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[24201] Re:[24199] 生と死 投稿者:外野 投稿日:2017/08/19(Sat) 10:04  

> 「既知からの自由」より
>
> 引用
>
> 私たちはどう生きればいいのか知りません。それゆえ、どう死ねばいいのかも知らないのです。
>
> 中略
>
> その時、生と死は同一です。
>
> 中略
>
> 愛することは死ぬことだからです。

 ここは、あくまで心理的思考の話であって、実際に「死ぬ」ということではありません。当然ながら。
 何かを愛するとき、心理的思考の入る余地はありません。好き嫌いの二元的思考は心理的思考ですが、ここでの愛は、二元を超えたもの。
 
> 以上引用終わり
>
>
> 一般の生は記憶からの思考、そして判断と続く繰り返しです。
> 必要な記憶は別として、好き嫌い善い悪い等の判断の元になる
> 思考群とそのまた元の記憶からの自由が生であるという。

思考や記憶からの自由が生ということですか?

> これは、わかります。体現しているかどうかは別として。

思考記憶は過去の経験知識といっても、実際私たちは使わないわけにはいきません。
>
> わからないのは、いや、わかろうとしないのかもしれませんが死がこれと同じ躍動的で自由だということです。

 死が自由?
>
> ここまで書いてきて、肉体という制約がなければ、さらに躍動的で自由もあるかなと思い直しました。

 Kのいう死は心理的思考の死ではないですか。
 思考は現れては消える。思考は現れては消える。その消えることが思考の死。
 これをあやまってとらえると肉体を粗末にする自殺願望になる。崖に飛び込めば自由だと。あるいは平気で自爆テロというように肉体を粗末に扱う。
 何アのマンデラ大頭領は、私はたとえ牢獄にいようとも自由だといった。肉体は牢屋にいれられ自由に活動できないが、思想考え方は自由だと。ようするに思考への執着はない。

>
> しかしながら、死の恐怖が消えることはまだありません。様々な記憶からくる思考の判断のせいでしょう。

 肉体の死が怖いというのは誰でも同じ。その恐怖をやわらげるためにある宗教は輪廻転生を説いた。死んだら極楽を生けると。
 しかし、死は誰でもくるものですが、実際そのことを考えてもしょうがない。
 仮に、がんが発見され余命1年と言われたとき、どのような気持になるか想像つきません。
>
>
> 愛することは死ぬこと。

あやまってとらえると大変なことに。心中とか。

> あの人がああだったこうだった、こうあるべきだとイメージが先行して関係すれば、愛することがどうしてできるでしょう。

 愛する対象ができたときは、それらは関係ありません。
>
>
> なにが質問かと言えば、肉体的死の恐怖は心理的に死ねてないからなんでしょうか?それともそれは生存本能?

 あれこれ先のことを考えるのは人間の習慣。性(さが)。先のことは厳密にはわからない。「今」を生きるには、心理的に過去を捨てるしかないでしょう。過去を捨てることが心理的思考の死。肉体の死が怖いというのもKによれば過去の経験記憶情報の産物ということになります。そのときになってみなければわからない。
>


[24200] 心理的思考 投稿者:外野 投稿日:2017/08/19(Sat) 09:17  

 南方さんから、重要な問題提起を出されました。これからなるべく「クリシュナムルティ」だけに絞って対話しようと思います。他のことはひとまずおいといて。
 ある人によると、クリシュナムルティというのは、真理の探求者ではなく、あくまで心理的な事柄のみの言及だといわれました。いわば「全人幸福」を願う平和主義者?とか。そのための講演。
 同じ思考といっても、実用的思考と心理的思考があり、問題となるのは心理的思考。とはいっても私たちの日常で、これは心理的思考、これは実用的思考といちいちわけられるでしょうか。いや否です。
 (簡単な例。釣り銭が足らない。実用的思考。釣り銭が足らないことに店員に告げる。これだけでは問題はない。事実を告げただけ。釣り銭が足らないことに文句をいう。これは心理的思考。文句をいうには理由があり1回だけであなく、何回か繰り返すと相手を責める。)


 ですから新しい芽氏のいうように全ての思考を疑えという方も出てきます。思考全般を疑う。ほんとかどうか。
 イエスの『自身の想念に対して寝ずの番人をせよ」というのは有名な言葉ですが、新しい芽氏の「思考全般」を疑え、と通じるものがあります。
 しかし、実際のところ、私たちに日常で,自身の思考を24時間見張ることは可能でしょうか。(もとろん起きてる間だけです)
 新しい芽氏が、このようにやったかどうはわかりません。
 又、心理的思考というのは、感情がついてまわるので、感情の起伏によって、それが心理的思考が判別できます。感情というのは思考過程が誘導するので、よくわかる。怒り、悲しみなど。
 ところがやっかいなのは、プライド、ポリシー、権威欲というやつ。生まれたこの方無意識に刻まれているので、日頃当たり前になっている。間違っても疑うようがない。たとえばアメリカと北朝鮮の指導者は、互いに「面子」「プライド」にこだわっていることは。傍目では明らか。もちろん他人の声も耳を貸さない。本人達はその「自覚」はまったく。まさに「価値感」の塊。
 面子、プライド、ポリシー、価値感などは、まさに心理的思考の王様。それなくして人は生きられない?
 大黒柱の世のお父さんの方々。「誰が飯(おまんま)を食わしているのか」


[24199] 生と死 投稿者:南方 投稿日:2017/08/19(Sat) 05:53  

「既知からの自由」より

引用

私たちはどう生きればいいのか知りません。それゆえ、どう死ねばいいのかも知らないのです。

中略

その時、生と死は同一です。

中略

愛することは死ぬことだからです。



以上引用終わり


一般の生は記憶からの思考、そして判断と続く繰り返しです。
必要な記憶は別として、好き嫌い善い悪い等の判断の元になる
思考群とそのまた元の記憶からの自由が生であるという。
これは、わかります。体現しているかどうかは別として。

わからないのは、いや、わかろうとしないのかもしれませんが死がこれと同じ躍動的で自由だということです。

ここまで書いてきて、肉体という制約がなければ、さらに躍動的で自由もあるかなと思い直しました。

しかしながら、死の恐怖が消えることはまだありません。様々な記憶からくる思考の判断のせいでしょう。


愛することは死ぬこと。
あの人がああだったこうだった、こうあるべきだとイメージが先行して関係すれば、愛することがどうしてできるでしょう。


なにが質問かと言えば、肉体的死の恐怖は心理的に死ねてないからなんでしょうか?それともそれは生存本能?



[24198] 無題 投稿者:YHWH 投稿日:2017/08/19(Sat) 00:25  

一生懸命生きてたら、気づいたら、「普通」や「標準」という岸辺から大きく離れた絶海の真ん中にいた。

何でこんな風になったのかと考えたら、「自我」と「個性」以外のものをすべて捨ててきたからだと思う。

人間性を失うくらいならむしろそれ以外のすべてを捨てようという筋金入りのマッドさ。


[24197] 無題 投稿者:YHWH 投稿日:2017/08/18(Fri) 22:57  

https://www.youtube.com/watch?v=Uh1FAwznGlQ

清らかさを保つことによって単一性が手に入り、それに伴って神性がもたらされます。あなたハートを、純粋性、単一性、神性という三位一体の住処にしなければなりません。身に付けた教育を真の知識と見なすのは誤った考えです。なぜなら、身に付けた教育は書物の知識だからです。実際的な知識が真の教養です。


[24196] Re:[24193] [24192] [24190] [24187] [24180] [24167] 私とはなにか? 投稿者:南方 投稿日:2017/08/18(Fri) 19:54  

> そして、花のようにはいかず、醜くもある人間とは。その根源である意識そして記憶、思考とは何か。そこをKは説いた。
>
> 人間だからこそ美しくありたいものである。花のように。
>
>
>



意識というベースがあり、それは記憶を蓄積している。その記憶から思考が発生し、判断を下す。
そのように現実をみているのが人間です。

例えば、ムスっとしている人を見かけると、たちまち記憶がよみがえりムスっとしている人に受けた嫌な思い出、記憶がよみがえる。

自分がいやな思いをしている記憶から派生してくる思考がある。それは当然あの人は嫌な人にちがいないというレッテル貼り。

すると、実際はムスっとしているだけなのに、嫌な人になってしまう。思考はそのようにして現実を歪曲していく。

あるがままにみるなら、その人は何か嫌なことでもあったのだろうかと心配したり、生まれつきそんな顔なのかもしれない、という選択が生まれる。そのどれをとっても結局はレッテル貼りであるとには変わりないが、選択が増えたということは自由を意味する。

あるがままにみるなら、その人は意識であり、神でありまた自分と同じであるという認識である。たまたま人生経験が違い色が違うだけであり、川は川であり花は花なのである。

そのように人を見ると、少しは醜いというレッテル貼りも剥がれ落ちる。

その人の醜さを改善しよとするよりは、こういう作業が必要とされるのかもしれない。

Kは私の記憶を掃除しよう、そしてそこから派生する思考からの判断をよく見る手助けをしてくれるようである。実際憑き物がどんどん落ちていく感覚がある。


[24195] Re:[24160] [24124] [24120] 「見る」ということ。 投稿者:ゴト 投稿日:2017/08/18(Fri) 16:59  

> 続き
> > > > >  私は未だ、ゴトさんが述べるような「全的に見る」ことが、すぐにはできないようです。
> > >
> > >  これは宮啓氏のコメントですが、こういったコメントが出てくること自体がわからない。
> > >  「全的に見る」ということについて何をイメージしてるのか。
> > >  すぐにできない?
> >
> > Kが言おうが、誰が言おうができないことが世の中には多いのではないでしょうか? 汝の敵を愛せよ! できれば戦争など起きません。
>
>  え〜と質問の趣旨ですが、あなたはしばしばKのいう「見ること」を実現していることをこの掲示板で公言していらっしゃる。Kの「気づき」を得ていると。

Kの言う「見ること」を実現していると公言している、Kの言う「気づき」を得ていろと。

そういうふうなことを言ったことは確かですが、私は「見ること」と「気づき」は、水と氷のように同じ事かもしれませんが、別の時に別の形で起こったことです。

それがKの言った見る、あるいは気づきであるかどうかは私はわかりませんが、その出来事が何をもたらしてくれたかの全体を振り返るとき、私は私なりの道を確信をもって歩んでいます。それがKの言った道のまだ入り口かもしれないが、ほかの生き方をする気はありません。

ここで最初に発見した見ることは怒りが増幅し始める時、見ることに転換することです。その時、今こそ思考を見るチャンスだという思考?がさっと走りました。

気づきの最初は禁煙の初期のころです。たばこを吸うのは自由ではない。吸わされているのだというのが私の理解でした。これを思っただけではタバコはやめられません。その後、タバコを吸うときはほとんど無意識にタバコに手が伸びるのですが、理解があった後は手が伸びると不思議に気づくのです。そして吸うべきか、そうすると自由が失われるという事が頭にくっきりと浮かびます。なおタバコは机の上に封を切っていつでも喫えるように置いてあります。一瞬頭でどうするかが浮かびますが結果はいつもやめました。それが一日に数度、1週間近く続いて、いつの間にか手が伸びることがなくなっていきました。

私が私として責任を持って、見ると気付きについて言えることは以上です。

なお、全身全霊で事に当たるときの無意識と、無意識に煙草に手が伸びるの無意識は明らかに別物ですね。しかし、このことをどう一般的に言い表したらいいのかは、私にはわかりません。

>  ところが宮啓氏は、あなたのいう「全的気づき」(全的に見る)は、すぐにできないと嘆いている。その差はどこにあるのかという疑問だと思います。

昔、Kコミという同人誌があり、主催のF氏がKの翻訳の短い部分をプリントして皆に教えてくれたのですが、見ると言ってもそれはうまくいくときもあるし、そうはいかない時もあるし、一気にできなければではなく、ゲームをするように、雨の日も晴れた日もあるけれど楽しんでやってくださいと。かなりうろ覚えなのですが、いっぺんにうまくすべに対応していこうというのは達成心が働いているでしょう? それでポチポチ行こうは、駆り立てられていないという事で、落ち着いた心境と拝察しています。


> 「全的に見る」イコールawarenessを実現している、と受け取りました。

これは私のことですか? 『全的に見る』=awareness が実際にはどういう状態を指しているのか私にはわかりません。私の知っていることは見るは、Kはseeとかlookと言ってますし、awareは気づくで統一しています。

「全的に見る」イコールawarenessと言い切ることは私はしていません。Kがそういった記憶は浮かばないし、私自身はそう言い切れません。

私の見ると気づきの実際はどういう事かは言いました。感情が増幅していくことはないし、感情を正当化してなだめようとする思考は浮かびませんし、仮にあるなら見て消えていくまでです。コンプレックスの数々が終わったようです。

> > > > >  ボチボチ、生のさ中でやってゆくことを心がけています。
> > >
> > >  「全的に見る」ということをボチボチやる?
> > >  「見る」というのは即座でやって「時間」ではない。

完璧にできないなどと言わずに日ごろポチポチと起こるのに任せる。焦らない。

> > > > 「見る」という心のものが忘れられて生きているなら、実は見て、気づいて生きているかもしれず、それが学びの姿でしょう。
> > >
> > >  ?
> > >  「見る」「気づいている」「知覚している」というのは人の基本的な機能。
> > > 出来る出来ないの話ではない。毎日こうして生きているわけだから。
> >
> > 「全的に」ができていないという事でしょう。

怒りがあるとき増幅するのが普通でしょうが、その時基本的機能である見ることはシャットアウトされ、怒りに乗っ取られてしまう。どんな場合も見ることは困難な場合がある。

> 「全的な気づき」ってどういうことなのか改めて疑問が浮かびました。できないというより、どのような心的状態なのか、よくわからないのでは。
>  あれほどKの本を読んでいるのに関わらず。

本ではわからないでしょう。感情や思考に乗っ取られて、実は見ることがどこかにいっていることには気づいてい人が多いでしょう。

> > >  毎日の日常生活で私たちの思考と感情と感覚が経験が習慣的な「とりこ」になっているかいなかの問題。
> > >  日常的な習慣に陥っているとすれば当然毎日毎日新鮮には生きられない。
> > >  あらゆる種類のものに漠然と関心が失われていて、感覚も知性も身体までも麻痺している状態に陥っている。理解力は透明さを欠き、あらゆる出来事が重苦し連鎖に感じてしまう。そして自身さえもこの中で見失われる。
> > >  こうしたマンネリ状態を打破するには「意識的に見る」ことが肝要。
> > >  今の私の思考と感情の感性に身を置いているということを、しっかりと自覚して、心の習慣を克服し、自身の心に新たな経験の可能性に対する関心を与えることであり、その関心こそが最大の基礎と思われます。

心の習慣を克服しようとするとき、苦闘が始まる。これが人間の陥っている古来からの習慣で、それは禁煙しよう、禁酒しようという苦闘と同じことではないでしょうか。

> > そのように最大の関心を置くと目的になり、成りゆく過程に落ち込み、ミイラ取りがミイラになります。そこが見えているのでまあポチポチと行こうかと。なかなかの心境かと存じます。
>
>  言っていることが妙です。
>  ここで言っていることはイエスの教えと宇宙哲学を総合したもので、関心を持つということに対してクリシュナムルティも述べている。
>  自身の内面に何が起きてるか関心を持ちなさいと。鳥の声を聞くように自身の内面に耳を傾ける。

関心を持ちなさいと言っても関心はあなたの思ったように動きますか?異性や快楽、あるいは悟りの達成に向きませんか?

>  まず人間というのは関心を持たないと見ることはしません。興味、好奇心。人間はそのように出きている。科学の発達は「宇宙や自然のしくみはどうなっているのか」という好奇心から、はじまった。
>  あなたも釣りに関心あるから、釣りをしにいくし、Kに関心あるから本を読むわけです。関心がなければ読みませんね。
>  クリシュナムルティはそのように、自身の内面、思考の動きをついてどのように気づいていくのか関心をもてといいます。つまりは思考過程を見る。
>  イエスの有名な言葉「自身の想念に対して寝ずの番人」をせよ、というのと同じ。それだけ厳しくあたるということ。Kは思考という危険分子を監視せよとまでいっている。
>  しかし、たいていの人は無関心。自身に目を向けることはない。

その通りです。理性的思考が向けと言っても本心では向いていません。ほかのことに向いているのです。

> > >  イエスの自身の想念に対して「寝ずの番人をせよ」と言った意味がわかる気がします。たやすいことではないですが。
> > >  さらにイエスは、人間は、起きていて見ていない状態ともいいます。まさにはっきり見ていない。目覚めていない。そこではっきり「見る」ことを強調する。意識的に。
> > >  たしかに私たちの日常は見ているようで見ていない。漠然とした関心しか払っていない。
> >
> > 「全的に見る」―普通の人はほとんどができていない、それでは人のことより自分のことという事ですね。
>
>  はいそうです。これこそぼちぼちと。もうこの歳(とし)になると、さほど大きな問題はない。あとは世間的勤めをはたすだけです。誰にも迷惑かけぬよう。
>  断斜離の日々。

断捨離を知らないのでウィキペディアを引いた。
心の背負った過去の重荷も捨てれますように。それを苦闘にしないで。即時の理解があれば重荷は消えます。


[24194] 無題 投稿者:YHWH 投稿日:2017/08/18(Fri) 13:40  


知ってるの反対は知らないではない。

知らないと知ってるの両者を超えた知ってるがある。
それは知らないようにも見える。

知とは、何かを知ろうとする意志であり、それは憎しみによって成り立っているんだな。

知を超えた英知とは、うちがわに一切邪悪な破壊衝動がない状態。

それは、一切の破壊衝動や、死を免れている。

ラーマクリシュナなどの聖者がときに、子供のようで無知にみえるのは、この宇宙意識にあるからだ。


[24193] Re:[24192] [24190] [24187] [24180] [24167] 私とはなにか? 投稿者:南方 投稿日:2017/08/18(Fri) 13:03  

> 肉体も「死」を向かえれば焼かれて灰になり、土に成る。元の原子に還る。
> 又、生命が新たに生じれば、又「命」が宿ることに成る。
> あらゆる生物はその繰り返し。
> その意味で始まりもなく,終わりもない。これが生命の実相。
>



私たちは花のようなものなのですね。始まりも終わりもない種から生まれやがて枯れ行く。そして、春が来れば、相変わらず桜は咲き、夏が来れば向日葵が咲き、秋が来れば秋桜が咲くように。
その刹那的なものだからこそ美しく儚い、人間、生命。
そして、花のようにはいかず、醜くもある人間とは。その根源である意識そして記憶、思考とは何か。そこをKは説いた。

人間だからこそ美しくありたいものである。花のように。





[24192] Re:[24190] [24187] [24180] [24167] 私とはなにか? 投稿者:外野 投稿日:2017/08/18(Fri) 09:34  

> 自身の宇宙がなくなるとき、私たちは客観的宇宙になるのでないだろうか。

私たちの肉体が朽ちれば、元の原子に還るだけです。その根本的なエネルギーは不変。宇宙があるかぎり。


このことを簡単にコップと水の例で述べてみましょう。
コップを私たちの肉体とみなします。
コップに入っている水は、一応「魂」と呼びます。別名意識エネルギー。あるいは「せいめいのはたらき」。
水の色、つまり赤青黄などの色は私たちの個性。
コップがこわれると、水は変化します。液体から気体に。又外気の温度によっては固体にもなる。水はこのように様々に変化する。その場に様々な様相を見せる。
その繰り返し。
肉体も「死」を向かえれば焼かれて灰になり、土に成る。元の原子に還る。
又、生命が新たに生じれば、又「命」が宿ることに成る。
あらゆる生物はその繰り返し。
その意味で始まりもなく,終わりもない。これが生命の実相。

> >  さて「神」とは何だろう?「仏」とは?

> 神とはそれぞれの人が神でなないでしょうか。
> 神社では神様のところには鏡が置かれていると以前読んだことがあります。

おっしゃるとおりです。いきなり本題になりました。
仏教では人間に「仏性」がある。
キリスト教は内なる神性な自我(真我)

 注 
 これは正統派エマーソンの主張であり、大多数のキリスト教は「神」という概念を人間の外に置き、宗教界の権威として利用した。このことに反することをいうと迫害されることは歴史が証明。それは今現在も続いている。カトリック、プロセスタント。人間と神をはっきりわけている。人間の上座に「神」。


ラーマクリシュナは、人間は神の化身。
アダムスキーは神とは人間の意識。
あの喜劇王のチャプリンは映画の中で「人間の心の中に神がある」といっています。考えてみると皆同じことを言ってる様な気がします。


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