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[26035] Re:[26034] [26016] 既知からの自由14-1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/10/13(Sat) 12:06  

> > 14章−1 [昨日の重荷] [静かな心] [コミュニケーション]
> >
> > 私達が普通送っている生活には孤独が殆どありません。たとえ一人でいても、私達の生はとても多くの影響、多くの知識、多くの経験の多くの記憶、多くの心配、惨めさ、葛藤で一杯なため、心はますます鈍く、ますます鈍感になり、単調な日課の中で機能しています。私達は一体一人でしょうか? それとも昨日の重荷の全てを持ち運んでいるのでしょうか?
>
>
> ここでの孤独は一人でいることのようです。
> 家族がみんな出かけて一人になった時、何か解放感というかのんびりして気分になりませんか?そんな気分が含意されている言葉のようです。
> さて皆さんはもう重荷を下ろしましたか? 生計を立てているとできない? この章を読んだ後では問題が解決するでしょうか?
>
>
> >  二人の僧侶のなかなか面白い話があります。二人の僧侶が村から村へと歩いていると川の土手に座って泣いている少女に出会いました。僧侶の一人が彼女のそばに行き「娘さん、何を泣いているのですか?」と尋ねると彼女は「川の向こう岸のあの家が見えます? 私は今朝早く川を渡り、歩いて渡るのに何の問題もなかったのですが。いま川の水が増え帰ることができません。船がないのです」と言います。「ああ、それなら全然大丈夫ですよ」とその僧侶は言い、彼女を持ち上げて川を渡って運び、向こう岸に残して去りました。二、三時間して、もう一人の僧侶が「兄弟、我々は決して女性に触れないと誓ったじゃないか。君のしたことはひどい罪だよ。女性に触れて楽しい快感を覚えたかい?」と言いました。するともう一人の僧侶は答えました。「私は二時間前に彼女を後ろにおいてきたよ。君はまだ彼女を運んでいるのかい?」
> >
> >  それが私達のしていることです。私達はいつも自分の重荷を持ち運びます。重荷に対して決して死にもしないし、後ろに置き去りもしません。孤独があるのは問題に完全な注意を払い、即座に解決する時だけ ― 決して問題を次の日、次の瞬間まで持ち運ばないときだけです。そのとき、たとえ混みあった家に住んでいたりバスの中にいたとしても孤独があります。そしてその孤独は、新鮮な心、天真爛漫な心を示しています。
>
>
> 戒律にひっかる坊さんがそれを重荷として持ち運んでいるように、一般には心にいっぱい問題が詰め込まれているから過去のものはたまる一方の人も多いです。一回は完全に見て重荷を下ろし始めれば加速度的に気づいて重荷は減ります。重荷を減らさなければならないという思考をもし持てば、それは問題を増やしただけです。
>
>
> >  内的な孤独と空間を持つことは、そのことが存在し、動き、機能し、飛ぶための自由を意味するがゆえに非常に重要です。結局善性は、ちょうど徳が自由があるときのみ花開くことができるように、空間の中でのみ花開くことができます。私達は政治的自由を持っているかもしれませんが、内的には自由でないので空間はありません。どんな徳も、どんな価値ある性質も、自分自身の中のこの広大な空間なしには機能したり、育つことはできません。そして空間と沈黙は必要です。なせなら心が全く新しい何かに出会うことができるのは、心が影響されず、訓練されず、数えきれない様々な経験によって捕えられないで、一人でいる時だけだからです。
>
>
> 個々の空間は以前出てきた分離・隔たりの空間ではなく、心の中にごたごたが詰まっていない、空であるという意味の空間ですね。空間があることは我・「私」・中心が崩壊、縮小してきているという事と同じです。
>
>
> >  人は、心が沈黙しているときだけ明晰さの可能性があることを、直接見ることができます。東洋の瞑想の全目的はそのような心の状態をもたらすことです ― つまり思考を制御することで、それは心を静めるために祈りを絶えず繰り返し、その状態の中で自分の問題を理解したいと望むことと同じです。しかし恐怖からの自由、悲しみや心配、そして人が自分自身で仕掛けるあらゆる罠からの自由という基礎を築かない限り、心にとって実際に静かであることがどんなふうに可能か、私にはわかりません。これは伝達することが最も難しいことの一つです。私達の間のコミュニケーションは、あなたが私の使っている言葉を理解しなければならないだけでなく、両方が、あなたと私が、一瞬後でも一瞬前でもなく、同時に、熱意を持って同じレベルでお互いが出会うことができなければならないという事を、意味しているのではないでしょうか? そしてそのようなコミュニケーションは、あなたが読んでいることを自分自身の知識、快楽、意見に従って解釈するときや、あるいは理解するために大変な努力をしているときには可能ではありません。
>
>
> 座禅でも題目を唱えることでも思考を見る助けになります。だが完全に見ることによる「私」の崩壊の方が加速度的に全体的中心の崩壊につながように思います。日常生活の挑戦が常に後押ししてくれます。
>  コミュニケーションに際しての過去の蓄積の反応は取りあわずにただ見ているしかないですね。しかしとりあえずそこに反応した「私」を納得させるしかないのか。読書会で新しい芽さんに山ほどみな質問をしていて、だんだん減っていきます。
>
> > (続く)


 新しい芽さんも真理の第一人者であったのですね。世界の第一人者。

 そこから多くを学んだのですね。。「私」がだんだん減っていって消滅していく。

 私の場合、まだ>完全に見ることによる「私」の崩壊−−、これを自在に行うことができないようです。。

 その原因が、>恐怖からの自由、悲しみや心配、そして人が自分自身で仕掛けるあらゆる罠からの自由という基礎を築かない限り、心にとって実際に静かであることがどんなふうに可能か、私にはわかりません。これは伝達することが最も難しいことの一つです。−−、それができないから、「見る」ことができない。

 どうしても、生計を立てること(職場)を言い訳にしてしまう。定年退職したら、より心静かになるだろう・・と。。

 しかし、禅との相違は、生計を立てる場においても、完全に見て真理を掴むことがクリシュナムルティ理解の奥義ともいえる。。がんばろう〜。と、なりゆくといけないので・・。

 クリシュナムルティの陳述が、目の前を通りすがるときに、注意して読むのみ。。


[26034] Re:[26016] 既知からの自由14-1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/13(Sat) 11:19  

> 14章−1 [昨日の重荷] [静かな心] [コミュニケーション]
>
> 私達が普通送っている生活には孤独が殆どありません。たとえ一人でいても、私達の生はとても多くの影響、多くの知識、多くの経験の多くの記憶、多くの心配、惨めさ、葛藤で一杯なため、心はますます鈍く、ますます鈍感になり、単調な日課の中で機能しています。私達は一体一人でしょうか? それとも昨日の重荷の全てを持ち運んでいるのでしょうか?


ここでの孤独は一人でいることのようです。
家族がみんな出かけて一人になった時、何か解放感というかのんびりして気分になりませんか?そんな気分が含意されている言葉のようです。
さて皆さんはもう重荷を下ろしましたか? 生計を立てているとできない? この章を読んだ後では問題が解決するでしょうか?


>  二人の僧侶のなかなか面白い話があります。二人の僧侶が村から村へと歩いていると川の土手に座って泣いている少女に出会いました。僧侶の一人が彼女のそばに行き「娘さん、何を泣いているのですか?」と尋ねると彼女は「川の向こう岸のあの家が見えます? 私は今朝早く川を渡り、歩いて渡るのに何の問題もなかったのですが。いま川の水が増え帰ることができません。船がないのです」と言います。「ああ、それなら全然大丈夫ですよ」とその僧侶は言い、彼女を持ち上げて川を渡って運び、向こう岸に残して去りました。二、三時間して、もう一人の僧侶が「兄弟、我々は決して女性に触れないと誓ったじゃないか。君のしたことはひどい罪だよ。女性に触れて楽しい快感を覚えたかい?」と言いました。するともう一人の僧侶は答えました。「私は二時間前に彼女を後ろにおいてきたよ。君はまだ彼女を運んでいるのかい?」
>
>  それが私達のしていることです。私達はいつも自分の重荷を持ち運びます。重荷に対して決して死にもしないし、後ろに置き去りもしません。孤独があるのは問題に完全な注意を払い、即座に解決する時だけ ― 決して問題を次の日、次の瞬間まで持ち運ばないときだけです。そのとき、たとえ混みあった家に住んでいたりバスの中にいたとしても孤独があります。そしてその孤独は、新鮮な心、天真爛漫な心を示しています。


戒律にひっかる坊さんがそれを重荷として持ち運んでいるように、一般には心にいっぱい問題が詰め込まれているから過去のものはたまる一方の人も多いです。一回は完全に見て重荷を下ろし始めれば加速度的に気づいて重荷は減ります。重荷を減らさなければならないという思考をもし持てば、それは問題を増やしただけです。


>  内的な孤独と空間を持つことは、そのことが存在し、動き、機能し、飛ぶための自由を意味するがゆえに非常に重要です。結局善性は、ちょうど徳が自由があるときのみ花開くことができるように、空間の中でのみ花開くことができます。私達は政治的自由を持っているかもしれませんが、内的には自由でないので空間はありません。どんな徳も、どんな価値ある性質も、自分自身の中のこの広大な空間なしには機能したり、育つことはできません。そして空間と沈黙は必要です。なせなら心が全く新しい何かに出会うことができるのは、心が影響されず、訓練されず、数えきれない様々な経験によって捕えられないで、一人でいる時だけだからです。


個々の空間は以前出てきた分離・隔たりの空間ではなく、心の中にごたごたが詰まっていない、空であるという意味の空間ですね。空間があることは我・「私」・中心が崩壊、縮小してきているという事と同じです。


>  人は、心が沈黙しているときだけ明晰さの可能性があることを、直接見ることができます。東洋の瞑想の全目的はそのような心の状態をもたらすことです ― つまり思考を制御することで、それは心を静めるために祈りを絶えず繰り返し、その状態の中で自分の問題を理解したいと望むことと同じです。しかし恐怖からの自由、悲しみや心配、そして人が自分自身で仕掛けるあらゆる罠からの自由という基礎を築かない限り、心にとって実際に静かであることがどんなふうに可能か、私にはわかりません。これは伝達することが最も難しいことの一つです。私達の間のコミュニケーションは、あなたが私の使っている言葉を理解しなければならないだけでなく、両方が、あなたと私が、一瞬後でも一瞬前でもなく、同時に、熱意を持って同じレベルでお互いが出会うことができなければならないという事を、意味しているのではないでしょうか? そしてそのようなコミュニケーションは、あなたが読んでいることを自分自身の知識、快楽、意見に従って解釈するときや、あるいは理解するために大変な努力をしているときには可能ではありません。


座禅でも題目を唱えることでも思考を見る助けになります。だが完全に見ることによる「私」の崩壊の方が加速度的に全体的中心の崩壊につながように思います。日常生活の挑戦が常に後押ししてくれます。
 コミュニケーションに際しての過去の蓄積の反応は取りあわずにただ見ているしかないですね。しかしとりあえずそこに反応した「私」を納得させるしかないのか。読書会で新しい芽さんに山ほどみな質問をしていて、だんだん減っていきます。

> (続く)


[26033] Re:[26032] [26015] [26007] 高齢化社会 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/13(Sat) 10:05  

>  この掲示板の管理も、つらくなってきましたか。

念のために一言。辛いという事はないのですよ。大変であるだけで。
この頃、誤字、誤変換が増えましたね。すみません。




[26032] Re:[26015] [26007] 高齢化社会 投稿者:無名 投稿日:2018/10/13(Sat) 09:21  


> 老人が言いて行くのは思ったより大変です。私は杖もつかずにまだ歩けるが体力が弱ってきているのは確かです。妻も私と同程度に弱ってきます。食事や掃除洗濯、全部一人でやっていましたがもう無理で助け合って生きていくしかありません。健康にしてしかりです。自分の面倒が見れないまで弱った時にはどうするか、成るようになるでしょう。

 そうでしたか。体力、気力、思考力も低下。それだと建設的な議論はできないですね。
 ツッコミはやめしょう。以降は「ひとりごと」と受け取ってください。
 「既知からの自由」も今14章。あと少しですね。
 この掲示板の管理も、つらくなってきましたか。


[26031] 無題 投稿者:明日を暗示する黄昏 投稿日:2018/10/12(Fri) 23:28  

肉欲の段階の人は、生理的欲求と忙しない肉体の活動に終始する。 
反抗の段階の人は、感情の趣くままに自由を求める。安全に囚われる。 
適応の段階の人は、思考が非常に鋭敏になる。 所属していたい。受け入れられたいと思う。 
反逆の段階の人は、リラックスし愛により無行動を達成する。すべての執着を捨て自分を貫くことによって自分自身が結晶化する。 
創造の段階の人は、リラックスが深まり、全体と自分どの境界線が消え安らぎに達する。我が落ちる。


覚者や超人というのは、ここまでたどり着いた人。


[26030] 無題 投稿者:明日を暗示する黄昏 投稿日:2018/10/12(Fri) 23:11  

肉欲の段階をクリアして、個性が出てくる。我欲で既存ルールと衝突し、反抗による自由を手にした人が初めて、幸福を求めるようになる。適応レヴェルをクリアして幸福になった次にしか真の反逆は起こらない。反逆レヴェルをクリアして自己を貫いた人にしか、我が落ちて美を創造するレヴェルまで行かない。


[26029] 無題 投稿者:明日を暗示する黄昏 投稿日:2018/10/12(Fri) 23:00  

ステップ4とステップ5の人、反逆と創造の人は少ない。霊的なことに関心を持つ人の多くが、ステップ2かステップ3の人だ。例えば、ラジニーシは、反抗と自由レヴェルはクリアしたが、適応レヴェルは途中までしか行かなかった。ガンジーはステップ2はクリアした。


[26028] 思考を疑う 投稿者:無明 投稿日:2018/10/12(Fri) 22:12  

思考を疑う、ということは自分の思考に待ったをかける意味でもある。いわゆる思考の間をあける。そして思考は新しく再生する。こうした思考過程は自分自身を観察すればわかる話だ。いいアイデアが浮かぶ時というのは、思考が停止した時でもある。答えをが見つかる時というのは考え考え抜いた時に、ふと起きる。それと間を空けると心理的思考はおのずと弱まる。感情というのは思考という餌によって増大するが、断ち切られると感情は花が枯れるように絞まっていく。
これも体験すれば自ずと明確になる。
どのように気づいているかが問題。Kの記述もいりません。
一歩進んで、愛の気持ちで気づいているのか。慈愛の目で気づいているのか。母親がじっと子供の動くさま、遊ぶ様をを見ているように。
しかし過保護の母親は、子供の遊びを黙ってみることはできない。ああだこうだ子供にちょっかいを出す。あれやっちゃダメ。これやっちゃだめ。これが手のひらで踊る孫悟空。




[26027] Re:[26014] [26005] [25997] [25994] [25993] [25992] [25991] [25990] [25987] [25985] 科学を絶対信じない 投稿者:無明 投稿日:2018/10/12(Fri) 21:45  

> > > > 疑問があります。あなたはKの見える聞いた文言に対話しているのですか?
> > > > ただ本当にそれだけ?
> > >
> > > 私は、私の心の動きを見ることがある状態で見ることによって言語化なしの理解が得られることを知りました。
> >
> > 知った?知識ですか?
>
> 知識ではありません。言語化がないですから。

あなたは「知った」と言った。理解が得られることを知ったと。
>
> > >これは新しい芽氏との出会いとクリシュナムルティの本を読むことで伝わってきて実現したことです。それを私は実物あるいは実物を知っているというふうに言っています。
> >
> > 知っている?知識ですか?
>
> 上でも答えましたが、知識ではありません。言語化がないですから。

再度言います。あなたは 「知った」と言った。前の文章をよく読んでください。実物を知っていると。
>
> > 新しい芽氏は、問うことしか言ってません。
> > どのように気づいているかです。
>
> それが見る、聴く、知覚している心の状態のことです。

違います。
あなたのいうことはいつも思弁的ですね。実生活で、自分の思考の動きを観察したことがあるのだろうか?
そうした疑いを持ちました。
もう一度いうと、自分の思考を逐次疑えということです。それがどのように気づいているかの答えです、すんなり思考を信用するということでなく、疑えということです。
ノーベル賞を取った方も言っています。疑えと。

あなたのいう見る、聞く、知覚している、というのとは違います。
それだったら誰だってやってますよ。当たり前じゃないですか。
あまりにも単純。

>
> > 余計なことは言いません。
> > >
> > > 実物、あるいは実物の理解がわかっていると言語を使ってのコミュニケーションは可能です。言語化なしの実物の理解が自ずと通じます。
> >
> >
> > 実物の理解?
> > 見ればわかるでしょう。即座に。
> > そんなことは誰でもやっている。だからこうして生きている。
> > 目に見えているものは幻ではない。
>
> 孫悟空が見ている時は幻影ではないだろうか?

何をおっしゃっているのか、何でここで孫悟空が出てくるのか?

質問ですが。朝目が覚めたら何が見えますか?
それこそ、あなたのいう見る聞く知覚する、です。


[26026] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/10/12(Fri) 21:29  

>本国のクリシュナムルティ理解の第一人者のゴトさんに感謝しています。

 本国には禅の達人等は多々居ることと思います。

 この「思考のコントロール」では、禅とクリシュナムルティ理解の本質的な相違が記されているようにも思います。

 禅の高僧もなおクリシュナムルティ理解に及ばないのであれば、ゴトさんは世界におけるクリシュナムルティ理解の第一人者なのかもしれません。真理の第一人者。

まさにゴマスリ男の面目躍如。
自分の 気に入った人間には、徹底的によいしょする。もてはやす。嫌いな人間には二度と口を利かない。
多分実生活でもそうだろう。

何でこの人(宮啓)は人を価値ずけるのだろうか?何で人を教祖化するのか?
何がクリシュナムルティ理解の第一人者だ。
そのような思考に疑念を抱かないのだろうか。
そのように判断する思考にだ。
クリシュナムルティを理解しているとは到底思われない。
思考を疑えとは新しい芽氏の言葉。
彼こそクリシュナムルティ理解の第一人者だ。
彼の爪の垢でも飲んだらどうか?




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