氏の手法はユニーク。徹底的に自身の思考を疑うというもの。ほんとかどうか。事実かどうか。心理的思考かどうかは関係なく、一切の思考を疑う。彼にはクリシュナムルティのくの字もない。
自身の言葉で話す。イエスのいう「自身の想念に寝ずの番人をせよ」という教えをそのまま実践したということでしょう。自身のエゴに一切妥協しない。(このような自己に厳しい人は他にも知っています。私たちには真似できない)

最後に疑問なのですが、たとえばの話。あなたは1億人全てが悟らない限り、真の平和はないと考えているのでしょうか。あなた流の「気づき」でもいいです。世界の人全員が気づけば、平和が訪れる。
お言葉ですが、人間、意識(魂)レベルに差があります。人間「同じ」ではありません。





[25829] Re:[25828] 既知からの自由9−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/27(Mon) 12:03  

> 9章ー2[死]
>
>  さて多くの人にとって大変な問題である死の問題を取り上げましょう。あなたは死を知っています。死は毎日あなたの傍らを歩いています。死について問題を全く作り出さないほど完全に死に出会うことが可能でしょうか? その様に死に出会うためには、死についての全ての信念、全ての希望、全ての恐怖は終わらなければなりません。さもなければ、この途方もないものに結論やイメージやあらかじめ考えられた心配と共に出会っているのであり、それゆえ死に時間と共に出会っているのです。


時間と共に出会っている、はい。


>  時間は観察者と観察されるものの間の間隔です。すなわち、観察者、あなた、は死と呼ばれるこのものに出会うことを恐れています。あなたはそれが何を意味するか知りません。あなたはそれについてあらゆる種類の希望と理論を持っています。輪廻転生、復活、あるいは魂と呼ばれるあるもの、アートマン、時間を超えた、いろいろな名前で呼ばれる霊的な存在を信じます。さて自分自身で魂があるかどうか見いだしましたか? それともそれはあなたに伝えられてきた考えですか? 永遠で継続的で、思考を超えている何かがあるのですか? 思考がそれについて考えることができるならそれは思考の領域内にあり、従ってそれは永久的ではあり得ません。なぜなら思考の領域内には永久的なものは何もないからです。何物も永久的ではないということを発見することはものすごく重要です。というのはそのときのみ心は自由であり、そのときあなたは見ることができ、その中に大いなる喜びがあるからです。


>何物も永久的ではないということを発見することはものすごく重要です。というのはそのときのみ心は自由であり、そのときあなたは見ることができ、その中に大いなる喜びがあるからです。−− これはほとんどの人にとって未発見の事柄ですが、Kは述べてくれています。解説はありません。


>  未知のものを恐れることはできません。未知のものが何であるか知らないので、そこで恐れさせられる何もないのです。死は言葉です。恐怖をつくり出すのはその言葉、イメージです。そこで死を、死のイメージなしに見ることができるでしょうか? そこから思考が生じるイメージが存在する限り、思考は常に恐怖をつくるに違いありません。そして自分の死の恐怖を合理化し、避けられないものに対して抵抗するか、あるいは死の恐怖から自分を守るために無数の信念をつくりだします。それであなたと恐れているものとの間にギャップがあります。この時空の間隙の中に恐怖や不安や自己憐憫である葛藤があるに違いありません。死の恐怖を生み出す思考は「死を延期しよう、それを避けよう、できるだけ遠くにおいておこう、それについて考えないようにしよう」と言います ― しかしそれについて考えています。「それについて考えまい」と言うとき、すでにそれをどうやって避けるか考えだそうとしています。あなたが死を恐れるのは死を後回しにしたからです。


イメージがあるという事はギャップが、間隔、分離、時間があるという事ですが、こういう説明は議論、思考を呼び、時間をやめるのを妨げる延期、ガラクタになります。
 これら古いパターンをやめよ!というKの声明をよく聴くのみ(『時間の終焉』4章参照)。


> ([死]は)2回に分けて掲載します)


[25828] 既知からの自由9−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/26(Sun) 09:08  

9章ー2[死]

 さて多くの人にとって大変な問題である死の問題を取り上げましょう。あなたは死を知っています。死は毎日あなたの傍らを歩いています。死について問題を全く作り出さないほど完全に死に出会うことが可能でしょうか? その様に死に出会うためには、死についての全ての信念、全ての希望、全ての恐怖は終わらなければなりません。さもなければ、この途方もないものに結論やイメージやあらかじめ考えられた心配と共に出会っているのであり、それゆえ死に時間と共に出会っているのです。

 時間は観察者と観察されるものの間の間隔です。すなわち、観察者、あなた、は死と呼ばれるこのものに出会うことを恐れています。あなたはそれが何を意味するか知りません。あなたはそれについてあらゆる種類の希望と理論を持っています。輪廻転生、復活、あるいは魂と呼ばれるあるもの、アートマン、時間を超えた、いろいろな名前で呼ばれる霊的な存在を信じます。さて自分自身で魂があるかどうか見いだしましたか? それともそれはあなたに伝えられてきた考えですか? 永遠で継続的で、思考を超えている何かがあるのですか? 思考がそれについて考えることができるならそれは思考の領域内にあり、従ってそれは永久的ではあり得ません。なぜなら思考の領域内には永久的なものは何もないからです。何物も永久的ではないということを発見することはものすごく重要です。というのはそのときのみ心は自由であり、そのときあなたは見ることができ、その中に大いなる喜びがあるからです。

 未知のものを恐れることはできません。未知のものが何であるか知らないので、そこで恐れさせられる何もないのです。死は言葉です。恐怖をつくり出すのはその言葉、イメージです。そこで死を、死のイメージなしに見ることができるでしょうか? そこから思考が生じるイメージが存在する限り、思考は常に恐怖をつくるに違いありません。そして自分の死の恐怖を合理化し、避けられないものに対して抵抗するか、あるいは死の恐怖から自分を守るために無数の信念をつくりだします。それであなたと恐れているものとの間にギャップがあります。この時空の間隙の中に恐怖や不安や自己憐憫である葛藤があるに違いありません。死の恐怖を生み出す思考は「死を延期しよう、それを避けよう、できるだけ遠くにおいておこう、それについて考えないようにしよう」と言います ― しかしそれについて考えています。「それについて考えまい」と言うとき、すでにそれをどうやって避けるか考えだそうとしています。あなたが死を恐れるのは死を後回しにしたからです。

([死]は)2回に分けて掲載します)


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