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[25190] Re:[25189] [25188] [25187] [25186] [25185] [25184] 意味・価値とは何か 投稿者:ゴト 投稿日:2018/03/18(Sun) 00:34  

> > > > > > 意味・価値はどういうものか、私は恥ずかしながらよく知らなかった。ようやく、意味、価値は聖なるものとか理念、理想ではないという話を聞いた。
> > > > > >
> > > > > > 生き物でない鉱物的世界には意味も価値もないだろう。植物はちょっとわからないが、動物の実存的な生の中にこそ意味、価値はあると。そこから意味、価値は発生すると。
> > > > > >
> > > > > > アメーバみたいな原始的な、直接の接触でしか世界を知覚できない動物では、さすがに単なる反射行動のみがあるかどうか、動物行動学者も判定できないそうだ。実際には、心地よい何かにぶつかった時にはそれを全身で包んで離さないようにするとか、心地よくないものに対しては大急ぎで離れるような人間的に見えてしまう行動をとるとかするので、困ってしまうそうだ。
> > > > > >
> > > > > > しかし、少し進化した動物で触手のようなものを持つと、自分の本体が対象と接触する前に知覚することができる―遠隔知覚という。視覚や聴覚が代表的それである。身体と離れては考えられない。
> > > > > >
> > > > > > これにより対象との接触に空間と時間のゆとりが生じ、欲望衝動の意味・価値が審級できるようになったという事らしい。しかし、何をしたいかというその本心は本来一瞥的に理解出来るるものですね。
> > > > > >
> > > > > > 哲学の話の方はこれからどう進むのかまだ全然わかりません。
> > > > >
> > > > >
> > > > >  聖なるものがあるとすれば、それは思考によって検証されえないことをクリシュナムルティは述べています。
> > > > >
> > > > >  ゴトさんは、聖なるものではない世界についての検証を行っているのでしょうか・・。。
> > > >
> > > >
> > > > 思考は聖なるものを創り出すことができます。道端で拾った人面に見える木片が、毎日眺め、花を備えてやると聖なるものに見えてしまいます。聖なるものには用心しなければなりません。意識が判定できるものなのか?!
> > > >
> > > > それで物事の確信できる立脚点は何なのか? 哲学者の追求するところについて行っています。竹田氏(以下T氏)プラトン、アリストテレスから始まり、カント、ヘーゲル、ニーチェ、フッサール、ハイデガーの巨峰から現代にいたる哲学者、思想家のすべてと言えるほどの人の功績と過誤を検証し、つまり思考の到達したところと過誤を検証しながら、確かな立脚点を探しているように見えます。私はそれについていきたいのです。
> > > >
> > > > 昔風に聖と俗という区分をすれば、T氏の言うところは俗にも見えますが、思考の確かな立脚点を知ることができたら、それは新しい境地を開くと確信しています。
> > > >
> > > > 思考の確かな立脚点が見つかるかどうか、興味ある問題でしょう。今はあまりにもいい加減な使い方がされています。自然科学の領域ですら、立脚点がしっかりしているようで、それがどこに行くかも知らないのです。
> > >
> > >
> > >  その「確信」を希求する主体とは何でしょうか。。
> > >
> > >  その主体こそが「非立脚体」ではないでしょうか。。
> >
> >
> > その主体は私でも、T氏でも、人間でもいいのですが、人間というと観念的に普通捉えるのですがそうでなく、生活世界の中に生きていて、情動、衝動、切迫、思考感情、欲望を感じて動く実存的な人間として追及するという事です。
> >
> > ですから、条件付けを持ち、浄化が済んだなどと言えるものでない凡人(覚者ではない人)が思い立って尋究します。それゆえ、もちろんしっかりした立脚点を知らず、知らないことを
> > 知って、今まで人間が調べてきたことを調べなおしています。
> >
> > 多くの精緻を極めた宗教的教理があります。これらは遺憾ながら対立し普遍的になり得ないとしか思えません。それで哲学の中に起きている動きを注目して見ています。
> >
> > 今私では理解しにくい難しいところが出てきて、しかもそれが真理にかかわるところですが、意味がくみ取れず、苦戦しています。
>
>
>  その真理に関わるところは聖なるものとは別の何かなのか・・、あるいは、聖なるものと関わりを有する何かなのか・・。

ハイデガーの存在論にかかわるところで、その存在論がよくわからないというか私が知らなさすぎるのです。人間存在がその本当のところは隠されているが、それがともかく顕現するときそれが真理だというようなことですが、その辺が妙にわかりません。

>
>  真理を知識に固定することができるのか・・。
>
>  思考の産物は真理と共存し得るのか。。

思考が真理を認識できるとして議論するところが間違っているとのことのようです。

>
>  私の個人的な感想としては、「思考の産物」と「真理」の共存の試みを為しているように見受けられるのです。
>  これは、人類が始まって200万年間、試みられたことではないでしょうか。。

まあ、哲学は古代ギリシャのころからですが、そこで現代のいま進路を変えるという事です。

世界そのものを人間が認識するという事は不可能なので、それはやめるのですが、それは世界がないと言う事ではなく、世界があることは人間の共通の確信、不可疑性のことです。物理学のやってきたことも同様に普遍的に信じることのできるものです。
しかし、人間的「身体「」の領域と人間的「意識」の領域は異なった領域として了解する限りで、それぞれの洞察と関係は洞察することができる。その始発点は我々の持つ「現前意識」である。

やっとこの辺まで来ました。ここからどう新しい筋道を歩み始めるのか、興味を持ってつかみたいのですが。。


[25189] Re:[25188] [25187] [25186] [25185] [25184] 意味・価値とは何か 投稿者:宮啓 投稿日:2018/03/16(Fri) 20:48  

> > > > > 意味・価値はどういうものか、私は恥ずかしながらよく知らなかった。ようやく、意味、価値は聖なるものとか理念、理想ではないという話を聞いた。
> > > > >
> > > > > 生き物でない鉱物的世界には意味も価値もないだろう。植物はちょっとわからないが、動物の実存的な生の中にこそ意味、価値はあると。そこから意味、価値は発生すると。
> > > > >
> > > > > アメーバみたいな原始的な、直接の接触でしか世界を知覚できない動物では、さすがに単なる反射行動のみがあるかどうか、動物行動学者も判定できないそうだ。実際には、心地よい何かにぶつかった時にはそれを全身で包んで離さないようにするとか、心地よくないものに対しては大急ぎで離れるような人間的に見えてしまう行動をとるとかするので、困ってしまうそうだ。
> > > > >
> > > > > しかし、少し進化した動物で触手のようなものを持つと、自分の本体が対象と接触する前に知覚することができる―遠隔知覚という。視覚や聴覚が代表的それである。身体と離れては考えられない。
> > > > >
> > > > > これにより対象との接触に空間と時間のゆとりが生じ、欲望衝動の意味・価値が審級できるようになったという事らしい。しかし、何をしたいかというその本心は本来一瞥的に理解出来るるものですね。
> > > > >
> > > > > 哲学の話の方はこれからどう進むのかまだ全然わかりません。
> > > >
> > > >
> > > >  聖なるものがあるとすれば、それは思考によって検証されえないことをクリシュナムルティは述べています。
> > > >
> > > >  ゴトさんは、聖なるものではない世界についての検証を行っているのでしょうか・・。。
> > >
> > >
> > > 思考は聖なるものを創り出すことができます。道端で拾った人面に見える木片が、毎日眺め、花を備えてやると聖なるものに見えてしまいます。聖なるものには用心しなければなりません。意識が判定できるものなのか?!
> > >
> > > それで物事の確信できる立脚点は何なのか? 哲学者の追求するところについて行っています。竹田氏(以下T氏)プラトン、アリストテレスから始まり、カント、ヘーゲル、ニーチェ、フッサール、ハイデガーの巨峰から現代にいたる哲学者、思想家のすべてと言えるほどの人の功績と過誤を検証し、つまり思考の到達したところと過誤を検証しながら、確かな立脚点を探しているように見えます。私はそれについていきたいのです。
> > >
> > > 昔風に聖と俗という区分をすれば、T氏の言うところは俗にも見えますが、思考の確かな立脚点を知ることができたら、それは新しい境地を開くと確信しています。
> > >
> > > 思考の確かな立脚点が見つかるかどうか、興味ある問題でしょう。今はあまりにもいい加減な使い方がされています。自然科学の領域ですら、立脚点がしっかりしているようで、それがどこに行くかも知らないのです。
> >
> >
> >  その「確信」を希求する主体とは何でしょうか。。
> >
> >  その主体こそが「非立脚体」ではないでしょうか。。
>
>
> その主体は私でも、T氏でも、人間でもいいのですが、人間というと観念的に普通捉えるのですがそうでなく、生活世界の中に生きていて、情動、衝動、切迫、思考感情、欲望を感じて動く実存的な人間として追及するという事です。
>
> ですから、条件付けを持ち、浄化が済んだなどと言えるものでない凡人(覚者ではない人)が思い立って尋究します。それゆえ、もちろんしっかりした立脚点を知らず、知らないことを
> 知って、今まで人間が調べてきたことを調べなおしています。
>
> 多くの精緻を極めた宗教的教理があります。これらは遺憾ながら対立し普遍的になり得ないとしか思えません。それで哲学の中に起きている動きを注目して見ています。
>
> 今私では理解しにくい難しいところが出てきて、しかもそれが真理にかかわるところですが、意味がくみ取れず、苦戦しています。


 その真理に関わるところは聖なるものとは別の何かなのか・・、あるいは、聖なるものと関わりを有する何かなのか・・。

 真理を知識に固定することができるのか・・。

 思考の産物は真理と共存し得るのか。。

 私の個人的な感想としては、「思考の産物」と「真理」の共存の試みを為しているように見受けられるのです。
 これは、人類が始まって200万年間、試みられたことではないでしょうか。。


[25188] Re:[25187] [25186] [25185] [25184] 意味・価値とは何か 投稿者:ゴト 投稿日:2018/03/16(Fri) 19:21  

> > > > 意味・価値はどういうものか、私は恥ずかしながらよく知らなかった。ようやく、意味、価値は聖なるものとか理念、理想ではないという話を聞いた。
> > > >
> > > > 生き物でない鉱物的世界には意味も価値もないだろう。植物はちょっとわからないが、動物の実存的な生の中にこそ意味、価値はあると。そこから意味、価値は発生すると。
> > > >
> > > > アメーバみたいな原始的な、直接の接触でしか世界を知覚できない動物では、さすがに単なる反射行動のみがあるかどうか、動物行動学者も判定できないそうだ。実際には、心地よい何かにぶつかった時にはそれを全身で包んで離さないようにするとか、心地よくないものに対しては大急ぎで離れるような人間的に見えてしまう行動をとるとかするので、困ってしまうそうだ。
> > > >
> > > > しかし、少し進化した動物で触手のようなものを持つと、自分の本体が対象と接触する前に知覚することができる―遠隔知覚という。視覚や聴覚が代表的それである。身体と離れては考えられない。
> > > >
> > > > これにより対象との接触に空間と時間のゆとりが生じ、欲望衝動の意味・価値が審級できるようになったという事らしい。しかし、何をしたいかというその本心は本来一瞥的に理解出来るるものですね。
> > > >
> > > > 哲学の話の方はこれからどう進むのかまだ全然わかりません。
> > >
> > >
> > >  聖なるものがあるとすれば、それは思考によって検証されえないことをクリシュナムルティは述べています。
> > >
> > >  ゴトさんは、聖なるものではない世界についての検証を行っているのでしょうか・・。。
> >
> >
> > 思考は聖なるものを創り出すことができます。道端で拾った人面に見える木片が、毎日眺め、花を備えてやると聖なるものに見えてしまいます。聖なるものには用心しなければなりません。意識が判定できるものなのか?!
> >
> > それで物事の確信できる立脚点は何なのか? 哲学者の追求するところについて行っています。竹田氏(以下T氏)プラトン、アリストテレスから始まり、カント、ヘーゲル、ニーチェ、フッサール、ハイデガーの巨峰から現代にいたる哲学者、思想家のすべてと言えるほどの人の功績と過誤を検証し、つまり思考の到達したところと過誤を検証しながら、確かな立脚点を探しているように見えます。私はそれについていきたいのです。
> >
> > 昔風に聖と俗という区分をすれば、T氏の言うところは俗にも見えますが、思考の確かな立脚点を知ることができたら、それは新しい境地を開くと確信しています。
> >
> > 思考の確かな立脚点が見つかるかどうか、興味ある問題でしょう。今はあまりにもいい加減な使い方がされています。自然科学の領域ですら、立脚点がしっかりしているようで、それがどこに行くかも知らないのです。
>
>
>  その「確信」を希求する主体とは何でしょうか。。
>
>  その主体こそが「非立脚体」ではないでしょうか。。


その主体は私でも、T氏でも、人間でもいいのですが、人間というと観念的に普通捉えるのですがそうでなく、生活世界の中に生きていて、情動、衝動、切迫、思考感情、欲望を感じて動く実存的な人間として追及するという事です。

ですから、条件付けを持ち、浄化が済んだなどと言えるものでない凡人(覚者ではない人)が思い立って尋究します。それゆえ、もちろんしっかりした立脚点を知らず、知らないことを
知って、今まで人間が調べてきたことを調べなおしています。

多くの精緻を極めた宗教的教理があります。これらは遺憾ながら対立し普遍的になり得ないとしか思えません。それで哲学の中に起きている動きを注目して見ています。

今私では理解しにくい難しいところが出てきて、しかもそれが真理にかかわるところですが、意味がくみ取れず、苦戦しています。


[25187] Re:[25186] [25185] [25184] 意味・価値とは何か 投稿者:宮啓 投稿日:2018/03/16(Fri) 09:17  

> > > 意味・価値はどういうものか、私は恥ずかしながらよく知らなかった。ようやく、意味、価値は聖なるものとか理念、理想ではないという話を聞いた。
> > >
> > > 生き物でない鉱物的世界には意味も価値もないだろう。植物はちょっとわからないが、動物の実存的な生の中にこそ意味、価値はあると。そこから意味、価値は発生すると。
> > >
> > > アメーバみたいな原始的な、直接の接触でしか世界を知覚できない動物では、さすがに単なる反射行動のみがあるかどうか、動物行動学者も判定できないそうだ。実際には、心地よい何かにぶつかった時にはそれを全身で包んで離さないようにするとか、心地よくないものに対しては大急ぎで離れるような人間的に見えてしまう行動をとるとかするので、困ってしまうそうだ。
> > >
> > > しかし、少し進化した動物で触手のようなものを持つと、自分の本体が対象と接触する前に知覚することができる―遠隔知覚という。視覚や聴覚が代表的それである。身体と離れては考えられない。
> > >
> > > これにより対象との接触に空間と時間のゆとりが生じ、欲望衝動の意味・価値が審級できるようになったという事らしい。しかし、何をしたいかというその本心は本来一瞥的に理解出来るるものですね。
> > >
> > > 哲学の話の方はこれからどう進むのかまだ全然わかりません。
> >
> >
> >  聖なるものがあるとすれば、それは思考によって検証されえないことをクリシュナムルティは述べています。
> >
> >  ゴトさんは、聖なるものではない世界についての検証を行っているのでしょうか・・。。
>
>
> 思考は聖なるものを創り出すことができます。道端で拾った人面に見える木片が、毎日眺め、花を備えてやると聖なるものに見えてしまいます。聖なるものには用心しなければなりません。意識が判定できるものなのか?!
>
> それで物事の確信できる立脚点は何なのか? 哲学者の追求するところについて行っています。竹田氏(以下T氏)プラトン、アリストテレスから始まり、カント、ヘーゲル、ニーチェ、フッサール、ハイデガーの巨峰から現代にいたる哲学者、思想家のすべてと言えるほどの人の功績と過誤を検証し、つまり思考の到達したところと過誤を検証しながら、確かな立脚点を探しているように見えます。私はそれについていきたいのです。
>
> 昔風に聖と俗という区分をすれば、T氏の言うところは俗にも見えますが、思考の確かな立脚点を知ることができたら、それは新しい境地を開くと確信しています。
>
> 思考の確かな立脚点が見つかるかどうか、興味ある問題でしょう。今はあまりにもいい加減な使い方がされています。自然科学の領域ですら、立脚点がしっかりしているようで、それがどこに行くかも知らないのです。


 その「確信」を希求する主体とは何でしょうか。。

 その主体こそが「非立脚体」ではないでしょうか。。


[25186] Re:[25185] [25184] 意味・価値とは何か 投稿者:ゴト 投稿日:2018/03/15(Thu) 22:32  

> > 意味・価値はどういうものか、私は恥ずかしながらよく知らなかった。ようやく、意味、価値は聖なるものとか理念、理想ではないという話を聞いた。
> >
> > 生き物でない鉱物的世界には意味も価値もないだろう。植物はちょっとわからないが、動物の実存的な生の中にこそ意味、価値はあると。そこから意味、価値は発生すると。
> >
> > アメーバみたいな原始的な、直接の接触でしか世界を知覚できない動物では、さすがに単なる反射行動のみがあるかどうか、動物行動学者も判定できないそうだ。実際には、心地よい何かにぶつかった時にはそれを全身で包んで離さないようにするとか、心地よくないものに対しては大急ぎで離れるような人間的に見えてしまう行動をとるとかするので、困ってしまうそうだ。
> >
> > しかし、少し進化した動物で触手のようなものを持つと、自分の本体が対象と接触する前に知覚することができる―遠隔知覚という。視覚や聴覚が代表的それである。身体と離れては考えられない。
> >
> > これにより対象との接触に空間と時間のゆとりが生じ、欲望衝動の意味・価値が審級できるようになったという事らしい。しかし、何をしたいかというその本心は本来一瞥的に理解出来るるものですね。
> >
> > 哲学の話の方はこれからどう進むのかまだ全然わかりません。
>
>
>  聖なるものがあるとすれば、それは思考によって検証されえないことをクリシュナムルティは述べています。
>
>  ゴトさんは、聖なるものではない世界についての検証を行っているのでしょうか・・。。


思考は聖なるものを創り出すことができます。道端で拾った人面に見える木片が、毎日眺め、花を備えてやると聖なるものに見えてしまいます。聖なるものには用心しなければなりません。意識が判定できるものなのか?!

それで物事の確信できる立脚点は何なのか? 哲学者の追求するところについて行っています。竹田氏(以下T氏)プラトン、アリストテレスから始まり、カント、ヘーゲル、ニーチェ、フッサール、ハイデガーの巨峰から現代にいたる哲学者、思想家のすべてと言えるほどの人の功績と過誤を検証し、つまり思考の到達したところと過誤を検証しながら、確かな立脚点を探しているように見えます。私はそれについていきたいのです。

昔風に聖と俗という区分をすれば、T氏の言うところは俗にも見えますが、思考の確かな立脚点を知ることができたら、それは新しい境地を開くと確信しています。

思考の確かな立脚点が見つかるかどうか、興味ある問題でしょう。今はあまりにもいい加減な使い方がされています。自然科学の領域ですら、立脚点がしっかりしているようで、それがどこに行くかも知らないのです。


[25185] Re:[25184] 意味・価値とは何か 投稿者:宮啓 投稿日:2018/03/15(Thu) 12:09  

> 意味・価値はどういうものか、私は恥ずかしながらよく知らなかった。ようやく、意味、価値は聖なるものとか理念、理想ではないという話を聞いた。
>
> 生き物でない鉱物的世界には意味も価値もないだろう。植物はちょっとわからないが、動物の実存的な生の中にこそ意味、価値はあると。そこから意味、価値は発生すると。
>
> アメーバみたいな原始的な、直接の接触でしか世界を知覚できない動物では、さすがに単なる反射行動のみがあるかどうか、動物行動学者も判定できないそうだ。実際には、心地よい何かにぶつかった時にはそれを全身で包んで離さないようにするとか、心地よくないものに対しては大急ぎで離れるような人間的に見えてしまう行動をとるとかするので、困ってしまうそうだ。
>
> しかし、少し進化した動物で触手のようなものを持つと、自分の本体が対象と接触する前に知覚することができる―遠隔知覚という。視覚や聴覚が代表的それである。身体と離れては考えられない。
>
> これにより対象との接触に空間と時間のゆとりが生じ、欲望衝動の意味・価値が審級できるようになったという事らしい。しかし、何をしたいかというその本心は本来一瞥的に理解出来るるものですね。
>
> 哲学の話の方はこれからどう進むのかまだ全然わかりません。


 聖なるものがあるとすれば、それは思考によって検証されえないことをクリシュナムルティは述べています。

 ゴトさんは、聖なるものではない世界についての検証を行っているのでしょうか・・。。


[25184] 意味・価値とは何か 投稿者:ゴト 投稿日:2018/03/14(Wed) 22:38  

意味・価値はどういうものか、私は恥ずかしながらよく知らなかった。ようやく、意味、価値は聖なるものとか理念、理想ではないという話を聞いた。

生き物でない鉱物的世界には意味も価値もないだろう。植物はちょっとわからないが、動物の実存的な生の中にこそ意味、価値はあると。そこから意味、価値は発生すると。

アメーバみたいな原始的な、直接の接触でしか世界を知覚できない動物では、さすがに単なる反射行動のみがあるかどうか、動物行動学者も判定できないそうだ。実際には、心地よい何かにぶつかった時にはそれを全身で包んで離さないようにするとか、心地よくないものに対しては大急ぎで離れるような人間的に見えてしまう行動をとるとかするので、困ってしまうそうだ。

しかし、少し進化した動物で触手のようなものを持つと、自分の本体が対象と接触する前に知覚することができる―遠隔知覚という。視覚や聴覚が代表的それである。身体と離れては考えられない。

これにより対象との接触に空間と時間のゆとりが生じ、欲望衝動の意味・価値が審級できるようになったという事らしい。しかし、何をしたいかというその本心は本来一瞥的に理解出来るるものですね。

哲学の話の方はこれからどう進むのかまだ全然わかりません。


[25183] Re:[25182] [25181] [25180] [25179] [25178] [25177] [25175] [25173] [25172] [25171] [25170] [25169] 哲学の意義 投稿者:ゴト 投稿日:2018/03/12(Mon) 19:21  

> > > > それはそれとして、私の感じていることを言いますと、そこで少し狂ってもやりたいようにやる自由をヒトは心底から欲しがっている。その時、エネルギーも出るし、後悔もせずに、たとえ大きく挫折しようが前進できる。これはかなり強い根源的と言っていいほどのもののように感じます。
> > >
> > >
> > >  信長も秀吉もそうでしたね。。
> >
> > プロ並みのものすごい才能を持ちながらプロにならず、一生かけ将棋指しでいた棋士がいます。勝つと得た賞金はその日のうちに湯水のように豪遊して使い果たしたとか。
> >
> > ある令嬢が、貧乏画家と恋に落ちて、親兄弟の親身な忠告を振り払って一緒になりました。短い期間で破たんし、実家に戻ってきていましたが、タバコを吸う無口な女性になっていました。
> >
> > この二人は自分の人生を生きたと言えるのでしょうか、精一杯に生きたと。
>
>
>  一般的には、個体は自我として一個人の人生を生きます。一個人の人生で、精一杯生きて満足です!!ということはないのではないでしょうか・・。たとえ、家康であっても。。

ここが難しいところです。確かに普通そうですが、人は本当に何かに打ち込んだ時、自我を離れて真実に生きるという事がある気がします。その時はそれによる理解・変容が、Kを知らなくても、局部的でもあるかもしれないと思います。また、Kを読んでも、ついに何かを感じることなく生を過ごすかもしれません。何せ、愛も英知も養成できるものではないようですから。

たぶん、人はさまざま条件付けとまともさを、親、周囲からもらって生の大海に入るしかないでしょう。そこで何に出うのか、自分がどう生きるのか、周囲がまた何ができるのか。

>
> > > > 哲学の話ですが、思考が立脚点を持ってはっきり語る道を開けば、思考は見違えるような変貌を遂げるでしょう。楽しみに勉強しています。
> > >
> > >
> > >  クリシュナムルティも言葉で発信するときには、思考を用いていましたね。見違えるような思考。英知。。
> >
> > 言葉が通じるという事は、その場で直面して関わっている人にだけわかるという刮目すべき事柄ですね。なぜなら、言葉はいかようにも解釈できる不思議なものですから。
>
>
>  英知なくして、思考が>見違えるような変貌を遂げる−−ことがありうるのか・・。
>
>  英知なき「知識」が不毛を突破できるのか・・。


英知は心血を注いで事に当たるとき、ふと生じるものでしょう。
哲学者全員が、宗教を含めて、つくってきた理念を、現在の一哲学者が批判し立て直そうとする経過を今私は読んでいるわけですが、読み切るつもりです。


[25182] Re:[25181] [25180] [25179] [25178] [25177] [25175] [25173] [25172] [25171] [25170] [25169] 哲学の意義 投稿者:宮啓 投稿日:2018/03/12(Mon) 15:55  

> > > >  思考(時間)は「生」に含まれるか?ということでしょうか・・。
> > > >
> > > >  幻想も錯覚も、混乱・葛藤・矛盾の人生としての「生」の一部かもしれませんね。。
>
> もちろん生の一部ですが、音楽や人の話す言語を分かるには刹那刹那的意識ではどうにもならず、時間性は絶対に必要です。


 条件付けられていない幼児が、条件付けられるための時間。

 条件付けられたにもかかわらず、クリシュナムルティ理解への取り組みによって、条件付けを解除するための時間。


> > > 哲学もきちんとした心に浮かぶ情動、思考、衝動、感情をよく観察しています。さすがに丁寧に、厳密に見ています。
> > >
> > > しかし、それをその場でその時に見ている、気づいているという事がまだ出ていません。
> >
> >
> >  心理学者も同様ですね。。
> >
> >
> > > それ、すなわち自我の発する生き生きした主体性を持つ欲望である思考感情を、その時直接に気づいている、見ているというのがKの教えであるというふうに、私は思っているのですが、そしてそれが、自分の全体で全体観的に見られているとき、秩序があり、浄化があるという理解なのですが、哲学者は一般的事後の観察のようで、そこが違いかもしれません。
> >
> >
> >  また、違いは、哲学者はクリシュナムルティに触れても、真の底では心を動かされない程に条件づけられているのではないでしょうか。。
>
> 以前大学生が卒論でKを取り上げていました。長文で、そのころは興味もなくそのままになってしまったのですが、今なら興味を持って読めるでしょうが。


 その大学生は今頃、まだクリシュナムルティを読んでいるのか・・、それとも思考の枠に納まっているのか・・。又、現在でも、そのような学生が居るのか否か・・。大学で「クリシュナムルティ論」の講義が始まるのはいつのことか・・。


> > > それはそれとして、私の感じていることを言いますと、そこで少し狂ってもやりたいようにやる自由をヒトは心底から欲しがっている。その時、エネルギーも出るし、後悔もせずに、たとえ大きく挫折しようが前進できる。これはかなり強い根源的と言っていいほどのもののように感じます。
> >
> >
> >  信長も秀吉もそうでしたね。。
>
> プロ並みのものすごい才能を持ちながらプロにならず、一生かけ将棋指しでいた棋士がいます。勝つと得た賞金はその日のうちに湯水のように豪遊して使い果たしたとか。
>
> ある令嬢が、貧乏画家と恋に落ちて、親兄弟の親身な忠告を振り払って一緒になりました。短い期間で破たんし、実家に戻ってきていましたが、タバコを吸う無口な女性になっていました。
>
> この二人は自分の人生を生きたと言えるのでしょうか、精一杯に生きたと。


 一般的には、個体は自我として一個人の人生を生きます。一個人の人生で、精一杯生きて満足です!!ということはないのではないでしょうか・・。たとえ、家康であっても。。


> > > 哲学の話ですが、思考が立脚点を持ってはっきり語る道を開けば、思考は見違えるような変貌を遂げるでしょう。楽しみに勉強しています。
> >
> >
> >  クリシュナムルティも言葉で発信するときには、思考を用いていましたね。見違えるような思考。英知。。
>
> 言葉が通じるという事は、その場で直面して関わっている人にだけわかるという刮目すべき事柄ですね。なぜなら、言葉はいかようにも解釈できる不思議なものですから。


 英知なくして、思考が>見違えるような変貌を遂げる−−ことがありうるのか・・。

 英知なき「知識」が不毛を突破できるのか・・。


[25181] Re:[25180] [25179] [25178] [25177] [25175] [25173] [25172] [25171] [25170] [25169] 哲学の意義 投稿者:ゴト 投稿日:2018/03/12(Mon) 13:01  

> > >  思考(時間)は「生」に含まれるか?ということでしょうか・・。
> > >
> > >  幻想も錯覚も、混乱・葛藤・矛盾の人生としての「生」の一部かもしれませんね。。

もちろん生の一部ですが、音楽や人の話す言語を分かるには刹那刹那的意識ではどうにもならず、時間性は絶対に必要です。

> >
> > 哲学もきちんとした心に浮かぶ情動、思考、衝動、感情をよく観察しています。さすがに丁寧に、厳密に見ています。
> >
> > しかし、それをその場でその時に見ている、気づいているという事がまだ出ていません。
>
>
>  心理学者も同様ですね。。
>
>
> > それ、すなわち自我の発する生き生きした主体性を持つ欲望である思考感情を、その時直接に気づいている、見ているというのがKの教えであるというふうに、私は思っているのですが、そしてそれが、自分の全体で全体観的に見られているとき、秩序があり、浄化があるという理解なのですが、哲学者は一般的事後の観察のようで、そこが違いかもしれません。
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>  また、違いは、哲学者はクリシュナムルティに触れても、真の底では心を動かされない程に条件づけられているのではないでしょうか。。

以前大学生が卒論でKを取り上げていました。長文で、そのころは興味もなくそのままになってしまったのですが、今なら興味を持って読めるでしょうが。

> > それはそれとして、私の感じていることを言いますと、そこで少し狂ってもやりたいようにやる自由をヒトは心底から欲しがっている。その時、エネルギーも出るし、後悔もせずに、たとえ大きく挫折しようが前進できる。これはかなり強い根源的と言っていいほどのもののように感じます。
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>  信長も秀吉もそうでしたね。。

プロ並みのものすごい才能を持ちながらプロにならず、一生かけ将棋指しでいた棋士がいます。勝つと得た賞金はその日のうちに湯水のように豪遊して使い果たしたとか。

ある令嬢が、貧乏画家と恋に落ちて、親兄弟の親身な忠告を振り払って一緒になりました。短い期間で破たんし、実家に戻ってきていましたが、タバコを吸う無口な女性になっていました。

この二人は自分の人生を生きたと言えるのでしょうか、精一杯に生きたと。

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> > 哲学の話ですが、思考が立脚点を持ってはっきり語る道を開けば、思考は見違えるような変貌を遂げるでしょう。楽しみに勉強しています。
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>  クリシュナムルティも言葉で発信するときには、思考を用いていましたね。見違えるような思考。英知。。

言葉が通じるという事は、その場で直面して関わっている人にだけわかるという刮目すべき事柄ですね。なぜなら、言葉はいかようにも解釈できる不思議なものですから。


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