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[25204] Re:[25203] [25202] [25201] [25200] [25199] [25198] [25197] [25196] 情熱 投稿者:ゴト 投稿日:2018/03/30(Fri) 23:17  

> > 見ることというのは実際に生起する事柄を見ているという事と、その事柄の持つ意味を見るという事があると思います。そこに新しい発見があるとき、それが思考において起こるなら新しい理解があり、行動が発生し、知識となるという具合に因果的連鎖、運動が起こります。
> > しかし、それが感受性による時、意味を見ることは理解(=洞察、直観)であり、感受性の変化(=変容?)であり、これらは因果的連鎖、過程ではないように思います。
> >
> > 感受性は感情とはちょっと違うし、情緒という言葉が近いかな、生の本源的な感受で全体性を持つのかもしれません。
>
>
>  このような場面において、クリシュナムルティの陳述が鏡となっているように感じます。その陳述を受け入れるのではなく、見ることの中で、起こっていることがクリシュナムルティの陳述がこれではないか・・と感じ入る。

見ることは実際にやってみることで、各人が試し、調べ、確かめ合うことができるとクリシュナムルティは言います。これはとても重大なことだと思います。そういう意味は普遍性を得る可能性を示しているからです。物理学と同じ意味があります。既成宗教では神や教祖に対する帰依という事があって、すべてを疑う自由がありません。もちろん自分の経験や信念に束縛されずに見ること―自由が必要ですが、自由は、自由に疑う事ができるという事も大事ですね。


> > >  言葉で指し示すことができないことを、言葉によって意思疎通する。テクニカル的な難問ということではないでしょうか。「実存」の言葉も含めて。
> >
> > 思考から思考へ伝達するときは言葉は機械的情報としてその定義が大変です。
> > しかし、感受性から感受性に伝達するときは、その都度発信者の気持ちの表現として創造的に言葉が発せられ、しかも創造的に受け取られます。こういう話の方が面白いのですが、思考のコンピューターふうなやり取りも重要です。公文書ですら、他人は感性を働かせて読みますから神経を使いますね。
>
>
>  クリシュナムルティは聴くアート(芸術)・見るアートと述べていますね・・。言葉を超えた意思疎通は奇跡的な事柄かもしれません。。


聴くアート(芸術)・見るアートは少し議論がいるかもしれません。
メロディを聴いている時、短時間ではあるが音の変化を聴いているわけですが、そこに時間という感覚はなくやはり今の中にあり、そこに興趣というか感じる印象があるでしょう。それが流れるように進んでいくわけです。その間注意というか、無意識をを含めてのトータルな意識のホーカスが結ばれているわけです。

Kの話しを聴くのも同様で、それが心という基盤(感受性もその一部か全部に近いのか)に届き、何らかの感応を起こすのかもしれません。昔Kは種を蒔かさせて下さいというふうに言いました。それが心の深層から顕在意識まで育って理解となると、自分の理解として会話できるようになるのかも。。


[25203] Re:[25202] [25201] [25200] [25199] [25198] [25197] [25196] 情熱 投稿者:宮啓 投稿日:2018/03/30(Fri) 10:38  

> > > 感受性が見て違う何かを新たに感じ取った時、感受性の変化(成長?、ミニ変容?)が起こるわけですが、それは後戻りしないように思います。嫉妬が、あるいは所有欲がやまるという事はすごく大きく、ミニ変容と言う資格はあると思うのですが。ただしそれが起こるには見ることの純粋さ、本当さがいります。
> >
> >
> >  はい。一般ピープルにとっては偶然の変容は一時的で時間の流れの中に飲み込まれてゆくのでしょうが、自己理解が進んでいる人にとっては、>自我が寂滅する速度よりも、時と共に自我が増長するスピードの方がより大きい−−、これはないように思います。
> >
> >  それゆえに、いかに「理解することが重要」であるのかということに感じます。
>
>
> 見ることというのは実際に生起する事柄を見ているという事と、その事柄の持つ意味を見るという事があると思います。そこに新しい発見があるとき、それが思考において起こるなら新しい理解があり、行動が発生し、知識となるという具合に因果的連鎖、運動が起こります。
> しかし、それが感受性による時、意味を見ることは理解(=洞察、直観)であり、感受性の変化(=変容?)であり、これらは因果的連鎖、過程ではないように思います。
>
> 感受性は感情とはちょっと違うし、情緒という言葉が近いかな、生の本源的な感受で全体性を持つのかもしれません。


 このような場面において、クリシュナムルティの陳述が鏡となっているように感じます。その陳述を受け入れるのではなく、見ることの中で、起こっていることがクリシュナムルティの陳述がこれではないか・・と感じ入る。


> 思考と感受性が二元的に感じられ、気になるのですが、ひょっとすると言葉の二重性もこれに絡んでいるのだろうか?
>
> >
> >  坐禅は、この自己理解が不十分ということではないでしょうか。ブッダから2千5百年経過したということで、不十分は避けえない。これに対して、クリシュナムルティ理解への取り組みは、直接の記述が保存されている。
> >
> >
> > > > > 近隣では、小規模の範囲では了解が成立するでしょうが、二人の間でもどうしても分かり合えないという人もいるし、規模の大きい集団や、共同体・国家間ではどのようにして相互了解が成立するか、それはどういう目で見ればいいかも調べてみたいと思っています。
> > > >
> > > >
> > > >  思考の範囲内での「相互了解」と思考を超えた「相互了解」があるように思います。
> > > >
> > > >  思考を超えた「相互了解」があるときに、思考の範囲内での「相互了解」が自ずと確立するのかもしれません。。
> > >
> > > そう、多くの言葉には何かの二重性があるようです。光と影のような。「見る」にしても、光が射すようなものと影の中にいるようなものと。愛にも自我のない愛と、愛憎の愛がありますね。これは新しい芽さんに教わりました。しかしなぜかと問うほど私はまだ成長していませんでした。
> >
> >
> >  言葉で指し示すことができないことを、言葉によって意思疎通する。テクニカル的な難問ということではないでしょうか。「実存」の言葉も含めて。
>
> 思考から思考へ伝達するときは言葉は機械的情報としてその定義が大変です。
> しかし、感受性から感受性に伝達するときは、その都度発信者の気持ちの表現として創造的に言葉が発せられ、しかも創造的に受け取られます。こういう話の方が面白いのですが、思考のコンピューターふうなやり取りも重要です。公文書ですら、他人は感性を働かせて読みますから神経を使いますね。


 クリシュナムルティは聴くアート(芸術)・見るアートと述べていますね・・。言葉を超えた意思疎通は奇跡的な事柄かもしれません。。


[25202] Re:[25201] [25200] [25199] [25198] [25197] [25196] 情熱 投稿者:ゴト 投稿日:2018/03/29(Thu) 23:57  

> > 感受性が見て違う何かを新たに感じ取った時、感受性の変化(成長?、ミニ変容?)が起こるわけですが、それは後戻りしないように思います。嫉妬が、あるいは所有欲がやまるという事はすごく大きく、ミニ変容と言う資格はあると思うのですが。ただしそれが起こるには見ることの純粋さ、本当さがいります。
>
>
>  はい。一般ピープルにとっては偶然の変容は一時的で時間の流れの中に飲み込まれてゆくのでしょうが、自己理解が進んでいる人にとっては、>自我が寂滅する速度よりも、時と共に自我が増長するスピードの方がより大きい−−、これはないように思います。
>
>  それゆえに、いかに「理解することが重要」であるのかということに感じます。


見ることというのは実際に生起する事柄を見ているという事と、その事柄の持つ意味を見るという事があると思います。そこに新しい発見があるとき、それが思考において起こるなら新しい理解があり、行動が発生し、知識となるという具合に因果的連鎖、運動が起こります。
しかし、それが感受性による時、意味を見ることは理解(=洞察、直観)であり、感受性の変化(=変容?)であり、これらは因果的連鎖、過程ではないように思います。

感受性は感情とはちょっと違うし、情緒という言葉が近いかな、生の本源的な感受で全体性を持つのかもしれません。

思考と感受性が二元的に感じられ、気になるのですが、ひょっとすると言葉の二重性もこれに絡んでいるのだろうか?

>
>  坐禅は、この自己理解が不十分ということではないでしょうか。ブッダから2千5百年経過したということで、不十分は避けえない。これに対して、クリシュナムルティ理解への取り組みは、直接の記述が保存されている。
>
>
> > > > 近隣では、小規模の範囲では了解が成立するでしょうが、二人の間でもどうしても分かり合えないという人もいるし、規模の大きい集団や、共同体・国家間ではどのようにして相互了解が成立するか、それはどういう目で見ればいいかも調べてみたいと思っています。
> > >
> > >
> > >  思考の範囲内での「相互了解」と思考を超えた「相互了解」があるように思います。
> > >
> > >  思考を超えた「相互了解」があるときに、思考の範囲内での「相互了解」が自ずと確立するのかもしれません。。
> >
> > そう、多くの言葉には何かの二重性があるようです。光と影のような。「見る」にしても、光が射すようなものと影の中にいるようなものと。愛にも自我のない愛と、愛憎の愛がありますね。これは新しい芽さんに教わりました。しかしなぜかと問うほど私はまだ成長していませんでした。
>
>
>  言葉で指し示すことができないことを、言葉によって意思疎通する。テクニカル的な難問ということではないでしょうか。「実存」の言葉も含めて。

思考から思考へ伝達するときは言葉は機械的情報としてその定義が大変です。
しかし、感受性から感受性に伝達するときは、その都度発信者の気持ちの表現として創造的に言葉が発せられ、しかも創造的に受け取られます。こういう話の方が面白いのですが、思考のコンピューターふうなやり取りも重要です。公文書ですら、他人は感性を働かせて読みますから神経を使いますね。


[25201] Re:[25200] [25199] [25198] [25197] [25196] 情熱 投稿者:宮啓 投稿日:2018/03/29(Thu) 09:31  

> > > > > 情熱というのは人間の内側のエネルギーが、何かに向かって多量に流れることなのだろうが、それは個人においてはどのような時に起こるのだろうか?
> > > > >
> > > > > 私は自分の体験を踏まえながら、クリシュナムルティの説くところに向かって、どういう時、情熱が生まれるかを考えてみたいのです。人によってさまざまでしょうが、それは一種の(聖なる)狂気、忘我の状態、世間的な損得・名声を顧みないで上を目指すといった感じではないでしょうか。
> > > > >
> > > > > それでKの本を読む、聴く。それがすでに忘我、あるいは瞑想の状態で聞くことであるし、生活の場面場面でそのように見る、聴く、知覚する、あるいは気づいているという情熱がすべてではないかと思います。それが示唆されたからそうすることは極めて困難であって、いつの間にか自ずとそうしているという事でしょう。
> > > > >
> > > > > このように日常の生活で見ているには大きな情熱がいります。しかし実際はそうはいきません。大きな葛藤、抗争があるときは見ます。それがなくなると何をしていいかわかりません。家の秩序はどうなっているかって?、まあ、こんなものではないでしょうか?
> > > > >
> > > > > それで真・善・美の確かな立脚点は何か、「本当」とはどういうことか調べました。それは次回報告します。
> > > >
> > > >
> > > >  動物が有する情熱。
> > > >
> > > >  人はこれにプラスして観念による情熱があるように思います。
> > > >
> > > >  クリシュナムルティ理解への取り組みも、その入り口においては上記の情熱がモチベーションとなるように思います。
> > > >
> > > >  そして理解が進むにつれ、暗黒が直視できるようになるように思います。
> > > >
> > > >  暗黒が直視できないのは、観念の光(理想・友愛・無償の愛等々)によって照らされているからではないでしょうか・・。
> > > >
> > > >  観念の光によって照らされた世界では、人は「光」を求めることがあるのでしょうか・・。
> > > >
> > > >  人が「光」を求めるのは、暗黒であることに目覚めて初めて取り組むことができるように思います。
> > > >
> > > >  クリシュナムルティ理解への取り組みに多くの人が関心を示さないのは、その観念の光ゆえではないでしょうか・・。
> > > >
> > > >  真理を求める情熱とは、目覚めて「暗黒」が「本当」であると理解したときに、クリシュナムルティの示唆があるが故に、光を求めることを諦めない情熱ということではないでしょうか・・。
> > >
> > >
> > > 私の言葉の足りない文にレスをくださってありがとうございます。
> > >
> > > おっしゃる通り、理性的・観念的な取り組みではあるべきとか、〜すべきが入り込み、なかなかというところがありそうです。なんというか、理屈抜きでの実存的な心身一体での取り組みが必要でしょう。
> > >
> > > ですが実存的に取り組んでも、そこに自己中心性が何かしらある時、関係の中にならかの葛藤・対立・苦悩があります。例えば恋愛の中にも恍惚だけでなく、支配欲、嫉妬、不安が入り込みます。それらが何かでふっと見られ解消するとき、自己中心性(暗黒)の当面の課題が消え、変容?があるのでしょうか。
> >
> >
> >  「実存」という言葉が気になっています。クリシュナムルティを読み込んでいる者は、上記の記述の意味をくみ取ることができるのですが・・、クリシュナムルティに取り組んでいないが実存哲学を知っている者にとっては、「実存」の意味を取り違えて解釈するのでは・・と気になっています。
> >
> >  実存哲学の「実存」とクリシュナムルティの「生」とは、別ものではないでしょうか。。
> >
> >  そのような混同を避けるため、私なら「実存」の言葉を用いないと思います。
> >
>
> そうですね。私も今読んで実存という言葉がいきなり登場して違和感があります。しかし今、その実際の状況を具体的に言い表そうとするとどうなりますか、頭でなく、マインド&ハートでとか、感受性の目でとかいう事になりますが、短く言うと見るでいいのですがちょっと物足りない。
>
> > > たぶん、人は多かれ少なかれ、このようなことを少なくとも小規模で味わったことがあるでしょう。そうして個人的にも他者とも愛、了解を持っていくのでしょう。この、自己中心性なく見、聴き、知覚している、対象との分離のない心身一体の境地がすべての基盤なのかもしれません。
> >
> >
> >  その境地が基盤であることは了解ですが、その小さな変容によって自我が寂滅する速度よりも、時と共に自我が増長するスピードの方がより大きいように感じています。
>
> 感受性が見て違う何かを新たに感じ取った時、感受性の変化(成長?、ミニ変容?)が起こるわけですが、それは後戻りしないように思います。嫉妬が、あるいは所有欲がやまるという事はすごく大きく、ミニ変容と言う資格はあると思うのですが。ただしそれが起こるには見ることの純粋さ、本当さがいります。


 はい。一般ピープルにとっては偶然の変容は一時的で時間の流れの中に飲み込まれてゆくのでしょうが、自己理解が進んでいる人にとっては、>自我が寂滅する速度よりも、時と共に自我が増長するスピードの方がより大きい−−、これはないように思います。

 それゆえに、いかに「理解することが重要」であるのかということに感じます。

 坐禅は、この自己理解が不十分ということではないでしょうか。ブッダから2千5百年経過したということで、不十分は避けえない。これに対して、クリシュナムルティ理解への取り組みは、直接の記述が保存されている。


> > > 近隣では、小規模の範囲では了解が成立するでしょうが、二人の間でもどうしても分かり合えないという人もいるし、規模の大きい集団や、共同体・国家間ではどのようにして相互了解が成立するか、それはどういう目で見ればいいかも調べてみたいと思っています。
> >
> >
> >  思考の範囲内での「相互了解」と思考を超えた「相互了解」があるように思います。
> >
> >  思考を超えた「相互了解」があるときに、思考の範囲内での「相互了解」が自ずと確立するのかもしれません。。
>
> そう、多くの言葉には何かの二重性があるようです。光と影のような。「見る」にしても、光が射すようなものと影の中にいるようなものと。愛にも自我のない愛と、愛憎の愛がありますね。これは新しい芽さんに教わりました。しかしなぜかと問うほど私はまだ成長していませんでした。


 言葉で指し示すことができないことを、言葉によって意思疎通する。テクニカル的な難問ということではないでしょうか。「実存」の言葉も含めて。


[25200] Re:[25199] [25198] [25197] [25196] 情熱 投稿者:ゴト 投稿日:2018/03/28(Wed) 16:38  

> > > > 情熱というのは人間の内側のエネルギーが、何かに向かって多量に流れることなのだろうが、それは個人においてはどのような時に起こるのだろうか?
> > > >
> > > > 私は自分の体験を踏まえながら、クリシュナムルティの説くところに向かって、どういう時、情熱が生まれるかを考えてみたいのです。人によってさまざまでしょうが、それは一種の(聖なる)狂気、忘我の状態、世間的な損得・名声を顧みないで上を目指すといった感じではないでしょうか。
> > > >
> > > > それでKの本を読む、聴く。それがすでに忘我、あるいは瞑想の状態で聞くことであるし、生活の場面場面でそのように見る、聴く、知覚する、あるいは気づいているという情熱がすべてではないかと思います。それが示唆されたからそうすることは極めて困難であって、いつの間にか自ずとそうしているという事でしょう。
> > > >
> > > > このように日常の生活で見ているには大きな情熱がいります。しかし実際はそうはいきません。大きな葛藤、抗争があるときは見ます。それがなくなると何をしていいかわかりません。家の秩序はどうなっているかって?、まあ、こんなものではないでしょうか?
> > > >
> > > > それで真・善・美の確かな立脚点は何か、「本当」とはどういうことか調べました。それは次回報告します。
> > >
> > >
> > >  動物が有する情熱。
> > >
> > >  人はこれにプラスして観念による情熱があるように思います。
> > >
> > >  クリシュナムルティ理解への取り組みも、その入り口においては上記の情熱がモチベーションとなるように思います。
> > >
> > >  そして理解が進むにつれ、暗黒が直視できるようになるように思います。
> > >
> > >  暗黒が直視できないのは、観念の光(理想・友愛・無償の愛等々)によって照らされているからではないでしょうか・・。
> > >
> > >  観念の光によって照らされた世界では、人は「光」を求めることがあるのでしょうか・・。
> > >
> > >  人が「光」を求めるのは、暗黒であることに目覚めて初めて取り組むことができるように思います。
> > >
> > >  クリシュナムルティ理解への取り組みに多くの人が関心を示さないのは、その観念の光ゆえではないでしょうか・・。
> > >
> > >  真理を求める情熱とは、目覚めて「暗黒」が「本当」であると理解したときに、クリシュナムルティの示唆があるが故に、光を求めることを諦めない情熱ということではないでしょうか・・。
> >
> >
> > 私の言葉の足りない文にレスをくださってありがとうございます。
> >
> > おっしゃる通り、理性的・観念的な取り組みではあるべきとか、〜すべきが入り込み、なかなかというところがありそうです。なんというか、理屈抜きでの実存的な心身一体での取り組みが必要でしょう。
> >
> > ですが実存的に取り組んでも、そこに自己中心性が何かしらある時、関係の中にならかの葛藤・対立・苦悩があります。例えば恋愛の中にも恍惚だけでなく、支配欲、嫉妬、不安が入り込みます。それらが何かでふっと見られ解消するとき、自己中心性(暗黒)の当面の課題が消え、変容?があるのでしょうか。
>
>
>  「実存」という言葉が気になっています。クリシュナムルティを読み込んでいる者は、上記の記述の意味をくみ取ることができるのですが・・、クリシュナムルティに取り組んでいないが実存哲学を知っている者にとっては、「実存」の意味を取り違えて解釈するのでは・・と気になっています。
>
>  実存哲学の「実存」とクリシュナムルティの「生」とは、別ものではないでしょうか。。
>
>  そのような混同を避けるため、私なら「実存」の言葉を用いないと思います。
>

そうですね。私も今読んで実存という言葉がいきなり登場して違和感があります。しかし今、その実際の状況を具体的に言い表そうとするとどうなりますか、頭でなく、マインド&ハートでとか、感受性の目でとかいう事になりますが、短く言うと見るでいいのですがちょっと物足りない。

> > たぶん、人は多かれ少なかれ、このようなことを少なくとも小規模で味わったことがあるでしょう。そうして個人的にも他者とも愛、了解を持っていくのでしょう。この、自己中心性なく見、聴き、知覚している、対象との分離のない心身一体の境地がすべての基盤なのかもしれません。
>
>
>  その境地が基盤であることは了解ですが、その小さな変容によって自我が寂滅する速度よりも、時と共に自我が増長するスピードの方がより大きいように感じています。

感受性が見て違う何かを新たに感じ取った時、感受性の変化(成長?、ミニ変容?)が起こるわけですが、それは後戻りしないように思います。嫉妬が、あるいは所有欲がやまるという事はすごく大きく、ミニ変容と言う資格はあると思うのですが。ただしそれが起こるには見ることの純粋さ、本当さがいります。

>
> > 近隣では、小規模の範囲では了解が成立するでしょうが、二人の間でもどうしても分かり合えないという人もいるし、規模の大きい集団や、共同体・国家間ではどのようにして相互了解が成立するか、それはどういう目で見ればいいかも調べてみたいと思っています。
>
>
>  思考の範囲内での「相互了解」と思考を超えた「相互了解」があるように思います。
>
>  思考を超えた「相互了解」があるときに、思考の範囲内での「相互了解」が自ずと確立するのかもしれません。。

そう、多くの言葉には何かの二重性があるようです。光と影のような。「見る」にしても、光が射すようなものと影の中にいるようなものと。愛にも自我のない愛と、愛憎の愛がありますね。これは新しい芽さんに教わりました。しかしなぜかと問うほど私はまだ成長していませんでした。


[25199] Re:[25198] [25197] [25196] 情熱 投稿者:宮啓 投稿日:2018/03/28(Wed) 09:54  

> > > 情熱というのは人間の内側のエネルギーが、何かに向かって多量に流れることなのだろうが、それは個人においてはどのような時に起こるのだろうか?
> > >
> > > 私は自分の体験を踏まえながら、クリシュナムルティの説くところに向かって、どういう時、情熱が生まれるかを考えてみたいのです。人によってさまざまでしょうが、それは一種の(聖なる)狂気、忘我の状態、世間的な損得・名声を顧みないで上を目指すといった感じではないでしょうか。
> > >
> > > それでKの本を読む、聴く。それがすでに忘我、あるいは瞑想の状態で聞くことであるし、生活の場面場面でそのように見る、聴く、知覚する、あるいは気づいているという情熱がすべてではないかと思います。それが示唆されたからそうすることは極めて困難であって、いつの間にか自ずとそうしているという事でしょう。
> > >
> > > このように日常の生活で見ているには大きな情熱がいります。しかし実際はそうはいきません。大きな葛藤、抗争があるときは見ます。それがなくなると何をしていいかわかりません。家の秩序はどうなっているかって?、まあ、こんなものではないでしょうか?
> > >
> > > それで真・善・美の確かな立脚点は何か、「本当」とはどういうことか調べました。それは次回報告します。
> >
> >
> >  動物が有する情熱。
> >
> >  人はこれにプラスして観念による情熱があるように思います。
> >
> >  クリシュナムルティ理解への取り組みも、その入り口においては上記の情熱がモチベーションとなるように思います。
> >
> >  そして理解が進むにつれ、暗黒が直視できるようになるように思います。
> >
> >  暗黒が直視できないのは、観念の光(理想・友愛・無償の愛等々)によって照らされているからではないでしょうか・・。
> >
> >  観念の光によって照らされた世界では、人は「光」を求めることがあるのでしょうか・・。
> >
> >  人が「光」を求めるのは、暗黒であることに目覚めて初めて取り組むことができるように思います。
> >
> >  クリシュナムルティ理解への取り組みに多くの人が関心を示さないのは、その観念の光ゆえではないでしょうか・・。
> >
> >  真理を求める情熱とは、目覚めて「暗黒」が「本当」であると理解したときに、クリシュナムルティの示唆があるが故に、光を求めることを諦めない情熱ということではないでしょうか・・。
>
>
> 私の言葉の足りない文にレスをくださってありがとうございます。
>
> おっしゃる通り、理性的・観念的な取り組みではあるべきとか、〜すべきが入り込み、なかなかというところがありそうです。なんというか、理屈抜きでの実存的な心身一体での取り組みが必要でしょう。
>
> ですが実存的に取り組んでも、そこに自己中心性が何かしらある時、関係の中にならかの葛藤・対立・苦悩があります。例えば恋愛の中にも恍惚だけでなく、支配欲、嫉妬、不安が入り込みます。それらが何かでふっと見られ解消するとき、自己中心性(暗黒)の当面の課題が消え、変容?があるのでしょうか。


 「実存」という言葉が気になっています。クリシュナムルティを読み込んでいる者は、上記の記述の意味をくみ取ることができるのですが・・、クリシュナムルティに取り組んでいないが実存哲学を知っている者にとっては、「実存」の意味を取り違えて解釈するのでは・・と気になっています。

 実存哲学の「実存」とクリシュナムルティの「生」とは、別ものではないでしょうか。。

 そのような混同を避けるため、私なら「実存」の言葉を用いないと思います。


> たぶん、人は多かれ少なかれ、このようなことを少なくとも小規模で味わったことがあるでしょう。そうして個人的にも他者とも愛、了解を持っていくのでしょう。この、自己中心性なく見、聴き、知覚している、対象との分離のない心身一体の境地がすべての基盤なのかもしれません。


 その境地が基盤であることは了解ですが、その小さな変容によって自我が寂滅する速度よりも、時と共に自我が増長するスピードの方がより大きいように感じています。


> 近隣では、小規模の範囲では了解が成立するでしょうが、二人の間でもどうしても分かり合えないという人もいるし、規模の大きい集団や、共同体・国家間ではどのようにして相互了解が成立するか、それはどういう目で見ればいいかも調べてみたいと思っています。


 思考の範囲内での「相互了解」と思考を超えた「相互了解」があるように思います。

 思考を超えた「相互了解」があるときに、思考の範囲内での「相互了解」が自ずと確立するのかもしれません。。


[25198] Re:[25197] [25196] 情熱 投稿者:ゴト 投稿日:2018/03/27(Tue) 18:12  

> > 情熱というのは人間の内側のエネルギーが、何かに向かって多量に流れることなのだろうが、それは個人においてはどのような時に起こるのだろうか?
> >
> > 私は自分の体験を踏まえながら、クリシュナムルティの説くところに向かって、どういう時、情熱が生まれるかを考えてみたいのです。人によってさまざまでしょうが、それは一種の(聖なる)狂気、忘我の状態、世間的な損得・名声を顧みないで上を目指すといった感じではないでしょうか。
> >
> > それでKの本を読む、聴く。それがすでに忘我、あるいは瞑想の状態で聞くことであるし、生活の場面場面でそのように見る、聴く、知覚する、あるいは気づいているという情熱がすべてではないかと思います。それが示唆されたからそうすることは極めて困難であって、いつの間にか自ずとそうしているという事でしょう。
> >
> > このように日常の生活で見ているには大きな情熱がいります。しかし実際はそうはいきません。大きな葛藤、抗争があるときは見ます。それがなくなると何をしていいかわかりません。家の秩序はどうなっているかって?、まあ、こんなものではないでしょうか?
> >
> > それで真・善・美の確かな立脚点は何か、「本当」とはどういうことか調べました。それは次回報告します。
>
>
>  動物が有する情熱。
>
>  人はこれにプラスして観念による情熱があるように思います。
>
>  クリシュナムルティ理解への取り組みも、その入り口においては上記の情熱がモチベーションとなるように思います。
>
>  そして理解が進むにつれ、暗黒が直視できるようになるように思います。
>
>  暗黒が直視できないのは、観念の光(理想・友愛・無償の愛等々)によって照らされているからではないでしょうか・・。
>
>  観念の光によって照らされた世界では、人は「光」を求めることがあるのでしょうか・・。
>
>  人が「光」を求めるのは、暗黒であることに目覚めて初めて取り組むことができるように思います。
>
>  クリシュナムルティ理解への取り組みに多くの人が関心を示さないのは、その観念の光ゆえではないでしょうか・・。
>
>  真理を求める情熱とは、目覚めて「暗黒」が「本当」であると理解したときに、クリシュナムルティの示唆があるが故に、光を求めることを諦めない情熱ということではないでしょうか・・。


私の言葉の足りない文にレスをくださってありがとうございます。

おっしゃる通り、理性的・観念的な取り組みではあるべきとか、〜すべきが入り込み、なかなかというところがありそうです。なんというか、理屈抜きでの実存的な心身一体での取り組みが必要でしょう。

ですが実存的に取り組んでも、そこに自己中心性が何かしらある時、関係の中にならかの葛藤・対立・苦悩があります。例えば恋愛の中にも恍惚だけでなく、支配欲、嫉妬、不安が入り込みます。それらが何かでふっと見られ解消するとき、自己中心性(暗黒)の当面の課題が消え、変容?があるのでしょうか。

たぶん、人は多かれ少なかれ、このようなことを少なくとも小規模で味わったことがあるでしょう。そうして個人的にも他者とも愛、了解を持っていくのでしょう。この、自己中心性なく見、聴き、知覚している、対象との分離のない心身一体の境地がすべての基盤なのかもしれません。

近隣では、小規模の範囲では了解が成立するでしょうが、二人の間でもどうしても分かり合えないという人もいるし、規模の大きい集団や、共同体・国家間ではどのようにして相互了解が成立するか、それはどういう目で見ればいいかも調べてみたいと思っています。


[25197] Re:[25196] 情熱 投稿者:宮啓 投稿日:2018/03/27(Tue) 09:03  

> 情熱というのは人間の内側のエネルギーが、何かに向かって多量に流れることなのだろうが、それは個人においてはどのような時に起こるのだろうか?
>
> 私は自分の体験を踏まえながら、クリシュナムルティの説くところに向かって、どういう時、情熱が生まれるかを考えてみたいのです。人によってさまざまでしょうが、それは一種の(聖なる)狂気、忘我の状態、世間的な損得・名声を顧みないで上を目指すといった感じではないでしょうか。
>
> それでKの本を読む、聴く。それがすでに忘我、あるいは瞑想の状態で聞くことであるし、生活の場面場面でそのように見る、聴く、知覚する、あるいは気づいているという情熱がすべてではないかと思います。それが示唆されたからそうすることは極めて困難であって、いつの間にか自ずとそうしているという事でしょう。
>
> このように日常の生活で見ているには大きな情熱がいります。しかし実際はそうはいきません。大きな葛藤、抗争があるときは見ます。それがなくなると何をしていいかわかりません。家の秩序はどうなっているかって?、まあ、こんなものではないでしょうか?
>
> それで真・善・美の確かな立脚点は何か、「本当」とはどういうことか調べました。それは次回報告します。


 動物が有する情熱。

 人はこれにプラスして観念による情熱があるように思います。

 クリシュナムルティ理解への取り組みも、その入り口においては上記の情熱がモチベーションとなるように思います。

 そして理解が進むにつれ、暗黒が直視できるようになるように思います。

 暗黒が直視できないのは、観念の光(理想・友愛・無償の愛等々)によって照らされているからではないでしょうか・・。

 観念の光によって照らされた世界では、人は「光」を求めることがあるのでしょうか・・。

 人が「光」を求めるのは、暗黒であることに目覚めて初めて取り組むことができるように思います。

 クリシュナムルティ理解への取り組みに多くの人が関心を示さないのは、その観念の光ゆえではないでしょうか・・。

 真理を求める情熱とは、目覚めて「暗黒」が「本当」であると理解したときに、クリシュナムルティの示唆があるが故に、光を求めることを諦めない情熱ということではないでしょうか・・。


[25196] 情熱 投稿者:ゴト 投稿日:2018/03/26(Mon) 17:54  

情熱というのは人間の内側のエネルギーが、何かに向かって多量に流れることなのだろうが、それは個人においてはどのような時に起こるのだろうか?

私は自分の体験を踏まえながら、クリシュナムルティの説くところに向かって、どういう時、情熱が生まれるかを考えてみたいのです。人によってさまざまでしょうが、それは一種の(聖なる)狂気、忘我の状態、世間的な損得・名声を顧みないで上を目指すといった感じではないでしょうか。

それでKの本を読む、聴く。それがすでに忘我、あるいは瞑想の状態で聞くことであるし、生活の場面場面でそのように見る、聴く、知覚する、あるいは気づいているという情熱がすべてではないかと思います。それが示唆されたからそうすることは極めて困難であって、いつの間にか自ずとそうしているという事でしょう。

このように日常の生活で見ているには大きな情熱がいります。しかし実際はそうはいきません。大きな葛藤、抗争があるときは見ます。それがなくなると何をしていいかわかりません。家の秩序はどうなっているかって?、まあ、こんなものではないでしょうか?

それで真・善・美の確かな立脚点は何か、「本当」とはどういうことか調べました。それは次回報告します。


[25195] Re:[25194] [25193] [25191] [25190] [25189] [25188] [25187] [25186] [25185] [25184] 意味・価値とは何か 投稿者:ゴト 投稿日:2018/03/18(Sun) 15:37  

> > > > > > > > > > 意味・価値はどういうものか、私は恥ずかしながらよく知らなかった。ようやく、意味、価値は聖なるものとか理念、理想ではないという話を聞いた。
> > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > 生き物でない鉱物的世界には意味も価値もないだろう。植物はちょっとわからないが、動物の実存的な生の中にこそ意味、価値はあると。そこから意味、価値は発生すると。
> > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > アメーバみたいな原始的な、直接の接触でしか世界を知覚できない動物では、さすがに単なる反射行動のみがあるかどうか、動物行動学者も判定できないそうだ。実際には、心地よい何かにぶつかった時にはそれを全身で包んで離さないようにするとか、心地よくないものに対しては大急ぎで離れるような人間的に見えてしまう行動をとるとかするので、困ってしまうそうだ。
> > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > しかし、少し進化した動物で触手のようなものを持つと、自分の本体が対象と接触する前に知覚することができる―遠隔知覚という。視覚や聴覚が代表的それである。身体と離れては考えられない。
> > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > これにより対象との接触に空間と時間のゆとりが生じ、欲望衝動の意味・価値が審級できるようになったという事らしい。しかし、何をしたいかというその本心は本来一瞥的に理解出来るるものですね。
> > > > > > > > > >
> > > > > > > > > > 哲学の話の方はこれからどう進むのかまだ全然わかりません。
> > > > > > > > >
> > > > > > > > >
> > > > > > > > >  聖なるものがあるとすれば、それは思考によって検証されえないことをクリシュナムルティは述べています。
> > > > > > > > >
> > > > > > > > >  ゴトさんは、聖なるものではない世界についての検証を行っているのでしょうか・・。。
> > > > > > > >
> > > > > > > >
> > > > > > > > 思考は聖なるものを創り出すことができます。道端で拾った人面に見える木片が、毎日眺め、花を備えてやると聖なるものに見えてしまいます。聖なるものには用心しなければなりません。意識が判定できるものなのか?!
> > > > > > > >
> > > > > > > > それで物事の確信できる立脚点は何なのか? 哲学者の追求するところについて行っています。竹田氏(以下T氏)プラトン、アリストテレスから始まり、カント、ヘーゲル、ニーチェ、フッサール、ハイデガーの巨峰から現代にいたる哲学者、思想家のすべてと言えるほどの人の功績と過誤を検証し、つまり思考の到達したところと過誤を検証しながら、確かな立脚点を探しているように見えます。私はそれについていきたいのです。
> > > > > > > >
> > > > > > > > 昔風に聖と俗という区分をすれば、T氏の言うところは俗にも見えますが、思考の確かな立脚点を知ることができたら、それは新しい境地を開くと確信しています。
> > > > > > > >
> > > > > > > > 思考の確かな立脚点が見つかるかどうか、興味ある問題でしょう。今はあまりにもいい加減な使い方がされています。自然科学の領域ですら、立脚点がしっかりしているようで、それがどこに行くかも知らないのです。
> > > > > > >
> > > > > > >
> > > > > > >  その「確信」を希求する主体とは何でしょうか。。
> > > > > > >
> > > > > > >  その主体こそが「非立脚体」ではないでしょうか。。
> > > > > >
> > > > > >
> > > > > > その主体は私でも、T氏でも、人間でもいいのですが、人間というと観念的に普通捉えるのですがそうでなく、生活世界の中に生きていて、情動、衝動、切迫、思考感情、欲望を感じて動く実存的な人間として追及するという事です。
> > > > > >
> > > > > > ですから、条件付けを持ち、浄化が済んだなどと言えるものでない凡人(覚者ではない人)が思い立って尋究します。それゆえ、もちろんしっかりした立脚点を知らず、知らないことを
> > > > > > 知って、今まで人間が調べてきたことを調べなおしています。
> > > > > >
> > > > > > 多くの精緻を極めた宗教的教理があります。これらは遺憾ながら対立し普遍的になり得ないとしか思えません。それで哲学の中に起きている動きを注目して見ています。
> > > > > >
> > > > > > 今私では理解しにくい難しいところが出てきて、しかもそれが真理にかかわるところですが、意味がくみ取れず、苦戦しています。
> > > > >
> > > > >
> > > > >  その真理に関わるところは聖なるものとは別の何かなのか・・、あるいは、聖なるものと関わりを有する何かなのか・・。
> > > >
> > > > ハイデガーの存在論にかかわるところで、その存在論がよくわからないというか私が知らなさすぎるのです。人間存在がその本当のところは隠されているが、それがともかく顕現するときそれが真理だというようなことですが、その辺が妙にわかりません。
> > > >
> > > > >
> > > > >  真理を知識に固定することができるのか・・。
> > > > >
> > > > >  思考の産物は真理と共存し得るのか。。
> > > >
> > > > 思考が真理を認識できるとして議論するところが間違っているとのことのようです。
> > > >
> > > > >
> > > > >  私の個人的な感想としては、「思考の産物」と「真理」の共存の試みを為しているように見受けられるのです。
> > > > >  これは、人類が始まって200万年間、試みられたことではないでしょうか。。
> > > >
> > > > まあ、哲学は古代ギリシャのころからですが、そこで現代のいま進路を変えるという事です。
> > > >
> > > > 世界そのものを人間が認識するという事は不可能なので、それはやめるのですが、それは世界がないと言う事ではなく、世界があることは人間の共通の確信、不可疑性のことです。物理学のやってきたことも同様に普遍的に信じることのできるものです。
> > > > しかし、人間的「身体「」の領域と人間的「意識」の領域は異なった領域として了解する限りで、それぞれの洞察と関係は洞察することができる。その始発点は我々の持つ「現前意識」である。
> > > >
> > > > やっとこの辺まで来ました。ここからどう新しい筋道を歩み始めるのか、興味を持ってつかみたいのですが。。
> > >
> > >
> > >  それはわるいことではないのですが・・。
> > >
> > >  際限のない時間を要するのではないでしょうか・・。
> > >
> > >  1万年後も、その議論は続いているように感じます。
> > >
> > >  今、変わらなければ・・、未来も変わっていないように思われます。
> > >
> > >  「光陰矢の如し・・」とは「現前意識」の世界での現象であり、現にある真理の世界では「光陰矢の如し・・」の現象は無く、「今変わるか否か・・」ではないでしょうか。。
> > >
> > >  クリシュナムルティは「光陰矢の如し・・」とは一言も述べていないのです。
> > >
> > >  私は、個的有機体を有する有限な時間を、「光陰矢の如し・・」に費やすことをよしとしないのです。。
> >
> >
> > クリシュナムルティと同じように変容を遂げた人は一人もいなかった。つまり変容を遂げるために個人が浄化に努めるという事は「光陰矢の如し・・」に有限な時間を費やすことでしょうか。
>
>
>  ゴトさんは、>変容を遂げるために個人が浄化に努めるという事−−、これを為しているのですね。。それなら安心しました。クリシュナムルティ理解への取り組みとは別のことに取り組んでいるのかと思っていました。。

私がどういうふうにこの頃生きていると言えば、クリシュナムルティ理解への取り組みをしている、あるいは浄化の日々を生きていると言えないことはないが、、逆にそのことが何を意味しているかと言うととてつもない理想化された何かになっていないかと怖いような気がします。

生活世界で生きるのは、家人や社会の他人に対してと自分の身体に対してもですが、受動的におとなしく聞いて動いています。そこに摩擦は起きず、関係はいいですよ。そして自分がいっぱい条件付けが残っているから努力してなくさなくてはいけないとか、Kの言う変容に比較して程度が低いから高めなければとか、比較計量して自分を責める、努力する、そういう事も全くないのです。そうでなくてやりたいことがあればしているという事ですが、たまたま非常に本格的哲学書が出て、その主題が気に入って読んでいます。

>
> > 現前意識が、自由な主体性を持ち行動できるようになったら、現実が力の原理で押し切られないような、はっきりした妥当性を持つ言論をうちたてることは当然必要ですが、それは哲学の主要な仕事です。意味、価値、正・不正、善悪、これらがまっとうに議論され、力の論理など吹き飛ばすことが必要です。そうでなければ戦争はなくならない。
>
>
>  「クリシュナムルティの陳述」を聴く耳を持たない「力」が、哲学を聴く耳を持つ可能性があると、ゴトさんは感じているのですね。その「力」を、「大衆」や「統治者」「資産家」とどのような呼び名に変えてもオーケーです。

そうです。現実社会の中でもまれていい意味でのパワーと経験・知識を身につけて実力を持っている人。その人はその力のはけ口が見つからず、エネルギーを浪費しています。

>
> > なお光陰矢の如しの問題ですが、過ぎ去った時間を後悔することなく、これからの短さを気に留めない人は永遠のいまに生きています。

>
>  クリシュナムルティの世界に生きていることが確認でき、安心しました。

それはどうもご心配かけてすみません。どうも哲学書の言っていることを自分の言葉でまだうまく記述できないで、歯がゆい思いをしています。


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